幻の鉄道・軌道線形の復元~地形図に記載されなかった鉄路

   
序章 第1章 第2章 (作成予定) (作成予定)




第1章 常呂にあった軌道群

 
 第1章は「常呂にあった軌道群」と題して、この地にあった複数の鉄道たちについて、その歴史と線形を可能な限り解き明かしてみたい。(なお、本章は資料調査に基づく検討のみで、現地調査等は行っていない。もちろん、私なりに現地の現在の様子は様々に気になっているので、訪問する機会があったら、追記する形としたい)

 
 まず、常呂の周辺図をご覧いただきたい。
 常呂は、現在では“カーリングの盛んな町”として全国にその名を知られているが、2006年に周辺自治体である端野町、留辺蘂町と併せて「北見市」に吸収合併された。合併によって、広大な面積をもつこととなった「北見市」に含まれることとなり、現在では、「常呂」は、北見市の一部のエリアを指す地名となっている。
 
 常呂町は、北見市に含まれた自治体のうち、唯一海に面した自治体であり、オホーツク海、それに汽水湖であるサロマ湖を漁場とした漁業を中心とした町だ。その風景は、とにかく美しいの一語で、当サイトの「廃駅を訪ねて」で紹介した、常呂で見たサロマ湖の夕景は、私がこれまでの人生で見た最も美しい世界の一つだったといっても良い。

 この周辺図には、常呂をはじめとして、今回のレポートで言及することになるであろう地名をいくつか書き足してある。


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1946年発行 5万分の1地形図「常呂」
 
 ところで「幻の鉄道・軌道線形の復元~地形図に記載されなかった鉄路」という題目で、「常呂」という場所が取り上げられることについて、みなさんには思い当たる「対象の軌道」があるだろうか。また、あるとすると、どのようなものだろうか?
 ・・常呂を通っていた鉄道としては、言わずと知れた国鉄「湧網線」がある。
 また、当サイト内「古き5万分の1地形図 失われた鉄路」では、湧網線が「湧網東線」の名で、網走-常呂間まで開通していた当時に、常呂駅から、まるで湧網東線を延長したかのように「奥村鉄山専用軌道(1940-1945)」の軌道が伸びていた(実際に、建設中の湧網東線延長部分の路盤を途中まで使用していた)ことは紹介している。
 しかし、湧網線はもちろん、「奥村鉄山専用軌道」についても、前述の通り、地形図にその線形は描かれている。ただし、この軌道は、全区間が地形図に掲載されていたわけではない。
 正確に言うと、この軌道の線形が記載されているのは、5万分の1地形図「常呂」の範囲のみであり、鉄山のあった常呂川の上流部(5万分の1地形図の範囲で言うと「サロマ湖」及び「端野」に含まれる部分)については記載されていない。
 そこで、「奥村鉄山専用軌道」を、本章の対象の一つとしたい。といっても、あくまで「対象の一つ」だ。


 それと別に、常呂には、大きな謎がある。
 こちらは、当サイト「北海道の殖民軌道と森林鉄道」において、かつて北海道に存在した森林鉄道を、まとめて北海道地図に記載したものうち、常呂周辺を示した地図である。

 ここに謎がある。

 この「常呂」を起点とした短い線(図内で19の番号が振ってある)は何ですかね。
 当該ページの一覧表では、私は「常呂森林軌道;北見営林局(北海道庁)(1945-1949) 1.5km」として、原典とした資料の記載をそのままなぞってシラッと書いてはいる。書いてはいるのだが、たったの全長1.5kmの森林鉄道なんて聞いたことがない。


 私が、「北海道の殖民軌道と森林鉄道」で参考としたのは、河野哲也氏が「鉄道ピクトリアル No.733」(2003)にまとめたものである。もちろん、さらにその原典となる一次資料というべき存在がある。
 私が一次資料と考えるのは、北見営林局の事業統計書である。1950年の事業統計書には、1949年の実績がまとめらているが、林道の実績に目を凝らせば、こちらのページの表に 「北見営林署 常呂経営区 林鉄(2級) 1か所 1541m」 が確かに書いてあるのである。

 たったの1.5kmの森林鉄道とはどういうことだ。

 (注:「1級」と「2級」は、軌条の重さ、回転半径の大きさ等による森林鉄道の規格分けのことであり、2級の方が軽易なものとなる。2級の場合「森林鉄道」ではなく「森林軌道」と呼ぶこととなる。ただし、この用語の使い分けがどこまで厳密に徹底されていたかわからず、様々な記述で、混同気味に表記されていると思われる。とはいえ、一般名詞における「森林鉄道」には、厳密な意味での「森林鉄道」も「森林軌道」も、それに付随した「作業用軌道」も含まれていると言えるだろう。そのため、ここでも、厳密な定義化は行わずに記載したい。)


北見営林局の事業統計(1950年)の挿図「北見營林局管内圖」
網走から能取湖の周りをぐるっと回って、オホーツク海岸まで伸びている鉄道線が当時の「湧網東線」で、その終点が「常呂」になる。

 上図は、常呂森林軌道の路線長が記載されている1950年の「北見営林局事業統計」において、当時の北見営林局の管内図として挿入されているものである。赤色で森林鉄道が記載されているが、常呂には、まったく何も記載されていない。まあ、いずれにしても、たったの1.5kmの長さでは、この縮尺では、無理して表記したところで、不自然な感じになることは否めないけれど。

 ちなみに、前述の「古き5万分の1地形図 失われた鉄路」において、当時の私は、奥村鉄山専用軌道の廃止年と、常呂森林鉄道の供用開始年とが、資料上では同じ1945年となっていることから、「常呂森林軌道が1945年から1949年まで運用されているが、資料では全長距離が短く、起点も常呂港となっているため、この軌道跡を利用したものであるか定かでない。」・・と、同じ軌道が転用された可能性も保留した考察を記述している。
 湧網東線が常呂からさらに延伸されるのは、1952年のことであり、1949年に廃止となっている常呂森林軌道の運用時期との重複がなく、かつ常呂川流域は、林材の収集が積極的に行われているので、いまさらながら、“あり得る仮説”だとは思うが、いかんせん、「1.5km」というあまりにも短い全長を示した資料が、この仮説には大きく立ちはだかるのである。
 「この資料の距離長の表記、間違っているんじゃないのか?」とは、私ではなくても、思うところではないだろうか。
 さて、私にとってそれなりに長いこと寝かせてしまった、この「常呂森林鉄道(軌道)」の謎を解き明かし、その線形を明らかにすることが、本章の二つ目の目的だ。


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1963年発行 5万分の1地形図「旭川」

 古き5万分の1地形図 失われた鉄路で取り上げたものの再掲。
 かつて発行された地形図で、唯一「客土軌道」の線形が記載されたものとなる。

 さらにある。もう一つ重要なものを挙げる。
 それは「客土用の軌道」である。

 北海道では、1940年代から、全道的に大規模な土地改良が行われている。北海道特有の泥炭地や火山灰地は、保水性、pHなど、様々な面で、本来耕作には不向きであり、現在のように北海道が大規模な食糧供給基地となるためには、全道を舞台とした土地改良という壮大な国家的プロジェクトが必要であった(そして、これは実施主体を変えながら現在も続いている)。
 
