その他の書籍等
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トランプ殺人事件 竹本健治 レビュー日:2005.4.2 |
★★★★★ 深い感銘を得られる傑作「小説」
竹本健治のゲーム三部作が待望の文庫化された。本作「トランプ殺人事件」は三部作の最後にして、竹本作品の一つの精緻な頂点を為す作品といえる。本書を読まれる方には、ぜひそれに先だって「囲碁殺人事件」と「将棋殺人事件」を読まれることをオススメする。ひとつひとつが独立した作品ではあるが、その方がより深い感銘が得られるはずだ。 今回の文庫化に際して大内史夫氏が末尾に付した解説が名解説で、私がこの作品から感じた「えもいわれぬ感慨」を巧みにすくってくれており、一つの文庫本としてよくできたものになっている。 この作品は「殺人事件」のタイトルを持ち、実際、事件を軸に話は展開するが、それによって描かれる世界の美しさと儚さ、もろさが小説としての驚くほど深い感銘を与えてくれる。 人が漠として感じる不安や、自分の存在への問いかけが優しく、しかしその背後に深い闇をともなって、読者のまわりを取り囲んで行く。読み進むにしたがって、様相を変える自らの周囲の闇に人は気づくに違いない。 もちろんパズラーたちをも十分に納得させる力感も持っており、あらゆる意味で深い作品と言える。この作品の読後に得られる深い感情をもって、この作品を傑作と呼ぶにためらわない。 |
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フォア・フォーズの素数 竹本健治 レビュー日:2005.10.30 |
★★★★★ 誰もが心の奥底に持っているもの・・・
竹本健治の短編集第2集が文庫化された。この作家は多面的な様相を持っている。ホラー、ミステリー、バイオレンス、暗号、計算、少年といったキーワードが思いつかれるが、ここに集められた小品集は、それらのエッセンスが時には際立ち、時には脇役にまわって、きわめてユニークでかつ印象深い、代表作といえる作品群を成すに至っている。一つ一つの作品が独立した宇宙を持っていて、中にはショートショート的な短くも怖い話もある。 が、概して言えるのは、誰もが心の奥底に持っているような、幼年期から少年期にかけてふと感じた不安や心の闇を改めて喚起し、もう一度振りかえってみるような、不思議な郷愁めいたものを与えてくれることが多い。これは作者自身がきわめて多感な少年時代を過ごしたからにちがいないと思われるが、おそらく多くの人がかつて感じたことがあるであろう「あの時のえもいわれぬ感じ・・・」が小説の中で、突如湧き上がってくるような書法には、恐れ入る。そう、この人の作品は、「あの」という代名詞を用いて説明せざるを得ない「あの感じ」こそが白眉なのだ。胸の琴線に触れる、そうとしか言い様のないものだ。 特に標題作は、竹本の得意ジャンルとも言える計算ジャンルの極めてユニークな小説だ。4つの「4」から導かれる自然数たちを求める少年の探求心と、そのどんでん返しの鮮やかさには舌を巻く。最後に余韻を引く淡い情緒の残る小品が多い。 |
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ナ・バ・テア 森博嗣 レビュー日:2005.4.10 |
★★★★★ 「望むこと」に飽きないために・・・
いくつものシリーズを同時進行式に持っている森博嗣だが、本作はスカイ・クロラと同列で、キルドレ(childrenの音だと思われる)シリーズといえる一品。 改行が多く、詩的な文章である。全篇を通して、詩学的な思索性に満ちている。いくつかのタイプのヒコーキが登場し、そのメカニズムを背景にした空中戦が精緻な書法で表現されていて、アニメ的でもある。 登場人物の名前も暗示的だ。クサナギ、ゴーダ・・・これらはDVDアニメシリーズ「攻殻機動隊 stand alone complex」シリーズの重要登場人物にダブる。両者の作品には共通のモチーフがある。自己へのあくなき問いかけと、現実との関わりへの倦みの交錯である。 それがよりはっきりするのは、“劇場版攻殻機動隊” である「イノセンス」の次のセリフだ。「人はおおむね自分が思うほどに幸福でも不幸でもない。大事なのは、望んだり生きたりすることに飽きないことだ。。。」元ネタはロマン・ロランであるが、このテーゼはこのキルドレ・シリースにもビタリとはまる世界観と言える。 大事なのは「望みが叶うかどうか」ではない。「望むこと」自体に飽きないことなのだ。でも飽きたときは・・・その問いに潜む漠たる不安と恐怖はこの小説でも深淵なる口を開けていると感じられた。 |
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下り“はつかり"―鮎川哲也短編傑作選〈2〉 (創元推理文庫) レビュー日:2005.4.30 |
★★★★★ 「ミステリファンにとって「知るべき存在」の作品群
近年に起こったミステリ・ルネッサンスとよばれる新進の作家たちの台頭の、その礎を築いたのが鮎川哲也ということになろう。本格ミステリの潮流を遡れば、必ず鮎川の名は出てくるのだ。 逆に、現代の系譜を俯瞰するとき、そこに鮎川の存在を知って見るのと、見ないのでは、その認識の精度も変ってくる。もちろん、ミステリファンにとって鮎川は「知るべき存在」に違いないのである。そんな偉人鮎川哲也を知るのに、東京創元社文庫から刊行された2冊の短編集は理想的だ。 前編といえる「五つの時計」に次ぐ本作には代表作として名高い「赤い密室」「達也が嗤う」などが収録されている他、「地虫」のような異色作もあり、そして、ここに収録された全作が、現代ミステリへ脈々とエネルギーを供給する「本格の源泉」であると感じられる。文章、文体の気高さ、無駄な虚飾を排しながらも、闇をみつめる慧眼。そしてトリックそのものの質の高さがなんといっても素晴らしい。最近の作家であれば、こんな素晴らしいトリックをおもいついたのであれば、当然長編として仕上げるであろうアイデアを、惜しげもなく短編に降り注いでいる。 もちろん、いまとなっては時代を感じさせる部分も多いが、トリックそのものの着眼点の秀逸性は現代の読み手をも十分満足させるに違いない。なお、末尾に収録されている鮎川に多大な影響を受けた、有栖川有栖、北村薫、山口雅也の三氏の対談も、非常に興味深いものになっている。 |
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朱の絶筆 星影龍三シリーズ (光文社文庫) 鮎川哲也 レビュー日:2007.6.25 |
★★★★★ とにかく「鮎川」のテイストが堪能できる名作です
最近、鮎川哲也の作品が次々と文庫化され、廉価での入手が容易となっている。現代日本ミステリ界における、いわゆる「本格」の復興によるものだろうが、このジャンルの先駆者であった鮎川の評価が近年さらに高まっているのはうれしい。 「朱の絶筆」は元来「犯人当て」のための短編として書かれた作品である。これを後に鮎川が長編に書き直したのであるが、本文庫には、「長編版」と「短編版」の双方が収録されている。「短編版」は資料的価値のあるもので、あくまで「長編版」を読んでから読まなくてはならない。(結末がわかっちゃうので) さて、鮎川の作品に共通することであるが、まずプロトタイプが精緻である。きわめて計算が的確で、論理的な因果関係を満たしている。また、文章の格調が高く、下手にくずすことがない。また正確さが求められる個所の記述は、端的で非常にリズム感があり、読んでいて爽快で、かつわかり易い。そして、何よりも「フェア」である。これは作家の矜持の現れだと思うが、時として意固地なまでフェアである。そのため、雑誌で行われた「犯人当て」においても、わりと正解者がいたというのは、逆にこの小説の価値を高めた事象だと思う。 また、トリック、ヒントなども見事な手腕を感じる一方で、ふとみせる人間観察や社会観にも切れ味の鋭いものがあり、はっとさせられる。名探偵「星影龍三」は好きなキャラクタだ。といっても小説の登場人物としてだが。安易な同情のようなものも一切なく、事実確認だけを相手に求めて、「だからこうだったのです」と終わる。興味があるのは、他の人がわからない解答を自分があっさり見抜いたという事実を簡単に伝えることだけ。あとはなにもなし。これもまた鮎川流のキレでしょう。 |
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越境者たち(上) 森巣博 レビュー日:2005.7.2 |
★★★★★ 「ギャンブル論」は「文明論」を経て「人間論」に至る!
