幌延町営軌道(簡易軌道問寒別線)


 管理人が、当サイトの立ち上げを思いつくにい至るには、簡易軌道問寒別線を記録した写真の存在が発端となった。地図収集、鉄道巡り、廃線跡巡りを通じて、北海道の各地に殖民軌道や森林軌道が驚くほど奥深くまで張り巡らされていたことを知るようになった私は、それらの情報を様々に求めるようになった。しかし、これらの軌道について、きちんとした記録が残されているものは少なく、あったとしても断片的であり、まして当時の状況がわかる画像データなどで、接することができるものは、十分とはとても言えないようなものだった。 しかし、これらの路線は、確実にある一時期存在し、その地域において重要な役割を担ったことは間違いないのである。  明治以降の北海道における開拓は急速であり、わずか百数十年の間に数百万人という人口が移動するという、世界にも例を見ない大規模なものであったが、その急速性の中で、地域における歴史編算という視点が育つ暇もなかったために、相当な産業施設であったとしても、当時の状況の記録などは概して大雑把なものしか残されてはいない。私は、そのことをとても残念に感じる一方で、「当時はどのようなものだったのだろうか」という好奇心を強く刺激された。

 そのような中、突然、昔見た父のアルバムに、幌延町の簡易軌道の写真を何枚か集めたものがあったはずだ、と思い出した。さっそく実家を訪ね、父に訊いてみると、薄い年代物のアルバムが出てきた。そこには十数枚からなる、実に貴重な問寒別線とこれをとりまく人たちの写真が掲載されていた。そして、「現像したのは一部、撮ったままのネガはまだ保管してあるはず」という話を聴き、これはなんとしても全貌を見たい、と思ったのだ。

 当初は、問寒別線に絞ってサイトを作ろうと考えていた。当ページの引用資料が、他のページより若干多いのは、そのためである。しかし、その後、さらに多くのネガが保管されていることを知り、公開対象を広げることとした。

 そのようなわけで、本サイトの立ち上げの直接の要因となったのは、これらの写真である。訪問は1970年9月、廃止の8か月前とのこと。2往復しかない客車に乗車し、車内風景、車窓、停留所の積み下ろしなど撮影してある他、転車台、車庫、それに雪印乳業が設置していた集乳場といった専用施設まで含めた被写体は、どれもとても貴重なものに違いなく、一時期確かに北海道各地に存在していた「殖民軌道」の姿を伝えるものである。



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6 線路末端には転車台があった

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14 終点上問寒第二駅名標

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20 年間1,320tの牛乳を搬送

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28 問寒別の機関庫

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41 近所の子供たちと
中央が管理人の父

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55 問寒別にあった雪印の集乳場

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58 廃車

59 軌道両側には牛避けの溝があったが、しばしば侵入を許した。

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61 上問寒第一停留所

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77 踏切を渡る

78 77と一続きのシーン

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 問寒別駅の軌道の配線図。デルタ線を中心とした配線が特徴的。写真35は機関庫から転車台越しに軌道の事務所を見たもの。写真53、54には、上問寒方面からきた列車が最初に横切る「転車台への側線が分かれるポイント」が見える。踏切の様子は、写真76-78に映っている。
 なお、撮影時の時刻表については、千葉譲氏の「北海道殖民軌道各説」によると、『運行は1日2往復で、冬期間は問寒別市街発8:40、15:00(1970.11.1改正)、夏季は市街発8:00、15:30(1971.5.1改正)で20線まで行ってすぐ帰ってくる。所要時間は1時間』とある。


