幻の鉄道・軌道線形の復元~地形図に記載されなかった鉄路

   
序章 第1章 第2章 第3章 第4章




第4章 後志日本海岸・檜山の軌道群

本章は以下の4部からなります。
その1 茅沼炭鉱軌道
その2 寿都と島牧の石灰搬送用軌道
その3 今金町の客土軌道と美利河鑛山軌道
その4 江差町の客土軌道と上ノ国森林軌道

 
 「後志(しりべし)」「檜山(ひやま)」はいずれも北海道の地域名で、「後志」は倶知安町・ニセコ町を中心に小樽市や積丹半島を含む道西部、「檜山」は道南渡島半島の日本海側を指す地域名称だ。本章では、この後志地方の日本海側と、それに連続する檜山地方にあった軌道群について、地形図に記載されなかったものの線形を考察してみたい。
 ただし、いきなりのネタバレで恐縮だが、今回ご紹介する軌道群に関しては、あまりにも資料や、現在まで残る遺構、もしくは航空写真等の情報が少ない。そのため、かなりの部分で、管理人の推測や状況証拠からの予想が入ってくる。また、紹介する軌道には、100年以上前にその使命を終えたものも含まれており、そういった点でも、線形紹介と銘打ってはみたものの、その域まで達していない内容のものも多い。とはいえ、現時点で集められた情報をまとめて、いったんはご紹介させていただき、追加して情報や、現地の様子で確認できることがあったら、追記することを前提として、紹介してみたいと思う。


   
 今回紹介する地域は、北海道南西部のエリアにある。先に紹介した通り、左図渡島半島の分水嶺の西側が「檜山地方」、その北側にあって、日本海岸から小樽市、羊蹄山を含むエリアが「後志地方」となる。
 この地域の日本海側は、急峻な海岸地形が連続するところであり、それゆえに、北海道の開拓史において、長く陸上交通における難所として、立ちはだかってきたところでもある。
 左の図にカーソル・オンしていただくと、線形が現れるが、これは、2025年現在の国道229号線と国道228号線を中心とした日本海沿いの道路を示したものだ。この日本海岸に沿って連続する道路には「日本海追分ソーランライン」という呼称がある。長い年月をかけて、険しい海岸線に開削された道路なだけに、風光明媚さの際立つルートだ。
 ただし、その線形をご覧いただくとすぐにお分かりだと思うが、通常、函館方面と札幌方面の間を移動するにあたって、この道を通ることはない。言ってみれば壮大な迂回路である。しかし、大都市間を移動する人にとって縁のない道であっても、途中の海岸にある小さな集落たちにの多くにとっては、この道は外部とつながる唯一の陸路として無二の存在である。
 
 斯様に生活必須道路という実態でありながら、このルートが全通したのは、1996年(最後に開通したのは積丹半島先端部の連絡部分)のことであり、日本における交通史においては、つい最近のことと言ってもいい時期である。それくらいに、交通を確保するためには「手ごわい」地形が連続する海岸線だったのだ。結果として出来た道路は、見事な景勝路となっており、人口の少ない日本海岸域を結んでいることもあって、小樽-余市間(当該区間は国道5号線に相当)を除けば、概して交通量は少ない。
 このあたりの急峻な海岸地形は、一見した限りでは定住に不向きと思われるところなのだが、実際には、切り立った断崖と荒れる日本海の間の僅かな平地を利用して、古くからニシン等の漁場として多くの集落が形成されてきた。1874年に製作された「函館支庁管轄地略図」はその様をよく示している。
 集落の「数」はそれなりにあったのだが、どの集落も立地的な制約ゆえに、規模には限界があり、地形の険しさとがあいまって、この地域に海岸線を沿うような鉄道線(一部で計画のみはあった)が建設されることはなかった。その代わりに、日本海岸にあるいくつかの比較的大きな集落(自治体)までは、北海道の動脈である函館線の途中駅を起点とする鉄道線が建設された。言ってみれば本線から日本海岸までの引込線のような感じである。
 左図にそれらの鉄道線を示す。岩内、寿都、瀬棚、江差、松前(注:松前は檜山地方ではなく、渡島地方)へと函館線から鉄路が伸びていた。ただ、これらの線路たちは、2025年現在に至るまでにすべて廃止され、すでに鬼籍に名を連ねる存在となってしまっている。
 もちろん、今挙げた鉄道線たちは、地形図にしっかりと記載された経歴の持ち主たちだから、本章で紹介する対象にはならない。
 
 それでは、「鉄道不毛の地」としか言えないこれらの地域において、果たして他に本章で紹介するべきものがあるのか?といったところであるが、旅客営業を行わなかったものにまで範囲を広げれば、いくつかある。とはいえ、このエリアの面積に比せば、さすがに多いとは言えないのであるが、逆に言えば、それらは「貴重な存在」と言えるかもしない。
 そこで、それらの中から、ある程度資料等収集できるものについて、軌道の線形を類推することも含めて、現時点で可能な限りの情報をまとめてみたい。それが本章の目的である。
 せっかくなので、本論に入る前に、絶好の景勝路である「日本海追分ソーランライン」の風景写真をいくつかご紹介することにしよう。かつて「陸の孤島」と呼ばれた集落たちが点在する海岸線が、いかに軌道系交通の建設を妨げるような土地であったのかということも、併せて伝えてくれると思う。
 まず上は、雷電トンネルの南側坑口(国道229号線)(場所)付近。2025年5月5日撮影。海岸から巨大な岩塊が垂直に突きあがるこの景色は、「日本海追分ソーランライン」のシンボルの一つと言える。付近には、この美しい海岸風景に面した雷電温泉郷があったが、2019年までに全ての温泉・宿泊施設が廃業し、2025年現在では廃墟群となっている。管理人も「ホテル雷電」に宿泊したことがあるので寂しい限り。この美しい海岸線に沈む夕陽は、無二のものだと思うのだが、世界的リゾートであるニセコに近いことがあだとなったのだろうか。
 2025年5月5日撮影、磯谷トンネルの南側坑口(国道229号線)(場所)。「磯谷」はこのあたりの広域を指す地名でもある。蘭越町は「磯谷郡蘭越町」であるが、海側の「磯谷郡磯谷村」と内陸側の「磯谷郡南尻別村」が合併し、「磯谷郡蘭越町」となった。蘭越町役場は内陸側の旧・南尻別村の中心に置かれた。
 地元北海道でも、蘭越町が海に面していることを知らない人が多いと思うが、地図を見ると、上写真の地点を含めた尻別川の河口付近に、小さく蘭越町域があって、その海に面した集落が、かつての磯谷村の中心である。現在は蘭越町港町。
 2016年9月24日撮影、島牧海岸に沈む夕日である(場所)。留萌地方も同様だが、北海道の西側の海岸線は、ほぼ南北方向に海岸道路が貫いているところが多く、夕日の名所には事欠かない。  2025年5月5日撮影。島牧村の白糸トンネル南側坑口(国道229号線)(場所)。厳しい海岸地形を連続するトンネルで突破している。トンネルとトンネルの間のわずかな明り区間で、かろうじて外の世界を垣間見る。ちなみに撮影地点は線形改良に伴って廃止された旧道の路上。
 2016年9月24日撮影、せたな町中歌の狩場漁港付近(場所)からみる瀬棚海岸。彼方に有名な三本杉岩も見えている。奇岩の並ぶ海岸を国道229号線は貫いてゆく。  2025年5月5日撮影。せたな町を代表する海岸の景勝「三本杉岩」(場所)。管理人は幼少のころ、はじめて両親に連れられての泊りがけの旅行先が瀬棚だった。瀬棚線に乗り、立像山から見たイカ釣り漁船が出向していく夕景は脳裏に焼き付いている。(こちらで当時の写真を紹介しています)
 2016年9月24日撮影、せたな町北桧山区鵜泊付近(北海道道740号北檜山大成線)(場所)。せたな町北桧山とせたな町大成の間に関しては、海岸線を伝う道路の役割を、国道229号線ではなく、「北海道道740号北檜山大成線」が担うことになる。一車線区間も多くあるなど道路としての規格は下がるが、絶景道路と呼ぶにふさわしい景色は存分に楽しめる。    2016年9月24日撮影、せたな町大成区太田付近(北海道道740号北檜山大成線)(場所)。正面に見える特徴的な輪郭をもった山は天狗岳(標高508m)。目立つ形状ゆえに安政年間の松浦武四郎や菅江真澄の紀行文にも登場する。
 また、右手にある急斜面を登った先には、1441~43年建立の「太田神社」がある。参道が急斜面にあって「日本一参拝するのが危険な神社」と言われることもある。この周辺では円空や、定山渓温泉の発見者である定山法印が修行をしたとも言われ、定山法印が彫ったと云われる「版画」には、太田権現の側に眷属として天狗が彫られていることから、太田地区の天狗岳との関連が考察されるという。いずれにしても、到達難易度の高い厳しい地勢ならではの故事である。  
 2024年11月14日撮影、せたな町大成区にある奇岩「親子熊岩」(場所)。「日本海追分ソーランライン」の海岸線は奇岩が連続する。有名なものの一つ「親子熊岩」。確かに上に親熊、下に小熊の造形が感じられる。実際に見ると、驚くほどクマたちの姿を思わせる形であり、自然のいたずらの不思議さを感じる。写真右端には、この奇岩のすぐ脇をすり抜ける国道229号線の道路標識が見える。  2016年9月24日撮影、乙部町 鮪の岬トンネル北側坑口(国道229号線)(場所)。海況が穏やかであれば、交通量が少ないこともあって、絶好のドライブ・ルートとなる。 
 2024年11月14日撮影 乙部町元和台海浜公園(場所)から北側に続く海岸線を望む。ちなみに写真内で海岸線を沿う道路は国道ではない。このあたりの国道229号線は、海岸段丘の上を通っている。  2016年9月24日撮影、乙部町 館の岬トンネル南側坑口(国道229号線)(場所)。後背に続く絶壁は「白亜の断崖」と呼ばれる景勝スポットである。なお、2021年年6月6日に国道229号線の乙部町館浦・鳥山間で崖崩れが発生したため、上写真の撮影場所を含めて1.8㎞が通行止めとなり、2025年現在も不通が続いている。迂回路が国道として指定されている。
 2016年9月24日撮影、上ノ国町石崎付近(国道228号線)(場所)。線形が改良されていて快適な道路である。ただし、カーブは多く、アップダウンも頻繁に繰り返される。    2016年9月24日撮影、上ノ国町小砂子付近(国道228号線)(場所)。このあたり、海岸に沿っているにもかかわらず、まるで山岳地帯を行くかのような風景である。  


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その1 茅沼炭鉱軌道



 ここから、本論に移り、軌道紹介とまいりたい。
 北から順に紹介していくこととなるが、まずは、積丹半島の付け根のあたり、2025年現在の泊村(場所)にあった「茅沼炭鉱軌道」を紹介したい。といっても、この軌道については、「地形図」に記載されている。そのため、本来は本章で取り扱う対象ではないのだが、この軌道については、「日本最初の鉄道」という形容がしばしばなされるという、際立って特徴的な属性がある。
 前述の通り、鉄道不毛の地と表現しても差し支えないようなこの地域に、もし「日本最初の鉄道」なるものがあったのだとしたら、それはそれでユニークなストーリーだ。
 さて、一般に、日本最初の鉄道と言えば、新橋(後の汐留)-横浜(後の桜木町)間の1872年開業のものを指すのであるが、この茅沼炭鉱軌道は、左図に運用年代を示したが、それに先んじて1869年から運用が開始されている。
 これを日本最初の鉄道と呼ぶべきかどうかは議論のあるところとされている。それがなぜ議論のとなるのかは、この軌道の当初の姿が「鉄道」の定義に合致するかどうか、ということに尽きる。そこで、この機会に資料等をまとめてみたいと思い、取り上げることとした。

 先に“この軌道については、「地形図」に記載されている”と記述したが、最初にそれをご覧いただこう。1920年発行の5万分の1地形図「茅沼」において、その線形は記録されている。
 左図にカーソルオンすることで、軌道の線形をハイライトする。良く見ると、引込線等含めて、詳細に記載されているので、それらも分かりやすくなるようにしてみた。軌道東端の茅沼炭鉱から産出する石炭を、西端の茅沼港まで搬出することを目的とする運炭軌道で、その全長は2.8kmである。
 茅沼炭鉱の位置は、地理院地図では、このあたりとなる。
 上図は「茅沼炭礦沿革史」で紹介されている茅沼炭鉱軌道の様子を描いたものだ。港側を中心に描いている。軌道は海岸に出てから、茅沼港まで海岸沿いを進んでいるようにも見えるが、実際は、上で紹介した地形図のように、海に出てすぐのところに積出のための港があったようだ。港の近くには建物があり、車両の管理、そして選炭も行われていたのではないかと思われる。

 左は炭鉱側も含めて描かれた「茅沼炭鉱の輸送施設」図。この図をみると、軌道は炭鉱の近くで、一気に勾配を増しているように見える。地形図でもその様に読み取れるが、この2通りの勾配を一連の軌道で搬送していたのかというと、そうではなかったようだ。これについては後述することとして、いったん置いておく。

 当時軌道で使用された車両等については、それらを記録した素晴らしい資料がある。それは、米沢藩による「蝦夷恵曽屋日誌」(1870年)という書籍で、米沢藩が1869年の10月から翌3月まで、北海道各地を視察した結果をまとめたものとなっている。2025年現在、米沢市図書館のデジタルライブラリーで見ることができる。81コマ目に左の図が紹介されている。

 初めて「軌道」というものを「目にした」彼らは、驚きをもって運炭の様子を記録している(輸送機関のことを「鉄車鉄道の仕掛」と表現している)。
 左に示した通り、その文章も見ることが出来るが、解読は非常に難しい。ただ、とても助かることに、米沢女子短期大学の山本淳教授によって、翻刻されたものが公開されており、茅沼炭鉱軌道に関連する部分を以下に転載させていただく。

 「石炭にて極上品なりと云於是立文太夫塚本丈四郎を奉行として山の正面より鑿之今の坑これより坑より海岸迠二拾六丁か間材木を縦横に布き【彼材木は皆後別より切出し筏にくミ持来りしと云】鉄の延金を張り車道をつくり四輪の鉄車を以って石炭を運送す山坂険阻なる処は坂の上に巴車を仕掛け石炭を小車に積【目方1トン入りなり1トンとハ260貫800目を云也】縄を以ておろしかのおもりにて下より空車引上す仕掛はねつるへの如き機也平道ニ出れハ大車【目方4トン入】に積て濱辺迠送るなり車上にハ御者壱人有機を踏楫を取れハ車自らうこき次第に強くはしり早きコト矢の如し【但車道に小石壱ツ有ても車忽ち覆る故車道之往来を禁すもし犯すものハ刑罪にて行ふと云禁札所々に有】暫時にして海岸へ至り石炭を下せハ空車になり重ななき故にや車獨り走らすよって牛に引せて叉山へ上すなり【但石炭をつミ下す時彼牛を車にのせてゆくなり】」


 ナイスな記録だ!初めて見る軌道輸送の形態に「早きこと矢の如し」と驚嘆している様子もよく伝わってくる。軌道の距離長は坑口から海岸まで「二拾六丁」とあり、これは2,834mに相当する。
 この記録は実に詳細で、坑口付近の斜面が急な部分では1トン車を使用し、「巴車」とよばれる滑車で牽引しながら、車両を移動させていたことがわかる。インクラインのような感じだろう。一方で、斜面の緩やかな部分は、4トン車により、御者一人が乗車して操車し、空車となった帰りは、牛に引かせる。先に「2通りの勾配を一連の軌道で搬送していたのかというと、そうではない」と記述したが、緩斜面の部分は「軌道」、急斜面の部分は「インクラインに近いもの」という2段階式の輸送構造だったのである。
 また、当時のレールは「間材木を縦横に布き鉄の延金を張り」とあるとおり、木材に鉄を貼ったいわゆる「木製レール」である。このレールに石が乗っていると、事故になるので、レール上の往来は禁じられていたとのこと。


 さて、彼らが当地を訪問し、軌道による運炭の様子を確認したのは、1869年の10月から翌3月までのことなので、新橋(後の汐留)-横浜(後の桜木町)間の1872年開業に先んじていることは明確なのだが、果たしてこれが「日本最初の鉄道」と呼びうるものであるのか、というのがここでは重要になってくる。実際彼らは、この運炭システムのことを「鉄車鉄道の仕掛」と呼んでいる。
 これについては「木製のレール」あるいは、「(蒸気)機関車を運用していない」、さらに「旅客用ではない」などにより、言葉の定義により、どうしても様々な解釈幅が出来てしまうところである。この点については、後述するとして、この軌道のその後の概略も含めて記述されている資料を紹介したい。1977年に日本国有鉄道札幌工事局から出版された「札幌工事局七十年史」において、「茅沼鉄道の敷設状況」の項に以下の様にまとめられている。


 【茅沼鉄道の敷設状況】
 茅沼炭山の開発が逐次進められていたが、慶応3年(1867年)12月に王政復古の大命が下り、徳川幕府が崩壊して慶応4年(1868年)9月に明治と改元され、同2年(1869年)8月に岩内を直轄地として茅沼に「岩内石炭御用所」が置かれて、当時鈴木金吾を主任として、イギリス人鉱山師イラスムス・ガール、機械技師ゼームス・スコットらが作業を継続したのである。
 まず慶應3年(1867年)に開削した道路を修復し、炭坑から茅沼海岸までの石炭輸送路を整備するとともに、海岸には石炭積込場と石炭庫などを建築したが、この石炭輸送路が、当時全国でも類例のない新しい方式で設備されたため、北海道の鉄道敷設の黎明ともいわれている。
 この炭鉱坑口は、茅沼山の中腹からふもとまで2町余(200m強)の急坂で、更にふもとより海岸までは20町余(約2.2km)の緩傾斜地のため、此の間を2つに区分して、2条の鉄張り木軌条を敷設したのである。急坂な坑口の近くに車小屋をすえ付け、鋼の両端に結んだ1t車を操作する仕組みである。それは車小屋で石炭を積んだ1t車を手動の“ろくろ”でゆるやかに下降させれば、下の空車が車小屋まで引き上げられて、途中複線のところで両車が交差するようになっていた。また、この急坂は3段になっていたが、インクライン・ウェー(斜道)という装置によって支障なく運転できるよう工夫されていたのである。積車が下まで来ると、そこでやぐらを組んだ陸橋(“やりだし”という)があり、その下部に4t車が待ち受けていて、1t車を転換させて石炭を移し、満載すると運送人が1人乗り込んでブレーキを緩めると、自転して海岸の石炭庫に達するのである。また、4t車に牛を乗せる台があって、帰りには牛1頭に空車1輌ずつを引かせて陸橋まで上るようになっていた。この車両には、大中小の3種があって、小は2輪の手押車で坑内用であり、大、中は4輪車で輸送に使われていた。
 軌道は、まくら木が5寸(注:1寸=3.03cm)角、長さ5尺(注:1尺=10寸=30.3cm)を3尺おきに敷き並べたもので、その上に軌間3尺5寸(約1,061mm)で5寸各の長さ15尺の木材を縦に2条並べ、8寸の釘で打ち付け固定させていた。その上に幅1寸7分、厚さ5分、長さ18尺の鉄条をすえ付け、3尺ごとに3寸5分の釘で打ち付けて車輪の回転を滑らかにしたのである。これが当初の軌道敷設であり、その後鉄張りの木軌条を鉄製に改めたのは明治14年(1881年)の大改良のときで、伊季舗(いきしき)坑口から茅沼海岸までの24町(約2.6km)と待避線に35ポンド(約15.9kg)、軌間2フィート6インチ(762mm)のものを敷設したが、その後鉄製レールは逐次改良されていったのである。
 このようにして採掘された石炭は、開拓使所属の汽船または雇い外国船によって函館に輸送し、函館には石炭庫が設置されて、同港に寄る外国汽船をはじめ開拓使所属の汽船に供給されるなど大いに活用されたのである。


 やはり上部軌道は「インクライン」と言い切ってよい構造であったようで、そうなると、これが「日本最初のインクライン」となる。蒸気機関車の導入は、当然のことながら軌道改良後のこととなる。1933年に編纂された「北海道炭礦案内」では「慶応3年(1866年)、幕府はE.H.M.ガール(イラスムス・ガール)氏を鑛山師として本坑に聘し二哩餘(約3km強)の軌道を敷設し、英国より蒸氣機關車を輸入し四噸車を運轉す。是れ本道否本邦鐵道敷設の嚆矢なり。」とあるが、このあたりの記述も、「日本最初の鉄道」と言えるかどうかという観点では、やや明瞭性を欠くところである。鉄製レールへの置換、蒸気機関車の導入の時系列は、すでにwikipediaに詳細がまとめられているが、以下にそれを転載する。
 1869年 茅沼炭鉱軌道 坑口 - 茅沼港間が開通。人力および牛力による運用。
 1881年 レールを鉄製に交換。軌間を762mmに変更。
 1884年 茅沼炭鉱が民間に払い下げ。
 1927年 沢口汽船鉱業株式会社 茅沼鉱業所により蒸気化。新潟より機関車2台購入。
 1930年3月21日 茅沼炭礦株式会社に事業を継承。
 1931年11月27日 茅沼炭礦株式会社により選炭場 - 岩内港間(約10km)に索道が完成。茅沼炭鉱軌道が廃止。
 