森巣博という作家の作品を、私は「書斎の競馬」という雑誌の連載モノではじめて読んだ。そのとき、この個性的な企画性の高い雑誌にあって、なおことさら異様に輝く魅力的なその作風に翻弄され、「これほどまでに面白い作家がいたのか!」との衝撃を受けた。この前後2冊に文庫化された「越境者たち」はそんな森巣の世界を堪能するのにもってこいだ。 ぱっとみ、「まあ、ギャンブルに関する本だな・・・」くらいな感想を持たれるかもしれない。しかし、その中身はまさに「人間論」だ。「ギャンブル論」は「文明論」を経て「人間論」に至っている。その論理の展開の鮮やかさ、ストーリーそのものの純然たる面白さ、刃の輝きを放つ真理の見事さ。どれをとっても間違いなく、一級品だ。 私の場合、読書活動はおもに通勤電車の中で行うが、この作品を読んでいたとき、満員電車で過ごす30分があっという間だった。内容については触れない方がいいかもしれないが、そこに登場する人物たちの生き様は、私を強く魅了し続けた。いかに生きるかとはいかに死ぬかと同義である、と聞いた事があるが、この物語ははさに「生き様」と「死に様」が交錯する。その熱を孕むエネルギーを堪能されたし! |
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越境者たち(下) 森巣博 レビュー日:2005.7.2 |
★★★★★ 極上のアイテムへ進化する可能性を秘めた「考え方」へ
森巣博という作家の作品を、私は「書斎の競馬」という雑誌の連載モノではじめて読んだ。そのとき、この個性的な企画性の高い雑誌にあって、なおことさら異様に輝く魅力的なその作風に翻弄され、「これほどまでに面白い作家がいたのか!」との衝撃を受けた。この前後2冊に文庫化された「越境者たち」はそんな森巣の世界を堪能するのにもってこいだ。 と、ここまでは「上巻」の解説にも書かせていただいた。ここで森巣の思想についても触れておきたい。彼の膨大な知識は、知を欲する読み手にはたまらない性質のものだ。とにかく面白い。そして、それらのバックボーンから導かれる森巣の思想は「圧倒的に正しい」と感じる。「圧倒的に正しい」というのは、ただ「正しい」というのとも若干違う。なにかまっすぐに見られないくらいのまぶしい正しさなのだ。 それがまっすぐに見れない自分を見つけ、しかもそれが快感なのだから仕方ない。この小説を通して読み終えた人には、きっと新しい「考え方」を身につけるに違いない。それは生きていく上での、極上のアイテムへ進化する可能性を秘めた「考え方」だと感じる。こんな小説にはめったにお目にかかれるものではないだろう。感服! |
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蜂起 森巣博 レビュー日:2014.12.3 |
★★★★★ 犠牲者の存在を前提とした社会構造を鋭く描いた作品
「この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません」 本書にもこの常套句はテロップされているが、この字句が、これほど空々しい印象をもたらすことも珍しい。そう、確かにこの小説はフィクションである。痛快極まりない。しかし、その舞台設定と、その説明のために引用されている事件は、実際にあったことだ。つまり、森巣が、「現実の日本というシステム」に潜む腐敗を描き、その飽和状態で、プスッと風船に針を刺すようなことが起きたら、どなるだろう?と彼なりのシミュレーションを披露してみせたのが当小説である。 私が、森巣博(1948-)の名を知ったのは、「書斎の競馬」という月刊誌で、彼の連載小説を読んだのがきっかけだ。異才奇才の書き手を揃えたこの雑誌にあって、森巣の小説はなお圧倒的な存在感を放ち、私は「日本には、これほどまでに面白い作家がいたのか」と驚愕したことを覚えている。この雑誌、残念ながらすぐに廃刊となってしまったのだけれど。 この「蜂起」という小説は、2005年、「週刊金曜日」に連載されたものだそうだ。「週刊金曜日」は権力の監視を謳い、市民派を標榜する零細な雑誌であるが、読者の中には、森巣の小説の内容に反感を覚え、購読をやめる者もいたという。そう、森巣自身が言う様に、彼のスタイルは、毒気を外に散らすものである。しかし、私は彼の毒気が、彼の小説の本旨に直結するものであることを確信できる。それどころか、毒気を孕んだ本書の面白さはどうだ。私は、この書を、それこそ一気に読み上げてしまった。 本書は、「日本というシステム」について言及している。このシステムを支えているものとは何だろうか?もちろん、その事について、著者の意見がぎゅっと詰まっているのが本書なのだから、是非とも一読あれ、と言いたいところだけれど、自分なりに思っていることを述べながら、ここでの感想としたい。 ちょっと前から「勝ち組」「負け組」という言葉をよく聞くようになった。私はこの言葉が嫌いだった。なんともさもしい心情の代名詞の様で、物事を一面の価値のみから判断する用語だと思っている。しかし、森巣の小説は、それらの用語が、単に表面的な心情や価値観を体現しているのではなく、まさにこの国のシステムを象徴する言葉なのだ、と語りかける。 日本は住みよい国だろうか。住みよいのだろう。お金を払えば相応のサービスを受けられるし、そこそこの治安が維持されている。フツーに生活していれば、それほど不快なものを見たり聞いたりしなくてもいい(気がする)。しかし、それは、言いかえれば、巧妙に「見たくないもの」「聞きたくないもの」が覆い隠される構造が維持され、なおかつ、社会を構成する個人が、知らないうちに、「見ないように、聞かないように」という行動を習慣づけられているためかもしれない。そして、肝心なことは、そのようにして維持される「住みやすさ」は、実は「負け組」と称される人々の自己犠牲によって形成されている、ということだ。これは、彼らが被った社会的損害を「不問に付し」続ける世の中を暗黙の了解事として、システムが確立している、ということである。これは、本来権力を監視し、必要に応じて告発する機関(主にマスコミ)が、能動的な機能を失っているための事象でもでもある。 「それでも良い」「特に問題ない」という考え方もあるかもしれない(私もそういう気持ちが皆無というわけではない)。しかし、本書を読むと、そのような考え方は、いかにも甘えたものであるということに思い至る。世の中を覆い尽くす圧倒的多数の声や感情に圧され、自分で考える機会を喪失し、「不問に付す」生き方を事実上強制化されている負け組の存在を是としたうえで、社会の構造を定め、そこに身を委ねて「居心地がいい」と勝手に言っている・・だけかもしれない。そして、そのような立場にいる多くの人は、なお、「そんなことに気づきたくない」とも思うだろう。「おかしいものを、おかしいと気付く感性を持たなくてはいけない」という著者の叱責が聞こえてきそうだ。本書を読んでいて感じるものの一つに、著者のそのような現実に対する「無常観」もあるのだが。 それにしても、あらためて現代のこの国の社会や世論を率直に俯瞰して、人はどう思うだろう。この10数年くらいで、随分と不合理な制約を感じることが増えたと実感する人は多いはずだ。つまり、本書が書かれた以降も、森巣が本書で書いた社会の病巣は、進展中なのである。この傾向は、森巣が指摘する「自己責任論」が焚き付けられたころから始まったことだろうか。それとも、もっと以前から?・・そして、その進展は、何らかの意志が働いたためなのか(本書では、フィクションという形で、その意志の存在が書かれている)、あるいは人の本能に潜む影のなせる業なのか。社会的マイノリティーに対する異形の圧力は増すばかりだ。 本書を読むとわかる。“声高く叫ばれる正義” ほど胡散臭いものはないと。そのような多数の大声に惑わされて、自分で考えることを放棄することだけは、避けたいと思う。 なお、本書は、啓蒙書(?)としてのみではなく、エンターテーメントとしても超一級です。興味を持たれた方は、是非一読されたし。 |
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島のねこ 関由香 レビュー日:2005.9.4 |
★★★★★ もちろん「かわいい」点でも、楽しめます
第4回新風舎・平間至写真賞優秀賞を受賞した写真集。全ページ白黒。関由香さんは今後の活躍が楽しみなネコ写真家である。最近ではCREAのネコ特集の表紙写真を飾ったりしている。さて・・・ 私はネコが好きである。どことなく、自分の世界を持っていて、哲学しているようでいて、しかもどこか遊び心がある自由さ。。。ネコをみていると、なんともほっとする。 そんな私がみて、これは「いい写真集」である。とてもいい。 私が感心するのは、ただ「かわいい」という以上に、「ネコのいる世界」というものが大きく広がって感じられるからである。垣間見られる人の生活感の中に、ネコはまた一つの世界を形成している。 写真集の終わりの方に、見開きで広大な海の写真が出ている。そこにはネコの姿がない。その写真は、島に生き続けて来たネコたちが、おそらく相当昔から見てきたのと変ることのない、海の姿だ。 ネコがいると時の流れがゆっくりになる。おそらくこの島では、長い夕暮れを楽しめるに違いない。そんな深い感興を得られる写真集だった。今後の活躍にも期待したい。 |
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島々のねこ 関由香 レビュー日:2007.2.21 |
★★★★★ 島ねこシリーズ第2弾!今回はカラーで。
「島のねこ」に続く関由香さんのネコ写真集第2弾。タイトルはずばり「島々のねこ」。 島が一個増えましたね。このまま続くのでしょうか。内容ですが相変わらずいい写真集です。まず本の紙の感触がいいですね。独特の落ち着きがあります。内容ですが前回白黒だったものが今回はカラーになりました。とはいえ、雑誌等で掲載されている関さんのカラー写真はよくお見受けしているので、カラーが珍しいというわけではありません。しかし、こうしてみると一つの構図の中の配色というものが引き立っていて、これはやはり本物の作品だという実感がわきます。ねこたちは、人工物の中でも自然の中でも、風景の中で不思議なほど調和し、かつなくてはらないような存在感を示しています。ネコ好きであれば、「見たい」と欲するようなしぐさ、表情がたくみに捕らえられ、前後の時の流れや、気配、温度までもが伝わってきます。そして時折織り交ぜられる風景写真は、島でネコが見る風景。時の流れを感じつつも、その人間特有の感興を「ねこ」の姿を通して自分の中に見出すのです。いや、ちょっと難しく書きすぎましたが、もちろん無条件でかわいい写真ばかりです。前作を気に入った方、CREAのネコ特集を買ってしまう方などにはもちろんオススメです。 |
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凶鳥の如き忌むもの (講談社ノベルス) 三津田信三 レビュー日:2006.12.16 |
★★★★★ 民間伝承の引用も巧みです
三津田信三は、私が最も新作を望んでいる作家の一人である。彼の作品はミステリとホラーの両要素を併せ持っているが、作品によってその着地点はミステリ寄りだったりホラー寄りだったり様々である。しかし、その作品群はいずれも間違いなく一級のエンターテーメントの性格を持っている。着地点が自由であるがゆえに、読者はこの作品がいったいどこに向かって進んでいくのだろう、というリアルなスリルを体験することになり、それもまたこの作家の作品を読む大きな魅力である。逆に束縛の緩さを感じるかも事があるかもしれないが、概して再読してみると意外といえるほどいわゆる“本格ミステリのルール”を遵守していることに気付くだろう。 民間伝承の興味深い引用も巧みで、よく設計されている。「蛇棺葬」では葬儀に関わる民俗的な儀礼の引用も見事だったが、本作品では、集落の形成形態と信仰の係わりが巧妙なエッセンスとして効いている。作品中で紹介されている、例えば「共潜き(ともかずき)」のエピソードのように、語り継がれる伝承は妙に暗示的で不気味なものが多い。そのような歴史の中で刻まれた「畏れ」の有り様を用いて、作者は作中の登場人物と読者の心理に鮮やかなトリックを仕掛けてくる。それが読み手の悦楽となる。 |