 土地改良は、「灌漑」「排水」「客土」「圃場整備」からなる。ちなみに「圃場(ほじょう)」とは、水田や畑地のことを指す。
 このうち、客土は、北海道特有の泥炭地・火山灰地を、畑作・稲作に適した土地に改良するため、別の場所から土を持ってきて、広大な対象範囲に一定以上の厚みをもって撒いていくという、たいへんな時間と労力費やす作業となる。

 この作業方法のうちの一つに、大量運搬に適した「軌道」を用いたものがあり、この軌道を用いた客土のことを「軌道客土」と呼ぶ。(そして、その作業に従事した軌道を「客土軌道」と呼ぶ)。

 実は、当サイトでも、「古き5万分の1地形図 失われた鉄路」において、東神楽の客土軌道が地形図に記載されているのを紹介している。この東神楽の客土軌道は、軌間1,067mmという立派なもので(他の客土軌道は、私が確認できたものは、すべて狭軌)、1962年9月11日の北海タイムスの一面でも「全国一の客土事業」として紹介されている。

 しかし、「古き5万分の1地形図 失われた鉄路」の説明欄でも紹介させていただいたように、客土用の軌道が活躍したのはこの地だけではない。1963年6月号の「鉄道ファン」誌で、星良助氏は、東神楽、東川周辺の客土軌道について触れるとともに、その時点で「道庁が軌道を用いて客土を行っているところが当時全道で19カ所」もあったということに触れている。それだけ多くの場所で、レールが敷かれ、機関車がひたすら土を運んでいたのだと考えると、これは驚くべき数字だ。

 実は、これらの客土軌道の線形については、ほとんどきちんとしたものは残っていない。しかし、いずれにしても、「軌道客土」については、その背景等も含めて、あらためて、各地の資料を集めたうえで、その線形について(可能な範囲で)ご紹介したいと考えている。
 現在、資料収集等の調査をしているところだが、おそらく全道で40を超える自治体で、軌道を用いた客土が行われたことまではわかっている(全部の線形を明らかにするのは無理)。 ちなみに引用写真は1974年に刊行された「SL No.10」という雑誌で、安保彰夫氏がレポートした道南の知内町で実施されていた軌道客土の一コマで、森越という場所にあった土取り場の風景だ。これを見ただけで、一つ一つの客土が、いかに大変な作業であったかがわかる。いずれ、あらためて、報告できるようになったところから報告したい。調べ始めると、とにかく面白い。


1962年9月11日北海タイムス夕刊1面

SL No.10(1974)より 知内町の軌道客土事業における土取り場の風景

 というわけで、その「客土軌道シリーズ」の布石という意味合いも含めて、今回は、常呂町でも、軌道をもちいた客土が行われていたことを知っていただいた上で、軌道の線形をあきらかにすることを、本章の三つ目の目的とすることとしたい。

 さて、話を少し戻して、先に紹介した、私が北海道の森林鉄道をまとめた図から切り取ったものをもう一度ご覧いただきたい。
 留辺蘂から2つの森林鉄道が伸びているのがわかる。そのうち図内付番15番は最大総延長72.9kmをほこり、旭北峠を越える雄大なスケールを持っていた温根湯森林鉄道(1921-1960)である。
 その反対側に、これまた常呂にも似た小さな存在に「17」と付番してある。これは、何か。
 これについては、「北海道の殖民軌道と森林鉄道」の一覧表において、私は原典資料に従い、「小沢花二郎→岸尾木材店(留辺蘂)個人→ 岸尾木材店(1915-1924) 4.0km」と書いている。民間敷設の森林鉄道に違いないのであるが、こちらも、今回の検討の過程で、たまたま紐解いた資料から、情報の一端を知ることとなったので、これも本章のオマケとして言及したい。


         
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奥村鉄山の作業風景(1942年ごろ)

 以上、本章の対象となる鉄道・軌道の紹介だけで、ちょっと長くなってしまったが、まずは奥村鉄山専用軌道である。
 左の写真は、常呂町のアーカイブにあった記録写真を縮小したもので、1942年ごろの奥村鉄山の様子である。
 常呂町は、町史に関するアーカイブを、非常に大切にしており、以下は、それらの情報を継ぎはぎしながら記述してみたい。


 この鉄山は、鉱主奥村弥一郎氏が日鉄から鉱区を譲り受け、調査及び採掘を1941年に開始した。
 採掘されたのは、「含マンガン赤鉄鉱」で、採掘されるものは30~50%が鉄分、15~20%がマンガン、11%が石灰とされている。ほとんど露天掘りの形状で、実際の鉱山労働には多くの朝鮮からの労働者が従事したとされている。

 軌道については、1942年に着工し、常呂駅-(のちの)北見共立駅の間は、延伸工事中の湧網東線の路盤(当該部分の路盤は1942年時点ですでに完成していた)を使用し、鉄山と(のちの)北見共立駅までの間は、路面からを新規に作り、その年の秋には完成した。(ということは、供用開始は、1940年ではなく、1942年か?)。
 輸送には蒸気機関車3台、ガソリンエンジン車1台が使用された。当直の日誌によれば、常呂~太茶苗(ふとちゃない)間の奥村常呂鉱山軌道開通式は、1943年10月9日に行われた事になっている。しかし、戦時下の鉄需要の高騰は、終戦とともに終結し、1945年に奥村鉱山は休止し、奥村氏も郷里の東京に戻ったという。
 一方で、近くでより小規模な針田鉱山を営んでいた針田喜市は、平行して小樽市で農産物の雑穀商を営んでいて、奥村鉱山休止後は、針田氏との間で売買の相談が行われる。
 そして、1950年に、針田氏によって、本社を常呂郡端野村忠志に置く「国力鉄山株式会社」が設立され、以後、針田鉱山(針田鉱業)、もしくは国力鉱山として、操業を再開するが、その際には軌道は使用しなかった。
 1952年12月6日に、湧網東線が下佐呂間駅(のちの浜佐呂間駅)まで開業すると、北見共立駅に土場を設け、鉄山から北見共立駅土場まではトラックで搬送した。なお、そのころまでに、奥村鉄山専用軌道の軌道はすべて撤収されたという(ということは、軌道は休止後もしばらくは敷設されたままだった)。
 針田氏の会社は1951年に本社を札幌に移転、1954年には常呂町日吉に支店を設置したうえで、鉱山経営を継続したが、1960年以降、安価な輸入鉄鉱石が入るようになり、1964年をもって閉山となった。

奥村鉄山専用軌道による運搬風景
 以上のことから、奥村鉄山専用軌道は、常呂~北見共立~太茶苗(鉄鉱山)間の約16kmで、稼働時期は1942年から1945年まで。
 閉山後も軌道はしばらく敷設状態のまま残されていたが、1952年の湧網東線延伸までの間には撤去されていたようだ。
 左の写真は当該軌道の様子を記録した貴重な一枚である。

