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鉄道・地理関係書籍



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北海道 地図で読む百年 平岡 昭利著

レビュー日:2011.7.1
★★★★★ いまなお原始と隣接する北海道のダイナミズムを実感できる書
 私は、札幌市に住んでいて、北海道という土地が大好きな人間である。その中でも「これは面白い」と興味を持つのが、北海道という土地が今なお、文明的な居住地と、未開の原始大地の双方を、非常に近接しながら持っているという点である。これは北海道の開拓の歴史が(函館周辺を別にすれば)ほんのこの200年程度のことであり、それ以前は、先住していた数万人と考えられるアイヌの集落とその近傍を除けば、ほとんどが人跡未踏の地であり、かついまなお人口密度の低い地域が多いことによる。そのため、いまでも、ちょっと道路を踏み外したところに、原始の風景が広がっているというのが面白い。原始大地の隙間に時折町があり、その大地を縫うようにして町と町を繋ぐ道路や鉄道がある。
 この書は、北海道のいくつかの土地をピックアップし、同じ場所、同じ縮尺(基本的には5万分の1地形図)の新旧地図を比較しながら、その土地の歴史、背景を分析するという嗜好だ。選ばれているのは以下の27ヶ所。(1)札幌市、(2)札幌市北区・東区、(3)石狩湾新港、(4)小樽市、(5)余市町、(6)岩見沢市、(7)夕張市、(8)千歳市、(9)苫小牧市、(10)函館市、(11)松前町、(12)江差町、(13)洞爺湖・有珠山、(14)室蘭市、(15)登別温泉、(16)旭川市、(17)大雪山国立公園、(18)幌加内町、(19)焼尻島・天売島、(20)稚内市、(21)帯広市、(22)北見市、(23)網走市、(24)釧路市、(25)標茶町、(26)別海町、(27)根室市。全162ページ。基本的に「歴史地図」は明治(1868-1912)もしくは大正(1912-1926)年間のものが選ばれているが、しばしば追加で他の時代の地図も部分的に参照している。
 興味深い地点を選んだものだ。北海道の場合「石炭産業の興亡」というもう一つの歴史ドラマがあり、開拓による人口爆発とともに、石炭産業と関連産業(それにニシンを中心とする水産業の一部)の衰微による人口減少の歴史もある。しかし、ここではそれは解説文にとどめ、とりあえずその町が拓けはじめた頃の地図を引用している。開拓の開始である。114ページを見ると、1898年の稚内の地図がある。地名はすべてアイヌ語源と思われるカタカナ。自然そのままの沿岸の鉄道もないところに、路地と小集落が出来ている。開拓の困難さを物語るような地図だ。140ページには、1922年の釧路がある。釧路は、かつては本当の「最果て」を感じさせる町だったらしい。本文では石川啄木のこの町への印象を詠んだ「さいはての駅に下り立ち 雪あかり さびしき町にあゆみ入りにき」を引用している。啄木がこの歌を詠んだ1908年当時の釧路の人口はわずか2万人弱であったという。今の釧路は製紙工場と巨大水産基地の並ぶ原野に突如現われた巨大建造物都市として威容を誇っている。幌加内町では日本最大の人造湖、朱鞠内湖がダムによって生まれる前の地形が引用されている(1922年の幌加内本町の地図もある)。多くの朝鮮からの強制労働者が亡くなった悲劇を含む朱鞠内の歴史を記した本文と併せて大事な資料だろう。室蘭は鉄鋼業のため港湾の地形の変化が劇的。今、空港でにぎわう千歳は、明治期は鬱蒼たる原野だった。明治の帯広は無数の大河のうねる大地にこぢんまりと佇む小集落でしかない。地図にその面影を偲ぶ。番外編ともいえるのが(13)の洞爺湖・有珠山。世界的に稀な「地形変動」による火山「昭和新山」誕生前の地形図を見ると、そこにいきなり山が出来ることの不思議さに思いを馳せる。
 いずれにしても、私の様な興味の持ち主には「ツボ」である新旧の貴重な地図が、これだけ一度に閲覧でき、興味深い解説や写真も付随しているこの本は、一風変わった愛読書の一つである。

札幌歴史地図〈明治編〉 (1978年) (さっぽろ文庫〈別冊〉) 札幌市教育委員会著

レビュー日:2011.3.10
★★★★★ 狐兎棲息し、熊鹿出没し、真に野獣の巣窟たりき明治の札幌
 札幌市と札幌市教育委員会は、1978年~81年に「明治編」「大正編」「昭和編」の3つにわけて、さっぽろ文庫の別冊という形で「札幌歴史地図」を編算した。(本来)非売品である。資料は各大学、図書館、札幌市の資料室の他、市民からの提供を受けたものなどである。
 本編は最初に編算された「明治編」で、1869年から1912年にかけての資料が収録されている。カラー38ページからなり、劣化耐性を考慮してか厚紙を用いている。資料は1ページから31ページまでに収められていて、以降は編算に当たった北海道大学教授高倉新一郎らの解説が記載されている。
 1869年は札幌に開拓使が設置された年である。これを機に世界でも類例の少ない大規模殖民が開始されるわけであるが、当時の札幌は以下のように描写されている。「鬱々たる密林、ほうほう(草冠に凡で“ほう”)たる茅野(ぼうや)相接し、狐兎棲息し、熊鹿出没し、真に野獣の巣窟たりき」。その札幌が、わずか100年後に地下鉄が通じ冬季オリンピックが開催される都市となるわけだ。
 それなので、歴史地図も短期間で大規模な変貌を余儀なくすることとなる。2ページに1873年の図がある。南北十数条、東西十数丁ほどのわずかな区間を取り巻くのは、湿地と原始の森林のみである。
 それでも、急速に居住区は拓けていく。札幌の地に最初に定住したのは豊平川の両岸で渡船を管理した2家族で、それは安政年間の1857年のこと。明治に入り1871年の人口は624人とされている。ただし、これには月寒、豊平、篠路、苗穂を含む周辺の村落を含まない。
 いま札幌の市街地から石山通りを通り南下すると、札幌医科大学を過ぎたあたりから碁盤の目が斜めに傾く。17ページの1892年の地図にその答えがある。その地点より南西側は旧山鼻村であり、本願寺により別途開拓された地域である。
 鉄道の開業は早い。幌内炭山と小樽手宮港を結ぶ官営幌内鉄道は1880年に手宮-札幌の、1882年に札幌-江別の開業を果たしている。原野・原始林の中をひた走る蒸気機関車。車両から見える景色がどのようなものであったか、この歴史地図はそんなことまで想起させてくれる。
 ほぼ現在の札幌市域がはじめてまとまった一枚の姿になったと思われるのが20-21ページ見開きの1887年の地図である。当時競馬場は現在の中島公園南方の豊平河畔にあった。屯田、新琴似には屯田兵が入植を開始している。また、国道36号線の前身である幹線道がすでにその威容を現している。この頃、札幌市域の人口は3万5千人程度であったとされている。
 この地図を見ると、思いもかけない道がひとかたならぬ歴史的道路であることもわかる。札幌駅東部より苗穂、伏古を、丘珠を経て篠路へ通じる今の札幌にあっては細い不可解なななめ通りは、まさにライフライン道路であった。
 まだまだ気づくことはあるが、それはぜひ本書をご覧になってからとしよう。ことに札幌に住む人にとって、様々な感興を呼ぶ味わい深い一冊である。

札幌歴史地図〈大正編〉 (1980年) (さっぽろ文庫〈別冊〉) 札幌市教育委員会著

レビュー日:2011.2.1
★★★★★ 膨張した都市「札幌」が原始と表裏一体だった頃を思う
 札幌市と札幌市教育委員会は、1978年~81年に「明治編」「大正編」「昭和編」の3つにわけて、さっぽろ文庫の別冊という形で「札幌歴史地図」を編算した。(本来)非売品である。資料は各大学、図書館、札幌市の資料室の他、市民からの提供を受けたものなどである。
 日本の他の都市に比べて札幌市の歴史は浅い。1869年に開拓使が設置され、以来わずか150年で190万都市へと膨張した。世界でも類例の少ない移住都市形成例である。大正の始まる1912年の人口は(境界域が現在とは異なるが)95,419人とされている。ちなみに大正末にあたる1926年の人口が154,672とされているから、この時期の都市規模は推察できる。とはいってもこの数字は、当時としては人口の面からすでに本邦有数の都市に成長していたことを意味する。
 そこで、本書であるが、全55ページ、カラー印刷(もちろん原図が白黒のものはそのまま)で、紙は劣化を考慮してか厚紙が用いられている。内容は1913年の札幌区全図から始まり、様々な観点で編算された地図かだいたい時代順に収められている。また当時の象徴的な写真(路面電車、駅、建築物、風景)のほか、札幌で開催された北海道博覧会の見取り図やちらしのような資料も掲載されている。いずれもとても面白い。
 また、北大の構内図などの局所的なものから、山鼻村、藻岩村、琴似村、軽川(現手稲)、元村、篠路村、白石村などのその後札幌市に併合された「周辺地域」の地図も掲載されている。これらは用途も様々で、統一の書体による地図ではないが、その目的の異なる地図が雑多に含まれているところもたいへん面白い。例えば、1922年前後の月寒本通沿いにどのような商店や旅館、官庁が並んでいたか、文字で記載されている小区分地図では、当時の経済活動の様子が伺えるし、札幌案内という資料では当時の札幌の農作物の生産総額がわかる。
 また全図を見ると、原始の川の姿を見せる豊平川や、現在の苗穂駅の西を起点とする伏籠川、現在の札幌医科大学付近を起点とする琴似川の激しく脈打った流れなど、当時の「原始」と「開拓」が表裏となった町の様子をよく表している。また、1912年の時点ですでに現在の場所にあったものとして、私の個人的趣味も踏まえて桑園の競馬場が登場していることなども印象深い。
 ちなみに巻末の9ページほどは資料提供者・編算者らによる当時の札幌に関する思い出などが書き綴られており、これも本書が編算されてさらに30年以上たった今となってはなおさら貴重なものである。
 いまの札幌の町並みに当時の風情を偲ばせる場所は少ないが、この地図を片手に歩けばいろいろ思い当たることもあるのではないか。かように想像を膨らませてくれる一冊です。

札幌歴史地図〈昭和編〉 (1981年) (さっぽろ文庫〈別冊〉) 札幌市教育委員会著

レビュー日:2011.3.10
★★★★★ 「開拓」から「膨張」へ・・圧縮された歴史の記録
 札幌市と札幌市教育委員会は、1978年~81年に「明治編」「大正編」「昭和編」の3つにわけて、さっぽろ文庫の別冊という形で「札幌歴史地図」を編算した。(本来)非売品である。資料は各大学、図書館、札幌市の資料室の他、市民からの提供を受けたものなどである。
 本書は最後に編算された「昭和編」である。全52ページで、うち本編が42ページ。カラー印刷で、厚紙を使用している。末尾には、「空から見た現在の札幌」というタイトルで、1980年当時の地域別航空写真が掲載された上で、堀淳一らが解説を執筆という構成。
 当然のことながら、「明治編」「大正編」に続くものになるわけだが、私の見解では見どころは大きく異なる。前の「明治編」「大正編」のテーマはずばり「開拓」。それも急速・急激な開拓で、町の通りを一本挟めば向こうは密林といった過渡的なアンバランスの様相の連続が圧巻であった。対するにこの昭和編は「都市の膨張」である。
 大正末の1925年の札幌の人口はおよそ20万人。これが本書が編算された1981年には140万人となる。
 かつて開拓使や屯田兵、本願寺によって開拓された土地は、商業地に宅地にとひしめき合うように塗りつぶされていく。原始の林も姿を消し、湿地は客土され、川は護岸が行き届く。もちろん、それだけの人口を抱えて都市機能を維持するための必然であったとは言え、昔の方がちょっとおもしろかったな、などと感じてしまう。
 もちろん本書も本書なりに面白い。そのポイントの一つが鉄道の様子だと思う。まずは「定山渓鉄道」。今では苗穂から東札幌、真駒内を経由し定山渓に至る電気鉄道があったことを知らない人の方が多いだろう。実際、私が生まれた時には既に廃止になっている。現在の札幌の真駒内方面の交通事情を鑑みると、あの鉄路が生きていたなら、と思うこともあるだろう。その定山渓鉄道が活躍していた当時の地図は、様々な想像力をかき立ててくれる。6-7ページの見開きには、「定山渓温泉電鉄沿線名所図絵」なる1931年の絵地図がある。鮮やかな色彩に彩られた美しい地図だ。線路が沿う豊平川の流れも丁寧に描かれている。
 路面電車(市電)も見逃せない。31ページには1970年札幌市交通局が発行した市電の路線系統図がある。計6系統が苗穂駅、中央市場、新琴似駅、円山公園、一条橋、豊平といった市域全体をくまなく循環する様がよくわかる。
 総決算の図が42ページの市域地図。明治域、大正域、戦前域、戦後域の4つに色分けされた札幌の地図である。2011年現在を知っている私たちは、そこにまたさらに30年の時を経た視点の脳内地図を上塗りする。今見えているもの、見えなくなったもの、失われたもの、それらが起こったわずか百数十年の札幌の歴史。高密度で詰め込まれた歴史が、静かに一枚の地図となり佇んでいる。

日本の古地図 (15) 札幌(1977年)

レビュー日:2021.1.24
★★★★★ 北海道開拓のダイナミックな変化を刻んだ札幌の古地図を紹介
 1977年に講談社から刊行された日本の古地図シリーズの第15巻「札幌」。北海道大学で物理学の教授を務めるかたわら、地図研究とフィールドワークにおいても偉大な足跡を残した堀淳一(1926-2017)氏が編集を担当したもの。全36ページの大判本であり、カラー印刷されている。以下、目次と併せて、各箇所で引用されている古地図等について、まとめてみた。
夜明け前 p1
 ~引用図: 蝦夷図全図(1785年頃)、松浦武四郎の蝦夷山川地理取調図(1859年頃)
黎明の札幌 p4
 ~引用図: 明治2年11月札幌之図(1869年)、高見沢権之丞の旧札幌図(1870年頃)
札幌本府の姿 p10
 ~引用図: 札幌市鳥瞰図(1944)、北海道石狩州札幌地形見取図(1873年)、北海道札幌之図(1873年)
屯田兵の村 p14
 ~引用図: 屯田歩兵第一大隊旧第二中隊給与地及公有財産地(年不明) 月寒・白石村付近図(1917年)
農学校のある町 p18
 ~引用図: 北海道札幌之図(1878年)、二十万分一実測切図「札幌」(1893年頃)
随筆 大通公園(原田康子) p21
北海道の地図略史(堀 淳一) p22
 ~引用図: 仮製五万分一地形図(1896年)、五万分一地形図(1916年)及び(1935年)、輯製二十万分一札幌図(1894年)、札幌市街之図(1889年)
古地図上の「サッポロ」(高倉新一郎) p25
 ~引用図: 元禄御国絵図(1700年頃)をもとに一部表記の誤りを正して作成した図 飛彈屋久兵営衛「石狩山伐木図」(1750年頃)
明治末期の札幌の表情 -文学作品に沿って-(木原直彦) p28
 ~引用図: 札幌区商工新地図(年不明)
北海道鉄道事始め(梅木通徳) p31
 ~引用図: 茅沼炭山輸出之図(年不明)
札幌の古図とアイヌの地名(山田秀三) p34
 北海道の開拓は急速でドラマティックだった。1869年に、札幌に開拓使が設置されたのを機に、世界でも類例の少ない大規模殖民が開始されるわけであるが、当時の札幌は以下のように描写されている。「鬱々たる密林、ほうほう(草冠に凡で“ほう”)たる茅野(ぼうや)相接し、狐兎棲息し、熊鹿出没し、真に野獣の巣窟たりき」。その札幌が、わずか100年後に地下鉄が通じる百万都市となるわけだ。
 そのような開拓初期の原始の風景の中、国力増強のため、北海道開拓は、喫緊の課題として推し進められていくこととなる。運炭を目的とした官営幌内鉄道は、小樽の手宮港を起点として、早くも1880年には開業を果たした。これは、1872年の新橋-横浜間、1874年の神戸-大阪間に次ぐ国内3番目の開業であり、いかに北海道開拓に注力されていたかがわかる。この時代の地図を見ると、未開だった大地に鉄道線が敷かれており、その車窓風景がいかばかりのものであったか、様々な想像をかきたててくれる。
 札幌市は豊平川の肥沃な扇状地に形成されていく。扇状地の端を幌内鉄道が通るが、かつて付近では、豊平川の伏流水があちこちでメムとよばれる湧水池をつくり、そこから原始林の中を石狩湾めがけて数々の川が形成されていた。そんな土地に開拓がはじまり、街路が形成されていく。屯田兵の入植により、付近は次々に切り開かれていく。
 本書の見どころは、古地図が物語る劇的な開拓の様相である。また、当然の事ながら、時代が進むにつれて地図の精度自体が向上していく様も、あらためて感じ取ることができる。人が自らの住む「環境」や「自然」を、どのような順番で理解していったかということが、明瞭に示されている。
 引用図自体の貴重さも、もちろん本書の価値である。ただ、現在では、一部、デジタル・アーカイヴなどで閲覧可能な環境となっているものもある。「茅沼炭山輸出之図」は小樽市手宮の小樽市総合博物館でも展示されているが、特に貴重な記録といってよい。さきほど、国内の鉄道開業は1872年の新橋-横浜間が最初と書いたが、これは旅客営業用のものであり、いわゆる鉄道として運用された国内最初のものは、積丹半島の付け根にあった茅沼炭鉱における運炭用の鉄道となる。その運用開始は1869年であり、なんと木製のレールがもちいられていたそうである。日本の近代化に貴重な足跡を刻印する茅沼炭山であるが、記録には恵まれないため、本書で紹介された図は、「札幌の古地図」という範疇を外れてはいるものの、私にはとてもありがたい資料となった。

古地図と歩く札幌圏 和田 哲 著

レビュー日:2021.3.30
★★★★★ 札幌の劇的な変化が遺した痕跡をひも解く味わい深い趣味本
 「O.tone」は、“札幌に住むおやぢ世代(40~60代)からの情報を元に構成される、ディープな札幌を楽しむためのライフスタイル誌”として、2006年に発刊された月刊誌だ。札幌以外の地域でも似たような雑誌があるのか、私は知らないけれど、これはよく出来た雑誌で、とても面白い。趣味性が高く、いかにも人生を遊行している感じがあり、私もこの雑誌の記事につられて、食事処や飲み屋にいったりした。札幌ではすでに市民に定着した感のある雑誌で、各施設、例えば、飲食店、散髪店、病院、カーディーラーなどにも置いてあって、私もそれを見つけると、つい手に取ってながめてしまう。
 中でも名物と言われるシリーズ記事が「古地図と歩く札幌圏」である。このシリーズがはじまってすぐにライターは和田哲(1972-)氏に固定された。和田氏は、ブラタモリの札幌編でも案内人を務めた人物で、本稿を担当するのにはまたとない人材である。毎回、札幌、もしくは札幌圏のどこか一か所にスポットライトを当て、古い地図・地形図と同じ個所の現在の地図・地形図を比較しながら、その歴史を示すさりげなく今も残っているものなどを写真もまじえて解説してくれる。これが実に面白い。私も古い地形図や地図などは随分集めていて、それなりに地史にも詳しい方だと思うが、そんな私でも驚くような未知の話を読むことができる。地図、現況調査、それらを結び付けるストーリーという構成に、毎回唸らされる。
 当書は、そんな名コーナーが単行本化されたもの。紙面サイズそのままに、いくぶんかの補筆を加えて、下記の内容がまとめられている。
第1章 札幌中心部
・中島公園  「鴨々中島」の150年
・豊平橋  北海道三大名橋
・道庁  開拓使本庁から北海道庁へ
・狸小路1丁目周辺  広がる小路
・札幌本府  碁盤の目あれこれ
・銭函街道  南1条通の回収
・札幌まつりの渡御  伝統と試行錯誤
・薄野遊郭①  遊郭の誕生と大門
・薄野遊郭②  遊郭の全盛期と終えん
・鴨々川下流  川の痕跡
・幌平橋  個人が架けた橋
・お声がかりの柏  山鼻のシンボル
・小川直吉と「首なし地蔵」  懐の深い篤志家
・偕楽園・清華亭  最初の公園
・市電中央車庫  馬鉄以来の司令塔
・西15丁目  市電の線形改良と丁目の境目
・踏切と跨線橋  南北交通の難関
・桑園  養蚕と競馬
Column 1 札幌市電M101号物語
第2章 札幌郊外1 (旧琴似町・旧手稲町・旧篠路村・旧札幌村)
・茨戸  40年余りで激変した地図
・麻生町  亜麻工場と五差路
・烈々布  失われた地名
・モエレ沼  境界線と三角点
・北光  学校地名
・大友堀  大友亀太郎の置き土産
・元村街道  東区の斜め通り
・幻の市電琴似延伸  着工しながらも未完成
・宮の森  地名の由来は宮様か神社か
・三角山  スキーの聖地
・手稲山  札幌冬季五輪 手稲会場跡
・発寒  混在する「角度」
・新川河口  消えた集落と渡れない橋
第3章 札幌郊外2 (旧豊平町・旧白石村・旧円山町)
・真駒内  幾度も生まれ変わった街
・花魁淵  彼女の行動を想像
・藻岩山北斜面①  進駐軍のスキー場
・藻岩山北斜面②  遊園地と二つの塔
・オリンピック関連事業  生まれ変わった札幌
・澄川①  南の交通の拠点
・澄川②  木材の道
・石切山  石材を運んだ交通
・豊滝  七曲と呼ばれた難所
・簾舞  二つの旧道
・麻畑  謎の多い平岸の旧地名
・旧豊平町  史上最大の合併
・水車町  豊平川右岸の異空間
・月寒  陸軍の街
・旧月寒駅  国鉄千歳線の移転
・アンパン道路  高低差はあれど確かに近道
・琴似街道  円山村のメインストリート
・東札幌  「山道」と駅の記憶
・川下街道  水の上に引かれた道
・旭町  新札幌がまだない時代の厚別
・里塚と大曲  わずかに残る曲がりの痕跡
Column 2 明治の先進的地図「北海道実測切図」
第4章 札幌市外
・千歳空港  住民総出の整地作業
・幌向と南幌  名前は二度変わった
・夕張中心部  歴史ある鉄路は消えて
・札幌と江別の境界  北の「世田谷」
・江別街道①  残っていた道
・江別街道②  名残は意外な場所に
・大麻団地  憧れの団地生活
・江別市中心部  鉄道の街だった江別
・月形  監獄から始まった街づくり
・小樽の海岸線  内陸に残る海岸の跡
 うーん、タイトルを見ているだけで、ワクワクしてこないですか。実際、札幌という町は、一見歴史が浅いように感じられるかもしれないが、それゆえの、原始林からスタートするダイナミックな開拓、そして爆発的な都市化に至るまで、実に特徴的で、劇的な歩みをしてきた。そんな特異性があるわけで、それゆえの名残や残像のようなものが、街のあちこちに残っているのである。
 例えば、私も札幌の碁盤の目構造の中に住んでいるのだが、比較的近いところに、そんな街路とまったく無関係に区間を斜めにのびている細い路がある。はじめてこの路を見た時、私はなにかありえないものを見たような衝撃を受けたのだが、古地図を丹念にひろっていくと、その細い路こそが、開拓期の札幌の最初の地ならしの役割をはたした小路の名残であることが分かる。国土地理院の電子地図を見ると、札幌駅の北東から、環状通東駅付近を通る不思議な斜めの道が、道道表記の黄色着直で描かれている。この道をずっとたどっていくと、現在の街路とあえて無関係な線形の道路をつなぎながら、篠路まで至ることに気づく。これこそが、かつて伏古川の自然堤防上につくられた里道、「元村街道」の痕跡であり、本書でも取り上げられている。
 ほかにも札幌の街には、好奇心を刺激されるような秘密がいっぱいある。それこそ、月刊誌で毎月連載できるほどに。(一つ一つの町が全国区ではない場合が多いので、ブラタモリでは採用されないだろうけれど・・・)。そういったスポットを、「気づきの意識」をもって見ることも面白さ、古い地形図と現在の地図がしめす状況の差に隠されたドラマの謎解き、そして、それらに彩を添えるサイドストーリーと写真。これはそんな極上の趣味世界をまとめた、最高に魅力的な1冊だ。週末のブラリ旅が一層楽しくなります。
 ただ、惜しいのは、掲載記事のうち、本書に採用されたのが、半分程度であったこと。個人的には、篠路の丸〆街道の話なども是非掲載してほしかったが、そのあたりは「第2巻」の刊行に期待しよう。
 「刊行」といえば、当書の「発行部数」の少なさも、ぜひ改善してほしいところ。この本、発売と同時に、ネット上でも書店でもほとんどあっという間に売り切れてしまい、かく言う私も、高値がついた中古で入手せざるを得なかった。是非、次の機会には発行部数の増も、よろしくお願いいたします。

古地図と歩く札幌圏2 和田 哲 著

レビュー日:2023.5.22
★★★★★ 札幌の町に隠れているストーリーを、古地図を介して照らしだす
 “札幌に住むおやぢ世代(40~60代)からの情報を元に構成される、ディープな札幌を楽しむためのライフスタイル誌” として、2006年に発刊された月刊誌「O.tone」。すでに札幌市民にはお馴染みであるが、当該誌で連載されている名物シリーズ記事である「古地図と歩く札幌圏」が、第2段の単行本化となった。私は、第1弾へのレビューで “ただ、惜しいのは、掲載記事のうち、本書に採用されたのが、半分程度であったこと。個人的には、篠路の丸〆街道の話なども是非掲載してほしかったが、そのあたりは「第2巻」の刊行に期待しよう。” と書いたのだが、このたびの第2弾の刊行は、そんな私の個人的な思いをも叶えてくれたものとなる。収録されているものは以下の通り。
第1章 札幌中心部
・4丁目十字街  札幌の“顔”
・一番街 老舗と建築
・札幌駅  玄関口の変遷
・五番館  札幌最初の百貨店
・創成川  札幌の縦軸
・植物園周辺  都心を流れた琴似川支流
・札幌オリンピック施設  今も残る遺産
・市電円山方面  行楽の電車通
・旧円山町(藻岩村)境界 複雑な事情が見え隠れ
・苗穂駅  工業地帯の拠点
・山鼻神社  さまよえる神社
・南22条大橋  物流の要所
・石山通  軟石を運ぶ直線馬車道
・八垂鼈  淵に注ぐ川
・札幌藻岩山スキー場  市民のゲレンデ
・旭ヶ丘・界川  火薬庫と温泉
Column 1 明治の劇場
Column 2 終戦直後の出版ブーム
Column 3 石川啄木の札幌滞在
第2章 札幌郊外1 (旧琴似町・旧手稲町・旧篠路村・旧札幌村)
・八軒・二十四軒・十二軒  漢数字の地名
・市電鉄北線  延び続けた軌道
・消えた北29条  市町村合併の名残
・札苗実験場  半世紀前の試行錯誤
・丸〆街道  篠路の古道
・屯田  後期の屯田兵村
・拓北・あいの里  興産社と藍の栽培
・福移  北の黒田武士
・雁来と対雁  旧豊平川が結ぶ縁
・西野  札幌の米どころ
・大倉山・小別沢  山を越えると変わる世界
・盤渓①  結城先生の悲劇
・盤渓②  結城先生のその後
・手稲の旧道①  曲がりくねる道
・手稲の旧道②  道は線路へ続く
・軽川  札幌・小樽・石狩の交差点
Column 4 男子スピードスケート世界選手権大会
Column 5 スミスの飛行ショー
第3章 札幌郊外2 (旧豊平町・旧白石村)
・新札幌  副都心誕生秘話
・野幌森林公園  札幌・江別・北広島の境界
・白石村・上白石村  消えた沼と川
・鈴木煉瓦製造場  白石産の赤レンガ
・吉田山と東北通  吉田善太郎の山と道
・羊ケ丘展望台  牧場が観光地に
・北海道立産業共進会場  イベントの聖地
・東橋  橋は移動する
・平岸街道  崖の上の直線道路
・小金湯  黄金か小金か
・中山峠  魔の山道を改良
Column 6 シュランツ事件
Column 7 最初の自動車事故
Column 8 高校新設運動
第4章 札幌市外
・恵比須島  アオバトの集まる岩
・軍事道路  日露戦争の置き土産
・石狩河口  砂嘴の上の市街地
・当別  鉄道開通以前を想像
・島松  寒地稲作発祥の地
・北広島  広島の名に込めた誇り
・恵庭市中心部  平地と川の恵み
・北海幹線用水路  日本最長の農業用水路
・登別温泉軌道  温泉街への足
・室蘭の鉄道  石炭と港と鉄道と
・旭川常盤ロータリーと旭橋  第7師団への道
 今回は、第1弾に未収録だった記事と、その後に刊行されたものに掲載された記事を集めた形となる。ただし、その内容は決して「落穂ひろい」的なものではない。いや、この表現は変かもしれない。そもそもの企画自体が、地形、道形、建物配置、遺構など、ふだんあえて興味を向けなければ、ただそこにあるだけで終わってしまうかもしれない「何か」に対して、気づきのきっかけとなる視点(具体的には「古地図」)を介することによって、思わぬストーリー性が付与されるということを主眼としている。それは、言ってみれば、通常生活における「落穂」に視点を注ぐ面白さなのだから、そもそも、すべての記事が「落穂ひろい」的なもの。しかも、どん欲に、面白くストーリーを肉付けながら拾っていくのだから、そのディープな味わいは、第1弾と第2弾で、まったく差はないといっていい。もちろん、特に良く出来たと感じる「ストーリー」もあるし、「発見の喜び」の大きいもの、親近感を強く感じるものなどあるけれど、それこそ、個人差で相当変わるのではないか。だからこそ、第2弾として、第1弾で収載されなかった記事が単行本化されることは、実に相応しく、かつ適切なことに違いない。
 さて、私もあちこちに書いているけれど、札幌という町の地理・歴史的特徴を簡単にまとめよう。
1) 移民によりつくられた大都市であること
 札幌に開拓使が設置されたのは1869年。これを機に世界でも類例の少ない大規模殖民が開始される。当時の札幌は以下のように描写されている。「鬱々たる密林、ほうほう(草冠に凡で“ほう”)たる茅野(ぼうや)相接し、狐兎棲息し、熊鹿出没し、真に野獣の巣窟たりき」。その札幌が、わずか100年後に地下鉄が通じ冬季オリンピックが開催される都市となるわけだ。この劇的な急な「時の進み」が札幌の最大の特徴と言って良い。
2) 扇状地に形成された大都市であること
 札幌は、豊平川の扇状地を中心に形成されている。その扇状地の扇の端をなぞるようにして現在の函館本線が通っている。その北側は泥炭地であるから、線路の南北で地質が大きく異なる。また、扇状地の末端では、かつて多くの伏流水が湧出し、その湧き水が産業を育んだ。代表的なものは大日本麥酒(現・サッポロビール)である。また、豊平川は、大都市の中心部を流れる川としては、最大級といってよい「急流」となっている。
3) オリンピックにより様々なものが変化したこと
 ただでさえ、急成長した都市であるにもかかわらず、1972年の冬季オリンピックは町の姿を劇的に変えた。端的に言うと、開発の主導が官になった。東急系列の定山渓鉄道は、輸送密度が高い電気鉄道であったにもかかわらず、廃止され、オリンピック会場である真駒内まで官営の鉄道(地下鉄南北線)に置き換わった。以後、札幌は、本州の大都市のような大手私鉄による開発とはほぼ無縁の地となり、大規模開発は、すべて官が手掛けることになる。
4) 豪雪地帯に存在していること
 札幌の年間降雪量はほぼ600cmである。札幌市民には当たり前の事実であるが、人口が100万人以上の大都市で、年間の降雪量が500cmを超えているのは、世界で札幌だけである。
5) アイヌ文化の土壌があること
 当然のことながら、開拓前にこの地で生活していたアイヌの文化は、様々に今も色濃く残っている。「さっぽろ」という名前自体、アイヌ語の「サリ・ポロ・ペツ」(大きな湿地のあるところ)を語源としている。また、様々な地名に、アイヌ語源のものがあり、本州以内の地名と印象の異なるものが多い。ちなみにアイヌ語で「ピラ」は「崖」を意味するが、ピラを含む地名に漢字の当て字を用いると、真逆の「平」を充てる場合が多く、漢字から受ける土地の印象とことなる、例えば、札幌市の平岸は、豊平川の河岸段丘がつくる急斜面を含む地名である。
 これだけの「特徴的」なものが備わっているわけだから、町の中には、ここ百数十年に起こったことが、ランダムに詰め込まれて、整然と区画整理されているようでありながら、思わぬものが混ざりこんでいるわけである。本書は、そんな思わぬものを、こまやかに指摘してくれる。
 掲載内容は、1項目ごとに2ページ。古地図、現在地の比較地図、現況写真・資料、短い記事で構成されるが、それらの記事は、コンパクトにまとまっていて、とても読みやすい。写真は、できればもっと大きなサイズで見たいというのはもちろんあるのだけれど、書籍としての制約を考えると、いたしかたない。
 いずれにしても、札幌探索のワクワクをこのうえなく高めてくれるネタが山盛りだ。個人的には、丸〆街道、手稲の旧道、東橋のような道に所縁のある話や、鉄道関係のものはいずれもすごく興味深いし、北海道の煉瓦建築に大きな足跡を刻んだ鈴木煉瓦製造場の話は、私が古い地形図で見て気になっていた白石駅に記載されていた「引込線」の謎を解き明かしてくれるものでもあった。また、八垂別(はったりべつ)は、地番から失われたアイヌ語由来の地名として本書で紹介されているが、このようにアイヌ語由来の地名が歴史の中で置き換えられたのは、私も残念なことだと思う。第1巻で取り上げられた烈々布(れつれっぷ)も同様だし、月寒(つきさむ)もかつては「つきさっぷ」の読みだった。そのような、歴史的背景のある地名は、出来る限り残すことが本来は望ましいと思う。
 いずれにしても、一篇一篇が、短いながらもじっくり味わいたいものであり、特に、私の様に、古い地図が好きで、いま見えるものに、歴史軸を反映したストーリーを付与することに感慨を催す人には、またとない一冊だ。札幌の街歩きの面白さを、一段も二段も高めてくれる。これほどまでに秘められたストーリーがあるということが、すでに驚きだが、まだまだ、これからも味わわせてほしいと思う。

三菱鉱業大夕張鉄道 (RM LIBRARY(47)) 奥山道紀・赤城英昭著

レビュー日:2012.8.20
★★★★★ 今も急速に失われつつある風景の記録
 ネコ・パブリッシングから出版されている「RM LIBRARY」シリーズの第47巻で「三菱鉱業大夕張鉄道」。全48ページ。編集は奥山道紀氏と赤城英昭氏で2003年の発行。
 最近、夕張を訪問した。私にとって、夕張は祖母が夕張市沼の沢小学校の教員をしていたこともあり、縁のある土地である。私は子供の頃、1984年にもこの街を訪れており、その折、この鉄道にも乗車した。当時残っていた路線は南大夕張と清水沢の間で、片道子供で30円という低料金だった。この時の切符がアルバムに挟まっている。たぶん、記念ということで、利用した切符を駅員さんにお願いしてもらってきたのだろう。その3年後に鉄道は廃止された。
 「大夕張」は夕張川の最上流部、シューパロ湖北側の河岸段丘に形成された炭鉱街だった。道路地図などを見ると、当該地には今でも「鹿島」「千年」「明石」「常盤」といった町名が記載されており、街路が開けている。ところが、国道452号線を通ってこの地区に近づいても、街路はおろか1軒の建物もない。あたかも、そこに街があったことがすべて夢だったかのように、ただ地ならしの形跡を確認できる段丘が見渡せるだけである。
 1952年にはこの地区の人口は2万人を超えていた。街としての機能も十分に備えていたという。「大夕張鉄道」は現・石勝線夕張支線の清水沢駅からこの大夕張までを結んでいた。1911年に開業し、1952年には年間の輸送人員が224万人に達したという。
 夕張市の人口は1960年に11万6千人を記録。大都市であった。しかし、その後、夕張は石炭産業の衰微とともに、劇的な人口流出と荒廃化が進む。それでも私が子供の頃訪れた1984年の時点では、まだ3万人以上の人口があった。それが2012年になり、人口は1万人を切ろうとしている。
 本書は、そんな束の間の夢の記録であると思える。炭鉱の町を象徴した「動脈」の貴重な写真(すべてモノクロ)が数多く掲載されている。あの河岸段丘に、ほんの数十年前には、実際に街が広がり、産業が興り、鉄道が通っていたのだ。時の流れを痛切に思い知らされる1冊である。
 旧南大夕張駅前。1984年にはここに温泉旅館があり、私は家族とそこに宿泊した。だが、そこも今では多くが廃墟となっていた。確か街があったはずなのに。そのかつて駅がったあたりに、客車3両と除雪車が連結されたまま保存されている(2012年現在)。中に入って、客車の座席に座ってみた。28年前、私はこの車両に乗っていたのかもしれない。
 私が夕張でいちばん好きな景色は、シューパロ湖にかかる「三弦橋」という美しい廃橋であった。かつて森林鉄道が使用していたもので、本書にも写真が紹介されていた。しかし、今回訪問してみると、ダムの巨大化工事のため道路も付け替えられ、遙か彼方からかろうじて橋の遠景を望めるのみだった。大夕張も三弦橋もダムの底に沈む運命しか残されていない。人の記憶が風化していくように、現実の景色が消えようとしている。なんとも言えない儚さを抱えて、夕張を去った。
 せめてあの「三弦橋」の景色だけでも残してほしかった。大好きな景色を失った夕張に、私は、また来ることがあるのだろうか。
 夕張の風景は「急速に失われる風景」そのものである。本書では、その失われた風景が「大夕張鉄道」という視点を通して、淡々と語られている。今の夕張を知ったうえで、本書を見ることで、様々な感情が胸に興るのを経験することが出来るだろう。

昭和29年夏 北海道私鉄めぐり〈上〉 (RM LIBRARY(58))  青木栄一著

レビュー日:2012.11.1
★★★★★ 貴重な在りし日の光景に心動かされる1冊 その1
 ネコ・パブリッシングから出版されている「RM LIBRARY」シリーズの第58巻で、東京学芸大学教授である青木栄一氏(1932-)による1954年(昭和29年)の北海道の私鉄探訪の記録。
 本書はその前編に相当し、48ページからなる。貴重な写真(もちろんすべてモノクロ)が数多く掲載されているが、それらの写真の品質が高いことに驚く。この時期にこれだけ体系的な取材を可能とした氏のバイタリティに敬服する1冊だ。
 前編の内容は以下の通り(目次を転載する)。「まずは南部鉄道」「いよいよ北海道へ」「寿都鉄道を訪ねる」「留萠鉄道」「羽幌炭礦鉄道」「天塩鉄道」「旭川電気軌道」「旭川市街軌道」「士別軌道」「日本甜菜製糖磯分内製糖所」。
 南部鉄道は尻内駅(現八戸駅)を起点とする私鉄であるが、他は道内の私鉄である。上下巻通じての特徴であるが、森林鉄道など、旅客営業鉄道以外も対象としていることで、その網羅性にも感服する。また、当時の時刻表なども可能な限り掲載されており、こちらも大変興味深い。
 前編に掲載されている鉄道は、いずれも昭和期に廃止になったものばかりである。近年では「廃線ブーム」なるものが沸き起こり、私も廃線に惹かれる。これは盛衰の情緒を感じるとともに、かつてここに鉄路が通っていたのかという新鮮な驚きに接することができ、加えて、自然の中などで、ひっそりと時代に忘れられた遺構が佇む姿自体に静かな感動を覚えるからである。私の住む札幌のとなりに小樽という美しい港町があるが、小樽市はかつて市内を通っていた国鉄手宮線を保存しており、付近の風景に美しい彩を添えている。旧手宮線界隈は私の大好きな散策路でもあり、年に数回出かけている。
 そんな私にとって、廃線の往時の姿を伝える本書の写真は、感慨を催すもの。寿都鉄道など、名高い紀行作家の宮脇俊三氏(1926-2003)をして「なぜ往時に乗っておかなかったのか」と嘆かせた路線だが、その味わい深い機関車や駅の様子が本書の写真からは伝わる。留萠鉄道、羽幌炭礦鉄道、天塩鉄道など、天塩炭田の開発、経営に係った鉄道も、いかにも失われた風景としての情緒を感じ取るものばかり。一方で、旭川の郊外交通を司った軌道の写真には当時の地方都市近郊の姿が好まく表出しており、多くの人が共有する郷愁感に訴えるものになっている。士別軌道、日本甜菜製糖磯分内製糖所ともにまとまったきれいな写真を鑑賞できる機会は少なく、こちらもこの上なく貴重な資料。
 また、解説もかねて、筆者が当時の経路や、周囲の様子を簡潔に文章でまとめてくれている。もっと紀行文のように情報を増やしていただいても楽しかったと思うが、本書の簡潔な編集方針は、それはそれで、焦点のしっかりした好感のあるもの。昭和20年代に労を惜しまず、良質な記録を出版に結びつけた関係者に感謝したい。

昭和29年夏 北海道私鉄めぐり〈下〉 (RM LIBRARY(59))  青木栄一著

レビュー日:2012.11.1
★★★★★ 貴重な在りし日の光景に心動かされる1冊 その2
 ネコ・パブリッシングから出版されている「RM LIBRARY」シリーズの第59巻で、東京学芸大学教授である青木栄一氏(1932-)による1954年(昭和29年)の北海道の私鉄探訪の記録。
 本書はその後編に相当し、56ページからなる。貴重な写真(もちろんすべてモノクロ)が数多く掲載されているが、それらの写真の品質が高いことに驚く。この時期にこれだけ体系的な取材を可能とした氏のバイタリティに敬服する1冊だ。
 後編の内容は以下の通り(目次を転載する)。「雄別炭鑛鉄道釧路埠頭線」「北海道殖民軌道雪裡線」「釧路臨港鉄道」「雄別炭礦鉄道」「根室拓殖鉄道」「雄別炭礦鉄道尺別専用線」「十勝鉄道」「芦別森林鉄道」「三井芦別鉄道」「三井奈井江専用鉄道」「美唄鉄道」「北炭夕張化成工業所」「夕張鉄道」「そして-帰京」「札幌市電のこと」「函館市電のこと」。
 末尾に札幌市電、函館市電について、当時の様子がそれぞれ1ページずつ紹介されているが、こちらは著者の一連の紀行とは別に編集されたものとなっている。前編のレビューでも紹介したが、引用されている時刻表なども含めて、きわめて貴重な資料であり、掲載されている写真にも美しいものが多く、はっとさせられる。また、当時の旅の情景等を簡潔にまとめた文章も好ましい。
 掲載されている鉄道は、いずれも北海道の開発と、殖産興業の時代を背負った一種の象徴のような存在で、その歴史の中で役割を果たして去って行ったものに、今となっては切ない情緒を感じる。
 釧路臨港鉄道については、一部が現在も“現存する国内唯一の炭鉱”である釧路コールマインの専用線として生きており、ユニークな形状の機関車が行き来しており、ファンには有名な路線だ。また、十勝鉄道については、2012年6月まで、その一部である日本甜菜製糖-帯広間の6kmほどが、貨物専用線として利用されていた。札幌市電、函館市電については、一部が現役である。
 他方、他の路線はいずれも昭和期にその使命を終えたものだ。現在ではその廃線遺構などが探索されているが、往時の写真は、その鉄路が確かに生きていた時代の刻印と呼べるもので、感慨が深い。実際、北海道は、開拓・開発の歴史の中で、実に多くの鉄路が建設された歴史がある。森林鉄道、鉱工業専用鉄道、あるいは拓植鉄道などその性格も様々で、今でも山中の道路など通るおり、気を付けてあたりを見ると、一見用途不明な使われていない橋脚などが廃墟をして姿を現す。芦別森林鉄道なども、びっくりするほど人里から離れた山奥にその痕跡を残しており、経緯をしらないものには、まさに謎の廃墟として映る。
 本書には、各鉄道の主力機関車や、編成、主要駅の様子が的確に収められている。また、添付されている時刻表を見ると、多くの軌道が停車時間を含め、時速20km/h程度の走行であったこともわかる。この時刻表がすでに、軌道が現在の幹線のような高規格で作られてはおらず、蒸気機関車が主流で客貨車混合列車が多く、駅では貨物の出し入れも行われていた、そのような物流形態の時代の一面を雄弁に物語るものと言えるだろう。
 この書を片手に、これらの廃線跡を探索してみたいと思わせてくれる一冊だ。これらの廃線跡の多くがその痕跡さえ薄めていく現在であるが、人為的に保護された史跡以上に、歴史の語り手として、何かを私たちに伝えてくれるものであると思う。

夕張線 石炭とともに歩んだ126年の軌跡  (RM LIBRARY(253))  奥山道紀著

レビュー日:2021.6.29
★★★★★ コンパクトにまとめられた夕張線126年の歴史
 2019年4月1日、石勝線の新夕張-夕張間、16.1kmが廃止された。この線路は、室蘭線の追分駅を起点とし、夕張駅までの43.6kmを結ぶ「夕張線」という名称だった。夕張駅までの開業は1892年。また、途中の紅葉山駅(現・新夕張駅)からは、登川駅までの7.6kmの支線(1918-1981)があった。
 夕張線は、富国策に必須な石炭の搬出に活躍した。1912年から1932年までは複線で運用されたこともある。また、夕張線の他に、夕張鉄道(1926-1975)があって、やはり夕張本町駅と、室蘭線栗山駅、函館線野幌駅を結んだ。運炭路線の象徴的な線路の一つであり、1981年には、札幌と道東を結ぶ幹線、石勝線に組み込まれたこともあって、最近まで活躍してきたが、前述の通り、2019年に、石勝線の夕張支線は、その歴史に幕を閉じた。
 私は、この歴史ある区間が好きで、たびたび列車に乗りに行った。ちょっと休みのとれた日など、札幌から苫小牧まで出て、そこから室蘭線を経由して夕張まで行ったりした。その車窓からは、賑わいが去りながらもまだ営みを残す町の景色があって、それは志幌加別川に沿って、谷あいに伸び、風情があった。また、車窓からは、まだ残る複線時代の橋脚や隧道の跡を眺めることができた。付近の産業遺産を見ながら、私はたびたびぶらぶら歩いた。私がそうやって歩いていると、「昔の楓駅はあそこにあった」「真谷地への鉄道はそこを通っていた」「その先に最近までホッパーがあった」と様々に現地の人たちが、かつての鉄道を懐かしんで、話しかけてくれたものである。夕張支線の廃止は残念だった。ちなみに、たびたび訪問していた夕張であるが、気が付いてみると、夕張支線廃止以後、私はかの地を訪れていない。どうにも寂しくて・・。
 さて、そんな126年に及ぶ歴史を終えた夕張線の「生涯」をまとめたと言える一冊が刊行された。その目次を転載しよう。
はじめに  2
1. 夕張線の軌跡
 (1) 開業  4
 (2) 鉄道唱歌  8
 (3) 複線化、そして単線に  9
 (4) 戦後復興とお召列車  11
 (5) 幻の夕張線・DF50形ディーゼル機関車  12
 (6) 準急「夕張」号運行開始  13
 (7) 夕張炭を輸送せよ  14
 (8) クリスマスイブの夜の貨物6788列車  18
 (9) 夕張線から石勝線へ  19
 (10) そして終焉  21
2. 夕張線を走った主な車両
 (1) 蒸気機関車  23
 (2) ディーゼル機関車  26
 (3) 気動車  27
 (4) 貨車  27
3. 夕張線各駅停車  32
4. 「あびらD51ステーション」オープン  44
資料
夕張線 線路一覧略図  22
追分/夕張機関区の機関車配置表  28
機関車運用区(追分機関区)  30
追分機関区 火災発生の報告(抜粋)  46
被災のため廃車解体する機関車番号  46
追分機関区構内平面図/解体作業場所  47
おわりに  48
 内容は全ページ白黒で、貴重な写真と資料の紹介。そして説明からなる。もっとも古い写真は1892年の開業直後のもので、夕張市石炭博物館の所蔵品である。次いで20世紀初頭の写真があり、当時の木造橋脚による夕張川橋梁の姿など、感動的である。個人的に10ページの中央で紹介されている写真は特に興味深い。夕張線と夕張鉄道の立体交差地点で、夕張から並走していた両線は、ここでおおきく袂を違えて、それぞれ別のルートで石狩平野を目指すことになる。この立体交差は、現在も夕張鉄道跡がサイクリングロードとなることで、残っているのだが、この写真は、かつて、その下を3本の線路が通っていたことを示してくれる。複線運用されている夕張線と、若菜辺鉱山の専用線である。この時代のエネルギーが詰まっている。「クリスマスイブの夜の貨物6788列車」は、国内最後の本線における蒸気機関車運用の写真。1975年12月24日。それも夕張線だった。なお、本線運用が終わった蒸気機関車であるが、その後も追分機関区で入替に供されていたが、1976年4月、機関区を火災が襲う。その悲運も、本書で資料が紹介されている。
 夕張線を走った主な車両は、当然の事ながら全車両を紹介できるわけではないため、代表的な形式のものが写真と説明文で紹介されるという体裁となっている。また、登川支線や、追分-紅葉山間を含む夕張線、全区間の駅について、写真、配線図、説明による紹介がある。ただ、これらの写真のサイズは小さい。車両の写真等も含めて、できればより大きいサイズで、またカラー写真はカラーで見たかったという気持ちが強い。
 本書で取り上げられている「あびらD51ステーション」は、安平町の道の駅。安平町は追分町と早来町が合併してできた自治体であり、この道の駅は、夕張線の起点であった追分駅から近いところにある。2019年4月にオープンした施設であるが、鉄道保存施設という一面をもっており、いくつかの車両が丁寧に保存されていて、無雪期の土日には、保存車両の解説や、客車内への案内もしてくれる素晴らしい施設となっている。私もすでに複数回訪問している。蒸気機関車と道内産炭の時代は去ったが、このような施設が維持運営されることは、私には喜ばしいし、地域の鉄道への思いが伝わってくるのが、何より嬉しい。

夕張鉄道 路線・沿革編-石炭を運んで半世紀-  (RM LIBRARY(285))  奥山道紀著

レビュー日:2024.5.27
★★★★★  創立100年の節目が近い「夕張鉄道」の記録を刻んだ書籍
 北海道炭礦汽船夕張鉄道線(夕張鉄道)は函館線野幌駅を起点とし、室蘭線栗山駅、夕張線(当時)鹿ノ谷駅で国鉄線と接続し、夕張本町までの53.2kmを結んだ私鉄線で、1926年に栗山-新夕張(のちの夕張本町)間の鉄道営業が開始されている。運炭と旅客営業を中心に活躍したが、石炭産業の衰微により、1975年に廃止となった。なお、会社としての「夕張鉄道」はバス会社として、現在も活躍している。
 鉄道線としての夕張鉄道は、2025年に廃止50年、2026年に開業100年を迎えることになる。そんな「節目のタイミング」にふさわしい書物が刊行された。RM LIBRARYシリーズから「路線・沿革編」「車両編」の2冊に分かれた形で、北海道の鉄道文化研究の第一人者といえる奥山道紀氏が執筆されたもの。本書はその「路線・沿革編」となる。まず、おおまかな本書の内容紹介のため、目次を転載する。
はじめに  2
1. 夕張鉄道の歩み
1.1 夕張炭田の開発  4
 1.2 夕張鉄道株式会社設立  5
 1.3 野幌延長  8
 1.4 気動車導入とバス複合輸送  10
 1.5 大勝号  11
 1.6 幻の新路線  11
 1.7 東急と札幌急行電鉄  12
 1.8 平和炭鉱の増産と機関車増備  13
 1.9 合理化の進展と鉄道廃止  15
 1.10 「夕鉄」の残像  17
 1.11 列車運行状況・輸送量と収支  18
 1.12 夕張鉄道の施設  23
2. 夕張鉄道各駅停車
 ~1965(昭和40)年5月・野幌発夕張本町行「13列車」に乗って~  24
3. 接続する専用鉄道・専用線  44
おわりに  48
 私鉄王国と言われた時代に存在した北海道の私鉄群の中でも、大規模で、札幌近郊まで線路が延びていた「夕張鉄道」に関しては、比較的資料が多く残っており、写真も様々に紹介されているが、それでも、「沿革」として、ここまでふさわしい内容でまとめられたものはなかった。著者が自ら所有しているダイヤ等の資料の他、本書の制作にあたって、貴重な資料・写真が集められている。印刷はすべて白黒だが、写真の状態は概して良好で、当時の状況がとてもわかりやすいものが多い。
 まず「1.夕張鉄道の歩み」では、その建設の経緯の他、様々な未完に終わった計画も紹介されていて、私のような鉄道好きには、たまらない内容の宝庫だ。建設の過程では、建設工事の様子を示す写真や図面の紹介が興味深い。また、7100形を模倣して北海道炭礦鉄道手宮工場で1895年に製造され、夕張鉄道の建設工事で活躍した7150形大勝号(現・小樽市総合博物館保存展示)の略歴紹介もうれしい。
 「幻の新路線」は平和~清水沢だけでなく、江別~石狩という計画も推し進められたとのことで、鉄道ファンには、とも夢をみさせてくれる。また、有名な「札幌急行構想」は、東急の五島慶太が推し進めたもので、江別から、対雁を経て、ほぼ現在の雁来国道に沿う形で、時東急傘下にあった定山渓鉄道とも接続しながら、札幌都心(大通付近;地下駅)まで、乗り入れる(江別市の資料である路線の概略図が掲載されている)というもので、五島の死去により実現はしなかったものの、もしこの鉄道線があれば、現在の周囲の開発状況は、現在とは大いに違うものになっていただろうと思わせるものだ。
 ところで、話は少しズレるし、他のところでも書いてきたことだけど、東急系定山渓鉄道の廃止というのは、札幌市にとって、一つの大きな政治的分岐点であったと思う。1972年の札幌オリンピックのため、真駒内会場までの移動手段を整備したい思惑で、定山渓鉄道の路盤を入手するため、定山渓鉄道職員の札幌市職員化など、現在では考えられない手法で買収・廃止が行われた。そもそも、大都市近郊の電化鉄道で、輸送密度の高い鉄道で、国内で唯一廃止となったのが「定山渓鉄道」である。もちろん私は、代わりという形で建設された地下鉄の有用性を否定する気は毛頭ないが、オリンピックがなければ、わざわざ地下鉄第1号を決して人口の多い地域とは言えない真駒内目指して建設することはなかってであろうし、加えて「真駒内以南の交通不便」「定山渓の観光活性手段の一つである風光明媚な鉄道の喪失」ということもなかったであろう。何より大きいのは、札幌市が、都市開発ツールとして、「東急」という大手私鉄資本によるものを、永遠に捨て去ったことである。他の国内の大都市では、大手私鉄により、沿線の開発・投資が継続される一方で、札幌においては、定山渓鉄道廃止後、大規模な開発はすべて官主導で行われることとなった。ちなみに、定山渓鉄道も廃止以前は、沿線の住宅地開発や、駅付近の学校誘致など積極的に行ってきており、慈恵学園などはその代表例である。それが、札幌オリンピック以降、札幌ではそのような民による大規模な資本投資の機会は、ほとんどなくなったと言ってよい。私は、「札幌ドーム」は、そんな官主導による開発の象徴だと思っている。
 話を本書に戻そう。さて、私が本書でいちばん楽しんだのは「2. 夕張鉄道各駅停車」である。副題にある「~1965(昭和40)年5月・野幌発夕張本町行「13列車」に乗って~」のイメージに沿って、当時の沿線の重要なオブジェクトや駅が紹介されているのだが、ほとんどの駅について、当時の駅の様子がとてもよくわかる写真、そして側線や交換機能をもっていた駅については、その配線図が紹介されているのだ。「北海鋼機前」や「南幌」の瀟洒な駅舎は、いかにも大都市近郊の住宅地という雰囲気だし、仮乗降場を思わせる「双葉」 国鉄駅を彷彿とされる「北長沼」、「角田」、最近まで駅舎が残っていた「新二岐」や、駅舎の一部がなお残る「継立」の往時の姿。スイッチバックの途中にあった「錦沢」、そして夕張市内のそれぞれに味わい深い「平和」「若菜」「鹿ノ谷」「営林署前」「夕張本町」。鹿ノ谷の配線図は、あの巨大なヤードがどのように利用されていたのかを如実に示すものだ。また、いくつかの駅では、立て直し前の駅舎の写真も併せて紹介してくれている。夕張鉄道の駅たちの姿を、一覧性を担保してみせてくれるのは、本当にありがたく、当時の様子がよくわかる。
 「3. 接続する専用鉄道・専用線」では、夕張鉄道廃止後の1987年まで運用された「北海鋼機専用線」、火山灰の採取に使用された「北海道炭礦汽船(株)継立専用鉄道」、電化され旭川市街軌道から譲受した電車が走っていた「角田炭砿(株)専用鉄道」など8路線について、概要と、写真、資料が紹介されている。こちらで紹介されている写真も、産炭地ならではのスケールの大きい周辺施設の様子と一体として記録されているものが多く、おもわず見入ってしまうものばかり。
 私のようなファンにとって、本当にありがたく、情報量豊富な一冊となっています。

夕張鉄道 車両編  (RM LIBRARY(286))  奥山道紀著

レビュー日:2024.5.31
★★★★★  夕張鉄道で運用された車両たちの写真、データを網羅した一冊
 函館線野幌駅と夕張本町を結んだ全長53.2kmの北海道炭礦汽船夕張鉄道線(夕張鉄道)は、2025年に廃止50年、2026年に開業100年を迎えることになるが、このたび、北海道の鉄道文化研究の第一人者といえる奥山道紀氏によって、RM LIBRARYシリーズから「路線・沿革編」「車両編」の2冊が発売となった。本書はその第2弾にあたる「車両編」となる。まず、おおまかな本書の内容紹介のため、目次を転載する。
車両編のはじめに  2
1. 蒸気機関車
 1.1 初期の蒸気機関車  4
 1.2 夕張に割いたコンソリの傑作  5
 1.3 個性豊かなキューロク  12
column 喚呼応答「錦沢の□・ヨシ!」サミットを克服せよ  18
2. 内燃機関者  20
3. 蒸気動車  21
4. 気動車  22
5. 客車
 5.1 開業時の客車・鉄道省払い下げ車  28
 5.2 開業時の客車・自社発注車(梅鉢鉄工所製)  30
 5.3 神中鉄道払下げ車  31
 5.4 自社発注客車(日本車輛製)  32
 5.5 戦後の国鉄払下げ車  35
6. 貨車
 6.1 有蓋車  37
 6.2 無蓋車  38
 6.3 その他の貨車  39
 6.4 石炭輸送  40
 6.5 化成品輸送用タンク車  42
7. その他の車両
 7.1 雪と闘う  43
 7.2 借入車両  45
 7.3 夕張鉄道の遺産  45
在籍車輛一覧表  46
参考文献・資料  47
 夕張鉄道が廃止された1975年というのは、蒸気機関車にとっても節目の年であった。1960年から15年計画で行なわれた動力近代化計画の最後の年であった。最後まで蒸気機関車が活躍した北海道においても、追分機関区に残ったD51が1975年12月24日、9600が1976年3月2日を最後に運用を終了し、蒸気機関車の時代は終焉を迎える。それに少し先立つ1975年4月1日の夕張鉄道の廃止は、蒸気機関車が活躍した「舞台ごと」その活動を終えたという点で、象徴的なタイミングでもある。
 本書では、夕張鉄道が運用された全時代における車両を、機関車に限らず、客車、貨車、特殊車両も含めて紹介したものとなる。夕張鉄道の時代は、蒸気機関車に象徴されるように、夕張鉄道が直接発注・製造したものだけでなく、輸入・移籍など様々な経緯を経た車両たちが夕張鉄道を賑やかに彩っていたため、その多様さ、多彩さは壮観といっていいものになっている。各車両の紹介は、写真の他、全長・重量等の各種データ、また、対象によっては、竣工図や組立図も掲載されており、情報量が豊富だ。
 まず、蒸気機関車の紹介から始まる。初期のコッペル製蒸気機関車、次いで日立製作所製の11形、~その12号機は夕張鉄道最終期まで活躍し、同鉄道のシンボルとも言える存在だった。そして、国鉄から譲渡されたボールドウィン製の6形、ダブス製7形は鉄道作業局から、9形は筑波鉄道からの移譲。また、本書では、わかりうる限りの改造等の履歴も記載されている。日本中で活躍した9600形については、夕張鉄道は1両の新造機と、7両の国鉄からの払下げ機が活躍した。これらは21形として、夕張鉄道においては20番台の車番が与えられていた。これも、各機の写真とともに、諸元等が紹介されていて、たいへん参考になる。
 Columnとして紹介されている錦沢のスイッチバックを含めた旧峠越えは、私には感慨深い。というのは、蒸気機関車の撮影をしていた私の父が、もっとも印象深かったものとして、平和から錦沢に向かう石炭列車の光景を話していたからだ。長大な運炭車の編成の前後に蒸気機関車を配し、前後が汽笛で間合いを諮りながら、一気に出力を上げて坂を上っていくそれは、脳裏に焼けつくような光景だったとのこと。また、峠に至った後に、後部の蒸気機関車が切り離され、うってかわって単機で静かに降りてくるのも、とても印象的だったとのこと。
 内燃車ではディーゼル機関車、気動車とともに「蒸気動車」の項があるが、早くに夕張鉄道から天塩炭鉱鉄道に譲渡されたこともあって、写真がないのは残念。とは言え、特徴的な外面をもつキハ200形や250形、300形など、当時のエピソード等まじえて、様々に紹介してくれている。
 その他、歴史の特に古いものも含めて、客車、運炭車、貨車、タンク車、除雪車など、ひとつひとつ、とても丁寧かつ簡潔に紹介されている。石炭輸送車は特徴的な機能を持っているので、詳細な解説はありがたい。また、夕張鉄道でタンク車が使用されていたことを知る人は少ないのではないか。北炭化成工業所でコークスを生産する過程で出来た副産物であるベンゾールの輸送に供されていた。本書ではそのあたりの事業も紹介してくれている。
 接続する専用線は対象外のため、角田炭砿専用鉄道で運用された電車は対象外となっているものの、一覧性の高い優れた資料となっており、夕張鉄道に興味がある人であれば、付け足す余地を見出すのが難しいほどに満足できる内容だ。

