20万分の1地勢図に残る鉄路たち


 国土地理院が発行する20万分の1地勢図では、北海道は27の図郭によってあらわされる。これらの地勢図は明治期より編算が開始されているが、大正末期から昭和初期にあたる1920年代後半には、カラー刷りの図面が出版されるようになった。
 当ページは、戦前のカラー最初期の地勢図の一部を入手した際、今や存在を忘れられている多くの鉄道や軌道がその線形を示していたので、紹介することを目的に、「戦前の20万分の1地勢図に残る鉄路たち」と題して開設したが、その後、戦後の地図についても入手できたものがあったため、「20万分の1地勢図に残る鉄路たち」と改題して、それらを加えて紹介することとした。
 
戦前に作成された20万分の1地勢図については、スタンフォード大学がこちらで公開しています。


尻屋崎(1939年部修) 函館(1939年部修) 室蘭(1932年鉄補) 苫小牧(1923年製版) 浦河(1926年製版)
浦河(1950年編図) 岩内(1926年製版) 岩内(1949年修正) 札幌(1926年製版) 札幌(1939年部修)
札幌(1949年発行) 留萠(1926年製版) 留萠(1949年発行) 旭川(1927年製版) 旭川(1939年部修)
旭川(1950年編集) 夕張嶽(1927年製版) 夕張嶽(1939年部修) 夕張嶽(1950年編集) 帯廣(1928年製版)
帯広(1939年資料部修) 帯広(1950年資料修正) 淕別(1929年製版) 北見(1955年資料修正) 釧路(1928年製版)
釧路(1939年部修) 根室(1949年修正) 標津(1939年部修) 標津(1949年発行) 斜里(1939年部修)
斜里(1949年修正) 斜里(1960年資料修正) 網走(1939年要修) 紋別(1929年製版) 紋別(1939年部修)
羽幌(1949年応急修正) 名寄(1928年部部修) 名寄(1939年部修) 名寄(1951年資料修正) 枝幸(1929年製版)
枝幸(1929年製版) 枝幸(1939年部修) 天塩(1953年資料修正)    


尻屋崎(1939年部修) 当該地勢図は、こちらで全体を閲覧可能。

 亀田半島の先、恵山の付け根にある集落古武井から古武井川に沿って伸びるのは、古武井鉱山から産出する硫黄の搬送に供された馬車鉄道で、全長およそ13kmとされている。当時古武井の硫黄産出量は東洋一とされ、鉱山町では3,000人が暮らしていたとされる。
軌道の運用期間は不明ながら、1908年に釧勝興業株式会社が鉱山運用に進出した前後から運用が開始され、大正期(1912-1926年)は運用されていたと思われる。さらに1939年修正の当地勢図にも掲載されている。硫黄採掘後も現地では砂鉄の収集が行われていたが、最終的に1962年に東北砂鉄鋼業株式会社が鉱山を閉山としている。


函館(1939年部修) 当該地勢図は、こちらで全体を閲覧可能。

 函館線大沼駅(現在の大沼公園駅)を起点とし、鹿部に至っていた大沼電鉄(17.2km)が記載されている。水産物の搬送のほか、観光客の動線確保も目的に、1929年に開業した。1945年に並行する函館線(砂原回り)の開通に伴って廃止となる。大沼に沿った線形は、対岸の駒ヶ岳を含む美しい眺望を想像させてやまない。なお現在の大沼駅は、当時軍川(いくさがわ)駅という名称だった。


室蘭(1932年鉄補)

 函館線大沼公園駅を起点とし、鹿部に至っていた大沼電鉄(17.2km)が記載されている。水産物の搬送のほか、観光客の動線確保も目的に、1929年に開業した。1945年に並行する函館線(砂原回り)の開通に伴って、一旦廃止となったが、函館線鹿部駅が、集落から離れて利便性が低かったことから、1948年に新銚子口を起点として復活(11.3km)する。しかし、1952年にあらためて全線が廃止となった。

 函館線森駅から砂原まで、渡島海岸鉄道(9.4km)が記載されている。途中駅である尾白内、掛澗も記載されている。
 渡島海岸鉄道は1927年に運営を開始。軌間1,067mmの鉄道。イワシの搬送などに活躍した。しかし、南方(駒ヶ岳側)に、勾配を回避した国鉄線の新線が建設されるに当たって、1945年に買収の形で廃止。同年に大沼電鉄も廃止となっている。
 渡島海岸鉄道跡は、現在の国道278号線の線形に沿った形。函館線の各駅は、渡島海岸鉄道の同名駅からは離れた場所となる。

 室蘭線虻田駅を起点とし、洞爺湖までの8.8kmを結んだ洞爺湖電気鉄道が記載されている。1928年に観光客の移動と鉱物の搬送を目的に開業。最盛期には1時間に1本程度の割合で列車が運行していたが、戦前の1941年に資材不足に伴って廃止された。
 昭和新山形成前の地形自体にも注目。


苫小牧(1923年製版)

 室蘭線幌別駅を起点とする幌別鉱山専用軌道が記載されている。
 幌別鉱山専用軌道は、1907年に幌別鉱山-幌別駅間9.6kmの馬車鉄道として開業し、1909年には、地図に示す旭鉱山までの4.6kmが延長された。さらに、1911年には、壮瞥の硫黄山から旭鉱山までの索道が敷設され、様々な鉱物資源を搬送した。
 1927年に蒸気機関車、ガソリンカーが導入された。
 軌道の廃止は1954年。採掘の終了は1973年。
 なお、下端にその端末を示す線路は、室蘭線幌別駅から幌別川まで敷かれていた国鉄の砂利専用線で、1910年に敷設されたもの。
  
