幻の鉄道・軌道線形の復元~地形図に記載されなかった鉄路

   
序章 第1章 第2章 (作成予定) (作成予定)


 当サイトは、かつては「鉄道王国」と呼ばれるほどに鉄道網が広がっていた北海道の当時の姿を伝えるべく、写真紹介、資料整理等により、情報を提供し、ひいては北海道の鉄道の歴史と魅力を伝えることを目的に開設・拡張してきた。写真は1970年代に管理人の父が撮影したものを中心に、また、それ以外にも存在した鉄道や軌道については、線形を示した地形図等の資料を整理して、情報を付加しながら紹介してきた。
 しかし、そんなかつて存在した鉄道・軌道の中には、地形図をはじめとした地図情報がほとんど残っていないものもある。代表的なものとして、「廃駅を訪ねて」で、その遺構の一部を紹介している鴻紋軌道や、「森林鉄道の路線地図起こし」でその線形を紹介している三井軌道、あるいは幹線以外の多くの森林鉄道の支線群などである。もちろん、これまで当サイトで触れることができたもの以外にも、多くの「鉄道・軌道」が存在した。そこで、このページでは、それらの鉄道・軌道を、線形の一部でも「地形図上によみがえらせてみる」ことを試みることとした。ただし、この文章を書いている時点で、それがどこまで出来るか、まったく見通しはたっていない。そもそも、得られる情報は限定的で、結果的に提案した線形が、予想の域を出ないどころか、間違っているケースも、出てくるかもしれない。そこで、本ページは、当サイトの他ページとは、やや情報発信のスタイルを変え、検討の過程などをさしはさみながら、記述も叙述的な形で、まとめてみようと思う。出来るだけ、検討の面白さとともに、あいまいさ、情報の不完全さも併せて伝えていきたいと思う。



序章 芦別森林鉄道 八月沢橋(八月沢線)

 序章として取り上げるのは、芦別森林鉄道の「八月沢線」である。なぜ、「序章」という扱いで取り上げることにしたのかというと、八月沢線については、後述するが、線形を示した地図自体が存在しないわけではないし、すでに当サイトでも「森林鉄道の路線地図起こし」や「廃駅を訪ねて」においても、地形図に当該線形を記載したもの等を提示済だからである。しかし、これからの一連の検討や報告を開始するにあたって、私にとって、その発端であったのが、この八月沢線の調査であったと思うから、どうしてもここから話をはじめないと、しっくりこないのである。
 芦別森林鉄道は、札幌営林局(帝室林野局)が主管し、1932年に起工された。根室線上芦別を起点とし、芦別川に沿って敷設され、東芦別、西芦別、奥芦別の三事業区からの集材を目的とされた。これらの経営区からの森林資源の搬送は、鉄道敷設以前は、凍結した芦別川上を馬そりにより運搬したというが、これは、季節が限られるうえに、天候や積雪量の影響を受けやすく、その作業量が安定しなかったことは想像に難くない。それを一気に改善すべく、芦別森林鉄道の本線は、まずサキベンベツ(16km地点)までが、次いで1934年に奥芦別事業区までの31km開業する。さらに、その後、支線の増設、本線の延長が行われ、1953年には、その路線網は総延長63.7kmに達している。八月沢線は、6つあった支線のうちの一つで、本線の11.6km地点で分岐し、夕張山地の美唄山を源とし、芦別川左岸に合流する八月沢を遡っていた。その運用は、1944年から1954年までであったとされている。

JTBブック「全国森林鉄道」より
 私が、この八月沢線に興味を持ったのは、1枚の写真がきっかけだった。

 左にご覧いただくのは、JTBブックが刊行した「全国森林鉄道」という書籍の「芦別森林鉄道」において掲載されている写真である。一目見てその美しさに惚れてしまった。深い渓谷。高いコンクリート橋脚の上に木造ハウトラスの橋げたが渡され、さらにその上に敷いた線路を、木材を積載した列車が通過している。周囲の地形の厳しさは、よくぞこの場所に橋梁を掛け得たな、と思わせるもので、それゆえに、そこを綱渡りを思わせるような雰囲気で通行している運材列車の様子、そして、それを支える土木建築の荘重な姿が合わさって、まるで奇跡の瞬間のようにさえ思えた。

