札幌営林局の森林鉄道


 北海道内にあった森林鉄道については、記録が少なく、ネット上で入手できる情報も限られている。森林鉄道の中には、路線の線形の記録が明瞭でないものだけでなく、中には存在自体が不確かとされるものもあり、今後の情報発信が期待される。当「1970年代 北海道鉄道写真」においても、得られた情報を、できるだけ整理し、提供してきた。もし、これらの情報が、さらなる情報の発信を誘引することが出来れば、たいへん幸いなことである。
 さて、当ページでも、北海道内にあった森林鉄道について、情報をまとめつつ発信することとしたい。基本的には、管理人が収集できた情報を、できるだけ体系化した形で発信することを目標としているが、当ページで扱うのは「札幌営林局」が管轄した5つの森林鉄道、すなわち「芦別森林鉄道」「幾春別森林鉄道」「主夕張・下夕張森林鉄道」「恵庭森林鉄道」「定山渓森林鉄道」に関してである。
 本ページの情報源として、複数の古書籍等を参考としているが、中でも重要であったのが雑誌「札幌林友」である。「札幌林友」は、1954年から、札幌営林局林野共済会が、毎月1回を基本として発刊したものであり、その内容は管轄する営林署の情報、治山状況、植生の調査、災害のまとめ等から、職員とその家族のレクレーションまで、幅が広い。内部配布用のものであったため、おそらく発刊数は多くなく、現在、入手は難しい状況と思われる。
 管理人は、実家近くの古書店を経由し、比較的まとまった数の「札幌林友」を入手する機会があり、内容を一通り確認してみたところ、しばしば貴重な上記の森林鉄道に関する記述・報告があった。
 そこで、このページでは、「札幌林友」における諸記事をまとめつつ、他の資料等との突合により、情報を(限界はあるが)精査しながら、まとめることを試みた。以下、路線のデータ、代表的構造物に関する情報、現況や地図情報との照合等により、とりとめないところを残しながらも一応まとめることが出来たので、公開し、今後、より精度の高い情報が誘引されてくる糧としたい。


目次

札幌営林局の森林鉄道路線詳細 森林鉄道の構造物
1) 芦別森林鉄道
森林鉄道の構造物
2) 幾春別森林鉄道
森林鉄道の構造物
3) 主夕張・下夕張森林鉄道
森林鉄道の構造物
4) 恵庭森林鉄道
森林鉄道の構造物
5) 定山渓森林鉄道
森林鉄道の
蒸気機関車一覧
1 芦別森林鉄道 本線の橋梁一覧 1號橋 下夕張川横断橋梁 6号橋 銚子口橋梁 一覧表
2 幾春別森林鉄道 緑泉橋 神泉隧道 1号橋梁(三弦橋) 漁川橋梁 第2号橋梁 機関車たちの姿
3 主夕張・下夕張森林鉄道 境橋 2號橋 金尾別橋梁 ラルマナイ橋梁 隧道
4 恵庭森林鉄道 青木橋 3號橋 下夕張川第三號橋梁 インクライン 豊平川第一橋梁
5 定山渓森林鉄道 霞橋 その他 下夕張川第四號橋梁 その他 豊平川第二橋梁
札幌営林事業統計に記載されている「新設路線」 七夜橋 その他
木橋から鉄橋へ
(1948年から54年に鉄橋化された橋梁一覧)
東西橋
奥の橋
二股橋
本谷一號橋
八月沢橋
その他



札幌営林局の森林鉄道路線詳細 1 芦別森林鉄道    路線図

路線名 起点 終点 起工 竣工 延長(m) 幅員(mm) 軌間(mm) 軌条(kg) 平均勾配(‰) 最大勾配(‰) 最小半径(m) 道床厚(m) 橋梁 桟橋 隧道 停車場 記事
芦別本線 空知郡芦別村上芦別 芦別森林鉄道土場 上芦別出張所奥芦別事業区58林班 1932年5月19日 1934年12月15日 31,220 2,727 762 12,10 7.6 40 40 0.17 31 3
幌子線 芦別森林鉄道21,333m 分岐区割班125地内 区劃班121イ地内 1937年5月 1937年12月 3,237.6 2,500 762 10 9.98 25 30 0.06 7
幌子線
(延長)
幌子軌道終点 1953年 1955年12月 6,784 2,500 762 10 13 35 25 0.06 26
咲別線 芦別森林鉄道16,212 m 東芦別事業区68林班 1938年3月 1939年9月 8,016 +側線405 2,500 762 8 14.7 40 20 0.18 4 5
本谷線 芦別森林鉄道終点 31,220m 上芦別事業区52林班 37,220m 1942年4月 1944年12月 6,000 2,200 762 8 13.6 35 17 0.18 4
本谷線
(延長)
芦別森林鉄道終点 37,220m 1952年4月 1952年12月 4,028 2,200 762 12 0.18 14
八月沢線 芦別森林鉄道11,661.7m 西芦別経営区61林班 1944年4月 1950年12月 8,367 2,500 762 8 15.7 35, -5 30 0.18 27
小滝の沢線 咲別線 4,130m 1954年8月 1954年10月 240 2,200 762 10 24.7 40 25 0.18 3 橋梁架設目的
惣顔真布線 1957年4月 1959年12月 4,229 2,500 762 10,12 22.6 45 30 0.18 9


札幌営林局の森林鉄道路線詳細 2 幾春別森林鉄道    路線図

路線名 起点 終点 起工 竣工 延長(m) 幅員(mm) 軌間(mm) 軌条(kg) 平均勾配(‰) 最大勾配(‰) 最小半径(m) 道床厚(m) 橋梁 桟橋 隧道 停車場 記事
幾春別本線 空知郡三笠山村幾春別駅土場 幾春別事業区31林班(下二股) 1935年7月23日 1937年12月28日 14,497 +側線1,650 2,700 762 10 8 24 30 0.18 27 1 1
幾春別本線
(延長)
幾春別森林鉄道終点 幾春別事業区92林班(奥左股) 1937年6月 1938年7月 3,109 2,500 762 8 0.76 2 30 0.18 2
新土場延長線 旧土場二番線 新土場 1943年5月 1945年12月 1,360 2,700 762 9 0.5 2 35 0.18 3 1
菊面沢線 幾春別森林鉄道7,700m 幾春別経営区 118林班 1947年4月 1948年12月 3,308 2,500 762 8 2.74 3 30 0.18 26 幾春別森林鉄道には、このほか左股沢線、上一の沢線、盤の沢線の3路線約10kmが存在したが、いずれも作業軌道であったものと思われる。なお、奥幾春別線の記載がないが、当該線には湯の沢隧道があった。この隧道は、補償道路に新設されたのち、廃道となっている。


札幌営林局の森林鉄道路線詳細 3 主夕張・下夕張森林鉄道    路線図

路線名 起点 終点 起工 竣工 延長(m) 幅員(mm) 軌間(mm) 軌条(kg) 平均勾配(‰) 最大勾配(‰) 最小半径(m) 道床厚(m) 橋梁 桟橋 隧道 停車場 記事
主夕張線 夕張郡夕張町大字大夕張名取ヶ丘 夕張郡夕張町夕張岳御料地二股沢 1934年2月 1937年12月 15,419.24 2,700 762 10 6.79 24 40 0.25 12 1
主夕張線
(延長)
主夕張森林鉄道終点 主夕張経営区59林班(日向沢) 1954年4月 1954年12月 4,003 2,700 762 12 不明 不明 不明 0.18 不明 日向沢線の呼称あり
日陰沢線 主夕張森林鉄道 15.360km 主夕張事業区92林班 1938年3月 1939年12月 4,422 +側線208 2,200
2,350
2,500
762 8 12.2 25 20 0.18 7
下夕張線 夕張市字南部南大夕張駅土場 夕張岳御料地下夕張事業区 1939年5月 1945年12月 16,802 2,200 762 10 11 35,-20 25 0.18 13 8 隧道は少なくとも一つはあった。下記参照。
下夕張線
(延長)
下夕張森林鉄道終点 夕張岳経営区339林班 1953,57,61年 各年度末 10,442 2,500 762 12 不明 不明 不明 0.18 不明
夕張岳線 下夕張森林鉄道2,643.20m 夕張岳事業区第33林班 1942年3月18日 1946年10月30日 11,621 2,200 762 9 9 30 25 0.18 12 23
夕張岳線
(延長)
夕張岳森林鉄道終点 1951年4月 1952年12月 4,710 2,200 762 10
盤の沢線 下夕張線森林鉄道9,954m 下夕張経営区365林班 1958,61,64年 各年度末 5,253 2,600 762 12 9.4 30 25 0.10 4
遠幌加別線 夕張郡夕張町字南大夕張遠幌加別農地 夕張岳御料地147林班 1940年 1942年 8,456 2,200 762 8 14.7 40 15 0.18 5 14 1944年の冬には軌条が撤去されてしまった


札幌営林局の森林鉄道路線詳細 4 恵庭森林鉄道    路線図

路線名 起点 終点 起工 竣工 延長(m) 幅員(mm) 軌間(mm) 軌条(kg) 平均勾配(‰) 最大勾配(‰) 最小半径(m) 道床厚(m) 橋梁 桟橋 隧道 停車場 記事
本線
(延長1)
千歳郡恵庭村字漁第一御料地牛沢908番地 同(17.7km)ラルマナイ土場 1937年4月 1937年12月 412.7 2,500 762 8 8.4 22 30 0.18 3 - 1 恵庭森林鉄道本線(恵庭駅~盤尻ウシの沢土場14.4km)は、王子製紙が漁川発電所(現在地)建設のため1929年に敷設した作業軌道を、1931年に森林鉄道に転用したものである。また、1937年に延長工事を行い、全長17.7kmとなったが、これらの工事区間に関する詳細データはない。
本線
(延長2)
千歳郡恵庭村字漁第一御料地ラルマナイ土場(恵庭森林鉄道測点 17.7km) 同 74林班(延長23km162.32) 1944年3月 1946年12月 5,432.32 2,500 762 8 16 25 40 0.18 2
本線
(延長3)
恵庭森林鉄道終点 漁経営区93林班 1947年4月 1949年12月 6,488 2,500 762 10 不明 不明 不明 0.18 不明 1 インクライン(29km)施設1か所
ラルマナイ線 恵庭森林鉄道 17,488m 漁御料地29林班 1939年3月 1940年7月 6,729 2,200 762 8 16.71 40 20 0.25 11 3 恵庭森林鉄道には、このほか一安線、茂一安線の2路線が存在したが、いずれも作業軌道であったものと思われる。


