古き5万分の1地形図 失われた鉄路


 北海道には、かつて、縦横に鉄路が張り巡らされていた。これらは、国鉄線の他に、石炭を輸送するための運炭鉄道、開拓のための殖民軌道、森林資材を搬送する林用鉄道などがあり、総延長で殖民軌道は600km超、森林鉄道は優に900kmを越えていたという。

 これらの軌道は1960年代に続々と廃止され、森林鉄道は1965年の十勝上川森林鉄道を、殖民軌道は1972年の浜中町営軌道を最後に、北海道の地から消えていった。
 しかし、これらの軌道は、その規模や社会的な役割の大きさに比し、きちんとした記録があまり残されていないという点でも共通している。産業遺産といったものに、あまり関心が払われない時代だったためかもしれない。
 
 ところで、これが妙なことから、その姿をとどめる場合がある。偶然に地形図の編算の際に、路線が存在していた場合、その線形がトレースする形で残るのである。

 国土地理院の5万分の1地形図は、1916年に全国分が整備された。北海道は268枚の図面でカバーされている。これらの図面はときおり、編集や修正が行われるが、基本的に人口密度の少ない北海道では、その更新頻度は低い。そのため、痕跡を残すことができた軌道は、中でも幸運なものに思える。例えば紋別と鴻ノ舞を結んでいた鴻紋軌道のように、活動年数の少ないものは、どの地形図を見ても掲載されていない。(廃止後の地形図に築堤の痕跡を探すことは可能であるが)

 当ページでは、その特徴的な軌道・鉄道の痕跡等を遺した古い地形図の一部(管理人が所有するものから)を紹介したい。 また、興味深い専用線の記載されているものも含めた。なお、美唄鉄道の全線が掲載されている岩見沢(1951年発行)1970年代はじめの札幌市電路線が掲載されている札幌(1970年編集)は、それぞれ全体図を当該ページで紹介している。
 
 本ページでたびたび触れていますが、1917年測量に基づく地形図(全部ではありません)については、スタンフォード大学がこちらで公開しています。


道南・胆振編

函館(1954年発行) 1 函館(1980年編集) 1 大沼公園(1945年部修) 大沼公園(1980年編集) 函館(1954年発行) 2
函館(1980年編集) 2 函館(1980年編集) 3 恵山(1917年製版) 鹿部(1947年発行) 駒ヶ岳(1946年発行)
駒ヶ岳(1950年発行) 八雲(1953年修正) 濁川(1957年発行) 八雲(1960年編集) 大岸(1967年発行)
虻田(1932年発行) 虻田(1949年発行) 1 虻田(1949年発行) 2 虻田(1949年発行) 3 伊達(1980年編集) 1
伊達(1980年編集) 2 伊達(1980年編集) 3 室蘭(1980年編集) 登別(1920年発行) 登別(1929年発行)
登別温泉(1946年発行) 1 登別温泉(1946年発行) 2 登別温泉(1971年修正) 1 登別温泉(1971年修正) 2 白老(1952年発行) 1
白老(1952年発行) 2 白老(1980年編集) 苫小牧(1929年発行) 苫小牧(1949年発行) 1 苫小牧(1949年発行) 2
苫小牧(1972年編集) 1 苫小牧(1972年編集) 2 苫小牧(1972年編集) 3 苫小牧(1972年編集) 4 千歳(1937年発行) 1
早来(1936年編集) 1  早来(1936年編集) 2  鵡川(1930年発行) 鵡川(1937年発行) 1 鵡川(1937年発行) 2
穂別(1962年発行)        

道央編    

寿都(1960年編集) 潮路(1957年編集) 茅沼(1961年発行) 茅沼(1920年発行) 茅沼(1977年発行)
岩内(1910年改版) 1 岩内(1910年改版) 2 岩内(1920年発行) 岩内(1972年修正) 倶知安(1947年発行)
留寿都(1956年編集) 双葉(1956年発行) 小樽西部(1935年修正) 小樽東部(1978年編集) 1 小樽東部(1978年編集) 2
銭函(1935年修正) 石狩(1937年発行) 石狩(1947年発行) 札幌(1896年製版) 札幌(1918年発行) 1
札幌(1918年発行) 2 札幌(1918年発行) 3 札幌(1937年発行) 札幌(1971年編集) 石山(1928年鐡補) 1
石切山(1935年修正) 1 石切山(1935年修正) 2 石山(1965年発行) 定山渓(1947年発行) 定山渓(1953年修正) 1
定山渓(1953年修正) 2 定山渓(1967年発行) 1 定山渓(1967年修正) 2 恵庭(1947年発行) 恵庭(1980年修正)
千歳(1937年発行) 2 千歳(1956年発行) 樽前山(1937年発行) 1 樽前山(1937年発行) 2 樽前山(1972年編集)
壮渓珠(1947年発行) 當別(1937年発行) 当別(1959年修正) 1 当別(1959年修正) 2 江別(1937年発行) 1
江別(1937年発行) 2 江別(1937年発行) 3 江別(1979年編集) 1 江別(1979年編集) 2 沙流太(1928年編集)
佐瑠太(1949年修正) 1 佐瑠太(1949年修正) 2 静内(1978年編集)    

空知編

岩見澤(1909年部修) 岩見沢(1951年発行) 1 岩見沢(1951年発行) 2 岩見沢(1951年発行) 3 岩見沢(1951年発行) 4
岩見沢(1951年発行) 5 岩見沢(1956年発行) 岩見沢(1977年編集) 夕張炭山(1918年発行) 1 夕張炭山(1918年発行) 2
夕張炭山(1947年発行) 1 夕張炭山(1947年発行) 2 夕張炭山(1947年発行) 3 夕張(1967年修正) 1 夕張(1967年修正) 2
夕張(1971年修正) 1 夕張(1971年修正) 2 夕張(1971年修正) 3 夕張(1978年編集) 1 夕張(1978年編集) 2
紅葉山(1961年発行) 紅葉山(1976年編集) 1 紅葉山(1976年編集) 2 大夕張(1921年発行) 大夕張(1948年発行)
大夕張(1957年発行) 石狩鹿島(1962年発行) 1 石狩鹿島(1962年発行) 2 石狩鹿島(1976年編集) 月形(1956年発行)
砂川(1935年補正) 1 砂川(1935年補正) 2 砂川(1963年発行) 1 砂川(1963年発行) 2 砂川(1963年発行) 3
砂川(1963年発行) 4 砂川(1972年修正) 1 砂川(1972年修正) 2 砂川(1972年修正) 3 砂川(1980年編集)
滝川(1981年編集) 歌志内(1955年修正) 1 歌志内(1955年修正) 2 赤平(1963年発行) 1 赤平(1963年発行) 2
赤平(1963年発行) 3 美瑛(1961年発行) 赤平(1963年発行) 4 赤平(1963年発行) 5 赤平(1980年編集) 1
赤平(1980年編集) 2 上芦別(1961年発行)_1 上芦別(1961年発行) 2 幾春別岳(1970年発行) 上芦別(1976年編集) 1
上芦別(1976年編集) 2 上芦別(1976年編集) 3 惠比壽(1947年発行) 1 惠比壽(1947年発行) 2 恵比島(1968年編集) 1
恵比島(1968年編集) 2 恵比島(1968年編集) 3       

十勝・上川南部編

十勝川上流(1957年発行) 佐幌岳(1958年発行) 新得(1933年発行) 1 新得(1933年発行) 2 新得(1933年発行) 3
新得(1959年発行) 新得(1969年編集) 御影(1932年発行) 1 御影(1932年発行) 2 然別沼(1949年発行)
東士狩(1954年発行) 落合(1967年修正) 帯廣(1930年部修) 帯広(1949年発行) 帯広(1976年修正) 1
帯広(1976年修正) 2 帯広(1959年発行) 幸震(1930年部修) 大正(1958年発行) 1 大正(1959年発行) 2
札内岳(1932年発行) 石狩岳(1967年発行) 1 高島(1974年発行) 中士幌(1976年修正) 足寄太(1957年発行)
上足寄(1957年発行) 十勝池田(1922年発行) 十勝池田(1954年発行) 十勝池田(1974年修正) 本別(1946年発行)
陸別(1969年発行) 飜木禽(1950年発行) 小利別(1955年発行) 1 芽登温泉(1970年発行) 浦幌(1922年発行)
常室(1922年発行) 常室(1954年発行)       

道東編

釧路(1957年発行) 1 釧路(1957年発行) 2 釧路(1957年発行) 3 釧路(1973年修正) 1 釧路(1973年修正) 1
大樂毛(1944年部修) 大楽毛(1957年発行) 1 大楽毛(1957年発行) 2 大楽毛(1957年発行) 3 大楽毛(1968年発行) 1
大楽毛(1968年発行) 2 中雪裡(1957年発行) 1 中雪裡(1957年発行) 2 中雪裡(1957年発行) 3 白糠(1944年部修)
白糠(1957年発行) 音別(1946年発行) 音別(1957年発行) 1 音別(1957年発行) 2 鶴居(1970年編集)
舌辛(1930年発行) 阿寒(1959年発行) 1 阿寒(1959年発行) 2 阿寒(1959年発行) 3 阿寒(1959年発行) 4
徹別(1931年発行) 雄別(1957年発行) 1 雄別(1957年発行) 2 雄別(1957年発行) 3 屈斜路湖(1897年製版)
標茶(1897年製版) 標茶(1932年鐡補) 標茶(1969年編集) 弟子屈(1897年製版) 弟子屈(1957年発行)
尾幌(1928年鐡補) 尾幌(1957年発行) 1 尾幌(1957年発行) 2 厚岸(1957年発行) 1 厚岸(1957年発行) 2
厚岸(1973年修正) 霧多布(1946年発行) 茶内原野(1969年編集) 姉別(1926年発行) 姉別(1932年鐡補) 1
姉別(1971年編集) 1 姉別(1971年編集) 2 西別(1897年製版) 磯分内(1946年発行) 磯分内(1971年編集)
摩周湖(1957年発行) 1 計根別(1932年鐡補) 1 計根別(1932年鐡補) 2 計根別(1946年発行) 1 計根別(1946年発行) 2
計根別(1946年発行) 3 中標津(1932年鐡補) 1 中標津(1932年鐡補) 2 中標津(1946年発行) 標津(1932年鐡補)
標津(1946年発行) 薫別(1932年補正) 薫別(1944年修正) 西別殖民地 1(1932年鐡補) 1 西別殖民地 2(1944年鐡補) 2
西別(1944年修正) 1 西別(1944年修正) 2 厚床(1944年修正) 根室北部(1944年発行) 1 根室北部(1944年発行) 2
根室北部(1944年発行) 3 根室南部(1946年発行) 納沙布(1944年修正)    

オホーツク編

斜里(1933年発行) 斜里(1948年発行) 斜里(1977年修正) 島戸狩(1946年発行) 小清水(1933年発行)
小清水(1946年発行) 1 小清水(1946年発行) 2 小清水(1957年発行) 藻琴山(1948年発行) 藻琴山(1957年発行)
斜里岳(1957年発行) 摩周湖(1957年発行) 2 上里(1958年発行) 1 上里(1958年発行) 2 美幌(1958年発行)
美幌(1971年編集) 北見(1980年修正) 留邊蘂(1946年発行) 1 留邊蘂(1946年発行) 2 留辺蘂(1975年修正) 1
留辺蘂(1975年修正) 2 北見富士(1947年発行) 北見富士(1958年発行) 1 北見富士(1958年発行) 2 石狩岳(1961年発行) 2
小利別(1946年発行) 小利別(1957年発行) 2 士居常呂(1947年発行) 生田原(1958年発行) 丸瀬布(1958年発行) 1
丸瀬布(1958年発行) 2 常呂(1944年部集) 中湧別(1946年発行) 遠軽(1928年鐡補) 滝上(1956年発行) 1
滝上(1956年発行) 2 渚滑岳(1956年発行) 1 立牛(1956年発行) 立牛(1956年発行) 2 上川(1961年発行) 1
上渚滑(1977年発行) 上興部(1956年発行) 上興部(1970年修正) 雄武(1956年発行) 雄武(1973年修正)

旭川・道北編 

旭川(1947年発行) 1 旭川(1947年発行) 2 旭川(1952年発行) 1 旭川(1952年発行) 2 旭川(1952年発行) 3
旭川(1952年発行) 4 旭川(1964年発行) 旭川(1979年編集) 1 旭川(1979年編集) 2 旭岳(1961年発行)
当麻(1970年編集) 留萠(1931年鐡補) 留萌(1954年編集) 留萌(1956年編集) 留萌(1974年修正)
達布(1956年発行) 1 達布(1956年発行) 2 幌加内(1960年発行) 苫前(1956年発行) 1 苫前(1956年発行) 2
三渓(1956年発行) 1 三渓(1956年発行) 2 三渓(1956年発行) 3 羽幌(1960年発行) 1 羽幌(1960年発行) 2
築別炭砿(1956年発行) 比布(1947年発行) 比布(1957年発行) 士別(1957年発行) 士別(1973年修正)
剣淵(1956年発行) 奥士別(1956年発行) 愛別(1961年発行) 上川(1961年発行) 2 渚滑岳(1956年発行) 2
渚滑岳(1956年発行) 3 恩根内(1956年発行) 名寄(1956年発行) 名寄(1977年修正) 添牛内(1956年発行)
下川(1960年発行) サンル(1960年発行) 西興部(1956年発行) 1 西興部(1956年発行) 2 仁宇布(1956年発行)
音威子府(1958年発行) 音威子府(1971年編集) 中頓別(1971年編集) 濵頓別 (1947年発行) 浜頓別(1981年修正)
上猿払(1957年発行) 敏音知(1957年発行) 豊富(1957年発行) 1 豊富(1957年発行) 2 豊富(1957年発行) 3
鬼志別(1958年編集) 沼川(1957年発行) 1 沼川(1957年発行) 2 抜海(1956年発行) 稚内(1940年修正)
稚内(1978年修正)        


道南・胆振編


1954年発行 「函館」 1

 五稜郭駅付近。有川埠頭は現在の港町埠頭。この埠頭への専用線(函館貨物線)は、現在も運用されている。五稜郭駅から南へ延びる北海瓦斯会社函館工場専用線は1924年頃から1960年代まで運用されていた。函館市電本線が1955年に五稜郭駅まで延長した際に、当該専用線とクロスする構造になっていた。
 本引用図では、さらに五稜郭駅南から、西の工場へ延びる専用線も記載されている。

1980年編集 「函館」 1

 1908年から1988年まで運行された青函連絡船への桟橋が記載されている。かつて北海道へ旅行する人の多くにとって、この桟橋が玄関口となった。 また、函館市電では、1992年に廃止された東雲線(宝来町-松風町)、1993年に廃止された本線の一部(函館駅前-ガス会社前間)、宮前線(ガス会社前-五稜郭公園前間)を見ることがきるほか、1955年に敷設され80年代末まで運用された中央埠頭の臨港線も記載されている。

1945年部修 「大沼公園」

 函館線大沼駅(現・大沼公園駅)を起点とし、鹿部に向かう大沼電鉄(1929-1945)が記載されている。1945年に、国鉄函館線が勾配緩和を目的に軍川駅(現・大沼駅)を起点とした砂原線を開通した際に廃止となった。
 なお、鹿部の集落にとって、砂原線の駅が集落から離れていたことから、1948年に同電鉄は復活するが、その際の起点駅は、砂原線の途中駅である銚子口駅となった。  

1980年編集 「大沼公園」

 日本セメント上磯鉄道の峩朗線が描かれている。また、1973年から運用されている石灰搬送用のベルトコンベアも掲載されている。
 1980年当時は、ベルトコンベアと鉄道の併用で石灰を搬送していたが、1989年に鉄道は廃止となり、現在ではベルトコンベアとトラックによる搬送を行っている。

1954年発行 「函館」 2

 日本セメント上磯鉄道の前身である「石材運搬軌道」が記載されている。江差線上磯駅からセメント工場までの引込線は、国鉄線と同じ軌間1,067mmで線形が記載されている。 
 1904年に運用開始。1954年に開設された万太郎沢線は未記載となっている。

1980年編集 「函館」 2

 日本セメント上磯鉄道が描かれている。2か所の原料である石灰鉱山と工場、そして江差線上磯駅を結んでいた。
 峩朗線と万太郎沢線の2線があったが、双方を確認できる(地図上でカーブして西に向かっているのが万太郎沢線)。
 総延長は10.5km。全線が電化されていた。1904年に運用開始という長い歴史を持っていたが、1989年、廃止となった。
 現在工場と峩朗採掘場の間は、1973年に完成した長大なベルトコンベアが稼働している。なお、当該鉄道で活躍した5号電気機関車が、地図中の運動公園で、静態保存の上、展示されている

1980年編集 「函館」 3
 
 江差線七重浜駅から北日本石油函館製油所(現・コスモ石油函館物流基地)への専用線が記載されている。1956年に敷設され、1984年まで運用された。

1917年製版 「恵山」

 古武井鉱山から産出する硫黄の搬送に供された馬車鉄道が、恵山の付け根にある集落古武井から古武井川に沿って記載されている。全長およそ13km。当時古武井の硫黄産出量は東洋一とされ、鉱山町では3,000人が暮らしていたとされる。 軌道の運用期間は不明ながら、1908年に釧勝興業株式会社が鉱山運用に進出した前後から運用が開始され、大正期(1912-1926年)は運用されていたと思われる。当地形図では、軌道記号の表記が不鮮明ながら、線形に沿った「鑛山用馬車鐡道」の文字が明記されている。なお、硫黄採掘後も現地では砂鉄の収集が行われていたが、最終的に1962年に東北砂鉄鋼業株式会社が鉱山を閉山としている。

1947年発行 「鹿部」

 大沼電鉄の末端部が記載されている。
 大沼電鉄は、1929年の函館線大沼駅(現・大沼公園駅)を起点として開業。鹿部までを結んだが、1945年、国鉄函館線が勾配緩和を目的に砂原線を開通した際に一度廃止。
 しかし、国鉄鹿部駅が市街地から離れていたため、1948年に銚子口駅を起点とする形で復活し、1953年まで運用された。
 当該地図発行時は廃止期間にあたるが、線形が記された。

1946年発行 「駒ヶ岳」

 渡島海岸鉄道が記載されている。
 渡島海岸鉄道は海産物(主にイワシ)の輸送を目的として、1927年に開業した。函館線森駅と砂原駅を結ぶ9.4kmの鉄道で、国鉄と同じ軌間1,067mm。業績も良かったが、函館線の砂原線建設にあたって、買収の形で1945年に廃止となった。現在の砂原線は、渡島海岸鉄道線より、集落から離れた山側を通る線形となっている。

1950年発行 「駒ヶ岳」
 
 函館線(砂原回り)の銚子口駅を起点とした大沼電鉄が記載されている。大沼電鉄は、1929年の開業当初、函館線大沼駅(現・大沼公園駅)と鹿部を結んでいたが、1945年、国鉄函館線の砂原線開通時に一度廃止となる。しかし国鉄鹿部駅が市街地から離れていたため、請願により銚子口駅を起点とする形で復活し、1953年まで運用された。地図では折戸川の渓谷に沿った線形が示されている。大沼電鉄の接続駅は「新銚子口」駅。

1953年修正 「八雲」

 当引用図の注目点は2つある。
 一つは函館線の落部駅で、1945年の石倉駅-野田生駅間の複線化に際して、上下線が離れていたため、それぞれに駅舎が設置され、両駅の中心間距離は200mを越えていたという。1968年の双方向複線化がなされるまで、この状況が継続していた。
 もう一つは、落部駅の函館側から分岐をして落部川を遡る線路の記載がある。詳細不明ながら、戦後編算の米軍地図にも掲載されており、当該図では、線路末端に鉱山(stone)の表記があることから、石材搬送に使用されたものと推測される。1960年編集の地図では、当該線は消失している。

1957年発行 「濁川」

 函館線落部駅を起点とし、落部川に沿って上流部に向かう軌道の末端部。詳細不明ながら戦時期に鉄道建設等に使用する石材搬送のため敷設された軌道であったらしい。1941年ころに敷設され、1957~60年ごろに廃止されたと推定される。現在、線路末端部には、石材を切り崩した山肌を見ることができる

1960年編集「八雲」

 函館線山崎駅の北側から、山側に至る引込線が掲載されている。詳細不明。

(2017年4月23日追記)

 1951年の全国専用線一覧に、山崎駅に「八木勘市」名義の専用線が記載されており、当該引込線が該当する可能性が高い。
 用途は不明ながら、作業は国鉄機・手押によっており、作業粁は0.3と記されている。

1967年発行 「大岸」

  虻田町付近。室蘭線付け替え前の旧線。1968年の新線切り替えと同時に廃駅となった「豊泉駅」が描かれている。
 豊泉の駅跡は、2018年現在までホームが残っている

1932年発行「虻田」

 室蘭線虻田駅を起点とし、洞爺湖までの8.8kmを結んだ洞爺湖電気鉄道が記載されている。1928年に観光客の移動と鉱物の搬送を目的に開業。最盛期には1時間に1本程度の割合で列車が運行していたが、戦前の1941年に資材不足に伴って廃止された。
 地形図には唯一の途中駅であった見晴駅の記載もある。また、洞爺湖駅から湖畔まで1.6kmの貨物線も記載されている。洞爺湖沿岸で産出した鉱物資源を船運で集積したのち、当該鉄道で搬送を行っていた。
 地形図名「虻田」は現在「洞爺湖温泉」。
 
1949年発行「虻田」 1

 室蘭線虻田駅より、北東方向の虻田鉱山に延びるのは虻田鉱山専用軌道である。日鉄鉱業によりディーゼル機関車が運用されていたとのこと。当地形図では、虻田駅付近まで軌道が伸び、そこが起点となっているように見えるが、少し先に記載のある特殊軌道の表記と連続しており、さらに海岸を南下するように延長して運用されていたという。運用時期は不明であるが、地形図では1920~1949年発行のもので、その存在を確認できる。なお虻田鉱山は1892年頃に鉄鉱鉱床が発見され、1971年まで採掘が行なわれていた。 
1949年発行「虻田」 2