 さて、この軌道について、別角度からの面白い情報がある。情報源は鉄道ファン誌1981年10月号で、臼井茂信氏によるシリーズ「軽便機関車誌」の記事だ。この号では、静岡鉄道駿遠線が取り上げられているのだが、その記事の中で、臼井茂信氏は、静岡鉄道で運用された機関車ごとに、その由来あるいは静岡鉄道から移ったその後について丹念に調べ上げて記述しているのだが、今回のことに関わってくるのは「藤相鉄道の機関車5号」に関する記述だ。以下、略しながらも引用させていただく。


 5号機は、1915年5月に中遠鉄道から譲り受けたその社の4号機である。
 (中略)中遠から藤相に移ったバグナルは、煙突・運転室の改造と警笛の位置変更など行なった記録があるが、本家の機関車とどの程度違いができたかはわからない。せっかく譲り受けた機関車も、約2年使用しただけで休車の身となり、1920年9月に岸尾義計なる人に売却してしまった。理由は動輪直径が小さく、速度が出ず、院線との連絡列車が遅延がちとなることと、当時藤相では、機関車が2両増備され、藤相線2両、相良線2両を常時使用し各線1両ずつの予備があるため、としている。
 しかし、これは建て前で、本音は大井川渡河も出来ない機関車は、所有していても意味がないことにあったようだ。

 バグナルを買受けた岸尾義計という人は、譲渡契約書控から、北海道北見国常呂郡武華村の住人であることが明確である。のちに小熊米雄さんの著書「日本における森林鉄道用蒸気機関車について」を拝見して気がついたのであるが、この書の132pに記載された、岸尾木材店運材軌道(留辺蘂駅付近から佐呂間道路に沿って約5km)ではないかと思った。所在地も代表者名も合致する。
 しかし、前掲書では、「1919年まで使用して取り外されたということである」と地元の人の証言を引用して述べておられる。最も重要なのは譲渡年で、藤相から岸尾に移ったのは、軌道撤去の翌年で話が合わなくなる。  

 いっぽう、監督局における譲渡認可の書類をみると、受け入れ先は常呂鉄道か? としてそれ以上詮索せず認可している。当然のことで、監督局側では譲り受けた側から使用認可申請を待てばよいわけで、当時は売却先など問題にしなかったからである。それでバグナルは監督局の推測どおり、常呂鉄道向けであったかも知れない。こうなると岸尾義計なる人が、この鉄道とどんな関係にあったのかが決め手となろう。  

 ところで、常呂鉄道というのは、組合組織で3名の代表により発起した鉄道である。正式には常呂鉄道組合と称し、区間は常呂村手師学-常呂市街地間13哩59鎖(約22km)、軌間は762mmで、動力は蒸気であった。1919年8月29日付免許を得たが、完成せず1921年9月8日失効(官報掲載)という悲運な鉄道である。また常呂といえば、1950年に瀬古龍雄さんが、東北地方建設局で発見されたカー・スチュワートのB1形機関車(青梅→栃尾)の前歴は、奥村鉱業所常呂専用軌道であったことが確認されている(鉄道ピクトリアル232号車両めぐり第10分冊39p)。意外なことに、この専用軌道は、常呂駅-太茶苗(ふとちゃない)間約16km、軌間762mmといわれており前記の常呂鉄道組合線の化身の感が深い。やや短縮はされているものの、ほぼ路線は同じであったらしい。残念ながら私には実態がよくわからないが、常呂川をさかのぼった地域の鉄鉱山や、軌道を洗い直す必要があろう。しかし郷土史家のご協力を仰がねばならないと思う。下手な洒落だが、藤相の機関車もずいぶん遠くまで逃走したものである。


 さて、重要なことを記載しよう。
・「常呂鉄道」という、ちょうど奥村鉄山専用軌道をさらに5km、手師学まで延長した線形の鉄道計画が1919年にあった
・奥村鉄山専用軌道で使用されていた蒸気機関車のうち一つはカー・スチュワートのB1形機関車
・岸尾木材店運材軌道は、留辺蘂駅付近から佐呂間道路に沿って約5kmの線形で、1919年に運用休止したとの証言がある(資料上の運用は1924年まで)
・岸尾木材店運材軌道では、岸尾義計が藤相鉄道から購入したバグナル製B型蒸気機関車が運用されていた可能性がある

 なお、太茶苗(ふとちゃない)(現在の場所)は鉄山があった場所の地名、手師学(てしまない)(現在の場所) は、のちに針田鉱業が支店を置いた場所で、現在の地形図上での地名表記はいずれも「日吉」である。

 これらの地名については、本章の最初でお示ししたマップ内でも記載してある。それにしても、ネット等による検索といった手法のない時代に、譲渡契約書控や官報等の書類をこまめに調べ上げることで、機関車の由来を明らかにする労力と根気には恐れ入る。ちなみに、岸尾義計については、当時の官報でいくつかその名を確認できる。こちらでは、岸尾義計なる人物は「運送業木材賣買業支配人」となっている。また、こちらでは、次に紹介する新・北見市史にもある通り、北見酒造株式會社の取締役も務めていたようで、当時の地域経済を代表する人物だったことがうかがい知れる。
 とはいえ、臼井茂信氏の素晴らしい研究と報告のおかげで、私も重要な情報を知ることが出来た。

 さて、引用文で取り上げられている岸尾木材店運材軌道について、当サイトでは、運用期間を(1915-1924)として紹介しているが、どうも、それ以前の1919年に休止していた可能性があるらしい。この岸尾木材店の軌道に関しては、新・北見市史を当たってみたところ、下記のような記載を見つけることが出来た。
 

 当時の木材輸送は川を流送するものがほとんどであったが、1915年、札幌市の小沢花次郎が造材事業に着手。丸山から留辺蘂まで馬鉄を敷き馬搬を開始。1918年にはこの馬鉄を利用して機関車2台による本格的な鉄道による木材輸送も行われていた。
 (中略)1914年ごろから鉄道の枕木生産が盛んになり、ナラ・タモ・カバなどの類が切り出され、1918~19年ごろまで大量造材が行われた。
 (中略)本格的な事業を行ったものとしては、1911年ポンムカ(現金華)に本拠を置き相当手広く造材を行った岩本太郎吉がいる。鷲尾政豪。石村清一郎らは岸本木材店の帳場で、山頭に上垣安蔵らが活躍した。
 (中略)1915年8月、札幌から木材業者小沢花次郎が丸山地区で造材事業に着手し、現在の丸山、池田の沢入口付近から馬鉄を敷き、三号沢を経由して留辺蘂まで、トロリー搬出を行っている。この馬鉄は1918~19年に至り、当時仲町無加川畔で酒造業を営んでいた岸尾義計の手により、機関車2台を購入して木材搬出が行われ、民間木材事業の繁栄時代ともいわれた。