 当然の事ながら、私はその場所が気になったのだが、キャプションには「は「八月沢線の八月沢橋を渡る運材列車」としか記載がない。

  しかし、私は、ただちにその場所を探そうとはしなかった。私は、当HPをご覧いただいている方には想像されることであろうが、北海道中を網羅的に探索・資料収集の対象としているので、ただちに、その作業をしようとはしなかった。

 しかし、芦別森林鉄道のうち、有名な惣顔真布支線の橋梁跡を見た際に、その立派な佇まいに、「今も残る芦別森林鉄道の痕跡がこれだけなはずがない」と思った。なぜなら、国道452号線に沿ったかの地は、山深く、森深く、芦別森林鉄道は、そんな中を、地形的特徴から、多くの橋梁を架して渡っていたに違いないからである。それらの橋梁跡が、ことごとく潰えているとは、考えられない。

 そんなとき、ふと、あの写真の橋の跡を、まずは探してみようと思った。 私は、のちに札幌営林局が刊行していた「札幌林友」を入手し、例えば、「八月沢線の起点が、本線11.6km地点であること(札幌営林局の森林鉄道に掲載)」等の情報を知りえたのであるが、当時はまだ、そのような情報がなく、ただ「八月沢橋」という名称から、これは「八月沢を渡る橋なのだろう」というところまでは想像がついた。「八月沢」の場所は当然すぐわかる。しかし、この壮大な橋がどこに架かっていたかについては、皆目見当がつかなかった。最初は、当時の地形図を収集してみたのだが、芦別森林鉄道については、いずれの地形図においても、本線のみしか記載がなく、八月沢線の線形は不明だった。


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 ちなみに、ネットで検索してみると、「八月沢線」で林野庁の国有林森林鉄道路線一覧表がヒットする。 そこには確かに 「八月沢線(はちげつさわ) 1級 8,367m 1944(S19)~1954(S29) 運用 御料林」 という最低限の情報だけ記載されている。

Series L506, U.S. Army Map Service, 1954- NK 54-3 Asahikawa より

 廃線跡探訪の偉大な先駆者のひとりである堀淳一氏は、1996年に芦別森林鉄道の廃線跡を咲別線、惣顔真布線といった支線も含めて探索し、その結果を「続・北海道鉄道跡を紀行する」にまとめているが、八月沢線については、存在さえ触れられていない。
 
 実は、前述の通り、八月沢線の線形を記載した地図はないわけではなかった。当サイトでも、「米軍作成の戦後地図に線形を追う」と題してまとめているテキサス大学がネットで公開している歴史資料のアーカイブの一つで、米軍が統治時代に編算した日本各地の地図がそれである。
 左図の通り、25万分の1の地図に、たしかに「Hachigatsu-zawa」(読みが林野庁のサイトと異なっている)に沿って、線路が記載されており、これが八月沢支線であることは間違いない。間違いはないのであるが、25万分の1という縮尺は、橋梁の位置を推定するにはあまりにも小さすぎる。

芦別町要覧(1951)より
 
 こちらは、1951年の芦別町要覧の付図である。
 当時の芦別町の町域が、森林鉄道の支線も含めて掲載されている。1951年と言えば、資料上は、まさに八月沢線が運用されていた時期であるのだが、ここには該当する路線の記載はない。
 それに、そもそもこの地図は、線形を正確に表現する目的で記されていない模式的なものであるから、仮に線形が書いてあったとしても、橋梁の位置の推測には資さ無かったであろう。