 室蘭線周辺に3つの鉄道、軌道線の記載がある。
 1つ目。国鉄線と同様の表記で、引用図北西端に見える室蘭線虻田駅を起点とし、室蘭線に沿うような線形が記載されている。途中複線部分を経て、ほぼ90度曲がり(下の図に引用)、現在の道の駅のある付近に至っているが由来が不明。
 2つ目。国鉄線と同様の表記で、虻田駅と有珠駅の間で、北東側に小さく円弧状の線形で室蘭線から分れる引込線がある。ただ、当該線については、線路末端の地形図内に「亞麻工場」の記載があり、関連する引込線と推測される。
 3つ目。特殊軌道の表記で、虻田駅南東に端を発し、室蘭線とクロスしたのち、路面軌道となって海沿いを進む鉄道が記載されている。これは(上引用図に示した虻田鉱山専用軌道となる。
 いずれも詳細不明のため、今後調査したいと考えている。 

1949年発行「虻田」 3

 上記引用図の南側を掲載する。上記で「1つ目」及び「3つ目」として挙げた線形の末端部となる。虻田駅の北東、虻田鉱山に端を発する虻田鉱山専用軌道は、岬を回り込むようにして、善光寺付近まで達していた。海岸の貯鉱場からはしけで沖合に停泊する鉱石運送船に積み込まれ、北九州若松製鉄所まで搬送されたという。1950年に室蘭の輪西製鉄所が出来てからは、搬出先も変更された。

2023年1月19日追記
 “1949年発行「虻田」 2”において、「1つ目」と記載した虻田駅を起点とする線路について、資料調査したところ、1951年及び1953年の専用線一覧にある「北海道工業株式会社専用線(2.0km)」が相当すると考えられた。1957年の専用線一覧には記載がないため、1940年代から50年代前半にかけて運用されたものと推測できる。その用途であるが、1958年発行の2万5千分の1地形図「虻田」において、当該線路末端の施設に「虻田製鋼所」と記載があることから、虻田鉱山が算出する含鉄鉱物の精錬作業に関係していたものと考えられる。
 

1980年編集 「伊達」 1  

 室蘭線長和駅からニッケル精錬志村化工伊達工場までの専用線が記載されている。この専用線は1957年に北海道砂鉄鋼業伊達工場(のちに北菱産業)の専用線として運用が開始された。1980年過ぎに廃止されたものと思われる。かつてはB6型蒸気機関車が使用されていて、ファンには有名だった。

1980年編集 「伊達」 2

 室蘭線伊達紋別駅から道南製糖所(後の北海道糖業)への専用線1.8kmが記載されている。1959年に敷設され、胆振線が廃止された1986年ごろに廃止されたと考えられる。
 北海道糖業㈱道南製糖所敷地内で当該専用線で使用されていたディーゼル機関車が保存展示してある

1980年編集 「伊達」 3

 室蘭線本輪西駅周辺にJXエネルギー室蘭製造所関連の専用線が記載されている。1960年に運用が開始され、2000年度の149万トンを輸送したが、2014年に最後まで残っていた札幌貨物ターミナル行の運行を取りやめた。専用線総本数は16本、総延長は6.6km。

1980年編集 「室蘭」

 旧室蘭駅(現室蘭駅は東方、地図中市役所前付近へ移設されている)から西埠頭に延びる貨物線と、貨物駅「西室蘭駅」が記載されている。1960年から1985年まで運用された。

1920年発行 「登別」

 室蘭線登別駅を起点とし、登別温泉街までの8.6kmを結んだ登別温泉軌道が記載されている。1915年から1933年まで運用されている。当初馬車鉄道であったが、1917年に蒸気機関車が導入され、その後勾配を考慮し電化。路面電車が運用された。片道35分であったという。
 地形図名「登別」は現在「登別温泉」

1929年発行 「登別」

 引用図南端に室蘭線登別駅があり、登別駅を起点とする登別温泉軌道(1915-1933)が記載されている。
 開業当初は軌間762mmの馬鉄で、全長8.6kmに、片道1時間~1時間20分を要したが、1925年に軌間1,067mmの電気鉄道となり、所用時間も35分に短縮された。発電所建設の増資が負担となり、1933年で廃止となっている。
 引用図ではカモイワカにあった唯一の途中駅(神威若駅とする説あり)も記載されている。
 引用図南端にわずかに見える軌道は、登別駅から登別河畔へ向かう石材搬送のための全長約2kmの馬車鉄道。

1946年発行 「登別温泉」 1

 室蘭線幌別駅付近。幌別駅から市街地の真中を抜け北西に向かうのは幌別鉱山専用軌道。シノマンベツまでの9.6kmを結んだ。1907年に馬車鉄道として開業の後、1927年に動力化。1954年まで運用された。
 これと別に国鉄線と同様の表記で幌別川上流に向かうのは砂利専用線で1910年に運用開始。廃止時期不明ながら1946年発行の本地図には掲載されている。

1946年発行 「登別温泉」 2

 室蘭線登別駅から登別川河口付近に延びるのは砂利専用線で、1910年代に敷設されたと考えられる。この線路は、主要な河川での砂利の採取が禁止されたのちの70年代の地形図にも示されており、沿線に建設された北海道コンクリート工業専用線として、再利用されていたと考えられる。
 また、登別駅から、登別川上流に向かう軌道は、1909年に敷設された石材搬送のための馬車軌道で、全長約2km。終点は現在の地番では登別本町2丁目となるが、当時はペサンケと呼ばれる地名だったらしい。廃止時期の詳細は不明。

1971年編集 「登別温泉」 1

 室蘭線の幌別駅から北海道曹達幌別工場への専用線1.6kmが記載されている。1951年運用開始、1980年代後半に廃止されたと考えられる。

1971年編集 「登別温泉」 2

 室蘭線の登別駅から、南方の北海道コンクリート工業への専用線及び北方への伏古別川河口への砂利採取線が記載されている。1980年代はじめには廃止となっている。

1952年発行 「白老」 1

 室蘭線の竹浦駅を起点として、敷生川上流へ向かう砂利専用線が記載されている。1918年に運用開始され、1944年に廃止、1950年に撤去された。1952年発行の当地図にはその姿をとどめた。

1952年発行 「白老」 2

 室蘭線白老駅から、白老川河畔のマクンベツまで砂利専用線が記載されている。
 1917年に敷設され、1968年まで運用された。

1980年編集 「白老」

 室蘭線萩野駅から大昭和製紙白老工場への専用線が記載されている。1960年から2008年まで運用されていた。
 現在、萩野駅から製紙工場道路までの間には、専用線が敷かれたままであり、林の中に引き込み線が並ぶ姿を見ることが出来る。こちらで紹介している。

1929年発行 「苫小牧」

 北海道炭礦鉄道が岩見沢-室蘭間を開業したのに伴って、苫小牧駅が開設されたのは1892年。王子製紙苫小牧工場が操業開始したのが1910年。
 1929年には様々な引込線が敷設されている。国鉄線のほか、王子軽便鉄道の山線(1908-1951)が、苫小牧駅北側に、海線(「浜線」とも言う、1913- 日高軽便鉄道を経て、国有化日高線)が苫小牧駅南側に、それぞれ駅を設けているほか、こちらも様々に引込線が記載されている。国鉄線系の軌間1067mm、王子軽便鉄道系の軌間762mm、双方の軌道が様々な線形を描き、当時の活況ぶりを伝える。
 ちなみに昭和12年度(1937年度)の「鉄道統計」では、苫小牧驛-工場及木材置場2.11kmの他、木材置場二線が登録され、いずれも動力は「蒸氣」とある。

1949年発行 「苫小牧」 1

 室蘭線苫小牧駅付近。王子製紙苫小牧工場関連の専用線の他、苫小牧駅から北上して支笏湖畔を目指す王子軽便鉄道山線(1908-1951)が見える。貯木場の北へ迂回するように、坊主山を経て周回するルートが見える。
 また、苫東開発前であり、勇払方面に向かう日高線が、まっすぐに太平洋岸を目指して進んでいる。
 王子軽便鉄道で活躍した4号蒸気機関車は、現在、苫小牧駅と王子製紙工場の間にあるアカシア公園で静態保存されている

1949年発行 「苫小牧」 2

 日高線勇払駅の大日本再生製紙専用線が記載されている。
 大日本再生紙専用線は1941年に運用開始。1962年に苫小牧港建設に伴って、勇払駅が北側に移設されたのちも、山陽国策パルプ専用線として、1980年まで運用が続けられた。

1973年修正 「苫小牧」 1

 1909年に敷設された王子製紙苫小牧工場専用線は現在も活躍しているが、当地形図ではこれと別に北側貯木場への専用線も記載されている。当該線の廃止時期は不明。

1973年修正 「苫小牧」 2

 三菱金属工業・住友石炭鉱業の貯炭所への苫小牧公共臨港線が記載されている。1963年から1991まで運用されていた。なお、中野操車場を中心に展開するのは苫小牧港開発株式会社線(1968-2001)で、中野操車場から東に向かい、築堤を上がる線は、室蘭線を跨いで、北側から合流していた。この室蘭線を越える陸橋の橋脚は、現在も残っており、見ることが出来る。

1973年修正 「苫小牧」 3

 苫東を走る鉄道線路は1968年から運用を開始した苫小牧港開発株式会社線。全長は10kmを越え、苫小牧貨物駅、室蘭線に乗り入れていた。1998年休止ののち、2001年に廃止となった。

1973年修正 「苫小牧」 4

 日高線勇払駅から山陽国策パルプ工場への専用線が記載されている。当該専用線は日高線移設に伴う勇払駅移転前の1941年から前身の大日本再生製紙工場専用線として運用が開始され、1980年に廃止となった。

1937年発行 「千歳」 1

 樽前山の溶岩台地を突き進む王子軽便鉄道山線(地図中は「王子山線軌道」と表記)の様子。1908年開業、1951年廃止。
 なお、当該地形図は、こちらで全体を閲覧できる。

1936年編集 「早来」 1

 室蘭線早来駅を起点として、厚真町幌内とを結んだ早来鉄道が記載されている。1922年に開通し、当初馬力であったが、1931年に軌道改修を経てガソリン機関車が投入された。木材搬送を中心に活躍したが、1948年に厚真-幌内間、1951年には残った早来-厚真間が廃止された。
 なお、当該地形図は、こちらで全体を閲覧できる。

1936年編集 「早来」 2

 厚真町付近。早来鉄道が記載。厚真町の中心付近にあるのが知決辺(ちけっぷ)駅で、知決辺から先の幌内までは、元は厚真軌道という名称で1927年に開業し、1929年に早来軌道と合併し早来鉄道となった。地図では、旧厚真軌道部分に「早来軌道」と表記が付いている。
 なお、当該地形図は、こちらで全体を閲覧できる。

1930年発行 「鵡川」

 王子軽便鉄道、海線(「浜線」とも言う、1913- 日高軽便鉄道を経て、国有化日高線)の鵡川駅付近。昭和12年度(1937年度)の鉄道統計によると、「製紙原木丸太運搬」のための軌道として線系が位置づけられ、「鵡川、佐瑠太間分岐」も専用線として登録されている。鵡川駅から鵡川河畔に向って南北にいくつもの引込線が記載されており、鵡川を流送された木材を引込線末端で回収していたと推察される。
 前述の「鉄道統計」では、動力として「蒸氣」を運用とある。 

1937年発行 「鵡川」 1

 当時の北海道鉄道金山線。国鉄の沼ノ端駅から、ニナルカ駅(北松田駅)、静川駅、上厚真駅、入鹿別駅を経て、上鵡川駅(のちの豊城駅)から国鉄富内線の線形を辿っていた。1943年8月に戦時買収による国有化が行われ、同年11月日高線鵡川駅と豊城駅の間に3.6kmの連絡線が敷設。富内線として起点が鵡川に移ったことに伴い、沼ノ端-豊城間24.1kmは廃止された。
 引用図は上厚真駅付近。現在、上厚真駅跡以西は、巨大な石油備蓄基地となっている。
 

1937年発行 「鵡川」 2

 1922年に開業し1943年、国有化に伴う線路の付け替えにより廃止された北海道鉄道金山線。引用図中の上鵡川駅が線路の付け替えが行われた駅。かつては引用図中毛奈城の方向へ延びていた線路を、鵡川に沿って、日高線鵡川駅方面に付け替えた。上鵡川駅は豊城駅となり、富内線の途中駅となった。美しい車窓を持っていた富内線も1986年に廃止となった。
1962年発行 「穂別」

 1922年に北海道鉱業鉄道の金山線(沼ノ端 - 邊富内)として開業し、1943年の戦時買収で国鉄富内線となった路線の穂別駅周辺の様子。引用図内に2つの専用線が記載されている。
 一つは穂別駅を起点とし、穂別村から北に向かう道路と穂別川の間を北東に延びる鵡川営林署の専用線で、専用線一覧では、1957年1961年1964年1967年のものにそれぞれ作業キロ0.6と記載されている。
 もう一つは、穂別駅の東で富内線から南に分岐し、引用図の南を流れる鵡川の右岸に向けて伸びているもので、1931年に、王子製紙が陸揚網場から原木輸送を行うために敷設した専用線。専用線一覧では、1951年1953年1957年にそれぞれ作業キロ2.3として記載されている。廃止年は不明だが、専用線一覧には1961年以降記載されていないため、当該地形図発行当時は、すでに廃止となっていた可能性が高い。1948年撮影の航空写真では、当時の専用線と陸揚網場の様子が写っている。
 ちなみに、両専用線の末端近くにある「旗か斧のような地図記号」は、現在では使用されていないが、「材料置き場」を示すものとなる。

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道央編



1960年編集 「寿都」

 寿都鉄道終着の寿都駅周辺が記載されている。寿都鉄道は1920年開業、1968年、自然災害による運行休止を経て1972年に廃止となった。寿都鉄道はボールドウィン1897製1C形テンダー機8100形などの名機関車が活躍していたことで、ファンの間では有名な鉄道でもあった。なお、樽岸駅の記載はない。

1957年編集 「潮路」

 函館線黒松内駅を起点としていた寿都鉄道の起点側が掲載されている。引用は朱太川に沿った湯別駅付近。地形図名「潮路」は「おしょろ」と読む。現在は集落名の変更に伴い、当該地形図名は「歌棄(うたすつ)」となっている。「おしょろ」と同名の地名としては小樽市の「忍路」が知られる。

1961年発行 「茅沼」

 岩内町の北、堀株川の河口付近。積丹半島の付け根で発見・開発された茅沼炭鉱では、1869年に日本最初の軌道が用いられた。その後、1946年には、地図鉄道末端の発足貨物駅と岩内線岩内駅との間に専用鉄道(6.3km)を設け、発足-岩内港間を鉄道輸送によった。その専用鉄道(茅沼炭化工業専用鉄道)が描かれている。
 当地図発行の翌年、1962年廃止。この鉄道で活躍した8111、8119は、廃止後寿都鉄道に移り、それぞれ8105、8108と改番された。

1920年発行 「茅沼」

 茅沼港と茅沼炭鑛の間2.8kmを結んだ茅沼炭鉱軌道が記載されている。
 当該軌道は、軌間1,050mm。人力、もしくは牛力のトロッコ軌道として運用が開始されたのが1869年で、これが日本国内最初の鉄道と考えられている。(新橋-横浜の開業は1872年、手宮-札幌の開業は1880年)。
 坑口から海岸までの道のりがことさら嶮しかったことから、先進的な輸送方法が採用されたと考えらる。日本最古の鉄道が決して人口の多くない地域に敷かれたのは、地形的な必然性があったのだろう。
 1931年に選炭場と岩内港を結ぶ索道が建設された際に廃止となったされている。ただし、1933年の北海道炭礦案内では、当該軌道で蒸気機関車を運用している旨の記載があり、詳細は不明である。

1977年発行 「茅沼」

 仁木町の然別駅から、ポン然別川に沿って上った先にあった大江鉱山(然別鉱山)。鉱山軌道の線形が記載されている。余市側流域には、多くの鉱山があったが、中でも然別鉱山の歴史は古く、当該地域ではじめて1894年に精錬所が設置されている。主産物は、金、銀、鉛、銅、亜鉛であった。名称が「大江鉱山」に代わったのは、1915年。1941年以降はマンガン鉱として採鉱が行われた。1978年発行の地形図はマンガン鉱時代の様子。1982年に閉山となり、この地の採鉱の歴史に幕を閉じた。

1910年改版 「岩内」 1

 1905年に開業した岩内馬車鉄道の岩内側末端。当時は岩内町の市街地までには至らず、その手前に岩内駅があった。1912年に岩内軽便線、1922年に岩内線となり軌間も国鉄準拠のものへと改軌となった。

1910年改版 「岩内」 2

 1905年に開業した岩内馬車鉄道の函館線側。注目点としては、起点である国鉄函館線小沢駅の次駅(のちの国富駅付近)の馬車鉄道の駅名も「こざは」の記載があること。殖民軌道西別線と、国鉄標津線で西春別駅が2か所存したケースに似ている。国鉄小沢駅の南にある庁舎の地図記号は当時の小沢村役場で、1955年に共和村(現在の共和町)と合併し消滅した自治体。

1920年発行 「岩内」

 引用図南端から東に向かうのが函館線。西に向かうのが岩内線(1985年廃止)の前身である岩内軽便線となる。その岩内軽便線から1908年に操業開始した国富鉱山専用線の軌道か記載されている。下に引用した1972年修正図と比較すると、道路をたびたび横断する線形である点、全長距離が長く、「どう」と記載のある鉱山まで達している点が相違点として確認できる。
  なお、当該地形図は、こちらで全体を閲覧できる。

1972年修正 「岩内」

 岩内線(1985年廃止)国富駅からの国富鉱業所精錬所専用線が記載されている。国富鉱山は、1908年に操業開始。国富駅は、鉱山活動のため設置された駅だった。1935年に住友金属鉱山の傘下となったのち、1948年に鉱山事業を終了したが、その後も総合精錬所として精錬事業に特化。1973年には精錬事業を終了し、電子部品の製造工場となった。
 専用線は駅開業時の1913年から1973年頃まで運用されていたと考えられる。

1947年発行 「倶知安」

 胆振線(1986年廃止)の京極駅から分岐する脇方支線は1920年から1970年まで運用され、倶知安鉱山から産出する鉄鉱石の運送に活躍した。
 ワッカタサップ川に沿った鉱山らしい狭隘な地形にある終着駅、脇方駅の様子が示されている。

1956年修正 「留寿都」

 胆振線(1986年廃止)の喜茂別駅から、国道230号線に沿って中山峠方面に向かう上喜茂別鉱山専用鉄道が記載されている。この鉄道は全長6.6km。1938年に運用が開始され、1953年の鉱山の休止を経て1957年に廃止された。

1956年発行 「双葉」

 胆振線(1919<前身の京極線>-1986)の喜茂別駅を起点とし、喜茂別川に沿っていた上喜茂別鉱山専用鉄道(1938-1957)の末端側が記載されている。喜茂別川の支流である赤川沿いに鉱山があった。

1935年修正 「小樽西部」

 函館線余市駅を起点とし、浜余市までの2.8kmを結んでいた余市臨港軌道が描かれている。余市町の中心といっても良い冨沢町が駅から離れていたことから、その利便性確保のため敷設された鉄道で、1933年に開業した。しかし、わずか7年後の1940年に廃止となり、北海道中央乗合自動車(北海道中央バス)が周辺交通を引き継いだ。途中駅の記載はない。

1978年編集 「小樽東部」 1

 1880年に開通し北海道最初の旅客営業を行った官営鉄道の起点となったのが当地図の手宮。1962年に旅客営業を終えたのち、貨物線として活躍したが、その使命も1985年に終えた。1970年代の様子は本サイト手宮線で紹介している。また、地図中の第2埠頭への臨港線は1950年、第3埠頭への臨港線は1954年、それぞれ敷設され、浜小樽貨物駅の所管となっていたが、これらも1984年に廃止された。

1978年編集 「小樽東部」 2

 手宮線、中央埠頭への臨港線とともに、かつて東洋一とも称された小樽築港機関区の操線が記載されている。1987年に機関区が運転所に縮小の上移転し、小樽築港駅に隣接する土地は、現在では巨大なショッピングモール等の複合施設となっている。あの素晴らしい機関区が博物館等の形で残せなかったのは残念(手宮分庫は記念館となっている)。

1935年修正 「銭函」

 函館線の軽川(がるがわ;現在の手稲)から花畔までを結んだ軽石軌道の軽川駅側が記載されている。1922年開業、1937年の営業休止ののち、1940年に廃止となった。
 地図中、軽川に製油所が見えるが、当時石狩の八の沢で石油の採掘がおこなわれており、採掘された原油は八の沢から石狩八幡まで軌道で運ばれたのち、船運と軽石軌道により軽川まで輸送され、精製されていた。
 なお、当該地形図は、こちらで全体を閲覧できる。

1937年発行 「石狩」

 当時石狩の八の沢で石油の採掘がおこなわれていた。採掘は1903年頃に開始された。石狩川の河口に近い八幡町まで輸送するために軌道が敷設され、運営されていた。軌道の運用時期は明確ではなく、1937年発行の当地図には掲載されているが、1947年修正版には記載がないので、廃止時期はその間と推測される。軌道名は、地形図上では「石油會社専用軌道」と表記されている。
 当時、製油所が軽川(現在の手稲)にあったため、当軌道、船運、軽石軌道の連携で輸送が行われていた時期もあったという。

1947年発行 「石狩」

 軽石軌道の末端側、花畔(ばんなぐろ)駅周辺が記載されている。
 現在付近は札幌のベッドタウンとなり、花畔駅付近に石狩市役所が置かれている。周辺の人口が爆発的に増加したころ、当該地から、手稲、あるいは札幌市の栄町まで、あらためて軌道式の交通機関を建設する計画が持ち上がったこともある。
 なお、当該地形図は、こちらで全体を閲覧できる。

