名寄線(1970年頃)

 アルバムに、名寄線のことを「夢を追い続けた場所」と書かれている。名寄線は名寄からオホーツク海側の都市紋別を経て遠軽に至る路線で、撮影場所には事欠かないところだった。記録された写真の枚数も600近くあり、遠征の回数は4回程度だったのではないだろうか。主な撮影場所は3つある。天北峠を挟んだ一ノ橋駅と上興部駅の周辺、紋別の市街とその向こうにオホーツク海を見渡す紋別山、そして渚滑、沙留といったオホーツク海の沿岸部である。このあたりは鉄道を失った今でも、風景の美しいところであり、蒸気機関車の映えるフォトジェニックな場所である。
 本サイトでは、1970年代の写真について、路線・場所別に分類してきたが、名寄線に関しては、1970年頃と1974,75年頃の2つに大分した上でまとめることとした。というのは、この間に上興部と一ノ橋の勾配を越えるため、両駅間を補機として往復していた9600がディーゼル機関車に置き換わるという大きな変化があったためである。 当ページには、1970年頃の写真をまとめた。1974年頃の写真については当該ページをご覧いただきたい。


上興部駅・周辺

 名寄線の一の橋駅と上興部の間の天北峠は、傾斜が急なことから、列車には補機が連結した。この時補機として活躍していたのは39687と59617であった。一ノ橋、上興部の両駅には補機が往復するための転車台が整備されていた。

1 上興部転車台上の39687

2 39687

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5 1970年4月1日 691レ

6 59617

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9 39617

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13 59617

14 39687

15 39687

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17 59618

18 59618 59618の煙室扉は、新得駅前のモニュメントとして残されている

19 59618

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23 上興部駅 59617


中興部駅


24 49666

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30 中興部駅

31 中興部駅

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沙留・渚滑付近


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35 列車を待って雪原で待機

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紋別山から


  オホーツク海の沿岸では網走に次ぐ都市で、名寄線の中心であった紋別市。中心産業である漁業と流氷観光で有名な町だ。その市街地は、標高334mの紋別山から海岸までの傾斜地に形成されており、「坂の街」という一面も持つ。そのため、紋別山からの俯瞰は、市街地の背景にオホーツク海が広がる眺望となり、撮影には絶好のロケーションであった。真っ白な流氷と、黒い蒸気機関車のコントラストが美しい。かつてはこの光景を見るため、多くのファンがかの地に集まったという。   
国土地理院発行1980年編集「紋別」 紋別山の傾斜と名寄線の位置関係がわかる 

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41 1970年4月2日 691レ

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その他


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65 後方の建物には「酒井木材株式会社」とある。
66 49600

67 49600 49600は美瑛町中町公園で静態保存されている

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71 69644

72 69644

73 紋別駅前の風景

74 紋別駅前の風景

75 紋別駅前の風景

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77 59691

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 1969年7月の名寄線時刻表。
 札幌、旭川、網走から優等列車が直通しており、賑やかだ。また、この時刻表に記載はないが、紋別-渚滑間は、渚滑線の客車も乗り入れており、この区間の列車本数は多かった。他線との乗り入れの様子を見ても、名寄駅で宗谷線、興部駅で興浜南線、渚滑駅で渚滑線、中湧別駅で湧網線と名寄線の湧別支線、遠軽駅で石北線と、活気に溢れている。この地方の移動と物流を担う名寄線の活躍ぶりがよく現れている。