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禍家 (光文社文庫) 三津田信三 レビュー日:2007.8.27 |
★★★★★ サービス精神満点のミステリ・ホラー
三津田信三の作品を読むのはいつも楽しみだし、手に入れるとあっという間に読んでしまう。それにしても2007年の夏は1か月に1冊という驚異のペースで新刊がリリースされ、それらの完成度の高いこともあり、またまた驚嘆の念を深くしてしまった。 さて、自分がなぜこれほど三津田の作品に魅せられるのか、それはわからないけど、彼の作品は以下のような特徴がある(と思う)。 (1) ミステリとホラーの両方の面白みを味わえること (2) ミステリとしてのルールを際どい線で守ること (3) 小説自体がミステリ論やホラー論について語るメタ構造をもっていること ちょっと簡単に自分なりに書きすぎたかもしれないけど、大きくはずれてもいないのでは。そして、なおかつその融合の程度が絶妙であり、エンターテーメントでありつづけるというサービス精神を旺盛に持ち合わせているのが素晴らしい。また、彼の作品は往々にして少年を主人公(語り手)とすることが多く、これらの点は竹本健治を彷彿とさせるのだけれど、ここでも「少年の視点」はとても高い効果を出していると思う。加えて、三津田のサービス精神ぶりも作品の強度を高めている。 本作「禍家(まがや)」は、一種「呪われた家もの」とでも言えるホラータッチの作品であり、そのような読み方で十分に楽しめるけれど、様々な伏線があり、それらが物語に抜群のアクセントを添える。その手法は上質なミステリのものである。また、この人の場合、おそらく多くの人が子ども時代に体験した「怖かったこと」「不思議だったこと」を巧みに保持していて、多くの読者が共有できる感情を作品の中で巧みに切り出してくる。そして、ふっと鋭く読み手に切り込む独特の手腕がある。だからホントにゾッとする。 「蛇棺葬」と「作者不詳」という大傑作で打ちのめされたあとも、このような高いレベルを維持し続ける作者の引出しの奥行きの深さには恐れ入る。 |
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幽女の如き怨むもの 三津田信三 レビュー日:2013.1.7 |
★★★★★
三津田信三の作品にはいつも舌を巻かされる。今回だってそうだ。ほんの一つの鍵、そのとっかかりは何度となく明瞭に提示されているのに、その姿は巧妙に覆い隠されている。だまされることの快感、最初から、眼前にぶらさがっていた答を、あらためて指摘される屈辱に似た快感。それは、読者をまるで子供時代に誘うかのよう。多くのことに興味を示し、多感で、簡単に驚くことができた子供時代に。生来の感性に沿った興奮の喚起。それが三津田作品の神髄だろう。 この作品も良くできている。読んでいて、最初、少し長いように思う前半の様々な記述は、結局は、いずれもが必要なピースとなる。最後になって、何もないと思われたとこところに、それらのピースが組み合わさって、見事なモザイク画が完成する。 ホラーの要素を含ませるため、たっぷりとした味付けや演出は施されているが、その演出が決して過剰で唐突なものではなく、舞台の雰囲気を醸成するのに存分な効果を上げている。屋敷の中にある闇は、目の前にあるなにかを覆う読者の心の壁と通じ、なんとも暗示的。この煙幕の張り方はどうだ? 作者は、物語を巧妙に練り上げる一方で、その舞台となる遊郭について、よく勉強もしている。花魁を取り巻く閉鎖世界について、真摯に精緻に描いており、その成果は、多層的に引き出されている。登場人物たちが、その世界をどのように認識しているか。そこを描けるかが大きなポイントだったに違いないが、作者はこれに成功した。 事象の積み重ねによって現象を解釈していく論理性をスコラ的厳密への歩み寄りだとるすと、幻想の奔放を交えた本書の物語は、ゴシック精神への畏敬とも読み取れよう。これからも、この作家の作品からは、目が離せない。 |
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ご臨終メディア ―質問しないマスコミと一人で考えない日本人 (集英社新書) 森達也 レビュー日:2007.10.16 |
★★★★★ 「考える人」とは・・・
デイモン・ラニアンの一説・・・「ほとんどすべての調教師は、馬が物を考えることはありうる、と思っているようだ。ある調教師によれば、物を考える競走馬の割合は1000頭に1頭で、これは物を考える人間の割合とほぼ同じだとのことだ。」・・・ この本を読んでみて、すぐに思い出したのがこのフレーズだ。私はこのフレーズを読んだ瞬間、ニヤッと笑い「いや、自分は<1000人に1人>のほうだ」、などと勝手に思っていい気になっていたものだ。反省しよう。私は<1000人に999人>のグループでした。はい。すいません。 実際、この本を読むと、「考える」というのがどういうことなのか、とてもよくわかる。普段、漠然と分かったような気になっていること、知ったような気になっていることが、実はとんでもないフィルターを通された情報から形成されたものでしかなく、そこに居心地のいい自分を置き、勝手に安住していただけなのだとわかる。それは罪なことだとまでは思わない、という考えもあるけれど、この本を読むと大衆の中に浸かって何も気付かないことは、やはり問題だと思う。社会的な事について、何かを発言したり、自分の心情を吐露したりするときに、はたしてそのバックボーンにある知のフィールドがいかに脆弱なものであるのか、その認知が現在では欠落していることが多いし、言われてみると、最近そういう欠落が、まるで多くの人の前提共通認識のようになってきてしまっているようだ。これはまずい。私もこの本を読んで、とてもいい機会をもらったと思うので、自分の中で結論を出してしまった多くのことについて、もっともっと考えてみようと思った。どれくらいできるのかわからないけれど、そういう人が増えることがとても大事だ。 みなさんもこの本を読んで<1000人に1人>に近づきましょう! |
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カラマーゾフの兄弟〈下〉 (新潮文庫) ドストエフスキー 原卓也 訳 レビュー日:2007.7.14 |
★★★★★ 「「神」と「悪魔」の狭間に・・・
言うまでもないけれど「カラマゾフの兄弟」は世界史上に残る小説の傑作である。ドストエフスキーの最後の作品であり、(当初構想された第2部がないとはいえ)その世界観と思想は、一つの極地に達したものである。すべてにおいて完成された完璧な作品である。 実際に、この有名な小説を読んでみての感想であるが、第一に「面白い!」、そして、次に「恐ろしい!」という気持ちが強い。前者については問題ない。人によっては「純文学」というジャンルを勝手に「面白くない」と思ってしまう人もいるし、実際、私も「面白くない」と感じる純文学作品に随分打ちのめされているから、そういった人の気持ちもよくわかるけど、この作品は文句なく「面白い」。その面白さは、ストーリーの行く先が気になって仕方がないという性質のもので、それは、あらゆる時代やジャンルを超えて、小説の本質的な面白さであるに違いない。 この「面白さ」についてであるが、物語の中心に「殺人事件」があり、謎がある。それに関連して一流のミステリも真っ青の様々な考察や過程が描かれている。続きが気になって仕方ない。いったいどんな結末が待ち受けるのか?そしてその底辺に流れる様々な行動原理は読み手の探求欲を常に刺激し続ける。彼らを待ち受ける運命の足音がつねに頭のあちこちで響く。大きくなったり、小さくなったり、あるいは、突如現れたりする。その演出の見事さにはひたすら感服するしかない。面白い!読まねばならない!続きを読まねばならない! そしてこの小説の「恐ろしさ」についてである。「哲学」というものは、自分の内面から湧き出てくる感情(愛情とか憎悪などのあらゆる感情)の源泉について、重ねて自らの内面に「質問する」ことによって織り成されると思う。けれど、質問というのは恐ろしいものだ。予期せぬものが起き上がってくる。この小説では、多くの登場人物が、自律的か否かによらず、この「質問」を自らに突きつけねばならなくなる。恐ろしいものが徐々に起き上がり、それを認識してゆく過程が描かれる。 登場人物たちは、この「質問」と「考察」を自らのモノローグだけでなく、他者との会話を行うことでも深く掘り下げていくが、その際、しばしば「鳥肌のたつ」ように恐ろしい瞬間が読み手を襲う。ものすごく深い絶対触れてはいけない核心のようなものが、ふと垣間見える。・・そして「狂」の存在。この小説では、「狂」とその認識についても語られていると思うが、「狂」とは、自分の中の「一種類の根源的な感情」のみによって行動論理が縛られる状態にあることを指すのではないだろうか。つまり誰でも瞬間には狂たりえるのだ。 「狂」は何も無知によって引き起こされるとは限らない。場合によっては、深く自己の内面について思索し、探求した結果、その領域に至ることもある。そこで善なるものが聴こえるはずだというのはカント的だろうか。しかし、それは外面的には「狂」となるかもしれない。この小説は、そんな恐怖を実地検分する怖さがある。登場人物たちが自己を探求するとき(そのようなシーンはしばしばあるが)自分でも、それまで考えてもみなかったような、根源的な「嫌なもの」が、しっかりと自分の内奥に存在している確かな予感を感じ、そこで、途方にくれて立ち止まるのである。その瞬間の「怖さ」は比類ない。 自己を探求する過程で「狂に至る恐怖」を回避する方法として、「内なる声」を「神の存在」で説明する方法がある。もういよいよ自分の内奥から湧き上がってくるものについて、理由が見出せなくなったとき、それが神のもたらしたものだと考えて、回避することができるというわけだ。その作用点の意識を「神」と定義するのだ。「神」は現代に至るまで様々な定義で説明されてきたが、この小説で描かれる“神のあり方”ほど強い説得力を持つものはない。さらにこの考えを押し進めれば「狂を回避する方法」を知っているものは、悩んでいる他人を誘導して回避させることもできることに思い当たる。それを社会システム化したもの、それが宗教だ。ところが、思考実験を続けると、「神」と「悪魔」は容易に置換が可能な存在となる。両者の定義は限りなく近づいていく。一方で「神」であっても他方で「悪魔」であることは、普通にありえる。 小説全体を通じて「神の世界」や「神の意図」に関する考察の鋭さは頭抜けていると思う。とくに次兄イワン(私の好きなキャラクタだが)の論理と考察は、ともすると危険ともいえるリアルな無神論であり、読み手に凶暴な説得力をもって働きかけるだろう。~「神」は認めても、いま目の前にある「神の世界」を認めることができない、ゆえにそこに(神でも悪魔でもないもう一つの)別の価値軸を定義したい~。これは思考方法としては空想的社会主義に接近している。だがイワンの智はそれをも超えているように思う。もとより彼は世界に期待していない。終結部近くで、彼が、彼の内面が作り出した悪魔と、命の火を燃やして対話(対決)するシーンは凄まじい! とにかくこの小説で描かれる思索を、そう簡単にまとめるのは無理である。とにかく読んで下さい。凄いです! |
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獣たちの夜―BLOOD THE LAST VAMPIRE 押井守 レビュー日:2008.3.15 |
★★★★★ 「人に絶望する」ことの本質にせまる哲学書!凄い!
