編集後記に代えて  ~デジタル化できなかったアルバムの写真をみながら


 本HPは管理人の父が1970年代に撮影した北海道の蒸気機関車を中心とした写真を公開する目的で開設した。デジタル化の対象となった写真は最終的に5,000枚近くに上るが、本サイトでは、そのうち3割程度を公開することが出来た。未公開のものは、公開した写真と内容的に重複するもの、プライヴェートな性格の濃いものなどである。

 これらの写真を公開するに際して、一番難儀したのは、どのような分類で公開するのが良いかということである。多くの写真で、年代、地域といった様々な属性がはっきりせず、わずかに現像され、アルバムに収められた写真に付いていたコメントと照合したり、父の記憶を聞き出したり、写真に含まれる情報を一つ一つ精査し、あるいは地形図の検討などを重ねて、最終的には「路線・地域別」というカテゴリ分類で、どうにか整理するところまでこぎつけた。

 とはいえ、最終的に「まったく分類できなかった写真」、「路線はわかるものの、それ以上に場所を特定することが困難だった写真」などが多く残ってしまった。そのうち、特に捨てがたいと思ったものについては、「その他」として、所定欄に掲載し、公開することとした。

 なお、上記のような状況であったため、公開情報が、間違っている場合も十分に考えられる。写真情報に疑義を持たれた方、間違いを発見した方は、お手数ですが、管理人まで連絡をいただけるとありがたい。

 さて、一方で、アルバムに掲載されながら、どうしてもフィルムを見つけることができなかった写真たちも存在する。一部は、メインサイトでその旨を断って公開させていただいているが、そこから漏れてしまった写真の一部をスキャナで取り込んでみた。これらのフィルム消失写真たちを紹介しながら、全体的な振り返りとしたい。  


(トップページにある通り、その後カラー写真についても、デジタル化可能な状態のものがあったため、各ページに追加してあります。また、その他にもフィルムを発見できた写真があり、その結果、当ページ掲載写真と重複するものもありますので、ご了承ください。なお、追加分も含めてデジタル化した写真は、最終的に6,500枚近くになり、その半分に相当する約3,200枚を当サイトで公開させていただいております 2017年6月14日追記)
 本HP「札沼線」で紹介したように父が蒸気機関車の撮影を積極的にはじめたのは1969年10月ごろだったらしい。

 当写真は1969年11月に小樽築港機関区で撮影された。言わずと知れたC62の重連、急行ニセコの編成である。

 急行ニセコは山線と呼ばれた函館線を経由する列車の中の花形で、沿線は多くのファンが撮影に詰めかけたというが、父によると、「とにかく速度が速くて、撮影が難しかった」とのことである。

 そんな急行ニセコを牽いたC62は小樽築港機関区に所属しており、車体をじっくり撮影するには、小樽築港での待機時が最良だったにちがいない。
 1970年12月に撮影されたC1199。C11は支線を中心に各地で投入された機関車で、このC1199は本HP「札沼線」でも頻繁に登場する。

 管理人にとって、自分が育った家のすぐ近くを通っていた札沼線は、まさにふるさとの路線である。

 そう考えると、管理人の原風景を走っている蒸気機関車は、このC11のような機関車に思われる。

  ちなみに同型のC11207を、JR北海道は動態保存し、記念行事等の際に走行させていたが、経済状況の厳しさ等から、2015年になって東武鉄道に移管される旨が周知された。

 C11が北海道を去るのは寂しいが、往時の北海道の面影を残して、これからも走り続けてほしい。
1971年5月に撮影されたC6216とC6215の重連。いずれも小樽築港にて。下の写真はC622の単行。父は現像も自分で行っていたこともあり、白黒写真をメインにしていたが、カラー写真もそれなりに撮影していた。しかし、カラーのフィルムは、劣化が激しく、残念ながらデジタル化には至らなかった。そのため、当時、現像されアルバムに綴じられていたものは貴重な存在。急行ニセコをC62が牽いたのは1971年の9月が最後なので、その直前の姿といったところだろう。
1972年1月、小樽築港機関区において撮影されたもの。この時のフィルムは、残念ながら紛失してしまった。アルバムにのこった写真のみである。
 父の写真のうち、もっとも記録量が膨大だったのが、美唄鉄道。1972年5月いっぱいで廃止となったが、その直前の3月に我路駅で撮影されたもの。父と我路駅の駅長木村氏、それに父と一緒に蒸気機関車を撮影していた中川氏の3人での記念写真。
 1972年6月。日課とも言える札沼線を行く貨物列車を見る散歩。いつからいつまで続いていたのかわからない。生まれたばかりの管理人と母の姿。
 黒煙を上げるC11が美しい。現在、周囲は一面の住宅地へと変貌を遂げた。唯一、現在までかわらない西札幌送電線の鉄塔が、ランドマークのように後方に見える。
 1972年7月、札幌駅の地下で開催された父の個展の様子。5月いっぱいで廃止となった美唄鉄道をテーマとしたものだった。
 1972年夏、函館線小沢付近で撮影された79618。
 小沢には、夏冬問わず何度も撮影のため訪問したようだ。
 