 しばらく文字情報が続いたので、ここで視覚的資料を紹介したい。上は、「北海道後志泊 茅沼炭鉱索道及ビ撰炭場」と題された写真だ。タイトルには含まれていないが、しっかりと軌道も写っている。撮影年は不明であるが、上の年表にある通り、1931年に岩内港までの索道が完成するとともに、軌道はその役割を終えて廃止となるので、その転換期となった1931年頃の写真ということになりそうだ。
 

 左は「躍進の茅沼炭鉱 岩内港頭貯炭場と索道」と題された一枚で、索道の岩内港側と貯炭場の様子を撮影したものとなる。櫓に「茅沼炭礦」の文字が見える。

 それでは、保留していたこの「茅沼炭鉱軌道」が「日本初の鉄道」と称すべきかどうかについてであるが、これについても管理人の判断ということではなく、そこに言及した文献を紹介することとしたい。以下に紹介するのは、梅木通徳著で1946年に北日本社から刊行された「北海道交通史論」からの一説である。


 茅沼炭礦に於ける軌条の敷設は明治2年(1869年)にして、新橋横濱間に於ける鐵道開通に先だつこと正に三年である。然らば當炭礦の軌道を以て本邦軌道の嚆矢と萹し得るかどうか之と重大なる關聯(かんれん)を有するものとしては長崎大浦海岸にあつた鐵道がある。
 嘉永6年(1853年)7月我が長崎港にロシヤの使節ブウチヤチンが軍艦四隻を牽ゐて現はれた際、そのバルラーダ號の士官室で日本人の爲に運轉を試みられは模型蒸気車、及び翌安政元年(1854年)正月我が神奈川沖にアメリカ施設ペルリが軍艦七隻を牽ゐて来航した際、横濱村の海岸で運轉を行つた小型蒸気車(實物大の約4分の1)等のことは扨て置き、本物の蒸気車が我が領土内を走つたのは慶應元年(1865年)で、長崎の大浦海岸に鐵道が敷設されたといふ。
 此の史實は大正7年(1918年)頃までは少しも世間に知られず、現在でも知つてゐる人は少いと思ふ。尤も世間に云ひ振らされたのは昭和に入つてからで、「日本交通史話(昭和12年(1937年)樋畑雪湖著)」「世界交通史話(昭和16年(1941年)三井高陽著)」「明治以前の鐵道文化(昭和17年(1942年)官房現業調査課篇)」及び「蒸氣車誕生(昭和19年(1944年)三崎重雄著)」等に僅かに之に触れてゐるだけのやうである。之は非常に興味のある事項なので、關係記事を抜崒して見やう。即ち右の「明治以前の鐵道文化」には次の如く掲載されてゐる。
========
 「此史實發見の緒となつたのは武藤博士が往年英国留學中に得られた貴重な資料である。氏が英国の北東鐵道に奉職當日の或日、同鐵道の發達史(中略)の著者(中略)から1865年7月22日發行の鐵道タイムス(中略)を見せてもらつた。それに次のやうな記事が掲載してあるたのだ。(中略)
 つまり「日本では長崎の海岸通に軌道を敷設して炭水車附機關車を運轉してゐたが、これは日本人の間に非常な人氣を呼び、あちこちから見物人がやつて來る」と云ふ意味だ。大正7年(1918年)6月7日の長崎プレスに此記事を引用した「日本最初の鐵道は長崎」と題した英文記事がバートン氏の筆で書かれると、その汽車を實際に見たと云ふ人達が續々と現はれて來た。その一人は長崎大浦在住の米人エドワード・レーキで、自分は實際にその汽車を見たと云ふことを知らせて來た。叉永年出島在住の佛人ビクトール・ピナテール氏の記憶によれば、その鐵道といふのは今の税關附近から奮獨逸領事館跡邉までの間に敷設されたもので、此汽車は公衆の観覧に供した後、大阪に運んで、同地川口の外人居留地附近の松島邉に同じく軌道を敷設して、小さい汽車を運轉して見せたとのことである。更に日本人で見たと云ふひとに長崎病院の電氣主任吉田義德氏がある。
 此の小型の汽車は長崎の英商トマス・グラバーが上海邉から持参したもので、其後更に之を横濱に送って一般の観覧に供した後、將軍家に献上したとのことで、機關車はアイアン・ヂユーク號、後にウエリントン公號と稱ばれ三、四輌の客車を牽引して入つてゐたと云ふ。」
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 此の長崎に於ける鐵道は延長約六町(約650m)あつたが、實用に供されたものではなく、入場料をとつて一般公衆の観覧に供したのであるから、之を以て本邦に於ける鐵々及び軌道の嚆矢となることは妥當ではない。我が國に於ける鐵道は明治5年(1872年)の新橋横濱間の開業を以て其の嚆矢となす以上、軌道は明治2年(1869年)の茅沼炭礦に於ける使用を以て其の嚆矢となるべきであると思ふ。



 以上の通りであるが、今回この文献を引用したのは、内容的な興味深さと、結論の妥当さの双方が理由である。結論はシンプルに以下の通りだ。

 ・日本最初の鉄道は「横浜~新橋」で、1872年のこと
 ・日本最初の軌道は「茅沼炭鉱軌道」で、1869年のこと
 ・上の結論にあたって、1865年にイギリスが長崎に仮設したような、見本展示的なものは除く

博覧会などの展示物と、実用のために敷設されたものでは、その本質がまったく異なることは、その通りであろう。これをもって、茅沼炭鉱軌道は「日本最初の軌道」であった(おまけで「日本最初のインクライン」であった)というあたりで、本項を締めることとしたいが、最後に2025年現在の現地の様子をご紹介しよう。

 茅沼炭鉱軌道軌道の跡を海岸側から辿ってみた。以下、紹介する写真は、2025年5月5日に撮影したもの。
 茅沼鉱山軌道が海岸に達していた地点(場所)には、積出場跡に相当する場所に小さな船入澗がある。先に紹介した資料では、茅沼炭鉱軌道は、海岸に沿うようにも見える部分があったが、現地を見た限りでは、地形図の通り、海岸に出てすぐに積出しのための施設があったとみていいだろう。
 茅沼炭鉱軌道から、選炭ののち、水運への積み替えが行われたと考えられる疑定地からは、雪を頂いたニセコ連峰の美しい稜線を眺めることが出来た。この風景は100年以上前から変わらないものに違いない。
 茅沼海岸には、古い石垣が半壊しながら、一部残っていた。運炭や選炭と関わりのあるものの痕跡であるのかはわからない。  地形図に示された茅沼炭鉱軌道の線形を辿ると、すぐ国道229号線とクロスすることになる。国道229号線は築堤上を通過しているが、軌道跡に沿った通行を確保するため、築堤をくぐる通路がある。
 築堤下の通路を通り抜けると、茅沼の町の細い街路となる。この街路が茅沼炭鉱軌道跡と思われる。  やがて、街路は玉川に沿う2車線の道となり、茅沼の市街地を玉川に沿って東に向かう。地形はフラットで、ゆるい登り坂となっている。
 玉川に沿う道は、やがて道道342号茅沼炭鉱泊線になる。そのまま道なりに進むと、茅沼海岸から約3kmの地点(場所)で舗装路は終わっており、訪問時は、その先は冬季閉鎖となっていた。
 茅沼鉱山軌道の全長は約2.8kmとされているので、ちょうどこのあたりが軌道の終点で、ここからはインクライン等の別の運炭方法に依っていた。
 舗装路が終わった先のゲートの向こう側も少しだけ歩いてみた。確かにそこから傾斜はきつくなっていた。現在の感覚では、ただちにインクラインを連想するまでではないが、それでも蒸気機関車には難しいという程度の傾斜ではある。
 ほとんど何も残っていないが、道から何らかの遺構のようなものをわずかに望むことは出来た。
 道道342号茅沼炭鉱泊線の指定区間であるダート路は、玉川沿いに山中に続いている。このあたりは、軌道跡ではなく、インクラインもしくは索道により運炭が行われていたところとなるが、遺構らしいものは何も見つけられなかった。  茅沼からは国道5号線まで、泊原発の避難路を兼ねた道道1178号泊共和線が2024年から全線供用開始しており、道道342号茅沼炭鉱泊線はそれに接続することとなった。接続点めがけて道道342号茅沼炭鉱泊線の坂道を登りこのあたりから玉川上流方面を振り返ると、茅沼炭鉱のズリ山とおぼしき山塊を確認することが出来た。



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その2 寿都と島牧の石灰搬送用軌道



 その2として寿都町と島牧村にあり、一つの事業の中で運用された石灰搬送用軌道について、まとめたい。ただし、2025年現在「南後志を訪ねて」というサイトに、島牧の軌道寿都の軌道ともに素晴らしいまとめ記事があるので、本項はあくまでそれを追認するような内容となってしまう。線形もすでに紹介されている。
 とはいえ、この地にあった「地形図に記載されなかった軌道」として外すわけにはいかないところのものと思うので、管理人なりに現地も見てきたので、その結果も併せてここでまとめたいと思う。

 本論に入る前に「前提条件」として、軌道(鉄道)のあった場所として、「島牧」という場所が、いかに「意外な場所」であるかについて、説明しておこう。
 寿都については、函館線黒松内駅(場所)から、朱太川に沿って下り、寿都湾に面する港町、寿都に至った寿都鉄道(1920-1972)があって、ボールドウィン1897製1C形テンダー機8100形などの名機関車が活躍していたことでもよく知られている。
 一方で、そこから日本海岸にそって、さらに西へ30km以上進んだところにある島牧は、古くから漁場として開拓されたとはいえ、寿都のように地域経済の中心とよぶべき集落が形成されたわけではなく、かつ日本海岸に沿う地形は急峻な断崖が連続するところがあって、言ってしまえば鉄道需要とはいかにも縁のなさそうな土地なのである。だから、「島牧にかつて軌道(鉄道)があった」という事実は、その地理を知る人には、相応の驚きをもって受け取られることになる。管理人も、地形図など集める趣味があったばかりに、島牧で軌道が運用された歴史があったことを知ったときは、ずいぶん驚き、ただちにそのことについて知りたいと思ったものだ。


 もう一つ背景として知っておくべき事業は、当時の石灰の需要背景である。石灰は、もちろん現在でもセメントの原料として、各地で大量に採掘が行われているが、当時の北海道では別の面で重要な需要があった。すなわち、農地開発において第3章で言及したように、火山灰や泥炭地の微生物由来の酸性土の土質改良が重要であり、そのため石灰肥料が大量に必要だったのだ。そのため、有力な石灰鉱山が探し求められたわけだが、その一つが島牧の泊川中流の鉱山であった。このあたりの背景について、資料として「雪印乳業史 第1巻(1960)」の記述を以下に紹介したい。


 【酸性土壌矯正政策と道営石灰事業】
 国費補助による北海道の酸性土壌矯正事業(石灰施用)がはじめて施行されたのは、1926年度、拓殖費支弁による酸性土壌改良補助政策が樹立されてからであった。補助政策は第二期拓殖計画に織り込まれ、1926年6月、庁令第72号「造田客土および酸性土壌改良補助規程」の公布によって、1927度から1946年度までに酸度五十度以上の地域19,750町歩を予定して実施に移った。
 この施策は道農事試験場や民間の研究と相まって、次第に農家の認識を高め実績をあげていった。初期にはおもに消石灰が用いられたが、道庁は道内各地に埋蔵されている石灰岩を採掘して、生産価格の低廉な炭酸石灰を製造配布しようと、1934年から石灰山の開発を計画。第一着手として、紋別郡西興部村上興部北海道地方費林内に埋蔵されている1000万屯の資源開発に乗り出し、1934年告示第1269号で、拓殖費による石灰生産工場を建設することとなり、1934年春上興部の工場敷地を整備して9月着工、10月9日に建設費15万1500円で、年産2万5千屯の生産能力をもつ工場を完成した。
 次に寿都郡島牧村字永豊国有林内埋蔵の石灰岩約70万屯に着目、1935年告示第1676号で寿都郡寿都町字新栄町に石灰工場を建設することになり同年6月着工、1936年7月に建設費12万9363円で、年産2万屯の生産能力をもつ工場を完成した。上興部・寿都両石灰工場の新設計画に関連、1934年庁令第95号で「農業用石灰配給規程」を公布。1934年度から1940年度までに生産した炭酸石灰17万5056屯を農家に配給し、43,760町歩の酸性土壌矯正を実施したのである。


 以上のことから、島牧の永豊地区の泊川流域の石灰鉱山を産地とし、それを寿都で炭酸石灰に加工する工場が建設され、供給体制の一環として整備された状況がわかる。

 上述の石灰の生産・搬送の様子をまとめてみよう。
 島牧村泊川流域の「石灰山」で算出した鉱石は、「島牧石灰軌道(仮称)」によって約6km先の永豊港(船入澗)まで搬出される。永豊港(船入澗)から寿都港(船入澗)までは、約31.5kmの海路を船運により、寿都港(船入澗)から石灰工場までは、およそ900mの「寿都石灰軌道(仮称)」により搬送。石灰工場で炭酸カルシウムへと精製されたものが、寿都鉄道を経由して、道内の消費地に搬送された。
 参考までに、当時の寿都~永豊の陸路移動については、1936年に鉄道省が刊行した「日本案内記 北海道篇」で、狩場山の登山ルートとして以下の様に言及されている。曰く「登山路としては、壽都鐵道壽都驛下車、海岸に沿うて政泊、歌島、木目、大平等の漁村を經て永豐まで約二六粁で、こゝまで一日行程である。若し幸に壽都から發動機船があれば千走までこれを利用すれば、千走から六粁の徒歩であるが、定期でなく、殊に冬期は餘り期待出來ない。」。当時の屈強な登山者をして、海岸に沿って徒歩1日を要する移動路であったようで、輸送路としての整備はこころもとない表現である。
 2025年5月5日撮影、函館線黒松内駅。黒松内町は、北限のブナ林に囲まれた人口2,400人の町。かつてはここから寿都鉄道が分岐していた。人口はとなりの蘭越町の方が多いが、函館線の山線を通る優等列車があった時代から、黒松内駅の方が停車頻度は高かった。寿都方面への旅行者の便が考慮されていたのだろう。  2025年5月5日撮影、黒松内駅の3番線。黒松内駅は2面3線の構造を持つが、3番線は利用されておらず、実質2面2線である。3番線が寿都鉄道の発着に供されていたわけではないが、上写真は、雰囲気を重視して、3番線に立ち、寿都方面を向いてシャッターを切ったもの。

 「石灰山」の開発の経緯等については、先に紹介した「南後志を訪ねて」において、詳しく紹介されている。そこで、当サイトは、軌道の線形に照準を当てたい。まあ、そちらも詳しく紹介済なのではあるが・・・。そこで、これもまた重複する原典資料で恐縮なのであるが、本件に関してもっとも重要な資料であると思われる北海道廰が1936年に発行した「北海道廰壽都石灰工場要覧」をまずは紹介したい。
 左画像は当該資料の表紙となる。内容は寿都石灰工場の概要であるが、当時の工場内部の写真だけでなく、島牧石灰軌道の写真も添付されており、たいへん貴重なものだ。北海道立図書館で保存されており、誰でも申し込めば閲覧することが出来る。

 上図は「寿都石灰工場製造工程図解」である。この工程図は「搬送」の部分を詳細に記載している。図内で、島牧石灰軌道(仮称)は「永豊軌道」、寿都石灰軌道(仮称)は「寿都軌道」と、非常にシンプルに表記されている。
 また、完成品が、寿都駅より寿都鉄道で函館線と接続する黒松内駅まで搬送され、そこから省線(国鉄線)によって道内各地に搬送されていったことも示されている。


 上図は「北海道廰壽都石灰工場要覧」において、「寿都石灰工場全景」と銘打たれて掲載されている写真。寿都駅から延びる引込線の工場側の終点のみならず寿都鉄道の貨車も写っているので、鉄道ファン視点でも実にありがたい一枚である。
 写真奥に見える山並みは、弁慶岬に続く月越山脈で、港方向は向かって右側となるため、港からみると工場の建屋は、寿都駅からの引込線を挟んだ反対側にあったことになる。


 上写真はハンマパルペライザー(Hammer Pulperizer)という粉砕機。粗砕に続いて、原料である石灰石を、より細かい破片に砕く機械である。


 上写真はコニカルボールミル(Conical Ball Mill)という粉末機で、ハンマパルペライザーの工程の後の破片を粉末化する機械。「寿都石灰工場製造工程図解」によれば、粉末化された製品は、コンベアで上部貯蔵層に移され、そこから漏斗式に袋詰めされたようだ。

 それでは、ここで「北海道廰寿都石灰工場要覧」に文字情報で示されている施設概要の主要部について転載しよう。

 1 緒言
 本庁はさきに本道拓殖計画の遂行上、特殊土壌地の改良と普通耕土の生産力増進の為炭酸石灰施行奨励策を確立し、1934年北海道庁例第95号を以て農業用石灰配給規程を制定公布し同年度より拓殖費予算を以て北見国紋別郡西興部村字上興部に直営石灰工場を建設し、1935年度より石灰岩粉末即ち炭酸石灰の製造を開始し之が実費配給に依り専ら耕土の改良範図を拡大すると共に農家の負担軽減に努め以て冷害克服と北方農業の確立振興に寄与する所ありたり。
 然れども之が石灰の需要は一個工場を以て足れりとせず、且つ地理的関係に依る配給輸送の円滑を図る為直営工場増設を認め、1935年度より寿都郡寿都町に石灰工場建設を企図し同年8月以降之が建設工場に着手し今回之が竣功を見たり。依て玆に本工場の設備及建設経過の大要を要覧となす。

2 位置
 当工場は1935年北海道庁告示第1,676号を以て其の位置を左(下)の通り定めたり。
 後志国寿都郡寿都町大字新栄町

3 設備概要
 本工場は上興部工場と異なり平地構成にして動力並に電灯用電力150馬力を買電し1日(10時間)15メッシュ以下の炭酸石灰粉末50kg1,250袋を製造するものとす。
 今之が設備の大要を述ぶれば次の如し。
 (1) 採掘場及採掘法
 原石の採掘場は後志国島牧郡西島牧村字永豊泊川上流国有林地内にして、其の埋蔵量は約70万トン以上を算す。
 而して現在に於ける採掘は、手掘法に依り1カ年約18,000トンを採掘するものとす。
 (2) 原石の搬出及び貯蔵 
 採掘せられた原石は採掘場より永豊船入澗迄泊川に沿ひたる約6粁の馬鉄を以て搬出せらる。
 右搬出の為1トン半積礦車50台常備したり。
 永豊船入澗積込桟橋附近に約300トンの貯石場設備したるも原石は軌道礦車より積込桟橋の漏斗に依り直接輸送発動機船に積込むを原則とす。
 永豊船入澗と寿都船入澗間の原石輸送は、海路十七浬を5月下旬より9月迄約100日前後の風浪平穏なる時期に於て行うものとす。
 寿都船入澗に於ける原石陸揚は動力捲揚機に依り之を行い、石灰工場貯石場迄約1粁を寿都町敷設馬鉄軌道に依り1屯半積礦車を以て運搬せらる。石灰工場の貯石場は工場の北側に位置し其の面積約700坪にして約1万屯を貯石せらる。
 尚貯石場には約3,000屯を収容すべき貯石庫一棟を建設したり。而して右石灰原石の採掘輸送の一切は契約に依り寿都町に之を施行せしめつつあり。
 (3) 工場設備及び製造工程
  1~6 (略)
  7 製品の貯蔵及配給
  包装せられたる製品は5馬力直結電動機により運転せらるる製品調帶輸送機に依りて工場より製品倉庫に搬入せらる。製品倉庫は約25,000袋を貯蔵せられ、地方への配給は倉庫に引込みたる本庁の寿都鉄道専用側線約131メートルを経て寿都鉄道及び省線鉄道に連絡す。
 (以下略)


 上記引用により、島牧、寿都双方の石灰搬送軌道において、ともに「1屯半積礦車」が使用されたことがわかる。同じ仕様であったかは不明であるが、その可能性は高いだろう。
 ただ、生産能力に係わる重要な記述として、島牧~寿都間の搬送が「海路十七浬を5月下旬より9月迄約100日前後の風浪平穏なる時期に於て行う」とかなり限定的なものとなっている点がある。船運の宿命とも言える。この時期の海況の良い日のうちに十分な量の原石を寿都に搬送し、必要に応じて生産できるくらいに貯蔵できれば良いが、船の輸送能力には限界があったであろうし、難題を抱えた生産ラインだったことは想像できる。


 この島牧・寿都による石灰の生産・供給体制であるが、その顛末を先にお伝えしてしまうと、この体制が運用された期間は短かった。上述の永豊~寿都の海運とともに、寿都鉄道の輸送能にも制約があったこと、また、他に有力な生産地が見いだされたことがその理由である。「北海道の土地改良と農材15年の歩み」(1966)から、関連部分を引用したい。

