「北海道概況」挿入地図に記録された線形



 戦前から戦後にかけて、北海道廳は毎年「北海道概況」と題して、北海道の開発、殖産興業の進捗状況をまとめた年報を刊行していました。
 この年報では、殖民軌道や森林鉄道の線形が、計画線も含めて北海道地図上に記載されていて、現在となっては、北海道の鉄道文化を伝える記録としてもたいへん貴重なものとなっており、そのデジタルデータは、国会図書館のサイトで、公開されています。
 そこで、当ページでは、それらの中から、管理人が特に注目したいと思った個所について、紹介させていただくことにしました。なお、原典となってるデータの公開先リンクを書きに示しておきます。

  北海道概況 昭和6年(1931年)
  北海道概況 昭和9年(1934年)
  北海道概況 昭和14年(1939年)

 なお、当ページのテーマは、先にまとめた北海道の殖民軌道と森林鉄道と重複するところがあるので、是非、そちらもご覧いただきたい。
 当ページでは、地図上に線形が記録されることとなった未成線なども紹介することになるので、そういった点では、こちらもシリーズ的に自由にまとめている幻の鉄道・軌道線形の復元~地形図に記載されなかった鉄路と、表裏一体のテーマを扱うことになるとも言えるだろう。
 いずれにしても、管理人(私)の興味視点で記述を進めることになるが、当然のことながら、執筆時で私が知りえた範囲に類推を加えたものにすぎないことは、ご承知おき頂きたい。
 北海道における軌道の建設・計画・運輸史全般に興味を持つ人には、おそらく興味深くもって見ていただけるのではないかと思う。



   まず、一つの表をご紹介したい。  以下に示すのは、北海道開発局局長官房開発調査課が出版した「北海道拓殖計画実施概要 第2期 昭和2(1927)-21(1946)年度」に一覧表として挙げられている「殖民軌道予定計画」である。
 計画線なので、当時すでに開通した路線は記載されていない。なお、この原本では、あきらかに記載ミスと思われるところがあり、そこは管理人(私)が修正している。(例えば、音別線が日高に分類されていたり、線名が異なるのに同じ區間を指定していたりするものがあった)。
 まずは、ご覧いただこう。なお、通し番号は、便宜的に私が付したものである。


                                                                                           
殖民軌道予定計画
支庁 線名 區間 哩程 管理人補足事項
1) 上川 アシベナイ線 佐久 上アシベナイ 10.0
2) 後志 眞狩線 狩太 眞狩 10.0 「狩太」は現在の「ニセコ」
3) 磯谷線 上目名 磯谷 12.5
4) 十勝 上札内線 幸震 上札内 10.0 「幸震(さつない)」は現在の「帯広市大正」
5) 糠内線 止若 以平 22.5 「止若(やむわっか)」は現在の「幕別」
6) オルベ線 高島 オルベ 12.5 「オルベ」の漢字名は「居辺」
7) ビリベツ線 本別 ビリベツ 12.5 「ビリベツ」の漢字名は「美里別」
8) 當縁線 中イタラタラキ トープイ 7.9
9) 浦幌線 本別 中浦幌 12.5
10) 勇足線 勇足 上勇足 10.0
11) 幸震線 幸震 糠内 7.5 「幸震(さつない)」は現在の「帯広市大正」
12) 釧路 雪裡線 平戸前 クチョロ 17.5 「クチョロ」の漢字名は「久著路」
13) ホロロ線 ホロロ 上ホロロ 10.0 「ホロロ」の漢字名は「幌呂」
14) クチョロ線 塘路 クチョロ 12.5 「クチョロ」の漢字名は「久著路」
15) オソツベツ線 オソツベツ 二山 12.5 「二山」は現在の「五十石」
16) 茶内線 茶内 圓朱別 7.3 「圓朱別」は現在の「円朱別」
17) 濱中線 濱中 圓朱別 5.4 「圓朱別」は現在の「円朱別」
18) ヌマホロ線 コッタロ ヌマホロ 9.0 「コッタロ」は現在の「茅沼」
19) ニニシベツ線 平戸前 ニニシベツ 11.0 「ニニシベツ」の漢字名は「仁々志別」
20) 茶路線 白糠 上茶路 12.5
21) 音別線 音別 上音別 12.5
22) 屈斜路線 弟子屈 屈斜路 10.0
23) 宗谷 枝幸線 枝幸 小頓別 20.0
24) 幌別線 幌別 オフンタルマナイ 13.2 「オフンタルマナイ」は現在の「志美宇丹」
25) 本幌別線 上幌別 本幌別 10.0
26) メナシベツ線 兜沼 メナシベツ 10.0
27) エベコロベツ線 幌延 上エベコロベツ 10.0 幌延側は当時の留萠支庁管内
28) 檜山 俄虫線 俄虫 3.0 「俄虫」は現在の「厚沢部」
29) 日高 貫氣別線 荷負 上貫氣別 7.5
30) 根室 別海線 西別 別海 10.0 「別海」は現在の「本別海」
31) 風蓮線 風蓮 圓朱別 5.0 「圓朱別」は現在の「円朱別」
32) 西別線 西別 虹別 13.0 「西別」は現在の「別海」
33) 俣落線 俣落 ケネカ 7.5
34) 忠類線 川北 忠類 7.0
35) 春別線 春別 中春別 12.5
36) 網走 止別線 ヤンベツ 野川 10.0 「野川」は現在の「水上」
37) 幌内線 幌内 雄武 5.0
38) 美幌線 美幌 古梅 7.5
39) 上瀧ノ上線 瀧ノ上 上瀧ノ上 10.0
40) 藻琴線 藻琴 上藻琴 11.5
41) 越川線 斜里 越川 7.5
42) 上幌内線 幌内 上幌内 12.5
43) 雄武線 雄武 上雄武 7.5
44) 留萠 トイカンベツ線 トイカンベツ 上トイカンベツ 10.0 「トイカンベツ」の漢字名は「問寒別」
45) オヌプナイ線 オヌプナイ 上オヌプナイ 7.5 「オヌプナイ」は現在の「雄信内」
46) 遠別線 遠別 上遠別 12.5


 上記の通り46もの路線が、当該年代における計画線として挙げられている。
 パッと見て、「區間」に挙げられている北海道の開拓地の地名に「あまりにも馴染みがない」と感じた人が大半だと思う。多少分かりやすくなるようにと、私の補足事項を追加してはあるが、それでも、どこだか分からない場所が多いだろう。
 また「哩程」は、マイル表記であるため、kmに換算するには、1.6倍する必要がある点も要注意点である。
 これらの中には、実際に竣工し運用されたもの、部分的に完成し運用されたもの、全体が未成に終わったもののほか、別の形(省線、森林鉄道等その他の鉄道・軌道)として開通したものもあって、その後の歴史という点では、当然のことながら様々な転機をたどったものが混在している。
 また、加えて言うなら、上の計画を作成した時点ですでに既成線として運用されていたもの、逆に上の計画表にはないが、後の時代に新たに計画され、竣工ののち運用されたものも別に存在する。それらとの比較については、北海道の殖民軌道と森林鉄道を参照いただきたい。
 それにしても、これらの計画線を実際に地図上で表記すると、どのような姿になるのか、興味深いと感じる人も多いのではないだろうか。はたして、どの地域の開発や軌道の運用形態を念頭に、路線を計画していたのだろうか。
 これから紹介する1930年代の北海道概況のナップは、上記の疑問に答えてくれるものだ。さっそく地域ごとにまとめられたマップを参照しながら、興味深い例を把握していってみようと思う。
 また、併せて森林鉄道、森林軌道や、その他の鉄道・軌道線についても、言及出来るとことを挙げて行ってみたいと思う。



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 まず、3つの年代における北海道概況をまとめた地図で使用されている凡例(地図記号)についてまとめたい。

↑北海道概況(1931年)地図記号
↑北海道概況(1934年)地図記号
↑北海道概況(1939年)地図記号

 これから引用紹介していく地図の地図記号は、上の通りおおむね共通している。
 「鉄道」と「軌道」を区分けしている点など、かなり詳細な印象を受けるが、重要なのは、それぞれ「予定線」が記載されていることで、これらを通じて、殖民軌道のみならず、森林鉄道も含めて、各年度でどのような計画が描かれていたのか、それぞれの計画線はどことどこを連絡するものだったのか、そしてそれらのうち、どれが実現したのかを、現在までの情報と突合しながら、検証することができることになる。
 また、地図記号にある「一級町村」と「二級町村」という自治体の区分けの存在に、興味を持たれた方も多いのではないだろうか。これについても簡単に説明しておくと、開拓期の北海道の独自の制度を反映したものである。すなわち、市制・町村制が定められたのは、1888年であるが、北海道では、市制・町村制を運用するまでに集落が発展していないことを踏まえ、ただちにこの制度が適用されることとはならなかった。
 そして、9年後の1897年になって、北海道では「一級町村」と「二級町村」に分類するという「条件付き」で、地方自治制度が進められることとなる。「一級町村」は道外の「町村」と同等の扱いとなるが、自治体や財源規模等の問題から「二級町村」に指定された場合は、その権限は大きく制限され、内実は北海道廰の直轄地といったところとなるのであった。この北海道における「二級町村」という制度は、「二級町村」の名称を「指定町村」に変更した上で、戦後の1946年まで維持されることになる。
 1930年代の北海道概況を示したマップでは、「一級町村」と「二級町村」は地図記号が分類されており、そういった点でも興味深いものとなっていると思う。ちなみに、これから紹介していく北海道概況の挿図が示すものの中には、1930年代のうちに「二級町村」から「一級町村」に昇格した自治体も見て取れるので、余禄としてお楽しみいただきたい。


道北(稚内・枝幸・天塩・雄武周辺)


↑北海道概況(1931年)から
↑北海道概況(1934年)から
↑北海道概況(1939年)から

 大きな引用図を立て並びに表示したというのは、決して見やすい画面構成ではないことを百も承知である。それでも、広大で、かつ多くの人にとって不慣れな開拓地の地名が多く記載してあることの多い北海道にあって、その位置関係が把握しやすく、ひいては、興味を喚起する程度が大きいであろうということで、このような引用の仕方とした。
 以後、いくつかピックアップして解説していく中で、上の図を別ウィンドウで開く仕様等により、ブラウザ面のデメリットを代替することとしたい。
 まずは引用図内の省線(国鉄線)の変遷を見てみよう。1931年図1934年図では、「未成鉄道線」の表記であった天塩線(幌延-天塩 1935年開業)、興浜北線(浜頓別-北見枝幸 1936年開業)、興浜南線(雄武-興部 1935年開業)の3路線が1939年図では、既設鉄道線となり、日本海に面した遠別以南の鉄道線(のちの羽幌線)も、予定線から未成線の表記に変更されている。