 
 室蘭線登別駅を起点とし、登別温泉場までの8.6kmを結んだ登別温泉軌道が記載されている。1915年に馬車軌道として開業ののち、1918年に蒸気機関車が導入され、1925年には電化され電気軌道となった。
 営業成績は良好だZったが、並行道路の整備等により、1933年に廃止となった。

 室蘭線の敷生(しきふ)駅は現在の竹浦駅、知床駅は現在の萩野駅。
 敷生駅を起点とする線路は、国鉄砂利線兼敷生鉱山専用線。敷生鉱山は地図中飛生地区にあり、鉄鉱石を産出していた。鉄鉱石は新日鐵住金室蘭製鐵所で精錬された。  専用線は1918年に敷設され、1940年代まで活躍。廃止ののち、1950年に撤去された。
 また、室蘭線白老駅からマクンベツへ延びるのも白老川の砂利線で、1917年に敷設された。廃止時期は、1950年ごろと推測される。
 

 室蘭線苫小牧駅を起点とし、王子軽便鉄道の山線が支笏湖を、海線が鵡川を目指している。 
 山線は1909年開業1951年廃止。
 海線は1909年に開業し、その後、日高拓殖鉄道を経て、1927年に国有化となり、日高線へと名称を変えた。


浦河(1926年製版)

 苫小牧を起点とする苫小牧軽便鉄道海線の末端、佐瑠太駅(現在の日高線富川駅)付近。佐瑠太までの開通は1913年。こののち日高拓殖鉄道が厚賀までを開業するのが1924年となる。(地図未記載)
 いずれも、1927年の国有化を経て、現在に至る。


浦河(1950年編図)

 日高線富川駅と起点とし、平取までを結んだ沙流鉄道が記載されている。紫雲古津(しうんこつ)、荷菜(にな)といった途中駅も記載されている。
 沙流鉄道は軌間762mmで全長13.1km。1922年に開業し、木材、農産物の搬送に活躍した。搬出された木材は佐瑠太(のちの富川)から日高拓殖鉄道により、苫小牧の製紙工場に搬送された。
 1951年廃止。


岩内(1926年製版)

 茅沼港と茅沼炭鉱の間2.8kmを結んだ茅沼炭鉱軌道が記載されている。
 1869年に人力、もしくは牛力のトロッコ軌道として運用が開始されたが、これが日本国内最初の鉄道と考えられている(新橋-横浜の開業は1872年)。
 1931年に選炭場と岩内港を結ぶ索道が建設された際に廃止となった。


岩内(1949年修正)

 黒松内を起点とする寿都鉄道(1920-1968)が記載されている。樽岸、湯別といった途中駅も示されている。
 寿都鉄道は、旅客のほか、ニシンの搬送にも活躍した。国鉄化の取り組みが実らない中、1968年の豪雨で路盤が流出。修復されないまま廃止となった。茅沼炭化工業線から譲受した8100型蒸気機関車が最後まで活躍していた。
 なお、樽岸駅の木造駅舎は、最近まで農業倉庫として使用されていたが、2016年7月に取り壊された。


札幌(1926年製版)

 札幌市中心部。千歳線が苗穂駅から分離し、デルタ線を経て東札幌へ至っている。月寒(つきさっぷ)駅、大谷地駅を経る線形は1973年の線路付け替えまで運用された。現在は、東札幌-大谷地間の線形に並行して札幌市営地下鉄東西線(1976年開業)が存在することになる。
 東札幌駅から豊平を経て南下するのは定山渓鉄道(1918-1969)、また、札幌から北に向かうのが札幌軌道(1911-1935)。

 函館線軽川(がるがわ)駅は現在の手稲駅。軽川駅を起点とし花畔(ばんなぐろ)に向かうのが軽石軌道(1922-1940)8.2km。軽石軌道は当初馬鉄であったが、1930年にガソリンカーが導入された。雑穀、牛乳、鮮魚、生活物資の輸送等に活躍した。
 また、右側の石狩街道に沿うのは、札幌軌道(1911-1935)で、伏古川、創成川、発寒川、茨戸川の4河川が合流する付近に終点の茨戸があった。亜麻、燕麦、鮭、牛乳などを札幌へ輸送し、逆に札幌からは食料や肥料を石狩に輸送していた。1922年からガソリンカーの運用が開始されている。

 定山渓鉄道(1918-1969)の錦橋駅を起点とする豊羽鉱山鉄道(1939-1963)が記載されている。
 豊羽鉱山は、北海道開拓の初期から採鉱が開始された鉱山で、レアメタルの一種であるインジウムの生産で知られた。採掘は2006年まで続けられ、現在は閉山となっており、鉱山廃水の処理施設のみが稼働している。

 支笏湖付近を巡る苫小牧軽便鉄道山線(1908-1951)が記載されている。地図には「王子山線機関鉄道」と記載されている。

 江別と当別を結んでいた江当軌道(1927-1936)が記載されている。開通時は軌間762mmの蒸気軌道で、当別川を流送された木材を江別の富士製紙の工場に搬送するのが主目的だった。1929年に輸送量の増加に伴ってガソリンカーを導入したが、1934年に札沼線が石狩当別まで開通した後、廃止となった。

 夕張鉄道(1926-1975)は、函館線野幌駅、室蘭線栗山駅、夕張線鹿ノ谷駅の3駅で国鉄線と連絡する線形を持っていた。
 当該図は、卍字型に線路がクロスしていた栗山付近を示す。

