廃駅を訪ねて


 2015年3月7日、管理人は夕張を訪問した。シューパロダムの試験湛水により、水位が下がり、かつての下夕張森林鉄道の第1橋梁(三弦橋)が見えるようになっている、と聞いたためである。ダム管理棟横の駐車場は一般開放されていて、懐かしい再会を楽しんだ。

 北海道では、全部を正確に数え上げることが不可能なほど、20世紀の間に鉄道が敷かれ、そして去って行った。中には、幸いにも乗る機会に恵まれたものもあるが、その多くは、走る姿を見ることがかなわなかったものだ。南北に細長いシューパロ湖は、往時にはその西岸を三菱石炭鉱業大夕張鉄道線が、東岸を下夕張森林鉄道が走っていた。下夕張森林鉄道は、夕張岳への登山者も乗車させていたという。湖の両岸を長大な運炭列車と森林鉄道が行き交った当時は、見事な壮観だったに違いない。永遠に見ることのできなくなった景色。一方で、その名残を伝えるのが、三弦橋をはじめとするシューパロ湖の周囲を彩った鉄道の廃線跡であった。しかし、廃線跡は、かならずしもそのままあり続けるわけではない。この三弦橋に至っては、ダムの底に沈んでしまった。

 管理人は、残された鉄道に乗るとともに、かつての風景を偲ばせる廃止駅跡を中心に、あちこちを訪問するようになった。地域によって保存整備されているもの、そのまま打ち捨てられたもの、碑文が残っているものなど様々である。当ページでは、2011年以降に管理人が訪問した廃駅(跡)を紹介しよう。また、線路跡ついても、印象的なものを一部加えている。


(2017年5月15日) ポップアップ対応で、左クリックにより大画像を示すようになりました。


戸井線 (渡島古川付近) M    幌内線 弥生 M    宗谷線 智東 M    渚滑森林鉄道 (モセカルシュナイ川橋梁) M    ちほく高原鉄道 岡女堂 M
   (汐首付近) M    幾春別 M 美幸線 仁宇布 M (オシラネップ川橋梁1) M 本別 M
松前線 白符 M     幌内住吉 M 羽幌炭礦鉄道 (築別炭鉱付近) M (オシラネップ川橋梁2) M 仙美里 M
  渡島大沢 M    幌内 M 羽幌線 三泊 M (オシラネップ川橋梁3) M 足寄 M
大沼電鉄 宮の浜 M (桂沢ダム建設事業線) M (小種子川橋梁) M 鴻紋軌道 (藻鼈川支流橋梁 M 愛冠 M
瀬棚線 茶屋川 M 幾春別森林鉄道 (神泉隧道) M 築別 M (桜橋) M 上利別 M
  今金 M (3號橋) M (金駒内川橋梁) M (宝橋) M 薫別 M
  神丘 M 大夕張鉄道 南大夕張 M (豊岬隧道群) M (五号坑橋) M 陸別 M
  北檜山 M (旭沢橋梁) M (オヤルフツナイ川橋梁) M 興浜北・南線 豊牛 M 小利別 M
  瀬棚 M 下夕張森林鉄道 (三弦橋) M (モオタコシベツ川橋梁) M   斜内 M 置戸 M
岩内線 国富 M 真谷地鉄道 清真台 M 更岸 M   (斜内山道) M 足寄森林鉄道他 (足寄太付近) M
  幌似 M 石勝線 M 旭川電気軌道 東川 M (元稲府川橋梁) M (中足寄付近) M
胆振線 六郷 M 富内線 春日 M 石北線 天幕 M (雄武トンネル) M   (螺湾付近) M
  寒別 M   富内 M   中越 M (御西川橋梁) M (黒橋) M
   御園 M 振内 M   上越 M 天北線 上音威子府 M (上足寄付近) M
  新大滝 M 日高町 M   奥白滝 M   小頓別 M 広尾線 愛国 M
  蟠渓 M 三井芦別鉄道 (芦別隧道) M 武利意味森林鉄道 (2号橋) M   敏音知 M    大正 M
室蘭線 豊泉 M 三井芦別 M (3号橋) M   (霰川橋梁) M 幸福 M
日本製紙白老工場専用線 M   (炭山川橋梁) M (4号橋) M   松音知 M   中札内 M
手宮線 色内 M 緑泉 M (8号橋) M 中頓別 M   忠類 M
  手宮 M 頼城 M 層雲峡森林鉄道 (本流4号橋) M 新弥生 M 士幌線 幌加 M
万字線 上志文 M 芦別森林鉄道 (緑泉橋) M 相生線 北見相生 M 下頓別 M     (タウシュベツ橋梁) M
   朝日 M (境橋) M 名寄線 中名寄 M 山軽 M   糠平 M
   美流渡 M (青木橋) M   上名寄 M 安別 M   上士幌 M
   万字 M (霞橋) M   下川 M 飛行場前 M   士幌 M
   万字炭山 M (七夜橋) M   一ノ橋 M 浅茅野 M    音更 M
千歳線 月寒 M (八月沢橋) M   上興部 M 鬼志別 M 美唄鉄道 東明 M
夕張鉄道 若菜 M (惣顔真布支線) M (瀬戸牛川橋梁) M 小石 M    常盤台 M
錦沢 M (第二芦別川横断橋梁) M 中興部 M 曲淵 M 白糠線 (縫別付近) M
  新二岐 M 三菱芦別鉄道 (空知川橋梁) M (班渓川橋梁) M 沼川 M   上茶路 M
  継立 M (辺渓隧道) M 北興 M 恵北 M 鶴居村営軌道 中雪裡 M
  北海鋼機前 M (辺渓川橋梁) M 興部 M 歌登町営軌道 (毛登別トンネル) M   上幌呂 M
函館線 神威古潭 M   (第一盤の沢橋梁) M (藻興部川橋梁) M 歌登 M 標茶町営軌道 開運町 M
M (第三盤の沢橋梁) M   (秋里鉄橋) M 志美宇丹 M   沼幌 M
上砂川 M   (第四盤の沢橋梁) M   富丘 M 湧網線 計呂地 M 浜中町営軌道 茶内 M
札沼線 上徳富 M 深名線 幌成 M (思沙留川橋梁) M 佐呂間 M   秩父内 M
  雨竜 M 鷹泊 M   渚滑 M 知来 M 別海町営軌道 上風蓮 M
  M    沼牛 M 紋別 M 能取 M 標津線 奥行臼 M
  碧水 M 深名線 幌加内 M 小向 M     卯原内 M   平糸 M
定山渓鉄道 石切山 M 上幌加内 M 沼ノ上 M 根室線 新内 M   光進 M
王子軽便鉄道 (山線鉄橋) M (第三雨竜川橋梁) M M 北海道拓殖鉄道 (立体交差) M   西春別 M
湖畔 M 政和 M 中湧別 M     鹿追 M   上春別 M
  分岐点 M 添牛内 M 渚滑線 北見滝ノ上 M 瓜幕 M   川北 M
恵庭森林鉄道 (6号橋) M   (第一雨竜トンネル) M   濁川 M 河西鉄道 鹿追 M   根室標津 M
幌内線 萱野 M (第五雨竜川橋梁) M   上渚滑 M 上然別 M 根北線 (越川橋梁) M
  三笠 M 朱鞠内 M 渚滑森林鉄道 (渚滑川橋梁) M ちほく高原鉄道 高島 M
   唐松 M 北母子里 M (二区十五線沢橋梁) M     勇足 M

 三菱芦別鉄道: 三菱鉱業芦別鉱業所専用鉄道

戸井線(未成線)

戸井線は函館線五稜郭と戸井を結ぶ目的で1937年に着工され、その9割は完成していたと言われるが、1943年に物資の不足により工事が中断。その後、工事が再開されることはなかった。工事の中断から70年以上経過した現在でも、その遺構が残っている。  
汐泊川橋梁の橋脚(Map
汐泊川の河口に近い。海側を並走する国道278号線から望むことができる。汐泊側の東側に渡島古川駅が建設される予定だった。(2016.1.16)
汐首岬第1陸橋Map
北海道の未成線風景の象徴とも言える汐首岬の連続アーチ橋。全国的にみても、様々な未成線の遺構の風景のうち、特にダイナミックな景観で広く知られるもの一つ。海蝕台を繋ぐように橋が渡されている。もし線路が開通していたら、津軽海峡の絶景が望めていたことだろう。左の写真でアーチの上に見える白い突起が汐首灯台。付近には汐首駅が建設される予定だった。(2016.1.16)
汐首岬第一陸橋風景。(2018.10.26) 汐首岬の西側海岸からは、函館山、函館市街地が見える。戸井線が開通していれば、海蝕台の上からこの風景を望んだのだろう。(2018.10.26)
連続アーチ橋から続くトンネルの出入口。(2016.1.16) 瀬田来第1陸橋 連続アーチ橋より戸井側にある。補修されており、別目的で転用されている。(2016.1.16) 戸井付近では海蝕台上の路肩が道路に転用されている場所もある。海を見下ろす絶好の散策路になっている。(2016.1.16)


松前線

白符駅(松前線) 1988年2月1日廃止(Map
福島町宮歌の宮歌川のすぐ北側に、駅横で道路を跨いでいた橋台跡と、橋梁と隣接してあった駅ホームへ向かう階段が残っている。階段には、赤く錆びついた手すりも残されている。この付近の松前線は、海蝕台の上を通っていたため、眺望も素晴らしかった。(2016.9.24)
福島町から津軽海峡を望む。(2016.9.24) 渡島吉岡-渡島大沢間、スズキノ沢川沿いの山腹に残る落石覆い。この区間で松前線は海岸線を離れ、吉岡峠をトンネルで越えていた。現地に行くには、福島町の大沢支所から、山に向う道をたどることとなるが、廃線跡沿のダート路は悪路であり、接近には注意が必要となる。(2016.9.24)
渡島吉岡-渡島大沢間、荒谷川橋梁の橋脚跡。廃線後しばらくの間ガーダーが残っており、松前線最大の遺構として、多くのファンが訪れたが、訪問時はすでに橋脚のみとなっていた。山側から俯瞰すると、背景に津軽海峡が控えた美しい景色を見ることができる。この橋梁跡のすぐ西側が渡島大沢駅跡となる。(2016.9.24)
渡島大沢駅(松前線) 1988年2月1日廃止(Map
草むらの中に、かろうじてホーム跡の石積みを認めることができる。黄色い警告色のペイントも残っている。(2016.9.24)
渡島大沢-及部間、櫃の下川橋梁の橋脚跡。国道228号線沿いにあり、容易に見ることができる。3本の橋脚が残っている。(2016.9.24)
 
松前海岸の風景。沖合の島影は松前小島。(2016.9.24) 松前線は松前町江良地区の鉱物搬送のため、延伸工事が行われていた。延伸区間からは、天気が良ければ、日本最大の無人島、松前大島を望むことが出来る。円錐形の島影は、江良岳(732m)を中心とした火山島の成り立ちを物語る。(2016.9.24)  


大沼電鉄

折戸川に残る橋脚(Map
鹿部と函館線を結んだ大沼電鉄は、1929年から1945年まで大沼駅(現・大沼公園駅)、1948年から1952年まで銚子口駅をそれぞれ起点として運用された。銚子口駅付近では、大沼を源とする折戸川を2度橋梁で越えていた。写真は折戸川で見つけた橋脚であるが、当時の地形図と比較すると、やや場所が異なっており、大沼電鉄のものではないかもしれない。その場合、当該橋脚跡の由来が何であるかは不明。(2019.7.11)
大沼第一発電所跡(Map
大沼電鉄沿線には、渡島水電(函館水電)が建設した水力発電所跡がいくつか残る。こちらは折戸川上流にあった大沼第一発電所跡。1906年建設、土木学会近代土木遺産。往時は1000kwの出力で、函館市街の電源を担ってた。貫禄に溢れた煉瓦建築。(2019.7.11)
大沼第一発電所跡。(2019.7.11) 函館水電大沼第二発電所跡(Map
渡島水電(函館水電)によって1908年建設、900kw。第一発電所と同様に、「イギリス積み」と呼ばれる煉瓦建築になっている。(2019.7.11)
宮の浜駅(新本別駅)(大沼電鉄) 1952年廃止12月5日廃止(Map
大沼電鉄の終点鹿部の1.4km手前、鹿部市街の入口にあった駅。大沼を起点としていた頃は「新本別駅」、1948年に銚子口駅を起点に運行再開した際に「宮の浜駅」となった。鹿部町の住宅地の中に、ホーム跡を見出すことが出来る。(2019.7.11)
宮の浜駅(新本別駅)跡に残るホーム跡。訪問時、その上にレールが置かれていることに気づいた。60余年前の大沼電鉄のレールなのだろうか。(2019.7.11)
大沼電鉄は終点鹿部駅の直前で鹿部川を橋梁で越えていた。その橋台が、現在も別用途に転用される形で残っている。(2019.7.11) 函館水電大沼第三発電所跡。渡島水電(函館水電)によって1919年建設。700kw。鹿部市街の変電所の裏に、緑の山と一体化するようにして、その煉瓦造りの建物を残している。(2019.7.11)
大沼電鉄の終点だった鹿部駅跡付近に、現在は道の駅しかべ間歇泉公園が建設された。道路を挟んで眼前には太平洋が広がっている。(2019.7.11) 道の駅しかべ間歇泉公園では、足湯に浸かりながら間歇泉を見学できる。10分に1度程度、高さ15mほどの湯柱となって、勢いよく温泉が噴きあがる。訪問時見学・入場料は¥300。(2019.7.11) 道の駅しかべ間歇泉公園では、温泉の熱を利用した蒸し釜があり、道の駅で肉、野菜などの食材を売っている。管理人のオススメは牡蠣。訪問時、大ぶりな牡蠣5つで¥1,000だった。10分で蒸しあがり、ポン酢のみでいただく。(2019.7.11)


瀬棚線

茶屋川のバス停。いまはヤブとなった奥に茶屋川の駅があった。(2018.10.25) 茶屋川駅(瀬棚線) 1987年3月16日廃止(Map
畑地と道路の間の叢の中に、ホームの盛り土由来の段差が残る。あきらかな痕跡と言えるものは特にない。(2018.10.25)
今金駅(瀬棚線) 1987年3月16日廃止(Map
駅の跡地に線路を中心としたモニュメントが設置されている。今金町内にあった各駅の駅名票のレプリカが置いてあるが、訪問時にはなぜか今金駅のものが取り外されていた。今金町中心部の廃線跡は、今金の特産品の一つであるチューリップにちなんで、オランダ通りの名で遊歩道になっており、風車もある。(2018.10.27)
神丘駅(瀬棚線) 1987年3月16日廃止(Map
畑地の中を廃線跡である築堤が、通路として残されている。神丘駅ホームの盛り土が残っており、その部分だけ植樹されたかのように木が育っている。(2018.10.27)
北檜山駅(瀬棚線) 1987年3月16日廃止(Map
駅舎がバスターミナルとして利用されている。内部の待合室は駅の雰囲気を色濃く残している。(2018.10.27)
瀬棚駅(瀬棚線) 1987年3月16日廃止(Map
駅跡に瀬棚駅の駅名票のレプリカと、瀬棚線の記念碑が建立されている。(2018.10.27)
瀬棚線の終着駅であった瀬棚駅は、線路の末端の先には、日本海があり、瀬棚のランドマークである海の中に立つ三本杉岩が望まれた。現在の駅跡からも、線路跡と平行に道路が伸びており、その先には三本杉岩が見える。(2018.10.27)
瀬棚から北へは、西蝦夷三険岬の一つである茂津多岬へ国道229号線が伸びる。国道が連絡するまでは、いわゆる"陸の孤島"であった須築(すっき)等の集落が、その先にある。(2018.10.27)


岩内線

小沢駅北側に残る岩内線の路盤。写真の上側を通るのは、銀山駅に向かう函館線の路盤。下方は国富駅へ向かっていた岩内線の廃線跡。小沢駅を出て、岩内平野に向かう岩内線と、稲穂峠に向かう函館線が、標高差を増やしていく様がわかる。(2021.03.27) 小沢-国富間で小さな尾根を越えていた岩内線の切通跡が明確に残る。(2021.03.27) 小沢-国富間に残るコンクリート製のセトセ川橋梁。道路に転用されているわけではないが、付近は小さな耕地となっているため、通る人がいるのかもしれない。(2021.03.27)(Map
セトセ川橋梁から小沢方面に続く岩内線の道床。小沢方面向かって右手に羊蹄山の山容が美しく見える。(2021.03.27) セトセ川橋梁から国富方面に続く岩内線の道床。(2021.03.27) 北海道道269号蕨岱国富停車場線から見た風景。国富駅のホーム跡が残雪から顔を出している。(2021.03.26)
国富駅(岩内線) 1985年7月1日廃止(Map
共和町国富の集落の南端にホーム跡が残る。廃線跡がホーム跡にそって轍となっており、農作業車が通行すると思われる。往時は、国富鉱業所精錬所専用線が分岐していた。そのためかホーム長は長い。(2016.9.22)
茂る草の中に残る国富駅のホーム跡。警告色の黄色のペイントも見える。(2020.10.03) 国富駅の湾曲したホームの形状がわかる。(2020.10.03) 国富駅から北西に線路跡を歩いたところ。岩内線は左手に向かっていた。また、右手に向かう国富鉱山専用線も存在した。当時の雰囲気が伝わる風景。(2020.10.03)
幌似駅(岩内線)  1985年7月1日廃止(Map
共和町により「幌似鉄道記念公園」として整備され、駅舎が保存されている。駅舎内に岩内線関連資料が保存・展示されているが、季節・時間帯によっては、閉鎖されている。貨物側線に旧型客車2両と有蓋緩急車2両が静態保存されている。(2014.08.15)
2018年9月29日から10月28日まで、岩内町の木田金次郎美術館で「写真展-33年前 岩内線最後の日」が開催された。岩内駅の駅名票や、各種資料も併せて展示され、充実した内容だった。(2018.10.27) 木田金次郎美術館で開催された「写真展-33年前 岩内線最後の日」において展示されていた西前田駅の模型。(2018.10.27)


胆振線・室蘭線

六郷駅(胆振線) 1986年11月1日廃止(Map
倶知安町により「六郷鉄道記念公園」として整備されている。旧型客車と車掌車が静態保存されている。(2014.08.15)  往年の六郷駅
寒別駅(胆振線) 1986年11月1日廃止(Map
畑の中にホーム跡を見ることができる。両側の線路の痕跡は、ほとんど失われている。(2014.09.06)
胆振線跡(北鈴川-御園間) (2017.05.12) 御園駅跡付近の様子 
駅跡付近はいくつか民家が残っている。集落の中心は駅跡より喜茂別側にある。(2017.05.12)
御園駅東側の胆振線跡 (2017.05.12)
御園駅(胆振線) 1986年11月1日廃止(Map
行き違い可能駅で、分水嶺の手前であったことから、当駅と始発・終着とする列車もあった。千鳥配置の両ホームが草むらの中に残っている。(2017.05.12) 往年の御園駅
第2尾路園川橋梁 尾路園架道橋 尾路園架道橋
御園-尾路遠間の第2尾路園川橋梁跡。両側の築堤と橋台が残る。(2019.11.23) 御園‐尾路遠間、オロウェン大滝キャンプ場に向かう道路を跨ぐ尾路園架道橋。第2尾路園川橋梁跡のすぐ東側にある。(2019.11.23)(Map 尾路園架道橋。ガーダーが残っている。(2019.11.23)
胆振線跡の築堤 新大滝駅跡擁壁
御園-尾路遠間、第2尾路園川橋梁跡と尾路園架道橋が遺る付近は、築堤が明瞭に残り、鉄道線があった当時の雰囲気を色濃く伝えている。(2019.11.23) 新大滝駅(胆振線) 1986年11月1日廃止(Map
駅跡には何も残されていないが、すぐ南側には、胆振線の道床を支えた大きな擁壁が残っている。
新大滝駅跡南方に残る引込線跡。(2017.05.12)
新大滝駅跡にはなにも残っていないが、駅跡の伊達紋別側に日鉄鉱業徳舜瞥硫黄鉱山から硫化鉄を搬送するために敷設された引込線の高架橋が一部残っている。1971年の硫黄鉱山の閉山まで運用されていた。(2017.05.12)
新大滝駅跡付近の線路跡からは徳舜瞥山を望むことができる。(2017.05.12) 新大滝駅跡より南方は、廃線跡がサイクリングロードとして整備されている。(2017.05.12) 新大滝駅跡の引き込み線跡。(2019.08.18)
新大滝駅の高架引き込み線跡。雪の季節が始まる頃の風景。(2019.11.23)
胆振線擁壁跡 胆振線擁壁跡 優徳跨線橋
新大滝-優徳間に残る胆振線の擁壁。線路跡はサイクリングロードに転用されているため、現役の擁壁となっている。サイクリングロード上からは、長流川と徳舜瞥山の眺めが素晴らしい。(2019.11.23)(Map サイクリングロードに転用された道路を越える国道453号線。旧優徳跨線橋。(2019.11.23)
第1長流川橋梁 第1長流川橋梁
優徳駅跡-北湯沢駅跡間には、サイクリングロードに転用された第1長流川橋梁が残る。現在の名は「胆振線おもいで橋」。(2019.11.23)(Map 旧・第1長流川橋梁(現・胆振線おもいで橋)から下流方向を見る。管理人は1985年に胆振線の車窓から、当写真と同じ画角の写真と撮っていた。1980年代 駅の情景で掲載しているこちらの写真となる。(2019.11.23) 北湯沢温泉から遠望した現・胆振線おもいで橋(2019.08.18)
北湯沢駅跡付近の長流川は、「白絹の床」と名付けられた流紋岩の川床が続く景勝地であり、支笏洞爺国立公園および洞爺湖有珠山ジオパークの一角を成している。(2019.08.18) 北湯沢-蟠渓間、長流川左岸に残る胆振線のロックシェッド(落石覆い)跡。その先にある長流川岸に突き出した尾根を、優園トンネルで通過していた。(2019.11.23)(Map
蟠渓駅(胆振線) 1986年11月1日廃止(Map
構内に上る階段と、曲線状のホームが残っている。伊達紋別方面に少し進むと白水川橋梁が、久保内駅手前にはレルコマ川橋梁(Map)が残る。(2014.11.14)   往年の蟠渓駅ホーム
蟠渓駅跡に残るホームに続く階段。(2019.08.18) 蟠渓駅跡。(2019.08.18) 蟠渓駅ホーム跡から見た国道453号線。訪問日現在、付近では国道の線形改良の工事が行われており、思い出深い蟠渓駅跡も、風前の灯火となっている。(2019.08.18)
蟠渓駅跡 蟠渓駅跡 蟠渓駅跡
蟠渓駅跡 蟠渓駅跡 蟠渓駅跡
初冬の蟠渓駅跡。駅跡の横を通る国道453号線の線形改良工事(通称、蟠渓道路)の建設にあたって、大部分は胆振線の線形跡が利用される。そのため、蟠渓駅跡も撤去されることとなる。思えば、管理人がもっとも多く足を運んだ「廃駅」がこの蟠渓駅跡であったと思う。告別の気持ちで訪問した際の写真。近づく冬を前にして、枯れた草たちの中、ホームはいまだ優美な曲線を横たえ、警告色のペイントも残っていた。(2019.11.23)
伊達市内の胆振線跡を転用したサイクリングロードの起点。室蘭線との分岐点にある。踏切の警報機がオブジェとして使用されている。(2018.01.27) 伊達市内の胆振線跡を転用したサイクリングロードの起点にある由来を示す標識。 1975年の室蘭線礼文-大岸間複線化に際して、線路の付け替えにより廃止となった線路跡に残る岩見隧道。並走する道道609号線に転用されることなく、その姿を残している。(2018.01.27)
室蘭線旧線の岩見隧道。道道609号線と併せて俯瞰したところ。(2018.01.27) 豊泉駅(室蘭線) 1968年5月15日廃止(Map
かつて室蘭線の大岸-豊浦間にあった駅。1968年の当該区間複線化に伴う線路の付け替えにより廃止となった。廃止50年を経た現在もホームが残り、側面には黄色の警告色のペイントとともに「確認」の字が読める。(2018.01.27)
豊泉駅跡。中央に延びる轍が線路跡。これに沿うようにホーム跡が残り、雪面に段差を生んでいる。後方の建物はかつての国鉄官舎であり、現在は住居に転用されている。(2018.01.27)
豊泉駅跡秋の風景。(2018.10.25)