 

北海道観光案内書(1963)から

 ちょっと「手あたり次第」の感が否めないが、私は「八月沢橋」の場所の情報を求めて、可能性のありそうなものをいろいろ当たったのである。これは1963年のポケット版の北海道の観光案内本からの引用で、この本には、小サイズながら貴重な写真もあって、「幻の鉄道・軌道線形の復元~地形図に記載されなかった鉄路」シリーズが継続するのであれば、別に紹介することになるであろうものもあるのだが、ここで引用した芦別付近図では、さすがに起点付近の森林鉄道しか記載されていない。
 この観光案内図書は、なかなかマニアックなものも紹介しているのだが、さすがに森林鉄道の支線までは示されていなかった。

「空知の鉄道と開拓」から

  次なる引用は、空知地方史研究協議会が編纂した「空知の鉄道と開拓」から、札幌営林局管内の森林鉄道の路線をひとまとめにした図。この図には、「八月沢線」がちゃんと表記されており、そのデータも記載されてはいた。
 この図書も、「力作」と言って良い内容で、専用鉄道なども含めて、歴史資料をまとめるべく、なかなかな内容を持っているのであるが、さすがに、八月沢線の線形情報としては、この概略図が精いっぱいのものだった。ますます謎めく「八月沢線」。
 もちろん、私は、国土地理院の航空写真のアーカイヴから、八月沢に橋が架かっているものが映っていないかどうかを、何度か確認してみることもしたのだが、該当するものは見いだせず、ここでしばらく月日が経過していたことになる。

(月日が流れる)

 ある日、何の気なしに、「そう言えば、自分が強いインパクトを受けたあの写真、どんな写真だったかな」と思って、もう一度、JTBブック「全国森林鉄道」の写真を見ていると、大変なことを見落としていたことに気づいた。
 いや、見落としていたわけではなく、見ていたのだが、検討の意識に俎上せず、結果的にスルーしていた事実と言った方がいいだろうか。大事なのは線路の線形であった。
 森林鉄道は、概して、深い山奥から、木材等の産物を搬送するために敷設される。そのためには、川に沿って、遡らなければならない。
 一方で、八月沢橋には、あまりに大きな特徴がある。川の両岸で、線路は同じ方向に向けて曲がっているのだ。全体としては馬蹄形もしくはU字型というべき線形を描いている。
 さて、私はそれまで「八月沢橋」を「八月沢を渡る橋」だと思い込んでいた。というのは、私がもっともよく探索する旧国鉄線においては、橋梁には、その橋梁を架した川の名称を付けるのが原則であるため、私は、八月沢橋についても、無意識にその法則を当てはめていたからである。しかし、川の両側で線路が同じ方向に向くということは、この線路が遡るべき川は、越している川とは別にあってしかるべきだ。となると、以下の仮設に思い当たる。「八月沢線は、本線を分岐してから、本線と同様に本流である芦別川を遡り、ある地点でそれを渡河し、対岸に移った上で、八月沢にあらためて達してから、八月沢を遡っていた」。

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1960年撮影の航空写真

 つまり、「八月沢橋」は、「八月沢」に架かっていた橋ではなく、「芦別川」に架かっていた橋であり、なおかつ、その渡河地点は、八月沢と芦別川の合流地点より、さらに上流側ということになる。この「合流地点より上流側に分岐点がある」というのも、私のそれまでの調査から抜け落ちていた発想だった。
 そこに思い至るや、私は調査対象を「八月沢」周辺から、「芦別川と八月沢の合流地点から、芦別川に沿った上流域」に変更したところ、ついに1960年の航空写真で「それ」を見つけた。
 それが左の図である(カーソルオンで、線路(跡)をハイライト)。
 1960年の撮影なので、八月沢線はすでに廃止から6年が経過している。しかし、明瞭に八月沢線の線形を使用した林道があり、そして、なにより、あの特徴的な馬蹄型の線形をもった橋梁が見えたのだ。