1896年製版 「札幌」
 
 もっとも古い札幌の地形図。当時の札幌の人口は3万人強。のちの函館線は「至手宮鐡道」と表記されている。この鉄道から豊平川西岸で川岸に向かうのは、おそらく水運の受け渡しのための引込線と考えられる。のちの地形図でも記載があり、おそらく時代によっては砂利線としての役割を担ったと考えられる。また、現在の苗穂駅付近で北に円弧を描くように分岐するのは、1890年に敷設された大日本麥酒株式會社専用線で、地形図で確認できる北海道最古の専用線。札幌ビール工場専用線として1986年まで運用されたもの。なお、当該地の専用線をはじめとする線形の変遷については「苗穂駅周辺の線形・専用線 遍歴」にまとめた。

1918年発行 「札幌」 1
 
 札幌市街より続く札幌軌道(1911-1935)の末端、茨戸駅周囲の様子。駅付近で伏籠川、創成川、發寒川が茨戸川に合流し、水郷の風景を作るのは現在も同じ。軌道は終着の茨戸駅から、伏籠川を越えて、茨戸河畔まで軌道を伸ばしており、水運からの荷受の様子を伝える。
 「伏籠札幌川」の自然堤防上に見える道は、現在の道道273号花畔(ばんなぐろ)札幌線で、札幌の開拓に大きな貢献を果たした道。引用図南側で、「伏籠札幌川」の左岸、右岸双方に道の記載があるが、西側(左岸側)が旧道で、「丸〆街道」の名でよばれた。現在、札沼線篠路駅の北側にある「丸メ踏切」の名称にのみ、その歴史的名称を見ることができる。

1918年発行 「札幌」 2

 北7条東1丁目を起点とし茨戸(前田農場)までの11.4kmを結んでいた札幌軌道が「馬車鐵道」の表記で記載されている。
 1911年敷設。当初馬鉄であったが、1922年に内燃式ガソリンカーが導入されている。1935年に営業廃止。
 馬車鐵道は、創成川に沿う道に敷設されていた。この道路が現在の国道231号線(創成川通、石狩街道)。
 引用図中、「中嶋橋」が越えている川の当時の名前は「古川」で、現在太平駅南東に端を発する旧琴似川に該当する。現在当該河川上流側は、住宅・商業地に転用され、河跡を認めるものはほとんどない。 
 馬車鐵道が屈曲する中嶋橋のすぐ北側を、札沼線の当該部分が石狩当別まで開業することとなるのは、1934年のこと。 
1918年発行 「札幌」 3

 人口10万人近くに達したころの札幌市街の様子。国鉄線では、苗穂駅手前で北に向かう大日本麥酒専用線(のちのサッポロビール工場専用線 1890-1986)が見える。
 また、注目したいのは市街地の軌道。1910年の平岸-藻岩間を開業した札幌石材馬車軌道に端を発した軌道群で、1912年に札幌市街軌道、1916年に札幌電気鉄道、1917年に札幌電気軌道となったもの。1918年は路面電車が運用開始された年となる。(市営化は1927年)
 当該図に示された軌道は、その後の市電のものと線形が異なる部分があり、例えば札幌駅前への苗穂線の連結、また一条線が創成川の東で苗穂線まで連絡するなど、興味深い。新世紀日本地図(1930年)にもこの線形を認める。また現在の中央区役所がある南2~3条西11丁目は、馬車鉄道開業時から厩と車庫が設けられていた場所で当引用図でも引込線が記載されている。1927年に電気軌道の市営化が行われた際に、「札幌市電気局」が発足し、この地に事務所を置いた。中央車庫と工場も、1968年の電車車両センター竣工までこの地にあった。

1937年発行 「札幌」

 函館線軽川(現・手稲)と花畔を結び、現在の道道44号線(石狩手稲線)に敷設された軽石軌道(1922-1940)が記載されている。
 軌道の南側は現在は住宅地となっているが、この地形図では旧海岸線に形成された紅葉山砂丘の地形を見ることが出来る。
 なお、当該地形図は、こちらで全体を閲覧できる。

1971年修正 「札幌」

 苗穂で分岐していた当時の千歳線の線形が描かれている。
 「ひがしさっぽろ」「つきさっぷ」「おおやち」の各駅が掲載。図中にある国道12号線の跨線橋は現在もそのまま。
 1973年の付け替えで、現行の線形になり、千歳線は白石駅まで函館線と並走する形になった。
 なお、定山渓鉄道はすでに描かれていない。

1928年鐡補正 「石山」

 定山渓鉄道(1918-1969)の石切山駅から豊平川の対岸に渡って北に向かう馬車鐡道が記載されている。1910年に開業札幌石材馬車軌道で、1912年に札幌市街軌道、1916年に札幌電気鉄道、1917年に札幌電気軌道となり、札幌市街地に路線網を広げて札幌市電の前身となった。石切山駅までの軌道は、馬車鉄道のまま1920年代に廃止されている。

1954年修正 「石切山」 1

 1918年から1969年まで活躍した定山渓鉄道が記載されている。引用した石切山、藤の沢駅周辺は、現在では一面に宅地が広がっており、現在まで鉄路が残っていれば、地域の利便性は大きく向上していた。1954年の地形図からは、豊平川の渓流に沿った自然豊かな雰囲気が伝わる。なお、「石切山駅」の駅舎は、石山振興会館として現存している。
 なお、当該地形図は、こちらで全体を閲覧できる。

1954年修正 「石切山」 2

 漁川に沿って遡る恵庭森林鉄道が記載されている。この森林鉄道は王子製紙によって1927年に敷設され、1955年まで使用された。堀淳一氏の「北海道産業遺跡の旅―栄華の残景」によると、上流部にはインクラインもあったとのこと。引用図中にある漁川を越えていた6号橋(6号橋梁)は現在も見ることが出来る。
 なお、地形図名「石切山」は、現在「石山」。
 また、当該地形図は、こちらで全体を閲覧できる。

1965年発行 「石山」

 引用図中を、豊平川に沿って東西に定山渓鉄道(1918-1969)が貫いているが、その途中駅である藤の沢駅から、日本鉱業豊羽鉱山精錬所までの専用線が記載されている。専用線は全長2.1kmで、1939年から1963年まで運用された。豊羽鉱山から算出した鉱石は、豊羽鉱山専用鉄道で錦橋駅へ、ついで定山渓鉄道経由で当該精錬所まで搬送された。現在の石山南小学校と石山中学校の間を通る市道は、この専用線の線形に即している。

1947年発行 「定山渓」

 定山渓鉄道(1918-1969)の錦橋駅を起点とする豊羽鉱山専用鉄道が記載されている。1939年から、途中休止期間を挟みながら1963年まで運用された。

注: 地形図の年数部分が切断されているため、「1947年発行」は予測です。

1953年修正 「定山渓」 1

 定山渓鉄道の終着定山渓駅とその周辺。白糸の滝駅跡は北海道秘宝館(現在閉鎖・解体)、定山渓駅跡はスポーツ公園となっている。また、定山渓駅からは、さらに南方に1941年から1968年頃まで運用された定山渓森林鉄道が記載されている。

1953年修正 「定山渓」 2

 1941年から1968年頃まで運用された定山渓森林鉄道は、豊平峡ダムに沈んだ豊平峡を通っていた。深い渓谷に沿って走る様子がわかる。また、炭酸水が沸くことで有名だった鉱泉も記載されている。豊平峡も炭酸泉も、いまはダムの底である。

1967年発行 「定山渓」 1

 1953年修正図とほぼ同じ引用か所。カラー印刷のため、より明瞭に線形を伝える。定山渓鉄道(1918-1969)の終着駅定山渓駅と、その定山渓駅を基点とする定山渓森林鉄道(1941-1968)。

1967年発行 「定山渓」 2

 こちらも1953年修正図とほぼ同じ引用か所。険しい峡谷の地形に沿う定山渓森林鉄道(1941-1968)。豊平峡ダムの底には、この地形と森林鉄道跡が眠っている。

1947年発行 「恵庭」

 千歳線恵庭駅を起点に漁川に沿って登っていく恵庭森林鉄道が記載されている。1927年に敷設され、本線とマルマナイ線併せて総延長は37km以上あった。

1980年修正 「恵庭」

 千歳線島松駅から自衛隊北海道地区補給処への専用線が記載されている。1961年敷設、70年代末に廃止となっている。

1937年発行 「千歳」 2

 千歳川上流部、王子軽便鉄道山線の末端部。支笏湖畔から傾斜を下ってきた鉄道は烏柵舞(うさくまい)の水力発電所まで通じていた。1908年運用開始、1951年廃止。
 終着の上千歳は千歳鮭鱒孵化場の近く。
 当時千歳村からは、千歳までの路線延長の要望があったが、実現しなかった。
 なお、当該地形図は、こちらで全体を閲覧できる。

1956年発行 「千歳」

 千歳線の千歳駅南方から東西にそれぞれ線路が記載されている。西に向かうのは、1941年頃に敷設された海軍航空隊第1及び第2基地へ軍用引込線を前身とする米軍千歳基地専用線で1978年まで運用。東に向かうのは、基地建設のための資材搬送線を前身とする自衛隊東千歳駐屯地専用線で1976年まで運用。
 引用図は西側の専用線全体が記載されており、旧第1及び第2基地への分岐の様子もわかる。

1937年発行 「樽前山」 1

 王子軽便鉄道山線の支笏湖側末端部。引用図東の分岐点駅で南は苫小牧、東は烏柵舞の水力発電所群に通じていた。
 支笏湖の千歳川起点部に湖畔駅が設けられているが、駅手前に分岐があり、支笏湖を源とする千歳川を越えた対岸まで専用線が敷設されており、支笏湖対岸の千歳鉱山から、鉱山鉄道、水運を経て搬送された産物の積み替えに供されていた。王子軽便鉄道は1908年運用開始、1951年廃止。
 なお、千歳川を越える通称「山線鉄橋」は、現在も残り、観光用遊歩道に使用されている

 また、当該地形図は、こちらで全体を閲覧できる。

1937年発行 「樽前山」 2

 支笏湖東岸に王子軽便鉄道がある一方で、西岸にはどの鉄道にも接続していない鉄道が存在した。
 金銀を産出した千歳鉱山用の軌間762mmの鉄道で、1936年から1956年まで運用された。
 引用図はその支笏湖西岸の様子で、産物は美笛から船運で対岸の王子軽便鉄道湖畔駅に運ばれた。
 なお、当該地形図は、こちらで全体を閲覧できる。

1972年編集 「樽前山」

 恵庭岳山頂に向かうロープウェイとリフトが描かれている。
 1972年の札幌オリンピックの際、DH(滑降)競技場は、標高差規定等を満たすため、恵庭岳の支笏湖を見下ろす斜面に建設された。
 国立公園の中ということもあり、オリンピック終了後にこれらの索道は撤去され、コースは自然復旧のための工事が再度行われた。
 膨大な労力と資金がつぎ込まれ、現在では、当該地はただの林となっている。
 雪が積もると、かつての滑降コースがうっすらと見えることがあるという。

1947年発行 「壮渓珠」

 支笏湖の西、美笛峠の麓で金銀を産出していた千歳鉱山(美笛鉱山)から、支笏湖西岸まで通じていた千歳鉱山専用鉄道が記載されている。1936年から1956年まで運用された。支笏湖は船運、その後王子軽便鉄道に荷が受け渡された。
 鉱山の最盛期(1939年ごろ)には、引用地図周辺に5,000人が暮らす町があった。
 地形図名「壮渓珠(そうけしゅ)」は現在「双葉」。

1937年発行 「当別」

 江別と当別を結んでいた江当軌道。しかし、江別側は石狩川の手前で、当別側も当別川の手前で軌道は終了しており、交通の便としてはいまひとつ利便性が高くなかったようだ。1927年開業、1936年廃止。
 なお、地形図名「當別」は、現在「当別」。
 また、当該地形図は、こちらで全体を閲覧できる。

1959年修正 「当別」 1

 札沼線石狩当別駅を起点とする当別町営軌道(1947-1956)が記載されている。
 石狩当別駅北西に乗降場があり、当別川に沿って大袋までの31.3kmを結んだ。
 1954年の洞爺丸台風の水害で運行休止となり、そのまま1956年に廃止、書類上での廃止は1958年とされているが、当地図には記載が残った。

1959年修正 「当別」 2

 当別川に沿って南北に延びる当別町営軌道(1947-1956)が記載されている。当地図には「拓殖軌道」と記されている。
 当別町の集落、弁華別は「べんけべつ」と読む地図中に「文」で表記される弁華別小学校は、増毛小学校に次いで北海道で2番目に古い木造建築校舎であったが、2016年3月に閉校となった。
 当別町営軌道最大の遺構として知られた7連橋脚は、当引用図の北にあったが、当別ダムの竣工により水没した。

1937年発行 「江別」 1

 江別と当別を結んでいた江当軌道。1927年に開業したが、当別から至った軌道は、引用図のように石狩川を越えておらず、江別市街、函館線江別駅は対岸であった。1934年に石狩当別まで開業した国鉄札沼線の輸送力に対抗できず、1936年に短い歴史を閉じた。
 図中右下には、石狩川と江別川(現・千歳川)の合流地点にあった江別港まで延びる専用線も見ることが出来る。
 なお、当該地形図は、こちらで全体を閲覧できる。

1937年発行 「江別」 2

 江別駅東側の函館線。かつては地図のように直線の線形をしていた。
 当時、石狩川流域の治水事業として、大きく蛇行して江別川(現・千歳川)に流入していた夕張川の流路を変更し、直接石狩川へ合流するための開削工事が行われていた。
 工事に伴って、函館線は、夕張川と直交させるため、現在の線形に変更された。当地図には、その工事途中の様子が示されている。
 夕張川新水路への通水が1937年。現在の函館線は地図中南側の線路の線形となる。
 なお、当該地形図は、こちらで全体を閲覧できる。

1937年発行 「江別」 3

 夕張鉄道(1926-1975)の南幌向駅付近。地図中「幌向市街地」は現在の南幌町。
 北側を東西に通るのは、1896年に開削された幌向運河であり、長沼町を通る馬追運河とともに、かつては流通路等として、現在も付近の排水等に利用されている。

1979年編集 「江別」 1

 函館線野幌駅から北海道電力江別火力発電所までと、江別駅から王子製紙江別工場まで、それぞれの専用線が記載されている。北海道電力専用線は火力発電所の運用が開始された1935年から発電所が廃止された1991年まで、王子製紙江別工場専用線は1905年から1986年まで使用された。
 北海道電力専用線廃線跡は、江別市によって遊歩道「四季の道」として整備されている

1979年編集 「江別」 2

 函館線野幌駅から、北海鋼機までの専用線が記載されている。1964年から1987年まで運用された。当該線はもともとは夕張鉄道の一部で、本体である夕張鉄道が1975年に廃止されたのちも使用されていた。1979年編集「江別」には、夕張鉄道の廃線跡が、破線で記載してある。
 なお、現在北海鋼機前駅跡には、同駅で使用された信号機とオブジェが設置されている。
1928年編集「沙流太」

 苫小牧軽便鉄道が、日高拓殖鉄道を経て、国有化された1927年の翌年の地図。日高線の表記はまだ軽便線のものとなっている。佐瑠太駅(のちの富川駅)を起点とする沙流鉄道が記載されている。軌間762mmで平取までの13.1kmを結んでいた。1922年開業、1951年廃止。「ひがしさるふと」の駅名も見える。
 地形図名「佐瑠太」は現在「富川」。

2017年1月6日追記
 沙流太駅から沙流川岸へ別に軌道が記載されており、「鉄道旅客輸送統計【懐古編】」を運営されているekinenpyou様より、王子製紙の専用鉄道、佐瑠太駅~木材置場(1.46km)の可能性が高い旨ご指摘いただきました(参考 1928年刊 「鉄道統計資料」)。1944年の地方鉄道及軌道一覧までは当該軌道の登録記載を確認できるとの情報も併せていただきましたので、追記させていただきます。貴重なご指摘をありがとうございました。

1949年修正 「佐瑠太」 1

 日高線富川駅と、富川駅を起点とする沙流鉄道。1928年編集地図と比較すると、線路の線形に変化があるが、これは1929年の日高線苫小牧-佐瑠太間改軌に伴い、佐瑠太駅が沙留川下流側に移転したことによるもの。

1949年修正 「佐瑠太」 2

 沙流鉄道(1922-1951)末端部の様子。終着駅であった平取駅、一つ手前の荷菜駅が記載されている。
 なお、平取から先の延長計画の一環として、延長線上にあたる山中に殖民軌道貫気別線(13.3km)が別途建設され、1934年に開業していたが、平取への連絡を果たさないまま1940年に廃止となっている。

1979年編集 「静内」

 日高線静内駅から池内ベニヤ静内工場への専用線が記載されている。1942年に運用開始され、1970年代後半に廃止されたと推測される。現在でも池内ベニヤの敷地内に、専用線で活躍していたディーゼル機関車が保存されている。

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空知編


1909年部修 「岩見澤」

 函館線峰延駅を起点とし、川内川上流の峰延炭鉱からの運炭を行っていた馬車鉄道が記載されている。1904年から1907年まで運用された。

1951年発行 「岩見沢」 1

 美唄鉄道の美唄炭山駅から、奔別越沢にあった炭鉱まで専用線があるのが確認できる。当該線の歴史は不明。

1951年発行 「岩見沢」 2

 三美運輸の末端の選炭場から、山中に延びる軌道が記載されている。

1951年発行 「岩見沢」 3

 当該地図では、いくつも運炭のための軌道と思われるものを見つけることができる。当図は幌内線沿線で、唐松駅から藤松炭坑へ、弥生駅付近から弥生炭坑へ、それぞれ軌道が敷かれている。
 なお、1933年の「北海道炭礦案内」では「住友唐松礦」について、『切羽に於ては炭層の傾斜を利用流下せしめ、水準上は人力及馬匹により、斜坑は捲揚機により、抗外は選炭場迄蓄電池機関車に依る。選炭場より唐松驛積込場迄は架線式電車にて搬出す。』と述べられている。

1951年発行 「岩見沢」 4

 幌内線幾春別付近。幾春別駅から、180度カーブして、北側の選炭場まで引込線が伸びている。この引込線が道路を越していた橋脚と、巨大な選炭場(ホッパー)跡は、現在も見ることができる。さらに選炭場から、奔別炭鉱まで、運炭のための軌道が延びている。

1951年発行 「岩見沢」 5

 幌内線幌内駅付近、幌内炭山周辺。線路末端の選炭場から、さらに南に運炭用軌道が延びている。

1956年発行 「岩見沢」

 幌内線(1882-1987)の幾春別駅を起点とし、幾春別川流域に路線網をもっていた幾春別森林鉄道(1938-1955)が記載されている。本線15kmの他、5つ以上の支線があった。
 引用図南端に記載されている幾春別森林鉄道3號橋は現在も残り、送水管を支えている。また、幾春別森林鉄道の一部は、三笠市立博物館の野外博物館の歩行施設として、現在整備されている。
 なお、上流域の路線網は、地形図「幾春別岳」の範囲となるが、当該地形図に同鉄道の記載はない。
 

1970年編集 「岩見沢」

 幌内線幌内駅付近、幌内炭山周辺。1951年の地形図では選炭場から南に延びていた運炭用軌道が、この時は西方に方向転換している。
 なお、地図中幌内線の幌内駅以西は、三笠市の一連の鉄道文化保存施設として線路が残され、トロッコ運行などの企画が行われている。

1918年発行  「夕張炭山」 1

 室蘭線栗山駅を起点する二股炭礦馬車軌道が記載されている。二股炭礦馬車軌道は1901年に栗山町によって敷設。引用図を見ると、實吉で軌道は東と南に分岐している。当初栗山町が敷設したのは、東に向かって継立に至るルートであったが、のちに北海道炭鉱汽船が当該軌道を買収し、引用図中で南に折れ、角田を経るルートに変更されたと考えられる。当地図では、旧線の線形が、途中の杵臼(きなうす)という集落まで記載されており、新線付け替え後も、別途利用されていたことがうかがわれる。
 二股炭礦馬車軌道は、1920年過ぎ頃までは運用されていたが、夕張鉄道の敷設のため撤去された。

1918年発行  「夕張炭山」 2

 上図二股炭礦馬車軌道(1901~1920年代)の末端、二股炭鉱側の様子。当該軌道廃止後に、その線形を夕張鉄道(1926-1975)がほぼ引き継ぐ形となる。

1947年発行  「夕張炭山」 1

 室蘭線由仁駅から、宇古川砂利採取場への専用線(札建工業砂利専用線;2.2km)が記載されている。1943年から1960年代まで運用された。
 地形図名「夕張炭山」は、現在の「夕張」。

1947年発行 「夕張炭山」 2

 夕張鉄道(1926-1975)の新二岐駅を起点とし、角田炭鉱に向かう電化支線(4.6km)は、1934年から1970年まで運用された。
 引用図は角田炭鉱支線の末端部である栗山町日出付近。夕張鉄道角田支線から、炭鉱までの運炭線が記載されている。
 

1947年発行 「夕張炭山」 3

 万字線(1914-1985)の美流渡駅周辺。
 駅から南方に向かうのは北海道炭礦汽船美流渡礦専用鉄道(後の北星炭礦美流渡礦専用鉄道 1918-1967;2.8km)。
 駅から幌向川を渡り、奈良川に沿って北に向かう軌道は、奈良炭礦(後の東幌内炭礦)運炭軌道。約4.2kmで1928年運用開始、1970年頃まで使用された。
 

1967年修正 「夕張」 1

 栗山町の集落日出付近。東西に走る夕張鉄道の途中駅新二岐から阿野呂川に沿って北上する支線は角田砿専用鉄道(4.6km)で、1934年敷設、1970年廃止。
 この区間は電化され、旭川市街軌道(1956年廃止)から譲受した電車が使用されていた。
 なお、新二岐駅の駅舎及び、新二岐駅跡東側にある阿野呂川橋梁の橋脚は、現在も見ることができる。

1967年修正 「夕張」 2

 万字線美流渡駅付近。北星炭礦美流渡礦専用鉄道が描かれている。
 1918年敷設、1967年廃止。地形図には「さくらがおか」「かみみると」の2駅が掲載されている。
 美流渡礦専用鉄道は、真谷地炭鉱専用線から移籍した8100型(8118号機)が活躍し、寿都鉄道の1機とともに、最後に残った8100として人気を集めた。