日本製紙白老工場専用線

 室蘭線萩野駅からは、日本製紙(大昭和製紙)白老工場まで、木材チップ搬送のための専用線が運用されていた。この専用線は、1960年に運用を開始。長く活躍したが、2008年3月15日に運用を終了した。かつては工場内まで線路が伸びていたが、現在は、工場内に向かう道路より工場側は線路が撤去されてしまっている。一方で、工場敷地の手前までは、線路が残っており、萩野駅を出た線路が、林の中で次々分岐し、5つの引き込み線へと別れていく形状を維持したままで、放置されている。(Map


萩野駅を出て、室蘭線に沿っていた専用線は、フシコベツ川の手前で右手に分かれ、専用の橋梁で川を越えている。2020.03.22 フシコベツ川を越えた線路は、ポイントを介して引き込み線を増やしていく。2020.03.22
林の中に埋もれようとしている専用線。12年前まで貨物列車が運用されていたとは思えない。2020.03.22 管理用の小屋が残っている。小屋の中からは、林の中を平行に伸びていく線路を見渡せる。2020.03.22
線路の行く手に日本製紙の巨大な工場が見える。2020.03.22 林の中に残る引き込み線たち。2020.03.22 線路は、工場に向かう道路の手前で途絶える。木製の車止めが設置されている。運用時は工場まで線路が伸びていたので、この車止めがいつ、どのような目的で設置されたのかは不明。2020.03.22
萩野駅と日本製紙白老工場の間には、工場関係の産業遺産と思われるものが残る。また使用を終えた工員住宅や、集合住宅の廃墟が残っている。


手宮線

色内駅(手宮線) 1962年5月15日廃止(Map
小樽市によって手宮線跡が保存されており、色内仮乗降場跡には、駅ふうの休憩所が設置されている。(保存されているものではない)(2014.07.19)
手宮線跡 
手宮線は1962年に旅客営業を廃止した後も貨物線として運用が継続された。しかし、輸送量の減少に伴い、1985年に貨物線としての営業も終了した。手宮線跡の多くの部分は線路を残したまま公園化され、小樽運河とともに観光都市・小樽市の象徴的なスポットとなった。(2014.07.19)
手宮駅跡は小樽市総合博物館となり、鉄道関係の展示が充実している。こちらは手宮駅の入れ換えに活躍したC126。(2014.07.19) 小樽機関区手宮分庫の扇形庫とともに転車台が保存されている。(2014.07.19)
保存転車台から、かつて線路が延びていた色内方面を望む。(2014.07.19) 扇形庫に保存されているキハ03 1。1956年東急車輛製造。レールバスの呼称で有名。北海道で走行したものは耐寒性を高めた設計となっていた。46人乗りのかわいらしい車体。(2014.07.19) ジョルダン式除雪車。キ752とキ718。(2014.07.19)
宗谷線で活躍したC5550。往時の姿は宗谷線で紹介。(2014.07.19) ラッセル式除雪車キ1567(2014.07.19) 小樽総合博物館内では、様々な車両の模型が展示されている。こちらはディーゼル機関車が牽引する森林鉄道。
小樽市総合博物館で動態保存されているポーター製の蒸気機関車「アイアンホース号」。アメリカの保存鉄道から輸入されたもの。約400mの道のりを試乗できる。(2014.07.19)
小樽市総合博物館内では、鉄道関係の展示が充実しており、様々なジオラマも閲覧できる。写真左は北海道鉄道開業のころの手宮の様子。写真中は幌内鉄道開業時の様子。写真右は手宮駅の先に建築されていた石炭積み出しのための高架桟橋で、高さ19m、長さ289mという巨大な木造建築物であった。ジオラマでは、運炭列車が出入りする様子を見ることが出来る。手宮桟橋は1911年に完成したが、戦時の標的となることから1944年に廃止された。(2014.07.19)
手宮駅(手宮線) 旅客営業1962年5月15日廃止 貨物営業1985年11月5日廃止(Map
旅客営業は1962年5月15日廃止。駅跡は小樽市総合博物館の施設として保存されており、旧手宮機関庫や転車台とともに、多くの保存車両が展示されている。入場有料だが、十分立派な施設。(左;2014.07.19 中央;2019.10.22 右;2014.07.19) 1970年手宮駅で活躍中のC126はこちら
しづか号 D76 509 DD161
7100形蒸気機関車、しづか号(2019.10.22) 小樽総合博物館屋外の車両展示スペース。手前にあるのは、ED76 509 (2019.10.22) DD161 (2019.10.22)
トラ57964 キハユニ25 1 ED75 501
無蓋貨車 トラ57964、その奥にあるのが穀物用ホッパ車、ホキ2226(2019.10.22) キハユニ25 1 (2019.10.22) ED75 501 (2019.10.22) 
キハ22 56 C12 6 手宮線跡
キハ22 56 (2019.10.22) C126 手宮駅で活躍中のC126はこちら (2019.10.22) 小樽総合博物館から道路を挟んだ小樽方面には、旧手宮線の線路が保存された遊歩道が伸びている。(2019.10.22)
手宮口転車台 DD16 17 DD13 611
手宮口転車台(旧小樽築港機関区転車台) (2019.10.22) DD16 17 (2019.10.22) DD13 611 (2019.10.22)
旧手宮機関庫 キ718 キ752
旧手宮機関庫 (2019.10.22) キ718 ジョルダン式除雪車の現役時の様子は、宗谷線で紹介。 (2019.10.22) ジョルダン式除雪車 キ752 (2019.10.22) 
大勝号 キハ03 1 キ1567
7150形蒸気機関車、大勝号(2019.10.22)(2019.10.22) キハ03 1 レールバスの名でローカル線で活躍し親しまれた。 (2019.10.22) ラッセル式除雪車 キ1567 (2019.10.22)
キ270 手宮高架桟橋の擁壁 手宮高架桟橋の擁壁
ラッセル式除雪車 キ270 (2019.10.22) 小樽総合博物館敷地の西側には、巨大なレンガ製擁壁がある。これは手宮高架桟橋を利用した貨物積み出し用の引き込み線用のもので、かつてはこの擁壁上を、石炭を満載した貨物列車が走っていた。1944年まで使用されていたが、高架桟橋が戦時中の攻撃目標となりやすいことを踏まえ撤去され、合わせてその引き込み線も使命を終えた。(2019.10.22)


万字線

上志文駅(万字線) 1985年4月1日廃止(Map
駅の眼前にあった萩の山市民スキー場の物置として、駅舎が残っている。上志文駅であったことを示す石碑が設置してある。(2014.04.26)
上志文駅跡。駅舎は廃止後に1/3ほどが削られ、残りの部分が別途利用の経緯を経て現在まで残されることとなった。(2018.11.03)
上志文駅跡。かつては札幌から直通のスキー客用臨時列車も運行された。往時は2面2線の他に引込線もある駅だった。(2018.11.03) 朝日駅跡にある万字線の説明板(2013.04.26) 「万字線鉄道公園」として岩見沢市によって保存されている朝日駅は適宜補修が行われいる。当訪問時は、補修作業の最中だった。(2018.11.03)
朝日駅(万字線) 1985年4月1日廃止(Map
岩見沢市によって「万字線鉄道公園」として保存されている。B201(かつては小樽築港機関区で保存されていたもの)が静態保存展示してある。そらち炭鉱アートの会場としても使用され、管理人はその際にも訪問した。(2014.04.26)
美流渡駅(万字線) 1985年4月1日廃止(Map
駅跡に石碑が残るのみである。(2014.04.26)
万字駅(万字線) 1985年4月1日廃止(Map
駅跡が万字郵便局の建物として再利用されている。(2014.04.26)
万字炭山駅(万字線) 1985年4月1日廃止(Map
廃止後もしばらくは駅舎が残っていたが、2013年6月に解体され、現在は更地となっている。谷の上を通る道道夕張岩見沢線の、谷底へ降りる道への入口に、かろうじて「万字炭山駅」が読み取れる標識が残っている。(2014.04.26)
解体された万字炭山駅の駅舎の跡地。土台が残っている。(2018.11.03) 万字炭山駅跡には、叢の中に隠れたホーム跡が残る。(2018.11.03)


夕張鉄道・千歳線旧線・函館線

       
札幌市白石区内にある千歳線の旧線跡。千歳線はかつて地図で示したように、豊平川橋梁の東で函館線と分岐し、さらに東札幌駅からは、定山渓鉄道が分離。国鉄線への乗り入れを行っていた。そのような歴史があるため、千歳線のゼロキロポストは現在も苗穂駅にある。定山渓鉄道は1969年に廃止、千歳線は1973年に現在の線形に付け替えられた。その後も月寒駅、東札幌駅を貨物駅として旧千歳線は運用されてきたが、1976年に月寒駅、1986年に東札幌駅がそれぞれ廃止され、貨物線としての使命も終了した。写真上中は国道12号線の白石跨線橋。線路廃止後も橋梁が残っている。写真上右は白石跨線橋から函館線方面に延びる廃線跡。写真下左・下中は東札幌駅と白石駅を結んだ連絡線跡。写真下右は苗穂駅-東札幌駅間の廃線跡で、こちらは築堤が今も残っている。写真を横切る道路は「平和通」で、その両側に残る築堤が、道路建設部分だけ撤去された形になっている。(2017.10.06)
月寒駅(千歳線) 1976年10月1日廃止(Map
旅客営業は1973年9月9日廃止。最後はアサヒビールの貨物積出駅だった。アサヒビール園に隣接する工場の裏に、ひっそりと記念碑が立つ。(2015.06.08)
夕張鉄道の夕張本町-鹿ノ谷間にあった志幌加別川を渡る橋梁の橋台が残っている。すぐ西側には、JR石勝線夕張支線の第五志幌加別川橋梁があり、そちらには夕張線が複線運用されていた時代のガーダーも残っている。(2018.11.03) かつて夕張鉄道若菜駅に通じていた道が、石勝線夕張支線を横切る踏切には、「若菜駅前通り踏切」の名が残る。(2018.11.03))
若菜駅(夕張鉄道)1971年11月15日廃止(Map
サイクリングロードに転用された夕張鉄道跡に沿って、石積みのホームが残っている。(2018.11.03)
若菜駅跡付近の夕張鉄道跡を利用したサイクリングロード。(2018.11.03)
夕張鉄道が、若菜駅と平和駅の間で、Ω(オメガ)カーブを描き、国鉄夕張線と並行道路を跨いでいた陸橋は、サイクリングロードに転用されている。その由来のため、自転車道路には不釣り合いな規格の、由緒ある橋脚が残る。(2018.11.03) 錦沢駅(夕張鉄道) 1971年11月15日廃止(Map
 かつて三段式スイッチバックの二段目に交換可能な駅があった。駅は、阿野呂川の支流である大蛇の沢川の左岸(西側)にあり、駅のすぐ下には、大蛇の沢川をせき止めて作られた遊水地を中心とした公園になっていた。現在では、往時を偲ばせるものは少なく、かろうじて駅のすぐ下にあった藤棚が、痕跡を残している。左写真の斜面に見える一番上の平場が、三段スイッチバックの一番下の部分になる。線路跡はサイクリングロードとしてかつて利用されたことがあり、現在もスイッチバックの痕跡を残すが、現在、付近は廃道状態の林道(錦沢4号線)の先であり、雪解けの季節で足元はぬかるみ、夕暮れも迫る時間帯だったため、この日は上部までの探索はしなかった。(2023.04.10)
かつて錦沢駅があった大蛇の沢川の谷地。かつては、遊水地のまわりを花や紅葉が彩る行楽地で、多くの人が訪れたと言う。現在は、廃道を辿ってたどり着くことは出来るが、当時の賑わいをしのばせるものは少ない。この地に、三段スイッチバックという大規模な鉄道運行施設があったことを想像するのは、知識がない限り難しいだろう。(2023.04.10) 新二岐駅(夕張鉄道) 1971年11月15日廃止(Map
道道札幌夕張線に接する形で、駅舎が残っている。この駅舎から夕張方面に少し進むと阿野呂川を渡っていた阿野呂川橋梁の橋台のみが残っている。(2015.03.07)
新二岐駅(夕張鉄道) 正面を通る道道札幌夕張線の裏手側が列車の発着していたホーム側となる。(2018.04.30) 継立駅(夕張鉄道) 1971年11月15日廃止(Map
駅舎は松原産業株式会社の事業所として利用されている。(2018.04.30)
北海鋼機前駅(夕張鉄道) 1975年4月1日廃止(Map
 駅跡には1964年から北海鋼機前駅で使用されてきた腕木式信号機がモニュメントとして置かれ、碑文にその経緯が記されている。すぐ近くに函館線高砂駅がある。(2018.06.19)
北海鋼機工場。(2018.06.19) 現在も広大な敷地に事業所を構えている。
神威古潭駅(函館線) 1969年10月1日廃止(Map
石狩川が上川盆地から石狩平野に流れ落ちる景勝地にあった駅だが、電化・複線化に伴う線形改良により廃止となった。線路跡はサイクリングロードとなっており、復元駅舎とホームがサイクリングロードを囲むように保存されている。線路の一部が残されていて29638、C57201、D516の3機の蒸気機関車が静態保存されている。(2016.6.10)  
鶉駅(函館線・上砂川支線) 1994年5月16日廃止(Map
駅舎が喫茶店等として再利用されたことから、その姿を残している。道路に面した側は塗装し直されているが、裏手にまわると駅舎らしい構造を今なお残し、駅があったことを伝えている。(2017.06.03)
鶉駅付近、函館線上砂川支線の廃線跡。(2017.06.03)
上砂川駅(函館線・上砂川支線) 1994年5月16日廃止(Map
かつては石炭の積み出しで賑わった駅。駅舎がテレビドラマで使用されたため、保存されているが、現役時から90度方向を変える形で移築されてしまい、趣を減じている。駅ホーム側に保存された車輛も、なぜか不自然に十字に交わる形で配置されている。(2017.06.03)
上砂川駅跡のすぐ先にある三井砂川炭鉱跡。1899年から1987年まで稼働したのち、1991年から2003年まで地下無重力実験センターとして活用されたが、その役目も終え、静かに佇んでいる。(2017.06.03)
かみすながわ炭鉱館。管理人訪問時は入場無料で充実した展示を閲覧することが出来た。炭鉱館の前庭には、坑内電車が炭車を含む編成で保存展示してある。炭車には丁寧に石炭が積載してある。(2017.06.03) かみすながわ炭鉱館では貴重な写真が多く展示してある。こちらは、炭鉱で産物の搬送にもちいられた索道の写真。(2017.06.03)


定山渓鉄道・王子軽便鉄道

石切山駅(定山渓鉄道) 1969年11月1日廃止(Map
旧駅舎が「石山振興会館」として利用されており、石山商店街振興組合事務所が置かれている。 正面入り口の上には「旧石切山駅」の看板が掲げられ、建物の由来が示されている。(2017.05.12)
山線鉄橋(王子軽便鉄道)(Map
王子製紙苫小牧工場への資材搬送のために建設された山線の終着湖畔駅の先に湖岸まで専用線が延びており、途中の千歳川流出地点を当該鉄橋が越していた。支笏湖対岸の千歳鉱山からの資源搬送に活躍した。トラス橋はもとは函館線第一空知川橋梁のものを1899年に転用したもの。1951年に廃止となったのち、1997年からは支笏湖観光のための歩道用に利用されている。(2017.05.12)
冬の山線鉄橋。支笏湖の観光施設が集まる湖畔から、千歳川を越えて支笏湖岸をめぐることができる遊歩道に供されており、自由に歩くことが出来る。(2018.12.07) 山線鉄橋から見る支笏湖。当該線は支笏湖岸への貨物用引込線だったので、かつて客車が通ることがあったかは不明だが、素晴らしい景色を見ることができる。写真は冬の夕暮れ。(2018.12.07)
湖畔駅(王子軽便鉄道山線) 1950年4月廃止(Map
従来駅跡と呼べるものはなかったが、2020年に、駅のあった千歳川対岸にあたる支笏湖温泉街の南に、「王子軽便鉄道ミュージアム 山線湖畔驛」が開設され、貴重な資料や写真の展示が行われている。管理人の訪問時、入場無料。建物正面にある山線鉄橋と併せて、素晴らしい鉄道文化施設となっている。建物は、駅のイメージに沿って作られており、洒落ている。(2022.02.18)
「王子軽便鉄道ミュージアム 山線湖畔驛」の正面入口には、当時のレールが展示してある。 (2022.02.18)
「王子軽便鉄道ミュージアム 山線湖畔驛」には、当時の湖畔駅の広い構内が再現された模型がある。苫小牧から千歳川右岸(南岸)に沿って支笏湖に至った線路は、湖畔駅に入り、その後スイッチバックして、山線鉄橋を渡り左岸(北岸)に至る。そこには積み込みようの土場や、編成が方向転換できるトラス線があった。その模様が、巨大模型でとてもよく分かる。(2022.02.18) 「王子軽便鉄道ミュージアム 山線湖畔驛」では、当時の貴重な画像をスライドショー様の映像で見ることが出来る。写真はその一コマで、王子軽便鉄道の苫小牧駅の風景とのこと。(2022.02.18) 「王子軽便鉄道ミュージアム 山線湖畔驛」の展示物の一つで、千歳川左岸(北岸)にあったデルタ線の構造詳細を示した図。(2022.02.18)
「王子軽便鉄道ミュージアム 山線湖畔驛」を出て、少し歩くと、すぐに山線鉄橋を渡ることが出来る。(2022.02.18) 訪問日は氷濤まつりが開催されていた。千歳川の左岸(北岸)に沿って、万里の長城のような巨大な氷壁が作られ、上を歩くことができた。写真は氷壁から見た山線鉄橋。(2022.02.18) 氷濤まつりの巨大氷壁の上を歩きながら、千歳川の対岸を眺めることが出来た。そこは、かつて苫小牧まで通じていた王子軽便鉄道の路盤跡ということになる。(2022.02.18)
この日は氷濤まつりを拝見させてもらった。会場は、かつて王子軽便鉄道の湖畔駅の土場であった広場である。16時になるとカラフルな照明が灯り、幻想的な世界を演出していた。(2022.02.18)
分岐点駅(王子軽便鉄道山線) 1950年4月廃止(Map
 分岐点駅跡には、駅跡らしいものは残っていないが、このあたりで線路跡はサイクリングロードに転用されているので、その線形は明瞭に残っている。写真は引用図中の赤丸付近の様子で、雪の中、まっすぐに伸びる線路跡を目にすることが出来る。(2022.02.18)
分岐点駅跡付近から、第一縦断林道を辿ると、樽前山や風不死岳の火山活動で作られた溶岩台地を削って流れている丸山川(勇払川の支流)の渓谷が現れる。谷の底には七条大滝があり、特に冬季は結氷した美しい姿を見ることが出来る。ただし、途中の第一縦断林道から先は一般車の立入は禁止されており、管理人はスノーシューで現地まで歩いて行った。(2022.02.18)
支笏湖は、樽前山、風不死岳、恵庭岳といった火山に囲まれたカルデラ湖。水面標高247mであるが、最大水深360m、平均水深265mと湖底は海面よりはるかに深い。国内の湖では田沢湖に次ぐ深度を持つ。透明度の高い淡水湖で、風光明媚。洞爺湖と比べて、神秘的な雰囲気が色濃い。(2018.12.07) 支笏湖北岸にある丸駒温泉の野外露天からみる朝の支笏湖。秘湯丸駒温泉は自家発電。使用する水は支笏湖水をろ過、殺菌したもの。(2018.12.08)