札幌営林局の森林鉄道路線詳細 5 定山渓森林鉄道

路線名 起点 終点 起工 竣工 延長(m) 幅員(mm) 軌間(mm) 軌条(kg) 平均勾配(‰) 最大勾配(‰) 最小半径(m) 道床厚(m) 橋梁 桟橋 隧道 停車場 記事
定山渓 札幌郡豊平町字平岸村852番地木材土場 定山渓御料地定山渓事業区96林班 1936年5月6日 1941年12月10日 10,324 2,500 762 10 17.3 40 30 0.18 桟橋共10 1 1
定山渓
(延長)
定山渓森林鉄道終点 (右股沿) 1948年4月 1954年12月 8,376 2,200 762 10 17.6 40 30 0.18 9
左股線 定山渓森林鉄道 11,120m 定山渓事業区161林班 1941年2月20日 1941年12月25日 3,205 2,200 762 8 23 49 20 0.18 7 17 1 空沼入線の呼称あり

本ページ末尾に関連記事「定山渓森林鉄道・左股線(空沼入線)の隧道はどこにあったのか?」があります。



 これらの「橋梁」「桟橋」「隧道」「停車場」の数字は、いずれも札幌林友各巻の表記をそのまま参照したが、正確性については、不明なところがある。
 例えば、下夕張森林鉄道と、夕張岳森林鉄道は、左に引用した1962年の5万分の1地形図「石狩鹿島」には、有名な「隧道内分岐」のある隧道(名称未詳、「夕張岳隧道」と記載する文献あり)の記載があった。それを踏まえて上表では、記事に「隧道は少なくとも一つはあった」と記載させていただいた。なお、マップ中、北へ向かうのが夕張岳森林鉄道、南東に向かうのが下夕張森林鉄道、引用図の外になるが、マップの西に両森林鉄道の起点である大夕張鉄道南大夕張駅があった。
 それにも関わらず、表中では隧道数が「-」となっている。あるいは「-」の表記は、単に未集計を指しているのかもしれない。しかし「-」の場合と「空欄」の場合がある一方で、「0」という表記がなされる場合がないことから、全体をどのように解釈すべきかわからないところが残る。
 しかし、管理人が明確に指摘できるのは、その1点のみであり、きちんとした数字が記載されているものについては、かなり高い精度で実態を反映しているはずである。
 右の写真は、「トワイライトゾーン マニュアル 2」で紹介された1992年当時の当該トンネル跡。トンネル長は約120mと記載されている。なお、同記事によると、廃線跡の実地調査の結果、トンネル内分岐ではなく、それぞれに坑口が確認できたとのことで、その報告が正しければ、左の地形図の記載が間違っており、かつ隧道は少なくとも2本存在したことになる。


札幌営林事業統計に記載されている「新設路線」


森林鉄道 大夕張 上芦別 参照先
夕張岳 下夕張 東芦別 西芦別 奥芦別
個所 延長(km) 個所 延長(km) 個所 延長(km) 個所 延長(km) 個所 延長(km)
1954 1 2.1 1 4.2 1 4.0 札幌営林局事業統計書 186コマ中139コマ
1956 1 4.5 札幌営林局事業統計書 203コマ中142コマ
1958 1 3.3 1 (4.2) 札幌営林局事業統計書 176コマ中132コマ
個所 延長(km) 個所 延長(km)
1959 1 1.8 1 1.4 札幌営林局事業統計書 167コマ中124コマ
1960 1 3.0 札幌営林局事業統計書 163コマ中117コマ
1961 1 1.3 (3.0) 札幌営林局事業統計書 200コマ中145コマ
1962 1 3.0 札幌営林局事業統計書 177コマ中129コマ
1963 1 (2.1) 札幌営林局事業統計書 185コマ中133コマ
1964 1 2.1 札幌営林局事業統計書 180コマ中129コマ
 
 「札幌林友」内で示されている森林鉄道各路線の建設情報のうち、1953年以降の情報については、更新日現在「札幌営林局統計書」が公開されているため、データを突合することができる。上記の通り、札幌営林事業統計は、年1回、前年度の事業成績をまとめたもので、森林鉄道を含む林道の新設・改良情報がまとまっている。公開されているものは、1954年から1967年までの全14年分であるが、そのうち森林鉄道に「新設」の記載があるのは、上記の9巻分となる。なおカッコ書きの距離数は、未成工事を示している。また、1958年までは事業区(経営区)単位で分類されていたが、1959年以降は、「大夕張」「上芦別」という大きなくくりにまとめられている。1954年~1967年で新設情報があるのは、「芦別」「夕張」のみで、「幾春別」「恵庭」「定山渓」に新設路線はない。
 下夕張(1954年)、大夕張(1959年と1961年の1.3km)は、いずれも下夕張線本線の延長新設と考えられる。1954年には、前年の夕張岳線の2.1kmの延長も表記されている。また「大夕張」で、1962年の3.0km、1964年の2.1kmは、盤の沢線の新設を示しており、管内で新設された最後の路線となる。
 1954年、奥芦別に記載されている4.0kmの延長は、本谷線の延長を示す。また、1956年の東芦別の4.5kmは幌子線の延長を示していると思われるが、当該区域は本来「西芦別」ではないだろうか(上表に、「西芦別」欄を加えたのは、あえて無記載であったことを示すため)。その後の1958年以降の新設は、惣顔真布線を示している。 
 


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1948年から54年にかけて、木橋から鉄橋への架け替えが行われた札幌営林局内の森林鉄道の橋梁一覧


 山中から森林資源を搬出する森林鉄道の性格上、その路線には多くの橋梁が架橋されるが、敷設当初、それらは「木橋」であった。しかし、1943年5月29日、下夕張森林鉄道において、下夕張川三號橋梁(全長72m、河床からの高さ5m70、架橋3年7か月)が落橋する事故が発生した。事故は、8噸蒸気機関車が木材貨車3輌を連結して橋を通過する際に、支間16mの木製ボニートラスが列車とともに落ちることにより発生し、死者1名、負傷者16名であったという。また、1949年8月23日、夕張岳森林鉄道において、金尾別橋梁(全長57m、河床からの高さ16m、架設5年)が機関車2輌盈車8輌他を巻き込んで落橋。奇跡的に死者は出なかったものの、負傷者7名を出した。これらの事故を背景に、木橋から鉄橋への付け替えが、管内各所で進められることとなった。
 1954年4月号の「札幌林友」では、竹内一雄氏が「木橋から鐵橋へ」と題して、事故の内容、木橋、鉄橋の物理特性、構造等について、貴重な報告を行っている。報告中で、木橋が架橋される理由として、以下があげられている。

 1) 工事費が廉い。
 2) 短材であれば、林道附近の森林から容易に採材できる。
 3) 長材であっても、林道新設の場合は、附近の森林から採材できる。
 4) 鉄橋は、下方から運び上げる道がなくては出来ないが、木橋なら道がなくても出来るから、工期が短縮できる。
 5) 砂・砂利の無い頁岩地帯でも、コンクリートを打つことなしに架設できる。
 6) 統制経済で、鉄鋼使用制限のときでも架設できいる。

 また、逆に鉄橋が架橋される理由として、以下を上げている。

 1) 工事費が高いが、耐久年数から計算した償却費が廉いので、長く使用する林道には有利である。
 2) 安全性が木橋より遥かに大きい。
 3) 下方連絡道路がある場合は、運搬が容易であり、架設期間が短くて済む。
 4) 伐採が進んだ地区の大きな橋で、長材が採れない場合でも、鉄橋なら架設できる。
 5) 木材搬出が終わった後でも、木橋のように腐れることなく、造林管理の面に使用できる。

 以上の事から、木橋か鉄橋かの選択を行うことになる。前述の事故をふまえ、札幌営林局管内では、再度橋梁に適した構造を見直し、1948年以降、木橋の鉄橋化がすすめられることとなる。当該報告では1954年までに鉄橋化が行われた鉄橋の一覧が掲載されており、いまとなっては失われた橋梁たちの姿を偲ばせる貴重な資料であると思われるので、ここに転載させていただいた。