1971年修正 「夕張」 1
 
 夕張鉄道の終着夕張本町駅のほか、夕張線の終着夕張駅からさらに北に延びる引込線、また夕張鉄道東側には別の夕張鉄道からの軌道が記載されており、狭い谷に多くの鉄道線が敷かれていた当時の賑わいを伝える。
 夕張駅から先の引込線は、昭和12年度(1937年)の「鉄道統計」を参照すると、北海道炭礦汽船株式會社による丁未までの2.63km、軌間1067mmの軌道が該当する。当該専用線運用免許は1915年の取得となっている。

1971年修正 「夕張」 2

 万字線朝日駅から、朝日炭坑への運炭軌道があったことがわかる。1974年閉山。朝日駅は現在も保存・整備されている

1971年修正 「夕張」 3
 
 万字線の終着万字炭山駅から、さらに南の坑口へと延びる運炭軌道が確認できる。

1978年編集 「夕張」 1

 旧夕張鉄道若菜駅から分岐していた化成工業所専用線が記載されている。当時すでに夕張鉄道が廃止となっていたため、旧夕張鉄道の若菜-鹿ノ谷間を含めて専用線化し、夕張線鹿ノ谷駅で接続という線形になっていた。
 1936年から1978年まで使用された。事業所と夕張鉄道若菜駅の間は0.9km。現在、化成工業所のあった場所には柳原技研工業がある。

1978年編集 「夕張」 2

 夕張線夕張駅周辺。1971年に比べると夕張鉄道関連線が消えている。一方で、夕張駅から北に延びる引込線はこの当時まで健在。現在の夕張駅は、当地図外南方に移転している。

1961年発行 「紅葉山」

 夕張鉄道南大夕張駅を起点とする下夕張森林鉄道(1939-1966)が記載されている。
 パンケモユーパロ川に沿って上流部に向かう軌道の様子。 支線であった盤の沢線(1958-1966)については記載がない。 

1976年編集 「紅葉山」 1

 夕張線清水沢駅を出て、急カーブを経て南大夕張に向かう大夕張鉄道が記載されている。1911年に開業し、北海道最後の私鉄として1987年まで頑張った。またこれと並行するようにあるのは精炭用専用線と推測する。

1976年編集 「紅葉山」 2

 夕張線沼ノ沢駅を起点とする真谷地炭鉱専用線が記載されている。1913年から1987年まで運用された。

1921年発行 「大夕張」

 「夕張炭山」との合図。夕張線鹿ノ谷駅から若鍋(わっかなべ)炭鉱までの専用線が掲載されている。1908年から1933年まで運用された。
 その線形の一部は夕張鉄道、さらに化成工業専用線として、1978年まで運用された。
 地形図名「大夕張」は、現在「石狩鹿島」。
 なお、当該地形図は、こちらで全体を閲覧できる。

1948年発行 「大夕張」

 引用図右を南北に走るのは大夕張鉄道(1911-1987)。地図左に記載された軌道は、大夕張鉄道の南大夕張駅を起点に、山中を北上する運炭軌道。廃止時期は不明(1962年の地形図には記載なし)。
 現在当該地には、通じる道がなく、到達することは難しい。
 
1957年発行 「大夕張」

 当図は5万分の1地形図を元にした地質調査図となっており、着色が施されている。
 引用図中、夕張川に沿って南北に延びるのは主夕張森林鉄道(1934-1961)であるが、当図には、上巻沢(雨鱒沢)に沿って東に遡る支線が掲載されている。当該支線に関する資料はなく、詳細不明である。しかも、地形図において、当該支線は、一般的な森林鉄道のような等高線に沿った線形とは異なる「なめらかな曲線」で記載されており、規格とあい照らすと、不自然さが残る。また、主夕張鉄道の本線についても、1962年発行の地形図では夕張川本流の西岸を沿っているにもかかわらず、橋梁で越えていることになっており、本図の資料として線形の正確性には疑問が残る。ここでは、参考紹介という扱いにとどめたい。二次資料を確認できれば追記したい。
 なお、当該地質調査図は、こちらで全体を閲覧できる。

1962年発行 「石狩鹿島」 1

 大夕張鉄道の終着、大夕張炭山駅付近。運炭のための様々な軌道の他、1937年竣工の主夕張森林鉄道が、夕張川本流に沿って山の奥深く目指して伸びている。最盛期に人口2万人を数えた大夕張の繁栄が感じられる地図である。現在、一帯はシューパロダムのダム湖に没した。

1962年発行 「石狩鹿島」 2

 大夕張鉄道の南大夕張駅付近。1962年は大夕張ダムが完成した年だが、地図は完成前の姿を示している。
 南大夕張を起点とした森林鉄道群が書かれている。トンネルで分岐し、北に向かうのが下夕張森林鉄道線夕張岳線で、1958年の時点で有名な一号橋梁(三弦橋)が完成している。
 南西に向かうのはパンケモユーパロ川に沿う支線。これらの森林鉄道は1963年廃止。三弦橋はその後も永く美しい姿を見せていたが、2014年シューパロダムの竣工により水中に没した

1976年編集 「石狩鹿島」

 北海道の運炭系私鉄で、旅客営業路線として最後まで残った大夕張鉄道の終着駅、南大夕張駅周辺の様子。まだ炭鉱があり、付近を炭鉱住宅が囲んでいる。この路線も1987年に廃止となり、現在では、地図の区域に住む人は少ない。南大夕張駅跡では、保存車両が展示してある

1956年発行 「月形」

 札沼線石狩当別駅を起点としていた当別町営軌道が記載されている。1949年に開業したが、その5年後の台風によって大きな被害を受け、1954年に営業休止、当地図の発行年である1956年に廃止となった。7連橋脚の遺構が有名だったが、当別ダムの完成により、水中に没した。

1935年補正 「砂川」 1

 砂川は石狩国一帯の鉄道敷設のため基地の役割を担った町でもある。この古典地図には、軌道用の砂利採取場へ伸びる砂利岐線が記載されている。この線路は1909年に敷設され、1963年に撤去された。
 なお、当該地形図は、こちらで全体を閲覧できる。  

1935年補正 「砂川」 2

 函館線奈井江駅を起点とし、東方に延びる運炭用軌道が2線記載されている。1910年敷設の馬車軌道で、日本鉱業奈井江炭山十二号坑及び十五号坑までの2線となる。廃止時期不明。
 なお、当該地形図は、こちらで全体を閲覧できる。  

1963年発行 「砂川」 1
 
 函館線豊沼駅を起点とする、東洋高圧工業専用線(2.1km)が記載されている。1942年運用開始。その後、会社形態を変えながら、最後は三井東圧肥料砂川工場専用線として1990年に運用を終えた。
 引用図では、工場内で3線に分岐し引き込まれている様子がわかる。

1963年発行 「砂川」 2

 函館線奈井江駅を起点とする三井鉱山奈井江専用鉄道(10.0km)が記載されている。1949年敷設、1968年廃止。
 引用図はその末端である三井奈井江砿業所のあった東奈井江駅付近。白山駅は機関庫があった。
 国鉄東海道線で活躍した8850形が運用されたため、多くのファンが来訪したという。

1963年発行 「砂川」 3

 函館線奈井江駅付近。砂川駅の北東に分岐しているのは、東奈井江を目指す三井鉱山奈井江専用鉄道(1949-1968)。
 また奈井江駅南方から東の選炭場に向かうのは、軌間1113mmの住友奈井江砿専用線(1940-1970)。
 引用図では、選炭場からさらに地下坑道へと延びる軌道の存在も記載されている。

1963年発行 「砂川」 4

 函館線茶志内駅付近。三菱鉱業茶志内炭礦専用鉄道(1952-1967)が記載されている。茶志内駅かた三菱茶志内鉱業所までの2.0kmで、美唄鉄道の9200形、4110形の蒸気機関車が運用されていた。
 引用図では、鉱業所から、さらに「三菱専用鉄道」と記載された軌道が約4km先の産化美唄川流域の炭鉱まで伸びている。現在その炭鉱があった場所は、産業廃棄物処理場となっている。
 

1972年修正 「砂川」 1

 当地図も砂川が鉄道敷設のための基地であったことを示す。駅南方、函館線と東方へ分岐する上砂川支線の間に延びるのは三井木工場に延びていた専用線で、枕木の生産に関係していた。1972年の地図では、いまだ姿をとどめている。

1972年修正 「砂川」 2

 函館線上砂川支線の末端、上砂川駅周辺。三井石炭鉱業の専用線が記載されている。1987年の炭鉱閉山により廃止。

1972年修正 「砂川」 3

 当地図はかつて奈井江駅から三井鉱山奈井江専用鉄道(1949年~1968年)が通じていた東奈井江付近を示している。1972年時点では、鉄道は廃止されているが、炭鉱から坑口まで、運炭のための軌道が残っていたことが示されている。

1980年修正 「砂川」

 1972年修正とともに上砂川駅付近を引用してみた。三井石炭鉱業専用線の線形の変化を認める。 

1981年編集 「滝川」

 函館線滝川駅から北海道電力滝川発電所への専用線が記載されている。1958年から1988年まで運用された。

1955年修正 「歌志内」 1

 歌志内線(1891-1988)の終着、歌志内駅付近。
 歌志内中ノ沢川に沿って南方に延びるのは、空知炭鉱の下ノ沢選炭場へ向かう専用線。
 ペンケウタシナイ川に沿って東に向かうのは、住友上歌志内砿への専用線。
 前者は歌志内線廃止廃止直前まで運用されていたが、後者は70年頃に運用を終えている。
 地形図名「歌志内」は現在の「赤平」。

1955年修正 「歌志内」 2

 根室線の芦別駅付近。引用図のすぐ南にある上芦別駅を起点とし、空知川沿いの三菱炭鑛への専用線が記載されている。1917年開業で、1933年に廃止となったと考えられるが、当地図には記載がある。
 なお、芦別駅前に市役所の記載があるが、芦別が市制を敷いたのは1953年から。当時の人口が6万人であったことを考慮すると、市街地の規模が小さいため、詳細なデータが追い付いていない可能性がある。

1963年発行 「赤平」 1

 赤平駅が梅田駅を抜いて貨物出荷量全国1位を記録したのは1960年。さすがに周囲は賑わっている。
 根室線と同様の表記で駅西側から西方に延びるのは昭和肥料(昭和電工)豊里炭鉱専用線(1938-1967)。同じく駅西側から駅南へ側線のように記されているのが赤平炭鉱専用線(1918-1973)。さらに駅東側から南東に延びるのが住友鉱業・赤平炭鉱専用線(1940-1989)。
 加えて、特殊軌道の表記で、東は駅南から空知川を道路共用の赤間橋で渡り、西は駅南西の抗口に向かうのは赤間炭鉱専用線(1938-1973)。
 さらに各専用線に付すように各抗口へ延びる特殊軌道の様子もうかがえる。
 

1963年発行 「赤平」 2

 引用図北西端に示された駅は根室線茂尻駅。
 その茂尻駅から1km先の選炭場に向かうのが、茂尻炭鉱専用線。1918年に敷設され、70年代はじめまで運用された。
 さらに選炭場からトンネルを経て、桂川の上流に向かうのは萬慶抗に向かう運炭軌道で、1918年に馬車軌道として敷設されたのち、抗外電車軌道として、1969年の閉山まで運用された。なお、茂尻砿業所は閉山後も1974年まで露頭炭の採掘を行っており、選炭施設などは稼働していた。

1963年発行 「赤平」 3

 根室線上芦別駅を起点とし空知川を越えて北東に向かうのは三菱鉱業芦別鉱業所専用鉄道で、1949年に上芦別-辺渓6.9kmと、辺渓-油谷の油谷炭鉱専用線1.3kmが開業。また、1954年には、辺渓から分岐する形で辺渓三坑までの1.3kmが開業した。
 三菱鉱業芦別鉱業所専用鉄道の廃止は1964年だが、その直前に大夕張鉄道から2機の9200(9201と9237)を譲受し、これらを題材としたけむりプロの名作写真群「上芦別物語」が生まれた。沿線跡には空知川橋梁跡辺渓隧道跡盤の沢橋梁跡など、数多くの遺構が残っている。

1961年発行 「美瑛」

 根室線上芦別駅を起点とする三菱鉱業芦別鉱業所専用鉄道に連続する油谷炭鉱専用線の末端部が記載されている。1949年開業、1964年廃止。

1963年発行 「赤平」 4

 根室線平岸駅から北上した、ペンケキプシュナイ川上流部は、大谷炭礦、平岸大谷沢炭鉱、平岸栄炭鉱等、採掘権者と変えながら、1923年から1968年まで採炭が行われた。
 引用図では、これらの抗口から運炭のための特殊軌道が運用されていた様子がわかる。

1963年発行 「赤平」 5

 芦別駅周辺。
 芦別駅を起点とし、南東に伸びるのは三井芦別鉄道(1949-1989)で、引用図南端に唯一のトンネルであった芦別トンネルが見える。
 芦別駅から南に延びる引込線は、三菱鉱業下芦別坑への専用線(1946-1962)。その専用線と芦別駅構内でクロスしている索道は高根炭鉱からの運炭に供されたもの。
 また、芦別駅の北側で分岐し、芦別市街に伸びる短い線路は、三井鉱山黄金坑へ延びる索道の原動所への引込線(1949-1966)。当該地形図では、その原動所から黄金抗までの索道も描かれている。
 引用図東端をかすめるのは、上芦別駅を起点とする三菱鉱業芦別鉱業所専用鉄道(1949-1964)。

1980年編集 「赤平」 1

 根室線赤平駅南東に住友石炭鉱業赤平鉱業所があり、事業所内の運炭のための軌道の線形を確認できる。地図でははっきりしないが、赤平駅から鉱業所まで専用線があり、1940年から1989年まで運用されていた。住友炭坑の立坑は現在も残っている

1980年編集 「赤平」 2

 歌志内線の終着歌志内駅から1.4kmの空知炭鉱専用線が記載されている。歌志内線は廃止の直前まで石炭の搬送を行っていた。

1961年発行 「上芦別」 1

 根室線上芦別駅付近。
 上芦別駅を起点としる芦別森林鉄道(1932-1962)。駅の南側に集積場があった様子がわかる。
 また、同駅東から空知川を越えて北に向かうのは、明治鉱業専用軌道で、空知川対岸の上金剛山周辺にある東芦別炭鉱から採炭された石炭の搬送に供されていた。1949年に、従来の索道を、空知川鉄橋を建設したうえで軌道化した。1963年廃止。
 引用図北西端には、芦別川に沿う三井芦別鉄道(1945-1989)もあり、地図を賑わしている。

1961年発行 「上芦別」 2

 根室線芦別駅を起点とする三井芦別鉄道(1945-1989)の終着、頼城駅付近。頼城駅の先に選炭場へ延びる側線が示されている。また頼城市街を通って南に向かうのは、根室線上芦別駅を起点とした芦別森林鉄道(1932-1962)。最盛期には全長31.2kmに達した。
 現在まで残る遺構はほとんどないが、惣顔真布支線が芦別川上流部で渡河していた橋脚を、現在も見ることができる。

1962年発行 「幾春別岳」

 根室線上芦別駅を起点とし、芦別川に沿って遡ってきた芦別森林鉄道(1932-1962)本線の末端部が記載されている。1957年竣工の芦別ダムによる芦別湖付近。
 ダム建設以前は、さらに本谷支線が芦別川源流域を目指して分け入っていた。なお、当該地形図に、支線の記載はない。

1976年編集 「上芦別」 1

 芦別駅を起点としていた三井芦別鉄道が描かれている。引用は三井芦別駅周辺。三井芦別鉄道は、全長9.6km、1940年開業、1989年廃止。
 地図中の三井芦別駅の駅舎は、現在も事業所建物として使用されている
 引用箇所の炭山川を渡る鉄橋は現存し、鉄橋上に保存車両が屋外展示されている

1976年編集 「上芦別」 2

 三井芦別鉄道の終着、頼城駅付近。頼城まで開通したのが1945年。廃止は1989年。駅に隣接する選炭場から三井芦別鉱第二坑などへ運炭用の軌道が敷かれていた。寺本孝広氏の報告によると、芦別川を越える橋梁のガーターには、伊香保ケーブル鉄道に使用されていたものが転用されたため、トラスの向きが斜めとなり、風変りな橋梁となっていた。
 また、駅南に「貯木場」があるが、かつては森林鉄道の集積点としてもにぎわった。

1976年編集 「上芦別」 3

 炭山川をさらに遡ったところに、三井芦別鉱第一坑があった。第一坑と第二坑の間には連絡坑道があった。地図では、第一坑付近で運炭用軌道が地上に顔をのぞかせる。

1947年発行 「惠比壽」 1

 留萌線峠下駅の東側から分岐している運炭軌道の末端近く。天鹽炭鉱、その先で分岐して東の「平澤」、北の「豊平」の各炭鉱口にむけて軌道が記載されている。 
 運用年不明ならが、1926年の地勢図に記載があり。1949年の地勢図に記載がないため、1948年前後の廃止と想定される。

1947年発行 「惠比壽」 2

 上図に引き続き天鹽炭鉱等の運炭軌道。留萌線との接続部分。図外西側に峠下駅がある。
 地形図名「惠比壽」は、現在「恵比島」。

1968年編集 「恵比島」 1

 5万分の1地形図「恵比島」には、留萠鉄道の恵比島-昭和間の全線が記載されている。3か所紹介する。当図はその末端である昭和駅周辺。終着駅の昭和から、明治鉱業昭和炭砿専用線が延びている。また、北東の佐々木の沢上流にある炭鉱からは、途中駅である太刀別駅に向けて、まっすぐに索道が延びている。
 昭和炭砿専用線では、ドイツ・クラウス社製の蒸気機関車(15号と17号)が運用されていて、往時は多くのファンが詰めかけたという。このうち15号機は、現在道道867号線沿いにある沼田町の「ほたるの里」に保存されている。

1968年編集 「恵比島」 2

 留萠鉄道の新雨竜駅付近。雨竜炭砿(浅野炭鉱)があり、駅北側の選炭所からは積出用の軌道線が記載されている。また、太刀別駅からは、上流部の別の坑口に向けて、索道が延びている。

1968年編集 「恵比島」 3

 留萠鉄道の起点である留萌線恵比島駅付近。恵比島駅には、貨車留置のための側線が見える。留萠鉄道の恵比島-昭和間は17.6km。1930年に開業し、1969年の営業休止を経て、1970年に廃止となった。

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上川南部・十勝編


1957年発行 「十勝川上流」

 当図は5万分の1地形図を元にした地質調査図となっており、着色が施されている。
 十勝川が西に向かう本流と北東に向かうトムラウシ川に分かれる地点、地形図では「二股」とある。川に沿うのが十勝上川森林鉄道(1920-1965)で、分岐点までが本線、そこからトムラウシ川に沿うトムラウシ支線と、十勝川本流に沿うシートカチ支線に分かれていた。
 二股の付近の地名には、「近別(チカベツ)」の呼称もあり、作業用の土場や機関庫が設置されていた。
 なお、当該地質調査図は、こちらで全体を閲覧できる。
 

1958年発行 「佐幌岳」

 北海道拓殖鉄道屈足駅を起点とし、十勝川に沿って上流部(北側)に向かう十勝上川森林鉄道(1920-1958)。
 支流ニペソツ川の合流地点に拓けた集落ニペソツは、十勝ダムの奥にあり、現在は屈足トムラウシの名でも呼ばれる。集落の中で、十勝川河畔に向けて引込線が分岐している様子が興味深い。
 十勝川に沿う道は、現在の道道718号線で、トムラウシ山登山の拠点であるトムラウシ温泉まで続いている。
1933年発行 「新得」 1

 北海道拓殖鉄道(1928-1968)と河西鉄道(1921-1951)が記載されている。河西鉄道はもともとビート運搬のために敷設された鉄道であったため、その線形は旅客用鉄道としては、不自然を極めた線形をしている。
 例えば、図中に「鹿追駅」はあるが、北海道拓殖鉄道の同名駅からは離れた然別川の支流、上幌内川の谷に立地していた。
 また、河西鉄道鹿追駅から同鉄道を北上すると、引用図外に上然別駅があり、そこでスイッチバックし、再び引用図左端の軌道に戻ってくる。
 河西鉄道鹿追駅の南は、U字状の曲線を経て、再び引用図内に姿を表す。その先端は万代橋貨物駅となる。河西鉄道鹿追駅及び上然別の駅跡は、いずれも線路跡を転用した道路沿いに現在までホーム跡を残す。加えて引用図南端の河西鉄道と北海道拓殖鉄道の立体交差も遺構が残っている。
 北海道拓殖鉄道鹿追駅跡には、現在同鉄道で活躍した蒸気機関車8622が静態保存の上、展示してある
 また、当該地形図は、こちらで全体を閲覧できる。

1933年発行 「新得」 2

 北海道拓殖鉄道(1928-1968)と河西鉄道(1921-1951)の立体交差地点。資料などでは河西鉄道の敷設時期が先となるが、先にある河西鉄道が北海道拓殖鉄道を跨ぐ形となる。
   引用図中に上美萬駅が見える。
 なお、当該地形図は、こちらで全体を閲覧できる。

1933年発行 「新得」 3

 根室線十勝清水駅付近。1921年に竣工した日本甜菜製糖清水工場へ河西鉄道による引込線があり、河西鉄道の下清水駅周辺の線形と併せて様子がわかる。
 河西鉄道の旅客営業列車は下清水から十勝清水駅に向かい、ビート運搬貨物は、南の工場へ向かっていたのだろう。
 十勝清水-工場間を除き1951年に廃止。
 なお、当該地形図は、こちらで全体を閲覧できる。

1959年発行 「新得」  
 
 新得町の集落「屈足」付近。東西に新得駅を起点とする北海道拓殖鉄道(1928年開業)が走る。  屈足には清水営林署管轄の貯木場があり、北に向かって十勝上川森林鉄道が伸びていた。十勝上川森林鉄道は最盛期には総延長が69.9kmに及び、この距離は北海道拓殖鉄道の全線新得-上士幌間54.3kmを凌駕するもので、そのターミナルが屈足駅だった。  
 森林鉄道は1965年、北海道拓殖鉄道は1968年に廃止。  
 また、この地形図には、根室線の狩勝峠ルート、新内駅も描かれている。
 なお、引用図中、北海道拓殖鉄道が十勝川を渡っていた地点では、現在も橋脚の基部が残っている。