 室蘭線早来駅を起点として、厚真町幌内とを結んだ早来鉄道が記載されている。1922年に開通し、当初馬力であったが、1931年に軌道改修を経てガソリン機関車が投入された。厚真町付近。地図中振老付近が現在の厚真町の中心付近で、そこに知決辺(ちけっぷ)駅があり、知決辺-幌内間は、当初、厚真軌道という名称で1927年に開業したもの。
 1929年に早来軌道と合併し早来鉄道となった。
 当地図で興味深いのは、幌内からさらに日高幌内川に沿って上流に向かう軌道が記載されている点で、森林資源の搬出用のものと思われる。

 当地図は「札幌」と「夕張嶽」の2種を合成したもの。
 夕張鉄道(1926-1975)鹿ノ谷駅を起点とし、若菜辺(わかなべ)駅(のちの若菜駅)を経て、若鍋(わっかなべ)に至る炭鉱専用線の様子を見ることができる。1908年から1933年まで運用されたが、その線形の一部は化成工業専用線として残り、夕張鉄道廃止後の1978年までその命脈を保つこととなった。
 
 幌内線沿線。幾春別への本線と、幌内への支線が分岐する幌内太駅はのちの三笠駅。唐松の東西両側から、北の山中に向かう運炭用の軌道が記載されている。西のものは藤松炭鉱、東のものは弥生炭鉱の運炭に供された。藤松炭鉱の運炭線は1943年頃まで、弥生炭鉱の運炭線は1950年代まで運用されていたと推測される。



札幌(1939年部修)当該地勢図は、こちらで全体を閲覧可能。

 千歳鉱山から産出された金鉱石を支笏湖西岸まで搬送するために敷設された軌間762mmの鉄道が記載されている。1936年から1956年まで運用された。支笏湖西岸の美笛まで搬送された鉱石は、船運で支笏湖対岸に搬送されれ、王子軽便鉄道の湖畔駅引込線で積み替えられたのち、王子軽便鉄道により苫小牧まで搬送された。  

 室蘭線志文駅を起点とし、幌向川に沿って万字炭山までを結んだ国鉄万字線(1915-1985)。その途中駅で、万字線でもっとも利用者の多かった美流渡駅を起点とする北海道炭礦汽船美流渡礦専用鉄道(1920-1967)が記載されている。

 栗山町と夕張市の境界付近。夕張鉄道(1926-1975)の新二岐駅から北に分岐するのは、角田炭鉱線(1934-1970)。当該専用線(全長4.6km)は、電化の上、旭川市街軌道より譲受した電車が旅客用に運用されていた。



札幌(1949年発行)
 
 千歳線豊平駅を起点とする定山渓鉄道(1918-1966)の終着、定山渓駅付近。定山渓駅からは定山渓森林鉄道(1938-1968)が豊平峡に向かって延びている。また、錦橋駅からは、豊羽鉱山専用軌道(1939-1963)が白井川に沿って延びている。
 定山渓鉄道は、札幌オリンピックの余波で、輸送密度1,000人km/日を越えていながら、廃止となった。

 美唄周辺の様子。
 函館線美唄駅を起点に常盤台に向かう美唄鉄道(1914-1972)、途中の美唄炭山から本別越沢(奔別越沢)に延びる運炭軌道、国鉄南美唄支線(1931-1973)とその終着南美唄駅から延びる三美運輸(-1973)などが記載されている。
 南には、幌内線(1882-1987)と沿線の運炭軌道も見える。

 千歳線恵庭を起点とし、漁川に沿って遡る恵庭森林鉄道(1931-1955)が記載されている。全長21.3km。

 千歳線の千歳駅南方から東西にそれぞれ線路が記載されている。1941年頃に敷設された海軍航空隊第1及び第2基地へ軍用引込線敷設。東側に向かう引込線は、基地建設のための資材搬送にも供された。戦後になってから、西側に向かう引込線は米軍千歳基地に、東側に向かう引込線は自衛隊東千歳駐屯地でそれぞれ使用された。
 米軍千歳基地専用線は1978年、自衛隊東千歳駐屯地専用線は1976年ま使用された。


留萠(1926年製版)

 函館線奈井江駅を起点とする運炭用の馬車軌道が記載されている。これらの軌道は、1910年に敷設されたもので、日本鉱業奈井江炭山十二号坑及び十五号坑までの2線が存在した。
 

 留萠線大和田駅近くの大和田炭砿と斎藤炭山から、留萌港へ運炭用の馬車鉄道が記載されている。留萠線当該区間開通の3年前にあたる1907年に敷設、1924年頃まで運用されていたと考えられる。
 当地図では、留萌川を挟んで、北に留萠線、南に馬車鉄道が並走する姿が描かれている。
 馬車鉄道の線形は、ほぼ現在の国道233号線のもの。
 なお、当地図における留萠駅の位置は、開業時のもので、1928年の地形図では、川を渡って南側に移転された表記となっている。移転年月日は不明であるが、留萠線の支線(後の羽幌線)が大椴駅まで開通した1927年ごろと推測される。
 
 留萠線峠下駅付近から留萌川に沿って、天塩炭礦、天塩炭礦手前で分岐し、さらに上流の豊平炭礦へ向かう運炭のための軌道が記載されている。
 当該炭礦では1919年より産炭を行っているとのことで、軌道もその頃から運用されていると考えられるが、廃止時期は不明。1926年に当地図が発行される当時も、この軌道による運炭が行われていたと考えられる。なお1949年発行の地勢図に当該線の記載はない。



留萠(1949年発行)

 函館線奈井江駅を起点とする1910年敷設の運炭用の馬車軌道が記載されている。日本鉱業奈井江炭山十二号坑及び十五号坑までの2線となる。
 また奈江川に沿って三井鉱山奈井江専用鉄道が記載されている。1949年に地図で示された終点、白山坑駅までの6.4kmが開業。その後1951年には東奈井江まで3.6kmが延長された。機関庫は白山に置かれた。
 かつて、国鉄東海道線で特急列車を牽いたことのある8850型蒸気機関車(8864, 8865の2機)が活躍する線としてファンにも注目されたが、1968年で運用を終了し、廃止となった。
 また、函館線豊沼駅からは、東洋高圧工業専用線(2.1km)が記載されている。こちらは1942年から運用を開始され、その後、会社形態を変えながら、最後は三井東圧肥料砂川工場専用線として1990年に運用を終えた。