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 北海道庁は1934年に上興部石灰鉱業所、1936年に寿都石灰鉱業所二工場を建設し直営による炭カル肥料の製造・配合を開始したが、1941年4月に興農公社の設立により直営二工場は興農公社に移譲したのである。しかし寿都石灰鉱業所の原石採掘場は約33キロ離れらる西島牧の採掘場より船輸送にて工場へ、一方製品輸送にあたっても寿都鉄道では大型貨車の輸送も出来ない不便な状態にあるため、操業以来相当の困難を感じながらも生産を継続してきたが、ついに地理的ならびに輸送上の欠陥のある寿都石灰鉱業所を廃止移転を決意し、1943年3月原石の埋蔵量において無尽蔵といわれ、また輸送上の要点にある、根室本線東鹿越に移築することに決定。ただちに寿都工場を解体し機械その他とともに一部は上興部、一部は東鹿越に移送増築し、1944年8月11日全工事の完成をみたので、早速製造に着手した。
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 すなわち、上興部と寿都に石灰工場が竣功することにより1936年に確立された「上興部・寿都」による石灰供給体制は、1941年に「興農公社」に両工場が委託されたのち、1944年8月に東鹿越工場の竣工により、寿都工場の閉鎖が決定し、以後は「上興部・東鹿越」による石灰供給体制に移行したことになる。寿都の実働期間はわずか8年ほどであった。軌道の運用時期もこれに一致する。


 さて、顛末を先に示してしまったのだが、今一度、1936年の原典資料である「北海道廰壽都石灰工場要覧」に掲載された貴重な写真を紹介したい。左は、島牧の泊川岸にあった石灰山で、石灰石採掘場の様子を撮影したもの。
 なるほど大きな石灰の露頭がある。ここが省線の沿線であれば、その後も立派な産地としてあったのであろうが、ネックはやはり搬送であった。まずは写真下部に見える1.5トン車に積み込んで、馬運により泊川の河畔を下り、永豊港に向かうのである。

 なお、名寄線上興部駅から、専用線が伸びていた上興部の石灰鉱業所については、専用線を含む地形図と、鉱業所の風景について、「2万5千分の1地形図 記録された線形」で、東鹿越の石灰鉱業所の専用線を含む地形図は「古き5万分の1地形図 失われた鉄路」で紹介している。

 そして、上写真こそは(鉄道・軌道ファンにとって)「北海道廰壽都石灰工場要覧」の白眉ともいえる一枚で、島牧石灰軌道(仮称)が、泊川を渡る風景である。資料中には「永豊軌道泊川橋梁」と記載されている。その橋梁は、コンクリートの基礎の上に木製の橋脚が組まれ、その上に橋げたを渡した構造となっている。その上を、馬が1.5トン貨車を4両つなげて牽いている。4両の貨車の先頭だけでなく、後方にも馬がいるというのは、どのような役割に応じた配置なのか、やや不思議であるが、1両目の貨車にのった御者によって、川面の上を行くこの風景だけを取ってみれば、なかなか牧歌的で、風情のあるものだ。


 上写真は「北海道廰壽都石灰工場要覧」で「永豊船入澗積込桟橋及輸送船」として紹介されているもの。石灰山からおよそ6kmの道のりを馬運軌道で運ばれた石灰鉱石は、この永豊港の桟橋で、輸送船に積み替えられた。桟橋から船への積み込み口のようなものも見える。
 輸送船の規模は大きいとはいえず、これでは確かに「運行する or しない」は、当日の海況に大きく左右されたであろう。背景に見えるのは、1936年当時の永豊の集落だ。

 上写真は「北海道の土地改良と農材15年の歩み」(1966)に掲載されていた興農公社の「東鹿越鉱業所」。1946年頃の写真と思われる。「寿都石灰工場」に代わる形で稼働した工場だ。原石は、すぐ近くで生産を行っている日鉄鉱業株式会社と鹿越工業株式会社から買鉱した。送鉱のため、ガソリン機関車用軌条設備一式、延長300m、インクライン設備200mがあったとされる。一部の工場の機械等ともに、場内にあったとされる軌条設備も寿都工場から移管・移築されたものであろう。  「北海道の土地改良と農材15年の歩み」(1966)には、1940年代の時点で、すでに東鹿越は「原石の埋蔵量において無尽蔵」と目論まれていた石灰山であったことが示されているが、それを証明するかのように、2025年現在も東鹿越では2つの石灰鉱業所が稼働中だ。上は日鉄鉱業㈱東鹿越鉱業所。2015年5月2日、根室線の車内から撮影したもの。(場所
 上は、北海道農材工業㈱ 東鹿越石灰砿業所。かつての鹿越工業株式会社となる。2023年10月26日、根室線の車内から撮影。(場所  東鹿越駅(場所)からは、2つの鉱業所に向けて専用線が引かれていた。また、1997年までは東鹿越駅からJR線を利用した貨物輸送が行われていた。上写真は2023年10月26日に撮影したもの。東鹿越駅所管の専用線跡であるが、撮影時も北海道農材工業㈱ 東鹿越石灰砿業所の近くまで線路が残っていた。写真左に根室線(撮影時は現役線)が見える。    
 なお、専用線一覧で、東鹿越駅については、それぞれ以下の記載となっている。参考1967年Map
 1951年 日鉄鉱業株式会社(相手方機) 1.1km 菱中興業株式会社(国鉄機) 0.2km
 1953年 日鉄鉱業株式会社(相手方機) 1.1km 菱中興業株式会社(国鉄機) 0.2km
 1957年 日鉄鉱業(私有機) 1.1km 鹿越鉱業(国鉄機) 0.2km
 1961年 日鉄鉱業(私有機) 1.1km 鹿越鉱業(国鉄機) 0.3km
 1964年 日鉄鉱業(私有機) 1.1km 鹿越鉱業(国鉄機) 0.3km
 1967年 日鉄鉱業(私有機) 0.8km 鹿越鉱業(国鉄機) 0.3km
 1970年 日鉄鉱業(私有機) 0.8km 総延長 2.0km 王子鉱業(国鉄機) 0.3km 総延長 0.4km
 1975年 日鉄鉱業(私有機) 0.8km 総延長 2.0km 王子鉱業(国鉄機) 0.3km 総延長 0.4km
 1983年 日鉄鉱業(私有機) 0.8km 総延長 2.0km 王子緑化(国鉄機) 0.3km 総延長 0.3km
 2023年10月26日撮影。根室線東鹿越駅のホームには、この駅のシンボルと言える大きな「石灰石」が設置してあった。北海道内に石灰を供給し続けた東鹿越駅であったが、釧網線中斜里駅の製糖工場向けの石灰貨物が1997年で運行を終了した時点で貨物の取扱もなくなった。さらに。2016年8月の台風被災以後、東鹿越-新得は運休が続き、そのまま2024年4月1日、新得-富良野間の廃止とともに、東鹿越駅もその役目を終えた。かつて北海道の農地改良の基地となった駅の最後は、その歴史的な重みに比し、あっけないものだったと思う。車窓の美しい区間だった。  2023年10月26日撮影。空知川に設置された金山ダムのダム湖であるかなやま湖。その湖岸に接するようにして東鹿越駅があった(上写真では、対岸左側に見切れた位置)。上写真はかなやま湖の北岸から、採掘の続く東鹿越の石灰山を望んだところ。(このあたり)から撮影したもの。写っている道路橋は「鹿越橋」。付近は鉄道を代替する大型トラックが行き交うが、鹿越橋は幅員が狭く、通行には注意が必要だ。



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 それでは、ここからは軌道の線形について検討してみよう。
 とは言っても、先述の通り、「南後志を訪ねて」というサイトに、島牧の軌道寿都の軌道双方とも、線形も含めて、十分なものが紹介されている。
 なので、当サイトは、あらためて別角度からの検討と、より最近の現況について報告することを主眼としたい。
 左は寿都鉄道の終点の寿都駅の写真。撮影年は不明ながら、寿都鉄道が開業した1920年から間もないころの写真だと思う。
 寿都鉄道の輸送能もふまえて、視点側の引込線の先に、石灰工場が建設されることとなる。写真奥が黒松内方面、写真駅舎の左手側に、港に向かって緩やかに下る斜面に寿都の町がある。1972年に廃止された寿都駅の地理院地図上での場所はこちら


 航空写真で軌道(跡)を確認してみたい。上で紹介するのは1948年撮影の航空写真となる。つまり、撮影時には、すでに寿都の石灰工場が稼働を終了してから4年程度経過していたことになる。なので、写っているとしても、すでに「軌道跡」ということになるわけだ。
 これも、南後志を訪ねての事前情報があってこそなのだが、カーソルオンで示すラインが軌道の線形と思われる。この線形の場合、港の起点から工場までの路線長はおよそ900mといったところで、この数字は「北海道廰壽都石灰工場要覧」に記載れている「石灰工場貯石場迄約1粁」とほぼ合致すると言って良い。また、工場付近で、建屋のあった山側に回り込んでいるところなど、いかにもそれらしく見える。
 航空写真から、軌道の起点・終点である両末端を特定することは難しいが、中間部分の経路は、ほぼこの通りなのはずだ。なお、参考までに寿都駅構内で確認できるオブジェクトも、カーソルオン時のハイライト表記として書き足してある。


 本「幻の鉄道・軌道線形の復元~地形図に記載されなかった鉄路」シリーズは、出来るだけ当時の地形図上に線形を描く方針としているが、この寿都の軌道については、地形図に記載するには、あまりにも規模が小さいため、2025年現在の地理院地図上にその線形を転写してみることとした。その結果が上図となる。
 寿都港の積替場(現在の道の駅付近)から、海岸沿いに南東に進み、北海道道9号寿都黒松内線(引用地図内「岩崎町」を通過する黄色表示の道路)を横切りながら南西方向に進路を変える。寿都郵便局の南をかすめ、国道229号線の橋梁下をくぐり、寿都神社付近で今度は進路を北西方向に変える。北海道道272号寿都停車場線を横切って、渡島町を通るが、この渡島町の街並みを斜めに横切る個所では、2025年現在、そのままの線形で置き換わった街路が存在する。あとは寿都駅構内から寿都石灰工場に延びる引込線を迂回するように回り込んで、工場に至るのである。


 もう一つ地図情報をご紹介しよう。上図は「後志國壽都鑛山附近地質圖(縮尺一萬分之一)鉱物調査報告 第12号 附録図」で、1910年~25年にかけて編纂されたもの。寿都では、町のすぐ西側に鉱山があった。金、銀、亜鉛を主産物とし、1914年に操業を開始した廣尾鉱山(寿都鉱山)である。この鉱山は、後に三菱の傘下となって1962年まで採掘が続けられた。
 上図は、寿都鉱山付近の地質をまとめた地図であり、年代としては、廣尾鉱山(寿都鉱山)が操業を開始した1914年と寿都鉄道が開業する1920年の間の時期を反映している。寿都鉱山は「町に近い」という特色があり、それゆえに当地質図に寿都の街並も含めて描かれることとなった。
 (それにしても、これだけ港町に近いところで、鉱山業が営まれれると、鉱毒問題がたびたび引き起こされたことは想像に難くない。)
 ここでは、間もなく開業することになる寿都鉄道の線形と、そのさらに16年後に石灰工場とともに運用を開始されることとなる石灰軌道の線形を書き込んでみた(カーソルオンで表示)。当時の市街地を迂回していた様子がわかる。
 壽都港はまだ港湾としての整備が進んでいない状況に見えるが、すでに鰊をはじめとする漁業基地であったはずである。
 当時の地質図は、寿都の街並みをどの程度の精度で反映していたかは不明であるが、現在まで残る道路線形等から比較する限り、その精度は高いと思われる。参考までにお示しした。

 ここからは寿都石灰軌道の廃線跡の現況を紹介したい。1枚目の写真は寿都港の様子。2025年5月5日撮影。撮影地点はこちらとなる。  1948年撮影の航空写真を見る限りでは、石灰軌道は港湾の奥側にあたるこの写真のあたりまで伸びていたように見える。となると、上写真付近で、船から軌道への積み替えが行われていたように思う。
 寿都湾に面した海は、寿都町市街地の西に連なる月越山脈が西風を遮り、いわゆる天然の良港と呼ばれる地理条件を持っている。
 港湾地域を南東に横切ったところに、小川の流れ込む口がある。地理院地図ではこのあたりだ。この小川は、現地では「神社ノ川」と呼ばれている。地理院地図では「神社ノ川」に相当する水線の記載はない。
 寿都石灰軌道は、ここから神社の川の左岸を伝って、寿都駅方面に向きを転じていたはずだ。2025年5月5日撮影。
 こちらは、神社の川の河口付近から寿都港側を振り返ったもの。この画角の中を軌道は伸びていたはずだ。2024年11月14日撮影。  神社ノ川は、細い水路のようにして、寿都の町の中をゆく。この写真は正面が上流(寿都駅)方面となる。川の左岸(写真では川の右手)が軌道跡に相当する。2024年11月14日撮影。
 神社ノ川は、寿都郵便局附近から暗渠化されている。その先、国道229号線を越え、寿都神社の横のあたりに、石造の擁壁がある。南後志を訪ねてでは、この擁壁沿いを軌道の跡としている。2025年5月5日撮影。  かつて寿都鉄道の終着、寿都駅があったところは、2024年現在、寿都町役場となっている。2024年11月14日撮影。
 上写真、寿都町役場庁舎の建物の前、写真の左端に、かつての寿都駅跡であることを示す駅名標を模したものが建てられている。寿都の町名は「すっつ」と読むが、駅名は「すつ」と表記されていた。
 寿都町渡島町の寿都町役場の正面付近には、他の街路から斜めの方向に引かれた小路がある(場所)。この小路こそ、寿都石灰軌道の線形を現在に伝えるものである。2024年11月14日撮影。
 なお、石灰工場があった付近も散策してみたが、すっかり住宅地化されており、当時を偲ばせるようなものを見つけることは出来なかった。
 最後におまけとして旅情あふれる道道272号線寿都停車場線の風景を紹介したい。寿都鉄道は1972年に廃止となっているが、道道の路線名に「寿都停車場」の名を残し、現在に伝えている。寿都停車場線は、寿都の街並みを抜け、海岸をつたって国道229号線に合流する。その合流点付近から、寿都湾方面を望むと、この景色を見ることが出来る。2025年5月5日撮影。



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 ここからは、「寿都石灰軌道」と一体的に運用された「永豊石灰軌道(仮称 島牧石灰軌道・改)」の線形に関してまとめたい。先に当時の写真をご紹介させていただいたものだ。所在地は、現・島牧村の泊川流域であり、1936年頃~1944年にかけて石灰搬送に供された軌道ということになる。
 前述の通り、この軌道についても、「南後志を訪ねて」において、線形はすでに紹介されている。ただ、今回、本章の記事では、現地調査等の結果、先行情報に修正を加えさせていただくことになる。その点で、本章の中で、もっともしっかりした「発見」のあるところとなったと考えている。
 この軌道については、管理人が行った2度の現地探索の過程をふまえて、それらを出来るだけわかりやすい順番で記述することをこころみたい。
 管理人は、本稿執筆の時点で、2度の現地調査を行っている。もちろん、同じ場所を複数回訪問することは、(管理人の場合)よくあることなのだが、今回の場合は、1回目の訪問後に、「南後志を訪ねて」の現地調査の情報と照合を行ったところ、矛盾点が発生してしまい、その謎を解明するため、2度目の訪問を要することとなったわけだ。

 さて、1度目の現地訪問は、2024年11月14日のことである。
 このエピソードはアクシデントから始まる。その日は、とても天気が良く、管理人は気分よく車を運転していた。日本海に沿う道路の風光明媚さとあいまって、探索や写真撮影にも絶好の好天だったのだから、気分を悪くするものは何一つない。だが、そこにとんでもないワナが待ち受けていた。
 島牧村の永豊集落に着いた管理人は、車をUターンさせて、海側の路肩に車を停車させようとした。しかし、その際にやってしまった。なんと、車の左前輪を、側溝に落としてしまったのである(写真←この写真は、あまり見ないようにしましょう)。
 長いこと運転をしているけれど、こんなミスをしてしまったのは初めてであった。JAFに連絡してみたが、場所が場所だけに到着まで1時間半かかるという。半ば途方に暮れかけれていると、永豊にお住いの方々が集まってきた。「あらー、落としちゃったのかい」「ここ側溝にフタがないから、たびたびこういうのあるんだよね」などと慰めてくれていたのであるが、そのうち、「側溝に薪を積んで、少しずつ動かせば脱出できるのでは」ということになり、果たして、永豊の親切な住民のみなさんのおかげで、無事、車を復帰させることが出来たのである。永豊のみなさん、その節は本当にありがとうございました。
 脱出がかなって「良かった良かった」となっている際に、これはチャンスでは、と思い、管理人は、「すみません、実は私、島牧の歴史のことを調べている者なのですが、ここにかつてあった石灰を運ぶ軌道がどこを通っていたか、ご存知ありませんか?」と尋ねてみたのである。
 すると、「ああ、(軌道は)あったよ、ちょうどいい人がいるよ」と今度は電話で、その方を呼んでくれたのである。
   
 すぐにいらしてくれた住民の方は、自宅の敷地を軌道が通っていたという方であった。「軌道かい?軌道は、ちょうどここで、港に出ていた。」とその方が指さした場所は、まさに管理人のタイヤがはまった場所であった。なんの因果か・・・
 「この港(永豊漁港)がそもそも石灰の搬出のためにつくられたんだよ。軌道はここからまっすぐ山の方に向かってね。今、私の家の敷地なんだけど、そこを通って斜面の下まで行った」
 「あとは山の斜面の下に沿うように進んで、そこの川(ホンベツ川)は専用の橋で越して、その先の神社の前を通って、あとは山際に泊川のこちら側を進んでいっていた」
 「泊川の上流に宮内(ぐない)温泉っていうのがあってね。あ、知ってる?。そこに向かう道路、3kmくらい先で泊川を渡っているんだけど、その先は(その道路が)軌道の跡だよ」
 「その先で軌道は川を渡って、鉱山になっていた」
 たいへん貴重な情報をありがとうございました!
 以上のいただいた情報のうち、永豊周辺の情報を2024年現在のマップ上に書き込んだものが左図である。
 永豊漁港付近の軌道の線形を辿ることとしたい。まずは、先に紹介した「北海道廰壽都石灰工場要覧」で「永豊船入澗積込桟橋及輸送船」のキャプションにより紹介されている1936年頃の写真を再掲する。永豊石灰軌道から船運への積み替えが行われていた場所であり、軌道の起点と言える。
 右はほぼ同じ場所から2025年5月5日に撮影したもの。後背の山の稜線の見え方(両写真に稜線をカラーでマークした)から、撮影場所がほぼ同じであることが分かる。撮影場所を地理院地図上で示すとこちらとなる。
 右写真に写っている防波堤の延長線上の岸壁が、「軌道のあった場所」と指摘されたところであり、管理人が脱輪した場所でもある。  
 陸地から見る永豊漁港。狩場山(1,520m)の稜線が美しい。2025年5月5日の再訪時に撮影したもの。  永豊石灰軌道は、永豊船入澗を出てまず山際まで進み、そこから等高線をなぞるように、泊川に向かっていた。途中で、永豊の町を流れる本別川を越していた。
 初訪時に当該個所をきちんと確認していなかったのであるが、2025年5月5日に、再度「本別川渡河地点」を確認したところ、橋台跡と思われる構造物の遺構が本別川左岸(南岸)側にあった。ここに軌道の橋梁があったと推定する。
 上写真の撮影は2024年11月14日。現地にお住まいの方から貴重な情報をいただき、すぐその足で確認した軌道跡で、上図の地点アから、南方向を眺めた写真。軌道跡を示すように、轍が泊川の右岸(北岸)めがけて続いていた。  地点アからもう少し南に進むと、轍はなくなりヤブに覆われた。閉じたままのゲートが半分朽ちたように放置されており、かつて軌道が敷設されていた泊川の右岸は、道路としてもすでに使用されていない様子だった。草の隙間からわずかに泊川の水面が輝くのが見えた。2024年11月14日撮影。
 上写真は、撮影年代不明ながら「泊川ヨリ永豊ヲ望ム」として記録されている写真。撮影時に永豊石灰軌道が運用されていたかは不明であるが、上写真にカーソルオンすると、管理人がイメージする軌道の線形を表記する。
 写真の撮影場所は、上図の地点イのあたりだろう。

 左写真は、上写真と同じような画角となるように、上図の地点イから撮影した。手前に写っているのが国道229号線の泊川渡河地点にある「泊川橋」である。2025年5月5日撮影。
 永豊石灰軌道運用時の航空写真は見つけられない。上は1952年の航空写真となる。永豊石灰軌道が廃止されてすでに8年が経過しており、道路と異なる線形がはっきり見て取れるわけではないが、おそらく軌道跡はこのような線形であろうというものを書き込んでみた。カーソルオンで表示する。  
 上は1947年航空写真。永豊石灰軌道廃止から3年後となる。こちらでは、本別川の北側に、軌道跡の線形を思われるものを確認可能だ。  上写真は、もう少し上流部に進んだところで、「宮内温泉に向かう道路、3kmくらい先で泊川を渡っているんだけど、その先は(その道路が)軌道の跡だよ」の証言にある「道路との合流点」から、分岐していく軌道跡を逆方向に望んだところ。撮影場所はこちら
 下流側と同じように、軌道跡を利用した泊川右岸の道路は、ゲートにより封鎖されていたがこちらの方が新しいイメージを受けた。宮内温泉に続く電線が、ゲートで封鎖された道路に沿って配してあるため、電線保守の際には、通路として利用されるのだと思う。ゲートが開いていたとしても、車両の進入は難しそうだが。2024年11月14日撮影。