復刻版時刻表 終戦直後編

レビュー日:2013.11.6
★★★★★ 在りし日のロマン誘う書・・ぜひ、いずれ、道内時刻表も復刻を!
 JTB出版からリリースされた「時刻表復刻版」シリーズの「終戦直後編」である。当時出版されていた時刻表を、広告等も含めて、そのままの形で再版したもの。当巻に収録されている全国時刻表は以下の5冊。
1) 1945(昭和20)年9月 時刻表1號(通巻238号)
2) 1946(昭和21)年2月 時刻表(通巻243号)
3) 1946(昭和21)年8月 時刻表(通巻249号)
4) 1946(昭和21)年12月 時刻表(通巻251号)
5) 1947(昭和22)年12月 時刻表(通巻261号)
 また、それらと別に、以下の8つの薄いダイジェスト版時刻表が、封入されている。
・1945(昭和20)年11月 関東地方主要線時刻表(通巻240号)
・1945(昭和20)年12月 関東地方主要線時刻表(通巻241号)
・1946(昭和21)年1月 関東地方主要線時刻表(通巻242号)
・1946(昭和21)年4月 主要線主要駅時刻表(通巻244号)
・1946(昭和21)年6月 羽越信地方汽車時刻表(新潟鉄道局)
・1946(昭和21)年7月 羽越信地方列車時刻表(通巻248号)
・1946(昭和21)年11月 (主要線主要駅)時刻表(通巻250号)
・1947(昭和22)年5月 東京中心時刻表(通巻254号)
 この8つについては、横綴じの小冊子の形式であるが、一冊あたりの内容が少ないため、付録的なものとみてよく、本編はやはり1)~5)であろう。また別に鉄道運輸史研究家である曽田英夫氏による解説が冊子になって付属している。
 私は、かつて紀行作家であった宮脇俊三(1926-2003)氏の名作「時刻表昭和史」を読み、戦中の旅行がどのようなものであったか、また終戦の日も、ダイヤ通りに鉄道が運行されていたことなどが、淡々と綴られていて、感銘を受けた。その後、自分の生まれた北海道に、かつて縦横に鉄路が張り巡らされていたことを知り、これに興味を持ち、時にその遺構を訪ね歩くこともするようになった。最近では、深名線や羽幌炭鑛鉄道の跡を訪れ、その現在の姿から、様々なことを感じたものである。
 そんな鉄路の在りし日の姿を伝えるものとして、貴重な写真とともに「時刻表」がある。時刻表というのは不思議なものだ。単に駅名と数字の羅列であるが、そこから読み取れる情報というのはことのほか大きい。その時代の社会情勢、地域の生活、都市の規模、移動形態など、様々なものを読み解き、想像し、また謎を喚起することができるもので、読み方を把握してしまうと、見ていて面白くてたまらなくなるところがある。
 私は、北海道の鉄道に特に興味を持っている。これは、私の住んでいる土地であるから、というのはもちろんそうなのであるが、北海道には、入植、採炭に伴う急激な鉄路による開拓誘導が行われ、それがエネルギー転換、産業構造の変化にともなって、続々と廃止され、森の奥や山の中で、訪れるものもなくなり、ただ廃墟と化している姿に、痛烈な時の流れを感じるからである。北海道というのは、そういった意味で、たいへん感傷的なところのある土地だと思う。
 さて、5冊の全国版時刻表で特異な存在となるのが1)、まさに終戦時のダイヤによるものである。まず路線地図を見ると、台湾、中国大陸、朝鮮半島、樺太にまでその版図が広がっている。当時は終戦間近で、各地で敗戦に敗戦を重ねる状態であったから、これらの地で鉄道運行を統御できる状態ではなかったであろうが、メンツでダイヤを作成し、時刻表にも掲載して体裁を繕っていたのであろう。ちなみに本土以外の時刻表はかなり簡略なもので、列車本数も極度に少ないものとなっている。
 ちなみに、樺太については、日露戦争終結から太平洋戦争終結までの40年間、日本の領土であったため、鉄道の敷設も日本によって行われた。そのため、現在でも、この地では日本と同じ「標準軌」という線路幅が使用されている。
 この時刻表では、列車以外にも連絡船の時刻掲載頁があるが、これについてはすべて時刻が伏せられている。連合軍から船舶への攻撃を避ける目的であるが、これに接続する優等列車の発着時間から、(時刻表に見慣れた人には)容易にそれらの運航時刻も察しがついてしまうだろう。
 他にも目を向けよう。終戦当時の時刻表を見ると、主要線と地方線の列車本数の差がそれほどないことに気付く。もちろん、首都圏の国電などは、当時から分刻みの運転であるが、それ以外は、長大な幹線であってもそれほど運行本数は多くなく、逆に地方ローカル線は、意外にそれなりの本数が確保されている。これは、この時代の日本の人口分布が分散していたことを示す。地方と都市の差が、現代ほど極端ではなかったのだ。
 そこで、私は、最近廃線跡を訪れた深名線が走っていた幌加内町の人口を調べてみた。現在わずか1,700人の人口である。それが、1955年の国勢調査集計表では、なんと1万2千人を超えていたのである。1955年→2013年の人口変化を見よう。幌加内町は(12,100人→1,700人)、一方、札幌市は(43万人→191万人)。都市は人口が膨張し、地方は減衰した。その一途を辿ったのが戦後から現在までの経過である。そのため、地方で息づいた鉄路は、(車が普及したこともあり)、急速にその役割を終えて、時代を去って行ったのである。
 しかし、本巻に収められた時代は、まだまだ鉄道が拡張していた時代である。北海道でも、終戦後わずか1年長の間に、各地で鉄路が延長開通している。
 かつての時刻表を見ると、いろいろな不思議もある。私が気付いた不思議を一つ挙げよう。北海道では3)で、戦時中運行を休止していた興浜南線(興部‐雄武)が運転を再開している。しかし、雄武初の列車が、なぜかすべて名寄線の接続駅である興部に到達せず、途中駅である澤木(沢木)が終着となっている。まったく意味不明のダイヤである。
 また、もう一つ、古路線研究のロマンを。本復刻版時刻表で深名線を、深川からたどると、朱鞠内の次に「宇津内」という駅がある。これは、ファンには幻の駅として有名で、現在ではその駅がどこにあったかもはっきりとはわかっていない。1949年には駅として廃止され、全国版時刻表から姿を消したが、その後も一定期間、仮乗降場扱いとして存続し、道内時刻表では表記があったとされている。また、最近の研究では1956年の11月19日に「最終利用」が確認された(この駅への列車の停車が目撃されている)とされているが、いつ完全に廃止され旅客の扱いをやめたのか、現在まで「不明」とされている。その宇津内駅の名前と列車時刻が、これらの時刻表ではしっかり記載されている。幻の駅が確かに存在していたことの何よりの証しである。
 かように、興味のある人にとっては、つきないロマンへと誘う復刻版時刻表であるが、今後同様物を刊行するのであれば、是非にも、「道内時刻表」の復刻をお願いしたいと思う。というのは、前述した多くの「仮乗降場」や、廃止され山野に帰っていた拓植鉄道、炭鑛鉄道などの細かい時刻は、道内時刻表でなければわからないものが多いからである。もちろん、本書でも主要駅の発車時刻はわかるが、もっと詳細を知りたいと思うのは好奇心のなせるわざである。JTB出版には、ぜひにもよろしくお願いしたい。

さよなら江差線 さよなら江差線編集委員会著

レビュー日:2014.7.28
★★★★★ 道南の美しい風景とともに、多くの人の思い出を封印した写真集
 本書は全176ページ、すべてカラー印刷。美しい数々の写真と貴重な資料で、2014年の5月に廃止された江差線を紹介する内容である。資料には鉄道が少しずつ開通していった頃の新聞記事や、かつての時刻表のおおまかなもの、それに各駅や沿線の紹介、江差線に係った人々の言葉などが示されていて、どれもみな興味深い。
 江差線は北海道南部の2つの古都、函館市と江差町を結ぶ鉄道路線であった。この2つの町は、私の住む札幌市よりもはるかに歴史が深い。江差町は江戸時代末期には人口3万人を数え、ニシンを中心とする漁業、さらには北前船の交易で、「江差の五月は江戸にもない」と言われるほどの活況を築いた町である。現在ではその人口は1万人を下回ったが、歴史的な建造物が多く、日本海の美しい海岸線とあいまって、たいへん魅力に溢れる町である。
 本書の対象となっている線区は、廃止された木古内-江差間の42.1kmのみではなく、北海道新幹線の開通に際して第3セクター化される五稜郭-木古内間37.8kmも含む「江差線全線」である。当該区間の写真も当然多く掲載されている他、駅なども細かく紹介されている。やはり江差線の歴史を振り返る際に、全体像を把握しながらの方がふさわしいだろうし、何と言っても、「江差線」を銘打った写真集としては妥当な構成だろう。しかし、私には、第3セクター後の残された区間も、やがて旅客営業が廃止されてしまうのではないか?、ということを暗に示しているように思えてしまうのだけれど。
 いずれにしても、江差線は、沿線風景のたいへん美しい路線であった。函館を出て、市街地を走り、五稜郭で函館線と別れる。上磯の太平洋セメントの巨大プラントを迂回するように周回し、茂辺地、渡島当別といった辺りでは、海の向こうに、函館の市街地と函館山を望む。天気が良ければ、絶好のパノラマで、東京や大阪から夜行列車でやってきた人が、まず目を奪われる北海道ならではの車窓だ。木古内からは、稲穂峠を越える急峻な山間を登る。夏場なら、新緑のカーテンをくぐり続けるような景色を堪能できる。分水嶺を越えると、山に囲まれた地に神明の趣深い駅舎がある。ここからは日本海に注ぐ「天の川」に沿って列車は走る。天の川は、小さな沢に端を発し、やがて古代の雰囲気を色濃く残すように大きく蛇行する川となる。上ノ国に至り、天の川が海へと消えていくと、今度は江差まで、広大な日本海を眺めて進んで行く。時間帯によっては夕陽に染まる金色の海を見晴らすことができた。
 私は、2013年の6月に妻と江差を訪れた。朝8時発の普通列車に乗り、函館へ。そして函館を散策して、再び江差線で戻り、この美しい港町で宿泊した。滞在中、多くの江差の方とお話する機会があったが、江差線の廃線を惜しむ声はあちこちで聞かれた。
 江差の町を歩いていると、ふと目についた薬局に、「江差線写真展開催中」と掲示がされていた。「なぜ薬局で?」と思いつつ、私たちが、その建物の外側に掲げられた写真を見物していると、中から店主らしき人物が出てきて、どうぞお入りください、という。その方こそ、他ならぬ江差町在住の鉄道写真家、辻晴穂氏であった。私たちを店内に招き入れてくれた氏は、様々な氏のコレクションを見せてくれた。どれも美しいものばかり。私たちが「昨日、江差線に乗った」と言うと、我がことのように喜んでくれた。・・その、辻氏の素晴らしいコレクションが、本書に数多く掲載されている。
 本書は、辻氏を初め、数人の写真家の写真を収録しているが、やはり地元江差町にお住まいの辻氏のコレクションが、その中心を成している感がある(各写真には、可能な限り撮影年月と撮影者のイニシャルが表記されている)。彼の写真は「レイル・マガジン」等の紙面もたびたび賑わしているので、その見事さは、知る人には言わずもがならしい。私の場合、恥ずかしながら、その時初めて氏を知った次第であるが。
 そのようなわけで、私は本書の内容に、ずいぶん思い入れを感じてしまう。しかし、そうでなくても素晴らしい写真集であるのは間違いない。私は、発売とほぼ同時に購入させていただいたが、ほぼ毎日、どこかのページを開いて、見入っている。この素晴らしい写真集完成の契機が、江差線の(部分)廃止であったのは皮肉だけれど、このようなものがまとまっただけ、江差線は幸福だったのではないか、とさえ思える。海、山、川、町並み。美しい近景と遠景が織りなす世界。そして北海道ならではの四季。さらには江差線の歴史を証明する貴重な写真も数多く掲載されている。かつて運転されていた優等列車、準急「えさし」、あるいは何かの臨時の際に江差線に乗りいれた特急型車両や観光車両。さらに、保線の作業車・・。
 文字情報も十分で、江差線の歴史を含めた全貌を、この1冊でほぼ俯瞰できると言ってもいい。
 興味深かったものの一つに、江差までの鉄道建設にあたって、「上ノ国経由」と「厚沢部経由」で綱引きがあったとの記事がある。このたびの廃止の理由に、江差線の線形が、人の動線に沿っていないため、利用者が少なかったということがある。
 地図をご覧いただきたい。江差から、函館に向かう最短経路は、厚沢部を通る国道227号線を経るルートである。実際にバスはこのルートを運行している。対するに江差線は、急峻な峰々の間を経て、木古内まで南下し、そこで、大きく方向転換して、函館に向かう。距離が長く、上り下りの激しいルートで、所要時間で圧倒的に不利だったのは否めない。また上ノ国経由の場合、江差の地形的な問題で、駅が「町の南はずれ」となってしまった。そのようなわけで、多くの江差町民にとって、決して利便性の高い交通機関というわけではなかったのだろう。これが厚沢部経由で路線が敷かれていたら、どうなっていただろうか?
 などと書いても、私の想像の遊びでしかないが。そもそも江差町を含む北海道南部の日本海側の地域(檜山管内)は、1970年代に比し、おおむね人口が2分の1程度にまで減少してしまっている。高度成長の名の下、「一次産業」より「工業」、「地方」より「都市」、というデュアリズムに重点をおいた日本の政策の負債を背負った象徴的地域の一つと言って良い。正直に言って、管内唯一の鉄道さえ失って、この地域の行く末に、明るさを感じることは難しい。本書を見ていて、そのようなことも考えてしまった。
 それは置いても、本書は本当に素晴らしい写真集だと思う。江差線に乗ろうと思っていて、その機会を逸した人などには、是非とも買っていただきたい。私も、あの江差線の美しい風景を、本書を見て思い出しながら、いずれは懐かしい地を再訪してみたいと思う。廃駅となった神明の駅舎は、今もあの深い山の中で、静かにたたずんでいるはずだから。

よみがえる北海道の鉄道・軌道―昭和20~50年代、C62から炭鉱鉄道までの完全記録 浅原信彦著

レビュー日:2014.10.27
★★★★★ まさにタイトル通り!往時を鮮明に蘇らせる貴重な写真の数々に感動
 コンセプトは昭和20~50年代(1945~1984年)の北海道の鉄道・軌道を網羅的に集成することで、現在の有無にかかわらず、以下の路線すべてについて写真つきで紹介されている。
第1章 カラーでよみがえる北海道の鉄道・軌道 (p5-32)
第2章 国鉄線(p33-96)
 函館本線、江差線、松前線、瀬棚線、岩内線、函館本線南美唄支線、手宮線、札沼線、千歳線、幌内線、歌志内線、深名線、室蘭本線、胆振線、夕張線、万字線、日高本線、富内線、根室本線、富良野線、士幌線、広尾線、白糠線、石北本線、池北線、相生線、釧網本線、標津線、根北線、留萌本線、羽幌線、宗谷本線、美幸線、天北線、興浜北線、名寄本線、興浜南線、渚滑線、湧網線
第3章 私鉄と炭鉱鉄道・専用線(p97-154)
 寿都鉄道、茅沼炭化鉱業専用線、定山渓鉄道、夕張鉄道、三菱鉱業美唄鉄道、三菱鉱業大夕張鉄道、三井鉱山奈井江鉱業所専用線、藤田炭鉱宗谷鉱業所専用線、三菱鉱業芦別鉱業所専用鉄道、三井芦別鉄道、北海道拓殖鉄道、十勝鉄道、雄別鉄道、雄別炭礦尺別鉄道、釧路臨海鉄道、根室拓植鉄道、留萌鉄道、明治鉱業庶路鉱業所、天塩炭礦鉄道、明治鉱業庶路炭鉱専用線、羽幌炭礦鉄道、旭川電気軌道、北海道炭礦汽船真谷地炭坑専用線、北海道炭礦汽船美流渡炭鉱専用線、油谷鉱業所専用線、三美運輸(三美鉱業専用線)、日曹炭鉱天塩鉱業所専用線、角田炭礦専用線、日本セメント上磯工場専用線、日本甜菜製糖磯分内工場専用線、北日本製紙江別工場専用線、士別軌道
第4章 路面電車と地下鉄(p155-168)
 札幌市電(札幌市交通局)、函館市電(函館市企業局)、旭川市街軌道、札幌市営地下鉄(札幌市交通局)
第5章 森林鉄道(p169-180)
【写真が掲載してあるもの】温根湯森林鉄道、ムリイ・上丸瀬布森林鉄道、芦別森林鉄道、主夕張森林鉄道、下夕張・夕張岳森林鉄道、定山渓森林鉄道
第6章 殖民軌道と客土事業(p181-191)
【写真が掲載してあるもの】 歌登町営軌道、浜中町営軌道、鶴居村営軌道、幌延町営軌道、別海町営軌道、知内の客土事業、雄別鉄道の車窓から確認された河川整備事業
 当然ながら、使用されている写真は、1945~1984年の間のものだ。
 この年代、北海道には実に多くの鉄道・軌道が張り巡らされていた。その中には、乗客や貨物を運ぶもの、石炭や森林資材を搬送するものに加え、北海道特有の殖民軌道というものまであった。その目的は、当時の国家的事業であった北海道の開拓である。原始の大地を切り拓くため、多くの人が移り住んできたわけだが、その末端部では、道路等の整備さえままならず、開拓のための資材搬送と、人の移動を確保するため、各地方自治体は「殖民軌道」を整備した。その総延長は最盛期では600kmに及んだと言う。
 加えて、山間部の森林、石炭といった資源を搬出するため、驚くほど奥深くまで、鉄道は敷かれていた。現在の路線図しか知らない人が、その全貌を知ったら驚くに違いない。現在、それらの遺構は、人知れず山野に埋もれていることが多い。私は、北海道を旅していて、「どうして、こんなところにこんな人工物が」という驚きにたびたび遭遇し、その由来に興味を持つうちに、鉄道・軌道の歴史を知るようになり、ひいてはかつて張り巡らされていた鉄道網の全容を知りたいと思うようになった。
 とはいっても、それはたいへん難しいことだ。まず資料が少ない。これらの軌道には、時刻表にさえ記載されていないものが多く、往時の地図の記載も、不正確なことが多い。幸いにもある時期の地形図に記載されていたとしても、路線の線形が誤っている場合もある。年月とともに、人の記憶から去る一方で、その物理的証拠であった痕跡さえも、野に帰りつつある。
 そのような中、本書は、北海道の鉄道の黄金期と呼べる時代の、高品質な写真を網羅的に集成したという点で、たいへんに貴重だ。本書では地図等のデータは割愛されている。掲載されている文字情報は、国鉄線に関しては、「区間」「旅客駅数」「沿革」、他の鉄道・軌道については「区間・距離」「動力」「軌間」というシンプルなものだ。なので、そういった視点では、他にもっと優れた資料は存在する。
 しかし、それを越えて見事なのは、集められた写真の数々である。いずれも名のある鉄道研究家たちによって記録されたもので、それだけに視点、焦点のしっかりした目的意識の高い写真であり、当時の状況、車両の様子などが、克明に分かるものとなっている。すべてを象徴する一点を、絞り込んだような、渾身の一枚が集められている。
 また、網羅性という点でも見事。ほとんど知られていない私企業の専用線まで対象に含めた編集陣の熱意には、敬意を払いたい。1枚の写真の価値が、現在とは比較にならない当時にあって、これほど情報量の多い写真が残っていることを把握し、それを発掘し、一冊の本にまとめあげるというのは、相当な労力と調査が必要だったに違いない。
 そのような高い編集意識によって選定された写真は、ファンにはとても納得がいくものが選ばれている。例えば、留萌本線の場合、石狩沼田駅の構内が一望できる写真になっている。現在では行き違いのできないホーム一つきりの駅(使用されなくなったホーム跡が残る)だが、かつては札沼線が分岐し、当然の様に留萌線の行き違い設備を備えていた。その当時の構内の様子が一目でわかる写真が採用されている。流石である。
 私の気に入った写真を挙げだすときりがないのだけれど、デッキまで溢れた人を乗せて走る鉱業鉄道や、広大な上芦別貯木場ヤードに進入するC29牽引の運材列車、それに1957年(昭和32年)8月の雄別鉄道の車窓から「偶然発見し」撮影された河川整備等のために臨時で敷設された軌道など、このような企画が無ければ、永遠に失われていたであろう瞬間が、本書にある。このような良質な媒体として、改めて記録されたこと自体に、一抹以上の感動を覚える。また、路面電車などの写真の背景を担う失われた昭和の街並みや、人々の生活の姿も、ほどよい演出となって、往時の交通の在り様を、蘇らせてくれる。
 まさに、タイトル通りの素晴らしい書物である。
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 なお、本書と別の話となってしまうが、個人的に、今後は以下の様な企画を望みたい。
 1) 北海道内の当該時代の詳細な時刻表を可能な限り復元する試み
 2) 北海道内の廃線を、現在の2万5千分の1地形図にトレースする試み
 1)は、主要路線以外では、相当難しいかもしれないが、個人的には、是非出版社にチャレンジしてほしい試みである。

写真で見る北海道の鉄道〈上〉 国鉄・JR線 田中和夫著

レビュー日:2015.2.8
★★★★★ 鉄道史の記録であると同時に、社会史の一面を色濃く放つ写真集
 長く国鉄で車掌を努めた田中和夫(1993-)氏を中心に、2002年に編集された写真資料集。対象となっているのは以下の線区。
 JR現在線
 函館本線 室蘭本線 根室本線 石勝線 宗谷本線 釧網本線 千歳線 札沼線 留萌本線 富良野線 日高本線 江差線 海峡線
 廃止ローカル線
 松前線 瀬棚線 胆振線 岩内線 手宮線 富内線 幌内線 歌志内線 万字線・上砂川支線 士幌線 広尾線 池北線 白糠線 標津線 深名線 名寄本線 天北線 羽幌線 美幸線 湧網線 相生線 渚滑線 興浜北線 興浜南線 根北線
 現在は、江差線の木古内-江差間も「廃止ローカル線」のカテゴリに分類されるだろう。
 巻頭カラーに加え、約320ページに、1,300枚以上の貴重な写真(白黒)を集成したもの。当シリーズは上下巻に分かれているが、上巻の中心対象が「駅、沿線風景」、下巻の中心対象が「蒸気機関車、車両、青函連絡船」と考えるとわかりやすい。
 編集は、路線ごろに分かれていて、駅の写真も(すべてではないが)、かなりの割合で現役時のものが掲載されている。(ただし、仮乗降場はほとんど掲載されていない)
 私は、実際に列車に乗ったり、廃線跡を訪ねたりすることが好きな人間である。しかし、この写真集を見ていると、その美しい風景の多くが失われたことに、切ない思いもこみ上げてくる。1980年に国鉄再建法が可決されて以来、北海道では、上述の一覧でわかるように2/3の線区が廃止された。これは従来の国土の均一な発展から局所集中社会へ、各産業の均等的発達から第三次産業偏重の雇用体系へ、国が大きくかじ取りをした象徴的な時代でもあった。
 もちろん、運炭鉄道のように、その使命をまっとうしたものや、実際に利用実態がわずかしかないものもあったが、併せておおくの生活路線が廃止されていったのである。これは、廃止の目安としたものが「輸送密度」という指標であったためであった。これは人口における利用率ではなく、単純に利用者の数のみを背景とした指標であったため、元来人口密度の少ない北海道には不向きな指標であり、地元の人の多くが利用していても、その実情は反映されず、達成不可能な基準となってしまった。そのため、利用の実態とは関係なく、次々と狙い撃つように路線が廃止となっていった。実際、私が乗った多くの路線では、時には通路まで一杯の利用者がいたのである。しかし、地域の人の多くが利用しても、地域の人口自体が少なければ、先の指標により「利用価値のない」「無用な」ものと見做された。現地の状況を知らない人が、まるで、我がことの利益に係る重大事のように「廃止すべき」という論調を掲げることもあった。
 紋別という町がある。町を通じる名寄線が廃止されたとき、この駅の一日の乗客数が800人。人口3万人の町の一駅で800人が列車に乗車していたのである。この比率は、当該年度の札幌市の人口と札幌駅の乗客数の比と大きく変わるものではない。紋別市の両隣の興部町、湧別町にいたっては、当時の人口:代表駅の1日利用者数比はさらに高まり、それぞれ6,600人:403人、1万7千人:686人で、当時札幌よりも、はるかにこれらの町の方が、「日常的に鉄道を利用する人の割合」は高く、依存度が大きかったのである。つまり、当時もっともらしく囁かれた「現地の人が利用してない」は、現状を知らない都会に住んでいる人たちの思い込みが生んだ勝手な妄想でしかなかった。
 しかし、名寄線は廃止された。紋別市は、廃止まで5年間の人口減少率が1%であったが、路線廃止後は、それがおよそ5%となり、一層の過疎化が進んでいる。鉄道の廃止だけが原因ではないだろうが、その一方で、本書に掲載された鉄道路線図の変遷を見ると、私は隅々まで血の通わなくなった組織を彷彿とさせる。そういった意味で、この大廃止時代は、過疎化に拍車がかかった象徴的時期に思えてならない。
 このような例はいくらでもある。相生線の終着北見相生駅は、鉄道があったころは、阿寒へのバスも出ていて、駅周辺にはそこそこ大きな集落もあった。しかし、鉄道廃止とともに、一気に人口が流出し、現在ではわずかな戸数が残るのみである。かつて国を挙げて国土開発が行われた多くの地が、わずか百数十年で放棄されつつある。私は東京一極集中という言葉を聴くと、生命維持装置に繋がれてかろうじて機能している脳幹を連想する。末端に行き渡る力を失いつつある国の象徴に思えてならない。廃止・バス転換の際には「地方のニーズに合わせた」的な説明もなされたが、その地方のニーズに合わせた結果、地域が活性化された話など、一つも聞いたことがない。実際、私も鉄道が廃止された地域に関しては、赴く回数がぐっと減った。現地の利用者だけでなく、訪問者の利便性も低まったのだから、観光面での需要の掘り返しさえ断たれたわけだ。いまさらのように政治が掲げる「地方活性化」のフレーズは、こっけいだ。30年の手遅れである。某所でこんな印象的な記事を読んだ。厳しい過疎地に留まり、地域の活性化のために長く力を尽くしてきた人が、最近になって就任した某大臣の「知恵を出さないものには援助しない」という現状無理解な発言に対し、「知恵はもう出し尽くしている」とふり絞るように漏らした一語が重かった。
 話がずれてしまったが、何はともあれ、本書は優れた写真集である。社会性を持った視点にも耐えうる内容だし、往年の鉄道とそれに係る人たちの姿が実に生き生きと映し出されている。駅舎の写真も貴重だ。建て替えられた駅舎の中には、その前後の写真を掲載されてくれたものも多い。北海道では現存する駅舎も、次々と失われていく状況だ。長く郷土の歴史を見つめ、風雪に耐えた暖かい木造の駅舎が、老朽化の名のもとに取り壊され、判で押したように外見の変わらない貨物車両を改造したプレハブのような駅舎(?)と置き換わっていく。最近では、釧網線の鱒浦駅が取り壊された。経済的事情が優先されるとはいえ、何とかならないものか、と思ってしまう。
 次々と集落が消滅し、懐かしい風景が消えてゆく現代にあって、本書は何か象徴的なものを示しているとさえ感じられる。私にとって、懐かしくてありがたいという以上に、強烈な切なさをも感じさせる書である。

写真で見る北海道の鉄道〈下〉 SL・青函連絡船他 田中和夫著

レビュー日:2015.2.8
★★★★★ 往年の蒸気機関車たちの姿が息づく写真集
 長く国鉄で車掌を努めた田中和夫(1993-)氏を中心に、2002年に編集された319ページに及ぶ写真資料集。上下巻一組の構成になっているが、当下巻は、蒸気機関車の写真が中心。さらに青函連絡船やその他の車両、国鉄以外の鉄道線について、貴重な写真を掲載している。収録内容を目次に即して書くと、以下の通り。
 1) SL
  D51 C62 9600 C57 C58 D52 C11 C55 C12・C51・C56 D50・D60・D61 すれ違い・並走 形式 作業
 2) 客貨車
  現在活躍する列車と車両 消えた特急・急行 観光・リゾート ディゼルカー・電車 ディーゼル機関車・電気機関車・除雪車 客車・貨車
 3) 青函連絡船
  出港・入港 函館桟橋 風景 車両航送 作業 舟の変遷 悲劇 終航
 4) 稚泊航路
 5) 市電・民営・地下鉄
  札幌市電 函館市電 ふるさと銀河線 札幌市地下鉄
 6) 地方鉄道
  定山渓鉄道 寿都鉄道 美唄鉄道 三菱大夕張鉄道 夕張鉄道 羽幌炭砿鉄道 その他の地方鉄道 機関車
 7) 民営軌道
 8) 森林鉄道
 9) 殖民軌道
 10) 鉄道点描
  駅の風景 駅弁・駅売り 駅員 車内風景 荷物・貨物 雪との闘い 鉄路を守る 戦中の鉄道員
 11) 機関区・工場
  苗穂工場・旭川車両センター 機関区・車両基地 操車場・貨物駅
 12) 鉄道の小者
 13) 鉄道の事故
 14) 資料編
  機関車配置一覧 SL保存箇所一覧 主な鉄道記念館・資料館・展示室所在一覧 車両記号
 路線別に写真を編集した上巻以上に資料的な価値が高い。とても懐かしい写真たち、と言っても私も世代的に蒸気機関車に乗ったことはない。ただ、私の父が、蒸気機関車の写真を数多く撮っており、小さいころからそれらを見てきたので、実際に目にしてはいない光景でさえも、「懐かしく」感じてしまう。
 写真は巻頭のカラー以外、すべて白黒だが、印刷も鮮明で美しい。蒸気機関車と白黒写真の相性も良いと思う。D51、C62、9600など主力として走った蒸気機関車の他、通常見る機会の少なかったものまで焦点が当たっている。貨物専用であったD52は、私の父もこれを撮影するために室蘭線をたびたび訪れたと言う。SLの終期には、稼働台数も少なかったと思われるので、このような写真で集約していただけるのはありがたい。
 C62はスピードが速く、父も撮影には苦労したようだ。中でもC62の重連が牽く「急行ニセコ」はファンにも憧れの的だった。ちょっと都市伝説ふうなエピソードがある。C62の中で「2号機」にのみ、国鉄の象徴であったつばめのマークが入っていた。このマークは、ファンの間で「エンゼル・マーク」と呼ばれ、絶好の被写体であった。父のコレクションにもその写真があるが、当写真集でも函館線(山線)を駆ける急行ニセコの姿が鮮やかに捉えられていて、なかなかに感動的だった。
 ただ、写真は全般に道央、道南で撮影されたものが多い。絶好の撮影地として知られ、私の父も足しげく国鉄に乗って通った名寄線で写真は、巻頭のカラー部分にあるのみであり、そういった点でやや寂しかった。しかし、私の父が多くの写真を記録した苗穂の機関区など、とても感慨深い。SL最盛期には終夜稼働していた熱を帯びた空間だったが、写真からもその雰囲気は伝わってくる。
 地方鉄道も楽しい。国鉄では使用されなくなった蒸気機関車を払い受けて使用していた夕張鉄道も、ファンにはありがたい存在だった。美唄鉄道、寿都鉄道、定山渓鉄道と個性豊かな鉄道が並び立つ良い時代だったと思う。
 私は、青函連絡船はかろうじて利用することが出来た。自分はこの連絡船を利用した最終世代に近いと思う。連絡船ならではの旅情が伝わる写真である。
 また、本書では、かつての機関区別の所属蒸気機関車や、現在訪問できる車両保存場所、資料館なども、まとめて掲載されている。しかし、資料館については、本書が2002年発刊のものであるので、これから訪問する人は、webサイトなどでの最新の情報をチェックした方がいいだろう。その他新聞社の編集らしく、事故に関する報道写真も掲載されており、多面的な情報集約書としての価値も十分だろう。
 それにしても、蒸気機関車というのは、本当に絵になる存在だったな、と本書を見てしみじみ思いました。

北海道の大地から消えた鉄道風景~国鉄末期とJR懐かしの1,500km 鉄道で旅する北海道編集部著

レビュー日:2015.3.3
★★★★★ 1,500kmに及んだ廃線の、在りし日の美しい姿
 「北海道の大地から消えた鉄道風景」と題し、サブタイトル「国鉄末期とJR懐かしの1500km」と付随した写真集。全編カラーで175ページ。2012年発行。
 掲載写真は、北海道レールフォトライブラリィ所属し、45年に渡り鉄道写真を撮り続けている上田哲郎(1949-)氏によるもの。以下のように章立てされている。
1) 道北
天北線、興浜北線、羽幌線、美幸線、名寄本線、興浜南線、渚滑線、湧網線、深名線
2) 道東
相生線、標津線、白糠線、士幌線、広尾線、池北線、北海道ちほく高原鉄道
3) 道央・道南
幌内線、万字線、歌志内線、富内線、岩内線、胆振線、瀬棚線、松前線、登川支線(夕張線支線)、上砂川支線(函館本線支線)、手宮線
4) 車両でたどる北海道の国鉄動力近代化
5) もう見ることのできない鉄道風景
 1ー3)は国鉄再建法制定後に相次いで廃止されていった路線。4)はかつて北海道で走行していた車両、5)はダイヤ改正などで消えていった列車の風景、という風に大別されている。
 私がこの写真集を見て、最初に感じたのは、羨望に近い。鉄道に乗るのが好きな私は、もし今これらの路線があったなら、おそらく2週間に1度は鉄道であちこち出掛けていたに違いない。もちろん、現在も時折出かけてはいるが、鉄道の路線がほとんど失われてしまった今、すべて鉄道で巡るというのは制約が多過ぎる。
 私は、昨年、妻と羽幌から天売島、焼尻島に渡ったのだが、その際はまず札幌から留萌まで車で行き、留萌線を堪能してから、あらためて羽幌まで車で向かった。もし羽幌線が健在だったら、全行程を鉄道にしていたに違いない。
 しかし、北海道では、恐ろしいほどの距離の路線が廃止されてしまった。総延長1,500km。私は別のところでも書いたのだけれど、地域の社会や経済を支える性格のものを、収支という目安だけで扱うというのは、かなり乱暴なものであったと感じている。全部残せ、と言うつもりは毛頭ないけれど、当時、廃止の目安とされた「輸送密度」という指標には、地域事情をほとんど反映しない行政の冷たさを感じざるをえない。これは人口における利用率ではなく、単純に利用者の数のみを背景とした指標であったため、元来人口密度の少ない北海道には不向きな指標であり、地元の人の多くが利用していても、その実情は反映されず、達成不可能な基準であった。そのため、利用の実態とは関係なく、次々と狙い撃つように路線が廃止となっていった。実際、私が乗った多くの路線では、時には通路まで一杯の利用者がいたのである。しかし、地域の人の多くが利用しても、地域の絶対的な人口がなければ、先の指標により「利用価値のない」「無用な」ものと見做された。現地の状況を知らない人が、まるで、我がことの利益に係る重大事のように「廃止すべき」という論調を掲げることもあった。
 紋別という町がある。町を通じる名寄線が廃止されたとき、この駅の一日の乗客数が800人。人口3万人の町の一駅で800人が列車に乗車していたのである。この比率は、当該年度の札幌市の人口と札幌駅の乗客数の比と大きく変わるものではない。紋別市の両隣の興部町、湧別町にいたっては、当時の人口:代表駅の1日利用者数比はさらに高まり、それぞれ6,600人:403人、1万7千人:686人である。つまり、当時札幌よりも、はるかに「日常的に鉄道を利用する人の割合」は高く、依存度が大きかったのである。当時もっともらしく囁かれた「現地の人が利用してない」は、現状を知らない都会に住んでいる人たちが、「輸送密度」という数字から誘因した勝手な妄想でしかなかった。
 本来、より熟慮を要する決め事であったと思うが、いまとなっては仕方ない。このような美しい写真集で、当時の様子を知るしかないわけだ。
 それにしても、本当に美しいロケーション、季節、時間帯の、見事な瞬間をとらえた写真だ。羽幌線幌延付近から見える利尻富士は、写真がなければ想像する他ないが、このように見えていたのだと実感する。同じ羽幌線の金駒内橋梁は、その遺構も近年撤去されてしまって寂しい限りであるが、写真を見ると、どれほど美しい車窓が展開していたが、一目で知れることとなる。他にも紅葉の糠平湖を行く士幌線、サンゴ草の海を行く湧網線、斜内山道の岬の突端をへばりつく様にまわる興浜北線など、どれも絶好の瞬間が捉えられている。冬の風景も美しい。北海道の風景は雪があってこそ、と私も時々思うが、写真撮影に不向きなコンディションが多く、なかなか良い写真は撮りにくいのだ。美幸線の終着駅、仁宇布の雪景色など、情緒に溢れている。
 その他、石勝線開通前の特急おおぞらや、滝里ダムが出来る前の根室線旧線など、どれも貴重な写真ばかり。景勝地が多く掲載されているため、北海道の写真集と銘じてもよいような内容となっています。

昭和三十四年二月北海道 広田 尚敬著

レビュー日:2015.6.17
★★★★★ すべてが貴重。1959年、北海道の大地を走った蒸気機関車たちの姿
 1959年(昭和34年)、当時24歳だった気鋭の鉄道写真家広田尚敬(1935-)氏が、厳冬期の北海道を1か月に渡って旅行し、数々の貴重な蒸気機関車と、鉄道施設周辺の様子を撮影したもの。当然のことながらすべて白黒。全184ページに及ぶあまりにも貴重な記録だ。写真が掲載されている路線を挙げよう。(カッコ内に参考までの国鉄接続駅を書く)
1) 寿都鉄道(黒松内)
2) 国鉄胆振線
3) 日本製鋼所室蘭工場(東室蘭、御崎) / 栗林商会(本輪西)
4) 北海道砂鉄伊達工場(長和)
5) 三菱鉱業大夕張鉄道(清水沢)
6) 北海道炭礦汽船平和鉱業所真谷地専用鉄道(沼ノ沢)
7) 北海道炭礦汽船角田鉱業所専用鉄道(夕張鉄道 新二岐)
8) 夕張鉄道(野幌、栗山、鹿ノ谷)
9) 北海道炭礦汽船幌内鉱業所美流渡専用鉄道(美流渡)
10) 三菱鉱業美唄鉄道(美唄)
11) 三菱鉱業美唄鉱業所茶志内専用鉄道(奈井江)
12) 三井鉱山砂川鉱業所奈井江専用鉄道(茶志内)
13) 雄別炭礦茂尻鉱業所専用鉄道(茂尻)
14) 三菱鉱業芦別鉱業所専用鉄道(上芦別)
15) 芦別森林鉄道(上芦別)
16) 三菱鉱業油谷鉱業専用線(三菱鉱業芦別鉱業所専用鉄道 油谷)
17) 日本甜菜製糖十勝清水工場専用鉄道(十勝清水)
18) 北海道拓殖鉄道(新得)
19) 根室拓殖鉄道(接続なし)
20) 明治鉱業庶路鉱業所専用鉄道(西庶路)
21) 雄別鉄道(釧路) / 釧路埠頭(新富士)
22) 釧路臨港鉄道(東釧路)
23) 日本甜菜製糖磯分内工場専用鉄道(磯分内)
24) 置戸森林鉄道(置戸)
25) 運輸工業専用線(桑園)
26) 北日本製紙江別工場専用線(江別)
27) 定山渓鉄道(東札幌)
28) 茅沼炭化工業専用鉄道(岩内)
29) 簡易軌道風蓮線(厚床)
 これらの鉄道線のうち、現在一部でも残っているのは、日本製鋼所室蘭工場と釧路臨港鉄道のみである。
 それにしても、広田氏の行動力は素晴らしい。本書の後半に、「鉄道ファン」名誉編集長である宮田寛之氏が、これらの路線の注目すべき車両と背景、広田氏の経歴等について、詳細に解説を寄稿してくれていて、それ自体がとても参考になるのだけれど、そこにこのような一説がある。「現代の日本人が認識する地球上のどの国よりも、当時の人たちにとって北海道は、はるかに遠い所だったのです。」
 この時代の北海道は、道路整備もままならず、冬季の移動手段と言えば、ほとんど鉄道のみであり、しかも開拓の名のもとに、実質的な先遣隊が、各地に入殖を行っているような状況で、天候によっては運行もままならず、少なくとも冬季に首都圏の人が旅行に行くようなところではなかった。
 その一方で、この時代の北海道は「蒸気機関車の王国」とも呼ばれていた。この当時の鉄道事情についても宮田氏がまとめてくれているが、1956年(昭和31年)に最新鋭気動車であるキハ44800形が準急「日光」の運行を開始。東海道線は全線電化され、1957年には仙山線、北陸線といった地方にも電化は波及、ついに1958年には東京―九州を結ぶ夜行寝台特急「あさかぜ」に電車が登場する。そのような時代変化が急速に進む中にあって、北海道の鉄道たちに残された時間の少なさを、広田氏は肌で感じ取ったのだろう。今行かねば、という思いで、1959年の冬に北海道へ向かった。
 北海道が蒸気機関車の王国と呼ばれた所以は、運炭鉄道、森林鉄道、殖民軌道といった様々な鉄道に、古典的な蒸気機関車が運用されていたためである。全国的に、昭和30年代にはほとんどの個性的な蒸気機関車が廃車になり、規格型汎用機に置き換わっていく中で、北海道ではまだ彼らが活躍していたのだ。特にコッペルやボールドウィン、さらにはノース・ブリティッシュ製の古典蒸気機関車が、各地で入替等を中心に実働していたのである。
 しかし、これらをの撮影をするといっても、簡単なことではない。まず当時は情報収集手段が限られている。時刻表に記載されるような系統的な運転になっていないものがほとんど。広田氏が参考にしたのも現地のファンから入ってくる情報だ。これに基づいて、前もって広田氏は、主だった事業所に手紙を送り、来訪の旨を告げている。その甲斐あって、彼は様々に貴重な巡り会いを繰り広げる。根室では、積雪で運行できなくなった銀竜号を、事業者の協力で機関庫から出すだけでなく、写真のために呼びかけで集まった周囲の人が乗車し、「自然な写真撮影」に協力してくれた。十勝清水では、かつて磯分内にあって、その由来が取りざたされたライケンハンマー(Lunkenheimer)がシートで覆われているのに遭遇。青年の熱意が通じてシートが外され、無事撮影に成功する。置戸森林鉄道では、訪問2か月前に廃車となった木曽と同じ1921年ボールドウィン製B1形リアータンク3号機が庫内に保管されていたものに出会う。
 そのような過程や、現地でもらったメモ、受け取った手紙なども引用があってとても楽しい。一つ言えるのは、当時の寒冷地での生活というのは、現代とは比べ物にならないくらい厳しものだったと思うのに、広田氏のファインダーから伝わる人々の表情が、とても輝いているということである。現地の人たちも24歳の若者の訪問を、喜んでいたと思うし、厳しいながらも、希望を見出して生活していたのだろう。そういった強さや暖かさが伝わってくる。蒸気機関車と似ている。
 肝心の写真ももちろん素晴らしい。貴重な蒸気機関車およそ90機が収められている。美唄や真谷地ではE形タンク機4110形、夕張鉄道では11形1Dテンダー機、北海道拓殖鉄道では国鉄8620形と同形の8622号機、寿都鉄道ではボールドウィン1897製1C形テンダー機8100形など、数々の名品を見事に撮影している。胆振線では現地の人の案内でキマロキ編成への添乗と撮影にも成功。
 とにかくすべてが貴重過ぎて、書ききれない思い溢れる写真集だ。その他、古くは蒸気機関車ファンのだれもが憧れていた磯分内や奈井江の由緒ある機関車たち、夕張鉄道の角田炭鉱を走っていた電車、カメラを構えていると次々と列車が通ったという活気あふれる釧路臨港鉄道など、私の「当時の風景が見られたらどんなにいいだろう」という思いを叶えてくれたものばかり。
 本当に当時の広田氏の熱意に感謝の思いでいっぱいになる写真集でした。

鉄道ものがたり 広田 尚敬著

レビュー日:2015.11.16
★★★★★ 鉄道の風景がもつ情緒を、最高の形で記録した広田氏の写真集
 1959年(昭和34年)、当時24歳だった気鋭の鉄道写真家広田尚敬(1935-)氏が、厳冬期の北海道を1か月に渡って旅行し、数々の貴重な蒸気機関車と、鉄道施設周辺の様子を撮影したもの。当然のことながらすべて白黒。全184ページに及ぶあまりにも貴重な記録だ。写真が掲載されている路線を挙げよう。(カッコ内に参考までの国鉄接続駅を書く)
1) 寿都鉄道(黒松内)
2) 国鉄胆振線
3) 日本製鋼所室蘭工場(東室蘭、御崎) / 栗林商会(本輪西)
4) 北海道砂鉄伊達工場(長和)
5) 三菱鉱業大夕張鉄道(清水沢)
6) 北海道炭礦汽船平和鉱業所真谷地専用鉄道(沼ノ沢)
7) 北海道炭礦汽船角田鉱業所専用鉄道(夕張鉄道 新二岐)
8) 夕張鉄道(野幌、栗山、鹿ノ谷)
9) 北海道炭礦汽船幌内鉱業所美流渡専用鉄道(美流渡)
10) 三菱鉱業美唄鉄道(美唄)
11) 三菱鉱業美唄鉱業所茶志内専用鉄道(奈井江)
12) 三井鉱山砂川鉱業所奈井江専用鉄道(茶志内)
13) 雄別炭礦茂尻鉱業所専用鉄道(茂尻)
14) 三菱鉱業芦別鉱業所専用鉄道(上芦別)
15) 芦別森林鉄道(上芦別)
16) 三菱鉱業油谷鉱業専用線(三菱鉱業芦別鉱業所専用鉄道 油谷)
17) 日本甜菜製糖十勝清水工場専用鉄道(十勝清水)
18) 北海道拓殖鉄道(新得)
19) 根室拓殖鉄道(接続なし)
20) 明治鉱業庶路鉱業所専用鉄道(西庶路)
21) 雄別鉄道(釧路) / 釧路埠頭(新富士)
22) 釧路臨港鉄道(東釧路)
23) 日本甜菜製糖磯分内工場専用鉄道(磯分内)
24) 置戸森林鉄道(置戸)
25) 運輸工業専用線(桑園)
26) 北日本製紙江別工場専用線(江別)
27) 定山渓鉄道(東札幌)
28) 茅沼炭化工業専用鉄道(岩内)
29) 簡易軌道風蓮線(厚床)
 これらの鉄道線のうち、現在一部でも残っているのは、日本製鋼所室蘭工場と釧路臨港鉄道のみである。
 それにしても、広田氏の行動力は素晴らしい。本書の後半に、「鉄道ファン」名誉編集長である宮田寛之氏が、これらの路線の注目すべき車両と背景、広田氏の経歴等について、詳細に解説を寄稿してくれていて、それ自体がとても参考になるのだけれど、そこにこのような一説がある。「現代の日本人が認識する地球上のどの国よりも、当時の人たちにとって北海道は、はるかに遠い所だったのです。」
 この時代の北海道は、道路整備もままならず、冬季の移動手段と言えば、ほとんど鉄道のみであり、しかも開拓の名のもとに、実質的な先遣隊が、各地に入殖を行っているような状況で、天候によっては運行もままならず、少なくとも冬季に首都圏の人が旅行に行くようなところではなかった。
 その一方で、この時代の北海道は「蒸気機関車の王国」とも呼ばれていた。この当時の鉄道事情についても宮田氏がまとめてくれているが、1956年(昭和31年)に最新鋭気動車であるキハ44800形が準急「日光」の運行を開始。東海道線は全線電化され、1957年には仙山線、北陸線といった地方にも電化は波及、ついに1958年には東京―九州を結ぶ夜行寝台特急「あさかぜ」に電車が登場する。そのような時代変化が急速に進む中にあって、北海道の鉄道たちに残された時間の少なさを、広田氏は肌で感じ取ったのだろう。今行かねば、という思いで、1959年の冬に北海道へ向かった。
 北海道が蒸気機関車の王国と呼ばれた所以は、運炭鉄道、森林鉄道、殖民軌道といった様々な鉄道に、古典的な蒸気機関車が運用されていたためである。全国的に、昭和30年代にはほとんどの個性的な蒸気機関車が廃車になり、規格型汎用機に置き換わっていく中で、北海道ではまだ彼らが活躍していたのだ。特にコッペルやボールドウィン、さらにはノース・ブリティッシュ製の古典蒸気機関車が、各地で入替等を中心に実働していたのである。
 しかし、これらをの撮影をするといっても、簡単なことではない。まず当時は情報収集手段が限られている。時刻表に記載されるような系統的な運転になっていないものがほとんど。広田氏が参考にしたのも現地のファンから入ってくる情報だ。これに基づいて、前もって広田氏は、主だった事業所に手紙を送り、来訪の旨を告げている。その甲斐あって、彼は様々に貴重な巡り会いを繰り広げる。根室では、積雪で運行できなくなった銀竜号を、事業者の協力で機関庫から出すだけでなく、写真のために呼びかけで集まった周囲の人が乗車し、「自然な写真撮影」に協力してくれた。十勝清水では、かつて磯分内にあって、その由来が取りざたされたライケンハンマー(Lunkenheimer)がシートで覆われているのに遭遇。青年の熱意が通じてシートが外され、無事撮影に成功する。置戸森林鉄道では、訪問2か月前に廃車となった木曽と同じ1921年ボールドウィン製B1形リアータンク3号機が庫内に保管されていたものに出会う。
 そのような過程や、現地でもらったメモ、受け取った手紙なども引用があってとても楽しい。一つ言えるのは、当時の寒冷地での生活というのは、現代とは比べ物にならないくらい厳しものだったと思うのに、広田氏のファインダーから伝わる人々の表情が、とても輝いているということである。現地の人たちも24歳の若者の訪問を、喜んでいたと思うし、厳しいながらも、希望を見出して生活していたのだろう。そういった強さや暖かさが伝わってくる。蒸気機関車と似ている。
 肝心の写真ももちろん素晴らしい。貴重な蒸気機関車およそ90機が収められている。美唄や真谷地ではE形タンク機4110形、夕張鉄道では11形1Dテンダー機、北海道拓殖鉄道では国鉄8620形と同形の8622号機、寿都鉄道ではボールドウィン1897製1C形テンダー機8100形など、数々の名品を見事に撮影している。胆振線では現地の人の案内でキマロキ編成への添乗と撮影にも成功。
 とにかくすべてが貴重過ぎて、書ききれない思い溢れる写真集だ。その他、古くは蒸気機関車ファンのだれもが憧れていた磯分内や奈井江の由緒ある機関車たち、夕張鉄道の角田炭鉱を走っていた電車、カメラを構えていると次々と列車が通ったという活気あふれる釧路臨港鉄道など、私の「当時の風景が見られたらどんなにいいだろう」という思いを叶えてくれたものばかり。
 本当に当時の広田氏の熱意に感謝の思いでいっぱいになる写真集でした。

永遠の蒸気機関車 Cの時代 (キャンブックス)  広田 尚敬著

レビュー日:2015.12.7
★★★★★ 広田氏らしい豊かな情感にあふれた写真集です。
 日本を代表する鉄道写真家、広田尚敬(1935-)氏による「永遠の蒸気機関車 Cの時代」と題されたカラー写真集。1950年に撮影開始して以来60周年となる2010年を記念して刊行されたもの。「Cの時代」とあるのは、すべての掲載写真がキヤノンF-1で撮影されたため。撮影期間は1972年12月から1975年12月24日(SL列車最終日)の3年間。
 いきなり自分の話で恐縮だが、私の父が郷里であった北海道に戻って、蒸気機関車の撮影を始めたのが1969年。以来1974年頃まで、父は道内のあちこちに鉄道にのって遠征し、蒸気機関車の撮影をした。名寄線、宗谷線、石北線、函館線、夕張鉄道・・。そんな父が憧れていた鉄道写真家が広田氏である。私の父によると、広田氏の、付近にある鉄道の情緒を際立たせる対象物をさりげなく構図におりこんで、ロマンティックな味わいに仕上げるところに、特に感心したそうだ。それは人物であったり、植物であったり、気象現象であったり、様々だ。
 それで、この写真集をみて感慨深いのは、私の父の活動時期とちょうど重複した時期の写真であるということがある。また、この蒸気機関車が時代を去ろうとしている最後の時期に、まだ彼らが多く残っていた北海道の題材が多いのは当然のこととはいえ、感じるものが多い。
 しかし、そのような背景がなかったとしても、この写真集はとても美しい。写真は、全164ページのうち、156ページまで、カバー見返しなども含めて全114点が掲載されている。写真の撮影箇所、日時等の情報は巻末にまとめられていて、写真掲載のページは全面写真のみという装丁になっている。2ページ見開きで掲載されている写真もあり、その場合、本の中央部の曲面が陰影の差を作ってしまうのが残念だが、しかし、写真そのものを可能な限りの大きさで展開したつくりとなっているだろう。さて、掲載内容なのだけれど、個人的な興味もあって書き出してあったので、この機会にそれを転載させていただきたい。
カバー1 D511086 夕張線 滝ノ上 1975年12月24日(SL列車最終日)
カバー2 C5550 宗谷本線 名寄 1973年12月
表紙1 D51465 夕張線 清水沢-鹿ノ谷 1975年12月24日(SL列車最終日)
表紙2 C5550 宗谷本線 剣淵 1974年2月24日
002-003 D511086 夕張線 夕張 1975年12月24日(SL列車最終日)
004-上 D511153 石北本線 生田原-常紋 1975年3月15日
004-下 C5547 宗谷本線 智恵文-北星 1973年12月
005 D511008 石北本線 生田原-常紋 1975年3月15日
006-007 C5550 宗谷本線 多寄-風連 1973年12月
008-010 C55形 宗谷本線 1973年12月
013 9600形 糸田線 豊前大熊-金田 1974年5月22日
014-015 C11257 田川線 豊津 1974年5月24日
016 9600形 宮田線 1974年5月
017-上 C12225 山野線 菱刈 1974年8月
017-下 C11261 日南線 榎原 1974年8月7日
018-019 79657 日豊本線 苅田 1974年5月27日
020-021 9600形(重連) 田川線 内田-油須原 1973年5月
022-023 39569(重連) 唐津線 1973年4月
024-上 59681 後藤寺線 船生-筑前庄内 1974年5月22日
024-下 59681 後藤寺線 船生-筑前庄内 1974年5月22日
025 D51807 日田彦山線 1973年4月
026-027 C11形 日南線 志布志-菱田 1974年8月7日
028-029 9600形 佐賀線 諸富-筑後若津 1974年4月
030 C11194 日南線 大堂津-南郷 1974年8月7日
031 69614 後藤寺線 船生-起行
032-033 C11形 日南線 大隅夏井-志布志
034-035 D51形 中央本線 上松-倉本 1973年5月23日
036-037 C56126 三江北線 1974年4月
038-039 D51940 関西本線 亀山-関 1973年5月7日
040-041 C5819(重連) 陸羽東線 1972年12月
042-043 C11197 只見線 会津水沼-会津中川 1974年8月18日
044-045 C1269 明知線 山岡-明智 1973年5月26日
046-上 D51+C12形 中央本線 上松-倉本 1973年5月24日
046-下 C1269 明知線 明智 1973年5月26日
047 49699 湧網線 計呂地-床丹 1974年7月21日
048-上 スハフ32 宗谷本線 風連付近 1973年8月23日
048-下 C55の影 宗谷本線 音威子府付近 1973年8月23日
049 C58173 石北本線 金華 1974年6月8日
050-051 29670 田川線 伊田-勾金 1974年5月24日
052-053 C5530 宗谷本線 豊富-徳満 1973年8月25日
054-055 29669 富良野線 鹿討付近 1974年7月16日
056-057 39634 名寄本線 上興部 1974年7月16日
058 D51943 石北本線 金華-常紋 1975年3月14日
059 C58275 志布志線 大隅松山-伊崎田 1974年8月7日
060-061 C58392 釧網本線 標茶 1974年6月6日
062-063 D51349とD51915 室蘭本線 沼ノ端-遠浅 1975年8月26日
064-065 D51349とD51915 室蘭本線 沼ノ端-遠浅 1975年8月26日
066-067 D51が3台 室蘭本線 栗山-栗丘 1974年6月20日
068-069 D51形 室蘭本線 富浦-登別
070-071 29694 相生線 美幌 1974年6月8日
072-073 59609 幌内線 幌内 1975年6月17日
074 C5547 宗谷本線 音威子府 1975年8月23日
075-上 69699 幌内線 三笠 1975年6月17日
075-下 59609 幌内線 三笠 1975年6月17日
076-上 59609 幌内線 幌内 1975年6月17日
076-下 C55形 宗谷本線 旭川 1974年2月27日
077 C5547 宗谷本線 音威子府 1975年8月23日
078-079 C12241 高森線 高森 1974年5月
080 C5550 宗谷本線 旭川 1973年10月22日
081 19611 羽幌線 留萌 1974年7月11日
082-083 D51118 室蘭本線 追分 1975年12月10日
084-085 79601 長崎本線 鍋島-久保田 1973年3月3日
086-上 スハフ32 宗谷本線 初野-紋穂内 1973年8月23日
086-下 スハフ32 宗谷本線 咲来-豊清水 1973年8月23日
087 スハフ32 宗谷本線 音威子府付近 1973年8月23日
088 スハフ32 宗谷本線 芦川-兜沼 1973年8月23日
089 スハフ32 宗谷本線 名寄 1973年12月
090-091 C55形 宗谷本線 抜海-南稚内 1974年7月16日
092-093 C55形 宗谷本線 抜海-南稚内 1974年7月16日
094-095 C55形 宗谷本線 抜海-南稚内 1974年7月16日
096-097 C5547の煙 宗谷本線 抜海-南稚内 1973年8月23日
098-099 D51733 室蘭本線 沼ノ端 1975年9月12日
100-101 D51形 室蘭本線 沼ノ端-遠浅 1975年9月10日
102-上 D51形 室蘭本線 沼ノ端-遠浅 1975年9月13日
102-下 D51形 室蘭本線 沼ノ端-遠浅 1975年9月13日
103-上 D51形 室蘭本線 沼ノ端-遠浅 1975年9月13日
103-下 D51形 室蘭本線 沼ノ端-遠浅 1975年9月13日
104-105 C57形 室蘭本線 岩見沢 1975年6月
106-107 スハフ32 宗谷本線 音威子府 1973年12月
108 C5550 宗谷本線 旭川 1973年12月15日
109 C5550 宗谷本線 名寄 1973年12月
110-111 C5550 宗谷本線 名寄 1973年12月
112 D51形 夕張線 1975年12月
113 9600形 幌内線 三笠 1974年2月
114 - 宗谷本線 東六線 1973年12月20日
115 D51855 室蘭本線 岩見沢 1975年9月9日
116-117 D51241 夕張線 清水沢 1975年12月10日
118-119 D51465の煙 夕張線 紅葉山 1975年12月24日(SL列車最終日)
120-121 C11形 石巻線 渡波-陸前稲井 1973年8月7日
122-上 C5787 宗谷本線 和寒-塩狩 1974年2月23日
122-下 C5787 宗谷本線 和寒-塩狩 1974年2月23日
123 C5787 宗谷本線 和寒-塩狩 1974年2月23日
124-125 C5550 宗谷本線 音威子府-咲来 1973年12月
126-127 D511008 石北本線 生田原-常紋 1975年3月14日
128-上 D51465 夕張線 紅葉山 1975年12月24日(SL列車最終日)
128-下 D51465 夕張線 紅葉山 1975年12月24日(SL列車最終日)
129 D51444 石北本線 金華-常紋 1975年3月16日
130 D51465 夕張線 清水沢-鹿ノ谷 1975年12月24日(SL列車最終日)
131 D51465 夕張線 清水沢-鹿ノ谷 1975年12月24日(SL列車最終日)
132-133 D511008 石北本線 安国-生田原 1975年3月14日
134-135 C5787 宗谷本線 塩狩-和寒 1974年12月
136 D51444 石北本線 生田原-常紋 1975年3月17日
137 D511008 石北本線 生田原-常紋 1975年3月17日
139 D51444 石北本線 生田原-常紋 1975年3月19日
140-141 D51形 石北本線 金華-常紋 1975年3月14日
142-143 D51形 石北本線 金華-常紋 1975年3月14日
144 511008 石北本線 生田原-常紋 1975年3月14日
145-上 D51465 夕張線 清水沢-鹿ノ谷 1975年12月24日(SL列車最終日)
145-下 D51465 夕張線 清水沢-鹿ノ谷 1975年12月24日(SL列車最終日)
146-147 C5550 宗谷本線 剣淵-士別 1974年2月21日
148-149 C5550 宗谷本線 1974年2月
150-151 D51465 夕張線 清水沢-鹿ノ谷 1975年12月24日(SL列車最終日)
156 D511086 夕張線 滝ノ上 1975年12月24日(SL列車最終日)
  後ろ見返し 9600形 室蘭本線 追分 1975年12月10日
 一部、広田氏の他の写真集と重複する写真がある。掲載順は、特に時系列順でもエリア順でもなく、ある程度ランダムなものとなっているが、そのこことで、本全体としてコントラストの効いた演出が出来ている。
 036-037の三江北線のC56、049の石北線のC58、050-051の田川線の9600、054-055の富良野線の9600など、広田氏の刻印を感じるような美しい情緒に溢れた写真。また、冬の北海道では、白い雪の演出効果が抜群で、蒸気機関車と煙の黒を一層引き立たせている。
 114の宗谷線東六線駅の写真は、広田氏の他の写真集でも掲載されているが、私の大好きな一枚であり、できれば画像データにして、PCのデスクトップなどにしてみたい。雪降る夜、小さな明りに照らされてぼうっと浮かび上がった小さなホーム。付近を囲む暗い森林。無類に幻想的な一枚だ。
 072-073の幌内の選炭場をバックにたたずむ9600。やはり炭鉱施設と蒸気機関車の取り合わせは最高に絵になると実感させられる。周りを囲む青い峰々も清々しい。
 石北線の金華、常紋は私の父が何度か訪問した場所。常紋駅は廃止となり、金華駅も2016年3月で廃止になるという。栄華を記録した写真たち。また、撮影対象の路線自体の多くが廃止となっており、そういった実情も合わせて、ノスタルジックな情感が迫ってくる。
 広田氏の視点と画角を通じて、過ぎ去った時代を美しく彩ってくれる写真集です。