架設年度 線名 橋名 新橋(鉄橋)構造 重量(噸) 工費(圓) 旧橋(木橋)構造
橋長(m) トラス 鈑桁 工桁 木造トラス 方杖 單桁
1948 下夕張森林鉄道 下夕張川第一號橋梁 40 20~2(99式) 50,820 1,264,859 20~2 9~1 5~4,4~2
1948 下夕張森林鉄道 下夕張川第四號橋梁 32 16~2(99式) 45,550 1,137,945 16~2 6~2
1949 夕張岳森林鉄道 下夕張川橋梁 56 28~2(99式) 69,930 1,833,147 28~2 6~5
1949 夕張岳森林鉄道 第一號橋梁 20 20~1(99式) 25,410 898,528 20~1 6~4,4~2
1950 夕張岳森林鉄道 金尾別橋梁 73.74 26~2 10~2 43,034 4,270,575 20~1 6~2,5~5
1950 夕張岳森林鉄道 第十一號桟橋 16.35 6~2 3.45~1 3,518 299,146 6.5~1,3.5~3,2.5~1
1950 夕張岳森林鉄道 第十四號桟橋 18.05 6~1,11.54~1 7,709 357,636 6.6~1,4.5~1,3.5~3
1950 夕張岳森林鉄道 第四號橋梁 30.19 6~1,11.54~2 13,909 812,828 6~7,3~1
1950 下夕張森林鉄道 下夕張川第三號橋梁 63.6 14~4,6~1 28,929 2,119,260 16~1 8~4,5~3,4~1
1951 下夕張森林鉄道 下夕張川第二號橋梁 63.6 14~4,6~1 28,906 4,577,211 16~3 5~4,4~1
1951 下夕張森林鉄道 プトーサルシナイ橋梁 10 10~1 3,729 1,110,730 16~1 6~2
1951 下夕張森林鉄道 第一號マップ橋梁 20 10~2 7,458 1,283,166 8~1 4~3,3~2
1951 夕張岳森林鉄道 下夕張川(横断)橋梁 (90) 34 27.5~2,20~1,14~1 23,679 3,230,440 (28~2) 6~5
1951 夕張岳森林鉄道 第一號橋梁 32 16~2 16,822 2,428,868 (20~1) 6~4,4~2
1951 夕張岳森林鉄道 白金澤第一號橋梁 47.7 11.54~2,6~3,4~1 17,836 1,016,217 12~2 5~5,3~1
1951 夕張岳森林鉄道 白金澤第二號橋梁 41.5 11.54~2,10~1,6~3 14,546 941,135 12~2 6~3
1951 夕張岳森林鉄道 白金澤第三號橋梁 30.72 10~2,9.58~1 12,258 722,484 12~2 6~1
1951 夕張岳森林鉄道 白金澤第四號橋梁 43.99 12.76~1,10~3 18,187 1,039,405 12~3 5~2
1951 夕張岳森林鉄道 白金澤第五號橋梁 33.25 10~2,6~2 10,476 797,787 12~2 5~2
1952 芦別森林鉄道 本流支流壹號橋梁 48 20~1,10~1,6~3 25,124 4,068,171 20~1 4~6
1952 芦別森林鉄道 九重橋梁 44 28~1 8~2 26,094 3,274,760 28~1 4~4
1952 芦別森林鉄道 花見一號橋梁 33 20~1,8~1,5~1 15,691 1,921,212 20~1 4~2,5~1
1952 芦別森林鉄道 二股橋梁 62 42~1 10~2 35,156 4,404,522 10~1,28~1 12~1 4~3
1952 芦別森林鉄道 本谷二號橋梁 61 20~2,11~1,10~1 31,504 3,929,922 20~2 4~5
1952 下夕張森林鉄道 下夕張川第一號橋梁 (78) 38 10~2,9~2 12,112 1,997,827 (20~2) 9~1 5~4,4~2
1952 下夕張森林鉄道 下夕張川第四號橋梁 (44) 12 6~2 3,692 621,758 (16~2) 6~2
1953 芦別森林鉄道 境橋梁 58 44~1 4~1,10~1 32,400 4,334,107 28~1 11~1,12~1 7~1
1953 芦別森林鉄道 青木澤橋梁 64 44~1 10~2 36,100 4,727,521 28~1 11~2 7~2
1953 芦別森林鉄道 新妻二號橋梁 34 9~1,5~1,20~2 15,000 1,934,623 20~1 5~2
1953 芦別森林鉄道 本谷一號橋梁 69 8~2,13~1,20~2 30,700 4,641,171 20~2 5~1,4~6
1954 芦別森林鉄道 七夜橋梁 (52.51) 5.45 5.45~1 1,023 163,000 (27,43~1) (8.15~1,9.60~1),5.45~1
1954 芦別森林鉄道 言問橋梁 21 11~1,5~2 6,748 1,016,000 11~1,5~2
1954 芦別森林鉄道 壹之橋梁 21 11~1,5~2 6,748 1,017,000 11~1 5~2
1954 芦別森林鉄道 八雲一號橋梁 24.5 11~1,8.5~1,5~1 9,106 1,361,000 11~1,8.5~1,5~1
1954 芦別森林鉄道 支流二號橋梁 36 10~1,20~1 6~1 18,509 2,707,000 6~3,4~5
1954 定山渓森林鉄道 鳥居橋梁 63.35 14~1,20~2,9.35~1 31,330 4,648,000 20~2 10~1 9~1,4~1
1954 定山渓森林鉄道 二股橋梁 65 35~1,30~1 35,000 5,409,000 30~1 8~3,6~2,3~1
 表中で、例えば「5~4」の様に表記された場合、「5m長のものが4つ」を意味する。「旧橋(木橋)構造」の木造トラス欄でカッコ書きされた数字は、すでに旧橋に鉄橋化された部分があった場合を示している。
 鈑桁(ばんげた)は、アルファベットの"I"の字形の鉄板による橋桁を意味する。「99式」への言及はないが、資料中に「下夕張森林鉄道の下夕張1号橋、同4号橋で戦時中陸軍で使ったという三角形のトラス部材をピンで組み合わせる九九式を用いて、支間20mのものを作った。同年、同じ型式の支間28mのものを、夕張岳森林鉄道の下夕張川橋に架設した。」という表現がある。


下夕張川三號橋梁(下夕張森林鉄道)
 1943年5月29日に落橋事故を起こした下夕張川三號橋梁。死者1名、負傷者16名という痛ましい事故で、吊ボールトのナットの緩みが原因として考えられたという。  1950年に鉄橋化された下夕張川三號橋梁
 1961年発行の5万分の一地形図「紅葉山」における下夕張川三號橋梁の位置。現在の場所はシューパロ湖の湖水面下となる。現在、地理院地図における河川名の表記は「パンケモユーパロ川」。  1954年にの「札幌林雄」では、上図が「下夕張川三號橋梁圖」として紹介されているが、上表に示された鉄橋のデータ及び写真と一致しないため、写真と上表の数字、もしくは当図のどちらかが間違っていることになる。管理人の予想では、上図は下夕張川第二號橋梁の旧橋を示した図面と考える。


金尾別橋梁(夕張岳森林鉄道)
 1949年8月23日に落橋事故を起こした金尾別橋梁。負傷者7名の大事故であったが河床からの高さが16mあったことを考慮すると、死者が出なかったことが奇跡的と言える。中央部の支間20mの木造トラスが落ちたことによるものだった。  1950年に鉄橋化された金尾別橋梁
 1962年発行の5万分の一地形図「石狩鹿島」における金尾別橋梁の位置。現在の場所は下夕張川三號橋梁に同じく、シューパロ湖の湖水面下となる。  鉄橋化された金尾別橋梁の構造。中央に26mのトラスが2つ、その両側に10mの鈑桁で、この場合上表では、「トラス 26~2 鈑桁 10~2」のように表現されることとなる。

 【2024年5月30日追記】
 左写真は、堀淳一著「北海道産業遺跡の旅」で紹介されている夕張岳森林鉄道の金尾別橋梁跡の姿。1991年10月の撮影されたもの。現在はシューパロ湖に没している。写真では、下部トラスの上に、枕木と思えるものも残っている。
 同書で堀氏は、上述の夕張岳隧道について、南大夕張側に2つの坑口があることを確認しており、また新旧地形図の比較ふ踏まえて、地形図表記についても考察を試みている。また、著者らが夕張岳隧道を通過して1号橋梁(三弦橋)に至る過程が記述されており、ぜひ興味のある方は、ご一読をオススメする。


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森林鉄道の構造物 1) 芦別森林鉄道    路線図

 芦別森林鉄道の本線については、札幌林友(1961)に、橋梁のまとめがあったため、表にした。
 下表の通りで、全33の橋梁が記載されているが、不実行と表記されたものが2つあり、これを差し引いた橋梁数は31となる、
 この数は、当ページの最初に掲載した路線詳細表における芦別森林鉄道本線の橋梁数31と一致するため、以下が芦別森林鉄道本線31.2kmに存在した全橋梁であると考えられる。

工区 旧名称 改称  摘要 いわれ等
第一工区 1 貯炭場陸橋 東芦別事業区第四林班 不実行
2 三坑橋梁 三坑橋 東芦別事業区第四林班
3 六線沢橋梁 緑泉橋 東芦別事業区第四林班 起点より5キロほど。六線沢を緑泉と書き換えて名称とした。
4 水無橋 頼城農地堤防敷、新規架設
5 十四線沢橋梁 豊沢橋 頼城農地堤防敷、新規架設
6 十五線沢橋梁 境橋 東芦別事業区第十二林班 起点より10kmほど。当時農耕地がこの付近まであり(その後炭鉱住宅地化)、農地と旧御料林との境であったため。
第二工区 7 十七林班 一号橋 乙女一号橋 東芦別事業区第十七林班 東芦別事業区の十九林班にあって、十九が乙女の年頃ということで名称とした。
8 十七林班 ニ号橋 乙女ニ号橋 東芦別事業区第十七林班
9 青木ノ沢橋梁 青木橋 東芦別事業区農地予定地 沢の名前が青木沢であったため。(機関車No.10における小熊米雄氏の「ベアトリス 北へ行く」の挿図によると、八月沢線分岐地点が青木沢)
10 西島ノ沢橋梁 霞橋 東芦別事業区第二十二林班 西嶋沢に架かっていたが、26mという高さで、足場から下がかすんで見えることから。
11 二十一林班一号橋 新妻一号橋 東芦別事業区第二十一林班 東芦別経営区の二十五林班にあり、二十五が新妻の年頃ということで名称とした。
12 新妻二号橋 東芦別事業区第二十一林班 暗渠築設個所ニ新規架設
第三工区 13 サキペンベツ橋梁 七夜橋 東芦別事業区第七十四林班 起点より16kmほど。作工大工が新婚七日夜に着工、冬季コンクリート工事の夜間作業が七夜、担当区員が小熊二頭を生け捕りにして、七日間見張りの倉庫においたこと。
14 七十七林班一号橋 喜ノ字一号橋 東芦別事業区第七十七林班
15 七十七林班二号橋 喜ノ字ニ号橋 東芦別事業区第七十七林班
16 七十七林班三号橋 喜ノ字三号橋 東芦別事業区第七十七林班
17 七十七林班四号橋 東芦別事業区第七十七林班 材料運搬ノ為仮橋設置ヲ為シタルノミニテ不実行
18 七十八林班一号橋 七葉一号橋 東芦別事業区第七十八林班
19 七十八林班二号橋 七葉ニ号橋 東芦別事業区第七十八林班
20 七十八林班三号橋 七葉三号橋 東芦別事業区第七十八林班
21 芦別川第一号橋梁 東西橋 東芦別事業区ヨリ西芦別事業区ニ跨ル奔流横断 東芦別経営区から西芦別経営区に渡る橋であったため。
22 百五ノ一号橋 西芦別事業区第百五林班、新規架設
23 百五ノニ号橋 西芦別事業区第百五林班、新規架設
第四工区 24 一林班橋 一ノ橋 奥芦別事業区第一林班 奥芦別経営区一林班にある小沢の橋梁だったため。
25 二ノ橋 奥芦別事業区第二林班、新規架設
26 芦別川第二号橋梁 奥ノ橋 奥芦別事業区第二林班 当時の監察官が見回りの際、奥に行ってくると称した当該地だたっため。
27 九十一林班橋梁 言問橋 奥芦別事業区第九十一林班 この橋から奥に行くには人の案内が必要だったため。もしくは九十一の宛て読み。
28 九重橋 奥芦別事業区第九十林班
29 八雲橋 八雲一号橋 奥芦別事業区第八十九林班 八十九林班の語呂で。
30 八雲ニ号橋 奥芦別事業区第八十九林班、新規架設
第五工区 31 花見橋 花見一号橋 奥芦別事業区第八十七林班 付近に美しい花が咲いていた。
32 八十七林班二号橋 花見ニ号橋 奥芦別事業区第八十七林班
33 惣芦別川橋梁 二股橋 奥芦別事業区第八十六林班 本流と惣芦別川の合流点で、二股になっていたため。


緑泉橋

 「緑泉橋」は六線沢を跨ぐ橋とあり、現在まで通じる地名である。当該箇所で、芦別川の対岸を通っていた三井芦別鉄道には、「緑泉駅」があった。1961年発行の5万分の1地形図「上芦別」では、緑泉橋は赤丸の位置に示された橋梁で、左の引用図の南西端に表記されているのが、緑泉駅である。(最近まで、駅舎が残っていた)
 緑泉橋の地理院地図における現在の場所はこちらとなる。
 残されている写真からは、下方トラスの構造が見て取れる
 緑泉橋のあった地点には、橋脚と橋台が残っている。

 