航空写真から八月沢橋を拡大したもの

 左は1960年の航空写真から、八月沢橋を拡大したもの。写真の角度が良く、橋脚、川面と両岸に架かる橋げたの影もしっかりと移っている。(カーソルオンで橋をハイライトします。)

1961年発行 5万分の1地形図「上芦別」

 これによって、当該林道の線形が、八月沢線を踏襲した可能性はかなり高いことから、八月沢橋周辺の八月沢線の線形も、前図の通り、地形図上に描き出すことが出来たのである。
 左がその「成果品」。1961年発行の5万分の1地名図「上芦別」であるが、カーソルオンで、航空写真から読み取った八月沢線をハイライトする。


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 当時と発行年の近い地形図上に、その線形を描くことが出来た。 というわけで、このページの目的としては、“線形の一部でも「地形図上によみがえらせてみる」”ことだから、本章に関しては、これにて終了となるのであるが、本件に関しては続きがある。場所がはっきりした。その場所は、芦別川と八月沢の合流地点から、芦別川の流路長にして、1.4kmも遡ったところであった。現在の当該地を地理院地図で確認してみると、深い森に囲まれた断崖の下を、芦別川が蛇行して流れている個所であり、当該地から橋は失われている。次に当該地をGoogle Mapで確認した私は、驚くことになる。

2021年現在 Google Mapが提供していた当該地の衛星画像
 巨大なコンクリートの橋脚が残っている!。

その橋脚は、芦別川の右岸(東側)の縁にあって、中間部に空間のある特徴は、当時の写真で見た橋脚構造そのまま。しかも、東に続く森の中にもそれに続く橋脚が残っているのがわかる。 (なお、2023年現在、当該地の衛星画像では、鮮明には見えない)

 私は、現地に行くことにした。
 



 2021年11月6日。自宅のある札幌市を早朝に出発し、三笠までを高速道路で移動。この日は、まず幾春別森林鉄道の遺構をいくつか確認し(廃駅を訪ねてで紹介)てから、国道452号線で、芦別川流域に入った。広大な芦別川の流域は、すべて芦別市の市域でもある。国道452号線は、私にはなじみの深い道だ。大雪山の旭岳域や十勝連峰に登山をする際にも、ほぼ毎回利用しているし、砂利道だった時代に、この道を通り、父と惣芦別川を沢登りし、化石採集をしたこともある。
 この道路を北方面に向かうと、途中で惣顔真布川を渡る深山(みやま)橋という橋があり、そこから芦別森林鉄道の遺構として有名な、惣顔真布支線が芦別川を越していた橋梁の橋脚を見ることができる。芦別川を越しながら、すくっと数蓮の橋脚が天に向かって立っている姿は美しく、国道の橋から直接見える(2023年現在のストリートビューでも見えます)こともあって、現在では、芦別森林鉄道の象徴的な遺構としてまず最初に挙げられるものである。
 
 この日は、快晴に恵まれ、深山橋付近から、芦別森林鉄道惣顔真布支線が芦別川を越していた橋梁跡の橋脚群も、晩秋の光の中で、映えて見えた。
 芦別森林鉄道の本線は、左岸(西側)に当たる対岸側にあって、そこから分岐した支線は、芦別川を渡り、惣顔真布川に沿って、東の山中に入っていた。