総天然色 ヒギンズさんの北海道鉄道旅1957-70 J・ウォーリー・ヒギンズ

レビュー日:2021.12.10
★★★★★ ヒギンズが記録した貴重なカラー写真集
 きわめて貴重な写真集が刊行された。
 これらの写真を撮影したのは、ジェイ・ウォーリー・ヒギンズ(J. Wally Higgins 1927-)。空軍勤務時代の1956年に初来日し、1958年からは日本に定住し、国鉄の顧問を務めた人物である。ヒギンズは、鉄道の顧問であると同時に、鉄道を深く愛した写真家でもある。彼は、1957年から1970年にかけて、複数回北海道を訪問し、その鉄道の様子をカメラに収めた。特に重要なのは、当時貴重なカラーフィルムにより記録が行われたことである。
 本書に掲載されている写真は、個人的なつながりから、名古屋レール・アーカイブズへの寄贈を経て、北海道新聞社により刊行され、私たちが目にすることが出来るようになったもので、その運命に感謝したくなるような素晴らしい内容だ。写真集の帯には、ヒギンズ自身の以下の言葉が掲載されている。「北海道の美しい風景、一般の観光、眺望の良い湖や山々は十分に魅力的だが、まず鉄道を優先的に見ておかなければ後悔することになることを、痛切に感じるのだった。」これはまさに金言であり、未来を予期するものでもあった。鉄道王国であった北海道は、この時代に、国内の石炭産業、林業、水産業の衰微に歩調を合わせるがごとく、衰退への道を辿り始め、現代に至るまで廃止が繰り返され、現在まで線路を残すものは、ごく一部のものと言って良い。かつて時代を謳歌し、様々な美しい蒸気機関車がゆきかった時代は、急速に去り、彼らは、人々を残して去って行ってしまった。本写真は、取り残された人間が、去っていった鉄道たちのことを、懐かしむ深い情感に覆われている。
 内容の概要を示すため、目次を転載しよう。
函館  12
 青函連絡船  14
 函館市電  16
道央  32
 登別  36
 伊達紋別  38
 日高本線  40
 黄金道路  41
 寿都鉄道  42
 角田炭鉱専用鉄道  44
 三菱鉱業美唄鉄道  46
 北星炭礦美流渡礦専用鉄道  52
 定山渓鉄道  54
 札幌市電  60
道東  86
 北海道拓殖鉄道  88
 十勝鉄道  90
 鶴居村営軌道  92
 釧路  98
 雄別鉄道  100
 釧路臨港鉄道  102
 根室  107
 釧網本線  110
道北  116
 宗谷本線  118
 幌延町営軌道  120
 歌登町営軌道  126
 層雲峡  132
 旭川電気軌道  134
 目次をご覧いただいて分かる通り、ヒギンズが何より注目したのは、幹線ではなく、本線から分岐して地域の奥深くに向かうような鉄道・軌道・運炭鉄道である。これらの鉄道が、まもなく去っていくことを、肌で感じ取っての撮影だったのだろう。また、鉄道だけでなく、層雲峡や登別といった観光地の写真もあり、往時の姿を良く示していて、興味深い。また、鉄道以外にも、当時の生活風景といえる写真もあり、これまた面白い。
 だが、当然の事ながらメインは鉄道風景だ。角田炭鉱専用鉄道だけは白黒だが、他の写真は、よくぞこれだけ保存の良い状態で当時の色彩を伝えてくれた、と感服するものばかりである。どれも素晴らしいのだが、特に私の印象に残ったものを何点か挙げてみよう。
 函館市電では、当時の街並みを背景に、様々な電車が風情豊に走る。えりも町の町で撮影された日高線と広尾線を連絡する急行バスも、背景の街並みと併せて、ノスタルジー満載。登別で、ロープウェイの資材を搬送する急斜面軌道の写真は、この当時にのみ見られたものだろう。輸送密度1,000人/日kmを超える大都市近郊の電化鉄道で、国内で唯一廃止になった不遇の鉄道、定山渓鉄道。札幌オリンピック(1972年)のため、会場である真駒内までの新交通システムを開業したい札幌市の思惑に併せて、1966年に北海道警察本部から定山渓鉄道に対して、豊平駅近くの国道36号線上の踏切が交通上の障害になっているため、高架化もしくは廃止撤去するなどの適切な処置を取るよう、勧告が行われるとともに、定山渓鉄道の職員の札幌市職員化等の優遇条件を並べ立て、政治主導で廃止となった路線である。札幌市から私鉄資本による開発と民需を喪失させた元凶であるが、その美しい路線風景を見ると、失ったものは民需だけではなかったことがわかる。
 寿都鉄道、美唄鉄道の特徴的な蒸気機関車も美しく記録されている。札幌市電ももちろん良い写真が並ぶ。なんといっても札幌の街並みの変貌ぶりは凄い。十勝鉄道のターミナル、帯広大通の風景、鶴居村営軌道では、写真の少ない末端駅、上幌呂の風景が無類に貴重だ。雄別鉄道の夕景の埠頭、釧路臨港鉄道の城山、入舟町といった駅風景、根室駅から伸びていた貨物線の根室港側末端にポツンととまる貨車も情感いっぱいだ。上川では、巨大な貯木場の風景が紹介されるが、いまと変わらない大雪山の稜線の形との対比が心に沁みる。
 幌延町営軌道の集乳場の風景、歌登町営軌道の歌登の車庫風景もナローの鉄道に相応しい愛らしく、情緒的。旭川電気軌道の風景は写真集の白眉と言っても良いくらい。西六号、旭川追分、旭正、東川学校前、東川、愛后、旭山公園、旭川四条と、様々な駅や停車場と電車、構内の風景が紹介され、その郷愁に満ちた味わいにどっぷりと漬かってしまう。
 ここまで貴重なカラー写真を写真集として出版してくれたことに、感謝したい。

昭和38年3月 北海道鉄道旅行写真帖 小川峯生

レビュー日:2024.6.12
★★★★★ 1963年の北海道、この時代のこの場所だけでしか見ることができなかったもの
 鉄道友の会の監事も務めた小川峯生(1938-)氏が、昭和38年(1963年)の3月に北海道の各地で撮影した鉄道写真を収録した写真集が発売された。内容の概略紹介がてら、目次を転載しよう。
函館本線  10
手宮線  17
札幌市交通局  20
定山渓鉄道  30
千歳線  35
室蘭本線  38
夕張線  44
三菱石炭鉱業大夕張鉄道線  45
北海道炭礦汽船真谷地炭鉱専用鉄道  48
夕張鉄道  52
美流渡炭鉱株式会社美流渡鉱業所  56
万字線  60
幌内線  62
根室本線  63
釧路臨港鉄道  64
雄別鉄道  70
釧網本線  74
湧網線  78
天北線  81
宗谷本線  81
羽幌線  86
羽幌炭礦鉄道  86
天塩炭礦鉄道  90
留萌本線  94
留萌鉄道炭礦線  96
旭川電気軌道  106
三井芦別鉄道三井芦別鉄道線  110
三菱鉱業美唄鉄道線  116
三菱鉱業茶志内炭礦専用鉄道  128
岩内線  130
寿都鉄道  134
函館市交通部  139
 写真はすべて白黒。寿都鉄道はp134~となっているが、136~138ページは、函館線・室蘭線で撮影された写真に割かれている。鉄道路線ごとの分類となっているが、写真に添えられている牧野和人氏によるキャプションは、撮影されている機関車や車両の解説が中心となっている。たしかに、場所やその他の撮影対象について後から別の人による解説を加えるのは、当時の現地に詳しい人でないと、難しいと思うが、貴重な風景が多くあるので、その点ではちょっと残念に思うけれど、それでも、これだけ貴重な記録を、書籍という形で流通いただけたことには感謝の念しかない。
 小川氏が北海道を旅した1963年は、鉄道写真家や鉄道愛好家の多くが、北海道への訪問を夢見た時代である。なぜなら、石炭産業や林業の盛時であり、北海道は私鉄王国と呼ばれるほど、多くの路線網が張り巡らされていて、そこには多様な蒸気機関車が運用されていたからである。1960年から15年計画で行なわれた動力近代化計画により、本州以南では、電化が進み、多くの蒸気機関車が運用を終了していった。そのため、かつて名機と呼ばれた多くの蒸気機関車たちが、北海道に活躍の場を見出し、転属した。また、北海道は従来から、多彩なデザインをした輸入蒸気機関車が活躍しており、それらが一堂にかの地に終結することとなったのである。その一方で、時代の波は、いずれ北海道をも飲み込むこともまた、感じられる時代でもあった。運炭鉄道、森林鉄道、簡易軌道など、鉱工業や殖民・開拓を目的とした鉄道たちには、日本の産業構造の移り変わりと輸入資源の台頭により、その終焉が近づいていた。1957年から70年にかけて数度にわたって北海道を訪れたジェイ・ウォーリー・ヒギンズ(J. Wally Higgins 1927-)は「北海道の美しい風景、一般の観光、眺望の良い湖や山々は十分に魅力的だが、まず鉄道を優先的に見ておかなければ後悔することになることを、痛切に感じるのだった。」と述べている。
 しかし、当時の北海道は、本州以南に住む人にとって、当然のことながら現代のように便の良い場所ではまかった。広田氏の言葉、「現代の日本人が認識する地球上のどの国よりも、当時の人たちにとって北海道は、はるかに遠い所だったのです。」がそれを端的に表している。道路整備もままならず、降雪期や融雪期には、移動には想像を絶する障害が立ちはだかった。鉄道のダイヤも安定的な運行は難しく、特に開拓や採炭・運材の前線地との資材の搬送を目的とする鉄道路線は、その地理的条件の厳しさ故、訪問に様々な制約があったであろうことは、想像に難くない。
 当時の写真家たちが大きな労力と費やして、二度と訪れない機械を撮影した写真たちは、単に美しいというだけではない。当時の時代背景を知れば、見る側にも、その多面的な価値は十二分に伝わってくるのである。
 小川氏以外にも北海道を目指した著名な鉄道写真家たちを何人か紹介しておこう。広田尚敬(1935-)氏は1959年に北海道を訪問し、その模様を「昭和三十四年二月北海道」という写真集にまとめている。鉄道写真活動を展開したチーム「けむりプロ」は1960年代に上芦別の三菱鉱業専用線や道東の簡易軌道を積極的に訪問し、各種媒体でその成果を発表した。書籍の代表崎として「鉄道讃歌」に収められた「上芦別物語」を挙げよう。前述のヒギンズ氏の撮影したカラー写真は、「総天然色 ヒギンズさんの北海道鉄道旅1957-70」にまとめられている。少し後の世代では、名取紀之氏が、著書「編集長敬白」において「32年前の“今日”へ。1974年北海道の旅」をまとめている。とにかく、この10数年間の北海道は、日本の歴史において、過去未来を通じて二度と現出することのないであろう鉄道世界が広がっていたのである。
 当時の北海道の鉄道文化を伝える写真集として、新たにその一角をなすに相応しい本写真集は、道央や石狩炭田の運炭鉄道線にその中心を割いているが、他方で雄別鉄道の埠頭線の情緒豊かな風景や、稚内桟橋の船と列車の間に石炭の山積する風景など、道東、道北の象徴的なカットも収められていて、いずれも印象深いものとなっている。車両をターゲットとした写真の比率が高いとはいえ、貴重な産炭運炭にかかわる周辺施設や、3月の北海道ならではの雪の残る風景など、当時ならではの周辺風景や、情感豊かなカットも、数多く収録されているのが嬉しい。
 当時の撮影者の熱意が全編から伝わってくる。その感じられる熱量という点でも素晴らしい一冊となっています。

追憶の鉄路―北海道廃止ローカル線写真集 工藤 裕之著

レビュー日:2015.7.1
★★★★★ 美しいとともに、北海道が直面している冷酷な現実を思い知らされるところがあります
 埼玉県在住で、北海道の写真をライフワークの一つとして精力的に活動している工藤裕之(1968-)氏による80年代以降に廃止された北海道の鉄道路線を題材とした写真集。
 本書の特徴はなんといってもコスト・パフォーマンスの素晴らしさに尽きる。415ページの紙面を目いっぱいに使って、1200を越える美しいカラー写真が掲載されている。その情報量が圧巻だ。人それぞれに「この写真はもっと大きいサイズで見たい」という気持ちを想起させるものがあるだろうが、それでも当本のサービス精神旺盛な編集方針に、私は感謝したい。とりあえず、「北海道の、廃止鉄道の現役時の写真集」というテーマ性で、まず1冊買うということであれば、本書は絶好だろう。より精緻な画素像がほしいところもあるが、この価格と内容であれば、それは不満とは言えないささいなものだ。むしろ、当時のフィルム写真ならではの感触さえ伝えてくれているように思う。
 さて、目次は以下の通り。
 天北線、羽幌線、深名線、美幸線、名寄本線、湧網線、標津線、池北線、広尾線、士幌線、富内線、胆振線、岩内線、瀬棚線、松前線、歌志内線、函館本線上砂川支線、幌内線、住友赤平炭砿専用線、三菱大夕張鉄道、青函航路、さよなら列車の風景、声問駅
 末尾には、掲載対象となった北海道廃止鉄道路線図と廃止駅名一覧がある。
 また、たびたびフォト・エッセイとして、一つの駅に絞ったテーマで、写真、文章をまとめたコーナーがある。こちらで取り上げられているのは、恵北駅、丸松駅、豊岬駅、仁宇布駅、奥行臼駅、愛冠駅、幸福駅、清水谷駅、遠幌駅。
 さらに、フォト・コラムとして以下の5つが掲載されている。
・私が鉄道員だったころ 元敏音知駅駅員 丸山勝弘さん
・宴のあと 廃線直後の風景
・私が鉄道員だったころ 元名寄車掌区車掌 増山稔さん
・昭和から届いた手紙 湧網線知来駅回想
・夢のあとさき 閉山後の風景
 写真はいずれも旅情に満ちたもの。また道内時刻表にさえ掲載されなかった幻の仮乗降場、新士幌など、貴重なものも多い。住友赤平炭砿専用線は、このような写真集で紹介されることはほとんどなかったと思うので、そういった点でも嬉しい。
 それにしても、各線の沿線風景の美しいこと。かつての羽幌線の豊岬駅の近くには、日本海を望む海岸段丘に金駒内橋梁があり、無二といってよい美しい眺望があったが、その様子もわかる。北海道ならではの春夏秋冬の中で、スケールの大きい自然に配された鉄道の「絵」としての完全性に、あらためて心を奪われる。
 これらの線路の半分程度に乗車したことのある私にとって、これらの写真は小さいころの思い出ともリンクするもので、様々に胸に伝わるものがある。
 それにしても、北海道に住んでいると、痛切な切なさにたびたび襲われる。つい最近も、日高線の長期運休や留萌線の廃止について、報じられたところ。思わず「もう勘弁してくれ」といいたくなる。冬の北海道の厳しさを知りもしない人が、「赤字だから廃止は当然」みたいな論調を掲げるのも痛々しい。ここ数十年で、この国の人々の心から、「山の向こうには、自分の知らない人たちが住み、生活している」という謙虚な暖かさが、急速に薄れていったとしか思えない。
 本来、公共の交通機関等の生活基盤に関わるものは、収支以外の計り知れない価値を持っているものだ。北海道の歴史は浅い。しかし、この国の近代化のため、多くの人が移住し、厳しい土地を切り開き、石炭、森林、鉱物資源の供給源あるいは食糧基地を確保してきた。その最前線で使命を担った人々が、いまや撤退を余儀なくされている。四季を通じて、万人が利用できる安定した交通手段である鉄道の衰退は、その象徴のように思う。バスでいいだろう、という人には、酷寒の大地で風か荒ぶ中、いつくるともわからないバスを待つということがどういうことなのか、おそらく想像すらできないのだろう。鉄道を失った北海道の地方の多くが、血管を失った組織のように、壊死に向かっている。それは、現地をたびたび訪れている私にとって、強烈な実感なのだ。生活基盤を失う、というのはそういうことだ。
 本写真集に郷愁を感じながら、その郷愁の対象が次々と消えつつある現在にあって、その行き着く先に広がっているのは、決して全体の幸福などではないだろう。今、この国を覆う考え方に従って、次々と地方を切り捨ている刃は、いずれ、順番にすべてに巡っていくのであろう。
 本書を通じて、かりそめの郷愁に浸る時間をいただいたことに感謝したい。

美唄鉄道―北海道運炭鉄道追憶 いのうえ・こーいち著

レビュー日:2015.6.29
★★★★★ 北海道を代表する運炭鉄道、美唄鉄道の全貌がわかる一級の資料となっています
 美唄市から道道135号線を東に進み、町はずれを少し左手の方に入っていくと、蒸気機関車が一輌屋外展示してある。知らない人はまず気付かないような場所だけれど、手入れの行き届いた美しい姿だ。そこはかつて美唄と常盤台を結んだ運炭鉄道、美唄鉄道の東明駅があったところ。1951年には、この駅を1日に3,450人の乗客が利用していた。今では夏であれば、草生した傍らを鄙びたサイクリングロードが通る市街地の端の住宅地といったところ。往時の面影はない。
 この蒸気機関車をもう少し見ると、多少の知識のある人は、「ちょっと変わってるな」と思うに違いない。D51とか、C62とかとは全然違う。まず蒸気機関車に付き物の炭水車(動力である石炭と水蒸気を生産するための水を搬送する後部接続車輛)がない。そして動輪が5つもある。
 これが4110型と呼ばれるタンク内臓型の蒸気機関車。美唄鉄道を象徴する1両だ。このとても変わった、けれども不思議と見る者を魅了する造形を持った蒸気機関車が、なぜ美唄鉄道を象徴する存在になったのだろうか。本書は、そんな美唄鉄道の歴史、車両について、実に詳細な記述がされた第一級の資料であり、写真集である。あらためて紹介しよう。
 多くの鉄道関係の出版に携わっている、いのうえこーいち(1948-)氏の編集で、2000年にプレス・アイゼンバーンから刊行された「美唄鉄道」。全191ページ。白黒。その目次は以下の通り。
グラフ 美唄鉄道残照
運炭鉄道追憶(まえがきに代えて) 松本謙一
第1章 美唄鉄道の蒸気機関車
 4110、1(9040)、9200、9600
第2章 美唄鉄道の客貨車
第3章 美唄鉄道の60年
第4章 廃線から30年
 美唄鉄道2号機の保存
 廃線直後の美唄鉄道
 美唄機関庫その後
 キハ101~103の終焉
 美唄鉄道の廃線跡を訪ねる
附:美唄鉄道を語る
附:美唄鉄道車輌竣工図
 美唄鉄道の開通は1915年。北海道の運炭鉄道の中でも古い歴史を持つ。1972年の廃止まで、長く石炭とこれに携わる人々を運び続けた。
 4110型機は、傾斜に強い車両として、国鉄が鹿児島線の矢岳越え、奥羽線の板谷越えを中心に導入した車両である。しかし、1927年に鹿児島線は海沿いルートが開通。矢岳越えは肥薩線に格下げとなった。また1931年に上越線が開通し、奥羽線の需要も一気に減少する。
 そのような背景で活躍の場を失った4110型が第二の人生を歩んだのが北海道であった。美唄鉄道は、廃止まで4110型が活躍していた。5つの動輪を持ち、タンクを内蔵した4110型特有の容姿は、ファンには憧れのまととなり、晩年には全国各地から人々が押し掛けたという。
 本書の特徴は、この鉄道の歴史、それに使用されていた車両について、徹底してアカデミックに資料を構成している点にある。冒頭にこそグラフと題した歴史的写真が掲載されているが、その後は各車両の写真も機能性、構造がよくわかるカタログ的なもので、抒情的な味わいとは一線を画している。
 しかし、それゆえに、これらの貴重な車両の詳細がわかる貴重なデータ集だ。美唄鉄道で運用された全蒸気機関車、客車、貨物車について、わかりうる情報はすべて記載してある。
 当然のことながら、晩年まで活躍した4110型にとどまらず、9040、9200型等についても詳細な記載がある。特に戦前の蒸気機関車についても写真データがある点が無類な貴重さで、当時から精力的な撮影活動を続けた西尾克三郎(1914-1984)氏をはじめとする諸氏の努力のたまものに他ならない。解説文も重厚な内容で、関連資料からの引用などと合わさり、この鉄道のことを体系的に知ることが出来る。
 ちなみに、私はこの鉄道にちょっとした思い入れがある。廃止までの数年間、私の父が何度も美唄周辺に足を運び、1,000枚近い写真を撮影していたためだ。私にとって、本資料は、それらの父の記録に学術的な肉付けを与えてくれるものとも言えそうだ。情緒的な写真集が主流の中で、本書のようなピリッと辛口な資料に重点を置いた書物は、一層の重々しさを感じさせるもの。ここまでの資料を収集した関係者の努力には心底敬服したい。
 最後に、冒頭に書いた東明駅跡に保存されている2号機の歴史を書いておこう。この機は美唄鉄道の自社発注により、川崎造船神戸造船所で1919年に作製された。1919年6月25日に美唄鉄道に入線した2号機は、廃止となる1972年5月31日まで美唄鉄道を走り続けた。最期の日、美唄駅に入線した2号機は、隣の東明駅まで回送された。この3kmの運転が最後の旅だった。東明駅に着いて火を落とされた蒸気機関車は、周囲から鉄路が取り払われ、あたりの風景がすっかりかわってしまった今も、かの地に静かにたたずんでいる。

寿都鉄道 黒岩保美著

レビュー日:2017.9.26
★★★★★ 悲運の鉄道「寿都鉄道」の往時を伝える貴重な記録が集約された1冊
 寿都鉄道は、北海道の函館線黒松内駅を起点とし、中の川、湯別、樽岸の3つの途中駅を経て、日本海に面する寿都までの16.5kmを結んだ軌間1,067mmの鉄道であった。1920年に開業し、ニシンの搬送などに活躍し、国営化の運動もあったが、1968年の水害の被害からたちなおれず、そのまま運行休止。1972年に書類上の廃止に至った悲運の鉄道でもある。
 国鉄線全線乗車を成し遂げた紀行作家の宮脇俊三(1926-2003)氏は、国鉄線に夢中になるあまり「なぜ線路のあるうちに訪問しなかったのか、という私鉄線があった」とし、寿都鉄道の名前を挙げていた。
 実際、かつての寿都鉄道の地図を見ても、それは旅情を強くゆさぶられるものだ。函館線の山間の林業の小さな町、黒松内を起点とし、朱太川に沿って北をめざす。日本海の寿都湾に朱太川がそそぐころ、線路は湾の西岸に移り、月越山脈と日本海の間に挟まれた風の強い港町、寿都に至る。あと、その先は日本海に突き出た弁慶岬の突端があるだけ。いま、地図を見ても、16.5kmという道程の短さにもかかわらず、旅に欠かせない多くの情緒を感じさせる路線だったに違いないと思うのである。
 また、鉄道ファンがこの路線に惹きつけられた理由は他にもある。寿都鉄道の経営的特徴と路盤条件等から、国鉄や他の鉄道から譲受した古典的な蒸気機関車が多く活躍したのである。当初の7170形に始まり、晩年では名機関車として名高いボールドウィン1897製1C形テンダー機8100形がその雄姿を見せた。これは岩内と発足貨物駅の間で運行していた茅沼炭化工業専用線で活躍していた8111と8119が、1962年の茅沼炭化工業専用線廃止にともなって、寿都鉄道に移ったものである(寿都鉄道では、それぞれ8105、8108と改番された)。そのころ、国内で残っている8100型は、万字線美流渡駅を起点とする北星炭礦美流渡礦専用鉄道の8118(こちらは真谷地炭鉱専用線から譲受したもの)くらいであり、美流渡礦専用鉄道が1967年に廃止となると、寿都鉄道は、いよいよ唯一の存在となっていた。
 そのようなおりの1968年の水害である。まさに悲劇であった。私の父も、蒸気機関車を中心に撮影活動を行っていたのだが、寿都に行く機会を喪失したことを無念がっていた。
 さて、本書は、1986年に刊行されたもので、再版されず、初版のみと思う。すでに「寿都鉄道のことを覚えている人も少なくなってきた」と記載されており、それからさらに30年を経た今では、なおのことかもしれない。その一方で、最近、廃線跡の探訪がブームとなり、再び一部では脚光をあびることもある。寿都鉄道の4つの廃駅の後には、駅名票に似せた記念碑が残っている。
 本書は全136ページ、基本的に白黒だが、一部でカラー写真も紹介されている。層々たる顔ぶれによって、撮影、記録された寿都鉄道の姿があり、また、撮影者らの寿都鉄道に寄せる思いが文章としても掲載されている。参考までに目次を転載しよう。
7170と7200  青木栄一・瀬古龍雄・竹中泰彦・西尾克三郎  8
8105と8108の時代  安保彰夫・中村由信・広田尚敬・宮田寛之・湯口 徹・黒岩保美  22
オハ8518とキ1  青木栄一・宮田寛之・湯口 徹・黒岩保美  60
寿都鉄道闘雪行  松本謙一  68
ふいなあれ  中村由信  85
寿都鉄道始末記  小熊米雄  101
海の見える廃線跡  堀 淳一  119
 層々たる顔ぶれによる各界の第一人者が連なっている。彼らの写真がまとめられているのだから、その内容の質の高さは言うまでもないだろう。各車両の資料的写真も確かで、古典的な名客車オハ8518や、除雪車キ1にもスポットライトが当てられている。寿都は、風の強い町だ。特に冬は、日本海から次々と雪雲が送られてくる。強烈な西風を月越山脈がかろうじてさえぎったふもとにその町はある。だから、そこに至る鉄道の写真も、自然と時に折り合い、時に闘う人々の姿と重なって、特有の情緒に満ちたものとなる。それがまた素晴らしい。
 また、当書刊行当時の廃線跡紀行も興味深い。当該ジャンルの草分けである堀淳一氏のレポートは、廃線前後の2万5千分の1地形図を引用しながらのもので、情報豊かである。ちなみに樽岸駅の木造駅舎は、最近まで農業倉庫として使用されていたが、2016年7月に残念ながら取り壊されてしまった。
 古くに刊行された本であり、紙質がややバリバリした感じであり、慎重にページを捲るのがよさそう。いずれにしても、貴重な記録が詰まっており、大事に保有しておきたい一冊である。

定山渓鉄道 久保ヒデキ著

レビュー日:2018.3.7
★★★★★ 定山渓鉄道への様々な思いがギュッと詰まった一冊です
 「定山渓鉄道沿線には風光明媚な景観が数多く連なるのですが、中でも車窓からの眺めがもっとも際立っていたのは、簾舞停留場から豊滝、滝の沢停留場までの区間だと思います。簾舞を出た定山渓行電車の右側車窓には、すぐ眼下に豊平川が迫り、そして対岸すぐ目の前に標高498mの八剣山が迫ります。観音岩山という本名がありながら、まるで八つの剣を天空へ突き出しているような様相からいつともなく八剣山と名付けられ、豊平川の濁流がその足元を洗いながら屈曲する様、刻々と変化するその剣の姿を車窓から眺められるのは定山渓鉄道の醍醐味でした。これは、鉄道末期に国道が改良されてもなお、クルマからは決して体感できないダイナミックなビューポイントでもあったのです。」本書145ページから。
 私は札幌在住であるが、いまや、「昔定山渓まで電車が走っていた」という事実を知っている人はむしろ少なくなった。しかし、定山渓鉄道のことを知っている人と、この鉄道のことを話すたびに合言葉のように出る言葉がある。「廃止しなければよかったのにね」。
 これは札幌南部の交通事情を知るものであればほぼ共有できる感慨であろう。唯一といって良い主要道路である国道230号線は、降雪期や観光シーズンには間違いなく渋滞。それもあって抜け道である水源地通には、その規格に合わないくらいに大型車がひっきりなしに走り、周辺の生活環境を脅かしている。そのためもあって、札幌市の中で、南区のみ、いち早く過疎化の傾向が覆っている。そもそも、輸送密度1,000人/日kmを超える大都市近郊の電化鉄道で、国内で唯一廃止になったのが定山渓鉄道なのである。不遇と悲運の鉄道といって良い。なぜ、廃止となったのか。それは、札幌オリンピック(1972年)のためである。オリンピック会場である真駒内までの新交通システムを開業したい札幌市の思惑に併せて、1966年に北海道警察本部から定山渓鉄道に対して、豊平駅近くの国道36号線上の踏切が交通上の障害になっているため、高架化もしくは廃止撤去するなどの適切な処置を取るよう、勧告が行われた。政治的な包囲網に併せて、定山渓鉄道の職員の札幌市職員化等の優遇条件を並べ立て、オリンピックのための政治主導で廃止となったのである。短慮であった。
 ちなみに、この際、鉄道廃止により交通の利便性が失われる真駒内以遠の土地について、札幌市は地域住民に対し、将来の地下鉄系交通の延伸に関する口約束のようなものを行ったと言われるが、オリンピック終了後、そのような空手形が実施されるわけもなく、現在に至っているのである。このことにより、札幌は、私鉄(定山渓鉄道は東急系列だった)基盤による周辺の開発という礎を失い、現在に至るまで、ひたすら官主導の開発を繰り返さざるをえなくなっている。自業自得である。
 経済基盤、生活環境の両面だけでなく、冒頭に引用したように、観光に資するという点でも、定山渓鉄道の廃止は、今となっては痛手であった。現在であれば、風光明媚な豊平川沿いを走る鉄道に、例えば紅葉見物列車を走らせるだけで、どれだけ温泉街の観光の看板になっただろう(北海道では秋に懇親を深める行事として「観楓会」を実施する団体が多いです)。実際、私も、もし定山渓鉄道があれば、ちょくちょく温泉まで赴いていただろう。残念なことをしたものである。賑わいの去った定山渓温泉は、札幌近郊という立地性で、なんとかもっているというのが現状だ。北海道には、ほかに魅力的な温泉がいくつもあるのだから。
 そのようなわけで、定山渓鉄道に今なお強い思いを持つ人は多い。私の父の友人は、定山渓鉄道の廃止が決まったころ、学生だったのだが、修学旅行に参加せず、その間、定山渓鉄道にひたすら乗って、車窓を目に焼き付けたという。それくらい、人々に愛された鉄道だったのである。
 それを思うと、本書のような内容の本が出版されるまで、ずいぶん月日が経ってしまったという感もある。しかし、逆に言うと、本書はそれだけ待った価値のあるものである。掲載されている写真に貴重なものが無数にあるとともに、資料的なものも網羅的で、価値が高い。長い時間をかけて収集作業が行われたのだろう。また記述は定山渓鉄道に限らず、周辺の関連施設や交通、歴史にも言及しており、多角的で、読み応え抜群。
 例えば、定山渓森林鉄道については、空沼入支線があったこと、木材積み込みのための4つの停車場(冷水、炭酸水、本流苗圃、二股)が設けられたこと(ダムに沈んだ豊平峡には貴重な炭酸泉があった)、最後の1年はダムの資材搬送に活躍したことについて記載があるし、昭和10年代に「石山軌道」の名称で石切山停車場に引込線的に敷設された札幌軟石の搬送用専用線が、豊平川を橋梁で越える円弧状の線形を持ち(地形図記載)、かつ軌間900mmという独特のものだったと推定されることなど、資料と併せて紹介してくれている。(定鉄は国鉄に乗り入れしたように1,067mm)。
 また、定山渓鉄道を勢力下に収めた五島慶太が、「札幌急行鉄道」を構想していたこと。それは江別から緑町、元江別、西角山を経て豊平川を渡り雁来から豊平川左岸沿いに西進して函館線と立体交差して札幌市内へ、さらに東橋付近から地下鉄として大通を西進して終点の今井、三越百貨店付近に到着する」線形で、夕張鉄道と定山渓鉄道を結んだものであり、五島の急逝により実現できなかったことなど、解説してある。この鉄道が実現していれば、札幌周辺の現在は、まったく違ったものとなっていただろう。
 以上のように、著者の熱意が見事にまで結実した、ぎっしり充実の一冊となっている。ここまでのものをまとめ上げた熱意に喝采。最後に、内容の項目を書いておこう。
巻頭グラビア
第1章 沿革 51年間の足跡
定山渓鉄道とつくった人々 開業 電化 戦争と復興 近代化と五島慶太氏 鉄道廃止へ。5つの要因
第2章 駅と沿線風景
白石停車場(鉄道院) 苗穂駅(鉄道省) 新豊平駅 大正2年の大洪水 東札幌停車場 北海道鉄道 宇都宮牧場 豊平停車場 開かずの踏切 アンパンの踏切 澄川停留場 慈恵学園停留場 真駒内停車場 桜山 C11171と進駐軍専用列車 緑ヶ丘停留場 べこの踏切 石山坂 石切山停車場 助川貞二郎 石山軌道 ガンケ白川道路 藤ノ沢停車場 藤野沢駅前橋 藤ノ沢陸橋問題 十五島公園停留場 下藤野停留場 丸千坂と丸仙坂 熊寺 東簾舞停留場 旧黒岩家住宅/旧簾舞通行屋 御料橋 簾舞橋梁と簾舞通行屋橋 簾舞発電所と藻岩ダム 簾舞停留場 板割沢と七曲り 八剣山道路 豊滝停留場 滝ノ沢停車場 黄金山スキー場 花嫁電車 保線 小金湯停留場 黄金湯温泉旅館思い出アルバム 砥山堰堤と黄金橋 一ノ沢停車場 鉄道建設の陰に 一の沢発電所 一の沢射撃場 百松橋 つつじ谷 昼飯橋 神威沢の滝と手擦りの岩 吊籠の渡し 熊の沢 豊羽鉱山 錦橋停留場 錦橋 切割 国道230号 緑橋 和尚岩 白糸ノ滝停留場 舞鶴の瀞 札幌市郊外定山渓温泉電鉄沿線名所図絵 定山渓停車場 キロポスト 徳富蘇峰 定山渓森林鉄道
第3章 定山渓鉄道資料編
鉄道台帳・鐡甲號 鉄道台帳・鐡乙號 停車場表 橋梁表 定山渓鉄道路線略図 曲線表 定山渓鉄道線路平面図・定山渓鉄道線路縦断面図 列車運行図表 常務交番表 踏切道一覧表 定山渓郷土博物館
第4章 思い出の車両編
1100形蒸気機関車 7200形蒸気機関車 9040形蒸気機関車 C12形蒸気機関車 8100形蒸気機関車 DD450形ディーゼル機関車 ED500形電気機関車 コロ1形二等客車(貴賓車) ニフ50形・ニフ60形荷物車 チサ1形木材運搬貨車 キ1形ラッセル車 モ100形⇒モ2100形電動客車 モ200形・モ300形⇒モ2300形電動客車 モ800形・モ1000形電動客車/クハ1010形制御客車 モロ1100形二等電動客車・クロ1110形二等制御客車 モハ1200形電動客車・クハ1210形制御客車 クハ500形制御客車⇒クハニ500形荷室付制御客車 サハ600形付随客車⇒クハ600形制御客車 モハ2200形電動客車 キハ7000形・キハ7500形気動車客車 客車・貨車群

羽幌炭砿鉄道 躍進の記録 北海道炭鉱研究会

レビュー日:2021.10.14
★★★★★ 鉄道のみならず、「羽幌炭砿」全体の歴史をまとめた研究書
 北海道炭鉱研究会が2021年に編集・発行した1冊。  北海道の日本海側にある羽幌町は、人口7千人。付近の経済の中心地であり、天売島・焼尻島を擁する観光の町でもある。私も羽幌に宿泊し、離島を訪問したことがある。羽幌に限らず、日本海側につらなる旧羽幌線沿線は、美しい風景に事欠かないエリアだ。日本海の彼方には利尻山が見えるし、ことに夕陽の美しさといったら、言葉を失う。
 この羽幌町、かつては炭鉱の町だった。人口が3万人を越えていた時代もあった。国鉄羽幌線(1987年廃止)の羽幌駅の一つ北側に築別という駅があり、そこから築別川を遡った上流域に、築別、羽幌、上羽幌の3つの炭鉱があった。築別駅からは、運炭を目的とした羽幌炭砿鉄道が敷設され、沿線は賑わい、築別駅には国鉄の急行列車も停車した。
 しかし、海外から安価な輸入炭が入るようになると、国内の炭鉱産業は一気に斜陽化する。1970年に炭鉱は閉山し、運炭鉄道も廃止された。
 最近、羽幌町は、山中に残る選炭機や炭鉱労働者用のマンション跡などを、観光地として活用する取組をしている。注目すべき取り組みで、私も、当該地を訪問させていただいた。当時、水洗トイレなど最新の設備が備わっていたとされる大きな炭鉱住宅が、そのまま山中に残っている様は圧巻で、私もその姿にとても感動した。また選炭機や、羽幌炭砿鉄道の橋梁も残っていて、観光資源としてのポテンシャルは、十分にあると考えられる。
 その一方で、炭鉱の歴史をまとめた資料が不足する感があった。そのような状況下で、本書がまとめられたことは、実にありがたい。内容紹介の代りに、項目を転写したい。
1) 羽幌炭砿の生い立ち p1
2) 認可前に鉄道工事に着手した羽幌鉄道 p2
3) 築別坑の嚆矢 p6
4) 短命に終わった旧築別西坑・旧旧築別西坑(旧西坑時代) p8
5) ストライキと威力業務妨害事件(築炭争議) p8
6) 築別本坑 炭車修理工場火災事故 p10
7) 築別東坑 近代化への道 p11
8) 主要運搬坑道(大堅入坑道)とベルト斜坑の建設 p12
9) 高松宮殿下のご来山 p15
10) 朝比奈敬三と渡辺賞 p16
11) 天の沢坑の開発 p17
12) ソ連製掘進機 コンバイン・ペーカーゲー3 p19
13) 天の沢坑と水力採炭 p22
14) 築別東坑の躍進と影 p23
15) 開発進む築別西坑と西坑連絡坑道 p25
16) 築別東坑 異常出水と坑道放棄。そして閉山へ。 P26
17) 羽幌本坑の開坑 p28
18) 近代化を進める羽幌本坑 p30
19) 羽幌本坑運搬立坑と迷走する巻上設備の選定 p31
20) 羽幌本坑運搬立坑巻上設備の原型、中興鉱業福島鉱業所 新第一立坑巻上設備 p35
21) 羽幌本坑運搬立坑巻上設備の建設 p36
22) 羽幌本坑運搬立坑巻上設備 仕様概要 p38
23) 深部開発の心臓 動き出す p40
24) 羽幌本坑の合理化完了 p40
25) 重機械化を進める羽幌本坑 p41
26) 狂わせた断層 p42
27) 築別西坑の崩壊 p45
28) 羽幌炭砿鉄道株式会社の終焉 p45
29) 生き残りをかけて p46
30) 羽幌炭砿鉄道 回顧録 p49
31) 羽幌炭砿鉄道のデルタ線 p49
32) 国鉄からの恩返し p50
33) 築別坑 新選炭場完成式典と1番列車 p51
34) 開業20周年記念列車 p51
35) 動脈を寸断した脱線事故 p52
36) 国鉄名羽線(国鉄非営業線)を走った明治生まれのメトロポリタン製客車 p53
37) 架け替えられた橋梁たち p54
38) 歪の理由 p54
39) 西坑に架かる橋 p55
40) 残された夢 p56
41) 編集後記 p63
 私もこの本によって、はじめて西坑や天の沢坑を含めた炭礦の歴史を知ることができ、全体像に触れることが出来たように感じる。書の内容は、横書きで、いかにも”word”で書き綴ったままといった体裁であるが、貴重な写真を数多く挿入してくれていたり、坑道の図のような貴重なものも紹介されていて、とても参考になった。また、現在まで残る羽幌炭砿鉄道の橋梁、それは複数の規格の異なるガーターを繋ぎ合わせたような奇妙な構造なのだが、その橋梁に、このような歴史があったのか、とそういう視点でも、勉強になり、面白かった。著者は、ヒグマに気を付けながらも、現地探索と資料の付け合わせによって、慎重に史実の裏付けをおこなっていたとのことで、そのヴァイタリテイーには、頭の下がる思いである。
 ちょっと残念な点は2つだけ。一つは、写真の画質をもっと良い印刷で見たかったということと、もう一つは、様々な遺構等について、現在の地形図にトレースして、案内所としての実用性を付与してほしかったこと。「残された夢」と題されて、巻末に様々な写真が掲載されているが、撮影日と併せて、場所の紹介があれば、とても良かったと思う。
 とはいえ、ここまで調べてまとめて、その成果を書籍で還元してくれたことには、万感の謝意を示したい。あとがきにもある通り、遺構というものは、失われる時の流れの中にある。つい最近、これらの炭鉱町にあった小学校廃墟のシンボルだった円形体育館の屋根が、ついに雪の重みで崩落し、もうかつての姿を見ることが叶わなくなった。これらの記録も、誰かが主体的な意志の力でまとめなければ、消えてしまうものであっただろう。そう考えると、本書の価値は、とても高いのである。

住友石炭鉱業 奔別立坑建設物語 ~石炭産業躍進期の礎を築いた設計者たち~ 北海道炭鉱研究会

レビュー日:2022.4.11
★★★★★ いまなお威容を誇る産業遺産に相応しい資料です
 私は札幌に住んでいるのだが、三笠市は好きな町の一つで、年に何度か休日を過ごしている。
 小樽市の手宮を起点とした官営幌内鉄道が開業したのは1881年。三笠地区の産炭・運炭を目的とした鉄道だが、旅客を扱う鉄道としては、国内で3番目に開通した鉄道で、北海道でいちはやく石炭産業が興った地である。産炭の時代はさり、国鉄幌内線として運営されてきた鉄道も1987年に廃止された。
 三笠市は、そんな歴史を背景とした施設が多く残っている。幌内には三笠鉄道記念館が建設され、線路の一部がいまなお活用されているほか、三笠駅の跡地にも、官営幌内鉄道開業時をイメージした鉄道記念施設がある。また、幾春別川に沿った渓谷は、様々な年代の地層を含み、周囲はジオパークとなっており、三笠市立博物館から、幾春別森林鉄道跡を利用した野外展示を歩けば、様々な自然地層や産業遺産群を見ることが出来る。私も宿泊したことのある湯の元温泉は、昭和の雰囲気を感じさせる味のある宿だし、最近では、複数のワイナリーが開業した。かつての産業の跡を利用しながら、現在の魅力も感じることが出来るいいところだ。
 そんな三笠市の中でも、象徴的な産業遺産と言えるのが、奔別炭砿跡だろう。幾春別駅跡前に広がる集落の奥にあるその施設跡は、巨大な立坑櫓跡と選炭機(ホッパー)跡の二つからなる。その威容は、今なお、見る人を圧倒する。
 これらの施設の敷地は、通常、立ち入ることは出来ないが、しばしば、敷地解放のイベントがあり、私も何度か参加させていただいた。2014年のそらち炭鉱アートプロジェクトでは、ホッパーの内部に入ることも出来たし、2020年の敷地解放では、間近で立坑櫓の建物を見ることができた。(ただし、建物内へ入ることは出来なかった)。2020年のイベント会場では、記念品売場も開設されていただが、私はその中で、様々な時代の立坑櫓がデザインされたタオルを気に入り、購入した。現在も大事にしている。
 本書は、そんな三笠を象徴する産業遺産、奔別炭砿の立坑櫓について、まとめたもの。北海道炭鉱研究会がまとめた同人誌となる。内容は、設計、建設の過程で残された資料等を紹介しながら、その経緯を紹介していくものとなっている。当時の資料は、手書きのメモのようなものが多く、文字をなぞるのは、ちょっと苦労するが、当時のエネルギーがリアリティーをもって伝わってくる。現在では、「炭砿」と言うと、どこかアナクロで、古めかしいイメージを持つかも人もいるかもしれないが、実際には、当時の先端科学の技術や知見を集め、応用したものであり、きわめて高度な技法が活用されたものだったのである。炭砿そのものの構造もそうだが、炭鉱に投入される各種機械類も同様だった。国全体を発展させる原動力として、大量の資本と労力が投入されたものであり、それゆえにいまなお残る立坑櫓には、思わず人を惹きつける何かがあるのである。以下、目次を転載させていただく。
【序章】 奔別礦業所と竪坑計画  7
奔別砿のはじまり  8
弥生砿のはじまり  10
奔別竪坑開?計画(案)1954年(昭和29年)1月 竪坑直径6.1m / 竪坑深度 600m  11
奔別竪坑の位置  13
竪坑の直径と深度  14
立坑巻上設備と櫓、その分類と交雑  14
吉田龍夫と西ドイツ  18
開?工事と仮櫓  20
【第2章】 九州立坑見学と立坑構想会議  22
竪坑委員会設立と設計責任者選出  23
九州立坑見学  23
 三井鉱山 田川砿業所 伊加利竪坑巻上設備  24
 三井鉱山 山野工業所 山野竪坑巻上設備(第一竪坑)  29
 貝島炭砿 新菅牟田砿業所 北・中央竪坑巻上設備  37
 日本国有鉄道 志免砿業所 志免竪坑巻上設備  37
1956年(昭和31年)1月5日 第一回 立坑構想会議  38
1956年(昭和31年)4月11日~12日 立坑委員会に於て決定した事項  38
1956年(昭和31年)5月4日 奔別竪坑運搬設備仕様書原案作成に就いての山元打ち合わせ会  39
1956年(昭和31年)5月7日 奔別立坑巻上設備仕様書作成  40
【第3章】 メーカー召喚と検討事項  44
1956年(昭和31年)5月8日 第二回 竪坑構想会議  45
1956年(昭和31年)5月9日 第三回 立坑構想会議  47
メーカー仕様書の摘録  47
1956年(昭和31年)5月15日 検討事項(牧田課長より提示)  49
1956年(昭和31年)6月4日~5日 山元検討会に於ける決定事項  50
1956年(昭和31年)6月11日 富士電機 来山  52
1956年(昭和31年)6月18日~19日 赤平検討会  54
【第4章】 年産100万トン計画と設計図  62
年産66万トン計画から年産100万トン計画へ  63
1957年(昭和32年)4月20日 富士電機(DEMAG)・三菱造船(GHH)の中間発表  64
「資料」 1955年(昭和30年)月?製図 「三菱造船 複合多索式 A型 巻上櫓」  66
1957年(昭和32年)5月4日~ 本社出張日誌  67
1957年(昭和32年)5月5日 富士電機見積仕様書見学  68
1957年(昭和32年)5月7日 富士電機説明会  70
1957年(昭和32年)5月8日 安川電機説明会 Skip Winding の分類  71
1957年(昭和32年)5月10日 三菱造船と安川電機説明会  72
「資料」 1957年(昭和32年)5月10日提出「三菱造船 GHH式 H型 1本索 巻上櫓」  77
「資料」 1957年(昭和32年)5月10日提出「三菱造船 GHH式 H型 2本索 巻上櫓」  78
1957年(昭和32年)5月13日 日立製作所 説明会  79
「資料」 1957年(昭和32年)5月13日 提出 「日立 4本索 特殊垂直H型 巻上櫓」  81
「資料」 北海道炭礦汽船 空知竪坑巻上櫓 ヘッドシーブ  82
1957年(昭和32年)5月15日~16日 富士電機説明会  83
1957年(昭和32年)5月17日 見積金額比較会議  85
1957年(昭和32年)5月29日 今後の技術的検討法について  86
1957年(昭和32年)6月6日 検討会  87
1957年(昭和32年)6月7日 本社討論会に対する打ち合わせ  88
「資料」 奔別立坑運搬設備仕様書  88
1957年(昭和32年)6月10日~6月21日 東京出張日誌  90
1957年(昭和32年)6月12日 検討方法に就いてと仕様書の再検討  91
1957年(昭和32年)6月14日 仕様書検討項目の説明  92
1957年(昭和32年)6月14日 安川電機 説明会  93
1957年(昭和32年)6月17日 三菱造船召喚と仕様書変更について  94
1957年(昭和32年)6月18日 富士電機・日立召喚と仕様変更についての説明  94
1957年(昭和32年)6月19日 富士電機 召喚  95
1957年(昭和32年)6月20日 三菱造船・安川電機 召喚  97
1957年(昭和32年)6月21日 日立製作所 召喚  99
1957年(昭和32年)8月4日 赤平吉田課長を交えた検討打合せ会  100
1957年(昭和32年)9月10日 (タイトルなし)  102
機材輸送と巻上櫓の建設  103
[特集1] 打合覚書から見る奔別立坑巻上設備  104
 「返却されなかった設計図」  104
 「ケーペプーリーの4本溝の謎」  105
 「巻質を破壊してメインロープ搬入」  105
 「損傷したヘッドシーブボス」  105
 「巻上櫓の高さを運搬設備」  106
「奔別立坑巻揚設備 概要」 住友石炭鉱業㈱奔別砿業所 奔別炭砿 機電係 107
【第5章】 奔別立坑の完成と刹那の終幕  108
1960年(昭和35年)8月22日午前11時05分 世紀の運転開始さる  109
奔別砿業所の最期  109
【最終章】 その後の奔別立坑巻上設備  110
その後の設計者たち  111
現在も残る巻上設備  111
60年という時を経て  126
[特集2] 鉄道から見た幾春別  127
 幾春別駅から分岐していた「住友線 住友駅」  127
 東邦炭砿株式会社 弥生速成線と貯炭ポケット(選炭場)  128
 国鉄幌内線 桂沢ダム建設事業線  129
[特集3] 山口四郎が歩いた竪坑巻上設備と現在  130
 三井鉱山 田川砿業所 伊加利竪坑巻上設備跡地  130
 三井鉱山 山野砿業所 山野第一竪坑巻上設備跡地  132
 貝島炭砿 新菅牟田砿業所 中央・北竪坑巻上設備跡地  134
 日本国有鉄道 志免砿業所 志免竪坑巻上設備  135
奔別砿業所の秘密  136
カリカン断層と弥生断層  137
1962年(昭和37年)11月20日 「奔別砿赤字克服の為の諸対策」交渉妥結について  142
新開発-850mレベルの検討  144
東洋一の立坑の夢  145
崩壊の足音  147
新生奔別の終焉と三山投票  148
旧中ノ沢坑・泉炭砿(旧鳥居沢坑) 鉱区処分による閉山交付金問題  153
奔別炭砿株式会社の誕生  154
再建計画の失敗と閉山  155
特別章「住友石炭鉱業 奔別砿業所と泉炭砿㈱」  157
特別章「答えを知っていた者」  159
特別章「雑感」山口四郎 (住友石炭鉱業 電気部会長・住友石炭保安部)  161
特別章「2人の設計者」  162
あとがき  164
協力団体様・協力者様一覧  166
 細かい過去の日付とともに、当時の状況が様々に伝わってくる。また、個人的には、「桂沢ダム建設事業線」のことは、知らず、本書ではじめてしって驚いた。遺構の写真も掲載されているが、ぜひ、実物を目にしてみたい。
 写真はできればカラーで見たかったが、そこは、同人誌としては、仕方ない仕様だろう。個人的に、その内容の豊富さに感服したが、ただ、注文点があるとすれば、写真には撮影日時の記載がほしかったのと、現在まで残っている遺構等につては、現在の地図で、その場所を示してほしかった。その点だけが残念であったが、このような形で、奔別炭砿の素晴らしい立坑櫓について、まとめていただいたことは、ひたすら感謝である。また、あらためて、三笠に行ってみようと思う。
 なお、「竪坑」と「立坑」は、どちらも同じものを指しています。本書では、当該箇所の原典となる資料に沿って、2通りの併記をそのまま採用したとのことです。

懐かしの北海道鉄道の旅 明治・大正・昭和期 矢島 睿著

レビュー日:2015.8.13
★★★★★ 北海道の鉄道文化を網羅的にまとめた良書
 北海道の文化・鉄道に詳しい矢島睿(やじまさとし 1936-2010)氏による「懐かしの北海道鉄道の旅」と題された北海道の鉄道文化史をまとめたもの。全241ページ。部分的にカラー印刷。
 本書が刊行されたのは2012年であるが、矢島氏はその2年前に病気で亡くなっている。病床にあって治療を受けながらも本書の執筆をされたという。しかし、その書きぶりは一貫していて、利用者視点を中心に、その歴史的変遷をまとめた内容だ。目次を書くと以下の通り。
第1章 駅は時代とともに
1 鉄道の発達と駅舎
 北海道の鉄道駅 停車場と駅舎 北海道の主要駅(開業と駅舎の変遷) 札幌駅 函館駅 室蘭駅 小樽駅 岩見沢駅 旭川駅 釧路駅 北海道の駅舎
2 旅行中の接客サービス
 手荷物運搬人(赤帽) 旅客携帯品一時預入れ(携帯品の一時預かり) 手荷物と小荷物 賃貸軽便枕と助板 救急箱と病客車 人力車 ハイヤー 靴洗器と靴磨き 鉄道の発達;列車の所要時間の変遷(開業以降、明治後期から大正・昭和初期、戦後の昭和20年から今日まで)
第2章 汽車に旅情が漂う
1 汽車の運行
 列車の発車合図 汽車の乗り方と乗客のマナー 車内照明
2 寝台車と食堂車・車内販売
 寝台車 食堂車 車内販売
3 列車暖房(タコストーブからスチーム暖房へ)  石炭ストーブ ダルマストーブとタコストーブ 蒸気暖房(スチーム暖房) 乗客の利用を中心とした車輛及び列車の記号番号(車輛の形式番号 列車番号)
第3章 汽車旅行全盛の頃
1 時間表(時刻表)と鉄道記号表記の変遷
 時刻表の歴史 時刻表を中心とした列車旅行関係記号表記 列車の等級と表示
2 鉄道による北海道旅行計画と観光地の変遷
 鉄道遊覧旅行の普及 対象時代から昭和初期の北海道遊覧地めぐり 戦後の鉄道観光旅行 最近の観光旅行と鉄道 北海道汽車博覧会(汽車博覧会の開催地と日程 陳列用列車と展示陳列の内容 開催地での設備及び準備状況 開催地での余興) 絵葉書で見る北海道の駅と街の風景
第4章 鉄道が街を、食をつくる
1 駅構内販売(1) 郷土銘菓、みやげ、名産品
 駅構内売店の商品(煉化餅 大沼だんご 花園だんご 旭豆 バナナ饅頭) 戦後の駅売り販売(トラピスト・バタークッキー あかんまりも羊羹 まりもの古里羊かん 池田バンビキャラメルなど ハッカ菓子 ひとつ鍋) 海産物、郷土民芸品
2 駅構内販売(2) 駅弁の立売り
明治から太平洋戦争の時代まで 駅弁のはじまり 名物弁当の販売はじめ(やまべずし 石狩鮭めし) 戦時の時代と駅弁(いかめし) 戦後の昭和20年代から今日まで 1950年代の駅弁(かにめし いか弁当) 1960年代の駅弁(洋ずし 桜飯、釜めし ジンギスカン弁当) 1980年代以降の駅弁
3 鉄道の発達と旅籠・旅館の変遷
 近世松前・蝦夷地の旅人宿(旅籠) 鉄道の開業と駅前旅館 札幌の建設と初期の旅館 旭川、帯広、北見の駅と旅館 函館、小樽、室蘭の港と駅、旅館、小樽、旭川、札幌におけるホテルの建設 駅に関するエピソード(駅ネコ 北海道難読駅名 風変わりな名の駅 アイヌ語地名を駅名とした駅)
 網羅性に富んだ内容で、マニアックな内容からコラム的なネタまで多彩。明治時代の駅舎の写真など、資料的に価値の高いものも多い(写真の中には、もっと大きいサイズで見たかったものも多いのだけれど)。記述は国鉄線が中心で、私鉄線やその他の鉄路に関する記載はほとんどない。
 本書には、鉄道というものが、いかに地域の文化と直結しているかということがよく示されている。鉄道を中心に人の動線が保持され、そこから派生的に様々な産業が興る。現在までつながる地域の名物の数々が、鉄道文化から派生的に生まれたことをよく物語っている。
 近年、北海道では鉄路の廃止が続いた。元来、殖民、開拓、物資運送を目的に敷設された鉄路であったから、経営基盤が民間に移り、経常収支という観点で運用することには不向きな路線がほとんどであった。しかし、これらの鉄道の民営化は強引に進められ、鉄路の撤退した地方は、一気に過疎が進んでいる。鉄道関連の産業が失われるとともに、人の動線が変わり、駅という拠点を失うことで、産業が集積する地点が喪失され、地域の衰退を加速させる。人口の少ない地域から鉄路を奪うことを繰り返した一つの結果が、各地で端緒に示されている急激な過疎という現実だ。鉄道の廃止は、一つの交通機関を失うという以上の文化的損失に直結している。私が以前から思うのは、鉄道の価値は収支のみで計るものではないということだ。少なくとも、北海道という土地において、鉄道だけを分離して、一つの民間経営母体に担わせるということは、あまりにも不適切な方法で、政策的・政治的に、あまりにも大きな失敗である。それは、多くの線路が廃止される前と、廃止された後の双方を知っている私のような人間であればこそ、実感できることだろう。しかし、しばしば政策決定の段で、そのような現場的な感覚は、むしろ遮蔽されるし、結果としての衰退に対する責任や補償という論点は、希釈される。
 本書の中で印象深かったところを書こう。各駅の年代ごとの駅舎の写真はとにかく貴重。写真によっては、きちんとした年代が示されていないものもあるが、いずれも当時の雰囲気がよくわかる。また時代の遷移に伴って興亡した様々なサービスの記述はとても興味深い。時代の流れを汲みとる絶好の切り口となっている。紹介された名物や駅弁の歴史は、私にもなじみのあるものもあり、また、小さいころの記憶に触れ、復活してほしいと思うものもあった。いかめしが戦時中に発案されたとは知らなかった。
 各都市の旅館の歴史、古い旅館建築の写真もそこそこ集積されていて面白い。列車内のダルマストーブは最後に運用されていた石北線で、私の父が写真を撮っていることもあり、あらためて言及いただいたのは感慨深かった。また、北海道汽車博覧会は、鉄道の文化面をよく周知するイベントで、同様のものがたびたびあっても良かったのではないかと思う。
 いずれにしても、矢島氏の広い知識が整理されて記載されており、とても面白い一冊であった。北海道の鉄道文化が、少しでも長く続くことを矢島氏も願っておられたに違いないと思う。

全国森林鉄道 JTBキャンブックス 西 裕之著

レビュー日:2015.12.10
★★★★☆ 全貌を見渡すことがきわめて困難な「森林鉄道」の世界の入口です
 1980年代のはじめ、私は母に連れられて夕張に行った。鉄道少年だった私は、ゴールデンウィークにどこに行きたいかと尋ねられて、当時、北海道で唯一旅客営業を行っていた三菱石炭鉱業大夕張鉄道線(清水沢-南大夕張)に乗りたいと答えたからだ。
 そして、私は、念願の大夕張鉄道に乗車し、新夕張に役目を譲った紅葉山駅の廃墟や、夕張鉄道が使用していた鹿ノ谷駅の駅舎を発見し、大喜びしたのだけれど(変な子供でした)、シューパロ湖に来たとき、湖岸の反対側にかかる美しい立派な橋梁を見て、たいへん不思議な気持ちになった。というのは、大夕張鉄道の廃線区間は、自分がいる手前岸を通っていたはずだから。そもそも、こちらに一本鉄路があるのに、ダム湖の反対側にまで、もう一本鉄道を敷くことは考えにくい。しかし、その鉄橋は、見れば見るほど、鉄道橋だったという雰囲気を醸し出していた。
 当時はインターネットも何もなかったし、周囲の大人たちも答を知らなかったから、私のこの謎が解けるまで、しばらく時間を要した。答えは「森林鉄道の廃線」だった。当時、私は森林鉄道がどれほどの規模のものか、まるで想像していなかったのだ。(ちなみに、シューパロ湖にかかる鉄橋は、「三弦橋」と呼ばれる有名な橋梁で、建築工学的にも貴重なものだった。その後も私はこの美しい橋を何度か見に行ったのだけれど、2014年にダムの巨大化により湖底に沈んでしまった。)
 実は、北海道の森林鉄道がどれほどの規模のものだったかについて、現在も学術的に正確な結論というのは、(私の知る限り)出ていない。ただ、私がいくつかの資料をまとめた結果、総延長は少なくとも1,500kmを越えている。これは、現在のJR北海道の営業キロが2,500km弱であることを考えると驚異的な数字である。
 とはいっても、これらは同じ時期に存在していたわけではない。森林鉄道はその性格上、幹線以外の線路は、資源をもとめて付け替えが行われる。線区によっては、その運用期間は数年程度というものもある。森林鉄道特有の性格がその全貌をつかみにくくしている。
 加えて、特に北海道の場合、開拓、殖民の時期と重なっていたこともあって、その記録がきちんと残されていないものも多い。中には、上ノ国、本別、常呂、上川町中越など、「森林鉄道があったと推測されている」というレベルのものまで存在する。なにぶん廃止から年月が経ちすぎているし、しっかりした現地調査を行う労力も費用も限られているのだ。
 そのような状況の中で、比較的まとまった情報書として、本書は一定の価値がある。まず、参考までにその目次を書こう。
本書で取り上げる森林鉄道とは
森の働きもの 森林鉄道の雄姿
国有林森林鉄道 北海道
 (羽幌森林鉄道、温根湯森林鉄道、置戸森林鉄道、丸瀬布森林鉄道、定山渓森林鉄道、芦別森林鉄道、陸別・トマム森林鉄道)
国有林森林鉄道 東北
 (津軽森林鉄道、河内森林鉄道、大畑森林鉄道、宮田又・船岡森林鉄道、長木沢森林鉄道、早口・岩瀬森林鉄道、鷹巣森林鉄道、仁鮒森林鉄道、二ツ井営林署森林鉄道、杉沢森林鉄道、仁別森林鉄道、浪江森林鉄道、直根森林鉄道)
国有林森林鉄道 関東・東海
 (武州中津川森林鉄道、世附森林鉄道、千頭森林鉄道、水窪森林鉄道、気田森林鉄道、下仁田森林鉄道、湯ノ小屋森林鉄道)
国有林森林鉄道 中部
 (浦森林鉄道、遠山森林鉄道、小坂森林鉄道、王滝・小川森林鉄道、付知森林鉄道、双六・金木戸森林鉄道)
国有林森林鉄道 近畿・中国
 (高野山森林鉄道、音水(上野)森林鉄道、大杉谷森林鉄道)
国有林森林鉄道 四国
 (魚梁瀬森林鉄道)
国有林森林鉄道 九州
 (内大臣森林鉄道、綾森林鉄道、鹿川森林鉄道)
民有林森林鉄道
 (三塩森林軌道、稲又森林軌道、東京大学演習林軌道、王子製紙専用鉄道、殿川うち森林鉄道)
現役森林鉄道にふれる
 (安房森林鉄道、京都大学演習林軌道)
保存森林鉄道
 (丸瀬布いこいの森、青森県の保存車両たち、真室川町立歴史民俗資料館/野辺山SLランド、遠山森林鉄道の保存車両/田島停車場跡動態保存車両、赤沢森林鉄道記念館、馬路村保存鉄道)
森林鉄道をめぐる車両たち
 (動力車編、非動力車編)
コラム 究極の森林鉄道廃線跡めぐり
用語解説/英訳キーワード集
資料篇
 (全国森林鉄道/全国森林鉄道保存車両)
 貴重な写真などを通じて、いくつかピックアップされた森林鉄道について、その歴史背景などまとめてくれている。ただ、前述の理由もあって、資料としての価値は半端な面を指摘せざるをえない。とくに巻末の資料篇の「全国森林鉄道」はあまりにも「抜け」が多すぎる。
 私が見ただけでも、恵庭、幾寅、音更、達布、美深などの森林鉄道がまるごと抜けているほか、まとめられている森林鉄道も路線の抜けが多い。ただ、このあたり、正確な線名がなかったり、基礎資料に矛盾する記述があったりすることは私も知っているし、網羅というのは、特に北海道の場合、きわめて困難なのだろう。それにしても、基礎資料のあるものまで抜け落ちている気がするのだけれど。
 各森林軌道をピックアップした紹介でも、せめて路線表記した地形図くらいは記載してほしかった。しばしば簡単な地図が掲載されているだけで、遺構の現地探索などにもほとんど供しないレベルにとどまっている。
 以上のように「まだまだ」という感がぬぐえない反面、これまで資料整理がおざなりだった森林鉄道というジャンルに「手を付けて」くれたことには、心底感謝したい。貴重な写真や車両の紹介などとても楽しかった。
 私は、今年丸瀬布いこいの森を訪問した。そこで動態保存・運転されている雨宮製作所製の小さな森林鉄道用蒸気機関車に乗ったのはちょっとした感激だった。ぜひとも、森林鉄道という文化を記録する作業を、様々な形で継続してほしいと思う。