時として、思いもかけないところで、びっくりするような貴重な価値に遭遇することがある。私の場合、本を読んだり、CDを聴いたりする趣味を持っているので、そのようなジャンルで多くの衝撃を経験したつもりである。しかしこの本に対して最初に持っていたイメージと読後の深い思索的な感銘の破格の違いは、そういった方法でも表現しきれないレベルであった。・・・これはもちろんこの「作品」を絶賛しているのである。 まず、注意事項だ。 1) 映像化された「Blood」もしくは「Blood+」とはまったく別の話である。 2) 「ホラー文庫」名義の出版となっているがこの小説は「ホラー」とは言い難い。 1)については、共通の「素材」を用いたに過ぎず、世界観そのものからして根底から異なる。2)については、この小説は多用な要素を含んでいるし、ホラーの要素がないわけではないが、何かを代表させるとするなら「哲学書」あるいは「啓蒙書」に区分されるのではないか。私は映画監督としての押井の作品に接したとき、常に監督としての強烈な「刻印」が捺されるその「芸術性の高さ」に圧倒されるけれど、その背景にある思想軸の一つがこの小説では明らかになる。・・・なぜ押井の映画作品では「動物」が象徴的に登場するのか?「人間を描く」際につきまとう退廃的な情緒は何から起因するのか?そしてなぜ押井の作品には、なぜ「彼方の思索」とでも呼べる「怖さ」が常につきまとうのか・・・。「人に絶望する」あるいは「世の中に絶望する」という言葉は時折使われるが、その「絶望」の本質は、どのような思考実験と、人類の経験を積み重ねることで見えてくるのか?その解答はこの小説を読み通すことで、少し垣間見えるはずだ。もちろん全貌を明かすことなど到底無理なテーマである。しかしここまで“真理に迫った”と読み手に手ごたえを与え、なおこの小説がペダンチスム満載な「エンターテーメント作品」としても抜群の切れ味があるという奇跡。読後の深い感銘を得た。そして淀みのない文体の美しさが圧倒的であったことも最後に書き含めさせていただきたい。 |
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Physician's Guide to the Laboratory Diagnosis of Metabolic Diseases Nenad Blau著 レビュー日:2011.6.27 |
★★★★★ 生化学者のための代謝異常化学診断のための手引き
邦題を付けるとしたら「生化学者のための代謝異常化学診断のための手引き」といったところだろう。初版は1993年のものだったが、大きく改訂を加えたこの第2版は2002年に刊行されたもの。もちろん、今となっては部分的に古いところもあるが、なお十分に有用な書である。 この書の目的は代謝異常疾患の迅速な診断を容易なものとするためのデータを、臨床医及び臨床生化学者に提供することにある。そのため、検査手法に関するものは掲載せず、臨床症状と検査データの結びつけのみを主眼にしている。そのため臨床生化学者にとっては「検査の方法」ではなく「検査データをどう見るか」の参考書となる。そして、検査、症状と兆候、疾患の3種のインデックスが使用できるように編集されている。 参照データとしている病理学的数値は、検体の種類(血液、尿、CSFなど)、年齢などのファクターを踏まえてパラメーター化してある。例えば、ある疾患について各症状が羅列してあり、その症状が新生児期、乳幼児期、幼年期、思春期、成人期のそれぞれで、どの程度強く出るかが+マークの数で記載されてある。また検査データについては同様に↑マークの数で表現している。ただし、酵素活性については、データ自体がほとんど掲載されていない。 本文は700ページを越える量があり、大きく以下の3章からなる。(1) Approach to Diagnosis (2) Disorders (3) Indices。(1)はさらに<血液、尿によるシンプルテスト>、<アミノ酸分析>、<有機酸分析>、<その他の分析>、<化学診断におけるタンデムマス>、<体液を用いたNMR>の6つの部分からなり、(2)は35の疾患(群)に関する検査値と臨床所見に関する記述、(3)は索引となる。 そして、本書の最大の特徴は付属CD-ROMに全ページがPDFファイルで収録されていることになる。これをPCにインストールすることで、エクスプローラ状のBookmarksの付いたPDFが簡単に展開でき、必要なキーワードによる検索などが容易に可能である。たいへん利便性が高く、「迅速な参照」に応えるサービスである。 また、データが多角的なことも有用性が高い。例えば、様々な検査値について、食べ物、薬剤などによる偽陽性を示す要因なども網羅的に示されており、誤診の可能性で留意すべき事項、確認の必要な検査も的確に示されている。参考文献ももちろん記載されている。できればOMIMのリンク参照などあればより良かったのであるが、それは仕方ないとして、これだけ体系的にユーザーのニーズに合致した書はそうはない。日本語版はないようだが、比較的簡単な英語で、かつ項目的な記載を基本にしており、読むのが難しいということはあまりないと思う。2011年現在でも、なおきわめて有用性の高い専門参考書であると言える。 |
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有機酸代謝異常ガイドブック―GC/MSデータの読みかた・活かしかた 山口 清次著 レビュー日:2011.6.24 |
★★★★★ 有機酸代謝異常症の化学診断のためにきわめて有用な参考書
代謝異常疾患は非常に数多くある一方で、一つ一つの疾患は、症例が少ないため鑑別は難しい場合が多い。しかし、近年ではタンデムマスによる血中アシルカルニチン・プロファイルテストが可能になったことから、この検査法を新生児マス・スクリーニング(先天代謝異常等検査)に導入することで、世界的に大きな成果を挙げている。日本では2011年3月に厚生労働省から、タンデムマスによる新生児マス・スクリーニングへの積極的検討を要請する通知が出た。画期的な通知であるが、2011年4月現在の実施率は人口比でまだ2割程度となっている。 さて、この検査法の普及とともに、併用する「化学診断ツール」も重要性を増すことになるが、その最たるものがGC/MS(ガスクロマトグラフ質量分析)による尿中有機酸分析である。そして、そのデータの判断に際し、非常に有用な参考書として本書を挙げたい。 本書では、代表的な有機酸代謝異常症36疾患について尿中有機酸分析の代表的なプロファイルを紹介している。GC/MSによる検査では前処理で誘導体化が行われる。おもな誘導体化として、TMS化、オキシム化、TBDMS化、メチル化があるが、本書ではTMS化を中心に記述がなされている。末尾の付録には尿中有機酸分析で検出される134種類の有機酸のマススペクトルが掲載されており、実践的には、ライブラリ検索から物質の同定に至る過程でたいへん有益な参考となる。 36の代表的有機酸代謝異常症については、疾患ごとに、「概念」「臨床所見」「治療と予後」「化学診断のポイント」が記載されており、さらに「タンデムマス所見」という欄があるのが良い。タンデムマスの血中アシルカルニチンのプロファイルとGC/MSによる尿中有機酸のプロファイルの照らし合わせは、これらの疾患の絞込みには、最強と言ってもいいツールだ。例えば、飢餓症例はタンデムマスでグルタル酸尿症2型に似たプロファイルを示すが、GC/MSではジカルボン酸群を検出しないことで、疾患を除外できる。また、タンデムマスでプロピオニルカルニチンが高値であった場合、GC/MSでメチルマロン酸が高値検出されればメチロマロン酸血症が有力、メチルマロン酸が正常でメチルクエン酸が高値であればプロピオン酸血症が疑われる。本書の冒頭には有機酸ごとに高値検出された場合の疑われる疾患のリストがあるが、別に「検出されることとで、特定の代謝異常症を除外できる」有機酸もある。例えば、3-ヒドロキシプロピオン酸が検出された場合、メチルクロトニルグリシン尿症の可能性は無くなる。 本書は、これらのデータを表的、網羅的にまとめる一方で、関連する代謝経路の引用による補足がなされていて、非常にわかりやすく体系的かつ簡潔にまとめられている。きわめて有用な書だ。 タンデムマスによる新生児マス・スクリーニングが広く展開されるこれからにあっては、本書を参考に化学診断、除外診断の補助が可能となる検査施設が増えることが大切だろう。 |
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症例から学ぶ先天代謝異常症―日常診療からのアプローチ 日本先天代謝異常学会著 レビュー日:2011.2.1 |
★★★★★ 実例を踏まえて、稀少な疾患への対処実績をまとめた貴重な資料集
