幻の鉄道・軌道線形の復元~地形図に記載されなかった鉄路

   
序章 第1章 第2章 第3章 (作成予定)




第3章 美唄周辺の客土軌道群


 
 北海道は、食糧生産基地だ。北海道を旅すれば、広大な耕作地や水田を目にする機会は多いだろう。それだけでなく、酪農業や漁業といった「食料」に直結する産業が盛んだ。北海道の人口は、日本の4%を占めるに過ぎないが、JR貨物の全取扱のうち、12%強は北海道関連の輸送が占めているそうだ。北海道で生産された食料を他地域に運ぶ物流需要の大きさを物語る数字だ。ちなみに、日本の食糧自給率はカロリーベースで言えば36%だそうだが、こと北海道に限れば180%となる。この数字は農業国であるアメリカやフランスをも上回るものだ。

 そのうち稲作については、かつては生産の北限地という気候条件のため、収穫されたとしても、量も質もそれほどではないと言われてきた。近年では、その状況も大きく変わってきた。地元ひいきを差し引いても、北海道産のコメはおいしいと思し、現実の数字でも、北海道のコメの生産高は増え、現在では新潟県に次ぐものとなっている。その背景にあるものとして、品種改良が進んだから、という理由は大きいし、気候自体が変わったから、という意見もまったく見当違いというわけではないかもしれないが、しかし、もっともっと根本的な理由がある。それは、たゆまぬ灌漑・排水施設の整備と土地改良を進めたため、というものである。



 第1章でも少し触れたのだが、北海道では、土地改良における客土事業のために運用された軌道、すなわち「客土軌道」というものが存在した。それも北海道内のたいへん多くの場所でだ。
 私個人は、それらの「客土のために敷設・運用された軌道群」は、「簡易軌道」とともに、北海道の特徴的な鉄道文化として、語られるべき存在であると考える

 本章では、「美唄鉄道」の紹介などで、当ホームページとも、ゆかりの深い土地となっている「美唄周辺」の客土軌道の線形を、当時の地形図上で復元してみることを目的としたい。

 また、その過程で、他のいくつかの地域の客土軌道の線形についても、触れることになるだろう。

 ただ、この話に入るためには、前提となる北海道特有の歴史と風土について、説明が必要となるだろう。まずその話からはじめよう。決してつまらない話ではないと思う。

 

 話を始めるにあたって、一つ謎かけをしておこう。

 軌道とは直接関係ないのだけれど、地理院地図で札幌市東北部を見ると、黄色で着色された道道表記がななめに続いているのが見える。
 碁盤の目が特徴とされる札幌のまちなみにあって、異様な存在とも言える道だ。

 
 左図赤枠の交差点付近を拡大してみる。ずいぶんと不自然な線形だ。現地の自然な交通の流れとは無関係な線形で道道指定されているように見える。
 いったい何故この様なことになっているのだろうか、そのあたりの背景についても、今回の話の中で触れていくことになるだろう。


函館線山越駅 (2016年1月16日長万部行普通列車から撮影)

 それでは始めよう。
 日本の歴史全体を俯瞰したとき、「北海道の開拓」は、ごく最近の出来事と言って良い。もちろん、現在の函館、松前といった道南のエリアについては、鎌倉時代以前から本州以南の文化や権力から一定の影響を受けてきたし、それ以外の地域でも太平洋岸を中心に相応の記録が残っている場合はある。とはいえ、かつての北海道を、中央政府の「主権が及んだ地」と見なすのは難しい。
 道南の八雲町にある山越駅の駅舎(場所)は、ちょっとかわったデザインをしている。これは、江戸時代に、「和人とアイヌの生活圏の境」としてかの地に設けられた関所を模したデザインだ。つまり、江戸幕府は北海道のうち、函館を中心とした南部のみをその主権の及ぶ範囲と見なし、以北を統治圏外と見なしていたわけだ。この関所が廃止されるのは1861年のことあり、明治(1868年~)が始まろうかという時期である。ちなみに札幌に開拓使が置かれるのは1869年だ。

 山越の関所がまだ必要とされた1857年、雷電の難所を越え、第2章で紹介した余市越山道とルベシベの通行屋を経て札幌に至った人物がいる。
 「北海道の開発の父」と呼ばれる島義勇(1822-1874)である。
 のちの1869年、蝦夷開拓御用掛に任命された島は、記録によれば、雪の降る12月、コタンベツの丘(札幌市内にある標高226mの円山(場所)と思われる)に登り、広大な石狩平野を見渡して、この地に「五州第一(世界一の意)の都」を建設する、と宣言したそうである。その2年後の1871年でさえ、札幌の人口はわずか624人。島がコタンベツの丘に登ったころの札幌は、一部の先行する開拓地のまわりには鬱蒼たる原生林が果てしなく広がっていたはずだ。そんな風景を前にして、実に壮大な着想である。

 ただ、のちに「札幌」が築かれる土地は、開拓の当初からポテンシャルの感じられる土地ではあったようだ。北海道を探検し、詳細な地図を編纂するとともに、アイヌの文化についても敬意をもってまとめ、北海道開拓の初期に大きな功績を遺した松浦武四郎(1818-1888)も、「のちの札幌となる土地」には注目していたそうだ。彼らは、三方を山に囲まれた扇状地(のちの札幌)を、その地形的類似性から「京都」と見立て、さらには海へとつながる石狩川を「淀川」、その河口を「大阪」、西にある港湾適地(のちの小樽)を「神戸」という一連のイメージがあったらしい。最初から大きなイメージを持つというのは、なかなかに大事なことであろう。


 上図は 1873年の「北海道札幌之図」である。カーソルオンで現在の当該地を示す。島義勇が円山から周囲を眺めた当時の風景を想起するための一助となると思う。

 それにしても、石狩平野の広大さに、彼らが様々なポテンシャルを感じたことは、以下の数字を示すと「なるほど」と思えてくるはずだ。日本の特に大きな平野とその面積を示したものだ。

  1 関東平野 17,000km2
  2 石狩平野  4,000km2
  3 十勝平野  3,600km2
  4 仙台平野  2,600km2
  5 越後平野  2,070km2
  6 濃尾平野  1,800km2
(注:仙台平野には、公式に面積として示された数値がないため、上の数字は、管理人が地図から概算したもの。)

  火山地帯に形成された日本列島には、平野部が少ないのだが、その中で圧倒的に広大な面積を持っているのが関東平野なのである。そして、石狩平野は関東平野に次ぐ「広さ」を誇っていることになる。加えて、石狩平野は、その「平坦さ」においても、他の平野と比べて際立ったものがあった。広大で平坦な未開拓地は、国力を底上げするような開発のポテンシャルを感じさせるものだったに違いない。さあ、果たして、この広大な土地は沃野となりえるのか??。 しかし、ここにひとつ、立ちはだかる重大な問題があった。

 この平野の大部分の特徴、それを一言で言えば・・・すなわち、そこは「泥炭地」だったのである。


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 さて、今度は「泥炭地」の話をしなくてはならないのだが、その前に一つご覧いただきたいものがある。
 時はぐっと進む。これは1950年の岩見沢の姿を描いた鳥瞰図だ。手がけたのは、大正末期から昭和期にかけて、日本各地で鳥瞰図を描き、「大正の広重」の異名でも呼ばれた吉田初三郎(1884-1955)である。そのタイトルは「躍進の岩見澤市」だ。吉田初三郎の鳥瞰図は、独特のデフォルメが施されており、実際には見えるはずのない遠景まで独創的な表現で描かれている。その一方で近景は詳細かつ精密で、当時の鉄道線をはじめとする様々なインフラが描かれてあるので、私のような地図好きにはたいへん面白いものとなっている。

 
 今回、国際日本文化研究センターのご厚意で、本ページへの掲載の許可をいただいた。
 国際日本文化研究センターのサイトでは、「躍進の岩見澤市」の大サイズデジタルデータをご覧居ただくことが出来るので、興味のある方はぜひこちらをご覧いただきたい。さて、今回、いささか唐突にこの作品を紹介したのはなぜか。注目いただきたのは右下部分だ。


 右下部分を拡大した。函館線の上幌向~幌向間の下、石狩川のあたりに鉄道線が描かれ、列車が走っているのがお分かりだろう。この鉄道線はいったい何なのか、付帯する文字情報を見てみよう。
 「泥炭地改良工事」。 そう。すでに第1章でも話題にしたので、当サイトの記事を順番に読んでいただいている方には意外でもなんでもない結論であったが、この場所で、泥炭地の土地改良のため、客土用の土運搬を担う鉄道が活躍していたのである。



 次に、新聞記事を一つ紹介してみたい。

 第1章で、私は、1963年6月号の「鉄道ファン」誌から星良助氏による東神楽、東川周辺の客土軌道について書いた報告を紹介した際に、加えて、『その時点で「道庁が軌道を用いて客土を行っているところが当時全道で19カ所」』である旨を説明していたことを引用し、全道的に「客土のための軌道が敷設され、機関車が運行していた」ことを示した。
 ただ、引用元である星氏の文には、「19カ所」の具体的な所在地は記載されていなかったのである。
 だから、私も第1章を書いた時点では、その詳細を把握できなかった。


 その後いろいろ探した結果、やっと見つけたのが、1960年4月2日付の北海道新聞の記事である。「農林省関係公共事業費配分決まる」という見出しのもと、「篠津」に13億余円、かん排(灌漑・排水)44地区で21億、とあるが、この最後の方に「道営軌道客土」として、「東川、富良野、美唄達布、新篠津、中小屋、今金、獅子内、岩見沢、上富良野、由仁、茶志内、当麻、風連、金子、愛別、恵庭、知内、中里原野、中徳富」とある。数えてみると、ちょうど19カ所。おそらく星氏が「19カ所」とした原典は、この記事の情報なのではないか、と想像する。とは言っても、これはこの年度に限ったものであり、第1章でも書いたが、他の年度も含めれば、北海道中といってもいいくらい、いたるところ、少なくとも40を超える自治体で軌道客土が実施されていたのだ。


 上述の通り「19カ所」というのは、当該年度の事業配分の内訳で、年代が変われば「軌道客土」が実施される場所も変わるのだが、ここでは一例として文献をあげよう。

 左は、1952年度の「北海道開発事業実施概要」書における「軌道客土事業費補助地區別内譯」となる。

 この年度の事業実施実績として挙がっているのは「江別町江別太」「江別町野幌」「当別町当別」「篠路村篠路」「琴似町琴似」「妹背牛村妹背牛」「美唄市美唄」「岩見沢市上幌向」「北村美唄達布」「常呂町常呂」「女満別町女満別」「厚真村上厚真」「鵡川村田浦」「幕別町新川」の14カ所である。

 斯様に北海道内の各所で軌道客土は実施されたのだ。(注:篠路村、琴似町は現在の札幌市の一部)

 では、いちばん古い軌道客土はどこで実施されていたのか。
 これについては「岩見沢百年史」という書籍にその記述を見つけることが出来た。「1935年の項(北海タイムス)」に以下のように書かれている。
 
 空知の地方費有水田に17日から着手。空知郡北村、岩見澤町所在の地方費有水田360町は、全地泥炭で従来冷害又は病害の影響を受くること他に比して甚だしかったに鑑み、道庁では昨年、排水施設を完備したが更に、本年4月軌道を敷設して蒸気機関車により客土工事を行う計画を樹て、これが経費は道参事会の審議を経て従来軌道の敷設工事を行っていたが、9月17日からいよいよ客土の運搬を開始した。今の処1日の運搬土180立坪位だが近く1日工程225立坪に進め11月迄に1万2千立坪を運搬する見込である。
 軌道客土は本道で初めての試みである。最初蒸気機関車及び軌条等に相当の固定資本を要するが、運搬費は頗る少額で結局、従来の馬橇運搬よりも得策ということになるので、本事業が成功せば本道における泥炭地改良に1エポックを画するものとして注目される。因に本事業は三カ年計画で行われ、反当客土10立坪、厚さ二寸の予定である。