1969年編集 「新得」

 根室線十勝清水駅からホクレン清水製糖工場(北側)と、日本甜菜製糖工場(南側)に通じる専用線が記載されている。日本甜菜製糖工場線は、かつて河西鉄道の一部を形成し、工場のある場所には「下清水駅」があった。
 ホクレン清水製糖工場専用線は1962年から1986年まで、日本甜菜製糖工場線は、前身の河西鉄道が1926年に敷設、1951年の廃止後、地図にある専用線となり、その専用線も1970年代に廃止となった。

1932年発行 「御影」 1

 根室線御影駅から上芽室を経て久山に至る日本甜菜製糖清水工場のビート運搬用馬車鉄道が記載されている。全長8kmで1920年に敷設されている。廃止時期は不明だが、戦時中の1944年に清水工場は航空機用燃料ブタノール製造工場に転用されているため、その頃には廃止されていたと推測される。
 なお、当該地形図は、こちらで全体を閲覧できる。

1932年発行 「御影」 2

 河西鉄道の十勝川東域を南進していた路線が記載されている。河西鉄道は1921年にビート運搬用の軌道として敷設され、1923年に「河西鉄道」の名により旅客営業も行うようになった。1946年に十勝鉄道に吸収される。
 引用図で旅客営業を行っていた区間は南熊牛駅以北であり、南熊牛駅の南側は貨物線となり、路線南端に関山貨物駅があった。
 当該区間は1949年に運用休止ののち1951年に廃止となった。
 なお、当該地形図は、こちらで全体を閲覧できる。

1949年発行 「然別沼」

 十勝では、国鉄線以外で唯一1,067mmの規格で建設された北海道拓殖鉄道。1928年の新得-鹿追間の開業に始まり、1931年には新得-上士幌の54.3kmが全通した。
 図中は上士幌の手前、音更川流域の中音更付近。音更川を直行して架橋するために、湾曲した路線と、中音更駅周辺が示されている。引用区間は1949年の東瓜幕-上士幌間運行停止により、いちはやく廃止扱いとなっている。
 地形図名「然別沼」は現在の「然別湖」。

1954年発行 「東士狩」

 1928年開業の北海道拓殖鉄道。1949年に東瓜幕-上士幌間19.9kmが運行停止となったのちも、新得-東瓜幕は営業を継続し、全線が廃止となったのは1968年のことだった。
 地形図名「東士狩」は現在の「中士幌」。瓜幕駅跡には、現在駅があったことを示す碑が建立されている

1967年修正 「落合」

 根室線東鹿越駅から、日鉄工業東鹿越鉱業所と王子緑化鹿越鉱業所への専用線が記載されている。石灰石の搬出に1997年まで使用された。最後まで1日1往復、釧網線中斜里駅への貨物列車が運行していた。

1930年部修 「帯廣」

 十勝鉄道のうちでも短命だった美生線の常盤駅以遠部分(1924-1940)が記載されている。なお、常盤駅より帯広側は、当該部分廃止後も八千代線へ連絡する形で1957年まで運用された。引用図は美生駅付近で、中美生の集落への引込線の存在を確認できる。
 なお、当該地形図は、こちらで全体を閲覧できる。  

1949年発行 「帯広」

 帯広駅から南に十勝鉄道の線路が記載されているが、それと別に、士幌線との分岐点から、南に分岐する国鉄線同様表記の路線がある。
 これは、陸軍帯広第一飛行場引込線で、1940年に敷設され、1950年代に入る頃まで運用されたと考えられる。
 

1969年編集 「帯広」 1

 根室線帯広駅から日本甜菜製糖 帯広製糖所へ延びる十勝鉄道が記載されている。かつては、十勝平野を戸蔦及び八千代に延びる路線であったが、このころは当該貨物営業線のみが遺されていた。この線も1977年に廃止となり、十勝開発に尽くした帯広部線以来の歴史を終えた。
 引用図の線路跡の一部は、現在、遊歩道「とてっぽ通」として整備され、十勝鉄道で活躍していた蒸気機関車が静態保存の上、展示されている。

1969年編集 「帯広」 2

 上図に続き、帯広市南方、日本甜菜製糖 帯広製糖所付近の十勝鉄道。

1959年発行 「帯広」

 帯広市南部。十勝鉄道が記載されている。十勝鉄道は1920年から29年にかけて路線を伸ばしたが、1959年に旅客営業を廃止。地図中「こうじょうまえ」駅のある日本甜菜製糖帯広製糖所と帯広の間のみが専用線として残ったが、こちらも1977年に廃止となった。その後も、十勝鉄道は、日甜芽室製糖所と帯広貨物駅間の貨物輸送を担ってきたが、2012年、最後に残った貨物運行も終了した。

1930年発行 「幸震」

 当地形図ではほぼ全面に十勝鉄道の記載があるが、中でも戸蔦線(1924-1957 川西駅以遠廃止)の途中駅である南太平駅から分岐して太平駅に至る支線が記載されているのが貴重。この支線は1925年に開業するも、4年後の1929年に廃止となっているが、1930年修正の当地形図には、その姿をとどめることとなった。引用図中には戸蔦線上清川駅も記載されている。
 なお、地形図名「幸震」は現在の「大正」。「幸震」は地形図名としては「こうしん」と読むが、旧村名としては「さつない」と読む。現在では同じ語源の地名に「札内」の字が宛てられている。
 また、当該地形図は、こちらで全体を閲覧できる。

1958年発行 「大正」 1

 帯広から南下し、藤駅を経てまっすぐ伸びるのは戸蔦に向かう十勝鉄道戸蔦線。90度曲がって西方に向かうのは八千代駅に通じていた同八千代線。かつては八千代線の途中駅であった常盤駅から更に西方の上美生駅まで路線があっため、その昔は美生線と称していた。常盤-上美生間は1940年に廃止となったため、当地形図には記載はない。
 十勝鉄道の「帯広部線」とは、戸蔦線、八千代線、美生線とその支線たちを含む帯広起点路線群の総称。対して河西鉄道を吸収合併した際に十勝鉄道の路線となった十勝清水を起点をした旧河西鉄道の路線群は「清水部線」と呼ばれた。

1958年発行 「大正」 2

 十勝鉄道の戸蔦線の終着、戸蔦駅周辺。引用箇所のすぐ北に南太平駅があり、かつてそこから西方1.8kmの太平駅に分岐する戸蔦線太平支線が存在していたが、この支線は1929年に早くも廃止となっており、当地形図にも記載はない。

1932年発行 「札内岳」

 十勝鉄道美生線の終着、上美生駅付近。美生線は、十勝鉄道藤駅を起点とし、途中の常盤駅で八千代線を分岐していた。藤-上美生間は20.7km。
 1924年開業区間であるが、引用図を含む上美生-常盤間15.1kmは、他の線区より早い1940年に廃止となった。残った八千代線の付け根の部分である藤-常盤間は、八千代線とともに1957年に廃止となった。

1961年発行 「石狩岳」 1

 当時の士幌線の終着、十勝三股駅から西方へ延びる森林鉄道が記載されている。音更川にそって岩間温泉まで伸びている。
 この「音更本流森林鉄道」は、1944年に運用開始されたが、地図発行より前の1958年に廃止されている。幸いにも地形図にその姿をとどめることが出来た。

1976年発行「高島」

 士幌線(1925-1987)の士幌駅の北側から、東方に伸びるのは士幌農協の専用線。1954年敷設、1984年頃廃止。全長0.8km。

1976年修正 「中士幌」

 異色の1枚。北海道では地方の鉄道管理局が独自に設置する「仮乗降場」と呼ばれる小駅がかつてあちこちにあった。これらの駅は全国版時刻表には掲載されなかったため、その知識なく乗車した人の中には、次々と現れる仮乗降場に驚く人も多かったという。
 これらの仮乗降場は「北海道時刻表」「道内時刻表」には掲載されていたが、地方版時刻表にさえも掲載されなかったものがあった。その一つが1987年に廃止された士幌線にあった新士幌仮乗降場。当5万分の1地形図には、その名が記載されている。なお、同じ様に時刻表にその名を見つけることができなかった胆振線尾路遠仮乗降場は、5万分の1地形図には記載されず、2万5千分の1地形図「双葉」にのみ、その名を見ることができる。

1957年発行 「足寄太」

 池北線(のちの北海道ちほく高原鉄道ふるさと銀河線、2006年廃止)足寄駅を起点に1923年から1960年まで運用された足寄森林鉄道の線形が記載されている。足寄森林鉄道の全貌を明らかにする科学的資料はないが、最盛期にはその路線網は全長100kmにも達していたという説もある。そんな説を裏付けるように、足寄駅周辺では、多数の側線が記載されており、大量の森林資材を扱っていたことが推測される。
 足寄森林鉄道が利別川と渡河していた第1橋梁の跡には、現在も橋台の一部と橋脚の基部が残る。

1957年発行 「上足寄」

 1927年から1960年まで活躍した足寄森林鉄道が図面全体に渡って展開。その白眉は、上足寄の奥で、フウタツアショロ川(北)、足寄川(東北東)、白水川(東)の3つの流れに沿ってそれぞれ軌道が分岐する個所だろう。北から、フータツ支線、シーアショロ支線、39線沢支線となる。

1922年発行 「十勝池田」

 根室線止若(やむわっか)駅(現在の幕別駅)付近の工場を起点とし、新田帯革十勝製渋工場が、タンニン製造の為の木材運搬用に猿別川流域に敷設した馬車軌道が記載されている。大正年間(1912-1926年)は運用されていたとされるが、敷設・廃止の正確な年数は不明。地形図中には「新田製澁工場」の名も記載されている。
 なお、当該地形図は、こちらで全体を閲覧できる。

1954年発行 「十勝池田」

 根室線利別駅の西方から、北に分岐しセイシビラ方面に向かう線路が記載されている。
 これは、帯広緑ヶ丘飛行場から陸軍第1飛行師団の修理工場が疎開して第6野戦航空修理廠を設置するにあたって、1944年に敷設された鏑部隊線。
 最大で3千人の軍属が勤務したとされている。廃止時期は定かではない。

1974年修正 「十勝池田」

 幕別駅に隣接する新田ベニヤ工業の専用線が記載されている。新田ベニヤは、1912年に、幕別駅(旧止若駅)を起点としてタンニン製造の為の木材運搬用の線路を猿別川流域に巡らせていた。当該線は昭和初期に廃止となったが、駅構内から工場への専用線は、80年代初期まで運用されていたと考えられる。
1946年発行 「本別」

 本別駅から網走本線(のちの池北線)に沿って南下し、分水嶺を越えて、浦幌川の水域に向かって東に進むのは、富士製紙馬鉄で、全長約15km。分水嶺を越える浦幌坂には「修羅落とし」と呼ばれる木材で組んだ滑り台状の運送装置を用いていた。5t程度のガソリンカーを導入した時期もあるが、1940年代末に廃止となったと考えられる。
 また、南の嫌侶(きろろ)から利別川に向かう軌道は、王子製紙嫌呂網羽軌道で、美里別川、利別川を利用して流送された原木の回収を網羽により行ったのち、軌道に移し替えて搬送が行われていた。1916年頃から1950年頃まで運用されていたと考えられる。地図には、原木を移しかえるための、網走本線の引込線も記載されている。
(参考文献 小林實「十勝の森林鉄道」)
 なお、当該地形図は、こちらで全体を閲覧できる。
1969年発行 「陸別」

 池北線(1910-2006)陸別駅を起点とし、斗満(とまむ)川流域に路線網を持っていた軌間762mmの斗満森林鉄道(1924-1966)が記載されている。当該地図発行年では廃止となっている。
 置戸、温根湯に次いで道内で3番目に敷設された森林鉄道だった。
 引用図では、一度東に迂回して、陸別駅西側の貯木場に入る線形が確認できる。また国鉄線からは軌間1,067mmの引込線があった。
 製材工場と思われる地図記号も見える。

 なお、池北線陸別駅の北側の線形は、現在も線路が残されており、保存鉄道のりくべつ鉄道が無雪期の週末に隔週で運行しており、乗車体験などができる。 

1950年発行 「飜木禽」

 現在の陸別町上陸別付近。
 陸別川に沿って遡るのは、網走本線(現在の池北線)陸別駅を起点とする陸別森林鉄道。
 陸別森林鉄道は、支線も含めると全長約60kmで、1923年から1953年まで運用された。
 地形図名「飜木禽」は現在の「本岐」。

1955年発行 「小利別」 1

 池北線(1910-2006)陸別駅を起点とし、斗満(とまむ)川流域に路線網を持っていた斗満森林鉄道(1924-1966)のニオトマム支線が記載されている。
 斗満川の支流であるニオトマム川(新斗満川)に沿って、東三国山の深部まで線路を延ばしていた。
 

1970年発行 「芽登温泉」

 池北線(1910-2006)陸別駅を起点とし、斗満川に沿って遡ってきた斗満森林鉄道(1924-1966)の幹線末端が、かろうじて当地形図の東端に顔を出している。
 当該地形図発行時には、廃止になっていた。

1922年発行 「浦幌」

 根室線浦幌駅を起点とし、根室線に沿って北上するのは、大和鉱業浦幌炭砿ケナシ坑への馬車鉄道。1918年に敷設されたが、炭鉱の休止にともなって1922年に廃止された。のちに採炭の再開に際して、軌道の再敷設工事が行われたが、最終的に索道および隧道により、尺別炭鉱を経る運炭方法が確立されたため、当該工事は完遂しなかった。
 なお、当該地形図は、こちらで全体を閲覧できる。

1922年発行 「常室」

 根室線浦幌駅を起点とし、浦幌川、次いで浦幌川の支流である常室川に沿って遡り、大和鉱業浦幌炭砿ケナシ坑に至る馬車鉄道(1918-1922)が記載されている。
 なお、当該地形図は、こちらで全体を閲覧できる。  

1954年発行 「常室」

 十勝で唯一採炭を行っていた浦幌炭鉱の構内線が記載されている。
 大谷正春氏の報告によると、この構内線では、入れ換えのための蒸気機関車が運用されていたとのこと。
 かつては大和鉱業馬車鉄道が浦幌駅西側まで16kmを結んでいた(注 昭和12年度(1937年度)の鉄道統計によると22km)が、尺別炭鉱から浦幌炭鉱留真坑まで尺浦通洞が開通すると、10トン電車により尺別炭鉱へ搬送されるようなった(1942年-1954年)。

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道東編


1957年発行 「釧路」 1

 国鉄釧路工場を経て、そのまま浜釧路まで引込線が延伸する線形となっている。また、1923年から1970年まで釧路駅を発着した雄別鉄道が北に向かうほか、臨港鉄道も姿を見せ、たいへんにぎやかだ。

1957年発行 「釧路」 2

 春採湖に沿う釧路臨港鉄道、永住町駅、春採駅、駅名の記載はないが、観月園駅が見える。また春採駅を中心に太平洋炭鉱の運炭軌道が巡っている。釧路臨港鉄道の春採以西は現在も国内唯一の運炭鉄道として活躍している

1957年発行 「釧路」 3

 根室線別保駅から三井鉱山別保鉱選炭場まで、専用線が敷設されている。資料では1949年廃止となっているが当1957年の地形図には記載がある。

1973年編集 「釧路」 1

 釧路川沿いの浜釧路貨物駅まで伸びる貨物線、国鉄釧路工場とそこまでの引込線が記載されている。
 浜釧路は1989年廃止。

 国鉄工場の跡地は、現在では幸町公園として整備され、C58106が静態保存されている。

1973年編集 「釧路」 2

 釧路臨港鉄道の現在廃止部分も含めた全線が記載されている。東釧路を接続駅とし、城山駅、臨港駅、知人駅、春採駅というループに近い線形が描かれている。
 釧路臨港鉄道は1925年に開業し、路線長は最大で11.3kmであったが、1986年に春採-知人間の4.0kmのみとなり、現在に至っている。
 また、当地図には、太平洋炭坑内の狭軌作業線の様子が記載されている。なお、太平洋炭坑の2015年の風景は、根室線沿線風景のページで紹介している。


1944年部修 「大樂毛」

 根室線大楽毛駅を起点とし、音別(おどんべつ)(現在の釧路市阿寒町)にある澤口炭鉱運まで通じていた運炭用馬車鉄道が記載されている。1903年敷設。同炭鉱は1923年に廃止となっているが、1944年鐡補の当図にも記載されている。同鉄道からは、舌辛(現在の阿寒市街)で富士製紙が阿寒川上流に建設した飽別発電所への資材違反装用の馬鉄が分岐するなど、目的は運炭だけではなかったと考えられるため、炭鉱閉山時期がそのまま軌道の廃止時期であるとは限らない。
 なお、当該地形図は、こちらで全体を閲覧できる。

1957年発行 「大楽毛」 1

 鶴居村営軌道(1929年~1968年運行)と雄別鉄道(1923~1970年運行)の有名な立体交差地点。現在雄別鉄道跡を利用したサイクリングロードを辿ると、この橋台に巡り会うことが出来る。なお、地図中に記載された鶴居村営軌道の線形は「旧線」のもので、1962年頃に線形改良が行われた結果、当該立体交差も運用を終えている。

1957年発行 「大楽毛」 2

 地図内昭和で分岐しているのが雄別鉄道で、東に向かえば新釧路、釧路方面、南は新富士、西が阿寒、雄別方面となる。鳥取でほぼ直角に曲がり、南は根室線新富士駅を目指しているのは鶴居村営軌道(1962年頃まで運用された旧線)。さらに1984年に廃止された十条製紙釧路工場(現・日本製紙釧路工場)への専用線も記載されている。十条製紙近くの雄別鉄道と鶴居村営軌道(旧線)の交差は平面クロスだった。

1957年発行 「大楽毛」 3

 釧網線の塘路駅から釧路湿原の中を進むのは標茶町の殖民軌道久著呂線。1934年から1965年まで運営された。現在では国立公園の中。線路が残っていれば、観光鉄道になっていたかもしれない。

1968年発行 「大楽毛」 1

 根室線大楽毛駅から本州製紙(後の王子製紙)釧路工場への専用線が記載されている。1959年から1984年まで運用された。

1968年発行 「大楽毛」 2

 引用図北側に雄別鉄道(1923-1970)、鳥取でカーブして雄別鉄道を越えて新富士駅に向かう鶴居村営軌道(1929-1968)、さらに十条・本州製紙(当初は富士製紙)専用線(1923-1984)と賑やかであるが、加えて当引用図西側を斜めに南北に貫く線路が記載されている。これは、雄別鉄道が、国鉄線を越えて、直接北埠頭まで石炭列車を乗り入れるために建造した新線で、鶴野線と呼ばれた。鶴野線は1968年1月に運用を開始したが、1970年4月に雄別鉄道全線廃止に併せて廃止となり、その活躍時期はずか2年3か月だった。現在も、鶴野線が根室線を越していた橋梁の橋脚が一部残っており、見ることができる。なお、地図中に記載されている鶴居村営軌道の線形は、1962年頃の線形改良を経た新線のものとなっている。

1957年発行 「中雪裡」 1

 上図釧網線塘路駅を発した標茶町の殖民軌道久著呂線。「中雪裡」でも延々と湿原地帯を進む様が描かれている。

1957年発行 「中雪裡」 2

 鶴居村営軌道の末端。鶴居村の本村に至る。なお、地形図名「中雪裡」は後の「鶴居」と同範囲。

1957年発行 「中雪裡」 3

 鶴居村営軌道は下幌呂駅で中雪裡駅に向かう中雪裡線と、新幌呂駅に向かう幌呂線に分岐していた。こちらは1943年に開業した幌呂線。

1944年部修 「白糠」

 根室線白糠駅を起点とし、加利庶炭砿(カリショ炭山)に至る運炭軌道が記載されている。地形図内では単に「馬車軌道」と記載されている。運用期間の詳細は不明だが、加利庶炭砿における採炭が、1914年から1938年にかけて行われていることから、当地図発行時には、すでに廃止されていた可能性がある。

1957年発行 「白糠」

 根室線西庶路駅を起点としていた明治鉱業庶路炭鉱専用線の西庶路付近が記載されている。1941年から1964年まで運行された。
 地図中「明鉱」にある庶路鉱の手前で、軌道がクロスしており、北上するのは庶路川上流の本岐坑に向かう軌道。
 西庶路-明鉱間2.2kmは1,067mm、明鉱-本岐坑間7.0kmは762mmの軌道により、輸送が行われていた。

1946年発行 「音別」

 尺別炭鉱付近の様子。雄別炭鉱尺別線が1920年から運用を開始しており、1942年に尺浦通洞が開通すると、浦幌炭鉱で生産された石炭も搬送を行うようになる。
 地図中では、炭鉱街東で、尺別川の対岸に渡る引込線があったことが示されている。

1957年発行 「音別」 1

 雄別炭鉱尺別線(1920年開業1970年廃止)の末端部部。興味深いのは尺別炭鉱の先の谷まで軌道が延びており、さらにその先端部から、別の軌道が隧道に至っていること。これは浦幌炭鉱の産炭を尺別炭鉱まで輸送する「尺浦通洞」で、両炭鉱は長い隧道で結ばれていたことになる。なお、この連絡軌道は、山中で直別川の谷を渡るために一瞬地表に顔を出すのだが、その部分も当該地図には記載がある。
 堀淳一氏が著書「北海道 かくれた風景―地図を紀行する」で、これらの産業遺産の現地踏査をレポートしている。

1957年発行 「音別」 2

 雄別炭鉱尺別線(1920年開業1970年廃止)の起点側であった根室線尺別駅付近。

1970年編集 「鶴居」

 1971年に廃止された標茶町営軌道の路線が描かれている。釧網線標茶駅付近を起点とし、路線は中オソツベツで二つに分岐し、上オソツベツと沼幌まで通じていた。当地図では三角形の分岐が記載されており、軌道の形状が想起される。沼幌線は1970年、上オソツベツに向かう標茶線は1971年に廃止。