先天性代謝異常症においては、(1)きわめて多様な疾患が存在すること、(2)一つ一つの疾患は頻度が少なく、症例報告が限られること、の二つが診断、治療開始へのネックとなる場合が多い。何か急性の症状があって、病院に搬入された場合であっても、これらの分野に明るい医師でなければ、代謝異常症を疑うに至るのにはかなりの時間を要してしまう。言うまでもなく、早期診断に基づく治療開始が予後の良化への最善の策であるにもかかわらず、である。 本書は、最終的に「先天性代謝異常症」であることがわかった50の実際の症例について、診断、治療に携わった医師らがその経験をまとめたもので、きわめて貴重な情報が集積している。 まず症例ごとに、「○○を呈した××例」といった感じで、主訴をタイトルとした項目わけがされており、それぞれ「初診から精査開始までの経過」が示されている。代表的なデータとしては、出生時情報、発症時年齢、身長、体重、頭囲、心拍、血液、呼吸、血液ガス検査(pH、pCO2、BE、アニオンギャップなど)、抹消血検査(WBC、Hbなど)、一般血清生化学検査、血糖値などであるが、症例によってその内容は多少異なっている。次いで確定診断までの経過が記載されており、その後「診断名」が大きく枠内に表示され、さらに試みた治療と治療経過、さらに治療にあたった医師の経験を通してのコメントが記載されている。また、加えて疾患群ごとに生化学的、病態生理学的、臨床的特徴がまとめられ、専門的見地からの解説も付随している。見出しがはっきりしていて、どの部分に何が書いてあるのかが容易にわかる点も含めて、非常に有用な参考書となる。 以上が本書の推薦理由であるが、さらに感想を加えたい。50の症例のうち7例は現行の6疾患を対象とした「新生児マススクリーニング(先天代謝異常検査)」により新生児期に見出すことで有効な治療をすることが可能なものである。しかし、さらにこれに加えて13例が欧米を中心とした諸外国で導入されている高性能分析器「タンデムマス」によって、「新生児マススクリーニング」による発見が可能となる疾患例であることは見逃せない。これらの疾患の多くは、発症前の早期治療開始が、対象の予後改善に直結するものである。現行の日本の「新生児マススクリーニング」はすでに3,000人に1人の割合で患児を発見し、治療と合わせて障害の発症を回避することに成功しているが、この検査の効果を一層高める分析ツール(タンデムマス)が開発されているにも関わらず、2011年現在、日本での新生児マススクリーニングへの普及率は目を覆いたくなる状況である。すでにアメリカや西欧だけでなく、北欧諸国、ハンガリー、チェコ、イスラエル、UAE、台湾、シンガポール、オーストラリア、ニュージーランド、コスタリカ、ウルグアイといった国々が、出生するすべての新生児を対象に「タンデムマス」による新生児マススクリーニングを実施している現在、技術立国を標榜する日本の状況は、必ずしもその名に相応しいものとは言えない。 |
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小児代謝疾患マニュアル 松原 洋一著 レビュー日:2011.2.1 |
★★★★★ 適切な検査から正しい診断へと導く良質なガイダンス本
先天性の代謝異常症は、きわめて多くの疾患がある一方で、一つ一つの疾患頻度がきわめて稀である。頻度が2万人に1人ならかなり多い方で、ほとんどは数十万人に1人程度のものである。このような疾患の場合、優れた小児科医であっても、実際に症例を診るのが生涯にあっても一度きりということがざらである。そのため、一般的には、初発時の臨床所見と診察のみにより、疾患名を絞り込むのは、優れた医師であっても大変困難である。 先天性の代謝異常疾患に対処する最も優れた方法は「新生児マススクリーニング(先天代謝異常検査)」である。これは生後まもない新生児から採取された血液を用いて、代謝産物やホルモンを測定する検査で、日本でも1977年から6つの疾患を対象に検査が実施されている。これによって、およそ3,000人に1人の割合で患児が見出され、早期治療により障害の発生を回避することに成功しており、地味ながらきわめて重要な母子保健事業となっている。しかし、欧米を中心とした諸外国では高性能分析器「タンデムマス」の導入により、対象疾患を20~50にまで拡充している国もあり、これらの国と比較した場合、いまだ対象疾患数が6である日本の状況は、先進国のそれとは言い切れない状況でもある。 かようなわけで、日本においてはまだ多くの代謝異常疾患が「発症後の所見」により何とか診断に結びつけるという医療現場に頼り切った診断環境になっていることは否定できない。しかし、前述のように一つ一つの疾患頻度は稀であり、アシドーシス、高乳酸、高アンモニアなどがあっても、感染症や肝機能障害など他の疾患との鑑別は難しい。 本書の優れた点は、おおよそ可能性のある疾患群に関して、コンパクトかつ網羅的に、症状と、補助診断のための有用な検査項目、検査所見が示されている点にある。特に、有機酸血症、脂肪酸β酸化系の代謝障害については、「タンデムマス」により可能となったアシルカルニチンのプロファイル試験が有力な一次指標になる場合が多い。また合わせてオロト酸を含む尿中有機酸検査を実施できれば、高アンモニアを誘発する尿素サイクル異常症や、一連のケトーシス疾患も化学診断まで持っていくことができる。国内でこれらの検査を実施し、かつある程度の「判断」のできる検査機関は多くはないが、検査さえ実施できれば、本書を参考にし、強く疑われる疾患、除外可能な疾患のリストアップが可能であるだけでなく、結果によっては疑われる疾患を、一つか二つにまで絞り込むことが出来る。 稀な代謝異常症においては、臨床所見だけで診断するとはきわめて困難である。しかし、適切な検査を実施し、その結果を読むことができさえすれば、意外と短時間で診断に結びつけることができる。正しい診断が正しい治療への最短最善ルートであることは間違いない。本書は必要最低限な情報のみを最新の科学データを背景にまとめた良書である。 |
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見逃せない先天代謝異常 (小児科臨床ピクシス) 五十嵐 隆著 レビュー日:2011.11.8 |
★★★★★ 効率的に分類・記述された、良質な2011年現在の参考書
最近、代謝異常疾患に関する良質で見易い参考書が増えてきているが、本書もその一つといえる。まず「見逃せない先天代謝異常」というタイトルが良い。先天代謝異常症にはきわめて多くの疾患があるが、一つ一つの頻度は稀である。しかし、小児の先天代謝異常症を疑う臨床的兆候として挙げられる、not doing well(何となく元気が無くて機嫌が悪い)、哺乳不良、嘔吐、下痢、意識障害(程度は様々)、けいれん、筋緊張低下、肝障害、肝腫大などはいずれも他の「もっとありふれた疾患」でも起こりうるものだ。肝障害はウイルス性の肝炎かもしれないし、哺乳不良などは胃腸炎かもしれない。当然、治療はこれらを念頭において進められる。細菌感染症ならすみやかに抗生剤を投与しなければならない。 代謝異常症が他の疾患と異なる大きな点は、症状が繰り返されることである。点滴をしたら元気になり、CRP等の基本検査値も正常とわかると、そこでとりあえず様子見になることが多い。しかし、そこに紛れ込んでくるのが代謝異常疾患である。もしかしたら、いちはやく診断と治療開始の必要な基礎疾患があり、無治療でいると、もっと大きな発作が後に控えているかもしれないわけだ。これを鑑別するためには血液ガス分析によるアシドーシス(血中のpH)などの検査値がまずは有力な指標だろう。 しかし、もちろん代謝異常症の様態は一様ではなく、症状の出現の仕方も様々である。本書は、「臨床所見」から疑われる代謝異常症をリストアップし、疑われる疾患と、その補助診断のために必要な検査項目が簡潔にまとめられている。 例えば「フロッピーインファント(ぐったりした児の様態)」の場合、正常な筋緊張の評価方法が記載されており、その評価を経て疑われる疾患が「筋力低下あるいは麻痺」の(+)と(-)にわけてニ分類されている。さらに細かい鑑別検査として「血液検査」「尿検査」「眼科的検査」「X線」「染色体分析」「白血球ライソゾーム酵素」「画像検査」「生理学的検査」「筋生検」が挙げられ、その「検査項目」と「目的とする疾患」がすべて表にまとめられている。また、稀少な疾患名や略語、補足が必要な事項については欄外に脚注がある。カラー印刷で図表がわかりやすく整理されているのも良い。 また、治療のガイドもあり、投与物、投与量、投与方法などがまとめられている。これらは実際に関連する疾患の治療にあたっている各分野の「権威」と言える医師が執筆しており、経験を踏まえた貴重な対応法が記載されている。更に13種の「特に見逃され易い疾患」について疾患毎に病態や所見、診断法、治療法がコンパクトに書かれており、一度目を通しておくだけでも、有意義な情報となるだろう。 巻末には検査の依頼先の一覧がある。これも重要だ。稀少な疾患の診断法は、営利目的の企業ラボでは受けていない場合がほとんどで、非営利のNPO団体や、大学、公立の研究所に依頼することが多い。化学診断、酵素診断別に検査内容、担当者まで明記された本書の価値は非常に高いだろう。 |
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札幌市の昭和―写真アルバム レビュー日:2012.12.30 |
★★★★★ スピーディーに変化していった一瞬を積み重ねた写真集