 次に殖民軌道である。殖民軌道予定計画にあった1)アシベナイ線については、宗谷線の中川町佐久駅(場所)を起点とし、安平志内川に沿って遡るものであったことがわかる。ただ、各年の表記を見ると、1931年図1934年図では、佐久起点の森林鉄道計画線の途中から分岐する形で当該殖民軌道線が記載されているのだが、1939年図では、根元側にあたる森林鉄道の計画線が消され、宙に浮くようにして殖民軌道の計画線が描かれている。
 この1)アシベナイ線は、計画では佐久駅起点となっているにもかかわらず、3つの図面では、よく見ると森林鉄道計画線とクロスするように、東にやや伸びている線が描かれており、その意図は現時点で不明である。いずれにしても、この軌道は建設されることはなかった。
 殖民軌道予定計画の45)オヌプナイ線は宗谷線雄信内駅(場所)、46)遠別線は天塩線(のちの羽幌線)遠別駅(場所)を起点とするものだったが、1931年図,、1934年図1939年図のいずれにおいても計画線表記のままで、その後も敷設されることはなかった。なお、1)アシベナイ線と45)オヌプナイ線は、それぞれ起点駅からすぐに天塩川と渡河する必要があり、その点も着工にあたっては、大きなネックであったであろうことが想像される。
 殖民軌道予定計画の27)のエベコロベツ線は、1931年図において、すでに幌延駅(場所)-エベコロベツ間が開業しているが、1934年図では、天北線の沼川駅(場所)までこれが延長開業していることになり、つまり、最終的に幌延と沼川の間を連絡した「幌沼線」の前身であったことがわかる。また、26)のメナシベツ線は、未成に終わったものだが、宗谷線兜沼駅(場所)を起点に東に向かい、サロベツ川上流の豊富町目梨別に向かう計画であった。
 天北線小頓別駅(場所)を基点とする殖民軌道予定計画の23)枝幸線は1931年図においてすでに既設。その支線とも言える24)幌別線は1934年図で、本幌別線は1939年図で、それぞれ計画線表記から既成線表記へと変わった。
 殖民軌道予定計画に記載されてないが、引用図南端の宗谷線美深駅(場所)を起点とする仁宇布線は、資料等では1935年に開業となっている。1931年図には計画線すらないが、1934年図ではすでに既成線として記載されており、他の計画線とは異なる着工までの経過を辿ったことが想像される。また、この線は、1942年からは北海道庁管理の美深森林鉄道となり、1956年の廃止後、1964年にはほぼ同じ線形で国鉄美幸線(1985年廃止)が開業するという独特の変遷を辿ることとなる。
 

 雄武付近については、この地にあった鉱山軌道の話も含まれているため、ここから別項扱いの形でまとめる。
 まず、殖民軌道予定計画において、雄武周辺の殖民軌道計画線として3つの線が挙がっている。37)幌内線(幌内-雄武)、42)上幌内線(幌内-上幌内)、43)雄武線(雄武-上雄武)の3区間である。
 一方で、北海道の殖民軌道と森林鉄道では、この図の(25)により、雄武~上幌内間25.2kmを雄武線として示した上で、湯口徹氏の「簡易軌道のはなし(2)」~『鉄道ファン』1992年10月号(No.378)を引用し、雄武線を1950年開業、1956年廃止と示した。
 この時点で若干、「北海道拓殖計画実施概要 第2期 昭和2(1927)-21(1946)年度」との間で、雄武線に関する情報(殖民軌道予定計画で雄武線は「雄武~上雄武」であるのに、北海道の殖民軌道と森林鉄道の原典資料では「雄武~上幌内」となっている)に相違がある印象がぬぐえないのであるが、その後、いろいろな資料に目を通していくうちに、そもそも、雄武線が殖民軌道として運用された期間というのは、どうやら存在しないということが分かってきた。その点をまとめてみたい。

 まずご覧いただきたいのは1956年発行の5万分の1地形図「雄武」である。この地形図については、「北海道 古き5万分の1地形図 失われた鉄路」ですでに紹介済なのであるが、当時、興浜南線の終着駅であった雄武駅(場所)構内を起点とする軌道線が記載されている。
 これが「殖民軌道雄武線」の線形であるとされており、私もそのように認識しているのだが、実は、違和感を感じるものでもある。ここでも再掲させていただくので、まずはご覧いただきたい。

 さて、これを見ていかがであろうか?
 上図では、1950~56年に運用されたとされている資料にある「雄武~上幌内」を、地形図内の起点と終点に無理やり書き込んだのあるが、そもそもこれが実に違和感があって、まず、この終点が「上幌内」の名にふさわしい場所とはとても思えないのである。これについては後述するが、面積637km2という広大な町域をもつ雄武町内に「上幌内」は確かに存在するのであるが、それは、より西の山側の地域であり、地形図に記載された線形は、方向としては、たしかに雄武から「上幌内」に向かってはいるが、終点は、その「中間地点」でしかないのである。
 加えてもう一つの違和感は、軌道の敷設場所である。殖民軌道は拓殖・開拓のため敷設されるものであるのだが、地形図で終着点として示されている場所には、集落も開拓地もなく、またこれから開拓すべき平地があるわけでもない。音稲府川の谷の狭まったところに突っ込んで、唐突に終点になっている。こんな殖民軌道は他にない。
 ただ、この軌道線形の存在自体は確かなのだ。起点の雄武側に関しては、1951年撮影の航空写真に、しっかりとその線形が記載されているのである。


 1951年撮影の航空写真。
 写真右下端の雄武駅構内を起点とし、元稲府川を渡河してから、音稲府川に沿って西進する殖民軌道の線形が確認できる。

 さて、今度は、上記の地形図、航空写真の情報、並びに殖民軌道予定計画における雄武周辺の殖民軌道計画が37)幌内線(幌内-雄武)、42)上幌内線(幌内-上幌内)、43)雄武線(雄武-上雄武)の3線であったことを踏まえて、1930年代の北海道概況挿図に描かれた当該区間の様子を確認してみよう。  
 
↑北海道概況(1931年) ↑北海道概況(1934年) ↑北海道概況(1939年)

 これらの図で、「雄武」「上雄武」「幌内」「上幌内」の位置とともに、、殖民軌道予定計画にあった3つの計画線がどのようなものであったか分かる。そのうち、図内で線形が記載されているのは、42)上幌内線(幌内-上幌内)、43)雄武線(雄武-上雄武)の2線である。記載されていない37)幌内線(幌内-雄武)については、省線(国鉄線)の予定線と重複する区間であるため、省線予定線の表記を採用したと想像する。
 ここで、前述の地形図及び航空写真に記載された線形であるが、実は、どれとも合致していないのである(後でまとめた形でマップで示します)。地形図に記載させた線形は、雄武の北ですぐ西に進路を変えるものであった。もちろん、計画が変更されて、雄武~幌内~上幌内という線形が、雄武から直接上幌内に向かうものへと変更されたという可能性はあるのだが、それも雄武線が上幌内に到達していて、はじめて言えることである。繰り返しになるが、実際に地形図に記載された雄武線は、とても中途半端なところで終点になっているのである。
 また、この3つの北海道概況をよく見ると、1934年まで計画線であった42)上幌内線(幌内-上幌内)が、1939年の図では、「殖民軌道既成線」の表示になっている。これは、どういうことなのだろうか?


 結論を言ってしまうと、1939年図に既成線として表記された幌内~上幌内の線形は、殖民軌道ではない線形を表現したものである可能性が極めて高い。実は、これと似た線形の軌道が現地には存在したのである。ただしその線形は幌内~上幌内間を結ぶものではなく、つまり、これは誤植と言って良いものと考える。
 となると、「殖民軌道ではない線形」の正体を示さなくてはいけないだろう。
 ヒントは図中の幌内と上幌内の間にある鉱山の記号である。この鉱山は北隆鉱山といい、主に金銀を産出していた。そして、元山から雄武と幌内の間にある「元稲府」港まで、送鉱のための軌道が運用されていたのである。1939年の北海道概況図で、幌内-上幌内で既成の殖民軌道として描かれた軌道は、北隆鉱山と元稲府港を結ぶ北隆鉱山専用軌道を表現したものだったと思われる。


 左写真は、1962年に出版された「雄武町の歴史」に掲載されている北隆鉱山の精錬所である。
 青化精錬による精錬所であったため、当時は鉱毒による公害問題等もあったらしい。
 以下、「雄武町の歴史」の記載から、この鉱山と鉱山軌道に関する部分をまとめると以下のようになる。

 北隆鉱山は、1923年頃に久原鉱業が採鉱開始し、その後、1928年に日本鉱業株式会社が権利いっさいを引き受け事業拡大した。
 鉱山専用線については「鉱山と元稲府海岸の間は鉱山専用軌道によって結ばれ、40馬力のガソリン機関車で牽引する1トン積みの鉱車12輌で1列車を編成、1日3往復ないし4往復して鉱石を運搬した。こうして元稲府海岸に搬出された精鉱はさらに海路によって日鉱大分県佐賀関精錬所に送られて精錬された。」と記載されている。
 1935年に青化精錬所が完成し、このオホーツク海から大分県へ送鉱という壮大な輸送は終了したようである。
 事業が拡大する中で、1928年には28人であった従業員は、1933年には169人となったが、1941年に戦時の鉱山整理により、廃鉱となった。