 ここまで永豊石灰軌道の線形について、現地調査の結果を交えながら記載してきた。しかし、以上の記述において「先行情報に修正を加えるべき発見」というのは特にない。それが登場するのは、石灰軌道末端側の話となる。それは、あの写真に記録された泊川渡河地点に関するものとなる。以下、そこに向かって記述を進めていくことになる。  
 ここからは現地調査の順番に即して、記載する。その方がわかりやすいからだ。
 2024年11月14日、軌道跡の貴重な証言を得たうえで、私は軌道の痕跡を辿った。道道836号島牧美利河線を遡る。この道路は島牧から泊川に沿っているのであるが、途中で、泊川を渡河し、左岸側から右岸側に移る。その後、しばらく道路は軌道跡を辿ることになる。
 宮内温泉を過ぎて、両側の地形が厳しくなってきたところで、私は車を降り、装備を整えて、河原に降りた。「何か」があることを期待して、右岸をしばらく歩いて、私は「それ」を見つけた。
 左写真である。川の中にあるそれは、木造橋脚の基礎である。今一度、「北海道廰壽都石灰工場要覧(1936」に掲載されていたあの写真と見比べてほしい。見つけた遺構は、木造橋の橋脚の基礎として、実にふさわしい形状をしている。地理情報も含め、永豊石灰軌道の橋梁跡とみて間違いないだろう。  
 情報をあらためて地図上で整理してみる。下流側から永豊石灰軌道跡を辿ると、上地図の地点ウ(写真)で軌道跡は、現道と重なる。
 宮内温泉を過ぎて、私が河原に降りて、見つけた橋台基礎は地点エのあたりだ。その少し上流で、泊川には、支流の一つであるカモイ川が左岸側から合流している。  
 ここからしばらくは探索者ならではの発見の喜びに満ちた写真である。上は右岸側に残っていた橋梁の遺構で、おそらく橋台構造の一部であると思う。  引き続き橋脚の基礎構造。こちらの写真の方が、最初にご覧いただいたものより、光の加減で見やすくなっているかもしれない。また残っていた橋脚基礎のまわりには、それと一群の遺構をなすと思われる人工物の痕跡も認めることが出来た。
 橋脚基礎の上にのり、上流方向を眺めたところ。橋脚を立てていたであろう孔もしっかり残っている。  橋脚基礎を含めて、下流方向を望んだところ。

 左写真は、橋梁跡発見地点のやや上流側の泊川対岸(左岸)を望んだところ。
 人工的に削られた跡のような形状をした岩肌が露出しており、ここが石灰山の跡であると推定した。カモイ川合流部のすぐ下流側である。    

 以上の発見に満足し、この日(2024年11月14日)は現地を後にしたのであるが、帰札後、答え合わせの意図も含めて南後志を訪ねてにて紹介されている当該軌道の線形を確認した。
 そこで、管理人は、意外な結果を得ることとなる。当該サイトの島牧にも鉄道があった? 探索編では、今回発見したものと異なる、コンクリート製の橋脚が「廃線跡」として紹介されていたのである。
 加えて、木造橋脚がコンクリート橋脚へ建て替えられたとの考察がされており、その位置も、カモイ川との合流地点の上流となっており、管理人が発見した遺構の位置(カモイ川合流地点の下流)とは明らかに異なっている。
 管理人は、現地を再訪することとした。
  

 冬を越して、管理人が現地を再訪したのは、2025年5月5日である。雪解けの季節である。前回訪問時(2024年11月14日)はあきらかに川の水量が少なかった。そして、そうでなければ、私は、橋脚の基礎跡を見つけることは出来なかったであろう。
 今回、川の水量の多さから、基礎跡の再確認は出来ないかもしれないが、南後志を訪ねてで紹介されているコンクリート橋脚は、何としても自分の目で確認しなければ気が済まない。
  
 というわけで、2025年5月5日の再訪だ。道道836号島牧美利河線を進むと、宮内温泉への交差点の先「島牧村字泊451-1ゲート」が閉まっていた。その先は冬季閉鎖区間となる。
 ちなみに道道836号島牧美利河線は、その名の通り島牧村と今金町美利河を結ぶ総延長約37kmの計画で着工されたが、2025年現在、建設中止となり、両端側でのみ供用されている。島牧側は(夏季には)大平山登山口までが供用されている。
 この日、管理人は、島牧とともに、今金町美利河地区を探索していたので、この道路が竣工していれば、かなり便利だったな、とは思う。まあ、そういう人がめったにいないこともあって、建設中止になったのだろうけれど。
 というわけで、ゲートから先は熊鈴と熊スプレーを持参で徒歩で進む。
 道路をしばらく歩く。昨年来た時に橋脚の基礎を見つけた地点は、雪解け水で増水した激流が流れており、無数の波頭の下に沈む遺構の再確認なんて出来なるわけがない状況だった。ただ、この日の目的はそれではない。
 さらに道を進んでいくと、あった!「島牧にも鉄道があった? 探索編」で報告されていた橋脚だ。場所も確かにカモイ川合流部より上流である。
 すぐに橋脚には接近せず、少し上流まで進んでみた。というのは、「北海道廰壽都石灰工場要覧(1936」に掲載されていたあの写真と同じ風景の中に収まるのかどうかを確認したかったからだ。
 果たして、管理人の結論は、「北海道廰壽都石灰工場要覧に掲載された写真の橋梁の場所と、橋脚が残っている場所は異なる」である。同じ場所であれば、左岸側から川中へ突き出した尾根の突端が、橋脚のすぐ後方にあるはずなのだが、実際の橋脚跡では、その距離があきらかに異なっている。  
 泊川の中に残る橋脚跡に近づいてみた。もし、この橋脚が永豊石灰軌道のものではないとしたら、いったい何のための橋梁であったのだろうか。
 ズームでも撮影してみた。  上写真は、橋脚跡とカモイ川合流部の位置関係を1枚の写真の中で示す目的で撮影したもの。ご覧の通り、カモイ川合流点より「上流側」に橋脚跡がある。

 以上で2度に及んだ現地調査はひと段落。続きは資料調査となる。条件さえそろえば最強の探索ツールとなる航空写真をチェックである。
  

 上は1944年に撮影された宮内温泉と石灰山周辺の様子。1944年というのは、石灰軌道が運用されていた最後の年であるが、果たしてそこには上の通り、明瞭な軌道の跡を見出すことができた。
 そして、そこに示された渡河地点Aは、カモイ川合流点の下流側であり、管理人が1回目の探索で、橋脚の基礎を見つけた場所に他ならない。
 それでは、上流側にあったコンクリート橋脚は、いったい何者なのか?それは、次の航空写真をご覧いただきたい。
  

 上は1955年に撮影された宮内温泉と石灰山周辺の様子。1944年に永豊石灰軌道が廃止されて11年が経過している。
 そして、あるぞ!今度はカモイ川合流点の上流側、あのコンクリート橋脚を見つけた地点で、泊川を渡河する道路橋が!
 以上のことから、1回目の探索で管理人が見つけた橋脚基礎が永豊石灰軌道の橋梁跡、2回目の探索で確認できた既報の橋脚跡は、その後建設された道路に供された橋梁のものであると結論付けることが出来た。
  

 以上の情報をマップ上でまとめると上図の通りとなる。1944年の航空写真に示された永豊石灰軌道は地点Aで泊川を渡河しており、そこには現在も橋脚の基礎等の遺構が残っている。
 一方で、1955年航空写真で示された道路は地点Bで泊川を渡河しており、そこには現在もコンクリート製の橋脚が残っている。
  

 それでは、大団円である。1946年発行の5万分の1地形図「寿都」と、1947年発行の5万分の1地形図「大平山」に、永豊石灰軌道の線形を記載した。
 永豊石灰軌道は、船入澗積込桟橋(現・永豊漁港)を出て、山際に至ると、等高線状に南下し、永豊の町で、本別川を渡河する。やがて泊川の右岸にとりつくと、そのまま泊川にそって遡り、宮内温泉の先で、対岸に渡り、カモイ川合流点の手前に石灰山があった。
 以上が、1936年~1944年にかけて運用された永豊石灰軌道の線形である。
  

 本項の最後に、一枚想像を具現化した(合成)写真となる。2025年5月5日の訪問時は、雪解け水を集めた激流の中、橋脚の基礎等はその逆巻く水面に沈んでしまっていたが、「北海道廰壽都石灰工場要覧(1936」に掲載されていた写真の画角に近づこうと、岩塊を伝って、出来るだけ川の中心部に近づき、橋脚基礎のあった地点を上流側から撮影したのが左写真、なのだが、そこに、例の木造橋梁を合成してみた。
 当時、この場所では、このような風景が見られたのだと思う。




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その3 今金町の客土軌道と美利河鑛山軌道



 北から順に紹介していく流れに従って、その3として桧山管内の今金町にあった2つの軌道を紹介したい。
 ただし、これら2つの軌道は、単に「今金町内にあった」という地理的な条件以外に、互いに何ら関連のあるものではない。軌道の用途、運用の年代もまったく異なる。
 とりあえず、左図により、おおよその位置情報を確認いただこう。
 この2つの軌道のうち、美利河鑛山軌道は、分水嶺を越えて太平洋側(渡島地方)に達していたので、第4章の大分類である「後志日本海岸・檜山の軌道群」の枠に収まらないことになるのだが、美利河鑛山の所在地は、分水嶺の西側、すなわち檜山地方であるため、そのあたりはご容赦いただきたい。

 北海道特有の「軌道客土」と、そのための「客土軌道」については、第3章において詳述したので繰り返さないが、その第3章で紹介した1960年の新聞記事において、13,700千円の予算により、実施が決定した今金の軌道客土の線形について考察してみる。
 ただ、先に書いてしまうと、2025年現在、管理人が調べた限りの各種資料、航空写真等では、その線形を決定的に指し示すものを見つけることは出来なかった。そこで、本稿で述べるのは、あくまで、状況証拠等から「管理人が推測する」軌道の線形となる。そのため、当時の地形図上へのトレースも割愛し、別の形で言及することとしたい。

 なお「1960年に実施が決定した」軌道客土と実施年を含めて言及したのは、(これも第3章で述べたことと内容が重複してしまうが)同じ地域内で、異なる年代に、異なる場所で、軌道客土が実施されることがよくあったからだ。今金もその例にもれず、2025年現在、ネットで検索すると1955年の「いまかね町政だより」がヒットする。その記事を読むと、1951年以降、今金町から北檜山町(現・せたな町の一部)にまたがる地域に対し軌道客土が実施され、さらに1955年時点で(南岸地区、神丘地区(場所)、愛知地区(場所))への軌道客土の実施が要請されていたことが分かる。

 それでは、1960年代の今金町の道営軌道客土がどこで行われたのかについて、唯一手掛かりとなった資料を早速紹介する。
 左は、1962年の「今金町土地改良事業概要図」という資料だ。これの赤枠の部分を拡大してみよう。

 左が拡大したものだ。
 瀬棚線の北側、トマンケシ川の東岸(左岸)側にの着色部分に、しっかりと「軌道」の字が記載されている。おおよそ、この地域が軌道客土の対象であり、客土軌道も、当然のことながら、土取場とこの地域を結ぶ線形だったはずだ。

 ちなみに、上の今金町土地改良事業概要図を、今金駅(場所)と神丘駅(場所)の位置を軸として、地理院地図上に強引にプロットすると、このようになってしまう。これを客土エリアとするのは、さすがに現況の土地利用や地形の実態と整合性がとれず、乱暴である。
 概要図はあくまで概要図であり、軌道客土の実施地域としては、ざっくりと瀬棚線の北側かつトマンケシ川の東側の地帯を示しているだけのもの、と考えて進めよう。

 上図は1962年の「今金町都市計画図」である。軌道客土が行われていた時期のものであると考え、土取場の位置の推定に供さないかと思い、見てみたが、特にそれらしいものはない。参考までに、カーソルオンで2025年現在の地理院地図と比較できるようにしておいた。
 両者を比較すると、「瀬棚線の廃止」「国道の線形改良」が目立つが、明確に土取りの跡と思える場所は見いだせなかった。ちなみに、2025年現在、今金町を東西に貫く道路は「国道230号線」となっているが、1962年当時は「主要道道長万部東瀬棚線」であった。また、この道路が国道に指定された1970年当時は「230号線」ではなく「国道277号線」であった。1981年に八雲町から雲石峠(場所)を越えて日本海側(当時の熊石町;現在は八雲町の一部)に抜けるルート(当時主要道道八雲熊石線)も国道277号線と指定さることとなり、その後国縫-北檜山間は、札幌を起点とする国道230号線の終点(当時の虻田町)を延長する形で、これ(国道230号線)に編入され、現在の形になったことになる。
 1962年の「都市計画図」で示された道路線形が、その後どの年代に改良されたのか少しだけ調べてみた。(単に、道路線形改良工事の残土が、客土に利用された可能性を考慮しただけであり、管理人は、基本的に「道路」のことは、あまり詳しくないので、ほんとにこのあたりは、サラッとである。)

1966年発行最新北海道支庁別地図 1967年発行最新道路地図帖 1972年発行5万分の1地形図「今金」
 この話は、当該軌道客土が行われた正確な年代も把握できていないので、あまり掘ってもしょうがないが興味本位で調べてみると、上のような感じで、1966,67年刊行の資料では旧道路の線形、1972年の地形図では改良後の道路の線形が記載されいた。
 当該道路の線形改良は、次に示す航空写真の情報も含めて、1968年頃に竣工したものと思われる。

 ここからは、大いに論理が飛躍していることを自覚しつつ、あくまで一つの仮説という形で記載させていただきたい。
 有力な情報源となりうる航空写真についてであるが、残念ながら60年代の当該地の航空写真は2025年時点で公開されていない。それで、上に紹介したのは1970年に撮影されたもので、おそらく軌道客土事業も終了していると思われる。この航空写真が撮影された1970年に国道指定された道路も、線形改良後の姿が捉えられている。
 さて、この写真で見ると、利別川の北岸に、土取場のようなものが見えるのである。それは、ちょうと新御影沢川と利別川の合流点近くで、そのまま新御影沢川、そしてその支流のトマンケシ(ナイ)川に沿って遡れば、軌道客土の散布地域となるところだ。
 ちなみに、客土事業というものは、長年にわたって続けることが必要な場合がほとんどで、軌道客土のような大規模な事業が終了した後でも、客土のための土取場が利用されることもある。1970年の航空写真に写っている土取場らしきものも、そうだったのではないだろうか。  また、第3章、それに第1章でも触れたように、河川の自然堤防の土というのは、客土にたいへん適した土壌である場合が多い。
 それらを踏まえて、上の航空写真にカーソルオンで示すような線形で、客土軌道があって、トマンケシ(ナイ)川の左岸(東岸)地域に、客土が行われたのではないだろうか、と推測するのであるが、いかがであろうか。
 まあ、利別川の両岸あちこちに、土取場と言ってもいいような似たようなものが見えるじゃないか、と言われれば、その通りではあるのだけれど。


 というわけで、2025年時点では、今金町で60年代に実施された軌道客土における軌道の線形について、上記の2025年現在の地理院地図上に描いたものを「推定」として提案するにとどめたい。もちろん、土取場から異なっている場合も十分にありえる。ただ、トマンケシ(ナイ)川の東岸で軌道が運用されていたことは、ある程度確実で、そこまで広い土地ではないので、少なくとも部分的には似たような線形であったのではないかと考えている。
 不確かな部分があまりにも多いため、当時の地形図上へのトレースはしないこととしたい。ここでは、今金町でも客土軌道が運用されていたことについて、周知するとともに、今後、資料等により情報の精度が上がれば、更新することとしたい。


 最後に「今金町史」に掲載されている軌道客土風景の写真を紹介したい。
 ただし「いつ」「どこで」という属性情報がなく、この写真から場所を絞り込むというのも、かなり難しいだろう。
 現地を訪問した際の写真を紹介する。いずれも撮影は2025年5月5日。上は、後志利別川の広い河原であり、今金の客土軌道の土取場として推定した場所
 写真だと傾斜がわかりにくいと思うが、右の舗装路は堤防上の道で、そこから河原に向かって砂利道が下っており、その先に広い堤防外の平地が広がっている。後志利別川の水面は遠く、見えない。いかにも土取場跡のように見えるが、いかがだろうか。
 トマンケシナイ川に沿って少し遡った地点から上流部を眺めたところ。ここまで、傾斜がほとんど感じられないほどにフラットだ。はるか彼方に狩場山を主峰とする山地が見える。
 川の左岸(写真では川の右側)に沿って、客土軌道があったと推定する。
 もう少しトマンケシナイ川を遡ってみた。こちらの地点からやはり上流部を眺める。  尾根に挟まれた細い谷地であるだけに、東西両側の尾根を土取場として使用したと仮定した場合、移動距離をかせぐための軌道は、敷設する必要性が低下する。そのことも、土取場が後志利別川の自然堤防を土取場とする客土軌道の説を後押しすると考える。  左上写真とほぼ同じ場所から東側の尾根方向にやや向きを変えて撮影した。トマンケシナイ川の左岸側に延びる低平地は、きれいな圃場となっている。
 本項の末尾に、軌道客土後の地形図を紹介する。上図は1972年発行の5万分の1地形図「今金」と1977年発行の5万分の1地形図「瀬棚」の合図である。
 中央付近を南北に流れるトマンケシ(ナイ)川の東側を中心とする周囲が、軌道客土により、良質な水田地帯となった。
 今金以外で軌道客土が行われた地域と比較すると、客土対象の面積は小さいが、その南北に長い低平地という構造が、軌道客土に適したのではないかと推測する。



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 ここからは、同じく今金町内に存在したものから、とある鉱山軌道を紹介したい。送鉱を目的とした軌道は、非常に多くの鉱山で運用された。今回は取り上げないが、檜山管内で言えば、厚沢部町の俄虫鉱山軌道(このあたり)や、上ノ国町の勝山鉱山軌道(このあたり)、それに寿都石灰工場のすぐ山側で稼働していた寿都鉱山(廣尾鉱山)の鉱山軌道(このあたり)もそれらの一つである。俄虫鉱山や勝山鉱山、寿都鉱山の軌道も、地形図に記載されたことはないので、本稿の対象としても良いのだが、言い出せばキリがないので、ここでは割愛する。
 というわけで、本稿で紹介するのは、今金町内にあった「美利河鑛山軌道」である。この軌道の特徴は「歴史の古さ」と「規模の大きさ」において、際立ったものがあるということであり、それゆえにここで扱うこととした。
 まず場所の確認として、上図をご覧いただきたい。東に太平洋、西に日本海という渡島半島の付け根の部分であるが、これを横切って、両海岸を繋いでいたのが、国鉄瀬棚線(1929-1987)であった。
 瀬棚線は長万部町内にある函館線国縫駅(場所)を起点とし、今金町、北桧山町を経て、瀬棚町の瀬棚駅(場所)に至る48.4kmの路線である。渡島半島の分水嶺は、瀬棚線とクロスする付近では、かなり太平洋の側に寄っている。そのため、瀬棚線の駅のうち、分水嶺の東側に存在したのは、起点である国縫駅を除けば次駅である茶屋川駅(場所)のみである。だから瀬棚方面に向かう列車は、茶屋川駅を出ると、まもなく分水嶺を越えるトンネルに入ることとなる。この全長786mのトンネルの名称は、資料によって「山瀬トンネル」と表記されているものと、「美利河トンネル」と表記しているものの2通りがある。トンネルを通過すると、列車は「渡島管内長万部町」から「檜山管内今金町」へ移るのだが、その最初の駅が美利河駅(場所)であった。美利河は「ピリカ」と読む。「ピリカ」は、北海道に住む人にはなじみ深いアイヌ語で、「美しい」 という意味だ。「ピリカ」の響き自体が美しく、かつ光を連想させるものだと思う。リラックマストア札幌店の店長も「ピリカ店長」である。
 上図にカーソルオンすることで、瀬棚線、今金町域、美利河駅の位置関係をお分かりいただけると思う。美利河駅の周辺には、北海道開拓の初期から開発されたマンガン鉱山があった。その代表的なものが「美利河鑛山」である。

 これから、その美利河鑛山で運用された軌道(「美利河鑛山軌道」)について、紹介していくのだが、先に記載したように、「美利河鑛山軌道」の特徴の一つが、「歴史の古さ」である。これについては、すでにご紹介したおおよその位置図に運用年を書き込む形で提示済であるが、軌道の運用開始は1896年である。これがどういう時代かというと、当然のことながら瀬棚線(国縫-花石間)が開業した1929年よりはるかに昔であり、さらには函館線の前身である北海道鉄道の国縫駅を含む区間(森駅ー熱郛駅)が開業した1903年よりも古い。さすがに茅沼炭鉱軌道の1869年には及ばないが、茅沼炭鉱軌道同様に、周囲に鉄道線が建設されるより、はるかに以前から運用を開始した軌道、ということになる。

 左写真は、「不滅の蒸気機関車3」という書籍に掲載されたもので、美利河-茶屋川間の分水嶺地帯を行く瀬棚線の貨物列車の様子である。おそらく、このあたりを通過中の下り列車を撮影したものと推測する。
 上写真は瀬棚線廃止(1987年)前の美利河駅の駅舎。三角形の構造が印象的。2025年現在北海道内にある駅舎では、東森駅の駅舎がほぼ同じ構造をしている。  上写真は1929年頃の美利河駅からのマンガン搬出の様子を示したもの。美利河鑛山専用軌道は1915年で運用を終了しているが、その後も採鉱は行われ、瀬棚線を利用して搬出が行われていた。

 さて、それでは、「美利河鑛山軌道」のについて、資料を引用していきたい。といっても、あまりにも昔のことなので、ここからしばらく文字情報が続くことになるが、そこはお付き合いいただきたい。