 空知郡北村、岩見澤町の泥炭地で、1935年9月に開始された軌道客土がその最初のものらしい。このあたりは、本章でこれから紹介する後年に実施された軌道客土でもターゲットとなっていた地域であるので、軌道客土の聖地なんてものがあるのであれば、かつての北村(いまは合併して岩見沢市の一部)、岩見沢市、美唄市が境界を接していた地帯になるだろう。おそらくこのあたりだ。


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 さて、それでは、「泥炭地」の話題に戻ろう。

 「泥炭地」の特性がわかれば、そもそも、ここまで大掛かりな客土がなぜ必要となったのか、その理由がわかるはずだ。泥炭地は寒冷な地域で発達することのある土壌である。具体的には、7月の平均気温が20℃の等温線が泥炭多産地の南限と一致すると言われており、北海道はこの南限線の内側に位置する。これらの土地では、低温によって、枯死した植物の腐敗・分解が妨げられ、それらが長年蓄積していく。それが堆積したものが「泥炭」と呼ばれるものの正体である。そして、その上に植物が生い茂っているのが「泥炭地」だ。これらの植物もまた、年を経れば泥炭になる。低平地に出現する泥炭は、排水性に乏しく、そこに陸上草原と水中草原が共生するようになれば、さらに「湿地」へと成長していく。

 参考として挙げた表は、北海道庁が1912~13年に実施した調査の結果であるが、石狩川流域を示す「石狩国」の低平な土地の大部分は泥炭地であり、かつ、そのままでは利用できないことを示している。

1912~13年実施 泥炭地分布面積(単位:ha) 北海道庁(1914)
泥炭地 既耕地 直ちに利用可能 改良後利用可能
渡島国 143.0 20.0 123.0 0.0
後志国 3,060.0 1,900.0 1,160.0 0.0
胆振国 7,826.0 1,495.6 413.2 5,612.6
石狩国 66,689.3 33,885.4 8,510.5 22,301.0
天塩国 33,680.6 754.0 7,513.6 15,498.6
日高国 3,345.0 2,207.0 486.0 652.0
十勝国 17,728.5 6,596.7 1,331.6 7,363.5
釧路国 38,044.9 808.0 3,314.8 11,019.7
北見国 23,236.7 3,132.9 4,864.8 9,186.8
根室国 13,382.9 1,179.0 0.0 9,677.5
207,136.9 51,978.6 27,717.5 81,611.7

 左は1962年の図書「少年少女地理 日本の国土 7」に示されている「北海道中央部の土壌分布」である。
 いかに石狩平野の土壌が特徴的なもので、泥炭地が支配していたかを端的に示した図だと思う。


 これらの泥炭地は、水持ちが悪いだけではなく、湿潤なため、地温は上がりにくく、肥料養分の保持力に乏しい。泥炭地の農業利用はヨーロッパでは古くから畑や草地として利用されてきたが、その生産性は低い。無尽蔵のポテンシャルを持つかに思われた石狩平野であったが、ここまで読んだだけで、耕作地あるいは稲作地としての適性はかなり厳しいものと思えるだろう。

 しかし、「泥炭地」の性格を語るのは、まだ足りないな・・・と思ってより泥炭地の特性を伝えるものがないか、探してみたところ、様々な引用を集めた文献があったので、そこからいくつか選んで転載させていただきたい。


 まずは、本庄陸男の「石狩川」から・・・
 
  『地下茎の上に地下茎を伸ばし、その上におのれの葉や茎を腐らかし、またその上に根を張り、葉をしげらし、枯れ頽れ、(中略)積み上げ積み重ねた数えきれないほどの春夏秋冬が、踏めば沈むような低位泥炭地をつくっていった。』

 

 これは端的に泥炭地を説明した文章で、さすが文学者の表現力である。
 左写真は、札沼線の石狩川橋梁近くにある本庄陸男「石狩川」の文学碑である。この場所にある。2020年4月14日に撮影したもの。

 さて、次以降は、泥炭地とまさに格闘した人たちの記述を挙げて行ってみよう。

 まずは、保原元二の 「石狩川の治水」から・・・

 『明治43年(1910年)、道庁に就職早々夕張川の調査測量を命じられたわたしは、7月29日札幌を発って江別にゆき、そこから夕張太まで約14キロの道を歩きました。あの辺は一面背丈の倍はあろうというアシ原で、小さな道があるにはあるが、歩くとジャブジャブ埋まるような泥炭地でしたから、かれこれ4時間くらいもかかって、ようやく川ぶちの農家にたどりつくことができました。・・・泥炭地ですから、まっかな水をこして飲料水にしなければならないというひどいところで、』

 

 こんどは1961年の「石狩川治水小史」から、西の宮清氏の語りメモ。

 『夕張川(旧夕張川)と千歳川の合流付近に木詰という(中略)、ここの農家が私の測量の根拠地でしたが、深さ10尺(約3m)に及ぶヨシの原と泥炭水とアブには参ってしまいました。勿論熊の出没も頻繁でしたが何か当時の熊は人間にはさほど災害を加えなかったような気がしますが、科学的には説明できません。当時は熊の世界ものんびりしていたのでしょうか。
 (中略)私は人夫賃金の50円を預かってヨシの原を急いでいたのですが、運悪く道を見失いました。右を見ても左を見ても一面10尺の深さのヨシの密生している湿地帯では、目印の栗山の丘を見ようにも方法がありません。解ける脚絆をまいては歩き歩きしましたが、疲労が重なるのでついには倒れてしまう予感がしましたから、預かっている50円の公金の始末をメモにして遺書にしようとして腰を降ろそうとしたらハンカチが落ちていました。3時間前に自分の落したハンカチなのです。同じ所をグルグル彷徨しているのでした。』

 

 左写真は、西の宮清氏の語りに登場する「栗山の丘」。2023年8月11日撮影。「栗山の丘」は、この場所にある。
 「木詰(きづまり)」は長沼町西部の地名で、現在のこのあたりとなる。
 ちなみに、左の写真は東から撮影したものなので、木詰方面からは、「栗山の丘」の反対側が見えることになる。
 下に引用したのは、1935年5万分の1地形図「恵庭」の木詰と呼ばれるあたりの様子である。上記証言の時代より後のものであるとはいえ、まだまだ泥炭地ならではの厳しい土地条件から脱却できていない様子が伝わってくる。ちなみに、保原元二氏の記述に出てくる「夕張太」も、この地形図に場所が示されている。

 

5万本の1地形図「恵庭」(1935年)より

 まだまだ続くぞ。同じく「石狩川治水小史」から、叶磯氏の語りメモ。

  『対雁は、見渡すかぎりの泥炭地だ。はるか向こうに人が歩いても揺れるほどの地盤で、あたかも、こんにゃくの上に立っているようだ。広いすすき野原に、事務所がただ一つ、ぽつんと立っているだけで、夜となると、はるか彼方に札幌の不夜城があかあかと見えて、とりわけ寂しさを感じさせる。』

 対雁(ついしかり)は江別市内の地名である。このあたりだ。

 

 小林久平氏の「草炭」は1942年の描写である。

 『石狩新篠津草炭地を踏査せる際、試しに各数箇所に測量用尺棒を以て穿孔し、その穿孔の口元にマッチにて点火せるに、いずれも燃焼ガスの発生するを認めたのである。このガスは恐らく地表2m以下の堆層中に蓄積せるメタンガスであり、嫌気性細菌により生成したるものと思われる。』

 新篠津は石狩川右岸(北側)の地名である。このあたりだ。

 

 久慈即紀氏は1973年刊行の「十勝川治水史」で1945年(昭和20年)の下頃辺川改修工事を振り返る。

 『当時の原野は1メートルくらいの谷地坊主が密生し、一歩入れば足首以上のぬかるみで、飛び跳ねると50メートルくらい先まで揺れ動く軟弱地盤で、また処々に谷地まなこと称する、表面が草の根に覆われ下は底なし沼(があって)危険この上もなかった。』

 下頃辺川は十勝川の支流の一つ。地理院地図で場所を示す。もちろん、石狩川流域ではないのだけれど、泥炭地の一つの描写として引用させていただいた。


 これらの「泥炭地」に関する記述・証言をお読みいただいて、いかがだろうか。耕作地どころか、居住地を作るのにも苦労しそうである。この土地を豊かに作り変えることが出来ますかね?

 地盤が悪い、というだけでなく、土中に微生物由来の可燃ガスが蓄積しているというのも厄介この上ない。

 中富良野村史の宇文郷土史に、以下の記述がある。

 「1924年頃、東5線北6号の橋が、一夜のうちに焼失して翌朝大騒ぎになったことがあったし、その頃野良着の綿を出して庭の土の上で乾燥させていたところ、夕方灰になっていたこともあった。塵を焼いた灰の底の泥炭がいつまでも燃えていてうっかり足を入れて大やけどをしたこともあったのである」。この橋が焼失した事例は、技手であった立入永基にによって、1921年5月29日付けで富良野土功組合長(上川支庁長)宛て報告書が提出されていて、そこには以下のように記されている。~中央線北6号に架設する橋梁は、本月25日夜、僅かに橋脚の一部を残して焼失され、原因を調査するに、当日その附近における中央線道路は、泥炭質より成るため甚だしく乾燥し、至ることろ燃えつつありしが、夜半に及び強風に煽られ遂に橋梁に延焼せしめたるものの如し。翌朝付近の住民消火に勉めたるも既に大半焼失せる後なりしを以て救う能わざりし由なり。~

 中富良野町宇文についても、地理院地図で場所を示しておこう。


 泥炭地が水源とする大部分は雨である。日照りが続けば、今度は一帯は極度に乾燥し、可燃性ガスが噴出してくる。そして、それは何かのきっかけで、野火となってしまう。ドロドロで、湿潤ならまだしも、いざ乾燥すれば野火による災害を引き起こす。これ以上ないくらいに、(開拓するには)悪辣な土地であったということが分かる。



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 さて、それでは、この土地を変えていきましょうか。

 そこで登場するのが「客土」である。
 とはいえ、土地改良といっても、この悪辣な土地に、「いい土を持ってきけ敷けばいい」という単純な話では断じてない。
 泥炭地というのは、「なるベくしてなっている」ものであり、放っておけば、多少の土をその上に敷きつめたところで、しばらく経つと元に戻ってしまうのである。
 そのため、これらの土地を作り変えるには、まず常時排水を行う施設を整備する必要がある。排水によって、その土地の因果を薄めた上で、用水の供給も可能な灌漑設備を整備し、併せて、良質な土を運び入れ、不飽和な腐植酸由来の酸性を石灰等により中和することで、圃場を整備していくということになる。
 しかし、これは膨大な時間と労力を費やす作業である。10aの農地に厚さ1cmの客土をする場合、約10tの土を運び込み、均平にしなければならない。普通1回の客土は、数センチの厚さでヘクタール単位で行われることが多いため、土量は膨大となる。
 どこから土を採取するかも問題となる。平坦な低地である泥炭地の場合、周辺の山地や河川敷などの遠距離から土を運ばなければならない。その客土の切り札とも言えたのが、比較的少ない労力で長距離かつ大量の土運搬を可能とした軌道客土なのです。



 ここで一つ地図をご覧いただこう。

 1926年製版「札幌」と1940年発行「留萌」という2つの20万分の1地勢図をつなぎ合わせたもので、今回の舞台となる美唄周辺を含んでいるが、まず注目いただきたいのは石狩川の線形である。