特撰 森林鉄道情景 西 裕之著

レビュー日:2017.7.25
★★★★★ 在りし日の森林鉄道に思いを巡らせられる良書です
 歯科医の肩書きを持ちながら、特殊軌道についての研究でも高い功績を挙げている西裕之(1955-)氏による「特撰 森林鉄道情景」。まず、内容紹介がわりに目次を転載させていただこう。
カラー写真で偲ぶ森林鉄道情景
 安房森林鉄道  1
 遠山森林鉄道  4
 杉沢森林鉄道  5
 木曾森林鉄道  8
 松本製材(現・松本建設)  11
 秋田営林署管内鳥瞰絵図  14
 森林鉄道関連蒐集品  16
はじめに  17
総説森林鉄道  22
第1章 各地の森林鉄道
 美深(仁宇布)森林鉄道  26
 陸別・斗満森林鉄道  28
 扇田森林鉄道  31
 宮田又沢・船岡森林鉄道  35
 椿森林軌道  42
 杉沢森森林鉄道  44
 葛根田・鶯宿森林鉄道  49
 仁別森林鉄道  54
 岩見森林鉄道  58
 附馬牛森林鉄道  60
 新川森林鉄道  62
 猪苗代森林鉄道  64
 浪江森林鉄道  65
 神楽山森林鉄道  68
 下仁田森林鉄道  70
 東京大学演習林軌道  74
 杣口森林軌道  78
 Column1 山梨県林務部の軌道  81
 渋森林軌道  82
 王滝森林鉄道白川支線  85
 遠山森林鉄道  92
 千頭森林鉄道  98
 水窪森林鉄道  102
 熊切森林鉄道  106
 小原野森林軌道  108
 魚梁瀬森林鉄道  110
 福川林業森林軌道  114
 巣之浦森林鉄道  116
 赤水・小野市森林鉄道  120
 安房森林鉄道  123
 Column2 森林鉄道の表記  128
第2章 集材から運材まで
 屋久杉運材1日のながれ  130
第3章 森林鉄道に見られる諸施設
 作業軌道  138
 作業軌道の奥には  140
 木橋  143
 インクライン  144
 集材所  146
 車庫  148
 貯木場  151
 製材所  152(小長井製材所、三河田口の製材所、東京木材工業、松本製材)
全国森林鉄道保存車輛一覧表  158
あとがき/参考文献  160
 森林鉄道は、屋久島の安房森林鉄道を除いて、現在では国内に残っているものはない。私の住む北海道では、かつて800km以上にもおよぶ森林鉄道が、山林深くに張り巡らされて、木材搬送のための列車が運行されていた。それらは、安価な輸入木材の流入と、運送のトラック化により衰退し、北海道においては60年代のうちに全森林鉄道が廃止となった。
 私は幼少のころ、夕張を訪問したとき、シューパロ湖の対岸にかかる立派な鉄道橋跡を見て、「あんなところに鉄道がないはずなのに」ととても不思議な思いにつつまれたことがある。北海道では、森林鉄道のほか、数多くの運炭鉄道や殖民軌道が路線を張り巡らせていたため、思わぬところでその遺構を目にし、その由来を知らないと、とても不思議な思いにつつまれることがある。私には、そんな幼少のころの体験が多く記憶に残っている。
 人は、時として失われたものに強烈な郷愁を感じる。たとえ、それが自分の生い立ちに直接的な関わりを持っていなかったとしても。最近の「廃線跡探索ブーム」は、人の気持ちのどこかに共通して働きかるものが、一つのアクションとして表れた例に思える。
 ちょっと別の話をさせていただこう。最近読んだ有栖川有栖(1959-)の小説を読んでいて、こんな印象に残るフレーズがあった。ミステリを愛する若い主人公が、先輩に「なぜミステリが好きか?ミステリ特有の感動があるのはなぜか?」と問われ、回答を探していると、先輩がこう述べる。「人間のもっとも切ない思いを推理がなぐさめるからや。名探偵の推理は、殺されて物言えぬ被害者の声を聞くのに等しい。ミステリが推理の巧みさを楽しむだけのものやったら、ああまで殺人事件を中心に描く必要はないやろ。殺人を扱った方が、刺激的で、問題に切実さが出るということもあるやろうけど、殺人事件がミステリの中心的モチーフになることには必然性がある。当たり前に響くやろうけど、被害者が絶対に証言できない、というのが重要なんや」。
 これはどこか、失われた鉄道に思いを寄せるファンの気持ちに通ずるものだ。かつてそこに地域と産業の発展に鉄道があった。しかし、急な時代の移り変わりの中で、彼らはいつの間にかいなくなり、誰もその存在を気に留めるものはいない。こちらから積極的に探究し、働き替えなければ、その姿は想像の世界にさえ立ち現れない。だからこそ、数少ない遺構を発掘し、資料を集めて、その存在していたものを、何らかの形で、具現化したい。廃線跡を探索したり、失われた鉄道の資料をまとめたりするのは、その人の郷愁に深く作用する作業であり、それは対象を「鉄道」に限らなければ、だれにでも共有できる感情に違いない。
 そのようなわけで、この書も、ファンの気持ちに沿った実に美しい書物となっている。貴重な写真が集積されているほか、紹介されている森林鉄道に関しては簡略化された路線図(できれば5万分の1地形図にトレースしてほしかった)も記載されている。写真も、厳しい路肩と勾配の中、森林軌道ならではの線路幅の狭い鉄道の様子が、見事に示されている。紹介される機会の多い木曾、王滝、魚梁瀬、安房といった森林鉄道以外のものも、貴重な写真が集められており、当時の姿を様々に伝えてくれる。まさに、読み手の郷愁を満たしてくれる1冊だ。
 また、インクライン、集材所などの関連施設についても、その姿をよく伝える姿が紹介されており、今や人が通うことも難しい山奥に、これほどの施設があったのかと感嘆し、ファンの「知りたい」という気持ちを満たしてくれ、「今はもうない」という気持ちを、適度になごませてくれる。アカデミックだけど情緒的。こういのを趣味的な良書と言うのだろう。
 著者には、今後もぜひ、このような良書を作り続けていただきたい。

森林鉄道 蒸気機関車雨宮21号

レビュー日:2023.3.20
★★★★★ 「森林鉄道」を深く探求できる貴重な一冊。写真も美しい!
 北海道のオホーツク海側の内陸域にある丸瀬布町は林業の町である。いまは合併して、遠軽町の一部となったが、この丸瀬布には、鉄道フアンに広く知られた施設があった。丸瀬布駅から9kmほど武利川を遡ったところにある「いこいの村」という施設で、美しい森の中に、温泉やレジャー施設、キャンプ場があるのだけれど、なんといっても注目すべきは、森林鉄道の動態保存である。
 そこには全長1.8kmの一周するナローレールが敷いてあり、1928年に雨宮製作所が製作した蒸気機関車「雨宮21号」が走っているのである(無雪期の基本土日)。この蒸気機関車は、かつて、この地にあって、武利川流域の木材の搬出に活躍した武利意森林鉄道(1928-1963)で運用されていたものであり、全国でも唯一動態保存されている森林鉄道用の蒸気機関車である。また、一周するコースのうち、100メートルほどは、敷設当初の道床をそのまま用いている。一周のコースは、鉄橋もあって、たいへん素晴らしいもので、現在では、遠軽町を代表する観光施設となっている。また、かつて鶴居村営軌道で活躍していたディーゼル機関車も動態保存されており、連休中などには、両機関車が、軌道を走るところを、実際に目にすることが出来る。
 本書は、その「雨宮21号」と、雨宮21号が運用されていた武利意森林鉄道にスポットをあて、貴重な写真だけでなく、資料面でも充実した一冊だ。またカラー印刷に対応しており、いこいの森で活躍する雨宮21号や、廃線跡の記録など、美しいカラー写真がそのまま掲載されており、そこはちょっとした写真集と言っても良い。率直に言って、この印刷、内容で、この価格設定は、廉価過ぎて、驚かされる。それぐらい素晴らしい一冊である。まず、本書の概要を示すために、目次を転載させていただく。
はじめに  002
第1章 未来に引き継がれた雨宮21号
 丸瀬布の走る林鉄SL白煙は未来へのシグナル  012
 蒸気機関車を走らせる   015
 雨宮製作所と林鉄機関車   023
第2章 丸瀬布の森林鉄道
 丸瀬布の森林鉄道   028
 林鉄三十五年の歩み   034
 北海道の林鉄SL 今はむかし“官行の汽車”   041
 機関車図面   053
 林鉄を辿って四十粁(40キロ)   055
 建設工事の証言   064
第3章 丸瀬布森林鉄道の廃線跡を訪ねて
 廃線跡探索レポート   070
 武利意・上丸瀬布森林鉄道 全路線図   076
 「武利意森林鉄道廃線跡を歩く会」開催報告   088
第4章 雨宮21号・丸瀬布森林鉄道の思い出
 エピソード&写真   092
 思い出   110
 丸瀬布の森林鉄道を語る座談会   119
巻末資料 雨宮21号を訪ねて
遠軽町の紹介   142
いきの森を走る鶴居村営軌道の機関車   145
丸瀬布森林鉄道いこいの森ポスター一覧   148
森林鉄道蒸気機関車「雨宮21号」の略歴   150
 目次をご覧いただければ分かると思うが、決して古典蒸気機関車の写真メインの観光誘導といった軽い内容ではなく、林業の町、丸瀬布における森林鉄道と人々とのかかわり、歴史、そして鉄道趣味者を満足させるであろう資料が満載された、どっぷり浸れるディープさをもった内容だ。歴史的写真や当時のことを知る人の証言や記録など、本当に、よくぞとりまとめて一冊の書物にしてくれたと、感服させられる。
 戦時中、そして戦後の復興期の林鉄の様子、さかんに電話機で連絡をとりながら、すれ違い可能な停車場を駆使して運行された当時の様子、こまかい支線の線形、そして当時林鉄に乗って見えた風景など、興味深い語り掛けが満載だ。また支線も含めた路線図を中心とした資料、運用されていた機関車の一覧データなど、よくぞここまでの記録が残っていたと思う。
 実際、北海道では様々な森林鉄道が運用されていたが、その実態をまとめた入手可能な資料というのは、驚くほど少ない。そのような状況下で現れたこの一冊は、私に言わせれば、ちょっとした奇跡である。これもなにも、やはり「動態保存」により、丸瀬布町が、その産業遺産の保存に力を尽くしてきた背景があればこそだろう。すべての関係者に深い敬意を払わなくてはなるまい。
 とても貴重な話として、現在の保存鉄道のレールを敷設するにあたって、なぜか軌条の撤去が行われていなかった武利意森林鉄道の支線の一つである「十ノ沢軌道」の線路を転用したというものがある。しかも、「十ノ沢軌道」には、まだ「敷設されたまま」になっているレールが一部残っており、その2012年時点での写真も掲載されている。これがいまなお現存するのであれば、ぜひとも自分の目でも見てみたいと思うのだが。
 それにしても、写真も美しく、資料も充実し、北海道の森林鉄道の歴史を地域史とともに知れるというまたとない良書である。ぜひとも末永く手元に置いておきたい。

全国軽便鉄道 JTBキャンブックス 岡本 憲之著

レビュー日:2016.2.19
★★★★★ 軽便鉄道がいかなるものだったか、その全体像がよくわかる良書です。
 国内における「その道の権威」である岡本憲之(1968-)氏によってまとめられた、日本国内に存在した代表的な軽便鉄道について、その概略を貴重な写真を踏まえてまとめたもの。「軽便鉄道」とは、いわゆる一般的な鉄道より、軽易な規格に基づく鉄道で、一般に軌間1067mm未満のものを指す。狭軌(ナロー・ゲージ)という呼称もあるが、厳密には狭軌と呼ぶ場合には、軌間が標準軌の1,435mm未満のものすべてが含まれるため、定義範囲は広くなるが、それほど厳密な使い分けが行われているとも言えない。
 本書では、様々な軽便鉄道が紹介されている。その目次を書き出してみよう。
本書で取り上げる軽便鉄道とは 4
総天然色でよみがえる 想い出の軽便鉄道 6
根室拓殖鉄道/湧別軌道 33
早来鉄道/苫小牧軽便鉄道 34
沙流軌道/日高拓殖鉄道 35
鉄道院湧別軽便線 36
河西鉄道/士別軌道 37
十勝鉄道 38
江当軌道/登別温泉軌道 40
十和田鉄道 43
小坂鉄道 44
花巻電鉄 46
岩手軽便鉄道 49
仙南温泉軌道/角田軌道 50
栗原鉄道 51
仙北軽便鉄道/増東軌道 52
仙北鉄道 53
仙台鉄道/金華山軌道 55
谷地軌道/信達軌道 56
日本硫黄沼尻鉄道 57
好間軌道/磐城炭砿軌道 60
日本鉄道事業 61
磐城海岸軌道 62
栃尾電鉄 65
魚沼鉄道 68
頸城鉄道 69
草軽電気鉄道 72
竜崎鉄道/笠間稲荷軌道 75
村松軌道/鹿島軌道 76
赤見鉄道/下野電気鉄道 77
宇都宮石材軌道 78
上野鉄道 79
利根軌道/吾妻軌道 80
千葉県営鉄道多古線・八街線 81
千葉県営鉄道久留里線/夷隅軌道 82
流山軽便鉄道 83
九十九里鉄道 84
青梅鉄道 87
西武鉄道山口線 88
湘南軌道 90
熱海鉄道 91
富士電気軌道 92
静岡鉄道 93
静岡鉄道駿遠線 94
安倍鉄道/庵原軌道 98
堀之内軌道 99
遠州鉄道奥山線 100
遠州軌道/西遠鉄道 103
黒部峡谷鉄道 104
尾小屋鉄道 106
立山軽便鉄道/武岡軽便鉄道 111
丸岡鉄道/東濃鉄道 112
坂川鉄道/西尾鉄道 113
三井鉱山神岡鉄道 114
石川鉄道 115
北勢鉄道 116
四日市鉄道 117
三重鉄道 118
松阪軽便鉄道/中勢鉄道 119
安濃鉄道/天理軽便鉄道 120
阪堺鉄道 121
赤穂鉄道 122
岩井町営鉄道/摂津鉄道 123
下津井電鉄 124
井笠鉄道 128
西大寺鉄道 132
中国鉄道稲荷山線 133
三蟠軽便鉄道 134
鞆軽便鉄道 136
両備軽便鉄道 138
神高鉄道/可部軌道 139
船木軽便鉄道/大日本軌道山口支社 140
住友別子鉱山鉄道 141
伊予鉄道 144
宇和島鉄道/愛媛鉄道 146
芦屋鉄道/鞍手軌道 148
北筑軌道/太宰府軌道 149
朝倉軌道 150
両筑軌道/中央軌道 151
筑後軌道/黒木軌道 152
南筑軌道 153
柳河軌道/三潴軌道 154
川上軌道/肥筑軌道 155
祐徳軌道/佐世保軽便鉄道 156
熊本軽便鉄道/菊池軌道 157
日出生鉄道 158
耶馬溪鉄道/宇島鉄道 159
日本鉱業佐賀関鉄道 160
宮崎県営鉄道/大隅鉄道 162
沖縄県営軽便鉄道 163
【人車軌道】
豆相人車軌道(熱海鉄道) 168
松山人車軌道 170
県営軌道庁南線
帝釈人車軌道 172
【馬車鉄道】
入間馬車鉄道・中武馬車鉄道 174
碓氷馬車鉄道 176
【簡易軌道】
問寒別線・幌延町営軌道 178
歌登線幌別線・歌登町営軌道 179
標茶線 標茶町営軌道 180
茶内線浜中町営軌道 181
風蓮線・別海村営軌道 182
【森林鉄道】
羽幌森林鉄道 184
早口森林鉄道ほか 185
千頭森林鉄道 186
木曽森林鉄道 187
魚梁瀬森林鉄道 188
沖の山森林軌道 189
【鉱山・炭鉱鉄道】
春採電車線 191
日立鉱山専用電気鉄道(助鉄) 192
紀州鉱山 193
明神電車線(一円電車) 194
【工事軌道】
客土工事軌道 197
東京市軽便鉄道 198
【工場軌道】
大和紡績出雲工場 200
【遊覧鉄道】
向ヶ丘遊園の豆汽車 204
【砂利採取軌道】
大塩組仙石工場 205
【製材所の軌道】
松本製材 207
【軍用鉄道】
陸軍鉄道連隊 209
【その他の軌道】
東京都水道局境浄水場
【コラム】
国鉄の軽便鉄道について 36
軌間について 41
日本鉄道事業 61
軽便鉄道の動力 63
軽便鉄道独特の単端式気動車とは 86
ドイツの名機・コッペル 110
レールの種類 135
軽便鉄道の連結器 147
軽便鉄道の車両メーカー 166
雨宮敬次郎と大日本軌道 169
海外の軽便鉄道 201
よみがえる軽便鉄道 212
全国ナローゲージ鉄道保存車両 219
全国人車軌道 219
全国馬車鉄道 220
全国軽便鉄道 222
 掲載対象が豊富であるため、目次を書き出しただけでも相当な分量となったが、動力車による旅客営業を行った鉄道だけでなく、森林鉄道や専用線も含めて、その代表的なものを幅広く紹介することが本書の目的であったことがよくわかる。
 取り上げるものが多かったため、一つの鉄道に関する記述は、限られているが、多くの軽便鉄道については、きちんと残された資料が乏しいという状況があると思う。特に私の住む北海道などは、軌道の中には、「かつて存在したと考えられる」というレベルのものまで存在する。それほど多くの軌道が敷かれ、いつのまにか消えていったわけである。だから、本書のような形で、写真が伝えられるものは、相応に恵まれていると表現することも出来そうだ。
 じっさい、森林鉄道、簡易軌道、鉱山、炭鉱や工場で使用された軌道などは、相当な数のものが存在していたわけで、そういった点で、より網羅的なものは、また別の資料を当たる必要がある。
 しかし、本書は、前述の目的に沿った書物としてとてもよく出来ている。なにより、軽便鉄道というものが総じてどのようなもので、何時ごろ、どのような役割を担っていたのか、というものが、俯瞰的によく把握できるようになっているし、紹介されている軽便鉄道の数も、本書の装丁を考えると、可能な限り掲載したという印象が強い。なので、その紙面をめくることは楽しいし、数々の貴重な写真を、よくぞこれだけ集めてくれたということには、正直感嘆する。
 個人的に欲しかったものとして、沿線の地図を掲載してほしかったと思う。これは、項目によっては簡略なものが記載されているのだけれど、是非とも地形図にトレースするようなもの、つまり「かつてこの場所を通っていた」ということを明瞭に示すものが欲しかった。現地探訪の際の楽しみも増すと思う。
 しかし、いずれにしても、これだけ貴重な写真と、多くの軽便鉄道の概要をまとめていただけたのは、とにかくありがたく、感謝したい一冊となっている。

軽便鉄道時代 (キャンブックス) 岡本 憲之著

レビュー日:2016.2.19
★★★★★ 先に刊行されていた「全国軽便鉄道」の改訂版といった内容です
 国内の軽便鉄道の権威である岡本憲之(1968-)氏による2010年編算の書。実は同じキャンブックスから岡本氏による「全国軽便鉄道」が1999年に刊行されていた。本書はその続編か、というとそうでもない。言ってみれば改訂版である。右開きだったものが左開きとなり、前回軽便鉄道に該当する様々な軌道を取り上げたものが、本書では旅客営業を行った鉄道に限定されている。キャンブックスからは2001年に「全国森林鉄道」が刊行されているから、かつて「全国軽便鉄道」に掲載された内容を、いくつかの本に分けて編算し直しているようにも思える。とりあえず、目次を書くが、取り上げられている軽便鉄道は、ほぼ先行する「全国軽便鉄道」に一度掲載されたものである。
本書で取り上げる軽便鉄道 4
あの日の昭和の情景が総天然色で蘇る“おもひで色”の軽便鉄道たち 6
全国の軽便鉄道 33
根室拓殖鉄道 34
早来鉄道 35
苫小牧軽便鉄道 36
日高拓殖鉄道 37
沙流軌道 38
鉄道院湧別軽便線 40
湧別軌道 41
十勝鉄道 42
河西鉄道 44
士別軌道 45
江当軌道 46
登別温泉軌道 47
小坂鉄道 50
十和田鉄道 52
岩手軽便鉄道 53
花巻電鉄 54
釜石鉱山鉄道 56
栗原鉄道 57
仙南温泉軌道 58
仙北軽便鉄道 59
仙北鉄道 60
仙台鉄道 62
金華山軌道 63
角田軌道 64
増東軌道 65
谷地軌道 68
信達軌道 69
日本硫黄沼尻鉄道 70
好間軌道 72
磐城炭礦軌道 73
日本鉄道事業軌道部 74
磐城海岸軌道 75
草軽電気鉄道 76
竜崎鉄道 78
笠間稲荷鉄道 79
村松軌道 80
鹿島軌道 81
下野電気鉄道 82
宇都宮石材軌道 84
赤見鉄道 85
上野鉄道 88
利根軌道 89
吾妻軌道 90
夷隅軌道 91
千葉県営鉄道多古線・八街線 92
九十九里鉄道 96
千葉県営鉄道久留里線 99
流山軽便鉄道 100
青梅鉄道 101
西武鉄道山口線 102
湘南鉄道 104
熱海鉄道 105
魚沼鉄道 109
栃尾電鉄 110
頸城鉄道 112
富士電気軌道 116
大日本軌道静岡支社 117
安倍鉄道 118
庵原軌道 119
堀之内軌道 120
静岡鉄道駿遠線 122
遠州鉄道奥山線 126
遠州軌道 128
西遠鉄道 129
坂川鉄道 130
三井金属鉱業神岡鉄道 132
西尾鉄道 134
東濃鉄道 135
黒部峡谷鉄道 136
立山軽便鉄道 138
武岡軽便鉄道 139
尾小屋鉄道 140
丸岡鉄道 144
石川鉄道 145
三岐鉄道北勢線 146
近畿日本鉄道内部・八王子線 150
四日市鉄道 154
松阪軽便鉄道 155
中勢鉄道 156
安濃鉄道 157
天理軽便鉄道 158
阪堺鉄道 160
摂津鉄道 161
赤穂鉄道 164
岩井町営軌道 165
下津井電鉄 166
井笠鉄道 168
西大寺鉄道 170
中国鉄道荷山線 172
三蟠軽便鉄道 173
鞆軽便鉄道 174
両備軽便鉄道 175
神高手有働 176
可部軌道 177
船木軽便鉄道 178
大日本軌道山口支社 179
住友別子鉱山鉄道 180
伊予鉄道 182
宇和島鉄道 184
愛媛鉄道 185
芦屋鉄道 187
鞍手軌道 188
北筑鉄道 189
太宰府軌道 190
朝倉軌道 191
両筑軌道 192
中央軌道 193
筑後軌道 194
黒木軌道 195
南筑軌道 198
柳河軌道 199
三潴軌道 200
川上軌道 201
肥筑軌道 202
祐徳軌道 203
佐世保軽便鉄道 204
熊本軽便鉄道 205
菊池軌道 206
日出生鉄道 207
耶馬溪鉄道 208
宇島鉄道 209
日本鉱業佐賀関鉄道 210
宮崎県営鉄道 211
大隅鉄道 212
沖縄県営鉄道 213
全国の軽便鉄道保存車両 216
あとがき 223
【Light Railway colum】 今でも軽便の客車に乗れる「丸瀬布森林公園いこいの森」 39
国鉄の狭軌軽便鉄道線 39
簡易軌道 48
線路の幅・軌間について 66
足尾銅山のガソリンカー 86
鉄道連隊と軽便鉄道 94
単端指揮ガソリンカーとは 98
豆相人車鉄道と熱海軽便の面影 106
人車鉄道 108
甦る軽便鉄道 頸城鉄道 114
森林鉄道 131
甦る軽便鉄道 尾小屋鉄道 142
ドイツ・コッペルの機関車 145
三岐鉄道北勢線のニューウェーブと「軽便鉄道博物館」 148
軽便鉄道の連結器 153
雨宮敬次郎と大日本軌道 159
明延鉱山の「一円電車」 162
甦る軽便鉄道「下津井みなと電車保存会」 167
馬車鉄道 186
九州の3フィートナローたち 195
軽便鉄道の動力車たち 196
サイズは違えど復活する軽便鉄道たち 214
 目次をご覧いただくとわかるように、今回は基本的に1ページで一つの鉄道を紹介する形となった。(「全国軽便鉄道」では1ページに1~2の鉄道を紹介していた)。そのため、情報量が増えたか、というとやや微妙で、文章はリライトされ、更新できる情報は更新されているが、基本的な情報量はそれほど変わらない。ただ、文字のサイズがやや大きくなっていることと、各鉄道の簡略な地図が掲載されていること、そして、写真も重複を避けたものが使用されていることなどから、ファンには、両書を双方とも持つ価値はあるだろう。というより、本書のようなものを購入する人は、おおかた鉄道に大きな興味を持っていると思うので、両方持っているのがいいだろう。
 「全国軽便鉄道」では項目を持って紹介されていた馬車鉄道、森林鉄道、人車鉄道、森林鉄道などが、コラムに押し込まれてしまった感はあるが、これらも、森林鉄道と同様に、項目別にキャンブックスが刊行してくれればありがたい。特に、簡易軌道については、まとめてくれている書物で入手可能なものはほとんどない状況なので、是非ともこのカテゴリで1冊作製してほしいと思う。
 さて、本書の紹介は「全国軽便鉄道」と重複してしまうのだけれど、旅客営業を行った代表的な軽便鉄道を一通り見渡すことが出来るもので、貴重な写真と併せて、私には感慨深い。情報量は限られているが、それゆえの読みやすさもあるので、本書の体裁を考えると適切な配分とも言える。
 本書では、各鉄道の駅名を掲載した簡単な路線図が付されたことがありがたいが、線形と駅だけでなく、これが地形図等にトレースしたものであれば、さらに良かったと思う。とはいえ、これだけ集約された情報と、美しい写真を併せて堪能できるというのは、めったにない機会であり、編集に携わった人々の労力に感謝したい。

軽便追想 高井薫平著

レビュー日:2017.7.6
★★★★★ 著者の熱意溢れる当時の取材力に感謝
 軽便鉄道、と聞いてもそれが何を意味するのか分かる人は少なくなった。70年代に生まれた私でさえ、いわゆる軽便鉄道を利用した記憶はない。
 全国に鉄道網が普及したころ、国鉄は軌間1,067mmという規格のレールを採用した。当時「標準軌」と呼ばれる線路幅である。実は、当時国際的にはすでに1,435mmという軌間がメインであったが、日本の場合、建設技術や、早急に鉄道を普及させるための資金的制約等から、1,067mmが採用されたのである。ちなみに、現在では大手私鉄の一部や新幹線が1,435mmであるが、その他のJR線等は1,067mmという規格である。
 軽便鉄道は、要するにそれより小さな規格の鉄道で、多いのが軌間762mmで、おおむね新幹線の半分の線路幅といったところだが、さらに軌間の狭い規格もある。
 軽便鉄道の線路は細く、線路の重量も軽い。当然のことながら、上を走る車両にも、速度や輸送量という点においても制約があった。その一方で、小さな回転半径で曲がることが出来るので、隘路や、交通量の少ないところの設置に適性があった。もちろん建設コストも抑えることができた。
 それで、かつて日本には、この軽便鉄道が各地ににぎにぎしく活躍していたのである。
 本書は、高井薫平(1937-)氏が1950年代から60年代を中心に、全国の多くの軽便鉄道を訪問し、撮影した写真と、関連する説明、それに資料からなっている。
 掲載対象の路線は以下の通り。
根室拓殖鉄道
十勝鉄道
花巻電鉄
小坂鉄道
仙台鉄道
仙北鉄道
日本硫黄沼尻鉄道
九十九里鉄道
草軽電気鉄道
栃尾電鉄(越後交通栃尾線)
頸城鉄道
静岡交通駿遠線
遠州鉄道奥山線
三重交通三重線・北勢線・松坂線
尾小屋鉄道
三井鉱山神岡鉄道
下津井電鉄
両備バス西大寺鉄道
井笠鉄道
日本鉱業佐賀関鉄道
(木曽森林鉄道)
 そして、末尾に資料として軽便鉄道概史が添えされている。
 取り上げられているものの中には、比較的最近まで鉄道としての営業形態を残していたものもあるが、いわゆる軽便鉄道としての旅客営業は、だいうたい70年代までには終焉を迎えている。
 そのようなわけで、この写真は、日本における鉄道史において、ほんの数十年間程度存在(しかし全国各地に)存在した軽便鉄道の実態の記録ということになる。これらの日本各地に分散する鉄道を、くまなく訪問しカメラに収めた著者の労力には頭が下がるが、その労力あってこそ残され、まとめられた記録であれば、併せて感謝の念がわきおこるのも自然のことだろう。
 それくらいに「いい写真」が多い。根室拓殖鉄道のユニークな銀龍号の姿、ボールドウィンの機関車が牽く小坂鉄道、日本硫黄沼尻鉄道のコッペル、草軽電鉄の愛らしい電気機関車、軌間610mmの神岡鉄道、・・しかし、そのような「車両等の記録」というだけでなく、鉄道をとりまく社会や地域、人々の生活といったものを様々に連想されてくれる写真が数多くある。鉄道と社会の結びつきを象徴するかのようだ。
 そして、軽便鉄道ではないがボールドウィンの蒸気機関車が活躍していたころの木曾森林鉄道の写真も収められている。ファンには有名で、写真等も様々に公開されているが、やはり味わいの深い鉄道であり、このようなところで併せて紹介してくれるのは嬉しい。
 簡単ながら路線図も付いている。これらの軽便鉄道は、通常規格の線路と比較して路盤が頑丈ではないこともあって、現在まで残る遺構というのはきわめて限られている。だから、路線図を見て、「こんなところに鉄道線があったのか」と驚かれる人も多いに違いない。失われた風景、かつてあった文化を現代に伝える貴重な一冊となっている。

新装版 軽便探訪 新井清彦著

レビュー日:2023.10.6
★★★★★ かつてあった貴重な鉄道文化の記録
 1927年生まれの新井清彦氏が記録した軽便鉄道の写真集。当アイテムは、2003年製本の初版に内容を追加し、さらに定価を廉価にして、2022年に「新装版」として、再販されたもの。初版と新装版の違いとして、表紙のデザインが変更されたほか、新装版には【追録】として糸魚川の「東洋活性白土専用線」が収録されている。そのため、初版が259ページなのに対し、新装版は271ページと、内容が増量された。加えて、価格もより低く設定されているため、フアンには、本当にうれしく、ありがたい再販となった。まず、収録内容として目次を転載したい。
【1】 仙北鉄道(宮城バス)  17
 動力車  17
 客車と貨車  22
 駅と構内  26
【2】 静岡鉄道 駿遠線  32
 新藤枝から堀野新田へ  33
 袋井から新三俣へ  40
 蒙古の戦車  45
 DD501  48
 気動車  50
 客車  60
 貨車  74
 静岡鉄道駿遠線を読んで(堤一郎)  76
【3】 神岡鉄道  78
 猪谷構内と沿線  78
 機関車  82
 無蓋車  86
 緩急車と2軸有蓋車  90
 客車  93
 沿線風景とタンク車  96
 ボギー有蓋車  100
【4】 日本硫黄 沼尻鉄道  102
 川桁から沼尻へ  103
 機関車  116
 単端  119
 客車  122
 貨車  130
【5】 北海道の簡易軌道  134
 <1>別海町営軌道・風蓮線  134
 <2>浜中町営軌道  140
 <3>幌延町営軌道  144
 <4>標茶町営軌道  148
 <5>歌登町営軌道  150
【6】 越後交通 栃尾線  154
 機関車・電車  156
 客車・貨車  160
【7】 秋田営林局 五城目営林署杉沢林道  164
【8】 北海道の客土軌道  170
【9】 尾小屋鉄道  192
 沿線と機関車  193
 気動車・客車・貨車  196
【10】 花巻電鉄  200
【11】 住友金属鉱山 別子鉱業所専用鉄道  206
【12】 井笠鉄道  212
 機関車・気動車  214
 客車・貨車  217
【13】 建設省・立山砂防軌道  220
【14】 下津井電鉄  226
【15】 頸城鉄道  234
 沿線を往く  234
 機関車  242
 気動車  250
 客車・貨車  252
-カラーグラフ-
仙北鉄道(宮城バス)  1
静岡鉄道 駿遠線  2
日本硫黄 沼尻鉄道  5
別海町営軌道風蓮線  8
幌延町営軌道  10
標茶町営軌道  11
歌登町営軌道  12
浜中町営軌道  14
秋田営林局 五城目営林署杉沢林道  16
北海道の客土軌道  177
尾小屋鉄道  178
花巻電鉄  180
住友金属鉱山 別子鉱業所専用鉄道  182
井笠鉄道  184
立山砂防軌道  186
下津井電鉄  188
頸城鉄道  190
【追録】 東洋活性白土専用線  258(2022年の新装版のもののみに収録)
 目次において、「カラーグラフ」として挙げられたページ以外は白黒印刷となっている。
 「軽便鉄道」とは、線路の幅が、通常より狭い鉄道群のことである。
 日本では、JR線等に代表される主要な鉄道線は、レール間幅が1,067mmの規格が用いられている。このレール間幅は、一般的な人が、なんとなく体感しているものより狭いもので、例えば、「レールと電車の絵を描いてみてください」というお題があった場合、たいていの人は、実際の比率よりもレール間幅が広い絵を描いてしまう。実際、国際的には、より広い1,435mmというレール間幅が一般的で、日本でも新幹線の他、私鉄線や路面電車などでも、このサイズを採用している場合が結構ある。「軽便」は、逆にレール幅が一層狭い鉄道のことを指す。これも様々な規格が存在するのだが、もっとも多いのが、レール間幅が762 mmという規格だ。(このあたり、この本に興味のある人には、当たり前の話かもしれませんが・・・)。この「軽便鉄道」は、線路を敷く場所が狭隘であったり、あるいは計画される輸送量が大きくない場合などに採用され、かつては、日本のあちこちで、かわいらしい姿で活躍していた。
 というわけで、当書は、著者が、1960~70年代に、全国の線路幅の小さい鉄道を対象に記録した写真をまとめたものとなる。これらの記録が貴重なのは、記録の数そのものが少ない対象が多いためである。この時代は蒸気機関車の最後の時代と重なっており、多くの鉄道フアンは、去り行く蒸気機関車の記録と、新しい時代の到来を告げる新規車両に注目し、決してメジャーな存在ではなかった軽便鉄道を精力的に訪れ、そして記録しようという人は少なかった。それでも、最近は、そのような記録が、書籍化されるケースも増えてきたと思う。趣味の多様化ということもあるだろう。おかげさまで、私も、様々に楽しませていただいているが、この新井氏の記録も、本当に素晴らしいものの一つで、鉄道趣味というだけではなく、当時の日本の地方における産業やくらしを切り取った歴史的風景とも言えるものになっていると思う。取材範囲も全国を広く覆っているほか、特殊な用途のものも含まれている。また、著者が訪問時にスケッチしたものに基づく重要な鉄道機能をもつ操車場や停車場の配線等もあちこちで紹介されており、これもまた記録として、高い価値を有するに違いないものだ。
 私は、特に北海道の鉄道について、いろいろ調べる趣味があるので、本書の項でも、特に「北海道の簡易軌道」と「北海道の客土軌道」に見入った。これらは、共に北海道にのみ存在した鉄道の形態で、「簡易軌道(殖民軌道)」は、北海道の開拓期に敷設され、拠点と開拓の前線とを結び、物資や旅客の輸送に供された鉄道である。1920年代以降、馬鉄線も含めると36もの路線が存在し、1946年には総延長が600kmを越えたが、時代とともにその役目を終え、1972年の浜中町営軌道の廃止により、その歴史に終止符を打った。現在では、開拓の貢献や、北海道特有の文化性があらためて見直され、北海道遺産に選定されており、いくつか保存施設もある。本書では、その最終期まで活躍した5つの路線が取り上げられている。中でも「幌延町営軌道」は、廃止直前に、私の父が訪問していることもあり、思い入れ深く拝見させていただいた。
 「客土軌道」もまた、北海道特有の事情がある。北海道は、現在では日本の食糧生産基地といってよい農業生産を上げているが、その平地部の多くは、本来、泥炭地や火山灰地が多く、それらの土地は、水持ちが悪く、湿潤なため、地温は上がりにくく、肥料養分の保持力に乏しいため、生産性の低いものだった。そのため、灌漑、排水、客土を組み合わせた土壌改良が必須であった。対象となる土地があまりにも広汎であったことから、1950年移行、北海道の各所において「軌道客土」が行われた。これは、稲作や畑作に適した土を、土取場から圃場地帯に、軌道を用いて大量運搬する大規模土木工事で、北海道の40以上の自治体で、多くは道営の形をとり、軌道を用いた客土が行われたのである。この軌道は地味な存在だ。唯一東神楽の例を除いて、地形図に記載されていないし、路盤跡は圃場に再整備するため、役目を終えると軌道跡の痕跡をほとんど残さないからである。しかし、本書を見れば、その醸し出す独特に雰囲気に惹かれる鉄道フアンは多いのではないか。私は、この客土軌道について、興味をもち、資料等を集めているのだが、新井氏の記録は本当に素晴らしいものだ。客土軌道のうち、東神楽と知内のものは、70年代まで蒸気機関車が運用されていたこともあり、いくつかフアンによる記録があるが、本書で、新井氏はディーゼルカーによる作業場の様子を紹介してくれている。現在の北海道の豊かな土壌がいかに形成されたかという意味でも貴重な記録で、是非、多くの人にご覧いただきたいと思う。
 他にもマニアックなものとして、「建設省・立山砂防軌道」も、希少な記録の一つになるだろう。そのほか、軽便鉄道の象徴的な存在とも言える全国各線の記録も、著者ならではの視点で、見事な写真になっている。車両の写真による記録も大事だが、沿線風景の情感の豊かさも、当時ならではのものが伝わってくる。
 残念ながら、新井氏は、本書の初版刊行ののち、亡くなられてしまい、鉄道関係の書籍としては、これ1冊のみとなってしまった(氏は、鉄道以外にも、ランの栽培の分野でも著名で、それに関する書籍が別にある)。これほどの記録を残された方であれば、間違いなく他にも大事に仕舞われていたものがあったに違いない。それを思うと無念であるが、それでも、この書籍が出版され、その恩恵にあずかれることが出来たのは、私にとって喜びであった。

ナローの散歩道 岩堀春夫著

レビュー日:2024.3.27
★★★★★ 鉱工業の全盛期を支えた「狭軌専用軌道」たちの貴重な姿
 鉄道写真家、岩堀春夫(1954-)氏による写真集で、「ナローの散歩道」と題して、狭軌特殊鉄道を対象としている。本書に興味のある方には言わずもがなであると思うが、「狭軌」とは、線路幅が狭い鉄道全般を指す。一般に、旧国鉄線であるJR線の線路幅は1067mmであるのに対し、狭軌は、762mmや610mmといったものが多い。また、現在の国際的分類では、1067mmも「狭軌」となっており、その場合は、新幹線等で用いられる1435mmより小さいものがすべて狭軌となる。「ナロー」とは狭軌の軌道を指す。これは軽便鉄道法に基づいて敷設され旅客営業を行った「軽便鉄道」も含まれるが、「狭軌」「ナロー」「軽便鉄道」といった言葉の定義は様々であり、使用される場所や背景によって、変わりうるところである。
 本書の対象は、いわゆる古典的な定義による狭軌で、線路幅が762mmや610mmの軌道で、なおかつ事業所内に敷設されていたものとなる。
1) 太平洋炭鉱(北海道)  10
2) 新宮商行(北海道)  22
3) 三井芦別炭鉱(北海道)  26
4) 日鉄鉱業 尻屋鉱業所(青森県)  34
5) 日本粘土鉱業 岩手鉱業所(岩手県)  46
6) 住友セメント 栃木工場(栃木県)  54
7) 建設省 立山砂防工事事務所(富山県)  60
8) 松本建設(長野県)  72
9) 大谷鉱山(京都府)  78
10) 住友金属 安治川口/尼崎(大阪府/兵庫県)  94
11) 明延鉱業(兵庫県)  100
12) 鋼管鉱業(岡山県)  110
13) 住友金属鉱山 別子銅山(愛媛県)  114
14) 四国鉱発 白木谷鉱業所(高知県)  122
15) 三井三池炭鉱(福岡県)  128
16) 日鉄鉱業 津久見鉱業所(大分県)  132
17) トンネル工事  136
18) 鉱山のナロー保存機  144
 6~9の4ページにカラー印刷された写真が掲載されており、他はすべて白黒。
 撮影が行われたのは70年代末から80年代にかけてである。本書の発刊は1991年で、当時、撮影対象の半分以上は現役とのコメントがあるが、おそらく投稿日現在で、軌道が残っているのは、住友金属のものだけではないだろうか。私も情報をタイムリーに把握しているわけではないので、もし間違っていたら、申し訳ないが。
 いずれにしても、これらの風景は、現在では、ほぼ国内から失われた、もしくは消えつつある風景と言って良いだろう。軌道を用いた運送の効率性が相対的に価値を下げたということ以上に、これらの鉱業全般が、輸出品との競争等の背景で、整理縮小される分野であったことが大きい。
 それにしても、撮影された写真が伝える雰囲気は、特有のものがあり、無性に魅力を感じる人もおおいだろう。その魅力を説明することは難しいが、一つの産業の機構の中に組み込まれた機能性を重視して、風景に組み込まれながら、その小ささゆえの箱庭的・模型的風合がいかにも愛おしいものであると私は思う。鉱工業特有の重厚なストラクチャとの共存、狭軌ならではの小さな曲線半径、細い線路が勾配や斜面、周辺環境に即して特徴的な線形を描くさまは、軌道系運送機関に興味を持つ者にとって、愛すべき対象であることは、広く共感をもって受け入れられるところではないだろうか。
 また、これらの写真が貴重であるという背景には、その多くが事業所の敷地内で撮影されているという点がある。当然のことながら、事業を担う側は、鉄道写真家のために軌道を運行しているわけではない。それなりの手続きや許可を経て撮影を行う必要がある。許可の得られなかった事業所もあったということで、その結果、この写真集のような形で、後世に伝えられる機会を永遠に喪失した軌道風景も、無数にあったであろう。それを想像して楽しむも、好事家の嗜みとは言え、本書のように素晴らしい伝い手によって記録されること以上に素晴らしいことはない。ひなびた積込み場の風景、細かく分岐を重ねる線路、産業を支える小さな機関車たち、そのどれもが、非常に美しくとらえられており、思わず何度も見返してしまう一冊になっています。

知られざる鉄道 リニアモーターカーからトロッコまで200選 (JTBキャンブックス)

レビュー日:2016.11.29
★★★★★ 鉄道趣味の辺縁にスポットライトを当てたマニアックな一冊
 鉄道紀行作家として知られた宮脇俊三(1926-2003)氏は、国鉄線全線乗車を果たしたのち、1978年に鹿島臨海鉄道が国鉄鹿島線の鹿島神宮-北鹿島貨物駅間の貨物線に乗り入れて旅客営業を開始したさい、「国鉄線全線完乗」の国鉄線の定義について、著作の中で思索を巡らせている。「果たして、これに乗らなかった場合、国鉄線全線完乗ではなくなってしまうのか」と。もちろん貨物専用線を旅客として利用することはできない。しかし、他社線とはいえ、旅客列車が走行するのであれば、これは「全線完乗」の対象となるのではないか。その思考を繰り広げる中で、例えば国内全鉄道制覇と枠を拡充するとどのようなことが起きるのか、思いを巡らす。スキー場のリフト。これも索道と呼ばれる鉄道の一種として、地形図には記載される。すると、全鉄道を制覇するためには、スキー場をめぐって、リフトに全部乗らなくてはならないことになってしまう。
 この検証、明瞭な結論は導かれなかったのだけれど、私は面白く読んだ。以来、スキー場に行くと、私は全ゴンドラと全リフト、(ついでに全コース)を制覇したくなるという性向を持つようになった。鉄道趣味由来の嗜好傾向であり、同行者にあまり理解されない行動であるということが、良くわかった。
 実際、鉄道の趣味を広げ、その歴史などに対象が及ぶと、取扱いが難しかったり、正規の記録の少ない暫定的存在のものに接することとなる。その趣味領域の辺縁は、霞んで定かではない。
 例えば、私の住む北海道で言えば、「よみがえる北海道の鉄道・軌道―昭和20~50年代」で掲載された1957年(昭和32年)8月の雄別鉄道の車窓から「偶然発見し」撮影された河川整備等のために臨時で敷設された軌道の写真、小林實氏が著作「十勝の森林鉄道」で、個人的情熱によって報告をまとめられた十勝地方の中小河川の工事に活躍した軌道、そして、蒸気機関車も投入された東神楽の客土工事については、星良助氏の「北国の汽笛3」で写真が紹介されているほか、鉄道ファン誌でも報告されたことがあるもの。これらは、鉄道の本来的な目的とは別の実に刹那的な存在。いかにも「知られざる」ものたちだ。
 他にもある。私は、今年、三重県の御在所岳に登山したのだが、湯の山温泉で宿泊した際、あたりを散策していて、面白いものを見つけた。工事用の軌道、それもモノレールである。山の急斜面を這い、建設作業に必要な物資を運搬するための簡易なレールが、林の中、架空線のように伸びていた。残念ながら稼働する姿は見れなかったが、その姿をまじまじと眺め、写真を撮影した。他の観光客は、みな素通りしていたが。。
 かように、相応の目と趣味を持つものによっては、この辺縁というか、ちょっと変わった、しかし鉄道と定義できる運送手段というのは、なかなかに興味深いものなのである。本書は、そのような視点を広げてくれる興味深い本。基本的にメジャーなものを網羅的に集めているが、それでも、なんともB級な香りがあちこちにただよっているのが面白い。1997年の刊行なので、情報としては20年近く前のものだが、趣味の辺縁にあるものたちの姿として、とても気持ちをくすぐるものなのである。
 以下、収録対象。
第1章 ユニークな鉄道
南部縦貫鉄道/大井川鉄道井川線[アプト式鉄道]/嵯峨野観光鉄道嵯峨野観光線
第2章 今も残るナローゲージ
近畿日本鉄道 北勢・内部・八王子線/黒部峡谷鉄道/屋久島の森林鉄道/京都大学農学部演習林芦生軌道/太平洋炭礦釧路鉱業所/釜石鉱山/栃原鉱山/赤谷鉱産赤谷鉱業所/新八茎鉱山/奥多摩工業氷川鉱山/神岡鉱山/松島炭鉱池島鉱業所/立山砂防工事軌道/関西電力黒部専用鉄道 上部線/水口建設資材運搬軌道/佐藤工業急勾配機関車/ばんえい競馬場の軌道/岩村町の手押し軌道(岐阜県岩村町)/佐々木養魚場/丸中商店(酒屋)
 <“色つき”写真でしのぶ 思い出の軽便鉄道>
花巻電鉄/仙北鉄道/越後交通栃尾線・頸城鉄道/九十九里鉄道/草軽電鉄/静岡鉄道駿遠線/尾小屋鉄道/下津井電鉄/井笠鉄道/木曾森林鉄道・杉沢森林鉄道/幌延町営軌道・別海町営軌道
第3章 専用鉄道・専用線
旭川通運/小名浜製錬/紀州製紙紀州工場/電気化学工業青梅工場/日鉄鉱業東鹿越鉱業所/ホクレン中斜里製糖工場/大昭和製紙白老工場/室蘭開発/酒田臨港開発/日本通運(漆山駅)/住友大阪セメント広田サ-ビスステーション/秩父小野田安積永盛倉庫/電気化学工業新発田サ-ビスステ-ション/栃木県北通運/北館林荷扱所/安中運輸/奥多摩工業/相模運輸倉庫/東レ三島工場/くみあい運輸(篠ノ井駅)/電気化学工業根上サ-ビスステ-ション/国見山石灰鉱業/四日市周辺の専用線/住友大阪セメント伊吹工場/関西フレートサービス(浪速駅)/日本電気硝子/王子製紙米子工場/大王製紙専用線/宇部鉄道輸送/三井三池鉄道/臨海鉄道グラフィティ/貨物鉄道
第4章 遊園地のおとぎの列車
テイネオリンピア弁慶号/りんどう湖ファミリー牧場/東武動物公園イースタントレイン/東京ディズニーランド/ひなた村鉄道/世田谷区立ミニSL/ハローあずみ野ボールドウィン号/野辺山SLランド/浜寺公園/馬路村復元鉄道/マイントピア別子/市倉ファーム/ゴールドパーク串木野
第5章特殊鉄道
 <1> ケーブルカー
青函トンネル記念館竜飛斜坑線/筑波山鋼索鉄道/高尾登山鉄道/御岳登山鉄道/箱根登山鉄道鋼索線/大山観光電鉄鋼索線/伊豆箱根鉄道駒ヶ岳鋼索線/伊豆箱根鉄道十国鋼索線/立山開発鉄道鋼索線/立山黒部貫光鋼索線/比叡山鉄道/京福電気鉄道鋼索線/鞍馬寺鞍馬山鋼索鉄道/丹後海陸交通/京阪電気鉄道鋼索線/近畿日本鉄道西信貴鋼索線/近畿日本鉄道生駒鋼索線(宝山1号2号線・山上線)/南海電気鉄道鋼索線/六甲麻耶鉄道六甲ケ-ブル線/六甲麻耶鉄道麻耶ケーブル線/能勢鉄道(妙見ケ-ブル)/四国ケーブル(八栗ケーブル)/屋島登山鉄道(屋島ケーブル)/帆柱ケーブル/別府国際観光別府ラクチンケーブル線/対星館/ホテル祖谷温泉/馬路村水力式ケーブルカー/その他のケーブルカー/貨物用ケーブルカー
 <2> モノレール
東京モノレール羽田線/小田急電鉄向ヶ丘遊園モノレール線/多摩都市モノレール/名古屋鉄道モンキーパークモノレール線/大阪高速鉄道大阪モノレール線/北九州高速鉄道小倉線/沖縄都市モノレール/千葉都市モノレール(タウンライナー)/東京都交通局上野懸垂線/湘南モノレール江の島線/ゴルフ場のモノレール/ミカン畑のモノレール
 <3> 案内軌条式鉄道
札幌市交通局/山万ユーカリが丘線/埼玉新都市交通伊奈線/西武鉄道山口線/東京臨海新交通臨海線/横浜新都市交通金沢シーサイド線/桃花台新交通桃花台線/[名古屋ガイドウェイバス・ガイドウェイバス志段味線]/大阪市交通局南港ポートタウン線/神戸新交通ポートアイランド線/神戸新交通六甲アイランド線/広島高速交通広島新交通1号線/岐阜グルフカントリー谷汲/関西国際空港ウイングシャトル/新東京国際空港シャトルシステム
 <4> トロリーバス
関電トンネルトロリーバス/立山トンネルトロリーバス
 <5> リニアモーターカー
山梨リニア実験線/宮崎リニア実験線/HSST大江実験線
 <6> リニア地下鉄
東京都交通局12号線/大阪市交通局長堀鶴見緑地線
 <7> ロープウェイ
函館山ロープウェイ/湯沢温泉ロープウェイ/榛名山ロープウェイ/筑波山ロープウェイ/箱根ロープウェイ/晴遊閣大和屋ホテル夢のゴンドラ/あわしまマリンパーク海上ロープウェイ/名古屋鉄道内海ゴンドラ/立山黒部貫光立山ロープウェイ/吉野大峯ケーブル自動車/特殊索道/十津川村の野猿
 <8> その他の特殊軌道
2H軌条(仮称)/新幹線の踏切/地下鉄の踏切/トラバーサー/平面交差(クロッシング)/3線軌条(デュアルゲージ)/トラック改造レールカー
専用線一覧表/遊覧鉄道一覧表/鋼索鉄道一覧表/その他の鋼索鉄道一覧表/単軌鉄道(モノレール)一覧表/その他の単軌鉄道(モノレール)一覧表/案内軌条式鉄道一覧表/索道(ロープウェイ)一覧表

編集長敬白 名取紀之著

レビュー日:2016.8.30
★★★★★ 多くの「鉄道ファン」に支持されているブログ記事の一部を書籍化したものです
 1986年からは、鉄道雑誌「Rail Magazine」の編集長を務める名取紀之氏は、現代日本を代表する鉄道趣味人で、その名取氏が、2005年6月から開始したのが「編集長敬白」というブログ(一方向性で発信のみ)である。
 このブログ、鉄道ファンにはすっかりおなじみのもので、というのも、何か趣味に関することで調べたいことがあり、検索キーワードを打ち込んでみると、ブログのどこかのページがヒットする、ということがたびたびあるからだ。それくらい、そこで提供される情報は、量が多く、専門性に富み、写真等と併せて、鉄道趣味人の「知りたい」という欲求にこたえるものとなっている。
 本書は、そんなブログから、代表的な記事を取り出し、情報を追加した上で「書籍化」したものである。ネット上で見れるものを書式化することは、保存性などの点でも価値あることであるが、膨大な情報の集積した当該ブログを、今からくまなく見ることはどうしても労力を消耗することであり、そのような意味で、そのエッセンスの部分を抜き出してくれた本書によって、どのような情報が発信されているか、俯瞰的に見れる価値が高いと言えるだろう。
 以下、本書の目次を記載する。
均一周遊券の時代。
太平洋石炭販売輸送を訪ねる。
犬釘の犬顔。
「档案」のこと。
遥かなり千葉鉄聯。
アッペンツェラー・バーンの残り香。
“鐘撞き”の踏切。
新日鉄「くろがね線」瞥見。
“Japan Rail Pass”をご存知ですか?
千歳鉱山の“双合くずれ”。
「旧版地形図」を手に入れるには…。
最後の木造国電。
どっこい生きている「気象告知板」。
1号機関車の「惜別感無量」。
香港トラムを借り切る。
グーとパー、バッファーの話。
単独ファインダーの魔力。
阪神の奇怪な電動貨車たち。
夷隅軌道の転車台。
「フォトラン」とは?
最初で最後の“Sn”
戦後60年。消えゆく遺構。
ドキュメント 交通博物館最後の日
交通博物館・感謝とお別れの集い。
衝撃!安比奈はED14だった!
“ハイグレード車輛”E655系に試乗。
人吉機関庫で「97式」発見!
シャロン、アライアンス、そして…。
そろそろ出番です。
“ボールドウィン”の広報誌。
年のはじめはドコービル詣で。
「鋏痕」とは…。
32年前の“今日”へ。1974年北海道の旅
 写真、文章の量が手ごろで、とにかく読みやすい、という印象。また、抽出された記事も、名取氏の思い入れのより強いものであると感じさせるものたちで、発見の喜びや、意外な切り口での語りかけ、鉄道文化に深く精通した氏ならではの視点や考察があって、とても楽しい。「均一周遊券の時代」では、当時の各地区の周遊券を、また「鋏痕」の記事では、首都圏の主要駅のパンチの形が掲載してあって、他では得難い資料的な価値という点でも、貴重な内容。言ってみれば、一冊の本になった鉄道博物館といった趣である。また、「旧版地形図を手に入れるには…」のように、実用的な記事もおさめられたのは、単行本にふさわしい。
 それにしても、個人的にたいそうな思い入れをもって読んだのは、末尾に収録された「32年前の“今日”へ。1974年北海道の旅」である。これは名取氏が学生時代の1974年、3月23日から4月6日にかけての北海道旅行を、それぞれ32年後の同じ日付に公開した内容で、都合15日分の記事となっている。
 1974年という年は、蒸気機関車の最後の時代であり、残っていた蒸気機関車の多くが北海道で活動していたため、多くのファンが、これを撮影するために、北海道を訪問していた。それにしても、現在の様に移動自体の利便性が高いわけではない。このころの北海道は、まだ主要道路の中にも未舗装の道路が多くあり、3月末から4月初めであれば、多くの地域がまだ深い雪に覆われていたころである。そんな中、当時の若者が、蒸気機関車にどれほどの情熱をかけていたか、それがとても伝わる文章(と写真)になっている。
 広大な北海道を、鉄道を駆使して移動し、夜も何日かの例外を除けば、ほとんどを夜行で過ごす。食事をとる時間もなかなか確保できないなかで、深夜、早朝の乗り換えを繰り返す。時に雪の中で撮影対象の訪れを2時間待ち、時にわずかな間隙を縫うように列車を乗り継ぐ。各地でストの情報や、列車運行の情報を、次々と入手しては、スケジュールを調整し、地形図で調べていた撮影ポイントに向かう。時に数キロの道のりを雪の中歩いていく。
 現在の様に携帯電話のような便利なツールがないから、起床のアラームがなく、早朝の乗り換えを何度か失敗し、そのたびにスケジュールを調整する。それだけではない。時間の確認、切符の予約など、一つ一つのことが、現代とは比較にならないほど労力を要することだった。その一方で、当時、同じような人たちが北海道に集結していたため、そこで様々な人と交流し、再会し、情報交換し・・・。まさに趣味世界の一つのオープンワールドを文字通り周遊する情熱家たちの姿が良く記録されている。また、どこで何をいくらで食べたなどの記録もされていて、そのことも当時を彷彿とさせる情報である。
 数多くの当時撮影した写真が掲載されているが、文字情報と併せて、実に内容の濃い味わいのあるものとなっている。何気ない描写、例えば「留萌線の朝一番の下り列車から見る朝日は格別」のような表現も、これほどの経験を伴った人による、なおそれから38年を経て出てきた言葉だと思うと、実に重みがある。
 もう一つ、私が、この北海道の記事から様々に思うところがあるのは、私の父が1969年から75年にかけて、蒸気機関車を中心に北海道中で撮影をしており、ごく最近になって、その写真の存在を私が知り、デジタル化の上、ホームページで公開などをしてきたからでもある。その作業の過程で、当時の鉄道にかけるファンの情熱を知り、それだけのものがこの地にあったのだということに感じ入った。そういった意味で、名取氏の記載には、ときおり自分の父を重ねるところもあり、感慨深かったというわけ。なお、私が開設したホームページのアクセス数は、月単位で千数百件くらい。1日に1万、多い日には2万ものアクセスがあるという編集長敬白のブログには、後塵を拝するばかりである。

雄別炭礦鉄道50年の軌跡 (1983年)  大谷正春著

レビュー日:2016.3.30
★★★★★ 著者の思いが伝わる、学術的でありながら、情緒を感じさせる貴重な一冊
 道東の釧路市から、釧路湿原の南方をかすめ、阿寒町を抜けて雄別炭鉱までを結んだ雄別鉄道は、この地の開発の象徴であった。現在の釧路市では、鉄道跡を転用した雄鉄通りが主要道路としての地位をなしている。また、釧路から阿寒までは鉄道跡はサイクリングロードとして残され、さらに阿寒町には雄鉄と炭礦を記念した「炭鉱と鉄道資料館」があって、その裏には雄別鉄道で活躍した蒸気機関車C1165が静態保存されている。加えて、釧路市内にあり、かつて雄鉄新釧路駅に接していた釧路製作所は、雄鉄車輛の保守整備に携わったのだが、今もその中庭には「新釧路駅」の駅名票と、雄別鉄道で活躍した蒸気機関車8722号機が静態保存されている。
 斯様に、雄別鉄道は、地域の人にとって、その記憶がいくつかの形として残されるべき存在であった。また、雄別鉄道では様々な機関車や貨車が活躍していたため、往年の鉄道ファンにとっては、最果ての地のあこがれの存在という認知も広かった。
 しかし、北海道の多くの鉄道が辿ったように、雄別鉄道もエネルギー変革に伴う急激な社会情勢の変化に翻弄され、炭礦会社の倒産とともにその命運と共にする他なかった。これらの鉄道の場合、開発と同様に廃止も短い時間の出来事であって、鉄道を支える組織自体が一気に解体されてしまうため、どれほど地域に貢献し、人々の記憶に残っていても、ほとんどまっとうな記録が残されないことが多い。
 ところが、雄別鉄道に関しては、幸いにも同鉄道の経営に深く係った大谷正春氏の手によって、廃止から十数年を経た1983年になって、本書が編算されることとなる。大谷氏は東京生まれ。兵役、シベリア抑留を経たのち、雄別鉄道、釧路製作所に入った。本書が鉄道資料として高い価値を有するのは間違いないが、それに加えて氏の文章からは、雄別鉄道に対する限りない思いが伝わってくる。
 まえがきから抜粋させていただこう。「未開の僻地であった釧路、阿寒に地域開発のパイオニヤとして、大正12年(1923年)1月17日雄別鉄道が営業を開始してから廃業する迄の48年間、地域産業の発展と沿線住民の交流に及ぼした影響は量り知れないものがあった。時が移り世が変わって地域の開発が進むにつれ、雄別鉄道もより充実し、近代化されて順調な歩みを続けて来たが、エネルギー革命の波に押し流された雄別炭礦KKの倒産は、炭礦とその命運を共にする炭礦鉄道の宿命として昭和45年(1970年)2月27日の雄別閉山の後を追い、同4月15日をもって此の鉄道はその歴史を閉じたのであった。(中略)今後の参考として同鉄道に関する残存する諸資料も可能な限り纏め収録することにより、本書をもって雄別鉄道の鉄道線に関する墓碑銘とするものである。」
 実際、会社の倒産、鉄道の廃止という急転直下の事態を経て、離散したであろう資料をまとめ、また関係者を訪ねなおしての記録の補正は、相当な労力を要するものだったと考える。本書に記載された各施設の配線図などは、当時の関係者が記憶を掘り起こしながら記載した手稿であり、まさに当時の大谷氏の活動なくしては永遠に失われていたものだろう。そのような意味で、本書の価値は計り知れないものがある。
 内容のわかるものとして、目次を転載させていただこう。(右端の数字はページを示す)
1. まえがき  1
2. 沿革  3
3. 雄別本線
 (1) 概要  13
 (2) 線路状況  17
 (3) 停車場  31
 (4) 保安  51
 (5) 橋梁  52
 (6) 踏切  54
 (7) 施設  56
 (8) 運行状況  67
4. 鳥取側線  123
5. 埠頭線  130
6. 水面貯木線  147
7. 鶴野線  151
8. 大祥内専用線  166
9. 車輛
 (1) 機関車  178
 (2) 客車  238
 (3) ディーゼル動車  261
 (4) 貨車  292
10. 鉄道廃業  348
11. あとがき  378
 鉄道の情報としては、ほぼすべてを網羅していると言って良いもので、その構造の詳細、そして各所で貴重な写真が紹介されている。車輛も所有した車輛が一通り写真付で紹介されているほか、詳細な尺を示す図面が残っていたものについては、それらも記載してある。ちなみに、巻末にはカラー印刷された記念切符(見本)が4枚綴ってあるのも、私のような読み手には嬉しいものだ。
 著者は廃止後13年たって、やっとこの書の出版まで漕ぎつけたそうだが、その間にも雄別鉄道と炭礦の痕跡は風化し、その「自然への帰化現象」の強力さに目を見張るという内容の記載をされている。この「未開の地へ戻る」現象は、現在まで北海道全域を覆うものであり、その地に住む者にとって、様々なことを考えさせる著者の感慨であろう。
 最後に、釧路を出て雄別炭礦に向かう列車からの車窓を記した一節を紹介したい。北海道の大地を走った在りし日の鉄道に思いを馳せるのに、これほどの文章はなかなかないと思うから。
 「一面のよし原の湿地帯の中で進行方向の左手には遥かに太平洋が見え海岸線を走る国鉄列車との競争風景も間々見られ、また右手は面積2,000万ヘクタールと言われ一面に拡がった釧路湿原の先には何一つ遮るものもなく、雄阿寒、雌阿寒の山容がくっきりと眺望され、阿寒富士の麗姿や雌阿寒火口より立登る噴煙も車窓を楽しませて呉れる自然のパノラマ風景であった。」