問寒別線 おぼえ書き

 父の訪問は、1970年の9月であり、1971年6月の廃止まで1年もないころであった。滞在は(記憶では)丸1日だったとのこと。当時おそらく2往復の運行だったが、それだと、車両の中、走行風景の両方の写真を収めることは難しいが、問寒別行に乗車した際、乗客が自分一人という機会があったため、運転手にお願いし、途中、手ごろな場所で機関車を停車してもらい、撮影しては、列車に戻ったという。
 軌道の中で会った3人の子供たちは、上問寒住んでおり、問寒別には散髪のために赴く途中だったとのこと。車内で話す機会があり、打ち解けたとのこと。訪問後、写真を子どもたちにお送りしたところ、お礼の手紙を書いてくれた、とのこと。
 軌道の主たる目的は、集乳で、写真20にあるように、集乳缶には「缶ナンバー」が書いてあり、酪農家ごとにどの缶を使用するかが決まっていた。写真55の雪印の集乳場に集積し、集乳後、空になった集乳缶は、殺菌、洗浄され、再び軌道によって運ばれるのだが、帰りは、乗降場に限らず、酪農家の最寄りの地点で、該当する集乳缶を投げて置いて行ったとのこと。
 軌道の乗り心地は良くはなかったか、それでも乗ったときは、とてもうれしかったとのこと。
 写真28にある機関庫前の車輛について、本HPをご覧いただいた方がその詳細を調べていただいたことで、用途が判明した。
 当該車輛は保線のためのもので、前方にあるAの部分には、除雪板を取り付けることで、除雪車として運用可能。また、Bの部分にある棒状のパーツは、モア状の除草器で、使用する際は横に倒し、軌道近傍の除草を行ったとのこと。
 なお、訪問時、問寒別線ではロータリー式の除雪車が運用されていたとのことで、この車両が除雪用途で現役だったかは不明である。
 
上記に続いて、現地調査等を経て、その結果を報告をいただいた方からの情報です。

・「上問寒第二」という名称はあまりなじみがなく、現地では「二十線」という呼称が一般的だった。
・軌道最後の頃は人員削減により、町職員6名で運用をすべてまかなった。運行従事は4名で、土日はそのうち2名ずつ休みをとった。
・職員はみな問寒別に住んでいて、降雪時などは緊急集合した。急患搬送などのときは、所長が直接運用員のもとを赴いて運行をお願いした。
・運転、枕木、バラストなどの補修もすべて自力。客車や貨車が脱線した際の復旧も自力だった。
・枕木は、苫前、中川で製材したものを防腐剤(オスモス)に浸してから使用した。
・精乳以外に当時は馬鈴薯のでんぷん工場がいくつかあった。上問寒、中問寒、糠南にもあった。
・客車貨車を脱線させない安全速度の目安は25km/hだった。
写真25のように牛が軌道に侵入した場合、加速すると、そのエンジン音で、牛が逃げた。
写真26の連結器は、ときどき外れた。機関車を運転していて、後ろを見ると客車、貨車がいなくて、あわてて戻ったことも何度かあった。


幌延村簡易軌道の乗車券


 当サイトをご覧いただいた方より、貴重な幌延村簡易軌道の乗車券をお送りいただきましたので、当ページにおいて公開させていただきます。(左図;左クリックで100%表示となります)
 なお、貴重な資料をお送りいただいたこと、この場を借りてお礼申し上げます。

 いただいた乗車券は縦長に5枚綴りになったもので、連番を印字する欄が右上、発行の月日と列車名を記す欄が設けられている。

 停留所名は以下の通り。(左が乗車券の記載、右が本HP写真撮影時の停留所名)
 市街; 問寒別
 宗谷; 問寒別第ニ
 4線; 中問寒第一
 8線; 中問寒第二
 16線; 上問寒第一
 20線; 上問寒第二
 炭礦;

 「炭礦」停留所については、なぜか4枚目のみ「炭鉱」と漢字表記が異なっている。
 北方産業株式会社による採炭に伴って、軌道が延長されたのは1947年である。これに先んじて問寒別第二から北に延びるクロム鉱山から鉱石の搬送が行われていたが、当該鉱山は1945年で閉鎖。その2年後に石炭搬送が開始され、1958年まで続く。(1957年発行の5万分の1地形図には、鉱山線、炭鉱線の双方が記載されている)。
 当乗車券は石炭輸送開始後のもので、「炭礦」停留所のあった1950年代のものと思われる。(ちなみに、幌延の町制移行は1960年)。また、「炭礦停留所」の記載は、炭礦まで旅客営業が行われていたことを示すと考えられる。運賃は、乗車券を見る限り、停留所1つ分を1区間として、単純に足し算するものだったように思われる。

 
 
 



     
  国土地理院発行5万分の一地形図における問寒別線の記載 (1957年「敏音知」、「上猿払」)。北端にあった炭鉱(1958年閉山)とクロム鉱山まで線路が伸びていた。
 このころは年間3万t超の石炭も搬送していた。
 1970年ころの人口は、上豊神が502人、豊神が318人、中問寒(上問寒別)が373人、問寒別が1,390人だった。
  
 これらの写真が撮影された1970年ごろの集落図(幌延町史から)
   
