茂尻炭鉱専用線


 1970年12月24日の写真。茂尻炭砿専用線では、ドイツ・コッペル社製の102号機、103号機が活動していた。父のメモによると、昭和炭鉱のクラウスや美唄・三美運輸のB6が多くのファンに囲まれていたのに対し、この102と103は訪れる人も少なく、「静かな余生」といった雰囲気だったらしい。


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3 103号機

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7 103号機

8 103号機

9 103号機

10 103号機

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13 茂尻駅に向かう列車

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17 茂尻駅には根室線の気動車が停車中

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24 103号機

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33 茂尻駅構内へ

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線路を跨ぐ歩道橋は現在も残っている



根室線 茂尻駅にて


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茂尻炭鉱坑外図

 
 上図は1967年のときの「茂尻炭鉱坑外図(茂尻炭鉱50年史から)」。炭坑専用線は茂尻駅と炭鉱の選炭機(ホッパー)を結ぶ、700mほどのものだった。この茂尻駅も、炭鉱の要請で駅となったものである。  茂尻炭砿の歴史は赤平市の存立、発展の歴史と密接にかかわっている。ここでは1967年に編算された「茂尻炭礦五十年史」から、茂尻駅の敷設に関わる個所を引用したい。
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 明治24年(1891年)、歌志内より峠を越えて筏を組み、空知川を渡って百戸の地に開拓の鍬が下されてから31年後(1925年)、二級町村赤平村が誕生した。初代村長は歌志内村助役、菅原孝樹が就任した。分村の際の懸案事項の一つに、下平岸信号場を昇降駅に昇格運動中とあるがこれにはなお4年を要している。文村独立当時、茂尻炭砿に働く従業員は坑夫757人、管理者層も含めて約800人と推定される。家族平均3人とすれば、役3,000人が炭砿関係者の人口となるから、赤平村6,800人の約45パーセントに相当した。その後の人口の増加により大正14年(1925年)には、赤平村は9,465人となっているが、炭砿関係者はその50パーセント以上を占めていた。    

 しかし特殊な発展の形を示した炭砿であるだけに人の往来はもとより、小口扱などの荷物はすべて上赤平駅扱いあるいは平岸駅を経由せざるを得ず、炭砿としては誠に不便を感じたため、これを普通駅に改設するよう運動を行ってきた。大正12年(1923年)7月13日札幌鉄道局は、茂尻炭砿事務所長宛に次のように申越している。 「・・・之ヲ改設スルニハ別紙図面ノ通リ約1,600余坪ノ増用地及停車場ヘ交通スル道路ノ新雪ヲ要シ候ニ付右増用地無償譲渡及地外道路開鑿ノ義御取計ヲ得度及御照会候也・・・」    

 7月20日をもって本社の認可を得たのち、7月27日炭砿事務所長と赤平村長連名をもって、札鉄局長宛増用地無償譲渡並びに道路開鑿について異議なく御請けするから速やかに着工願いたい旨回答するとともに、請願者の切なる希望として次の三点を付して願い出た。  
 1.炭砿方面より直接停車場に交通し得るよう新設道路の設計を変更されたい   
 2.停車場道路を若干当方に移設して、貨物ホーム行道路を兼ねさせるよう設計を変更されたい  
 3.道路の開鑿は関係部落民の自治に委されたい
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 しかし、この記録によると、この後も国の承認を得るのに難航し、結局、茂尻駅が一般駅となったのは1926年(大正15年)7月15日であったとのこと。茂尻炭砿専用線が1918年(大正7年)に試運転を開始してから、8年が経過したのちのこと。1974年(昭和49年)に炭鉱は閉山し、同年の10月24日に茂尻炭砿専用線も廃止。