恵庭森林鉄道

恵庭森林鉄道6号橋 1955年廃止(Map
千歳線恵庭駅を起点とする恵庭森林鉄道は、王子製紙によって1927年に敷設された。上流部で漁川を越えて右岸に移っていた6号橋は、今も森の中でたたずんでいる。(2018.12.07)
6号橋からみた漁川。(2018.12.07) 南側は断崖状の崖となっているが、北側は河原に降りることができる。北側から6号橋を俯瞰したところ。(2018.12.07)
河原から6号橋を仰ぎ見る。鉄道橋にしては、橋桁、橋脚ともに細いが、軽便鉄道ならではの規格だろうか。ゲルバー式ラーメン橋(橋脚を橋桁と剛結合させた構造様式)と称される。森閑たる世界にたたずむスリムでシンプルな橋梁は、モノトーンの雪景色によくあう。(2018.12.07) 橋梁の上流側には、恵庭発電所取水堰とその管理小屋がある。それらの施設のための細い車両用道路もあるが、一般車は通行不能。管理人は南を通る道道恵庭岳公園線から、森の中を藪漕ぎをして、当該地にたどり着いた。(2018.12.07)
恵庭森林鉄道6号橋、北側から進入する雰囲気と、橋上の写真。橋の幅は150cm程度で、ナローゲージらしい細さを感じさせる。(2018.12.07) 橋梁の南側は、森の中に向かって、かつての線路跡である堀割が続いている。(2018.12.07)


札沼線

札沼線の徳富川橋梁。(Map
新十津川駅と石狩橋本駅の間にあった。現在も水道橋として使用されているため、その姿は現橋として健在。右岸(南側)には、堤防を跨いで、近くまで新十津川町の住宅地が広がっている。(2020.04.14)
上徳富駅(札沼線) 1972年6月19日廃止(Map
駅跡に痕跡はないが、近くに上徳富駅の国鉄官舎だった建物が民間転用の経緯を経て、現在も残っている。(2018.10.13)
雨竜駅(札沼線) 1972年6月19日廃止(Map
雨竜駅跡を示す小さな石碑がある。付近の農業倉庫の前には、廃止から46年の風雪を耐えて、腕木式信号機がただ一本、残っている。(2018.10.13)
和駅(札沼線) 1972年6月19日廃止(Map
駅舎が現地の縫製工場の一部となり、当時の形状を今に伝えている。玄関の正面から、二車線の道路が国道まで伸びている様子が、かつての建物の用途を証明している。(2018.10.13)
碧水駅(札沼線) 1972年6月19日廃止(Map
駅舎が民間転用を経る形で、現在まで補修されながら、その姿を残している。


幌内線

                                               
萱野駅(幌内線) 1987年7月13日廃止(Map
周囲が整備され、ライダーハウスとして活用されている。駅舎2001年に周辺住民の活動により再生されたもの。内部は宿泊可能なものとして改装されているが、駅舎は往時をよく伝える。ホームの駅名票はレプリカで、下り方面の次駅は「三笠」ではなく、三笠の旧名である「幌内太」となっている。また、上り方面の次駅も、廃止時の「栄町」ではなく、「岩見沢」となっており、幌内鉄道開業の頃をイメージしたものと思われる。ホーム跡には車掌車が1両静態保存してある。(2016.05.14)
三笠駅(幌内線) 1987年7月13日廃止(Map
三笠駅の前身である幌内太駅の姿が復元され、クロフォード公園して保存されている。80系気動車、ディーゼル機関車など、数多くの車両が静態保存されている。(2014.10.05)
往年の三笠駅
三笠駅跡であるクロフォード公園から、三笠鉄道村のある幌内に向かう途中の交差点に、狭軌の機関車が1両、説明もなく展示してある。(2016.05.14)
後日、この機関車が「頼城号」と呼ばれていることを知ったので、芦別炭鉱で使用されていた無番機ではないか推測する。
唐松駅(幌内線) 1987年7月13日廃止(Map
地元有志により駅周辺の整備、駅舎の修復が行われ、保存されている。山中の酪農家のような見た目が特徴。そらち炭鉱アートの会場としても使用され、管理人はその際にも訪問した。(左;2014.08.10 中・右;2016.05.14)
三笠市弥生地区には、1960年代後半に建築された赤い三角屋根の棟続きの炭鉱住宅(1棟6戸建てで、それぞれ中2階)が残っており、外観を見学することができる。煙突がなかなかカラフルだ。(2016.05.14)
弥生地区の炭鉱住宅。かつて住宅のすぐ脇を通っていた北海道道116号岩見沢三笠線が、線形改良された新道の幾春別川に架かる橋梁から見た風景。(2021.09.20) 弥生駅(幌内線) 1987年7月13日廃止(Map
駅跡には石碑のみが残っているが、訪問時、付近の芝はきれいに刈られていた。(2021.09.20)往年の弥生駅
幾春別駅(幌内線) 1987年7月13日廃止(Map
駅跡には石碑が残るのみである。(2014.10.05) 往年の幾春別駅
幾春別駅からは、駅北側にあった奔別炭鉱のホッパーへ引込線が伸びていた。引込線が道路を越えていた陸橋の橋台が片方だけ、近くに残っている。(2014.10.05)(Map 唐松駅近くに残る幌内炭鉱立坑跡(2014.08.10)
幌内炭鉱立坑跡 (2020.08.15) 幾春別駅近くに残る選炭施設(ホッパー)。(2014.08.10)
当施設跡を利用した“そらち炭鉱アート”開催時に撮影した写真については、石勝線沿線風景で紹介しています。
幾春別駅近くに残る奔別炭鉱立坑跡
(2014.08.10)
奔別炭鉱の敷地は、しばしばイベントで開放されることがある。その際に訪問して撮影した写真。巨大な選炭場の威容を実感できる。(2020.08.15) 骨組みが露になった選炭場の屋根。かつては、この下で石炭列車への積み込み作業も行われた。3編成が入る構造。(2020.08.15)
いまなお聳える立坑は、幾春別のランドマークである。産業遺産としての風格がある。(2020.08.15)
巨大な選炭場。2014年のアートイベントでは、内部に入ることもできた(その際の写真については、石勝線沿線風景で紹介)が、訪問時の敷地開放イベントでは、建物の内部に入ることができなくなった。もう入れないのだとしたら、残念なことだ。(2020.08.15).
幌内住吉駅(幌内線) 1972年11月1日廃止(Map
三笠―幌内間に存在した唯一の駅。幌内線の廃線跡、およそ2.8kmにわたって線路が残されており、無雪期にはトロッコで走ることが出来る。トロッコ利用者向けの「幌内住吉駅跡」の小さな表示がある。駅のホームの跡が一部残っている。トロッコを運転するには、普通運転免許が必要。(2016.05.14)
幌内駅(幌内線) 旅客営業1971年11月1日廃止 貨物営業1987年7月13日廃止(Map
旅客営業は1972年11月1日廃止。現在は、三笠鉄道村、同記念館として敷地が整備され、多くの鉄道車両が保存されているほか、幌内からクロフォード公園までは、トロッコ用線路も敷かれたままになっている。
動態保存されているS-504は1939年製作。室蘭の日本製鉄輪西製鉄所で運用されていたもの。室蘭市の鐵原コークスで使用されていた当時からの文字が車体に残されている。静態保存されている59609は幌内線で主力として活躍した(幌内線にて紹介)。C122は苗穂工場の入換機として運用されたもの。屋外の車両展示は無料で閲覧できる。記念館の入場は訪問時530円だった。記念館内では、貴重な展示物、写真を見ることが出来る。
(最上段左と中;2012.08.11 他16枚;2016.05.14)
弥生駅跡と幾春別駅跡の間に残る桂沢ダム建設事業線の桟橋跡(Map)。桂沢ダム(1951年着工、1957年竣工)を建設する際、砂利、コンクリート等の資材搬送の目的で建設されたとされる。(2022.04.29) 桟橋部分は複線構造だったと推測される。部分的に単線分の橋梁構造が残っており、全体構造が推測できる。(2022.04.29) 桂沢ダム建設事業線の桟橋跡の全景。(2022.04.29)
建築物としての構造は、訪問日現在、良好な状態で残っていると言ってよい。幌内線の本線部分が明瞭に残っていない一方で、1950年代に役目を終えた当該線の遺構が明瞭に残っているのは、構造の頑丈さのみならず、他に転用しにく所在地であったことが大きい。(2022.04.29)
桂沢ダム建設事業線跡の築堤の擁壁跡が、桟橋跡から弥生駅方面に向かって残っている。(2022.04.29) 弥生駅方面に続く桂沢ダム建設事業線の路盤。(2022.04.29)
前年(2022年)の訪問時より、季節的に少し早いタイミングで訪問してみた際の桂沢ダム建設事業線跡の様子。(2023.04.10)



幾春別森林鉄道

三笠市立博物館の庭園に展示してある炭鉱坑内人車。三笠市は炭鉱の歴史のみならず、各地で古代の地層が露出する地質学的環境があり、ジオパークに指定されている。三笠市立博物館は、かつて幾春別駅の選炭場があった場所に設置されているが、すぐ南を流れる幾春別川に沿って、対岸を幾春別森林鉄道(1938-1956)という場所でもある。旧林鉄跡は、幾春別川が削った古代地層が多く露出しているため、博物館では、森林鉄道の路盤跡を野外展示施設の散策路として整備しており、気軽に廃線跡を歩くことが出来る。(2021.11.06) 幾春別森林鉄道跡を利用した三笠市立博物館の野外博物館にて。幾春別森林鉄道が小川を越えていた箇所に橋台が残っている。(Map)(2021.11.06)
三笠市博物館は、幾春別森林鉄道跡を野外展示物として管理しており、上記の橋台の脇に説明版が設置されている。(2021.11.06) 幾春別森林鉄道跡を利用した野外博物館の観覧用歩道。幾春別川に沿った素敵な散歩道になっている。(2021.11.06) 対岸に見える「幾春別層」。5000万年前の河川の地層とされ、石炭層を含んでいる。(2021.11.06)
散策路から階段を上がったところにある幾春別炭鉱錦立坑櫓跡。貴重な産業遺産であり、三笠市立博物館の展示物として保存されているのが素晴らしい。内部も自由に閲覧できる。(2021.11.06) 幾春別森林鉄道跡。右手に幾春別川。写真正面方向が幾春別駅の方向となる。(2021.11.06)
野外展示観覧用歩道にある神泉(しんせん)隧道は、森林鉄道時代に用いられていたものが保守されて現在も訪問者に供されている。路盤は、歩行、自転車通行用に整備されているが、内部は当時のままの素掘りの壁面を見ることが出来る。(Map)(2021.11.06) 三笠市立博物館による神泉隧道の説明版。(2021.11.06)
幾春別駅からさらに桂沢湖方面に向かうと、幾春別駅を起点としていた幾春別森林鉄道(1938-1956)の3號橋を見ることが出来る。(Map)(2014.10.05)  幾春別森林鉄道の3號橋。このすぐ上流に桂沢ダムがあるため、ここより上流側の森林鉄道跡は桂沢湖の底に沈んでいる。3号橋は、現在では送水管を支える役目を担っている。両岸は崖となっているが左岸側から川岸まで降りることができる。(2021.11.06)
幾春別森林鉄道の3號橋。左写真は上流側から、幾春別駅方面を望んだところ。(2021.11.06) 幾春別森林鉄道は、幾春別川が削った深い渓谷の底を、川沿いに上流に向かっていた。(2021.11.06)


三菱石炭鉱業大夕張鉄道線(大夕張鉄道)・下夕張森林鉄道・真谷地炭鉱専用鉄道

南大夕張駅(三菱石炭鉱業大夕張鉄道線)1987年7月22日廃止Map
駅舎はないが、三菱大夕張鉄道保存会によって駐車場公園として整備されている。除雪車と客車2両が保存されている。(2012.08.16)  往年の南大夕張駅
三菱石炭鉱業大夕張鉄道線 南大夕張駅跡。大夕張鉄道保存会によって保守されている。保存客車の内部は見学可能。(2018.11.03)
三菱石炭鉱業大夕張鉄道線の車窓からも見えた夕張川の流れ。(2018.11.03) 南部地区に残る体育館の建物。(2018.11.03) 三菱石炭鉱業大夕張鉄道線の遠幌駅跡近くにある遠幌保育園跡の建物。(2018.11.03)
シューパロダムの完成により多くの鉄道遺産、産業遺産が水没した。写真は水没した工作物でもっとも有名だった下夕張森林鉄道1号橋梁(三弦橋)。その奥、対岸には2号橋梁も見える。1964年廃止。(2015.03.07)(Map 下夕張森林鉄道4号橋梁 1964年廃止(2015.03.07) 三菱石炭鉱業大夕張鉄道線の覆道跡。1973年12月16日廃止。かつてはシューパロ湖の西岸を大夕張鉄道が、東岸を下夕張森林鉄道が走っていた。これらの写真はいずれもシューパロダムの試験湛水で一次的に水位が低下した際のもの。 (2015.03.07)
2014年に完成したシューパロダムは堤高110.6mで日本最大級の多目的ダムとされる。そのダム湖であるシューパロ湖は、かつて2万人が暮らした大夕張地区とともに、数多くの産業遺産を湖底に沈めたが、渇水期にその一部を見ることが出来る。これは先代「白銀橋」(現「白銀橋」は、シューパロ湖上にある)で、1968年に竣工したもの。下路式アーチ橋の上端部である。さらにその先代の「白銀橋」(吊り橋)は、主に札幌営林局が運材に使用していたが、1968年にクレーン車が通過する際に発生した原因不明の落橋事故を起こしたことから、アーチ構造の永久橋として新たな「白銀橋」が建築された。落橋した白銀橋(吊り橋)は橋長110m、幅3.5mで、設計上では、56トンの荷重まで耐えられるはずだったという。事故当時、風が強かったことが原因の一つと考えられているが、落橋の原因がすべて明らかとなっているわけではない。(2023.08.11) 参考Map(1979年) 本来は、シューパロ湖の湖底である部分に続いている道路跡と大夕張鉄道跡。大夕張鉄道跡は、サイクリングロードに転用された後、水没した。ちょうど、写真のサイクリングロードの直線部分に、かつて「明石町駅」があった。ちなみにこの日のシューパロダムの貯水位は283.8mであった。シューパロダムは、灌漑利用が多くなる等の理由により、8月~9月に水位が下がる傾向があり、この景色を見ることができる時もある。(2023.08.11) 明石町駅の北側にあった大夕張鉄道の旭沢橋梁跡。1973年12月16日廃止区間にある。通常はシューパロ湖の湖底に没しているが、渇水期にその姿を見ることが出来ることがある。第1回北海道遺産にも選定された美しいトラスド・ガーダー橋である。(2023.08.11)(Map
大夕張鉄道旭沢橋梁(5号鉄橋あるいは8号橋梁)跡。横河橋梁製作所による、鋼トレッスル橋脚を持つトラスド・ガーダー橋。上弦材であるIビームをトラスのパネルが補強している。(2023.08.11)
堅牢な橋梁は、訪問日現在も、徒歩で渡ることができた。写真奥に見えるのは、投稿日現在、夕張岳登山道へ至る道路橋、「白銀橋」(長らく当該地の橋として、この名を引き継いでいる)であるが、訪問日当日は、登山口に至る途中で崩落事故があったということで、橋への車両通行の再開についても、年内再開の見通しはないとのこと。廃墟となった湖底の世界を見下ろす現道も、寂しい状況のようだ。(2023.08.11) 旭沢橋梁の上から、北方向を望む。(2023.08.11) 旭沢橋梁の北側には、かつて、大夕張方面に向かっていた大夕張鉄道の路盤跡である掘割が残る。もちろん、これらの光景もすべて、ふだんはダム湖の底に没しており、目にできる機会は多くはない。それを考えると、周囲の植物の成長の速さには驚かされる。(2023.08.11)
清真台駅(真谷地炭鉱専用鉄道) 1966年9月3日廃止(Map
真谷地炭鉱専用鉄道(1913-1987)は、1915年から真栄町、清真台の2つの途中駅(停車場)を設けた上で、旅客の輸送も行っていた。そのうち清真台駅跡では、並行する道路から築堤上の駅に登るための階段が現在まで残っている。(2018.11.03) 
清真台駅跡~真谷地駅跡に残る真谷地炭鉱専用鉄道の廃線跡。終着であった真谷地駅跡付近では、最近まで残っていた選炭場も取り壊されてしまい、何も残っていない。(2018.11.03)


石勝線・富内線

楓駅(石勝線) 2004年3月13日廃止(Map 注:マップは先代楓駅の位置。紹介している廃駅跡は、現石勝線沿いで、先代楓駅跡より東側)
現在、新夕張を出て占冠側に石勝線を行くと、時刻表に掲載されていない駅があるように見える。石勝線開業時に移設された3代目楓駅の痕跡。しかし、楓駅現役時には、このホームは使用されていなかった。楓駅に停まる列車はすべて、別に設置された引き込み線ホームに停車し、折り返し運転を行っていた。楓駅が廃止された現在では、いわゆる「幽霊駅」という形で、一度も利用されなかったホームが残っている。(2014.10.04)
楓駅跡を「幽霊駅」たらしめていたの本線のホームは撤去された。ホームがあった場所に保線のための詰所が設けられている。(2018.11.03) 楓駅の本線上り線側ホームに降りていくための階段が残っている。旅客に使用されることはなかった。(2018.11.03)
楓駅のホームに続いていた階段は、ホーム撤去後は入口も出口もない不思議な階段のみの状態として存している。(2018.11.03) 春日駅(富内線) 1986年11月1日廃止(Map
鵡川を望む小さな居住エリアの中に駅舎とホーム跡が残り、ホーム跡には駅名票が残されている。駅舎はバスの待合室として、幸いにも再利用されている。(2018.12.24)
2006年に竣工した道道983号米原田浦線が鵡川を渡る新春日大橋から春日駅跡を望むことが出来る。(2018.12.24) 旭岡駅跡から富内線跡は鵡川の西岸に沿って続いている。斜面の下となる個所に、3つの落石覆が今も残り、当時の様子を伝えている。(2018.12.24)(Map)
旭岡駅跡から数えて2番目と3番目の落石覆は近接した位置にある。(2018.12.24) 2つ目の落石覆の内部。日高町側の出入り口は土砂で埋まりかけている。(2018.12.24) 落石覆側面にある排水管は、人知れず機能し続けているようだ。訪問時は氷点下の気温で、つららが下がっていた。(2018.12.24)
旭岡の集落付近から見た鵡川の流れ。車窓の美しかった富内線を偲ばせる。(2018.12.24) 富内線の富内までの歴史は古い。元は北海道鉱業鉄道(のちの北海道鉄道)が、富内付近で産出される鉱物資源と森林資源の搬送を目的として、1922年に開業したもので、札幌から現在の千歳線と連続した線形で運用されていた。国有化後の1943年に、沼ノ端で千歳線に直通していた線路を、鵡川起点に付け替えた。鵡川に沿った富内付近の線形は、なぜかゆるやかな東岸ではなく、急峻な西岸に続いていた。現在、東岸にある道道131号平取穂別線をゆくと、鵡川の対岸である崖に、富内線跡を示す平場が続いているのが見える。(2018.12.24)
富内駅(富内線) 1986年11月1日廃止(Map
駅舎の他、側線を含むレールとホーム、腕木式信号機が保存されて、駅舎内の設備も復元されている。構内の側線が、空に向かっているものがあるが、銀河鉄道をイメージした芸術作品のようだ。管理人が訪問したときは、軌道用自転車が置いてあり、乗ることができた。(2013.05.11)
富内駅跡の鵡川方面に、天空を向いた線路のオブジェが見える。(2013.05.11) 富内駅跡に、富内線各駅の駅名標が展示してある。(2013.05.11)
駅があったころの名残を残す富内駅前の集落。(2013.05.03) 冬の季節に再訪した富内駅跡。綺麗に手入れされており、保存状態は良い。ただ、駅母屋の対面側のホームが新築されているのだが、そのホーム高が妙に高く不自然な感じになっている。(2018.12.24)
富内駅跡。(2018.12.24) 富内駅跡から日高町方面を望む。線路が残されていて、郷愁溢れる風景になっている。(2018.12.24) 富内-幌毛志間の富内線跡。富内線は、1958年に振内まで、1964年まで日高町まで延伸される。その線形は、富内まで辿っていた鵡川水系から、分水嶺を越えて沙流川水系に移るというもので、支線としてはユニークなものだった。分水嶺を越える峠越えが必要だった。(2018.12.24
第一日振トンネルの幌毛志側坑口跡。鵡川から来ると峠を越えた出口であるが、すぐ向かいには連続して幌毛志トンネルがあった。第一日振トンネルは、軟弱な蛇紋岩地質により難航したという。坑口への接近はしなかったが、塞がれているようだ。(2018.12.24)(Map 幌毛志トンネル富内側坑門跡。第一日振トンネルの幌毛志側坑口跡と近い場所にある。やはり入口は塞がれている。(2018.12.24) 振内駅(富内線) 1986年11月1日廃止(Map
平取町により「振内鉄道記念館」として整備され、D51-23が静態保存されているが、記念館は管理人が訪問した時は閉鎖されていた。(2013.05.03)
振内駅跡にある振内鉄道記念館。平日の日中は開館しているが、当該時に施錠してあるときは、町の施設管理部署へ連絡するらしい。訪問時は祝日で中には入れず。(2018.12.24) 振内駅は実質的に平取町の代表駅だった。平取町の役場は沙流川のより下流域で、かつて日高線の富内駅から沙流鉄道(1922-1951)が通じていた。1951年に廃止された同鉄道に代わって、1958年に富内線が振内まで延伸された形となる。(2018.12.24) 振内駅跡と駅跡に静態保存展示されているD51-23。D51-23はサハリンで活躍し、その後当地で保存されることとなった。現在も、塗装されるなどしてきれいな状態を維持。(2018.12.24)
振内駅跡で、雪の中、夕陽を浴びるD51-23。(2018.12.24) 日高町駅(富内線) 1986年11月1日廃止(Map
駅は町の西端にあった。現在の駅跡には鉄道関連の遺構はほとんど見出せないが、駅舎のあった場所には「国鉄富内線の跡」の銘が刻まれた石碑が一つ、置かれている。(2018.12.24)