 斜面の藪を下って、川岸に降りてみた。惣顔真布支線の橋梁跡。天を向けてまっすぐに建つ橋脚が並ぶ様は美しい。

 この日は抜群の青空だった。明瞭な陰影を伴った橋脚群。


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 1960年の航空写真。カーソルオンで、線路をハイライトする。
 本線、橋梁、惣顔真布支線の位置関係が明瞭にわかる。惣顔真布支線は、1957年の4月に敷設され、1959年の12月まで運用されたというので、その運用期間は、わずか2年と9か月であり、当該航空写真は1960年7月の撮影のため、廃止から7か月経過後のものとなる。惣顔真布支線の延長は8.4kmであったので、この数字を直接あてはめると、相当な沢の奥まで突き詰めることとなるが、航空写真では、そこに至る前に、軌道跡は途絶え、伐採地も途絶えているように見えるので、詳細はわからない。ただ、惣顔真布川の左岸(南側)に敷設され、線路の南側が伐採地であったことは、確かである。本線起点から1kmも進まないところに、作業所か事務所のようなものがあったことも分かる。



1961年発行 5万分の1地形図「幾春別岳」

 惣顔真布支線もまた、地形図に描かれたことがない。このページでの目的が、地形図等に記載されることのなかった線形の地図起こしであることを踏まえ、1960年の航空写真の情報から、左図に線形を書き込んでみた。(カーソルオンで表示する)


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 この後が本日のメインとなる。
 
 八月沢橋の付近は、国道からは、ずいぶんと離れたところになるので、国道をそのまま進むわけにはいかない。目標地点の大分手前から、対岸に渡って、地形図上に記載された細道を行かなければ行けないが、Googleの衛星写真等を見ても、事前には、道の状態まではわからず、一般通行が可能なのかもわからなかった。また、衛星写真は、現地の森が密に茂っているように見えたし、地理院地図を見ると、川谷は深く、地形も凶悪で、うまく目標物まで見通せる場所に至れるのか、大いに不安があった。しかし、ここまで来て行かないわけはなく、私は七夜橋の手前で左折し、細い未舗装道路に入った。
 特に進入禁止等にはなっていなかった。地図で見る限りでは、この道は、この先、集落のある頼城地区まで続いているようであり、また、この道は旧地形図を見ると、国道452号線の旧道に当たる道でもあるようだ。
 さっそく芦別川の作る谷を急な勾配で降りていくが、降りきったところで、くるっと曲がって、これまた車1台が通れる細い橋で芦別川を渡った。どうやら、この道は林道のようである。この日の天気は良かったが、前日が雨だったこともあり、あちこちに大きな泥水の水たまりがあるのが気持ち悪い。というのは、路面の凹凸が激しく、水たまりの底がどうなっているかわからないからである。車を進めてみたら、思いのほか深いかもしれない。普段、どの程度の頻度で利用されているのか、まったく不明である。(結果的には、この日、この道上に1時間ちかくいたのだが、他の車には一切出会わなかった)。しかし、途中で月見沢川を渡る橋は、存外に新しく、銘板に平成29年(2017年)竣工と記されていたのを覚えている。その橋だけは新しく立派だったが、その両側に続いている道は、路肩も路盤も不安で、そろそろと探るように進んでいくしかない。この道路は「咲別林道」という名称らしい。


 そろそろか、と思われたころ、突然それは現れた。
 当初は、視界が確保できるかを心配していたが、季節が良かったのか、そのような心配は杞憂に終わり、川崖の上の林道から、その構造物は圧倒的な存在感で、私を迎えてくれた。

 紅葉の山並み、芦別川の流れとともに、その偉大な土木建築は、しかるべくそこにある様に存在していた。果たして、事前情報なく、この土木建築を見た人は、どのような由来を想像するのだろうか。

 1955年に廃止された八月沢線。その後、航空写真から、林道に転用されたことはわかっているが、その橋がいつまで利用されていたのか、詳しいことは分からない。
 ただ、2021年現在、そのコンクリート橋脚は、芦別川の急流に足元を洗われながらも、いまだ堂々と建ち続けていた。
 その姿の美しかったこと。
 私は熊避けの意図でクラクションを鳴らしてから、外に出てその橋脚に見入った。
 