 最初は今金町史から美利河鑛山の概略について、引用しよう。
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 美利河部落の開拓は鉱山によって始まり、その歴史も古い。金および砂金の採取地としてしばしば起業されたが史上明らかにされていない。
 明治13年(1880年)に瀬棚より大島勘左ェ門、入沢藤次郎の両氏は下国東七郎および、アイヌ五名をやとって利別川をのぼり、ここに満俺を発見、両人名儀で採掘許可を受け事業を開始したが、交通不便と販路を得られず、明治19年(1886年)事業を廃止し鉱区を返還した。明治24年(1891年)に国縫の人、福田重平はアイヌを伴いマンガンを探しあて、二十五年寿都町網野広尚の名をもって試掘を出願、翌年(1892年)より採掘し、鉱石を函館の英国人ハウル商会T.A.ウィルソンに販売した。明治二十七年(1894年)に、事業拡張のためウィルソンが五千円で権利をゆづり受けて経営に当たった。
 当所の駄馬輸送より木道による輸送に切りかえ、更に明治二十九年(1896年)十二封度軌道に改設した。この頃が鉱山の最盛の頃で鉱夫も約一千人、一ケ月の採掘が一万トンにも及んだといわれている。(今金町史より抜粋)
 (中略)
 ともかく幾多の盛衰はあったにしても約七十五年間操業を続け、その間杉林鉱業から岩田鉱業へとうつり、今日にいたったことは、町開発のため特筆すべきことであり、ピリカ住民の生活の安定にも大きな寄与をした実績は大きい。しかしながら昭和四十二年(1967年)、鉱石精錬の関係から、探鉱面に切りかえたため事実上休山のやむなきにいたったことは惜しみても余りある次第である。
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 また、2025年現在、web上で公開されている町史にも、関連記述があるので、転載しておこう。

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 明治19年(1886)、東京の実業家、雨宮敬次郎が山形県の砂金採掘の熟練者を中心とする「雨宮砂金採取団」を派遣したことから、再びこの地で砂金熱が高まりました。すでに江戸時代に採掘された場所でしたが、彼らの技術は極めて巧みで、明治20年代に産金量のピークを迎えました。
 砂金採掘と並行し、花石地区や美利河地区ではメノウやマンガン鉱の採掘事業に着刷る者が現れました。明治13年(1880年)、瀬棚村の大島勘左衛門らはその事業化を試みたものの、販路の確保に難航し同19年(1886年)に廃止。明治27年(1894年)には国縫村の福田重平がマンガン採掘事業に着手し、国縫までの簡易的な馬車軌道を開削して経営が本格化しました。
 マンガン鉱は、日露戦争で軍事兵器の需要が高まったことを受け、鉄の硬化材としてのマンガン鉱の需要が急激に高まり、全国各地にマンガン鉱山が乱立しました。その中でもこの美利河マンガンは良質で採掘しやすいことで注目され、明治40年(1907年)には美利河地区だけで4カ所の鉱山ができ、年産1万トンを記録するなど最盛期を迎えました。全国各地から仕事を求めて多くの人が入り、人口約1,000人を数え、茶屋や郵便局、製材所ができるなど、大いに賑わいました。
 このように(利別川の)上流域では、中・下流域での本格的な開拓に先行し、太平洋岸経由での人や物資の往来が盛んとなり、独特の鉱山文化が隆盛しました。しかし、終戦後の需要低迷と単価の安い海外産に押され、いずれの鉱山も昭和40年代初め(1965年)までに閉山しました。

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 「満俺」は「マンガン」と読む。美利河鑛山の採鉱は1892年に開始され、ハウル商会の介入によって経営が本格化し、1896年には送鉱用の十二封度(ポンド)=約5.5kgの軌条による軌道が敷設されたことがわかる。次に当時の鉱山関連の資料を見ていってみよう。

 まずは、1925年に刊行された「鉱物調査報告 第12號」では、「後志國及渡島國の鑛床調査報文」として美利河鑛山について記述されている。


 美利河鑛山ハ瀬棚郡利別村字美利河ニ属シ利別川ノ上流ニ位ス、瀬棚街道ハ鑛山ニ近キ美利河部落ヲ過キ此部落ヨリ國縫驛迄ハ四里弱、瀬棚港迄ハ十四里ニシテ是等ノ間ハ容易ニ車馬ヲ通シ又鑛山ト國縫驛トノ間ニハ鑛山私設ノ鐵道馬車アリテ貨物ノ運搬ニ便セリ。

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 同書には、1910~25年の報告をまとめたものなので、正確にどの年代の状況を記載しているかは不明であるが、美利河鑛山から国縫駅まで、「私設馬車鉄道」が運用されていた、と明記されている。なお、右図は同書で紹介されている「後志國瀬棚地方満俺鑛山分布圖」である。軌道の線形は記載されていない。

 次は、1926年に商工省鉱山局が編した「本邦重要鉱山要覧」の記述になる。

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 粗鑛ハ現場ニテ簡單ナル手選ヲ行ヒ然ル後人背及鑛車ニテ第一選鑛場(鑛石受入所)ヘ送致シ夫ヨリ鐵道馬車ニテ第二選鑛場ヘ運ビ精選択ノ上麻袋詰トシ國縫驛迄馬車ニテ搬出ス
 軌條ハ單線ニテ九ポンド(4.1kg)及十二ポンド(5.4kg)ヲ使用ス
 鑛車、鐵道馬車の車輪ハ径八寸(24cm)ゲージ二尺三寸(696mm)ナリ
 坑外軌道延長約貮千六百間(2600間~約4.7km)

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 この時点では、軌道輸送は坑口から選鉱場までの4.7kmとなっており、その軌道の規格が記載されている。選鉱場から国縫駅までは馬車による搬送だったようだ。

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 当該軌道については、1928年の「北海道鉱業誌」にも記述がある。同誌では、美利河鑛山のマンガン採掘が「英人の經營せるハウル社にて明治21年(1888年)稼行」し、大正4年(1915年)12月に経営母体が代わり「合資會社杉林黒煙滿俺精煉所」となったことを記した上で、下記の記述がある。

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 運搬法;粗鑛は現場より水利の便のある場所まで人背又は鑛車にて運び、後木樋にて流送し鑛車にて選鑛場に送り、選鑛場よる國縫驛迄は馬車にて搬出す。坑外敷設軌道は約二哩(約3.2km)にして軌條のゲージ二尺四寸(727mm)。木製鑛車を使用す。

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 「本邦重要鉱山要覧(1926)」と「北海道鉱業誌(1928)」の間で記述の揺れはあるが、「坑口~(坑外軌道)~選鉱場~(馬車)~国縫駅」という送鉱の方法は共通であり、この時点では、すでに国縫までの軌道の運用は終了していたことがわかる。そして、瀬棚線が開業した1929年以後の様子が分かるのは、1934年の「北海道鉱業誌」だ。以下の様に記述されている。

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 函館本線國縫驛より分岐せる瀬棚線美利河驛より二町餘にして選鑛場に達す。夫より採掘場まで約二哩此れ間専用軌道の敷設あり。附近一帯海抜三百米乃至三百五十米の丘陵地にして利別川其中部を南流し、下流は瀬棚平原となる。交通便なり。
 運搬法;粗鑛は現場より水利の便のある場所まで人背又は鑛車にて運び、後木樋にて流送し鑛車にて選鑛場に送り、選鑛場より美利河驛迄は馬車にて搬出す。坑外敷設軌道は約二哩(約3.2km)にして、木製鑛車を使用す。

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 これにて、最終形態に近い「坑口~(坑外軌道)~選鉱場~(馬車)~美利河駅」という送鉱体制が確立された。

 1906年頃に撮影された美利河鑛山の選鉱場。軌条は見えないが、鑛車を牽く馬が一列に繋がっているところは、軌道上であったことが十分に類推できる。  1906年頃に撮影された美利河鑛山での露頭掘りの様子。坑道から産出されるもののほか、露頭掘りでも生産が行われたようだ。

 文献挙証を集めたところで、今度は、当事者の証言記録を紹介したい。これらは、とても貴重なもので、1967年に刊行された「今金町開拓回想録」に掲載されていたものだ。美利河鑛山に関しては、2人の証言者が述べている。1つ目は似内与四郎氏(1896年生まれ)の談話だ。

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 私は美利河で生まれ、ここで一生を過ごしましたが、十二才の時から鉱山で働きました。
 美利河鉱山は英人ウィルソンの経営によって、非常に繁盛し、一時は一千人以上の坑内外夫が働いていて、家を建てる土地がない位にぎやかでした。しかし冬になると、雪のためマンガンの搬出が思うようにいかないので、鉱夫もそれぞれの国に帰っていき、又雪消えの時を待ってやってくるとゆうありさまでした。したがって鉱山を中心に店屋もあり、一杯屋もあり、今の鉱山の機械場より下五十間位の所に銭湯まで開かれていました。
 鉱石は始め木レールを使って選鉱場(今の栗本商店近く)まで運ばれ、そこから駄馬によって国縫に運ばれましたが、その後国縫まで鉄レールを敷設し、大々的に馬鉄とゆう名称で鉱石が運ばれました。美利河から茶屋川まで一日二回運搬し、茶屋川で中継の上、一日一回国縫まで運んでおったようです。そのため馬も常に三十頭程用意され、一台のトロッコにカマス入れのマンガンが約三十七、八俵から五十俵まで積み込まれていました。
 この外人経営者を、私たちは大将とよんでいましたが、年に数回ピリカに顔を見せる位でした。それでも来た時には子供たちにみやげ代りとしてお金をくれたようでした。
 珍しいのはお金の代りになる鉱山キップを発行していてそれが函館辺りまで通用されたとゆうから当時の盛んな状況も想像できるでしょう。もっともこれは十銭券と二十銭券の二種で、二十銭券は青札で今の百円札より少し小さく、ネズミが玉をくわえている絵が印刷されていました。
 私は、明治四十一年(1908年)の時から、親も働いていたこの鉱山で働きましたが、その時の日給が只の八銭でした。しかも労働は十二時間労働でした、ワラジ一足が二銭で一日二足を必要とする労働で、どうして生活出来たか不思議な気がします。
 この鉱山も大正の始めに、杉林鉱業に売られましたが(別資料1915年)、まもなく名物の馬鉄レールも戦争のためか、とりはづされて売られてしまい(第一次世界大戦 1914-1918のためか)、相当の収入があったときいています。このため鉱山をただでもらったようなものだと当時の人々の噂になっていました。
 鉱石は国縫からハシケで海を運ばれましたが、このハシケが転覆したこともあり、しけのたびに黒いマンガンが海岸にうち上げられたときいています。
 米一升十二銭、酒四合びん四十銭位の時に一人前の鉱夫の日給は二十五銭でした。賑やかな鉱山の祭りは、毎年お盆と連続して行われ、鉱山では四斗樽のコモカブリの清酒のカガミをぬいて、誰にでも飲ませたし、いい気げんになったところで、五十六間に九間の大選鉱場の中がそのまま踊り場となり夜を徹して踊りぬきました。

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 続いては、米山貞助氏(1894年生まれ)の談話である。

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 私は明治四十一年(1908年)八月に美利河に入地しました。この時は美利河鉱山がやや全盛を過ぎた頃のようでした。しかしそれでも相当量の鉱石が掘り出され、鉄道馬車によって国縫まで輸送されていました。
 この美利河鉱山の発見者は、はっきりしないが、小野寺さんとゆうらしく経営は函館に居住の英国人「ハウル社」のウィルソンがもっていたのです。しかし権利は日本人の名儀になっていたようでした。私たちはウィルソン氏を社長といっていました、年に数回鉱山技師の横田仙之助氏と共に鉱山に来ましたが、くる度に子ども達にはお金をくれたものです。外人は財布を持っていないので、五銭、十銭のダラ銭をポケットに入れ、あいさつをした子どもには、いつも無造作にポケットから金を出してくれたのです。
 したがって子どもたちも大喜びで、日本で一番偉い人はハウル社の社長だと思っていたらしい。発見者の小野寺さんには、社長から死ぬまで毎年白米一俵と金十円が続けておくられていたとのことです。
 当時の一等鉱夫の賃金は一日五十銭で、労働は三交代の八時間制でした。マンガン一俵は十六貫で十六俵で十tとされてました。この美利河鉱区のマンガン埋蔵量は広域にわたっていたため、各個人の請負が非常に盛んで、二酸化マンガン一等品は一俵一円、金属マンガンは二等で五十銭の請負で行われました。然し二酸化マンガンは少く、したがって大部分が金属マンガンを掘出し一日七、八俵づつ働いていた人もありました。
 その後第一次世界大戦が始まると、鐵の値上がりにつれてマンガンも値上がりになりました。その頃私は美利河鉱山の事務所に勤務していましたが、ピリカには当時大黒、稲穂の二鉱山もあり経営者は函館の人でした、この中。稲穂鉱山の方は事業設備も大規模に行われていたが、その割に採掘量は伸びなかったようで、むしろ美利河鉱山の方が上位にありました。
 当時鉱夫の中には、稲穂鉱山にこっそりマンガン売りをする者が現れたりしたので、その取締役が私に当り、若い時分であったので大変苦労したことがありました。
 当時鉱夫の連中は、請負の関係のせいか面白い位金になったので、労働もお互に無理なことをせず、朝九時頃から午后三時頃までより働かずゆうゆうと暮らしていました。従って鉱内から上ってくると着物に着替をし、一度に五、六人は入浴のできる鉱山専用の風呂に入ることが習わしのようでした。常時どこかの家では毎日のようににぎやかに酒もりが行われ、一カ月に四斗樽七、八十樽は売れたようでした。
 この酒は大阪の銘酒「千代盛」であったと思う、消費が多かったので事務所のもうけも多額で、それで事務所の食費も大分まかなわれていたようです。入浴にいく時着ていく着物がないため父親愛用の紋つき羽織を着て行ったという人もありました。
 景気がよかったせいか、酒をのんでも、鉱夫同志のけんかなどは殆んどなかったようです。稲穂、大黒鉱山の方は金輪のついた馬車で鉱石を一日に一回国縫まで搬出し、アメリカへ輸出されていた。この時の一俵の単価は函館で十八円位ときいています。しかし第一次世界大戦が終わると、鉱石も値下がりして経営が不振となったためハウル社は鉱山資材一切を含めて約五万円で杉林鉱山に売却しました。その後三年程たつと又鉄の値上りとなりマンガン鉱山も息を吹き返したようになり、杉林鉱山の全盛期を迎えたわけです。

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 どちらも貴重この上ない証言で、このような証言を記録として残していただいたことに感謝の念は絶えないところではあるが、軌道に関する証言として重要なのは似内氏の証言で、国縫まで鉄レールが敷設されたこと、中間地点である「茶屋川」を中継地として、運行形態が組まれていたことがわかる。また、両者の証言から、戦争(第一次世界大戦)で鉄の価値が上がったこともあって、レールが取り外されたことが予測され、それは、おそらく杉林鉱業に経営が移った1915年ころの出来事であったと思われる。

 町史では美利河鑛山は1965年に閉山したこととなっているが、その直前の1964年に岩田鉱業に採鉱が委託されている。上写真はその岩田鉱業美利河鉱山の写真となっている。鉱山のどのような施設を撮影したものかは不明であるが、かなり「鄙びた」印象を受ける人が大半ではないだろうか。明らかに盛事を過ぎてしまったようなさびしさがある。  こちらも稼働末期ごろの美利河鑛山坑道入口付近を撮影したもの。おそらくすでに使用されていなかったであろう鉱車が見える。これらの写真は、上で貴重な証言をいただいた2氏が、談話をされたころの風景であるが、かつての鉱山の繁栄を知る方には、ひときわ寂しいものとして映っていたように想像する。

 それでは、本旨である「美利河鑛山軌道」の線形を可能な限り解き明かしたい。さて、ここで紹介したいのが、1910年から1925年にかけて鉱山の調査報告をまとめた資料「鉱物調査報告 第12号 附録図」である。こちらには美利河鑛山について、「後志國美利河鑛山地質圖(縮尺一萬五千分之一)」が紹介されている。次に示す図面は、その要部である。


 上図にカーソルオンすることで、主要なオブジェクトをハイライトするが、その際赤線で表記されているのが「軌道」として示されたものとなる。かなり充実した軌道網という印象を受ける。引用部分の南端に「美利河」という集落名が見られるが、この集落名の記載のあるあたりに、1929年の瀬棚線開業に伴って美利河駅が開設されることとなる。
 この地質図が反映する時代に当該地に選鉱場があったとすれば、各坑口からの軌道が集約される「美利河」集落のあたりだろう。この集落には学校を示す地図記号があり、「利別第三教育所」と記載されているように読めるが、調べた限りでは、当該地にあったのは「第六利別簡易教育所」で、1902年に開所したとされるから、1902年以降の様子を反映していると言える。
 引用図西端に「事務所」と記載がある。地形図や地図に「美利河鑛山」の位置が示される場合、この事務所の所在地において当該表記がされている場合が多い。(例:1935年発行5万分の1地形図「今金」)
 代表的な採鉱所は、元山と新山の2つがあり、元山の場所は、引用図内ピリカベツ川、さらに引用図上に見切れたところから、支流のニセイベツ川に沿って北に遡ったところとなる。一方で新山は事務所から北に利別川本流に沿って遡ったところと、事務所からいったん忠志別(チュウシベツ)川に沿って、西に、次いで北に遡ったところとなる。
 なお、「クム下澤」は、そのように表記されているように読めるので記載したが、この澤の名称は他の資料等では見つけることは出来ていない。

 いずれにしても、この「美利河鑛山地質圖」に示されている軌道群のうち、「美利河」より東側は、太平洋岸の国縫まで続く送鉱軌道、それ以外は坑口から続く坑外軌道ということになるだろう。


 上述の情報に、一部当該地域の周辺状況の様子からの予測を含めて、現在の地理院地図上に、美利河周辺における美利河鑛山軌道の線形を赤ラインで書き込んでみた。
 これもすでに言及しているが、現在では、1991年に竣工した重力式コンクリートダムとロックフィルダムの複合式による多目的ダム「美利河ダム」があり、事務所を始めとする鑛山施設があったであろう場所はすべてピリカ湖に没してしまっている。なお、国縫に向かう分水嶺を越える峠は、かつては「稲穂峠」の名であったが、現在かの地を通過する線形改良された国道230号線においては、「美利河峠」の呼称に置き換わっている。

 さて、それではある程度情報は揃ったと思うので、本章の本来の目的である当時の地形図上への線形の記入を行ってみよう。


 1896年発行の地形図「稲穂峠(現在名称「今金」)」と「黒岩(現在名称「国縫」)」の合図となる。これらの地形図の発行年は、ちょうと美利河鑛山軌道が国縫まで鉄製のレールを敷設し、馬車軌道による搬出を開始した年である。
 ご覧の通り、函館線の前身にあたる太平洋岸を通る北海道鉄道線でさえ未開通であり、というより、地形図だけ見ると、ほぼ人跡未踏に近い周辺状況に思えてしまう。実際、当該地においてはじめて編纂されたこの地形図の精度も、かなりいい加減なものだ。
 しかし、だからこそ、この時代のこの場所に、この規模の鉄道線が存在していたということは、大いに注目すべき史実と言える。


 1896年の地形図では、ほぼ唯一の人工物として、稲穂峠を越える道形が記載されている。これがのちに「仮定県道」、「主要道道長万部東瀬棚線」を経て、国道277号線、そして現在の国道230号線となる元祖のものである。
 とはいえ、当時の道路状況は厳しく、「北桧山町史」によると、「瀬棚・国縫間にはじめて乗合馬車がお目見えしたのは1910年のことである。前年行った仮定県道改修の請願が聴き届けられ馬車の通れる道路になったのであろう。」とある。
 その様な場所に、よくぞ軌道を敷設し送鉱を行ったものだとあらためて感心するが、この道路の改良が、送鉱を馬鉄から馬車へ変更する一因となったことは間違いないだろう。
 左写真は1921年の国縫今金道路の様子である。

 美利河鉱山軌道のおおよその線形の復元については以上となる。
 現在、かの地は上述の通り、巨大なダム建設事業により、大きく地形が改変されててしまっている。軌道自体、100年以上も前に軌条が剥がされたものなので、その痕跡も一切残っていないと考えるのが妥当であろう。
 ただ、それも寂しいので、ダム建設前の周囲の風景を少しご紹介したい。


 上写真は、「美利河ダム写真集」(北海道開発協会編)において「旧美利河別橋附近より下流側を望む 正面坊主山 右側は三角山(現在は展望台)」として紹介されている写真。
 おそらく1980年頃に撮影されたものと思われる。旧美利河別橋はこのあたりで、そこから南に向かってシャッターを切ったものと思われる。かつてあった美利河鑛山軌道は、写真左の道路に近い線形で、「美利河」もしくは「国縫」までつながっていたことになる。


 ちなみに、本件に関して、「ネタ」といえば「ネタ」扱いで良いと思う内容であるが、先に紹介した写真のキャプションにある「旧美利河別橋附近より下流側を望む 正面坊主山 右側は三角山(現在は展望台)」で登場する2つの山の名前が、現地では、すぐには場所(方角)の特定につながらないというレアな事情を軽く説明したい。
 近くに「坊主山」が2つある。以上だ。
 しかも、「坊主山」のみならず「三角山」も悩ましいのである。上で引用した地図には「三角山」もあるのだが、先述のキャプション内にある「三角山」が、現在の地理院地図で近傍に同名で表記されている山を指しているとは思えない。写真とキャプションを合わせ見た限りでは、写真内で(後志)利別川沿いに見える小山のことを言っているように思える。さらに、キャプションでは、この小山を「現在の展望台」と補足説明しているが、これは誤表記ではないのだろうか?
 次の図を見てほしい。


