札沼線
札沼線は、管理人にとって「ふるさとの線」である。学生時代から社会人時代にかけておよそ20年の間、この路線を定期利用してきた。今現在は、居住地と職場の位置関係から、利用機会は少なくなったが、それでもしばしば利用している。また、私の母も、70年までは月形町内の職場に通っていたため、篠路と中小屋の間を日常的に利用していた。
これらの写真が撮影されたころ、札沼線の終着は新十津川ではなく、留萌線の石狩沼田であった。いくつかの写真に「石狩沼田方面」の文字を見ることが出来る。石狩沼田-新十津川間の廃止は1972年(昭和47年)6月19日と早かった。残念ながら、廃止区間の写真はない。 現在では、石狩当別の先に新設された「北海道医療大学」駅までが電化され、「あいの里教育大前」駅からは複線化、創成川を越えたところから屯田付近からは高架化がされており、都市近郊路線として様変わりしている。しかし、当時の新琴似、篠路付近は、宅地化もまだ途上で、遠くまで列車が走っているのを見通すこともできた。貨物列車が走り、篠路駅の付近には名産の玉ねぎを貯蔵する煉瓦造りの倉庫が並んでいた。 |
新琴似駅・周辺
1 屯田の防風林を行く |
2 C1199 手前は創成川を渡る橋梁 |
3 C1199 |
4 C11228 新琴似駅 |
5 新琴似駅 |
6 C11228 新琴似駅 |
7 新琴似駅 |
8 新琴似駅 |
9 新琴似駅 |
10 新琴似駅周辺 |
11 新琴似駅周辺 |
12 新琴似駅周辺 |
13 新琴似駅周辺 |
14 新琴似駅周辺 |
15 創成川橋梁 |
16 現在の新琴似-太平間 |
17 C11228 |
写真1~3について: メモによると1969年10月の撮影で、おそらく本サイトのためデジタル化を行った写真群のうち、一番最初の頃に撮影されたもの。この年の10月1日に行われた国鉄のダイヤ大改正により大量の蒸気機関車が廃車となり、札幌近郊で彼らを見かける頻度も一気に少なくなったという。この頃、札沼線では1日1往復のC11が牽く貨物列車が通った。朝8時頃の撮影。新琴似篠路間の下り列車。手前のガーター橋は創成川に架かっているもの。当時「石狩街道」と呼ばれた国道231号線の陸橋上からの撮影と思われる。奥には防風林の一部が見える。現在この地は住宅街が立ち並び、線路も複線化と電化が行われた。ちょうど写真の地点付近から札幌側はすべて高架にもなり、通勤通学の電車が行き交っている。 |
篠路駅・周辺
石狩太美・雪害救援
1970年3月、豪雪のため、気動車が石狩太美駅で運行中止を余儀なくされた。写真は天候が回復して救援隊が駆け付けた前後のもの。乗客の中には管理人の母もいた。キャタピラの車両は、救援隊が使用していた雪上車と呼ばれる特殊車両。スキー場で、整備やパトロールのために使用されているのは、よく見かけるが、雪害時の救援活動にも投入される。 |
石狩当別駅
中小屋駅
現在は田園の小駅といった雰囲気の中小屋駅だが、通勤通学に一定の利用がある中小屋駅。これらの写真の当時は、管理人の母の職場が中小屋にあり、母は篠路駅から中小屋駅へ札沼線で通勤していた。また、近くにスキー場があり、スキー客もこの駅を利用していた。 |
石狩月形周辺
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112 知来乙駅 |
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114 石狩月形-知来乙間のS字カーブ |
115 C11129 |
116 C11129 |
117 須部都川橋梁を渡る |
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120 1972年2月 |
石狩月形駅
浦臼駅・周辺
蒸気機関車時代の浦臼駅は、交換施設と給水施設を整備しており、札沼線の中心駅としての役割を果たしていた。札沼線の主力蒸気機関車はC11であり、1974年まで使用されていた。 |
キマロキ編成 入る
1970年初頭。札沼線に入ったキマロキ編成。キマロキ編成とは、機関車、マクレーン車・ロータリー車・機関車の編成で、線路両側の積雪をマクレーン車が掻き落として集め、それをロータリー車が遠くへ跳ね飛ばす、その作業を両端の機関車が推進し、場所を進めていく、という積雪地ならではの豪快な特別編成。この日は、途中で機の不良があったことから、停車の上、チェックを行っている様子も撮影されている。名寄市の北国博物館前には、旧名寄線上にキマロキ編成が静態保存されている。 |