境橋

 「境橋」の旧名称は「十五線沢橋梁」となっているが、現在、該当する河川名を地図で見つけることはできない。「起点より10kmほど」との記載があることから、パンケリヤウシ川を越える橋梁であったと推定される。1961年発行の5万分の1地形図「上芦別」では、左図に示された橋梁であり、地理院地図における現在の場所はこちらとなる。
 木橋時代は28mの下方トラスを中心に持つ構造であったが、1953年の鉄橋化にともない、中央のトラスが44m、全長58mの橋梁となった。
 なお、付近には、十五線沢見張所という施設があったとのこと。1970年の札幌林友に、見張所の建設中の写真が掲載されている。
 境橋のあった地点には、橋脚と橋台が残っている。
木橋時代の境橋 境橋を通過する運材列車。 1953年に鉄橋化された境橋。右側に木橋時代の橋脚が残っているのが見える。


青木橋

 「青木橋」は「青木の沢」に架かる橋、となっており、機関車No.10における小熊米雄氏の「ベアトリス 北へ行く」の挿図によると、八月沢線分岐地点に「青木沢」の名称がある。しかし、管理人の実地調査の結果、地形図にあるペンケリヤウシ川が「青木沢」であり、1961年発行の5万分の1地形図「上芦別」で上左図に示された場所に当該橋梁があったことがわかった。
 地理院地図における現在の場所はこちらとなる。
 境橋と同様に28mの木造トラス橋であったものが、1953年に鉄橋化され、トラス長は44m、全長64mの橋梁となった。
 青木橋のあった地点には、橋脚と橋台が残っている。

2022年5月1日訂正: 現地調査の結果を踏まえて、青木橋と霞橋の場所の情報を修正しました。


霞橋

 「霞橋」は、「西嶋沢」という川に架かっていたとされるが、当時の地形図内では当該名称の河川を見つけられないが、現在の地形図では、ニシジマノサワ川の名称があり、場所が特定できる。1961年発行の5万分の1地形図「上芦別」で左図に示された橋梁が該当する。地理院地図における現在の場所はこちらとなる。
 写真を見ると、長い橋脚と下方トラスが印象的な橋梁であったと思われる。また、霞橋については、1961年の札幌林友において、建設中(1932年)の貴重な写真が紹介されている。
 霞橋のあった地点には、橋脚と橋台が残っている。
 
霞橋。写真でみると複数連の下方トラス構造を持っていた。 建設中の霞橋(1932年)



七夜橋

 「七夜橋」は、場所が容易に特定できる。地理院地図における現在の場所はこちらとなる。地理院地図を見て分かる通り、現在当該箇所を通る国道452号線がサキペンベツ川を渡る橋梁が「七夜橋」の名称を引き継いでいる。1961年発行の5万分の1地形図「上芦別」では左図にその場所が示されている。
 七夜橋のすぐ南にには、七夜事業所があり、事業所付近、起点から16,212mの測点から、サキペンベツ川に沿って東に向かう咲別線が分岐していた。
 七夜橋は、架橋当時から鉄製トラスが用いられた点が特徴であり、写真で見るように橋脚間の距離長が大きかったため、そのような措置となったと考えられる。
 七夜橋のあった地点には、現在も橋台と橋脚が残っている。
七夜橋。七夜橋は、架橋当初から鉄材によるトラスを使用していた。おそらく支間長の問題によるものであったと推測される。。 七夜橋から上芦別方面を望む。芦別川の急峻な河崖の様子が伺える。
1955年の札幌林友で紹介されている七夜事業所の風景。多数の側線のある様子が分かる。 咲別線陸橋。七夜事業所で分岐する咲別線は、のように、一旦西に分岐したあと、本線を跨いで、東に向かっていた。写真の咲別線陸橋で本線を跨いでいた。 1956年の札幌林友に掲載されていた芦別営林署管内図。路線詳細において、芦別森林鉄道には3つの停車場があったとされているが、それらは、上図から「上芦別駅」「七夜事業所」「花見事業所」の3つであったと推測される。



東西橋

 「東西橋」も場所の特定は容易であり、東芦別事業区と西芦別事業区を結んでいたということから、芦別森林鉄道本線が最初に芦別川本流を渡河する地点であり、1961年発行の5万分の1地形図「上芦別」では左図に示されている。地理院地図における現在の場所はこちらとなる。
 東西橋を西芦別事業区側に移った付近から、幌子線が分岐していた。
 
東西橋 1970年の札幌林友には、芦別森林鉄道敷設当時の東西橋への鉄橋架設風景が紹介されている。上流で組み立て、枕木サンドルで水平に運んで架桁したとのこと。後方に先に建設された橋脚が見える。

【2024年6月8日追加】

 左写真は、1953年に編算された図書「北海道山林史」において「森林鉄道運材(上芦別営林署)」として紹介されているもの。橋の構造と付近の風景から、「東西橋」の姿であると推察する。


奥の橋

 「奥の橋」も「東西橋」と同様に、芦別川本流を渡河する橋梁で、1962年発行の5万分の1地形図「幾春別岳」では、左図に示されている。地理院地図における現在の場所はこちらとなる。「芦別川第二横断橋梁」の名も伝わっている。
 現在も、当該地では、橋台が残っており、国道452号線の近傍にあるため、容易に見ることが出来る。
 この橋の上流に、花見事業所があったとされるが、その場所は明確ではない。1956年の札幌林友には、花見事業所の写真が掲載されている。


二股橋
 「二股橋」は、芦別川と惣芦別川の合流点で、惣芦別川を越していた橋である、1957年に芦別ダムが竣工してできたダム湖によって、水没した。1962年発行の5万分の1地形図「幾春別岳」では、すでに水没後となるが、上図の位置に二股橋があった。地理院地図における現在の場所はこちらとなる。 木造トラス時代の二股橋。データによると、支間10mと28mのトラスに依っていた。 二股橋梁は1952年に鉄橋化され、42mの鉄製トラスを中央にもつ全長62mの橋梁となった。しかし、鉄橋化の5年後に芦別ダムが完成し、芦別ダム以奥の芦別森林鉄道は廃止となった。写真は、ダム湖に沈む前の二股橋梁の姿を記録したものと思われる。


本谷一號橋
 「本谷一號橋」は、1942年に芦別森林鉄道が「本谷線」という名称で、芦別森林鉄道の終点から最深部に向けて延長された際に敷設された。データによると2連の20m木造トラスを持っていた。
 上の写真は木橋時代のもので、手間に急カーブがあり、線形の厳しさを示している。反対側に管理小屋と思われる建物も見える。
 橋梁のあった場所は特定できていない。管理人の予想では地理院地図上のこちらあたりではないかと考えている。
1953年に、全長69mの鉄橋へ架け替えらえた本谷一號橋。橋脚をそのまま活用したように見える。雪の中に、旧橋の部材のようなものも見える。 芦別森林鉄道の最深部にあった奥芦別伐木事務所。1956年の札幌林友にて上の写真が紹介されている。冬期間、森林鉄道が運行できなかった時期には、上芦別から職員がスキーでこの事務所まで来たが、健脚の者でなければ、途中の七夜事業所で1泊したという。


八月沢橋
 「八月沢橋」は、八月沢支線が芦別川本流を越していた橋。1961年発行の5万分の1地形図「上芦別」では、上図の位置にあった。地理院地図における現在の場所はこちらとなる。
 八月沢線は、上記、芦別森林鉄道の地図中「森」の字のあるあたりで分岐し、一旦芦別川を上流側に遡り、赤丸の地点で芦別川を越え他の後、八月沢沿いに戻り、同川を遡っていた。そのため八月沢橋付近の線路の線形は、橋の両側で下流方向を向くという「U字構造」を持っていた。
 八月沢橋のあった地点には、現在も巨大な橋脚が残っている。
 線路線形のU字構造が特徴的な八月沢橋。コンクリート橋脚の上に木造トラスが組まれていた。 八月沢橋を渡る運材列車。


その他

 札幌林友には、他にも芦別森林鉄道の風景がいくつか示されている。右の写真は上芦別駅の下土場。解像度が低いながらも、施設と配線の様子が分かる。
 下の写真は12.2km地点で、上芦別方面を望んだもの。25パーミルの勾配地点と記載されている。おそらく霞橋の北側辺りの風景だろう。線路に沿って電柱が続く様子が分かる。距離票も写っているが、起点からの距離と異なる数字に見えるが・・・。
 右下の写真は、芦別森林鉄道の撤去式の様子を撮影したもので、1961年7月1日のものだと思われる。


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森林鉄道の構造物 2) 幾春別森林鉄道    路線図

1號橋
1951年発行の5万分の1地形図「岩見澤」における1號橋。幾春別駅を起点として、0.4kmの地点で幾春別川を越えていた。地理院地図における現在の場所はこちらとなる。 1935年、建設中の1號橋。現在も送水管を支える橋梁として、土木建築物としては現役であり、その様子はこちらで紹介している。 1941年、水害から再建された1號橋の様子。


神泉隧道

 左図は、1951年発行の5万分の1地形図「岩見澤」における神泉隧道の位置。ただし当該地形図で隧道の記号表記はない。地理院地図における現在の場所はこちらとなる。
 隧道は起点から1,487m25の位置にあり、全長41m50。1935年8月に起工し、1937年10月に竣工している。
 隧道内は6パーミルの勾配で、半径60mの曲線構造を持っている。側壁高は2m10、半径7m80。左右幅は上部で3m、下部で2m40となっている。
 この隧道を含む幾春別森林鉄道跡の一部は、現在、三笠市立博物館の野外展示施設の通路となっており、附近の貴重な地層や、鉱物資源に係る産業遺産を見学できるとともに、森林鉄道の往時の姿を偲ばせる良施設となっている。博物館施設の一部となって保存されている神泉隧道は、こちらで紹介している。
 右写真は巻立工事中の神泉隧道で、現在の博物館施設でも、坑口部は巻立、内部は素掘りという往時の姿そのままに活用されている。
神泉隧道。上流部から幾春別方向を望んで撮影されたもので、隧道の右手は、幾春別川の流れる谷である。 建設中の神泉隧道の様子。 1970年の札幌林友では「幾春別神泉隧道定規図」として、上図が掲載されている。


2號橋
1951年発行の5万分の1地形図「岩見澤」における2號橋。起点から約1.8kmの地点に当たる。地理院地図における現在の場所はこちらとなる。 こちらは、2號橋橋梁のための鉄桁を運搬中、土砂崩れで立往生している列車の記録写真。1.6km付近とされている。 2號橋