 恐るべきぐにゃぐにゃである。

 ちなみに引用図にカーソルをオンすることで、現在の地図と比較できるようになっているので、是非、くらべてみていただきたい。



 実は、1869年に札幌に設置された開拓使がまっさきに取り組んだのも、開拓使が置かれた札幌周辺の「水問題」であった。札幌は、南部については扇状地のため、しっかりした土壌であったが、一方で北東部を中心とした平地の多くは泥炭地だった(ざっくり現在の函館線の北側はほぼ泥炭地と言って良い)。
 まず、豊平川に鴨々取水門(場所)を設置し、市街地を守る堤防、用排水路である「大友堀」等が建設され、排水を行うと共に、生活用水を確保した。1886年に北海道庁が設置されると、札幌北部により大規模な排水路(現在の安春川新川)を建設している。これによって、周辺部の地下水位が下がり、土地が乾燥化し、農地が拡大した。また、これらの排水路は、運河としても活用された。


1871年の札幌の様子。中央に排水路兼用水路が建設されている。
 
 ちなみに、先に名前のみ登場した「大友堀」は、開拓初期に掘削された排水路兼運河である。開拓に貢献した大友亀太郎(1834-1897)によって開削されたため、「大友堀」の名で後世に伝えられることとなった。その流路はほとんど現存していないのだが、現在の札幌市の中心部と、伏籠川の上流を繋ぐものであった。「大友堀」の「札幌中心部側」は、現在も「創成川」の一部を成す形で残っているが、大部分は埋め立てられてしまっている。


 左写真は札幌地区の排水・用水路として建設された「新場川」の1872年の記録。現在札幌市内に同名の河川はなく、「新場」は掘削された堀の意であろう。現在の創成川と思われる。

 上の2枚の写真は「創成橋」の写真。左は1871年のおそらく創成川掘削と同時に架橋された当時のもの。右は、本HP「札幌市電」にて紹介している1970年頃の写真。現在も同じ場所に創成橋は架かっている。


 上の左の写真は、1872年の札幌本陣と藻岩山の写真。開拓当初に治水・灌漑が最重要課題であったことを感じさせる1枚だ。ところで、札幌市民がこの写真を見たときには、後背の藻岩山の山容が現在と変わらないことに、感慨を抱くのではないだろうか。山の形が変わらないことは、当然と言えば当然のことだが、周囲の風景があまりにも大きく変わっている。上の右の写真は、私が2018年1月24日にこの場所から撮影したもので、藻岩山の変わらない山容の元、札幌の現在の街並みが広がっている様子がよくわかるので、紹介させていただいた。


 失われた大友堀の流路は、現在の創成川のこのあたりから分岐する形で、旧伏籠川の上流部にあたるこのあたりとを結ぶものであった。「東区今昔 大友堀」という書籍で、大友堀の失われた流路を示した地図が掲載されているので、引用させていただこう。


 ちなみに、地理院地図を見ると、かつての大友堀の流路をなぞるようにして、道道であることを示す黄色で着色された不思議な線形をした道路が、ひょろひょろと続いているのが分かる。
 この道路は、本章の最初のところで、その線形の奇妙さを「謎かけ」として取り上げたものだが、その実態は、開拓期に伏籠川の自然堤防を利用して作られた道路だったのである。上図でも、カーソルオンでその線形を示すようにしてみた。開拓の最初期からあって、長く北海道直轄で管理されてきた由緒ある道なのだ。現在の名称は「北海道道273号花畔(ばんなぐろ)札幌線」となる。
 この道が、札幌市内を、現在の主要な街路とはまるで無関係であるかのように斜めに続いていくのは、都市計画に従って、この地に碁盤の目状といわれる方格構造の街路が形成されるより以前に、伏古川(伏籠川)の自然堤防を利用して開削された道だからである。
 この道路附近の現在の地図を見てみると、北海道道273号花畔(ばんなぐろ)札幌線以外にも、あきらかに碁盤の目状の区画割りに沿わない線形を持った細い小道が散見される。これらの小道もまた古い道なのだ。このあたりは、古い区画の上に新しい碁盤の目の町を後から作ったところであり、現在の地理院地図からも、その経緯を反映した線形を読み取れることが出来るのだ。この街並みを歩けば、不自然にななめに区切られた区画割の痕跡や、ななめに続く小道を、多く目にすることができる。


 ここでちょっとお遊び企画。札幌市東区には、上述の開拓道路から派生したと思われる現在の街路とは無関係に続く小道が、あちこちに散らばるようにして残っていて面白い。
 この面白さ、不思議さは、写真で紹介するより、ストリートビューで周囲の風景と合わせて、様子を見るのがいちばん、というわけで代表的なものを4カ所ほどピックアップしてみた。下記の画像をクリックすると、当該地点のストリートビューが新ウインドウで開くので、よろしかったら、ぜひ現状の不思議な風景を味わってみてほしい。



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 はたして、札幌の街づくりの初期に行われた「排水、灌漑から開発を始める」という手法を、そののち、スケールアップさせて、石狩平野にも適用させていくこととなる。
 1886年、「殖民地撰定事業」が開始され、石狩平野の泥炭地にも入殖者が入るようになる。開拓民は排水路を建設し、耕作地を確保していった。しかし、彼らの努力を文字通り水泡に帰したのが繰り返される「洪水」であった。中でも1898年 9 月の洪水は大規模で、死者248人という甚大な被害をもたらし、これを機に多くの入殖者が開拓をあきらめ北海道を去っていった。
 そのような背景の中で、1910年に北海道第一期拓殖計画の中に「河川費」が計上され、石狩川の治水事業が始まりまることとなる。当初は、石狩川の自然河道を活かした放水路方式が考案されたが、1917年に河道を29カ所でショートカットする方式に変更され、工事は下流の石狩市生振(おやふる)より始められ、夕張川等の合流点の切り替えや新水路建設とともに進められれた。1945年までに29ヶ所のうち15ヶ所が通水されたほか、豊平川、夕張川、幾春別川、美唄川でも同様の工事が進められた。その成果としては、この数字がもっとも衝撃的だろう。

 「石狩川の全長は、365kmから268kmへ短くなりました」

 もちろん、起点と終点は変わっていない。河道改修により、およそ100km、川の長さが短くなったのである。ちなみに日本一長い川と言えば信濃川(全長367km)であるが、かつての石狩川は、信濃川に迫る長さを持ってことになる。それが、今は、利根川(322km)よりも短くなり、国内3番目の長さとなっている。いかにこの河道改修が大規模な事業だったかがおわかりになるだろう。


 上で引用したのは1959年発行の5万分の1地形図「当別」に描かれた石狩川の流路であるが、この時期、開発局によって、石狩川の流路改修の工事が進行していた時期であり、地形図にもその「経過 」が反映されている。新流路と旧流路が共存しているのだ。カーソルオンで新流路の見事な「ショートカット」ぶりをハイライトしている。

 「写真でみる北海道開発30年のあゆみ」という図書で、いくつか象徴的な写真が掲載されていたので引用したい。左は1955年に完成した「月形大曲捷水路」。このように、氾濫の原因となる蛇行を直線化した河道を「捷水路(しょうすいろ)」と呼ぶ。石狩川には、全部で29カ所の捷水路が建設された。右は当該地の改修前の地形図(「當別(1935年)」と「月形(1935年)」の合図)を示した。月形大曲捷水路によって、3.7kmの湾曲河道を1.2kmの直線河道に改修した。地理院地図における現在の場所はこちら

 こちらは1969年に完成した「砂川新水路」。右は当該地の改修前の地形図(「砂川(1935年)」)を示した。砂川新水路によって、6.5kmの湾曲河道を3.0kmの直線河道に改修した。この砂川新水路が、最後に完成した石狩川の捷水路となる。地理院地図における現在の場所はこちら



 併せて整備が進められた灌漑事業においても、この地に日本最大と言われるものが誕生する。
 それは「北海幹線用水路」である。1924年に着工し1929年に「北海灌漑溝」の名称で完成したもので、赤平の空知川取水口(場所)から南幌(場所)に至る約80km、7市町にまたがる農業専用用水路であり、その長さは、農業用水路としては日本最長と言われ、空知川から最大毎秒44tを取水している。赤平市の北海頭首工を起点とし、美唄市には調整池(のちに軌道客土とのゆかりで再登場する)が、砂川、美唄、岩見沢市市街地では親水公園が整備されている。さらに、1950年に制定された「国土総合開発法」、1952年に制定された「電源開発促進法」により、農業用水の確保を目的に含む多目的ダムとして、用水路の上流域にあたる空知川には金山ダム(1967年完成 場所)、中流域にあたる幾春別川には桂沢ダム(1957年完成 場所)が建設され、灌漑用水の安定供給に資することとなった。石狩川水域総合開発事業の一環として、北海道開発局が直轄で実施した「美唄灌漑排水事業」では、これらのダムの貯水を使用し、北海幹線用水路に導水して、地域内の農家7,450戸、2万400haの灌漑を行うとともに、1万7,800haの泥炭地の排水、客土、区画整理の事業を実施し、33万トンの米の増産は図るというものであった。その内訳は頭首工4カ所、揚水機場3カ所、用水路総延長142km、排水路総延長184km の建設及び改修工事からなる。これにともなって、道営、団体営の関連事業は客土のほか、中小排水、暗渠排水、区画整理なども実施された。
 ちなみに、桂沢ダムの建設にあたっては、幌内線に桂沢ダム建設作業線が敷設され、建設作業線から索道で建設資材の搬送等が行われたが、その建設作業線跡を「廃駅を訪ねて」にて紹介している。また、多目的ダムである桂沢ダムは、灌漑用水の供給の他に、発電設備としての役割ももっており、発電施設という視点では、分水嶺を越えた芦別ダム(1957年完成 場所)と一体の施設とみなすことになる。

 もし、北海道のこの地を旅することがあったなら、自分がいま、巨大な設計図の中にいるのだということを意識してほしい。見えるものが大きく違ってくるはずだ。

 北海幹線用水路の取水口となる「北海頭首工」。写真奥の空知川から取水している。撮影したのは2023年10月26日なので、農業用水としての利水の時期は過ぎている。  北海頭首工から石狩平野を目指す北海幹線用水路。2023年10月26日撮影。


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 軌道客土の背景となる北海道の土地の特徴や、巨大な事業の枠組みについて、いろいろお話をさせていただいた。ちょっと長すぎたかな?私自身が客土された泥炭地に現在居住しているので、かなり思い入れのある話でもあるのだが、そろそろ軌道の話に近づいて行こう。
 まず、大規模公共事業ではある「客土」の実施主体はどこになるか、という話を書いておこう。戦前の客土は、小規模で多くは河川敷地や自然堤防の沖積土を利用するものであり、局部的に、部落単位で実施された。一方で、客土を行うには、個人では負担が大きいことから、1924年に北海道庁管内土功組合連合会が帝国議会に6項目の請願を行うことを決定している。その中に「泥炭地の改良費(すなわり客土法実施経費)に対し、国費より補助せられたきこと」を掲げている。これは、翌1925年、帝国議会で採択となり1927年、北海道庁令により客土補助が規程されることとなった(泥炭地5割補助)。美唄では、1922年に美唄川放水路が完成したこともあり、初年度から積極的に実施されたと考えられる。1927年の「美唄町事務報告書」によると、実施状況は65件、補助金額1138円50銭となっている。戦後になると、国、道、農協などが工事主体になる団体営で実施された。このころの客土は、冬の凍結を利用して馬橇で運搬するものであった。本章で中心に取り扱う美唄の客土は国の事業として通年で実施されたものである。

 ここからの話では、美唄周辺の細かい地名がいろいろ出てくるようになるので、そのマップを貼っておこう。北海道民でもよほど近隣に住んでいないと知らない地名、また現在ではほとんど使用されていない地番も含んでいるが、客土や圃場整備の事業名等で使用されたものはだいたい書き込んでみた。なお、石狩川右岸の事業については割愛してある。そちらには、美唄とはまた別に「篠津地域泥炭地開発事業」として、世界銀行も動いたビックなプロジェクトによって、あちこちに客土軌道が敷設されたのだが、その話は、いずれまとめられるようなら、まとめてみたい。