1930年発行 「舌辛」

 阿寒町の前身であった舌辛村の市街地を示したもの。引用図東端を通るのは雄別鉄道(1923-1970)。「舌辛駅」は1950年に「阿寒駅」となる。市街地を通る特殊軌道は、根室線大楽毛駅を起点とする運炭用馬車鉄道で、1903年に敷設。市街西側の音別(おどんべつ)にある澤口炭鉱まで通じていた。また、舌辛市街でこれと分岐し、雄別鉄道舌辛駅に向かうのは、阿寒川上流にある富士製紙の飽別発電所に向かう馬車鉄道。発電所建設の資材搬送のため、1920年ころに敷設されたと考えられる。廃止時期不明ながら、1930年発行の当地図には記載されている。地形図名「舌辛」は現在「阿寒」。
 なお、当該地形図は、こちらで全体を閲覧できる。

1959年発行 「阿寒」 1

 雄別鉄道が阿寒町を横切る様子。現在では、付近に雄別鉄道の資料館があり、貴重な展示物を閲覧出来る。

1959年発行 「阿寒」 2

 現在の釧路市阿寒の下仁仁志別付近。
 阿寒村の殖民軌道仁々志別線。1937年から1964年まで運行された。全長12.2km

1959年発行 「阿寒」 3

 雄別鉄道穏禰平駅付近。
 穏禰平駅を起点に北に向かっているのが阿寒村の殖民軌道仁々志別線。
 穏禰平駅は1956年に山花駅に改名している。山花付近は、現在では釧路郊外の温泉地となり、公営の宿が建設されている。

1959年発行 「阿寒」 4

 中庶路炭鉱と、根室線西庶路駅を結んでいた明治鉱業庶路炭鉱専用線の末端側が記載されている。1941年から1964年まで運行された。

1931年発行 「徹別」

 阿寒川上流部。飽別(あくべつ)川が合流する付近。
 特殊軌道は、富士製紙による飽別発電所建設に際して敷設された馬車軌道。舌辛(現在の釧路市阿寒町)で根室線大楽毛駅を起点とする運炭用馬鉄に合流していた。1920年ごろに敷設されたと考えられる。引用図北の発電所は、「富士水電發電所」と表記されている。地形図名「徹別」は現在「雄別」。

1957年発行 「雄別」 1

 現在の鶴居村新幌呂付近。
 下幌呂駅で中雪裡線から分岐した鶴居村営軌道幌呂線の終着新幌呂付近。1943年開業、1968年廃止。

1957年発行 「雄別」 2

 現在の釧路市阿寒元仁々志別付近。
 雄別鉄道穏禰平駅を起点とした阿寒村の殖民軌道仁々志別線の終着、元仁々志別駅付近。1937年開業、1964年廃止。

1957年発行 「雄別」 3

 北海道では「西の美唄鉄道、東の雄別鉄道」と称されたほど、様々な蒸気機関車が運用された雄別鉄道。その終着、雄別炭山駅付近。本線以外の記載がなく、意外とすっきりしている。1923開業、1970年廃止。
1897年製版 「屈斜路湖」

 標茶駅を起点とする釧路鉄道が記載されている。
 釧路鉄道は、1880年開業の官営幌内鉄道に次ぐ北海道2番目の鉄道事業で、1887年に運用開始、釧路鉄道として免状を取得した上での開業は正式の開業は1892年となる。屈斜路湖の東にある硫黄山から算出される硫黄の搬送を主目的とした鉄道で、標茶-跡佐登間41.8kmを結ぶ軌間1,067mmの鉄道であった。
 
 引用図は、同鉄道の末端側を示したもので、北端に見えるのが終点の跡佐登駅。中央東側に見えるのがポンチクワッカ駅。南端には、ウノシコイチャルシベ駅からの分岐線の終点であるヲンコチャル駅も示されている。
1897年製版 「標茶」

 標茶駅を起点とする釧路鉄道が記載されている。
 釧路鉄道は、幌内鉄道に次ぐ北海道2番目の鉄道事業で、屈斜路湖の東にある硫黄山から算出される硫黄の搬送を主目的とした鉄道で、標茶-跡佐登間41.8kmを結ぶ軌間1,067mmの鉄道であった。(標茶-釧路の搬送は釧路川の水運によった)
 
 1887年に敷設運用が開始されているが、釧路鉄道として免状を取得した上での開業は1892年。しかし鉱山の休止に伴って、鉄道も1896年に休止ののち廃止となり、運用期間はきわめて短期間であった。
 塘路に熊牛村外四ヶ村戸長役場が設置されたのは1895年。当地図は、標茶開闢間もない頃の様子が示されている。
 参考:1921年刊「日本鉄道史」、1926年刊「北海道國有鐵道建設誌

1932年鐡補 「標茶」

 釧網線は標茶駅までが1927年開業、弟子屈駅まで延伸されたのが1929年。また、1930年から32年にかけて標茶駅を起点に計根別まで殖民軌道標茶線が開通し、計根別で中標津から至る殖民軌道計根別線と結ばれている。この殖民軌道は1936年以降通じる国鉄標津線に順次置き換わる形で廃止が進められていくため、運用期間は短かったが、当地形図にその線形を残した。
 なお、当該地形図は、こちらで全体を閲覧できる。

1969年発行 「標茶」

 標茶町の中心部。標茶町営軌道の路線が描かれている。「しべちゃしがい」「みなみしべちゃ」の駅名があるが、釧網線の標茶駅での接続はないように見える。
 1961年から1967年の間は、標茶駅前まで乗り入れていたという。
 1971年廃止。この地図では、湿原地を縫うように走っていたくにゃくにゃの路線の様子がよくわかるほか、駅名も多く掲載してくれている。
 なお、標茶市街駅は時期によっては開運町駅と称していた。現在、当該駅跡には、軌道車庫が残っている

1897年製版 「弟子屈」

 硫黄山で搬出される硫黄を標茶まで搬送した釧路鉄道(1887-1896 釧路鉄道の名称では1892年から)が記載されている。北海道で2番目に古い鉄道事業であるが、運用期間が短かったため、認知度は低い。
 路盤のうち弟子屈(現・摩周)と標茶の間は、その7割が1929年に開通した釧網線に転用されることとなる。 
 引用図北端中央に示された街並みが当時の「弟子屈」市街となる。
 引用図、ニタトロマップ駅が記載されており、その位置は、現在の摩周-南弟子屈間となる。
 なお、地図中の鉄道には、「自跡差登至標茶鉄道」との記載になっている。
 

1957年発行 「弟子屈」

 現在の弟子屈町中久著呂付近。
 釧網線の塘路駅を起点として釧路湿原の中を進んでいた標茶町の簡易軌道久著呂線の終着上久著呂駅付近。1934年開設、1965年廃止。
 久著呂川の西側は、行政区域としては鶴居村になる。

1928年鐡補 「尾幌」

 根室線上尾幌駅を起点とし、尾幌川に沿って南西に向かうのは、全長およそ5kmの八千代炭鉱の運炭用軌道。1918年頃から1943年まで運用された。地形図には、「石炭運搬軌道」と表記されている。

1957年発行 「尾幌」 1

 釧網線塘路駅から、塘路湖に沿って東に進む標茶町殖民軌道阿歴内線。風光明媚な塘路湖に沿って進む路線。塘路駅からは東に阿歴内線、西に久著呂線と、いずれも湿原の美しい地域を通る殖民軌道が出ていた。しかし、当時の開発には様々な困難があり、それどころではなかったかもしれないが。1939年開業1961年廃止。

1957年発行 「尾幌」 2

 根室線上尾幌駅から北西方向に延びるのは、上尾幌森林軌道と思われる。北海鉱山上尾幌礦の輸送にも供された。資料などでは1944年敷設、1950年頃廃止となっているが、当地図には記載がある。

1957年発行 「厚岸」 1

 根室線門静駅から、尾幌川の支流、ホマカイ川流域に延びるのは砕石運搬用専用線。全長1.9 kmで、1924年に運用が開始された。1960年代まで使用されたと考えられる。

1957年発行 「厚岸」 2

 根室線茶内駅を起点とする殖民軌道若松線の終着、若松駅付近。茶内から18.9kmの地点。
 1929年に敷設され、当地図発行のころに動力化が行われた。
 その後、1964年に別寒辺牛まで1.9kmが延長された。
 殖民軌道として敷設されたすべての軌道のうちで、最後まで活躍したが、1972年に廃止となり、殖民軌道・簡易軌道の歴史を終えた。

1973年編集 「厚岸」

 1km強の貨物線と、貨物駅であった「浜厚岸駅」が記載されている。1917年に釧路から鉄路が延伸した際、終着は浜厚岸だったが、1919年に厚床までの延伸が成された際に、浜厚岸は貨物駅となった。その後、貨物取扱に活躍したが、1982年に廃止された。

1946年発行 「霧多布」

 根室線茶内駅を起点とする殖民軌道茶内線が記載されている。1929年に敷設、1957年の動力化を経て、1972年まで牛乳の搬送等に活躍した。
 当地図発行のころは馬力で、地図では「茶内殖民馬車軌道」と表記されている。

1969年編集 「茶内原野」

 浜中町営軌道(地図上では茶内簡易軌道と表記)の路線が描かれている。
 根室線の茶内駅を起点に3路線、総延長34.1kmに及んだが、1972年廃止。根室線茶内駅を起点とし、中茶内付近で別寒別辺牛に向かう若松線から、西円朱別に向かう支線が分岐していく様が描かれている。

1932年鐡補 「姉別」

 根室線厚床駅を起点とした殖民軌道根室線が記載されている。
 1925年5月に厚床-中標津間58kmが開通しており、これが最も早くに敷設開業した殖民軌道となる。
 1933年からは、国鉄標津線が開業するため、並行部分は廃止となるが、引用した風蓮駅以南は、上風蓮への風蓮線と姿を変えて存続することとなる。
 なお、当該地形図は、こちらで全体を閲覧できる。  

1946年発行 「姉別」

 根室線厚床駅を起点とした殖民軌道風蓮線が記載されている。
 1933年に敷設され、1938年に上風連5線9号までの16.3kmが全通した。
 その後、1963年には、起点駅を根室線厚床駅から標津線奥行臼駅に切り替え、全長9.9kmとなって運用された。
 1971年廃止。

1972年編集 「姉別」 1  

 現在の浜中町円朱別付近。左の川はノコベリベツ川、北九号道路が渡っているのが、左支姉別川。
 浜中町営軌道(地図上では茶内簡易軌道と表記)の路線が描かれている。根室線の茶内駅を起点に3路線、総延長34.1kmに及んだが、1972年廃止。  この地図にはそのうち円朱別線と呼ばれた路線の末端(終着:開南)側が多く記載されている。

1972年編集 「姉別」 2

 標津線の奥行臼駅を起点とする別海村営軌道風連線が、終着の上風連まで描かれている。厚床を起点として1925年に開業し、1963年に地形図の通り奥行臼に起点を移し、路線変更したのち、1971年に廃止となった。

 奥行臼駅の跡は、現在、別海町によって保存され、廃止時に使用されていた車両などが展示されている。

1897年製版 「西別」

 地形図名の表記が混乱を招くが、当時の「西別」は現在の「磯分内」を示す。その後、「西別」表記が、別海周辺の地形図を表していた時代もある。
 当引用図が示すのは、現在の磯分内付近であり、硫黄山で搬出される硫黄を標茶まで搬送した釧路鉄道(1887-1896 釧路鉄道の名称では1892年から)が記載されている。
 北海道で2番目に古い鉄道事業で、全国的に見ても、早期に敷設された鉄道の一つ。
 現在、標茶-摩周間の釧網線のうち7割の部分が、当該鉄道の路盤を転用した線形となっている。
 

1946年発行 「磯分内」

 標茶町虹別付近。
 標津線(1989年廃止)西春別駅を起点とする殖民軌道虹別線の終着、北虹別駅付近。虹別線は全長約12.2km、1939年から1952年まで運用された。

1971年編集 「磯分内」

 釧網線磯分内駅から北海道製糖磯分内工場への専用線が記載されている。この線では、1952年から、「ランケンハイマー製 米国」と銘打たれた由来不明の1号B型タンク型蒸気機関車が運用されていた。当該機は、鉄道写真家広田尚敬氏が1959年に北海道を訪問した際には、十勝清水で発見されている。専用線はその後現在もある雪印乳業(メグミルク)に引き継がれたが、1984年ごろに廃止された。 

1957年発行 「摩周湖」 1

 標津線(1933-1989)計根別駅を起点とする殖民軌道養老牛線の末端側が記載されている。
 1938年から1961年まで運用された。
 末端部では、ケネカ川の支流、カンジウシ川に沿って、養老牛の市街に至っていた。

1932年鐡補 「計根別」 1

 現在の別海町西春別付近。根室線標茶駅を起点とする殖民軌道標茶線(1930-1936)の西春別駅付近。当該集落は現在の別海町西春別昭栄町となる。1936年から37年にかけて、標茶線の線形に並行して開業する国鉄標津線は、現在の西春別市街に西春別駅を置いた。そのため、西春別と西春別昭栄の両集落を結ぶ軌道は、標津線開業後も殖民軌道西別線に編入される形で1956年まで運用された。
 なお、当該地形図は、こちらで全体を閲覧できる。  

1932年鐡補 「計根別」 2

 現在の中標津町計根別付近。根室線標茶駅を起点とする殖民軌道標茶線(1930-1936)の計根別駅付近。計根別駅以西が標茶と結ぶ殖民軌道標茶線(1930-1936)、計根別駅以東が中標津と結ぶ殖民軌道計根別線(1929-1937)となる。どちらの路線も代替交通機関である国鉄標津線(1936-1989)の開業に伴って順次廃止となった。
 なお、当該地形図は、こちらで全体を閲覧できる。  

1946年発行 「計根別」 1

 現在の別海町上春別付近。
 殖民軌道西別線(1929-1956)が分岐していた春日駅付近。ポンオンネベツ川(東側)とヒロノ川(西側)に挟まれた小さな集落だった。北東は上春別駅で春別線に連絡し、南東は標津線西別駅(のちの別海駅)、南西は標津線西春別駅に向かう線路。

1946年発行 「計根別」 2

 標津線(1989年廃止)の西春別駅付近。西に向かうのは殖民軌道虹別線(1939-1952)で北虹別に通じていた。また、南東に向かうのは殖民軌道西別線。
 国鉄西春別駅に接した殖民軌道の駅は「新西春別駅」と呼ばれ、そこから離れた場所にある西春別市街(引用図外)に設けられた殖民軌道西別線の駅は「西春別駅」を称していた。標津線の同名駅とは離れて存在していたことになる。国鉄西春別駅から西別線西春別駅までは、西別線で4.4kmの道のり。
 鉄路は、西春別から、さらに西別(別海)、春別まで通じていた。国鉄西春別駅から殖民軌道の終着となる国鉄西別駅までは、殖民軌道経由で35.8km。

1946年発行 「計根別」 3

 標津線(1989年廃止)計根別駅を起点とする殖民軌道養老牛線が記載されている。養老牛線は計根別から養老牛までの約11km、途中からケネカ川に沿っていた。1938年から1961年まで運用された。渓流沿いの秘湯として名を知られる養老牛温泉はパウシベツ川上流となる。

1932年鐡補 「中標津」 1

 現在の中標津付近。引用図北端から南東端に貫いているのが殖民軌道根室線(1925-1933)で、国鉄標津線(1934-1989)の前身となる。その中標津で南西に分岐しタオロマップ川沿いに線形を伸ばしているのが、殖民軌道計根別線(1929-1937)で、こちらも国鉄標津線の前身となる。タオロマップ川が標津川に合流する付近に現在雪印メグミルクの工場がある。

1932年鐡補 「中標津」 2

 現在の標津町中央武佐付近。殖民軌道根室線(1925-1933)の中央駅とその付近の線形。1937年に国鉄標津線が根室標津まで開業するが、中標津から開陽までの区間は並行区間に含まれない形で1954年まで軌道が存続したが、引用した中央武佐付近は南方を通る標津線に置換する形で撤去となった。そのため、引用図の線形で軌道が存した期間は、わずか8年ほどだったことになる。

1946年発行 「中標津」

 異色の1枚。
 標津線(1989年廃止)の「東標津駅」は旧海軍標津第一飛行場(現在の中標津空港)へ分岐する軍用線のために、中標津-上武佐間に設けられた駅。当地図には東標津駅と当該軍用線が記載されている。駅、線路とも1944年に敷設、終戦後の1945年11月に廃止され、関連施設も撤去された。
 なお、当該地形図は、こちらで全体を閲覧できる。

1932年鐡補 「標津」

 標津町川北付近。殖民軌道根室線(1926-1937)が記載されている。代替交通機関である国鉄標津線(当該区間 1937-1989)が中標津からほぼ直線の線形をとったのに対し、開陽等の集落を経由した殖民軌道は、急なカーブを持っていた。
 なお、当該地形図は、こちらで全体を閲覧できる。

1946年発行 「標津」

 標津線(1989年廃止)川北駅を起点に古多糠まで通じていた殖民軌道忠類線(1935-1955)の起点、川北駅周辺。

1932年補正 「薫別」

 現在の標津町伊茶仁付近。
 根室線厚床駅と標津を結んでいた殖民軌道根室線が記載されている。1925年の厚床-中標津開業以来根釧台地の開発に尽くしたが、1937年国鉄標津線(1989年廃止)の開通によりその使命を終えた。
 なお、国鉄標津線のルートは地図中の殖民軌道線よりやや南方となる。
 また、当該地形図は、こちらで全体を閲覧できる。

1944年修正 「薫別」

 現在の標津町古多糠付近。
 標津線(1989年廃止)川北駅を起点としていた全長約10.8kmの殖民軌道忠類線の終点、古多糠駅付近。忠類線は1935年から1955年まで運用された。
 なお、当該地形図は、こちらで全体を閲覧できる。

1932年鐡補 「西別殖民地」 1

 現在の別海町付近。南北に延びるのは殖民軌道根室線(1925-1933)で、国鉄標津線(1933-1989)の前身となる。西別(現在の別海)で西に分岐し西別川沿いに線形を伸ばしているのが、殖民軌道西別線(1929-1956)。

1932年鐡補 「西別殖民地」 2

 後の国鉄標津線(1933-1989)春別駅付近。集落名は中春別。殖民軌道根室線(1925-1933)が中春別の北側であえて丘陵を越えるような難しい線形を描いているが、その理由は不明。

1944年修正 「西別」 1

 標津線(1989年廃止)春別駅を起点とする殖民軌道春別線が記載されている。上春別まで17.5km。上春別では、さらに西別線に連絡することで、春日、西春別へと通じていた。なお、地形図名の「西別」は、現在「別海」。
 なお、当該地形図は、こちらで全体を閲覧できる。

1944年修正 「西別」 2

 標津線(1989年廃止)西別駅(のちの別海駅)を起点とする殖民軌道西別線。根釧台地を横断し、西春別で再び標津線に接していたとともに、途中駅の春日から上春別への支線も含めて「西別線」と呼ぶことが多い。1929年から1956年まで運用された。
 なお、当該地形図は、こちらで全体を閲覧できる。
 
1944年修正 「厚床」

 根室線厚床駅、厚床駅東側で根室線から分かれて北に向かうのが1933年に西別駅(のちの別海駅)までが開業した標津線(1989年廃止)であるが、厚床駅北側で発着する殖民軌道風連線が記載されている。
 風連線は、前身の殖民軌道根室線が1933年に廃止されたのち、厚床-風連間を残したもので、後に起点を厚床から奥行臼に移して、1971年まで別海村営軌道として運用が続くことになる。

1944年発行 「根室北部」 1

 根室線の根室駅付近(接続はしていない)から、当時の歯舞村まで通じていた根室拓殖鉄道。1929年開業、1959年廃止。海産物の搬送などに活躍した。地図中では「拓殖ガソリン軌道」と表記されている。
 1949年田井自動車工業製の単端式気動車「銀龍号」は、そのユニークな外見で広く知られたため、写真が書物などで紹介される機会もある。
 引用図中東端の集落は「婦羅理(ふらり)」で、同名の駅があった。

1944年発行 「根室北部」 2

 根室線根室駅を起点とし、根室港に向かう貨物線の末端部が記載されている。全長2.9kmで、1934年から1965年まで運用され、根室港で水揚げされる海産物の搬送等に活躍した。

1944年発行「根室北部」 3

 根室から根室港に向かう貨物線から、根室駅を出てすぐに西に分岐し、根室第二飛行場に向かう専用線が記載されている。
 根室第二飛行場は大日本帝国海軍の専用飛行場で、終戦間近の1945年6月から運用が開始されている。
 専用線は2か月後の敗戦とともに使用されなくなったと思われる。
 現在、飛行場跡には、滑走路があったことを示すコンクリート面が残っている。

 1946年発行 「根室南部」

 根室線の終着駅、根室駅付近。南に湾曲するのが根室線。途中で分岐して北に向かうのは根室港への貨物線(1934-1965)。貨物線からさらに東に分岐するのが、根室第二飛行場専用線(1945年に運用)。
 この専用線とクロスしながら、東に向かう軌道は、根室拓殖鉄道(1929-1959)。
 

1944年修正 「納沙布」

 根室拓殖鉄道(1929-1959)の終着、歯舞駅周辺。全歴史を通じて日本最東端に存在した駅。
 地図中に「歯舞島」とある島は、現在は「ポンコタン島」と呼ばれ、防波堤により北海道とつながっている。イソモリリ島は現在の「ハボマイモシリ島」。地図中イソモシリ島と表記された島の東の岩礁が、現在ではイソモシリ島と呼ばれる。

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オホーツク編

   

1933年発行 「斜里」

 釧網線止別駅を起点とする北見鉄道が記載されている。
 北見鉄道は、1930年に仮止別-小清水間の8.9kmを結んで開業した軌間1,067mmの鉄道。1937年には釧網線止別駅まで線路を結んだ。
 蒸気機関車、ガソリン動力車により運用されたが、日中戦争による物資の不足等により、1939年に廃止となった。
 当地形図には、途中駅の野坂駅が地図西端に記載されている。

1948年発行 「斜里」

 釧網線の斜里駅付近。南東に向けて国鉄根北線(1957年開業、1970年廃止)が建設中となっている。これに沿って、途中から東進するのが、17.9km先の知布泊(ちぷとまり)に向かう殖民軌道斜里線。1932年敷設、1953年廃止。
 なお、当該地形図は、こちらで全体を閲覧できる。