 別の資料として、1941年の北海道石炭鉱業会会報 (320)に下記の記述を見つけることが出来た。

 【ガソリンロコ運搬】
 北隆鑛山(北海道紋別郡雄武村)の鑛床は多数の含金鑛石英脈の集合であつて1か月4、500瓲處理の精鍊所より金銀を生産している。生産品は13.5粁の距離にある元稲府荷扱所迄ガソリンロコ叉は馬鐵により輸送する。元稲府雄武驛間はトラック運搬となり此距離3粁である。叉北隆鑛山の支山たる雄武鑛山が荷扱所と雄武驛との中間に位し、其の精鑛は右(専用軌道による)運搬方法により北隆鑛山精錬所に輸送されて居る。北隆は雄武鑛山の他北海道北部地方に十有餘の支山を統括して居り、中には其送鑛に本運搬路を利用して居るものもある。何れも従来請負人渡となつて居る関係上、成績として甚だ遺憾でゐるので、今回詳細に調査して統計を整備して見た。之が玆に披露する材料である。其の結果、今回鑛山直營とする事に改變して合理的経營を行ひ、成績の上昇を期する事とした。遠からず改善されたる数字がお示し出来ると思ふ。
 【機關車、鑛車及人車】  使用機關車の主要項目を示せば第五表の如くであつて之を二臺所有して居る。(以下第5表の内容)4瓲機關車(全長3.2m、高さ2m) 下り 20km/h(40分) 登り 13.5km/h(1時間) 1日2往復
 【軌道設備】
   軌条 18封土=8kgレール、軌間 30吋=762mm
 【馬鐵運搬】
 北隆鑛山に於て施行中の馬鐵運搬は、操業常時所員鑛員の不足並に其の他の便宜上より請負渡となり、其の儘今日に及んで居たのであるが、成績内容は今回検討の結果甚だ不合理の點あるのを確認した。依つて之を全廢し悉くガソリンカー運搬に置換する事とした。

 経営視点の記述であり、原文では、関連する数字指標についてまとめられた上で、対応について言及しているが、ここでは軌道に関する記述に対象を絞って転載した。
 記述の内容から、「軌道の規格」は殖民軌道と同じといって良いものであったことがわかる。軌道の運用時期は1935年~1941年といったところであろう。


 それでは、1951年の航空写真に記録され、1956年発行の地形図に線形まで記載された「殖民軌道雄武線」は、いかなる存在であったのか。こちらも「雄武町の歴史」に記載がった。以下引用となる。


 1925年第1期拓殖計画の末期に、根室町から20里も離れた標津原野には入植するものがなく、このような開拓不振は交通不便が原因であるから「軽易なる軌道」36哩を敷設して根室線厚床駅に連絡するようにした。これが殖民軌道のはじまりであるが、昭和(1926年~)に入って第2期拓殖計画実施によっていっそう充実されるようになった。
 本道第2期拓殖計画ニ伴フ殖民軌道トシテ、雄武-上雄武線7哩5分、幌内-上幌内線12哩5分ノ敷設達成ハ、道会並長官ニ請願ヲ為シ、其ノ速成ヲ期シタリ。本軌道沿線一帯ハ広大ナル森林ヲ包蔵シ林産物資ノ産出夥シク、又雄武上雄武線ニハ雄武威鉱山及北隆鉱山アリテ鉱石を搬出スルノ外、各沿線ハ地味肥沃ナル未開ノ原野ヲ控ヘ、将来其ノ開拓ヲ見ルニ至ラバ農産物資ノ増加又期シテ俟ツベキナリ。本線路ノ敷設ハ興部雄武間鉄道ノ補助トシテ地方交通ノ便ヲ啓キ、本村ノ開発ニ多大ノ貢献ヲ為スニ最モ重要ナリトス。(1928年事務報告)
 このように昭和のはじめから殖民軌道誘致はうまずたゆまず通年続けられたが、星移り時変り、戦争を間にはさんで、やっと1950年に着手されたのであるから、まったく息のながい話であった。その間に鉱山は廃鉱となるなど情勢の変化はあったが、緊急開拓者の入地、戦後復興のための木材輸送など殖民軌道に寄せる期待は相変わらず大きく、はじめ雄武から中雄武、上雄武を経て上幌内にいたる線路が計画された。しかしその後の開拓の進展に応じて雄武市街を起点とし音稲府団地を縦断し上幌内開拓団地に達する延長約27kmの計画に変更され、いよいよ1950年度から、札幌市北拓建設株式会社岩瀬弥五郎の請負で着工された。工事総延長は24キロ207メートル、工事費総額2億584万9千円で、1950、51、52、53年と工事は継続され、1953年までに路盤施行15キロ100メートル、軌条敷設は14キロ540メートル、それに橋梁8カ所、伏樋29カ所、踏切5カ所、停車場、倉庫などの施設、通信施設12キロメートル、貨車46台、機関車2台という進捗状況で、軌道は雄武から音稲府川沿いにさかのぼり、上雄武にもう一息というところまで伸びていた。
 ところが音稲府地区開拓計画が樹てられ建設工事が推進されるにつれて、自動車輸送が活発になり、それにお株を取られて軌道の利用価値は減る一方であった。つまり新時代の寵児自動車に対して殖民軌道はもはや旧時代の遺物となり、時勢の推移にとり残される存在となっていたのである。そのため工事は1953年度限りで中止となり、その施設も撤去されたが、中止といっても将来再開される見通しも、またその必要性もないわけである。20余年の間待ち望んだ殖民軌道の夢も、こうして呆気ない終焉を告げた。


 いよいよ、謎が明らかとなった感があるが、地形図に記載された雄武線の線形は、工事が軌道の敷設まで終了した(つまり完工した)約15km弱の区間であり、計画は上幌内まで延伸するものであった。工期途中の線形が、なぜか地形図に記載されてしまったため、きわめて中途半端なところで途絶えるという不思議な線形を記録することとなったのである。加えて、いくつかの資料では、殖民軌道雄武線を運用の実績があったものとして扱っており、そのため、当サイトでもそれらの資料を踏まえて北海道の殖民軌道と森林鉄道に雄武線の運用軌間を記載させていただいていたというわけだ。
 それでは、雄武周辺で登場した未成線も含めた軌道を1枚のマップにしてみよう。なお、線形は、地形図に記載された雄武線以外、ほぼ現在の道形をなぞった仮定のものである。


 こうなりました。いろいろ混乱の原因となるのは、北海道廰の資料に残っている殖民軌道の計画線と、実際に着工された線形が異なっていること、加えて、実際に着工された線形が未完成の状態で地形図に記載され、さらには、その線形が、かつてあった北隆鉱山専用軌道の線形と重複していたことが挙げられるだろう。
 また、このマップにある様々な殖民軌道の計画線が、結局は総てが未成に終わり、かつ現在となっては、その詳細を区分せず、ひとくくりに「雄武線」とう表現に抱合されていることは、混乱の原因というよりも、混乱の結果であろう。
 その結果、現在の参考書等でも、ものによって、軌道が存在した、しなかった、あるいは運用された時期があった、なかったと異なる記述が見つかることとなった。
 しかし、整理して、まとめると以下のとおりである。

 ・最終的に、運用実績があったのは、元稲府港-北隆鉱山間の鉱山専用軌道(1935-1941頃)のみであった。
 ・着工されたのは、旧計画線と線形を異にする雄武-上幌内間の軌道で、工事は雄武側から開始され、1953年にはかつての北隆鉱山跡付近まで軌道を伸ばしたが、そこで工事は中止となった。
 ・当初計画されていた3つの殖民軌道線~37)幌内線(幌内-雄武)、42)上幌内線(幌内-上幌内)、43)雄武線(雄武-上雄武)~はいずれも未着工に終わった。


 末尾に紹介したのは、1954年の「網走支庁管内現勢」の地図である。
 1954年という時期は、すでに北隆鉱山専用軌道が1941年に運用を終了してから久しく、殖民軌道雄武線の工事が行われていた時期であるのだが、上の様に、北隆鉱山専用軌道の線形と思われるものが記載されている。おそらくは、「殖民軌道 雄武線」としての記載だったと想像されるが、雄武駅ではなく、元稲府港へ向かう鉱山軌道の線形が採用された経緯は謎である。1954年当時から、すでにいろいろ混乱していたのだろうか?
 以上がこのたびの「雄武線」に関する考察の結果であるが、今後、別の資料等見つけることがあったら、追記することとしたい。



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網走管内(北見・遠軽周辺)


↑北海道概況(1931年)から
↑北海道概況(1934年)から
↑北海道概況(1939年)から

 次に網走管内(北見・遠軽周辺)を見て行こう。
 こちらも、引用図内の省線(国鉄線)の変遷から見てみよう。変化が顕著なのは、オホーツク海とサロマ湖岸に沿って網走と中湧別を結ぶ湧網線で、1931年図1934年図では、中湧別-佐呂間(中佐呂間)と常呂-網走の両端区間が未成線、その中間部が予定線として描かれているが、1935年に両端分がそれぞれ湧網西線、湧網東線として開業し、1939年図では、中間部が未成線となっている。湧網線の全線開通は1953年のこととなる。
 また、引用図東端(右端)に見える斜里を起点とする線形は、防衛上の必要性が重視され、根室標津とを結ぶことを計画された根北線で、1939年図で、それまで計画線であったものが、未成線になっている。途中の越川駅まで1957年に開業しているが、1970年には廃止される短命の路線となった。また、1931年図では、省線の予定線に並行するように、斜里-越川間に殖民軌道計画線の線形が記載されているが、これは殖民軌道予定計画の41)の越川線にほかならない。しかし、殖民軌道越川線は、根北線の計画があるところから変更ととなった。(網走市史 下巻 開拓時代篇)
 次に、省線以外の鉄道・軌道を見て行ってみよう。

 まずは、引用図西端のエリアから。渚滑線の終着、北見滝ノ上駅(場所)を起点とする殖民軌道計画線で1931年図1934年図1939年図のいずれにおいても渚滑川を遡った先の「上滝ノ上」までの殖民軌道計画線が記載されており、殖民軌道予定計画の39)の上瀧ノ上線となる。殖民軌道としては開通することはなかったが、この路線と並行するように、1935年からは渚滑(濁川)森林鉄道が運用開始となる。この森林鉄道は、1931年図1934年図を見る限りでは、当初の計画は北見滝ノ上駅を起点とし、サクルー川に沿って、西方向に向かうものだったことが伺われる。実際には、1939年図に示されている通り、起点は北見滝ノ上駅の一つ手前の濁川駅(場所)となり、そこから、渚滑川沿いの本流線(殖民軌道計画線に沿ったもの)と、1939年図では森林軌道計画線となっているオシラネップ川に沿ったオオシラネップ線(オシラ線)の2系統が運用されることとなる。殖民軌道上瀧ノ上線が未成に終わったのは、森林鉄道の計画変更(「北見ノ上駅起点によるサクルー川流域」から「濁川駅起点による渚滑川隆起」への変更)と、関係が深かったのではないかと思われる。
 また、1930年代に作成されたこれらの3つの概況挿図(1931年図1934年図1939年図)では、石北線中越駅を起点とする中越森林鉄道が、既成線として描かれている。この中越森林鉄道については、2017年6月1日に更新した北海道の殖民軌道と森林鉄道内の記事「中越森林鉄道は存在したのか?」にて考察をこころみているので、参照いただきたい。いずれにしても、1930年代の北海道概況において、この森林軌道が既成線として扱われていることは、興味深いところである。
   