 美唄の歴史を記録した「拓魂百代」によると、「客土事業」として以下の記述がある。

 泥炭地の多い光珠内の西部では、客土事業と排水事業は農業の生産性を高めるために欠くことのできない土地改良である。
 1920年代後半には反収一俵、所によっては二斗五升程度の収穫しかなかったこともあった。1931年頃から、増収策として客土による土地改良事業が積極的に考えられるようになり、長期にわたり続けられていった。
 初期における客土は、馬そりによるもので、道路事情を考え厳寒の冬季に実施するのである。朝はまだ暗い四時には馬を唯一の頼りに、人馬ともに零下10数度の冬空に白い息をはずませながら、土取場と田んぼの間を往復すのである。
 だがしかし、この苦しみの中にも唯一の楽しみは、直ちに現金化される客土補助金の交付である。生計をたすける貴重な現金収入になったからである。一合(馬そり1台)15銭から20銭位の額であった。そして、それは秋の増収に結びつく希望の事業でもあった。
 この客土事業の初期は、北海土功組合灌漑溝の堆積不要土からはじまり、1936年を契機に、国庫補助による客土事業が本格的に開始されるようになったのである。
 現在(1990年頃)も、客土は、生産の向上、上質米の生産、地耐力の維持と強化のため、国営、道営、団体営で行われている。なかでも画期的なものは、1954年よりの軌道客土、それに続く1955年着工(1956年運転開始)の国営による美唄地区索道客土事業であった。馬そり客土からはじまり、軌道客土、索道客土と本格的な土地改良へと進み、現在では道路事情も改善されたためもあって、トラックによる客土が続けられている。
 

 左写真は「図説日本の地理」(1957年)で紹介されている馬橇客土の風景だ。
 上述の通り、客土の散布は冬季間、馬橇を用いて雪上で行われた。雪解けとともに、雪上に撒いた土は、農地をなす土となるのである。しかし、戦後から、客土は大規模化し、団体営、道営、国営へと主体を切り替えていく。個人規模では、土取場との往復が可能な農家に対象が限られることもあり、その効果には限界があった。広範に生産性を高めるためには、実施主体を公に移す必要があった。
 

 こちらはより遠視点からの馬橇客土の風景。
 ちなみに「馬橇客土」自体は、軌道客土と完全な互換性のあるものではない。軌道客土は大量搬送に適しているが、線路を付け替えない限り、散布場への直接搬送は難しい。そのため、軌道客土導入後も、夏季に軌道で土取場から堆積場に土を運び、冬季に馬橇等をもちいて圃場へ散布するという役割分担が行われることが一般的であった。だから、馬橇の出番は減ったとはいえ、無くなったわけではなかった。

 美唄では、1950年代から公営で客土事業が実施されることとなった。前述の「拓魂百代」には、そのうち軌道客土が使用された事業として、豊葦・拓北地区の136haを対象とした1949~51年実施のものと、光珠内築を対象とした1953~58年実施のものについて記載がある。ただ、美唄地域では、これ以外の時期と場所でも、軌道客土が行われていた。そのことを踏まえて、これから1960年代に実施された美唄地区の国営客土に関連する軌道群の線形を解き明かしていきたいのだが、その軌道の線形を語る上で外すわけにはいかない美唄地域の国営客土事業のシンボルと呼ぶべき存在があった。それは「索道」である。

 「索道」は軌道を敷設することが困難な傾斜地系において、物資を搬送するのに適した手段である。森林鉄道の集積地では、まず生産地から索道により資材を集積していたし、炭鉱では、産炭地から選炭場まで、索道で搬送を行うことも頻繁に行われた。その索道という運搬手段が、美唄の客土事業で用いられたのである。これを、人呼んで「索道客土」(そのままですが・・・)という。でも、この平坦な石狩平野で、どうしてまた、索道が登場してくるのでしょうか?

 なぜ美唄で全国唯一と言われる「索道客土」が導入されたかについては、1973年の「開発こうほう」誌において、北海道開発局で「客土の権威」と言われた京野隆一氏へのインタビュー記事が面白かった。引用させていただこう。

Q  美唄の索道客土はそれからですか。
A  1954年の3月に(石狩川の線形改良の大事業から)帰ってきたときに、もう索道客土の構想がもちあがっていて、その索道客土のと美瑛の毒水処理を二つの調査を受け持つことになったわけです。
 美瑛川は原液を十勝岳に発しているものですからpH(酸性)が強く、下流部にいたるまで被害を受けつまり減収になっているわけです。いろいろ調査した結果、石灰を投入して毒性を中和することとし、経済的にもある程度のメドがつき成功したのですが、農林省の神奈川農業試験場が反対し、もう少し調査をつづけるようにいわれたものですからね。二つをやることはとても無理だと思い、美唄に力を入れることにしたわけです。
Q  おしいですね。
A  石灰の投入は、当麻の鍾乳洞にヒントを得たのです。
Q  いよいよ本題の美唄索道客土の話に入らせていただきますが、当時はダンプトラックをやったらどうだ、と随分と反対もあったように聞いておりますが・・・。
A  道道月形峰延線、あの一帯は泥炭地ですが昔は密林地帯で、道路は材木をならべてつくったものですから、ダンプが走るとがたがたになってしまう。それから上川営林署でダンプによる土砂運搬を調べたところ、ダンプは1年半しか使えないことがわかった。これはだめだということになった。また、進駐軍が飛行場を急造するときに使った鉄板を敷いて実験してみたがグニャグニャになってしまい、これもだめだ。それにダンプで運んだ場合、土の堆積場がいる。下が泥炭であるから、堆積すると沈下してしまい、散布するのに掘り出さなければならない。末端は軌道客土になる。こういうことから索道に踏み切ったわけです。それに力をつけてくれたのが、当時の村山開拓課長です。索道ですと、国道12号線も国鉄函館本線も横切らなくてすみます。
Q  これはちょっと訊きずらいことなのですが、試運転をしたらバケットがひっくりかえらなかった、というような話もききましたが・・・。
A  ワイヤーの締めかたが足りなかったことと、バケットの土の入れ方が不同であったことなどで、ひっくりかえらなかったので、これはすぐ直しました。また、ワイヤーが直線になっていなかったためにスリップしてバケットが1,2度落ちたこともありましたが、原因がわかってからは事故はありませんでした。
Q  そうですか。ご苦労されましたのですね。客土にオートメーションシステムを取り入れたと聞いておりましたが、これは日本で初めてでございましょう。どういう機構なのですか。
A  土取場から散布までをオートメ化したわけです。もう少しくわしくいいますと、土取場でスクレーバーが掘削した土を始発駅のコンベアーに流し込む、バケットはこれを受けて30秒間隔で送り出される。終着駅からは放射状に軌道は四車線あって、トロが20台ずつあります。30秒間隔ですから1列車、10分で積込みが終わるわけです。
Q  そうしますと私、素人ですからお聞きするのですが、合計80台のトロが4台の機関車に引かれて間断なく作業したというこになりますか。
A  そうです。
Q  バケットの土量はどのくらいだったのですか。
A  0.5?です。バケットは0.75?でしたが・・・。
Q  索道の長さはどのくらいでしたか。
A  4kmです。
Q  なにか、トロで特殊なものをつくられたとか。
A  従来のトロですと土をあけたとき、きれいに落ちず、どうしてもスコップかクワで落とさなければならない。こんなことで時間をかけたのでは、オートメ化していますから1か所でも遅れたり、事故があれば全部止まってしまうわけです。それでいろいろ考えたのですが、従来のトロは低いために土が落ち切らないということに気付いたのです。それでトロを高くし、足でペダルを踏むとトロは傾斜して自動的に土が出るようにしたわけです。そのため車輪を大きくし、軌道の幅も広げました。私が指揮したのですが、豊平製鋼ではこれでパテントを取りました。
Q  私も開発局に在職中、広報を担当させられていたものですからいろいろな現場を歩き、いろいろなことを耳にしております。この美唄索道客土についても、いろいろなことを耳にし、いろいろ疑問をもっておりましたが、いままでのお話しで、すっかり解明しました。本当にありがとうございました。最後にこの工事で一番の思い出は何でございましょうか。
A  索道よりもダンプで運べと言われて、何回も局長に説明をしたことです。もう一つは、鉄塔を立てる用地買収です。岩見沢、美唄、北村の2市1村にまたがっているものですから、本局の用地課からも随分と応援をいただきましたが、なかなかまとまらず苦労しました。これも最後には当麻方式(移転補償費の上積み調整)で一挙に解決しました。
Q  どうもありがとうございました。

 非常に興味深い内容であるが、この記述により、美唄では、索道と軌道が一体となったオートメーション化されたシステムが運用されていたことになる。「国道12号線も国鉄函館本線も横切らなくてすみます。」というのは、索道でも横切ることは横切るのだが(笑)、架空線のため、交通障害を引き起こさないということだろう。
 ちなみに、鍾乳洞にヒントを得た石灰による中和といのは、小学校の理科の実験でやる石灰水に二酸化炭素を含む呼気を吹き込むと・・・というやつで、化学反応式ではこうなる。
 Ca(OH)2 + CO2 → CaCO3 + H2O
 自然界でこの反応が進むと、鍾乳石の主成分である炭酸カルシウム(CaCO3)が蓄積する。現在では、酸性土の中和のため、石灰の散布はごく一般的に実施されている。
 ところで、インタビューにある通り、問題もあったようだ。この点については、別角度のものとして、「美唄百年史」の記述を引用したい。


 索道客土について当時市役所の樫福哲郎は、「豊葦30年史」に、「索道客土計画は1952年三井鉱山美唄工業所に設計を委託し、関係機関に陳情を重ね、1955年ようやく起工式を迎えた。ところが1956年の試運転となったが、数個のバケットが農家の住宅のそばの畑に落下し、当然苦情がでて理解をえるための説得が行われた」と述べている。その後作業が本格化する中で新しい問題が生じた。それは「騒音には耐えられないので工事を中止せよ」という申し入れであった。が、根本的な対策がなされないまま、沿線住民に懇請して作業を継続したのでその後もたびたび強硬な抗議をうけた。その都度「住宅の防音、受輪索の改善、鉄塔頭部の被覆などをし、1970年に計画工事を完了した」と記述している。この騒音問題に1968年から1969年の補正客土の時には受益者負担の取り決めから、被害者への補償負担として一戸2万3690円が拠出された。


 スキー場でリフトやゴンドラに乗ったことのある人にはすぐに思い出せると思うが、索道というのは、搬器が支柱の滑車部分を通過する際には、相応の音が発生するものなのである。それを24時間体制で、住宅の近くで動かすというのは、当然大きな問題となってしかるべき事態であろう。補償額が適当なものであったかどうかはわからないが、いずれにしても、索道で解決する問題と、新たに発生する問題と双方があったわけだ。


 この4kmに及ぶ索道がどこにあったかについては、推察する必要はない。
 というのは地形図にしっかり記載されているからだ。ご覧いただくのは1969年発行の5万分の1地形図の岩見沢である。
 左図、カーソルオンで、索道をハイライトする。現在の地理院地図で、引用図中央付近はこのあたりだ。



 それでは、索道客土の様子を記録した写真たちを紹介しよう。
写真1
圃場の上を架空する索道
写真2
索道から軌道への中継地点
写真3
実施主体として「国営」の文字が記された看板
写真4
土取場側の様子
写真1~4は、ある論文に掲載された写真を引用した。この論文は軌道の線形を解き明かす上で、とても大きな手掛かりともなったものなので、後にあらためて紹介することにする。
写真5
函館線岩見沢-峰延間の上を通過する索道。日本の地理第1巻(1961)から。
写真6
空から見た石狩平野に延びる客土用索道。北海道開発局十五年小史(1966)から。
写真7
カラー写真。「写真でみる北海道開発30年のあゆみ」から。事業終了年については、資料間で食い違いがあって、はっきりしないのだが、当該資料には、事業は「1971年に完成した」とある。