札幌市が市制を施行したのは1922年(大正11年)のことで、その90周年を記念して「札幌市の昭和」と題する写真集が発売された。個人所蔵の写真などから600点を収録したもので、解説も施された丁寧な内容となっている。 この写真集が出版された2012年には、堀淳一氏による札幌の歴史地図を集積した「地図の中の札幌: 街の歴史を読み解く」も出版されており、私は、本写真集と併せて、タイムトラベル気分を堪能させていただいた。 札幌市の人口は、2012年現在ではおよそ192万人となっている。しかし、1920年(大正9年)に行なわれた第1回国勢調査において、札幌の人口はわずか10万人強であった。1926年(昭和元年)で15万人。これが1988年(昭和63年)には162万人にまで増加する。札幌市にとって、昭和期は拡大の時代であった。しかも、途中には第二次世界大戦(1939-1945)や札幌オリンピック(1972)があるわけで、激動の時代でもあった。そのようなわけだから、札幌市の風景というのは、多くのものが次々と短い時間で、次から次へと変わっていったことになる。一時は市内をくまなく走った市電は、そのほとんどが姿を消し、周辺の森林は開拓され、農地は宅地へ、そして商業地へと変わっていった。私も幼少時代をこの街で過ごしたのだが、1年1年、家のまわりの風景が変わっていくのが強く印象に残っている。 私が住んでいた家からは、沿線を走る国鉄札沼線が見えた。貨物列車を引く蒸気機関車の姿は微かに脳裏に残っている。それはたちまち建物の影で見えなくなった。宅地化された札沼線は、「学園都市線」と呼称を変え、多くの駅が生まれ、高架化、複線化、電化がなされた。 そのようなわけだから、札幌の昭和には失われた景色というものが無数に存在する。そのどこか脳裏にある光景がこれほどまとまった写真集を見ると、その情報量に圧倒されてしまうほどだ。 写真はテーマ別に収められているため、時代順にはなっていない。しかし、その「時を行きつ戻りつ」の光景を見ていると、この町の激変ぶりに、あらためて深い情緒を覚える。町並み、教育施設、建築物、公共交通、などなど。以下、特に印象に残った写真を示そう。 37ページには1956年の街の風景。雪景色の中、建築物の煙突からは、暖房の石炭燃焼による黒い煤煙が上がっている。大気汚染が深刻だった当時を物語る。54、55ページには1955年、琴似、山の手地区から周囲の山並みをみた景色が映っている。現代を予測すべくもない農村風景であり、「街並みがないと、こういう景色なのか」の感を新たにする。86ページ、1961年の北19条付近の創成川の景色。いまは国道の間でコンクリートに塗り固められた川だが、当時はまるで水彩画のような風景であった。159ページ、1965年頃、舗装された国道を並走する定山渓鉄道の姿。自動車社会への移り変わりを象徴する一枚だ。 他にも挙げだすとキリがないわけだが、この街の風景に強いインパクトを与えているのややはり雪であるとも思う。雪の降った景色というのは、あたりの雰囲気を一変する。ただでさえ大きく変化していく周囲の光景に加えて、毎年「まったく違う2種類の景色」があるのだから、そのヴァラエティーは幅がある。あちこちに残雪のある春の風景も印象深い。未舗装が普通だった時代の雪解けの季節なんかはドロドロだ。しかし、それが今となっては貴重な時代の刻印に思える。非常に濃厚な内容のある写真集となっており、特に過ぎ去りし日々の札幌といまの札幌の双方を知っている人にとっては、強いインパクトのある一冊だろう。 |
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室蘭: 山口一彦作品集 レビュー日:2012.11.27 |
★★★★★ 工場、港、橋、船、鉄道、坂、旧市街、昭和時代、岬、崖、絶壁、浜、海、夜景・・
東京在住ながら、北海道の室蘭市に惚れ込んだ写真家、山口一彦氏の写真集、その名も「室蘭」。4ページから96ページまでが美しいカラー写真、その後簡単な「室蘭市の紹介」と「撮影ノート」と題した日記風の文章が13ページにまとめられている。 室蘭市は太平洋に面した北海道の町である。古くから製鉄業を中心に繁栄したが、近年では人口は減少しており、かつて17万人近くあった人口が現在では10万人を割り込んでいる。しかし、室蘭市というのは、訪問してみると分かるのだが、とても面白い町だ。この町は、函館市や小樽市などと違い、観光の対象となるイメージは全国的にはあまりないのかもしれない。しかし、その立地条件がきわめて特殊で、そのことがそのまま町の魅力となっている。山口氏は以前出演されたTV番組でこのような内容のことを語っておられた。「室蘭市には、大きな港があり、巨大な鉄鋼工場があり、それに接する住宅地、さらに断崖絶壁を含む自然の凄まじい造形が、ごく狭い地域に密集してある。こんな町は日本中探しても、ここだけだ」。 地図を見ていただきたい。北海道の太平洋側に円状の湾がある。これを「噴火湾」と名付けたのは1796年に当地を訪れた英国の調査隊のブロートン(William Robert Broughton 1762-1821)だ。北を有珠山、南を駒ヶ岳、恵山、さらに遠景東方に樽前山という優美な姿をした活火山に囲まれた絶景は、当時、世界中を巡っていた彼らをして「これほど美しい景色は見たことがない」と言わせしめたという。この噴火湾の入り口に突き出した絵鞆(えとも)半島を中心に室蘭市街がある。半島の先端は鉤爪状に曲がっており、現在では、その先端内側から陸地にむけて、白鳥大橋という美しい巨大なつり橋か架かっている。一方で、半島外側の海岸は断崖絶壁の急峻な地形。そのため、傾斜地に形成された市街地裏手の山を登っていくと、突然、空中に放り出されたかのような景色に見舞われる。人呼んでチキウ岬。その意味は、地球が丸いことを確認できるくらいの展望が広がっているところ、ということだ。岬の北東にはイタンキ浜という美しい海岸が広がる。また、札幌と函館を結ぶ幹線室蘭本線が、岬の付け根をかすめ、噴火湾に接するように敷かれている。そして、その岬に囲まれた内部が北海道最大の港であり、夜なお操業の続く工場群が、夜景を彩っている。 この室蘭の風景の「写真映えする」演出は、これらのアイテムが驚くほど密集して「一緒に」存在していることにより効果を倍加する。室蘭市は人口が減少しているとはいえ、人口密度はまだ1,000人/平方kmを超えている。人口密度が1,000人/平方kmを超えているのは、北海道では札幌市と室蘭市だけであり、平地の少ない立地条件は、さらに密集の度合いを高める。 そんな室蘭市の魅力を写真というメデイアを通じて、見事に伝えているのが本写真集。工場、港、橋、船、鉄道、坂、旧市街、昭和時代、岬、崖、絶壁、浜、海、夜景・・これらのキーワードを実に巧みに組み合わせた(それが可能なのが室蘭ということになる)この地特有の景色が見事なタイミングで捉えられている。 夜の工場の幻想的な美しさ、薄く雪化粧した断崖と、その上にこぢんまりと並ぶ住宅、早朝の坂の上から見下ろす住宅と工業地帯・・・自然と人工が奇跡的に作り出した得難い風景の数々。写真が美しいのは当然であるが、その「切り取られた構図」に室蘭特有の地勢や歴史、産業と自然の共存性が見事に捉えられている。「室蘭」の土地柄が表現され尽くしたような出来栄えに感服する。旅情と郷愁が切ないほど薫る一冊である。 |
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ねこ歩き 岩合光昭著 レビュー日:2013.10.21 |
★★★★★ 「ネコ愛」があります。
岩合光昭(いわごうみつあき1950-)さんによるネコ写真集。全編カラーで128ページ。3部に分かれていて、まずは世界各国(ギリシア、モロッコ、トルコ、イタリア、アメリカ、キューバ)の写真、次に日本国内の写真を4つの季節にわけて掲載、最後に岩合さんが実際に飼われているネコさんたちの写真が載っている。 すばらしい。 私の住んでいる札幌でも、しばしば岩合さんの写真展が開催され、そのたびに私は妻と一緒に出掛けている。そして、いつも(もちろん、いい意味で)やられて帰ってくる。氏の写真は本当に素晴らしい。 何がいいのかと言うと、一言でいうと、そこには「ネコ愛」があるのです。ん?一言でいった割には聞きなれない言葉でしたでしょうか?それでは「ネコ愛」とはなんでしょうか。 私は、小さいころから多くのネコたちと一緒に生活してきました。そして、そんな生活を通じて、随分多くの事をネコたちに教わった気がしますし、いろいろ助けられたな、という実感があります。それは、岩合さんが指摘しているように、「癒し」なんていう簡単なものではありません。もっと、何というか、生きている中で何を大切にするべきか、というようなこと。 もちろん、ネコはそんなことを考えていません。「教えてやる」とか、「悟れ」とか、「助けてやる」とか、まして「命令に従おう」とか「集団に従順に」などという意志は介在しません。むしろ、そのような介入や解釈は、一切不必要な存在として、そこに居ます。彼らには、何も不必要なものは備わっていないのです。 どのような家でも、ネコを飼えば、ネコはそこに居るようになります。「飼う」といっても、食事を与え、トイレを用意して、たまに「なで」て、具合の良くない時には病院に連れて行く。それだけです。私の家では、ネコは自由に外から出入りしていた。彼らはしばらく家を空けて出かけることもありますが、必ず帰ってきます。人と場所に居付きます。 彼らは自由で気ままですが、人と生活を共にする天性の能力があります。あまりに自然のままに近くにいるようになるため、当たり前の存在になります。しかし、勝手な人間は、気持ちに任せて、彼らを求めたり、愛情を押し付けたり、中には(非常に残念ながら)邪険に扱う人もいることでしょうけれど、彼らは実に自然なこなしで、それに応じたり、適当にいなしてくれたりします。 私は、ネコについていろいろ考えたとき、ひょっとして彼らが属しているのは、「神の領域」なのではないか、と思うことがしばしばあります。神さまが、ちょっとしたきまぐれで、現生に遊びに来て、「まあ、気楽にしててくれ、こっちも適当にやってるから」という感じでそこらへんにいるのではないか、そのかりそめの姿が、「ネコ」なのではないか、と思うわけです。