3號橋

 左図は、1951年発行の5万分の1地形図「岩見澤」における3號橋。起点から4.2kmの位置で、地理院地図における現在の場所はこちらとなる。
 現在も送水管を支える橋梁として、土木建築物としては現役であり、その様子はこちらで紹介している。
 右写真は往時の3號橋であり、橋を渡る前後で幾春別川に沿っているため、橋の周囲で、線路の線形はS字のカーブを描いている。その厳しい線形のためか、1951年8月29日に空貨車30輌を牽引していた列車が、通過中に4輌目と5輌目の間で連結の切断が発生し、後部車輌が脱線し、橋梁から落下し、便乗者から死者6名、重軽傷者14名を出してしまうという大事故が発生している。水面からの高さが12mもあったということも、事故の規模を大きくした。
建設中の3號橋の様子 3號橋を渡る運材列車  上の写真で「3號橋」は、右奥にわずかに見えている。3號橋を渡り終えた蒸気機関車が、勾配を登って、向かってきている。
 線路の上に見える橋梁は、桂沢ダム(1957年竣工)の建設に伴う、幾春別森林鉄道の代替道路のために建設中の桂橋である。2022年現在、桂橋もまた、老朽化により、車両の通過が出来なくなっており、事実上の廃橋となっている。


参考までに、管理人が2021年11月6日に撮影した桂橋(道路橋)。老朽化が進み、車両の通行が禁止されている。地理院地図での場所はこちら


その他
 上写真は札幌林友中で、「4號橋」として紹介されている。”4km付近”との説明もあるが、起点から4kmだと、3號橋(4.2km)より手前にあることになってしまう。おそらく、3號橋より先の幾春別川縁に沿う辺りではないかと推測される。構造は橋梁というより、桟橋に近いものに見える。
 2022年3月15日【訂正】 北海道の森林鉄道の貴重な写真を公開している(北海道森林管理局のサイトを確認したところ、当該構造物は「4號橋」ではなく、「湯の澤縦断橋」として紹介されており、おそらくそれが正しいと考えられる。地理院地図における現在の場所はこちらとなる。ただし、当該サイトで示されている構造物のあるキロ地点は、札幌林友内の記載と異なっており、当ページでは基本的に札幌林友の記載に従うことにした。
 1954年に撮影された写真で、後方に建設中の桂沢ダムの堤体が見える。6.6km地点とのこと。桂沢ダムの竣工は1957年で、これを機に、幾春別森林鉄道は、ダム補償の代替道路への置換により、廃止されることとなる。撮影の場所も、ダムの完成とともに、水底に沈んだ。  盤の沢待避所の風景。盤の沢待避所は7.2km地点と記載されている。路線詳細において、菊面沢線の分岐点が「7,700m」となっていることから、菊面沢線の分岐点より500m程度下流、盤の沢が幾春別川に合流する付近にあったと思われる。地理院地図で想定される現在の場所は桂沢湖の湖水面下となる。
 
 左図は1950年発行の20万分の1地図「夕張嶽」を引用したもの。3號橋以奥の幾春別森林鉄道の線形は、5万分の1地形図に記載されたことがないため、この小さな縮尺でおおよその線形を知ることしか出来ない。盤の沢待避所は、おそらく赤丸の地点付近にあったと推測する。
 右写真は6號橋のためのコンクリート桁を運搬する様子を撮影したもの。撮影場所を「14.3km地点」としていることから、1937~38年にかけての本線の延長工事に伴う搬送ではないかと思われる。

【2024年8月23日追記】 三笠市史に掲載されている1939年当時の幾春別周辺の様子。カーソルオンで鉄道関連施設等をハイライトする。
 3つの炭鉱の選炭機とそれに付属する専用線・引込線とともに、幾春別森林鉄道の線形が記載されており、当時の幾春別駅周辺の賑わいを感じさせる。幾春別川の旧河道が記載されている点でも貴重な記録。


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森林鉄道の構造物 3) 主夕張・下夕張森林鉄道    路線図

下夕張川横断橋梁

 左図は1962年発行の5万分の1地形図「石狩鹿島」に示された下夕張川横断橋梁。地理院地図における現在の場所はこちらとなる。
 ちなみに越している川は、夕張川となる。
  右写真は、1951年に木桁部を鉄橋化された下夕張川横断橋梁の様子。横に木橋時代の橋脚を残している。川底から線路までの高さは33m、中央コンクリート橋脚の高さが27m。

 左写真は下夕張川横断橋梁の鉄橋構造に利用された「九九式」の様子を記録したもの。「九九式」は、戦時中に陸軍が使用したもので、三角形のトラス部材をピンで組み合わせている。
 右図は「下夕張川横断橋梁木桁部架替竣工図」で、27.5m×2,20m,14mの鉄製トラスにより、全長90mの鉄橋を構成している。


1号橋梁(三弦橋)
 1962年発行の5万分の1地形図「石狩鹿島」に示された1号橋梁。連続四角錐構造でできた三角形の中を線路が通るという構造と、巨大な優美さが、周囲の風景の美しさとあいまって、廃線後も「三弦橋」の名で観光名勝としても親しまれた。
 三弦橋は、大夕張ダム(1962年竣工)の建設にあたり、補償のため、ダム湖を跨ぐ橋梁として建設された。しかし、2015年、新たにシューパロダムが竣工するにあたり、ダム湖に没することとなった。ダムによって生まれ、ダムに沈んだ橋梁である。
 地理院地図における現在の場所はこちらとなる。現在も渇水期にまれにその上端部が姿を見せる。管理人は最近では2015年の試験湛水の際にその姿を見ており、その模様はこちらで紹介している。
ダム湖貯水前の1号橋梁(三弦橋)の姿。三弦ワーレン構造式橋。径間382mで、鋼材約450tが用いられた。
建設中の1号橋梁(三弦橋) 【2024年6月8日追加】

 1963年に編算された図書「鉄骨橋梁年鑑 第1巻」において紹介されている1号橋梁(三弦橋)の写真。手前が南大夕張側となる。橋梁の左側に旧橋の橋脚跡が見える。


下夕張川第四號橋梁

 左図は1961年発行5万分の1地形図「紅葉山」に示された下夕張川第四號橋梁。地理院地図における現在の場所はこちらとなり、やはり巨大なシューパロ湖に没することとなった。
 右図は札幌林友で紹介されている冬の下夕張川第四號橋梁風景。99式ワーレントラス橋。


その他
 夕張岳森林鉄道の金尾別橋梁。
 当金尾別橋梁と下夕張森林鉄道の下夕張川三號橋梁については、上記「1948年から54年にかけて、木橋から鉄橋への架け替えが行われた札幌営林局内の森林鉄道の橋梁一覧」において紹介したため、当「森林鉄道の構造物 3) 主夕張・下夕張森林鉄道」欄では、重複を避ける形とした。上写真のみ別掲とした。
夕張森林鉄道におけるディーゼル機関車による運材の様子。撮影場所は不明。 簡易積込機による積込作業の様子。
主夕張製品事業所 大夕張営林署宿泊所
大夕張営林署庁舎 南部製品事務所 1955年の札幌林友で紹介されている大夕張営林署管内位置図。3つの事業区それぞれに森林鉄道があり、そのうち、下夕張森林鉄道、夕張嶽森林鉄道の起点が、夕張市南部にあった大夕張鉄道の南大夕張駅となる。主夕張森林鉄道の起点は、大夕張鉄道大夕張駅。


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森林鉄道の構造物 4) 恵庭森林鉄道    路線図


6号橋
 1952年発行の5万分の1地形図「石切山」に示された6号橋。地理院地図における現在の場所はこちらとなる。起点である恵庭駅からは13.1kmの地点となる。  恵庭森林鉄道本線(恵庭駅~盤尻ウシの沢土場14.4km)は、王子製紙が漁川発電所(現在地)建設のため1929年に敷設した作業軌道を、1931年に森林鉄道に転用したもの。上写真は、王子より軌道購入当時の6号橋の様子。  6号橋は、1938年にゲルバー式ラーメン構造による、橋脚、橋桁が一体となった橋梁に架替が行われた。上の写真では、奥に水力発電所のための第一築堤の姿をかろうじて認めることが出来る。
 恵庭森林鉄道の6号橋。右の写真では、王子製紙が敷設した旧木橋の様子も伺える。
 6号橋は、2022年現在もその姿を維持しており、その様子はこちらで紹介している。
 札幌林友で「13.6km地点から14km地点までの仮線」として、上写真が紹介されている。1937年に17.7km地点までの延長が竣工しており、そのための工事の様子と思われるが、この急勾配の仮線が、どのように運用されたのかは明らかではない。


漁川橋梁

 左図は、1952年発行の5万分の1地形図「石切山」に示された漁川橋梁。ただし、地図表記では軌道の橋としてではなく、道路橋になっている。起点である恵庭駅からは14.4kmの地点となる。地理院地図における現在の場所はこちらであり、1980年に竣工した漁川ダムのダム湖であるえにわ湖に没している。
 右写真は、恵庭森林鉄道を、14.4km長から17.7kmに延長する工事の際の1937年に撮影されたもので、旧終点(14.4km)付近の工事の様子。
建設工事中の漁川橋梁 漁川橋梁 漁川橋梁と同時期に行われた16km付近の護岸の様子。玉石積による護岸壁が形成されている。


ラルマナイ橋梁

 ラルマナイ橋梁の位置は不明だが、ラルマナイ川に沿ったラルマナイ線(1940年竣工)が、同川を渡河していたものと考えられる。管理人が推測する場所は地理院地図ではこちらとなる。
 左写真はラルマナイ橋梁であり、6号橋と同様にゲルバー式ラーメン構造のように見える。
 右写真はラルマナイ車庫で、こちらはどこに存在していたのかまったく不明だが、おそらく17.7kmの本線終点地点周辺ではないだろうか。


インクライン
 恵庭森林鉄道には、北海道内の森林鉄道で唯一、インクラインがあった。恵庭森林鉄道は、28.122km地点で終点となっていたが、この終点からさらに1,800mを延長し、4年間林材を搬出する計画であったが、漁川は終点付近で数段の滝があり、高低差65mの台地に一気に移るため、懸垂式軌道であるインクラインが採用された。
 恵庭森林鉄道のインクラインは、高低差65m、水平距離140mの場所に、平均斜度24度42分で建設された。軌線には10kgのレールが使用された。
 インクラインでの脱線事故の様子を撮影したもの。恵庭森林鉄道のインクラインの軌線は、三条式のものが使用されていたことが分かる。  インクライン機械場の様子。巻上ウインチが設置してある。恵庭森林鉄道のインクラインは、下げ荷のほか、冬山準備作業用の食糧、馬等の上げ荷にも供されたので、それらを念頭にディーゼルエンジンによる動力が使用された。
 札幌林友で紹介された恵庭森林鉄道のインクラインの見取図。斜度はほぼ一様となるように設計されていたらしい。  上の写真は、1956年のインクライン廃止に伴う、付近道路の改良工事の模様。深い切通しが掘られている。インクラインの正確な場所は不明だが、地理院地図でこのあたりではなかったかと推測する。


その他

 左写真は1955年の札幌林友で紹介されているモイチャン伐採事業所。横を通る線路は、路線詳細には記載されていない茂一安線と考えられる。
 右図は、モイチャン伐採事業所の場所を示すための挿図であるが、茂一安線を表す森林鉄道線が記載されており、興味深い。