 上図は、セメント工業 (212)に掲載された「ダム地質縦断図」である。美利河ダムは、立地の性格上、長大な堰堤と、それに続く副堤が必要となる大工事であったのが、上図では、その右岸副提に飲み込まれようとする「三角山」の存在が描かれているのである。
 これは、当然のことながら現在の地形図でも美利河地区の西方にある「三角山」とは別の存在だ。なんと、このエリアには「坊主山」×2+「三角山」×2が存在したことになる。なんと紛らわしい!もうちょっと別の名前を付けられなかったのか。。。
 というわけで、その失われた小山「三角山」は、現在の地理院地図では、おそらくこのあたりにあったのだと思う。2025年現在、当該地に、特に「展望台」として供されてる施設はない。ただ、現在ダムサイトの施設の展示物を見ると、北岸の岬状の尾根に展望台がかつてあったようだ。とはいえ、この場所は、位置的に、先の写真の撮影位置からは右手後方になってしまうので、いずれにしても、何らかの情報が間違っているということになる。
 そもそも、前掲写真をよく見ると、キャプションで「三角山」と示された山の手前を、国道の橋梁が通過しているのだから、位置関係からして、「展望台に供された場所」とはまったく異なるのだ。なので、ここでは「三角山(という小山)は、ダム工事によって姿を消した」という説を取ることとしたい。


 今度は同じく「美利河ダム写真集」(北海道開発協会編)から「旧美利河別橋より上流側を望む」として紹介されている写真。写真手前に映っているのが当時の美利河別橋だろう。
 地理院地図で美利河別橋の場所はこのあたり。西を向いている写真であり、かつてあった美利河鑛山軌道は、写真に写っている道路と似た線形で、新山の坑口に向かっていたのだろう。

 と書いたところで、さきほどの一部の資料で「三角山」と表記されている場所について、もう一つ解釈可能な仮説を思いついた(あまり軌道と直接的な関係のないことなので、ここら辺ににしておくけど・・)。百聞は一見に如かずで、こちらをご覧いただきたい。この場合、2つの写真のキャプションに「誤表記」はなく、展望台のくだりとも合致する。この仮説の場合、「三角山」は地理院地図上のここということになる。ただし、その場合の、右岸副提を記載した地質図の解釈は管理人にはわからない。また、右側の写真のキャプションで、「三角山」への言及がなぜなされていないのか腑に落ちないところが残る。
 ちなみに、ダム湖に水没したため、同ポジからの写真は撮影できないが、近くの位置から2025年5月5日に撮影した写真はこちらとなる。比較されたい。


 山の名前問題は、これ以上考えても仕方がないので終了する。

 上はダム工事前、1982年の美利河を撮影した航空写真。写真にある美利河の街並みは、ダム建設にあたり移転となり、現在ではピリカ湖に沈んでいる。
 ダムが好きな人がいて、実際にその人工物の巨大さを目にすると、その気持ちも分かるが、私のような趣味を持っていると、多くの鉄道遺構等を半永久的に失わせる場合が多いので、ダムを「抗えない冷酷な現実」の象徴のように感じることが多い。こういう写真を見ると、いかにダムが役立っているかという話は別として、そういう心情が沸き起こってくる。
 それはされおき、カーソルオンすることで、関連オブジェクトをハイライトする。当時の美利河別橋の位置も改めて示した。また、三角山と呼ばれていたと思われるエリアには、なんだか展望場のようなものが整備されているようにも見える。
 ちょっと遊び心で、この写真に、かつてあった美利河鑛山軌道の線形イメージを書き足してみた。もちろん、精度の高い根拠があるものではないが、おおむねこんな感じだったと思う。なお、ダム湖に没した「美利河別橋」の名称は、引用した資料内の「旧美利河別橋」という表記に対応させたものだが、後述するが、正式名称は「三股橋」であったようだ。

 長万部町内にある函館線の国縫駅(場所)。かつては瀬棚線が分岐していた。そして、函館線の前身である北海道鉄道線がこの地に通じる以前にも、美利河鑛山からの送鉱用軌道がこの駅の所在地付近に敷設されていたことは、上述の通りである。
 撮影は2024年11月16日であるが、この日は早朝に発生した貨物列車の脱線事故により函館線が運休となったこともあり、国縫駅も静かなたたずまいだった。国縫駅の写真を含む以下8枚は、いずれも2024年11月16日に撮影したものである。
 国縫から国道230号線を西進し、渡島半島の分水嶺である美利河峠を越えると、下方に美利河の集落が見えてくる。このあたりから西を向いて撮影したもの。美利河鑛山から国縫に向かうには、最初に峠(当時は稲穂峠)までの登りを越えなくてはならなかった。
 美利河峠の美利河側には、かつて瀬棚線の美利河トンネル(山瀬トンネル)の坑口が残っていたが、2024年現在までに国道230号線の線形改良工事に伴って消失してしまっている。坑口があった附近に「瀬棚線鉄道工事殉難者慰霊碑(場所)」があり、いわゆるタコ部屋と呼ばれる強制労働で亡くなった人たちを弔っている。この碑は瀬棚線が花石駅(場所)まで開業してから50年にあたる1977年に今金町によって建立されたものだが、その10年後の1987年に瀬棚線は廃止され、慰霊碑のみが残ることとなった。  1991年の美利河ダムの竣工により出現したピリカ湖。かつての鉱山町も、この湖底に眠っている。
 美利河ダムの管理棟内には、来訪者が見学できるスペースがあり、写真、模型、資料等が展示してある。上は1976年の航空写真で「美利河ダムができる前」の様子を示すとともに、長大な美利河ダムの堤頂を赤ラインで示してあって、分かりやすい。  「美利河ダムができる前」の航空写真から鉱山事務所があったところをクローズアップしたもの。閉山から15年後ということになるが、関連施設と呼びうるものの跡が残っていたのかどうかは、判別しがたい。
 美利河ダムによって水没した街並みと、ダム竣工後の街並みを比較できる立体地図模型が展示してあった。写真は美利河駅付近。この模型では、水没前の(旧)美利河別橋が「三股橋」と記載されている。すなわち、資料等に記載されている「旧美利河別橋」は、あくまで、現美利河別橋の前身を指す表記であり、橋そのものの当時の名称は「三股橋」だったのだろう。また写真下端にある美利河駅に、おそらく鉱石搬出に供された貨物側線と思われるものも記載されている。  先述の「三角山問題」において、「展望台」という名称が出てくるが、現地では、この模型地図において、「展望台」なるものが存在したことを確認することが出来た。その場所は、ピリカ湖北岸にある尾根の突端であり、となると、やはりこのピリカ湖に突き出た尾根が、かつて「三角山」と呼ばれていた場所なのかもしれない。

 以上、現地「調査」と言えるほどのことは、何もしていないのであるが、美利河鑛山軌道は、廃止が1915年ごろと、110年も前のことであり、かつダム工事によって周囲の地形も大きく改変されてしまっており、何かを探しても見つかる可能性は極めて小さいだろう。

 ここから紹介する4枚の写真は2025年5月5日の訪問時のもの。上は美利河ダム特有の長大な堤体(の一部)をここから眺めた一枚。  美利河別橋(場所)。ピリカ湖に架けられている。この橋と、国道230号線の間に、2025年現在の美利河の集落がある。
 道道836号島牧美利河線のこの場所から、今金町道花見線が分岐している。この花見線の線形が、かつて新山と事務所間に敷設されていた美利河鑛山軌道のものとほぼ合致していると思われる。  今金町道花見線を進んでみた。左で記述した通り、この道路の線形が、美利河鑛山軌道の新山に向かう路線に近いものだと考える。とはいえ、この道を進んでも、何らかの遺構と言えるようなものを見つけることは出来なかった。このあたりはダム工事の影響はさほどなかったと推測するが、いずれにしても、当時からは時間が経過し過ぎている。なお今金町道花見線は、かつての林道を町道化したもので、旧名称は「利別川林道」であったらしい。管理人としては「チュウシベツ川林道」と称した方が相応しいと思うが。
 本項の最後に美利河ダムの建設による周囲の地形や構造物の変化を地形図で示す。上は1972年編集の5万分の1地形図において描かれた美利河地区である。カーソルオンすることで、2025年現在の地理院地図となる。長大な堤体を必要とする地理条件がわかるとともに、道路線形がどのように付け替えられ、集落がどのように移転したかも分かりやすくなると思う。



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その4 江差町の客土軌道と上ノ国森林軌道



 本章の最後で取り上げるのは、江差町の客土軌道と上ノ国森林軌道になる。
 ただ、江差町の客土軌道については、すでに第3章において、線形の記録された資料を閲覧可能な貴重な客土軌道の例として紹介済であり、本章で特に付け加えるべきこともない。今回は、そのその軌道の存在について、再度言及し、現在の地理院地図上にその線形を復元することに留め、その4のメインは、(執筆時現在でも)非常にナゾの残る上ノ国森林軌道となる。
 とりあえず、例によって、左図により、おおよその位置情報を確認いただこう。両軌道とも、檜山地域の南方に位置する。もちろん、両軌道の用途等はまったく別で、単に同じ地域にあったというだけで、まとめさせていただいた。
 

 江差町泊地区(場所)で、厚沢部川流域沖積平地に接する北面大地において行われた軌道客土については、作成年不明ながら下に示す「江差町泊地区道営軌道客土事業計画概要図」が残っている。


 また、これも第3章の繰り返しとなるが、江差町史第11巻 (通説 5)では1961年に「道営軌道客土事業を導入した」と記載されているため、上資料の作成年は不明ながら1961年以前に作成されたものであることは間違いない。
 本章で、特に新しい情報が紹介できるわけではないが、参考に2025年現在の地理院地図上に、当該客土軌道の線形をトレースしてみることとした。


 上図のように、厚沢部川流域の平野の北側の丘陵(場所)が土取場であったようだ。(この土取場の所在地は、江差町史で「小黒部地区大谷地」と記載されている)。
 ちなみに、過去の地形図で当該地を確認してみると、右に示す1920年発行の5万分の1地形図「江差」において示されているように、当該地はずでに地形図上では、何の変哲もない平地であり、地形図における地形の変化から、土取の実施の有無を把握する方法は、限界があるらしい。前節の今金町の客土軌道の絞り込みで、その方法を試してみておいてからそう書くのなんであるが。
 なお、付近の集落である中網や小黒部(おぐろっぺ)を通る殖民軌道俄虫線(予定線線形)の計画があったことは、「北海道概況」挿入地図に記録された線形で記載させていただいた。そのことを知った上で、この軌道客土の線形を見ていると、この地区の軌道客土の線形が、幻に終わった殖民軌道の化身であるかのようにも思えてくる。  
 本項の末尾に、軌道客土後の地形図を紹介する。上図は1973年発行の5万分の1地形図「江差」から当該部分を抜き出したもの。
 軌道客土ど併せて実施された厚沢部川の河道改修により、広大な低平地が良質な水田地帯となった。



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 それでは、本章最後のテーマ「上ノ国森林軌道」となる。
 前もって書いておくと、これは非常に扱いにくいテーマである。というのも、状況証拠も含めた資料等がいかにも乏しいからだ。もちろん、この軌道の線形を記載した地形図はない。また、地形図以外のものを含めても、線形の一部でも記した資料を2025年現在、見つけることは出来ていない。
 私は、当初、あまりの資料の乏しさから、当該軌道が実際に運用された実績があったのかどうかさえ疑わしいと考えていた。ただ、軌道自体が存在し、運用実績もあったことまでは、今回の検討を通じて、資料で確認できたので、それに基づいて考察していくこととなる。ただ、それにしても不明のところが多いので、あくまで現時点で分かったこと、あるいは推定可能なことについて、まとめるという前提で書き進めたいと思う。


 左図は、北海道の殖民軌道と森林鉄道で紹介した北海道内の森林鉄道の位置図から南西部を切り出したものだ。
 第1章で取り上げた「常呂森林軌道」と同様に、謎めく存在が「44」とナンバリングされた「石崎(漁港)」を起点とする線形だ。これが「上ノ国森林軌道」であり、河野哲也氏がまとめた資料「北海道の森林鉄道,殖民軌道」によると、運用期間は1943年から1953年、路線長は最長時(1947年時点)で16.1kmとある。
 わずか1.5kmの全長距離であった「常呂森林軌道」に比べて、はるかにまともな距離長である。ただ、常呂森林鉄道が国有林の集材・運材を目的としたのに比し、上ノ国森林軌道は道有林の集材・運材を目的としている。北海道内で、北海道庁が敷設し、道有林を事業対象とした森林軌道は、「美深森林鉄道」と「上ノ国森林軌道」の2つだけであり、そのような点で、これらの軌道は、国が管轄する営林局等が事業成績等をまとめた各種年報の対象とはなっていない。
 道有林を対象とした森林軌道自体がレアなのであるが、左図を見ると「上ノ国森林軌道」の地理的隔絶性(他の北海道内の森林鉄道から大きく離れた場所に存在する)も際立っているといえる。渡島半島を中心とする北海道南西部では、唯一の森林鉄道と言って良いだろう。

 様々な属性において「レア」な存在と言える「上ノ国森林軌道」であるが、その存在は深いヴェールに覆われている。まず、確実に上ノ国森林軌道を撮影したものと言える写真的な記録は、管理人が探した限りでは、ひとつも見つけることが出来ていない。
 同じように北海道庁が道有林のために敷設した美深森林鉄道の場合、いろいろと写真資料を見つけることが出来る。左はその一つで、1962年に刊行された図書「少年少女地理 日本の国土 7」において紹介されているものだ。
 もっとも、美深森林鉄道の場合、まず殖民軌道として1935年に敷設されたのち、所管替えにより1942年から1956年まで森林鉄道となり、その後再び簡易軌道仁宇布線として1963年まで軌道が残り、さらには当該線形をほぼ引き継ぐ形で国鉄美幸線(1964-1985)が運用されたので、当該地において連綿と鉄道文化が引き継がれていた。その点で、単発的と思える上ノ国と大いに違う。
 ところで、「上ノ国」にも江差線があったではないか、という指摘があるかもしれない、確かに石崎は上ノ国町に属する集落だ。この点に関連して、「石崎」という場所の地理的背景について、ここで、ある程度掘り下げておく必要があるだろう。
 というわけでいきなり大きな地図に登場いただいた。この地図には、後で言及することになる鉱山の位置なども書き込んである。この地図に掲載されているものは、すべてが同じ時期に稼働していたというわけではない。とりあえず、江差線については。全線の開業が1936年、地図に掲載した区間である木古内-江差間が廃止されたのが2014年になる。
 まず、着目いただきたいのは、547.6 km2という広大な面積を持つ「上ノ国町」域と「上ノ国駅(場所)」の位置関係であるが、駅と役場のある集落は、上ノ国町域の北端側、江差町との境界付近にあるのであって、石崎は、江差線上ノ国駅から、日本海岸に沿って21kmも南下した先にある。
 駅や町の中心からの地理的な隔絶を感じさせるところであるが、一方で、石崎を含めたこれらの地域は、北海道の中では、相当早くから本州以南の文化、政治の影響が及んだエリアであった。戦国時代以前から、現在の秋田県を拠点とする安東氏の勢力下にあって、石崎の地にも「比石(ひいし)館(館があった場所)」が築かれていた。
 とはいえ、当時のかの地への交通は、大部分が海運であったと考えられる。
 上地図において、石崎川の河口に開けた町がその「石崎」であり、「石崎」から石崎川を遡っていたのが「上ノ国森林軌道」である。上地図には、石崎川流域の山岳も記載させていただいたが、かの地の海岸部に平野は少なく、陸地になるやいなや、直ちに深い山岳地帯が立ち上がっている状況を類推いただけるかと思う。かろうじて、いくつかの川の河口に、集落が形成されていった。

 左は1920年発行の5万分の1地形図「上ノ国」に描かれた石崎周辺の様子だ。
 石崎への道は、どれも徒歩道であり、それも相当に険しい道のりであることが容易に想像される。
 石崎川には、ひとつポツンと橋が架かっている。その橋から、石崎川の両岸をたどる道がそれぞれ描かれているが、どちらも「たよりなさげ」だ。右岸(北岸)の道は、何度も本流の徒渉を強いられるし、左岸(南岸)の道は川に突き出している尾根を越えなくてはならない。その先、ふたつの道はひとつに合わさって、川沿いを遡っていく。
 とても、戦国時代以前から館が築かれていた町とは思えない環境だ。
 なお、上ノ国-石崎間道路が「準地方費道」として竣工するのは1922年のことであり、左の地図はその直前の様子を反映したものと言える。

 1922年に道路が通じるとは言え、石崎の立地性は陸上交通の不安定さを感じさせるもので、森林軌道の基地が建設される適地とは言い難く思える。
 そのようなわけだから、資料の乏しさとあいまって、当初、管理人はこの森林軌道が実在しなかった可能性も考慮せざるをえなかった。
 例えば、「北海道概況」挿入地図に記録された線形で紹介したように、1930年代に北海道廳がまとめた開発予定を含めた現況地図において、1931年1934年1939年のいずれにおいても、当該地に森林軌道の計画線の記載はない(美深森林鉄道については既成殖民軌道として表記あり)。重ねて書いておくが、上ノ国森林軌道は北海道廰が道有林に敷設した軌道であるにもかかわらず、である。


 上は、北海道林務部林政課が1951年にまとめた1948年度と49年度を対象とした「北海道林業統計」にある「林道網延長」の表である。道有林にある「森林鐵道 34km」は美深森林鉄道(路線図)の全長距離とほぼ一致する。ということは、この資料に於いても上ノ国森林軌道(1943-1953)は、「ない」ことになってしまっている。

 というわけで、いかにも存在の証明が難しいようなもったいぶった言い回しでここまで来ているのだが、実は、その存在について言及した資料については、比較的検討の早い段階で知ることが出来ていた。それは、1956年に刊行された「道有林五十年史」という書籍である。同じ北海道が刊行した前述の「北海道林業統計(1951)」では、完全にスルーされていた上ノ国森林軌道について、この書籍には記述がある。次に紹介するものがそれである。

 昭和18年(1943年)上ノ国事業区上ノ国村字石崎市街から同村中外まで敷設の中外鉱業株式会社石崎鉱業所所有の鉱山軌道6kmを買収し、檜山営林区署松前営林作業所および中外鉱業ならびに地元木材業者で「軌道運行組合」を結成。本軌道を運行することになり、上ノ国事業区生産財に対する輸送は勿論、鉱石、民貨の輸送にもあたってきた。なおその運営のうち、作業所は軌道の改修新設など主要業務を担当、奥地林開発のため、昭和20年(1945年)から3か年にわたり軌道10,059mを新設、総延長16kmをもって上ノ国事業区開発のため、おおいに貢献したが、昭和26年(1951年)対岸に町村道の開設をみ、続いて省営トラックの運行をみたので、昭和28年(1953年)本軌道を全面的に撤去、ここに輸送事業は終止符をうったのである。

 おそらく、北海道の殖民軌道と森林鉄道で示した表の原典とした河野哲也氏の資料「北海道の森林鉄道,殖民軌道」が一次資料としたものが、この「道有林五十年史」の情報であると思われる。

 さて、同書では、林務署ごとに事業内容を記載した箇所か別にあって、【松前林務署】のところでも、この軌道に関する記述がある。その内容を以下に転載する。

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 昭和6年(1931年)車馬道1,840mの開設がこの署の林道施設の始まりである。爾来車馬道・トラック道・軌道と、各種事業実行上の必要に応じ逐次開設され、昭和29年(1954年)には車馬道27,331m、トラック道37,617mを有するに至っている。
 林道新設延長(軌道)
 昭和20(1945)年 3,300m
 昭和21(1946)年 5,359m
 昭和22(1947)年 1,400m
 しかし大千軒山麓1万2千町歩、7百余万石の未利用資源の開発は、今後にまたなければならない状況であって、しかもこの資源は、振興途上にある本道のパルプ、合板、木工・家具等の諸工業との関連において重要であるので、これに応える林道網の整備は急を要するものがある。
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 以上の情報から上ノ国森林軌道に関して明らかとなった情報ををまとめてみよう。
 ・1943年時点で既存の中外鉱業株式会社石崎鉱業所所有の鉱山軌道6kmを買収したのが発足
 ・1945~47年にかけて当該軌道を延伸し、全長は16kmに達した
 ・1951年、対岸(右岸)に町村道が開設され、省営トラックの運行が開始
 ・1953年、軌道を廃止
 「省営トラック」や、町村道と軌道の位置関係については、後述したい。

 ところで、すでに大いにお気づきのところと思うが、かの地での「鉱業」が勃興した経緯が、上ノ国森林軌道と深い関わりのあるものとなっている。この地は、美利河鑛山と同様に、マンガンの採掘が活発に行われた歴史を持つのである。石崎川流域は、日本を代表する良質なマンガン鉱山が存在した。その歴史については、1962年に編纂された「続・上ノ国村史」の記述によくまとめられているので、情報を付加しながらそれを紹介することとしたい。間接的に軌道に関する事柄も登場する。