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 美唄の国営客土事業をひもとく前に、第1章でも書いたように、軌道客土の軌道の痕跡がいかに残りにくいか、あらためて書いておこう。まず、当然のことながら、軌道は一過性のものであり、軌道が通っていた個所は、ほぼ完全に農地に転用されてしまう。また、(土取場を結ぶ幹線を別として)散布の為の支線は、付け替えが行われる場合が多い。加えて、一過性のものであるため、軌道がどこに敷設されていたかということは、あえて残す必要がないから、そのような記録が保管されることもほとんどない。
 それでも例外がある。第1章では、地形図に軌道が記載された東神楽の例を紹介したが、他に2つ、資料等で軌道がどこを通っていたかが明確にわかる特殊な事例を紹介してみたい。美唄の軌道客土の線形解明の話はもう少し待ってほしい。


 一つは道南の江差町泊地区で行われた軌道客土である。場所はこのあたりで、厚沢部川流域沖積平地に接する北面大地になる。この事業においては、客土のための軌道がマップ内に記載された「江差町泊地区道営軌道客土事業計画概要図」が作成され、それが北海道立図書館で保存されており、閲覧することが出来た。他の軌道客土が実施された場所でも、似たようなものが作成されたことは十分に類推できるが、現在までに私が北海道立図書館で調べた限りでは、当図面が唯一閲覧可能な状態で残っているもので、きわめて貴重なものだと思う。

 ちなみに、「江差町泊地区道営軌道客土事業計画概要図」には、作図された年もふくめて、事業の実施予定年等に関する情報が一切記載されていなかったのであるが、江差町史第11巻 (通説 5)において、1962年に「道営軌道客土事業を導入した」とあり、下に紹介している図面によるものであったことは、ほぼ間違いないだろう。


 もう一つの軌道の線形が記録された例は、比較的美唄の近くとなるが、美唄からは石狩川を挟んで反対側にある新十津川町の例であり、こちらは「新十津川百年史」という書物に、下記のように軌道客土施行区域を示した地図が掲載され、素晴らしいことに幹線となった軌道と区域毎の客土実施年が記載されているのだ。
 さらには、機関車の保守・運用管理を行った軌道事務所の位置まで記載されている。
 現在まで、いろいろと調べているけれど、ここまで詳しい軌道客土の地図情報が自治体の郷土史で残されているものは、私が見た中で唯一の例だ。なので、ぜひ紹介させていただく。


 上図は「西を上、北を左」とした図なので、注意してほしい。軌道の東(下)に平行するように札沼線の線路がある。
 新十津川百年史によると、当該事業の名称は「中徳富地区道営客土事業」であり、事業実施は1958~1967年(客入は1961年以降)。夏季に数カ所ある堆積場まで大運搬を行い、冬季には馬橇により圃場へ小運搬を行うという北海道の軌道客土の定番とも言える方法に則り、ディーゼル機関車4両が運用されたとのこと。
 この痕跡を示した航空写真が残っていないか、探したところ、1963年に撮影したものに、明瞭な痕跡を残していた。以下で紹介する。カーソルオンで関連施設等をハイライトする。


 この軌道は、総富地川(そっちがわ)を専用の橋梁で越していたようだ。参考までに現在この場所には橋梁等の構造物はない。

 航空写真で記載したように、新十津川の客土軌道は、土取場からしばらく「下徳富幹線水路」に沿っていた。この水路は現役なので、軌道跡は簡単に場所を特定できる。というわけで上写真はこの地点から西を望んで撮影したもの(2024年6月29日)である。この水路の北側(写真右手側)に沿って、軌道が延びていたはずだ。  ちなみに、総富地川渡河地点に東から堤防を越えて近づいてみたが、上写真の通り藪が激しく生い茂り、遺構的なものは見いだせなかった。当日は気温が32℃。私も大雪山登山(旭岳~裾合平周回)の翌日で、筋肉痛の中歩き回っていたので、とてもじゃないが、この藪には突っ込めなかった。まあ、堤防付近に橋台の痕跡も見いだせなかったので、堤防の外側(川側)に遺構が残っている可能性はきわめて低いと思うが、別の時期に近くを通るときに、再度確認してみたいと思う。2024年6月29日撮影。

 せっかくなので、新十津川町の客土軌道の線形も当時の地形図(1969年発行「滝川」と1963年発行「砂川」の合図)上に復元してみた。
 左図、カーソルオンで客土軌道の路線と、軌道客土関連施設等を表記する。
 新十津川町西部、杉原谷川と総富地川の間に土取場があった。軌道線は、そこから下徳富幹線水路に沿って東に進み、総富地川を越して、札沼線新十津川駅の南西で、向きを南に転じていた。この方向を転じる地点に軌道事務所があったとされるが、地形図や航空写真で当該する建物は、いまのところ見つけられていない。
 向きを南に代えた客土軌道は、新十津川町内の道路に沿って、札沼線と並行するように進み、新十津川百年史の記載によれば、南下徳富駅の横を少し過ぎたところまで敷かれていた。
 前述の通り、事業区名称としては、「中徳富工区」の客土事業であり、1961~67年にかけて、土取場に近い側から順番に、客入していった模様である。
 ちなみに、幹線の路線長は約9kmであり、客土軌道としては最長規模のものだ。
 なお、地図内に記載した「散布場」は、1963年の航空写真で確認できた散布個所だ。

 ちなみに、上写真は「新十津川百年史」で紹介されていた土取場の風景である。1962年頃に撮影されたものとのこと。




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 ここから本編だぞ。

それでは、美唄周辺の客土軌道の線形について、探っていこう。左写真は、「新しい地理教室 日本のいとなみ 1」(1957)という図書で紹介されている「泥炭地の開墾」の様子。
 キャプションには以下の様に書いてある。「泥炭地の開墾 まず水をぬかねばならない。排水路をつくるのが、開墾の手はじめだ。えいえいとくわ先をそろえて、泥炭地をきりひらく開拓農家の人たち。」

 もちろん、航空写真は有力な手掛かりを提供してくれそうだが、対象地域が広大なため、まずは、線形解明のきっかけとなるような、あわよくば概要を示した資料があるのであれば、探したい。
 そう思った私は、2023年の7月1日、大雪山登山の帰りに美唄市郷土史料館に立ち寄った。この施設は、炭鉱関連の資料なども充実していて、私もお気に入りの施設である。立派な常盤台駅のジオラマ(寄贈されたものらしい)や、泥炭地の層図モデルなども展示されているので、この機会に併せて写真をご紹介しよう。

 美唄市郷土史料館にて展示されている美唄鉄道常盤台駅のジオラマ(模型)。精巧に作られたたいへん素晴らしいもので、これを見るためだけでも訪問の価値はある。もちろん、他にも充実した展示があって、そういうわけで、美唄市郷土史料館は、私のお気に入りの施設なのである。是非、美唄鉄道のページと見比べてほしい。2023年7月1日撮影。
 ちゃんと構内には転車台に乗っている4122号機が待機している。素晴らしい。2023年7月1日撮影。  美唄市郷土史料館に展示してある泥炭土壌の断面図。3000年の時を経て、2m以上の泥炭層が形成された様がよく分かる。美唄市郷土史料館では、客土に関する写真等も展示しているので、是非、訪問をお勧めする。2023年7月1日撮影。

 見学を終えた私は、ダメ元で、職員の方に客土軌道のあった場所について質問してみると、調べていただけるとのことだった。私は謝意を伝え、その日は帰宅したのだが、後日、大変丁寧なお手紙をいただくことになる。その手紙には、線形の記録はないが、軌道客土に関する資料は数点あること、また、軌道跡のごく一部が示された「美唄湿原の水環境の特徴と保全」という論文を紹介いただいた。私は早速、同年8月11日に再訪し、そこで、本章ですでにいろいろ引用させていただいている「美唄市百年史」「風雪50年 美唄市農業組合」「拓魂百代」「峰延農協 六十年記念誌」「峰延農協七十年史」「北海土地改良区八十年史」といった書籍を閲覧させていただくこととなった。こんなマニアックな話をここまで調べていただいたことには感謝しかない。ちなみにこの美唄市郷土史料館の対応は破格なもので、同日(2023年7月1日)に訪問した岩見沢市郷土科学館では、「わかりません」の一語で終りであった(笑)。まあ、こっちの対応の方が普通なのだろう。「躍進の岩見澤市」には描かれているのになあ。と言ってもしょうがないか。


 美唄市郷土史料館から紹介いただいた書籍には、確かに「軌道の線形」を記したものはなかったが、軌道跡のごく一部が示されたものとして併せて紹介いただいた「美唄湿原の水環境の特徴と保全」について皆様にもご覧いただこう。
 この論文は、土壌の性質と、その性質が環境保全に果たす役割について検討と考察を行っているものなのだが、調査地が美唄市開発町南にある北海道農業試験場水田土壌管理研究室・美唄分室の管理地及び隣接地となっており、その試験場を示した図が左だ。

 この図の説明文に「C-Dは、軌道跡とこの北側に接した浅い明渠を示す」とある。「軌道」は論文の本旨とは関係のないものなので、記載はそれだけであるが、この軌道こそ客土軌道のことに他ならないのである。それでは、この図面を当時の5万分の1地形図(1969年発行岩見沢)に落とし込んでみよう。

 こうなったぞ。地形図には「北海道農業試験場水田土壌管理研究室・美唄分室」を示す「農業試験場」と記された建物もあって、いい感じ(?)ではないか。
 この赤枠内の赤線が前述のC-Dに相当する部分で、記念すべき美唄周辺軌道客土の線形で最初に確定した区間というわけだな。この赤線部分の中央は現在の地理院地図だと、このあたりだ。
 美唄市郷土史料館に2度目の訪問をした際(2023年8月11日)、担当の方から「軌道跡のようなものは何も残ってはいない」との前提で、この赤線の当該地への道順を教えていただき、私はさっそくこの場所を訪ねてみた。

 2023年8月11日に撮影した当該地の写真である。ここをまっすぐに軌道は伸びていたようだ。  論文の説明文にある「浅い明渠」は明確ではなかったが、道路下にあるこの構造物が、元は明渠に付随した施設だったのではないかと思った。いずれにしても、論文は1994年のものなので、その当時からさらに30年が経過しているわけなので、ここまで痕跡がないと、地図で得られた情報を信じるしかない。

 ちなみに、左写真は旧農業試験場美唄分室の建物の2023年8月11日の姿。施設としては、もう使用されていない様子だった。いろいろ貴重な研究業績を残していただいてありがとうである。

 さて、それでは、この軌道跡が、例の索道客土と連携したものだったのかどうか?これについては、位置的にそうは思えない場所である。つまり、ここにあった軌道は、索道客土を中心とした客土とは、また別の土取場を起点とした軌道客土の痕跡と考えるべきだろう。
 最終的な調査資料と考えている航空写真であるが、すべての場所で都合の良い時期に写真が取られているわけではないので、可能であれば、航空写真を調査する前に、索道客土を由来とする軌道客土と旧農業試験場美唄分室を通っている軌道客土が、別系統ものであるものを示す資料が欲しい。そう思って、私はいろいろ調べたのであるが、「それ」はあった。


 「それ」は1992年の「北海道農業試験場研究資料 (46)」に綴られた神山和則、宮地直道、粕渕辰昭による「石狩泥炭地中央部における客土事業の推移と客土層厚区分図」(1992)という論文である

 左は、その論文の中で示さている図の一つである。図のタイトルは「美唄地区建設工事の概要」だ。
 なんとそこにには3つの土取場を起点として、工区及び関連する索道と軌道の線形の概要が示されていたのである。なんと有益な情報だ!
 この論文は、2024年現在、web上でPDFが公開されている。こちらだ。
 参考に前掲の美唄地域の客土事業名に関連した地名をまとめたマップは、こちらで別ウィンドウで開くようにした。