上問寒 略図
 父が問寒別を訪問したころの「上問寒」「中問寒別」「問寒別」の略地図。
   
中問寒 略図
 
問寒別略図
    
左地形図の中問寒付近を拡大したもの
 「中問寒」停留所付近の軌道の線形が、1957年の地形図と、1974年の編纂略図の間で異なっている。
 これは、幌延町史において「4線(路線が変わったので現在の停留場ではなく、神社下手である。)」とある通り、路線の付け替えがあったためと考えられる。
 地形図が旧路線の線形、略地図が変更後の路線の線形を表現しているとすると、周辺の地形図に1970年頃の線形を書き込むと左図のようであったと考えられる。
 現在、赤丸で示した個所に中問寒神社があり、これが町史の「神社下手」と記載されたものと考えれば、矛盾はない。
 つまり、地形図内に表記されている停留所の印は、路線付け替え前の「4線(後の中問寒第一)」を表していたと考えられる。


 

 この軌道は、最初は馬鉄であった。
 この路線は、問寒別駅を起点とし、上問寒別に至る13.38kmで、1929年(昭和4年)7月に着工、翌30年(昭和5年)9月に竣工した。工事は札幌の菊地常夫による。
 軌条は12封度(約5.4kg)、枕木は12cm×15cm×120cmの大きさで、側溝を掘って盛り土した上に砂利を敷き、10mに約15本の枕木が置かれ、それに軌条を敷設した。
 道庁の監督員詰所は、はじめ中問寒の停留所(現在、中問寒神社の下手)に置かれて、堀井という人が管理に当たったが、間もなく問寒別市街に映され、小野、新妻、三浦がその職にあたった。
 運行組合は、軌道沿線の住民によって組織され、初代の組合長は玉菊甚蔵で、このあと野々村国次郎がつとめた。停留場は問寒別駅前、宗谷(現在の糠友宅前)、4線(路線が変わったので現在の停留場ではなく、神社下手である。)、8線、15線の5か所で、そこは複線となっており、トロッコが配置されていた。道庁による軌道倉庫は問寒別停留所に建設され、4線と15線では部落民によって倉庫を建設して便に供した。この路線はトロッコ借上げによる農家の資材や生産物の運搬ばかりでなく、木材運搬にも使われた。
 旅客の運賃は2台つなぎトロッコを有蓋として、午前午後の2回を運行し、はじめは駅逓を経営した佐藤勝三がこれに当たり、のち木村平太郎がこれに代わった。  このようにして運営されたが、泥炭地が多いため道床の沈下や腐朽が甚だしく、また水害がたびたびあり、橋梁を破損し、運行組合では組合員の出役や枕木の持ち寄りなど苦心を重ねた。とりわけ1939年(昭和14年)7月の水害では、路線第1の橋梁であった4線大橋が流失して運営はますます困難となった。
 当時、上問寒奥地で日本白金クローム会社がクロームの採取を行っていたが、その搬出には軌道にたよるほか方法がなかったので、1941年(昭和16年)には会社が暫定的に借受けて修理し、さらに路線を4.3km延長して使用した。
 この年の9月、天塩鉱業株式会社と、北海道庁、運行組合の3者が協議し、問寒別線の一切を天塩鉱業株式会社に貸与し、これの運営によることとなった。社長の吉野恒三郎は道床橋梁の修理、枕木の交換、軌条の一部を20封度(約9.1kg)に取換えるなどして、翌1942年(昭和17年)9月から5屯の蒸気機関車、2屯と5屯のガソリンカーの動力運行とした。その後、天塩鉱業株式会社では日本白金クローム会社が敷設した4.3kmを買収、木材、鉱産物、農産物、旅客の運送など経営は安定の方向に向かっていた。
 戦後、クローム採取は中止となったが、代わって1946年(昭和21年)から北方産業株式会社による幌延炭鉱がはじまり、20線から炭鉱まで約3kmが同社による軌道敷設となり、天塩鉱業株式会社は山元から石炭輸送を行った。
 軌道の運営は専ら社長の娘、吉野美恵子が所長となって経営したが、経営感覚が鋭く、侠気のあるところから女傑としてもてはやされた。1950年(昭和25年)頃では、所長のほか事務員4名、労務員19名、ガソリン、7屯車1台、5屯車3台、3屯車1台を有し、定期便1日2往復、輸送量は年間木材3,000屯、石炭15,000屯、農産物3,000屯、旅客は月平均1,000人位となった。
 1951(昭和27年)、その軌道の公共性に鑑み、北海道と北海道開発局の斡旋により、村が軌道運営に当たることとなった。村では簡易軌道管理条例を設定し、これに基づき簡易軌道管理委員会を設けたが、これは議会側として大森喜一郎、高橋幸久、藤井竹夫、吉原利雄、村から助役の谷内芳則、受益者側として北大演習林派出所長の吉田贇、幌延炭鉱山崎勲、農家藤井春吉が就任し、事業計画の検討、収支予測、決算の認定、軌道の増設、改廃等に当たった。
 村では軌道運営に当たることに踏み切ったが、当時としては軌道施設の主要部分の殆どが天塩鉱業株式会社の投資によるものであったので、村ではこれを買収せねばならず、会社との交渉は紆余曲折、難航した。結局、買収額は1,533万円ときまり、1952年(昭和27年)中に600万円、53年度に310万円、残り610万円については、1955年(昭和30年)3月31日までに石炭運賃より310万円、翌年次に同様にして310万円を支払うことで協議が成立し、1952年9月1日から町営となったのである。石炭運賃の支払となったのは、当時天塩鉱業株式会社が幌延炭鉱を経営するに至ったので、相殺したのである。
 町では、名平勝郎を所長とし、さらに施設の充実に意を注ぎ、1954年(昭和29年)にはロータリー式排雪車を導入して待望の冬季運行も開始した。補助事業による改良工事によって道床は整備され、石炭、木材、牛乳などの運搬も増加して経営が漸次上向きを示してきたが、好事魔が多いのたとえで、1956年(昭和31年)12月、失火によって車庫が全焼、1958年(昭和33年)にはもっとも大きな輸送を占めていた石炭が、幌延炭鑛の閉鎖によって皆無となり、収入が著しく減少するに至った。
 北海道開発局は、1960年(昭和35年)から5カ年計画で、全線の改良工事に着手、1億円を超える国費の投入によって全路線の改修と橋梁の永久橋化を実施した。
 しかし、沿線農家の減少と木材などのトラック輸送にともない収入は年と共に現象の一途を辿り、いまでは赤字経営の中に、辛うじて地域住民のために運行している状況である。  軌道所長は、名平勝郎から小田島岩男、赤松繁、田中徹雄と変わり、現在は中西正幸である。
 従業員は、一時は25名を数えたが、現在では4名で2往復を確保している。
 しかし、1930年(昭和5年)以来40年、問寒別地域の歩みと苦楽を共にしてきた簡易軌道も、いまは新しい時代の波には勝てず、1971年(昭和46年)5月31日を以って廃止され、過疎バスの運行がこれに変わる予定となっている。   幌延町史(1974年編算)より ;一部文章のおかしなところがありますが、原文ママです。