 以上が関連する記述である。・・中略を挟んで引用した結果、同じことを重複して記載しているところのある文章のようになってしまった。失礼・・

 運用をとりやめた年数については、新・北見市史においても明記されていないため、その点を解明することはできなかったが、これらの文献調査から、留辺蘂から北に延びていた岸尾木材店運材軌道は、1915年に留辺蘂駅付近の貯木場~丸山地区池田の沢入口間に敷設され、その経路は留辺蘂から佐呂間道路に沿って東無加川沿いをさかのぼり、三号沢という所を経たものであったことが分かった。
 岸尾義計により機関車が導入されたことは確からしいが、残るなぞは、臼井茂信氏も指摘している通り、岸尾義計が、書類上、藤相鉄道から蒸気機関車を購入した1920年9月の時点で、小熊米雄氏の報告においては、肝心の当該軌道がすでに運用を休止していた、という地元証言が紹介されている点である。
 このあたりの真偽は、いまとなっては確かめることは難しいが、書類の年数という客観的事実、それに岸尾木材店運材軌道の運用期間が、私が参考としている河野哲也氏の資料では1924年まで、となっていることから、ロマンも含めて、かつて藤相鉄道で運用されていたバグナル製蒸気機関車が、1920年から24年まで、留辺蘂の北の森の中を走った、という説を採用したい。
 
  さて、ここまでのまとめとして、本章の目的に沿って、奥村鉄山専用軌道、岸尾木材店運材軌道、そして常呂鉄道の計画線について、その線形を描いてみたい。


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1952年 航空写真

 奥村鉄山専用軌道について、常呂側は、1946年発行の地形図「常呂」に記載されている(先述のとおり)ので、今回は鉄山のあった山側について、1952年の航空写真を参考として、線形復元をこころみた。
 なお、軌道は終戦時の1945年で廃止となっているが、1952年近くまで、軌条が敷かれていたらしいので、そのことも踏まえたうえで、航空写真を見てみると、1946年発行の地形図「常呂」の軌道線形から延長されるような線形があり、これが軌道跡であると考えられる。
 左の航空写真にカーソルオンすると、軌道跡をハイライトする。

現在の場所

 また、撮影時、針田喜市による国力鉱山として事業活動が行われていた事務所については、写真の河跡湖の地形のすぐ北に、斜面を採掘地としている様子が伺える。
(こちらも、一応、カーソルオンで、当該施設の場所を示す)。

1946年発行 5万分の1地形図 サロマ湖  ほか合図

 さて、それでは、これらを1917年測量の地形図上に記載してみる。
 この1917年測量の地形図は、戦時中まで用いられていたものなので、軌道の運用時期に用いられていたものと言えるだろう。
 まず、こちらは鉄山付近。カーソルオンで、奥村鉄山専用軌道を赤線で表記する。
 加えて、1919年に鉄道計画のため免許申請がされた常呂鉄道が、さらにこれを延長する線形で計画されていたと仮定して、予想される線形をピンクで表記してみた。

1946年発行 5万分の1地形図 端野

 こちらはついでに、計画線に終わった常呂鉄道が、計画上の終着である手師学(てしまない)まで完成していたら。。。という妄想を地形図に落とし込んでみたもの。
 ちなみに終着となる手師学は、この地形図を見ると何もないところのように見えるが、のちに日吉集落の名で、鉱山業の拠点集落として繁栄し、付近を流れる隈川周辺の集材を目的とした北見営林署の事務所も設置され、小学校、郵便局、診療所、給油所、農協、役場支所などが一通りそろった集落に成長することとなる。
 鉱石運搬、林材搬送の需要も考えれば、「常呂鉄道建設」という計画の目の付け所は、なかなか鋭かったと言えるのではないだろうか。


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 さて、うってかわって、今度は留辺蘂の岸尾木材店運材軌道であるが、こちらは、時代が古すぎて、航空写真などが存在せず、そのため、想像で補正して描くよりない。
 まず、起点となる場所は、留辺蘂駅の北側であることは間違いない。間違いないのだが、留辺蘂駅の北側には、無加川が流れており、これを越していたのかどうかがわからない。
 左写真は、留辺蘂まで鉄道が開業した(1912年狭軌、1916年改軌)ことを記念した当時の絵葉書である。町の北にある紅葉山(374m)(現在の場所)の斜面から撮影された留辺蘂の町である。すでに河原に木材があり、流送による集材が行われていた感がある。岸尾木材店運材軌道は1915年に運用を開始したとあり、無加川を渡るには、写真にある現在の中央橋(現在の場所)に軌道を敷いていたのではないかと思うのだが、どうも、そこまで強度のある橋ではなさそうである。


 ちなみ、左写真は、上写真と同じ時期、開業当時の留辺蘂駅である。

 こちらは撮影年不明ながら、紅葉山(現在の場所)からの写真である。
 すでに留辺蘂以西に院線が延伸されているだけでなく、引用部分左上で、駅の南から、まっすぐに遠方に伸びていく温根湯森林鉄道(1921-1960)の線形も見えるから、1921年以降の写真となる。
 撮影時に岸尾木材店運材軌道が運用されていたかはわからないが、中央橋は、蒸気機関車を渡すには、やはり強度が足りなく思えるし、なにより無加川の北側(写真右下)に、製材所らしきものがあって、あるいは、これが岸尾木材店なのではないかと想像するがいかがだろうか。

1925年発行 5万分の1地形図「留邊蘂」

 起点については、無加川の左岸(北側)にあったとして、そこからの線形は、佐呂間道路に沿って、東無加川を遡るしかないのだが、これは、地形を見る限り、ほぼ1917年編集の地形図に記載されたの道路(佐呂間道路;現在の北海道道103号留辺蘂浜佐呂間線)と同じ線形、あるいは、路盤を共有していたと見なすのが妥当であろう。
 全長については、小熊米雄氏の「日本における森林鉄道用蒸気機関車について」における「5km」と、河野哲也氏の資料による「4.0km」に相違があるが、終点は、新・北見市史によれば「現在の丸山、池田の沢入口付近」とある。
 
 この「池田の沢」が特定できない(本当は、こういうところは現地調査すべきなのであるが)のだけれど、ネット上にあった営林工事の関係書類において、「池田の沢」という林道名が登場しており、略地図と地形図とを比較すると、池田の沢林道はこの道 で、池田の沢入口はここではないかと見当をつけた。
 となると、全長距離は4kmより少し短いぐらいになる。

  以上、仮説や想像を多く含んでしまって恐縮であるが、岸尾木材店運材軌道の線形を1917年測量の地形図上に描き出すと、このようになる。(カーソルオンで予想する軌道線形をハイライトします)。 ただ、本件については、あまりにも仮説が多いので、今後も関連する資料を見つけることができたら、再検討してみたい。


 なお、左で紹介している写真は、岸尾木材店と思われる製材所が写っている写真と同時期に撮影された留辺蘂駅の構内の様子である。
 当時の留辺蘂駅が、いかに林業の集材基地として大きな役割を果たしていたかを物語る一枚となっている。


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【2023年9月13日 追記】 

 留辺蘂に関して、新しい情報を入手できたので、追記の形で記載したい。

 情報源は「留辺蘂町史」である。先述の通り、留辺蘂町は北見市に吸収合併されたことから、各町史の記載は「新・北見市史」に引き継がれた形となるので、このたび確認のために目を通したところ、いくつか、「新・北見市史」として、更新される前の記述を確認できた。  
 