雄別炭礦鉄道50年の軌跡 (1984年 増補版)  大谷正春著

レビュー日:2020.5.20
★★★★★ 著者の思いが伝わる、学術的でありながら、情緒を感じさせる貴重な一冊
 道東の釧路市から、釧路湿原の南方をかすめ、阿寒町を抜けて雄別炭鉱までを結んだ雄別鉄道は、この地の開発の象徴であった。現在の釧路市では、鉄道跡を転用した雄鉄通りが主要道路としての地位をなしている。また、釧路から阿寒までは鉄道跡はサイクリングロードとして残され、さらに阿寒町には雄鉄と炭礦を記念した「炭鉱と鉄道資料館」があって、その裏には雄別鉄道で活躍した蒸気機関車C1165が静態保存されている。加えて、釧路市内にあり、かつて雄鉄新釧路駅に接していた釧路製作所は、雄鉄車輛の保守整備に携わったのだが、今もその中庭には「新釧路駅」の駅名票と、雄別鉄道で活躍した蒸気機関車8722号機が静態保存されている。
 斯様に、雄別鉄道は、地域の人にとって、その記憶がいくつかの形として残されるべき存在であった。また、雄別鉄道では様々な機関車や貨車が活躍していたため、往年の鉄道ファンにとっては、最果ての地のあこがれの存在という認知も広かった。
 しかし、北海道の多くの鉄道が辿ったように、雄別鉄道もエネルギー変革に伴う急激な社会情勢の変化に翻弄され、炭礦会社の倒産とともにその命運と共にする他なかった。これらの鉄道の場合、開発と同様に廃止も短い時間の出来事であって、鉄道を支える組織自体が一気に解体されてしまうため、どれほど地域に貢献し、人々の記憶に残っていても、ほとんどまっとうな記録が残されないことが多い。
 ところが、雄別鉄道に関しては、幸いにも同鉄道の経営に深く係った大谷正春氏の手によって、廃止から十数年を経た1983年になって、本書が編算されることとなる。大谷氏は東京生まれ。兵役、シベリア抑留を経たのち、雄別鉄道、釧路製作所に入った。本書が鉄道資料として高い価値を有するのは間違いないが、それに加えて氏の文章からは、雄別鉄道に対する限りない思いが伝わってくる。
 まえがきから抜粋させていただこう。「未開の僻地であった釧路、阿寒に地域開発のパイオニヤとして、大正12年(1923年)1月17日雄別鉄道が営業を開始してから廃業する迄の48年間、地域産業の発展と沿線住民の交流に及ぼした影響は量り知れないものがあった。時が移り世が変わって地域の開発が進むにつれ、雄別鉄道もより充実し、近代化されて順調な歩みを続けて来たが、エネルギー革命の波に押し流された雄別炭礦KKの倒産は、炭礦とその命運を共にする炭礦鉄道の宿命として昭和45年(1970年)2月27日の雄別閉山の後を追い、同4月15日をもって此の鉄道はその歴史を閉じたのであった。(中略)今後の参考として同鉄道に関する残存する諸資料も可能な限り纏め収録することにより、本書をもって雄別鉄道の鉄道線に関する墓碑銘とするものである。」
 実際、会社の倒産、鉄道の廃止という急転直下の事態を経て、離散したであろう資料をまとめ、また関係者を訪ねなおしての記録の補正は、相当な労力を要するものだったと考える。本書に記載された各施設の配線図などは、当時の関係者が記憶を掘り起こしながら記載した手稿であり、まさに当時の大谷氏の活動なくしては永遠に失われていたものだろう。そのような意味で、本書の価値は計り知れないものがある。
 内容のわかるものとして、目次を転載させていただこう。(右端の数字はページを示す)
1. まえがき  1
2. 沿革  3
3. 雄別本線
 (1) 概要  13
 (2) 線路状況  17
 (3) 停車場  31
 (4) 保安  51
 (5) 橋梁  52
 (6) 踏切  54
 (7) 施設  56
 (8) 運行状況  67
4. 鳥取側線  123
5. 埠頭線  130
6. 水面貯木線  147
7. 鶴野線  151
8. 大祥内専用線  166
9. 車輛
 (1) 機関車  178
 (2) 客車  238
 (3) ディーゼル動車  261
 (4) 貨車  292
10. 鉄道廃業  348
11. あとがき  378
 鉄道の情報としては、ほぼすべてを網羅していると言って良いもので、その構造の詳細、そして各所で貴重な写真が紹介されている。車輛も所有した車輛が一通り写真付で紹介されているほか、詳細な尺を示す図面が残っていたものについては、それらも記載してある。ちなみに、巻末にはカラー印刷された記念切符(見本)が4枚綴ってあるのも、私のような読み手には嬉しいものだ。
 著者は廃止後13年たって、やっとこの書の出版まで漕ぎつけたそうだが、その間にも雄別鉄道と炭礦の痕跡は風化し、その「自然への帰化現象」の強力さに目を見張るという内容の記載をされている。この「未開の地へ戻る」現象は、現在まで北海道全域を覆うものであり、その地に住む者にとって、様々なことを考えさせる著者の感慨であろう。
 なお、本書には「1983年版」と「1984年版」の2版がある。本アイテムはその後者である。
 当1984年版では、末尾に「1983年版の出版直後に発見された追加資料」について、43ページ分の捕稿が加えられている。その内容は1923年3月~1931年9月列車発着時刻或いは列車度数変更に係る資料である。発着時刻等は黒焼で不鮮明ではあるが、読み取ることは可能である他、これらの資料に基づいた大谷氏によるスジも紹介されており、ギリギリで散逸を逃れた実に貴重かつ運命的な歴史資料である。
 最後に、釧路を出て雄別炭礦に向かう列車からの車窓を記した一節を紹介したい。北海道の大地を走った在りし日の鉄道に思いを馳せるのに、これほどの文章はなかなかないと思うから。
 「一面のよし原の湿地帯の中で進行方向の左手には遥かに太平洋が見え海岸線を走る国鉄列車との競争風景も間々見られ、また右手は面積2,000万ヘクタールと言われ一面に拡がった釧路湿原の先には何一つ遮るものもなく、雄阿寒、雌阿寒の山容がくっきりと眺望され、阿寒富士の麗姿や雌阿寒火口より立登る噴煙も車窓を楽しませて呉れる自然のパノラマ風景であった。」

尺別鉄道 50年の軌跡 大谷正春著

レビュー日:2020.4.2
★★★★★ 鉄道資料としてだけでなく、学術的にも、歴史的にも貴重な1冊
 音別町(いまは合併して釧路市の一部)にあった根室線の尺別駅という小駅が、2019年3月16日をもって、ひっそりと旅客営業を終了した。  私がはじめてこの駅を訪れたのは、2月のある日だった。太平洋に接する砂丘地帯と内陸の湿原地帯の間。そこに小さな集落が残っていて、西日を浴びた駅舎があった。信号場の機能をもっていたため、駅舎は思いのほか大きかったが、人の気配の少ない雰囲気の中、どこか在りし日を思わせるような郷愁を湛えていた。
 そう感じたのは、私がこの駅の繁栄の歴史を知っていたからなのかもしれない。かつて、この駅を基点とした炭鉱鉄道が存在していた。雄別炭礦尺別炭礦鉄道(以下尺別鉄道)である。
 尺別鉄道は、運炭を目的として敷設された鉄道で、その開業は1920年にさかのぼる。当時のちに尺別駅が開設される尺別岐線と尺別炭鉱を結ぶ11.7kmを軌間762mmの軽便鉄道が結んだ。1942年には軌間1,067mm、10.8kmの専用鉄道に改軌と線形改良を施され、「雄別炭礦尺別炭礦鉄道」の名称で運用されるようになる。この年には、十勝国の浦幌炭鉱と尺別炭鉱の間に、尺浦通洞が開通し、浦幌炭鉱で産出される石炭も搬送するようになる。戦時期の休止を挟んで、採炭、鉄道運行は継続されたが、エネルギー変革の流れとともに、国内産炭の需要は下がり、尺別炭鉱は1970年に閉山を迎え、鉄道もこれと運命をともにした。
 本書は、尺別鉄道の廃止後、同鉄道の経営に深く係った大谷正春氏の手によって、廃止から十数年を経た1984年に、尺別鉄道の前身である軽便鉄道も含めて、その歴史や概要がまとめられたものだ。大谷氏は東京生まれ。兵役、シベリア抑留を経たのち、雄別鉄道、釧路製作所に入った。
 まず本書の大要として、その目次を転載したい。
1. まえがき  3
2. 沿革  4
3. 軌道時代
  (1) 施設の概要  7
  (2) 運行状況  11
  (3) 車輛  13
    イ 蒸気機関車  15
    ロ 運炭台車  17
    ハ 客車  17
  (4) 軌道の週末  18
4. 専鉄、地鉄時代
  (1) 新線建設  20
  (2) 施設の概要  24
  (3) 運行状況  32
  (4) 車輛  75
    イ 蒸気機関車  75
    ロ 客車  108
    ハ 貨車  132
5. 鉄道廃業  140
6. あとがき  154
 尺別鉄道では、北海道の同時代の様々な運炭鉄道がそうであったように、様々な蒸気機関車が運用されたが、その存在がいまいち地味だったためか、ファンによる報告は多くはない。鉄道誌における唯一まとまった報告と思われるものが鉄道ピクトリアル誌通巻173号(1965年7月増刊号)における小熊米雄氏によるものである。この報告は、鉄道の沿革と歴史、敷設された駅の一覧、運用されている蒸気機関車と車輛の写真を交えた紹介と、たいへん充実したものであるが、他の資料は乏しい。
 そのため、この大谷氏の貴重な情報を詰め込んだ1冊は、貴重この上ない歴史資料なのである。
 氏の著作として、本書の姉妹作といえる雄別鉄道をまとめた書物がある。尺別鉄道は雄別鉄道と比較すると、鉄道の規模は小さく、また資料など残されたものが限られていたこともあって、本書は「雄別鉄道 50年の歩み」と比較すると量的なものは少なくなっているのであるが、しかし、軽便鉄道時代も含めて、可能な限り知りうるものを記したというもので、他に代わるものがない。
 炭礦の坑外平面図、軌道と鉄道の線形図、各種資料とそれらの解説、そして著者である大谷正春氏が撮りためた蒸気機関車や車両の写真が掲載されている。写真が紹介されている蒸気機関車としては、7212(当初、浦幌炭鉱の運炭のため、下浦幌-常豊22kmの鉄道計画のため購入された3両の7200形のうちの1両)、茂尻でも活躍したコッペル製の10形2輌、101号、2400形2411号、1310形1311号、2120形2196号、C12形12001号、C1256など多様。どれも個性的で魅力がある。
 また鉄道視点の他にも、当時の石炭産業の背景などが、あちこちで垣間見れるのも本書の特徴であろう。
 そんな尺別鉄道であるが、その最後の記述は、やはり私には胸に来るものがあり、引用させてもらおう。
・「年末から翌45年(1970年)1月に掛けて労使交渉が行われた結果、2月には諸般の事情から雄別鉄道KKを再度合併し、2月27日付をもって全山閉山、全員解雇することが決定された。
・閉山の話は尺別地域居住者に衝撃を与え、従業員やその家族の動揺は甚だしかったが、高度成長期であった経済環境に支えられ、逐次転職先も決定して行き、閉山日を迎え全員解雇退山となった。
・ただ残務整理のため所要の従業員は作業終了迄の間、臨時雇用されることとなり、尺鉄関係者も残留要員となって、退山する人員荷物の輸送のため4月15日迄業務に就くこととなった。
・この時点で尺別保有車輛は推移表のとおり機関車3輌、客車は借入車を含め5輌、貨車は17輌であった。(炭鉱の処分予定資産一覧表では貨車11輌となっていて実数と喰い違うがこの間の事情は今となっては解明出来ない)
・閉山の翌日から石炭輸送が無くなった尺鉄は臨時ダイヤを組み、全線に亘って客車を連結し、山を去っていく人々を荷物と共に送りだす最後の務めを一抹の淋しさの中で続けることとなった。
・この間3月14日には運輸大臣宛地方鉄道運輸事業の廃業申請書を提出し4月6日付で此の許可を受けたので、4月16日以降廃業する旨の届出を行った。
・なお国鉄から借地となっていた尺別駅構内側線用地については3月31日付で借地期限が切れて仕舞うため、一ヶ月の継続を願い出ている。
・尺別炭砿の工業財団組成物件の一部である尺鉄資産は、借入金の返済資金に充当されるため、総て屑鉄として業者に売却されることになった。
・4月15日岐線から新尺への最終列車をもって列車運行を停止し、翌16日からは雄鉄借入車も含めた鉄道資産の処分が初められ、新尺構内に集められた車輛群は総額2,141,250円で売却され逐次解体屑鉄化されて行った。
・また施設関係の中で国道38号踏切施設については補助事業で取得しているため、此の処分については申請認可を受けると共に、尺別駅構内の国鉄線との連絡個所の分岐を撤去し原形復旧を行い、新たに布設した軌条等は国鉄に無償譲渡した。
・一方書類関係は閉山後廃業に関する諸申請のものを除くと鉄道課固有のものは炭鉱清算の業務に関係が無いため、逐次廃棄焼却され、殊に4月16日以降は、日報用紙の果に至る迄総てのものが灰にされて諸資料が短時日の間に失われた。
  ・確かに当時の尺別関係者の心情として過去の総てを灰にして仕舞う気になったのも無理の無い事と思うが、事務所の棚の上にあった機関車台帳等貴重なものが灰になったのは残念なことであった。
・尺別の鉄道資産関係処分は車輛の解体から早いテンポで進められ、7月には一部の建物を除いて軌条から枕木の果てに至る迄殆どその姿を消して仕舞い、尺別鉄道半世紀の歴史の幕を閉じたのであった。」
 個性的な蒸気機関車たちが屑鉄となり、また貴重な資料たちが灰になっていった事実が繰り広げられることは、著者のようにこの鉄道を愛した人物にとってどれほど苦しいことだったろうと思う。そして、以上の文言の末尾に、紙片を継ぎ足して以下が本書の最後で語られている。
 「廃業後10年を経た現在、曽っての軌道敷も新尺迄の間は新尺炭住街と同様殆ど牧草地に変り、橋台や新尺給水槽架台等構造物基礎のほか建物としては、新尺保線道具小屋が残骸を残しているのみで、新尺~炭山間の軌道敷は雑草に覆れ橋台のみ残り、炭山の風景も僅に炭山駅舎が荒れ果てた姿で残っているほか、諸建物が無くなって基礎コンクリートが残るのみとなり、周囲の自然が徐々に範囲を拡げ開坑前の姿へと復帰しつつあって、訪れる者とてない坑口附近には熊の足跡が多数見られる様になり、往時の繁栄を偲ぶ何物も残っていない。」
 淡々と記載されているが、炭礦が閉山し、鉄道が廃止され、それか10年がたって、人の来なくなった草深き山の中を、ひとり訪ねた著者の気持ちが、私にはひしひしと伝わってくるのである。

鉄道讃歌 けむりプロ著

レビュー日:2016.8.31
★★★★★ 半世紀近くの時を経て蘇った芸術作品
 しばしばヒコーキに乗る機会がある。私の場合、年に数回、仕事や私用で利用する。たいていの場合、席に着くと、前の座席についたポケットに、冊子が挟み込んであって、あちこちの美しい風景や、郷土色ある行事が紹介されている。目的地に着く間、これをパラパラと見ているのだけれど、きれいに編集してある一方で、「これをきかっけに何処かに行ってみたことは、自分にはないな」と感じる。
 旅への誘い。それは、人によって千差万別あって当然だろう。しかし、現在の様に旅行が手軽なものではない時代に、鉄道ファンたちを駆り立てた冊子や写真があったことを思い出した。
 「けむりプロ」は、1960年代に7人の学生によって結成された鉄道写真家の集団だ。彼らの写真、そして文章は、ある意味、鉄道ファンたちの「旅立ち」を必然として宿命づける力のあるものだった。1970年の「鉄道ファン」誌第9号で、彼らは道東の3つの町(標茶、浜中、別海)に残った簡易軌道(軽便鉄道)の写真を紹介する。それらの写真は、広大な大地の中、かろうじてつながっているような細い線路をゆく鉄道をとらえたもので、その写真が持つ詩情、訴える力は比類ないものだった。そこには、以下のような文章が添えられていた。
 「われわれの求める鉄道の魅力は,極端には大型蒸機の魅力と,軽便の魅力とに分けることができます.軽便に対する魅力が大型蒸機のそれと決定的に相違する点を述べれば、まず軽便があのもの寂しいか弱さの故に,われわれの愛を喚起すること,それに一見なんのとりえもない軽便を訪れた後に,ふとよみがえる思い出が「ああ,そうだったのか」と自分の行動を納得させてくれるような独特の説得力を持っていることがあげられます.大型蒸機を見る時のような刹那的な心の高まりではありません.道床いっぱいに敷きつめられた草のジュータンに細いレールがなよなよと続き,ところどころでは列車の油で汚れていたり,レールの上の木の枝が煙で黒くなっていたりして,心たのしい情景は尽きるところを知りません.こういうわけで,たとえ蒸機がいなくても,軽便ならばきっと何かがあるはずだと思ってしまうのです.」
 「多くの鉄道風景と共に,この軌道も消えようとしています.私達が蒸機をすべて失った日に,それでもなお豊かな鉄道情景を思い起こすために,か細きレールを歩き,何気ない自然とありふれた人々の生活に触れることは,決して無駄なことではないと思うのです.」
 「あなたが鉄道に求めるものはいったい何なのか,自分の心を探って見るには絶好の材料です.もし何も探り当てる自信がないとしても,とりあえず“ミルクを飲みに来ませんか”.」
 私も、よく旅に出る。その多くは、鉄道との何らかの接点を求め、知りたい、見たい、撮りたいという自分の欲求や好奇心を節目とする行動だ。そんな旅の動機にある「何か」を、写真・文章の組み合わせで表現し、人をひきつける力を持った「作品」、それが彼らの写真集である。それにしても、写真とともに添えられた文章が良い。集乳のための車両を運行していた軌道の様子を紹介し、鉄道ファンに“ミルクを飲みに来ませんか”と呼びかけるところなど、なんと粋なことか。
 1970年に出版された「鉄道讃歌」は、そんな彼らの初の本格的な写真集であり、代表作の一つでもある。まず、参考までに目次を記載しよう。
序説
上芦別物語
貝島炭鉱
8100抄
軽便のこと
 くびきのこと
 きそしんのこと
 こさかのこと
忘れ得ぬ機関車たち
 クラウス兄弟 10/1400
 9046
 PITTSBURGH
 BROOKS
 H.K.PORTER
 8700
 大宮/本江/楠木
台湾の鉄道について
台東線
508ミリゲージ
基隆炭鉱
砂糖会社の機関庫について
阿里山鉄道
THE HIMALAYAN TWO-FOOTERS
補記
 彼らのターゲットは、前に引用した通り「蒸気機関車」であり「軽便鉄道」である。しかし、当時すでに国内の蒸気機関車は、北海道を除けばほとんどが世を去っていた。そのため、彼らは素材を求めて台湾、インドの山奥まで赴いた。
 本書の特徴は、その写真の素晴らしさは当然として、高い格調と詩情に富んだ文章、センスに溢れたデザインの地図、それらを組み合わせた構図の見事さにあり、総じて素晴らしい芸術作品となっているのである。
 彼らは、蒸気機関車の魅力を以下の3点に集約して述べている。
 ・「生きもの感」;テンダーの汗、疲れ果てては水を飲み、時々排泄し、登り坂ではあえぎ、下り坂になればケロリとし、生きていれば暖かく、死んでしまえば冷たくなってしまう。これほど何かを感じさせる機械は他に無かった。
 ・「自然風土との調和」;山も川も一直線でブチ抜くような線路よりは山肌に沿って等高線に逆らわず自然なカーブを描いている線路の方が魅力的であることにも気づきました。
 ・「人間社会との調和」;機関士や庫の人々はもとより、その鉄道に係わる人間社会との調和。
 当然のことながら、選ばれた写真は、これらの要素を多角的、多様的に体現したものとなっている。
 「けむりプロ」の結成は1964年のことだと言う。彼らは上芦別の三菱鉱業専用線に残る2機の9200に会うため、真冬の1月2日に現地を訪れる。その時、あまりに感動が大きかったことから、「写真集を作る」ことを決意したという。本書の冒頭を飾る「上芦別物語」は、その際の写真と記録をまとめたものだ。
 上芦別の写真は、先行して1969年に刊行された冊子「SL No.2」でもやはり「上芦別ものがたり」と題して、紹介されている。そちらの写真も見事なものなのだが、ここでは、彼らの感動を伝える文章を、当該冊子から引用の上、記載させていただこう。
 「一日だけでも機関車と共に過したいと考えた私達は,この給水塔の中に泊ることにした.北海道では真冬になると給水塔の水が凍るので,一日中たえまなく火をたいて水を暖めているのである.円柱形のコンクリートでできたうす暗い給水塔の中に入ると,中央にストーブがあり,そのまわりに石炭と長椅子が一つ,そして入口のそばには上からパイプが下がってきていてそこから給水塔の水が出るようになっていた.私たちはその9200の飲む水で炊事をし,その石炭の上に寝袋をひいて泊ることにした.」
 「この夜の給水塔の下に佇む9200の美しさを私達は生涯忘れはしないだろう.冷気はおしげもなくそのスチームを純白色に輝かし,高いヤードのサーチライトは幾千万もの小雪を通して9200のつややかなボイラーを照らしていた.ゆらゆらと巨体からスチームをもらしながらピットに灰を落とすと9200は静かに庫の中に入っていった.9201と9237の2両が庫の扉から顔を出している様は正に圧観だった.」
 「私達はあらゆる機関車の生きた姿をとらえようとした.一番列車の朝焼けにくっきり浮ぶ9200のシルエットは,たとえようのない美しさだった.夕暮れを過ぎ空が濃紺に染まったころ山に向って出発する9200は,キャブからもれる光を,雪やドレーンの上に青白くおとし時折り火室からもらす赤い光で,パットとあたりを照らしながら私達の前を通り過ぎていった.真白に凍りついた動輪のすき間からピットに落ちる黄色く赤い灰の色,月夜の晩に給水塔の下で佇むときのキャブからもれるうすいあかい光,夕焼けのときフロントビームにぶら下がったヤードマンが静かに振るカンテラの青い色,鉄橋の先の上り勾配をはげしくあえぐドラフトの音,短く出発を知らせるホイッスルの音…」
 「これらの美しい鉄道情景のいづれをも私達の未熟な写真技術ではとらえることができなかったが,しかし何としても感動的なシーンの連続であった.私達はその瞬間瞬間にあぁあれだとその感動の存在を確かめあった.実に機関車は生きている,表情がある,無言で黙々と働いてはいるが思わず「いいなぁ」と声をかけずにはいられない様な気持が私達にはするのだった.」
 鉄道ファンが持つ感性を見事に表現した文章である。また、機関車に「生命」を感じることについて、以下の印象深い文章がある。
 …私は数年前の木曾の蒸気機関車感謝祭を思い出していた.おはらいをすませた神主が皆なに向かってこう言った.「蒸気機関車をただの鉄のかたまりと考えず生命あるものとして可愛がり,今日こうしてささやかな感謝祭を営林署の方々が行ってくれた事は宗教の東西を問わず,信仰の道を行く者として大変うれしく思います」こう言って列席した宣教師のビークマン氏と固く握手をしたのであった…
 名機9200の最後の地であった上芦別も、彼らの訪問の3か月後に永遠に姿を消すこととなる。空知川を渡っていた、川面から15mの高さの鉄橋も、爆破解体されてしまう。給水塔の中の消えたストーブに「昭和39年3月23日三菱上芦別炭砿死す」とチョークで書いてあったという。
 けむりプロの活躍は、おりからの蒸気機関車ブームに支えられたという側面があったとはいえ、当時の若者ならではの視点と、良質な情熱によって発展し、実を結んだものである。この写真集が、40数年を経て復刻されたことは、心の底から歓迎したい。なお、参考までに、巻末に示されている北海道の掲載鉄道(1962~66)の一覧を示しておく。
三菱鉱業 上芦別鉄道
茅沼炭化工業専用線
寿都鉄道
定山渓鉄道
日曹炭鉱 天塩鉱業所専用鉄道
藤田炭鉱 小石工業所専用線
北海道炭鉱汽船 真谷地-平和鉱業所専用鉄道
明治鉱業 昭和鉱業所専用鉄道
雄別鉄道
日本甜菜製糖 美幌、磯分内工場専用線
明治鉱業 西庶路鉱業所専用線
 また、本書は復刻版であるため、記載はすべて当時のままで、巻末には「昭和46年10月10日 再版発行 ¥2,400」と刻印されていることを、参考までに申し添えます。

北国の汽笛〈1〉北海道の鉄道1956~1959―星良助写真集

レビュー日:2017.5.18
★★★★★ 「鉄道王国」だった北海道の貴重な記録 1
 小樽市在住の鉄道写真家、星良助(1935-)氏が撮りためた貴重な写真が、「北国の汽笛」と銘打って全4冊のシリーズとなっている。全ページが白黒で、基本的に1ページに2~3枚の写真を紹介する形。第1巻には1956-59年に撮られた写真が、以下のようにまとめられている。
【国鉄】小樽の鉄道/手宮線/函館本線(函館‐小樽)/函館本線(小樽‐札幌)/札幌付近/北海道各線/客車貨車
【私鉄】札幌市交通局/定山渓鉄道/寿都鉄道/夕張鉄道/三井芦別鉄道/天塩鉄道/羽幌炭礦鉄道/北海道拓殖鉄道/十勝鉄道/雄別鉄道/根室拓殖鉄道/函館市交通局
【その他】北海道炭礦汽船美流渡専用鉄道/三井鉱山奈井江専用鉄道/茅沼炭化工業専用鉄道/日本セメント上磯専用鉄道/専用線その他/札幌営林局/北海道簡易軌道 当別線
 同時期の北海道の鉄道をテーマとした写真集としては、広田尚敬(1935-)氏の名作「昭和三十四年二月北海道」がある。西暦では1959年となる。その写真集で、広田氏は、「現代の日本人が認識する地球上のどの国よりも、当時の人たちにとって北海道は、はるかに遠い所だったのです。」と記述している。この時代の北海道は、道路整備もままならず、冬季の移動手段と言えば、ほとんど鉄道のみであり、しかも開拓の名のもとに、実質的な先遣隊が、各地に入殖を行っているような状況で、天候によっては運行もままならず、少なくとも冬季に首都圏の人が旅行に行くようなところではなかった。
 その一方で、この時代の北海道は「蒸気機関車の王国」とも呼ばれていた。全国的には、1956年(昭和31年)に最新鋭気動車であるキハ44800形が準急「日光」の運行を開始。東海道線は全線電化され、1957年には仙山線、北陸線といった地方にも電化は波及、ついに1958年には東京‐九州を結ぶ夜行寝台特急「あさかぜ」に電車が登場する。そのような時代変化が急速に進む中にあって、北海道では蒸気機関車たち、特に古典機があちこちで活躍していた。
 そのような状況であったから、当時、北海道に住み、くまなく各地で写真を撮影してきた星氏の功績は、計り知れないものがあると言って良い。とくに50年代中期~後期のもので、これほど、北海道の鉄道に関する写真をまとめて拝見できるものは、他にはなかなか思い当たらないのである。
 蒸気機関車で言えば、かつて特急燕を牽いたC51(1965年運用中止)がまだ健在で、函館線で活躍する姿が収められている。函館線ではD50の貴重な写真も見ることが出来る。また、地方の私鉄たちの貴重な車両たち、古典型蒸気機関車や、レールバスたちの姿も収められている。全般に写真は車両を中心としたものが多く、貨車なども車両にターゲットを絞ってまとめられたものが掲載されており、資料的な価値は様々に高い。美流渡、奈井江、茅沼、寿都など、ファンには言わずもがなの鉄道たちも押さえられており、これ以上のものは見つけるのは難しいと思うほど。
 札幌市電は当時の催しに際して運用された記念車両なども掲載されていて、当時の街並みと併せて、時代の風を様々に感じ取ることができる。
 また車両と別に、個人的に特に感銘を受けた写真として、旧手宮機関庫の素晴らしい雰囲気のある姿、余市臨港鉄道の駅舎後、台風のため運行休止となってしまった殖民軌道当別線の姿を挙げたい。もちろん、その他にも、貴重で美しい写真ばかりであり、これらのデータが散逸することなく、書物にまとめられたことを、なにより慶賀と感じる一冊となっています。

北国の汽笛〈2〉北海道の鉄道1960~1961―星良助写真集

レビュー日:2016.12.5
★★★★★ 「鉄道王国」だった北海道の貴重な記録 2
 小樽市在住の鉄道写真家、星良助(1935-)氏が撮りためた貴重な写真が、「北国の汽笛」と銘打って全4冊のシリーズとなっている。全ページが白黒で、基本的に1ページに2~3枚の写真を紹介する形。第2巻には1960-61年に撮られた写真が、以下のようにまとめられている。
【国鉄】国鉄の話題/小樽の鉄道/札幌/函館本線/道央・道南/道東・道北/客車・貨車
【私鉄】札幌市交通局/定山渓鉄道/夕張鉄道/三菱大夕張鉄道/美唄鉄道/羽幌炭礦鉄道
【その他】三菱鉱業 芦別専用鉄道(上芦別鉄道)/油谷工業所専用線/日曹炭鉱 天塩鉱業所専用線/藤田炭鉱 宗谷鉱業所 専用線/北海道炭礦汽船 真谷地礦専用鉄道/雄別炭礦鉄道 茂尻鉱業所専用線/三井鉱山 美唄鉱業所専用線/東洋高圧 北海道工業所専用線/運輸鉱業・泰和車両/日本製鋼所 室蘭製作所専用鉄道/富士製鐵 室蘭製鐵所専用鉄道/貨物側線のスイッチャー/主夕張森林鉄道/根室拓殖鉄道
【資料】星良助 著作一覧/富士製鐵 室蘭製作所専用鉄道 機関車改番表
 北海道の各地に様々な用途の鉄道がめぐり、古典蒸気機関車をはじめとする個性的な車両がひしめいていた時代。なおかつ、北海道は主要道路でさえ、多くがまだ未舗装であった時代に、各所を回り、精力的に撮影された貴重な記録である。しかし、時は旅を積極的に促進する時代になっており、国鉄の話題として、週末快速「たるまえ」やスキー臨「ニセコ」、ディーゼル特急「おおぞら」の試運転などについて、写真と併せて紹介がんされている。国鉄線の蒸気機関車では、C51、D50がなお姿をとどめながら、室蘭線ではC58、C57、岩見沢、宗谷線のC55、そして各所のD51と9600など、この時代ならではの華やかさが楽しい。また、相生線、胆振線、日高線といったローカル線も被写体となっている。
 また、本巻では、芦別の三菱鉱業 芦別専用鉄道と油谷工業所専用線が紹介されている。前者は、1964年にけむりプロの面々が訪問し、その際の成果を上芦別物語としてのちに「SL No.2」(1969年)、そして最近復刻された名作「鉄道讃歌」(1970)にまとめることとなる端緒となった鉄道であり、本書では、そのさらに数年前の記録を見ることが出来る。(撮影されているのは、9613、103、2650など)。また、真谷地、茂尻、美唄など、私の父が70年代はじめごろに、足しげく撮影に通った場所であり、そういった意味でも思い入れたっぷりに拝見させていただいた。
 札幌市の桑園付近にあった運輸鉱業や泰和車両の様子は、ほとんど紹介されることもないので、こちらも貴重なこと、この上ない。さらに、最果て感のある藤田炭鉱の鉱業所全景、今さらのように廃止が惜しまれてならない定山渓鉄道が夏の陽射しの中を進む姿など、とても抒情的で美しい瞬間が記録されている。
 今ほど移動が簡単ではないこの時代に、北海道全域を行動域とし、これほどの写真を残せた著者の行動力には恐れ入るが、その貴重な成果が、本書のような形でまとめられたのは、とてもうれしい。

北国の汽笛〈3〉北海道の鉄道1962~1964―星良助写真集

レビュー日:2016.12.5
★★★★★ 「鉄道王国」だった北海道の貴重な記録 3
 小樽市在住の鉄道写真家、星良助(1935-)氏が撮りためた貴重な写真が、「北国の汽笛」と銘打って全4冊のシリーズとなっている。全ページが白黒で、基本的に1ページに2~3枚の写真を紹介する形。第3巻には1962-64年に撮られた写真が、以下のようにまとめられている。
【国鉄】
国鉄の話題
「狩勝」「はまなす」の増発/手宮線旅客営業廃止/小樽の列車/洞爺駅に改称/蒸機急行「大雪」の最後/小樽始発になった「はまなす」/函館本線の列車/臨時海水浴列車/北海道鉄道記念館/小樽市内高架工事
国鉄各線
客車・貨車
【私鉄】札幌市交通局/定山渓鉄道/夕張鉄道/旭川電気軌道/留萠鉄道/雄別炭礦 尺別鉄道/寿都鉄道/函館市交通局
【その他】豊羽鉱山専用鉄道/日本セメント 上磯工場専用鉄道/北海道炭礦汽船 美流渡礦専用鉄道/明治鉱業 庶路鉱業所専用鉄道/日本甜菜製糖 磯分内工場専用鉄道/北日本製紙 江別工場専用鉄道/七重浜・伊達紋別・富士製鉄/農地開発機械公団/旭川土木現業所 東神楽客土事業所
【資料】北海道の駅スタンプ/編者あとがき/北国の汽笛2 正誤表
 当巻も様々に注目したいものがある。まずは寿都鉄道。この鉄道、その晩年は経営が非常に厳しく、冬期間の運行がめったにないような状態となっていた。そのような中、1968年の豪雨による河川増水で路盤が流出し、運行休止、そのまま廃止となってしまった。和歌山から札幌に移り、1969年から蒸気機関車の写真を撮り始めた私の父が、「寿都鉄道には行きたかった」と言っていたが、その理由は、茅沼炭化工業専用線から寿都鉄道に移り、最後まで活躍していた8100の存在がある。星氏は所属する鉄道愛好会のメンバーと一緒に寿都鉄道を訪れた模様。かように寿都鉄道は蒸気機関車ファンには外せない路線であったが、不幸にも天災に見舞われ、私の父はその姿を見る機会を失ってしまった。そのため、残された写真を見るのは、私には感慨深いが、そうでない人であっても、その美しい機関車の姿は感動的であろう。ちなみに、紀行作家の宮脇俊三(1926-2003)も、寿都鉄道のことを「なぜ乗っておかなかったのだろう」と悔やんでいた。函館線の黒松内から寿都湾の港町に至る線形は、地図で見ても旅情を誘うもの。
 本書に話を戻して、特に貴重な画像として、定山渓鉄道の錦橋駅を起点としていた豊羽鉱山専用鉄道の姿、そして、地形図に掲載されることのなかった東神楽客土事業所による客土事業のため敷設された線路を走る蒸気機関車の姿を挙げよう。前者は現役時の写真を紹介される機会自体がほとんどない。後者の客土事業については、星良助氏が1963年6月号の「鉄道ファン」誌に、地図とともに1ページの報告を寄せている。その報告によると、道庁が軌道を用いて客土を行っているところが(当時)全道で19カ所あり、そのうち東神楽と知内では8~20トンの蒸気機関車が使用されていたとのこと。昭和28年日立製の蒸気機関車には「土改C101」「土改C102」のプレートが付けられていた。本書では、その貴重なCタンク蒸気機関車の写真が紹介されている。なお、1963年6月号の「鉄道ファン」誌のマップを見ると、東神楽の客土事業は1,067mmの軌道により行われ、その路線は2か所で旭川電気軌道の線路と平面交差によりクロスしていたとのこと。さらに旭川電気軌道の終点である東川周辺では、別に軌間762mmの鉄道が敷設され、こちらではディーゼル機関車が客土作業に従事していたという。かように瞬間的しか存在しなかった貴重な鉄道も、写真として記録されたことは、たいへん価値のあることである。
 刹那的な風景ということでは、本書には、小樽市内の函館線高架化工事の際の写真、完成時の写真も掲載されている。これもほんの一時期みられた鉄道風景と呼ぶにふさわしいだろう。高架工事の横の狭い空間を行き交う列車たちの表情を見ることが出来る。
 他にも、美流渡、上磯、庶路、磯分内など、貴重で良い写真が数多く収録されているが、ファンには巻末に収録された当時の北海道の各駅の旅のスタンプも楽しいものとなっている。

北国の汽笛〈4〉北海道の鉄道1965~1981―星良助写真集

レビュー日:2016.12.5
★★★★★ 「鉄道王国」だった北海道の貴重な記録 4
 小樽市在住の鉄道写真家、星良助(1935-)氏が撮りためた貴重な写真が、「北国の汽笛」と銘打って全4冊のシリーズとなっている。全ページが白黒で、基本的に1ページに2~3枚の写真を紹介する形。第4巻には1965-81年に撮られた写真が、以下のようにまとめられている。
【国鉄】
国鉄の話題
電化工事/特急「北海」誕生/室蘭本線不通迂回運転/夏休みカメラ紀行/NHK連続ドラマ 旅路ロケ/小樽‐滝川間 電化開業/義経としずかご対面/小樽築港機関区/北海道 鉄道90周年/千歳線 新線切り替え/義経号到着/電車特急試運転/北海道 鉄道100年記念
国鉄各線
客車・貨車
【私鉄】札幌市交通局/定山渓鉄道/旭川電気軌道/函館市交通局/美唄鉄道/夕張鉄道/三菱大夕張鉄道/苫小牧港開発 苫小牧臨海鉄道
【その他】三井鉱山 美唄鉱業所専用線/三井鉱山 奈井江専用鉄道/北星炭鉱 北星鉱業所専用(美流渡)/日本甜菜製糖 磯分内工場専用鉄道/小樽臨港鉄道/泰和車両/貨物線のスイッチャー/北海道開発局/鉱山のナローゲージ
【資料】室蘭本線不通に関する局報より
 当書が全4巻シリーズの末尾であり、掲載対象となっている期間も1965年から1981年までの長い。この期間は、北海道の大地を覆った運炭鉄道の殆どと、森林鉄道、簡易軌道の全てが廃止となった時代で、蒸気機関車が1976年を最後に北海道の大地を去った。つまり、これらの鉄道の魅力的なものの多くが失われた時代でもある。かつて、多くのファンが羨望し、目指した北海道の鉄道は、80年代に入るころには、その多くが失われ、さらに80年代には多くの国鉄線が廃止されることとなる。
 まず、注目したいのは、「定山渓鉄道」と「千歳線 新線切り替え」である。前者の真駒内-澄川間は、札幌市営地下鉄南北線に、後者の東札幌-大谷地間は、同じく東西線に置換することとなる。いずれも札幌の市街地を走る線区である。定山渓鉄道の廃止には、1972年の札幌オリンピックの開催が関わっている。札幌市は、オリンピックを目指して都市を公の主観でデザインするため、鉄道職員を札幌市職員化するなど強引な手法で、「私」→「公」の引き継ぎが行われた。現在の官主導の開発スタイルを固定させた象徴とも言える。千歳線の旧線も、もし今JRが線形を持っていれば、需要の高い路線として、経営の厳しいJR北海道の一助になっていたであろう。現在、それらの線形はすべて札幌市交通局が保有していることになるが、この地下鉄線、案内軌条式という独自の方策を取り入れたため、維持コストが余分にかかっている有様で、40年以上前のオリンピックの負の遺産と化してしまっている。こんなことなら、定山渓鉄道と国鉄線の線形を維持した方が、経済の観点でもよほど合理的であったであろう。そのような観点で見ると、惜しいものを失った時代、という見方もできる。もちろん、その時代に、そこまでの見通しを持つことが困難であったという見方もあるだろうが。それにしても、旧千歳線の大谷地駅の木造駅舎の姿を見ると、さすがに隔世の感は禁じ得ないところか。
 個人的に注目したいのは北海道開発局の江別工場の風景で、石狩川治水工事等に従事した機関車たちの姿が収められている。また、最後にまとめられた「鉱山のナローゲージ」は、ほとんど報告のない軌道が紹介されている。岩内線国富駅から住友金属鉱山国富鉱業所に牽かれた線路を行く機関車で、この路線は地上部が木造の雪覆いで覆われており、橋梁を渡る部分でのみ、機関車が顔を外界に覗かせたという。その瞬間が撮影されている。
 思い入れの深いものとしては美唄鉄道で、これは私の父が撮影のため、足しげく通ったところ。父は1,000枚を越える美唄鉄道の写真を撮影していて、私は最近これをデジタル化し、HPでも公開したところ。4100型の特徴的な姿を見ることが出来る。現在、美唄鉄道の東明駅跡に、唯一見ることのできる形で保存されている当該蒸気機関車がある。興味を持たれた方は、是非足を運んでいただきたい。
 以上、4冊すべて、星良助氏の熱意がこもった見事な写真集である。今世紀になって、このような書物にまとめていただいたことに、感謝の念は絶えないのである。

昭和30~40年代 北海道の鉄路 星良助著

レビュー日:2019.11.5
★★★★★ 北海道が鉄道王国と呼ばれた時代の記録
 小樽市在住の鉄道写真家、星良助(1935-)氏による昭和30~40年代の北海道の鉄道写真を収録したもの。
 氏の同内容の写真集としては、先にないねん出版から「北国の汽笛」と銘打って出版された全4冊のシリーズ本があるため、当本は総集編的な性格を持っているが、「北国の汽笛」はすでに絶版であり、中古市場でしか入手方法がないため、このたびのリリースは歓迎される。また、私の場合、すでに「北国の汽笛」全巻を所有しているのだが、本書の新しい印刷で、新規収録の写真も含めて一通り拝見し直すことが出来たことに、満足している。
 当時の北海道は、現在では到底考えられないような、鉄道王国としての絶頂期にあり、国鉄線のみならず、様々な私鉄、専用鉄道、森林鉄道、簡易軌道があちこちに路線網を持っていた。充実していたのは路線網だけではない。これらの鉄道には、1960年(昭和35年)から開始された動力近代化計画に伴って、本州以南で国鉄線の電化が進むにつれ、各地で活躍していた「名機」と呼ばれる蒸気機関車たちが、活躍の場を求めて北海道に集まってきたこともあり、鉄道ファンにとっては、まさに垂涎の的となっていたのである。
 例えば、三井鉱山奈井江専用鉄道には東海道本線の花形機8850形が、美唄鉄道では奥羽線板谷峠越えに製造されたE1形4110形が、三菱鉱業芦別専用鉄道では1Dテンダー機9200形が、寿都鉄道では8100形が、そして函館線では、特急つばめ号を牽いていたC62が急行「ニセコ」をけん引していた。
 さらには、各専用鉄道では、様々な外国製の古典蒸気機関車が活躍していた。日本甜菜製糖磯分内工場専用鉄道1号B型タンク機関車、置戸森林鉄道ではボールドウィン製B1リアタンク蒸気機関車、昭和炭鉱のクラウス、茂尻鉱業所のコッペル、三美運輸の2100形(B6型)・・・。それらは多彩で多様で、それぞれが豊かな個性をもって、当該地で活躍していた。
 そのようなわけで、この時代、北海道は、多くの鉄道ファンにとって、上述の通りまさに垂涎の的であった。しかし、北海道は広い。そして、首都圏からの訪問となると遠い。現代と比べて、圧倒的に移動に時間を要する当時、北海道をくまなく訪問し、それらの多くを撮影することが出来た人は、ほとんどいないといって良い。
 そんな中、現地在住という圧倒的な利点を活かし、星氏のこれらの貴重な写真群が記録されることになった。前述の機関車がすべて収録されているわけではないが、とにかく素晴らしいの一語につきる網羅性である。これらの撮影地には、産炭地をはじめ、深い内陸地に存するものも多いが、くまなく訪問し、記録活動を行った当時の氏の情報収集力と行動力には心底頭が下がるのである。
 写真は、車両をターゲットとしたものが大半であるが、駅であったり、鉄道と深くかかわる生活をしている人々であったり、当時の空気や脈動といったものが、生き生きと伝わってくるのである。個人的に残念なのは、森林鉄道、簡易軌道に関する写真がごくわずかな点であるが、それでも定山渓森林鉄道に乗車して撮影した写真は、他では見られないものであろう。また東神楽の客土事業に従事している専用軌道と専用蒸気機関車の姿は、星氏以外に写真を報告してくれる者は(私の知る限り)いないのである。
 参考までに、目次を転写する。数字は頁数をあらわす。
道央の鉄道
国鉄手宮線 6/国鉄函館本線 小樽より下り方面 10/国鉄函館本線 小樽より上り方面 62/国鉄千歳線・室蘭本線 78/国鉄札沼線 82/国鉄夕張線 85/国鉄胆振線 86/国鉄岩内線 88/国鉄日高本線 90/三菱美唄鉄道 91/定山渓鉄道 101/夕張鉄道 123/三菱大夕張鉄道 143/三井芦別鉄道 153/苫小牧港開発・苫小牧臨海鉄道 159/札幌市交通局 161/三井鉱山奈井江専用鉄道 181/三井鉱山美唄鉱業所専用線 187/三菱鉱業芦別専用鉄道 191/油谷鉱業油谷鉱業所専用鉄道 199/北海道炭礦汽船美流渡専用鉄道 203/北海道炭礦汽船真谷地専用鉄道 211/雄別炭礦茂尻鉱業所専用鉄道 221/茅沼炭化工業発足専用鉄道 225/富士製鉄室蘭製鉄所専用鉄道 235/三井東圧化学豊沼専用鉄道 237/豊羽鉱山専用鉄道 239/北日本製紙江別工場専用鉄道 244/小樽臨港鉄道 248/農地開発機械公団 249/札幌営林局定山渓森林鉄道 251/北海道簡易軌道当別線 258
道南の鉄道
国鉄 260/寿都鉄道 271/函館市交通局 281/日本セメント上磯専用鉄道 291 道東の鉄道
国鉄 298/十勝鉄道 303/北海道拓殖鉄道 309/雄別炭礦鉄道 309/根室拓殖鉄道 325/明治鉱業庶路鉱業所専用鉄道 327/日本甜菜製糖磯分内工場専用鉄道 321
道北の鉄道
国鉄 336/留萠鉄道 345/羽幌炭礦鉄道 349/天塩炭礦鉄道 355/旭川電気軌道 361/日曹炭鉱天塩鉱業所専用鉄道 371/藤田炭礦宗谷鉱業所専用線 379/旭川土木現業所東神楽客土事業所 381
記念行事
週末快速「たるまえ」出発式 384/「日光形」キハ55系登場 386/急行貨物列車「北海号」出発式 388/スキー臨・準急「ニセコ」 390/ディーゼル特急「おおぞら」登場 392/手宮線最終列車 394/小樽市内高架開通 396/北海道鉄道記念館開館 398/定山渓鉄道から帰ってきたコロ1 402/小樽廻り特急「北海」誕生 404/映画「旅路」撮影ロケ 406/室蘭本線不通による迂回運転 408/粉粒体専用列車の登場 410/北海道の鉄道90周年 412/千歳線の新線切り替え 416/「義経」と「しづか」 418/北海道鉄道100周年記念SL列車運転 426/小樽博快速スリッピ号 428
あとがき 431/著者略歴 432

昭和の終着駅 北海道篇 安田就視著

レビュー日:2017.2.22
★★★★★ 旅情と美しかった過去への思いに溢れた美しい一冊です
 香川県出身の写真家、安田就視(やすだなるみ 1931-)氏による「昭和の終着駅 北海道編」と題した写真集。全ページカラー。取り上げられている「終着駅」について記載するが、廃止された駅については、その年月日を併せて記そう。
稚内駅(宗谷線)
北見枝幸駅(興浜北線) 1985年7月1日廃止
雄武駅(興浜南線) 1985年7月15日廃止
仁宇布駅(美幸線) 1985年9月17日廃止
北見滝ノ上駅(渚滑線) 1985年4月1日廃止
湧別駅(名寄線湧別支線) 1989年5月1日廃止
北見相生駅(相生線) 1985年4月1日廃止
根室標津駅(標津線) 1989年4月30日廃止
根室駅(根室線)
北進駅(白糠駅) 1983年10月23日廃止
十勝三股駅(士幌線) 1987年3月23日(鉄道運行は1978年12月25日)廃止
広尾駅(広尾線) 1987年2月2日廃止
様似駅(日高線)
日高町駅(富内線) 1986年11月1日廃止
夕張駅(夕張線)
登川駅(夕張線登川支線) 1981年7月1日廃止
南大夕張駅(三菱石炭鉱業大夕張鉄道線) 1987年7月22日廃止
大夕張駅/大夕張炭山駅(三菱石炭鉱業大夕張鉄道線) 1973年12月16日廃止
万字炭山駅(万字線) 1985年4月1日廃止
幾春別駅(幌内線) 1987年7月13日廃止
上砂川駅(函館線上砂川支線) 1994年5月16日廃止
歌志内駅(歌志内線) 1988年4月25日廃止
室蘭駅(室蘭線)
増毛駅(留萌線) 2016年12月5日廃止
新十津川駅(札沼線)
岩内駅(岩内線) 1985年7月1日廃止
瀬棚駅(瀬棚線) 1987年3月16日廃止
江差駅(江差線) 2014年5月12日廃止
松前駅(松前線) 1988年2月1日廃止
函館駅(函館線)
 対象となっている「終着駅」はほぼ国鉄線であるが、昭和期に廃止された北海道内の国鉄線の「終着駅」のうち、幌内駅(幌内線幌内支線 1971年11月1日廃止)、手宮駅(手宮線 1962年5月15日廃止)、越川駅(根北線 1970年12月1日廃止)、脇方駅(胆振線脇方支線 1970年11月1日廃止)、南美唄駅(函館線南美唄支線 1973年9月9日廃止)については、記載されていない。代わって、北海道最後の私鉄であった大夕張鉄道が取り上げられている。
 それぞれ、各駅ごとに4ページを費やし、美しいカラー写真が掲載されている。懐かしい。
 それにしても「廃止されてしまった駅」の多さに驚く。北海道では、1980年に制定された国鉄再建法に基づき、収支の数字が基準に満たない線区がなし崩し的に廃止されていった。これを経た分割民営化に際して、当時の政府は、国会答弁などで、これ以上路線が廃止されることはない旨を担保するような答弁を行ったが、現在までの状況はみなさんご存知だろう。
 その後も、深名線、池北線、江差線、留萌線(留萌-増毛)が廃止され、さらに今現在、日高線が復旧の見通しが立たない状況であるだけでなく、石勝線の夕張支線、留萌線(深川-留萌)、札沼線末端部なども廃止の是非が取り扱われる事態である。
 私は鉄道が好きな人間だから、そのことを無念に思うけれど、そのような次元を超えて、現在の北海道の状況は深刻さを呈していると言って良いだろう。そもそも、先進国において、鉄道事業だけで経営を成り立たせることは至難である。多くの国において、鉄道は国営、もしくはいわゆる上下分離方式により、施設を公が維持した上で、運行のみを民間委託している。そうやって、鉄道を維持している。なぜか。それは、単に鉄道が地域のライフラインだというだけでなく、観光を含めた「人の移動」自体に、社会的に様々な意味での「価値」があることを、社会と地域が理解し認識しているためだ。ところが、日本ではこの感覚が非常に薄く、特に最近では、民間会社の収支という観点ばかりが考えられるようになってきている。
 多くの路線が廃止された北海道の地方の衰退は激しい。それは基幹産業である石炭や林業が衰えたということもあるが、それに輪をかけて交通網の衰微は地域に残った最後の呼吸を止めてゆく。それは、この地を巡り続けてきた私の実感である。
 鉄道利用者の数が減っている。これだけ多くの路線が廃止されているのだから当たり前でもある。私も、もしかつてのように鉄道網が充実していたのなら、当然のように鉄道を利用していた行程であっても、鉄道がなくなってはどうしようもない、他の交通機関を利用する。ローカル線という枝を振り払ったら幹が枯れてくるのは自然の摂理だ。バスで代替といっても限度がある。そもそも、冬期間のバスの運行は当てにならないことが多いし、遠距離であれば、いくつものバスに乗り継ぐことになる。実質的にそれは利用のハードルを大きく上げることになる。旅行者の足は遠のく。そもそも、バス転換したとしても、いまの時代、バスの運転手もバスの台数も確保できない。北海道のように、冬季の道路条件の厳しいところではなおさらである。結果として、あちこちの集落が消失する。消失する集落の規模が大きくなってきているところがさらに恐ろしい。そのような現実を知らない人が、まったくの圏外に居住し、安穏な生活を送りながら、「収支が上がらないのだから廃止は当然だ」みたいなことを平然と言ってのけたりする。
 ひどい世の中だと思う。随分書いてしまったけど、このような写真集を見て過去のことを思い出すたびに、「私達はどこでボタンを掛け違えたのだろう」という思いが、私を苛むので、書いてしまった次第である。
 本書に戻ろう。写真はとにかく美しい。北海道ならではの四季それぞれの背景を活かした美しい情景が巧みな画角で捉えられている。それにしても「終着駅」という言葉は旅情を誘うものだ。ずっと続いてきた線路がそこで途切れる。そのことに、様々な思いを重ねて、情感を膨らませる人も多いだろう。船の「波止場」に相当する良い言葉だ。掲載されている写真はその「終着駅」に相応しい情緒を感じさせるものばかり。
 また、かつてあった貨物取り扱いの側線、炭鉱に近い駅であれば選炭場、多くの貨車を取り扱ったヤードなども、この雰囲気を見事にサポートしてくれる。
 溢れてくる情感に、過去への憧憬が焦がれてくるような、詩的な一冊となっています。

オールカラー 北海道の廃線記録(函館本線沿線編) 安田就視著

レビュー日:2020.12.21
★★★★★ 北海道の失われた鉄道風景の素晴らしさを切々と伝える1冊
 「昭和の終着駅」シリーズでも知られる鉄道写真家、安田就視(やすだなるみ 1931-)氏による、全線もしくは一部が廃止となった函館線支線群を対象とした写真集。取り上げられている路線を目次と併せて紹介すると下記の通り。
江差線・・・・10   2014年5月12日 江差-木古内間 廃止
松前線・・・・30   1988年2月1日廃止
瀬棚線・・・・42   1987年3月16日廃止
岩内線・・・・62   1985年7月1日廃止
札沼線・・・・82   2020年5月7日 新十津川-北海道医療大学間 廃止
幌内線・・・・96   1987年7月13日廃止
函館本線・上砂川支線・・・・110   1994年5月16日廃止
歌志内線・・・・116   1988年4月25日廃止
 なお、札沼線の新十津川-石狩沼田間は、1972年6月19日に廃止となっているが、当該区間(期間)は、本書の撮影対象とはなっていない。撮影時期は80年代が中心であるため、これに先んじて廃止された手宮線や南美唄支線も撮影対象とはなっていない。全128ページには一部白黒写真もあるが、大部分はカラー写真が掲載されている。
 本書をみて私が思うのは、この時代への羨望である。私は鉄道が好きで、しばしば鉄道でぶらっと旅に出るのだが、現在の北海道では、鉄道線の多くが廃止され、また列車の本数も減便されてしまったため、なかなか思うような行動計画が立てられない。もし80年代の前半のように鉄路が充実していたなら、私はどれほど多くの機会で鉄道を利用したことだろうか。本書におさめられた写真が描き出す沿線の四季の風景は、無類に美しく、失われたものの価値の重さに、胸が塞がれるような思いだ。
 江差線・松前線・瀬棚線・岩内線はいずれも北海道の大動脈である函館線から分岐し、日本海に面した町を結ぶ線路であった。これらの路線がすべて鬼籍に入り、最後に残った留萌線も、現在では廃止が取り沙汰されるようになってしまった。しかし、これらの線路はいずれも美しい車窓を持っていた。本書では江差線の末端部で、蒸気機関車が牽く貨物編成が日本海岸を行く姿、海岸段丘の間の谷を越える橋梁を行く松前線の普通列車、瀬棚駅の広いヤード、岩内駅の旅情あふれる風景などが紹介されていて、どれも無類に素晴らしい。また、国富駅(岩内線)、北住吉駅(瀬棚線)、茶屋川駅(瀬棚線)の貴重な駅舎の姿も、克明に記録されている。北住吉駅の土をつんだような簡易なホームもふさわしい。
 幌内線、上砂川支線、歌志内線はいずれも産炭地と函館線を結んだ運炭を主目的とした線路。そのため、幾春別駅、幌内駅、上砂川駅、歌志内駅といった終着駅には、石炭の搬送作業のための側線が多く敷かれており、駅舎も貫禄を感じさせる。これらの産炭地は、山間の谷間地に形成されており、斜面に炭鉱住宅がならぶ風景は独特にものがあったが、その少ない平地の多くを搬出のための鉄道施設が占める産炭地ならではの風景は、今の時代ではもう決して見ることができないものだ。歌志内線、西歌駅のたたずまいも情緒に満ちている。
 札沼線は、沿線に住んでいた私には思い入れの深い線路だ。昔から両親に連れられて、浦臼や月形、当別といった町に遊びに行ったし、廃止の直前まで、気が向いた時には、ぶらりと乗って沿線を散策した。当書籍では、新十津川駅や石狩川橋梁の写真が紹介されている。1980年頃には新十津川駅に側線があったことも、掲載写真はよく伝えてくれる。旅情豊か、思い出深いというだけでなく、地域の歴史の記録と言う点でも貴重な写真だ。
 石狩川橋梁(架け替えられているが)は現在も現役であるが、現在では防風のため、囲まれたスクリーンの内側を列車は走行する。列車内から石狩川の風景は見えないし、石狩川岸からも通過する列車の天井しか見えない。せめて透過性のある防風スクリーンにできなったのだろうか、といつも思ってしまうのだが、それくらいにこの付近の石狩川の雄大な眺めは素晴らしい。
 これに関して思うことがある。北海道の鉄道における観光資源としての価値は、きわめてポテンシャルが高かった。多くの路線が廃止された今も、ある程度のポテンシャルは残っているだろう。しかし、この観点で、魅力の啓発や掘り起こしのため、JRや地域が行っている事業が、きわめて脆弱だ。残念ながら、この国では、交通機関における観光面への価値に関して、理解が足りておらず、きわめて鈍感とさえ言える。観光利用が、まるで不要不急なものとでも考えているフシが多くあり、ビジネス目的の移動ばかりに都合をつけるのが交通機関の使命だと思い込んでいる。その目的に即して交通機関の価値や仕様を考えるから、本来のポテンシャルを発揮する方向性と別の実態が導かれてしまう。石狩川橋梁の不透過なスクリーンはその象徴に思える。JR北海道の特急系車両の窓は、ポリカーボネート性のフィルム塗装により、きわめて見通しが悪い。これらの事柄は、鉄道の観光価値への不感を端的に示しているだろう。「とにかく乗客を目的地にさえ運べればよい」、としか考えていないのだとしたら、特に北海道のような土地に置いて、鉄道需要の掘り起こしなんて、土台無理な話である。ビジネスの需要は減る。電子化が進む昨今では、移動が必要なビジネス自体が減少する。私は、これらの鉄道を利用していて、何度も何度もその無念さを実感してきた。北海道、自治体、JRは、今からでも鉄道の観光資源としてのポテンシャルを掘り起こすべきなのだ。それが唯一の可能性のある道なのだ。北海道はそれだけの価値がある風景に恵まれているのだ。
 つい最近、高波の災害から復旧することのないまま、日高線の廃止が、なし崩し的に決まった。しかし、日高線は、そのポテンシャルを考えると、あえて「価値」を眠らされていたとしか考えられない不遇の線路である。海の上を走るかのような素晴らしい車窓は、全国でもまれに見る絶景路線だった。また、石北線、宗谷線とくらべても、沿線には人口密度の多い自治体が並んでいる。かつては札幌から直通の急行が1日3往復も走り、相応の乗車率だった。これが無くなったのは、別にバスとの競争に敗れたからではない。苫小牧-札幌間の列車密度の関係で、日高線直通列車を間引いたのだ。加えて、長いこと、日高線では普通列車のうち、直通運転する便を減らし、静内以西と以東をあえて分断するようなダイヤを運用してきた。当時の日高線の利用者から、「路線の利用者数を減らし、廃止論に導くため、あえて不便なダイヤにしているとしか思えない」という新聞投書もあったほどである。鉄道路線の利便性を高めたり、観光資源としてのポテンシャルを掘り起したりすることについて、いくらでもやり様があったのに、取り組みがかなり不十分なものであったことは否めないだろう。
 そんな状況で心が寒々としてしまうものの、この書が伝えてくれるのは「それでも鉄道は地域の共有財産である」という事。その通りだ。美しいものは人を惹きつけるし、それを切っ掛けに訪れる人がいることは交流人口の増加につながる。交流人口は地域の経済を支える。鉄道は、過疎化への抵抗のシンボルだ。広大な地域でありながら、マップ上から鉄道線が抹消された状況は、交流の途絶えた証のように感じられるし、事実でもあろう。本書を見て、あらためて鉄道の価値の大きさに感じ入った。

オールカラー 北海道の廃線記録(室蘭本線・日高本線・根室本線沿線編) 安田就視著

レビュー日:2021.3.5
★★★★★ 失われた美しい風景が語るものは何か
 「昭和の終着駅」シリーズでも知られる鉄道写真家、安田就視(やすだなるみ 1931-)氏による、全線もしくは一部が廃止となった根室線・室蘭線・日高線の支線群を対象として、70~80年代に撮影されたものを中心としたカラー写真集。タイトルに「根室本線」「室蘭本線」「日高本線」の名が挙がっており、その日高本線自体が、高波被害から復旧せず、この3月で事務上の廃止となるのであるが、当写真集が掲載対象としているのは、それらの線区ではなく、その支線群である。刊行のタイミングも含めて、ちょっと誤解を招くかも?というところ。というわけもあって、取り上げられている路線を、目次と併せて紹介すると下記の通り。
胆振線・・・・12  1970年11月1日 京極-脇方間廃止  1986年11月1日廃止
富内線・・・・32  1986年11月1日廃止
万字線・・・・40  1985年4月1日廃止
夕張線・・・・48  1981年7月1日 紅葉山-登川間 廃止  2019年4月1日 新夕張(旧・紅葉山)-夕張間 廃止
士幌線・・・・68  1978年12月25日 糠平-十勝三股間 バス転向  1987年3月23日 廃止
広尾線・・・・84  1987年2月2日廃止
池北線・・・・98  2006年4月21日廃止
白糠線・・・・124  1983年10月23日廃止
 私は、先行する「函館本線沿線編」群でもレビューを書かせていただいて、その内容と重複してしまうが、これらの路線の沿線風景の美しさは、本当に素晴らしい。今となっては残された写真でしか往時の姿を見られないことが惜しくてならない。特に、取り上げられた線区では、胆振線、富内線、万字線は本当に美しい車窓に満ちていたと思う。
 ここで、私が車窓の美しい線として、士幌線より万字線を挙げることは、いささか世評と一致しないところかもしれない。実際、私は士幌線には乗車したことがあるのだが、万字線に乗車したことはないのである。では、なぜあえて万字線の名を挙げたのかというと、「スイッチバック 北の鉄道」という映像作品において、北海道で長年車掌を務めてきた田中和夫氏が、万字線の山側の車窓風景の美しさは素晴らしかったと繰り返し言及し、特に、深い渓谷を何度も高い橋梁で跨ぎ、谷を覗き込むようにして走る路線は、「それだけでも観光資源としての価値があった」と感じたほどとの言葉を聴き、廃線跡を訪ねて、その実感を濃くしたからである。
 もちろん、士幌線も素晴らしかったが、私がこの線に乗車したとき、すでに糠平以北は運転していなかった。もちろん、それでも急峻な山間で、音更川の渓谷を高い橋梁で越えるところなど、本当に凄かった。北海道は、車窓風景だけで、十分な観光資源になりうる鉄路を、これほど多く持っていた。しかし、それらは失われた。
 他のところでも書いているが、本来鉄道の価値は、単体の収支で図るべきものではない。理由はいくつもある。
 まず、北海道の様に気候風土の厳しい土地において、冬季の主要都市間移動のための安定的交通機関は、基本インフラであり、収支で図るべきものではない。加えて言うと、その多くが未開の地であった北海道が、国土強靭化計画の一環として移住を進め、開拓者とそれを継いだ人々の努力により、食料生産基地となったことを知らぬものは少ないと思うが、その彼らのいざというときの交通手段を、収支の観点で奪うことは適切ではない。
 次に、鉄道の経済効果というのは、単に収益と費用の差額で計算できるものではない。鉄道により、人が地域を訪問し、人々と交流する機会を高めるとは、交流人口の増加、地域経済の底支えに大いに活用できるものである。2019年に夕張支線が廃止となった夕張市の市域のその後の衰退の加速ぶりは現地の人であれば実感しているだろう。沼ノ沢駅に入っていたレストランは廃業し、スキー場も営業を終了した。鉄道廃止ばかりが理由ではないだろうが、トリガーの一つであったことは大いに考えられる。(実際、私も廃止前は年に3,4回訪問していた夕張を、廃止後は1度も訪問していない・・・さすがに薄情な感じもするので、そろそろ訪問したいとも思っているが、やはり鉄道がないのは寂しい)。
 また、鉄道は観光資源としても利用できる。利用・啓発の方法によって、大きく地域に貢献するポテンシャルを持っている。まもなく廃止となる日高線だって、あれほど美しい車窓を持つ路線は、国内外を探してもそうはないだろうと思わせる線路であったが、そのことを知っている人がどれほどいただろうか。そして、そのポテンシャルは、地域の観光開発計画という枠組みの中で、その価値を図るべきものである。
 ほかにもいろいろあるが、地方の鉄道というのは、収益を維持・廃止の目安にしては成り立たないし、そういうものではないのである。例えば、ヨーロッパの多くの国が、鉄道を国営化したり、線路・駅等の施設を公有物とし(道路と同じ考えだ)、鉄道の運行のみを民間委託するなどの方法により、路線網を維持し、地域経済の組み込まれているのは、この「考え方」があるからである。ひるがえって日本では、そのような公的発想が乏しく、単にJRという私企業の交通事業としてしか認識されていない。これでは、地域の衰退は加速し、最終的には国が疲弊化するばかりである。「考え方」を改めなくてはならない。
 いろいろ書いてしまったが、本書に話を戻すと、その観光面、風光明媚な風景という「ポテンシャル」を記録した良書、と言う以外になく、美しく、そしてもの悲しさも感じてしまう一冊である。
 胆振線では、尻別川、長流川、昭和新山、羊蹄山といったこの路線ならではの風景の中、蒸気機関車や気動車たちの姿が捉えられている。雪を頂く昭和新山が美しい。鉄鉱石の搬出拠点であった脇方駅では、レールバスが停車している写真が紹介されており、貴重な一枚だ。
 富内線では、鵡川、そして分水嶺を越えて沙流川流域の谷あいの美しい風景が紹介されている。日高町駅は私も訪れたことがあるが、小さな町の端にある終着駅で、特有の旅情があった。本書で紹介されている写真も、その雰囲気を良く伝えている。
 万字線では、幌向川を越していた橋梁群、そして炭鉱街特有の万字炭山駅の様子がうかがわれる。駅の奥には選炭機をはじめとした工場建築物が並ぶが、現在かの地は、最後まで残っていた万字炭山駅の駅舎も取り壊され、林の中、ただホームの跡があるのを見出だせるのみである。
 夕張線では、歴史ある運炭路線にふさわしい風格と歴史を感じさせる写真が多い。夕張川を渡るD51が牽引する石炭列車の写真。よく見ると橋梁の手前に橋脚跡があり、夕張線複線時代の名残が刻まれている。1981年に廃止された登川駅の、駅舎、構内を俯瞰した写真も、ファンにはありがたいもの。
 士幌線では、やはり十勝川や音更川を渡る橋梁群が象徴的な風景であり、本書でも紹介される。また、十勝三股-糠平間が、バス転換される前の、貴重な列車風景も紹介されている。(ただし、タウシュベツ橋は、ダム建設に伴って1955年に付けけられた旧線にあるので、本書の紹介対象とはなっていない)
 広尾線では、縁起切符で全国区の知名度を誇った愛国駅、幸福駅の現役時の姿、大正駅、広尾駅などの写真も掲載されている。結氷した札内川を渡る9600形蒸気機関車の姿も印象的。
 池北線は、第3セクターとしてちほく高原鉄道として長らえた路線であり、そのため90年代の写真も掲載されている。十勝平野、北見盆地のおおらかな風景の中、蒸気機関車や気動車の活動する姿が収められている。1999年に撮影された境野駅を発車していく気動車の風景に、郷愁の情をもよおす。
 白糠線では、なにもない終着駅、北進駅の風景に胸打たれる。本来であれば、足寄を経由し、北十勝線とともに、札幌と釧路を結ぶ高速鉄道路線の一端を担うことになっていた高規格での設計路線であるが、上庶路炭鉱の石炭の搬出に一定の活躍を果たしたとはいえ、国鉄再建法下の第1号廃線となったのは、この路線の哀しい現実であり、それが北進駅の風景に詰まっているように思われる。