 函館線茶志内駅を起点とする三菱鉱業茶志内炭礦専用鉄道の線形と思われる軌道が記載されている。
 三菱鉱業茶志内炭礦専用鉄道は、1952年に茶志内-茶志内炭鉱間2.0kmの運用を開始。美唄鉄道のE1タンク蒸気機関車などが乗り入れて運用されていたが、三菱茶志内炭鉱閉山が閉山となる1967年まで運用された。
 当地図は、当該鉄道線開業前の発行であるため、その前身となる運炭軌道が存在していたと考えられる。


 留萠を起点とし、達布に向かう天塩炭砿鉄道(25.4km,1941-1967)が記載されている。途中駅として、春日町、桜山、天塩本郷といった駅名が見える。天塩炭砿鉄道は現在のてんてつバスの前身となる。
 なお、留萠から大和田炭砿に向かう馬鉄も記載があるが、当時はすでに廃止となっていた。

 留萠線恵比島駅を起点とし、昭和に向かう留萠鉄道(17.6km,1930-1971)が記載されている。
 終点の昭和は、現在では隧道マーケットをはじめとする廃墟群が残るが、通じる道路がなく、辿り着くのは難しい。浅野炭山駅の駅名があり、そこから498mの峰に向けて運炭軌道が延びている。
 浅野炭砿付近は、現在は沼田ダムのダム湖であるポロピリ湖に浸かっている。
 なお、明治鉱業昭和鉱業所専用鉄道で使用されていた1889年製のクラウス15号蒸気機関車は、現在沼田町のほろしん温泉で静態保存されている。
 


旭川(1927年製版)

 根室線上芦別駅を起点とし、北の「三菱炭礦」に延びるのが1917年開業の三菱鉱業芦別第一坑専用線(2.4km)。西南に円弧状の線形を描くのが1920年開業の同第三坑専用線(4.7km)。いずれも1933年まで運用された。
 また、前者の線形は、のちに三菱鉱業芦別鉱業所専用鉄道が1949年に辺渓まで、後者の線形は引き続いて芦別森林鉄道が延長する形で1932年から、それぞれ運用されることになる。



旭川(1939年部修)当該地勢図は、こちらで全体を閲覧可能。

 函館線深川付近の様子。深川から西に留萠線、北に幌加内線(のちの深名線 1995年廃止)が分岐しているが、それと別に深川駅のすぐ西の留萠線分岐点付近から、反対側に石狩川岸まで引込線が記載されている。当該線路の敷設・廃止年を含めた情報や用途等については不明だが、おそらく砂利線ではないかと推測する。

 宗谷線比布駅を起点とした2種の軌道が記載されている。南東の石狩川岸に向かうのは愛別伐採林の石狩川流送木材陸揚網羽に至る馬車鉄道で、一般的には1914年敷設、1922年廃止とされているため、当地勢図編算時はすでに廃止となっていた可能性が高い。もう一つの南に向かう軌道は、現在の男山自然公園まで敷設されており、おそらく産出する鉱石等の搬送に供されたものと推測されるが、敷設・廃止年を含めて詳細は不明である。



旭川(1950年編集)

 引用図南に歌志内線(1891-1988)の末端部が記載されている。
 その終着駅歌志内駅から、東に向かうのは、住友上歌志内砿への専用線で1970年頃まで運用された。
 また南に向かうのは空知炭鉱の下ノ沢選炭場へ向かう専用線で、歌志内線の廃止とともにその役目を終えた。

 また、引用図根室線赤平駅のすぐ東より、2本の側線が記載されている。
 空知川の対岸に渡って東に向かうのは赤間炭鉱専用線(1938-1973)。赤平駅の南に回り込んでから西に向かうのは赤平炭鉱専用線(1938-1973)となる。

 根室線芦別駅から中の丘、緑泉、頼城と辿るのは、三井鉱山芦別専用鉄道(三井芦別鉄道)で、全長9.1km。1940年開業、1989年廃止。その中の丘駅の南から、三井芦別鉱第一坑への連絡坑道を通る運炭軌道も記載されている。なお、地図で「よりしろ」とある駅名は「らいじょう」が正しい。
 また、上芦別駅を起点に、当岡を経て、三井鉱山芦別専用鉄道との間に芦別川の谷を挟むようにして南下しているのは、全長60kmを越えた芦別森林鉄道(1932-1962)。
 さらに、上芦別駅北側から空知川(地図では辺渓川となっているが、辺渓川は引用図北の旭で空知川に合流する支流のこと。地図の表記は誤り)を越えて北に向かうのは三菱鉱業芦別鉱業所専用鉄道で、1949年に上芦別-辺渓6.9kmと、辺渓-油谷の油谷炭鉱専用線1.3kmが開業。また、1954年には、辺渓から分岐する形で辺渓三坑までの1.3kmが開業した。
 三菱鉱業芦別鉱業所専用鉄道の廃止は1964年だが、その直前に大夕張鉄道から2機の9200(9201と9237)を譲受し、これらを題材としたけむりプロの名作写真群「上芦別物語」が生まれた。

 旭川電気軌道(1927-1973)の東旭川線(6.7km)、東川線(15.5km)が記載されている。
 駅名の記載のある駅は以下の通り。
 東旭川線;豊田、旭山公園
 東川線;公有地、観音、旭正、上公有地、遊園地、西川
 公有地駅はのちの千代田駅、上公有地駅はのちの上旭正駅、遊園地駅はのちの十号駅となる。
 