 ちなみに、先に索道客土の写真として紹介した写真1~4も、この論文に掲載されていたものである。

 ともかく、これで、美唄の国営客土事業における美唄地区の軌道客土の線形のおおよその全体像がわかった。おおむね以下の3つの系統からなっていたのだ。

 1) 石狩川の自然堤防を土取場とした軌道客土 開発工区
 2) 夕張山地の末端の丘陵を土取場とした索道・軌道客土 上美唄工区・大願工区
 3) 石狩川(旧美唄川合流点付近)の自然堤防を土取場とした軌道客土 美唄達布工区・赤川工区

 旧農業試験場美唄分室の軌道跡は2)とは別系統のもので、位置的にはむしろ1)に近い、また、「躍進の岩見澤市」に描かれた軌道は3)のもの、もしくは同地区におけるその前身のものとみて間違いない。
 また、1973年の「開発こうほう」誌において、京野隆一氏が述べていた「(軌道客土の路線は、索道客土の)終着駅からは放射状に軌道は四車線あって」というのも、この図にはしっかり反映されている。


 各資料に基づいて、この地区で行われた「軌道」を含む土地改良事業を表としてまとめてみた。なお、開始・終了年は、必ずしも軌道の運用時期とは一致しない。このあと紹介するが、1963年以降の航空写真に、まさに散布中の客土軌道の様子があちこちで記載されている。また、既述のように、軌道と一体的に運用されていたという索道が、(資料によっては)1971年まで使用されたというものもある。資料にある終了年は、あくまで事業開始の当所に「想定していたもの」であった可能性が高いが、一応原典と併せて表記した。

美唄周辺の軌道客土が導入された土地改良事業
事業主体 工区(市町村) 開始・終了年 面積(ha) 厚さ(cm) 引用元
第1期 道営 豊葦・拓北(美唄) 1949-1951 136 拓魂百代
第1期 道営 光珠内(美唄) 1954-1958 216.8 拓魂百代
第2期 国営 大願(岩見沢) 1947-1962 833 4.3-5.9 論文
第2期 国営 上美唄(美唄) 1947-1962 1,535 4.1-6.3 論文
第2期 国営 大富(美唄) 1947-1962 249 2.6-3.5 論文
第2期 国営 赤川(北) 1947-1962 963 5.4 論文
第2期 国営 美唄達布(北) 1947-1962 196 3.0-6.5 論文
道営 高島(奈井江・美唄) 1967-1971 869 - 奈井江町史
 引用元の「論文」とあるのは、もちろん、神山和則、宮地直道、粕渕辰昭による「石狩泥炭地中央部における客土事業の推移と客土層厚区分図」(1992)のことである。


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 やっと外堀が埋まったぞ。おおよその軌道のあった場所と時代の目星はついた。あとは航空写真の情報から軌道を探して、マップに落としていってみよう。



 最初は、「農業試験場」の場内を通過してた客土軌道だ。こちらは「開発事業区」の名称で行われた客土事業であり、航空写真では1966年のもので、複数痕跡を見つけることができた。代表的なものを示す。


 今回の検討で、文献としても、ランドマークとしても、たいへんお世話になった農業試験場美唄分室の敷地を通過する客土軌道は、南西にある美唄幹線排水路(現在名称第二幹川)沿岸の土取場から、開発地区に軌道を伸ばしていた。
 これ以外にも、航空写真の情報を照合し、当時の地形図(1969年「岩見沢」上で書き起こした開発地区の客土軌道の線形を以下に示す。


 農業試験場美唄分室の試験場地で散布が行われていることがわかる。これは、農業試験場美唄分室が「なぜ、この場所にあるのか」を逆説的に示す事象であり、北海道の泥炭地開発のため、客土の効果に関する科学的事象を積極的に収集する目的があったためで、そう考えると、農業試験場の敷地に客土軌道が通っていたのは、当然と言えば当然のことなのであった。この軌道の幹線部分の路線長は、およそ6.5km前後といったところであろう。


 ただ、上記の線形は、先に論文内の引用図「美唄地区建設工事の概要」として紹介されている開発工区の客土軌道の線形とは、場所も線形も異なっている。
 その点をふまえて、開発地区では、1963年に一通りの航空写真が撮影されているので、それらを確認することとした。
 すると、美唄川の北側でも、別系統の軌道により客土が行われているのがわかった。まずは1963年撮影の航空写真から紹介しよう。


 引用図「美唄地区建設工事の概要」にある通り、石狩川の自然堤防を土取場としていた様子がよくわかる。菱沼、伊藤沼をいう2つの河跡湖の間を通って、産化美唄川を橋梁で越し、開発地区の泥炭地を向けて軌道は東進している。


 1963年に撮影された航空写真情報をまとめて、当時の地形図「1963年発行 砂川」に客土軌道の線形と、1963年航空写真撮影時の散布場の様子を示した。美唄原野にある南北細長い沼は「桜沼」の名称があり、その西側を軌道は南下していた。美唄川の北岸で再び東に進路をとり、散布地に至っていたようだ。幹線部分の路線長は約5km。
 開発地区の南側(美唄川の南側)を、先に紹介した農業試験場の敷地を通る客土軌道が、開発地区の北側(美唄川の北側)を、石狩川の自然堤防を土取場とする客土軌道が、それぞれ担っていたのだろう。


 左は1963年の航空写真で撮影された、客土軌道が産化美唄川を越していた橋梁の部分である。比較的鮮明に写っているので、ここで紹介してみた。地理院地図では、この場所になる。


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 それでは、美唄地域の客土の象徴とも言える索道を中心とした上美唄・大願工区の客土軌道の線形を同様に紐解いていこう。ここでもちょっと面白い発見と言えるものがあった。もちろん、私にとって「面白い」ものが、他の人にとって「面白い」とは限らないのだけれど、このページをここまで読んでくれている人なら、たぶん「面白い発見」である、ということには首肯してくれるはずだ。
 まずはこちらも、1962年の航空写真の解析で、索道客土の終点、つまり索道から軌道への移し替えが行われてたあたりを中心とした航空写真の記録から見て行こう。


 索道の鉄塔群が写っている。そして、詰替場から接続する軌道も見えている。あとはこの線形を他の写真でも追っていくだけだ、と思って同時代の周囲の航空写真を見ていたところ、これを見つけたのだ。下記の写真だ。


 これ、あきらかに索道客土と並行して、軌道客土もやっているでしょう!索道客土で、函館線、国道12号線を越えていたにもかかわらず、別の軌道客土路線もまた、函館線、国道12号線を越している。
 この軌道客土の事業名はわからないが、これまで出てきた名称の中では「光珠内地区」として実施されていた軌道客土がもっともふさわしいものだと考えられる。
 私は、この軌道の痕跡について、美唄市郷土資料館にお話ししたところ、後日、たいへん素敵な資料をお送りいただくことになるのである。

 上の地図をお送りいただいたのである。ちょうど、航空写真が客土軌道を撮影していたとしたら、土取場に相当する地区を含む美唄市光珠内の町内図である。時代は特定できないが1960年代らしい。
 とりあえず断っておくが、この町内図に軌道線は記載されていない。また、国道12号線を中心に書かれた地図は、正確な縮尺のあるようなものではなく、あくまで光珠内地区の当時の情報を、四辺形の中にまとめたものである。
 重要なのは、赤丸の中である。ここに何が書いてあるのか。


 うおお!「軌道事ム所」である。間違いない。光珠内地区の客土軌道はこの光珠内の軌道事務所を中心に運行されていたのである。
 となると、この場所がどこかを特定したくなる、ヒントになるのはすぐ横を流れる「四号川」という名称。そして軌道事ム所のすぐ下を左右に延びる道路のようなものも良く見てほしい。これは道路ではなさそうである。一ヶ所だけ交差点のような表記がしてあるのだが、これは誤表記であるに違いない。他の道路はすべて、この道路状表記物の上を越しているではないか。
 どうやら、この左右に描かれている道場構造物は、「北海幹線用水路」であるに違いない。
 次に示すのは現在の四号川の場所だ、

 現在の「四号川」は、国道12号線や函館線まで達してはいない。
 その手前、北海幹線用水路に付属する調整池(光珠内調整池)のところでふっと途切れてしまう。これは何を意味するのか。
 これは、すなわち、四号川沿いの現在光珠内調整池となっているところが土取場であり、土取場がその後、調整池に転用され利活用されていることを意味する。すなわち、軌道事務所の場所は、現在の光珠内調整池のある場所であり、そこは、航空写真で土取場となっているところであり、客土軌道の起点となっているところでもあったのだ。すべての状況証拠がピタリと合わさった感があるぞ。

 以上を踏まえて当該地の移り変わりを確認してみたい。上の写真は1960年の航空写真で、当該地は土取場となっており、土取場からまっすぐ北西に延びる軌道も明瞭だ。
 軌道事務所は、軌道跡と並行する北側の道路沿い、北海幹線用水路の東(右)側にある建物がそうであったと思う。
 カーソルオンで、2024年現在の航空写真に切り替わる。客土軌道の起点だった場所は、光珠内調整池の南側の池へと変わった。
 上の写真は1970年の航空写真で、当該地における軌道による客土事業は終了しているが、まだ土取は行われているように見える。実はその後の周辺の客土事業で、「光珠内調整池」の名はしばしば土取場として登場しているのである。
 カーソルオンで、2024年現在の地理院地図の表記になるので、いろいろ見比べてみてほしい。


 ところで、光珠内調整池がいつ竣工したのかについては、すぐわかるだろうと思ったにもかかわらず、それを明示する資料を見出せなかった。
 上に示したのは、1983年の開発こうほう誌に記載されている「光珠内調整池計画一般図」である。現在では2つの池で158万トンの貯水量を誇り、必要に応じて北海幹線用水路等を経由して、農耕地に水を供給する役目を果たしている。
 歴代の地形図で見ると「5万分の1 岩見沢」では、1988年、1991年、1996年発行のどれにも、光珠内調整池の記載はなかった。「2万5千分の1 美唄」では、1995年発行のものには記載がない。2002年発行のものには、池の形状が示されているが、水面色の着色はなされていない。次版は2018年発行のものまで飛んでしまうが、そちらには、現在の地理院地図と同様に、青く着色された表記で記載されている。
 なので、講師内調整池の造成は、1983年に計画され、竣工したのは2002年頃であったと推定しておこう。
 余談だが、2024年現在のGoogle mapでは、当該地に池の記載がないのは、ちょっとした謎である。
 念のために書いておくと、光珠内調整池は、特に存在を秘匿する必要のある施設ではなく、見学会や市民参加のイベントなども開催されているそうだ。

 ここでいくつか現地の風景をご紹介しよう。ここからの6枚は2023年8月11日に撮影したものだ。とにかく灼熱のように暑い日だったと思われるが、この日の私は、早朝から動いて、シューパロ湖を訪問した後、美唄郷土資料館に立ち寄り、そのまま光珠内地区も見て回っている。
 上写真は美唄市内にある函館線光珠内駅。貫禄のある駅舎が素敵な雰囲気を演出している。ただ、光珠内調整池は、光珠内駅より、峰延駅の方が若干近い。
 水を湛えている光珠内調整池。写真は南側の池で、こちらの池には、管理棟側からスロープが設置されていた。ちなみに、南北の2つの池は、中央付近でつながっている。
 光珠内調整池の管理棟。  光珠内調整池のすぐ横を流れる北海幹線用水路。この用水路の西側に軌道事務所があったはずだ。
 かつての航空写真から読み取った軌道の起点付近から西を望んで撮影したもの。写真でまっすぐ遠方に延びている溝が、ほぼ軌道跡をトレースしたものとみて間違いない。  同じ場所から反対側をみたところ。手前を北海幹線用水路が流れ、その向こうには光珠内調整池管理棟がある。あの一帯が土取場だったはずだ。それにしても、写真を撮影した日は暑い日だった。この写真を見ても、まずそのことを思い起こす。

 それではいよいよ美唄地区の客土軌道の線形を総括しよう。周囲の航空写真等の情報を、1969年発行「岩見沢」に記入した図は下記の通りだ。


 まず索道客土は土取場(土取場1)を現在の峰延町公園の貯水池とし、4kmの索道により詰替所まで搬送された、詰替所からは、東側の上美唄地区と、西側の大願地区に向けて路線が延びているが、それぞれ幹線と呼ぶべきルートが2線あって、京野隆一氏の「(軌道客土の路線は、索道客土の)終着駅からは放射状に軌道は四車線あって」という証言、それに農業試験場の論文内の引用図「美唄地区建設工事の概要」の内容とと合致する。
 参考までに、索道の起点となった土取場1は、現在ではその周囲を囲むようにして「峰延町公園」の名称となっている。といっても都市公園をイメージするほどには整備されておらず、土取場跡は、そこで貯水池へと姿を変えている。
 索道客土とば別に、後に光珠内調整池となる土取場(土取場2)を起点とする客土軌道は、国道12号線と函館線を越えて、峰延近郊の農地を対象として、散布を行っていた。この光珠内工区の客土軌道の幹線部分の路線長は4km強。
 これが、美唄周辺の客土事業でも、もっとも象徴的な事業であったものの、60年代前半の姿である。
 ところで、土取場2を起点とする客土軌道は、どのような方法で国道12号線と函館線を越えていたのだろうか?