 まず、「新・北見市史」では、「現在の丸山、池田の沢入口付近」となっていた岸尾木材店運材軌道の終点であるが、留辺蘂町史では「現在の丸山、池田義雄宅付近」となっていた。また「当時仲町無加川畔で酒造業を営んでいた岸尾義計」は「当時仲町武華川畔で酒造業を営んでいた岸尾義計」となっていた。いずれも、情報の更新であり、内容は共通で、新・北見市史の記述に当たって、精密な校正が行われたものと思われる。また、留辺蘂町史では、岸尾木材店運材軌道の機関車の運転手として「大浪太兵衛」という人物名を記載しており、当該軌道で、蒸気機関車が運用されたことは、まず間違いないと思われる。  

 次に、これが特に大事な情報と言えるのだが、「留辺蘂市街図大正時代」なる挿図があった。

 大正時代は、1912~1926年に相当するので、岸尾木材店運材軌道が運用されたとされる1915~1924年とほぼ重複している。残念ながら、図に当該軌道の線形は記載されていなかったのであるが、下図をご覧いただきたい。

 昔の留辺蘂の写真から類推した「岸尾木材店」の場所は下図の通りである。佐呂間道路に沿って軌道を敷き、東無加川の流域から集材を行ったと考えると、とても理にかなった場所である。果たして、そこにあったのは?(カーソルオンで、関連施設名を表記します)



留辺蘂市街図(1912~1926頃)

 それは、「塚原木工場」であった・・・。

 岸尾木材店ではない。

 思わぬ新しい「固有名詞」の登場にやや面食らったが、この地図を詳細にみると面白いことがいくつかある。まず「塚原木工場」のすぐ横にあたる無加川北岸に「塚原精米店」があることである。同じ「塚原」を冠していることから、同じ経営者もしくは親族経営であることが想像できる。そして、無加川の対岸に岸尾酒店があり、また地図内には「岸尾木工場」がない。岸尾氏が酒造業を営む関係上、精米業を行う塚原氏とも、経営上の関係があったと考えても不思議ではない。

 いずれにしても、「岸尾木材店」の名称は図内に確認できなかったため、地図上の「塚原木工場」が、岸尾木材店運材軌道の起点であったという仮説は、支持も否定もされない、あいまいな状況証拠が一つ増えただけに過ぎないが、いったんはお知らせすることとした。

 もう一つ、一応確認しておきたいのは、大正時代、留辺蘂市街にあった無加川渡河道路として、「中央橋」の他、現在の道道北海道道103号留辺蘂浜佐呂間線が無加川を越している「留辺蘂橋」もすでに存在していたことだ。なので、佐呂間道路に沿った軌道が、道路橋に軌道を敷設して無加川を渡っていたと仮定した場合、「中央橋」の他に「留辺蘂橋」も候補として考慮する必要があるだろう。佐呂間道路の線形も、留辺蘂駅の土場に向かうためには、遠回りであるが、留辺蘂橋を通る方が自然とも言える。
 
 ただし、「留辺蘂市街図大正時代」を見る限りでは、無加川と留辺蘂駅の間には、建物が密集しており、軌道を敷設できるとしても、道路と路盤を共有せざるをえないだろうし、市街地の道路の線形を見ても、留辺蘂橋を通った軌道が、留辺蘂駅まで伸びるのは難しいように見える。だから、その場合には、起点を地図内の梨田木工場や高岡合板株式会社と仮定した上で、これらの工場と「岸尾木材店」との関わりに関する資料を探す必要が生じるだろう。



「アルバム留辺蘂百年」より 中央橋(1914年)

 ちなみに、左写真は、「アルバム留辺蘂百年」において、1914年の「中央橋」として紹介されている写真である。

 岸尾木材店運材軌道の運用が開始される前年の写真となる。

 とりあえず、この木製のトラス桁橋が当時の「中央橋」であったとしても、やはり、このままでは、蒸気機関車の荷重に耐えるのは難しいだろう。それに、前掲の市街地の写真から確認できる「中央橋」とは、橋の外形もしくはトラスの形状が異なるし、(1914年当時の)「無加川」にしては、川幅が狭いような気もするので、いささか個人的には、本当にこれが「中央橋」なのか、疑義を持ってはいるが、当該資料中でそのように紹介されていることは確かだ。

 以上、結論が曖昧なままの追加記述で恐縮であるが、情報更新としたい。




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「鉄道ピクトリアル232号車両めぐり第10分冊」(1969)より 越後交通栃尾線の1号機

【2023年10月13日 追記】
 
 ここでは、「奥村鉄山専用軌道」で使用されていた蒸気機関車と、「岸尾木材店運材軌道」で使用されていたものに近いと思われる蒸気機関車の姿を紹介したい。まずは、「奥村鉄山専用軌道」で運用されていた機であるが、こちらは、参考文献を引用させていただきたい。

 鉄道ピクトリアル232号車両めぐり第10分冊「越後交通栃尾線」(瀬古龍雄・川垣恭三・反町忠夫・吉田 豊)より
 『(越後交通栃尾線は)開業当初2・4号で発足したが、この1号はおくれて1916年3月24日に増備(借受使用)申請が提出された。当時の所有者は社長の渡辺藤吉という奇妙なことになっており、機関車のみならず客貨車も旧青梅鉄道のものを開業当初から1917年頃まで順次入籍している。これらのことは旧魚沼鉄道の車両整備などとも関係あるらしいが今回は割愛する。
 この1号は改軌前の青梅鉄道の1号で英カースチュワート(Kerr Stuart)社製である。B1という珍しい車軸配置で、アウトサイドフレームにジョイ弁式であった。
 昭和に入って(1926年~)からはほとんど休車状態が続いていたが、2・3号機を売却したあとの第48回営業報告(1937年下期)には解体大修理したむね記されている。気動車化により不要となり、1939年4月10日付で廃止届が提出された。当時は廃車機も今のように簡単に解体ということはなく、ブローカーなどによって結構右から左へと転売されている。1号もこれより正史からもれた流浪の旅を続けたものと思われ、1950年6月建設省東北地方建設局塩釜機械工場に姿をみせ大修理が行われた。当時長岡組なる業者によって納入されたものであったが、現車の標記により北海道常呂鉄山奥村鉱業所1号が前歴であることがわかった。納入後はBS77(24-107)と称し、東北地方建設局北上川上流工事事務所紫波出張所長岡見張所に配置されたが、かなり状態が悪く殆ど使用されることなしに廃車された模様で、1957年2月現在、川上幸義氏の調査ではすでに籍を失っている(石川(初)氏、瀬古の写真により臼井茂信氏が確認)』
 以上の通り、1番上の写真が奥村鉄山専用軌道に移る前の栃尾鉄道時代の、真ん中の写真が奥村鉄山専用軌道で使用された後の東北地方建設局時代のカースチュワート社製当該機となる。