オールカラー 北海道の廃線記録(留萌本線・宗谷本線沿線編) 安田就視著

レビュー日:2021.3.23
★★★★★ 失われた風景が語るもの
 「昭和の終着駅」シリーズでも知られる鉄道写真家、安田就視(やすだなるみ 1931-)氏による、全線もしくは一部が廃止となった北海道の旧国鉄線を対象とした写真集リリーズの第3弾。第1弾が「函館本線沿線編」、第2弾が「室蘭本線、日高本線、根室本線沿線編」、そして本第3弾が「留萌本線、宗谷本線沿線編」となる。掲載対象は、基本的に「刊行時にすでに廃止された線区」となっており、本書の場合、下記の目次の内容となる。
留萌本線(留萌~増毛)・・・・14  留萌-増毛間 2016年12月5日廃止
深名線・・・・30  1995年9月4日廃止
羽幌線・・・・50  1987年3月30日廃止
美幸線・・・・82  1985年9月17日廃止
天北線・・・・92  1989年5月1日廃止
興浜北線・・・・116  1985年7月1日廃止
 私は鉄道が好きだ。といっても、北海道に住んでいるので、鉄道の利便性を享受できるき機会は多くない。路線網はさびしく、運行している列車本数も少ない。それでも好きだから、しばしば鉄道にのってぶらりと出かける。列車の本数が少ないので、頻繁に下車するわけには行かない。ブラリと気軽に列車を降りることができる線区は、限られている。さらに支線がほとんど廃止されているため、行動範囲の制約も大きい。なかなかスケジュールを編み出すのも骨の折れる作業だし、ダイヤも融通性が低い。これは、80年代から今日まで続く、鉄道先細り政策の行く末にあった必然的結果である。
 鉄道は基本インフラだ。特に北海道の様に、広域で、大きな都市と地方の間に距離があり、冬季の気象条件が厳しいところでは、地域の生活を支える性格を多分に有する。それは、本来、鉄道単体の収支で評価されるものではない。歴史に少し触れると、北海道は江戸末期まで多くが未開の地であった。しかし、国力状況を喫緊の課題とする近代政府の主導により、開発が行われる。北海道の奥地に住んで開墾に従事した人々の多くは、関東大震災で罹災し、家を失った人や、東北地方の農家の次男・三男で、家業を長男に譲った人たちである。そういった人たちが、国家事業の枠組みで、未開の地、冬は酷寒となる土地に入植し、想像を絶する労苦の果て、開墾し、北海道を食料とエネルギーの生産基地とした。鉄道は、これらの事業を強力に補助し、のちには、厳しい土地において、その地を管理する人々が、拠点都市と移動することを可能とするものでもあった。まさにインフラである。その役割がすべて残っていたわけではないが、本来、地域の足、インフラとして整備したものを、後になって、突然収益性の評価に根拠を転換し、廃止を促進していくというのは、基本的にはき違えであり、厳しい土地を開墾し生産拠点とした人々への背信行為であるとさえ私は思っている。実際、北海道の地を何年もかけてめぐっていると、一度は切り開かれ、耕され、町がつくられ、鉄道も敷かれたところが、外部の支援もすべて絶たれる形で、退出を余儀なくされ、元の未開の地の姿に、打ち捨てられるように戻っていく様を何度も目撃することになる。鉄道の廃止は、現地にとって非情きわまりないことであるだけであり、かつそれを推進した人々の多くは、あいかわらず都市部で特に不自由のない生活を謳歌し続けているのである。なんともやりきれない話としかいいようがない。
 私は、いつしか廃線跡を訪ねるようになった。最初、それはすでに廃止された鉄道に乗ることへの代償行為であったが、その結果、廃村を巡ることに重なる場合も多なり、その土地が静かに物語る歴史に強く胸打たれるようになった。
 いろいろ思うことがあって、最初に失礼して、廃線事情に係る私の思いを書かせていただいたが、本書の美しい写真たちは、ただ、風光明媚だった沿線風景を伝えるにとどまらず、地域や地方が大切にされていた時代、極端に政策が都市中心的なものになる前の時代の空気感、価値観といったものを、併せて伝えているように感じる。合理性で押し切られない余情や暖かみといった、今の時代では失われつつあるものが、籠っている。私はそれをいとおしいと思う。
 留萌線では、終着、増毛駅の「絵になる風景」が印象の大きな部分を占めるだろう。廃止前の増毛駅は一面一線の駅だったが、その広い構内には、かつて側線が敷かれ、多くの貨車たちが停まっていた時代があったのだ。
 深名線は、人口希薄な豪雪地帯を走る文字通りの「ライフライン」だった。廃止とともに、いくつかの集落が消滅に近い状態となったことは象徴的だ。幌成駅や朱鞠内駅の風景、現在も土木遺産として保存されている第三雨竜川橋梁、それに蒸気機関車の貴重なカラー写真も掲載されている。本書をご覧になられた方には、是非、伊丹恒氏の写真集「幌加内」も手に取る機会があったらご覧になってほしいと思う。深名線廃止の時、地域の人たちが、長年連れ添った肉親と別れるような目で、その日、列車を見送ったことが如実に伝わってくる。
 羽幌線は日本海に沿って、海岸丘陵付近を走る、たいへん美しい車窓を持つ路線だった。当書では、冬の蒸気機関車の写真、羽幌駅、それに天塩栄駅や北川口駅といった、大きな集落からは離れていた駅の貴重な写真が印象深い。また、日本海に面し、焼尻島、天売島、それに利尻島まで見渡す絶景が車窓に展開した金駒内橋梁を通る気動車の写真も忘れがたいシーンだ。
 美幸線は、本来は北見枝幸とを結ぶ予定で中途まで開業するという営業形態ゆえ、旅客が少なく、日本一の赤字線と呼ばれた路線。しかし仁宇布駅ではスキーをかついだ旅客が利用する姿が写っている。私の父も、登山をする際、美幸線を何度か利用していて、まだ小さかった私に、仁宇布駅近くにある松山湿原のキーホルダーを買ってきてくれたことなど、良い思い出である。美幸線の末端部は現在も観光トロッコ用に線路が残っていて、私も乗ることができた。
 天北線は、かつての宗谷線であった。実は、音威子府-南稚内の利用者数は、宗谷線より天北線の方が多かったのだが、線名の定義に従って、天北線側が切り離され、廃止された。江差線と松前線の関係(木古内駅以西は松前線の方が利用者が多かったが、函館まで連続している関係で、松前線が廃止され、江差-木古内は存続)に似る。広大な台地を走る列車、5両編成の急行「天北」、分岐駅で広い構内のあった浜頓別駅、さらに小頓別駅、敏音知駅、中頓別駅、猿払駅、クッチャロ湖岸の路線風景など紹介されている。
 興浜北線は、宗谷地方で稚内に次ぐ人口規模を持っていた枝幸町までの支線。枝幸町には、かつて小頓別から歌登を経る公営の軽便鉄道があった。美幸線建設にあたってその路盤が買い上げられたわけだが、結局、美幸線は開通せず、雄武へつながる予定だった興浜線も開通せず、それどころか唯一残った興浜北線も廃止となったというわけで、枝幸町は鉄道悲運の町でもある。夕景の浜頓別駅に停まる興浜北線の気動車、目梨泊駅、北見枝幸駅の風景が紹介されている。
 いずれも情緒豊かで、「情景」の名にふさわしい。鉄道を利用する人々や係る人々の姿も時折収められるが、こころなしか、現在よりも、地域の雰囲気が明るく感じられるのだけれど、どうだろうか。美しい、往時を偲ぶ写真集であるとともに、失われた空気感が閉じ込められたような、一冊となっています。

オールカラー 北海道の廃線記録(石北本線・釧網本線沿線編) 安田就視著

レビュー日:2021.4.24
★★★★★ 夢なりし美しき風景たち
 「昭和の終着駅」シリーズでも知られる鉄道写真家、安田就視(やすだなるみ 1931-)氏による、全線もしくは一部が廃止となった北海道の旧国鉄線を対象とした写真集リリーズの第4弾。第1弾が「函館本線沿線編」、第2弾が「室蘭本線、日高本線、根室本線沿線編」、第3弾が「留萌本線、宗谷本線沿線編」、そして本第4弾が「石北本線、釧網本線沿線編」となる。本書の場合、下記の目次の通りの内容。
名寄本線・・・・14  1989年5月1日廃止
湧網線・・・・50  1987年3月20日廃止
渚滑線・・・・70  1985年4月1日廃止
興浜南線・・・・82  1985年7月15日廃止
根北線・・・・91  1970年12月1日廃止
相生線・・・・92  1985年4月1日廃止
標津線・・・・106  1989年4月30日廃止
 名寄本線が廃止されたのは衝撃的だった。支線ではない。紋別市をはじめとする多くの自治体を抱え、広範な地域を結んだ路線だ。この線路が、国鉄再建法からの流れの中、廃止されたのは、国策として、地域と都市の格差を是とするとした積極的意思表示にほかならなかった。
 廃止の目安とされたのは、「輸送密度」という指標であったためであった。これは人口における利用率ではなく、単純に利用者数のみを背景とした指標であったため、元来人口密度の少ない北海道には不向きな指標であり、地元の人の多くが利用していても、その実情は反映されず、達成不可能な基準となってしまった。そのため、利用の実態とは関係なく、次々と狙い撃つように路線が廃止となっていった。実際、私が乗った多くの路線では、時には通路まで一杯の利用者がいたのである。しかし、地域の人の多くが利用しても、地域の人口自体が少なければ、先の指標により「利用価値のない」「無用な」ものと見做された。現地の状況を知らない人が、まるで、我がことの利益に係る重大事のように「廃止すべき」という論調を掲げることもあった。
 名寄線が廃止されたとき、紋別駅の一日の乗客数は800人。人口3万人の町の一駅で800人が列車に乗車していたのである。この比率は、当該年度の札幌市の人口と札幌駅の乗客数の比と大きく変わるものではない。紋別市の両隣の興部町、湧別町にいたっては、当時の人口:代表駅の1日利用者数比はさらに高まり、それぞれ6,600人:403人、1万7千人:686人で、当時札幌よりも、はるかにこれらの町の方が、「日常的に鉄道を利用する人の割合」は高く、依存度が大きかったのである。つまり、当時もっともらしく囁かれた「現地の人が利用してない」は、現状を知らない都会に住んでいる人たちの思い込みが生んだ勝手な妄想でしかなかった。
 しかし、名寄線は廃止された。紋別市は、廃止まで5年間の人口減少率が1%であったが、路線廃止後は、それがおよそ5%となり、一層の過疎化が進んでいる。鉄道の廃止だけが原因ではないだろうが、その一方で、本書に掲載された鉄道路線図の変遷を見ると、私は隅々まで血の通わなくなった組織を彷彿とさせる。そういった意味で、この大廃止時代は、過疎化に拍車がかかった象徴的時期に思えてならない。
 だから、この写真集の美しい写真を眺めていると、言いようのない様々な衝動や苦しみのようなものまでもが私には沸き起こってくるのである。とはいえ、今は単にこの美しい風景のことを書こう。
 名寄線は、私の父が蒸気機関車時代に、何度も何度も撮影のために通った場所である。一の橋と上興部の間の天北峠は、峠越えのため蒸気機関車の重連運転が行われ、人気の撮影場所だった。また、豊野、沙留、富丘といったあたりは、オホーツク海のすぐ近くを線路が通り、ことに流氷の季節は絶景であったとのこと。本書でも蒸気機関車時代を通じて、これらの名所の写真が紹介されており、素晴らしい。また、興部駅、渚滑駅、紋別駅、上湧別駅、湧別駅の往時の姿や、仮乗降場の駅名標などの写真も掲載されている。
 湧網線は言わずと知れた絶景路線で、私も乗車経験がある。紀行作家の宮脇俊三氏は、海蝕台から見渡す流氷が埋めつくす海原を見て、言葉を失ったと著書で述べられていたが、他にも、網走湖、能取湖、サロマ湖を車窓に抱えた名路線だった。当書でも、まさに流氷原をバックに蒸気機関車が牽く混合列車がゆく素晴らしい写真が見開き一杯に掲載されている。常呂駅の風情ある駅舎も印象深い。
 渚滑線は森林資材の搬出に活躍した路線で、その基地であった濁川駅、終着の北見滝ノ上駅の風景が紹介される。興浜南線もオホーツク海に臨む絶景線。最果てという言葉を連想する風景の中を進む列車、厳冬の雄武駅など忘れがたい。早くに廃止となってしまった根北線からは、以久科駅に停まる単行ディーゼルカーと旅客たちを収めた1枚のみが紹介されている。ほとんど記録の無い同線の写真として、とても貴重なもの。相生線は往年の美幌駅、津別駅の広いヤード(この駅も森林鉄道の起点だった)、本岐駅などが紹介されている。根釧台地の生活路線として活躍した標津線では、計根別駅、中標津駅、根室標津駅、往年の厚床駅のほか、丘陵地帯や湿原地帯の大風景の中をゆく列車たちの様子が収められている。
 いずれも、この地に確かにあった、もう見ることの出来ない風景として、貴重なものばかり。書物にまとめて出版してくれたことに感謝したい。また、現在も保存されている駅舎がいくつかあるが、そのうち北見相生駅跡と上興部駅跡について、本書でも写真が紹介されていることを、最後に申し添えます。

北海道の国鉄アルバム 上巻(函館本線、札沼線、留萌本線、宗谷本線) 安田就視著

レビュー日:2021.6.12
★★★★★ 美しい写真たち、その一方で、様々な悲哀も漂います
 鉄道写真家、安田就視(やすだなるみ 1931-)氏による「北海道の廃線記録」と題した全4冊からなるカラー写真集が刊行されたところだが、本書は、それに続く在来の路線を対象とした同時代の写真集の第1弾で、70年代、80年代に撮影されたカラー写真を中心に編集されている。(一部90年代の写真を含む)。掲載内容は下記の通り。
函館本線・・・・6
在りし日の青函連絡船と懐かしの津軽海峡線・・・・74
札沼線・・・・84
留萌本線・・・・94
宗谷本線・・・・108
 本書に記録された線路は、青函航路と海峡線を除けば2021年現在も生きている。しかし、本書を開くと、当然の事ながら、過去へ誘う郷愁が立ち込める。そこを走る車輛、駅たちの姿、そしてまわりの風景は、現在のそれから大きく変わっている。70年代を最後に活躍を終えた蒸気機関車たちや、国鉄時代の特急型車両など、今となっては、一部、保存されたものを見ることができるだけだし、函館駅、札幌駅、旭川駅、稚内駅など、多くの駅は建て替えられた。思えば「国鉄」という響きは「昭和」という時代の一つの象徴であろう。その世代であるわれわれには、国鉄という言葉自体に無類の郷愁を感じる。また、鉄道の風景というのは旅情に溢れている。函館線の駒ヶ岳と噴火湾の風景、連絡線埠頭に繋がっていた函館駅、留萌線の雨竜川橋梁、宗谷線の塩狩峠、音威子府の広大なヤード、最果ての薫りに満ちた稚内駅構内。。。しばしば旅は人生の象徴として用いられる。始発駅があり、分岐駅があり、時には別の路線が合流し、そして終着駅に至る鉄路が、どこかシンボリックに魂を揺さぶるのは、その印象の交錯にあるような気がする。そして、安田氏の旅情と郷愁に溢れた写真たちは、そのことを焚きつけてやまない魅力がある。力のある写真たちゆえである。
 本書に掲載された写真の美しさに異論を挟む人は少ないと思うが、現地、北海道に住んでいると、それとともに無類のやるせなさや悲哀の情感が薫ることも併せて記載しておこう。本書でも紹介されている宗谷線では、次々と駅が廃止され、2021年3月に南比布駅、北比布駅、東六線駅、北剣淵駅、下士別駅、北星駅、南美深駅、紋穂内駅、恩根内駅、豊清水駅、安牛駅、上幌延駅の12駅が一気に廃止された。これらの駅の中には、確かに利用実態のほとんどない駅もあったのだが、半数以上は、日常的に利用している人もいた駅である。しかし、とくに降雪期の維持費の負担が大きく、北海道では、毎年のように駅が無くなっている。しかし、私が思うのは、これらの線路や駅の廃止が、単に利用者数が少ないという経営的概念で押し進められることは、間違っているといことだ。そもそも、北海道の中でも機構の厳しい土地に、彼らはなぜ、住居をかまえるのか。これは、歴史を遡れば、北海道の開拓により、国力を増強しようという方針に従って、政治的な移住斡旋が続けられたからである。例えば、東北地方の農家で、家督を継げない次男、三男、あるいは、関東大震災等で、生活の糧を失った人たちに、国は、北海道で開拓に就くことを斡旋してきた。当人たちにとっては、まともな援助も生活基盤もない北海道の奥地で、人によっては未経験な、開墾という作業を行うと言うことは、想像を絶する労苦であり、その記録は様々に残っている。もちろんリタイアする者もあった。しかし、それでも厳しい気候の中、何度も様々な弊害に立ち向かい、ついには、農地や畜産業を起こした人たちの子孫が、今もかのちで業を営んでいるのである。
 国鉄線が張り巡らされたのは、政府の富国策に尽力した彼らの生活基盤を支えるという役目も大きかった。できるだけ共通のインフラをせめて交通面でも担保し、冬でも都市間の安定移動を可能にし、学校や病院へ通う利便を確保してきたのである。もちろん、当時に比べると、道路の状態は良くなったが、誰もが運転できるわけではないし、また冬季の北海道における運転が、しばしばたいへんな危険を伴うことは、現地で生活している人であれば、よく知っていることだ。そのような意味で、特に地域間を結ぶ鉄道は、そもそも収益を上げることを目的としているわけではなく、厳しい土地で生産性を維持する彼らの生活を物心両面で支えるものとして存在してきたのだ。それが、無くなっていくということが何を意味しているか。単に企業収益の点でしか問題を考慮しないというのは、あまりにも視野が狭いのではないだろうか。

北海道の国鉄アルバム 中巻(室蘭本線、日高本線、千歳線、石勝線) 安田就視著

レビュー日:2021.7.20
★★★★★ 室蘭本線、そして日高本線の風景は、得難い美しさに満ちていました
 鉄道写真家、安田就視(やすだなるみ 1931-)氏による「北海道の廃線記録」と題した全4冊からなるカラー写真集が刊行されたところだが、本書は、それに続く在来の路線を対象とした同時代の写真集の第2弾で、70年代、80年代に撮影されたカラー写真を中心に編集されている。(一部90年代の写真を含む)。掲載内容は下記の通り。
室蘭本線・・・・14
日高本線・・・・92
千歳線・・・・112
石勝線・・・・130
 なお、投稿日現在までに、石勝線は、夕張支線(夕張-新夕張)が2019年4月1日に、日高本線は鵡川-様似間が2021年4月1日に廃止となっている。これらの線区のうち、当書では、日高本線の廃止区間は、掲載対象となっているが、夕張支線は掲載対象となっていない。夕張支線については、同シリーズの「北海道の廃線記録(室蘭本線、日高本線、根室本線沿線編)」において、掲載されている。
 当シリーズでは、毎回、冒頭に線区の主要部等が記載された20万分の1地勢図が掲載されているが、本書では1939年の版が引用されている。日高本線、千歳線ともに旧線形を示しているだけでなく、夕張鉄道、札幌軌道、定山渓鉄道、王子軽便鉄道、早来軌道などが記載されているので、なかなか楽しめる。
 さて、写真は、ページの多くを室蘭本線に割いているが、本当にこの線路はフォトジェニックな路線である。かつて広大な構内にいくつもの側線を備えていた室蘭線が、後背の急峻な山並みにのびる室蘭市街を背景に捉えられている1枚だけで、その郷愁は比類ない。また、室蘭線の長万部-東室蘭間は、多くの区間が、付け替えによりトンネル化されているのだが、当書では、付け替え前の、岩場の海岸をゆく風景が紹介されている。この区間には、現在も旧線の名残が残っているので、この美しい風景を想起しながら、現在地を訪問してみるのも楽しいに違いない。現在まで残る伊達紋別駅の駅舎、そして、歴史建築物として現在も保存されているかつての室蘭駅の駅舎も、その歴史を語る写真が掲載されている。絶景駅として知られる北舟岡駅の、かつての簡素なホームの姿も、むしろこの駅にふさわしいと思われる姿で、紹介されている。室蘭本線は、旅客・貨物の双方にとって、永く重要な路線であったから、行き交う列車も様々だ。特急列車、貨物列車のほか、寝台、ブルートレインの在りし日の姿も、懐かしい。
 苫小牧駅の旧駅舎も貴重な写真。現在の駅舎は1982年に改築されたものだが、この改築後の駅舎には、個人的に思い出がある。横浜市から伯父夫妻が札幌の私たち家族のところに遊びに来た時、両親は車で、私を連れて、苫小牧駅まで迎えに行ったのだ。たしか、苫小牧駅で降りて、支笏湖観光した記憶がある。苫小牧駅でおりた叔父夫妻は、エスタも入った新装苫小牧駅に感嘆し、「苫小牧って、こんなに都会だと思わなかった」と驚いていた。しかし、その新装苫小牧駅も、苫小牧市柳町に2005年にイオンモールが開業するなどの影響もあって、2016年で閉店。かつては苫小牧駅ビルから商業ビルを繋いでいた空中歩廊も、現在では撤去されてしまった。本書に掲載された改築直前の旧駅舎は、その後の変遷を知った上で見ると、様々な感慨が沸き起こってくる。また、沼ノ端付近で蒸気機関車が牽く石炭貨物と木材貨物の邂逅など、この時代のエネルギーが伝わってくる。早来駅、栗山駅の旧駅舎も貫禄十分だ。
 日高本線については、その絶景を知っている私にとって、あまりにも廃止が残念であった路線。ダイヤの工夫、観光資源の掘り起こしなどで、周辺人口もふまえ、多くのポテンシャルをもつ路線でもあったと思う。絶景、写真ポイントの一つである日高幌別川橋梁の写真が往時を偲ばせてくれる。清畠駅、様似駅の旧駅舎、そして、様似駅の転車台にたたずむ蒸気機関車。本当に絵になる路線だった。
 千歳線と石勝線は、上記2線に比べると、情景的な美しさはかなり劣るものの、それなりに貴重な写真が掲載されている。特に石勝線開業前に撮影された新狩勝トンネル内の分岐は、めったに観ることの出来ない一枚であろう。ただ、この分岐点も、現在では、その一方が、台風禍から数年にわたり復旧していない状態であり、様々に、現状の淋しさが、胸に刺さるところでもある。

北海道の国鉄アルバム 下巻(根室本線、富良野線、石北本線、釧網本線) 安田就視著

レビュー日:2021.9.27
★★★★★ シリーズ完結編といえる1冊。当時の人の活力あふれる営みや、社会のエネルギーを感じさせてくれます。
 鉄道写真家、安田就視(やすだなるみ 1931-)氏による「北海道の廃線記録」と題した全4冊からなるカラー写真集が刊行されたところだが、本書は、それに続く在来の路線を対象とした同時代の写真集の第3弾で、70年代、80年代に撮影されたカラー写真を中心に編集されている。(一部90年代の写真を含む)。掲載内容は下記の通り。
根室本線・・・・10
富良野線・・・・80
釧網本線・・・・90
石北本線・・・・116
 当巻の登場により、国鉄時代の北海道のシリーズが、一通り完結した感がある。精力的に撮影、記録された写真たちは、同シリーズの既刊巻同様に、美しい、北海道らしい風景とともに、貴重な写真の数々が収録されている。
 当巻の掲載対象となっている路線は、いずれも現役の路線である。ただし、根室本線の東鹿越-新得間は、2016年8月の台風災害以後、復旧しておらず、投稿日現在まで、代行バスによる運行に置き換わっている。また、それ以外にも、様々な現在との違いを、多くの読者が実感するだろう。蒸気機関車をはじめとする車両の変化というのはもちろんあるのだが、駅の規模が小さくなっていたり、貨物運行が無くなった線区があったり、駅を中心とした地域の営みそのものが縮小していたり、場合によっては、集落ごと消滅してしまったりする。70年代まで残っていたエネルギーが、今はどこに消えてしまったのだろう、と現実の中で、思わずその残り香を探してしまうような、もの悲しい郷愁を感じさせる写真集でもある。
 それにしても、風景はきれいだ。空知川を渡る橋梁、山部駅や初田牛駅の情感、太平洋岸を走る蒸気機関車、夕陽を浴びて利別川を渡るディーゼルカー。富良野線では花々が、釧網線では流氷が、石北線では山並みが、風景に彩り以上のものを添えてくれる。厳しい自然の中を行き交う列車たちの写真は、鉄道があったからこそ、これらの地の人々の生活と交流を支えることができたのだという歴史的事実が、厳然と語られている。それゆえに、写真は迫力、美しさとともに、時に厳しさをも感じさせるものとなる。
 そんな私が、いちばん郷愁を感じたのは、1979年の根室駅の写真。広い構内にたくさんの側線が敷かれ、海産物を搬送するための貨車が、たくさん停まっている。いまの旅客だけを扱う根室駅を知って、この写真を見ると、そうか、あの広いスペースで、賑やかな経済活動が行われている時代があったのだな、と思う。個人的には、環境問題が深まり、働き手の少なくなった現在こそ、鉄道による貨物輸送の価値を見直す良い機会なのではないかと思うけれど、鉄道というインフラの側が、そのスペックを放棄しているような寂しさを感じてしまう。
 本書の美しい写真を介して、北海道の鉄道がもつ様々なポテンシャルに、今からでも一人でも多くの人に気づいてほしいと思う。

昭和40年代 北海道の鉄路 【上巻】 函館本線・室蘭本線とその沿線 高木堯男著

レビュー日:2021.7.28
★★★★★ 鉄道を通して垣間見る北海道がもっともエネルギッシュだった時代
 高木堯男(たかぎ たかお 1937-)氏が、昭和40年代(1965~1974)に、北海道の鉄道を対象として撮影した写真たちが、全3冊の書籍として写真集にまとめられた。当巻は、その「上巻」に当たり、下記の内容となっている。
第1章 函館本線と沿線  p5
第2章 室蘭本線と沿線  p87
第3章 私鉄・専用線  p115
第4章 思い出の駅舎  p143
 第1章では、岩内線、江差線、第2章では、千歳線、夕張線、幌内線も撮影の対象となっている。第3章で取り上げられているのは、夕張鉄道、三菱石炭鉱業大夕張鉄道、北海道炭礦汽船真谷地炭鉱専用鉄道、三菱鉱業美唄鉄道、三美運輸専用線の5路線。第4章で駅舎の写真が紹介されているのは、函館駅、五稜郭駅、大沼駅、大沼公園駅、落部駅、八雲駅、山崎駅、国縫駅、長万部駅、蕨岱駅、余市駅、小樽駅、南小樽駅、銭函駅、手稲駅、琴似駅、桑園駅、札幌駅、苗穂駅、白石駅、野幌駅、江別駅、岩見沢駅、美唄駅、砂川駅、滝川駅、深川駅、旭川駅、室蘭駅、伊達紋別駅、本輪西駅、追分駅、沼ノ端駅、上砂川駅、松前駅、江差駅、瀬棚駅、岩内駅、京極駅、石狩当別駅、千歳駅、夕張駅、万字炭山駅、歌志内駅、幾春別駅。掲載写真はすべて白黒。
 この時代の北海道は、現在では到底考えられないことだが、「鉄道王国」として輝いていた。国鉄線のみならず、様々な私鉄、専用鉄道があちこちに路線網を持っていた。充実していたのは路線網だけではない。これらの鉄道には、1960年(昭和35年)から開始された動力近代化計画に伴って、本州以南で国鉄線の電化が進むにつれ、各地で活躍していた「名機」と呼ばれる蒸気機関車たちが、活躍の場を求めて北海道に集まってきていたのだ。そのため、北海道という地は、鉄道フアンにとって、まさに垂涎の的となっていたのである。例えば、三井鉱山奈井江専用鉄道には東海道本線の花形機8850形が、美唄鉄道では奥羽線板谷峠越えに製造されたE1形4110形が、三菱鉱業芦別専用鉄道では1Dテンダー機9200形が、寿都鉄道では8100形が、そして函館線では、特急つばめ号を牽いていたC62が急行「ニセコ」をけん引していた。さらには、各専用鉄道では、様々な外国製の古典蒸気機関車が活躍していた。昭和炭鉱のクラウス、茂尻鉱業所のコッペル、三美運輸の2100形(B6型)・・・。それらは多彩で多様で、それぞれが豊かな個性をもって、当該地で活躍していた。
 というわけで、本書に記録されているのは、北海道がもっともエネルギーに満ちていた時代の最終盤の姿と言えるだろう。蒸気機関車たちとともに、旅客用に導入されたディーゼル特急の姿もあるし、1968年には小樽-滝川間、1969年には滝川-旭川間が電化され、それこそ様々な車両が運用されることとなった(ただし、当書では、電車は紹介されていない)。写真は、北海道ならではの風光明媚な風景、そして四季の移り変わりをバックに、様々な鉄道風景が紹介されていて、充実した内容だ。
 被写体のメインとなっているのは、やはり蒸気機関車たちで、様々な形式の美しく力強い姿が収められている。また美唄鉄道の4110形や三美運輸(南美唄駅の先の炭鉱との間にあった専用線)で入替に従事していたB6型の古典蒸気機関車など、特徴豊かなものも取り上げられている。夕張鉄道では、キハ200やキハ254といったかわいらしい気動車も収められており、かつての鹿ノ谷の賑わいも伝わってくる。函館線のC622の写真ももちろん掲載されており、当時の写真家の情熱が伝わるものであるとともに、書籍を通じて、それらを目にする機会が提供されたことは、現在の鉄道フアンにとっても、ありがたい限り。また、かつての駅舎は、ほとんどが現在は失われたものであり、国鉄時代の味わいを伝えるものばかりである。札幌近郊の駅たちは、現在ではいずれも近代的なものに置き換わっているが、かつて、本書のような木造のぬくもりのある駅舎だったことを知る人は、少なくなったのだろう。そのような意味でも、本書を通じて知ることは、興味深く、感慨深いことである。
 歴史とともに、急激に去っていたものたちへの哀歌が感じられる1冊となっています。

昭和40年代 北海道の鉄路 【中巻】 宗谷本線・留萌本線・名寄本線とその沿線 高木堯男著

レビュー日:2021.7.29
★★★★★ 鉄道が通った時代は、暖かい生活と交流があった時代だったと感じさせる一冊
 高木堯男(たかぎ たかお 1937-)氏が、昭和40年代(1965~1974)に、北海道の鉄道を対象として撮影した写真たちが、全3冊の書籍として写真集にまとめられた。当巻は、その「中巻」に当たり、下記の内容となっている。
第1章 宗谷本線  p5
第2章 名寄本線、留萌本線、羽幌線  p71
第3章 深名線、天北線、興浜北線、興浜南線、湧網線、美幸線  p123
 写真はすべて白黒。
 なお、「上巻」では、章だてして駅舎の写真を集中的に紹介していたが、「中巻」では同趣旨のページが各章内に分散のうえ、組み込まれている。写真で当時の駅舎の紹介がされているのは、以下の各駅。
 旭川駅、名寄駅、稚内駅、興部駅、渚滑駅、紋別駅、湧別駅、留萌駅、力昼駅、苫前駅、天塩有明駅、初山別駅、浜頓別駅、鬼志別駅、目梨泊駅、北見枝幸駅、雄武駅、北見滝ノ上駅、芭露駅、佐呂間駅、添牛内駅、朱鞠内駅、仁宇布駅、美深駅
 当巻でも、やはり写真の中心は蒸気機関車となっており、その力強い姿が北海道の雄渾な大地の風景をバックに記録されている。宗谷線ではスポーク動輪が印象的なC55や、C57、9600などが登場。この路線ならではの、スケールの大きさと最果て感を兼ね備えた風景の中、彼らの姿は、非常に美しく印象的。冬季の写真も収録されている。
 第2章では、D51、D61などのほか、キハ07やキハ22、キハ03といったこの時代を象徴する気動車たちの姿があって、情感豊か。また、旅人の旅装にも、時代を感じさせる。移動そのものが、現在と比べて、公共性の高いものであるとともに、私生活へ密接に繋がっていたことを感じさせる風景があって、そのことに私はこの時代特有の暖かさを感じるのだが、いかがだろうか。ただ、名寄線、羽幌線ともことに美しかった海岸の風景は、撮影対象とはなっていなかった模様。
 第3章は、道北の支線群の写真を総括しているが、やはり心を動かされるものが多い。雨や雪の中、運行を守る人、いつものように鉄路を利用する人々の共存性を感じさせる写真も多い。また、蒸気機関車時代ならではの転車台や給水塔といったオブジェクトが、風景に一層の風情を与えていることも、私にはうれしい。
 当巻で紹介された路線の多くは、現在では廃線となってしまった。それにともなって、駅周辺の集落が消滅したところも多い。60年代以降、国の施策は都市偏重となり、多くの集落が「限界集落」のレッテルを貼られる過程を経て、消えて行った。これらの写真には、取り戻せない美しかったものが記録されている。

昭和40年代 北海道の鉄路 【下巻】 根室本線・石北本線・釧網本線とその沿線 高木堯男著

レビュー日:2021.7.30
★★★★★ 当時の北海道の人々の生き方やあり方が、鉄道というフィンダーを通じて伝わります
 高木堯男(たかぎ たかお 1937-)氏が、昭和40年代(1965~1974)に、北海道の鉄道を対象として撮影した写真たちが、全3冊の書籍として写真集にまとめられた。当巻は、その「下巻」に当たり、下記の内容となっている。
第1章 根室本線と沿線(根室本線、士幌線、広尾線、池北線、白糠線)  p5
第2章 石北本線と沿線(石北本線、相生線)  p47
第3章 釧網本線と沿線(釧網本線、標津線、根北線)  p111
 写真はすべて白黒。
 なお、「上巻」では、章だてして駅舎の写真を集中的に紹介していたが、「中巻」以降、同趣旨のページが各章内に分散のうえ、組み込まれている。当「下巻」で、当時の駅舎の写真が紹介されているのは、以下の各駅。
 白糠駅、富良野駅、帯広駅、釧路駅(1968年の仮駅舎)、厚岸駅、厚床駅、糠平駅、十勝三股駅、広尾駅、遠軽駅、生田原駅、北見駅、留辺蘂駅、美幌駅、北見相生駅、北浜駅、斜里駅、標茶駅、緑駅、根室標津駅、中標津駅
 上巻・中巻同様に、この時代の北海道を象徴する蒸気機関車を中心に、愛らしい気動車たち、そしてディーゼル機関車が牽く様々な列車の風景を中心に紹介されている。釧網線のC58、支線群で活躍したC11といった蒸気機関車も、もちろん登場する。
 本書を通してみて、やはり、この時代の駅や鉄道の風景には、格別の情緒があると感じられる。蒸気機関車が活躍していた時代は、それに付随して、給水塔や転車台があって、様々にこれらを保守する人たちがいた。また、地方を支える交通機関として、駅を中心とした交通体系が整えられていて、大きな駅にはバスが発着し、そこには、様々な人が行きかう公共の場が生まれた。私見であるが、交通の主体が鉄道から車へと移るにしたがって、社会における公共性の観念が、希薄化していった感がある。そんな思い入れがあるためかもしれないが、本書で掲載されている人々の表情からは、なにか活き活きとしたものが感じられ、現在の閉そく感や疲弊感とは異なる空気が感じられる。もちろん、これらの写真が撮影されたのは、いわゆる日本の高度成長期の最後の時期であり、それゆえの雰囲気の違いもあるだろう。この後、北海道を覆った鉄道の衰退は、高度成長期の余熱を失っていく国家像と、どこか重なるものがある。
 これらの写真に感ずるものは人それぞれだが、私の場合、掲載対象の支線群がすべて現在に至る迄に廃止され、また本線も、多くの駅が廃止されたという現実の重さを感じてしまう。やはり鉄道という公共性の象徴が、失われると言うのは、どういうことか。鉄道路線の描かれていない地図が無いように、鉄道は地域を支えるシンボルである。鉄道が失われるということは、組織をめぐる血管が無くなることに似ている。その後は、地域の衰退の運命のみが、定められている。
 そのような現実の悲哀はあれど、いや、それゆえにか、これらの写真には憧憬にも似た暖かさを感じる。それは厳しい冬の風景であってもだ。むしろ厳しい冬こそ、その風景の中の鉄道と人々の姿は、暖かさを託つものだと思う。遠軽機関区や生田原駅の風景、斜里川を渡る列車、釧路湿原の広大な風景と鉄道、それらのピースが、美しく、慈愛を感じる写真として記録されている。また、数は少ないが、支線群の貴重な写真もある。全通せず、短命に終わった根北線や、白糠線も含めて、その往年の風景を見ることが出来るのは、一鉄道フアンとして、とてもありがたい。

ドキュメント・感動の所在地―忘れえぬ鉄道情景 (1) 椎橋俊之著

レビュー日:2017.4.11
★★★★★ 鉄道文化のターニングポイントへと誘われる一冊
 2001年に「感動の所在地」と題してネコ・パブリッシングから出版された全3冊シリーズの第1巻。1960年代から70年代初めにかけて、蒸気機関車の姿を中心に、当時の「鉄道」の姿を追いかけた人々による「ドキュメンタリー」という体裁だ。19 x 13.2cmという大判の書籍で、全206ページ。貴重な写真、資料がルポルタージュ的にまとめられており、いくつかの視点から深く掘り下げた構成が特徴だ。ページ数と併せて目次を転載すると、以下の通り。
感動を再発掘する試み  4
奥中山1967  7
〔解説〕東北本線全線複線電化以前の盛岡以北の輸送事情と3重連  27
取り残された楽園・呉線  33
〔解説〕運転史から見た呉線と急行「安芸」  51
賑わいの上野口 Part1  57
賑わいの上野口 Part2  73
〔解説〕“ヨン・サン・トウ”ダイヤ改正と上野駅  93
石北の嶮・常紋越え  99
武蔵野西環状 川越・八高線  120
有終の花道。最後のC62特急「ゆうづる」  139
〔解説〕特急「ゆうづる」の誕生と平以北の輸送事情  159
筑豊のC55・D50・・・スポーク美の棲息地  165
青函冬景色  185
〔解説〕青函航路と北海道連絡列車の盛衰  204
〔ドキュメント・感動の所在地〕その時代と背景  208
 全頁白黒。
 これらの記事の対象となったのは、日本の近代交通史における大きな転轍点となった時期である。国鉄1960年に開始された動力近代化計画に沿って、主要線区から電化が行われ、それに沿って、勾配に弱い蒸気機関車たちが急速に姿を消していった。“ヨン・サン・トウ” と呼ばれる1968年(昭和43年)10月1日の白紙ダイヤ改正は、高速化の象徴であり、前時代で国内の輸送を担った蒸気機関車の多くが世を去った。また、国鉄に乗り入れる貨車の制限も大きく変更され、私鉄から乗り入れていた多くの貨車が廃止され、貨物輸送の体系が変わった。
 このダイヤ改正前の1966年度は、国鉄が発足以来、初めて赤字決算となった。1968年のダイヤ改正が大々的に宣伝されたのは、そのような背景もあったからだ。しかし、今の鉄道ファンの間では、一つの佳き時代が終焉を迎える里程標のような意味合いで、この言葉が用いられる。
 私の父もそんな一人であった。私の住む北海道では、動力近代化の足並みは遅れていたが、しかし、無煙化は着実に迫っていた。和歌山から札幌に移った父は、1969年から、蒸気機関車の撮影に出かけるようになる。名寄線、石北線、美唄鉄道と足しげく通った。私は、最近になって、それらの写真の全貌を知ることになり、当時の話も詳しく知るようになった。それなので、この冊子にまとめられた内容に通う編者の情熱は、とても良く伝わってくるのである。
 この書物は、ある意味情緒的なものである。しかし、それだけに収まりきれないものがある。当時の熱意、交通動脈として機能した様々な機関車の姿を、「当時のまま」に封印したような克明さがある。つい今しがたまでそこにあったような迫力。写真も素晴らしいが、記載されている内容の詳細さ、そして専門性にも驚かされる。ダイヤ等の状況を裏付ける証拠の引用も興味深いものばかり。
 個人的には、やはり父が多くの写真を記録していた北海道関連のものにより興味が湧く。石北線の常紋峠は、急勾配のため、絶好の撮影地であった。父が何度も訪れた金華の駅には、峠を越えるための設備が備えられていた。そんな金華駅も昨年、廃止となってしまった。その直前に私が訪れた金華の駅は、小さな集落の中にたたずむ小駅で、保線車両がぽつんと一両佇んでいた。本書を見ると、この駅に汽笛が行き交った過去をまざまざと知ることが出来る。また、ゆうづるの牽引車として紹介されているC62は、父の思い入れの深い蒸気機関車の一つだった。ゆうづるを牽引しなくなった後も、北海道の函館線の看板列車急行「ニセコ」(ヨン・サン・トウで登場)はC62の重連が牽いていた。あまりのスピードの速さに、撮影が難しかったという。そんな急行も、1971年にディーゼル機関車に置換された。「ニセコ」を牽いたC62の一機、C622は、現在も京都で動態保存されている。「筑豊のC55・D50」も感慨深い。というのは、C55もまた、北海道を終焉の地としたからである。美しいスポーク動輪を輝かせ、C55が最後まで活躍していたのは宗谷線で、夜行急行「利尻」もC55が牽引していた。宗谷線を最後まで走っていた3機のC55(C5530,C5547,C5550)の姿は、私もホームページで紹介させていただいているが、やはり美しい機関車で、感慨深い。静態保存されているC5550は、小樽市総合博物館で見ることが出来る。
 というわけで、思い入れの深い私には、興味の尽きない本書であったが、記載は蒸気機関車に限らず、様々な視点で鉄道の文化と歴史に迫ったものである。これだけの深い内容の詰まった書物はなかなかないと思うほど、充実した内容の一冊となっています。

ドキュメント・感動の所在地―忘れえぬ鉄道情景 (2) 椎橋俊之著

レビュー日:2017.4.13
★★★★★ 記憶の断片をくっきりと呼び覚まし、周辺の世界を縁取る一冊
 2001年に「感動の所在地」と題してネコ・パブリッシングから出版された全3冊シリーズの第2巻。1960年代から70年代初めにかけて、蒸気機関車の姿を中心に、当時の「鉄道」の姿を追いかけた人々による「ドキュメンタリー」という体裁だ。19 x 13.2cmという大判の書籍で、全233ページ。貴重な写真、資料がルポルタージュ的にまとめられており、いくつかの視点から深く掘り下げた構成が特徴だ。ページ数と併せて目次を転載すると、以下の通り。
感動を呼び起こす「媒介」の役目  4
墨東の残煙 総武本線両国口  7
〔解説〕千葉鉄道管理局の動力近代化の課程  29
北奥羽の関 碇ヶ関・矢立峠  63
■矢立峠の補機なし旅客列車 岡本達也  83
〔解説〕奥羽本線(秋田-青森間)の輸送事情  84
華の東海道・東京口 20系九州特急の栄華  87
〔解説〕43・10前後の東京口の輸送事情  107
北の運炭動脈を往く。夕張線~室蘭本線  111
私の[感動の所在地] 追憶の夕張鉄道 片岡俊夫  131
天下の嶮へ・・ D52の聖域・御殿場線  137
〔解説〕旧東海道本線からの役割とD52時代  157
サロベツ紀行 PART1 宗谷本線  167
〔解説〕C55時代の「利尻」を中心とする宗谷本線の客車列車と優等列車のあゆみ  187
サロベツ紀行 PART2 羽幌線・留萠本線・深名線  193
〔解説〕宗谷本線・羽幌線・留萠本線・深名線の仮乗降場について  215
私の[感動の所在地] 加太越えの興奮 小西和之  219
[ドキュメント・感動の所在地] 思い出すまま  230
 全頁白黒。
 道北の中頓別町は、かつて国鉄天北線が通っていた。その町はずれ、かつて寿という名の駅があった近くに公園があり、一両の蒸気機関車が静態保存されている。49648号機。これは、蒸気機関車が続々と世を去っていった時代の最後に残ったものの1機であり、1975年まで追分機関区で入れ替えに使用されていたものだ。そこには、説明版があって、そこに以下の様に記されている。「SLこそ我々が真の人間であり、勤勉であった時代の代物である」。
 蒸気機関車は、近代化の時代、動力、移動、労働の象徴的存在だった。熱を発生する石炭と、スチームの源となる水を必要とする様、上り勾配で必死にあえいで、大量の煙を発生する様子は、生命力に溢れ、迫力満点だった。しかし、時代が変遷するにともなって、彼らは、またたくまに、それまでのことが夢であったかのように、大地から姿を消していった。その生き様に、人間的な美点に通じる何かを見出したとしても、何ら不思議なことはないだろう。
 本書は、そんな蒸気機関車終焉の時代に、彼らを追った人たちによる渾身のドキュメントだ。写真と文章に加え、時刻表・ダイヤをはじめとする各種資料により、焦点を定めた詳細な記録が綴られている。
 人は成長する過程で、ある象徴的なワンシーンを克明に記憶することがある。私は蒸気機関車終焉間近な時に生まれた。幼少のころ両親に連れられて見た蒸気機関車が牽く貨物列車とその煙が空にたなびく様が、なぜか強く、断片的ではあるが、脳裡にある。私の場合、鉄道に関連した記憶断片が多い。生まれ育った札幌の路面電車のつり革の揺れる様。瀬棚線で瀬棚に向かう際、込み合っていて通路に荷物を置いてそこに座った時の様子。高架化前の札幌駅で、夜行急行大雪を待った地下改札口の風景、そして、かつての札幌駅で、北の端の離れのようなところにあった札沼線のホーム、札幌駅の南北をつないでいた長い地下通路(この地下通路の入り口は、今も業務用扉として地下街からさらに下る階段とともに残っている。)。それらが、年月を経た今も、鮮明に蘇る。
 本書は、そのような脳裏に焼き付く瞬間を、写真、資料を交えてドキュメントにしたてたものだ。郷愁を誘う情緒とともに、幻が突如として克明な姿を帯びて目の前に現れたような不思議さを感じつつ見入ってしまった。
 片岡俊夫氏の夕張鉄道に関する記載は感慨深い。というのは、私の父は1969~75年の間、北海道中を蒸気機関車目当てに巡り歩き、膨大な写真を残したのだが、中で「いちばん思い出に残っているシーン」というのが、夕張鉄道の平和の大カーブだったのだ。夕張鉄道の平和鉱を出た貨物列車は、突然立ちはだかる急勾配に対し、編成の最後尾に補機を付け、いったんバックした上で、汽笛で呼応し、たちまちのうちに全速に達し、そのまま急勾配に突入していったのだそうだ。その迫力たるや凄まじかったという。また、勾配を運炭列車が登って行ったあと、しばらくして途中で切り離された補機が、しずしずと線路をただ一機となって戻ってくるのだが、その雰囲気もまた忘れられないものだったという。片岡氏のレポートは、その平和の大カーブに関するもの。父の写真と符合し、ストーリーを補完してくれるものだった。
 沼ノ端付近のダイナミックで雄大、大陸的な線形に記載が及ぶ「北の運炭動脈を往く」、かつては、美唄鉄道に転用されたE1タンク型が活躍した矢立峠の記事、1969年8月、東京を最後に去った蒸気機関車C57105を思い返す「墨東の残煙」、最後に室蘭線で姿を残したD52に関する記述、そして、最果ての地の呼び名がふさわしい道北の当時の鉄道運輸事情とその叙景を紹介する「サロベツ紀行」。どれも読みごたえ、見ごたえ満点の素晴らしい冊子となっている。

ドキュメント・感動の所在地―忘れえぬ鉄道情景 (3) 椎橋俊之著

レビュー日:2017.4.18
★★★★★ C62重連急行「ニセコ」が人々に残したもの
 2001年に「感動の所在地」と題してネコ・パブリッシングから出版された全3冊シリーズの第3巻。1960年代から70年代初めにかけて、蒸気機関車の姿を中心に、当時の「鉄道」の姿を追いかけた人々による「ドキュメンタリー」という体裁だ。19 x 13.2cmという大判の書籍で、全312ページ。貴重な写真、資料がルポルタージュ的にまとめられており、いくつかの視点から深く掘り下げた構成が特徴だ。ページ数と併せて目次を転載すると、以下の通り。
壊れたカメラがくれた「感動」  4
大畑ループの方向 矢岳越えに挑む重装備機  7
〔解説〕矢岳越え、大畑ループの盛衰  27
美しきパシフィックの楽園 南九州/日豊本線・吉都線  37
〔解説〕日豊本線(宮崎-鹿児島間)の列車運転史  57
日本海回廊冬隣り 羽越本線  75
〔解説〕羽越本線(新津-秋田間)の輸送事情  95
東京どですかでん 都電有終の日々  107
オールドモーターの唸り 首都圏の旧型電機・旧型国電  127
■折り込み:函館本線列車ダイヤ(昭和42年3月1日現在・昭和44年10月1日改正)
C62急行「ニセコ」怒涛の256km
 氷雪のオタモイ峠へ  147
 銀山・上目名。重連の咆哮止まず  179
 限界の疾走。長万部~函館  211
 現車11輌。小樽めざし、漆黒の峠路へ。  231
●私の[感動の所在地]
 D51が来た・・  志水 茂  268
 客車なしの「ていね」  長谷川進吾  271
 「ニセコ」、忘れえぬその車中 伊藤功一  272
 “銀山”通い  佐野 孝  273
 「ニセコ」・・・あの頃  柳川知章  274
 〔解説〕函館本線C62の時代 その登場から引退まで  276
「ニセコ」・・・出会いと別れ あとがきにかえて  309
 全頁白黒。
 ・・・それでも時間通り「ニセコ」は銀山を登ってきた。厚い雪の幕の向こうから、全身にエネルギーを漲らせた鉄騎兵が信じられないスピードで近づいてくる。まるで神から授かった万有の力を誇示するように、目前を超短サイクルのドラフト重奏によるジェット音が飛び去っていく。それと同時に地を揺るがす振動が足元に響き、さらに全身に浴びたシンダの焦げ臭さがつんと鼻をつく。残煙が吹雪にかき消されるように薄れていくなかで、かつてない大いなる感動に全身が震え続けていた。
 椎橋俊之氏の巻頭文から引用させていただいた。
 私は、この冬、道東を旅し、流氷列車に乗り、釧網線を走るSL「冬の湿原号」を見てきた。廃止間近だった五十石駅を通過するその迫力と重量感に感動したが、椎橋氏の文章を読むと、往時の「ニセコ」は、それを遥かに上回る迫力で人々を捉えたに違いないことがわかる。
 蒸気機関車最後の時代、1970年代の初め。かろうじて北海道では優等列車を牽く蒸気機関車の姿が残っていた。その中でも象徴的な存在だったのがC62の重連が牽く急行「ニセコ」である。
 「ニセコ」は、札幌と函館を結んでいたが、平坦な室蘭線を経由せず、「山線」と呼ばれる小樽、倶知安を経由する函館線ルートで運行された。そのため、銀山-小沢間をはじめとする急勾配の豪雪地帯を通ることとなった。勾配に立ち向かうため、C62のカマは全力で燃焼し、その結果、大量の黒煙を排出した。気温の低い冬となると、これに真っ白な水蒸気が加わった。しかも、その速度が凄まじかった。
 私の父も、この時代、蒸気機関車の魅力に憑りつかれ、北海道各地に撮影で赴いたが、銀山-小沢間の「ニセコ」は別格だったと言う。とにかく速い。この急峻な道のりを、どうすればあそこまで疾走できるのだろう、というくらいの速さ。そしてその速さの源となる全体の機動に伴う躍動感。とにかく「速い」ので、「撮影は至難だった」とのこと。それでも、私の父は、時には母を連れだって、冬の間、何度も小沢を訪問し、カメラを構えたという。
 そのころのC62の編成は、C622とC623、C6215とC6216の2通りだった。そのうちC622は、国鉄全盛期を象徴する特急「つばめ」を牽いていた機関車で、その除煙板には「スワロー・エンジェル」と呼ばれる燕の刻印があった。だから、急行「ニセコ」は、蒸気機関車ファンにとって、果てしない象徴的存在だった。
 「感動の所在地」シリーズの最終巻となる本巻は、312ページ中半分以上がこの「ニセコ」に係わる記事と写真である。本書を読むと、どれほどの人たちが、あのひと時の急行「ニセコ」に、熱い思いを重ね合わせたのか、そして、「ニセコ」の姿に、人をそこまで惹きつけるものがあったのか、迫るように伝わってくる。
 現在では、わずかに復刻されて、穏やかに走るSLの姿を目にするのが精いっぱいとなってしまった。C62の重連が牽く「ニセコ」は二度と走ることはない。私は見ることは叶わなかった。しかし、それを見た人たちが共有した感動の所在地は、ここに記録されている。そして、「山線」は、幸い今も残っている。何度か訪ねた山間の静かな小駅、小沢をまた訪問してみようと思う。

私鉄紀行 北線路never again―昭和30年代北海道のローカル私鉄をたずねて〈上〉 湯口徹著

レビュー日:2017.7.31
★★★★★ 当時多くが未開の遠隔地だった北海道で記録された鉄道の姿 その1
 湯口徹氏が1957年の夏の終わりと1960年の晩冬から初春にかけて、北海道を訪問し、私鉄線の車輛を中心に撮影したものを、上下二巻に分けて紹介している。本巻はその「上巻」で、102ページ(全頁白黒)で、以下の鉄道が取り上げられている。
寿都鉄道  8
札幌市交通局  16
定山渓鉄道  18
三菱鉱業美唄鉄道  26
夕張鉄道  46
三菱鉱業大夕張鉱業所  70
専用鉄道三題  92
・・三菱鉱業芦別鉱業所専用鉄道 北海道炭砿汽船真谷地鉱業所専用鉄道 三井鉱山砂川鉱業所奈井江専用鉄道
 湯口氏が学生時代に、相当な労苦の末、当時交通事情のよくない北海道の隅々にまで分け入って撮りためた写真である。一枚一枚が、現代では考えられないほどの労力の代価として得た者であり、それを書籍という形で簡単に俯瞰させていただけるのは、ありがたいという他ない。
 上巻では「寿都鉄道」から始まる。北海道では一次産業やエネルギー産業の衰退に伴って、鉄道の多くも悲劇的末路をたどっているが、その象徴的な存在の一つと言って良い。他の路線も、札幌市交通局を除けば、すべてが過去のものである。それゆえに、本書の記録は貴重なのであるが。その札幌市交通局では、わずか2ページながら、市電路線を走った内燃動車が紹介されている。当時の札幌の市電路線には、「市電」と謳いながらも非電化の路線があったため、そのような車両が運用されていたのである。
 「定山渓鉄道」も悲運の路線と言って良い。確かに廃止の当時は一時的に経営悪化はしていたが、札幌市の人口流入、発展の速さをかんがみれば、将来的な有用性は明らかであったにもかかわらず、札幌オリンピックのための南北線建設の用地買収とのからみで廃止となった。ちなみに湯口氏は、定山渓鉄道の廃止にあたって、新製後わずか12年の気動車の売却が行われた形跡がないことについて「不思議でしかたがない」「なぜ売却されなかったのか」「札幌市の補償が手厚すぎたのか」と盛んに疑義を呈しておられるが、その通りで、オリンピックに浮かれた札幌市が、用地転用を急ぐために、定山渓鉄道職員をすべて札幌市職員化するという手厚さで、こまかいことはすべてヤミにされたのである。オリンピックの負の側面として、しかるべき記録を残すべき一件である。
 「三菱鉱業美唄鉄道」では、象徴的なE1タンク式蒸気機関車を中心に紹介されている。美唄鉄道は、アプローチが容易な上、撮影地点も豊富かつ運用されている蒸気機関車も魅力的であった。湯口氏は「もっと多くの報告があってもいいはず」と言っている。我田引水で恐縮ながら、私の父が70年代のはじめ、この鉄道の最後の時代に足しげく通って撮影した写真が多くあり、私のホームページで公開しているので、興味のある方はご覧いただきたい。
 他にも大夕張鉄道の明石町駅の風景、奈井江専用鉄道のC113、三菱鉱業芦別専用鉄道のC102とC103(この時代、けむりプロの「上芦別物語」の題材となった9201と9237はまだ転属していなかった)など、いずれも美しい写真である。紹介されている写真は「車輛」にターゲットを絞ったものが多く、できればもっと地域との関わりのような写真もほしいが、当時の状況を考えれば、とても「あれもこれも」と言えるものではない。当時の若者が、これらの記録のために費やした情熱に感謝して、ページをめくる。
 なお、全路線ではありませんが、引用路線の多くについて、当時の時刻表などが紹介されており、こちらもとても参考になります。

私鉄紀行 北線路never again―昭和30年代北海道のローカル私鉄をたずねて〈下〉 湯口徹著

レビュー日:2017.7.31
★★★★★ 当時多くが未開の遠隔地だった北海道で記録された鉄道の姿 その2
 湯口徹氏が1957年の夏の終わりと1960年の晩冬から初春にかけて、北海道を訪問し、私鉄線の車輛を中心に撮影したものを、上下二巻に分けて紹介している。本巻はその「下巻」で、122ページ(全頁白黒)で、以下の鉄道が取り上げられている。
羽幌炭砿鉄道  6
天塩鉄道  24
留萠鉄道  34
士別軌道  46
三井芦別鉄道  50
北海道拓殖鉄道  60
十勝鉄道  70
雄別炭砿鉄道  84
釧路臨港鉄道  108
 湯口氏が学生時代に、相当な労苦の末、当時交通事情のよくない北海道の隅々にまで分け入って撮りためた写真である。一枚一枚が、現代では考えられないほどの労力の代価として得た者であり、それを書籍という形で簡単に俯瞰させていただけるのは、ありがたいという他ない。
 この下巻には、3ページに及ぶ湯口氏の巻末文が添えられており、感慨深い。当時、北海道を旅することが、如何に時間と労力を要することであったか、まして、地方の鉄道の末端にまで探索範囲が及ぶとなれば、なおのことである。湯口氏は、アルバイトで稼いだお金で、周遊券を利用し、その間、駅や列車内で睡眠をとるようなことを頻繁に繰り返し、体力を維持しながら、北海道を巡ったとのこと。想像を絶するような行動力と探究心である。また、それほどまでに、当時の北海道には、ファンの気持ちを惹きつけてやまない鉄道たちが存在していたのである。
 当初で紹介されている鉄道は、釧路臨港鉄道の一部が現在も釧路コールマインの運炭に供されているのを除けば、すべて廃止されたもの。羽幌、天塩、留萠、芦別、雄別はいずれも運炭の使命を担ったもので、炭鉱とその運命を共にした。士別軌道、北海道拓殖鉄道、十勝鉄道は地域の開発のため、資源や生産物、そして人の交通に利用されたが、その使命を道路に譲ったものと言える。
 そのような背景があるため、北海道の往時の鉄道の姿には、どこか悲しげな物語が秘められているように映って仕方ない。実際、それらの美しさは、どこか儚さと同居した佇まいである。
 紹介は蒸気機関車が中心だが、羽幌炭砿鉄道や留萠鉄道のレールバス、天塩鉄道や三井芦別鉄道の客車、そして士別軌道の味わい深い木製の小さな客車など、えもいわれぬ風景とともに、当地のこの時代の様子を象徴的に示すものに思えてならない。また北海道拓殖鉄道の8622は、現在鹿追駅跡で保存されているし、十勝鉄道の4号機とコハ23の客車は、現在帯広市内のとてっぽ通りできれいに保存されているが、それ以前の1960年当時、帯広市郷土資料館で保存されている様子なども紹介されており、興味は尽きない。雄別鉄道の通勤列車、釧路臨港鉄道の乗客でいっぱいの車輛と、いずれもこのような時代があったのだとあらためて感慨にひたらせてくれる。
 当時の一人の青年の情熱によって記録された無二の記録である。
 なお、基本的に写真は車輛紹介が中心となっている。また当時の時刻表や乗車券も紹介されており、資料的にも貴重なものが詰まった一冊となっています。ぜひ、上下巻併せて揃えたい。