 左は航空写真の当該個所を拡大してみたものだ。カーソルオンで2024年現在の地理院地図に切り替わる。これを見ると、軌道が国道12号線、函館線とクロスしていた場所は、現在では水路を跨ぐ個所に置き換わっている。
 つまり、軌道は掘割にあって、国道12号線、函館線のそれぞれの下を通過していたのである。そして、軌道客土の終了後は、その掘割が排給水路として、活用されることになるのである。
 どこまでも合理的な軌道客土である。では、これらのクロス地点の現在の風景を見てみることにしよう。
 ここからの4枚の写真は2023年10月1日に撮影したものとなる。
 まず、上写真は、かつて客土軌道と国道12号線が交差していた個所だ。軌道は水路に置き換わっている。4車線の直線道路を走る車に乗っていれば、軌道跡であるどころか、水路を越したことにさえ気づかないだろう。それくらい比較対象としては小さな水路だけれど、訪問時も滔々と水は流れていた。
 この場所から函館線側を望んだところ。向こうの築堤の上を電化複線の函館線が通っていて、写真でも架線柱が見える。ここで水路はカギ型の線形をしているが、軌道時代はここをなめらかに斜めに横切っていたことになる。
 ちなみに、この水路の名称は、私が調べた限りでは、どうやら「第2幹線第28支線排水路」というらしい(違っているかもしれないです)。客土軌道が敷かれる以前は、四号川という小川が付近を流れていたと思われる。
 上写真は、かつて客土軌道と函館線が交差していた個所だ。こちらもカルバートによって、小さな水路を跨いでいる。かつて、ここに軌道が敷かれ、小さなディーゼル機関車が土運車を連ねて行き交っていたというのは、知らなければ想像しえないところだ。  函館線の西側の風景。この先一面が灌漑・排水と客土により、泥炭地から肥沃な圃場へと生まれ変わった土地である。果てしなく広がっている。


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 あれ?なんか終わったみたいな感じになっているぞ、これで終わりなのか?・・・。いえいえ。そもそもネタフリに使った「躍進の岩見澤市」がまだ回収できていません。
 こちらは、一度触れたように、農業試験場の論文内の引用図「美唄地区建設工事の概要」における「石狩川(旧美唄川合流点付近)の自然堤防を土取場とした軌道客土 美唄達布工区・赤川工区」を描いたものだ。
 美唄地区の軌道客土事業として、当然、この2つの工区についても、追跡しなくてはいけません。まずは「美唄達布」工区から。
 ところで、さすがに美唄周辺の地名、すっかり忘れ気味ですよね。あらためて前掲の美唄地域の客土事業名に関連した地名をまとめたマップを、こちらで別ウィンドウで開くようにします。  


 さて、さすがに細かい説明を繰り返さなくてもいいだろうが、こちらは60年代初旬の航空写真であり、軌道客土の様子が明瞭に記録されている。
 これは「美唄達布」とよばれる地域であるが、行政域としては、当時の岩見沢市と北村の域になる。現在では、北村が岩見沢市に吸収合併されたため、岩見沢市である。
 ちなみに、「達布」という地名は、このあたり一帯をさしており、石狩川の対岸にまで広がっている。「達布」はアイヌ語のヌタプ(湾曲した川に囲まれた土地)を意味すると言い、石狩川は強烈な蛇行をしていたため、このあたり一帯が達布であり、それに冠がついて「幌達布」「北村達布」「美唄達布」などの地名が点在することとなった。
 「美唄達布」の客土軌道の土取場は、まさに河道改修する前の石狩川の湾曲の中であり、その自然堤防の土が、客土に用いられた。  


 これを1968年発行の5万分の1地形図「当別」に記載すると、このようになる。幹線部分の路線長は約4km。ちょっと南北幅を大きくとったのは、この図幅によって、南東端に函館線の幌向-上幌向間が顔を出すからだ。
 これで、本稿の最初の方で『函館線の上幌向~幌向間の下、石狩川のあたりに鉄道線が描かれ、列車が走っている』と紹介した吉田初三郎の描いた「躍進の岩見澤市」について、無事、回収することが出来た。  


 美唄達布から少し東に移動して、北村本村(赤川地区)も、軌道客土が実施されている。こちらも1962年の航空写真により、紹介したい。  


 旧美唄川の南にある市街地が北村の本村にあたる「赤川」地区である。
 画像の解釈に少し悩んだが、散布場が2か所あることは間違いない。私には、それぞれの散布場が、別の土取場から軌道を敷いて、客入しているように見えるので、そのように記載した。


 1968年発行の5万分の1地形図「当別」に記載するとこのようになった。東西に延びる幹線部分の路線長は4km弱だろう。

 上写真は美唄達布、北海道道687号美唄達布岩見沢線沿いのこの場所に建立されている「竣功碑」である。1962年11月に建立されたもので、当該地の軌道客土事業の完了を記念して建立されたものだ。撮影は2023年8月11日。  2023年8月11日撮影の美唄達布の風景。荒々しい泥炭地は豊かな土地となった。

 竣功碑に刻まれた文章を転載させていただく。(年数の西暦は私が付記した)
 昭和26年(1951)5月、美唄達布地区軌道客土工事を、団体営事業として国費8割、地元負担2割を以て、第一期計画513町歩6ヶ年計画により北村字幌達布初代組合長三好鶴吉氏を代表とし、担当職員奥岡勇、地元請負により実施せり。本地区は、北村・岩見沢両市村にまたがって居るため、両市村農業協同組合区域に属し、当初北村農業協同組合の事業主体として工事実施に当る。昭和28年(1953年)度工事より道営事業に移管され、随意契約により施行、地元受益者が主として之が工事の施行に当る。昭和29年(1954年)度より岩見沢市西川向出口竹松次期組合長に新任、施行地域は殆ど岩見沢市農業協同組合区域に属するため、昭和31年(1956年)度より岩見沢市農業協同組合が施行主体となり、昭和32年(1957年)を以て第1期計画全事業を完成せり。引き続き第2期計画に着手、面積276町歩、岩見沢市西川向期成会長是広善雄が新任され、昭和36年(1961)12月第2期工事全事業量を完成せり。事業実績について、面積787町9反4畝歩、客土入量 3754.98 立米、総事業費1億 8683 万円の内、補助金1億 4763 万 8405 円、地元負担 3969 万 1595 円、受益者戸数 180 戸、現場使用器材12屯、スチーム機関車1台、8屯機関車2台、1.2 立(方)米積土運車 124 台を以て、11ヶ月の長期に亘る難工事を完成、受益者全員の協力の賜である。茲に碑を建立し永久に記念する。  


 引用した竣功碑の碑文には、機関車等に関する記載もあり、助かる。ちなみに、美唄地区の軌道客土に関するより規格的な諸元について資料を求めたところ、知人から農林省農地局建設部開墾建設課が著し、土地改良新聞社から1964年に発行された「開拓・干拓総覧」という書籍を紹介いただいた。
 その書籍では、美唄地区(茶志内、開発、上美唄、大願、赤川、美唄達布、中小屋工区)の諸元について、以下の様にまとめている。

 工期 1946年~1968年
 機関車 5t ディーゼル8台
 土運車(ダンプトロリー) 140台 0.75?積
 幹線軌道 15kg,12kgレール 14,357m 4工区
 撒布線軌道 9kgレール 10,000m 各工区2線
 その他 索道は、鉄塔33基、ワイヤーは38mm単綜で距離4,680m。0.75?積搬器180台。秒速2mで、毎時60?を運搬。卸場に到着した搬器はダンプトロ受口ホッパー上で180°回転し積移する。1列車(20台)の積込時間は10分間で、運行ダイヤに基づき各工区に運搬。     

 それでは、美唄地区の客土事業のまとめとして、文献等で紹介されている写真を紹介したい。といっても「軌道客土」の写真というのは、いくらかあるのだが、「美唄地区の」と言えるものは、かなり少ない。私の探索能力の限界なのかもしれないが。
 上写真は「岩見沢市史」で「御茶の水_西川向_北村の軌道客土」として紹介されていた写真である。「御茶ノ水」「西川向」は岩見沢市内、函館線の北側の地名であり、軌道客土も実施されているが、本稿で紹介されるより前の時点であり、場所の特定は不可能と思われる。
 この写真でも、蒸気機関車が用いられていることから、60年代以前の客土事業の姿と思われる。
 上写真は1961年の「日本の地理」第1巻で紹介されている「軌道客土」の写真。場所は不明ながら同じ項目で索道客土も紹介されているため、美唄地区のものである可能性は高いと思う。
 上写真は、美唄市農業協同組合による「風雪50年」という書籍で、光珠内地区客土(1954-59)として紹介されており、本稿で取り上げた光珠内地区の軌道客土の様子である可能性が高い。
 上写真も、美唄市農業協同組合による「風雪50年」という書籍で、光珠内地区客土7(1954-59)として紹介されているもの。土取場の風景で、現在かの地は光珠内調整池へと姿を転じている。
 上写真は美唄の郷土史をまとめた「拓魂百代」で軌道客土風景として紹介されているもの。美唄地区のものであろう。  上写真は「北村百年史」で紹介されている軌道客土風景。蒸気機関車が牽引している。
 最後の2枚は、何度もお世話になった神山和則、宮地直道、粕渕辰昭による「石狩泥炭地中央部における客土事業の推移と客土層厚区分図」(1992)にて紹介されている客土軌道の土運車の様子。左写真は索道のバケットからの移し替えの様子である。
 以上、紹介させていただいた線形とともに、当時の様子を想起することをお手伝いできれば幸いである。