 根室線新得駅を起点に東瓜幕に向かう北海道拓殖鉄道(1928-1968)と、その途中駅である屈足駅を起点とする苫小牧製紙軌道が記載されている。
 この地の森林資源を開拓した王子製紙は、当初(1920~21年頃)、新得駅までの軌道を敷設し、馬車鉄道により運送を行っていたが、北海道拓殖鉄道の開通(新得-鹿追間1928年開業)後、集積基地を屈足に移し、1935年には早くも動力化を行っている。
 当地図は屈足駅を起点とした「苫小牧製紙軌道」時代のものとなるが、その後苫小牧製紙軌道は、1954年からは新得営林署の管轄に移管され、「十勝上川森林鉄道」となる。
 十勝上川森林鉄道は、移管後間もない1958年に総延長が69.9kmと最長になったが、それから間もない1965年には廃止となった。
 なお、新得を起点としていた当時の苫小牧製紙軌道の線形は、小林實氏の「十勝の森林鉄道」において紹介されている。


夕張嶽(1927年製版)

 夕張川に沿うのは大夕張鉄道(1911-1987)で、開業時の終着駅は当地図の通り二股駅(のちの南大夕張駅)だった。二股駅は1929年に「 南大夕張駅」と改称されている。
 当地図では、その二股駅からほぼ真北に向かう運炭軌道が記載されていて興味深い。
 また、地図左端には、夕張鉄道鹿ノ谷駅を起点とした若鍋(わっかなべ)炭鉱専用線の末端部が見える。こちらは1908年に運用開始、1933年に廃止されたと考えられる。

 根室線佐念頃(さねんころ)駅はのちの御影駅。
 佐念頃駅を起点とするのは、花崗岩搬出のための十勝石材軌道(約10km)。1920年に敷設されたが、廃止時期は不明。 馬車鉄道による搬送を行った。
 


夕張嶽(1939年部修)当該地勢図は、こちらで全体を閲覧可能。

  根室線布部を起点に麓郷に向かう東京帝国大学演習林森林軌道(麓郷森林鉄道)が記載されている。1925年に敷設、1951年に廃止となった。
 当該地図では、麓郷本流線(12.9km)が記載されているが、そのほかにも、下流から、一ノ沢線、ニノ沢線、三ノ沢線、赤松沢線、本沢線と数多くの支線が存在し、総延長は36.3kmに達していた。

 根室線下金山駅を起点に西達布川上流に向かう東京帝国大学演習林森林軌道(西達布森林鉄道)が記載されている。1921年敷設、1952年に廃止となり、軌道の撤去は1954年。
 当該地図では、西達布川本線(13.4km)のみが記載されているが、最盛期には、下流から、老節布川線、相ノ沢線、小熊沢線、川松沢線、笹沢線、岩魚沢線、熊ノ巣沢線、奥ノ沢線、幌内沢線と数多くの支線が存在し、総延長は51.5kmに達していた。

 夕張市夕張川流域。引用図西を南北に延びるのは国鉄夕張線。地図中「大夕張」と表記されているのは、後の南大夕張で、そこから北へ運炭のための軌道が記載されている。
 地図修正時、すでに大夕張鉄道(1911-1987が、夕張川沿いに大夕張炭山まで敷設開通しているにも関わらず、当地勢図にはその記載がなく、本来南大夕張駅を起点としていた上記運炭軌道が宙に浮いたように表記されている。経緯は不明。

 根室線十勝清水駅を起点とし、十勝平野北西部に展開し、ビート搬送と旅客輸送に活躍した河西鉄道(1921-1951;1946年以降は十勝鉄道清水部線)の線形が記載されている。
 引用図は熊牛市街にある熊牛駅を中心に十字に展開している線形の様子がわかる個所。熊牛から西に至れば根室線十勝清水駅。北に至れば北熊牛駅。南に至れば南熊牛駅を経て関山貨物駅。東に至れば鹿追方面となる。なお、引用図北西端に見えるのは、北海道拓殖鉄道(1928-1968)。

 十勝鉄道美生線の終着、上美生駅付近。美生線は、十勝鉄道藤駅を起点とし、途中の常盤駅で八千代線を分岐していた。藤-上美生間は20.7km。
 1924年開業区間であるが、引用図を含む上美生-常盤間15.1kmは、他の線区より早い1940年に廃止となった。残った八千代線の付け根の部分である藤-常盤間は、八千代線とともに1957年に廃止となった。


夕張嶽(1950年編集)

  根室線布部を起点に麓郷に向かう東京帝国大学演習林森林軌道(麓郷森林鉄道)が記載されている。1925年に敷設、1951年に廃止となった。
 1939年部修図と比較すると、距離長が短縮された上で記載されていることがわかる。

 根室線金山駅を起点にトナシベツ川に沿って遡る金山森林鉄道が記載されている。1928年敷設、1958年廃止。延長は12.3km。

 三菱石炭鉱業大夕張鉄道線(1911-1987)が記載されている。夕張線清水沢から大夕張炭山まで総延長17.2km。
 引用図南の南部にある南大夕張駅から北に向かう運炭軌道が記載されている。運用時期は不明。
 また、大夕張炭山駅から北へ夕張川に沿って主夕張森林鉄道(1934-1961)が、南大夕張駅から東へペンケモユーパロ川及びパンケモユーパロ川に沿って下夕張森林鉄道(1939-1966)が延びている。

 根室線上芦別を起点に芦別川に沿って遡ってきた芦別森林鉄道の末端部が記載されている。
 芦別森林鉄道は、1932年敷設。最盛期の1953年には総延長63.7kmに達したが、1962年に廃止となった。