1977年修正 「斜里」

 釧網線中斜里駅からホクレン中斜里製糖工場の専用線約2.8kmが記載されている。1958年から1997年まで運用された。現在も付近にはコンテナセンターが建設され、当該地の貨物集積所としての役割は継続している。

1946年発行 「島戸狩」

 釧網線斜里駅を起点に知床半島の付け根の知布泊(ちぷとまり)駅までの17.9kmを結んでいた殖民軌道斜里線。1932年敷設、1953年廃止。
 斜里から12.5kmの地点付近にある比較的大きな集落、島戸狩(しまとかり)を経由して、さらに知床連山がオホーツク海に迫る知布泊まで線路が延びていて、開拓の意気込みが伝わる。
 地形図名の「島戸狩」は現在「峰浜」。
 なお、当該地形図は、こちらで全体を閲覧できる。

1933年発行 「小清水」

 釧網線止別駅構内の仮止別駅、のちの止別駅を起点とし、小清水駅までを結んだ北見鉄道(1930-1939)が記載されている。
 北見鉄道が日中戦争の物資不足等で廃止されたのち、北見鉄道の残存施設等を活用して、古樋(ふるとい)駅(現・浜小清水駅)を起点とする小清水軌道が、北海道製糖により建設され、1941年に開業するが、こちらも1952年で廃止となった。
 当地形図には、途中駅の野坂駅が地図東端に記載されている。

1946年発行 「小清水」 1

 釧網線古樋(ふるとい)駅(現・浜小清水駅)付近。南下する二つの線路が記載されている。
 一つは小清水町までを結んだ小清水軌道で1941年開業、1952年廃止。当地形図では「北糖専用軌道(建設中)」と表記されている。
 並行する国鉄線と同じ表記の線路は、詳細不明。ほぼ真南に進んで小清水市街の北を流れるポン止別川の手前まで伸びている。地形図では、末端付近に大きな施設を建設した痕跡が認められるため、その施設計画に関係したものと推測される。
 なお、当該地形図は、こちらで全体を閲覧できる。

1946年発行 「小清水」 2

 釧網線藻琴駅から東藻琴村山園まで通じていた東藻琴村営軌道が記載されている。山園までは全長25.4km。1935年に敷設され、木材、ビートの輸送にことに活況を呈した路線であった。
 1961年、藻琴-東藻琴の「根元部分」が先に廃止され、残った先端部も1965年に廃止となった。
 藻琴駅からは藻琴湖、次いで藻琴川に添うように線路が敷かれていた。
 なお、当該地形図は、こちらで全体を閲覧できる。

1957年発行 「小清水」

 1938年に開業した東藻琴村営軌道のうち、東藻琴から先の部分のみ記載されている。しかし、資料等では、東藻琴と釧網線藻琴駅の間の廃止は1961年となっているため、なぜ、当該地図に東藻琴-藻琴間の記載がないのは不明である。全線が廃止となったのは1965年。

1948年発行 「藻琴山」

 釧網線古樋(ふるとい)駅(現・浜小清水駅)を起点とする北糖専用鉄道(小清水軌道)の末端、水上駅付近。1941年開業、1952年廃止。
 水上は止別川上流の小さな集落。東方に釧網線の札鶴駅(現札弦駅)があり、線路を延長して札鶴で連絡する計画もあった。

1957年発行 「藻琴山」

 釧網線の藻琴駅を起点とする「東藻琴村営軌道」。
 藻琴線の終着「山園」は藻琴から25.3kmの地点。東洋沢に向かう支線も見える。藻琴線は1938年に全通。廃止は1965年。

1957年発行 「斜里岳」

 当図は5万分の1地形図を元にした地質調査図となっており、着色が施されている。
 釧網線緑駅(旧名:上札弦駅)を起点とする上札鶴森林鉄道(1935-1955)が記載されている。
 駅の西側に集材所があり、緑駅南方で釧網線と立体交差して、方向を南南東に転じていた。
 なお、当該地質調査図は、こちらで全体を閲覧できる。

1957年発行 「摩周湖」 2

 釧網線緑駅(旧名:上札弦駅)を起点とする上札鶴森林鉄道(1935-1955)の末端部が記載されている。
 

1958年発行 「上里」 1

 地形図「上里」は「美幌」の南側を示したもの。相生線(1985年廃止)の津別駅を起点とする津別森林鉄道が記載されている。津別町の集落上里(かみさと)から、更に津別川に沿って東に進む本線(津別上里線)と、センウンツベツ川に沿って南下するセンウンツベツ支線に分岐していた。1927年から1962年まで運用された。

1958年発行 「上里」 2

 津別森林軌道センウンツベツ支線が、上流でソーウンツベツ川と、ルークシュツベツ川の流れに沿って分岐する様子が描かれている。津別森林鉄道の総延長はほぼ50kmに達していた。

1958年発行 「美幌」

 津別町中心部。南北に相生線(1924-1985)が記載されており、さらに相生線の中心駅だった津別駅を起点とする津別森林鉄道(1927-1962)が記載されている。
 駅付近の工場への引込線が存在していたこともわかる。

1971年編集 「美幌」 (1971年編集 「女満別」と合図)

 美幌駅から北側と東側に展開する日本甜菜製糖美幌製糖所専用線が記載されている。全長4.3km。1959年から1991年まで運用された。かつては2100型蒸気機関車が活躍し、多くのファンが訪れた。

1980年修正 「北見」

 池北線上常呂駅から北海道糖業北見製糖所への専用線が記載されている。1957年から1984年まで運用された。

1946年発行 「留邊蘂」 1
 
 石北線留辺蘂駅南西を起点とし、無加川に沿って遡る温根湯森林鉄道が記載されている。1921年から1961年まで運用された。支線を含めた総延長は、最盛期で81kmに達し、標高1,000mの峠を越えて層雲峡付近まで達していた。
 なお、当該地形図は、こちらで全体を閲覧できる。

1946年発行 「留邊蘂」 2

 網走本線(のちの池北線)置戸駅を起点とし、常呂川を遡る置戸森林鉄道。本線支線を含め最大85kmの路線網を持っていた。1921年から1961年まで運用された。木曽森林鉄道と同型の、1921年ボールドウィン製B1形リアータンク3号機が運用されていたことでも知られる。
 なお、地形図名「留邊蘂」は、現在「留辺蘂」。
 また、当該地形図は、こちらで全体を閲覧できる。

1975年修正 「留辺蘂」 1

 留辺蘂駅をから南方に広がるのは北興化学工業㈱ の専用線(0.5km)と考えられるが、当該線の運用期間は1950年から1969年であるため、その後、木材等の集積、搬出に使用されていたと考えられる。

1975年修正 「留辺蘂」 2

 かつては置戸駅を起点とする置戸森林鉄道(1921-1961)で賑わった同駅の周辺。森林鉄道廃止後も、置戸営林署の専用線が残され、資材の搬送等に供されていた。80年代初期まで運用されていたと考えられる。

1947年発行 「北見富士」
 
 現在の北見市留辺蘂滝ノ湯付近。東西に走る温根湯森林鉄道(1921-1961)が記載されている。
 地形図名「北見富士」は現在の「大和」。
 また、当該地形図は、こちらで全体を閲覧できる。

1958年発行 「北見富士」 1
 
 石北線留辺蘂駅を起点とし、無加川流域に長大な路線網を持っていた温根湯森林鉄道(1921-1961)の線形が記載されている。引用図では、無加川に沿う本線のほか、枇杷牛沢に沿って南下する三十四号支線、ケショマップ川に沿って北上する三十七号支線が記載されている。

1958年発行 「北見富士」 2
 
 石北線丸瀬布駅を起点とし、武利川流域に長大な路線網を持っていた武利(意)森林鉄道(1928-1963)の線形が記載されている。引用図では、武利川に沿う本線のほか、七ノ沢に沿う七の沢支線が記載されている。また両線が分岐する、その名も「分岐」という集落は、学校の記号もあり相応の規模であったと思われるが、集落の中で線形が上り線と下り線のように分かれて、また合流する様が示されていて、興味深いものとなっている。

1961年発行 「石狩岳」 2
 
 石北線留辺蘂駅を起点とする北見営林局留辺蘂営林署管轄の「温根湯森林鉄道」は1921年に運用が開始され、1954年には総延長81.5kmに及んだ。
 地図は留辺蘂町富士見のイトムカ鉱業所付近。鉱業所までの引込線のほか、勾配を登るため、谷を利用した複雑な線形が記載されていて興味深い。
 この森林鉄道、現在まであったら、観光鉄道になっていたかもしれない。1,000mを越えた最高標高点もこの地図に掲載されている。地図の発行された1961年に全線廃止。自然水銀を発掘していたイトムカ鉱業所は世界的にも珍しい存在で、現在その跡には碑が建立してある

1946年発行 「小利別」

 常呂川に沿って遡っていた置戸森林鉄道(1921-1961)が、分岐していく様が記載されている。
 引用図中、上置戸でオンネアンズ川に沿って北に分岐しているのが、1932年に敷設されたオンネアンジノサワ線(8.2km)。その先の二股で仁居常呂川に沿って南下しているのが1921年に敷設された仁居常呂105林班線(11.2km)。常呂川(士居常呂川)に沿うのが、やはり1921年に敷設された本線・士居常呂39林班線(19.9km)となる。 

1957年発行 「小利別」

 置戸森林鉄道(1921-1961)が記載されている。
 引用図勝山にある分岐点の東側が池北線置戸駅を起点とする本線(1921-1962)、常呂川(士居常呂川)に沿って西に向かうのが、士居常呂支線(1921-1961)、仁居常呂川に沿って南に向かうのが仁居常呂支線(1921-1962)。 

1947年発行 「士居常呂」

 現在の鹿ノ子ダムの下流付近。
 二股で二線に分岐した置戸森林鉄道(1921-1961)が、標高905mの中山を南北に周回して、その上流で再び両者の距離を縮める様が描かれている。
 北が本線・士居常呂39林班線、南が仁居常呂105林班線。両者をつなぐような山中の小道が記載されていて、興味深い。
 現在では、置戸から芽登温泉に向かう道道が、付近を通っている。
  地形図名「士居常呂」は現在の「常元」。
 なお、当該地形図は、こちらで全体を閲覧できる。

1958年発行 「生田原」
 
 当図は5万分の1地形図を元にした地質調査図となっており、着色が施されている。
 石北線生田原駅を起点とし、浦島内川に沿って西に向かう上生田原森林鉄道(1928-1954)が記載されている。
 当該地形図発行年にはすでに廃止となっていた。
 地形図では、駅南側で石北線と立体交差し、駅の東側に回り込む軌道の姿が記載されている。
 なお、当該地質調査図は、こちらで全体を閲覧できる。

1958年発行 「丸瀬布」 1

 石北線生田原駅を起点とする上生田原森林鉄道(1928-1954)の上流部が記載されている。
 引用図では浦島内川に沿う本線のみが記載されている。引用図内の浦島内川の支流は武利意越川で、時代によっては、この支流に沿った支線も存在しており、路線長は最長で28.9kmに達していた。
 地形図名「丸瀬布」は現在の「丸瀬布南部」。

1958年発行 「丸瀬布」 2

 石北線丸瀬布駅を起点とし、武利川及び丸瀬布川流域に最大81.8kmの路線網を持った武利意森林鉄道(1928-1963)が記載されている。
 引用図は、武利川に沿った本線から、トムイルベシベ沢に沿ったトムルベシベ支線が分岐する地点。
 なお、当森林鉄道開設時に導入され活躍した雨宮製作所製11tCサイドタンク蒸気機関車No.21は、現在も「丸瀬布いこいの森」において、当時の線路の一部とともに、動態保存されており、無雪期の週末には、当該蒸気機関車の牽く列車に試乗すること出来る。
 地形図名「丸瀬布」は現在の「丸瀬布南部」。

1944年部修 「常呂」

 湧網線(当時は湧網東線)が常呂まで開通したのが1936年。当地図発行時、常呂駅は湧網東線の終着駅となるが、その常呂駅を起点とし、常呂川上流に向かうのは奥村鉄山専用軌道(1940-1945)。なお、常呂森林軌道が1945年から1949年まで運用されているが、資料では全長距離が短く、起点も常呂港となっているため、この軌道跡を利用したものであるか定かでない。
 なお、当該地形図は、こちらで全体を閲覧できる。

1946年発行 「中湧別」

 名寄線(1932-1989)中湧別駅を起点とする富士製紙の馬車・森林軌道が記載されている。1919年。資料では1930年廃止となっているが、当地形図では、「木材運搬馬車軌道」の名称で記載がある。
 なお、当該地形図は、こちらで全体を閲覧できる。

1928年鐡補 「遠軽」

 名寄線(1932-1989)中湧別駅を起点とする富士製紙の馬車・森林軌道(1919-1930)の末端側が記載されている。芭露川の支流、ポン川に沿って遡る様子が記載されている。
 なお、当該地形図は、こちらで全体を閲覧できる。

1956年発行 「滝上」 1
 
 渚滑線(1985年廃止)の濁川駅を中心に、森林鉄道網が展開している。
 濁川駅周辺では、貨物積み替え用の側線が並び、活況を感じさせる。オシラネップ川に沿って南下するのが濁川森林鉄道、渚滑川に沿って西進するのが滝上森林鉄道であるが、両者を総称して渚滑森林鉄道と呼ぶ場合もある。いずれも1935年から1959年まで運用された。

1956年発行 「滝上」 2
 
 濁川を出て渚滑線(1985年廃止)に沿って走っていた滝上森林鉄道が、滝上市街の手前で南に別れ、渚滑川本流に沿って進んでいる。滝上森林鉄道の総延長は33kmであった。

1956年発行 「渚滑岳」 1
 
 「滝上」から続く滝上森林鉄道の上流部が記載されている。5万分の一地形図「渚滑岳」は分水嶺を挟んで、両側の森林鉄道が記載されていて、当時の路線網の充実がよくわかる。

1956年発行 「立牛」 1
 
 地形図「立牛」は「滝上」の南側を示したもの。立牛(たつうし)は紋別市の集落名。オシラネップ川に沿った濁川森林鉄道の上流部が記載されている。濁川森林鉄道の総延長は36kmであった。

1956年発行 「立牛」 2
 
 渚滑川に沿う滝上森林鉄道の滝上南部の様子が記載されている。

1961年発行 「上川」 1
 
 渚滑川に沿う滝上森林鉄道(1935-1939)の最上流部が記載されている。引用図の通り、その上流部は四十八線と第五区の間で、渚滑川から支流のオサツナイ川に沿った方向に進路を変えていた。引用図では四十八線の集落に引込線があったことも示されている。描かれている道路は現在の国道273号線。

1977年発行 「上渚滑」
 
 名寄線元紋別駅周辺の様子。元紋別駅東から南に分岐する北見パルプ工場の専用線が記載されている。元紋別駅のオホーツク海側には、水中貯木場が描かれている。専用線一覧における当該線に関する記載は下記の通り。
 1967年 北見パルプ㈱ 作業キロ 1.0
 1970年 北見パルプ㈱ 総延長キロ 1.4
 1975年 北見パルプ㈱ 総延長キロ 1.5
 1983年 北陽製紙㈱ 総延長キロ 1.5 使用中止

1956年発行 「上興部」
 
 旭川営林局一の橋営林署による1935年(昭和10年)竣工の然別森林軌道(8.8km)が描かれている。シカリベツ川に沿って軌道が敷設されている。

1970年編集 「上興部」

 地図下端を東西に名寄線が描かれているが、上興部から1935年に運用開始した北海道農材工業の上興部石灰砿業所専用線(約1.3km)が北に延びている。
 1982年廃止。ちなみに名寄線の廃止は1989年。
 なお、上興部駅の駅舎は、西興部村により「上興部鉄道記念館」として整備され、現在まで保存されている

1956年発行 「雄武」

 興浜南線(1985年廃止)雄武駅から音稲府川に沿って遡り、上幌内までの24kmを結んだ殖民軌道雄武線が記載されている。1950年開業1956年廃止とその歴史は短かった。

1973年修正 「雄武」

 1985年に廃止された興浜南線の終着駅雄武。地形図には北見枝幸までの延伸を目指した工事線が見えるが、それと別に海側の工場に専用線が存在していたことが示されている。この専用線は大昭石油が使用し、少なくとも1975年までは存在していたとされる。

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旭川・道北編

 

1947年発行 「旭川」 1

 旭川市の路面電車、旭川市街軌道の路線が掲載されている。旭川市街軌道は1929年開業だったが、1965年に早くも廃止され、旭川は、札幌や函館のような「路面電車の残る街」にはなれなかった。
 なお、当該地形図は、こちらで全体を閲覧できる。

1947年発行 「旭川」 2

 宗谷線旭川四条駅(当時は仮乗降場)を中心とする旭川電気軌道の路線が記載されている。分岐駅旭川追分で北東に向かうのが東旭川線、南東に向かうのが東川線。1927年開業、1972年廃止。
 地図には旅客営業線以外に、旭川駅まであった貨物線も記載されている。
 東旭川線は旭山公園まで通じていた。現在まで残っていれば、旭山動物園への交通機関となっていただろう。
 なお、当該地形図は、こちらで全体を閲覧できる。

1952年発行 「旭川」 1

 函館線近文駅を起点とする貨物線の旭川大町駅、さらに日本陸軍第7師団後の警察学校への引込線が記載されている。
 当該線は、第7師団引込線として1899年に敷設。戦後、1950年に引込線上に旭川大町駅が建設され、貨物の取り扱いを開始した。
 石炭や木材資源の集積地として活躍したが、1978年に廃止となった。

1952年発行 「旭川」 2

 旭川電気軌道の東旭川線末端部。東旭川線が旭山公園駅まで開業したのは1930年。1973年1月1日の廃止まで旅客、貨物の双方の輸送に尽くした。
 旭山動物園は、旭山公園駅のすぐ東側の位置に当たる。

1952年発行 「旭川」 3

 旭川駅に隣接した旭川機関庫と鉄道工場への引込線と扇形庫が記載されている。また、宗谷線に沿って旭川四条から東に向かう旭川電気軌道(1927-1972)、旭川の街中を走る旭川市街軌道(1929-1965)もあり、賑やかだ。
 旭川機関区は、2003年に機能を分解して、北旭川、苗穂、釧路に移された。

1952年発行 「旭川」 4

 宗谷線新旭川駅を起点とし、石北線から南に分岐する国策パルプ工業旭川工場への専用線(1939-1997)が記載されている。
 また、新富町の工場への引込線も記載されている。
1963年発行 「旭川」

 異色の一枚。引用図北東端を切り取るように記載されているのは旭川電気軌道東川線(1930-1973)。西九号に記載された駅は九号駅。そのすぐ東で直交し、忠別川を越え、東神楽村に向かう軌道が描かれている。
 これは旭川土木現業所による東神楽客土事業のために敷設された軌間1,067mmの軌道。
 1963年6月号の「鉄道ファン」誌に、星良助氏が地図とともに報告を寄せている。道庁が軌道を用いて客土を行っているところが当時全道で19カ所。そのうち東神楽と知内では8~20トンの蒸気機関車が使用され、東神楽では「土改C101」「土改C102」の2両のCタンク蒸気機関車が運用されていた。軌道は2か所で旭川電気軌道の線路と平面交差によりクロスしていたほか、旭川電気軌道の終点である東川周辺では、別に軌間762mmの鉄道が敷設され、こちらではディーゼル機関車が客土作業に従事していたという。 

1980年編集 「旭川」 1

 1899年に、陸軍第7師団への引込線として建設され、その後貨物支線として運用された函館線近文駅から分岐する支線が記載されている。線路末端は旭川大町駅と称していた。1978年廃止だが、79年の地図にはまだ記載されていた。おそらく線路は残っていたと思われる。

1980年編集 「旭川」 2

 宗谷線新旭川駅から国策パルプ工業旭川工場への専用線が記載されている。1939年から1997年まで運用されていた。

1961年発行 「旭岳」

 東川町勇駒別温泉から姿見の池まで、現在の大雪山旭岳ロープウエィであるが、当時は「北海硫黄索道」の名称で、旭岳で硫黄鉱山開発も手掛けた会社による索道であった。途中に屈曲点が存在し、2つの索道によって輸送を行っていたと思われる。硫黄の採掘は姿見の池周辺の火口で行われていたが、戦後需要がなくなり関連設備は放置状態にあったらしい。
 索道跡を利用した観光用ロープウェイは、本州製紙系㈱大雪山ハイランドによって1967年に開業し、現在に至っている。

1970年編集 「当麻」

 旭川電気軌道東川線の終着、東川駅周辺が描かれている。終着ひとつ前の駅に駅名の記載はないが「東川学校」駅となる。十号-東川間は1927年に開業、1972年に廃止。東川駅跡は現在もホームが残っている。

1931年鐡補 「留萠」

 下記地質調査図を先行掲載したが、その後、原本となった地形図を調査し、当地図に行き当たった。
 留萠線大和田駅近くの大和田炭砿と斎藤炭山から、留萌港へ運炭用の馬車鉄道(1907-1924頃)が記載されている。運用期間は1924年頃までと推定しているが、当地図にも記載があるため、運用期間がより長期だった可能性がある。
 当時古丹別まで開業していたのちの羽幌線(当時留萠線)は、留萠駅にたちよらず、留萠川渡河手前で北側に分岐する線形をとっている。
 また、当引用図では留萠鉄道臨港線(1930-1941)の西留萠駅も記載されている。臨港線は1941年以降、国鉄に買収され、貨物専用線として運用される。
 なお、当該地形図は、こちらで全体を閲覧できる。

1954年発行 「留萌」

 当図は5万分の1地形図を元にした地質調査図となっており、着色が施されている。
 当図には、留萠線大和田駅近くの大和田炭砿と斎藤炭山から、留萌港へ運炭用の馬車鉄道と考えられる線形が記載されている。しかし、当該線の運用期間は1907年から1924年頃までと推定されるため、なぜ当該図に記載されたのかは不明である。前後に発行された地形図には記載がない。
 なお、当該地質調査図は、こちらで全体を閲覧できる。