↑北海道概況(1931年) ↑北海道概況(1934年) ↑北海道概況(1939年)

 美幌・小清水周辺については、上に当該部分を比較できるようにした。
 釧網線の止別駅(場所)から小清水に至る鉄道線は、北見鉄道で、釧網線が小清水町を経由しないルートを採用したことを踏まえ、計画・着工され、止別~小清水間8.7kmが1930~39年の間運用されることとなった。ちょうどこれらの北海道概況が編さんされた時期と重なっており、「私設鉄道線」の表記がされている。
 また、この北見鉄道に沿いながら、さらに先の野川まで延長された線形で、殖民軌道の計画線が記載されており、これが殖民軌道予定計画36)の止別線である。しかし、殖民軌道止別線の計画は、北見鉄道の開業により解消となった(網走市史 下巻 開拓時代篇)。なお、北見鉄道は日中戦争による資材不足のため、1939年に廃止されるが、北見鉄道の残存施設等を利用する形で、古樋(ふるとい)駅(現・浜小清水駅(場所))を起点とする小清水軌道が、北海道製糖により建設され、1941年から1952年まで運用されることとなる。そのこともあって、北見鉄道廃止後も、殖民軌道止別線の計画が復活することはなかったのであろうと推察する。
 釧網線の藻琴駅(場所)を起点とするのは、殖民軌道予定計画40)の藻琴線で、1935年に東藻琴まで、1938年に山園までが開業する。東藻琴村営軌道として、1965年まで活躍することになる。北海道概況では、1934年の挿図で、すでに既成線として表記されている。
 石北線の美幌駅(場所)を起点とする殖民軌道計画線は、美幌川上流部の古梅地区とを結ぶ殖民軌道予定計画38)の美幌線であるが、着工あるいは計画変更等に関する記録を、現時点で見つけていない。いずれにしても、未成に終わった。
 森林鉄道に関しては、相生線津別駅(場所)を起点とする津別森林鉄道(1927-1962)が既成線として記載されているが、少なくとも1934年までは、加えて相生線本岐駅(場所)及び北見相生駅(場所)を起点とする計画線があり、1939年の時点で当該計画は消失した模様だ。
 引用図東端(右端)に見えるのは、釧網線上札鶴駅(現緑駅)(場所)を起点とするのは上札鶴森林鉄道(1935-1955)で、1939年から既成線表記となっている。
 
【2024年9月6日追記】 上札鶴森林鉄道については、1931年図と1934年図では釧網線札鶴駅(札弦駅)(場所)を起点とした計画となっているものが、1939年図で起点を上札鶴駅(現緑駅)に変更して開設されたという表記になっています。おそらく計画変更があったものと思われます。  

北見鉄道開業(1930年)のころの小清水駅の駅舎。小清水町史(1955)から。 小清水駅。軌間1,067mmの堂々たる鉄道であった。蒸気機関車は7218号機。ボールドウィン製の7200形。駅名標には、唯一の途中駅であった次駅「野坂」の名も見える。小清水町史(1955)から。
簡易軌道藻琴線の中心であった東藻琴停留所の様子。多数の機関車、運材車が並び、活況を見て取れる。東藻琴村史(1972)から。 簡易軌道藻琴線(東藻琴村営軌道)の機関庫。東藻琴村史(1972)から。

 その他、網走管内(北見・遠軽周辺)では、石北線丸瀬布駅(場所)を起点とする武利意森林鉄道(1928-1963)、石北線生田原駅(場所)を起点とする上生田原森林軌道(1928-1957)、石北線留辺蘂駅(場所)を起点とする温根湯森林鉄道(1921-1960)、網走線(のちの池北線)置戸駅(場所)を起点とする置戸森林鉄道(1921-1962)などの森林鉄道が、支線も含めて記載されており、興味深い。殖民軌道以外の軽便鉄道では、名寄線下湧別駅(のちの湧別駅(場所))を起点とし、サロマ湖岸の丁寧に至る湧別軌道(1930-39)の線形も記載されている。



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根釧地域


↑北海道概況(1931年)から
↑北海道概況(1934年)から
↑北海道概況(1939年)から

 次に根釧地域を見て行こう。
 このエリアは、殖民軌道がもっとも活躍したエリアであり、かつ省線標津線の開通を期に、その線形は、標津線の各駅を起点とする形で大きく様変わりしている。上に挙げた3つの図は、ちょうど、標津線開通前後のものを表しているので、その変遷の様子が分かりやすいと言える。
 標津線は、1933年に厚床-西別(別海)、1934年に西別(別海)-中標津、1936年に標茶-計根別、1937年に計根別-中標津-根室標津という順番で開業している。
 このうち、厚床-中標津間の線形は、当初の計画から大きく変更がなされている。当初の計画は1931年図に未成線として記されている様に、のちの線形と重なってはいない。ここは補足が必要なところなので、もう少し詳しく書くと、本来の計画線は、実は1931年図に描かれた計画線とも異なった線形で、それは未成線途中から野付水道の海岸に出て、浜別海、尾岱沼を経て根室標津に至るものであった。1931年図の未成線を見ると、「海岸を沿う」とも言えない、なんとも中途半端な経路になっているのだが、当初の計画線であった「海岸ルート」と、最終的に着工・完成した「原野ルート」の間では、政治的に大きな対立があり、そのため、1931年図では、「その中間」のルートを「未成線」として記載していたのである。
 最終的に、1931年に「原野ルート」での建設が決定し、1934年図では、厚床-西別(別海)間が既成線、西別-中標津-浜標津(根室標津)が未成線の表記となる。そして、1939年図では、標茶-中標津も含めて、標津線全線が開業した状態となっている。
 そして、これらの過程で、標津線と並行していた殖民軌道根室線(厚床-中標津-標津)、(旧)標茶線(標茶-計根別)、計根別線(計根別-中標津)は、代替できない一部を除いて、廃止されることとなる。

 この地区の殖民軌道は、線形の変遷が頻繁であったので、以下、それぞれ見ていくことにする。


 左の写真は、「大いなる町別海」に掲載されている1933年撮影のもの。キャプションには「西別と中標津間の鉄道新設工事が真最中のころ、ガソリン気動車が最後の檜舞台で活躍中。原野に新しい風が吹き込んだ歴史的な瞬間だ!(平糸の床丹川付近で)」とある。
 省線標津線を建設するにあたって、既設の殖民軌道根室線と、立体交差状態になっていた様子が示されている。

 上写真の位置を推定してみた。
 引用は1932年発行の5万分の1地形図「西別殖民地」で、殖民軌道根室線が記載されている。これに後に建設される標津線の線形を書き込んだ。(古い地形図は、等高線等があいまいであるため、多少のズレがあるかと思われる。)
 キャプションにある通り、平糸駅(場所)の北側、床丹川の北岸で、標津線の線形と殖民軌道根室線がクロスする場所があり、この地で撮影されたものであろう。現在の場所はこちらとなる。
↑北海道概況(1931年) ↑北海道概況(1934年) ↑北海道概況(1939年)

 上引用図北東端では、川北駅(場所)-忠類間の殖民軌道が、1931年、34年で計画線、39年で既成線となる。殖民軌道予定計画34)の忠類線である。また、1939年図で、中標津-開陽間に記載されている殖民軌道は、標津線の開業に際して廃止された殖民軌道根室線が部分的に残ったもので「根室線」の名を引き継ぐ。その後、開陽-中標津駅(場所)は開陽-上武佐駅(場所)に路線を付け替えて1954年まで運用された。
 中標津からは、俣落への殖民軌道の3図全てにおいて計画線として表記されている。殖民軌道予定計画33)の俣落線であるが、未成に終わった。1939年図で中標津の西、計根別駅(場所)から養老牛に向かうのは、1938年開業の養老牛線であるが殖民軌道予定計画に当該線は挙げられていない。あるいは、俣落線の計画を変更して敷設されたものである可能性があるだろう。
 計根別の真西、ちょっと見切れている所に虹別がある。1931年の時点で西春別に向かう計画線が記載されている。虹別は、殖民軌道予定計画32)にある、西別駅(場所)を起点とする西別線の終点となる計画であった。しかし、1934年図を見ると、この計画線が消えている。
 このとき、上図では見切れてしまっているのだが、1934年図を見ると、釧網線弟子屈駅(場所)を起点とする弟子屈線(殖民軌道予定計画には記載なし)が、弟子屈から虹別まで開業しており、そのため、いったん西別線の延長計画はなくなったようだ。しかし、1939年図の通り、結局西別線は虹別(北虹別)まで延長開業し、今度は弟子屈線の仁田山-虹別間が廃止され、弟子屈線は仁田山が終着ということになった。弟子屈線の廃止区間にあたる仁田山-虹別間は峠越えということもあり、虹別集落の生活圏を考慮すると、弟子屈線の線形より西別線の線形で殖民軌道が通じていることの方が望ましかったことが想像される。
 なお、この弟子屈線の仁田山-虹別の「一部廃止(弟子屈-仁田山のみ存続)」が行われたこと(可能性?)については、私は今回の調査を通じてはじめて知った。北海道の殖民軌道と森林鉄道が参照した原典資料では、この過程は記載されていなかったため、北海道の殖民軌道と森林鉄道の表では、当該「一部廃止」について無記載としているが、実施された可能性は高いと考える。


 釧網線弟子屈駅と虹別を結んだ殖民軌道弟子屈線については、地形図上に線形を記載した資料が残っているので、上に紹介する。虹別への行程が峠越だった様子がよくわかる。ちなみに現在では、この弟子屈線と、虹別から西別までを結んだ西別線の線形に沿うようにして、国道243号線が通っている。

↑北海道概況(1931年) ↑北海道概況(1934年) ↑北海道概況(1939年)