 次いで、「岸尾木材店運材軌道」で運用されていたと思われるバグナル(Bagnall)の機であるが、こちらは、元は中遠鉄道の4号機となっている。当該機の写真は現時点で見つけていないが、1981年11月号の鉄道ファン誌には中遠鉄道の2号機の写真が掲載されている。同鉄道の1~4号機が同型機であることを踏まえ、その2号機の写真を末尾に紹介させていただく。ただし、各機は運用にあたって改造されていたとのことで、この2号機についても『後部の張出し炭庫や運転室は日本に来着後の改装である。煙突先端の火粉止めは、時代によって形状・寸法を変えている』とのことである。    



「鉄道ピクトリアル232号車両めぐり第10分冊」(1969)より 東北地建のB77 
1950年1月27日 石川初生氏撮影

「鉄道ファン1981年11月号」より 中遠鉄道2号機 新袋井にて 
1937年1月 臼井茂信氏撮影



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 さて、ここで一気に気分転換し、次のテーマに移る。

 冒頭で述べた謎の森林鉄道「常呂森林鉄道(軌道)」についてだ。
 私は当初、常呂森林鉄道が、常呂川流域の運材を目的としたものではないならば、常呂港における集材を目的としたもので、常呂港に隣接するような形で敷設された軌道なのではないかと思った。ちなみに湧網線には、常呂港(ところみなと)という仮乗降場が設置されていたことがある。

 ただし、常呂港仮乗降場の設置期間は1956年から72年までであり、1949年に常呂森林鉄道が廃止された後のこととなってしまうので、常呂港仮乗降場と常呂森林鉄道を関連付けて考えるわけにはいかない。これは単なる鉄道好きの余談でしかないだろう。
 とはいえ、常呂町のアーカイヴ史料にあった1960年の常呂港仮乗降場の様子、そして、ホーム付近からみた港の様子を撮影した写真は、当時の様子をよく伝えるものだと思うので、ここで紹介させていただいた。
 なお、本章の作成にあたって、資料収集したもののうち、1967年頃の資料「常呂町団体営土地改良事業調査設計事業計画図」において、常呂港仮乗降場が記載された地図があった。しかし、かなり色あせた資料で、見辛いものであったため、今回はこちらにリンクを張る形でお示しすることとしたので、興味がおありの方は、ご覧いただきたい。
 ちなみに、現在の地図で、常呂港仮乗降場のあった場所を示すと、こちらとなる。

 この図は、1963年の常呂港の概略図となる。

 この図が反映している港湾の様子は、常呂森林鉄道が運用されていた時代から、時期的に10年以上も隔たりがあるものとはいえ、貯木や木材の製材に関連する施設はないようで、機能としては、完全に「漁港」である。
 どうもこの港が森林鉄道と関与していた痕跡はみあたらない。


【2023年9月3日追記】
 「常呂港仮乗降場」の「読み」については、左図の通り、「ところみなと」が正しい。
 本文を記載している時点で、wikipediaでは、読みを「ところこう」(こんな感じ)と紹介しているが、正しい名称ではない。
 参考までに1967年6月の「北海道時刻表」の湧網線時刻表において、当時あった仮乗降場を含めた全駅名の「読み」が記載されているので、こちらを参照いただきたい。


 とはいえ、常呂川流域で、木材の切り出しが行われ、常呂川で流送が行われていたのは間違いなく、こちらは1910年ごろの常呂川における木材の流送の様子を示した歴史的な写真となる。


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 暗礁に乗り上げたかに見えた常呂森林鉄道の実態調査であったが、今回、常呂町の歴史資料にいろいろ目を通しているうちに、驚愕の(あくまで「私にとって」驚愕の、ではあるが)記述に接することになった。本当に、町史に関する証言、記述を大切にしている常呂町は、素晴らしい町だ。関係者には感謝の気持ちでいっぱいである。すでに何度か訪問し、宿泊したこともある常呂町であるが、是非また再訪したいものだ。そんな私の感慨はひとまずおいておいて、まずは、その記述を引用したい。


 これは「戦争中、昭和17年から19年 福山での造材作業. 綴られた常呂のできごと」と題して、町民が綴った記憶である。

 (略)1942年には戦争に使う飛行機のガソリンがなくなり、松の葉を蒸して油を取ることになりました。福山の奥の沢に入って大きな釜が5つも備えてありました。山子(やまご注:杣夫・木こり)さんが大きな木をノコギリで切りたおし、当時国防婦人と言っていた婦人方が各部落ごとに割り当てをして、冬季に毎日毎日松葉取りのため、馬そりで働きに行きました。
 私も小さい子どもを年寄りに預け、松葉枝を束ねた物を釜まで運びに行かなければならなくなりました。当時は役場から徴用書が来て、その期間中、福山の松葉取りに行く令書です。行ってみると10名来ておりました。飯場に泊まって働きます。(飯場賃は60銭でした)
 また、地方では前年から北見バス、網走バスは全部木炭を炊いてガスで走っておりました。炭の原料は雑木ですから、今の農協牧場に炭焼き窯が5ヶ所もありました。その時の農家の作業機械は皆、ガスを使って作業をしました。ですから、山はみるみるうちに木がなくなりました。
 (略)
 1944年、軍用材として吉野(隈川)、今の町の水源地帯の奥の沢で、松の木も雑木も全部切ることになりました。その時は、漁業者、農業者、さらに商業者も全部徴用でした。遠い所なので、全員飯場に泊まりました。近い所の日吉、吉野の人は通っていました。その時は飯場に灯油がなくてたき火の明かりで食事をしました。クツの代わりにわらで作ったツマゴをはいて、その足にセーターの悪い物を足に巻いている人、あるいは自家用の綿羊で作った手袋、靴下をはいている人もいました。
 その年は雪が多くて、地方の国防婦人の方が頭にネルをかぶって首に巻いていました。足にはわら靴をはいている人が多かった。軍用材は今の日吉の農協支所の前の常呂川の縁に積んだ。
(略)
 春に氷が溶けて木材を川に落とし、今のバイパス橋の所に太いワイヤーロープを岸から岸へ渡して軍用材を溜めるのです。流れてきた木材を今の堤外に上げるので、全部馬で引き上げました。残念なことに人夫が1人、川に落ちて死亡しました。その時に大変気の毒なのは、お通夜も告別式にもお寺さんがいないのです。お寺さんも徴用で釧路の春採炭鉱に働きに行って留守でした。その時は配給で線香もろうそくもなく、本当に気の毒でした。野花1つと麦飯だけでした。
 今の堤外地からレールを敷いて、トロッコに木材を積んで常呂病院の裏を通って、小学校の前を通ってヤマヤ(注:1989年度時点)の店の前から橋(注:窪地を渡す橋)を渡って大沢木工場に積み込みました。(略)

 *注:このレール(軌道)に関して、1949年9月20日に軌道が通っていた大通り住民一同から村議会に対して軌道撤去の請願が出され、常呂村から軌道を敷設(1942年)した北見営林署に対して撤去の申し入れをし、1950年3月28日に北見営林署から撤去するとの回答あり