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 今度こそ終わった、と思いましたか?・・私自身、この報告は当初の想定をはるかに上回る労作になってしまったと感じている。うーん、これは前編と後編とかに分けるべきだったかな。ただ、いずれにしても、ここまで律儀に読んでくれている人はあまりいないだろう(笑)。そういう意味で、自分との闘いである。このページ作るの、仕事より大変な気がしてきたぞ。もし、ここまで読んでくれている人がいたらそれだけでありがたい。救われる。読んでくれているあなたは間違いなく「少数精鋭」の一人である。
 それはおいておいて、ここまできて、先に諸元の記述として引用した「開拓・干拓総覧」にある記載が「これで全部とは言わせない」と言っている。そこには、美唄地区として(茶志内、開発、上美唄、大願、赤川、美唄達布、中小屋工区)と7つの工区名が記載されている。「中小屋」は「開発」と一続きと考えてよいが【2024年7月14日追記 すいません、適当なことを書いてしましました。「中小屋」もちゃんと独立した客土軌道がありました。後日、「中小屋」の軌道について追加する形で修正させていただきます。申し訳ありませんでした】 「茶志内」はそういうわけには行かない。まったく別の場所である。
 あらためて前掲の美唄地域の客土事業名に関連した地名をまとめたマップを、
こちらで別ウィンドウで開くようにします。
 「茶志内」は・・・美唄の北、奈井江町域ですね。美唄周辺の客土軌道をまとめることを目的とした以上、これをノータッチで終わるというわけにはいかない。この茶志内の軌道客土事業のうち、高島工区のものは、70年代以降も軌道客土が実施された場所なのであり、一連の美唄周辺の客土軌道の中でも、もっとも最近のものなのだ。その点からも触れないわけにはいかないだろう。というわけで、あらためて航空写真でその様子を確認していこう。


 上写真は1963年に撮影された航空写真で、軌道客土の様子が鮮明に写っている。前述の「開拓・干拓総覧」で美唄地区の客土事業のうち「茶志内工区」と呼ばれた軌道客土事業場所を反映したものだ。先に書いた70年代まで及んだ軌道客土事業については、後に紹介する。
 さて、これを見ると、土取場は、付近で直線線形を示す国道12号線と函館線の間にあったようだ。この場所の土壌学的な特徴は不明だが、客入に適した土壌があったことになる。
 ちなみに、この写真に表示された国道12号線は、国道としては国内最長の直線区間の一部で、直線区間の全長は、「美唄市光珠内町292」から「滝川市新町6丁目」までの約29kmとなる。


 1963年発行の5万分の1地形図「砂川」に記載する。国道12号線との交差地点は、国道12号線が茶志内川を越える地点であり、ここでも軌道客土は、河川橋梁の下を通る手段で交通障害の発生を回避していた。幹線部分の路線長は約5km。
 引用図東には三菱茶志内鉱業所を中心とした日東の集落も見える。この日東集落から西へ続く道の途上にある「散布場」の周辺は、現在では、ゴルフ5カントリー美唄コースになっている。圃場だけでなく、趣味娯楽の施設が文化的生活に必須なことは言うまでもない。
 果たして、客土により生まれた優良な土壌は、圃場だけでなく、ゴルフ場にもなって、現在の人々の生活を潤している。  


 引き続いて、一部軌道路線が重複している1968年の航空写真を以下に紹介する。こちらは、「高島工区」と呼ばれる地域を対象とした客土事業の一環となる。


 上写真でカーソルオンすると、客土軌道関連オブジェクトをハイライトするのだが、「新土取場」とそこまでの軌道の位置は、写真からの情報だけでは、今一つ鮮明ではない。
 ただ、1963年の「茶志内工区」の客土事業とは土取場の場所が異なっていたことは、新井清彦氏著の軽便鉄道を対象とした写真集、「軽便探訪」の挿図と、1968年の航空写真の情報を合わせて、強く類推されるものなのである。以下に説明を補足しよう。  


 左図は前述の「軽便探訪」で挿入された図である。当該図書では、高島工区の客土事業の貴重な写真も紹介されているが、その中で「not to scale(等縮尺ではない)」の断り書きとともに描かれているのが、当該客土軌道路線のマップだ。この情報が(少なくと私にとっては)たいへん貴重なものであることは、言うまでもない。
 かつ左図を見ると、1963年時点で土取場であった「国道12号線と函館線の間の土地」は、すでに土取場としての役目を終え、客土軌道は、より東に土取場を求めて、函館線を越え、丘陵地に向かっているのである。
 ちなみに、散布場(施行地)側の路線に関しても、上写真のものとは方向が違っているが、散布場側については、左の挿図の状態を反映した航空写真を見つけることは、残念ながらできなかった。

 以上を踏まえて、1963年発行の5万分の1地形図「砂川」に記載する。1968年時点での高島工区の軌道客土事業は、このような軌道線形により行われていたと想定する。東西に延びる幹線部分の路線長は5km強となる。  

 上は1976年の航空写真で、1963年の客土事業の際、土取場のあった国道12号線と函館線の間の細長い土地のその後の様子となる。
 引き続き工業用地として使用されていた様子が伺える。地理院地図ではこのあたりとなる。
 上は1976年の航空写真で、1968年の客土事業の際、土取場があったと推定される場所とその南側となる。
 私には、数年前まで使用していた客土軌道の跡が、山林の中にはわずかに見えているように思われる。地理院地図ではこのあたりとなる。
 現在では、道央自動車道の通る位置なので、何も痕跡がないことは想像に難くはない。

 いよいよ本章最後の現地写真紹介となる。撮影は2024年4月27日。この日の私は早朝から探索をしていて、茶志内付近は朝5時~6時ごろに訪問している。
 上写真は、函館線の茶志内川橋梁(場所)に東側から近づきながら撮影したものである。
 函館線茶志内-奈井江間にある茶志内川橋梁。銘板では竣工年等の確認は出来なかったが、起点である函館駅から351km879m52の地点である旨が記載された銘板は見ることが出来た。
 かつて、この橋梁の下を茶志内川と並行するように、客土軌道が敷かれ、土運列車が往復していたのである。
 函館線茶志内川橋梁の写真。ぜひ上の左右の写真を比べてみてほしい。左は2024年4月27日に私が撮影したものだ。  そして、この貴重な写真は、先に紹介した新井清彦氏著「軽便探訪」にて紹介されている1971年6月の同じ場所で撮影されたものだ。
 軌道は、川床にほぼそのまま敷設されているように見えるが、上流のどこかで川の流れをせき止め、他の場所に放流するなどしていたのだろうか。
 そして、私の目には、茶志内川橋梁の姿は、現在のものと変わらないように見える。
 上写真は、国道12号線が茶志内川を越える茶志内橋だ。2005年竣工の新しい橋だから、軌道客土が行われてた当時のものと当然異なる。
 ただ、この場所で、茶志内川とともに、1963年の茶志内工区事業時も、1968年の高島工区事業時も1971年の新井清彦氏訪問時も、客土用の軌道は、国道と立体交差していたのである。
 最後に、茶志内橋から茶志内川が流れてゆく先を見渡した写真を紹介したい。その先には、広大な施行地(散布場)が延々と広がっている。悪辣な泥炭地は、壮大な計画に基づき、膨大な歳月と労力によって、優良な食糧生産基地へと変貌を遂げた。その歴史を知った上で見るこの景色は一味も二味も違ったものに思えた。

 【2024年7月12日追記】
 当時の国道12号線の茶志内橋の写真がないか探したところ、横道英雄著の1962年の図書「コンクリート橋 : 鉄筋コンクリート橋およびプレストレストコンクリート橋」に、それを見つけた。
 左写真がそれで、竣工時の写真とのこと。竣工年の記載はなかったが、軌道客土が行われていた時期の茶志内橋の姿である可能性が高いだろう。
 同書等によると、プレキャスト・コンクリート工法という手法により建造された支間10m、橋長10.7m、巾員7.5mの鉄筋コンクリート製桁橋であったらしい。写真を見る限りでは、下を軌道が通過する桁下高が十分にあるように見える。




動画 2分15秒(左画像を左クリックすると、mp4ファイルが再生されます)

 最後に美唄地区の記録フィルム内にあった索道と軌道を用いた客土部分の動画をご紹介させていただく。索道から軌道への移し替え作業の様子がよくわかる貴重なものである。


 本章を作成するにあたって、資料提供・引用等にご協力いただきました国際日本文化研究センター、美唄市郷土資料館のみなさま、そしてこの長いレポートを最後まで読んでいただけた方に深謝いたします。ありがとうございました。



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 【2024年7月16日追記】
 すいません、上記の通り、追補編として美唄地区「中小屋工区」の客土軌道の線形について、追加の形で、書き足させていただきます。
 まず「中小屋」という地名の場所だが、こちらの別ウィンドウで開くマップ内で確認できるように、美唄の西、赤川(北村)の北のあたりで、地理院地図でも、「中小屋」の地名は、「北村中小屋」として明記されている。
 私もそうなのだが、札幌周辺で単に「中小屋」というと、つい最近まで、札沼線に「中小屋駅」があって、かつ地元の人には割と知られている「中小屋温泉」もあることから、当別町内の同じ名称の別地域(場所)を想起してしまう人が多いと思う。今回の軌道客土の工区名である「中小屋」は、自治体区分で言えば岩見沢市、合併前であれば北村の地名となる。
 当別町内にある「中小屋」という地名の語源は、北海道には珍しくアイヌ語ではなく、道路建設等の強制労働に従事させられた樺戸囚治監の囚人たちを収容する2つの小屋の中間という意味から来ているとのことなので、北村中小屋も似たような歴史的経緯がある地名なのかもしれない。
 それにしても、本章の最初のあたりで引用した北海道新聞の記事で、独立した事業区の名称として、しっかりと「中小屋」の名が挙がっていながら、当初、この地域の客土軌道の線形探査をすっとばしていたのは、自分としても失策で、たいへん失礼してしまった。あらためて、当該地区の1962~63年撮影の航空写真から、例によって紹介したい。

 
  上は1962~63年に撮影された5枚の航空写真を切り貼りしたもので、撮影年が異なるものも混じっているのだが、軌道の両端を何とか見出すことが出来た。
 土取場は美唄市富樫にある石狩川左岸の自然堤防であり、そこから、渡り鳥の中継地として名高い宮島沼(場所)の脇を抜け、北村中小屋地区の散布場まで、軌道が延びている。これが中小屋工区の客土軌道の線形だ。

 
 この軌道の線形を、1956年発行5万分の1地形図「月形」と1968年発行5万分の1地形図「当別」の合図上に記載すると、上のようになった。(例によって、カーソルオンで客土軌道と関連施設を表記します。)
 幹線の全長は、およそ5.5kmといったところであろう。
 地図中に「樺戸道路」とあるのが、京野隆一氏がインタビューの中で触れていた「道道月形峰延線」だ。インタビューによると、この道路附近は、客土前は密林地帯であり、道路も「材木をならべてつくったもの」だったというから、現在の道路状況と周囲の風景(ストリートビュー)を知る者には、隔世の感があるところだろう。
 それでは、最後に「中小屋工区」の客土軌道を付け足す形となってしまったことを、再度お詫び申し上げたうえで、あらためて、美唄周辺の軌道客土をめぐる話をしめくるることとしたい。



 
 【2024年7月17日追記】
 何度も追記する形になって申し訳ないが、上記の「しめくくり」がいまいちなので、今回紹介した美唄周辺の客土軌道群の幹線の線形を、現在の一枚のマップ上に書き起こし、全体の位置関係を俯瞰したものを作成したので、これを現時点でのまとめとしたい。
 いまさらながら、北海道のこの部分を拡大したものだ。

 
 なお上図に記載された「土取場」及び「客土軌道の幹線の線形」は、あくまで航空写真等から推測したものである。
 また、各工区の名称については、可能な限り、幹線軌道と1対1の関係となるよう表記したが、絞り切れれない名称、重複する可能性のある名称については、カッコ書きで付記することとした。
 広大な石狩平野のうち、左岸(東)側の低平地を舞台に、くまなく軌道を用いて客土を施していった壮大な事業全体のイメージを、最後にこのマップで伝えることが出来れば幸いである。なお、この図が示している軌道客土事業は、あくまで石狩平野で行われた軌道客土事業の「一部」であることも、あらためて付け加えさせていただきたい。
 というわけで、第3章をアップした直後から、立て続けに情報を後付け更新する形となってしまって恐縮であるが、これにて、とりあえず、まとまりが付いた感じになったかと思う。更新の都度、文章の校正や誤字・脱字の修正もさせていただいているので、現時点で、公開当初より、いくらか読みやすくなっているかとも思う。
 もちろん、また追加すべきことがあったら、その都度更新していきたい。



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