三井芦別鉄道

芦別駅を出た三井芦別鉄道は、芦別川に沿う手前で、尾根を芦別隧道(69m)により通過していた。現在も山林の中に隧道の坑口があり、隧道は貫通している。写真は南側の坑口。2021.01.30(Map 芦別隧道の北側坑口。付近の山林では木々の密度が濃いため、冬季の方が坑口を目視しやすい。貫通した反対側坑口の明かりも見える。2021.01.30
三井芦別鉄道の芦別隧道。冬季は雪深く、接近できなかったため、無雪期に再訪した際の写真。入口はベニヤ板で塞がれており、内部に入ることはできない。(2021.11.06) 芦別隧道、南側坑口、ベニヤ板の隙間から覗いてみた。内部はきれいな状態を保っているようだ。(2021.11.06)
三井芦別駅(三井芦別鉄道) 1972年6月1日廃止(Map
現在は㈲芦別資源商によって、作業所として利用されている。正面左側は、後に増築されたものと思われる。(2016.10.16)
三井芦別駅のホーム跡が一部残っている。(2016.10.16)
三井芦別鉄道の炭山川橋梁では、DD501とセキ3000が、橋梁と併せて保存されている。山間を抜ける石炭列車の姿を、現在に伝える貴重な文化資産となっている。(Map)(2016.10.16) 炭山川橋梁付近からは、芦別川の作る渓谷の風景を見渡すことができる。(2016.10.16)
炭山川橋梁と三井芦別鉄道の保存車両。橋梁の北側は整備された緑地となっている。橋梁に立ち入ることはできないが、右の写真を撮影可能な場所までは入ることが出来る。(2020.08.01)
緑泉駅(三井芦別鉄道) 1972年6月1日廃止(Map
国道沿いにあり、民家として使用されている。道路裏手には、ホームを偲ばせる段差も残っている。(2016.10.16)
頼城駅(三井芦別鉄道) 1972年6月1日廃止。(Map
貨物営業としては、1989年3月26日の廃止。三井芦別鉄道の終着で、運炭の基地となった。駅跡に痕跡は残っていないが、左写真では、シートが飛ばないように、かつてのレールが重しとして使用されていた。また駅跡のすぐ北側には、水路を跨いでいた橋台が残っている。(2021.11.06)


芦別森林鉄道

         
根室線上芦別駅を起点としていた芦別森林鉄道(1934-1962)は、本線だけで30を越える橋梁を架していた。現在も芦別川流域にいくつかそれらの痕跡を見ることが出来る。写真は緑泉沢に架かっていた緑泉橋跡に残る橋脚。北岸に大規模なものが残っている。(2023.04.10)(Map
緑泉橋の南側の森の中で、驚くほど明瞭に掘割と線形が残っている。訪問時は雪解け水で、道床に泥水が堆積しており、ここを移動するのは少々難儀した。(2023.04.10) 芦別森林鉄道の線形を残す掘割が続く。(2023.04.10) 頼城地区の農地の東端にあるわずかに草付きの少ないところが芦別森林鉄道の道床跡であり、ここから進入すれば、緑泉橋跡までたどり着くことが出来る。管理人は、最初、緑泉沢を遡行して、緑泉橋跡までたどり着こうとしたが、そのルートは難しいのでオススメしない。(2023.04.10)
パンケリヤウシ川の北側で、掘割の中に残る芦別森林鉄道の道床跡。(2023.04.10) パンケリヤウシ川北側で、芦別森林鉄道の道床跡を歩いていると、鉄製の部材が放置されているのを目にした。右写真は車輪というよりは滑車に見える。林業に供与された機械の一部である可能性が高いが、詳細は不明。(2023.04.10)
パンケリヤウシ川の北岸に残る境橋跡の橋脚。付近は急坂で、接近には注意が必要。(2023.04.10)(Map 境橋の北側の橋台。急な傾斜地になっており、もっと距離のある俯瞰的写真を撮りたかったが、管理人には無理だった。(2023.04.10)
パンケリヤウシ川の南岸の芦別森林鉄道道床から見た境橋跡。こちらにも橋脚が残っている。(2023.04.10) パンケリヤウシ川の南岸側に残る境橋跡の橋台と橋脚。(2023.04.10) 境橋の南側の橋脚。(2023.04.10)
境橋の南側の橋脚の上に、なぜか一本、レールが置いてある。本来の向きとはあらぬ方に向けて放置されたレールは、何かの戯れのようにも見えた。(2023.04.10) 境橋の南側の橋台。これ以上、距離を置いての撮影は難しかった。(2023.04.10) 境橋の南側に続く芦別森林鉄道の道床跡を歩いていると、レールがあった。敷いたままのものではなく、別用途に転用された後、放置されたものだと思われる。(2023.04.10)
ペンケリヤウシ川の北側で、上芦別方面に続く掘割の跡で、路肩部分が明瞭に分かる部分の一つ。(2022.04.29) 芦別森林鉄道の廃線跡で、レールを見つけることが出来た。写真のように、路肩に敷かれたものではなく、別の設備に転用された後、現場で放置されたものと思われる。(2022.04.29) ペンケリヤウシ川を越える個所に残っている橋脚跡(Map)。写真左には北側の橋台跡も見える。ペンケリヤウシ川は「青木沢」の名称があり、この橋も青木橋と呼ばれていた。(2022.04.29)
ペンケリヤウシ川の谷に眠る橋脚跡。国道452号線からしばらくヤブを漕げば見えてくるが、橋脚付近の斜面は急であり、ヤブの深い季節の接近は困難だろう。(2022.04.29)
ニシジマノ沢川の北側の掘割に続く芦別森林鉄道の道床跡。道床は雪解け水が集まって、一部は川の様になってぬかるみ、歩くのに難儀した。(2023.04.10) ニシジマノ沢川の北側の芦別森林鉄道路盤跡。(2023.04.10)
ニシジマノ沢川の北側、霞橋跡に残る橋台の上部。なぜかレールの一部が、橋台の上で、かつてあった場所に直置きされたようになっていた。(2023.04.10)(Map ニシジマノ沢川の北側に残る霞橋の橋台。付近の地質は脆く、深い谷の近くでの行動は、制約が大きかった。運用当時の保守も大変だっただろう。霞橋は、目もくらむような高さだったことからその名称が与えられたとされるが、現在も地形の厳しさは変わらなかった。(2023.04.10)
ニシジマノ沢川の南側、霞橋跡の南側橋台の上から、深い谷をのぞき込む。下方に橋脚の下部構造物を見ることが出来る。
 なお、ニシジマノ沢川は、当該地のすぐ上流で二股となっており、その尾根の先まで行けば、霞橋跡の全体像を見ることができるかもしれないと思い、先端まで辿ってみたが、思いのほか、橋脚跡は遠く、労多くして、報われなかった。(2023.04.10)
ニシジマノ沢川の南側に残る霞橋の橋台。もっと高度を下げてみたかったが、下ったら、戻ってこれるか微妙な地形だったので、断念した。(2023.04.10) ニシジマノ沢川の南側に続く芦別森林鉄道の路盤跡。残雪がその所在を明瞭に示してくれている。(2023.04.10)
芦別森林鉄道本線の七夜橋跡(Map)。国道452号線の同名の橋の西側にある。両側はかなり厳しい崖になっている。訪問時は、橋梁北側の芦別川側に存置ロープがあったので、利用させていただいた。咲別川と芦別川の合流付近は、雪解け水を集めて、激しく逆巻いていた。(2022.04.29)
芦別森林鉄道は根室線上芦別を起点とし、1934年から1962年まで運用された。複数の支線を持っていたが、写真は、八月沢(はちげつさわ)線(1948-1954)が芦別川を渡っていた箇所で、芦別川に残る八月沢橋の巨大橋脚(Map)。引用Mapに八月沢線の線形を赤破線で表示しているが、八月沢線は、八月沢に沿って遡上する前に、いったん芦別川沿いに進んで標高を稼ぎ、芦別川を越えてUターンしてから、八月沢沿いに戻り、その右岸をさかのぼるという線形を持っていた。八月沢線廃止後のものであるが1960年撮影の航空写真に、その線形は明瞭に残っている。芦別川を越える「八月沢橋」は、雄大なコンクリート橋脚の上に木造トラスの橋げたを架し、さらにその上に線路を通すという壮大な構造であった。いまなお、森の奥深くに眠る橋脚は、優に20mを越えるであろう威容を示している。(2021.11.06) 芦別左岸からみた八月沢橋の橋脚跡。(2021.11.06)
対岸にもう一つ同じ規格の橋脚が残っている。林の中になるため、見えずらいが、右の写真では、比較的はっきりとその姿が分かるだろう。下夕張森林鉄道の三弦橋が、シューパロ湖の湖底に沈んだ現在では、北海道に残る最大の森林鉄道の遺構と言えるのではないだろうか。(2021.11.06) 芦別川には崩れた橋梁の残骸と思われるものも見える。(2021.11.06)
芦別森林鉄道惣顔真布(そうかおまっぷ)支線が芦別川を渡っていた橋脚(全4本)が残っている。国道西側に一瞬だが見ることができる。(Map)(2016.10.16) 惣顔真布支線の橋脚群。接近は、降雪の直前の季節が理想的だろう。(2021.11.06)
惣顔真布支線(1957-1962)の芦別川渡河地点に残る橋脚群。右の写真は橋台の上から撮影したもの。正面方向が、本線と合流する上芦別方面となる。(2021.11.06)
第二芦別川横断橋梁跡。芦別森林鉄道本線が芦別川本流を渡河していた地点に橋台が残っている。(Map)(2021.11.06) 芦別川上流域の風景。通年で豊かな水量を誇る。かつてこの川の水域に、上芦別を起点とし、三井芦別鉄道の終着頼城駅を中継基地とする芦別森林鉄道(1932-1961)が張り巡らされていた。(2016.10.16)


三菱鉱業芦別鉱業所専用鉄道

根室線の上芦別駅を起点として辺渓三坑までの8.2kmを結んでいた三菱鉱業芦別鉱業の専用鉄道(1949-1964)。上芦別駅の北側、旧線路沿いに給水塔が残っている。(Map)(2020.08.01) 給水塔跡は冬の時期の方が、良く見える。(2021.01.30)
三菱鉱業芦別鉱業専用鉄道の給水塔跡。廃止から50年以上経過した今も野の中に建つ。(2021.01.30) 三菱鉱業芦別鉱業専用鉄道の空知川渡河地点に空知川橋梁の遺構が残っている。写真は南岸に残る橋台。芦別市のなまこ山運動公園のパークゴルフ場奥の藪を漕いだ先にあるが、急峻な崖となっているので、接近には注意が必要。(Map)(2021.11.06)
三菱鉱業芦別鉱業専用鉄道の空知川橋梁跡。橋台、橋脚が残る他、対岸の崖には、辺渓隧道の南側坑口が存在するのが見える。右写真は、まっすぐに坑口をめがけて進むイメージで撮影したものだが、写真では坑口の存在は確認しにくい。(2021.11.06) 辺渓隧道の北側坑口。坑口は土砂で埋め戻されており、かろうじて坑門の上部を見ることが出来る。(Map)(2021.11.06)
埋め戻された辺渓隧道の北側坑口であるが、上端部が僅かに空いており、少しだけ中の様子を見ることが出来る。(2021.11.06) 辺渓隧道北側坑口から、北側を俯瞰すると、すぐに辺渓川橋梁の橋脚群が続いているのを見ることが出来る。(2021.11.06) 辺渓川橋梁の左岸側橋台。川に降りて撮影した。この日は猛暑だったため、川の中を歩くのは心地よかった。(Map)(2020.08.01
辺渓川橋梁の右岸側橋台。(2020.08.01) 辺渓川橋梁は、川を越えた北側に延びていた。畑の中に橋脚が残っているのを見ることが出来る。(2020.08.01) 第一盤の沢橋梁。美しい2連のアーチがきれいに残っている。(Map
第一盤の沢橋梁。盤の沢川を越えている。現在ではすぐ横を国道452号線が通っている。(2021.11.06) 第三盤の沢橋梁。荘重なアーチが残っているが、草の少ない時期に再訪したいところ。(2020.08.01)(Map
第三盤の沢橋梁。「草の少ない時期」に再訪してみた。はっきりと見通すことができた。三菱鉱業芦別鉱業専用鉄道は、盤の沢川をアーチ橋で繰り返し渡河していたが、アーチが現在まで残るのは第一盤の沢橋梁と第三盤の沢橋梁の二つのみ。(2021.11.06) 第四盤の沢橋梁。両岸の橋台が残っている。(Map)(2021.11.06)


深名線

幌成駅(深名線) 1995年9月4日廃止(Map
深名線廃止の際、幌成駅のすぐ横にあった農機具工場に駅舎が移され、事業所内で長く使用されている。このような形で駅舎が残ってくれることは嬉しい。写真では逆光で見にくいが、ちゃんと「JR幌成駅」の表示も残してくれている。(2021.11.06)
鷹泊駅(深名線) 1995年9月4日廃止(Map
駅舎、ホームが残っている。駅舎は農業倉庫として利用されており、中には入れない。(2013.11.02)
鷹泊駅跡ホームから、深川方面を望む。(2013.11.02) 鷹泊駅 夏の風景(2016.08.11) 鷹泊駅跡。駅ホーム側からの風景。駅舎の建物は残っているが、ホーム側にあった上屋は失われ、駅舎らしさが減じてしまった。草に覆われているが、ホーム跡自体は残っている。(2022.07.30)
鷹泊駅跡。強い日差しと、青空を行く白雲の下、駅舎が残ってくれている。(2022.07.30) 沼牛付近の蕎麦畑。幌加内町は全国一の蕎麦の生産量を誇る。深名線跡沿線には、いくつか美味しいそば屋が並んでいる。(2016.08.11)
沼牛駅(深名線) 1995年9月4日廃止(Map
駅舎、ホームが残っている。2013年訪問時、駅舎は農業倉庫として利用されており、中には入れなかったが、その後、クラウドファンディングによる保存活動が行われ、駅舎は修復され、保存されることとなった。2016年の写真は修復中のもの。修復後は、たびたびイベントも開催されるようになった。保存駅舎活用の優れた先例となった。(左・中;2013.11.02 右;2016.08.11)
クラウドファンディングを通じて修復保存された沼牛駅跡。この活動には、管理人も参加させていただいた。当該駅舎の修復には、惜しまれつつ解体されたちほく高原鉄道の上利別駅の廃材が利用されたという。往時の雰囲気を伝える素晴らしい財産となったと思う。駅舎内部も修復されているが、イベント等で使用される時以外は開放されてはいない。このまま地域の財産として、守り伝えてほしい。(2022.07.30)
ホーム側からみた沼牛駅跡。国鉄自体の木造駅舎ならではの旅情を湛えた姿。(2022.07.30) 深川側には、腕木式信号機が置かれており、駅舎と併せて保存されている。(2022.07.30) 深川方面かた沼牛駅駅舎越しに幌加内・朱鞠内方面を望む。列車が通っていた時代の風景に思いを馳せさせる。(2022.07.30)
幌加内駅(深名線) 1995年9月4日廃止(Map
廃止後、貴重な駅舎は保存されていたが、惜しくも火事のため消失してしまった。現在は記念碑が建立されている。(2016.08.11)
上幌加内駅(深名線) 1995年9月4日廃止(Map
ホームの一部とホーム部分の線路、駅名標の枠のみが残っており、付近は広場のようになっている。(2013.11.02)
政和駅の南にあった政和温泉駅跡の近くにある第三雨竜川橋梁は、貴重な建築として保存してある。(2013.09.21)(Map
第三雨竜川橋梁風景(2016.08.11) 土木学会による選奨土木遺産となっている雨竜川第三橋梁の説明版。竣工は1931年。「道内初の吊足場式架設工法の採用と輸入鋼材鈑桁の転用など、経済性と工期短縮を考慮した昭和初期の地方鉄道線建設を伝える橋梁」とのこと。(2013.09.21) 政和駅(深名線) 1995年9月4日廃止(Map
廃止駅舎は2003年から食堂として利用されている。季節限定営業のようで、管理人が訪問した際は、営業していないようだった。近くには第三雨竜川橋梁が保存されている。(左;2013.11.02 右;2016.08.11) 
政和駅の駅舎跡 (2016.08.11) 政和駅跡。駅舎の輪郭自体は残っているが、倉庫兼車庫として改装されてしまい、正面はシャッターとなってしまった。それでも、建物の端に、政和駅時代のホーロー駅名標が取り付けられており、駅舎への愛着が示されていると感じた。(2022.07.30) 政和駅跡のホーム側。鷹泊駅跡と同じように、経年により、ホーム上屋が失われてしまい、駅舎の雰囲気が失われつつあった。(2022.07.30)
生産量日本一を誇る幌加内の蕎麦畑。その景色は圧巻の一語。この訪問時も、幌加内で、蕎麦をいただきました。(2022.07.30) 添牛内駅(深名線) 1995年9月4日廃止(Map
駅舎、ホームが残っているほか、駅前広場の花壇も手入れされていた。駅舎には入れない。(2013.11.01)
赤い屋根の色の鮮やかさが残っている添牛内の駅舎 (2016.08.11) 春の雨が降る添牛内駅跡。駅舎は、毎年の豪雪に耐え、きれいに保存されており、廃止後も、駅舎を惜しむ人たちによって、手が加えられているという暖かさを実感した。(2022.05.03) 駅舎の入口には、駅ノートが下げられている。(2022.05.03)
5月に入っても雪の残る添牛内駅跡の風景は、豪雪地帯における公共交通の貴重さを感じさせてくれる。ホーム跡も明瞭に残っている。(2022.05.03) ほぼ3か月の間をおいて再訪した添牛内駅跡。季節によってその雰囲気は大きく変わる。夏場は、草木が深く茂り、周囲の自然の深さを一層強く感じさせる。(2022.07.30) 添牛内駅跡。よくぞここまでと思うほど、豪雪地帯にもかかわらず、木造の駅舎が残っている。この駅舎についても、沼牛駅同様、クラウンドファンディングによる保存の運動が行われているとのこと。ぜひ成功してほしい。(2022.07.30)
かつての駅名標もフレームが残ることで、往時の雰囲気継承に一役買っている。物語の中の一コマのようで、旅情に誘われる。(2022.07.30) 大曲駅-共栄駅間に残る深名線の築堤。尾根の突き当りに、第一雨竜トンネルが見える。(2022.05.03) 共栄駅のすぐ南で尾根を越えていた第一雨竜トンネル。写真は深川側の坑口。(Map)(2022.05.03)
第一雨竜トンネル南側坑口。坑口前には土が積まれているほか、坑口には金網があって、中に入ることは出来ない。(2022.05.03) この日は強い雨の中の探索だった。国道275号線から第一雨竜トンネルに至るには、雪解け水を集めた湿地帯を横切る必要があり、進むのに苦労したが、湿地に咲く水芭蕉はきれいだった。(2022.05.03) 第一雨竜トンネルのすぐ北側にある第五雨竜川橋梁跡Map)。雨竜川の中に橋脚が残っている。
 写真、右側の雨竜川左岸に尾根に第一雨竜トンネルがあって、第五川雨竜橋梁との間に共栄駅があった。(2022.05.03)
第五雨竜川橋梁の橋脚群は、尾根と反対側となる北側の広い河原にも、林の中に点々と残っている。(2022.05.03) 国道275号線から見ると、すぐ並行して写真の橋梁跡があるが、深名線跡ではなく、こちらは国道275号線の旧道にあたる道路の廃道跡となる。写真奥側が深名線跡となる。(2022.05.03) 朱鞠内駅(深名線) 1995年9月4日廃止(Map
駅舎はないが、跡地は公園化され、駅名票も設置してある。(2013.09.21)
朱鞠内駅跡風景。(2016.08.11) 幌加内の蕎麦畑。白い蕎麦の花に大地が覆われる様は壮観。(2016.08.11) 朱鞠内湖は日本最大の面積を誇る人造湖。深名線建設の主要な目的として、ダム建設の資材搬送があった。静謐な自然の中、入り組んだ湖岸線、無数の島が過ぎ行く雲を見ている。(2016.08.11)
朱鞠内湖。澄んだ湖面は、この湖が人造湖であることを忘れさせる。(2016.08.11) 北母子里駅(深名線) 1995年9月4日廃止(Map
藪の中にホームが残っている。ホームの全体が見れるのは、雪解け直後の季節に限られる。(2022.05.03)
北母子里駅跡から続く道路。母子里の小さな集落を望む。(2022.05.03)


宗谷線・美幸線

智東駅(宗谷線) 2006年3月18日廃止(Map
1981年には1日あたり3人の乗客があったが、付近の集落の消滅に伴い、1987年からは夏季のみの臨時駅となり、その後廃止となった。駅跡にはホームの残骸と思われる工作物が残っているほか、保線のための設備が置かれている。(2016.06.10)
仁宇布駅(美幸線) 1985年9月17日廃止(Map
駅舎はないが、1998年より美深町のNPO法人がトロッコ王国美深を運営し、仁宇布から5km程度線路跡が残され、観光客が原動機付きトロッコで走ることができる。管理人も乗った。その他にも周囲では美幸線の第二仁宇布川橋梁をはじめ、橋梁跡、築堤などを、多く見ることができる。(2013.09.21)


羽幌炭礦鉄道

羽幌炭礦鉄道跡 1970年12月15日廃止(Map1Map2)  Map1;築別川橋梁群が残る曙駅付近、Map2;炭鉱住宅跡、ホッパー跡が残る築別炭鉱駅付近
駅跡は残っていないが、橋梁跡を多く見ることが出来る。鶴亀水橋梁は異なるガーダーを繋いだ外見に、当時の物資不足、突貫工事ぶりを垣間見る。また、築別炭鉱では、ホッパーや炭鉱施設、集合住宅などが残っており、案内看板もある。内部には入れない。(2013.11.02)