 時代背景ゆえの厳しさに様々に思うことはあるが、当ページにとっていちばん大事なことは、いちばん最後に書いてある。
 「今の堤外地からレールを敷いて、トロッコに木材を積んで常呂病院の裏を通って、小学校の前を通ってヤマヤ(注:1989年度時点)の店の前から橋(注:窪地を渡す橋)を渡って大沢木工場に積み込みました。」
 そして、欄外の注釈「このレール(軌道)に関して、1949年9月20日に軌道が通っていた大通り住民一同から村議会に対して軌道撤去の請願が出され、常呂村から軌道を敷設(1942年)した北見営林署に対して撤去の申し入れをし、1950年3月28日に北見営林署から撤去するとの回答あり」

 なんと、北見営林署が敷設した、木材運送用の軌道とのこと!常呂森林鉄道の資料上の運用期間は1945~49年となっていて、この記述からすると、設置、運用開始が1942年とやや早まることになるのだが、おそらく1949年には使用の実績がなくなっていた様子であり、おおむね時代的にも合致する。・・・とは言っても、病院や小学校の前を通って、商店の前を曲がって・・・など、森林軌道の線形を示す案内とはとても思えない。まるで、町中で道を尋ねられて、それに応えているような説明文ではないか。しかし、とにかく重要なのは、敷設も撤去も行ったのが北見営林署である、という事実であり、れっきとした官行斫伐を担う国家機関によって設置された軌道であることは、間違いないと思われる。


 「堤外地」とは、この場合、常呂川の堤防の内側(川のある側)を指すから、この時点で、この軌道は、流送された木材を「堤外地」で集積し、「大沢木工場」へ搬入するためのもの、とおおよその推測がたった。
 問題は、その経路である。ポイントとなる固有名詞は以下の4つである。「常呂病院」「小学校」「ヤマヤの店」「大沢木工場」。
 やっかいなのは、これらの施設の場所は、現在の位置でも、森林軌道が運用されていた時代の位置でもなく、当事者が語っていた、まさにその言葉を発していた当時の位置を反映していることである。当該証言があった年までは明記されていないが、ヤマヤに言及しているところに(1989年度時点)と書いてあるから、おそらくその頃のはずだ。
 過去の地図を見ると小学校の位置は変わっていないようだ。「ヤマヤ」「大沢木工場」は、私が2023年現在のGoogle Mapで検索しても見つけることは出来なかった。常呂小学校のすぐ南には常呂厚生病院があるが、この病院は開設が2007年と比較的新しく、しかも小学校と常呂厚生病院の並び方だと、証言に従って軌道線をひくと、軌道は川と並行するような形になってしまうから、おそらくかつては、どこか別の場所に、町を代表するような医療機関があったはずだ。

 また、もう一つポイントとなるのは、「窪地を渡す橋」である。これに相当する窪地を地形図で探してみたが、どうもこれだというものがない。とにかく1989年に近いころのタウンマップ的なものが見たい!


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 そこで、常呂の昔の市街地の地図で、該当しそうなものがないか、色々と探していたところ・・・私はそれを見つけた。
 下図は1994年の「常呂タウンマップ スキップ」から、当該部分を抜き出したものだ。
 そこには常呂川側から「常呂町立国民健康保険病院」「常呂小学校」「ファミリープラザヤマヤ」が並んでいる様子が描かれていた!そう、まさにこの並びに沿った道に「常呂森林鉄道」は敷設されていたのだ。


 あとは「大沢製材所」であるが、Google Mapにおける検索では分からなかったのであるが、調べていくと現役の施設としてこちらにしっかりマップがあった。
 うん、しかるべき場所にある。



 さて、ここまで絞り込んだうえで、私は航空写真をチェックしてみた。
 ご覧いただくのは、常呂森林鉄道が運用されていた1948年の航空写真。

 すると、なんとそこには、のちのヤマヤの前に窪地があって、そこを円弧状にまたぐ橋が写っているのである。
 
 間違いない!これが、常呂森林鉄道の「窪地を渡す橋」だ!

 カーソルオンで関連オブジェクトをハイライトする。

 また、常呂川に目を転じれば、そこには、網羽に集まる木材らしき陰影があるではないか。

 そして証言者の言葉を証明するべく、軌道と思われる線形も確認できる!

 カーソルオンで関連オブジェクトをハイライトする。

1948年 航空写真 
 
 以上をまとめて、まずは航空写真上で、関連施設(撮影時よりのちのものを含む)と一緒に、常呂森林鉄道の線形を示す。
 カーソル・オンで関連オブジェクトをハイライトする。全長は1.5kmより短いだろう。網羽横の堤外地から、病院、小学校の横を抜け、窪地を渡る橋が円弧を描いて、大沢製材所に吸い込まれているのである。これが、常呂森林鉄道の全貌だ!


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 もう全体の線形を描き終えたわけだが、今回は、地形図上で再現できるような規模ではないため、執筆時現在(2023年)の地図上に、当時の軌道を描いてみることにした。このような感じである。
 ちなみに、当該線形を現在の地図上で距離計測すると、約1.1kmであり、1950年の北見営林局の事業統計にある「1,541m」とやや開きがあるが、おそらく、大沢木材工場内にも引き込み線が伸びていたであろうし、航空写真では判別できないところまで含めると、そのような数字になると思われる。
 こうして、私を悩ましてきた常呂森林鉄道の謎は、解き明かされたのであった。


 ちなみに、この写真は1962年の大沢木材常呂工場貯木場の様子である。
 歴史ある作業場らしい風格を感じさせる1枚である。
 なお、大沢木材常呂工場は、現在では同社の資材置き場となっているらしい。Googleストリートビューで見える2023年現在の当該地は、このような感じであった。

 もう一つおまけ。

 1965年の常呂市街の航空写真である。こうなると、軌道廃止から16年を経ているが、こちらにも軌道のイメージを描いてみた。
 町の様子は、それなりに変化し、窪地だったところにも建物が建っているけれど、1949年までは、およそこんな感じで常呂の町を横切っていたはずだ。

 これにて、私の抱えていた謎の一つは、とてもスッキリする形で解明することが出来た。


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 それでは、常呂シリーズ最後の項に移る。
 客土軌道である。

 客土軌道については、本当に北海道には様々なものがあって、実はこのシリーズでも、のちにあちこちのものを取り上げたいと思っていたのであるが、常呂のものを先行して取り上げることになる。

 先述の通り、常呂の郷土史の資料類は充実しており、年表もまた、充実した内容のものが公開されている。これによると・・

1950年 堤外からの軌道客土による土地改良実施、この客土で泥炭地帯の生産が急速に伸び、泥炭地で耕作不能とされたビート耕作が可能に(豊川区開基百年誌)

1954年 1月21日 軌道客土地区総会:共立会館

1960年 8月 軌道客土終わる(岐阜百年記念史)

とある。土地改良は、排水、灌漑、客土、圃場整備からなると書いた。また、加えて北海道の場合、酸性度調性等の土質改変も必要な場合が多い。軌道客土は、あくまで客土のうち、軌道を用いて作業をするもののことを指すのだが、常呂町の場合には、そのうちの軌道客土のみで10年の歳月がかかったことになる。