 現在、かの地には根室線茂尻駅のみが残っている。


【茂尻砿業所のこと】
 茂尻の歴史は、第一次大戦景気に沸く1918年7月13日、歌志内村下平岸鉱区の萬慶抗に口付し、同24日大倉鉱業株式会社茂尻鉱業所と命名されたのに始まる。
 茂尻とは、そばを流れるモシリケシュオマナイ(島・末端・そこにある・谷川の意 現「桂川」)に由来する。モシリのシリは大地・所。これに平穏・温和のモを付けると島・国家の意。茂尻炭砿は平和に発展することを願って命名されたのであろう。
 しかし大戦終結による不況は満州事変勃発の1931年まで続き、中小炭鉱が休閉山する中で親会社から分離されたが満州事変で生き返り、出炭を増加させていた矢先の1935年5月4日、死者95人の大ガス爆発事故を起こして経営が悪化し、同7月10日三菱系列に売却され、雄別炭砿鉄道株式会社茂尻砿業所となった。雄別炭砿鉄道は戦後の財閥解体で分離独立し、1959年に社名から鉄道の文字を抜いて雄別炭砿株式会社茂尻砿業所として採炭を続けてきたが、遂に1969年閉山するに至り、石炭運搬の専用線も撤去*。  
 その後、社名を茂尻炭砿株式会社として露頭炭の採掘に専念していたが、露頭炭終堀により1974年会社を解散し、ここに57年間に及び採炭の歴史を終えたのである。  その跡には記念の石碑が建てられ、殉職者追悼文と社史が刻まれている。

【茂尻炭砿の専用線(会社線)】  
 炭鉱の選炭場より国鉄に連結する石炭専用の会社線1kmは、開抗した1918年7月から準備・施工されて12月には完成している。12月25日には試運転が行われて石炭の積込がなされ、12月28日午前6時30分、石炭を満載した24t車4輌は専用線を室蘭へ向けて出発した(荷受人楢崎運送店)。この日、茂尻停車場(信号所)が設けられたが、業務は石炭積出専用の貨物取扱のみ。旅客・小口扱荷物は隣りの上赤平駅(赤平)か平岸駅まで行かねばならなかった。  
 そこで茂尻停車場の普通駅昇格を願う運動が1922年4月1日赤平分村時をめざしたが実現せず、その後も運動を継続した結果1924年5月、札鉄局長から駅舎用地1,719坪(社有地と民有地594坪)必要との回答で会社側は民有地(滝川の三浦氏)を買収し譲渡した。が、鉄道省は高台地に駅舎建設負担の為、消極的で施工は困難となった。そこで魚菜類だけでも取扱いできる様に請願した結果、1924年9月15日から1925年3月末までの期限付の他、発荷駅が指定されたり、荷受人は茂尻炭砿と茂尻魚菜市場宛に限る等の条件が付けられて9月8日に認可された。(札運第1569号13)。  
 魚菜類の取扱いはその後延長され、1925年10月には茂尻の普通駅改設工事が着工され、1926年7月15日、旅客・小口取扱いの普通駅となった。が、東京方面ではその後、半年を経過しても茂尻駅は普通駅として取り扱ってもらえず、東京の本社、大倉鉱業株式会社が「赤平村茂尻炭砿事務所」と木札を付けて送ったタイプライター(中古品)は、茂尻駅には着かずに奔茂尻駅(滝里駅)にまで運ばれてしまった。転任赴任者が切符購入の際も茂尻は貨物取扱と断られたという。

空知地方史研究協議会編 「空知の鉄道と開拓」から 


*管理人注 当ページで紹介している通り、茂尻炭鉱専用線は、1970年12月も運用されており、その後も1974年まで続いた露頭炭の採炭に際して運用されていたと考えられる。1969年に撤去されたのは、選炭場から桂川に沿って南に延びていた抗外電車の軌道のことと思われる。(地形図参照)。
 ちなみに、1933年の「北海道炭礦案内では、当炭鉱の運搬方法について、『切羽に於ては炭層の傾斜により漏斗落とし・スラ箱・鐵樋流及チェーンコンベヤー等を用ひ水平坑道は人力又は馬匹、斜坑は捲揚機により、坑外は電車にて搬出す』とあり、抗外電車の運用が早くから行われていたことを示す。