羽幌線

三泊駅(羽幌線) 1987年8月30日廃止(Map
旧駅舎がバスの待合室として利用されている。長大な羽幌線であったが、何らかの形で駅舎が姿をとどめたのは、残念ながら三泊駅が唯一であった。留萌の次駅であり、留萌からの市街地が、切れ目なく続いており、付近の海岸からは留萌の港湾施設を見渡すことが出来る。(2021.11.06)
鬼鹿駅と力昼駅の間にあった小種子川橋梁跡(Map)。橋台が残っている。(2015.01.24)
かつては炭鉱で賑わった羽幌であるが、現在も漁業・観光により地域経済の中心地である。海産物の中でも特に甘えびは有名で、現地で食べることの出来る新鮮な甘えび丼は絶品。(2022.05.05) 築別駅(羽幌線)1987年8月30日廃止(2022.05.05)(Map
かつて羽幌炭礦鉄道の起点であり、羽幌線にも、築別駅を始発・終着とする列車があった他、急行列車も停車した。かつては広い構内があったが、現在まで残るのは一本のホーム跡のみである。訪問日は天気が良く、ホーム上からは利尻山を見ることが出来た。(2022.05.05)
もっとも有名だった初山別村の金駒内陸橋は撤去されたが、そのすぐ北側の金駒内川橋梁は訪問時まで残存。(2013.09.22)(Map
廃美という言葉で形容するにふさわしい金駒内川橋梁跡。夕陽に照らされる風景が特に良い。(2013.09.22) 金駒内川橋梁跡、雪の風景。(2015.01.24) 緩やかな曲線を描く金駒内川橋梁。この橋梁と、その北に続いていた金駒内陸橋は、日本を代表する絶景車窓区間として知られた。日本海に浮かぶ、天売島、焼尻島、遥かに利尻島をも見渡すことが出来た。(2022.05.05)
金駒内川と金駒内川橋梁跡(2022.05.05) 平行する国道232号線から見た金駒内川橋梁。留萌方面を望む。(2022.05.05) 冬の時期は、付近に残る羽幌線の築堤跡が明瞭になる。写真は第一豊岬隧道に続く路盤跡。(2015.01.24)(Map
羽幌線は、豊岬(とよさき)—天塩大沢間で、丘陵地帯を越えるため、4つのトンネルが連続していた。これらは南から第一~第四豊岬隧道で、現在も出入り口が封鎖されていない状態で残っている。写真は第一豊岬隧道の南側坑口で、北側出口まで見通すことが出来る。(Map)(2022.05.05) 第一豊岬隧道の内部、路盤、壁面ともに痛みは少なく、ほぼ現役時のままの姿に思える。写真は退避坑の様子。(2022.05.05) 第一豊岬隧道。直線構造のトンネル。(2022.05.05)
第一豊岬隧道銘板。南側坑口にある。「型式 直線2号型 延長 121m00 設計 日本国有鉄道札幌工事局 施工 伊藤組土建株式会社 着手 昭和31年10月17日 竣工 昭和32年10月15日」と読める。「昭和31年」は1956年。(2022.05.05) 第一豊岬隧道北側坑口から先に続いている羽幌線の路盤跡。正面の丘陵の下に第二隧道がある。(2022.05.05) 第二豊岬隧道南側坑口附近から、羽幌線の路盤跡の向こうに見える第一豊岬隧道北側坑口を望んだところ。(2022.05.05)
豊岬第二隧道南側坑口。訪問時、南側坑口附近はぬかるみになっていて、藪化と併せて、少々接近に難儀した。(2022.05.05) 第ニ豊岬隧道銘板。南側坑口にある。「型式 直線2号型 延長 155m00 設計 日本国有鉄道札幌工事局 施工 伊藤組土建株式会社 着手 昭和32年5月12日 竣工 昭和32年10月15日」と読める。「昭和32年」は1957年。(2022.05.05) 第ニ豊岬隧道内部。隧道の中には、まだ氷が残っており、涼やかな風が吹き抜けていた。(2022.05.05)
第ニ豊岬隧道北側坑口。直線のトンネルなので、155m先の南側坑口が、すぐそこのようにも感じられる。(2022.05.05) 豊岬第三隧道南側坑口。この隧道はカーブを描いているので、反対側の坑口は見通せない。豊岬隧道群は、いずれも土被りは薄く、切通も可能であったと思われるが、冬季のふきだまり等をふまえ、隧道によったのだと思われる。(2022.05.05)
第三豊岬隧道銘板。南側坑口にある。「型式 2号型 曲道 延長 178m00 設計 日本国有鉄道札幌工事局 施工 大成建設株式会社 着手 昭和31年10月20日 竣工 昭和32年3月30日」と読める。「昭和31年」は1956年。(2022.05.05) 第四豊岬隧道の北で、羽幌線は切通を抜けた後、オヤルフツナイ川橋梁でオヤルフツナイ川を越していた。写真は上流側から撮影したもの。川を渡って橋梁に近づいてみたかったが、雪解け水を集めた川の流れは激しく断念した。(Map)(2022.05.05)
オヤルフツナイ川橋梁の北側に続く羽幌線跡の築堤。このあたりは藪化が進み、5月初旬でも築堤を歩いていくのは困難だった。写真奥(左)が留萌方面。かつては写真右手の先に天塩大沢の駅があった。(2022.05.05) 歌越—天塩金浦間のモオタコシベツ川橋梁(旭川橋梁)は、完全な姿で残っている。(Map)(2013.09.22) モオタコシベツ川橋梁(旭川橋梁)、冬の風景(2015.01.24)
モオタコシベツ川橋梁(旭川橋梁)跡。いずれも上流側からみたところ。モオタコシベツ川の上流にはえんべつ旭温泉がある。(2022.05.05) モオタコシベツ川橋梁(旭川橋梁)上を幌延方面に向かって歩いてみた。左前方に利尻山が見える。(2022.05.05)
モオタコシベツ川橋梁(旭川橋梁)跡に残る待避所。さすがに錆化が進んでいるので、乗ることは不可能。(2022.05.05) モオタコシベツ川橋梁(旭川橋梁)付近の羽幌線跡から、望遠で臨む利尻山。(2022.05.05) 遠別-啓明間に残る排水溝のような河川に架かっていた橋台跡。川の名前は、角道川、マサロマップ川など地図により複数の表記が確認できる。ちなみに当該箇所で並行する国道232号線がこの川を越す橋の名は「満佐呂(まさろ)橋」で、その満佐呂橋には「マサリ排水川」と、これまた別の河川名称の表記があった。(Map)(2022.05.05)
更岸駅(羽幌線)1987年8月30日廃止(2022.05.05)(Map
駅跡には駅舎の土台跡が残っており、ホームと思われる段差も確認できた。写真は、かつての駅舎跡から見える利尻山を背景に撮影したもの。
更岸駅から内陸側に入ったところの集落にある更岸小学校跡には、1987年の羽幌線廃止時に、天塩町内にあった更岸駅と干拓駅の駅名標が移設され、訪問日現在も残っている。しかし、更岸小学校も2012年に閉校となってしまった。(2022.05.05)
更岸小学校跡の敷地に残る更岸駅の駅名標。隣には、踏切の警報器も設置されている。羽幌線の廃止を惜しんで地域の住民が移設したのだと思うが、移設先の学校も廃校となってしまったのは寂しい。(2022.05.05) 更岸小学校跡の敷地に残る干拓駅の駅名標。厳しい風雪に耐え忍んできたのだろうが、一部が欠損している。それでも、まだ立っている。(2022.05.05) 羽幌線の車窓の象徴とも言える日本海の向こうに見える利尻山。写真は天塩川の河口で撮影したもの。(2022.05.05)


旭川電気軌道・石北線・層雲峡森林鉄道

東川駅(旭川電気軌道) 1973年1月1日廃止(Map
東川駅跡の碑が建立されている。付近の農業倉庫の合間にホームの跡が残っている。旅客の乗降とともに、農作物や資材の搬送に活躍した軌道の性格を物語る。(2016.07.17)
東川駅跡近くの東川町郷土館では、モハ101が屋内展示されている。電車の中も入ることができる。往時の旭川電気軌道を撮影した貴重な写真も見ることができる。モハ101の現役時の姿は、旭川電気軌道のページで紹介している。(2016.07.17)
天幕駅(石北線) 2001年7月1日廃止(Map
管理人は、かつてチトカニウシ山に山スキーで登る際、前夜を天幕駅の駅舎で過ごしたことがある。今、駅舎は撤去され、碑文が残されている。保線用の小屋が一つ建っている。付近には、まだいくつか家屋があり、わずかならがら住民もいる。(2016.07.17)
中越駅(石北線) 2001年7月1日廃止(Map
駅廃止と前後して、付近の集落もなくなっている。この駅を起点とする森林鉄道があったとする一部資料もある。現在は信号場となっている。(2016.07.17)
国道273号線を行くと、電柱に「↑上越駅」という小さな黄色い看板があり、下る小道がある。(2016.07.17) 上越駅(石北線) 1975年12月25日廃止(Map
現在は信号場となっている。「石狩北見国境六三四米上越駅」の看板が、かつて道内最高標高(634m)の駅だったことを偲ばせる。(2016.07.17)
奥白滝駅(石北線) 2001年7月1日廃止(Map
現在は信号場となっている。付近の集落も駅廃止と前後してなくなっている。(2016.07.17)
奥白滝信号場から国道へ延びる道。(2016.07.17) 奥白滝駅近くにある奥白滝開拓記念碑。かつて切り拓かれた土地も、元の姿に帰ろうとしているようだ。(2016.07.17)
層雲峡森林鉄道 本流4号橋 層雲峡森林鉄道 本流4号橋
層雲峡森林鉄道 本流4号橋(1952年廃止)(Map
国道39号線、万景壁橋から石狩川に架かる廃橋を見ることができる。元は層雲峡森林鉄道(1947-52)の鉄道橋で、その後、車道橋に転用され、層雲峡林道の使用に供された。そのため、森林鉄道時代の痕跡がどの程度残されているかは不明だが、橋台や橋脚などはそのままの可能性が高い。(2019.09.08)

なお、この橋梁が、鉄道橋がそのまま廃橋になったものではなく、道路橋に転用され、その後廃橋となった経緯等については、「山さ行がねが」の道路レポート「層雲峡万景壁の旧道群 中編」に詳細が記述されており、参照されたい。


武利意森林鉄道

                                  
石北線丸瀬布駅を起点としていた武利意森林鉄道(1928-1963)は、最盛期には総延長80kmを越える路線網を持っていた。武利意幹線は、湧別川の支流の一つである武利川に沿っていたが、丸瀬布駅を出てしばらくは石北線の南側を西進していた。石北線の丸瀬布川橋梁の南に、丸瀬布川を越えていた2号橋の橋脚と橋台の跡が残る。住宅地のすぐ裏であるが、深く険しい谷の様相が印象的。(2023.05.04)(Map 丸瀬布川東岸(左岸)側から、2号橋の橋台跡越に橋脚群を望む。(2023.05.04)
しばらく石北線と並走した武利意森林鉄道武利意幹線は、武利川上流方面に進路を南転するため、現在の丸瀬布IC付近で3号橋により湧別川を越えていた。湧別川の南岸(右岸)に橋脚が残る。(2023.05.04)(Map 湧別川の南岸(右岸)側の3号橋跡。緑の中に2つ目の橋脚も見え隠れする。(2023.05.04) 湧別川の北岸(左岸)に残る3号橋の橋台跡。現在、橋台の下は垂直に近い崖になっている。(2023.05.04)
武利川に沿って遡り始めた武利意森林鉄道武利意幹線は、現在の丸瀬布町武利で、4号橋により、はじめて武利川の東側に出る。以後武利川と交差しながら山中に路線を伸ばしていく。写真は西側(左岸側)に残る4号橋の橋台。(2023.05.04)(Map 4号橋の東側(右岸側)の橋台だったと思われる構造物が、武利川の流れ中にあった。(2023.05.04) 4号橋跡から南方向に林の中を伸びる武利意幹線跡。(2023.05.04)
武利意幹線が武利川を越えていた橋梁の一つ、8号橋跡に残る南側橋台。(2023.05.04)(Map 8号橋南側から対岸を望む。(2023.05.04) 8号橋の北側橋台跡。武利意森林鉄道で活躍した蒸気機関車雨宮21号が動態保存されている丸瀬布森林公園いこいの森は8号橋跡のさらに上流にある。動態保存用に敷かれた軌道のうち、延長100m分は、かつて武利意幹線が通っていた道床をそのまま使用しているという。(2023.05.04)


相生線

北見相生駅(相生線) 1985年4月1日廃止(Map
 交通公園として整備されている。道の駅「あいおい」が敷地横にあり、その付属施設となっている。駅舎、ホーム、線路が保存され、線路上には保存車両が展示してある。駅舎はカフェになっており、自家製スコーンはなかなか美味しい。駅舎の中には1967年3月改正の道内時刻表が掲載されており、誰でも閲覧することが出来る。(2017.09.09)
北見相生駅跡の冬の風景。保存車両にシートは掛けられておらず、痛みが心配されるが、保存状態は良い。定期的に塗装等のメンテナンスがされていると考えられる。駅舎内は冬季も見学可能。雪の中の車両たちも美しく、訪問者を喜ばせてくれる。(2020.02.06)


名寄線

                     
名寄市の名寄公園内には、旧名寄線の線路を一部遺し、そこにキマロキ編成を静態保存の上、展示している。編成は、59601 キ911(マックレー車) キ604(ロータリー車) D51398 ヨ4456(緩急車) となっている。また隣接する北国博物館では、往年の名寄機関区の模型を見ることができる。(2016.06.12)
中名寄駅(名寄線) 1989年5月1日廃止(Map
駅舎が残っており、バス待合所として利用されている。ホーム跡は残っていない。(2016.06.12)
中名寄付近の名寄線跡。溝に沿って延びている。(2016.06.12) 上名寄駅(名寄線) 1989年5月1日廃止(Map
バス停に上名寄駅の駅名票のレプリカが設置してある。(2016.06.12)
下川駅(名寄線) 1989年5月1日廃止(Map
駅跡はバスターミナルとして整備されている。バスターミナルには鉄道記念碑が建立され、名寄線で使用されたキハ22 237とキハ22 245の2両のディーゼルカーが静態保存されている。(2016.06.12)
二ノ橋付近の名寄線跡。(2016.06.12)
一ノ橋駅(名寄線) 1989年5月1日廃止(Map
駅へ通じていた道に、駅名票のレプリカが設置されている。(2016.06.12)
上興部付近から見える特異な山容の拳骨山。標高667m。(2016.06.12)
上興部駅(名寄線) 1989年5月1日廃止(Map
西興部村によって、「上興部鉄道記念館」として整備され、木造駅舎が保存されている。日中は内部の閲覧が可能で、関連施設や設備が保存展示されている。ホームの線路跡には、キハ27 109と除雪車DD14 302が、静態保存・展示されている。(2016.06.12)
上興部鉄道記念館として良好な状態で保存されている上興部駅の駅舎。(2023.05.03) 上興部鉄道記念館では、302号機のロータリー式除雪機構部がキハ27 109に連結された形で、保存展示されている。(2023.05.03) 上興部-西興部間の瀬戸牛川橋梁跡。忍路子(おしょろっこ)川に架かっている。(2016.06.12)(Map
西興部駅のあった場所のすぐ西側で、ほぼ現役時のままの姿で残っている瀬戸牛川橋梁。5月初旬までであれば、草木が茂っていないため、ほぼ全貌を見ることが出来る。(2023.05.03) 中興部駅(名寄線) 1989年5月1日廃止(Map
木造駅舎とホームが残っている。植え込みも美しく保存されている。駅舎の中に立ち入ることはできない。(2016.06.12)
中興部駅跡(2016.06.12) 変わらずに美しい状態を保っている中興部駅跡。(2023.05.03) 保存された駅舎には、貫禄ある駅名標も健在。(2023.05.03)
班渓駅のすぐ東にあった班渓川橋梁跡。名寄線は、名寄-興部間のオホーツク海側は、ほぼ興部川に沿っていた。この個所では興部川の支流の一つである班渓川が、深い絶壁の底で、ほぼ90°のT字路を突きあたるように合流していて、不思議な造形になっている。班渓川橋梁は、ガーダーを残す形で現存している。(2023.05.03)(Map 班渓川橋梁。すぐ北側に廃橋状態の道路橋があって、北側からも同橋梁を望むことが出来た。(2023.05.03)
北興駅(名寄線) 1989年5月1日廃止(Map
興部町の北興地区で、いまだにかつての待合室だった建物が姿をとどめている。2010年頃までは屋根もしっかりと残っていたとされるが、訪問時は屋根は崩壊していた。(2023.05.03)
北興駅跡にのこる待合室の内部。内部には、壁面にベンチがあったことがわかる。待合室正面は駅ホームであったが、ホーム跡は残っていない。(2023.05.03)
興部駅(名寄線) 1989年5月1日廃止(Map
駅跡は道の駅兼バスターミナルとなっている。キハ22 202、帰は22 251の2両の気動車が静態保存されている。道の駅の中では、鉄道関連物の展示が行われており、興部駅、宇津駅、沙留駅の駅舎の模型などを閲覧できる。(2016.06.12)
旭ヶ丘-豊野間の藻興部川を越していた藻興部川橋梁跡。架橋したままの姿で残っている。(2023.05.13)(Map
藻興部川橋梁に残る銘板。設計:旭川鉄道管理局 施工:株式会社北野組 設計荷重:KS-14 基礎:鋼管くい打ち60cm L-25m8本 基礎根入:けた座面から6m50 着手:昭和56(1981)年1月 竣工:昭和56(1981)年3月 (2023.05.03) 藻興部川橋梁の紋別方面すぐのところで、藻興部川の小さな支流を越していた秋里鉄橋が、藻興部川橋梁と対になるようにして姿を残している。(Map)(2023.05.03)
秋里鉄橋。「秋里」は周辺の地名。名寄線の旭ヶ丘駅は、1956年に興部駅から3.6km地点にあった秋里仮乗降場として開業したものを、1959年に興部駅から1.3km地点に移したことになっているが、両者間は2km以上離れており、新しい仮乗降場には「旭ヶ丘」の名称が与えられることとなった。(2023.05.03) 富丘駅(名寄線) 1989年5月1日廃止(Map
オホーツク海を見晴らす築堤上に名寄線があり、その途中に富丘駅があった。オホーツク海岸を通る国道238号線から富丘集落に向かう道路は、旧名寄線の築堤を覆道で潜っており、その脇に、富丘駅へ昇るための階段が、風雪避けのドームとともに残っている。(2019.04.28)
かつて富丘駅との出入りに供した階段は、特に塞がれてもおらず、良好な状態で維持されている。(2019.04.28)
階段を昇った先にある富丘駅跡。雄大な景色が旅人を迎える。眼前に広がるオホーツク海が圧倒的。これほど解放感を感じる駅跡も珍しい。(2019.04.28) 富丘駅跡から、築堤の上を興部方向に伸びている名寄線跡。(2019.04.28)
名寄線の築堤路盤上から。富丘駅跡、富丘集落に向かう道路との旧立体交差の上から見るオホーツク海。いにしえの名寄線の車窓となる。(2019.04.28) 名寄線思沙留川橋梁 1989年5月1日廃止(2015.01.26)(Map 思沙留川(おむさるるがわ)橋梁の上には、枕木が残っている。(2019.04.28)
山側から見た思沙留川橋梁。右奥が渚滑方面。(2019.04.28) 野鳥が多く生息するオムシャリ沼。沼のかたわらに残る思沙留川橋梁と併せて、詩情ある雰囲気を見せる。(2019.04.28) 渚滑駅(名寄線) 1989年5月1日廃止(Map
駅跡は残っていないが、近くに整備された紋別市運動公園に69644が静態保存されている。(2012.09.01)
69644の現役時の姿は名寄線(1974,75年頃)で紹介。
渚滑駅跡で静態保存されている69644。かつては紋別市運動公園で保存されていた。いっときは解体撤去の予定だったが、全国から保存を望む声が寄せられ、紋別市教育委員会によって、修復の上、この地で保存されることとなった。(2019.04.28) 渚滑駅の機関庫跡。渚滑駅の広い構内は、パークゴルフ場に転用され、機関庫もパークゴルフ場の施設として、建物が維持されることとなった。(2019.04.28)
紋別駅(名寄線) 1989年5月1日廃止(Map
地域の経済の中心であった紋別市の代表駅だった。当時の駅舎等は一切残っておらず「氷紋の駅」という物産所になっている。その表は、かつての紋別駅を偲ばせる装飾が施され、駅名標のレプリカが置かれている。(2023.05.04)
紋別駅跡地にある「氷紋の駅」に設置された名寄線を偲ぶ碑。(2023.05.04) 紋別駅跡地から港に下ったところ。当サイトでは「名寄線(1974,75年頃)」において、同じアングルからの写真(220番)を掲載している。48年間の時を経た家屋の並びの変化等比較してみると、いろいろ面白いと思う。(2023.05.04)
小向駅(名寄線) 1989年5月1日廃止(Map
駅跡付近は紋別市小向農業公園として再整備されているが、駅があった場所には駅跡の碑と、駅名標のレプリカが設置されている。転轍てこもオブジェとして置かれている。(2019.04.28)
小向ー弘道-沼ノ上の名寄線跡では、築堤が残っているが、一部で撤去の工事が進められている。(2019.04.28) 沼ノ上駅(名寄線) 1989年5月1日廃止(Map
かつてのホームが、修復された上で保存されている。ホーム上には、駅名標のレプリカが置かれ、鉄道健在時の雰囲気を伝えてくれている。(2019.04.28)
旭駅(名寄線) 1989年5月1日廃止(Map
道もない林の奥に、朽ち果て行く待合所がかろうじて残っている。青いL字の煙突が外壁に付いている。(2019.04.28)
旭駅の待合所跡の中。ベンチが残る。窓は割れ、壁も破れているが、ホームへの出入り口など明瞭に分かる。 (2019.04.28)
中湧別駅(名寄線) 1989年5月1日廃止(Map
湧別町により「中湧別鉄道資料館」として整備されている。除雪用モーターカー1両と、車掌車4両が静態保存されている。(上左・中;2012.09.01)(上右;2015.01.26)(下3枚;2019.04.28)  往年の中湧別駅


渚滑線

北見滝ノ上駅(渚滑線) 1985年4月1日廃止(Map
旧駅舎が「北見滝ノ上駅舎記念館」として滝上町によって維持・保存されている。良好に保存されているが、保存にあたって、駅舎が本来の位置よりホームを削った上で線路側に移動し、かつ駅舎全体の位置が低くなっため、線路と駅舎の位置関係が不自然になっているのが惜しい。線路上には、青色のスイッチャーが一両、静態保存されている。渚滑線との経緯は不明。(2019.04.28)
旧駅舎を利用した「北見滝ノ上駅舎記念館」内部。往年の広告看板が味わい深い。訪問は日曜日の朝8時40分。通常の開館時間が10時からであるにもかかわらず、私たちの来訪応じて、管理の方が快く開錠してくれた。ありがとうございました。(2019.04.28) 改札口。駅舎移築のため、ホーム幅、ホーム高がほとんどないのが残念。(2019.04.28) 駅舎の反対側には、滝ノ上町内にあった駅の駅名標が移設保存展示してある。こちらは滝ノ下駅の駅名標。(2019.04.28)
濁川駅(渚滑線) 1985年4月1日廃止(Map
かつては渚滑森林鉄道の起点であった濁川駅。その駅跡は、広大な敷地を利用したパークゴルフ場になっている。国鉄時代の雰囲気を残す旧駅舎も、パークゴルフ場の施設として再利用されることで、その貴重な姿をとどめている。ホーム跡も残っている。(2019.04.28)
上渚滑駅(渚滑線) 1985年4月1日廃止(Map
敷地は上渚滑交通公園として整備され、ホーム跡を模したオブジェが設置されている。ただし、本来の線路、ホーム方向とはほぼ90度異なる向きである。公園内では、腕木式信号機、踏切警報器等も保存展示されている。(2019.04.28)
渚滑小・中学校への道横に設置されている渚滑線復元線路のオブジェ。(Map
かつて、渚滑線の線路が、渚滑小学校の校庭内を横切っていた場所であり、校庭内に線路が敷かれた全国唯一の事例であった。そのことを記念して渚滑小・中学校のPTAにより、30mの線路が復元されている。最寄駅だった渚滑駅の駅名標もこの場所で保存展示されている。 (2019.04.28)