軌道跡を訪ねて 2022年5月3日

 2022年5月3日、雨交じりの曇天の日であったが、管理人は問寒別の軌道跡の遺構をいくつか、尋ねる機会を持った。ここでその様子を紹介したい。

 本ページをご覧になった方から、橋梁の番号についてご指摘いただくとともに、正しい橋梁の番号が付されている北海道開発局の資料をご紹介いただきました。どうもありがとうございました。当該資料に基づいて、以下、橋梁の番号と記載内容を修正いたしました。(2022年7月31日追記)



 1970年10月に航空写真として撮影された問寒別の様子。
 写真上にカーソルオンすることで、写真で確認することが可能な施設等をハイライトする。
 宗谷線の問寒別駅は、3線式の構造のほか、貨物ホームへの引込線があり、この貨物ホームには、上屋があることが確認できる。降雪・降雨時の作業のため、上屋が設けられていたと思われる。
 この貨物ホームの対面側に、問寒別町営軌道の引込線があり、荷物の受渡が行われていた。また、貨物ホームの東側に、幌延町営軌道のデルタ線あり、編成の方向転換に供されていた。
 構内施設の南東端に雪印の集乳場があり、軌道はその施設にも引込線を引いている。
 施設の中心付近で、上問寒に向かう軌道群は、一本に集約されて、北西方向に向かっている。踏切手前の西側に軌道事務所、東側に機関庫があり、機関庫の手前には転車台があった。
 問寒別の街並みは、駅正面の十字路を中心に、集落を宗谷線に平行して通る北海道道395号問寒別停車場下国府線沿いに形成されており、この形状は現在も大きくは変わってはいない。
 下に示したのは1957年の地形図で描かれた問寒別の様子。
 