まあこれは、それこそ「多神教」的な神のことですが。 つまり「ネコ愛」というのは、そういうネコの間合いを読み取ることができる人間の感性に基づいた「感情表現の一形態」のことです。言ってみれば「無償の愛」でしょうか・・・ネコが好きな人は、みんな持っているものかもしれません。しかし、ネコと相対していると、「無償の」という価値自体すら、とたんに色褪せてくるのを感じますが・・。 そういった、「ネコ」的なものを写真に収める。そういった「ネコ」的なものを知った人間として、ファインダーを構える。私は岩合さんの写真を観ていると、そういった、きわめて純粋で単純化された世界を感じてしまう。被写体となるのは、決して純血種でも希少種でもない。いってみれば「どこにでもいるネコ」です。しかし、それこそが私には「ネコらしいネコ」。下手に飾り立てたり、モデルのようにきれいに繕ってしまうと、どうも「ネコの神性」は、落ちてしまうようです。 もちろん「かわいい」と感じてもいい。なぜなら実際彼らはとても「かわいい」のである。しかし、それだって「かわいくあろう」みたいな意志はまったく皆無。すべてが自然で、アピール性は一切ない。そして、ふだん私たちが実社会を生きていて感じるプレッシャーやストレスを、一切無縁化、無力化する永久の力を、私はネコたちから感じてしまうのです。 実際にネコを飼うと、そういったことは、なんとなく感覚的にわかる。そういうのを言葉で言うと「感受性が養われる」とでも言うのでしょうか。でもそんな面倒ないいまわしも、きっとどうでもいいことなのでしょうね。すべての答なんて、ネコたちには、最初から全部当たり前のようにわかっていることなのだから。 そんなことが伝わってくる、「いい写真集」です。 |
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幌延町史 レビュー日:2014.9.12 |
★★★★★ この本のお蔭で、殖民軌道問寒別線の線形の謎が、少し解明されました。
1974年(昭和49年)に編算された北海道宗谷管内幌延町の町史。930ページに及ぶ内容で、以下について記述がなされている。 第1章 北海道略史(明治時代以前、北海道庁設置以前の時代、北海道庁時代、北海道時代) 第2章 地誌(自然環境、幌延町の地名解) 第3章 幌延町の古代 第4章 天塩川流域(天塩川沿岸のアイヌ、天塩川の踏査) 第5章 天塩国郡町誌(天塩という地名の初出、天塩国・天塩郡、天塩町) 第6章 明治以前の天塩場所 第7章 部落史(上問寒、中問寒、問寒別、雄興、開進、上幌延、幌延、北進、上沼、浜里) 第8章 戸数と人口 第9章 行政(昭和初期の村政及び町制施行と町政、歴代戸長・村長・町長、歴代上席初期・助役、歴代収入役、村会・町議会議員、議長・副議長・其の他委員、部落の自治、幌延町名誉町民、幌延町章および幌延町旗、行政機構と各種委員会、天皇・皇后両陛下道北地方御巡幸、北海道100年・幌延町開基70年記念祝典) 第10章 財政(明治時代の財政、大正時代の財政、昭和初期歳入歳出の財政、地方交付税制度、最近5カ年の財政、明治より最近5カ年までの財政内容の推移、財政規模の推移と昭和45年度(当初)予算、町有財産) 第11章 太平洋戦争前後(満州事変から日支戦争、太平洋戦争への突入、終戦) 第12章 農業と牧畜業(植民地選定報文、開拓、農業協同組合、幌延農業共済組合、農業および牧畜関係諸機関、農地改革、農地制度の概要、馬の歴史、牛の歴史、その他の家畜家禽の歴史、酪農業 第13章 総合開発とサロベツ原野の開発(総合開発、サロベツ原野の開発) 第14章 林業(林業の推移、冬由造材と流送史、天塩営林署、北海道大学天塩地方演習林、林業関係機関) 第15章 鉱業(明治以前の鉱業、明治以降の鉱業) 第16章 工業(澱粉製造業、乳製品工業、木工業、窯業土石製造業、その他) 第17章 水産業(明治以前の水産業、明治以降の水産業) 第18章 商業 第19章 水道と電気(水道、電気) 第20章 教育(各学校の概要、社会教育) 第21章 宗教(神社、寺院、その他の宗教団体、火葬場と墓地) 第22章 交通(明治以前の交通、明治以降の交通) 第23章 通信(郵便局設置以前、郵便局の設置) 第24章 警備(警察、消防) 第25章 厚生(社会福祉協議会、方面委員及び民生委員、人権擁護委員及び司法保護司、生活保護、児童福祉、国民年金、日本赤十字社幌延分区、老人福祉) 第26章 保健衛生 第27章 文化(ラジオ・テレビ及び新聞、文学、スポーツ、趣味同好会、観光) 第28章 幌延町の未来像 幌延町は、北海道でも最北部に位置し、気候の厳しい酪農の町である。1899年(明治32年)に福井県団体15戸が下サロベツ原野に入植したのが町の興りとされている。このように、北海道の自治体史の場合、開拓以降の歴史が短いため、その記述内容は近代史に特化される。この幌延町史も、内容は1974年までの100年に満たない期間に集中しており、一つの視点で近代史を俯瞰する面白さがあるが、一方で厳しい土地の開拓の困難さが随所に垣間見られる内容になっている。 幌延町の現在の人口はおよそ2,500人であるが、本書によると、人口が最大であったのは、1960年(昭和35年)で、7,400人となっている。この書が編算された1974年においては、すでに過疎と言う名の下り坂に入っており、全国でも特に早くから過疎の始まった自治体の一つとさえ言える。現在、日本原子力研究開発機構の放射性廃棄物研究施設が立地しているのには、それなりの理由があるわけだ。 さて、私がなぜ本書に興味を持ったかと言うと、幌延の殖民軌道について知りたかったからだ。北海道の開拓期には、物資等を輸送するため、様々な目的で殖民軌道や森林鉄道と呼ばれる軌道が敷設されている。幌延町も同様で、幌沼線(幌延‐沼川)と問寒別線(問寒別-上問寒別)の2つの線区が維持されていた。 このうち問寒別線について、40年以上前に私の父が訪問しており、私の手元には、その際の貴重な写真がいろいろとある。その写真に写る軌道と周囲の人の姿から、当時の様子がどのようなものだったか、とても知りたく思ったわけだ。 この問寒別線は1957年には、年間の輸送人員24,463人の他、石炭30,000tに加え、多くの農産物、木材を輸送している。開拓の象徴といって良い。本書には、その頃の輸送や路線経営、投入されたインフラ等の様々な記述がなされていて、たいへん興味深い。一方で、その記述の「末尾」は寂しいものだ。淡々と1971年5月31日に廃止となり、「過疎バス」が代行運転となった旨が記載されている。 この問寒別線、父の写真は残っているが、現在ではその線路跡もはっきりしないところが多い。私の基本的な問いは「どこを通り、どこに停留所があったのだろうか?」である。本来決定的な資料と言えるのは1957年(昭和32年)の5万分の一地形図「敏音知」と「上猿払」である。それらの地図には、明瞭に軌道が書き込まれている。しかし、この軌道の表記が正しいとは思えない事象が、いくつかの研究で指摘されている。 本書では、地形図のような詳細な地図はないが、部落別の略地図があり、中で、「問寒別」、「中問寒」、「上問寒」の3つの略地図に、軌道が書き込まれている。それらを見ると、1957年(昭和32年)の5万分の一地形図「敏音知」の表記と、線路があった場所が、中問寒集落で異なっていることに気付く。私がいろいろと調べた限りでは、どうも地形図の記載が曖昧で、本書の略地図の方が正しいらしい(ただし、路線付け替えなどにより、両者が同一の軌道線形を描写していない可能性がある)。逆に言うと、それくらい殖民軌道の正確な記録というのは、きちんと残っていないことが多いということになる。 そのことがわかっただけでも、私には貴重な記録であった。 また幌沼線の停車場名(幌延、清水沢、南沢、駅逓、北沢、駒形、上福永、有明、天興、沼川)と問寒別線の停車場名(問寒別駅前、宗谷、4線、8線、15線)が記載されているが、こちらも資料によって異なるものがあり、これは軌道の性格から、停車場が変更されることがあったためと考えられる。 ちなみに国鉄宗谷線について、各駅の貴重な写真と、利用人員が記載されている。参考までに書くと1966年(昭和41年)の各駅の1日当たりの乗車利用者数は以下の通り。 下沼57人、幌延579人、上幌延77人 安牛64人 雄信内98人 問寒別184人 貨物の利用につても詳細なデータがあるが、こちらは雄信内の利用が問寒別を上回っていることにやや意外な感を持った。 その他に、各種産業や行政について、災害に対応しながら開拓することの困難さ、厳しさといった、この地域特有の苦節の歴史と、その困難さに力強く対応した住民の足跡が詳細に記録されていて、これらの時代全体を俯瞰することができる。愛想のない行政文書的に記述されていることが大半であるが、その面白さは、時代背景を彷彿とさせるところにある。 とはいっても、これは「資料」であって、一般的な「読み物」というわけにはいかない。私個人的には、知りたかったことがいろいろ書いてあり、ためになったということに留まるだろう。いずれにしても、父の写真と併せて、問寒別を走り抜けた殖民軌道の姿を思い描くのに、私にはきわめて大切な資料である。 なお本書中では、人口等多くのデータを、他の留萌管内の市町村と比較する形で掲載しているが、これは2010年以前、同町が留萌支庁に所属していたためである。(現在は宗谷総合振興局) |
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夕張―風間健介写真集 風間 健介著 レビュー日:2015.4.7 |