 幌内線幾春別駅を起点と死、幾春別川に沿って遡ってきた幾春別森林鉄道の末端部が記載されている。
 幾春別森林鉄道は、1935年敷設。全長22.3km。1955年廃止。


帯廣(1928年製版)

 1920年から1929年にかけて十勝平野南西部に路線網を伸ばした十勝鉄道。そのうち、地図中央付近のT字分岐点から南に向かうのが八千代駅に通じる八千代線。西に向かうのが上美生駅に通じる美生線。T字分岐の分岐駅の名は「常盤駅」。
 美生線は1940年、八千代線は1957年に廃止。
 八千代線の廃止と併せて、地図東を通る戸蔦線の当該部分も廃止となった。

 上図の北側を引用した。引用図の北端中央部から、札内川に沿って、まっすぐ南南西に進むのは、十勝鉄道戸蔦線(1920-1957)であるが、その途中の豊西駅付近から、札内川を渡って、幸震(さつない)に至る軌道が記載されている。
 幸震には、1929年に帯広から至る国鉄広尾線が開業し、駅名は幸震(こうしん)(のちの大正駅)となるが、それ以前に軌道が到達していたという資料は、当地図以外にはない。
 札内川を橋梁で越えているので、相応の規模であり、記載間違いとは考えにくいのであるが、十勝鉄道に関する資料では該当する線区(軌道)に関して記載しているものがなく、他の資料も乏しい状況で、詳細は不明。
 広尾線開業時には廃止されていたと考えられる。
 なお、未成線として知られる殖民軌道の幸震線は、広尾線開通後に、幸震から東方の糠内までを結ぶ計画だったもので、本引用図とは、時代も線形も異なる。

  "まぼろしの北海道製糖軌道" について (2016年9月5日補記)

 上図で紹介した十勝鉄道川西付近から札内川を越えて幸震に至る軌道について、小林實氏の「十勝の森林鉄道」を参照したところ、北海道製糖が敷設した専用軌道で、大正村幸震の甜菜輸送のため運用されたものであることがわかった。
 この図書によると、当該軌道は、十勝鉄道が開通した年と同じ1920年(1919年とする資料もあるとのこと)に敷設された。経緯不明ながら、甜菜輸送後毎年撤去の条件のもとで運用されていた。馬車鉄道であったことは間違いなく、上帯広・基松の郷土史「郷土八十年の歩み」に引用された「十勝鉄道営業廃止許可表」にもこの線形は記載されており、”大正市街迄、ビート運搬線”と記述されているという。(「大正」は「幸震」ののちの集落名)。札内川の渡河は、いくつかに分かれた流れを、地図の通り複数の木橋で越えていたと推測される。
 廃止時期については不明ながら、上記の経緯(おそらく1929年に開業する広尾線の経路決定とも関係するのではないか)から、正規の免許ではなく、仮設的な扱いで運用を行っていたため、廃止を明記した資料が乏しい状況にあると考えられる。正体がはっきりしないが、大正期にまで地図をさかのぼると登場するため、 "まぼろしの幸震線"と呼ばれることもある、とのこと。
 

 根室線止若(やむわっか)駅は現在の幕別駅。その止若駅を起点として丘陵地帯に延びているのは、新田帯革十勝製渋工場が、タンニン製造の為の木材運搬用に猿別川流域に敷設した馬車軌道。大正年間(1912-1926年)は運用されていたとされるが、敷設・廃止の正確な年数は不明。

 根室線池田駅から、根室線に沿って南進したのち、十弗川に沿って東台の毛根別沢入口に向かう新田帯革の東台馬車軌道が記載されている。渋薪や鉄道用の枕木を搬送した。
 延長およそ8kmで、1918年から1923年頃まで運用された。
 

 網走線(のちの池北線)本別駅から浦幌川上流に向かうのは、富士製紙馬鉄で、全長約15km。資料によると、5t程度のガソリンカーを導入した時期もあるとのこと。1940年代末に廃止となったと考えられる。
 

 根室線浦幌駅を起点とし、浦幌川、そして支流の常室川に沿って遡り、大和鉱業浦幌炭砿ケナシ坑へ至る馬車鉄道(17km)が記載されている。
 1918年に運用が開始されたが、1938年に尺別炭鉱への索道が建設される頃には廃止となっていた。

 根室線尺別駅を起点とする雄別炭鉱尺別線(1920年開業1970年廃止)。釧路国と十勝国の分水嶺を挟んだ反対側に浦幌炭鉱が存在していた。1941年に両炭鉱を結ぶ「尺浦通洞(尺浦隧道)」が完成し、浦幌炭鉱で採炭された石炭は、いったん尺別炭鉱に搬出されるようになる。


帯廣(1939年部修)当該地勢図は、こちらで全体を閲覧可能。

 根室線新得駅を起点とする北海道拓殖鉄道が、上士幌まで通じていたころの線形が記載されている。
 北海道拓殖鉄道は、1928年開業の軌間1,067mmの鉄道で、1931年には上士幌まで54.3kmの全長となった。上士幌駅までは、士幌線(1925-1987)が、北海道拓殖鉄道に先んじて1926年に開業していることから、北海道拓殖鉄道は根室線新得駅と士幌線上士幌駅を連絡する形となったが、上士幌-東瓜幕間は1949年に営業休止となり、十勝平野の北西部で根室線と士幌線を連絡していた線形が失われることとなる。
 引用図には、他に中音更駅が記載されている。