宗谷線問寒別駅。現在では一面一線構造の無人駅。車掌車を改装された待合室は近年塗装しなおされ、きれいになっている。  問寒別駅正面から続く道路。写真にある駅正面の十字路から先は上問寒方面に続く北海道道583号上問寒問寒別停車場線で、十字路から700mほど進むと、右手にアイカップ川沿う道が分岐する。この道は、歌内、中川方面に続く北海道道541号問寒別佐久停車場線となる。
 また、十字路から左手は、国道40号線まで通じている北海道道395号問寒別停車場下国府線となる。
 最近、この十字路の近くにカフェが開業したとのとで、出来れば寄り道したかったのだが、訪問日(2022年5月3日)は祝日でお休みだった。
問寒別駅の南東側には、貨物ホームの跡が残っている。かつては、写真のホーム跡手前側に国鉄線の線路、奥側に幌延町営軌道問寒別線の線路があり、ここで、荷物の受渡が行われていた。



 問寒別駅を出た後、軌道はしばらくほぼまっすぐに北東を目指して延びていた。
 写真は、問寒別駅から現道で2.8kmほど進んだ場所に当たる場所。問寒別第二停留所の北側で、ヌポロマポロ川を渡河する地点を中心に周辺を示したもの。この航空写真(1970年撮影)は、2つの撮影時期の異なる写真をつないだものであるため、両者間で少し周囲の状況が異なっている。カーソルオンすることで、軌道等をハイライトする。
 ヌポロマポロ川を越える橋は、北海道開発局の資料によると「4号橋」とされている。同資料では、当該地点より起点(問寒別駅)側にあるヌプカマナイ川に架かっていた橋梁が「3号橋」と称されているが、「1号橋」及び「2号橋」の所在地は記載されていない。
 いずれにしても、訪問時現在、最初に目にすることのできる軌道跡は、この4号橋跡となる。周囲は、現在も1970年当時と変わらない牧草地が広がっている。
 下に示したのは1957年の地形図で描かれた4号橋周辺の様子。
幌延町営軌道問寒別線が、問寒別川の支流の一つであるヌポロマポロ川渡河していた地点にの両岸に、4号橋の橋脚が残っている。 4号橋の右岸側の橋脚。 平行する北海道道583号上問寒問寒別停車場線の当該地点の現橋には「1号橋」の名称が与えられている。



 4号橋でヌポロマポロ川を渡河して、軌道は引き続き直線的に牧草地の中を延びるが、一号橋から約1.6kmの地点で、今度は一線川を渡河していた。
 1970年の航空写真における、一線川の周辺の様子。カーソルオンすることで、軌道等をハイライトする。周囲に牧草地が果てなく広がっている様子が伺えるが、現在も周囲にはほぼ同様の風景が広がる。
 ちなみに、北海道開発局の資料によると、5号橋は、流路改修前の一線川(跡)を越していたものとなっているが、訪問時、当該地に痕跡は見いだせなかった
 下に示したのは1957年の地形図で描かれた6号橋周辺の様子。航空写真と比較すると、軌道の渡河地点が南側に移動しており、地形図内の渡河地点は、5号橋ということになる。1970年までの間に、一線川の線形を直線的に変更する河川改修が行われ、軌道の渡河地点(6号橋)も北に移設されたことになる。
 
ヌマポマポロ川と同様に一線川は問寒別川の支流の一つだが、ヌポロマポロ川と比べると、水量は少なく、流れもか細い。そのため、橋梁の規模も小さかった模様で、現在まで残っている橋台も草むらの間にひっそりと残っている感じです。



 中問寒第ニ停留場付近の様子。
 このあたりで、軌道は問寒別の左岸側から右岸側に移っているが、その間にあった問寒別川本流渡河地点については、現状を確認していない。
 中問寒第二停留場付近では、問寒別川の支流の一つである八線沢川を越えており、この個所に9号橋があった。6号橋跡からは、現道を4.1kmほど辿った地点となる。
 左に示した1970年の航空写真から読み取れる軌道の線形は、下に示した1957年発行の地形図と異なっている。左写真上でカーソルオンすることで、軌道等をハイライトするが、破線で地形図に記載された線形を表記した。北海道開発局の資料によると、実際に当該箇所でも線形改良が行われた模様である。
八線沢川を越えていた付近。写真は、道路を挟んで、軌道があった反対側となるが、道路橋は2018年に架け替えており、その際の護岸工事によって、橋梁跡は失われている。 平行する北海道道583号上問寒問寒別停車場線の当該地点の現橋には「8線橋」の名称が与えられている。 上写真は管理人の知人が2017年に当該地を訪問した際に確認できた9号橋の橋脚跡。現存していない。