 左写真は1937年の本線延長工事の際に実施された路床のための川切替工事の様子。16.3km地点。場所によっては流路を変えることにより、鉄道用地を確保した。
 右写真は13.6km地点で行われていた砂利採取の現場の様子。


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森林鉄道の構造物 5) 定山渓森林鉄道


銚子口橋梁

 左図は1967年発行の5万分の1地形図「定山渓」で銚子口橋梁の場所を示したもの。地理院地図における現在の場所はこちらとなる。
 銚子口橋梁は起点から0.2kmの場所で岩場を渡っていた。ここで言う起点とは、定山渓鉄道の定山渓駅ではなく、左地図内にオレンジ色のラインで示したあたりであり、このラインより北側が、定山渓鉄道の施設扱いだったと考えられる。
 右写真は銚子口橋梁を行く機関車の様子だが、橋梁と言うより桟橋様の構造だったと思われる。 


第2号橋梁

 左図は1967年発行の5万分の1地形図「定山渓」で第2号橋梁の場所を示したもの。地理院地図における現在の場所はこちらとなる。
 右写真は送圧水管を跨いでいた第2号橋梁の様子。起点からは0.4kmの地点であった。


隧道

 定山渓森林鉄道には隧道があった。名称は明らかではないが、長さ10m程度の手彫り隧道だった。
 左図は1967年発行の5万分の1地形図「定山渓」で当該隧道の場所を示したもの。左の地形図に隧道の記号はないが、現在の地理院地図では当該地に隧道の表記がある。地理院地図では、付近の定山渓森林鉄道の跡が、歩行者道として記載されているが、これは豊平峡観光の遊歩道に供されていた時代があったためである。しかし、残念ながら、最近では、熊の危険を理由に管理されていない模様である。
 右写真は、堀淳一氏の「続・北海道 鉄道跡を紀行する」で紹介されている1993年10月現在の当該隧道跡の様子であり、背後に豊平峡ダムの堤体が聳えている。


豊平川第一橋梁

 左図は1967年発行の5万分の1地形図「定山渓」で示されている豊平川第一橋梁。起点から8.3kmの地点となる。地理院地図における現在の場所はこちらであり、豊平峡ダムのダム湖に没している。
 豊平川第一橋梁には「鳥居橋梁」の名称もあったようだが、その由来は不明。かつては木造トラス二連を含む延長63mであったが、1954年に鉄橋化された。鉄橋は、14m、20m×2、9.35mの4つの鈑桁による構造だった。
 右写真は、鉄橋化後のものであるが、となりに木橋時代の橋脚が残っている。


豊平川第ニ橋梁

 左図は1967年発行の5万分の1地形図「定山渓」で豊平川第二橋梁の場所を示したもの。起点から11.4kmの地点であり、豊平川は二股となっており、右股側の本線と、左股側の左股線(空沼入線)に分岐していた。地理院地図における現在の場所はこちらである。
 豊平川第二橋梁には「二股橋梁」の名称もあった。豊平川第一橋梁と同様に、元は木造トラスを用いていたが、1954年に鉄橋化され、35mと30mの二連のトラスからなる全長65mの橋梁となった。
 右写真は、木橋時代のもので、支間30mという長大な木造トラスが目立つ。



1970年の「札幌林友」では、廃止された定山渓森林鉄道をしのぶ企画の中で、鉄道から沿線の見え方に関する興味深い記述があるので、下記に引用させていただく。


 この森林鉄道に乗り、下土場を出るとすぐ(0.6km付近)銚子口橋梁にかかるこの橋は、岩場を渡るために架設された陸橋で、総長48mの方状橋で、右手眼下には縦目の美しい斜長石河床の豊平河が小滝を作って流れており、チョット土手の川辺に発電所が見える。
 続いて余水路と立体交叉の第一号橋梁。送圧水管と立体交叉のための第二号橋梁を渡り、国道230号線との平面交叉(踏切)を通ると、旧御料農地にかかる。この中を2.6km付近まで進むと農地は終点となり、豊平峡入口の石碑が右手に見られる。豊平峡はここから約3km続き、この間の奇勝絶壁は筆舌ではいい表すことができない豪快なものであると、いまでもいわれている。
 森林鉄道はここから国有林に入り、この豊平峡と北電の発電用送水路にはさまれた形になって進むのである。天然の美を損わないように、高水圧のかかっている送水路を大切にしながら、5.2km付近まで進んでやっと沈砂地に至るのである。この間、送水路と立体交叉または接近すること十数度、橋梁にしたり、路床や送水路を補強したり素掘の隧道(測点4.8km付近、延長10mくらい、岩質豊平峡集塊岩)を掘?しながら施工したと聴いている。(豊平峡ダムはこの付近に築造されつつある)
 この以奥1941年施工の終点までは、芦別や幾春別の森林鉄道とそう変わった点はなかったようである。工作物の大きなものとしては、8.3km付近に豊平川第一横断橋梁(木造トラス二連を含む延長63m)があった。



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札幌営林局内の森林鉄道で運用された蒸気機関車一覧

森林鉄道 製造所 重量(t) 車軸配置 製造 機関車番号 1943年番号 1949年番号 製造番号 両数
* 芦別 日立製作所 8 B 1932年6月 5 30 B18 467 1 1943年、主夕張森林鉄道へ移管、1954年廃車
* 楠木製作所 8 B 1933年8月 6 34 B22 1 1943年、定山渓森林鉄道へ移管
* 中山鉄工所 6 B 1937年11月 11 35 B23 1 1943年、幾春別森林鉄道へ移管、その後、下夕張森林鉄道へ移管
* 鉄道省釧路工場 12 B1 1940年12月 30,31 B30,B31 (2),(3) 2 1956年2月、1957年2月 廃車
Koppel 10 C 1923年1月 - 60 C27 10490 1 ボールドウィン製B1レア―タンクの図面から製造。旧No.10 1940年小川森林鉄道から移管、1944年幾春別森林鉄道へ移管
* Bagnall 8 B 1896年 17 B17 1500 1 1941年3月 鉄道省釧路工場にて再製、1946年7月 B-2テンダ機関車に改造、1953年廃止
立山重工業K.K. 10 C 1946年 28 61 C28 1 1921年北海道庁に入ったボールドウィン製機関車のスケッチによるもの。1958年5月廃車
* 立山重工業K.K. 10 C 1946年 29 62 C29 1 1921年北海道庁に入ったボールドウィン製機関車のスケッチによるもの。1957年1月廃車
雨宮製作所 7 B 1 1942年、上芦別炭砿K.K.より提供、1951年頃返還
* 主夕張 日立製作所 8 B 1936年9月 18 31 B19 764 1 下夕張森林鉄道へ移管
* 幾春別 日本車両製造K.K. 8 B 1935年12月 10 33 B21 1 1943年、主夕張森林鉄道へ移管、その後、定山渓森林鉄道へ移管
東亜車両K.K. 7 B 1943年5月 - 6 B16 1 1955年廃車
* 定山渓 中山機械K.K. 6 B 1940年7月 13,14 1,2 B11,B12 2 B12は1943年、芦別森林鉄道へ移管
* 下夕張 中山機械K.K. 8 B 1938年7月 15 36 B24 1 1943年幾春別森林鉄道へ移管 1954年廃車
* 東亜車両K.K. 7 B 1942年12月 - 3 B13 1 定山渓森林鉄道へ移管
* 東亜車両K.K. 7 B 1943年4月,5月 - 4,5 B14,B15 2 主夕張森林鉄道へ移管、B14は1952年7月、B15は1954年4月廃車
* 鉄道省釧路工機部 8 B 1943年5月 - 37 B25 (14) 1 1955年廃車
* 運輸通信省釧路工機部 8 B 1945年4月 - 38 B26 (17) 1 1955年廃車
* 日本車両製造 8 B 1934年9月 7 32 B20 1  

*印は、旧帝室林野局札幌支局所管蒸気機関車



  蒸気機関車は、たびたび番号が変更になっているので、本ページでは、一つにまとめて表記する体裁によった。蒸気機関車の移管は、農商務省山林局、宮内省帝室林野局、内務省北海道庁によって管理されていた国有林を、農林水産省が一元管理することとなる1947年を目安に、各森林鉄道で整備可能な車両を絞り、その車両を当該森林鉄道で運用するという方針によるものと考えられる。いずれにしても、たびたび機番が変更されたことは、後日の整理を難しくさせている。
 なお、芦別森林鉄道で活躍したBagnall1896年製の蒸気機関車には、Beatrice(ベアトリス)の名が与えられ、芦別に来る前は、佐世保鉄道等で活躍していた。この機の歴史については、小熊米雄氏が1953年刊「機関車No.10」にて、「ベアトリス 北へ行く」というタイトルでまとめておられるので、機会があれば、是非ご覧いただきたい。



札幌営林局管内の森林鉄道で活躍した機関車たちの姿


B17蒸気機関車 (1953年刊 機関車No.10より) B18蒸気機関車
B19蒸気機関車 B23蒸気機関車 B26蒸気機関車
5tディーゼル機関車
C27蒸気機関車 5tディーゼル機関車(酒井製作所)


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【2024年12月18日追記】定山渓森林鉄道・左股線(空沼入線)の隧道はどこにあったのか?