 
以下「続・上ノ国村史」の記述から

 千軒嶽に源する石崎川の砂金は早くに採金され、川の上流には古い時代の採金の跡が残っており、中外鉱山入り口の焙焼炉の近くにたがね堀坑道がある。金鉱採取の坑道であるという。
 砂金の採取は明治(1868~)になってからも行なわれ、多くの人が入りこんで鉱区を設定した。鉱区一覧に、明治43年(1910年)32匁、大正元年(1912年)73匁、2年(1913年)91匁、3年(1914年)46匁、4年(1915年)377.46匁、11年(1922年)103匁、昭和7年(1932年)10g、8年(1933年)986gの産額が記されている。
 石崎川の上流、黄金の滝(場所)の側の断崕を掘って水の流れをかえ、8貫800匁の伝説の金を求めて滝壺を干し話題をよんだのは昭和初年(1926年)のことであった。千軒嶽につづく、山高く、流れの早い石崎川の地域には早くから探鉱者が入りこみ石崎の人々の関心をひいた。
 函館市弁天町の小笠原金次郎らは、石崎に入って探鉱し、明治43年(1910年)根富(ねぶ)沢の金、銀、銅の試掘鉱区(833,289坪)を登録した。石崎鉱山と名付け、根富沢(場所)に事務所を置き、鉱夫長屋を建てて採掘を始めた。今の中外地区よりさらに奥であるが、鉱石は駄馬によって石崎まで搬出した。大正6年(1917年)東京麹町の三菱鉱業が買収して経営したがほどなく閉鎖した。

 1945年発行5万分の1地形図「上ノ国」から「石崎鉱山」の位置
 横を流れるのが文献中で「根富沢」と表記された沢であろう。

 奥尻の早瀬常治が石崎に入り、ガマの沢(場所)の金、銀、銅の鉱区を登録したのは大正3年(1914年)9月でさらに新鉱区を設定し、早川鉱山(場所)と名付けて盛んに開発した。石崎の人たちが出働してガマの沢までの道路を開いた。鉱石や物資輸送に石崎の池田、吉田その他の人々が5頭、7頭の駄馬を引いて当った。私立の小学校が建てられ大正8年(1919年)には戸数14、人口83人を数えたが欧州大戦の終了とともに鉱山はやめになった。
 第一次大戦の鉱山ブームにこの地区の探鉱が一そう盛んになっていたことは、試掘鉱区が大正2年(1913年)の「8」から年とともに多くなり、10年(1921年)に「20」に達したことでも知られるが、翌年からまた減った。金、銀、銅、鉛、亜鉛が主で、大正7年(1918年)早瀬常治たちがマンガン鉱区を設定しているのが僅かに異色を放っている。
 大正末年から昭和初年(1926年)への不況時代を経て、満州事変に始まる第二次大戦への進展は、わが国鉱業の最盛期を現出したが、鉄道の開通(江差線全通;1936年)とともに上ノ国村の探鉱は再び活況を呈し、試掘鉱区は昭和11年(1936年)15鉱区、12年(1937年)19、14年(1939年)42と逐年増加し、16年(1941年)95、17年(1942年)には102を数えた。探鉱にははじめ函館の人が多かったが、後には、札幌、東京、大阪など各地から入りこみ、地元石崎の工藤久治らも鉱区を持った。函館の医師室本吉太郎が工藤久治発見の金、銀、銅、亜鉛鉛の丸山鉱山を持ち、石崎川添い鉱石を搬出したのは鉄道開通前のことであった。室本は戦後村医として石崎に入り、かたわらその探鉱を続けたが丸山鉱山はついに陽の目を見るにいたらなかった。

 1945年発行5万分の1地形図「大千軒岳」から「早川鉱山」の位置
 

 当時探鉱者の目当としたものは、金、銀、銅などで、マンガンは海外からの輸入に仰ぎ、国内ものは品質が劣るとして顧みるものがなかったが、第二次大戦で輸入が意に任せなくなるにつれ、重要資源として世の注目を集めるようになった。
 上ノ国村のマンガンについては、道庁勧業年報鉱業試掘認可表(1893年)に「上ノ國厚志内沢、マンガン、240,000坪、中野忠平、1893年11月8日認可」と記してある。
 今井作治が石崎地区に入り探鉱に従った時、案内をつとめた石崎の佐藤新治が昭和6年(1931年)発見のマンガン鉱区を示した。これが14年(1939年)に登録した今井の鉱区で、わが国初めての優良マンガン鉱、二酸化マンガンであった。今井はただちに露天掘りによって開発に着手した。今井石崎鉱山(場所 1987年閉鉱)がこれである。


 「上ノ国村史」から今井石崎鉱山
 

 石崎の福原延吉らも新鉱区を発見し14年(1939年)5月に登録したが、7月これを札幌の八田満次郎に譲渡した。炭酸マンガンで、量産日本一の中外上ノ国鉱山の前身八田鉱山(場所)が創業した。昭和10年(1935年)姫野近喜が設定していた金、銀、銅、鉛、亜鉛の鉱区も同系のマンガン山であったので、八田はこれを合わせるなど、今井、八田は盛んに採鉱して新鉱区を設定し、事業を拡張した。
 石崎から5kmの地、それからさらに4kmの標高100mの地に、それぞれ八田、今井の鉱山事務所が建ち続々と住宅が建てられ、施設が増していった。石崎川の左岸沿いに軌道が敷設され、マンガンの叺(かます)を積んだトロッコを連ねて馬が走った。鉱山に往来する人々は鉱石の叺に便乗したが、時々車が軌道から脱線してころげ落ちたりした。上ノ国駅から石崎までの道は、雪に閉ざされてバスも通わず、僅かに数人の客を乗せる幌馬橇が日に一往復したが、多くの人は徒歩で通行した。
 時局の要請に、品質日本一の今井のマンガン開発は急であったし、八田鉱山も同様であったが、18年(1943年)には中外鉱業に引継がれて、埋蔵量無尽といよいよ発展の足取りをを早くし、同年早川小学校の分校が設立された。(今の若葉小中学校(場所;1987年閉校))

 「道有林」から中外(八田)鉱山
 

 ここで、「軌道」に関する記述が登場する。別の資料により、1943年に中外鉱山の鉱山軌道を、上ノ国森林軌道に転用したことは紹介済であるが、その前身である鉱山軌道の敷設年は明らかになってはいなかった。
 村史においても、明瞭に示されているわけではないが、どうやら1939年7月以降、八田満次郎が鉱山事業の実施主となり、事業を発展させていったちょうどその時期を考えるのが妥当だろう。また、軌道は「石崎川左岸(南岸)」に敷設され、後に開通する道路は、その対岸である「右岸(北岸)」に開削されたことも明らかとなった。いずれも重要な情報だ。それでは、引き続き「続・上ノ国村史」を読み進めてみよう。

 

 昭和18年(1943年)、上ノ国石崎間国道の大改修が行われたが、同年3月国鉄上ノ国自動車営業所が上ノ国駅前に開設され、石崎川橋のほとりに設けられた貯鉱場まで、木炭をたいて国鉄トラックが運行し、鉱石は上ノ国駅から貨車に積まれた。(薪をたいて走る車は26年(1951年)にいたって姿を消した)雪はたちまち道を埋めて数尺を越えたが、沿道の村人は、質量日本一の鉱石を時局に役立たせなければならないと、意欲的に連日出働して除雪に励んだ。ことごとく勤労奉仕であった。
 マンガンの生産は、18年(1943年)道内稼行30鉱山精鉱13万トンで、全国の19%、19年(1944年)は17万5千トンに達し全国生産の半ばに達したが、中外、今井の生産はつねにその首位にあった。
 大戦が終わってマンガン鉱業もしばらく停滞した。戦時中石崎と二股でベニヤ工場は、閉鎖してついにたたなかったが、両鉱山は23年(1948年)ころから次第に復興し、朝鮮動乱を機とする鉄鋼業界の復興とともに、再び活況を取り戻して躍進した。
 戦後、いち早くこの鉱山地区に動力線がひかれて電化し、上ノ国村の海岸諸部落にさきがけて住宅街に電灯がともった。石崎川の右岸添いに新道が築設され、国鉄トラックは26年(1951年)8月、今井鉱山の山元まで運行するようになり、やがて函館バスも、今井までのびて往復回数を増した。石崎川の急流は、軌道時代の路線はもとより、新道や中外橋をさえしばしば押し流し、欠潰させたが、次第に補強され、36年(1961年)秋中外鉱山入口に永久橋が竣工した。マンガンの積出しが主因となって江差港が拡張されているが、国鉄トラックが盛んに往復して、港頭にマンガンの山をなして船積されている。

 「国鉄北海道自動車五十年史」から
 上ノ国駅中継作業(マンガン鉱の貨車積)1960年撮影  
 「国鉄北海道自動車五十年史」から
 中外鉱山マンガン積込作業 1947年撮影 
 「国鉄北海道自動車五十年史」から
 江差港マンガン船積(夏季)1955年撮影  

 様々に情報に肉付きが出てきた。
 1943年、すなわち、軌道が、「中外鉱山軌道」→「上ノ国森林軌道」へと経営主体を変化させた年は、上ノ国石崎間の国道が改修された年でもあった。
 また、この年は、国鉄上ノ国自動車営業所が開設され、国鉄トラック(省営トラック)が上ノ国と石崎の間で運行されるようになった年でもある。
 これらの整備に伴って、マンガンは、国鉄トラック(省営トラック)を経由して、上ノ国駅と江差港の2か所からの搬出ルートを確保したのである。逆に言うと、それまでは石崎港からの搬出であったと思われるが、おそらく港の規模等の諸条件により、江差港を利用した方が有利であったと考えられる。

 2点、補足しておこう。一つは「国鉄トラック(省営トラック)」についてである。
 その存在は先に引用した「道有林五十年史」でも言及されていたが、終戦の混乱から、国家再建のため、鉄道省が所有していた自動車について、戦時の変則的な運営を改め、以下の方針により運用することとなった。
1) 戦時中の旅客抑制策緩和に努め、従来の貨物中心の輸送体制を客貨両立の輸送体制に転換する
2) 貨物輸送は復旧・復興資材及び食料、薪炭等生活必要物資の輸送に重点をおく
3) 原産地輸送を検討し、一般路線か、あるいは一部路線を休止する
 その結果、北海道では札樽線苗穂~手宮間44キロが、1947年5月1日運行を再開するなど、運休中の旅客路線26線431キロの半数の16線212キロが復活運行することになる。さらに産業開発、民生安定に資するため元軍用トラック1,000両(上で紹介した写真に写っているもの)の配分をうけ、1946年3月「国営自動車機動班運営」が告示されることとなる。全国で34カ所の機動運営担当自動車区が指定され、北海道では札幌自動車区がふくまれることとなる。
 上ノ国では、戦時中からマンガン輸送を目的として、上ノ国自動車区(対象地区;上ノ国、汐吹、木ノ子、石崎、対象路線;上ノ国~石崎線 21km)が1943年に開設されている。いかにマンガンが重要な資源であったかを物語っているが、この省営トラック(国鉄トラック)によるマンガン輸送は、終戦を挟んで運用の方針が変更された以後も継続され、戦後は払い下げられた軍用トラックが活躍することとなる。この国鉄トラックによるマンガン輸送は1965年まで続くこととなる。戦時下においても、復興期においても、マンガンが重要であったためだ。
 もう1点の補足は、当該地の海岸沿いの道路区分である。「続・上ノ国村史」には、1943年に「上ノ国石崎間国道の大改修」と記述されているが、当時まだ当該道路は国道として指定されていない。簡単に略歴を書いておくと、以下の通りとなる。
・1922年 上ノ国・石崎間道路が「準地方費道」として竣工
・1935年 上ノ国・石崎間を含む道路が、地方費道33号「江差福山線」として認定
・1945年 路線名を「江差松前線」に変更
・1953年 二級国道228号線指定
 そのため、村史にある大改修が行われた時点(1943年)においては、あくまで対象は「国道」ではなく「地方費道」となる。

それでは、さらに「続・上ノ国村史」を読み進めてみよう。   
 

 昭和27年(1952年)両鉱山の排液のことについて石崎漁民との間に紛争を生じた。
 ~鉱害範囲は磯65.2ha、砂地14.8haの合計80haであって、上ノ国全海区域の9.7%に相当する。障害水族はコンブ、ワカメ、アマノリ、テングサ、ギンナン草の5海藻とアワビ及びコナゴ、ヒラメである。この損害高は昭和27年(1952年)が16,394貫、恢復期までの損害高が11,377.5貫であって、さらに昭和16年(1941年)より20年(1945年)まで過去11カ年の損害高が129,184貫の総計156,955.5貫に達する。本年中にこれが防除策を講じない場合は、毎t機1,366貫余の損害が自動的に加算される事となる。~
 かくて沈澱池が作られ、ズリ捨場の施設など戦時の応急施設は本格的なものに改良された。
 粉鉱その他的品位の鉱石は空しく棄てられていたが、浮遊選鉱法を用いていた今井鉱山は、30年(1955年)ロータリー・キルンを施設してその焼結に成功し、中外上國鉱業所が、33年(1958年)新設をはじめた浮遊選鉱焼結炉(トンネルキルン)(場所)は35年(1960年)に完工しそれぞれ成績をあげている。
 これらの精鉱は、富士鉄室蘭製鋼所や、東北、北陸をはじめとする道外のフェロマンガン用として、あるいは製鋼用として使用されている。今、中外、今井の生産額は全国の40%を占めている。(33年(1958年)全道11鉱山13万8,589トンのうち、中外上ノ国、今井、八雲、大江、稲倉石五山がその95%をしめ、今井、中外上国の両山の生産量は全国第1位)。
 新築の若葉小中学校をはじめ、諸種の施設がなされ、未開発の大千軒地帯唯一の人文景観となり、村内一の文化部落を形成している。

 「鉱山写真帳」(1957)から
 中外鉱山上国鉱業所の焙焼炉(焼結炉)  

 以上で「続・上ノ国村史」からの引用(長かったですね・・すいません)を終えるが、当地のマンガン鉱と、その輸送に関することが一通り把握できたと思う。
 1939年ごろに敷設された軌道は馬鉄軌道であり、1943年になると「上ノ国森林軌道」として、林材、鉱石の双方の搬出に供された。林材搬出の目的としては、延伸も行なわれた。
 しかし、1949年には軌道の対岸(北岸)に石崎と中外を結ぶ早川道路が開削され、鉱石の輸送が省営(国鉄)トラックに置き換わっていくにつれ、その用途は減少し、1953年に廃止となったと思われる。
 また、この軌道に関連する記述として、「石崎川の急流は、軌道時代の路線はもとより、新道や中外橋をさえしばしば押し流し、欠潰させた」とある通り、軌道による輸送は、安定したものとまでは行かない、それくらい、この軌道は簡易な規格のものだったと思われる。


 ここからは本題である線形の解明である。
 幸い、石崎漁港から中外にかけては、軌道が運用されていた当時にあたる1948年に撮影された航空写真が閲覧可能だ。左がその航空写真となる。この航空写真から、上ノ国森林軌道の線形を探してみよう。
 「続・上ノ国村史」の記述等から、石崎~中外の送鉱は、1939年ころから石崎川左岸の軌道によっており、その対岸である右岸に1949年、早川道路が開通することになる。撮影時、早川道路は「建設中」ということになるが、両者とも、くっきりと線形が描かれており、上ノ国森林軌道も、石崎漁港側の「起点」がはっきりしないとは言え、ほぼ特定することが出来る。
 また、はっきりしない起点についても、続・上ノ国村史の記述に「石崎川橋のほとりに設けられた貯鉱場」とあることから、少なくとも地方費道江差松前線が石崎川を橋梁で越す地点より山側ということはないだろう。林材の搬出に石崎漁港を利用したであろうから、港湾まで伸びていたと考える。
 ちなみに、左の航空写真(カーソルオン時)において、石崎漁港の港湾を着色表示してあるが、これを見ると「港湾ではなく、内陸部にあった貯木用の人工池も着色表示されているのではないか?」と思われてしまうところだが、この港、実は、非常に面白い特徴を持っている。
 脱線になるかもしれないが、石崎漁港の特徴について、簡単にまとめておきたい。  

 左が2025年現在の地理院地図上で示されている石崎漁港だ。上の航空写真で貯木池のように見えたところが、ちゃんと海と連絡していて、いかにも自然地形を活かした良港、という感じであるが、昔からこのような姿であったわけではない。
 この漁港の最大の特徴は、赤丸で囲んだ部分にある。海に突き出た尾根の両脇にある地図記号はいったい何か?
 これが、漁船専用として使用された「隧道」なのである。

 石崎漁港の「漁船トンネル」には、驚くほど長い歴史があって、起工は1932年9月、竣工は1934年6月となっている。だから、中外鉱山が稼働しはじめたころは、すでに港湾施設としての漁船専用トンネルは完成し、利用されていたのである。
 上は石崎漁港の漁船トンネルを外海側からみたところ。撮影年は不詳であるが、1960年代に撮影されたものと推定する。
 写真からも檜山海岸の急峻な地形の様子は良く伝わってくる。また、それゆえに、特殊な地形を活かした漁船トンネルが、当該地において有効な手段であったことも良く分かる。とはいえ、なかなか見事な発想である。
 上は陸地側の上空から俯瞰した石崎漁港と漁船トンネルの姿。全体像がよくわかる1枚だ。その奥に石崎川の河口が見える。こうしてみると、上ノ国森林軌道の前身である中外鉱山軌道が、1939年頃に軌道を敷設した際、「石崎川の左岸(南岸)」を敷設場所に選択したのは、1934年に漁船トンネルまで竣工していた石崎漁港への連絡を考慮してのものであっただろう。加えて、「石崎川の右岸(北岸)」に軌道を敷設した場合、どこかで一度、石崎川を渡河しなくてはならなくなる。
 ちなみに、先に紹介した戦国時代以前からこの地にあったという館(「比石(ひいし)館」)が築かれていたのは、漁港に突き出た尾根の上の先、すなわち漁船トンネルの上あたりになる。


 1948年の航空写真から、中外地区までの区間をご覧いただこう。
 石崎漁港側から連続している上ノ国森林軌道と早川道路の線形を確認することが出来る。ただ、軌道の線形については、撮影時現役線であるにもかかわらず、途中の川に突き出した尾根のところで、線形を追跡できなくなってしまう。
 管理人は最初、この写真をみたとき、「ひょっとして隧道があったのか?」と思ったのだが、それを示すような資料はない。軌道の規格、馬鉄といった条件を考えると、隧道ではなく、川に沿って尾根を巻いていたと考えるのが自然であろう。
 この点について、何か間接的にでも手掛かりになる資料はないかと探していたのだが、なんと、中外鉱山軌道に「乗った」人の記述を見つけることができた。鉱業之日本社が1942年に出版した「鉱業之日本 13(11)」にそれはあった。そこには「八田上國鑛山視察記」という記事があり、記者(執筆者の氏名は不詳)は鉱山を訪問する過程で、この軌道を利用している。以下、引用である。  

 『記者は北海道鑛業事情視察の第一歩として最近滿俺四大鑛山の一としてその名を謳われるに至つた渡島國檜山郡上ノ國所在の八田上國鑛山を視察することにして九月二十一日檜山郡の首邑江差町より乗合自動車の便を得て海岸線に沿ふ國道を南下し上ノ國を經て約一時間半石崎に達した。
 八田上國鑛山へはここ石崎港より馬鐵に便乗して石崎川よりその第一支流小砂子川の澤に沿ふて遡ること四十五分約六粁此の間は殆ど平坦であり、稍上流に位する今井石崎鑛山でも此の軌道を利用してゐる。
 本鑛床は上ノ國村の南端に位置し松前郡との郡界に近く小砂子川の中流に當つてゐる。採掘鑛區と五十有餘に及ぶ試掘鑛區は大體に石崎川の流域を主としてゐるが一部は黄金山、毛無山を越えて大千軒岳に及んでゐる。大千軒滿俺鑛山は九月末帝國鑛發に買収され、同時の損失補償委託鑛山となつた近傍豊國鑛山と共に福山鑛山に吸合されることになつたもので、いづれも八田上國鑛山の南部に近接してゐる。』


 非常に貴重な記録である。なお、「國道を南下」とあるのは、当時は「地方費道 江差福山線」であったはずである。ただし、続・上ノ国村史でも「(1943年)上ノ国石崎間国道の大改修が行われ」と表記があり、管理人は、「続・上ノ国村史」が編纂された時点で国道であったことからそう表記したのだろうと推測していたが、このたびの「鉱業之日本 13(11)(1942)」においてまで「国道」と表記されているからには、しかるべき理由があるのかもしれない。ただ、管理人の研究対象は道路ではないので、そのあたりはこれ以上深堀りしていない。
 管理人が注目したい情報は以下である。
 1) 第一支流小砂子川の澤に沿ふて遡ること四十五分約六粁 → 当時の馬鉄線は石崎漁港ー中外の約5kmのあと、小砂子川に沿って約1km南進する線形をしていたと思われる。
 2) 此の間は殆ど平坦であり → トンネルがあれば、その旨記述していたであろう。少なくとも「此の間は殆ど平坦」という記述にはならなかったと思われる。
 1948年の航空写真においては、「中外」から明確に方向を転じて南進するような線形を管理人は見つけられなかったが、単に写真の精度の問題なのかもしれない。一方で、「上ノ国森林軌道」は、航空写真が撮影された1948年の前年まで延伸が行われ、総延長は16kmに達していたとされる。この延長は、小砂子川に沿う経路では、距離長という点であきらかにスペックオーバーしてしまうから、石崎川沿いに中外を直進していたに違いないのである。それで、上写真においても、直進する線形を選択し、「上ノ国森林鉄道」の線形として選ぶこととした。