  この客土の舞台となったのは、共立知区で、北見共立駅跡付近には客土事業に関するも建立されている。「碑」のリンク先で軌道客土(馬鉄時代)の写真も掲載されている。

 さて、その共立地区というのは、碑も設置されている湧網線の北見共立駅があったあたりであり、北見共立駅は、奥村鉄山を引き継いだ針田鉱山が、土場を設置していた場所でもある。
 湧網東線が下佐呂間(のちの浜佐呂間)まで開業したのが1952年、針田鉱山が操業していたのが1950~64年、軌道客土が行われていたのが1950~60年ということになるから、当時の北見共立は、ずいぶんと工事や採掘に関わる運搬や積み替えが、忙しく行われていた場所だったに違いない。

 ちなみに写真は、軌道客土が行われていた時代より後年のものとなるが、北見共立駅の様子である。

 



 さて、それでは常呂町にあった客土軌道の線形を探ろう。
 客土軌道の大きな特徴として、痕跡を現在にとどめない、というものがある。当たり前である。
 あたりを水田、もしくは畑地にするために客土を行っているわけで、その線路跡が後年まで残ってしまって、「廃線跡の掘割です」などと言われているようでは、困るのである。
 だから、客土軌道は、その役目を終えると、ただちに、と言っていいくらいのスピードで、その姿を跡形もなく消してしまう。なので、今となっては、「廃線跡」のようなテーマでも、とりあげられることさえない。
 なので、本対象についても、廃線跡探訪的な興味を喚起することは難しいだろう。
 しかし、私は客土軌道の歴史自体を面白いと思うし、北海道の開発において、きわえて重要なもの(その割にまとまった記録がない)とも思うので、現在いろいろ資料を集めているのである。
 まさに共感のみの情報発信である。2023年、話題になったアニメ「推しの子」で、登場人物が「若者特有の共感しあうだけの会話」に辟易するシーンがあるが、私のこのサイトだって、興味のない人からすれば、共感強要まっしぐらと思われるだろう。
 まあ、共感してほしいのは、若者に限ったものではないし、当然、このような報告に興味を持っていただける方が多くはないことぐらいは自覚しているけれど、せめて少しは興味をもってもらえる人を増やしたいところではある。そんな私の私的な述懐はおいておいて、常呂の客土軌道の線形を描こう。

 前述の通り、痕跡をとどめない客土軌道であるが、それを現代に伝えてくれるのは、当時のことを知る人からの伝聞、土地改良について言及した資料などとなる。
 通常、廃止された鉄道・軌道の線形調査において、底知れない威力を発揮する「旧版地形図」であっても、客土軌道の線形解明については、ほとんど手助けをしてくれない。前述のように、例外的に唯一軌道の線形が描かれたのは、東神楽の事例だけである。
 その代わりに「線形」を知る上で、きわめて有益な情報をもたらすことが多いのが、地理院地図のサイトで公開されている様々な年代の航空写真である。
 
 常呂においては、幸いにして、客土軌道の線形がとても鮮明に残る航空写真が記録された。
 ご紹介するのは、1952年の航空写真である。航空写真では「客土軌道」と「似た規格の道路」との見分けはつきにくいが、それでも軌道の場合、「特有の曲線」を描いていることが特徴の一つと言えるだろう。しかし、なにより、次の2つが確認できれば、その線形が客土軌道のものである可能性は一気に高くなる。

 1) 土取り場を起点としている
 2) 終点で、土を撒いている扇状もしくは、ゼブラ状の痕跡がある

 常呂は、1952年の航空写真で、これらを鮮明に見出すことが出来る。その実例を示そう。


 これが常呂の土取り場。
 現在のこのあたり

  客土ではよくあるパターンの一つで、常呂川の自然堤防を客土用の土として利用していた。

 これがまさに客土を行っている散布場所。
 現在のこのあたり
  ライトコロ川周辺を優良な農地にすべく、客土を行っており、その文様が、地面に鮮やかに浮かび上がっている。
 
 その形状から「扇撒布」と言うらしい。



1957年発行 5万分の1地形図「常呂」

 後は、複数の航空写真から、これらをつなぐ軌道の線形をひろいながら、地形図上にトレースしてみた。
 こちらが成果物で、1957年発行の5万分の1地形図上に土取り場、軌道、(撮影時の)客土部分を書き込んでみた。(カーソルオンでハイライト)
 ちなみに、客土軌道は、森林鉄道以上に、線路の付け替えを行うことがある。特に客土する場所は、時と共に変わって行くので、この線形はあくまで、1952年時点のものだ。


 ところで、こちらは北見共立駅付近の航空写真を拡大したものだが、客土軌道と湧網(東)線がクロスしている。
 ただし、航空写真が撮影されたのは1952年10月7日、湧網(東)線の当該区間が開業したのは1952年12月6日なので、撮影時点では、湧網(東)線の当該部分は開業していないことになる。
 とはいえ、軌道による客土は1960年まで行われていたので、その際、湧網線とのクロスが発生したに違いないのだが、どのような方法でそれが行われていたかまでは、この航空写真からはわからない。
 実は、この「客土軌道と国鉄線の交差」は、北海道内のかなり多くの場所で発生していた。だが、それらのクロス方法については、その地について言及するときに、あらためて記述したいと思う。



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 さて、常呂町の軌道客土については、さすが常呂町で、写真もいくつか残っているようだ。本章の最後に、それらを縮小したものを紹介させていただきたい。
 常呂川の自然堤防から採土を行っている土取り場。複線で作業が行われた様子が示されている。蒸気機関車(おそらく8tクラスくらい?)が土運車をけん引していた。

 こちらは蒸気機関車が牽く常呂の客土軌道の様子。カーブがとても絵になっている。

 この写真では、おそらく客土の作業を行っている作業車との立体交差の様子が捉えられている。
 さすがにこの高さまで、全部客土で埋め尽くしたわけではないが、作業を効率的に行うために、盛り土を使って、立体交差できる場所を作ったのだろう。

 この写真は、到着した場所で、荷台を傾けて、土を出している様子。
 軌道による一次運搬のあと、馬そりや作業車をもちいて二次的な撒布が行われた。

 最後に引用させていただくのは、軌道と、その周囲に広がる撒布地の風景だ。
 北海道の食糧基地としての開発は、国力増強のため、当時の日本にとっては喫緊の課題であった。
 今もその問題点が解消されたわけではないが、少なくともその後の北海道は、農業生産高を飛躍的に向上させることとなる。
 しかし、最近では、離農が進み、苦労して開拓・開墾した土地から、集落がなくなり、再び自然に覆われていっているところも多くある。



 以上、「幻の鉄道・軌道線形の復元~地形図に記載されなかった鉄路」第1章として常呂にあった軌道群を取り上げてみた。
 執筆している最中も、今すぐにでも自分自身が、常呂に赴いて、その風景を見てみたいという思いが何度も沸き起こった。常呂森林軌道の謎が解けはじめた瞬間の喜びは、この趣味ならではの、知る人ぞ知る悦楽としか、言いようがないだろう。
 いずれ現地の様子を確認できる機会があれば、本章にも追記する形でまとめたいと思う。本章をまとめるための様々な史料の記録に携わった人々には、重ねて深謝したい。
 最後に、常呂町で見た、あの美しい暮れゆく風景を思い出しながら、本章を締めたい。



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