 上で紹介させていただいた定山渓森林鉄道については、現在の豊平峡ダムのすぐ下流側にあった隧道の他に、「札幌営林局の森林鉄道路線詳細 5 定山渓森林鉄道」に示したの通り、支線であった「左股線(空沼入線)」にも、1カ所隧道があったと記録されている。
 一方で、定山渓森林鉄道の線形に関する資料は、地形図がほぼ唯一のものであり、加えてそれらの地形図では、いずれの年代でも、二股橋梁の手前までの本流沿いの区間の線形しか記載されていない。二股橋梁を越えて、漁入沢に沿っていた左股線(空沼入線)は、記載区間と同じ年である1941年に竣工しているが、地形図に記載されことはない。その理由として、当該区間の廃止が早かった等が考えられるが、森林鉄道の支線については、そもそも記載されないケースが多いから、特に理由もないまま記載対象とされなかったのかもしれない。ちなみに、定山渓森林鉄道の場合、1954年に豊平川本流沿いに延伸された路線についても、当該年代の地形図において記載されていない。
 そこで、ここでは、左股線にあったとされる隧道の場所がどこであったかについて、言及してみたい。まず、定山渓森林鉄道の位置情報の確認をしてみよう。


 上は1949年発行の20万分の1地勢図「札幌」の定山渓周辺部分である。1941年に竣工した定山渓森林鉄道の線形もちゃんと記載されている。ただし、上述の通り、本流沿いの「途中まで」しか記載されていない。カーソルオンで定山渓森林鉄道をはじめとする関連施設等をハイライトする。左股線と、1954年に本流沿いに延伸される区間については、距離長等から管理人が推測したおおよその線形となる。
 函館線苗穂駅を起点とする定山渓鉄道(1918-1969)の終点である定山渓駅が、定山渓森林鉄道の起点となっている。厳密には、定山渓駅の南600mの地点にあった営林署土場までは、定山渓鉄道と同じ規格である軌間1,067mmの線路が延長されていたため、定山渓森林鉄道(軌間762mm)の線路は、この営林署土場を起点とし、距離長なども表記されることとなる。
 ところで、定山渓森林鉄道が運用されていた時代はおおらかな時代で、その路盤や橋梁は、登山者の通路としても利活用されていた。すなわち、地図内に示す札幌岳、狭薄山、空沼岳、漁岳等の山々への登山ルートとして、当時定山渓森林鉄道の路盤を通行し、冷水沢、ガマの沢、空沼入沢、漁入沢などの沢道を辿るということが登山愛好家の間では、一般に行われていた。その経路は地形図にも徒歩道として表記されていた。そのため、上図では、それらの山岳と、登山ルートとして使用された主な沢についてもハイライトしている。というのは、この「登山道として利用されていた」という事柄が、今回の検討に有益な情報をもたらしてくれることになるからだ。
 また、上の地図には、定山渓鉄道錦橋駅を起点とする、全長2.1kmの日本鉱業豊羽鉱山精錬所の専用線(1939-1963)も記載されていたので、こちらも参考までにハイライトしておいた。当該専用線の終点は水松沢(おんこのさわ)と呼ばれる場所で、豊羽鉱山から水松沢まで索道で送られた鉱石は、そこで鉄道に積み替えられていた。

 いきなり余談で恐縮だが、左写真は「豊羽鉱山30年史」(1981)で紹介されている水松沢(おんこのさわ)貯鉱舎の様子。1940年頃に撮影されたもの。豊羽鉱山専用線の終点であり、豊羽鉱山が産出する鉱石の索道から鉄道への積み替えが行われていた。積み替えられた鉱石は、精製のため、定山渓鉄道を経由し、石山選鉱場へ輸送された。
 定山渓森林鉄道は「豊平峡」と呼ばれる狭隘な谷を通過していた。現在では、その大部分がダムの底に沈んでしまったが、豊平峡の渓谷美はつとに有名であった。上の3点はその様子を示すもの。一番左の写真は1939年に北海道廳經濟部商業課が刊行した「最近の北海道」という書籍に掲載された写真であるが、左手に遊歩道らしきものが見える。記録上では1936年に定山渓森林鉄道の建設が着手されているが、この写真からは工事の様子は見えない(もちろん、そのような目的で撮影された写真ではない)。
 上写真は、1954年に刊行された「支笏洞爺国立公園 (国立公園シリーズ 第16)」で紹介されている豊平峡の写真。
 写真を見る限り、歩行者用の吊り橋と思われる。景勝地ならではの景観だ。
 撮影場所に関する言及はないが、歴代の地形図では、唯一炭酸水鉱泉の近くに橋の記載があり、この場所を撮影したものではないかと推測する。
 右は1968年発行の5万分の1地形図「定山渓」にて、当該橋梁を思われるものを赤でマークしてある。


 さて、それではまずは各年の5万分の1地形図において、左股線(空沼入線)の周辺がどのように描かれているか、確認してみよう。
 最初は1956年発行の地形図である。この地形図が発行された時点で、1941年に竣工した左股線(空沼入線)は、すでに廃止されている可能性もあるが、1954年に豊平川の本流に沿って延伸されている本線ともども記載されていない。地形図では左の通り、「二股小屋」の手前までしかその線形は描かれておらず、その上流にある豊平川第二橋梁(二股橋梁;地図中「二股小屋」の文字のすぐ右下の橋)については、当時森林鉄道(左股線もしくは本線沿いの延伸部分)に供されていたにも関わらず、「徒歩道」として供用されているという表記となっている。
 この徒歩道は、二股から先の漁入沢の左岸に続いており、おそらく左股線(空沼入線)の線形を踏襲していると思われるが、「隧道」の表記は見当たらない。上流部には「漁入小屋」があり、「二股小屋」とともに、登山者に利用されていたとされる。

 次いで同じ個所の1968年発行の地形図である。定山渓森林鉄道の廃止年に発行された地形図であるが、描かれている線形は1956年のものとほぼ同じである。小さな変更点として、やや終点が下流側に移っているように見える。この変更が、森林鉄道運用上の何かの実態を反映したものなのか、単純に地形図の精度が上がって、修正されたものなのかは判別がつかない。
 久保ヒデキ氏の「定山渓鉄道」によると、定山渓森林鉄道には、「冷水」「炭酸水」「本流苗圃」「二股」の計4カ所に木材積込みの為の停車場があったとされており、この終点が「二股」であったと思われる。「冷水」は冷水沢との合流点付近(想定場所)、「炭酸水」は炭酸水鉱泉に向かう上述の豊平峡に架かっていた吊橋のあったあたり(想定場所)ではないかと思われる。
 なお、「二股小屋」「漁入小屋」については、いずれも地形図上から表記がなくなっている。


 最後に廃止後の1972年の地形図である。図中左を通る国道230号線は、1969年に新道として開通したもので、2024年現在と同じ線形となる。この新道が開通したことにより、中山峠は冬季も通行が可能な自動車道となった。
 当然のことながら森林鉄道の記載はなくなっているが、二股橋梁から漁入沢の左岸に沿う道路は自動車道の表記となっている。いずれにしても、当該区間に隧道の表記はないようだ。



 地形図のほか、札幌営林局の統計資料なども目を通したが、いずにしても、左股線(空沼入線)に関する情報は、距離長、竣工年以上のものは得られなかった。
 そこで、少し角度を変えて資料を収集してみることとした。前述の通り、定山渓森林鉄道の路盤と、それに続くいくつかの沢道は、札幌岳、狭薄山、空沼岳、漁岳といった山への登山ルートとして利用されてきた経緯がある。そのことを踏まえて、郷土史や各種登山記録・登山案内に、関連する記述がないか探してみたのである。


 まず、郷土史関係の書籍で関連する書籍からの引用を紹介したい。

 1) 豊平川 (さっぽろ文庫 ; 4) 1978年
「定山渓と渓谷」
 温泉街の少し上流の川中に二つの岩山があり、二見岩といっている。(中略)この付近から上流は峡谷を流れるので川幅も狭く紆余曲折しているが、水は清く両岸の景色もよいので銚子の口までの散策は素晴らしい。しかし訪れる人のないのは頗る残念である。銚子の口は発電所の取水口で、溢れた水が岩石の狭いところを流れ落ちる様が銚子の口に似ているので名付けられた名勝。古くからPRされた名所だが、最近立入禁止されて景観に接することが出来ない。
 この銚子の口から豊平川の水源地麓まで営林署の森林鉄道が走っていた。鉄道といってもトロッコのような小さな台車で、小型気動車による木材搬出用の軌道。昭和43年(1968年)豊平峡ダム建設着工と同時に廃止され、その軌道跡はダムまでハイキングコースとして開放されている。コースは約2キロ、豊平峡に入ってから1キロ近くは、聳え立つ巌山が両方から狭く迫り、それが歩むにつれて千遍変化し、足下は断崖絶壁数十メートル、深い渓谷に細く白い流れが見えかくれする。深山幽谷の気が迫り、心身が俗界を離れ洗われるような気分になれる。尽きぬ眺めを満喫する中に何時の間にはダムの底部についてしまう。時間の経過も知らぬようなこのコースは是非一度訪れることをお奨めしたい。
「定山湖から夕日の澤へ」
 中山峠越えの旧道はくねくね曲っていてドライバー泣かせだった上に、あまり見晴らしはよくなかった。今度の道はその点では各段にいい。札幌岳の見えるこのあたりなどは中山峠そのもののよりよほどいいところだが、車を停める人はほとんどない。気ぜわしい連中が多いと見える。
 林道を下ると当然、山の展望はなくなるが本命の川の、谷の音が聞こえてくる。谷筋に沿って昔の森林鉄道の古い橋脚や崩れかかったトンネル、もう草に埋もれて定かではなくなった路床が所々に残されている。こうした跡は、豊平本流のもっとずっと下のほうにも残っていて、豊平峡沿いではハイキングコースの一部として使われてもいる。そこには古いレールが、谷側の柵として使われていたりもしているのであった。

 2) 札幌風物誌 (さっぽろ文庫 ; 3) 1978年
 豊平川の源流は、漁岳に発するといわれているが、そこまで遡ったことはない。私の知っているのは豊平峡の奥、炭酸泉のあたりまでで、ここには炭酸水が湧き出ているので、炭酸水とか、炭酸泉とか呼ばれ、遠足などでよく行った。大てい定山渓から徒歩でゆき、途中薄別方面と道が分れ、冷水沢から森林軌道のレール沿いに歩いたものである。時々伐木を載せたトロッコに出会った。鬱蒼たる樹林の間を行くにつれ、深い峡谷が、段々身近な山川の流れになってくるが、親しい感じがした。上流には、吊橋などもかかっていた。

 3) 北海道観光便覧 昭和47年版 1972年
 定山渓温泉から国道を2kmあまり行くと、道が二股になっているので、左側の道をとり森林軌道に沿って3km行ったあたりから豊平峡。柱状の奇岩絶壁が続き涼味満点。渓谷のつきた付近から対岸にわたり、しばらく行くと炭酸泉が湧いている。飲料に適するので子供達がよろこぶ。


 豊平峡ダムが出来る前の、今はダム湖に水没してしまった炭酸鉱泉水の話など興味深い(管理人の両親も、この天然炭酸水は飲んだことがあったそうだ)。しかし、本稿でもっとも重要なのは、「豊平川 (さっぽろ文庫 ; 4)」における「谷筋に沿って昔の森林鉄道の古い橋脚や崩れかかったトンネル、もう草に埋もれて定かではなくなった路床が所々に残されている。」という箇所で、後に続く「こうした跡は、豊平本流のもっとずっと下のほうにも残っていて、」という表現と併せて考えると、これは左股線(空沼入線)跡の描写にちがいないと思われる。当時(70年代)「崩れかかった」状態でトンネルは残っていたようだ。


    

 ちょっと文字情報ばかりになってしまっているので、気分転換を兼ねて、一枚写真をご紹介しよう。
 左は1965年の「新日本大観 20」に掲載されている中山峠を通る峠道の写真である。現在の地理院地図でも、この旧道の線形は記載されている。当時は難路で、1969年の現道開通まで、中山峠は冬季閉鎖であった。
 また、上記「豊平川 (さっぽろ文庫 ; 4)」の「定山湖から夕日の澤へ」で、「林道を下ると」と表現されている林道は、地理院地図のこの道(豊平川林道)となる。