★★★★★ 啓示的な衝撃を受けた写真集です
一目みた瞬間に、啓示を受けたように立ちつくして見つめ続けた写真。それは、風間健介(1960-)という写真家が夕張で撮影したものだった。 私が生まれた前後、父は写真を趣味としていた。70年代、特に蒸気機関車をターゲットに、鉄道に乗って出かけ、多数の機材を担いで雪を漕いで峠に登り、様々な写真を撮影していた。また、夕張や美唄、赤平といった産炭地には、炭鉱鉄道が敷かれていて、美しい造形の機関車が使用されていたから、産炭地にもよく出かけていた。自宅には暗室があり、それらの作品は様々な大きさの印画紙に映された。また、多くの写真集を大切に保管していた。 だから、私も小さなころからたくさんの写真や写真集を見てきた。家の中には、たくさんのクラシックのLPとともに、白黒写真が飾られ、暗室からは、かすかに薬品のにおいがした。自分の原体験はそんな感じである。 そんな私が、魂が抜かれたように固まったのが、この風間氏の写真をみた瞬間である。なんという力強さ、美しさ、そして深い闇。まさに深淵から語りかけるようなショット。私は、この写真集を見て、世界有数の力を持った風間健介という写真家の名を胸に刻むことになった。 風間氏は夕張に17年間住んでいたという。しかし、その生活は厳しかった。写真での生計は立てられず、長期のアルバイトに出かけては、隙間風のすさぶ夕張の家に戻るという日々。しかし、そのような厳しい日々の中で、彼は写真を撮り重ねていく。私が彼の写真から感じるものは、特有の自然観である。風の動き、雪の輝き、天体の運行、そういった自然法則的なものに沿った瞬間を完璧に切り取った世界が、そこに示されている。 夕張という町に、人はどのようなイメージを持つだろうか。最盛期には12万人近くあった人口が、エネルギー政策の変転により減少を続け、現在では1万人を下回る。廉価な輸入炭に対抗し、産炭地の生き残りを掛けた北炭夕張新炭鉱は、国からの補助金を得る産炭量をクリアするため現場に負荷をかけ、1981年にガス突出事故を誘発。93人が亡くなるという悲劇的事故だった。幼少時の私が鮮烈な印象を受けたのは、坑内火災が鎮火せず、多くの坑内員が生死不明のまま、最終的に夕張川の水が鎮魂のサイレンとともに注入されたニュース映像である。その後政府と北海道の後押しで強引に進められた観光地転換事業も失敗し、2007年、夕張市は財政再建団体に指定された。 だから、夕張には暗いイメージを持つ人が多いだろう。けれども、私はたびたび夕張に足を向ける。空知炭鉱アートなどの催しにも行かせていただいているが、それ以外の機会にも訪問している。そして、さびれた商店街、人の少なくなった炭鉱住宅を抜ける。私が鉄道や廃線跡が好きという以上にここには何かがある。とても強く訴えるもの。以前の私は気づかなかった。三弦橋が無粋な巨大ダムに沈んだとき、「また夕張に来ることがあるだろうか」と思ったものだ。しかし、私は夕張に「何か」を見つけたと思っている。 それを具体的に書くのは難しい。陳腐になるかもしれない。しかし、様々な"人の営み"と、それを覆う"自然"という、強烈な二項の存在を、これほど覚醒的に感じさせてくれる場所は少ないと思う。安易なノスタルジーだけではない特有の厳粛さがある。それは、この町の歴史、つまり繁栄と悲劇を経て、現在のエネルギー的な静寂に至った過程に、自然史の濃縮された瞬間、生死の定めを持つ人の運命といったものが、きわめて静穏に示されている、と感じるということだ。それゆえに、この町がもつ風景は、時として壮絶な美しさを放つのである。(逆に言うと、その厳しい宿命的なものから目を逸らしたいという人は、夕張を、どこかよその世界の象徴として、必要以上に敬遠し、時に忌み嫌ったりするのだろう、とも思う) 総じて、すごい写真集である。対象は何も語らぬ静物であるが、その示すことはきわめて雄弁である。現在、絶版となっているようだが、是非、なんらかの形で再販を願う。間違いなく世界に誇れる写真集だ。全200ページ。すべて白黒。 なお、参考までに、撮影場所(対象)の一覧を書き添えておく。 平和炭鉱ズリ山・北炭化成工業所(解体済)、本町地区、社光地区(解体済)、石炭の歴史村と高松地区(解体済)、シューパロダム、南部地区・北夕炭鉱ズリ山、日吉地区、千代田地区、常盤地区、昭和地区、真谷地地区、清水沢宮前町、清水沢清稜町、北炭夕張炭鉱大新坑、北炭真谷地炭鉱選炭施設、北炭化成工業所コークス炉煙突、北炭真谷地炭鉱貨車積みポケット、三菱大夕張炭鉱(解体済)、北炭清水沢炭鉱事務所、平和地区変電施設(解体済)、三菱大夕張鉄道ラッセル車、採炭救国坑夫像、北炭夕張新鉱通洞口、北炭清水沢発電所(解体途中)、北炭機械、社光・高松地区(解体済)、鹿島地区(解体済)、北炭真谷地炭鉱総合事務所、南部遠幌町、清水沢清陵町 |
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札幌昭和ノスタルジー―我が青春の街角へ 大鹿 寛著 レビュー日:2015.6.23 |
★★★★★ オリンピックを契機に、「官主導」の開発が主流となった札幌の町並み。以前の姿はこのようなものでした。
ぶらんとマガジン社より2015年に刊行された「我が青春の街角へ 札幌 昭和ノスタルジー」と題された239ページの写真集。同様の「函館」「小樽」のシリーズに引き続くもの。昭和30年代を中心に、札幌市内で撮影された様々な写真が掲載されている。白黒写真が大半だが、一部カラーもある。目次を書き出すと、以下の通り。 【其の一】 札幌駅 大通公園 ・さっぽろのテレビ塔は東京タワーより早かった ・エッ、豊平館が大通にあった!? 創成川河畔 うんちく歩き 札幌一番街商店街 【其の二】 定山渓温泉 ・歴史にひたる、思い出温泉 ・月見橋変遷 ・見返り坂 ・あの頃のお宿へ ・歓迎!御一行様 ・大らかな混浴時代 露天風呂万歳 ・昭和30年代初めの艶やかな温泉街 ・小金湯温泉パラダイス 薄野ラビリンス 時空の旅 ・薄野銀座街 ・キャバレー戦国時代 ・お色気ラプソディー ・ススキノのシンボル 十字街のあの頃 【其の三】 嗚呼、定山渓鉄道 間もなく到着です あの頃の電停 知っているようで知らない秘密の円山 ・円山が「温泉郷」だった頃 ・円山が農業の町だった頃 ・円山が「円山町」だった頃 ・円山動物園ヒストリー 同様の企画で、いき出版が刊行した「札幌市の昭和」という本もあったが、当アイテムはそれよりはるかに安価。しかし、内容の興味深さという点では、特に劣るわけではなく、とても面白い。 札幌という町は、短時間で大きな変貌を遂げている。明治期に開拓使が設置されていらい、世界でも類例をみない規模の移民が積極的に行われ、190万都市にまで成長した。その間の発展の速さは驚くもので、私も幼少のころ、家の周りの風景が、数か月単位で次々に変わっていく様を目の当たりにしてきた。 2000年代になると、人口増加も終わり、一つのエネルギー的な安定点に達した様相である。このようなタイミングで、どこか回顧的な本が相次いで出版されるというのも、なにか暗示的だ。 札幌の風景を劇的に改変したのは、1972年に開催された札幌オリンピックである。現在の札幌の計画的な町並みの端緒となった。それ以前も札幌は碁盤の目状と言われる街路の設計がされていた。しかし、人口増が激しいこともあり、街区は整理と混沌が入り混じった複層的な用途となり、商業地も入り組んだ構造をしていた。 しかし、札幌はオリンピックを境に官主導による町づくりというスタンスを明瞭にする。その象徴が、大手私鉄東急傘下にあった定山渓鉄道の路線買収による廃止である。民間の私鉄を廃止し、その廃線跡に公営の地下鉄路線が敷かれるとともに、定山渓鉄道の職員を札幌市職員化するなど、官主導の色彩を前面に出すことになる。もし、定山渓鉄道が残っていれば、私鉄(東急)資本による沿線開発により、札幌の町並みは現在のものとは大きく変わっていたに違いない。 本書が示すのは、今の「官主導開発後」の札幌ではなく、それ以前の札幌である。それが、決定的な違いだと感じる。都心部を中心とした商店街の様子は現在では考えられないほど、様々なものが混交しており、それが味わいとして伝わってくる。現在の整理整頓された町並みとは似ても似つかない。 個人的に、本書を買ってとても良かったのは、定山渓鉄道の紹介が充実していることである。特にほぼすべての駅の写真が掲載されているのは、私にはうれしい。滝ノ沢、小金湯など味わい深いし、当時の鉄道が、森林を抜け、渓谷美を堪能できる美しい車窓を持っていたことも示されている。 また、定山渓の紹介も面白い。現在まで残る有名ホテルの当時の姿の紹介はとても興味深い。また、芸者の様子は、薄野の文化の紹介と併せて、当時の札幌の風俗をよく伝えるものだ。また、混浴時代の浴場の様子など、当時の気風の伝わってくる貴重な写真。よく、このような写真が残せたという感慨も残る。 市電の風景もなかなか趣深いものが多い。鉄北線が新琴似まで延長されたころ、今では繁華街となった田園風景を、気動車式市電(!)が行く様など、これもほんの一時期だけ見ることのできた風景だった。 円山の歴史も集中的に取り上げられている。かつては温泉保養地だったことは私も知っていたが、当時の貴重な写真を見る機会はほとんどなかったので、これもとても面白かった。できれば、かつてこの保養地と市街地を結んでいた札幌温泉電気軌道についても、写真を掲載してほしかったが、この鉄道は短命だったこともあり、あまり適当なものが入手できなかったのかもしれない。 いずれにしても、この価格で、これだけ貴重な写真を見る機会をいただいたのは、本当にありがたかった。 |