 十勝鉄道の線形が記載されている。引用図中央の南側で、T字の分岐点にあったのが常盤駅。引用図「基松」の集落から常盤駅を直進し、「中美生」の集落を経るのが美生線。常盤駅で美生線から分岐し南に向かうのが八千代線で、いずれも1924年に開業した。廃止は美生線の常盤駅から先が早く、1940年。八千代線と、常盤駅より東側の美生線は1957年に廃止となった。
 また、十勝鉄道美生線では、1928年製版図ではなかった中美生の集落への引込線を見ることが出来る。

 こちらも十勝鉄道を紹介。清川市街を経て戸蔦別川に接する集落に至るのが戸蔦線で、終点が「戸蔦駅」。その途中で「太平農場」へ分岐する支線があるが、その分岐駅が「南太平駅」で、支線の終点が「太平駅」となる。当初、帯広から延びる線路は、太平駅(開通時は西太平駅)までを1924年から25年にかけて開業し、その後戸蔦までの路線が1929年2月に開業する。元来終着駅であった太平駅は一次的に支線となったのち、1929年12月に廃止されている。そのため、引用図のように、戸蔦、太平の双方まで線路が運用されたのは1年弱の期間しかない。しかし、その10年後の修正を得た当地勢図にも、その状態での記載が行われている。
 なお、引用図北西端に見えるのは、同鉄道の八千代線。


帯広(1950年資料修正)

 根室線新得駅を起点とする北海道拓殖鉄道が記載されている。
 北海道拓殖鉄道は、1928年開業の軌間1,067mmの鉄道で、1931年には上士幌まで54.3kmの全長となった。上士幌駅までは、士幌線(1925-1987)が、北海道拓殖鉄道に先んじて1926年に開業していることから、北海道拓殖鉄道は根室線新得駅と士幌線上士幌駅を連絡する形となったが、1949年に上士幌-東瓜幕間が営業休止。引用図のように東瓜幕駅が終着駅となった。
 引用図には、他に瓜幕駅、北笹川駅が記載されている。1968年廃止。
 
 網走本線(のちの池北線 1910-2006)高島駅を起点とし、居辺川に沿って下居辺まで殖民軌道居辺線が記載されている。全長18.8kmの馬車鉄道で、1935年に敷設、1948年まで運用された。
 終点には「駅逓」の文字が見られる。


淕別(1929年製版)

 1924年から1953年まで運用されていた陸別森林鉄道であるが、なぜかその一部のみ記載されている。
 地図編算の頃は陸別駅まで通じていたと考えられるが、詳細は不明。


北見(淕別)(1955年資料修正)

 網走本線(のちの池北線 1910-2006)置戸駅を起点とする置戸森林鉄道(1921-1962)が記載されている。
 引用図中、置戸を起点に士居常呂川に沿って西に向かうのが本線・士居常呂39林班線(30km)、途中の勝山から仁居常呂川に沿って南に向かうのが仁居常呂105林班線(11.2km)。

 石北線留辺蘂駅を起点とし、無加川に沿って西に進む温根湯森林鉄道(1921-1961)が記載されている。


釧路(1928年製版)

 釧路川を流送された木材を網羽で回収し、釧路市鳥取にある富士製紙釧路工場へ搬送するための富士製紙木材運搬馬車鉄道が記載されている。1920年代に運用されていたと考えられる。
 また、根室線大楽毛駅を起点として、舌辛(現・釧路市阿寒町)市街地を経て釧路炭礦と澤口炭礦に至っていた馬車鉄道の起点側が記載されている。
 この馬車鉄道は1903年に運炭のため敷設されたと考えられる。廃止時期は不明。

 雄別鉄道の舌辛駅の西、舌辛市街を通って音別(おどんべつ)に向かうのは澤口炭礦馬車鉄道。また、舌辛市街で分岐し、阿寒川に沿って北上する馬車軌道は、富士製紙の飽別発電所に向かうもの。

 上徹別にある富士製紙の飽別発電所に至る馬車鉄道。発電所が建設された1920年頃に敷設されたと考えられる。廃止時期の詳細は不明。

 根室線白糠駅を起点とし、加利庶炭砿(カリショ炭山)に至る運炭軌道が記載されている。
 加利庶炭砿における採炭が、1914年から1938年にかけて行われていることから、この軌道も同じ時期に運用されたと考えられる。

 根室線上別保駅(現在の別保駅)を起点とする別保炭山の運炭軌道。
 北側がシュムカルベツ川にそって山縣炭山に向かう路線。
 南側がクッタクンペ川にそって三井鉱山釧路炭礦に向かう路線。
 これらの運炭線は、上別保駅が開業した1917年頃から運用されていたと考えられる。廃止時期の詳細は不明。1933年の北海道炭礦案内では、木製炭車が運用されている旨の記載がある。


釧路(1939年部修)当該地勢図は、こちらで全体を閲覧可能。

 釧網線の塘路駅を起点とする殖民軌道久著呂線。上久著呂までの全長28.9kmの馬車鉄道で、1934年から1965年まで運用された。

 引用図南に記載されているのが雄別鉄道(1923-1970)。その隠禰平駅を起点とし、北に向かうのが殖民軌道仁々志別線。全長12.2kmで、1937年から1964年まで馬車鉄道として運用された。

 根室線新富士駅を起点とし、下幌呂で分岐していた2つの殖民軌道。東側で中雪裡に至るのが雪裡線、西側で上幌呂の先、新幌呂に至るのが幌呂線。いずれも1929年から1968年まで運用された。1952年にはいずれの路線も鶴居村営軌道として動力化を果たしており、長く活躍した殖民軌道路線である。