 中問寒第二停留所(八線沢川渡河地点)から、現道を4kmほど遡った地点に、幌延町営軌道の遺構としては最大のものである11号橋跡がある。ここで、軌道は問寒別川の本流を越していた。
 左は1970年の航空写真で、カーソルオンすることで、軌道等をハイライトする。写真中に表記されている「豊神橋」は、軌道に並行する道路(現:北海道道583号上問寒問寒別停車場線)の橋で、現在も同名の橋が架せられている。
 1970年の航空写真の時点で、下に示した1957年の地形図と比較しても、集落の規模が小さくなっていることが分かる。豊神集落の北側に、上問寒第一停留場があった。
 なお、軌道が問寒別川本流を越すのは計2回で、もう一つは中問寒第一停留所と中問寒第二停留所の間で、「8号橋」により越していたが、当該地点の痕跡が残っているは不明。
並行する道路側からみた11号橋跡。両側の橋台が撮影日現在まで、存在感のある姿を示している。問寒別川は、さすがに水量が豊富で、橋の水面からの高さも、大きい。おそらく撮影時の水面で、橋梁まで7m以上あったと推定できる。
11号橋の北側橋台跡。 11号橋の南側橋台跡。開発局が設置した水位柱があるほか、近くには自動観測のためと思われる小屋も設置されていた。


 11号橋跡から、現道を約3.8km北上すると、幌延町営軌道の終点跡(上問寒第二停留所跡)に至る。
 左は1970年の付近の航空写真。カーソルオンすることで、軌道等をハイライトする。
 終点付近で、軌道は道路を横切ってすぐに終点である上問寒第二停留所に達していた。
 下に示したのは1957年発行の地形図で、当該地形図には、更に北に延びるクロム鉱山のための専用線と、西に延びる炭鉱線が記載されている。
 時系列としては、1945年に砂クローム鉱石の輸送業務が終了し、その後 1947年から 北方産業株式会社による石炭採掘が開始されたので、両線の運用時期に重なりはない。石炭輸送業務は1958年に終了する。
 左写真と比較すると、分岐点から炭鉱線に少し入ったあたりに、上問寒第二の終点が設定されていたようだ。炭鉱線の廃線跡の線形も読み取ることが出来る。
上問寒第二停留所のあった場所に残る軌道事務所の建物跡。北海道道583号上問寒問寒別停車場線はその横を、クロム鉱山専用線跡に沿って北に延びている。
軌道事務所の横には、「問寒別簡易軌道終点跡」の碑が、つつましくも建てられている。 簡易軌道事務所跡の内部。 上写真は、管理人の知人が2017年に撮影したもので、上問寒第二の転車台跡が残っている。


 幌延町営軌道跡を訪問して

 当ホームページの設立を思い立つきっかけとなった「幌延町営軌道」跡の訪問は、管理人の念願であった。しかし、宗谷線にたびたび乗車する機会はあったが、ダイヤの関係で問寒別での途中下車は難しく、また、軌道跡を一通り巡るには、やはり車を利用しての訪問は必須であった。それで、軌道跡が藪に覆われることのない5月の連休の時期に、車で訪問の機会を検討したが、2020年、2021年ともコロナ禍のため、来訪を延期せざるを得なかった。そういった意味で、このたびの2022年5月3日の訪問は、待望のものとなった。
 歌内、雄信内といった駅が廃止される中で、問寒別は駅前に小さいとはいえ、機能性を維持した規模の集落が形成され、その先には丘で囲まれた牧草地が広がっていた。それは、管理人にとって、この地での開拓の厳しさを感じるとともに、そこで暮らすことの逞しさや尊さも感じさせるものであった。もちろん、一過性の訪問者の感覚で感じることには限界があるが、軌道跡の風景は、管理人には1970年に父が乗車したことも踏まえ、様々な情感を興させるものだった。特に11号橋跡、軌道事務所跡の風景は忘れがたい。
 また機会を設けて、今度はぜひ天気の良い時に訪問してみたいと思う。
 このあと、管理人は、歌登町営軌道跡を探索するため、左写真にある北海道道785号豊富中頓別線を通って、知駒峠(しりこまとうげ)に出た。ここで雨交じりだった天気が、ついに晴れてきて、2016年に登った敏音知岳を含む素晴らしい眺望を見ることができた。再訪を促されているように思える出来事だった。