1956年編集 「留萌」

 留萌港付近の専用線、留萌港の留萠鉄道臨港線(北岸線と南岸線)、羽幌線(1987年廃止)から東方に分岐し、春日町を経て達布に向かう天塩炭鉱鉄道が描かれていてにぎやかだ。留萠鉄道臨港線は1930年開業、1941年国鉄への譲渡を経て1983年以降に廃止。天塩炭砿鉄道は1941年開業、1967年廃止。

1974年修正 「留萌」

 1987年に廃止された国鉄羽幌線と留萌線の間に様々な臨港線が記載されている。このうち、留萌駅から西に向かうのは、旧留萠鉄道の臨港線。旧臨港線と並走する留萌線増毛行に乗車すると、今も残る「副港橋梁」の真横を通過する。

1956年発行 「達布」 1

 留萌線留萌駅を起点としていた天塩炭砿鉄道は、1941年開業、1967年廃止。現在の「てんてつバス」のルーツ。
 引用したのは終着ひとつ前の天塩住吉駅付近。
 住吉炭砿への専用線が記載されている。線路末端に選炭場(ホッパー)があり、炭鉱から、小平蘂川を越えた選炭場までは索道により運炭が行わらていたとされる。ただし、当該地図に索道の記載はない。

1956年発行 「達布」 2

 天塩炭砿鉄道の終着、達布駅からは、達布森林鉄道が鉄道網を伸ばしていた。達布森林鉄道は1945年から1958年まで運用され、全長24.6km。達布では付近で産出される石炭だけでなく、大量の木材が留萌港に向けて送られていた。

1960年発行 「幌加内」

 天塩炭砿鉄道達布駅を起点とし、小平蘂川の流域に路線を伸ばしていた達布森林鉄道(1945-1958)の上流部の様子が示されている。

1956年発行 「苫前」 1

 当該地図の北東端に羽幌森林鉄道(1941年敷設1963年廃止)の一端が見える。

1956年発行 「苫前」 2

 苫前町古丹別付近。羽幌線(1987年廃止)古丹別駅から古丹別川に沿って東進するのは古丹別森林鉄道。途中で分岐して、三毛別川に沿って南下するのは三毛別森林鉄道。古丹別森林鉄道は全長39km。1941年から1963年まで運用。三毛別森林鉄道は全長22.5km。1945年から1962年まで運用。古丹別駅北側で羽幌線をくぐって駅反対西側に軌道が回り込んでおり、そこで貨物の受け渡しを行っていたようだ。

1956年発行 「三渓」 1

 「三渓(さんけい)」は苫前東方の図だが、当該図には3つの森林軌道が記載されていて壮観である。北から紹介したい。羽幌を起点とし、羽幌川上流に至っていた羽幌森林鉄道。総延長44.4km。1941年から1963年まで運用された。地図には御料林を示す「羽幌御料」の文字もある。  

1956年発行 「三渓」 2

 苫前町古丹別から古丹別川上流に至っていた古丹別森林鉄道。総延長39.1km。1941年から1963年まで運用された。霧立を通る道路は、現在の国道239号線。  

1956年発行 「三渓」 3

 苫前町古丹別から三毛別川上流に至っていた三毛別森林鉄道。有名な三毛別羆事件の現場付近を通っていた。総延長22.5km。1941年から1963年まで運用された。  

1960年発行 「羽幌」 1

 羽幌駅の近くを起点とする羽幌森林鉄道が記載されている。羽幌森林鉄道は羽幌から奥羽幌までの44.4kmが敷設され、1941年から1963年まで運用された。  

1960年発行 「羽幌」 2

 羽幌線(1987年廃止)の築別駅を起点とする羽幌炭礦鉄道が記載されている。築別-築別炭礦間16.6km。1941年開業、1970年廃止。また、羽幌線築別駅にも、いくつかの引込線が記載されていて、貨物の積み替えが盛んだった様子を示している。  

1956年発行 「築別炭砿」

 羽幌炭礦鉄道の終着、築別炭砿駅付近の様子。谷間に形成された集落は当時最新鋭のマンション型集合住宅だった。炭鉱最盛期には、羽幌町の人口は3万人に達した(現在7千人)。駅手前から、坑口へ延びる軌道もある。現在、付近では、選炭場(ホッパー)や集合住宅の廃墟が遺されており、近くから見学も可能となっている。なお、1956年の時点では、羽幌線の築別-遠別間は未開通のため、当地図では築別駅が羽幌線の終着となっている。  

1947年発行 「比布」

 下記地質調査図を先行掲載したが、その後、原本となった地形図を調査し、当地図に行き当たった。
r>  宗谷線比布駅を起点とする愛別伐採林の石狩川流送木材陸揚網羽に至る馬車鉄道(1914-1922)と、比布駅から宗谷線に沿って現在の男山自然公園付近に南下する軌道の双方が記載されているが、いずれも発行時は廃止されていたと推測する。
 下で引用した地質調査図よりやや南側を引用したので、両軌道の末端の位置を含む引用図となる。
   なお、当該地形図は、こちらで全体を閲覧できる。

1957年発行 「比布」

 当図は5万分の1地形図を元にした地質調査図となっており、着色が施されている。
 宗谷線比布駅を起点とする愛別伐採林の石狩川流送木材陸揚網羽に至る馬車鉄道が記載されている。1914年敷設、1922年廃止であるため、なぜ当該図に記載されたのかは不明である。前後に発行された地形図には記載がない。
 また、比布駅から宗谷線に沿って南下する軌道も記載されており、こちらは引用図外で、西に逸れ、現在の男山自然公園付近に至っている。こちらの軌道については用途不明である。
 なお、当該地質調査図は、こちらで全体を閲覧できる。
 
 
1957年発行 「士別」

 宗谷線士別駅を起点に奥士別に向かう士別軌道(1920-1959)が記載されている。
 また、宗谷線と士別軌道の間に描かれた引込線は、全長1.5kmの貯木場専用線で、1941年から1965年まで運用された。士別森林鉄道(1932-1958)と士別軌道により集積された森林資材が捌かれていた。
 宗谷線の反対側に引かれているのは、明治製糖(日本甜菜製糖)士別製糖所専用線。

1973年修正 「士別」

 宗谷線士別駅から日本甜菜製糖士別製糖所専用線が記載されている。専用線の延長は約1.7km。1936年に使用が開始された。

1956年発行 「剣淵」

 士別駅を起点とする士別軌道(1920-1959)が記載されている。上士別付近では、集落の北側に駅があった様子が示されている。

1956年発行 「奥士別」

 地図で示したのは上士別村で、1962年に町制施行した際に「朝日町」となった場所。現在は士別市に吸収合併されている。地形図名の「奥士別」も、その後「岩尾内湖」と改訂されている。朝日市街の奥士別駅は、西方の宗谷線士別駅から至る士別軌道(1920年開業1959年廃止)の終点で、そこから東方天塩川沿いと南方ペンケヌカナンプ川に沿って、それぞれ士別森林鉄道が分け入る。前者が士別線(31km)、後者が辺渓線(10km)であり、士別線は上流でさらに最大で4つの線が分岐していた。士別線は1930年、辺渓線は1940年敷設。全区間とも1958年に廃止。

1961年発行 「愛別」
 
 地図の北東端の天塩川に沿って士別森林鉄道(1930-1958)の線形が記載されている。なお、当地形図上での表記は「奥士別森林軌道」となっている。  

1961年発行 「上川」 2
 
士別軌道(1920-1959)の奥士別駅を起点とし、天塩川流域に路線網を持っていた士別森林鉄道(1930-1958)の本線及び最上流部の本流作業軌道が記載されている。引用図では、引込線の記載を認めるが、この引込線は、ポン天塩川に沿っていた全長6.5kmのポン天塩作業軌道(1935-1938)の名残と考えられる。  

1956年発行 「渚滑岳」 2
 
 柵留(さっくる)川に沿って延びる士別森林鉄道咲留線。士別森林軌道は、士別軌道(1920-1959)奥士別駅を起点として、5~6線存在していたとされ、その総延長は50kmを越えていた。1932年から1958年まで運用された。奥士別駅からは、貨物を士別軌道線が引き継ぎ、宗谷線士別駅へ搬送された。

1956年発行 「渚滑岳」 3
 
 似峡(にさま)川に沿って延びる士別森林軌道似峡線。当該地図には、於鬼頭川に沿う士別森林軌道於鬼頭線も記載されているほか、分水嶺を越えたオホーツク海側には、滝上森林鉄道の姿も見え、往時の林業の活況ぶりを示す地図となっている。

1956年発行 「恩根内」
 
 ペンケニウプ川に沿う美深森林鉄道(1942-1956)が地図南東端に記載されている。(地図表記は「仁宇布森林軌道」)。
 敷設当初は殖民軌道であったが、1942年に所管が北海道庁拓殖部殖民課から林務課に移管され、森林鉄道化した経緯を持つ。路肩の多くは美幸線(1964-1985)に転用された。

1956年発行 「名寄」
 
 宗谷線美深駅を起点とする美深森林鉄道(1942-1956)が記載されている。美深駅東に集積地があり、木材工場もあった。
 線形は美深駅南側で90度近い急カーブを描いていた。当該鉄道跡に建設された美幸線(1964-1985)では、さすがに線形は改良され、この急カーブは消滅することとなる。

1977年修正 「名寄」

 かつて、国鉄宗谷線名寄駅を南進すると、東に名寄線、南に宗谷線、西に深名線と3手に分岐していた。その深名線と宗谷線の間に、更に天塩川製紙名寄工場(現王子マテリア)への専用線があった。現在は宗谷線以外すべて廃線となってしまった。
 天塩川製紙専用線は、1961年運用開始。廃止時期は不明だが、少なくとも1983年時点では、北陽製紙名義で運用が継続されていた。
 なお、地図中名寄公園横を通過している名寄線は、廃止後、名寄公園の敷地となり、かつて名寄線だった線路の一部を残し、現在そこにキマロキ編成が静態保存の上、展示されている

1956年発行 「添牛内」 (「蕗の台」と合図)

 異色の一枚。
 南北に深名線(1924-1995)が貫いている。東の湖は日本最大の人造湖、朱鞠内湖。西の湖は宇津内湖、もしくはこちらも含めて朱鞠内湖と総称することもある。
 本地図には、廃止時期、位置の詳細が不明なことから「幻の駅」と呼ばれた宇津内駅がしっかりと記載されている。
 宇津内駅は木材搬出の目的で1941年に開業したが、1946年に仮乗降場となり、1950年代に廃止されたと考えられる。 
 1956年の当地形図には駅名が漢字で表記されていることから、貨物駅的な扱いで記載されたと推測される。

1960年発行 「下川」

 名寄線(1989年廃止)下川駅を中心に総延長50km以上の路線網を展開していたのが下川森林鉄道。
 町の東を抜け、北に向かうのがサンル川に沿った珊瑠線(サンル森林鉄道)。下川駅から“コ”の字型の線形を経て、南方に延びるのがパンケ川に沿った中名寄パンケ線。ともに1952年に敷設、1959年に廃止と、運用期間は短かった。
 なお、下川駅東から、まっすぐ南東に延びているのは、鉱石輸送に供された大平鉱業索道で、下川鉱山まで通じていた。

1960年発行 「サンル」

 サンル川上流部の下川森林鉄道珊瑠線(サンル森林鉄道)が記載されている。

1956年発行 「西興部」

 旭川営林局一の橋営林署による一ノ橋駅を中心とした森林軌道。
 西北にシカリベツ川に沿って伸びる然別森林軌道(8.8km)と東南に名寄川に沿って伸びる奥名寄森林鉄道(17km;1930年竣工)。

1956年発行 「西興部」

 名寄川に沿って伸びる奥名寄森林鉄道。1959年に廃止となった。

1956年発行 「仁宇布」

 当図は5万分の1地形図を元にした地質調査図となっており、着色が施されている。
 線形は美深森林軌道のものであり、ペンケニウプ川に沿って北東に向かう本線と、二十五線川に沿って南東に向かう幌内越線が記載されている。
 美深森林鉄道は1935年に敷設されたのち、1956年に仁宇布までを「簡易軌道 仁宇布線」にあらためて運用を継続。美幸線建設のため、1961年に廃止となる。
 その後、ほぼ同じ線形で国鉄美幸線が1964年に開業するが、北見枝幸までの全通を待たず1985年に廃止となった。
 なお、当該地質調査図は、こちらで全体を閲覧できる。

1958年発行 「音威子府」

 歌登町営軌道のうち、歌登-志美宇丹を結んだ幌別線(12.5km)の一部が記載されている。
 幌別線は1933年開業、しかし、国鉄美幸線の建設に当たって、用地を提供するため1969年に廃止された。にもかかわらず、美幸線はついに開業することはなかった。
 なお、歌登町営軌道本幌別線は、1955年に廃止となっているため、当地図には記載がない。

1969年編集 「音威子府」

 天北線小頓別駅付近。
 東に延びるのは歌登町営軌道。枝幸までの本線と支線を合わせて、総延長は29.1kmあった。
 1929年運用開始したが、美幸線建設のため1971年廃止。しかし、その美幸線も、開通することはなかった。駅名の記載はなし。

1971年編集 「中頓別」

 歌登町営軌道の終着、歌登駅周辺が示されている。かつては北見枝幸に向かう枝幸線(1930年開業1949年廃止)、志美宇丹に向かう幌別線(1933年開業1969年美幸線建設のため廃止)、本幌別に向かう本幌別線(1936年開業1955年廃止)があった。
 最後に残った小頓別-歌登間は1970年運行休止ののち廃止。
 
1947年発行 「濵頓別」

 宗谷線(のち北見線を経て天北線 1914-1989)下頓別駅を起点としてウツナイ川を遡る宇津内森林軌道(1922-1944)が記載されている。当該地図発行時はすでに廃止となっていたと考えられる。
 最盛期の全長は17.5kmとされている。
 なお、当該地形図は、こちらで全体を閲覧できる。

1982年編集 「浜頓別」

 80年代に大量廃止された国鉄関連も一つ挙げよう。
 興浜北線の神威岬に突き出した通称「斜内山道」を通る曲線が描かれている。
 岬の突端を回る線路は有名な名所だった。興浜北線は全長30.6km。1936年開通、1985年廃止となった。

1957年発行 「上猿払」

 幌延村営殖民軌道問寒別線の末端部が記載されている。上問寒第二より先、二股に分かれ、西は北方産業株式会社炭鉱に向かう路線で、1947年から1958年まで運用された。北に向かう路線は日本白金クローム会社の搬送用軌道であるが、1945年には運用を休止していたと考えられる。

1957年発行 「敏音知」

 本サイトのメインページでも取り上げたもの。幌延村営殖民軌道問寒別線が描かれている。

1957年発行 「豊富」 1

 宗谷線豊富駅を起点としていた、日曹炭鉱天塩砿業所専用鉄道。宗谷線豊富駅から三坑まで約20km。1940年から1972年まで運行していた。

1957年発行 「豊富」 2

 日曹炭鉱天塩砿業所専用鉄道は下エベコロベツで本線(東方)から分岐する支線があったことを示している。地図で引用した付近は、現在の豊富温泉(豊富駅から6.5km付近)から、さらに東に進んだ個所。
 なお、日曹炭鉱天塩砿業所専用鉄道で活躍した蒸気機関車9643は、現在札幌市のサッポロビール庭園において、静態保存の上、展示してある

1957年発行 「豊富」 3

 天北線の沼川駅から到る殖民軌道沼川線。この地図のころは地図中有明が終着だったが、元は幌延まで通じていて、途中で日曹炭鉱天塩砿業所専用鉄道と平面交差をしていた。幌延側が最初に開業したのは1929年。地図にある最後に残った路線が廃止されたのは1960年。

1958年編集 「鬼志別」

 天北線(1989年廃止)小石駅を起点とする藤田炭鉱宗谷鉱業所専用線が記載されている。藤田炭鉱宗谷鉱業所専用線は、1947年に北海道拓殖炭鉱専用線として開業。1967年に廃止。

1957年発行 「沼川」 1

 天北線(当時の北見線 1989年廃止)の沼川駅を起点とする殖民軌道沼川線が記載されている。この殖民軌道は1933年に開業し、最盛期には宗谷線の幌延駅まで通じ、幌沼線とも呼ばれていた。当地図が発行された1957年の時点では、幌延側が廃止され、沼川から途中の有明までの路線となっている。残った沼川線は1964年廃止。

1957年発行 「沼川」 2

 天北線(当時の北見線 1989年廃止)の曲淵駅から曲淵炭鉱までの専用線が記載されている。1964年炭鉱の閉山に伴い廃止。

1956年発行 「抜海」

 宗谷線勇知駅から稚内市、下勇知原野まで通じていた殖民軌道勇知線。1944年開業1957年廃止とその歴史は短かった。全長9.8km。
 
1940年修正 「稚内」

 稚内駅に至った宗谷線が、さらに稚泊航路のための仮乗降場、稚内桟橋へと延びている。稚内桟橋は、稚内駅構内の仮乗降場として1938年に開業。戦後1945年に廃止となった。
 また、南稚内駅は、現在より北側にある。1952年の南稚内駅の移転までは、稚内-南稚内の駅間距離は、わずか1.2kmであった。
 なお、当該地形図は、こちらで全体を閲覧できる。

1978年修正 「稚内」

 サハリンとの稚泊航路があった時代、地図中のフェリー発着所に稚内桟橋仮乗降場があり、連絡船に接続していた。その名残といえる貨物引込線が記載されている。現在は長大な防波堤が残る。
 現在の稚内駅は単線一面のホームで、列車は折り返していく。
※ 引用図は原寸を縦横1.5倍にして表記してあります。

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謝辞

 本ページの作成にあたり、東京都世田谷区在住の方より、貴重な古地形図を数多く寄贈いただきました。この場を借りて、御礼申し上げます。 

1972年の札幌オリンピックがもたらしたもの
 このタイトルの記事について、どこかに書いておこうと思ったのだけれど、オリンピックにおける恵庭岳の自然大破壊について言及した当ページの末尾に書いておくことにしよう。

 オリンピックに華やかなイメージを持つ人は多いだろう。世界各国から集まる各分野に秀でたアスリートたちの競技は、確かに一見以上の価値のあるものかもしれない。世界的に注目される行事だから、各国からメディアも押し寄せる。開催地には、競技という観点以外でも、様々な興味が寄せられるだろう。政治的なPRとして利用されることも、致し方ないし、政治的、商業的価値観を含めて「オリンピック」というものは存在しているのだ。

 札幌で冬季オリンピックが開催されたのは1972年。しかし、今にして思うと、このことが、のちの札幌、そして北海道の民間の活力を大きく削いだように思えてならない。その象徴であるのが定山渓鉄道の廃止である。

 これを極論と考える人も多いかもしれない。しかし、本州の三大都市圏における大手私鉄の資本が、沿線の開発に果たした役割はきわめて大きいものがあったのは事実だ。その大手私鉄資本の主導による開発を仕掛けた象徴的な人物が、東急グループの総帥五島慶太である。五島が、北海道を優良な投資先と見定め、定山渓鉄道をその傘下に収めたのは1957年の事である。

 これを機に東急系列による北海道の開発は活発化する。しかし、その「橋頭堡」である定山渓鉄道は、札幌オリンピックの開催決定によって、急きょその身の振りようを変えることになる。会場として選ばれた真駒内と都心部に新交通機関を建設することになり、当時、3大都市にしかなかった地下鉄が構想された。北海道のたかが80万人都市に建設することについては、運輸省が「熊でも乗せる気か」とコメントしたのは有名な逸話だ。しかし、オリンピックは強烈な後押しとなる。時期を同じくして、1966年、北海道警察本部は、豊平駅付近の踏切が交通上の障害になっているとして、高架化か廃止かの二択を定山渓鉄道に勧告。オリンピックのための新交通システム建設の必要を検討していた札幌市による用地買収提案とみごとなコンビネーションが発揮される。この時、札幌市側が提案した内容の中には、現在であれば考えられないものもある。その一つが、路線廃止で職を失う定山渓鉄道の関係職員全員の札幌市職員化という項目だ。破格の買収額と合わせて、定山渓鉄道の廃止がなし崩し的に決まった。これを機に、札幌市の開発は「民から官へ」と、おおきく切り替わる。

 ついでにいうと、この際札幌市が新交通システム(すなわち地下鉄)に採用した「ゴムタイヤを用いた案内軌条式鉄道」というのが、現在では様々な問題の原因となっている。この様式を採用したのは、1)オリンピックの移動に供する「新交通機関」というイメージ戦略、2)霊園前から定鉄跡の地上高架部に移行する勾配への対応 3)工事期間の短縮 といった観点から捻出されたものとされている。(この他にも、「騒音が少ない」というメリットも挙げられたが、当初屋外式を検討していた地上部が、最終的に対雪性を考慮してすべてシェルターで覆われたため、ほとんど意味はなかった。)

 現在、札幌のみの独自の方式を地下鉄に採用したことは、維持コストの増幅を産み、新規建設などに大きな障壁を抱えるだけでなく、札幌市の財政を厳しく圧迫し続けている。つまり、札幌オリンピックを機に、札幌市は、民間活力の大きな担い手の一つを放逐した上に、官でなければコスト的にも維持が不能な交通機関を採用し、それらの要因が複合的にこの地の経済価値を大きく低下させることとなった。札幌オリンピックというわずか数週間の祭典のために、何十年と続く負債を背負ったことになる。加えて、その数週間だけのために、恵庭岳の広大な森林を伐採し、ロープウェイ、リフトを建設。オリンピック終了とともに、すべて撤去の上、改めて植林という、非生産的な大事業が行われたことも、官主導の方法でなければ、開発を進めることは難しいという思考方式がこの地に定着する契機となったと思う。

 現在の札幌は、確かに美しいところもある。街路は整然と管理されているところが多く、公園が整備されている。なんといっても札幌をとりまく手稲山、藻岩山、豊平川の扇状地といった自然の造形が美しい。その一方で、個々の町並みの個性は喪失し、どこも似たような表情になり、町を歩く面白みがない。これは例えば、小樽、函館、室蘭などの都市と比較してみるとよくわかる。札幌近郊の開発から民の要素を駆逐し、抗いがたい官の無個性な開発に傾いた契機が、札幌オリンピックであった。

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