 川岸に降りれないかは検討してみたが、崖は急で、地質も脆かったので、仮に降りられたとしても、戻ってこられるか確信が得られなかったので、降下はやめた。ただ岸に降りなくとも、十分にその美しい姿は堪能できた。
 左写真は降りようとした際に撮影した1枚。
 

 咲別林道の姿。ピンクのリボンが見えているが、ところどころ、崩れかかった路肩があり、そういったところには、警告用のリボンやフラッグはあった。
 
 事前に整理した情報の通り、その奥にももう一つ橋脚が見える。
 地形図に記載されていない線路、その存在を伝える雄弁な遺構だった。私は、この橋脚が、現在、北海道に残っている最大の森林鉄道の遺構であると思っている。

 手前には、おそらく崩れてしまってあろう、左岸側の橋脚の残骸があった。残った橋脚が、何年後に崩れるかはわからないが、少しでも長くその姿をとどめてほしいと願った。

 こうして、ついに八月沢橋の所在をつきとめ、その素晴らしい遺構にも巡り合うこととなった。

 ちなみに、この後私は、林道咲別線をそのまま進んで頼城に抜けようとしたのだが、あと少しというところで、なぜか道はゲートに塞がれていた。これは私を不思議な気持ちにさせた。もう少し先には集落があって、国道にも出られる。道はいままでと同様に続いているのに、なぜ、ここにきてゲートで塞ぐ必要があるのか。。。考えると、どうもこのゲートは反対側(北側)からの来訪者を塞いでいるのが自然な解釈のように思えた。しかし、私は、南側から、なんのゲートも通らず、ここまで来れたのであるが。
 とはいえ、戻るよりほかなく、狭いところで、私はなんとか車をUターンさせ、また路肩の緩いたよりない道を戻ったのである。

 以上が、八月沢線に関する私のお話であり、当シリーズの序章としたい。ただ、最後に、実はこんな情報があったのだ、ということが後日わかったので、最後に少し紹介する。

 
 下図は、1953年の「機関車 No.10」に掲載された記事、小熊米雄氏の「ベアトリス、北へ行く」という記事で紹介されていた芦別森林鉄道の路線図である。
 この記事は、1941年当時、帝室林野局札幌支局上芦別出張所の運輸掛主任であった小熊氏による、芦別森林鉄道に配属されたW.G.Bagnallの古典型Bタイプの蒸気機関車「ベアトリス」について書かれたものだ。この蒸気機関車は「咲別線」で主に使用されたとのことだが、芦別森林鉄道の紹介のため書かれた路線図には、しっかりと八月沢線が記載されていた。
 線形も正確なものであるため、最初にこの資料に行き会えば、私は容易に八月沢橋が芦別川を渡河する橋であったことを知ったと思う。
 しかし、当ページに記載させていただいた過程は、個人的に、それはそれで味があったと、自分では思っている。

 なお、小熊米雄氏の報告は、素晴らしい内容となっており、機会があれば、ぜひ、お読みいただきたい。

 「幻の鉄道・軌道の線形復元」については、今後はまだ未定だが、個人的は、何か面白いと思ったものについて、今後も自由にまとめてみたいと思っている。
 
機関車 No.10(1953)より、芦別森林鉄道図


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【2023年7月23日追記】
 本ページの話と直接の関係はないが、序文で「線形を記した地図がない鉄道・軌道」の代表例として提示した「三井軌道」について、線形を記した地図があることが分かった。ちょっとばかり「舌の根も乾かぬうちに」といった感じで恐縮だが、紹介したい。
 下記に示すのは「日高支廳管内圖(原図の縮尺は15万分の1)」であり、ウンベ川の河口(西様似港)を起点としている三井軌道の線形が記載れている。
 発行年は不明ながら、三井軌道が敷設されたのが1929年、日高線が様似まで開通したのが1937年であることから、1929~1936年に発行されたものと類推できる。
 いずれにしても、今回のように、記事記載後に情報が入手できた場合も、出来る限り情報発信していきたい。