渚滑(濁川)森林鉄道

                                                                
渚滑川橋梁(仮称)(渚滑森林鉄道) 1959年廃止(Map
渚滑森林鉄道(濁川森林鉄道)は、渚滑線濁川駅を起点とし、渚滑川とオシラネップ川の流域に路線網を持っていた。渚滑川に沿って遡っていたのが本流線。滝上町の市街地の脇にある渚滑川を越していた橋梁跡は、国道273号線のすぐ脇にあり、容易に見ることが出来る。両岸側に橋脚が残る。(2023.05.03)
渚滑川橋梁(仮称)の西側(左岸)の橋脚跡(2023.05.03) 渚滑川橋梁(仮称)の東側(右岸)の橋脚跡(2023.05.03)
二区十五線川橋梁(仮称)(渚滑森林鉄道) 1959年廃止(Map
渚滑森林鉄道(濁川森林鉄道)本流線が、渚滑川の支流の一つである二区十五線川を越えていた地点に橋梁跡が残る。写真は北側(起点側)に残る小さな橋脚。写真中央の道路は、ヒジの沢林道。(2023.05.03)
二区十五線川橋梁(仮称)跡に残る2つの大橋脚。かなりの高さがあって、高度感満載の橋梁の姿を偲ばせている。ちなみに、現地では、この橋梁跡と並行するようにして、東側に道路廃橋があるが、これは現国道273号線の旧道に当たるもの。(2023.05.03) 二区十五線川橋梁(仮称)の南側の橋台。(2023.05.03)
滝西地区の林の中に残る渚滑森林鉄道(濁川森林鉄道)本流線の築堤跡。(2023.05.03) 沢に削られて失われた個所。かつてはカルバート等で越していたのだろうか。(2023.05.03) モセカルシュナイ川橋梁(仮称)(渚滑森林鉄道) 1959年廃止(Map
渚滑森林鉄道(濁川森林鉄道)本流線が、渚滑川の支流の一つであるモセカルシュナイ川を越えていた地点に橋梁跡が残る。写真は北側(起点側)に残るの橋台の上から、対岸方向を望んだもの。深い谷に橋脚が聳えるように立つ。(2023.05.03)
モセカルシュナイ川橋梁(仮称)の北側に堂々と残る橋台。(2023.05.03) モセカルシュナイ川の渓谷に残る2つの円柱状の橋脚。(2023.05.03) モセカルシュナイ川橋梁(仮称)跡にて、対岸の南側を望むと、そちらにも橋台が残っているのが見えた。(2023.05.03)
オシラネップ川第1橋梁(仮称)(渚滑森林鉄道) 1959年廃止(Map
渚滑線濁川駅を起点とし、渚滑川とオシラネップ川の流域に路線網を持っていた渚滑森林鉄道。渚滑川沿いの本線相当となるのが「本流線」でオシラネップ川沿いの本線相当となるのがオシラネップ線(オシラ線)。オシラネップ線(オシラ線)はオシラネップ川を遡行する過程で、何度もこの川を渡河することになる。最初の渡河地点に橋脚と橋台が残っている。橋脚は河中と右岸にそれぞれ2組づつあって、狭軌鉄道としては、大規模なものであり、複線区間であったようにも見える。訪問日現在のところ、複線運用を示す資料等を見つけてはいない。(その後の資料調査で、当該区間が単線運用だったことを確認しました)(2019.04.28)
オシラネップ川第2橋梁(仮称)(渚滑森林鉄道) 1959年廃止(Map
オシラネップ線(オシラ線)起点側から2つ目のオシラネップ川渡河地点に橋梁跡が残る。写真は東側(起点側)から西側を望んだもの。川の中央に橋脚があり、対岸に橋台も確認できる。なお、付近は、ヤブの中、突然切り立った崖の上に出る地形となっているので、探索する場合は要注意。(2023.05.03)
オシラネップ川第2橋梁(仮称)の東側の橋台。崖地で、ギリギリの足場を確保して撮影したもの。(2023.05.03)
雄柏地区の林の中に続く渚滑森林鉄道(濁川森林鉄道)オシラネップ線(オシラ線)跡。(2023.05.03) オシラネップ川第3橋梁(仮称)(渚滑森林鉄道) 1959年廃止(Map
オシラネップ線(オシラ線)起点側から3つ目のオシラネップ川渡河地点に橋梁跡が残る。写真は北側(起点側)に残る橋台の上から南側を望んだもの。川の中央に橋脚が見える。(2023.05.03)
オシラネップ川第3橋梁。中央の橋脚に流木がひっかかっている。(2023.05.03)
オシラネップ川第3橋梁(仮称)の起点(南側)橋台。(2023.05.03) オシラネップ川第3橋梁(仮称)に残る崩れた構造物。かつての橋脚と思われる。(2023.05.03) オシラネップ川第3橋梁(仮称)の北側の橋台を川越しに望んだ。(2023.05.03)


鴻紋軌道

                                               
名寄線紋別駅を起点としていた鴻紋軌道は、鴻之舞地区の金鉱山の開発、鉱石の搬出を目的に1943年に開業した全長28kmの狭軌鉄道であったが、開業が戦時下(1928-1963)であったこともあり、当初の予定通りの活躍は出来なかったとされる。それでも、最盛期(軌道のあった時期とは異なる)で住民1万6千人となった鴻之舞地区への生活物資の輸送、鉱山作業員とその家族の移動に供された。28kmの全線には、紋別駅、銅山昇降所、元紋別停留所、季節昇降場(農繁期)、中モベツ停留所、長島農場前停留所、上モベツ停留所(後の農協支所)、曙停留所、桜町駅、栄町停留所、五号坑坑口、末広駅、住吉停留所、元山駅が設置されていたが、旅客営業を行ったわけではなく、関係者、地域住民は無料で乗ることが出来た。しかし、周辺の道路整備に伴い、鴻紋軌道は1948年に廃止された。わずか6年間の運用だった。写真は、銅山昇降所-元紋別停留所間で道道305号紋別丸瀬布線の脇で、藻鼈川(もべつがわ)の支流を越えていた地点に残る藻鼈川支流橋脚(仮称)跡。この支流は「国土数値情報河川データセット」では「名称不明」で登録されている。なお、元紋別停留所があった場所は、名寄線元紋別駅があった場所から、藻鼈川に沿ってを1kmほど遡った地点。(2023.05.04)(Map
鴻紋軌道沿線にあった上藻別駅逓が、訪問時築96年の状態で保存されている。開放日は内部も閲覧可能。駅逓は、開拓期の北海道各地に設置された郵便等物資輸送の拠点兼旅行者の宿泊所で、馬を借りることも出来た。現在も保存された駅逓は、上藻別以外では、兜沼、武華、奥行臼などいくつかあるが、数は少なく貴重。管理人の訪問時は、ボランティアの方に、上藻別駅逓、鴻之舞金山、鴻紋軌道についていろいろ説明戴くことが出来、たいへん貴重な機会となった。(2023.05.04) 上藻別駅逓の敷地で、狭軌の線路とともに、鉱山で使用されていた車両が展示されている。(2023.05.04) 上藻別駅逓の敷地の展示物。訪問時、鉱山で使用された機関車と人車については、まだ冬季の覆いが外されていなかった。再訪したい。(2023.05.04)
上藻別駅逓2階、旅行者に供された宿泊室。美しく保存されている。現在でも、体験宿泊など、出来そうに見える。(2023.05.04)
上藻別駅逓の1階は、ちょっとした史料館か博物館といった展示が充実している。中でも鴻紋軌道の路線図(駅・停留所も記載)を地形図上に書き込んだ資料は、鴻紋軌道が地形図に記載されたことがないこともあって貴重。(2023.05.04) 上藻別駅逓では、様々な鉱山事業関係の写真も展示されており、鉄道関係の写真も多くある。上は鴻之舞金山の5号坑立坑下部プラットフォームにおける坑内軌道の様子。(2023.05.04) 上藻別駅逓1階展示。かつての鴻之舞の街並みを再現した上で、その下にどのように金鉱山の坑道が巡らせてあったかが、模型で再現されている。貴重な立体情報。(2023.05.04)
起点である紋別駅から21.5km地点に残る桜橋跡。藻鼈川の支流の一つであるクッチャナイ川を越していた。川の中に橋脚が残る。(2023.05.04)(Map 桜橋跡。クッチャナイ川南岸(右岸)から反対側を望む。橋脚と、その向こうに北岸(左岸)側橋台が残る。(2023.05.04) 桜橋の南側橋台跡。(2023.05.04)
起点である紋別駅から26.5km地点に残る宝橋跡。藻鼈川を越していた。川の中に橋脚が残る。橋脚が3本あるように見えるが、両端のものは機能的には橋台で、それに続く築堤部分の盛り土が失われたようにも見える。宝橋の元山駅側に栄町停留所があった。(2023.05.04)(Map 宝橋跡。藻鼈川南岸(左岸)から反対側を望む。(2023.05.04)
宝橋南岸の、おそらく橋台跡(手前)。奥に見える橋脚からは、天空に向かって鉄骨が突き出している。(2023.05.04) 鴻紋軌道の遺構としてもっとも有名な五号坑橋。道道305号紋別丸瀬布線と藻鼈川を一跨ぎに越しているが、現在も鉱山廃水の輸送管に供されており、現役の橋である。この橋の紋別側に五号坑坑口が、元山駅側に末広駅があった。(2023.05.04)(Map
現在も鉱山廃水の輸送に供されている鴻紋軌道五号坑橋。橋脚は経た歳月の長さを感じさせる貫禄がある。橋桁は、鉄道橋時代のものがそのまま使用されているかどうか不明だが、それらしく見える。(2023.05.04) 藻鼈川の渓谷が、金の算出で賑わっていた最盛期には、1万6千人が生活をしていたという。道道305号紋別丸瀬布線を通ると、(季節に依るが)その両側に、かつての道路や建物の痕跡が無数にあることに気づく。中には外観を維持した建物も見受けられるが、今は鉱山跡の周囲に住んでいる人はいない。(2023.05.04)


興浜北線・興浜線・興浜南線

                   
豊牛駅(興浜北線) 1985年7月1日廃止(Map
駅舎が残っており、物置として利用されている。ホーム跡はない。駅舎内に立ち入ることはできないが、窓越しに、時刻表が残っているのが確認できる。(2016.06.11)
斜内駅(興浜北線) 1985年7月1日廃止(Map
駅舎が残っており、物置として利用されている。ホーム跡はない。駅舎内に立ち入ることはできない。(2016.06.11) 
オホーツク海に突き出す北見神威岬の興浜北線跡。海に面していながら、その険しさから「斜内山道」と呼ばれた有名な景勝地。断崖の上から、一面に広がるオホーツク海の海原を見渡すことが出来た。ことに、流氷の季節は、車窓に絶景が広がっていた。(2016.06.11)
Map
斜内山道南側、中腹に線路跡の路肩が残る。(2016.06.11) 北見神威岬の灯台。この灯台の下を周回するように興浜北線の線路が敷かれていた。(2016.06.11) 北見神威岬のオホーツク海(2016.06.11)
北見神威岬公園から、浜頓別方面を望む。(2016.06.11) 北見神威岬公園から、北見枝幸方面を望む。この海岸に沿って、かつて興浜北線が走っていた。(2016.06.11) 未成線(興浜線)の元稲府(もといねっぷ)川橋梁。雄武駅跡の北側にある。(2015.01.26)(Map
雄武駅跡の北側に残る雄武トンネルの南側坑口。興浜線の未成線区間にある。雄武町の住宅地のある丘陵にある全長325mのトンネルで、竣工していた。いまだ住宅地の中に、落石覆いのついた坑門が残る。このトンネルを列車が通ることはなかった。なお、内部は、南側坑口から10数メートルほど奥で、コンクリート壁によって塞がれている。(2023.05.03)(Map 雄武トンネル南側坑口から、雄武駅跡方向に向かって伸びる興浜線(未成線)の道床跡。ポンオコツナイ川を挟んだ対岸側に続く築堤が見える。(2023.05.03)
オニシ沼を経てオホーツク海に注ぐ御西川を越していた御西川橋梁。興部-沢木間。興部を出た興浜南線は、オホーツク海岸を走り、付近では、オニシ沼とオホーツク海に挟まれた長い砂州地形の築堤上を通っていた。東にオホーツク海、西にオニシ沼が広がる車窓は、絶景と呼ぶに相応しいものだったに違いない。(2023.05.03)(Map
御西川橋梁とその前後にはレールが残されている。草に覆われて明瞭ではないが、しっかりと残っている。(2023.05.03) 御西川橋梁の南側で見つけた鉄道関係のものだったと思われるオブジェクト。(2023.05.03)
御西川橋梁から南に向けて、興浜南線跡の道床が鉄道線特有のなめらかなカーブを描きながら延びる。(2023.05.03) オニシ沼南端付近の興浜南線跡。沼の向こうにまで雄大な景色が広がっている。(2023.05.03) 興部-沢木間の興浜南線跡。部分的にわずかにわだちがあり、付近の農作業等で、車両が通ることがあるのかもしれない。(2023.05.03)


天北線

上音威子府駅(天北線) 1989年5月1日廃止(Map
残存していたホームを活かし、周辺が整備され、新たに駅名票が設置されている。(2016.06.11)
上音威子府-小頓別間に残る嘉平川橋梁。(2016.06.11) 上音威子府-小頓別間の天北トンネル。(Map)緑の繁る季節に接近することは難しい。近くの国道から、望遠で撮影した。(2016.06.11)
小頓別駅(天北線) 1989年5月1日廃止(Map
バス用のロータリーが残る。バス待合室には、「小頓別駅」の看板が残されている。(2016.06.11)
1914年、音威子府-小頓別間の開業と同時に小頓別で開業した丹波屋旅館。現在は旅館営業は行っていない。砂金採取が行われていた当時の中頓別の賑わいを伝える和洋折衷の建物。保存が検討されているという。(左;2016.06.11 右;2022.05.03)
和・洋館の景観が素敵な旧丹波屋旅館。2000年に国登録有形文化財となっている。(2022.05.03) 敏音知駅跡に建設された道の駅「ピンネシリ」。敏音知岳の登山口を兼ねている。登山する場合、こちらに届を出す。(2016.06.11) 敏音知駅(天北線) 1989年5月1日廃止(Map
駅跡を示すオブジェが設置されている。(2016.06.11)
敏音知岳からの景色。登山口から山頂(標高704m)まで、3時間半ほどで往復できる。北海道北部の雄大な眺望を楽しめる。天気に恵まれれば、オホーツク海まで見渡せる。(2016.06.11) 周磨駅と松音知駅の間に残る霰川橋梁。赤レンガを用いた橋台が印象的。ちなみに、河川の名称については、地図を確認しても「霰川」の名称はなく、「中の川」の記載が確認できる。(Map)(2022.05.03)
霰川橋梁のガーダーに銘板がある。植物が茂っており、判読が難しいが、橋りょう名は「霰川」となっている。地点は音威子府起点32km074。1978年9月に架け替えられたもののようだ。(2022.05.03) 松音知駅(天北線) 1989年5月1日廃止(Map
個人所有された上で、ほぼ完全な形でレールも含めて残っている。私有地であるため、遠景を見学するのみとなる。敏音知岳がよく見える。(2016.06.11)
中頓別駅(天北線) 1989年5月1日廃止(Map
駅跡はバスターミナルとなっており、バスターミナルの建物を含めた周辺が天北線メモリアルパークと称されている。(2022.05.04)
中頓別駅跡である天北線メモリアルパークに静態展示してあるキハ22 208。現役時のカラーではなく、青色に塗装されている。(2022.05.04) 中頓別バスターミナルの2階のスペースは、「鉄道記念館」展示室となっている。こちらは、そこで展示してあった現役時の中頓別駅駅舎の写真。(2022.05.04)
中頓別バスターミナルの2階にある「鉄道記念館」展示室の様子。(2022.05.04) 中頓別鍾乳洞入口。中頓別駅跡から6kmほどのところにあり、周囲は公園化されている。無雪期には内部を見学できる。訪問時は見学無料で、見学者は入口に置いてある傘、ヘルメット、懐中電灯も使用することができた。(2022.05.04) 中頓別鍾乳洞は1933年に発見され、その後天然記念物に指定された。写真は「貝の泉」と命名された空間。訪問時はふりしきる雨の中だったが、鍾乳洞内は、あちこちで、常に地下水が流れ落ちているとのこと。(2022.05.04)
中頓別鍾乳洞内部。洞内の見学路はすれ違うのも難しいほどに狭い個所が多いが、それも含めて、独特かつ神秘的な雰囲気に満たされている。(2022.05.04) 中頓別町の寿公園では、蒸気機関車49648が静態保存されている。ただし、当該地は、寿駅跡地からは、南方に離れている。(2016.06.11)
新弥生駅(天北線) 1989年5月1日廃止(Map
林の中に、かつての簡易な駅ホームが、かろうじて姿をとどめている。緑の茂る季節には、外観を確認するのは難しいだろう。一番右の写真は、駅跡西側の雪解け水を含んだ低湿地から駅跡を見上げたものだが、このあたりも、初夏以降は、深い草に覆われるのだろう。(2022.05.03)
新弥生-下頓別間の鬼河原川橋梁(2016.06.11)(Map 下頓別駅(天北線) 1989年5月1日廃止(Map
駅跡が公園として整備され、ホームのあった場所が復元されている。駅名票のレプリカは、下り次駅が浜頓別、上り次駅が中頓別となっており、1918年の当該区間開業時をイメージしたものと思われる。(2016.06.11)
山軽駅(天北線) 1989年5月1日廃止(Map
クッチャロ湖に近いところにある。駅跡には着くためには、わずかな轍を残すダート路を進むしかない。かつては駅付近に林業を生業とする集落が形成されていたというが、現在となっては、その痕跡を探すのも難しい。(2022.05.04)
山軽駅跡。このあたりで天北線跡はサイクリングロードとなっている。訪問時は雪まじりの雨だったが、天気の良い時でも、利用者は多くはないだろう。往時の天北線の雰囲気を味わえるサイクリングは楽しいかもしれないが、レンタサイクルを行うほどには需要もないと思われる。(2022.05.04) 山軽駅跡のかつて待合室だった建物の内部。すでに床が抜けてしまっているが、ベンチの形状を認めることができる。(2022.05.04) 山軽駅跡へ続く唯一の道。かつては集落があったと言うが、天北線廃止と前後して、集落も失われたようだ。訪問時、付近には、たくさんのエゾシカたちがいた。(2022.05.04)
安別駅(天北線) 1989年5月1日廃止(Map
かつて待合室だった建物が残る。付近の天北線跡がサイクリングロードに転用された際、「休けい所」としての機能を残したが、訪問時は、その周囲は草むしていた。(2022.05.04)
飛行場前駅跡付近で天北線跡を利用したサイクリングロードは車両通行止めになっていた。以北は路盤が草に覆われている様子だった。(2022.05.04)
飛行場前駅(天北線) 1989年5月1日廃止(Map
この駅が現役の時代、近くに飛行場がないにもかかわらず「飛行場前」という駅名が与えられていることがちょっと有名だった。この駅名は、かつて付近にあった軍用飛行場に由来するが、当該飛行場は、駅開業に先んじて廃止されており、確かに、いっぷう変わったネーミング。訪問時は、木製のホーム跡がまだ残っていたが、痛みが激しく、廃止からの時の経過を実感させる風景だった。天気の良い日に再訪してみたいところ。(2022.05.04)
浅茅野駅(天北線) 1989年5月1日廃止(Map
集落の中にあり、ホーム跡がきれいに保存されており、駅名標のレプリカも掲げられている。稚内方面の次駅は猿払、音威子府方面の次駅は山軽となっているが、音威子府方面は、山軽までの間に、飛行場前と安別、さらに北頓別という仮乗降場があった時代もあったが、これらはいずれも仮乗降場であり、浅茅野駅の駅名標には記載されなかった。実際、鬼志別バスターミナル内の天北線資料室に保存されている浅茅野駅の駅名標も、当該レプリカと同じ次駅表記になっている。(2022.05.04)
鬼志別駅(天北線) 1989年5月1日廃止(Map
駅跡は鬼志別バスターミナルとなっている。猿払村の役場が近くにあり、猿払村の代表駅は「猿払駅」ではなく、この「鬼志別駅」だった。急行「天北」も、猿払駅は通過し、鬼志別駅に停車していた。(2022.05.04)
鬼志別バスターミナルの建物の中には、天北線資料展示室があり、自由に見学できる。写真は、そこに展示されていた、かつての鬼志別駅の看板。(2022.05.04)
鬼志別バスターミナル内の天北線資料展示室で保存されている鬼志別駅の駅名標。他に飛行場前、浅茅野、猿払、芦野、小石の各駅名標が保存展示されていた。(2022.05.04) 鬼志別バスターミナル内の天北線資料展示室で展示されていた現役時の鬼志別駅の写真。国鉄時代の貫禄ある木造駅舎。(2022.05.04)
鬼志別バスターミナル内の天北線資料展示室で展示されていた現役時の飛行場前駅の写真。かつては赤い屋根の待合室があったようだ。(2022.05.04) 小石駅(天北線) 1989年5月1日廃止(Map
駅跡を示す痕跡はなく、「小石地区交通公園」と名付けられた広場になっている。かつては、藤田炭鉱宗谷鉱業所専用線が小石駅から伸びていた。また、小石と、西側の隣駅である曲淵との駅間距離は、17,7kmあって、長く、国鉄線で最も長い駅間距離を持っていた。(2022.05.04)
曲淵駅(天北線) 1989年5月1日廃止(Map
駅跡を示す痕跡はなく、駅名標を模した看板が設置されている。集落内で、旧線路跡は、道道138号豊富猿払線に転用されたと思われる。(2022.05.04)
曲淵駅跡の西側では、天北線跡の築堤が明瞭に残っており、小さなガーダー橋も見ることが出来る。(2022.05.04) 沼川駅(天北線) 1989年5月1日廃止(Map
駅跡には駅名標のレプリカが設置され、かつての沼川駅を紹介する看板も設置されている。(2022.05.04)
沼川駅跡に設置されているかつての駅を紹介する看板。沼川は傾斜地に形成された集落で、独特の雰囲気を持っている。沼川駅からは、かつては幌延駅まで、殖民軌道幌沼線が通じている時代もあったが、1964年に最後に残った沼川-有明(13.4km)が廃止された。(2022.05.04) 沼川駅跡に残るホーム跡。(2022.05.04) 恵北駅(天北線) 1989年5月1日廃止(Map
駅跡にはレプリカの駅名標が設置されている。この駅跡を訪問した日は、前日以来、雨交じりの曇天だったのだが、この駅跡に着いた頃、やっと天候が回復してきた。天北線の駅跡、いずれ天気の良い時に再訪したいもの。(2022.05.04)
恵北駅跡の風景。駅名標のレプリカの裏手には、ホーム跡を思わせる段差も残っている。付近には、小さいながらも集落が形成されている。(2022.05.04) 恵北駅跡から、稚内方面を目指して続いている天北線跡。(2022.05.04)