昭和30年代~50年代の地方私鉄を歩く 第1巻 時刻表から消えた北海道の私鉄 髙井薫平著

レビュー日:2022.2.24
★★★★★ 去りゆくものたちの美を収めた一冊
 高井薫平氏編による、私鉄王国と呼ばれた時代の北海道の鉄道写真を集めた1冊。サイズ感も十分で、掲載量も十分良心的であり、オススメできる内容。写真は、車両をターゲットとした資料的なものが多い印象だが、もちろんそれ自体も貴重だし、他にも当時の風景を含めて美しく捉えたものもそれなりに揃っており、両面から楽しめる内容と言えるだろう。掲載内容の参考に、以下に目次を転載する。
第1章 カラーで見る北海道の私鉄  11
第2章 時刻表から消えた北海道の私鉄  25
 寿都鉄道  32
 定山渓鉄道  42
 旭川電気軌道  62
 夕張鉄道  78
 三菱石炭鉱業大夕張線  92
 三菱鉱業美唄鉄道線  100
 三井芦別鉄道  112
 北海道拓殖鉄道  120
 十勝鉄道  126
 雄別鉄道  132
 釧路臨港鉄道  148
 根室拓殖鉄道  152
 士別軌道  160
 留萠鉄道  162
 天塩炭礦鉄道  170
 羽幌炭礦鉄道  176
 簡易軌道  184
 北海道の車両メーカー  200
(コラム 北海道の炭鉱と鉄道 石川孝織  74)
 このうち第1章がカラー写真。第2章に掲載されているものはすべて白黒となっている。時代を考えると、カラー写真が稀少であることは仕方がない。カラー写真ではJ.W.ヒギンズが撮影した寿都鉄道の8100型蒸気機関車など、とても貴重。ヒギンズ氏の写真は当該欄で多く引用されており、他の書籍との重複があるとは言え、さすがである。夕張鉄道の転車台に乗る12号機や、鹿ノ谷車両区の風景も素晴らしい。
 各鉄道線ごとの紹介では、しばしば当時の地形図など参照引用してくれているのは、いいサービスだ。印象に残った写真をいくつか紹介したい。「定山渓鉄道」では冒頭の雪の中の小金湯駅の雰囲気が素晴らしい。特に2階建ての木造駅舎は、今残っていれば、立派な観光名所になったのではないか、と思えるような貫禄だ。「旭川電気軌道」では、いかにも風格ある10号車が味わい深い。三井芦別鉄道では機関区にたたずむ個性的な蒸気機関車たちが印象深い。三井芦別駅など、現在残る駅跡からは想像できないほど大きな施設だったことがわかる。夕張鉄道は末端部のヤマを背景とした構内風景に魅了される。北海道拓殖鉄道では、これだけ駅舎がしっかりと捉えられている南新得駅の写真ははじめて見た。雄別鉄道、留萠鉄道では、それぞれ港湾部の鉄道施設を含んだ航空写真が掲載されおり、当時のにぎわいやエネルギーが伝わってくるようだ。士別軌道では、愛らしい機関車たちが魅力いっぱい。簡易軌道に関しては、北海道の拓殖のため、地域深くに張り巡らされたひょろひょろの線路が印象的だ。最近では、これらの軌道の注目度が高まり、様々な写真がネット上で公開されたり、書籍に収められて出版されたりするようになってきたのは、なんともありがたい。
 表題にある通り、これらの鉄道は、現在ではすべて廃止されてしまっている。鉄道好きな私などは、もう乗ることの叶わない鉄道たちに乗るかわりに、廃線跡を探訪することがある。いわゆる代償行為であろうが、過疎化の進む北海道では、かつて切り開かれ、農地化された場所も、次々と放擲され、人の通わぬ原野へと戻っているところが無数にある。果たして、この世の中が、あるべき姿に向かっているのか、疑問に苛まれるのも、日常茶飯事である。
 特に「定山渓鉄道」は、輸送密度1,000人/日kmを超える大都市近郊の電化鉄道で、国内で唯一廃止になった不遇の鉄道である。札幌オリンピック(1972年)のため、会場である真駒内までの新交通システムを開業したい札幌市の思惑に併せて、1966年に北海道警察本部から定山渓鉄道に対して、豊平駅近くの国道36号線上の踏切が交通上の障害になっているため、高架化もしくは廃止撤去するなどの適切な処置を取るよう、勧告が行われるとともに、定山渓鉄道の職員の札幌市職員化等の優遇条件を並べ立て、政治主導で廃止となった路線である。東急資本下であった定山渓鉄道は、周辺の学校誘致や商業地や宅地の開発にも積極的だったが、廃止の措置は、結果的に札幌市から私鉄資本による開発と民需を喪失させた。オリンピックを機に、札幌市は大都市でありながら、大規模開発はすべて公が担わなくてはならない官主導のみでしか発展できない町となってしまった。加えて、定山渓鉄道は、美しい路線風景を持っていた。「定山渓鉄道沿線には風光明媚な景観が数多く連なるのですが、中でも車窓からの眺めがもっとも際立っていたのは、簾舞停留場から豊滝、滝の沢停留場までの区間だと思います。簾舞を出た定山渓行電車の右側車窓には、すぐ眼下に豊平川が迫り、そして対岸すぐ目の前に標高498mの八剣山が迫ります。観音岩山という本名がありながら、まるで八つの剣を天空へ突き出しているような様相からいつともなく八剣山と名付けられ、豊平川の濁流がその足元を洗いながら屈曲する様、刻々と変化するその剣の姿を車窓から眺められるのは定山渓鉄道の醍醐味でした。これは、鉄道末期に国道が改良されてもなお、クルマからは決して体感できないダイナミックなビューポイントでもあったのです。」~これは久保ヒデキ氏編「定山渓鉄道」に書かれている印象的な一説である。紅葉の時期に観光列車でも走らせれば、多くの人を呼び込めたに違いない。北海道では、いま現在も、廃止路線が増えている状況であるが、いまいちど、鉄道の価値とは、単に収支だけで測るべきものなのか、地域にとって、どのように多角的多層的な意義を持っているのか、後戻りできないだけに、慎重な検討を重ねてほしいと思う。
 なお、本書末尾には、掲載対象私鉄機関車の車両諸元表が添付されており、こちらも良い資料となっています。

昭和30年代~50年代の地方私鉄を歩く 第2巻 北海道の炭鉱鉄道・森林鉄道 髙井薫平著

レビュー日:2024.2.29
★★★★★ 北海道が「鉄道王国」と呼ばれた時代の記録
 高井薫平氏編・著の「昭和30年代~50年代の地方私鉄を歩く」シリーズの第2巻として刊行されたもので、対象は「北海道の炭鉱鉄道・森林鉄道」となる。まず、内容の紹介がてら、目次を転載させていただこう。
鉄道の位置図  4
まえがき  6
第1章 カラーフィルムで記録された北海道の裏方たち  7
 現役当時の記録  8
 保存車両  15
 動態保存車両  22
 絵葉書  24
 吉田初三郎の鳥観図  28
 炭鉱地帯周辺の地形図  36
第2章 モノクロームで記録された北海道の裏方たち  43
1.炭鉱鉄道 炭鉱の主役だったアメリカン2形式  44
  1-1. 石狩炭田を歩く
 北海道炭礦汽船真谷地鉱業所専用鉄道  46
 北西炭礦美流渡鉱業所専用鉄道  52
 三菱鉱業油谷鉱業所  55
 三美運輸専用線(南美唄構内)  56
 角田炭鉱の電車(北海道炭礦汽船角田炭鉱専用鉄道)  58
 【コラム】その後の夕張(奥山道紀)  59
 三菱鉱業芦別鉱業所専用鉄道  64
 【コラム】上芦別の9200形(下島啓亨)  66
 三菱鉱業茶志内炭鉱専用鉄道  68
 三井鉱山奈井江専用鉄道  70
 雄別炭鉱茂尻専用線  76
  1-2. 釧路界隈
 雄別炭鉱埠線  77
 雄別炭鉱尺別炭鉱線  80
 本岐炭鉱  84
 明治鉱業庶路炭鉱専用線  85
 釧路臨港鉄道  86
 【コラム】国内最後の炭鉱鉄道、釧路臨港鉄道(石川孝織)  93
  1-3. 道北の炭鉱鉄道など
 明治鉱業昭和炭鉱専用線  100
 藤田鉱業小石専用線  101
 日曹炭礦天塩鉱業所専用鉄道  103
 茅沼炭化鉱業専用線  110
【コラム】国富鉱業所  113
2.工場専用線
 運輸鉱業桑園事業所  114
 日本セメント上磯鉄道  115
 苫小牧港開発  122
 新日本製鉄室蘭製鐵所・日本製鋼室蘭工場及び関連会社  123
 北日本製紙江別工場専用線  124
 日本甜菜製糖専用線  125
3.森林鉄道、客土事業、河川改修事業
 北海道の森林鉄道の概念  131
 置戸森林鉄道  134
 定山渓森林鉄道  135
 芦別森林鉄道  137
 温根湯森林鉄道  143
 足寄森林鉄道  145
 主夕張森林鉄道  145
 武利意森林鉄道  148
【コラム】丸瀬布で過ごした日々(山内一)  149
 士別森林鉄道  154
 幾春別森林鉄道  157
 陸別・トマム森林鉄道  159
 客土事業・河川改修事業  160
あとがき  162
参考文献  163
車両諸元表  164
 以上の通り目次をご覧いただくとわかるが、対象となっているのは、北海道の第一次産業、第二次産業と密接な関わり合いをもった鉄道たちであり、これを「裏方たち」と表現している。ご存じの通り、これらの産業が盛んだった時代は、殖産興業の時代であり、経済成長の著しい時代でもある。その後のエネルギー革命により、国内におけるこれらの産業は衰微し、特にそのシェアが大きかった北海道において、その影響は大きく、本書で取り上げられている鉄道は、すべて現在では存在していない。本書中でも取り上げられているが、もっとも最近まで活躍していたのは、釧路コールマインの運炭の役目を担ってきた「釧路臨港鉄道」であったが、それも2019年で廃止となった。かつて鉄道王国と称された北海道は、時代の流れと共に、その姿を劇的に変え、いまでは一部を除いたたいていの地が、自然に還りゆくところである。
 本書は、そんな鉄道たちの往時の姿を集めたもので、貴重な写真が掲載されており、特に森林鉄道を対象にこれだけの範囲で写真を収集したものは、これまでになかったのではないか。といっても、枚数に限りがあるのは実情ではあるが、それでも、貴重なことは間違いないし、一冊の書籍にまとめてくれたのは、ありがたい。
 写真は、「車両」そのものがターゲットになっているものが多い。もちろん、選炭施設など、関連オブジェクトを含めたショットもそれなりにあるが、当時の鉄道写真家にとって、まずは様々な車両を記録したいということが主眼であったのは、当然のことであろう。結果として、情緒的なものより、資料的なスタイルの写真の方が分量としては多い。そういった点で、車両そのものに興味のある人には、とても参考になるだろう。もちろん、全体からは、当時の北海道ならではの、大自然と大規模産業施設のおりなす独特の風情も伝わってきており、そういった点でも、読者の心を満たしてくれるだろう。
 本書特有の記事として、「大正の広重」の異名を持った吉田初三郎(1884-1995)の鳥観図が何点か収録されていることがある。私も吉田初三郎の鳥観図はたびたび見る機会があるのだが、思わぬ当時の状況の記録があったりして、かなり面白いものとなっている。本書が鉄道の記録の一つという視点を踏まえて紹介してくれているのはありがたい。
 また、夕張地区、幌内地区、釧路地区の、鉄道繁栄時代の地形図が紹介されているのもファンにはありがたい。できれば、様々な専用線等についても、当時の線形を復元し、可能であれば、撮影場所も示していただければと思うのだが、これは、今となっては限界があることは、私もよく知っている。
 とはいえ、前述のように、当時の北海道が、なにゆえ「鉄道王国」と言われたのかを、如実に示す1冊であり、興味のある人であれば、存分に楽しめる内容となっている。

日本鉄道旅行歴史地図帳 1号―全線全駅全優等列車 北海道 (新潮「旅」ムック)

レビュー日:2017.10.16
★★★★★ 趣味性・網羅性を目指した一冊。将来の完成への布石と考えて、今後もよろしくお願いします。
 北海道にかつて敷設・運用された鉄道たちの情報を、マップ上に集約することを主目的とし(本文中以外に、同内容のものを一枚にまとめた大判一枚ものの地図が添付されています)、廉価、軽量な一冊の書物に網羅性の高い情報を集約したもので、趣味性を踏まえ、的確に編集された印象。一応、目次を書く。(ただし、目次掲載が担当者別になっており、かならずしも掲載順ではない。併記したページ数を参照されたい)
北海道の鉄道 寺本光照
明治・大正 6
昭和戦前 10
 戦後①(昭和20年~40年) 12
 戦後②(昭和40年~62年) 16
 平成 20
 私鉄旅客数ランキング 11
 急行列車にも愛称名 13
 臨時急行「大平原」 17
 JR特急表定速度ベスト5 20
鉄道旅行 100年 内田宗治
 明治大正の北海道旅行 8
 カニ族と北海道ワイド周遊券 18
駅弁掛紙歴史館 上杉剛嗣
 代用食だった森の「いかめし」 9
私の鉄道旅行 服部重敬
 夜行11泊!SL撮影周遊券の旅 19
書き残された車窓 原 武史
 慧眼の人々が凝視した北海道の自然
駅定点観測 赤澤良久
 昭和39年10月1日 函館駅に多彩な顔ぶれ 33
鉄道人国記 杉﨑行恭
 重要幹線を守った防雪林の技師・深川冬至 7
鉄道歴史地図
 道南・道央 24-25
 道東 26-27
 道北 28-29
 札幌 30-31
 函館・旭川 32
昭和30年8月1日国鉄蒸気機関車配置表 14
 昭和30年代~40年代、有名撮影地一覧表 〔解説〕 前里 孝
系統図
 気動車準急系統図 13
 札幌都市圏快速列車変遷系統図 21
 多層建て列車系統図① 37
 大雪(下り)系統図 49
 多層建て列車系統図② 50
列車年表 北海道 34
鉄道旅行総合年表 北海道 58
 少なくとも、私の様に、時刻表や地図帳に愛着を持ち、旅をしてきた人間には、とても楽しめる内容となっている。相性のついた列車の歴史情報を網羅してくれたり、列車前面のデザインを一通り示してくれたりしているのもありがたい。ピックアップ型の解説も、網羅的ではないが、それなりの思い入れを反映したもので興味深いのである。
 ただ、本書の主眼であろう「地図」については、付け替え線なども含めて、時には時系列も踏まえてきれいにまとめてくれている一方で、抜けているものが多すぎるように思う。駅構内をほとんど出ないような短小な専用線等については致し方ないとおもうのだけれど、そうではない規模のものまで抜け落ちてしまっている。以下、私が気付いた「掲載落ち」路線である。路線名カッコ内に起点駅を示すので、こちらも参考にされたい。
・上ノ国森林鉄道(石崎漁港)
・志村化工伊達工場専用線(長和)
・道南製糖所専用線(伊達紋別)
・登別の砂利専用線(登別)
・三井軌道(西様似漁港)
・大和田炭砿運炭用馬鉄(留萌)
・トマム森林鉄道(落合)
・加利庶炭砿運炭馬鉄(白糠)
・飽別発電所建設資材搬送馬鉄(大楽毛)
・別保炭山運炭軌道(別保)
・上尾幌森林鉄道(上尾幌)
・門静の砂利専用線(門静)
・軍施設建設用専用線(止別)
・岸尾木材店森林軌道(留辺蘂)
  ・富士製紙馬鉄(中湧別)
・上興部石灰砿業所専用線(上興部)
・宇津内森林鉄道(下頓別)
・藤田炭鉱宗谷鉱業所専用線(小石)
・曲淵炭鉱専用線(曲淵)
 まあ、正直言って、ここまで気付く人はほとんどいないというレベルであることは自覚していますが(笑)、とはいえ、本書の目的は、そのような趣味性の高い人たちの「教科書的」存在となることであったと思うので、是非、これからも網羅性を目指して、さらに取り組んでいただければと思う。
 また、森林鉄道については、幹線と代表的な支線が記載される形になっているが、こちらも、いくつか研究書などで、精度の高いデータが報告されるようになってきているので、そのような情報も集約していってほしい。
 理想を言えば、これらのデータがPCにインストール出来て、様々な縮尺で、現在で言えばどの個所を線路が通り、どこに駅があったのかなどわかることができれば、将来的には素晴らしいかと思います。
 最後に・・北海道ではあまりにも多くの線路が失われてしまいました。産業用線路ならまだしも、80年代以後は生活路線、インフラに分類されるものまで、単純な鉄道営業の収支という観点で廃止されています。その廃止の判断は、利用者の声を聞くかのようなふりをしてふっと出てきたその地に無関係で愛着もなにもない第三者が、勝手に大ナタを振り落して去っていくような手法で行われています。今現在に至って、そのような方向性がいかに北海道を衰退させたかが、明瞭に証明されることとなってしまいました。他の地方・地域が同じ轍を踏むことがないよう、切に望みます。

北海道の廃線アルバム 野沢敬次著

レビュー日:2018.10.19
★★★★★ 素晴らしい本です
 著名な鉄道写真家、野沢敬次(1959-)氏の編著による「北海道の廃線アルバム」と題した冊子。野沢氏だけでなく、安田就視(1937-)氏など、著名な鉄道写真家の貴重な記録を集めたもの。カラー・白黒。カラー写真はすべてカラーのまま印刷されている。対象となっている路線は「鉄道全盛期に時刻表に掲載されていた路線」とのことで、専用鉄道、森林鉄道、簡易軌道等は含まれていない。(簡易軌道のうち、歌登、鶴居については時刻表に掲載されていたが、本書の掲載対象にはなっていない)。
 目次を転載しよう。
第1章 道北の鉄道
天北線、興浜北線、興浜南線、羽幌線、羽幌炭礦鉄道、天塩炭礦鉄道、美幸線、深名線、名寄本線、渚滑線、湧網線、留萌本線(廃止区間)、留萠鉄道、旭川電気軌道、士別軌道
第2章 道東の鉄道
池北線、相生線、根北線、標津線、白糠線、広尾線、根室本線(狩勝旧線)、北海道拓殖鉄道、根室拓殖鉄道、釧路臨港鉄道、雄別鉄道
第3章 道央の鉄道
歌志内線、函館本線支線、幌内線、万字線、札沼線(廃止区間)、富内線、北海道炭礦汽船夕張鉄道線、三井芦別鉄道、三菱鉱業美唄鉄道、三菱石炭鉱業大夕張鉄道、夕張線、定山渓鉄道
第4章 道南の鉄道
岩内線、胆振線、瀬棚線、松前線、江差線、寿都鉄道、青函航路
 それぞれ各路線の概略が記述され、写真ごとに場所、日時等の属性と簡単な解説が付されている。いずれも美しいもので、蒸気機関車時代のものから、80年代まで、様々である。ことに「冬晴れ」の日の各路線の情景は美しい。郷愁をかきたてる写真も多く、仁宇布駅の冬の黄昏の光景など、深く印象に刻まれる。羽幌線、興浜北線、興浜南線、湧網線、富内線、胆振線など風光明媚な地域を走っていた路線はどこをとっても絵のように美しい。紙面の関係から、各路線で紹介される写真の数は、数枚前後と制約があるが、それなりに厳選を経たものであるし、広範囲に収集する努力を惜しまず編集した成果がみてとれ、良心的である。幸い紹介されることとなった今は亡き駅舎であったり、機関車であったりという風景は、無類の情感を呼ぶ。印刷、紙質も良好だ。
 さて、それにしても、と思うのは、当書と直接関係することではないかもしれないが、北海道の厳しさのことである。これらの路線の中には、産業の移り変わりにより、当初の役目を終えたと言えるものもあるとはいえ、地域の生活を支える、いわゆるインフラとしての役割を併せ持っていたものがほとんどである。それらが、単に収益という観点から廃止され、鬼籍に名を連ねることが、この地域の厳しさの象徴となっている。特に、北海道の場合、厳しい冬がある。雪に覆われる冬こそ、特に長距離移動において鉄道の果たす役割は大きかったのだが、それが多くの地域から根こそぎ奪われたのは、耐雪の維持費と不可分ではない。
 だが、そのことに私は疑義を感じてしまう。厳しい冬という実情があるからこそ、鉄道は公的負担により維持されてしかるべきであり、それを民間産業と同じような価値軸~単に運賃収入を維持費で割ったもの~でその価値を図って切り捨てることが妥当であったとは、到底思えない。私は個人的には、電力、郵便、通信、交通等の生活基盤となるインフラは、公が管理するべきものだと思っている。しかし、いつの頃からかこの国は、とにかく民営化、民間委託することが良いことで、それに抗うものは「抵抗勢力」と呼ばれるようになった。極端な話、電力や郵便、通信であっても、民営化された現在であれば、企業の論理でペイしない土地から撤退することは十分に合理的なこととなってしまっているし、現在の社会的方向性はそちらを向いている。そのことに、明瞭に警鐘を鳴らす意見が、より大きくなるべきではないのだろうか。
 加えて、国鉄再建法により、80年代に国鉄線の多くが廃止された際、政府は国会答弁等で、「これ以上の廃止はない」旨を何度も繰り返したのである。しかし、それからわずか30年の今日、その言質を顧みるどころか、JRに是正勧告という名で、廃止推進を諭しかねない態度を示す。それは、地域の住民にとって、多重の背信行為にほかならないだろう。そうであっても、圧倒的に人口の少ない地域の声は、たとえ正論であっても、大都市圏に住む人たちのがなり声にかき消される。悲劇である。
 私はすべての路線を残し維持すべきだったと言っているわけではない。中には運炭鉄道や森林鉄道、簡易軌道のように、その使命をまっとうしたものや、実際に利用実態がわずかしかないものもあっただろう。しかし、生活路線として利用されている多くの路線が廃止されていったこともまた事実である。当時、廃止の目安としたものが「輸送密度」という指標であった。これは人口における利用率ではなく、単純に利用者の絶対数を背景とした指標であったため、元来人口密度の少ない北海道で用いるには本来不適切な指標であり、地元の人の多くが利用していても、その実情は反映されず、達成不可能な基準となってしまった。そのため、利用の実態とは関係なく、次々と狙い撃つように路線が廃止となっていった。実際、私が乗った多くの路線では、時には通路まで一杯の利用者がいたのである。しかし、地域の人の多くが利用しても、地域の人口自体が少なければ、先の指標により「利用価値のない」「無用な」ものと見做された。現地の状況を知らない人が、まるで、我がことの利益に係る重大事のように「廃止すべき」という論調を掲げることもあった。
 紋別という町がある。町を通じる名寄線が廃止されたとき、この駅の一日の乗客数が800人。人口3万人の町の一駅で800人が列車に乗車していたのである。この比率は、当該年度の札幌市の人口と札幌駅の乗客数の比と大きく変わるものではない。紋別市の両隣の興部町、湧別町にいたっては、当時の人口:代表駅の1日利用者数比はさらに高まり、それぞれ6,600人:403人、1万7千人:686人で、当時札幌よりも、はるかにこれらの町の方が、「日常的に鉄道を利用する人の割合」は高く、依存度が大きかったのである。つまり、当時もっともらしく囁かれた「現地の人が利用してない」は、現状を知らない都会に住んでいる人たちが、たまにTVに映る乗客の少ないディーゼルカーの映像か何かから刷り込まれたであろう勝手な妄想でしかなかった。
 しかし、名寄線は廃止された。紋別市は、廃止まで5年間の人口減少率が1%であったが、路線廃止後は、それがおよそ5%となり、一層の過疎化が進んでいる。鉄道の廃止だけが原因ではないだろうが、その一方で、鉄道路線図の変遷を見ると、私は隅々まで血の通わなくなった組織を彷彿とさせる。そういった意味で、この大廃止時代は、過疎化に拍車がかかった象徴的時期に思えてならない。
 そもそも、先進国において、鉄道事業だけで経営を成り立たせることは至難である。多くの国において、鉄道は国営、もしくはいわゆる上下分離方式により、施設を公が維持した上で、運行のみを民間委託している。そうやって、鉄道を維持している。なぜか。それは、単に鉄道が地域のライフラインだというだけでなく、観光を含めた「人の移動」自体に、社会的に様々な意味での「価値」があることを、社会と地域が理解し認識しているためだ。いわゆる「物流」とよばれるものの価値は多元的なものなのである。ところが、日本ではこの感覚が非常に薄く、特に最近では、一民間会社の収支という観点ばかりが考えられるようになってきている。
 鉄道利用者の数が減っている。これだけ多くの路線が廃止されているのだから当たり前でもある。私も、もしかつてのように鉄道網が充実していたのなら、当然のように鉄道を利用していた行程であっても、鉄道がなくなってはどうしようもない、他の交通機関を利用する。ローカル線という枝を振り払ったら、幹線という幹が枯れてくるのは自然の摂理だ。二次交通網がなくれば、一次交通網も衰退するのである。バスで代替といっても限度がある。そもそも、冬期間のバスの運行は当てにならないことが多いし、遠距離であれば、いくつものバスに乗り継ぐことになる。吹雪の中、いつ来るともしれないバスを待つのは、大げさではなく命がけだ。実質的にそれは利用のハードルを大きく上げることになる。旅行者の足は遠のく。利便性が低下し、地域の価値が下がる。衰退する。だいたい、バス転換したとしても、いまの時代、バスの運転手も台数も確保できない。北海道のように、冬季の道路条件の厳しいところではなおさらである。結果として、あちこちの集落が消失する。消失する集落の規模が大きくなってきているところがさらに恐ろしい。そのような現実を知らない人が、まったくの圏外に居住し、安穏な生活を送りながら、「収支が上がらないのだから廃止は当然だ」みたいなことを平然と言ってのけたりする。そもそも「世間の声」とは、「無責任」の代名詞のようなものである。地域から公的交通を奪った「世間の声」は、自動車を持たなくては生活できない状況に押し込められた人々に対し、今度は「高齢になったら危険だから運転するな」と言う。
 本書の美しさと本質的に関係のないことを書いてしまったが、それでも、せめて本書に興味を持つ人には、ただきれいだな、と感じるだけでなく、そこで生活している人がいて、その大事な基盤が失われたのだという今と地続きな現実を知っていただきたい。それが私の気持ちです。

日高線の記憶 番匠克久著

レビュー日:2021.3.22
★★★★★ 我々は何を捨て去って行くのか
 かつての国鉄線、のちのJR線を含めて、北海道でいちばん美しい車窓を持っていた路線はどこだろう。現役線では、狩勝峠、馬主来沼、厚岸湖、チライベツ湿原などが見渡せる根室線、釧路湿原、斜里岳、オホーツク海が見渡せる釧網線、大沼・小沼と駒ヶ岳、内浦湾、ニセコの山々を望める函館線、天塩川、日本海に浮かぶ利尻島を遥かに見渡す宗谷線、遠景に大雪山系、十勝岳連峰、近景に田園と花々の彩溢れる富良野線、函館湾の風景、津軽海峡の夜景が見える道南いさりび鉄道。鬼籍に入った線路に目を移せば、羽幌線、名寄線、興浜北線、興浜南線、湧網線、士幌線、富内線、万字線、胆振線、瀬棚線・・・。
 北海道に美しい車窓は数あれど、その中で、十分にベストを争うべき路線。それが日高本線であった。苫小牧を出た線路は、臨港工業地帯と勇払原野を見たのち、苫東厚真火力発電所の巨大設備のすぐ横を通り、鵡川駅に至る。その後、線路は太平洋岸に出て、海に面して急峻な岩山の下を進む。日高町では、豊郷駅、清畠駅と太平洋べりを進む。厚賀駅を過ぎて、厚別川橋梁はまるで海の中の一本道のよう。海の真横にある絶景駅、大狩部駅を過ぎてからも、線路は太平洋にぴったりと沿って続く。車窓からは見渡す限りの水平線が広がる。沿線最大の町、静内を過ぎると、今度はしばしば内陸側に進路を取るようになる。すると、車窓をにぎわすのは、沿線にある様々な個人農場で放牧されているサラブレットたちだ。サラブレットたちは、時に軽やかにギャロップしたり、ゆったりと遠くを見たりと、自由だ。ふと、いつのまにか自分が異世界に来たような気分になるだろう。あたりの駅舎たちには、昭和の国鉄時代の雰囲気をしっかり残しているものが多い。日高東別駅、本桐駅など味わい深い。蓬栄駅の手前では、蓬莱山と呼ばれる奇妙な岩山の真横を通る。近づく日高山脈。初夏になってもまだ白い残雪を頂いて輝いて見えるだろう。牧場に囲まれた絵笛駅は、まるで絵本の中の世界。物語の中にさ迷い込んだような駅だ。やがて日高の中心地・浦河に至る。浦河駅も、趣深い駅舎と跨線橋が美しい。広い構内は交換可能だった時代の名残だ。浦河の街中にある東町駅を出ると、ハイライトと言っても良い海岸の砂の上を線路は行く。岩山と太平洋の隙を通って、海に反射する光の中を走り抜けると、その先に見えてくるのは、名峰アポイ岳。日高幌別駅を出ると、もう一度線路は内陸に向かう。かつては森林資源の集積地だった西様似駅を出て、ついに終点、様似駅に到着する。そこでは、もう目の前にアポイ岳が見えている。襟裳岬めがけて、日高山脈に近づいてきた線路が行き着く町。様似。日高線沿線では、もっとも人口の少ない町だが、それゆえの旅情に溢れている。・・・そんな美しい日高線が、永遠に失われる。
 私が日高線を惜しいと思うのは、風光明媚な観光資源としてのポテンシャルが掘り起こされていない、というだけではない。そもそも、日高沿岸には、人口1万2千の日高町、人口2万3千の新ひだか町、人口1万3千の浦河町が並び、北海道の他地域と比較しても、相応の人口があり、かつ日高線はこの地域唯一の鉄道交通なのである。かつては、札幌から直通する急行列車が1日に3往復も運転され、相応の乗車率もあったのであるが、これらが廃止された要因としては、千歳線の列車密度の問題で間引きされたことが大きい。札幌直通運転を取りやめられただけではく、長く静内での乗り換えがきわめて不便なダイヤをあえて運用した時代があり、日高線のポテンシャルは、様々な外的要因で下げられた面があった。そして、最後は高波被害から復旧せず、そのままなし崩し的な廃止である。これほどの不遇に見舞われ続けた鉄道線は、他にないと言って良い。
 私個人的には、地域間をつなぐ長距離鉄道路線網については、ヨーロッパの多くの国がそうしているように、国営化、もしくは駅・線路等の施設は公営化した上で、鉄道運行のみを民間委託する形で保持すべきと考えている。それは、鉄道が、冬季でも安定な地域間交通を担っていること、鉄道の経済的効果は、運賃だけでなく、鉄道利用者による交流人口の増加による地域への貢献等を含めたより広い見地から検討すべきことなどを踏まえての考えである。しかし、日本では、そのような公的感覚に乏しく、単に一私企業の収益性という観点で議論が主導されてしまう。どう考えても、「そういうものではない」と思うのだが。
 と、いろいろ書いてしまったが、この写真集は本当に美しい。日高線の魅力を端的に集約し、「一目見て分かる」ものとして、これだけ完成度の高い本というのは、ちょっとないかもしれない。写真の力強さが凄い。これぞプロの写真だ、と感嘆させられる。黄金色に染まった勇払原野を行く気動車、真っ暗な太平洋を背に、か細い明かりをともす夜の大狩部駅、雲と波の中、ただ一本伸びる厚別川橋梁を渡る列車、海霧や朝焼けの中、海岸を走る単行気動車、サラブレッドたちがくつろぐ新緑の中を走る日高線、日高昆布が干される海岸を見ながら走る列車、そして味わい深い駅舎、列車にかかわる人々の豊かな表情。それらすべてが、活き活きと、かつ鮮明な色彩感で捉えられており、感嘆するしかない。これほどの写真家を魅了し続けた日高線。その思いが、全編から伝わってくる素晴らしい一冊だ。
 海、湿原、川、波、海岸、断崖、岩山、星、暗闇、光、花、雪、レトロな駅、サラブレット、人。。。すべてが、去りがたい捨てがたいものとして、刻まれている。

留萌線の記憶 番匠克久著

レビュー日:2023.5.1
★★★★★ 寂寥の念が沸き起こるほど切なく美しい写真集
 留萌本線は、函館本線の深川駅を起点とし、秩父別町、沼田町、留萌市を経て増毛町へと至る路線だった。1910年に留萌(当時名称:留萠)、1921年までに増毛駅までが開業した。「本線」と名乗ってはいたが、全長は66.8kmで、留萌駅で分岐し、日本海沿いに宗谷線幌延駅までを結んだ支線の「羽幌線(141.1km);1987年廃止」と比較し、本線より支線の方が倍以上長いという珍しいケースとしても知られた。
 留萌は漁業が盛んな重要な港湾都市であり、加えて留萌線沿線には産炭地が多くあったことから、これらの産業を支える輸送機関として留萌線は活躍した。途中駅の石狩沼田からは、札幌に向かう札沼線(1972年新十津川-石狩沼田間廃止)が分岐し、恵比島駅からは、昭和炭鉱、浅野炭鉱への留萠鉄道(1971年廃止)が分岐し、峠下駅付近では豊平炭鉱専用線(1948年頃廃止)が分岐していた。また、大和田駅近くには大和田炭鉱があって、かつては留萌港との間に馬鉄(1924年頃廃止)が運用されていた。留萌駅を起点とする天塩炭礦鉄道(1968年廃止)は、小平町達布周辺で採掘された石炭、それに達布森林鉄道(1958年廃止)によって集積した木材の搬送が行われた。当時の地図を見ると、これらの鉄道をはじめとする産業施設に彩られて、留萌市の賑やかさは際立っている。
 斯様に、かつては国の産業の成長期を支える存在の一つであった留萌線は、生産地である地方から消費地である大都市へ国策の中心が変化するに従いエネルギーや森林資源、食糧の調達先が国外になり、加えて、漁獲高も減少したこともあり、周辺地域とともに衰退の道を辿ることとなる。それでも、当該地域で最後まで残った留萌線であったが、2016年にまず留萌-増毛間が廃止となり、次いで、この2023年3月に留萌-石狩沼田間が廃止となった。最後に残った石狩沼田-深川間は2026年に廃止の予定という。
 「留萌線」の名称の通り、地域の中心地であった留萌までの区間が廃止されたことは、象徴的であり、実に寂しいことであるが、その節目を機に、「留萌線の記憶」と題された当写真集が刊行された。掲載されているのは、増毛までの全区間で、(歴史的写真以外)全ページカラー。道内に在住して鉄道写真の活動を行っている番匠克久(1965-)氏によるものである。氏の写真集では、私は「日高線の記憶」についても所有しており、その素晴らしさはレビューにも書かせていただいた。
 このたびの一冊も素晴らしい。私は「日高線の記憶」のレビューで、北海道の(失われたものも含む)絶景車窓例を、いろいろ書かせて頂いたのだけれど、留萌線のことを記載していなかった。しかし、この写真集を見て、何度も留萌線に乗った自分の記憶を辿れば、当然の事ながら、留萌線も、非常に美しい車窓を持っていたことに思い当たるのである。かつては、観光用トロッコ列車が運行されていたくらいに、付近の景色は美しかった。特に、日本海側の夕陽の風景は、一度それを目にしたものであれば、生涯忘れることはないだろうと思うほどに、壮絶な美しさだった。瀬越、礼受といったあたりは、真西に日本海を望む区間だったし、増毛の近くでは、桟橋状の高い区間から海原を見渡すことができた。
 海岸沿いだけではない。山間の交換駅である峠下駅付近の、美しい森林の風景、そして、恵比島駅と峠下駅の間では、高原の風景が展開するのだった。恵比島駅の近くでは、廃墟となったかつて留萠鉄道の本社だったビルが畑の中に忽然と聳えていて、それも留萌線の象徴的な景色に感ぜられたものだった。鉄道図書の編著作活動で知られる名取紀之(1957-)氏も、そのSNSをまとめた著作「編集長敬白」の中で、1974年に訪問した北海道のうちでも「留萌線の朝一番の下り列車から見る朝日は格別」だったとの思い出を述べている。
 当写真集は、確かな「情感」を宿した美しい風景たちが並ぶ。紅葉や雪に染まった大地を行く列車、西日を受けて輝く海沿いの駅舎、星が輝く夜空の下の小さな駅に立ち寄る気動車、収穫が近づく広大な稲作地帯を走る列車、四季折々の風景が、写真ならではの光のマジックを伴って描かれている。現地を知る者であれば、撮影地にたどり着くだけでも、相応の苦労を要するに違いない場所から撮影したものと推察できるものも多い。また気象条件など、絶好のタイミングを根気よく待ったに違いないものもたくさんある。それらを一気に、一冊で味わわせてくれるのは、このような写真集ならではの悦楽だろう。
 留萌線は豪雪地域を通る路線でもあった。運休も多かったが、豪雪地帯ゆえに地域の足としては貴重なもので、時刻表に掲載されていない地元住民専用(いつも満員のため)の列車も運転されていたし、比較的最近、満員で列車のため、乗り切れない人を駅に「積み残す」という事件があったのも留萌線である。
 雪は、維持費を嵩増しする。線路と駅の除雪、凍上現象からの路盤の保守。本来、自然の厳しい土地だからこそ、必要とされる交通機関であるはずなのに、その経費を理由に廃止されるという理不尽さ。だから、私は、この写真集に掲載された、美しい冬の風景(景色そのものは私も大好きなもの)に、様々な消化しきれない感情が沸き起こってしまう。自然環境が厳しいからこそ、そこに生きる人や、そこに旅に赴く人にとって、無二なものであるはず。それなのに、北海道では、次々に駅が廃止され、列車が減便され、果ては鉄道そのものが失われている。そのような社会が、果たして、豊かなものと言えるのだろうか?都市生活者ばかりが偏重され続けたまま過行く時間の中で、取り返しのつかないものが次々と失われている。それは、決して懐古主義や情緒趣味という狭義的なものではない。もっと大きく、社会の根底を壊し続けている野蛮な価値観が、ここ数十年、この国を覆っているような気がしてならないのだが。
 しかし、今やそのような悲嘆は個々人が胸に秘めるしかないのであろう。せめて、この美しい写真集のお陰で、私たちが失ったものを、共有できる機会を得て、慰めとしよう。

レイル〈No.79〉

レビュー日:2017.11.2
★★★★★ 簡易軌道の貴重な記録が収められています
 株式会社エリエイ出版部(プレス・アイゼンバーン)より出版されている季刊の鉄道記録雑誌「レイル」の通巻第79号で、2011年7月に刊行されたもの。本刊の内容は以下の通り。
終末期の簡易軌道見聞記 藤本哲男/福田静二/西村雅幸  4
茶内の想いでカラー 西村雅幸/福田静二  60
現存する簡易軌道の保存車輛 奥山道紀/笹 正之  62
現代中国蒸機の世界 第15回
遼寧省の現役蒸機を探る (2)
 ~北票炭鉱/渤海セメント/北台鋼鉄専用線~ 蔵重信隆  68
テルハの見える風景 その4
 写真:早川昭文/佐藤博紀 解説:佐藤博紀  86
レイルサロン
 誌上写真展 ナローテンダー機の走る鉄路 金澤 忠/蔵重信隆/杉 行夫/野口信夫
 もう1輌のC53 久保 敏  94
ヤードマン  98
 表紙の写真は1971年3月12日、西村雅幸氏が茶内で撮影した浜中町営軌道の写真である。
 本誌のメインは「簡易軌道」である。これは、かつて北海道の拓殖のため、道東・道北を中心に敷設された狭軌の軌道のことで、その歴史は1925年5月の厚床-中標津58kmの開通に遡る。当初は「殖民軌道」と称し、1932年までに13線区318kmが開業。開設時馬車鉄道であったが、1929年に根室線(厚床-中標津-浜標津)、枝幸線(小頓別-歌登-北見枝幸)にあいついでガソリンカーが導入され、その後も長大な線区を中心に動力化が行われる。1946年には、殖民軌道の総延長は600kmを越えた。1951年に北海道開発局が発足し、これと管理委託契約を結ぶ「町村営軌道」という形態で運営されるものが増えた。
 しかし、1960年代後半に入り、道路が改良化されるとともに、これらの軌道は廃止され、最後に残った茶内線が1972年5月1日に廃止され、殖民軌道の時代は終わりを告げる。表紙の写真は、そんな簡易軌道の「最後の一瞬」を捉えたもの、ということになる。
 簡易軌道の「被写体としての魅力」に注目が集まったのは、けむりプロによる「ミルクを飲みに来ませんか」と題した1970年9月号の鉄道ファンに掲載された一連の写真群である。当時残っている軌道は標茶、浜中、別海、幌延、歌登の5つのみであったが、その味わい豊かな風景と、北海道の開拓に大きな功績をもたらした軌道が世を去ろうとしている社会的背景も手伝って、他の撮影者たちによって、本書に掲載されたような貴重な写真がいくつか記録されることとなったのだろうと思う。
 私はこの秋、道東を訪問した。釧網線に揺られ、雌阿寒岳に登り、簡易軌道の跡も見てきた。中でも印象的だったのは、標茶町営軌道の支線の終着であった沼幌の風景である。この沼幌支線は、運用期間がわずかだったのだが、1970年と比較的最近まで運用されていた。そのため、関連施設であった軌道車庫と始発の運転士が宿泊した事務所の建物が残っているのである。といっても、それは道路に沿わない林の中であり、私は草薮をかき分けるようにしてそこにたどり着いたのである。林を吹き渡る風の中、泰然とたたずむ2棟の建物を目にし、様々な感慨が押し寄せた。二つの廃屋のような建物と、自分だけがその傍らに立つ時間に、なんとも言えない不思議な心持がしたものだ。
 これらの簡易軌道は、いっとき、忘れられた存在となっていたのだが、最近の鉄道ブームから、その歴史と記録に注目が高まってきたという。昨年度、釧路市立博物館では「釧路・根室の簡易軌道」展が行われ、多くの人が訪れ、記録をまとめた書物もたいへん好評だったらしい。
 本刊も、そのような流れも手伝って編集されたのだろう。貴重な写真の数々が掲載されていて、ありがたい。軽便鉄道ならではの「うらさびしさ」と「可愛らしさ」の同居した風情が、この時代ならではの風景とあいまって、絶妙の風合いをもたらしている。また、幌延の簡易軌道は、私の父も1970年に訪問して写真を撮影しているので、私にはさらにいろいろ思うところのあるものであった。本刊の撮影者は夜行急行利尻で幌延に至り、普通列車で軌道の起点である問寒別に引き返した、とあるが、おそらく私の父も、未明の幌延駅で、C55が牽く急行利尻を撮影していることから、同じルートをたどったて問寒別に入ったのだろう。感慨深い。
 写真は基本的には車輛(廃車含む)中心であるが、運行休止直後の標茶町開運町の様子など、切ない情景、その他北海道ならではの風景や、集乳施設を踏まえたものもある。加えて、時刻表なども示されていて、様々に資料的な意味のあるものとなっている。
 「簡易軌道」は、是非とも後世の人たちに記録を伝えたい文化資産であり、公共物であったと、あらためて感じいった。
 また「現代中国蒸機の世界」も興味深い。炭鉱や主要産業施設の撮影がここまで可能になったということに時代の流れを感じる一方で、上海のようにニューヨークと見まごう現代都市と、本書で紹介されているような日本の70年代を思わせる産業風景が同時に存する中国という国の大きさ、人口の多さに思いを馳せる。
 興味深い写真が全編に掲載された貴重な1冊となっている。

レイル〈No.96〉

レビュー日:2017.12.5
★★★★★ 大夕張鉄道を走った9200型の記録。
 株式会社エリエイ出版部(プレス・アイゼンバーン)より出版されている季刊の鉄道記録雑誌「レイル」の通巻第96号で、2015年10月に刊行されたもの。本刊の内容は以下の通り。
大夕張のダイコン
 ダイコンと愛称された9200形  奥山道紀  4
 レイルNo.21 北線路(上) 三菱鉱業 大夕張鉱業所(三菱大夕張炭鉱・三菱石炭鉱業)一部再録  湯口 徹  10
 グラフ 倉地光男さんのアルバムに寄せて  倉地光男/解説:奥山道紀  14
 グラフ 三菱大夕張鉄道のストラクチャーを見る  提供:三菱大夕張鉄道保存会  20
 道美し大夕張鉄道 路線図・各駅平面図。列車運行図表  提供:三菱大夕張鉄道保存会  24
日本鋼管の古典蒸気機関車
グラフ 日本鋼管鶴見製鉄所構内鉄道
 昭和43/1968年3月9日  田邉幸男  36
 昭和39/1964年12月25日  風間克美  42
日本鋼管鶴見製鉄所に古典蒸気機関車を尋ねて  田邉幸男  46
地形図と空中写真に見る製鉄所の変遷  62
鶴見駅 浅野駅とその周辺の今を観る  前里 孝  66
続・信楽線今昔
信楽線に混合列車を走らせた話  鈴木康夫  72
垣間見た信楽高原鐡道 雲井駅  前里 孝  80
昭和36/1961年2月25日 京都-亀山 日帰り撮影旅行 信楽線を中心に  中島忠夫  84
ヤードマン  98
 1984年のゴルデンウィーク、両親にどこに行きたいか訊かれた私がまっさきにあげたのは夕張だった。地図を見るのに夢中になっていた私は、北海道唯一の私鉄として、当時夕張線と清水沢と南大夕張の間の7.6kmを1日3往復旅客列車を走らせていた鉄道に、どうしても乗りたかったのである。 
 今でもその貫禄のある客車や、ゆったりと走る列車の雰囲気は記憶に残っている。夕張は、私の祖母が小学校の教員をしていた土地であり、また私の父が蒸気機関車の撮影にたびたび訪れていた土地でもある。鉄道好きが昂じて、私もまたこの土地に、縁が出来たのである。
 この夕張訪問は、私の小さい頃の記憶でも、ことに鮮明なもののひとつであるが、今現在、その痕跡を残しているのはわずかで、広いヤードを持つ清水沢の駅舎と、南大夕張駅跡にたたずむ保存車輛の存在くらいである。しかも、清水沢駅を通る石勝線の夕張支線も、廃止が近づいているという。
 本書の最大の見どころは、三菱大夕張鉄道保存会の会長を務める奥山道紀氏によってまとめられた大夕張鉄道を走った9200型蒸気機関車の記録である。この蒸気機関車が活躍していたころ、鉄道は大夕張炭山までの全長17.2kmを誇っていた。いまやその多くがダムに水没した大夕張地区では、3万人を越える住民が生活していたという。
 9200型は1905年アメリカ、ボールドウィン社製の機関車。大型コンソリデーション(車軸配置2-8-0)を略してダイコンと呼ばれる。輸入された50輌のうち、当初30輌が満州に、20輌が内地に導入されたが、最終的に全車が北海道で活躍した。しかし、次第にパワーに勝る9600型に置換されていく。最後に大夕張鉄道に残った9201と9237は、1962年~63年に三菱鉱業芦別鉱業所専用鉄道に移り、同鉄道が炭鉱閉山により廃止される1964年まで活躍した。1969年に刊行された冊子「SL No.2」で発表された、けむりプロによる名作写真作品「上芦別ものがたり」は、その上芦別時代の写真をまとめたものである。
 しかし、本書で奥山氏が指摘するように、大夕張時代の9200型に関する報告は少なかった。そのような意味で、本書が大夕張時代の9200を中心に、写真、情報等を集約してまとめてくれたのは、実にありがたい。
 また、本書は、機関車の写真のみならず、当時の鉄道風景や各駅の平面図がまとめられていて、三菱大夕張鉄道保存会の保有する貴重な情報が数多く提供されている。また、個人的に炭砿鉄道ならではのストラクチャーを紹介した写真は、どれもこの時代の北海道ならでは風景を収めた象徴的な画といった趣きで、いろいろ心を動かされながら、拝見させていただくこととなった。
 前述の様に、北海道でいちばん最近まで活躍していた運炭鉄道でさえ、その痕跡は、ほとんど世界から消え去ろうとしている。そのような時代に、このような書物で貴重な資料を集積し、多くの人が手に取れるような形にまとめていただけたのは、本当にありがたい。大切に保管しておきたい一冊です。
 その他、本書では、鶴見線、信楽線界隈の歴史的な鉄道記録写真も紹介されており、いずれも両線の性格を踏まえた興味深い記録となっています。

レイル〈No.98〉

レビュー日:2017.12.6
★★★★★ 大夕張鉄道を走った9600型の記録。
 株式会社エリエイ出版部(プレス・アイゼンバーン)より出版されている季刊の鉄道記録雑誌「レイル」の通巻第98号で、2016年4月に刊行されたもの。本刊の内容は以下の通り。
大夕張のキューロク  奥山道紀/三菱大夕張鉄道保存会  4
1. 大夕張のキューロク  6
  機関車形式図(形式図すべて三菱大夕張鉄道保存会)  14
2. C1101  18
  C1101形式図  27
カラーグラフ 三菱大夕張鉄道の車輛と風景  19
3. DL-55 No.1~No.3  28
  DL-55 No.1・2・3形式図
4. 個性豊かな貨車  28
  客車形式図  34
  貨車 雪掻車など形式図  48
5. 駅とその沿革  64
  大夕張鉄道の駅施設 図面  68
6. 土木施設  76
公式写真に見る国鉄客車 第1回 藤田吾郎/写真所蔵:レイル編集部  80
D51 200 そのテンダーの謎を解明する 捕逸 新澤仁志  94
ヤードマン  98
 同雑誌の通巻第96号で、やはり大夕張鉄道保存会の会長を務める奥山道紀氏が主筆となって、大夕張鉄道を走った9200型をまとめており、当巻と併せて一対の形で、大夕張鉄道の蒸気機関車の記録がほぼ網羅される形となっている。
 三菱大夕張鉄道は、国鉄夕張線清水沢駅から夕張川に沿って、大夕張炭山までの17.2kmを結んだ1911年開業の運炭鉄道で、1973年に南大夕張以遠が廃止されたのち、北海道最後の旅客営業を行う私鉄線として、1987年まで運用されていた。私は、1984年に最後に残った清水沢-南大夕張間を利用している。全区間のって60円という運賃は、当時国内最安の設定であった。
 炭鉱華やかなりしころ、大夕張鉄道には多様な蒸気機関車が導入され運用されていたとされるが、これらを集約した資料はなく、あちこちで公開されるようになった写真データや、ファンの探究により、部分的に解明がなされてきたといったところである。その中で、大夕張鉄道保存会の会長である奥山氏によってレイル誌に、No.96とNo.98の2度にわけてまとめられた資料は、さすがに現代第一級のものと言って良いだろう。
 キューロクと呼ばれた9600型に関しては、大夕張鉄道ではNo.2からNo.8の7輌が活躍していた。本書では、これらの機の由来や運用歴についてまとめてあり、ほぼその全貌を俯瞰できる内容となっている。7輌のうちNo.4は、夕張市のSL館で保存されているが、夕張市の厳しい財政事情により、現在は公開されていない。また、他に3輌が江別市の個人によって保管されていると言うが、こちらも公開されたことはなく、現在では写真によってのみ、その姿を見ることができる。本書には、貴重な写真が多く掲載されており、中でも見開きで掲載された機関庫に5輌の9600が顔を並べたカラー写真は壮観といって良いものとなっている。
 また、9600型のみでなく、同鉄道で活躍したC1101、DL-55、その他車輛についても資料がまとめられており、俯瞰的な内容となっている。特にC1101は、私の父が泰和車両(札幌市)で留置されている姿を写真に収めていることもあって、私には感慨深い。
 さらに当書では、各駅とその沿革や、橋梁等の土木施設についても、写真を交えて記述がなされており、大夕張鉄道の姿を、現代の私達に存分に想起させてくれる内容となっている。
 それにしても惜しいのは夕張市のSL館である。この施設には、魅力的な車両が数多く保存されているにもかかわらず、前述の様に、長く閉鎖中という扱いになっている。ボランティアが施設の補修など行っていると聞くが、ぜひとも、また一般公開できる日が来ることを、一ファンとして願わずにはいられない。

レイル〈No.101〉

レビュー日:2017.11.2
★★★★★ 士別森林鉄道の記事が圧巻です
 株式会社エリエイ出版部(プレス・アイゼンバーン)より出版されている季刊の鉄道記録雑誌「レイル」の通巻第101号で、2017年1月に刊行されたもの。本刊の内容は以下の通り。
50ccバイクでの 関西本線と参宮線撮影記 昭和44/9月13日~17日 蔵重信隆  4
加太越え  田邉幸男  30
連続アップダウンに挑む 近鉄電車 早川昭文  36
近鉄大阪線 三本松 昭和47/1972年 秋  前里 孝  50
士別森林鉄道 天塩川を遡った森林鉄道  奥山道紀  56
公式写真に見る国鉄客車 第4回 解説:藤田吾郎 写真所蔵:レイル編集部  74
ヤードマン  98
 本書の注目記事は、何と言っても奥山道紀氏によってまとめられた「士別森林鉄道 天塩川を遡った森林鉄道」である。
 かつて、森林資源搬出のため、全国に森林鉄道が敷設された。中でも北海道には大規模なものが多く、最盛期の総延長は800kmを越えたと言われている。その一方でこれらをまとめた記録というのは非常に少ない。森林鉄道自体が、資源を求めて支線の付け替えを行う性格のものであり、かつ北海道の場合、人口希薄な地帯に設置されることが多かったため、きちんと記録が残されているものの方がまれであり、中には、現在でも「存在していたと考えられる」という推測レベルの森林鉄道もある。最近になって、森林鉄道の網羅を目指した刊行物も出版されているのだが、北海道に関しては、まだまだ情報不足であり、ひょっとすると、このまま解明される機会を持たない森林鉄道があることも考えられる。最近では小林實氏の「十勝の森林鉄道」、橋爪実氏の「置戸森林鉄道」など、個人の研究成果をまとめた優れた書物も刊行されるようになってきているので、それに続くものを期待したいが、当刊の「士別森林鉄道」もその一角を成すものと言っていいだろう。
 士別森林鉄道は、天塩川の源流域である天塩岳深くまでその線路網を持っていた。起点となっていたのは、士別軌道の終着、奥士別駅であり、これは朝日町(現在は士別市に吸収合併)の中心地に相当する。奥士別まで搬出された森林資源は、今度は士別軌道により、宗谷線士別駅へと搬送されていた。士別森林鉄道が敷設されたのが1932年であり、1960年まで運用されていたと考えられている。
 本書の記事では、著者が地元の資料をくまなく収集し、貴重な写真の数々、そして路線の全貌図などを示してくれている。この路線図を見ると、幹線のほか支線3本、さらに9本の枝線が存在し、その最深部は、現在天塩岳登山の拠点となっている天塩岳ヒュッテの所在地にまで達していたことがわかる。かつて、かように山深き土地まで軌道が敷かれ、蒸気機関車、そしてディーゼル機関車が運用されていたのである。
 写真は、天塩川に沿った風光明媚なものが多く、絵葉書にもなったというのも頷ける。また、周辺住民は、唯一の公共交通機関とし、添乗利用していたという。現在、岩尾内湖というダム湖によって水没した地域には似狭(にさま)と呼ばれる町があり、軌道が様々に分岐していたのである。現在の様子からは想像のつかない世界が広がっていた。
 他に同様の情報を集約してくれたものがないだけに、この士別森林鉄道の記録は圧倒的に貴重である。
 他の記事は、特に関西の鉄道写真を集中して取り上げた形。関西本線の加太越えの蒸気機関車の姿などは、やはりファンの胸を熱くするものにちがいない。

鉄道ピクトリアル アーカイヴス セレクション 第11巻 北海道の鉄道 1950-60

レビュー日:2018.5.25
★★★★★ 当時のファンたちの「鉄道王国北海道」への「思い」が詰まった一冊です。
 鉄道ピクトリアル誌の「アーカイヴス セレクション」第11巻で、1950年代から60年代にかけて、同誌に掲載された北海道の鉄道に関する記事を集めて1冊にまとめたもの。同誌の2006年7月号別冊として刊行されたもの。
 執筆者と併せて目次を記載しよう。原本が掲載されたナンバーも記されている。
追走の北紀行  1
【巻頭企画】 国鉄北海道の列車に乗務して 村上 尚  6
1950~60年代 北海道の鉄道スケッチ  17
1957年 北海道国鉄完乗の旅  白井良和  28
 1 北海道の鉄道概況
北海道の鉄道 西尾源太郎 1956-8(No.61)  42
北海道の輸送の現状と問題点 池田晴男1963-6(No.146)  47
北海道内国鉄車両めぐり 村上 尚 1963-6(No.146)  53
北海道の気動車 1963-6(No.146) 星 良助  56
北海道のC62 村上 尚  1963-10(No.150)  62
あの駅・この駅/札幌駅 小熊米雄 1956-2(No.55)  65
あの駅・この駅/小樽駅 小島良雄 1956-8(No.61)  69
あの駅・この駅/旭川駅 小熊米雄 1958-8(No.85)  73
処女列車に乗って 小熊米雄  1954-1(No.30)  77
日本の北の守り 羽幌線全通  小熊米雄 1958-12(No.89)  78
新線建設譜 美幸線・白糠線・富内(辺富内)線 坂田敏雄 1965-1(No.166)  80
 2 青函連絡船の記録
青函連絡船の今昔 青木栄一 1963-6~7(No.146・147)  84
不沈船十和田丸 西阪文雄  1958-4(No.40)  96
新青函連絡船  森 博 1963-6(No.146)  101
青函連絡船津軽丸竣工 石黒 隆 1964-6(No.158)  104
 3 北海道ローカル紀行
定鉄新車試乗記  小熊米雄 科学1954-7(No.75)  110
芦別鉄道を訪ねて 川上幸義 1954-11(No.40)  112
寿都鉄道 川上幸義  1955-8(No.49)  115
北海道の印象 留萌と羽幌 青木栄一 1955-9(No.50)  118
夕張鉄道 小熊米雄 1956-8(No.61)  123
根室拓殖鉄道 青木栄一 1956-8(No.61)  129
老兵は消ゆる 根室拓殖鉄道 星 良助 1959-9(No.99)  132
北海道の私鉄と専用線近況 -古きを訪ねて- 内田真一・関根嘉一郎 1963-6(No.146)  134
北海道あちこち 1963-6(No.146) 曽根 悟  139
 4 アラカルト 北海道の鉄道
読者短信に見る北海道の鉄道 1950~1960  144
 いまとなっては信じられないが、北海道はかつて鉄道王国と称された。広大な大地には、開発と、産出された資源を搬送するため、官民様々に無数の鉄道が敷かれた。さらには、本州以南に比して、近代化が遅れたこともあって、その末端には、アメリカ、イギリス、ドイツなどの諸外国で製造されたものも含めて、多くの古典蒸気機関車が活躍していた。
 当時の移動に要する労力や時間は、現代とは比較にならないほど大きく、それらの背景から、北海道は、本州以南に住む鉄道ファンにとって、「遠い憧れの地」に他ならなかった。1950年代、そして60年代は、その栄華が絶頂にあった時期といっても過言ではないだろう。そのような点に着目し、本書が編算されたことは、鉄道文化に深い興味を持つ者にとって、ある意味当然といったところでもある。
 しかし、あらためて本書に目を通すと、それらの記録、写真は貴重なものばかりで、これらの資料を再編集・再販可能な状態で保存してきた出版社の慧眼を感じさせるところでもある。もとより、趣味の領域である。趣味性の一つに、収集、保管という行為があるが、その行為によって、同じ趣味を持つものが情報共有できる機会が増えることは、現在のデジタル時代にふさわしい恩恵とも言える。
 冒頭の「追走の北紀行」と題された巻頭カラーでは、当時の北海道の鉄道情景が様々に紹介されるが、特にアメリカ空軍に在籍して日本に訪れ、日本の鉄道文化に深く精通することになるジェイ・ウォーリー・ヒギンズ(J Wally Higgins 1927-)が撮影した写真も含めて紹介されていることがまず、興味深い。1959年、川西乗降場を利用するたくさんの学生の姿、釧路臨港鉄道の様子、昭和炭鉱のクラウス 寿都の古典機、雄別炭山のCタンク蒸気機関車による入替作業など、興味深い写真ばかりだ。
 白井良和氏の「1957年 北海道国鉄完乗の旅」は、1980年1月臨時増刊号(No.384)に掲載された内容に、原記事にない写真を追加して内容を充実したものだ。当時の鉄道ファンの夢とも言える北海道の国鉄線完乗を、豊橋発の22日間の旅で果たした内容で、手宮始発の普通列車の前部3両の客車が行商人指定車だったことなど、その記載も興味深いが、写真も、根室拓殖鉄道の人力転車台、羽幌線延伸工事で使用されていた5540、築別駅の広い構内の様子など、思わず見入ってしまうものばかり。
 星良助氏の「北海道の気動車」では、1963年当時の気動車の運用路線図が示されているが、これを見ると、当時の国鉄線で蒸気列車のみの運用だったのが、すでに幌内線の三笠-幌内間、万字線(志文-万字炭山)、函館線の目名-黒松内間のみとなっていることがわかり、資料としても貴重なものとなっている。また、村上尚氏の「北海道のC62」を読むと、私の父も追いかけたC622のスワロー・エンジェルの逸話;道内運用後もこのエンブレムを残すよう、鉄道友の会北海道支部が小樽築港機関区長へ申し入れを行い、苗穂工場機関車職場長であった関長臣の協力を経て、それが叶ったことなど紹介されていて、興味はつきない。
 また、とにかく1950年代から60年代にかけてなので、「景気の良い」記事が多い。新線建設・開通の話題がその中心と言っても良いだろう。小熊米雄氏のレポートを読むと、そこには、戦時中、サハリンへの資材供与のため運行休止となっていた札沼線の浦臼-雨竜間の運行が再開された際の新十津川付近住民のたいへんな歓待ぶりが書かれていて、1日1往復の盲腸線の末端となった新十津川駅の現状と照らすと、様々な思いが胸に去来するものである。また留萌以北の日本海側を開通させた羽幌線の開通に立ち会った際、金駒内橋梁にかかる個所での美しい眺望への感嘆は、以下にそのまま文章を引用させていただこう。
 「初山別駅は海岸から少し離れた段丘上にあり、なかなか見晴らしはよい。ここを出ると線路は西へ大きくカーブして日本海に迫った断崖に向かって進む。海岸沿いには国道が走り、列車はその上断崖の中腹に取り付けられた、コンクリート製陸橋上を北に向かう。この陸橋は切取りの部分を含めて炊く500mにわたる回廊が、海面上20mの高所に出現した沿線随一の偉観である。足下には日本海の荒波が白く砕け、前方はるかに利尻富士が雲間に霞み、後方には天売、焼尻の両島が波間に浮かぶというまことにすばらしい眺めである。」
 私も、羽幌線の車窓は、日本一と称してなんら遜色ない夕景を望むものだっただけに、その廃止には、何度無念の気持ちを興されたか知れないのである。
 また、新線開通等の陰で、軽便線については、すでにその役目を果たした時代でもあり、根室拓殖鉄道の記事にそれを見る。ただ、本書を通じて、簡易軌道、森林鉄道に関する記事がないことは残念である。他に素晴らしいものがありすぎて、そこまで情報収取対象として、気が回らない時代だったのかもしれない。
 いずれにしても、当時の北海道の鉄道状況と、当時の鉄道ファンの圧倒的な北海道への「思い」が募った1冊となっている。一つの書物にまとまる形で、その情報と情熱がスクラップされた感のある本書は、私にはとても大切な一冊となっている。