 そうなると、その1945~47年にかけて延伸された結果、全長16kmとなった「上ノ国森林軌道」の末端がいったいどこであったのか?が気になるところであるが、これは、別の資料からなんとなく「推定」することしかできなかった。それを次に紹介したい。


 というわけで、上に紹介した図は、「北海道地下資源調査資料 (30)(1957)」に掲載されていた「今井石崎・上國両マンガン鉱山およびその東部地域の地質図」である。重視したのは資料が編纂された「年」で、1957年というのが、上ノ国森林軌道が廃止された1953年の4年後にあたる。
 松前林務署は年数不明ながら「石崎右股林道」を整備しており、場所的に「上ノ国森林軌道」の代替設備と考えられる。この林道が、上図では、石崎右股川に沿って「末端」を伴う形で表記されており、これがほぼ上ノ国森林軌道の線形をトレースしたものであるはず、と考えた。


 左写真は「道有林(1956)」に「石崎右股林道」として掲載されている写真。険阻な地形であることが伝わってくる。「道有林」が刊行された年は、「上ノ国森林軌道」が廃止された1953年から3年後のことである。
 当該書籍において、この写真が「石崎右股林道」であること以外、特段の説明はなされていないが、おそらく当時の直近の林道敷設実績として、上ノ国森林軌道跡を林道化したものであるところの「石崎右股林道」を、書籍への掲載が適切な事業実績例とし、竣工後の様子を記録した写真を掲載したのではないだろうか。

 以上の総括として本章の目的である当時の地形図上への上ノ国森林軌道の線形の書き込みを行った。
 1945年発行5万分の1地形図「上ノ国」においては、石崎川左岸(南岸)に、道の線形があって、1948年の航空写真の情報とも一致していることから、ほぼこれが軌道の線形とみなして、間違いないだろう。
 川に突き出した尾根の部分は、河原を回り込んでいたに違いない。続・上ノ国村史に記載された「石崎川の急流は、軌道時代の路線はもとより、新道や中外橋をさえしばしば押し流し、欠潰させた」の文言に相応しい軌道跡だと思う。
 この軌道跡の通りだとすると、石崎漁港~中外の間は、約5.4kmの距離となる。


 次に末端側であるが、この部分は、1946年発行5万分の1地形図「大千軒嶽」上への書き込みとなる。
 「北海道地下資源調査資料 (30)(1957)」に示された林道の線形がそのまま軌道跡だとすると、右股と左股に分かれた石崎川のうち、右股川の右岸(東岸)を通り、早川鑛山の横を過ぎ、石崎漁港からほぼ12.1kmの地点が終点となる。
 ただし、上ノ国森林軌道は、資料上では、最大時(1947年)の延長は16.1kmとなっており、今回記載した線形だけでは、4kmほど不足する。これについては、ちょっと仮説をたててみた。


 左が仮説込みの「上ノ国森林軌道 路線図」である。①の本線が12kmあったとして、「鉱業之日本 13(11)(1942)」の「八田上國鑛山視察記」によれば、途中で小砂子川に沿って中外鉱山事務所に向かう1kmほどの支線(②)があったことは確実である。
 さらに、➂のように左股川に沿う支線があったか、もしくは④のように、本線がさらに延伸していたかのどちらか(あるいは双方の合計)によって、総延長が16kmに達していたのではないだろうか。
 もちろん、これは現時点での仮説であり、今後も資料収集に努めたいところではある。

 欲しいけれどどうしても見つからないものの一つに上ノ国森林軌道の「写真」がある。
 左の写真は可能性は薄いと思うのだが、1962年に刊行された「少年少女地理 日本の国土 7」という書籍において、「道南の山林からトロッコで原木をはこびだすところ」として紹介されている写真である。
 この書籍では、別の場所で、北海道の森林鉄道を紹介する際に「美深森林鉄道」の写真を紹介している。多くの国有林の森林鉄道が現役である時代であったにもかかわらず、上ノ国以外では、もう一つしかないところの「北海道所管」の美深の写真を使用しているのだ。
 しかも、他に森林鉄道が運用された実績のない「道南」という地域で、左手に谷をみながら運材しているこの写真を見ていると、「ひょっとして上ノ国?」と思う所もあるのだけれど、いかんせん1953年に廃止になっている上ノ国森林軌道の写真を、1962年発行の書籍で掲載しないようにも思う。というわけで、「撮影場所不明の写真」としか言いようがない。
 ここからは上ノ国森林軌道跡周辺の風景をご紹介したい。以下の写真は、すべて2024年11月14日に撮影したものだ。最初に断っておくと、「軌道跡」を思わせるものは何一つ見いだせなかった。11月の北海道の黄昏時だったので、光の加減からも探索に不向きな時間であり、それほど踏み込んで調べていないのだが、おそらく、河原に敷かれた軌道跡は、度重なる増水により、原型をとどめていないだろうし、道路化された場所は、ほかならぬその道路によって、軌道跡が塗りつぶされてしまっている。
 最初の写真はこのあたりから撮影した石崎漁港の風景である。港の反対側には石崎の街並みが広がり、そのすぐ奥に標高450mの楢ノ木山めがけて急な尾根が立ち上がっている。平野部の少ないこの地域ならではの美しい風景だ。
 石崎漁港の岸壁を進んでいくと、この港の象徴であった「漁船トンネル」が近づいてくる。使用されなくなって久しいが、その存在の珍しさと歴史の深さから「石崎漁港トンネル」の名で、国指定登録文化財として保存されている。
 石崎漁港トンネル(場所)。竣工した1934年当時は、東洋唯一の漁船トンネルだったという。管理人が訪問したとき、近くで釣りをしていた地元の方から漁港トンネルのことを聴くことが出来た。
 こんな感じで話をしてくれた;「このトンネル。昭和45年(1970年)ごろまでは使っていたんだよ。19トンくらいの漁船なら、全然通れたよ。ただ、いろいろアンテナとかが装備されるようになって、高さの問題が出てきて、それに、トンネルも劣化して、上がポロポロ崩れてきてね。今は、外から船は回り込んでいくんだ。トンネルの港は、とても良かったので、トンネルを直すなりしてほしかったんだけどね。」
 時代とともに、通信機能が発展したことで、「高さ制限」というリアルな問題が生じ、トンネルの有用性が下がってきたらしい。地元の方のトンネルへの愛着を感じる貴重なお話しをいただけた。
 国道228号線の石崎橋(場所)から海側を眺めてみた。かつては上流から運ばれてくるマンガンの積み替えで賑わった場所だろう。
 上ノ国森林軌道が、想定通りの線形を描いていたのであれば、写真左側の川岸を通って、港に向かって軌道が伸びていたはずだ。
 同じく国道228号線の石崎橋から、反対側(山側)を望んだところ。上ノ国森林軌道(中外鉱山軌道)は、写真右手の岸を、川と尾根に挟まれながら進んでいた。
 対岸側の方が平地が広いが、石崎漁港と中外鉱山のどちらも、写真の石崎川の右手(南)側にあったので、渡河を避けるという意味で、平地が狭いとはいえ南岸側に軌道を敷設したのだと思う。
 石崎川にそって、早川道路(1968年に「北海道道607号石崎松前線」として認定)を進んでみる。このあたりから尾根を回り込む形で湾曲して流れる石崎川を見る。上ノ国森林軌道があった当時と比べれば、河川改修も進んでおり、単純に当時のことを類推できるわけではないが、対岸から眺めた限り、地形図から想像したほどには急峻ではないという印象で、河原から連続的で平坦な土地があるようだ。いかにも増水時には水害を受けそうな立地である。
 上写真対岸の河原のようなところに軌道が敷設されていたのであれば、「鉱業之日本 13(11)」(1942)の「八田上國鑛山視察記」で、軌道を移動に利用した記者による以下の表現~「約六粁此の間は殆ど平坦であり」~に違和感はない。
 1948年の航空写真の線形から、一度は「ひょっとしてトンネルがあったのでは」と思った個所(場所)も念のため訪問してみたが、採石か何かの作業場となっていて、何の痕跡も見つけることはできなかった。  石崎川沿いで唯一かつてを偲ばせる産業遺構は、鉱毒対策の一環として建設された焙焼炉跡(場所)となる。訪問時(2024年)もその特徴的な姿を維持していた。写真中、赤く見えるのは、外壁がはがれて、内側の耐熱レンガが見えているところである。
 続・上ノ国村史(1962)においては「村内一の文化部落」と言わせしめた中外地区も、鉱業の終焉とともに住民は去ってしまった。わずかに廃墟が残る。(場所  この先、上ノ国森林軌道跡を辿って、「北海道道607号石崎松前線」を石崎川沿いに進んでみたかったところであるが、この先すぐのところ(場所)にある「早川ゲート」が塞がっていて、ここで終了となった。その先にも舗装道路は続いているのだが、なぜか供用されていない。

 さて、以上で長々と続いた本章も「終了」となるのであるが、最後が「早川ゲート」でぶった切られたような煮え切らなさが残るかもしれない。実際、このゲートから先も、状態の悪くない2車線の道路(しかも道道)が続いていた。ここから、この道路に関することをちょっと紹介してみたい。
 とは言っても、管理人の調査対象は、常に「鉄道・軌道」であって、道路のことは別に詳しくもなんともない。ただし、今回は、上ノ国森林軌道のことを調べているうちに、松前林務署が1981年に編纂した「石崎松前線の完成を前にして」という資料に目を通すこととなった。なぜなら、「石崎松前線」の石崎側の歴史を辿れば、上ノ国森林軌道にたどり着くからである。
 そこで、この道路のことを、少し知ることとなったので、せっかくなので書いておこうと思う。

 まず素朴に不思議に思うことは、1981年の時点で「石崎松前線の完成を前にして」という書籍まで編纂された道路が、なぜ現在、石崎からわずか8km程度の地点で、あっさりとゲートで仕切られる扱いとなっているのだろうか。。。ということである。このゲートは、別に降雨等の一時的な災害や、近づく冬への備えとして、閉ざされているのではない。もう長いことずっと閉じたままなのである。


 まず、wikipediaの情報を見てみよう。2025年現在、以下の記述となっている。

 ・北海道道607号石崎松前線(ほっかいどうどう607ごう いしざきまつまえせん)は、北海道檜山郡上ノ国町と松前郡松前町を結ぶ一般道道(北海道道)である。未開通区間がある。
 ・大千軒岳登山道入口のアクセス道路となっているが、上ノ国町側と松前町側も災害による通年通行止となっている。松前町側は、迂回路として林道を通ることになっているが、林道も災害復旧工事のため、2024年12月現在通行ができない。
 ・起点:北海道檜山郡上ノ国町石崎(国道228号交点)(場所
 ・終点:北海道松前郡松前町朝日(国道228号交点)(場所
 ・総延長:60.332 km
 ・実延長:35.845 km
 ・重用延長:0.030 km
 ・未供用延長:24.457 km
 ・未舗装延長:16.882 km

 「完成(=全通)記念本」があるにもかかわらず「未開通区間がある」「両側とも災害により通行止めとなっている」ということらしい。

 この道路、ざっくりと言えば、本来は上ノ国町の石崎川河口から分水嶺を越えて、松前町の及部川河口までをつなぐルートなのであるが、実延長35.8kmのうち、未供用区間が24.5kmをも占めていることになる。また、重用延長がほとんどないにもかかわらず、総延長(60.3km)と実延長(35.8km)の間に大きな違いがあるのは謎である(あまり道路のことは詳しくないので、普通にあることでしたらすいません)。
 加えて、未供用延長が24.5kmでありながら、未舗装延長が16.8kmというのは、舗装までされながら供用されていない区間が7.8km相当もあるということで、早川ゲートの前後の状態はそれを反映しているのだろう。

 「総延長」と「実延長」の差については、おそらく現況に関するものだろう。すなわち、この道路の中央のもっとも険しい部分を地理院地図で見てみると、北の石崎側からくる黄着色の道道と、南の松前側から来るそれは、ぷつりと途絶えている。ただ、地理院地図を拡大してみると、両者をつなぐ車道の存在は(すさまじい線形ではあるが)一応は記載されている。この黄色着色部分が「実延長」に相当し、中間の無着色部分は「総延長」にのみカウントされていると考える。


 重ねて記載するが、管理人にとって、そもそもこの道路が興味の対象となるのは、この道路の石崎側が、上ノ国森林軌道を前身とするというその由来ゆえだ。
 先述の「石崎松前線の完成を前にして」(1981)によれば、1968年の道道認定を経て、この道路は1981年10月に完成予定とされている。
 「林道が完成することにより、森林面積7500ha、蓄積79万立方メートルの森林資源が開発され、林業経営はもとより、森林の公益的機能の発揮並びに各事業の効率化が図られ、地域振興のうえからも重要な路線となる。」
 「この林道は昭和5年(1930)、石崎から始まり、松前寄りのドゲ沢は昭和8(1933)年から着手している。最初のうちは車馬道としてそれぞれに築設され、木材、木炭の輸送を行っていた。戦時中、一度軌道(レール)に変わり、最後はトラック輸送の発達に伴い車道が築設された。今年度600mうち60mの橋一基を深い峡谷に完成させると、61,888mに及ぶ道路が開通する。費用は工事費で8億6千万円、現在高換算で25億2500万円。」
 そう、「石崎松前線の完成を前にして」(1981)では、「戦時中、一度軌道(レール)に変わり」としか書かれていないが、これこそ上ノ国森林軌道のことである。
 「ドゲ沢(場所)(注:この「ドゲ沢」の名称を、管理人は当該資料以外では確認することはできなかったが、資料内の図から、茂草川上流部を指すものである)は地形は良い方ではないが、石崎と比べるとやり易く、災害などもそう大きなものはなかった。しかし石崎流域については、これはもう名だたる急流であり、わずかの雨でも山が立っているので出水が速い。そのため、川沿いに作っておいた林道施設は、常に災害に明け暮れしていた。(1950~1962年頃の様子)」
 やはり石崎側の地形は、手懐けることは困難至極であったらしい。そんな石崎松前線の全通は「工事に半世紀を費やした悲願」として表現されている。そして、開通の際には、北海道知事(堂垣内尚弘氏)をテープカットに招くということまで記載されている。

 それらの華々しい開通前のワクワク感が、あまりにも現況とかけ離れていることが、様々な違和感の本質である。

 さて、とりあえず、「実延長」と「総延長」の違いについて、地理院地図の記載状況を反映したものではないか、と推論を立てたところであったが、これがほぼ正答らしいということは、次に示す「石崎松前線の完成を前にして」(1981)に挿入された「松前・石崎道路開設経過図」により、手ごたえを得ることができた。ご覧いただきたい。


 上図は、「半世紀に及ぶ工事」の経過を1枚の地図に落とし込んだものであるが、ここで示されている全長距離(61,888m)及び道道認定部分の距離長(15,255+22,799=38,054m)が、それぞれwikipediaにより提供されている総延長:60.332 km、実延長:35.845 kmに近い。同様に林道区間の距離長(23,854m)は、未供用延長:24.457 kmに近く、つまり、総延長は未認定部分(林道部分)を含めた距離長を指すのであろう。このあたりは、道路に詳しい人には当たり前のことなのかもしれないが。。。
 ちなみに、カーソルオンにした際に拡大図を示すが、この上ノ国側の「判の沢」なる沢を越す橋を含む部分が、足掛け50年に及んだ道路開削の結果、最後に開通した部分となる。


 大千軒岳山麓に広がる広大な道有林の営林のため、「石崎松前線」の完成は関係者の悲願であり、実際に1981年に全線の開通をみている。1930年に着工したそうだから、その工期を「半世紀に及ぶ」と表現するのはその通りであろう。
 ところで、全線開通したにも関わらず、その際に全線をあらためて「北海道道607号石崎松前線」として認定しなかったのは、なぜだろうか。道知事をテープカットに呼ぶ以上は、道道として供用開始しても良いように思う。
 この疑問点についても、「石崎松前線の完成を前にして」(1981)にはヒントとなる記述があった。工事関係者の座談会の中で、以下の発言を見つけた。「(81年に開通する部分には)道道基準にあてはめますと、勾配の問題、カーブの問題など支障もあるだろうと思うんです、現在の道路を出来るだけ早く改良していただき、供用開始の早期実施の運動を起さねばならないと思います。」
 これも不思議な話で、道道として未供用の状態で、果たして知事をテープカットに招くものだろうか?と思ってしまうが、この地の地形が凶悪なことは、地理院地図を見ればよく分かる事でもある。
 左は「石崎松前線(未認定区間含む)」の線形周辺が、なぜこれほど厳しい地勢となるのかの理由の一つを示したもので、この道の線形は、「日本海側」から「津軽海峡側」にむけて、峠をひとつ越えていけばいいという単純なものではなく、いくつもの水系をまたぎ、そのたびに分水嶺を越えなくてはならないという宿命を持っているのだ。

 現状の「石崎松前線」は、道道認定された部分でさえ、すべてが供用されていない状態である。石崎側は、起点から8.0km地点で「早川ゲート」により閉ざされており、その2024年現在の状況は、写真でご覧いただいた通りである。
 なぜこの位置で閉ざされているかまでは調べていないが、いずれにしても、現状では、上ノ国森林軌道の痕跡を、石崎川上流部において探索したとしても、線形を示す資料が見つからないこと、唯一のアクセス路が封鎖されていること、そのアクセス路自体が軌道跡の線形を潰している可能性が高いこと、以上の3点から、成果を挙げることは期待出来ないだろう。同様に、道路探索趣味者が「石崎松前線」の深部を探索することも、地形図を見る限り、無謀なことと言わざるを得ないだろう。あまりにも山深い。林道部分の状況もまったく不明である。  


 「石崎流域については、これはもう名だたる急流であり、わずかの雨でも山が立っているので出水が速い。そのため、川沿いに作っておいた林道施設は、常に災害に明け暮れしていた。」この「石崎松前線の完成を前にして」(1981)にあるコメントは、1950~62年頃を振り返る話の中で出てきたものであるが、1981年の全線開通以後も状況が良化したわけでは決してなかったと思われる。
 左写真は「松前林務署35年のあゆみ」(1983)に掲載されている石崎川上流部で発生した地滑りの模様を記録したものである。この1枚の写真だけで判断するわけではないが、このような災害が高頻度で発生したのであれば、道道に認定して一般に供用することは、厳しいかもしれない。
 最後に紹介するのは、「松前林務署35年のあゆみ」(1983)に掲載されている「一番最後の開通部分」である判の沢(バンノ沢)を跨ぐ「軒麓橋」(場所)である。
 この橋、Q地図の全国橋梁マップにさえ記載のないレアものである。
 同書のこの橋に関する以下の記述が、その後のこの道の顛末を物語っていると思う。
 「路線の開通に至る最大の難所は、判の沢に架設された橋梁であったが、深松係長を始め係員、業者の方々の優れた技術によって、橋長60m(沢から高さ32m)のπ形方杖橋を見事に完成させたものである。
 しかし、昭和56年(1981年)の降雨は異常で、回数も雨量も多く、例年の大雨は2~3回であるが、この年は8回も数え、工事施行(土工)と重なって、残念ながら軒麓橋より石崎側300mの地点に地すべりが発生し、林道災害で復旧したが、昭和57年(1982年)に再び発生し、林道の災害復旧と治山事業で施工していると聞いております。」
 上は、石崎松前線が1981年に開通する前の状況を示した1973年編集の5万分の1地形図「大千軒岳」を引用したもの。左が北側(石崎側)、右が南側(松前側)の道路線形の末端の様子。
 上の地形図をご覧いただいて、この後、どこに道路を開削すればいいのか、想像するのも楽しいと思うが、回答比較用として、現在の地理院地図で当該個所を示すと、上引用図内の北側(石崎側)末端はこのあたり、南側(松前側)はこのあたりになる。
 73年編集の地形図は、厳しい道路開削の状況が伝わってくるものであったので、参考までこちらで紹介させていただいた。


 以上、「幻の鉄道・軌道線形の復元~地形図に記載されなかった鉄路」の第4章として長々と書き連ねてしまい、当初予定していたより、かなり文量が多くなってしまった。これは、調査の過程で、新しい情報が加わって、修正を加える等の作業を繰り返したことが大きく影響している。
 ここまでお読みいただいた方には、深謝いたします。あまりにも、細かい話で、馴染みが薄い上に、管理人の記述力も微妙で、読みにくかったと思う。お疲れさまでした。
 本章の記載内容については、詳細や正確性が不明なところが残っており、今後、判明することがあったり、あらたな資料を見つけることがあったら、いつものように追記することとしたい

 北海道南西部の日本海側は、一見、鉄道文化の薄い土地と思われるかもしれないが、それゆえに、掘り起こしてみると、「意外」と思われる話が出てくる。管理人も、島牧の石灰軌道や、美利河鑛山の軌道の存在をはじめて知ったときは、その存在自体にたいへん驚くととともに、少しでもそれらの軌道のことを「知りたい」と思ったものだ。
 その思いを共有できる人がいればと思って書き連ねてきたが、もし少しでも、「そうなのか」と思っていただけたなら、嬉しい。また、もし何か関連して提供いただける情報などありましたら、管理人までメール等でお知らせいただけると幸いである。

 これらの地域は、美しい風景に事欠かないが、雷電温泉郷の廃墟化に象徴されるように、観光地としては地味な存在である。本章を読むことで、興味を持たれた方は、ぜひこの美しいこれらの地域を訪問してほしいと思う。  



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