その他
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173 C11228 |
174 C11228 |
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185 石狩川橋梁 |
186 石狩川橋梁 |
187 石狩川橋梁 |
188 C11129 |
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札沼線時刻表 上段;1967年10月 下段1971年10月 現在の終着駅は新十津川であるが、当時は線名の由来でもある石狩沼田で留萌線と接続していた。石狩沼田ー浦臼間は1967年の時点で7往復であったが、1971年では5往復となっている。札幌-深川を直通する列車も存在していた。全線のほぼ中間に位置する浦臼駅が、保線・補給の基地として、重要な役割を果たしていた。 |
新墾藤学園のこと
母が月形町の職場に札沼線で通勤していたことを上述したが、その職場は月形町新田にある「新墾藤学園(にいはりふじがくえん)」である。場所は現在は、地理院地図ではこちらとなる。 新墾藤学園は、1945年の開設当初は冬季の裁縫学校として運営されていたが、1954年に全日制の中学校、1958年に高等学校を開設することとなった。管理人の母は、この学校で教員を務めており、札沼線で篠路-中小屋間を通勤していた。しかし、1970年に学校は閉校し、現在も札幌市内にある藤学園と統合されることとなり、母も、そちらに移ることとなった。 上の写真は、1969年7月に撮影された航空写真である。黄色で囲った右写真は、クリックで拡大版を見ることができる(ただ、元写真をスキャンしたデータであるため、画質は粗い)。 右写真の左端(東側)にあるのが体育館。いくつかの棟が空中歩廊等で結ばれる構造が分かる。 右写真は北側から南方を向いて撮影したもので、写真手前の道を右にたどると、その先に中小屋駅があった。学生と教職員の多くが、その道を通学・通勤路としていた。 現在この場所は、「社会福祉法人藤の園」となっているが、建物は建て替えられており、当時の面影はない。 |
新墾藤学園の風景。 畑地に囲まれた学園、遠くには樺戸山地の山並みが見え、綺麗な並木道が整備されていた。 右下の建物は、中小屋駅から学園に入ってきて、最初に見える棟。各棟の用途等は、現時点で確認できていない。 |
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1969年7月、新墾藤学園における学園祭の模様。 | ||
学園風景。広い中庭があった。 |
1969年10月4,5日、新墾藤学園の体育館で開催された藤四姉妹校親善試合の模様。管理人の母は、バドミントン部の顧問を務めていたとのこと。 新墾藤学園が優勝した。 |
学園周辺には豊かな自然に満ちていた。写真は中小屋駅と学園の間の風景。春になると、湿地帯には水芭蕉が咲いた。 | ||
1969年11月2,3日の新墾藤学園の教職員による懇親会時の写真。左は羊蹄山。右は、ニセコの五色温泉に向かう道 | |
左写真はニセコ連峰をバックに参加者の記念写真。右写真は五色温泉。五色温泉の当時の様子を伝える貴重な一枚でもある。 ちなみに、新墾藤学園が藤学園に統合されたのちも、ニセコへの旅行は継続され、毎年3月に、2泊3日のスキーツアーとして開催された。子どもだった管理人も毎年連れて行ってもらった。宿泊は、国鉄ニセコ山の家で、参加者は、ニセコモイワスキー場で、3つのリフトを乗り継いで、モイワ山山頂付近から、スキーで国鉄ニセコ山の家までツアーした。国鉄ニセコ山の家からは、見返り坂をバックカントリーで降りると、ニセコアンヌプリスキー場に降りることができた。また、ニセコアンヌプリスキー場とからニセコモイワスキー場へは、スキーで簡単に移動できた。 幼少の管理人にとっては、スキー、温泉での宿泊も楽しかったが、往復で利用した急行「らいでん」の旅は、さらに楽しいものであった。 |