 わかりにくいかと思い、上図を再掲する。

 野付水道に面した海岸の集落に向かう殖民軌道の計画もあった。前述の通り省線標津線が、海岸ルートではなく、原野ルートとなった経緯も踏まえ、省線が通らないことが確定した地であったが、最終的にこれらの殖民軌道線も未成に終わる。殖民軌道予定計画30の別海線(西別駅(場所)-別海)と春別線(中春別停留所;国鉄標津線においては「春別駅」(場所)-春別)の2線が該当する。ちなみに、かつて別海の役場は、海に面した集落(現在の「本別海」)にあった。殖民軌道予定計画にある「別海」とは、現在の本別海のことである。1931年図と1934年図では、野付水道に面した集落に、「二級町村別海の役場」の所在地を示す◎の地図記号が記載されており、そこに別海村役場があったことが分かる。その後、西別駅周辺が発展し、別海の役場もそちらに移り(1939年図では、役場を示す◎の位置が移転している)、標津線の西別駅も別海駅と改名されることになる。その経緯を踏まえていないと、混乱をきたすところである。
 中春別停留所(省線「春別駅」)駅と春日を結んだ殖民軌道中春別線は、1936年開業の路線で、1939年図で既成線として記載されている。しかし、殖民軌道予定計画には当該路線の計画がない。
 1931年図で西春別-上春別を結んだ上春別線は、過渡期的な存在で、その大部分は最終的に西別線に組み込まれ、途中の春日から終着の上春別までは、中春別線に組み込まれる。このあたり、北海道概況の挿入図は誤記載があり、34年図で西春別-中西別間にある計画線は、本来は西春別と上春別の間(春日)と中西別の間に引かれるべきである。また、39年図もこの誤植を踏襲してしまっており、廣野と西春別の間に「春日を経由しない」線形を書き加えてしまっているが、このような軌道線形は、計画にも、各種記録にも存在しない。このあたりの本来の線形については、北海道の殖民軌道と森林鉄道を参考にしていただきたい。

 左図は、上記の内容について、北海道概況の挿図と文字情報だけでは、まだ分かりにくいところがあると思い、現在の地図上で1939年当時の軌道線形を復元してみたもの。
 3つの年代の北海道概況の挿図を並べてみたときに、1931年図と1934年図では「中西別停留所」が記載されている一方で、1939年図では「廣野停留所」が記載されているにもかかわらず「中西別停留所」の記載が省略されてしまっている。これが、3つの図を見比べたときに、線形の変遷を「分かりにくく」させる一つの要因であろう。
 そこで、この2つの停留所の位置関係が一目で分かるようにしてみた。

 上図は1950年の「別海村管内図」である。管内図内で殖民軌道線と停留所名も記載されていたので、カーソルオンでそれらをハイライトするようにした。停留所の数が少ないが、おそらく1950年時点での代表的な停留所のみ、その名称を記載したのだと思う。春別市街停留場横のT字路の交点が「春日」であり、西別線は、ここでほぼ直角に曲がる線形をしていたことがわかる。


 殖民軌道予定計画31)の風蓮線は、当初殖民軌道根室線の風蓮から西に向かい、円朱別に至る計画であった。しかし、標津線開業後、根室線と標津線の分岐駅である厚床駅(場所)を起点に、途中の上風蓮までが開業することとなり、1939年図ではそれが既成線として描かれている。
 一方で、風蓮線が目指した円朱別には、省線根室線の茶内駅(場所)を起点とした殖民軌道予定計画31)の茶内線が1931年図ですでに既成線となっている。
 この茶内線(のちの簡易軌道円朱別線)と風蓮線を連絡する計画については、1929年の北海道廰の資料が存在し、以下にご覧いただく。

 上図の通り、風蓮川の渡河地点について、2ルートを検討していたようだ。


 上図は1966年発行の5万分の1地形図「姉別」に加筆したもの。風蓮線は、起点が根室線厚床駅から標津線奥行臼駅(場所)に起点が変更となっている。
 また、風蓮線は「別海村営軌道」、茶内線は「浜中町営軌道」に、経営形態に即して名称を変えている。東円朱別と上風蓮の間では、1965年になって、浜中町営軌道が、軌道を開南まで延長するが、ついに連結することはなかった。なお、浜中町営軌道でありながら、町村境を越えて、別海村開南まで軌道が延長されたというのは、きわめて異例なことで、他に類例がない。おそらく、茶内にある雪印の製乳工場の集乳の便を図るものであったと思われる。


 その他の殖民軌道では、1939年図では、標茶駅(場所)を起点とし、宮文に至る殖民軌道が、既成線として描かれている。1938年に開業した知安別線である。この路線は、殖民軌道予定計画に記載がなく、1931年図と1934年図にも計画線として記載がないことから、急遽計画の上、建設されたと想像する。



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↑北海道概況(1931年) ↑北海道概況(1934年) ↑北海道概況(1939年)

 次は、釧路周辺の殖民軌道について見て行こう。
 殖民軌道予定計画15)のオソツベツ線(二山~オソツベツ)と(18)のヌマホロ線(ヌマホローコッタロ)は、3つの図それぞれで、釧網線五十石駅(場所)と茅沼駅(場所)を起点とする計画線として記載されている。そのため、「二山」は「五十石」の、「コッタロ」は「茅沼」の旧名称として扱った。ちなみに、「コッタロ」は、現在では茅沼の西の地域の地名で、展望台の名称等に使用されている。「二山」の名称については、関連する資料を現時点で見つけられていない。
 オソツベツ線とヌマホロ線の目的地と同地域と考えられる「上オソベツ」及び「沼幌」への殖民軌道に関しては、釧網線標茶駅付近(場所)を起点とする(新)標茶線が後に通じることとなる。上オソベツへの路線は1954年に、沼幌への路線は上オソベツへの路線の途中から分岐する形で1966年に建設され、運用開始となる。(新)標茶線については、線形と合わせて、北海道の殖民軌道と森林鉄道にまとめている。
 釧網線塘路駅(場所)を起点に、釧路湿原を通って上久著路に向かっているのは、殖民軌道予定計画13)のクチョロ線。根室線の新富士駅(場所)を起点に「平戸前」、「下雪裡」を経て「中雪裡」に至るのは殖民軌道予定計画12)の雪裡線だが、両線は、雪裡線を中雪裡から延長し、中久著路で連絡する計画があったようだ。当該区間は未成に終わる。雪裡線は、後に鶴居村営軌道となる。なお、殖民軌道予定計画では、雪裡線の起点を「平戸前」としているが、これは正しくは「新富士」であろう。
 雪裡線の途中、下幌呂で分岐するようにして上幌呂に向かうのは、殖民軌道予定計画13)のホロロ線で、1931年図と1934年図では計画線、1939年図で既設線となっているが、資料では1929年の時点ですでに上幌呂まで開業、1943年にさらに新幌呂まで延長されたこととなっている。なお、幌呂線は、後に雪裡線とともに、鶴居村営軌道となる。
 殖民軌道予定計画19)のニニシベツ線は、1931年図と1934年図にある通り、当初、雪裡線の途中の平戸前を起点とする計画であったが、最終的に雄別鉄道の穏称平駅(場所)を起点として1937年に開業する。1939年図はその開業後の既成線の線形が示されている。  


 左の写真は、「1号機関車から超特急電車まで(1964)」に掲載されていた鶴居村営軌道(雪裡線)のディーゼルカーの走行風景。
 鶴居村営軌道は1952年の動力化を経て、1968年まで活躍した。

 右写真は、1970年に撮影された雄別鉄道の山花駅。かつての穏禰平駅で、1956年に山花駅と改称された
 1964年まで、この駅を起点とする仁々志別線が運用された。


 その他の根釧地区では、釧路西部の太平洋岸に注目すると、1931年図1934年図では根室線の庶路駅(場所)を起点とする森林鉄道の建設計画があったようだが、1939年図で、この計画線は表記されなくなっている。
 また3つの図において、根室線白糠駅(場所)を起点とし、上茶路に向かう殖民軌道予定計画20)の茶路線、根室線音別駅(場所)を起点とし、上音別に向かう殖民軌道予定計画21)の音別線が、それぞれ計画線として表記されている。
 茶路線、音別線ともに、殖民軌道として開通することはなかったが、茶路線に関しては、白糠駅から茶路の先にある加利庶炭砿(カリショ炭山)までを結ぶ運炭軌道が1914年頃~1938年まで運用されていた。また、上茶路までの線形は、1964年に国鉄白糠線として開通することとなる。
 また最西端の根室に目を移すと、1931年図1934年図1939年図のそれぞれで、根室-歯舞間を結んだ根室拓殖鉄道(1929-1959)が、私設軌道線の表記で記載されている。




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十勝北部


↑北海道概況(1931年)から
↑北海道概況(1934年)から
↑北海道概況(1939年)から

 次に十勝北部を見て行こう。ただ、この地域に関しては、他の地域ほどには、3つの図面の間に大きな差異はない。省線で変化があるのは、引用図中央を南北に通る士幌線で、1931年図では、上士幌までが既設線、上士幌以北が計画線表記となっているが、1935年図上士幌-十勝三股間が「未成線」に繰り上がり、1939年図では、そのうち糠平までが既成線となる。1939年中に十勝三股まで開通することとなる。
 また、士幌線と歩調を合わせるように、新得を起点とする北海道拓殖鉄道は、1931年図では中音更が終点となっているが、1935年図では、上士幌までが既成線表記となる。
 森林鉄道では、引用図北東端の網走線(1961年に池北線と改称)淕別(陸別)駅(場所)を起点に、東に陸別森林鉄道、西に斗満森林鉄道、そのすぐ南には、足寄駅(場所)を起点とする足寄森林鉄道の線形が記載されている。なお、その南の本別駅(場所)から東に向かう森林鉄道の計画線が記載されているが、ほぼ同じ線形で富士製紙馬鉄が1940年代まで運用されているので、機能的に互換の関係と言える。
 網走線(池北線)と士幌線の間で目を引くのは「目遠」という起点名をもった森林鉄道の計画で、「目遠」は現在の芽登温泉(場所)の付近と思われるが、他の鉄道と接続していない計画のため、やや特異に思える。
 士幌線沿線の森林鉄道では、結果的に士幌線の終着駅となった十勝三股駅(場所)を起点とする森林鉄道の予定線があり、これがのちの音更本流森林鉄道(1944-1958)となる。また、十勝三股駅の手前の幌加駅(場所)、糠平駅(場所)を起点とする森林鉄道計画もあったようだが、これらは実現しなかった。
 引用図西端に目を転ずれば、根室線の落合駅(場所)を起点として北に落合森林鉄道が伸びているが、なぜか1939年図では、途中から計画線の表記となっている。実際には、落合森林鉄道は1928年から1945年にかけて運用されたとされている。また、落合駅からは南に向かう森林鉄道の計画線も見えるのだが、こちらは、トマム森林鉄道として、1922年から28年にかけて運用されたものであり、これらの北海道概況が作成された時には、すでに廃止されているはずである。そのあたりの表記の意図は不明である。
 計画線として記載されていない大規模森林鉄道としては、北海道拓殖鉄道屈足駅(場所)を起点とし、十勝川上流深くまで敷設され、トムラウシ山の登山者も運んだ十勝上川森林鉄道があるが、いずれの図でもその線形は記載されていない。ただ、その代わりに、その線形を代替するように「トムラウシ」まで、省線予定線があったことがわかる。
 十勝上川森林鉄道などの敷設された森林鉄道については、北海道の殖民軌道と森林鉄道にまとめているので、そちらを併せて参考にしてほしい。
 その他の鉄道では、根室線十勝清水駅(場所)を起点とし、明治製糖清水工場へ甜菜を搬送することを主目的に敷設された河西鉄道(のちの十勝鉄道清水部線)の線形が描かれている。3つの図では、北に向かう線路は「上幌内」が終点となっているが、実際には、そこからスイッチバックして上然別へ向かい、そこで再度スイッチバックし、鹿追の南の万代橋駅まで至るという独特な線形で、1929年にはすでに開業していた。この鹿追-万代橋の間には、北海道拓殖鉄道との立体交差があった。
 