歌登町営軌道

天北線の小頓別駅を起点とし、歌登を結んでいた歌登町営軌道は、殖民軌道として1929年に開通し、その後、歌登を中心に、枝幸港(枝幸線 1930-1945)、志美宇丹(幌別線 1933-1969)、本幌別(本幌別線 1936-1955)と路線網を発展させた。小頓別-歌登間は、当初勾配を大きく迂回するルートを通っていたが、1947年に毛登別トンネルが開通し、短絡した新線により運用されることとなった。
 この毛登別トンネルは、殖民軌道の全路線で、唯一のトンネルであると言われている。毛登別トンネルの小頓別川の坑口は、道道12号枝幸音威子府線が現道と旧道(ほぼ廃道)に分岐するあたりの林の中にその姿を残しており、見ることが出来る。
 坑口が塞がれており、入ることはできない。特徴的なのは、要石に掘られた十字架のマークであり、塞がれた坑口の奥の暗闇で、ドラキュラ伯爵が眠っているのを想像させる。訪問時、坑口に通じる軌道跡は、雪解け水を集めた小川の様になっており、近づくのに少し難儀した。
 なお、反対側坑口は、道道12号枝幸音威子府線の現道の下に埋もれてしまい、存在していない。(Map)(2022.05.03)
毛登別トンネルの歌登川で、軌道跡は屈曲する毛登別川に沿い、たびたびそれを越して伸びている。渡河地点にはしばしば写真のような橋台が残っている。(Map)(2022.05.03) 歌登駅(歌登町営軌道) 1971年5月29日廃止(Map
駅跡に痕跡はないが、軌道車庫が用途転用され、現在もその姿を伝えている。(2022.05.04)
枝幸町歌登に残る歌登町営軌道の車庫跡。(2022.05.04) 志美宇丹駅(歌登町営軌道) 1969年5月廃止(Map
歌登-志美宇丹は、国鉄美幸線建設の工事のため廃止されたが、悲願の国鉄線は完成せず、未成のまま終わった。かつて歌登町営軌道の終着だった志美宇丹駅跡は、集落近くの林の中に、転車台の跡を残している。なお、比較的最近まで、軌道用の車庫も用途転用され残っていたが、取り壊されてしまった。(2022.05.03)
うたのぼり健康回復村内に、歌登町営軌道で活躍したディーゼル機関車が静態保存の上、展示してある。保存状態も良く、解説看板もあるのが嬉しい。管理人は、この日、保存車両を見学してから、健康回復村のうたのぼりグリーンパークホテルで宿泊した。新鮮な魚介中心の食事は素晴らしかった。(2022.05.03)


湧網線

湧網線芭露駅跡と計呂地駅跡の間、サロマ湖の風景。(2019.04.28) 湧網線芭露駅跡と計呂地駅跡の間、廃線跡に沿って水芭蕉の群生地が広がっている。(2019.04.28) 湧網線芭露駅跡と計呂地駅跡の間、廃線跡から、多くの水鳥が飛来するサロマ湖の風景が見える。(2019.04.28)
計呂地駅(湧網線) 1987年3月20日廃止(Map
湧別町により「湧別町計呂地交通公園」として整備されている。駅舎、レール、ホームが保存され、C58139と客車2両が静態保存されている。(2012.09.01)
計呂地駅跡。駅構内の廃線も往時の様子を伝えている。(2019.04.28)
計呂地駅跡の湧別町計呂地交通公園では、C58139が2両の国鉄旧型客車(スハ456、オハ6291)を連結する形で、静態保存、展示されている。2両の客車のうち、スハ45はカーペットが敷かれ、ライダーハウスとして利用されている。(2019.04.28) 計呂地駅跡の湧別町計呂地交通公園で保存されている国鉄客車、オハ6291の内部。(2019.04.28) 計呂地駅跡はサロマ湖のサンゴ草群生地であり、湖岸の湿地帯を散策できる歩道が整備されている。撮影時はシーズンオフ。(2019.04.28)
佐呂間駅(湧網線) 1987年3月20日廃止(Map
駅跡は、佐呂間町により「佐呂間町交通公園」として整備されている。建物は、駅舎をイメージして建設された「鉄道記念館」。展示室があるが、管理人訪問時は施錠。開館時間内であったため、掲示された管理者(某食堂)に連絡したが、連絡がつかず、しばらく待った。時間内(17時前)に管理者の女性が現れたが、もう時間がない、連絡しても誰も電話に出ることはない、立ち去るようにと告げられ、内部は見れなかった。同じ日に訪問した北見滝ノ上駅とは真逆の対応だった。訪問には注意が必要。(2019.04.28)
佐呂間町交通公園に静態保存、展示してあるD51565。現役時のD51565はこちら。(2019.04.28) 佐呂間町交通公園に静態保存、展示してあるDE10 1677、スユニ50 517、ヨ8017。(2019.04.28)
知来駅(湧網線) 1987年3月20日廃止(Map
駅跡周辺がゲートボール場となっており、駅舎は「知来ゲートボール会館」として残り、利活用されている。(2019.04.28)
知来駅と道路を挟んで向かい合わせの商店。そこには、まだ「知来駅 国鉄乗車券発売所」の小さな看板があった。(2019.04.28)
この日、サロマ湖の南東岸のホテルで宿泊したが、素晴らしい夕陽を見ることができた。たくさんの水鳥たちが、湖面にたたずむ中、周囲の風景は赤く染まっていった。ネコ写真家の岩合光昭氏が「マジックアワー」と呼ぶ、この世とは思えない色彩の世界に浸った。かの地を走った湧網線の車窓から、この光景を見て感動した人も多かっただろう。(2019.04.28)
常呂-能取間の湧網線跡。サイクリングロードとして整備してある。(2019.04.29) 能取駅(湧網線) 1987年3月20日廃止(Map
湧網線跡を転用したサイクリングロードに沿って、ホームの跡が残っている。2006年まではレールと保存車両も展示されていたとのこと。(2019.04.29)
かつての能取駅前から見る駅前通り。その先に能取湖の水面が広がっている。(2019.04.29)
卯原内付近、能取湖岸を行く湧網線跡を転用したサイクリングロード(2019.04.29)
卯原内駅(湧網線) 1987年3月20日廃止(Map
網走市により「卯原内交通公園」として整備され、ホーム、レールが保存され、49643と客車が静態保存されている。網走市鉄道記念館が併設されている。(2012.09.02)
卯原内付近の湧網線跡。能取湖沿いにサイクリングロードとして整備されている。車窓の美しかった湧網線を偲ばせる。(2012.09.02)
卯原内駅の「卯原内交通公園」に静態保存、展示してある49643。国鉄の旧型客車、オハ47 508も、49643に牽かれる形で保存展示されている。(2019.04.29) 卯原内駅跡、ホーム上から見る能取湖。(2019.04.29)


根室線旧線

新内駅(根室線 狩勝峠旧線) 1966年10月1日廃止(Map
NPO法人「旧狩勝線を楽しむ会」が中心となり整備されている。59672と客車が静態保存されている。周辺の旧狩勝線はフットパスとして整備され、小笹川橋梁や実験線時代の無人車を操作した無線鉄塔を見ることが出来る。新得駅近くにはD5195が静態保存されている。(2014.05.04)


北海道拓殖鉄道・河西鉄道

北海道拓殖鉄道が十勝川を渡河していた地点。十勝川橋梁の橋脚の基部が残っている。(Map)(2019.04.30) 北海道拓殖鉄道の熊牛-新幌内間は、耕作地となっているが、一部築堤が残っており、さながら古墳を思わせる風貌を示している。(2019.04.30)
北海道拓殖鉄道と河西鉄道の立体交差跡(Map)。両鉄道は2か所で立体交差をしていたが、そのうち新幌内-中鹿追間のものが残っている。こちらの立体交差は、上を北海道拓殖鉄道、下を河西鉄道が通っていた。所在地は林の中であるが、2013年のとかち鹿追ジオパーク認定にあたって、小さな案内板も置かれるようになった。道道からの直接のアプローチより、ふれあい農芸公園しかおいパーク側から行く方が簡単。(2019.04.30)
立体交差の南西側橋台に登って、北東側橋台を見たところ。(2019.04.30) 立体交差からは屈足方面に向けて、大きな築堤が途切れながらも残っている。(2019.04.30) 立体交差下部は河西鉄道の道床跡となる。(2019.04.30)
鹿追駅(北海道拓殖鉄道) 1968年10月1日廃止(Map
駅舎はないが、鹿追町によって敷地が鹿青公園として整備されている。北海道拓殖鉄道に乗り入れた8622が静態保存されている。(2013.05.03)
瓜幕駅(北海道拓殖鉄道) 1968年10月1日廃止(Map
広場として整備され、記念碑が設置されている。(2014.05.04)
鹿追駅(河西鉄道) 1951年7月1日廃止。(Map
上幌内川に沿って続く河西鉄道跡をなぞった砂利道の脇に、ホーム跡がある。ホームの両端は、車の衝突を避けるためのデニリエーターが置いてある。(2019.04.30)
河西鉄道跡である道路に沿うようにして残る鹿追駅のホーム跡。写真左奥が鹿追町方面。(2019.04.30) 河西鉄道鹿追駅跡には、2013年のとかち鹿追ジオパーク認定に際して、小さな案内板が設置されることになった。ビート、旅客の搬送に活躍した旨が記載してある。(2019.04.30)
河西鉄道の線路跡を転用した道路。(2019.04.30) 上然別駅(河西鉄道) 1951年7月1日廃止。(Map
鹿追駅跡から、さらに上幌内川に沿って続く河西鉄道跡の砂利道を行くと、鹿追駅跡似たような状況で、道路脇に上然別駅のホーム跡がある。往時はこの駅でスイッチバックして、列車は方向を転じていた。鹿追駅駅跡には案内板があったが、上然別駅跡にはない。なお、鹿追駅跡からここまでの道路は、途中から悪路であり、車での接近には注意が必要だ。(2019.04.30)


ちほく高原鉄道

高島駅(ちほく高原鉄道) 2006年4月21日廃止(Map
印象的な駅舎であったが2008年12月16日に解体。記念碑が置かれている。(2014.05.03)
勇足駅(ちほく高原鉄道) 2006年4月21日廃止(Map
パークゴルフ場のクラブハウスとして再利用されている。ホーム側はパークゴルフコースとなっている。(2016.05.05)
勇足-南本別間の廃線跡。(2016.05.05) 勇足の製糖工場の裏手にある小川をまたいでいた橋台跡。(2016.05.05) 岡女堂駅(ちほく高原鉄道) 2006年4月21日廃止(Map
隣接する菓子製造会社により設置され、会社名がそのまま駅名として用いられていた。(2015.09.22)
本別駅跡から南へ600mほどのところにある本別川橋梁。竣工時の1908年からの橋台がそのままであることから「百年橋梁」の名前を付されて保存されている。橋台には戦時中の空襲で被弾した痕跡もそのまま残っている。(左;2015.09.22 中・右;2016.05.05)
本別駅(ちほく高原鉄道) 2006年4月21日廃止(Map
本別駅跡は道の駅として利用されている。敷地内に跨線橋と線路だけが保存されている。ホームがないので、不思議な造形となっている。(左;2015.09.22 中;2016.05.05 右;2020.02.08)
仙美里駅(ちほく高原鉄道) 2006年4月21日廃止(Map
鉄道記念館として池北線の歴史にかかわる様々な貴重な写真などが展示してある。(2016.05.05)
足寄駅(ちほく高原鉄道) 2006年4月21日廃止(Map
道の駅「あしょろ銀河ホール21」として利用されている。内部には鉄道営業時のホームを模した売り場スペースに線路が敷いてあり、トリックアート様の演出がされている。正面の交差点の名称は、いまなお「足寄駅」が用いられている。(左;2020.02.08 右;2016.05.04)
「あしょろ銀河ホール21」に隣接して、かつての足寄駅を模した食堂がある。線路、駅名票、信号機も設置されており、よく雰囲気を伝えている。(左;2016.05.04 中・右;2020.02.06)
往年の足寄駅
愛冠駅(ちほく高原鉄道) 2006年4月21日廃止(Map
駅舎、ホームともに保存されている。線路は撤去されているが、線路跡は明瞭に残っている。(2016.05.04)
愛冠駅前にある「愛の泉」も残されている。(2016.05.04)
上利別駅(ちほく高原鉄道) 2006年4月21日廃止(Map
2015年の風害で駅舎は激しく損壊し、保存を検討した足寄町も数百万円の補修費を捻出できず、2016年6月以降に取り壊しとなる。損傷があったとはいえ、撮影日現在まで池北線時代の雰囲気を色濃く伝える美しい駅舎で、内部は廃止時のまま保存されていた。駅内は、旧国鉄時代からの雰囲気を色濃く残しており、募金などによる保存活動をしてほしかった。目前に撤去が迫るタイミングでの訪問となってしまった。(2016.05.04)
薫別駅(ちほく高原鉄道) 2006年4月21日廃止(Map
ちほく高原鉄道の駅の中でももっとも利用者の少なかった駅。集落から離れたところにポツンと物置のような旧待合室が残っている。中は腰を屈める必要があるほど低い天井になっていて、愛おしくなるような木の枝で作られたベンチが置いてある。掲示物は廃止時のままのようだ。山の中にひそかに佇むタイムカプセルのような小部屋。右の写真は旧線路肩から撮影したもの。中央を左右に横切る道路の舗装が黒くなっている部分に踏切があった。(2016.05.04)
陸別駅(ちほく高原鉄道) 2006年4月21日廃止(Map
陸別駅は廃駅であるとともに「復活駅」でもある。ちほく高原鉄道の廃止に最後まで同意しなかった陸別町は、陸別駅と分線駅の間を保存鉄道「りくべつ鉄道」として復活させた。無雪期の週末に隔週でディーゼルカーが約6kmの区間を往復している。車窓からは美しい利別川の流れも堪能できる。往復30分強を撮影時500円で乗ることが出来た。また駅構内にはトロッコ運転用の線路なども設置されているほか、運転体験などの催しも行われており、今や町を象徴する施設となっている。是非とも継続してほしい取り組み。(2016.05.04)
陸別駅とりくべつ鉄道。この訪問時は、分線駅跡までの線路上で、一部障害があったため、陸別駅構内のみの試乗運転だった。撮影時試乗料金は¥300。(2019.04.29)
りくべつ鉄道の陸別駅構内をぐるっと一周できる軌道自転車の線路が敷かれている。上の3枚の写真は軌道自転車で構内を周回しながら撮影したもの。機関庫、転車台を間近で見ることが出来た。運転も楽しく、オススメ。訪問時の料金は¥300。(2019.04.29)
川上-小利別間では、いくつか小規模なガーダー橋が残っている。(2016.05.04) 小利別駅(ちほく高原鉄道) 2006年4月21日廃止(Map
地域のコミュニティーセンターとして利用されている。(2016.05.04)
小利別駅のホームが残っている。(2016.05.04) 置戸駅(ちほく高原鉄道) 2006年4月21日廃止(Map
かつては駅を兼ねた複合施設として現在も残る。線路が一部モニュメント化のように保存されている。(2016.05.04)
北見市内の池北線跡の敷地に、個人所有の車両が保存されている。敷地に入ることはできないが、外観を見学することが出来る。写真左はキ754とDD14312、中央はスユ152033、右はワフ29570とヨ4674。(2017.09.09)(Map


足寄森林鉄道 白糠線 未成線区間

 足寄森林鉄道(1923-1960)は、網走本線(池北線)足寄駅を起点とし、足寄川流域に資料で確認できる数字として全長67km、一説には作業線も含めて総延長100kmに及んだと言われる森林鉄道である。その本線は、一貫して足寄川の右岸(北側)に敷かれていた。現在も、周囲ではその遺構を確認することができる。
 ただし、当該地は、札幌と釧路を最短で結ぶ鉄道計画に伴って、新得-足寄の北十勝線(計画線)とともに、足寄-白糠の白糠線の敷設計画があった場所と一部重複しており、足寄-中足寄間で、それらの遺構が混在して存在している。そのため、本稿では、それらを合わせて、分類しながら紹介することとした。
足寄森林鉄道は足寄駅を出発し、市街地北側の貯木場を過ぎ、すぐに利別川を第1橋梁により渡河していた。当該地の利別川東側(左岸)には、その橋台跡が残っている。訪問の時点で、橋台主部は、倒れており、川岸斜面に身を横たえるようにして残っていた。(左・中;2020.02.08 右;2020.02.06)(Map
足寄森林鉄道が利別川を渡河しっていた第1橋梁跡では、橋脚の基部が残っている。写真では、降雪により、その断面が平場となって表れている。訪問時、周囲は工事中であり、今後も残ってくれるかどうかは不透明である。(2020.02.06) 足寄から国道241号線を阿寒方面に向かうと、冬期間であれば南側に鮮明な築堤跡を見ることが出来るが、これは工期途中で放棄された国鉄白糠線(未成区間)の跡である。1957年の足寄森林鉄道現役時の参考Map内に、のちに着工される白糠線施工区間を赤線で、本撮影対象地点を赤丸で示したので、参照されたい。(Map)(2020.02.06)
白糠線(未成線)跡の築堤は、足寄川の右岸を、当時の高速鉄道路線の線形を想起させる形状で続いている。(2020.02.06) 足寄を起点として、中足寄集落の手前、カアカルシナイ川の流れが作る谷部に、橋脚が残っている。参考Map(Map内地点A)に示す通り、足寄森林鉄道の線路跡からは、外れた場所である。これらの橋脚から推定される線形は、中足寄集落に向かうものであることから、高い確率で、「中足寄駅」を建設予定としていた、白糠線(未成線)のものであると考えられる。先に紹介した白糠線の築堤から続く線形を、自然に延長した先に、当該地があることも、それを物語る。(Map)(2020.02.06)
中足寄から先は、白糠線の工事は未着手であったと考えられる。そのため、以降は足寄森林鉄道の遺構となる。これらは、中足寄集落を過ぎた先、シュマルウップネナイ川の作る谷に残る橋脚群(Map内地点B)である。カアカルシナイ川に残る橋脚と比較して、高さが低く、その線形は、先にある丘陵を等高線に従って巻く姿を想像させ、大地になめらかな線形を描こうとした白糠線(未成線)とは、趣が異なる。(Map)(2020.0208)
足寄を起点として、螺湾集落の手前、名もなき沢(おそらく)のつくる小さな谷にのこされた一対の橋脚。参考Mapの通り、足寄森林鉄道のものである。(Map)(2020.02.06)
螺湾集落の西側から、国道241号線を北側に分岐する道は、途中から廃道化されている。その先を進むと、足寄森林鉄道跡の路盤を示す平場が見える。(2024.01.25) 一部、足寄森林鉄道跡と路盤を共有していたとおもわれる廃道は、足寄川の流れに浸食を受け、路盤が崩壊している。(2024.01.25) 崩壊した路盤の斜面、足元の崖下に足寄川の流れを眺めながら進んだ。獣道が頼りになった。(2024.01.25)
足寄森林鉄道の橋梁跡。橋脚群が残っている。足寄川が北の山地を削る狭隘な個所を通過するために橋梁を架していた。当時、「黒橋」の名で呼ばれたとされる。(Map)(2024.01.25) 林の中に残る黒橋の橋脚群。全貌を収める画角は得られなかったが、現地で数えたところ、少なくとも8つの橋脚を確認することが出来た。(2024.01.25) 周囲に人跡はなく、動物たちの足跡のみがあった。(2024.01.25)
黒橋の橋脚群をできるだけたくさん1枚の写真に収めようとしたもの。(2024.01.25) 廃止から64年を経て、なお建ち続けている足寄森林鉄道の堂々たる遺構。(2024.01.25) 振り返って足寄川下流方向を見る。崩れた廃道路肩と思われるものの下に、橋台跡らしきものが見えた。管理人はこの崖を伝ってきた。(2024.01.25)
螺湾集落と上足寄集落の間、足寄川の蛇行が北側の山地を攻撃するところ、足寄森林鉄道はその狭隘な隙間を縫うようにして、その線形を描いていた。地形の凹凸を克服するため、7連の橋脚上に、木造トラス橋を組み立て、この難所を越えていたという。当時、「赤橋」の名で呼ばれたとされる。(Map)(2020.02.06) 7連橋脚のすべてを1枚の写真に収めることは難しかった。山の斜面が立ち上がるところに並ぶ橋脚に、往時の交通の苦労がしのばれる。(2020.02.06)
7連橋脚の足寄側には、切通も残っている。(2020.02.06) 訪問時、付近には獣の足跡が多くあった。大部分は鹿とキツネのものだろうと思われる。(2020.02.06)