 ついで、登山関連の書籍からの引用を紹介したい。

 1) 北海道の自然美を訪ねて (アルパイン・ガイド)  俵浩三 著 1963年
 豊平峡は定山渓より数キロ豊平川をさかのぼったところにあり、渓谷美をもって知られている。定山渓から中山峠方面への国道約2キロで豊平峡入口があり、ここまでは定山渓までのバスが乗り入れる便もある<問い合わせ定山渓鉄道KK>。入口から国道とわかれ森林軌道沿いとなる。左手に札幌岳登山口をみすごすあたりから渓谷美がはじまり、2~3キロのあいだ両側のせばまった急流がつづく。入口から約4キロに吊橋があり最高の見どころとなる。その先に炭酸水鉱泉がある。

 2) 北海道の山 1962年7月号
 【札幌岳(冷水沢コース)】
 定山渓を出発点とするこのコースは、道もよく、もつとも利用者が多い。
 定山渓駅前から中山峠にいたる広い道を進み、約2km、この道から左に分岐する森林軌道ぞいの道に入り、さらに2kmで指導票のある登山道に着く。駅からここまで40~50分くらい。登山口からまつすぐ軌道沿いの道は豊平峡へのハイキングコースである。登山道はこの道から左へ分かれて、(以下略)
 【ガマ沢から札幌岳・狭薄岳】
 札幌岳登山口を通り越して、なおまつすぐ軌道を進む。渓谷美に富む豊平峡を過ぎ、なおも豊平川右岸を進むと軌道はやがて鉄橋となつて左岸に渡る。渡つた所に飯場が二、三ある。それからいくらも行かないうちに、今度は巾広い木橋が本流にかかつているのを見出す。ガマ沢に続く道への橋である。この道は巾広く立派で、3km以上もガマ沢ぞいについている。道の終点から沢に入る。(これまでの下流部分では、木材を流しており、危険であるから入つてはならない。)(以下略)
 【空沼入沢から空沼岳・狭薄岳】
 豊平川本流にそつて軌道をなおも進むと、かつて二股小屋のあつた場所(現在跡かたもない)を過ぎて、大きな鉄橋で本流を渡る。軌道はまだ本流奥へ続いているが、渡つた所から正面にある道へ入る。小さいトンネルを過ぎ、やがて漁入沢と空沼入沢の二股につく。漁入小屋も今はないが、その位置に飯場ができている。(ここまでの間に一泊するべきと思う)
 かつてはこの二股から沢に入つたが、今はりつぱな道がはるか上まで伸びており、沢登りとしての興味はなくなつた。

 3) 北海道の山々 (マウンテンガイドブックシリーズ ; 第39) 1960年 「漁岳」
 定山渓駅で下車、約1時間で札幌岳登山口につき、さらに豊平川右岸の軌道に沿って歩を進めると、いわゆる豊平峡の渓谷美が深まってくる。50分ほどで豊平峡の炭酸水鉱泉に通ずる橋がある、ここからさらに軌道をたどると鉄橋があって対岸に渡り、札幌岳からガマ沢が落ち込んでいる。さらに3km(50分)ほどで再び鉄橋があり、ここで軌道と別れて空沼入沢左岸の林道に入る。地図に二股小屋と記されたところである。この林道にも、かつて軌道があったらしく、枕木がところどころに残っている。30分ほどでトンネルを通過、2,3カ所崩落地点をやりすごすと、コースは急に河原に消えてゆく。河原に降りると空沼入沢の左岸に漁入沢が注いでいる。
 豊平駅(4km 1時間)札幌岳登山口(3km 50分)炭酸水に至る木橋(2km 30分)一の鉄橋;ガマ沢出合(3km 50分)第二の鉄橋;空沼入沢左岸林道入口(2km 30分)トンネル(1km 15分)空沼入沢と漁入沢出合;キャンプ・サイト(4km 2.5-3時間)第一の滝(1.5-2時間)第二の滝;二股の左股(1.5-2時間)二股;右が本流(1時間)沢の源頭;標高1,100m付近からブッシュこぎ(2-3時間)頂上


 「北海道の自然美を訪ねて (アルパイン・ガイド)」の記載により、先に紹介した吊橋の位置は、推測通りの場所で確定したと言えるが、それはそれとして、ここに来て、いよいよ核心に近づいてきた!
 もっとも重要なのは最後に挙げた文献で、そこで紹介されている登山ルートは二股まで定山渓森林鉄道の軌道を歩き、そこから漁入沢に沿って「軌道跡」を歩くというものである。そして、その内容から、1960年の時点で、左股線(空沼入線)はすでに廃止されて久しい状況だったことが分かる。加えて、距離とコースタイムが記載されているが、そこに「第二の鉄橋;空沼入沢左岸林道入口(2km 30分)トンネル(1km 15分)空沼入沢と漁入沢出合」(正しくは「第二の鉄橋;漁入沢左岸林道入口(2km 30分)トンネル(1km 15分)空沼入沢と漁入沢出合」)とあって、この3kmの部分が、まさに左股線(空沼入線)のほぼ全長3kmに合致する区間で、その区間をおよそ2:1に区切る地点にトンネルがあったことも併せて情報を得ることが出来た。これは大きな前進だ。
 ・・・なお、1956年の地形図で記載のあった「二股小屋」と「漁入小屋」については、1960年の時点ですでになくなっていたようだ。どのような山小屋だったのだろうか。



 さて、以上の経緯を踏まえて、おおよその隧道の場所は予測できたが、これを踏まえてご覧いただきたいのが、2万5千分の1地形図「札幌岳」である。
 もちろん、一次資料として、もっと早くから2万5千分の1地形図を確認しても良かったのであるが、管理人は当該軌道の線形が2万5千分の1地形図にも記載されていないことを既知であったため、確認の順番として、この段取りとなった。とはいえ、これからご覧いただく地図に含まれた「情報」の意味を知るためにも、管理人の情報収集過程を順番に読んでいただいた上で、接していただくのが良いと思う(そのため、本稿でも、そういう順番で記述した)。
 下図は定山渓森林鉄道廃止後の1972年に発行されたものとなる。


 上図カーソルオンで、前述の登山案内から、登山ルートとして使用されていた左股線(空沼入線)の廃線跡と推定される車道表示部分をハイライトする。そして、注目してほしい個所も明示する。


 上はその「注目個所」を拡大したものである。見まごうことなく隧道が表記されている。これこそ、ほぼ間違いなく、左股線(空沼入線)に「隧道 1か所」と記録されたその隧道に他ならない。ちなみに、1958年の2万5千分の1地形図でも、同様の表記となっている。
 管理人の所感として、上記の検討・情報収集過程を経ずにこの地形図を見たとしても、この隧道が森林鉄道由来のものであるということを、ある程度の確からしさをもって言うことは出来なかったと思う。


 以上を踏まえて、左股線(空沼入線)の線形と、隧道の位置について、現在の地形図上にトレースしたものが上図だ。ただ、当時の地形図と現在の地形図の精度(特に等高線)が異なること、また漁入沢の線形も異なっていることから、多少のズレはあると思う。(地理院地図のサイト上で当該隧道の場所を示すとこちらとなる)
 漁入沢については、現在の地理院地図を確認いただけるとわかるのだが、豊平峡ダムのダム湖である定山湖への土砂の流入を防ぐため、砂防ダムが設置されており、その工事や砂防ダムによる土砂の堆積の関係で、周辺の地形は相当程度、変わってしまっていることが伺える。

    

 なお、1972年の2万5千分の1地形図における漁入沢左岸の車道表記の距離長は、約2.8kmであり、これは、資料上の左股線(空沼入線)の距離長3,205と比べてやや短い。
 これは、想像でしかないが、おそらくかつての5万分の1地形図で、軌道の終点として記載されていた地点(おそらく二股停車場)を、左股線(空沼入線)の起点としていたことによる誤差であろうと思う。1968年の地形図に基づく左図のA-B間は約0.7kmである。前述の通り1956年発行の地形図では、終点がより上流域にあって、そこが旧)二股停車場であるなら、左股線(空沼入線)の距離長3,205mというのは、想定した線形の距離長との間で、かなり近い数字となる。(ただし、1956年の地形図では、旧)二股停車場の場所となるべき「記載された軌道の終点」の場所が不鮮明である)


 本稿のしめくくりとして、航空写真を確認してみたい。当該地では、記録されている航空写真が少ないのだが、幸いにして、1941年の左股線(空沼入線)竣工後である1947年に米軍によって記録されたものが閲覧可能となっている。
 まず、上は、左股線(空沼入線)の起点付近で、写真上の見切れたところにあったてあろう二股停車場から延びてきた軌道が、豊平川第二橋梁(二股橋梁)を越して、漁入沢左岸を上流に向かっている様子がわかる。なお、二股小屋の確認は出来ない。


 上は前述の隧道付近となる。当該航空写真では、森林鉄道の線形を追いにくい個所がいくつかあるのだが、そのうちの一ヶ所であった当該地点が、隧道であったことになる。


 上は左股線(空沼入線)の終点となる漁入沢に空沼入沢が合流する付近の様子である。漁入沢に架せられた徒歩道用と思われる橋の姿も見える。この橋は、前掲の2万5千分の1地形図「札幌岳」(1972年)にも記載されている。また、おそらく、このあたりが土場であったであろうという場所も書き加えてみた。なお、漁入小屋については、確認できなかった。
 以上、札幌営林局の森林鉄道のうち、記録がありながら所在地が不明であった左股線(空沼入線)の隧道について、周囲の線形と併せてまとめてみた。遺構の有無は確認していないが、当該地へのアプローチには距離があること、前述の通り、砂防ダム等の工事で、周辺が大きく改変されていることなどから、遺構が残っている可能性は低く、「労多くして」となりそうなので、現時点では訪問までは考えていない。とはいえ、登山道として利活用され、その後も「崩れかかった」と表現される体で一定期間、姿を残していたであろう隧道の在り様は、様々に想像をかき立てられるものである。





 漁入沢に関しては、いくつか興味深いウェブサイト上の情報があったので、この場で参考にお知らせします。

ヤマレコ 豊平川・漁入沢から漁岳へ登り漁川を下る
 2012年7月の記録です。左股線(空沼入線)の線形に沿う漁入沢林道からアプローチして入渓し、漁岳へ登頂する過程の写真が数多く公開されています。

山と街道 空沼入沢から漁入沢
 なんと1966年当時のカラー写真による記録です。空沼岳登山の下山路として空沼入沢を利用しており、その過程で森林鉄道の鉄橋の上で撮影された貴重な写真があります。

堀川林業ブログ「木づかい 森づくり」
 2015年の記録です。1993~1994年に漁入沢に建設された低ダム群(約10基)を見学した際に撮影された写真で、現地の様子がわかります。



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