炭鉱鉄道と機関車の記録 1969~1970 乾修平著

レビュー日:2018.8.29
★★★★★ 炭鉱鉄道終末期の姿を捉えた美しい写真がまとめられています。
 全47ページ。すべて白黒印刷で、1969年及び1970年に存在・活躍していた代表的な炭鉱鉄道及びその車両、炭鉱施設を含む鉄道風景を紹介した冊子。内容紹介に当たり、まずは目次を転載しよう。
北海道炭鉱汽船 夕張鉄道  4
 鹿ノ谷機関区にて  6
 12号機とそのディテール  12
三菱鉱業 美唄鉄道  16
 美唄機関区にて  18
 2号機とそのディテール  22
三井鉱山 美唄砿業所  27
 2号機とそのディテール  28
明治鉱業 平山鉱業所  32
貝島炭鉱専用線  36
炭鉱鉄道で見かけた貨車たち  42
鉱業所の積込設備いろいろ  45
 撮影が行われたのは、夕張鉄道、美唄鉄道、美唄砿業所が1970年の8月、平山鉱業所、貝島炭鉱が1969年の7月となっている。
 炭鉱と鉄道は、深い関係で結ばれている。私の住む北海道で、最初に鉄道が開業したのは、1880年に小樽市手宮と札幌間を開通した官営幌内鉄道で、これは1872年の新橋-横浜間、1874年の大阪-神戸間に次いで、国内で3番目に開業した鉄道である。前2者と官営幌内鉄道とでは、その意義が大きく異なっていて、その主目的は運炭であった。1882年には炭鉱のある幌内までが開業し、手宮港への大量搬送が可能となっていく。
 ちなみに、日本最初の旅客鉄道は前述の新橋-横浜であるが、広義の鉄道で国内最初のものも、実は北海道の積丹半島の付け根にある茅沼炭鉱軌道で、1869年に動力を人力、もしくは牛力による形で運用を開始している。石炭産業と鉄道の結びつきを示す象徴的史実であるが、加えて、その後同様の目的で敷設された多くの鉄道で、長く運用されることになる蒸気機関車が、まさに炭鉱の産物である石炭を動力源としていたこともあって、それらは、文字通りの運命共同体のていを成していたのである。
 本書に収められた1969年、1970年という時代は、実はそれらの炭鉱、蒸気機関車にとって「終焉の時代」に当たる。この時代になると、エネルギー源の多くは石炭から石油にシフトしてきたし、石炭を動力としてきた発電や製鉄においても、安価な輸入炭が押し寄せていた。国鉄は無煙化計画を完了させつつあり、炭鉱、そして蒸気機関車が最後の輝きを見せていたのが、本書で紹介されているように、北海道、そして一部の九州の炭鉱とその周辺に限られていたのである。
 本書に掲載されたもののうち、夕張鉄道、美唄鉄道、美唄砿業所専用線(三美運輸)といったものには、私の場合特別な感情を抱かないわけにはいかない。私の父は、足しげくこれらの地に通い、膨大な写真を記録してきたのである。私はここ数年、それらのフィルムを発掘、整理し、ネットで公開しているのであるが、その産炭地の風景、様々な形式の蒸気機関車や車両が活躍する多様な鉄道風景、偉容を誇る巨大な産炭・選炭・運炭施設の風景には、圧倒されるものがある。私がかの時代にいたら、やはりこれらの地に強く惹きつけられたに違いない。
 本書はそれらの鉄道が、車両に焦点をあてたものが中心ながら、炭鉱施設等の風景もよくとらえた写真を通じて紹介されている。特に訪問時に印象的・象徴的な存在であった機については、多くの写真によりその姿が紹介されている。中で美唄鉄道の2号機は、傾斜地を越える同鉄道の性格を反映して製造されたEタンクのボディが印象的であるが、現在も東明駅跡に保存展示されており、その姿を実際に見れるものとなっている。三美運輸の2号機は、1905年に英国ノースブリティッシュ社で製造され、国鉄時代に2248号機として活躍し、1963年に日本甜菜糖士別工場を経て三美運輸に移ったもので、古典蒸気機関車の典雅な姿を示す。当時の北海道では、このような美しい造形をした古典蒸気機関車が、炭鉱や港湾の入替作業などで、さかんに活躍していたのである。本書でもそのたたずまい、草の少し茂った線路や趣ある機関庫を含めた写真が紹介されている。夕張鉄道の12号機は、やはり勾配を考慮して9200型を改良した「11型蒸気機関車」のうち最後まで活躍していたもので、本書の写真撮影時には当該機が唯一の現役機だったと思われる。これらの蒸気機関車は、様々な角度からディテールを紹介したものが集約されており、おそらく模型製作者への便宜という観点も編集の要素になっていると思われる。なお、私のHPでもこれらの蒸気機関車の写真を紹介しているので、興味を持たれた方は閲覧いただけると私も嬉しい。
 九州の炭鉱鉄道については、私は詳しくないが、本書で紹介されているものを見ると、やはり入替用のかわいらしい蒸気機関車がいたり、風格と味わいのある機関庫があたり、巨大な選炭施設があったりで、とても魅力的なもの。また坑口付近で使用されていたナローの電車軌道や、ウインチで搬送する軌道などの貴重な写真も紹介されており、興味深い。貝島の炭鉱風景は、もともと里があったところに興った産業であったため、北海道のそれと比較すると、風景が広々しているところが大きな違いと言えるだろう。炭鉱、蒸気機関車ともに末期とは言え、その活動のエネルギーも伝わってくるが、広いヤードは、最盛期であればより盛況を呈していたにちがいない。
 私の好きな風景をたくさん紹介してくれる良書であるが、残念な点が2だけ。一つは撮影時期がすべて夏であるため、特に北海道のあの素晴らしい冬の風景が一枚もないこと。もう一つは、1ページで多くの写真を掲載する体裁であるため、1枚あたりのサイズが小さいことである。特に2点目については、個人的には多少価格が高くなっても良いので、ページ数を増やして、より大判な写真を拝見したかったところ。
 とはいえ、私の趣味スポットにドハマリということもあり、堪能させていただいた一冊でした。

釧路炭田 炭鉱と鉄路と 石川孝織著

レビュー日:2021.9.6
★★★★★ ルポルタージュ形式で写真とともに記録された、偉大な産業史
 釧路市立博物館友の会が発行し、石川孝織氏が著した「釧路炭田 炭鉱(ヤマ)と鉄路と」は、北海道新聞釧路版に2012年から2014年まで連載という形で掲載されたものを一冊にまとめたもの。そのため、各項目は、当事者、もしくは当該事例の精通者一人を取材した内容に基づき、2ページ相当の短めのルポルタージュという形式で記載されている。また、記事ごとに関連の写真が1枚掲載されているが、これは2014年に釧路市立博物館で開催された企画展「釧路炭田の炭鉱と鉄道」で展示されたものを中心に収録している。
 一つ、注意点として、当書は、2014年~2018年に刊行された初版と、2020年に刊行された増補版があり、私が所有しているのは増補版。その場合、2019年の太平洋石炭販売輸送臨港線廃止に伴った一項目(38,39ページ)が追加されている。増補版が欲しい場合、購入前に要確認である。
 基本的に白黒印刷であるが、巻末に、写真がまとめられている部分があり、そこでは9ページ、16枚分の写真がカラー印刷で紹介されている。
 さて、それでは、2ページごとになっているルポのタイトルを記載しておこう。
第1部 炭鉱と鉄道
 臨鉄開通/敗戦の後/気動車と機関車/通勤列車/城山駅/保線作業/貯炭場/ジーゼル遠足/ジャットル車/吉田恕さん/観月園貯炭場/東釧路駅/さよなら連絡輸送列車/炭鉱鉄道の終焉/雄別炭砿鉄道/ディーゼルカー登場/古潭中間駅/埠頭線のこと/貨車の牽引/機関助士/ディーゼル機関車導入/度重なる自然災害/鶴野線開業/白い汽車/庫番/最終列車/雄別炭砿解散/尺別鉄道/にぎわう新尺別駅/脱線/明鉱庶路炭鉱専用鉄道/国鉄白糠線
第2章 炭鉱の仕事とくらし
 繰込場/鉄柱カッペ採炭/採炭の機械化/「先山」と「後山」/仕繰/「機械屋」/自走支保/計画/運搬/選炭/通気/電気係/炭鉱と木材/救護隊/保安教育/中小炭鉱/庶路炭鉱/ヤマの文化活動/雄別の子どもたち/スーパーと生協/暖房炭/やまの人気もの/尺浦隧道/小野寺組/坑口浴場/共同浴場/事務作業/坑外電車/太平洋炭鉱主婦会/太平洋炭鉱労働組合(上)/太平洋炭鉱労働組合(下)/自立と自律/釧路コールマイン
写真で見る炭鉱と鉄路
釧路臨港鉄道(太平洋石炭販売輸送)/雄別鉄道<雄別炭砿鉄道>/尺別鉄道<尺別炭鉱専用鉄道>/「尺鉄群像」/日本国有鉄道 白糠線・根室本線
 最近「炭鉄港(たんてつこう)」というフレーズで、エネルギー近代化に寄与した道央地区の産業遺産等の価値を見直そうという試みがあり、その対象となっている地域は、主に空知地区の石狩炭田(炭)、製鉄所のある室蘭市(鉄)、巨大な石炭桟橋のあった小樽市(港)である。確かにこれらの地域には、歴史的で荘重な建築物や産業遺産が多い。ただ、そのうち「炭」については、残念ながら、本来残すだけの価値が十分にあった産業遺産の多くが、保存の難しさ等から、現在に至るまでに失われてしまっている。また、炭鉱・運炭鉄道に関する記録も、その当時の価値に比して、十分なものとは言い難い。これは、石狩炭田の産炭地の多くが、主産業として、炭鉱がほぼ唯一に近い主産業であったため、閉山とともに、地域ごと、大きく衰退し、人・物の両面で様々なものが散逸してしまったことによる。
 一方で、やはり産炭地であった釧路市は、それと違った背景があって面白い。まず、採炭が太平洋炭鉱で現在もなお稼働中である。確かに雄別、尺別等の炭鉱は、他の道内の炭鉱と同じく、60年代から70年代にかけて閉山しているのだが、「炭鉱」という経済活動や技術は、釧路では息づいていたのである。また、上述のように2019年まで、運炭鉄道も運用されていたほか、釧路市は、炭鉱以外にも、水産業、製紙業、観光業等における地域の中心地であり、人口規模が維持されたことから、様々な形で、その記録や記憶が、より色濃く継承されることとなった。その結果、釧路市立博物館が中心となって、本書のように、貴重な記録をまとめる取組も可能となったと思われる。釧路市立博物館は最近では、根釧地域の殖民・簡易軌道の記録も調査・編算して書籍化するなど、様々に貴重な取り組みを行っており、産業遺産という価値に、いちはやく気づき、その啓発を行っていることは、とても素晴らしい。
 一つ一つのルポは2ページ分と短いが、当事者らの話は色濃く、専門性も豊かであり、好奇心を刺激される。個人的には、白糠線の項目にある上茶路炭鉱の記載は特に胸を打つ。かつて運炭列車の運転士を務められた方への取材による記事だが、60年代の上茶路駅周辺は、建てられたばかりの炭鉱社屋が多く並び、上茶路駅で石炭を積み込む間、駅前の商店へ昼食を買いにいったとのこと。その後、炭鉱は閉山し、白糠線は、国鉄再建法下の国内で最初に廃止となった。私は、上茶路駅の駅跡を訪問したことがある。風が吹き抜ける林の中、そのホームは、線路を残したまま、そこにあった。かつての賑わいが夢であったかのような不思議な静けさに包まれた美しい空間だった。なので、私はその記述に、かつての駅の記憶を見たようで、心打たれたのである。また、コマーシャル撮影のため、全体を白く塗装された蒸気機関車が雄別鉄道を走った際の想い出(カラー写真も別ページに掲載)など、私もはじめて知った話で、新鮮だった。
 末尾に収録されている写真は、運炭・産炭を中心に、炭鉱の巨大施設や、鉄道・駅の様子、また当時の人々の生活が捉えられていて、一枚一枚じっくりと見てしまう。1957年の春採駅の後方に並ぶのは社員住宅だろうが。たいへんな数で壮観だ。新尺別駅と尺別炭山駅の間に、通勤者のために設置された旭町停留場の全景は、簡素なホームのみながら貴重な写真に間違いない。通学生でにぎわう社尺別駅の様子も感慨深い。おりしも、根室線への乗換駅であった尺別駅は、つい最近、2019年3月で旅客営業を終了したばかり。あの駅にも、かつては、このような華やかな時代があったのだ。
 さて、残念ながら太平洋石炭販売輸送臨港線も2019年で廃止となってしまったのであるが、私は「炭・鉄・港」の取り組みの時流に則り、釧路には、ぜひこれらの産業遺産を、観光等の資源として活用する先鞭をつけるべく、奮闘し続けてほしいと思う。実際、釧路という町とその周辺には、なかなか面白いものが多い。ちょっと好奇心を刺激すれば、いかようにもポテンシャルを発揮できそうなものが多い。本書のような「記録」がまとめられるのは素晴らしいことだと思うが、今後のためには、ぜひ「保存」と「利活用」についても叡智を結集してほしいと思う。
 なお、釧路の運炭鉄道の記録における素晴らしい例として、大谷正春氏による「雄別炭礦鉄道50年の軌跡」と「尺別鉄道50年の軌跡」、釧路市博物館がまとめた簡易軌道の素晴らしい記録として「釧路・根室の簡易軌道」を、参考に挙げておこう。

世界の美しい地下鉄マップ マーク・オープンデン著

レビュー日:2018.12.5
★★★★★ 秀逸な視点で編算された多角的趣味本です
 地下鉄という交通システムは、発展した都市において後発的に開発される。地下に建設されるという性格上、土地取得の制約が少ないためだ。そのため、既存の交通システムとは異なる線形を描くことになるのだが、当然のことながら視覚的にイメージできない。地下に降りればホームがあって、そこに地下鉄が発着しているのだが、ひとたび地上に出れば、出入り口という点の情報に帰結してしまい、「線」あるいは「系」といった形でなかなかインプットしにくい。実際、マップをあらためてみて、そこに印刷された地下鉄線の表記をみて、「ああ○○線はここを通っていたんだな」と初めて気づくこともザラである。
 しかし、出張や旅行で訪れた場合、その地下鉄網をある程度「システム」として利用することになる。マップ上のトレースというだけでなく、どの線がどこにつながっているのか、どこの駅で乗り換えが可能なのか、利便性の高い(あるいは料金の安価な)利用経路はどれなのか。そのような用途に特化して発案、進化してきたのがいわゆる「路線図」である。
 路線図の最大の特徴として、色彩の豊かさが挙げられると思う。様々に入り組む線を描き分けるのに適しているからだ。次なる特徴として、デフォルメによるデザインが必要なこと。見やすいことが必要だ。正しい縮尺にこだわる必要はまったくない。どの駅で何線に乗り換えが可能なのか、その線にはどの駅があるのか。分からなければ意味がない。
 これらの概念は幾何的でデザイン工学のアプローチを必須とする。著者がそのことに目を付け、絵画的な楽しみというコンセプトを取り入れて世界中の当該マップを収集したことはまさに慧眼である。特に複雑な線形であったり、他の交通システムとの連携(トラム、プリメトロ、ライトメトロ、モノレール)と一貫的な運用であったりする場合、それを踏まえてマップは進化する。それはその都市の顔といっても良いだろう。
 本書では以下の4章にわかれて、世界166の都市における「路線図」が紹介されている。
Zone1; 世界最大級の地下鉄システム
バルセロナ 北京 ベルリン ボストン シカゴ 香港 ロンドン マドリード メキシコシティ モスクワ ニューヨーク パリ ソウル 上海 東京 ワシントンDC
Zone2; (Zone1に比し)駅数、乗客数、総延長などが比較的小規模ではあるが、定評のある地下鉄路線網
アムステルダム アテネ ブリュッセル ブダペスト ブエノスアイレス ケルン デリー 広州 ハンブルク イスタンブール キエフ クアラルンプール リスボン ロサンゼルス ミラノ モントリオール ミュンヘン 名古屋 大阪 フィラデルフィア プラハ ライン・ルール都市圏 サンクトペテルブルク サンフランシスコ サンティアゴ サンパウロ 深セン シンガポール ストックホルム 台北 テヘラン トロント ウィーン 武漢
Zone3 100以上の多様な交通システム
アデレード アリカンテ アンカラ アントワープ アトランタ バクー ボルティモア バンガロール バンコク バーゼル ベロオリゾンテ ベルン ビーレフェルト ビルバオ バーミンガム ボーフム ボルドー ブラジリア ブリスベーン ブカレスト バッファロー 釜山 カーン カイロ カルガリー ケープタウン カラカス シャルルロワ 成都 チェンナイ 重慶 クリーブランド コペンハーゲン 大邱 大田 ダラス デンバー デトロイト ドーハ ドルトムント ドレスデン ドバイ ダブリン デュッセルドルフ エッセン フォルタレザ フランクフルト 福岡 グダニスク ジェノバ グラスゴー ゴールドコースト イエーテボリ グルノーブル グアダラハラ 光州 杭州 ハノーバー ホノルル ヒューストン イズミル ジャクソンビル ヨハネスブルク 高雄 カールスルーエ ハルキフ 神戸 ラスベガス リール リマ リバプール ルートヴィッヒスハーフェンとマンハイム リヨン マラガ マンチェスター マニラ マルセイユ メッカ メデシン メルボルン マイアミ ミネアポリスとセントポール ミンスク モンテレイ モンペリエ ムンバイ 南京 南寧 ナント ナポリ ニューカッスル ニース ニジニノブゴロド ニュージャージー州北部 ニュルンベルク オスロ オタワ ピッツバーグ ポートランド ポルト リオデジャネイロ ローマ ロッテルダム サンディエゴ サンノゼ 札幌 シアトル ストラスブール シュツットガルト シドニー 天津 トゥールーズ バレンシア バンクーバー ワルシャワ チューリッヒ
Zone4 都市交通が運行もしくは計画されている世界の全都市・地域の索引とデータ要覧
 路線図が紹介されているのはZone1~3の各都市。
 さすがに層々たる顔ぶれで世界を代表する都市の名が並んでいる。急に思ったことだけど「地下鉄のある都市をいくつ挙げられる?」と聞かれたとき、30~40都市くらいまで名を挙げられても、そこから先はちょっとわからない、という人がほとんどではないだろうか。本書はそういう興味も存分にみたせてくれる。なんと166都市(ただしビーレンフェルトのような実質的に市街部が地下化されたトラムなども含む)もあるのだ。ダラスのDART、マンチェスターのメトロリンク、ポーランドのMaxなど新時代ライトレール路線網も興味深い。さらに、Zone4では、トラムも含めて都市鉄道交通システムが整備されている世界の全都市のデータ(人口、路線長など)がまとめられている。こちらには、函館、広島、熊本といった町もデータとして紹介されている。
 一点に絞って興味を追及した見事なデザイン画集であり、データ集でもある。時間のあいたときに、任意のページをパラパラとめくるだけでも楽しい。ただ、唯一の難点は、マップの文字を読むには、なんらかの拡大が必要な場合が多いこと、あと、当然のことながら、その地域の言語が中心の表記となるので、地名がなかなかインプットされないことがあるが、それはないものねだりといったところだろう。
 とにかく、素晴らしい趣味本であり、ぜひ置いておくのにふさわしい1冊と思います。

私が見た特殊狭軌鉄道 第1巻  今井啓輔著

レビュー日:2016.4.14
★★★★★ 著者の熱意に感服と敬意!あまりにも貴重な数々の記録。
 鉄道には様々なサイズがあり、これは線路幅により定義される。日本では新幹線が軌間1,435 mm、在来線をはじめとする他のほとんどの鉄道が軌間1,067 mmという規格になっている。現在の一般的かつ国際的な分類では、1,067mmの軌間も狭軌とされる。
 しかし、本書で取り上げられているのは、軌間762mmのもので、これを「特殊狭軌線」と呼ぶこともある。また、「軽便鉄道」あるいは「ナローゲージ」という呼称もほぼ同じものを指して用いられる。
 これらの特殊狭軌鉄道は、かつて日本のいたるところに存在した。特に狭隘な土地や、輸送量の多くはない地域での交通・輸送の便として、様々に供された。これらの鉄道は、目的が限定的なことが多い。例えば、工場内の専用線、森林鉄道、あるいは北海道の殖民軌道などである。特殊狭軌鉄道は、一般在来線に比べて、線路幅のみならず、線路の重量も軽い。もちろんそこを走る機関車のサイズも小さい。回転半径が小さくてすむ一方で、スピードは制約があり、細い線路をゴトゴトと走る列車には独特の風情があった。
 これらの狭軌の鉄道は、エネルギー変革の流れの中、60年代から70年代にかけて、その多くが姿を消した。輸送量、スピードともに制約のある交通機関は、時代の変化とともにその使命を果たしたのだった。
 しかし、これらの軌道が持っていた特有の風情は、一般の鉄道からは得難いものがあった。本書は、そんな軌道を対象として、著者である今井啓輔が1960年代を中心に現地を訪問した記録を編集したもので、写真を中心に、当時の様子、地元の人から得た情報、著者がメモした接続駅などの配線図からなる。また、当時の時刻表を記載したものもある。本巻で取り上げられている特殊狭軌鉄道は以下の通り。
1) 歌登町営簡易軌道
2) 幌延町営簡易軌道
3) 浜中町営簡易軌道
4) 鶴居村営簡易軌道
5) 標茶町営簡易軌道
6) 別海村営簡易軌道
7) 太平洋炭鉱運炭軌道
8) 長木沢森林鉄道
9) 仁別森林鉄道
10) 花巻電鉄
11) 宮城バス仙北鉄道
12) 日本硫黄沼尻鉄道
 1)~6)は、いずれも北海道特有の軌道で、開拓のために敷設された「殖民軌道」と呼ばれるもの。かつて北海道内に総延長600km以上の殖民軌道が存在した。しかし、これらの軌道が敷設された場所は、人口希薄な開拓の最前線ともいえる地域であり、鉄道ファンであっても、これらに乗車したり撮影したりできた人は、かなり限られた存在だろう。そういった点で、著者がこれだけまとまった貴重な写真や当時の報告をまとめてくれているのは、本当にありがたいこと。
 全般にいい写真ばかりと言って良い。特殊狭軌軌道ならではの草生した路肩や、ひょろひょろとしたレール、軒をかすめるような線路や、質素な乗降場。在りし日の味わい豊かな雰囲気が、絶妙の距離感で捉えられている。
 文章も当時の様子を伝える貴重なものだ。たとえば、北海道の殖民軌道で、雪が降っても、住民がすぐに総出で雪かきをしてくれるので、連日運休してしまうことなどない、という当時の職員のコメントなど、開拓の厳しさと合わせて住民の結束力をも物語っている。社会構造が根底から変わってしまったことを実感する。
 著者は、廃線となって間もない頃にも軌道(跡)を訪問し、レポートを掲載してくれている。これもその瞬間ならではの貴重なものだろう。
 一つ、惜しまれる点として、本編がすべて白黒印刷となっていることがある。表紙のカラー写真も、本編では白黒化して紹介されており、おそらく多くの写真は、ポジで撮影されたものではないだろうか。そうだとしたら、ぜひフィルム本来の出力で、写真を拝見したかったと思う。

簡易軌道見聞録 湯口徹著

レビュー日:2017.6.15
★★★★★ 再版が望まれる貴重な簡易軌道の記録
 「簡易軌道」とは、北海道の開拓を目的に、入植地で生産される物資や入植地への生活必需品の搬送、そして住民の移動に供された狭軌(軌間)762mmの鉄道線のこと。泥炭地が多く、特に融雪期の土壌環境が軟弱だった北海道において活躍した。
 1925年の厚床-中標津間を皮切りに、内務省が管轄する形で、当初は「殖民軌道」の名称により、敷設が進められ、1942年には管轄を農林省に移行するとともに、その呼称を「簡易軌道」と改め、最盛期には総延長600kmを越える距離が敷設された。また、1951年に北海道開発局が発足すると、これと管理委託契約を結ぶ「町村営軌道」という形態で運営されるものが増えた。
 北海道各地で活躍した簡易軌道であったが、道路の整備が進むにつれ、廃止されてゆき、1972年浜中町営軌道の廃止をもってその歴史を閉じることとなった。
 本書は、湯口徹氏が、1957~60年頃に、これらの簡易軌道を訪問した際の記録をまとめたもので、その貴重さから、鉄道ファンの間では高名な一冊である。参考までにまず目次を書こう。(数字はページ)
はじめに  3
問寒別線‐幌延村(町)営軌道  4
歌登線‐歌登村(町)営軌道  16
仁宇布線  36
藻琴線‐東藻琴村営軌道  38
標茶線‐標茶町営軌道  46
雪裡・幌呂線‐鶴居村営軌道  54
茶内線‐浜中村(町)営軌道  76
根室拓殖鉄道  86
風蓮線の馬車軌道  94
おわりに  96
 言うまでもないが、当時北海道のこれらの地を訪問するというのは、たいへんな労力と日数を要するものであった。簡易軌道は、その多くが、北海道の中でも、道北、道東といった札幌から離れた場所に存在しており、どれもが1日数往復程度の運行であった。湯口氏は、学割の周遊券を片手に、根気よくこれらの地を巡り、貴重な写真を記録した。
 簡易軌道の写真は、現在では多く紹介されるようになってきた。しかし、その多くは簡易軌道の最後の頃、つまり60年代後半以降のものであり、湯口氏の訪問時期の記録は少ない。このころは蒸気機関車がまだまだ全国で活躍していたときであり、多くの鉄道ファンの目もそちらを向いていた。そんな中、簡易軌道に着目し、その線路の末端まで訪問し、多くの記録を残した著者の情熱には頭が下がる。
 著者は「もっと深くまで探究しておくべきだった」「その後に公開された多くの写真の方がいい写真が多い」といった旨のことを記されているが、どうしてどうして、本当に素晴らしい写真ばかりである。歌登駅で、ホームもない停車場で、踏み台を用いて昇降する乗客たち。新富士駅の古風なポスト、商店の合間に見える簡易軌道の自走客車、藻琴村の、未舗装道路にそって、かぼそく、延々と延びている狭軌の線路。。。どれもが、まぎれもない歴史の証左であるとともに、無類の詩情を感じさせる素晴らしい写真だ。人々の表情もよく伝わるし、当時の路盤の様子もよくわかる。また、橋梁の架け替え工事の写真など、当時の手作業の大変さまで如実に伝えられている。
 ちなみに、これらの写真のうち何枚かは、私がこの冬訪問した「釧路・根室の簡易軌道展」でも展示されていた。これらの軌道を捉えた代表的な記録とみて間違いないだろう。
 加えて、写真以外の資料も、当時の乗車券、時刻表、代表的乗降場の配線の様子などが示されていて興味深い。文章は、各軌道の沿革などがまとめられているほか、訪問当時のことが比較的淡々と記載されている。当時から転農がささやかれていたこと、誘われて現地の住民の家に宿泊したこと、そこで食べたものが、エンドウ豆とサッカリンの汁粉だったことなど、当時の様子が伝わってくる。また、かつて使用されていた客車が、地元の大工が作成したもので、スプリングもなく、軟弱な地盤と併せて、相当乗り心地が悪かったであろうこと、鈍足と思われている簡易軌道であるが、場所によっては時速60kmものスピードで走行していたことなども、興味深い記述である。
 運営上、簡易軌道に分類されないが、根室拓殖鉄道も対象に加えられているほか、動力化されていない路線のうち風蓮の馬車鉄道の写真が掲載されていて、これも見事な写真となっている。なお、仁宇布線については、資料の紹介のみで、写真はない。
 いずれにしても著者の簡易軌道に傾けた情熱が結実した貴重きわまりない一冊である。現在、入手が難しい状況のようだが、その貴重さにかんがみて、ぜひ再版されることを願う。

簡易軌道写真帖 今井理 森川幸一著

レビュー日:2019.5.21
★★★★★ 簡易軌道に関するバイブルといってよい書物
 北海道にはかつて、「簡易軌道」と呼ばれる、特徴的な鉄道があった。
 簡易軌道の歴史は1924年にまでさかのぼる。内務省北海道庁は、北海道の拓殖のため、道東、道北の開拓地に、国鉄駅等を起点とした軌道を敷設。当初は「殖民軌道」と呼ばれた。開拓地には、泥炭地や火山灰地が多く、その融雪期には馬匹等による交通もままならなかったため、開拓地の物資、人員の輸送に供するため、軌道を敷設したのである。厳しい環境の開拓地には、関東大震災や戦争の罹災者、あるいは、東北地方を中心とした農家の次男、三男らが入植。手付かずの土地を開墾し、現在の北海道を形づくった。
 殖民軌道は、戦後管轄が農林省に移管され、名称も「簡易軌道」にあらためられた。レール幅762mmの簡易軌道は、路線によって様々な運用形態があり、馬力による軌道もあれば、動力化により、蒸気機関車やディーゼル機関車、ガソリン機関車が投入された路線もあった。その全長は、北海道全体で600kmを越えた。運用形態は北海道を介して町村に委託されたため、町営、あるいは村営軌道という名称が用いられるようにもなった。用途も路線によって違いがあり、森林資源、鉱物資源、農産物、酪農産物の搬送など様々なであったが、概して道路の整備が進むとともにその姿を消し、1972年、浜中町営軌道を最後に、北の大地から姿を消した。
 簡易軌道が姿を消した時期は、蒸気機関車が去っていた時期と重なっており、そのため、多くの鉄道写真家は、蒸気機関車をターゲットとし、簡易軌道に着目する人は多くはなかった。しかし、当書には、簡易軌道の魅力に早くから着目した今井理氏と森川幸一氏が中心となって、行政資料等を含む多様な写真データが集約されている。前述の理由により、特に50年代、60年代の記録の少ないこれらの軌道の写真を、ここまで収集し、本という体裁にした功績が素晴らしい。目次を紹介しよう。
はじめに  3
簡易軌道とは  4
カラフルな車輛達  5
プロローグ  9
問寒別線  10
歌登線/幌別線  26
仁宇布線  50
当別線  54
藻琴線  58
根釧台地の簡易軌道地図  62
標茶線  64
雪裸線/幌呂線  86
茶内線/若松線/円朱別線  94
風蓮線  110
根室線/西別線  124
道東の馬力線(養老牛線/阿歴内線/久著呂線) 130
簡易軌道復活  134
簡易軌道路線変遷表  136
簡易軌道事業変遷表  139
簡易軌道線区別車輛一覧  140
簡易軌道用語集  143
あとがき  145
 「カラフルな車輛達」のみカラー印刷、他は白黒。
 各路線を紹介するごとに、読者を時空の旅に誘うような前書きがあって、写真の紹介に移るという体裁。写真は、機関車やストラクチャが中心ながら、軌道に関わった人々や当時の周囲の様子が伝わるものもあって、なかなか多彩。冬の写真もあって、貴重だ。またところどころ、軌道の改良工事の様子なども紹介されており、これも他では見る機会のない貴重なもの。
 行政資料の転載もありがたい。たとえば、歌登では、北海道開発庁が行った現況調査の書類に添付された写真で、軌道や軌道に関わるストラクチャが紹介されていたり、鶴居では、鶴居村が保存していた各停車場の写真が紹介されていたりする。いずれも、簡易軌道らしい、簡素でありながら、情感を誘うもの。草むした転車台や操車場、そこに留置されている機関車や貨車の醸し出す風合いは独特のもので、収録された写真は、それらをよく捉えたものばかり。問寒別駅前に展開する集乳施設、国鉄線積み替え施設と一体化した操車場など、その代表的なものだろう。
 加えて、当然のことながら、収録された写真群の中には、併せてこれらの地の開拓の厳しさを感じさせるものも多くあって、郷土史的観点でも意義の深い写真が多い。被災の写真も、当時の軌道の設備で、未墾の大地で風水害に立ち向かう人々の力強さを伝えるものがある。
 また、軌道関連では、ミルクタンカーシステムの紹介写真(浜中)、保線車の様子(別海)など、とても珍しいもので、いずれも興味深く拝見した。建設中の標津線と立体交差する軌道の様子、馬力線に乗る人々の様子など、なかなか感動的。仁宇布線を木材を満載した馬力車が連なる写真も圧巻だ。久著呂線が塘路を出てすぐに釧路川を渡る地点に架橋されていた「挽歌橋」の付け替え前の木造橋の様子も白眉といって良い。標茶町が保管する写真は、貴重という言葉で表現しきれないものだし、その美しい姿を、当書を介して見ることができたのは、私にとって大きな喜び。
 本書は、内容の充実した一冊で、同内容の書物としては湯口徹氏の「簡易軌道見聞録」と並んで、バイブルと称したい一冊。ただし、1997年刊行の当書は、出版数が限られていたこともあって、現在ではとても入手が難しい状況となっている。私自身も、本来の価格の何倍もの値段で中古品を入手したのであるが、その素晴らしい内容にかんがみると、可能であれば、なんらかの形で再版いただければ、鉄道ファンにとって、福音と言えるだろう。

釧路・根室の簡易軌道 釧路市立博物館

レビュー日:2019.11.1
★★★★★ 釧路市立博物館がまとめた1冊。素晴らしい企画であり、内容は充実の一語です。
 2017年の11月、釧路市立博物館において、「釧路・根室の簡易軌道」展が開催された。  この企画は画期的なものと言って良い。簡易軌道は北海道特有の鉄路による輸送機関で、北海道の奥地への入殖・開拓を行うにあたり、火山灰地、泥炭地の多い土壌において、降雨期、融雪期のぬかるみに抗しえる輸送手段を確保するため、1925年から敷設が開始されたものである。軌間762mmの細いレールは、入殖者にとって文字通り生命線であった。当初、馬車鉄道であったが、1929年に根室線(厚床-中標津-浜標津)、枝幸線(小頓別-歌登-北見枝幸)にあいついでガソリンカーが導入されるなど、長大線区では機関車が運用された。「殖民軌道」とよばれたこれらの鉄道は、敗戦後、内務省から農林省へ移管されるに伴って、「簡易軌道」と名称があらためられ、1951年に北海道開発局が発足し、これと管理委託契約を結ぶ「町村営軌道」という形態で運営されるものが増えた。
   1946年には、すでに殖民軌道の総延長は600kmを越え、その後も各地の開発に尽力したが、1960年代後半に入り、道路が改良化されるとともに、これらの軌道は廃止され、最後に残った茶内線が1972年5月1日に廃止され、殖民軌道の時代は終わりを告げた。
 これらの軌道は、入植地に開拓のための資材を搬送し、入植地で生産活動がはじまると、その農畜産物や、路線によっては鉱物資源の搬送にも活躍。もちろん旅客にも供された。この時代の北海道にのみ存した鉄道の形態である。
 その希少さに反して、これらの軌道をきちんと記録したものは少ない。官公庁に関連資料が残されているが、公開には手続きが必要であり、加えてそれらの所在を前もって知ることは難しい。それでも、最近になって、当時の鉄道ファンによる写真などが、書籍やネット上で閲覧できるようになってきている。そんな写真から垣間見る簡易軌道の姿は、開拓の最前線で、厳しい自然環境に立ち向かうには、儚いほどの素朴さを感じさせるもので、独特の風情と郷愁があり、見る者の心を惹きつける。
 簡易軌道が北の大地から消えてから、40年以上が経過した。現在では、このような軌道の存在を覚えている住民も、限られるようになってきた。その一方で、鉄道の歴史や痕跡に興味を持つ人たちが増えてきて、簡易軌道も、その対象となってきたように感じられる。
 そのようなタイミングで、上記の釧路市立博物館の企画に伴って作成されたのが本書。特に多くの簡易軌道の路線が敷設された根釧地域の軌道に特化して、資料的視点により、まとめられたもの。とても充実した内容で、官公庁が保管していた資料、鉄道研究家が記録してきた写真、あるいは切符や構造物の資料、地形図上での線形の書き起こし、所縁の深い人による思い出など、相当網羅的であり、現在入手しうる簡易軌道に関する書物の中でも、特に価値の高い一冊となっている。執筆陣も、現在を代表する研究家が名を連ねている。
 ちなみに、私は「釧路・根室の簡易軌道」展に赴く時間を捻出できず、翌2月に釧路空港で、同展のパネル展が開催された際に、やっと訪問することが出来た。また、それを機に、いくつかの軌道跡を訪問することとなったのである・・・。
 以下、参考に目次を転載しよう。
はじめに  1
カラー写真でよみがえる簡易軌道  2
簡易軌道のきっぷたち  16
簡易軌道とは  18
鶴居村営軌道(簡易軌道雪裡線)  24
 軌道があったころ 小野正彦さん  34
          井上志津子さん  37
          関口忠明さん  38
 「新富士停留場16時25分」 三宅俊彦  45
標茶町営軌道(簡易軌道標茶線)  46
 軌道があったころ 渋谷六男さん  53
 「沼幌の思い出」 田沼健治  59
浜中町営軌道(簡易軌道茶内線・若松線)  62
 軌道があったころ 青田豊さん  74
          青田富子さん  76
 「鉄道ファンとして訪れた簡易軌道の思い出」 平田邦彦  86
 「牛乳列車~浜中町営軌道のこと~」 平田邦彦  88
別海村営軌道(簡易軌道風蓮線)  89
 軌道があったころ 沢田正さん  95
          堀込哲夫さん・加藤ヱミ子さん  96
 「簡易軌道 最後の冬」 遊佐洋  100
釧路・根室の馬力線   101
 「阿歴内線の馬車軌道」 金子元博  103
北海道内の車両メーカー  104
 軌道があったころ 長井進さん  105
論考「北海道殖民/簡易軌道」 湯口徹  106
  「殖民軌道・簡易軌道聞き書き」 今井啓輔  112
  「『乳の道』 浜中簡易軌道と地域酪農の発展」 佐々木正巳  117
  「唯一無二の地域遺産をどう活かすか」 名取紀之  122
「簡易軌道実態報告書」  125
資料編  129
現在に残る簡易軌道遺産  134
 なお、【注意】であるが、本書は「初版」のほか、翌年編纂された「増補改訂版」が存在する。上に記載した目次は全136ページの「初版」のものであるが、全180ページとなる「増補改訂版」については、投稿日現在も釧路市立博物館で取り扱いが行われているようなので、興味のある方は、そちらの情報も確認されることをオススメしておく。(左画像が初版 右画像が増補改訂版)

北海道の殖民軌道 聞き書き集 今井啓輔著

レビュー日:2021.6.22
★★★★★ 趣味世界の開拓者、平沼義之氏ならではの一冊
 本書は、先にレイルロードから、「私が見た特殊狭軌鉄道」シリーズを刊行していた今井啓輔氏による、渾身の1冊と言えるもの。本書の対象となっているのは、北海道内のみに存在した「殖民軌道」と呼ばれた軽便鉄道群。それらは、北海道の拓殖のため、1925年以降、道東を中心に敷設された軌間762mmの軌道であり、蒸気機関車やガソリンカー、ディーゼル機関車といった動力車が運用される一方、馬鉄と言う運用形態でも存在した。これらの軌道は、現代の感覚で言えば、驚くほど道内の様々な場所に張り巡らされていた。そして、開拓を担う人々の生活必需品のほか、当該地の農畜産物、森林資源、石炭搬送の搬送等に供されるほか、急病人の搬送などにも利用される、まさに「生命線」と呼ぶべきインフラであった。その道内の総延長は、最大時で600kmを越えたと言われる。泥炭地が多い開拓の前線では、ほぼ唯一といって良い交通機関であったものも多かった。しかし、時代とともにその役割を終えていき、最後に残った茶内線が1972年5月1日に廃止され、殖民軌道の時代は終わりを告げた。
 これらの軌道は、その末期に、一部の鉄道フアンの注目を集め、現在では、様々にその写真をはじめとする情報が提供されるようになった。しかし、体系的な一次資料に乏しく、運用されていたころの実態については、明瞭でない部分が多く残っている。
 本書では、北海道内にかつて存したすべての殖民軌道について、路線ごとに、現地に長く住む人に聞き取りを行い、その内容を記すとともに、代表的な駅の配線構造や、通常の車両の留置状況等について書き起こし、加えて図表や貴重な写真を引用してまとめた、きわめて貴重な資料本となっている。筆者の使命感と情熱を感じる一冊で、地域史としても、これまで欠損していたものを補う、無二の書となった感がある。以下、路線別に編集されているので、その目次を転載しよう。
勇知線  6
幌沼線  8
問寒別線(通称・幌延町営軌道)  16
枝幸線(歌登線)(通称・歌登町営軌道)  22
本幌別線  29
幌別線(志美宇丹線)  31
雄武線  34
仁宇布線  37
当別線  43
真狩線  47
貫気別線  50
居辺線  53
仁々志別線  56
雪裡・幌呂線(通称・鶴居村営軌道)  59
茶内・若松・円朱別線(通称・浜中町営軌道)  68
根室線Ⅰ  74
風蓮線(通称・別海村営軌道) 81
根室線Ⅱ  88
矢臼別線  90
西別・春別線  91
計根別線  97
弟子屈線  98
虹別線  100
久著呂線  102
阿歴内線  106
茶安別線  108
標茶線Ⅰ  110
標茶線(通称・標茶町営軌道)Ⅱ  112
養老牛線  118
忠類線  120
斜里線  122
藻琴線  126
 これらの軌道の中には、地形図に掲載されず、現在ではどのような線形だったか明瞭な資料のないものもある。しかし、当書では、これも概略図により紹介されている。前述の通り、路線末端等の代表的な駅については、現状に推定線路を描き入れた図により、その姿が立ち現れている。写真もなく、郷土資料も十分でない中で、限られた資料と証言から、これらの姿を復元した筆者の努力には頭が下がる。
 また、現役当時の写真や、最近の遺構の姿(現在失われたものも含む)を示す写真も多く掲載されており、カラー写真はカラーで印刷されているのがうれしい。ただ、最近まで残る遺構については、その場所を現在の地形図等で図示してほしかったところは残る。私も軌道跡などを訪ね歩くのだが、写真に添えられたわずかな説明文だけだと、場所の類推が難しい場合が多い。
 その他、代表的な運行時間の紹介や、一部の乗車券の紹介など、貴重なものがこれでもかと集まっており、1冊とは思えないほどの内容の豊かさだ。特に森林鉄道時代も含めた仁宇布線、開設時から動力が用いられながら、地形図に記載されなかった真狩線、日高山中で、接続する路線の無かった貫気別線、6年しか運用されなかった雄武線など、他に参考書と言えるものがなかっただけに、感動的と言って良い内容である。
 証言者のインタビューについては、一つ一つに歴史の重みが感じられる。一つだけひときわ印象の強かったものを紹介しよう。仁宇布線で森林資材を搬送していたころの運行車両に乗務していた人のエピソードだ。雨の日の下りはブレーキの利きが弱かった。語り手は当時、勾配を下る線路を走行中の森林資材を満載した貨車の上に乗り、雨の中、走行中の貨車から貨車に飛び移りながら、ブレーキをかけて回ったという。「命がけ」という言葉すら白々しくなるほどのすごい事実である。このような先人たちによって、気候の厳しい北海道も、開拓が進み、現代では、食糧基地となったのである。ただ、近年を顧みると、これらの努力により開拓された土地が、過疎化の名の下、次々と原野に戻っている現状がある。一代の間に、開拓と放棄を経験した人が何を感じるというテーマは、とても重い話になるであろう。
 本書に話を戻すと、著者の熱意により、ここまでのものがまとめられたことは、改めて敬服の至りである。近年の同様の研究成果をまとめたものとしては、釧路市博物館がまとめた「釧路・根室の簡易軌道」があり、それと双璧と言える成果である。

簡易軌道の風景 古川邦雄著

レビュー日:2021.7.3
★★★★★ 70年代はじめ、北海道で記録された簡易軌道の貴重な姿
 1951年生まれの著者が、1970~72年の間に3度北海道を訪問し、廃止間近の簡易軌道を収めた貴重な写真をまとめた1冊。  「簡易軌道」とは、かつて北海道内のみに存在した軽便鉄道群のこと。1942年に「簡易軌道」の呼称となったが、それ以前は「殖民軌道」と呼ばれた。その名が示す通り、北海道の拓殖のため、1925年から道東を中心に道内各地に敷設された。軌間762mmの軌道であり、馬鉄の他、蒸気機関車やガソリンカー、ディーゼル機関車といった動力車が運用されるなど、路線によって運用形態には違いがあった。これらの軌道は、現代の感覚で言えば、驚くほど道内の様々な場所に張り巡らされた。そして、開拓を担う人々の生活必需品、当該地の農畜産物、森林資源、ときには石炭搬送にも供された。その総延長は最大時で600kmを越えたと言われる。泥炭地の開拓地では、ほぼ唯一といって良い交通機関であった場合もあったが、時代とともにその役割を終えていき、最後に残った茶内線が1972年5月1日に廃止され、簡易軌道の時代は終わりを告げることとなる。
 著者の訪問時は、わずかな路線が残っているのみであり、それらが撮影対象となっている。目次を転載する。
歌登町営軌道(歌登線)  4
幌延町営軌道(問寒別線)  12
浜中町営軌道(茶内・西円・東円線)  26
別海村営軌道(風蓮線)  82
標茶町営軌道(標茶線Ⅱ)  92
鶴居村営軌道(雪裡・幌呂線)  96
 なお、上記の内、浜中町営軌道の西円・東円線は、おそらくそれぞれ若松線、円朱別線の表記の方が一般的ではないかと思う。
 20才前後の著者の情熱を感じる写真で、その内容は素晴らしいの一語に尽きる。各地を訪問し、情景的な美しさを捉えた写真のほか、可能な限り当時存在した車両を記録しようという意図があり、その網羅性は高い。
 この時代は、蒸気機関車が、その役目を終えようと言う時代であり、それでもまだ北海道では多くの蒸気機関車が活躍している時代でもあった。なので、北海道に渡って写真を記録しようとする鉄道写真家たちも、そのターゲットは蒸気機関車が主となった。その一方で、北海道ならではの存在であった簡易軌道の記録は決して多くはない。しかし、最近では、特に廃止直前の写真が、様々な手法で公開され、様々に貴重な情報に触れることが出来るようになってきた。特集的に記事を書かれるものもしばしば目にする。
 それでも、これだけまとまった網羅的な記録は本当に少ない。本書では掲載されている写真の1割強ほどがカラーであり、これらはカラー印刷で掲載されていることもありがたい。掲載されている写真のサイズも、十分に満足できるものである。
 個人的には、各車両について資料的価値を目指して記録した写真より、北海道の情景の中、ひょろひょろと伸びる狭軌を行く軌道の姿やオブジェクト、それにかかわる人々を感じさせる写真に、目が行く。雪の歌登線を行く素朴な貨物車両、チップ詰め込み場。雪の中の運行を保守する問寒別線の人々、小さくて愛らしい転車台と風格ある除雪車。浜中町営軌道の茶内駅の風景、ミルクカーの運行の様子、分岐点であった秩父内駅の様子、残雪の残る林の中を進む軌道、雪印の茶内の集乳施設と工場、大地を行く自走客車。風蓮線の軌道側に信号のついた踏切の風景。
 いずれもが、この時代ゆえ、この時代だけの貴重な雰囲気をたたえ、そしてそれが得難い情感をもたらすものであることを、語り掛けてくれるような写真たちである。この風景が記録され、書物として入手できるに至った著者はじめ、出版関係者に感謝したい。

北海道の簡易軌道 全路線解説と6つの軌道跡を訪ねて 石川孝織・佐々木正巳著

レビュー日:2023.7.6
★★★★★ 簡易軌道研究の集大成と呼べる一冊
 北海道の開拓期に、泥炭地や火山灰地といった通行困難な土地の奥地を切り拓く役目を背負って、1925年の根室線を皮切りに全道に敷設された軌間762mmの軌道は、当初、殖民軌道と呼ばれた。それらの軌道の主管は、1951年に内務省から農林省に移管された以後は「簡易軌道」と呼ばれるようになる。これらの軌道は、開発に必要な物資の輸送、産物の搬送、そして旅客の移動に供されたほか、その地域特性に応じて、林材の搬送、石炭や鉱物資源の搬送、集乳等にも活躍した。最盛期にはその総延長は、600kmを越えるとされたが、徐々にその役目を道路に置換し、1972年、最後に残った浜中町営軌道が廃止され、その姿はなくなった。
 これらの軌道の在り様が、最近、注目され、公的にも「北海道遺産」に認定されるようになってきている。個人的に、その大きな原動力となったのは、軌道末期の60年代末から70年代初めにかけて、鉄道写真家が記録したものが、現在では失われた風景の象徴的なものとして、書籍やウェブサイトを通じて、広まったことにあるだろう。
 その一方で、これらの軌道に関する報告や情報は、60年代以降まで軌道が存続したものに集中していた。しかし、これらの軌道の中には、運用期間のごく短かったものや、早い時代に廃止されてしまったもの、あるいは地形図に一度もその線形を記載されたこともないものもあった。そういったものは、今となっては、どこを通っていたのか、どのような運用をされていたのか、多くの点で不明といって良いものも多い。
 そんな「エアポケット」を埋める素晴らしい一冊が登場した。本書では、軌道毎に、その運用形態(軌道初期の組合等による運用方法等)、また現在の地形図上に路線図を落とし込み、驚くべきは、停留所の位置まで示した点にある。これほど集約的で、網羅性の高い資料は、これまでなかったわけだから、その存在意義は大きい。まず、その内容を示すため、目次を転載させていただく。(数字は頁を示す)
北海道の生活を支えた簡易軌道  4
簡易軌道の車両  10
道東の簡易軌道  15
 根室線  16
 鶴居村営軌道(簡易軌道雪裡線)  18
 標茶町営軌道(簡易軌道標茶線)  24
 浜中町営軌道(簡易軌道茶内線・若松線)  30
 別海村営軌道(簡易軌道風蓮線)  36
 仁々志別線  40
 阿歴内線  41
 久著呂線  42
 チャンベツ線  44
 弟子屈線  46
 虹別線  48
 養老牛線  50
 西別線・春別線(上春別・中春別線)  53
 東藻琴村営軌道(簡易軌道藻琴線・東洋沢線)  56
 斜里線  60
 居辺線  62
 雄武線  65
道央の簡易軌道
 当別町営軌道(簡易軌道当別線)  68
 真狩線  72
 貫気別線  76
道北の簡易軌道
 美深町営軌道(簡易軌道仁宇布線)  80
 幌延町営軌道(簡易軌道問寒別線)  86
 幌沼線(幌延線・沼川線)  96
 歌登町営軌道(簡易軌道歌登線・枝幸線・幌別線・本幌別線)  102
 勇知線  112
道東4軌道、道北2軌道の跡をたどる 簡易軌道跡探訪ガイド  114
 鶴居村営軌道  116
 標茶町営軌道  128
 浜中町営軌道  140
 別海村営軌道  156
 歌登町営軌道  166
 幌延町営軌道  174
1泊2日でまわってみよう 道東簡易軌道跡探訪おすすめコース  184
 本書の主眼は「軌道の通っていた場所」「軌道の用途・運用」「停留所」「特徴的な関連オブジェクト」の情報をまとめることにある。車両についても、触れられていはいるが、先行する資料や書籍に、その役割を委ねた形で、その分いままで報告が十分でなかったものに焦点をあてて、質量とももに豊かなものに仕上がっている。
 初期の運行形態については、町村史等でもほとんど記されていないもので、筆者は、北海道の古い公文書に残っていた記録をひもときまとめている。停留所の位置や線形については、先行する研究者の報告と、聞きこみも含めた現地調査、可能な場合航空写真との照合などから、おそらくかなり精度の高いものとなっていると考えられ、今後は、これが「基礎資料」もしくは「一次資料」とよぶべきものになるのではないかと思われる。
 また、書籍の想定もきれいだ。全頁カラーであり、B5版というサイズは、地図や写真を掲載する上でも有利だ。もちろん、可能な限り大きなサイズで見たいのだが、言い出せばキリがないわけだし、書籍としては、精一杯というところまで到達している。また、今までほとんど書籍等で紹介される機会のなかったチャンベツ線、真狩線、貫気別線などは、はじめて、その姿を想像できるものが登場したと言って良いだろう。自治体等から集められた現役当時の写真にも、未発表かつ貴重なものがきわめて多く、そういった点でも、価値が高い。
 各軌道跡の現在の様子も、きれいなカラー写真で紹介されており、丹念に現地を訪問した著者の苦労が偲ばれる。特に明瞭な軌道跡が多く残っているものについては、別稿を設けて、これから現地を訪問したい人への案内書としての役割も果たしている。
 簡易軌道研究の、一つの集大成と呼ぶにふさわしい一冊になっている。

北海道の森林鉄道 松野郷俊宏著

レビュー日:2019.12.23
★★★★☆ 北海道の主要な森林鉄道の「沿革」を記述した「まとめ本」です
 かつて、北海道内には官民含めて、膨大な数の森林鉄道が敷設された。その最盛期であった1940~50年代には、総延長にして800kmを越える距離の森林鉄道があったと考えられている。森林鉄道は、山林からの資源搬出のみならず、地域によっては、他の資材の搬送や、住民の移動にも供されたインフラであった。しかし、道路整備が進むにつれて、森林鉄道は減少し、1968年、定山渓森林鉄道の廃止をもって、北海道から森林鉄道は姿を消すこととなる。
 鉄道の敷設は大規模な土木事業であるが、森林鉄道自体が鉄道法の管理対象外であることもあって、これらの鉄道の詳細な記録というのはほとんどない。ことに北海道の森林鉄道に関しては、今なお「あったと考えられている」レベルの幻の存在ももろもろにある。そのため信頼の高いデータをまとめることは困難だ。
 本書の記述も、特に新しい知見を含んでいるわけではない。ただ、代表的な官営の森林鉄道について、その由来、設置年、建設時の背景、周囲の状況等、いわゆる「沿革」を、述べてくれている。その内容は、おおよそ当該市町村史や営林署史等の記述内容をまとめたものであるが、これらの原典となるべき書物は、(私の経験では)中古で入手しようとしても、相応の値であったり、また入手しても書籍自体の「サイズ」の大きさから、保管に難渋したりすることが多い。そういった点で、それらの労苦を避けて、各森林鉄道の沿革を読めると言う点で、本書は有用である。以下、本書で取り上げられている森林鉄道を記載する。
 定山渓森林鉄道/恵庭森林鉄道/幾春別森林鉄道/大夕張森林鉄道/芦別森林鉄道/中名寄森林鉄道/奥名寄森林鉄道/珊瑠森林鉄道/奥士別森林鉄道/仁宇布森林鉄道/層雲峡森林鉄道/達布森林鉄道/羽幌森林鉄道/古丹別森林鉄道/三毛別森林鉄道/金山森林鉄道/落合幾寅森林鉄道/トマム森林鉄道/温根湯森林鉄道/置戸森林鉄道/渚滑森林鉄道/武利森林鉄道/生田原森林鉄道/津別森林鉄道/上札鶴森林鉄道/上川十勝森林鉄道/音更森林鉄道/足寄森林鉄道/斗満森林鉄道/陸別森林鉄道/東大演習林の森林鉄道(西達布森林鉄道・麓郷森林鉄道)
 森林鉄道の表記には、複数の方法がある。三毛別と古丹別は併せて「古丹別」とされる場合が多いが本書は分割している。また本書で「大夕張森林鉄道」とあるのは、「主夕張」「下夕張」「遠幌加別」の3つの森林鉄道を集約したものとなっている。
 また、前述の通り、王子製紙や富士製紙、三井グループなどが敷設したような民間の森林鉄道は対象に含まれていない。また、官営のものであっても、宇津内森林軌道、上ノ国森林軌道、上尾幌森林鉄道。常呂森林鉄道等、記載されていないものがある。そのような意味で、すべてが取り上げられているわけではなく、あくまで「沿革」として記載できる内容が、比較的入手しやすいものについて、まとめた体裁といって良いだろう。そういった意味で、本書は、これらの森林鉄道の「まとめサイト」的な活用ができるものと言えるだろう。
 市町村史等で紹介されている写真や、ごく簡単な路線図が紹介されているものもある。ただ、このうち路線図については、個人的には、もう少し精度の高いものをまとめてほしかった感が強く、記載の多くは、概略図であり、それもかなり大雑把な書き味のものとなっている。また、個人的に、「支線」を含む「路線網」に関してなにか新しい情報がないかという興味はあったが、その点でも、とくに新しい発見と言える内容はなかった。むしろ支線に関する情報は、他の文献やウェブサイトを参照した方が有益な場合が多いだろう。
 個人的に興味深かったのは、芦別森林鉄道における芦別町勢要覧(1951)から転載された「芦別森林鉄道路線図」であり、歴代の地形図でも線形の記載のない咲別線、幌子線、惣顔真布線の線形が記載されているほか、この地図が正しければ、私の知る限り、これまで報告のない惣芦別川に沿った支線が存在している記述になっており、このページはじっくり拝見させていただいた。
 それと、最後に筆者が金山で過ごした少年時代の森林鉄道の思い出が興味深い。そこでは、筆者が、少年時代、徐行運転する列車の最後尾の運材車に友人たちと飛び乗って遊んだエピソードが紹介されていた。責任論や安全論がやたらと取り沙汰される現代とは、まったく異なる当時の思い出話が、私にはこのうえなく暖かく貴重なものに思われる。

スイッチバック大全 江上英樹 栗原景 著

レビュー日:2024.9.4
★★★★★ 「スイッチバック」に着眼して情報を集約した「大全」を名乗るに相応しい一冊
 すごい図書が出現した。
 鉄道にとって、勾配は難敵である。登れる勾配に限界があるのだ。勾配が急になれば、ただ線形を屈曲して距離を稼ぐだけではどうしようもないものもある。これが「峠越え」というのであればトンネルを掘るのが最適解だ。しかし、その場合でもトンネルの工費や維持費の負担は大きい。また、「峠越え」ではなく、その勾配を登った先に目的地があるのであれば、トンネルを掘ったところで解決はできない。
 そこで登場する代表的かつ古典的解決法がスイッチバックである。列車の進行方向を反転させながら、ジグザグに斜面を登るのだ。当然のことながら、列車はジグザグの端点に到達するたびに、一度完全に停車する必要があるから時間がかかってしまうのだけれど、やむを得ない。私は、このスイッチバックを通るとき、スキーのキックターンのことを思い出す。スキーでも、体の正面を下方に向けられないほど斜度が厳しい場合には、キックターンと斜滑降を繰り返して、斜面を降りる。これもいったん完全静止が必要で、両者は似ていると思う。
 また、勾配をまっすぐ登れる場合であっても、途中に駅や列車交換のための施設が必要な場合、停車する列車を一定距離以上を確保した平地に引き込むため、スイッチバック構造が利用される。
 スイッチバックは、とてもユニークで、鉄道の象徴的な構造の一つだ。ただ、スイッチバックが必要だということは、交通としては「隘路」に相当する個所である、ということで、時代が進むにつれて、線形改良等により、その数は減る傾向にある。
 そんな中、かつて存在したものも掲載対象に含めた「スイッチバック大全」として、本書が登場した。凄いのは、これまで網羅的な集約がそこまで試みられなかったスイッチバックというジャンルに、いきなり圧倒的な情報量をもった本書が登場したことだ。画期的な書籍である。本書では、現存・廃止を含めて、国内に存在した140のスイッチバックについて、紹介してくれる。紹介方法は、スイッチバックを線形に応じて、「X型」「Y型」「Z型」「V型」「レ型」「ト型」「H型」の7種に分類し、140のスイッチバックがどの型に属するかを踏まえて、航空写真なども交えながら、その背景や機能・歴史を紹介するという形式。また高名なものや特徴的なものについては、構内の路線図も掲載されている。それぞれのスイッチバックについて、歴史的なものも含めた写真が存分に紹介され「スイッチバックならでは」の風景たちが、これでもかと掲載されていて、これまた見ごたえたっぷりだ。とにかく、その情報量の豊富さには驚嘆させられる。
 また、140のスイッチバックについて、「現状訪問ガイド」も付されており、廃止されたスイッチバックも含めて、それを実際に目にしたいと思う人への案内書としての役割も持ち合わせている。以下、内容の参考のため、目次を転載させていただく。カッコ内の数字はページを表す。
序にかえて(1)/本書におけるスイッチバックの分類(4)/本書で用いる用語解説(5)/本書の見方(6)
 第1章 北海道
狩勝(信)(8)/新内(12)/南稚内(14)/留萌(15)/遠軽(16)/常紋(信)(17)/三笠(22)/楓(24)/上然別(26)/湖畔(27)/錦沢(28)/かつての「新夕張駅」は折り返し?(31)/北海道の戦時型信号場(32)/仁山(信)(34)
 第2章 東北
瀧見(信)(40)/西岳(信)(43)/吉谷地(信)(46)/1000t貨物とスイッチバック(47)/押角(48)/大志田(52)/浅岸(55)/岩手岩橋(59)/米谷(60)/村田(61)/金山(信)(62)/赤岩(63)/板谷(66)/峠(68)/大沢(70)/中山宿(72)/江田(信)(76)/背景を楽しむ“非勾配型”スイッチバック(78)
 第3章 関東・甲信越
熊ノ平(83)/御代田(85)/草軽電気鉄道(88)/まだまだあったか、折り返し(90)/東武鉄道伊香保軌道線(91)/湯田中(94)/電鉄大屋(95)/関山(96)/二本木(99)/上越線の戦時型信号場(103)/東赤谷(104)/西長岡(106)/寺泊海水浴(107)/上見附(108)/羽鶴(109)/間藤(110)/武蔵五日市(112)/大網(116)/横浜(117)/首都圏のスイッチバック(118)/初狩(120)/笹子(123)/勝沼(126)/韮崎(129)/新府(信)(132)/穴山(134)/長坂(136)/東塩尻(信)(140)/塩尻駅は最新のスイッチバック?(141)/潮沢(信)(142)/羽尾(信)(144)/姨捨(146)/桑ノ原(信)(150)/富士山(153)/小中尾(154)
 第4章 東海・北陸
箱根登山鉄道(156)/谷峨(信)(158)/谷峨と兄弟「足柄信号場」(159)/富士岡(160)/岩波(162)/富士岡・岩波の先輩格「神山信号場」とは?(164)/友田(信)(165)/左富士(信)(166)/遠州馬込(167)/美濃大久保(168)/中京圏の平面スイッチバック(169)/駄知(170)/刀根(172)/深山(信)(176)/新保(177)/葉原(信)(180)/山中(信)(183)/敦賀をめぐるスイッチバック事情(187)/岡本新(188)/丸岡(189)/上市(190)/鐘釣(191)/立山砂防軌道(192)
 第5章 関西・中国
中在家(信)(194)/北宇智(198)/名にし負う逢坂山の折り返し(201)/東舞鶴(202)/梨ヶ原(信)(203)/郷原(信)・入野(信)(204)/上瀬野(信)(205)/諸原(206)/滝山(信)(208)/出雲坂根(210)/一畑口(214)
 第6章 四国・九州
坪尻(216)/新改(219)/笹場(信)(222)/立野(223)/呼野(226)/筑豊に存在した“幻”のスイッチバック(228)/本川内(229)/東唐津(232)/伊万里(233)/早岐(234)/田原坂(信)(235)/大畑(236)/真幸(240)/薩摩永野(244)/上日置(245)/鹿屋(246)
 付録
海外編(247)/写真提供・資料協力・参考文献(252)/編集を終えて(253)/あとがき(254)
 これらのスイッチバックには、ファンの間で広く知られる存在ももちろんあるのだが、一方で相当に鉄道に詳しい人でも知らないというものも多いに違いない。それゆえに、読んでいて発見がたくさんある内容である。最初に書いたように、スイッチバックという構造は、通過するのにどうしても時間を要してしまう仕組みだ。それゆえに、到達時間を競う現代の社会にあっては、不合理な存在にも思えるし、実際にその数は減っている。一方で、「言われてみれば、ここもスイッチバックだった」と思わせる現役スイッチバックも、まだまだある。だから、スイッチバック自体が、いろんな視点で楽しめる存在であると言えるだろう。そのことに改めて気づかせてくれる。それに、私の場合、移動に時間のかかる旅というのが好きなので、どうも、このスイッチバックのような存在を、愛おしく思ってしまうところもある(ちなみに、私は、カーヴィングスキーやファンスキーの登場により、必要性の減じてしまった古典スキーのキックターンも、結構好きだ。存在感がスイッチバックに似ている!)。
 それにしても、ここまで貴重な写真を揃えて、情報を集約した著者の熱意は素晴らしい。鉄道が好きな人、特に鉄道の歴史や信号場の配線図に興味がある人には、ぜひとも推薦したい一冊です。なお、一部要修正のところがあって、近く誠文堂新光社のHPに正誤表を掲載する予定があるとのことなので、併せてお知らせさせていただきたい。


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