広尾線

愛国駅(広尾線) 1987年2月2日廃止(Map
公園化されている。ホームには広尾線で活躍した19671蒸気機関車が静態保存されている。駅前の車掌車は、かつて売店として利用されていたが、訪問時は売店が横に移設され、廃墟の風となっていた。(2016.05.03)
大正駅(広尾線) 1987年2月2日廃止(Map
駅跡にはホームふうのモニュメントが設置されている(旧ホームではない)。広場にはかつての大正駅舎を模した公衆トイレが設置されている。(2016.05.03)
幸福駅(広尾線) 1987年2月2日廃止(Map
観光地であったこともあり、帯広市によって「交通公園」として整備されている。駅舎、ホーム、線路が残り、気動車(キハ22)2両が静態保存されている。(2012.09.03)
中札内駅(広尾線) 1987年2月2日廃止(Map
中札内村によって、「中札内交通記念公園」として整備されている。駅舎はないが、レールとホームが残り、有蓋貨車2両が静置されている。(2012.09.03)
忠類駅(広尾線) 1987年2月2日廃止(Map
交通公園として整備されている。駅舎は「忠類鉄道資料館」の名称により、内部もかつてのままとなっているが、訪問時は入ることはできなかった。(2016.05.03)


士幌線

第五音更川橋梁 幌加-十勝三股間
あちこちに退避所が設けられており、現役時には、住民が徒歩で通行し、列車通過時に退避したとのこと。(2017.05.03)
幌加-十勝三股間にのこる小さなアーチ橋。(2017.05.03)  幌加駅跡から北に延びる士幌線跡。(2017.05.03)
幌加駅(士幌線) 1987年3月23日廃止(Map
鉄道の運行は1978年12月25日で廃止されている。周囲に人家のなくなった林の中に、ホーム、ポイントを含む線路が残り、保存団体により整備されている。(2012.05.07)
タウシュベツ川橋梁(士幌線)(Map
士幌線が1955年の糠平ダム建設にあたって路線を付け替えた際に廃線となった旧線跡に存在する。音更川の支流であるタウシュベツ川を越える11連のアーチ橋。満水期はダムに水没し、渇水期には全貌を現す。一部が水没した状態で冬季は凍結することから、風化が進んでいる。ローマ水道を思わせる美しい姿には、ツアー参加等で容易に接近できるが、個人的には片道5km超林道を歩く必要がある。ダム湖対岸の展望所から遠景を見ることも出来る。北西方向にはニペソツ山をはじめとする東大雪の雄大な山並みが見渡せる。(2017.05.03)  
タウシュベツ橋梁の下を流れるタウシュベツ川。(2017.05.03)  タウシュベツ川橋梁から北に向かう士幌線跡。(2017.05.03)  糠平川橋梁 糠平-幌加間にあり、散策用の遊歩道路として整備されている。(2017.05.03) 
糠平駅(士幌線) 1987年3月23日廃止(Map
上士幌町鉄道資料館として整備され、付近のレールも残され、車掌車も保存されている。また付近では有名な音更川橋梁群を見ることが出来る。(左;2013.05.03 中・右;2017.05.03)   往年の糠平駅
旧・第四音更川橋梁(士幌線)
電力所前-糠平間 アーチ橋の両側が川を挟む形で残っている。(2017.05.03)
第三音更川橋梁(士幌線)
黒石平-電力所前間 完全な形で残っており、並走する国道から容易にその全貌を見ることができる。(2017.05.03)
上士幌駅(士幌線) 1987年3月23日廃止(Map
駅跡は交通公園となっている。案内看板はあるが、駅を偲ばせるものは残っていない。(2016.05.04)  往年の上士幌駅
士幌駅(士幌線) 1987年3月23日廃止(Map
駅舎、ホーム、線路な有蓋貨車とともに保存され、きれいに整備されている。駅舎の中に入ることは出来なかった。(2016.05.03)
往年の士幌駅
音更駅(士幌線) 1987年3月23日廃止(Map
音更町により駅跡地が「交通公園」として整備されている。48624、除雪車、車掌車が静態保存されている。(2014.05.03)


三菱鉱業美唄鉄道線(美唄鉄道)

東名駅(美唄鉄道) 1972年6月1日廃止(Map
東明駅保存会によって駅舎が美しく保存されている。塗装も施されているが、中に入ることはできない。E1タンク式2号機が併せて保存されいて、こちらも状態は良好。運転席に上がることもできる。現役時の2号機及び東名駅の姿は、美唄鉄道のページで紹介している。 (2015.08.09)
2号機運転席 (2015.08.09) 東名駅のホーム跡 (2015.08.09) かつての盤の沢付近では、三井美唄炭鉱第2坑跡の原炭ポケットのみがモニュメントのように残っている。 (2015.08.09)
我路駅付近の郵便局 (2015.08.09) 我路駅付近。線路跡がサイクリングロードになっているが、ところどころ茂みに覆われている。(2015.08.09) 我路駅近くに小さなガーダー橋が残っている。
(2015.08.09)
美唄炭山-常盤台間のトンネル跡 (2015.08.09) 常盤台駅(美唄鉄道) 1972年6月1日廃止(Map
付近は炭鉱メモリアル森林公園として整備されている。左は2つの立坑。右はかつての原炭ポケット跡。城砦の跡のような威容。(2015.08.09)


白糠

1983年10月23日、国鉄再建法下における最初の廃止路線となった白糠線は、札幌-釧路のバイパス線として計画されたものの一部。高速運行を前提とした高規格の設計であったため、蛇行する茶路川をすべて橋梁で越えることで線形を確保していた。全33kmの廃線跡であるが、茶路川を渡る橋梁だけで23の橋梁が架けられていた。これらの橋梁の多くが、現在までその姿をとどめている。上茶路炭鉱の石炭搬出にも活躍した。
共栄仮乗降場付近(2015.09.22) 松川橋梁 共栄-茶路駅間 (2015.09.22) 第2茶路川橋梁 茶路-縫別間 (2015.09.22)
鍛高トンネル付近 茶路-縫別間 (2015.09.22) 鍛高トンネル 茶路-縫別間 (2015.09.22) 縫別川橋梁 茶路-縫別間 (2015.09.22)
第3茶路川橋梁 縫別-上茶路間 (2015.09.22)(Map 第4茶路川橋梁 縫別-上茶路間 (2015.09.22) 第5茶路川橋梁 縫別-上茶路間 (2015.09.22)
第5茶路川橋梁  縫別-上茶路間 (2015.09.22) 第6茶路川橋梁  縫別-上茶路間 (2015.09.22) 第7茶路川橋梁  縫別-上茶路間 (2015.09.22)
第5茶路川橋梁 縫別-上茶路間 (2018.04.28) 第10茶路川橋梁 縫別-上茶路間 (2018.04.28) 第10茶路川橋梁 縫別-上茶路間 (2018.04.28)
第7茶路川橋梁  縫別-上茶路間 (2015.09.22) 第10茶路川橋梁  縫別-上茶路間 (2015.09.22) 第10茶路川橋梁  縫別-上茶路間 (2015.09.22)
上茶路駅 1983年10月23日廃止(Map
かつては炭鉱があり、白糠線でもっとも利用者の多い駅であった。道道665号線上茶路上茶路(停)線の先に現在も遺構を残している。廃止後も軌道自転車による利用が行われた時期があったこともあり、線路も撤去されずに残っている。駅名標は失われたが、訪問時までその骨組みは残っていた。本線2面式ホームのほかに貨物用ホームと貨物用側線の引込線線路も残っている。(2018.04.28)
第11茶路川橋梁 上茶路-下北進間 (2015.09.22) 第13茶路川橋梁 上茶路-下北進間  (2015.09.22) 第19茶路川橋梁 上茶路-下北進間  (2015.09.22)


鶴居村営軌道・標茶町営軌道

中雪裡駅(鶴居村営軌道) 1968年廃止(Map
駅跡は残っていないが、駅近傍に建設された鶴居ふるさと情報センターに、ディーゼル機関車と自走客車が静態保存されている。(2017.09.11)
2017年現在の地図に、鶴居村営軌道と標茶町営軌道の線形を記載したもの。 上幌呂駅(鶴居村営軌道) 1968年廃止(Map
幌呂線の上幌呂駅は1929年の開業時当該線の終着。1943年に新幌呂まで延伸となった。現在駅跡には、軌道車庫が残っており、倉庫として利用されている。訪問時は、手前で貯水槽の工事が行われていた。(2017.09.11)
開運町駅(標茶町営軌道) 1971年廃止(Map 注:開運町駅は「標茶市街駅」と表記
標茶町内にあり、廃止時には軌道の起点駅となっていた。標茶市街駅と表記する場合もある。軌道の車庫の建物が残っており、現在も隣接する工場で使用されている。(2017.09.11)
沼幌駅(標茶町営軌道) 1970年廃止(Map
標茶町営軌道の沼幌支線は1966年開業、1970年廃止と短命だった。終着だった沼幌の駅跡には、草むらの中に車庫が残っており、軌道の記憶をひそかに現在に伝えている。もう一つある建物は軌道の事務所跡で、始発便に備えて運転士が宿泊していたという。(2017.09.11) 


浜中町営軌道・別海町営軌道

茶内駅(浜中町営軌道) 1972年3月31日廃止(Map
接続する根室線茶内駅は現役。その茶内駅から歩いて数分のところに、浜中町営軌道で活躍していたディーゼル機関車が保存展示してあり、その歴史を伝えている。(2018.04.28)
秩父内駅(浜中町営軌道) 1972年3月31日廃止(Map
浜中町営軌道茶内線と円朱別線の分岐駅だった秩父内駅では、軌道を記念して、保線詰所の建物が保存されており、当時の線形が木柵で記してある。(2018.04.28)
上風蓮駅(別海町営軌道) 1971年7月廃止(Map
別海町営軌道の終点であった上風蓮駅跡には軌道車庫が残り、倉庫として使用されている。(2018.04.28)
奥行臼駅(別海町営軌道) 1971年7月廃止(Map
国鉄標津線奥行臼駅に接続していた起点には、機関庫、転車台が残っており、保存車両も展示されている。下掲標津線でも紹介。(2018.04.28)

標津線

奥行臼駅(標津線) 1989年4月30日廃止(2015.09.20 真ん中のみ2015.09.21)
別海町の有形文化財として指定され、駅舎、ホームがそのまま保存してある。
島式ホームへの階段(2015.09.20) 駅舎の内部。内部も公開されていたが、管理人の訪問時は、保存工事のため内部公開はされておらず、2018年まで公開しない旨の掲示があった。(2015.09.20) 1971年まで運行していた別海村営軌道の貴重な車両が保存されている。こちらは6tの内燃ディーゼル機関車とミルクゴンドラ貨車。(2015.09.20)
別海村営軌道の8t自走客車 (2015.09.20) 別海村営軌道の転車台跡 (2015.09.20) 奥行臼の駅逓建物も保存されている。(2015.09.20)
再訪問時の写真。奥行臼駅の保存駅舎内は5月1日から公開されるとのこと。管理人の訪問は3日早すぎだった。(2018.04.28)

かつての奥行臼駅の模式図。保存車両は、奥行臼駅から道路を挟んで、上風蓮に向かっていた線路の上に並んでいる。なお、当時の地形図はこちらに示した。


平糸駅(標津線) 1989年4月30日廃止(Map
駅に通じる道さえもなくなった林の中、駅のホームが残っている。ステップの入口には、待合室の残骸と思われるものが散らばっていた。管理人が訪問したときは、近くに2頭の鹿が佇んでいた。(2018.04.28)
平糸駅付近の標津線跡。(2018.04.28)
光進駅(標津線) 1989年4月30日廃止(Map
鉄道林の中に駅のホームが残っている。(2018.04.29)
光進駅付近の標津線跡。(2018.04.29)
西春別駅(標津線) 1989年4月30日廃止(Map
駅跡は別海町鉄道記念公園として整備されている。サハリンで活躍していたD51-27、キハ22 239、キ276等の保存車両が展示してあるほか、別海町内にあった駅の駅名標がおいてある。記念館は無料で入場できる。貴重な写真、切符などが展示してある。(2018.04.29)
上春別駅(標津線) 1989年4月30日廃止(Map
鉄道林の中に駅ホームが残る。左写真において、列車が発着していたのは、奥側になる。(2018.04.29)
上春別駅の北側の農地には、第二次世界大戦の戦争遺跡である掩体壕(えんたいごう)を見ることができる。物資、人員などを守るための施設で、強度の観点からかまぼこ型をしている。(2018.04.29)
中標津町の丸山公園ではC11209が静態保存の上、展示してある。(2018.04.28) 川北駅(標津線) 1989年4月30日廃止(Map
駅跡にキハ22168が展示してある。きちんと塗装がされてある。(2018.04.28)
標津町の公民館前から根室標津駅跡の転車台に移送されたC11224。(2018.04.28)
根室標津駅(標津線) 1989年4月30日廃止(Map
駅舎は残っていないが、蒸気機関車時代の終着駅の象徴でもある転車台が保存されている。管理人訪問時は、ちょうど標茶町の公民館前にあったC11224の搬送作業中であった。作業を行っていた標津転車台保存会のみなさんのご厚意で、電動で転車台まで動く機関車に試乗させていただいた。たいへんありがとうござました。(2018.04.28)

根北線

越川橋梁(根北線未成区間)(Map
根北線は斜里と根室標津を結ぶ計画で、そのうち斜里-越川間12.8kmは、先行して1958年に開業した。越川と根室標津の間も工事が進められたが、 1970年に全線廃止となった。 その工事区間に残る遺構「越川橋梁」は、その美しさから1998年に登録有形文化財となり、 工事中止から47年を経た今も、山林の中に姿を残している。左と中の連続アーチは、国道を南下する際左手に、右のアーチ一つのものは右手に見ることができる。(2017.02.03)


小駅の“公称”利用客数に異議あり 

 1) 駅等の廃止を進めるJR北海道

 JR北海道は2016年2月10日(水)、「極端にご利用の少ない駅」について速報を発表した。これによると、同社管内の453駅のうち約3割が1日10人以下の乗客という「極端に利用の少ない駅」であり、かつ、1日平均の乗車人員が1人以下の駅が全体の13%に当たる58駅存在することとなっている。

 そして、そのことを大きな根拠として、利用の少ない駅の廃止に着手をはじめている。2016年3月のダイヤ改正により、函館線鷲ノ巣駅、石北線上白滝駅、旧白滝駅、下白滝駅、金華駅、根室線花咲駅、石勝線東追分駅、十三里駅が廃止となった。また札沼線の新十津川駅-浦臼駅間の普通列車が3往復から1往復(!)に減便されるなど、全道で普通列車の間引きが行われた。さらに留萌線の留萌-増毛は廃止予定、日高線の鵡川-様似は復旧のめどの立たない休止状態となっている。

 しかし、これらの報道の根拠となっているJR北海道発表の「利用者数」が、私の実感とまったくあっていないのである。JR北海道は第2回「地域公共交通検討会議」(北海道運輸交通審議会小委員会)において同様の資料を提出し、これを根拠に経営や駅、列車の扱いなど、検討が行われているが、その根幹のデータとなっているものに、私は疑義があると思う。

2) 国鉄再建化法下でどのような数字が扱われたか

 私がこんなことに言及するのは、かつて国鉄再建化法のもとで用いられた強引な数字を用いた手法に苦い記憶があるからでもある。基本的に、私は地域の社会や経済を支える性格のものを、収支という目安だけで扱うというのは、かなり乱暴なものであると考える。国鉄再建化法下で、廃止の目安とされた「輸送密度」という指標には、地域事情をほとんど反映しない行政の冷たさがあった。これは人口における利用率ではなく、単純に利用者の数のみを背景とした指標であったため、元来人口密度の少ない北海道には不向きな指標であり、地元の人の多くが利用していても、その実情は反映されず、達成不可能な基準であった。そのため、利用の実態とは関係なく、次々と狙い撃つように路線が廃止となっていった。実際、私が乗った多くの路線では、時には通路まで一杯の利用者がいたのである。しかし、地域の人の多くが利用しても、地域の絶対的な人口がなければ、先の指標により「利用価値のない」「無用な」ものと見做された。現地の状況を知らない人が、まるで、我がことの利益に係る重大事のように「廃止すべき」という論調を掲げることもあった。

 名寄線の廃止時に紋別駅の一日の乗客数は800人とされている。人口3万人の町の一駅で800人が列車に乗車していたのである。この比率は、当該年度の札幌市の人口と札幌駅の乗客数の比と大きく変わるものではない。紋別市の両隣の興部町、湧別町にいたっては、当時の人口:代表駅の1日利用者数比はさらに高まり、それぞれ6,600人:403人、1万7千人:686人である。つまり、当時札幌よりも、はるかに「日常的に鉄道を利用する人の割合」は高く、依存度が大きかったのである。当時もっともらしく囁かれた「現地の人が利用してない」は、現状を知らない都会に住んでいる人たちが、「輸送密度」という数字から誘因した勝手な妄想でしかなかった。

3) 駅の利用実態を評価しているナゾの数字

 そして、昨今の第二次廃止ブームにおいて使用されている数字、これが前回の数字とはまたちがった意味で、とても不思議なものなのである。前述の北海道運輸交通審議会小委員会において検討の土台に利用された2011-2015年の実績について、そのうち2011-2013年のものについては、国土数値情報駅別乗降客数データの詳細(国土交通省国土政策局)により公開されたものと共通であろう。そして、そこでアナウンスされている数字が、「いったいどうやって集計したのだろう?」と、どう考えてもおかしいと思えるものばかりなのである。

 例えば、留萌線の末端増毛駅の1日あたりの乗客数である。以下のようになっている。
  「2011年2人、2012年0人、2013年0人」

 これが本当であれば、2012年から2013年にかけて、まったくといっていいほど、増毛駅から乗車した旅客はいない、ということになる。しかし、私は何度か増毛駅を利用しているが、決して私が独占利用したわけではない。自分の乗った列車には、いつも数人から十数人の旅客がいたのである。これはいったいどういくことか。

 また、旧白滝駅の利用実態をみてみると、2011年から13年までずっと「0人」と集計されている。しかし、最近放送されたNHKのドキュメンタリーでは、この駅をこれまで毎日通学で利用してきたという女子学生の視点を交えたものであった。ということは、NHKのドキュメンタリーか、JR北海道の数字か、どちらか一方が現実を反映していない、ということになる。

 数えだせばきりがない。新十津川駅も3年間「0人」となっているが、私が列車で何度か来た際には他にも何人も旅客がいたし、この区間で、列車にひとりきりだったという経験は、少なくとも私にはない。私の利用が土日祝に集中していることによるバイアスはあるだろうが、集計値で「0」というのはあまりにも極端である。

 日本一の秘境駅となり、多くのファンが詰めかけるようになったため、「来てもひとりきりで駅で過ごせない」とまで言われている小幌駅も、3年間通じて利用集計は「0」。小幌駅に関しては、私自身は利用したことがないので、“実感と違う”というわけではないが、要するに、私がいいたいのは、「これらの数字が、根拠の脆弱なものであり、にもかかわらず、それを確かめもしないまま、もてあそぶような報道が行われている」、ということである。
 その結果、一般の人に対し、あたかも「誰も利用していない駅」であるかのような「刷り込み」が行われ、駅廃止への世論誘導がすみやかに行われているのである。

4) 考察「扱われている数字の正体は」

 念のために言っておくと、私はなにがあってもすべての駅を維持しろ、と言うつもりは毛頭ない。ただ、その扱いを議論する場において、根拠として取り扱う数字が科学的に妥当なものでなく、そのことによって、地域の実情や、数少ない利用者の声が圧殺される方法論が正しくない、と言っているのである。

 では、そのような数字は、いったいどのような形で算出されたものであろうか考察してみよう。一般に無人駅の乗車客数は、当該駅の切符販売数と定期利用者数から算出される。しかし、北海道の多くの駅の場合、券売機は設置されていない。そのため、整理券が配布されるのであるが、この整理駅は降車駅で精算するシステムである。 そうなると、無人駅での乗車数を算出するためには、(すべての)降車駅において、精算に加えて、整理券を発券駅別に集計しなくてはならないことになる。しかし、実際問題として、そこまでの窓口業務は執り行っていない。すなわち、増毛駅で乗車したとしても、降車駅が札幌駅であったり、旭川駅であった場合、その利用実態は抹消され、売上も精算された駅において加算されると推定できる。その結果、ローカル線を利用したにもかかわらず、その実態は数字的に反映されず、旅客が降車した主要駅に吸い上げられていることになる。

 また、定期利用者の数の把握についても、前述の旧白滝駅の女学生がカウントされていない事象から、小駅の利用者数の対象から漏れてしまっている可能性が高い。

 利用者数の把握方法として、鉄道各社が用いている他の方法に、車掌の目視確認による報告というものがある。しかし、JR北海道では、地方の普通列車はすべてワンマン化しているため、運転手がそこまでの集計業務を行っているとは考えにくい。実際に運転席を傍観していても、それに類似するアクションを、少なくとも私は確認したことがない。

 つまり、JR北海道が公開した小駅の利用者数は「当該駅で整理券を発行し、なおかつ精算駅において、その履歴が残るもの(おそらく近郊の駅のみの概算)」のみのものであり、別路線の主要駅まで利用したものや、定期利用者の数は除外されていると考えられる。きわめて実態と異なった「間引きされた」数字に違いない。

  これらは、私個人の「状況証拠から考えられる推測」ではあるが、おおむね正鵠を射るものであると考えられる。

5) この場での結論

 これらのことから、JR北海道側は「廃止ありき」で、そのために根拠があいまいであっても、都合の良い側にバイアスの大きく振れた数字であれば、むしろ幸いなものとしてあちこちで公開していると思われる。日高線の復旧費用や復旧に要する日数が、たびたび嵩増ししたことも、根底には同じ流れがあり、自治体や国から補助を引き出すか、廃止への誘導を念頭において、様々な局面で、有利と考えられる方向に振れた数字を用いていると考えられる。

 しかし、鉄道を愛する私が思うのは、まずJR北海道には、信頼に足る経営をしてほしい、ということである。この会社の経営状態は、私の些細な貢献などまったく意味がないくらいの厳しものだということは理解できるが、そうはいっても、信頼の裏付けがあってこそ、利用者の理解を得た改革は可能なのである。上記のような数字を平然とさらすような会社体質である限りは、その信頼が得られることはない。