書籍「ローカル線風土記 北海道、東北、関東」にて紹介されていた十勝三股駅の風景。1978年に士幌線糠平-十勝三股間の列車運行は終了し、バス代行輸送となる。 書籍「ローカル線風土記 北海道、東北、関東」にて紹介されていた往年の十勝三股駅の風景。 十勝三股駅を起点とする音更本流森林鉄道。1952年頃の写真
北海道拓殖鉄道の屈足駅を起点とし、大雪山の深部へと至っていた十勝上川森林鉄道。上の写真は、「大雪山国立公園指定50周年記念写真集」に掲載されていたもので、キャプションには「1955年頃の森林鉄道。トムラウシ登山はこの林鉄に乗って。」とある。 北海道拓殖鉄道屈足駅の様子。新得町七十年史に掲載。撮影年は不明。 製糖工場は、戦時には航空機燃料に使用されるブタノール製造を行った。河西鉄道(十勝鉄道清水部線)におけるブタノール輸送の様子。「日本甜菜製糖四十年史(1961)」から。
↑北海道概況(1931年) ↑北海道概況(1934年) ↑北海道概況(1939年)

 十勝北部には、北海道拓殖鉄道、河西鉄道、それに森林鉄道群が線路を巡らしていたこともあり、殖民軌道に関しては、それほど発達しなかった。
 とはいえ、殖民軌道の計画自体はいくつか存在し、それらが集中しているのは、本別付近となる。
 中で、唯一運用実績があるのは、網走線(のちの池北線)池田町の高島駅(場所)を起点とし、士幌町の居辺に至った殖民軌道予定計画6)のオルベ線(居辺線)であり、1935年から1948年まで運用されたとされる。1931年図で計画線だったものが1934年図ですでに既成線の表記となっている。
 殖民軌道予定計画7)のビリベツ線は、本別駅(場所)を起点とし、北西に向かう計画線であったが、未成に終わる。あるいは、目遠(芽登)からの森林鉄道の計画と一体的なものであったのかもしれない。また、本別を起点とした「美里別森林鉄道」が存在していたという説もある。本別町の史書に目を通せば、本別から美里別川に沿って遡り、足寄町喜登牛へ至るの森林軌道の建設の請願の話はいくらか出てくるが、本別を起点とする軌道群計画は、記述によって殖民軌道の体裁だったり、森林軌道の体裁だったりして判別のつかないところがある。また、実際に本別から美里別川に沿った軌道が運用されたという資料は、本稿執筆の時点で見つけられていない。本別駅から東に向かう森林鉄道計画線は、前述の通り、1910年代から1940年代にかけて運用された富士製紙馬鉄線の線形と重なる。
 殖民軌道予定計画9)の浦幌線は、やはり本別駅を起点として、浦幌町の「中浦幌」を目指す予定線、殖民軌道予定計画10)の勇足線は、網走線(池北線)勇足駅(場所)を起点とし、「上勇足」に向かう予定線であったが、いずれも未成のまま終わっている。  


 上図は本別町五十年史(1953)に掲載されていたもので、1920年頃の本別町中心部の地図。東を上としたもの。カーソルオンで鉄道関連施設等をハイライトする。
 浦幌川水域の集材地域に向かう富士製紙馬鉄の線形も記載されている。
 殖民軌道ビリベツ線もしくは美里別森林軌道は、利別川の対岸を美里別川に沿って遡る計画線だった。

 右写真は撮影時期不明ながら本別駅の風景を撮影したもので、背景に富士製紙のものと思われる貯木場が広がっている。


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十勝南部


↑北海道概況(1931年)から
↑北海道概況(1934年)から
↑北海道概況(1939年)から

 十勝南部については、十勝北部と似たような状況で、甜菜の搬送を主目的とする十勝鉄道がすでに路線網を広げている。それでも引用図内を南北に通る広尾線の東側のエリアを中心に、様々な殖民軌道の計画線があったのだが、どれ一つとして開業に至るものはなかった。なので、このエリアはごく簡単に見ていく。
 省線では、帯広から南進する広尾線があり、1931年図1934年図では、大樹までが既設線、大樹以南が未成線表記となっているが、1939年図では広尾までが完成している。
 なお、夢と終った省線計画線としては様々なものが記載されており、十勝北部でも紹介した根室線芽室駅(場所)を起点にトムラウシに向かうもののほか、根室線御影駅(場所)を起点に日高山脈を越えて右左府(うさっぷ;のちの富内線日高町駅(場所))を目指すもの、帯広駅を起点に同じく日高山脈を越えて日高線新冠駅(場所)を目指すもの、広尾線の終着・広尾駅(場所)からさらに南下し襟裳を経由し、日高線様似駅(場所)を目指すものなど、実に楽しい。
 これらの計画線のうち、一部でも別の形で軌道が敷かれたものとしては、十勝北部でも取り上げたように、トムラウシに向かう省線計画線の末端部は、十勝上川森林鉄道が敷設されたほか、御影を起点とするものについては、上芽室を経て久山に至る日本甜菜製糖清水工場のビート運搬用馬車鉄道がほぼ同じ線形をなぞったものと思われる。

 私鉄線に関しては、前述の通り、帯広駅を起点とする十勝鉄道が、上美宇、八千代、西太平、戸蔦と4つの終着駅をもつ路線網を十勝平野に展開している。
 以下、殖民軌道の計画線について、地図の表記と照合してみよう。
 殖民軌道予定計画4)の上札内線は広尾線大正駅(場所)を起点とし、上札内に至るもの。殖民軌道予定計画5)の糠内線は根室線止若駅(やむわっか;現在の幕別駅)(場所)を起点とし、糠内を経て以平に至るものとされており、1931年図にはその線形が予定線として記載されているが、いるが、1934年図以降では、その末端部は記載されなくなっている。
 殖民軌道予定計画8)當縁(とうぶち)線「中イタラタラキ~トープイ」という、「いったいどこなんだ?」を極めたような区間であるが、これらの挿図を見ると、糠内線の途中で分岐し、トープイ(奥糠内)に至るものであったことが分かる。殖民軌道予定計画11)は広尾線大正駅(幸震)と糠内を結ぶもので、殖民軌道路線網は、大正、糠内の2地点を中心に計画されていたようだ。いずれも未成線に終わったが、止若駅を起点に南進する実際に運用された軌道としては、新田帯革十勝製渋工場による木材運搬用の馬車軌道が挙げられるだろう。


 十勝鉄道には珍しい「四線区間」があったので、この機会に紹介したい。
 上左図は1958年発行の2万5千分の1地形図「帯広南部」の十勝鉄道帯広大通-工場前区間を含むエリアとなる。カーソルオンで、軌間を表記する。十勝鉄道は軌間762mmの軽便鉄道であったが、省線へ連絡する貨物線から新帯広駅を経て、北海道製糖工場までは軌間1,067mmと併用する形で「四線区間」と呼ばれた。
 上右写真は、加田芳英著の「十勝の国私鉄覚え書」で紹介されている貴重な当該区間の軌道である。奥に工場前駅があるのだが、駅のホームに向かう右の軌道は762mm、正面にある看貫場を経て工場に向かう軌道は1,067mmと軌間が異なる。手前の分岐点は一瞬ポイントのように見えるが、2つの軌道がクロスしているだけである。  

 十勝南部では、十勝鉄道の風景写真を各資料から一部紹介することとしたい。
 上写真は、加田芳英著の「十勝の国私鉄覚え書」で紹介されている十勝鉄道の起点であった帯広大通駅の駅舎。三角形を組み合わせたロッジ風の素敵なデザインだ。撮影年は不明。
 上写真は1974年に刊行された有名な図書「日本の軽便鉄道」から。帯広大通駅を出た十勝鉄道の列車。日立製のディーゼル機関車が牽いている。撮影年は不明。

 左写真は、1937年に刊行された「帯広市制記念写真帖」に掲載されている北海道製糖の工場。手前に製糖の原料である甜菜の輸送を主目的に敷設された十勝鉄道の軌道がある。

 右写真は、加田芳英著の「十勝の国私鉄覚え書」で紹介されている十勝鉄道の終点の一つである八千代駅。撮影年は不明ながら、十勝鉄道の末端部の写真は、とても貴重なものに違いない。


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胆振・後志周辺



 旭川・札幌周辺については、特に紹介すべき点はないと思う。もちろん、各種運炭鉄道や、江当軌道(江別~当別)、軽石軌道(手稲~石狩)といった軽便鉄道の線形が記載されてはいるが、それらは北海道概況ならではの情報というわけではなく、本HPでも、過去の地形図や地勢図の紹介で触れてきたものと重複している。
 また、当該地域内の殖民軌道では、唯一運用されたものとして当別線があるが、北海道概況挿図には予定線としての記載も特にはない。当別線以外では、予定線すら存在しない。
 加えて、なぜかこのエリアに関しては、森林鉄道の線形も記載が省かれており、そういった点でも、特に目新しい情報はない。
 省線(国鉄線)の計画線としても、日本海沿いに札幌と増毛を結ぶものがあるくらいである。まあ、このエリアに関しては、道内の他地域と比較したときに、30年代がそこまで鉄道敷設においてホットな時代ではなかった(運炭を中心にすでに鉄道網がある程度行き渡っていた)ということだと思う。
 そこで、これらの地域の詳細を見ていくことは割愛させていただき、次の地域(胆振・後志周辺)に移らせていただきたい。
 なお、繰り返しになるが、原典は下記から閲覧可能なので、紹介していない地域を含めてマップをご覧いただきたい方は、以下のリンク先から、ご覧いただきたい。

