旭川電気軌道

 旭川電気軌道は、当時宗谷線の仮乗降場であった旭川四条駅を起点として、旭川追分で二線に分離し、東川と旭山公園まで通じていた(貨物は旭川駅まで乗り入れていた)。父が旭川四条を訪問したのは、1972年1月とメモに残っている。当時、旭川市内では、宗谷線の高架工事が施工中であり、関連写真は宗谷線のページに掲載してある。宗谷線の高架化は、1973年9月29日に完成し、これに際して旭川四条駅も高架の普通駅へと昇格したが、それを待たず、1973年1月1日、旭川電気軌道は廃止され、46年間の歴史を閉じた。
 最近の旭山動物園ブームを見ると、この素敵な電気軌道が残っていれば、いかにも良かったように感じられる。
 父の写真は、すべて旭川四条の周辺で撮影されたもののようだ。 写真4のモハ101は、現在も東川郷土館に、写真7のモハ1001は東旭川公民館敷地内に保存されている。モハ1001は、旭川電気軌道が最後に新造した電車だった。  



1 左は宗谷線旭川仮乗降場のホーム

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4 モハ101 モハ101は東川町郷土館で静態保存されている

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7 モハ1001 モハ1001は東旭川公民館で静態保存されている

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10 行先票

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14 旭川四条駅

15 旭川四条駅

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旭川電気軌道時刻表 (1967年の夏頃のもの)

 旭川電気軌道のダイヤは都市近郊らしい規則正しいもので、昼間は毎時00分に東川行が、毎時30分に旭山公園行が旭川四条から出ていた。旭山公園に向かう東旭川線には、朝の通勤通学時間帯に休日運休の列車が追加されていることから、通勤通学利用客の割合が多かったことが推測される。
  旭川電気軌道の歴史を簡単にまとめると、1927年に旭川追分‐十号、十号-東川、旭川四条-旭川追分が順次開業し、その年のうちに旭川と旭川四条を結ぶ貨物線まで開通し、貨物の乗り入れが開始されている。旭川追分から分岐していた通称「東旭川線」は、旭山公園まで1930年に開業している。その後順調に業績を拡大し、1965年には年間輸送人員212万人、輸送密度1,888人/kmとなる。しかし1963年からすでに軌道部門は赤字となっており、自動車の普及とともに需要は低下。沿線農協が存続を要望するも、住民はむしろ軌道撤去に傾き、1972年12月31日をもって46年
間の歴史を閉じた。
 東川に向かう東川線からの大雪山の景色はとても美しかったという。


 
 2万5千分の1地形図、1974年発行「旭川」と1973年発行「永山」の合図により示した70年代はじめの旭川四条駅付近の様子。カーソルオンで鉄道関連施設をハイライトする。
 旭川電気軌道は1973年1月1日に廃止となったが、これらの地形図では、破線表記で線形が掲載されている。
 宗谷線の旭川-新旭川間が高架化されたのは、1973年7月1日で、当地形図でも牛朱別川橋梁まで連続立体交差の表記となっている。高架工事中の旭川四条駅付近の様子、及び旭川機関区の様子は、宗谷線で紹介している。
 旭川電気軌道線の旭川四条-旭川間の線路は貨物専用線で、旅客営業は行われていない。
 旭川駅には旭川機関区(1985年に旭川運転所に改称、2003年に北旭川貨物駅の旧・貨物ヤードに移転)があり、鉄道工場と一体的な施設となっている。
 引用図南端付近に合同酒精の工場があり、旭川合同酒精株式会社専用線(1909-1980代半ば。ちなみにその末端から連続して〈旭川瓦斯株式会社専用線 55年頃-80年代半ば〉 が接続)や北海道電力株式会社専用線(1910代-1970代はじめ)の線形も見ることが出来、旭川電気軌道の貨物線と併せて、当時の賑わいを伝えている。