 1972年8月、札沼線撮影の旅。当時は移動もすべて鉄道。決して本数の多くない路線だが、これを乗り継いで撮影地に向かった。左のSLの前に立つ父の写真は浦臼駅で、右のホームに立つ父の写真は札比内駅で、同行者が撮影したものだろう。
1972年8月、D511052添乗の際の一コマ。本HP「千歳線」でも紹介。苗穂→登別間の貨物列車。白老駅での休憩のシーン。とにかく楽しい旅だったとのこと。
 1973年1月。苗穂駅から苗穂工場を行き交う蒸気機関車に見入る管理人。・・であるが、残念ながら当時の記憶は残っていない。
 しかし、このころのインプリンティング効果が、将来の管理人の趣味形成に大いに役立ったに違いない。
 1973年7月、本HP「宗谷線」でも紹介したC5530への添乗。その際に宗谷線塩狩駅及び旭川機関区で撮影されたもの。おそらく同行者が撮影し、譲り受けたものではないだろうか。
1974年2月、機関庫で遊ぶ管理人、管理人の妹と母。
 1974年は5月と10月。本サイト「幌内線」でも紹介した二度の幌内線訪問の際のカラー写真。59609。幼少の管理人も同行しているが、残念ながら覚えていない。幌内線は、札幌近郊で最後まで蒸気機関車の姿を見ることができた路線であった。
 1974年8月、両親に連れられて、瀬棚に海水浴にいった際の瀬棚線の写真。車両がとても混雑していたことははっきり覚えている。残念ながら駅舎等の写真は見つからなかった。
 1974年8月、瀬棚旅行の際、小樽駅に入線した急行ニセコ。かつてC62の重連が牽いた優等列車も、このころはDD51の重連に姿を変えていた。
   
1975年2月の名寄線訪問。蒸気機関車の撮影のため何度も通った名寄線への最後の「遠征」の際に撮影されたもの。これら6枚は、アルバム等にあったが、フィルムを発見することはできなかった。
 上左右;流氷に埋まった漁港
 中左;アルバムと別に残されていた1枚。おそらくこの時期の名寄線と推測する。あるいは宗谷線の1枚かもしれない。
 中右;乗降口の窓からみた車窓風景
 下左;大きな駅で線路を横断する旅客たち
 下右;雪原の豊野駅へ降りる旅客
豊野駅以外の撮影場所は不明だが、下左の写真はかなり大きな駅であり、紋別駅ではないかと推測するがどうだろうか。

2016年6月20日追記: 写真の一部について、フィルムを発見し、中左、下左の写真はともに名寄線下川駅のものと分かり、該当ページにて公開しました。
1) 1975年2月の名寄線
2)
3) 1975年3月の釧網線
4)
5)
6)
7) 夕張鉄道のさよなら列車(1975年3月22日) 新二岐付近
8) 1975年3月の夕張鉄道
 すでに夕張鉄道は旅客営業を終了しており、運炭鉄道としてもこの月が最後の営業だった。
 
 1969年10月に開始し、ほぼ5年と6か月の間に及んだ父の蒸気機関車写真。該当時期のアルバムは、1975年3月相当のページに、これらの写真が飾られて締めくくられている。特にコメントなどは付されていない。
 この後、追分機関区にわずかに残った蒸気機関車も、D51が1975年12月24日、9600が1976年3月2日を最後に、北海道の大地から姿を消すことになるのだが、この間の写真は記録されていない。

 この時期から、父は趣味の中心を登山に切り替え、上興部も一ノ橋も小沢も常紋も金華も、その後訪問することはなかったと言う。そのため、アルバムにも、鉄道をテーマとした写真は登場しなくなる。そして、80年代半ばに、管理人が中学生になったころ、今度は管理人が駅舎を中心に写真を撮る様になるのだが、それらは「80年代駅の情景」に簡単にまとめさせていただいた。

  父の膨大な写真のほとんどは、フィルムのまま長い眠りについていた。2014年になって管理人が幌延の簡易軌道問寒別線の写真をふと見た経緯から、発掘とデジタル化作業を行うこととなり、そして1年以上を費やしてHP開設・公開までたどり着くことが出来た。

 これらの貴重な写真を消失させずに済んだことに、一旦は安心している。

 北海道の鉄道は、2015年現在危機に瀕していると言っても過言ではない。留萌線の廃止、金華などの小駅の廃止、日高線の長期運休などが連続してアナウンスされた。正直に言って、管理人は北海道新幹線にはあまり興味がない。出来ても乗りたいと思わないが、その一方で、留萌線、日高線については、本当に惜しく思う。今後も出来る限り道内に残された鉄路に乗り、沿線を訪問し、画像の記録を行っていきたい。

 まずは、日高線の復旧を心より祈らせていただく。日高線が復旧した時には、是非、何度でもかの地を訪れたい。