  北海道概況 昭和6年(1931年)
  北海道概況 昭和9年(1934年)
  北海道概況 昭和14年(1939年)

 というわけで、次地域として、「胆振・後志周辺」の紹介に進みたい。
↑北海道概況(1931年)から
↑北海道概況(1934年)から
↑北海道概況(1939年)から

 省線(国鉄線)については、3つの図を通じて違いはない。
 のちの千歳線となる路線は、これらの時代では私鉄北海道鉄道線であり、札幌(苗穂)-千歳-沼ノ端-穂別-辺富内という経路であり、これがのちに国鉄千歳線と富内線になる。
 3つの図では、北海道鉄道線と別に省線の予定線として札幌-苫小牧、そして鵡川-右左府(うさっぷ;のちの日高町)があり、かつ札幌-苫小牧線の途中で分岐して追分へという計画もあったようだが、最終的には国が北海道鉄道線を買収することで、それらが国鉄「千歳線」「富内線」となり、省線計画線であった札幌-苫小牧線の代替もこれに含まれることとなる。追分へのルートは、のちの石勝線の前身と言えるだろう。
 難題である日高山脈周辺の連絡ルートは、十勝北部でも紹介した通り、様々に検討されていたようで、1931年図1934年図では、夕張線登川駅(場所)と日高線鵡川駅(場所)から、占冠を経て根室線金山駅(場所)に至るルート、1939年図では富内線を延長し日高線鵡川駅から、右左府(うさっぷ;のちの富内線日高町駅(場所))から根室線御影駅(場所)に至るルートが予定線として記載されている。地域間交通という視点に立てば、これらすべてが「石勝線」の前身と言えるものであろう。
 倶知安と伊達を結んだ胆振線に関しては、倶知安-京極-脇方が1931年図時点で京極線として既成である。一方で胆振鉄道によって1928年に開業した京極駅(場所)-喜茂別駅(場所)間は、3図ともに「私設鉄道線」表記による既成線、後に胆振線となる残存区間(喜茂別-伊達)は3図ともに予定線の表記である。
 殖民軌道については、まず日高の平取村の山中にある線形に注目したい。1931年図で計画線表記だった荷菜-上貫気別間の線形が、1934年図1939年図では既成線となっている。殖民軌道予定計画29)の貫氣別線である。実際に運用された路線であるが、他の鉄道線に接していないという点で特徴的である。この貫気別線は、日高線佐瑠太駅(のちの富川駅(場所))を起点とする「沙留鉄道」の末端である平取まで延伸することで、沙留鉄道と接続する計画があったとされるが、結局当該区間は開通することなく、他の鉄道と接続することのないまま運用を終了している。
 また、引用図西端の日本海側では、1931年図1934年図1939年図の3図を通じて、函館線上目名駅(場所)を起点とし、後志川(現在の尻別川)の河口の磯谷に向かう予定線が記載されている。殖民軌道予定計画3)の磯谷線であるが、未成に終わった。


 左写真は、平取町史で紹介されている沙留鉄道(佐瑠太-平取)。軌間762mmで、全長13.1kmの鉄道で、1922年から1951年まで運用された。この鉄道との接続を計画した殖民軌道貫気別(貫別)線は、接続を果たすことなく、1940年に運用を終えた。
 右写真は、蘭越町史で紹介されている上目名駅の写真。後に利用者の減少により1984年に廃駅となるが、蘭越町史では、木材の搬出でにぎわい、駅職員も8名が配された歴史を紹介してくれている。殖民軌道磯谷線は、この駅を起点とする計画だったとされている。
 ただし、殖民軌道予定計画と3つの北海道概況とも、磯谷線の起点を「上目名駅」と表記しているのであるが、これは実は疑わしい。当該地の地形等を考慮すると、本来、起点駅は目名駅(場所)という計画だった可能性が高いと考える。
↑北海道概況(1931年) ↑北海道概況(1934年) ↑北海道概況(1939年)

 洞爺湖・羊蹄山の周辺について見て行こう。
 引用西端の狩太駅は現在のニセコ駅(場所)であり、そこを起点として殖民軌道予定計画2)の眞狩線が記載されている。1936年に眞狩までが開業しているのだが、1931年図と1934年図では、その先の留寿都までが予定線として記載されている。ただし、殖民軌道予定計画では、あくまで眞狩までの計画となっており、留寿都までの計画線表記は、誤植の可能性もある。
 太平洋岸の室蘭線白老駅(場所)を起点とし、徳舜瞥(のちの新大滝)に向かう計画線は、殖民軌道予定計画に記載されていない。この「徳舜瞥線」の計画の詳細はわからないが、徳舜瞥には、1940年に伊達紋別から胆振縦貫鉄道が開通することとなり、少なくともその時点でこの計画は撤回されたと考えられる。
 また、鉄道計画線として、洞爺湖の西を経由して、壮瞥と京極を結ぶ計画もあったようだ。
 洞爺湖西岸の鉄道線は実現しなかったが、一部が予定線表記となっている倶知安-京極(-脇方)-喜茂別-徳舜瞥(新大滝)-壮瞥-伊達紋別というルートについては、のちに全体が国鉄「胆振線」という形で全通を果たすことになる。胆振線の周辺は、脇方、喜茂別、徳舜瞥など有力な鉄山が多くあり、虻田鉱山とともに室蘭で行われる製鉄のための原料の採掘と搬送が盛んに行われたエリアである。
 室蘭線登別駅と登別温泉を結んでいた登別温泉軌道は、1933年で廃止となっている。

 殖民軌道眞狩線の線形そのものが地形図に記載されたことはないが、1957年発行の2万5千分の1地形図「狩太」では、廃止後の線形が徒歩道として記載されている。上図、カーソルオンでハイライトする。  殖民軌道眞狩線の様子を収めた貴重な写真。
 倶知安鉱山で算出される鉄鉱石の積み出しで賑わった胆振線脇方駅(場所)。1969年に倶知安鉱山が閉山し、1970年に脇方駅も廃止された。  「三十年の歩み」(日鉄鉱業株式会社 1971)にて紹介されていた脇方駅の後背に建つ北海道鉱業本部事務所。倶知安鉱山の鉱務所。
 倶知安鉱山では、脇方駅横から採鉱所まで、運鉱用の軌道が敷設・運用されていた。上図は、図書「鉄鉱調査概要(1932)」に掲載されている倶知安(脇方)鉱山地図から、軌道部分を切り出したもので、カーソルオンで、関連するオブジェクト等をハイライトする。
 運鉱軌道の線形と、積み替えに対応した脇方駅の様子をうかがうことが出来る。
 倶知安鉱山の風景。左写真は、日鉄鉱業株式会社創立拾年史(1949)にて紹介されている採鉱所の風景。運鉱用の軌道が見える。
 中央写真は、日鉄鉱業四十年史(1979)にて紹介されている倶知安鉱山の切羽の様子。
 右写真は、日鉄鉱業株式会社創立拾年史(1949)にて紹介されている倶知安鉱山の貯鉱所。手前に省線がある。
 こちらもご紹介しよう。喜茂別町史から、1956年の喜茂別町の市街図。
 胆振線喜茂別駅(場所)を起点とする日鉄喜茂別鉱山専用鉄道(地図内で「日鉄線」と記載)の線形と、貨物駅が記載されている。


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道南


↑北海道概況(1931年)から
↑北海道概況(1934年)から
↑北海道概況(1939年)から

 道南については、函館周辺について絞って紹介させていただきたい。前項である「胆振・後志周辺」との中間部を飛ばしてしまった形であるが、この中間部では、函館線八雲駅(場所)と瀬棚線今金駅(場所)の間を結ぶ省線計画線が記載されているほかは、とりあげるべき「北海道概況ならではの情報」はないと判断した。

 例によって省線の変化から見ていくと、1931年図1934年図では、函館線の五稜郭駅(場所)を起点とし、松前半島を西に向かう路線は木古内駅(場所)までが既成、そこから二手に計画線が分かれるという記載であったが、1939年図ではこれらが延伸され、江差に向かう江差線は、江差駅(場所)まで全通、福山(のちの松前)に向かう福山線(のちの松前線)は、途中の碁盤坂駅(のちの千軒駅(場所))までが開通している。なお、1939年図で「碁盤澤」とあるのは「碁盤坂」の誤植である。
 また、函館線五稜郭駅から、反対側の亀田半島に延びる戸井線は、1939年図で計画線から未成線に表記が変更されている。戸井線は工事進捗率9割まで進みながら、戦時の資材不足等が影響し、ついに竣工することはなかった。
 省線以外では、函館線大沼駅(場所)を起点とし、鹿部に至る大沼電鉄、函館線森駅(場所)を起点とし砂原に向かう渡島海岸鉄道の線形が3図共通で記載されている。これら2つの鉄道は、現在の函館線の「砂原回り」と呼ばれている区間の前身と言えるものだろう。
 

 「七飯町史」で紹介されている1931年に撮影された大沼駅の写真。中央右に省線の駅舎、左やや奥に大沼電鉄の駅が見える。  大沼電鉄で運用された車両。大沼電鉄は函館線砂原回り開業後の1945年に一度廃止されているが、1948年に銚子口駅(場所)を起点に営業を再開する。その第2期の1953年に撮影されたもの。  道床が完成し、線路も敷設が終了した戸井線の路盤。1954年に撮影されたもの。湯の川温泉と函館空港横を通る線形は、完成していれば、それなりに有用な路線となったのではと思わせる。

↑北海道概況(1931年) ↑北海道概況(1934年) ↑北海道概況(1939年)

 1930年代の北海道概況の挿図における道南の注目個所は殖民軌道予定計画28)の俄虫(がむし)線(館-俄虫)である。なお、殖民軌道予定計画の「管理人補足事項」として『「俄虫」は現在の「厚沢部」』と記載させていただいている。一方で、上に挙げた挿図では、区間が厚沢部(あっさぶ)-俄虫となっており、私の注記の厚沢部=俄虫と矛盾する。これについては、私の注記が正しく、俄虫は厚沢部の旧称であるため、本来、上の殖民軌道計画線においても、西端を「厚沢部(もしくは俄虫)」としたならば、東端は「館」と表記しなくてはならない。
 それは単に表記の問題なのであるが、今回、この殖民軌道予定線について調べてみると、それなりに面白いエピソードがあったので、紹介してみたい。
 そもそも、挿図に描かれた俄虫線の線形を見ると、他の鉄道線に連絡しておらず「宙に浮いた」ような存在ではないか。その経緯も判明することになるだろう。
 さて、江差に至る省線「江差線」は、木古内から上ノ国を経て江差に至っている。江差と函館を結ぶ省線の計画については、最終的に開業に至った上ノ国を通る「上ノ国ルート」と別に、厚沢部を通る「厚沢部ルート」も候補として考えられていた。


 上図は1957年の地図に大まかな厚沢部ルートを書き加えたもの。厚沢部ルートには函館線七飯駅(場所)を起点とするものと、江差線上磯駅(場所)を起点とするものの2通りがあった。
 当時の省線の誘因には、様々に政治的な力が働いたことはあらためて言うまでもないところであるが、厚沢部町の歴史をまとめた「桜鳥 厚沢部町の歩み 第2巻」には、陳情の際に国家権力側から「おみやげは持ってきたか」と問いただされるなど、かなり生々しいやりとりがそのまま記述されていて面白いのだが、最終的にこの「上ノ国 vs 厚沢部」の省線誘致合戦は上ノ国ルートで決着し、1936年に江差線が江差駅まで開業したこととなる。
 江差線の誘致という大魚を逸したわけだが、厚沢部(俄虫)としては、地域の利便性の確保のため、どうしても軌道による交通機関が欲しい、ということで殖民軌道俄虫線の構想が持ち上がってくる。
 江差線が上ノ国ルートに決まった直後の、1927年ごろから、今度は鉄道が開業する江差との間を結ぶ殖民軌道の建設が地元から嘆願されるようになる。
 1934年11月、殖民軌道予定線を視察した道庁吉田慶一属の復命書には、以下の一説がある。
 「全長約13哩ノ内当初館・俄虫間5哩ヲ予定線トシテ計上シ、俄虫・江差間8哩ハ地方費道ニ依ルモノトナシタルニ」
 つまり、館-俄虫間は、殖民軌道を敷設し、俄虫-江差間は、地方費道として整備する形としつつ(管理人注:この1934年の復命書に登場する「俄虫-江差間を含む地方費道」は、1920年認定の北海道地方費道1号札幌江差線のことである)、殖民軌道も最終的には江差まで延長することを念頭としており、同じ復命書内でも、殖民軌道もまた江差まで通じる必要があることを説明している。つまり、館-俄虫間は表面上の「当初の」計画線であり、最終的には江差まで延長する前提のあるものだったのだ。
 その上で、当該復命書において、館と江差を結ぶ軌道線については、2つの線形が候補して挙げられている。以下の2線だ。

 A線 館市街地 鶉越 鶉本村 川渡って赤沼 小黒部 中網 越前 問屋 中崎 土場 馬窪野 田沢 江差
 B線 館市街地(川ヲ渡リ) 沼ノ沢 竃ノ沢 当路 (川ニ沿エ下リ) 上ノ山 俄虫 長道路ヲ通リ目名 田沢 江差

 「桜鳥 厚沢部町の歩み 第2巻」には、その線形の図面も掲載されている。なぜか掲載図は、左右、上下ともに反転してしまっているので、修正したものをご覧いただきたい。
 
 上図が「桜鳥 厚沢部町の歩み 第2巻」に掲載されていた、A線、B線2つのルートである。これを前述の経由地を停留所と見立てて現在の地図上に描いてみたのか、次の図である。  

 ちなみにルートAが経由する小黒部(おぐろっぺ)は、幻の鉄道・軌道線形の復元~地形図に記載されなかった鉄路で紹介させていただいた江差町泊地区の「軌道客土事業」が実施された場所であり、そういった意味で、俄虫線が通ることはなかったが、軌道による開拓の文化のある場所となったところだ。
 このA線とB線に関して、同じく1934年11月、殖民軌道予定線を視察した道庁吉田慶一属の復命書では、「(B線は)其延長ニ於テ短縮セラルルノ利アルモ概シテ地形悪シク、殊ニ目名・田沢間ニ於テ甚シキモノアリ」「工費ノ節約ト利用範囲ノ広キトノ点に於テ(A線)ヲ優レルモノト思ハルルモ視察ニ過ギサルヲ以テ比較調査ヲ要スルモノトス。」とあり、結論は出さないものの、A線の方を推している。
 ただし、俄虫線はその後の戦時となったこともあり、着工されることはなかった。

 戦後になって、再び俄虫線の敷設の要望が地元から高まることとなるのだが、その顛末も「桜鳥 厚沢部町の歩み 第2巻」に書いてある。これは中々意外な結末であるのだが、1948年に開拓状況を視察するため、厚沢部を訪れたGHQの陸軍少尉(名は記載されていない)の助言によるとされている。
 その助言というのは、冬季の運用に弱点のある殖民軌道ではなく、道路整備にそのお金をかけるべきである、という内容で、厚沢部側が、そうはいっても、自動車を購入・維持するお金も、燃料を恒常的に入手する手段もない、と主張したところ、その陸軍少尉は「自動車や油は米国からよこす」とあっさり述べたのだそうである。
 この陸軍少尉の言が最終的に履行されたのかどうかまでは分からない(あるいは、私がそこまで資料を読めていない)のだが、いずれにしても、俄虫線は、戦争を跨ぐ形で、あまりにも計画線のまま長きにわたって放置し過ぎたために、着工の機運を損なった、と見なすべきだろう。
 本ページで紹介した雄武線が、1951年に着工するも、途中で工事を打ち切ったことを考えると、陸軍少尉の助言は、「米国から小自治体への直接的な経済支援」という稀有な前提があったとは言え、大局を得たものではあったのだろう。
 


 以上、1930年代に編纂された「北海道概況」から、当時の殖民軌道や森林鉄道の計画線を中心に、北海道の開拓の動きを俯瞰してみた。鉄道や地図に興味がある人には、面白い内容になっていると思う。また、そもそもどのような地域を結ぶ計画だったのか、当時の計画に記載された軌道両端の「地名」だけでは推測しきれないところもあるので、これらの北海道概況に記載された線形との突合は、管理人自身としても、全体像がわかりやすくなる効果があった。
 また、最終的に運用に至らなかった軌道群においても、雄武線や俄虫線など、その背景を含めて、この機会に情報を整理することが出来たと思う。
 他のページ同様に、内容を追加できる資料等を見つけることができたら、そのつど更新していきたい。




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おまけ・下川鉱山の専用軌道



   興味深い資料見つけていながら、他のページで記載する機会のなかった「(新)下川鉱山の専用軌道」について、道内にあったいくつかの鉱山専用軌道の話題に触れることとなった当ページの場を借りてご紹介したい。
 下川鉱山は道北、名寄市の東の下川町にあった鉱山で、銅、硫化鉄、亜鉛などを産出していた。1941年に三菱鉱業株式会社が探鉱と試掘を開始し、1945年には下川ペンケ川の上流に選鉱場が建設される。以下、わかりやすいように、付近の広域図を掲載する。


   上図は、米軍作成の戦後地図に線形を追うでも紹介させていただいている戦後に米軍が編纂した地図であるが、今回周辺図としてわかりやすいので使用することとした。
 カーソルオンで、鉄道線、森林鉄道線、それに新下川鑛山の位置をハイライトする。
 名寄線の下川駅(場所)と一の橋駅(場所)からそれぞれ南北に森林鉄道が敷設・運用されていたのだが、wikipediaでは新下川鑛山は最寄りのパンケ森林鉄道を送鉱に利用したとしており、間に横たわる尾根は、1941年当初は道路で、1950年には通洞(トンネル)で越していたとある。
 しかし、どうやらパンケ森林鉄道とは別に、直接名寄線下川駅まで送鉱が可能な軌道が運用されていたことが分かる資料がある。

 
【2024年9月6日追記】 下川鉱山専用軌道と周辺の森林鉄道の関係については、修正的な追記が必要です。後日、資料等を整理した上で、追記させていただく予定です。


 すぐに答えを書いてしまう。
 左図がその資料だ。原典は「北海道鉱山学会誌 4(3)1949」であり、そこに掲載されている「下川鑛山の地質図」に、軌道の線形が書いてある。
 左図をカーソルオンで、軌道線、河川等をハイライトする。西にある「パンケ川」に沿って(本図に記載されていないが)パンケ森林鉄道が敷設されていた。一方で下川鉱山専用軌道は、ペンケ川(下川ペンケ川)に沿って、直接下川駅の土場まで通じている。
 この論文では、この軌道についても具体的に記載されている。以下転載する。
 「省線下川駅、選鑛場間約10km(平均勾配1/100)間に軌間30吋(インチ)(=762mm)の軌道設備がある。8t蒸氣機關車3臺、4tガソリン機關車1臺で、鑛石の搬出並に鑛山経營用器材、生活必需物資の搬入を行つている(尚豫備として15t機關車2台を有してゐる。)鑛車は公稱3tの鐵製又は木製のものを使用し、現在は普通午前2列車、午後1列車各往復1囘の運行を實施している。」

 左写真は、北海道商工要覧 昭和30年版(1955)にて紹介されている三菱金属鉱業下川鉱業所の写真。1950年には選鉱場と下川駅を結ぶ架空索道が完成しているので、撮影当時に鉱山専用線が運用されていたかは不明。
 専用線の様子が分かる写真を見つけることは出来ていない。

 右写真は、1951年に毎日新聞社から刊行された「新北海道」という書籍で、「太平鉱業株式会社下川鉱業所」として紹介されている写真。1950年に三菱鉱業より分社し、太平鉱業株式会社下川鉱業所と組織を変えている。索道の搬器と思われるものが写っている。

 左写真は、上写真と同じく、1951年に毎日新聞社から刊行された「新北海道」という書籍で紹介されている下川鉱業所。軌道、もしくは軌道跡と思われるものを探したか、明らかなものは見つけられなかった。鉱山専用軌道の運用時期は、推測ながら1945~50年を中心とした時期と考える。これについても、別の資料が見つかったら、追記することとしたい。



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