 釧路周辺の様子。釧路駅から北にターンして西に向かくのは雄別鉄道(1923-1970)。釧路川を流送された木材を回収し鳥取にある富士製紙釧路工場へ搬送するための富士製紙木材運搬馬車鉄道及び根室線上別保駅(現在の別保駅)を起点とする別保炭山の運炭軌道については1928年製版図の通り。さらには、現在も釧路コールマインの運炭鉄道としてその一部が運用されている東釧路駅を起点とする釧路臨港鉄道(1925年開業、旅客営業は1963年まで。1966年から1986年にかけて段階的に部分廃止)、そして、新富士駅を起点とする殖民軌道雪裡線(1929-1968)、加えて釧路駅のすぐ西から分岐する浜釧路貨物駅への貨物線(浜釧路駅は1901年釧路駅として開業、根室線の延伸に伴って1917年貨物駅化、1989年廃止)が記載されており、たいへん賑やかな状況となっている。

 根室線上尾幌駅を起点とし、南に向かうのは、八千代炭鉱の運炭用軌道で、全長およそ5km。1918年頃から炭鉱が閉山する1943年まで運用された。八千代炭鉱は小口の炭鉱であったが、晩年は太平洋炭鉱の系列下となっている。


根室(1949年修正)

 根室線茶内駅を起点とする殖民軌道茶内線(1929-1972)と円朱別線(1929-1972)が記載されている。
 ともに浜中町営軌道として、殖民軌道・簡易軌道の中で、もっとも最近まで運行された。
 円朱別線の末端は、別海町の上風蓮(開南)まで到達していた。

 根室線厚床駅を起点とし、上風蓮に向かう殖民軌道風蓮線が記載されている。1933年開業、1960年にいったん運行を休止し、1963年に起点を標津線(1933-1989)奥行臼駅に付け替えて、1971年まで運用された。
 引用図は厚床駅を起点とした時代の線形となる。
 
 根室市内に起点を持ち、歯舞(引用図中の歯舞より東方)までの15.5kmを結んだ根室拓殖鉄道が記載されている。
 根室拓殖鉄道は、軌間762mmの鉄道で、1929年から1959年まで運用された。
 引用図では、根室線根室駅に接続しない根室側末端の様子がわかる。ちなみに根室拓殖鉄道の根室側駅も、「根室駅」であるため、この時代には、国鉄根室駅と併せて、「根室駅」が二つ存在したことになる。


標津(1939年部修)当該地勢図は、こちらで全体を閲覧可能。

 標津線春別駅を起点とする殖民軌道、中春別線が記載されている。標津線の当該部分が開業したのは1934年(廃止は1989年)。これに併せて、1936年に上春別までを結ぶ殖民軌道中春別線も開業するが、1950年代に廃止となっている。


標津(1949年発行)

 標津線(1933-1988)川北駅を起点とした殖民軌道忠類線が記載されている。
 忠類線は1935年に殖民軌道根室線北標津駅を起点として、1935年に開業。1937年に標津線が根室標津までの開業を果たすと、起点を川北駅に変え、1953年まで馬車鉄道として運用された。

 標津線(1933-1988)西別駅を起点とする殖民軌道西別線が記載されている。
 西別線は1929年開業。1939年には殖民軌道上春別線の春日駅まで延長され、全長26.1kmとなった。1956年まで馬車鉄道として運用された。


斜里(1939年部修)当該地勢図は、こちらで全体を閲覧可能。

 釧網線止別駅を起点とする北見鉄道が記載されている。
 北見鉄道は、1930年に仮止別-小清水間の8.9kmを結んで開業した軌間1,067mmの鉄道。1937年には釧網線止別駅まで線路を結んだ。  蒸気機関車、ガソリン動力車により運用されたが、日中戦争による物資の不足等により、1939年に廃止となった。引用図には、唯一の途中駅であった野坂駅も記載されている。

 標津線(1933-1988)西春別駅と、西春別駅を起点とし、西春別の集落(現在の別海町西春別昭栄町)を経て東に向かうのは殖民軌道上春別線(1933-1953)。分岐点の春日駅のやや東に上春別駅があり、そこから先は標津線春別駅へと向かう殖民軌道中春別線(1936-1950年代)。春日駅から南に向かうのは、標津線西別駅へ至る殖民軌道西別線(1929-1956)となる。いずれも馬車鉄道。

 標津線(1933-1988)中標津駅と、中標津駅を起点とし、開陽の集落を経て東北に向かうのは殖民軌道根室線。根室線は1933年に開業したが、代替交通機関として開業した標津線に沿う部分は順次廃止されていった。開陽へ至る路線は、上武佐駅と連絡する部分が残され、1954年まで運用された。


斜里(1949年修正)

 標津線(1933-1988)西春別駅を起点とし、西春別市街から北東の上春別方面に向かうのは殖民軌道上春別線。1933年に開業の後、西別線に編入され、1950年代半ばに廃止されたと考えられる。馬車鉄道。
 また、その上春別線からT字路で南東に分岐しているのが標津線西別駅に向かう殖民軌道西別線(1939-1956)。T字路の分岐駅は春日駅。

 標津線(1933-1988)計根別駅を起点とし、ケネカ川に沿って遡るのは殖民軌道養老牛線。全長11.1km。1938年から1961年まで運用された。秘湯養老牛温泉があるのはパウシベツ川上流。

 釧網線弟子屈駅を起点に仁田山(現在の仁多山)の峠道を越えているのは、殖民軌道弟子屈線で、虹別までの22.2kmを結んだ。開業1933年、1949年廃止の馬車鉄道。
 なお、虹別には標津線(1933-1988)西春別駅を起点とした殖民軌道虹別線(1938-1954)があり、1938年から1949年までの間、線形は連続していたと考えられるが、当地図では虹別線は表記されていない。なお、弟子屈線末端部の北虹別-虹別間が、虹別線に転用されていたという説もある。
 1946年発行の5万分の1地形図「磯分内」には、虹別線のみが記載されているため、当地勢図の情報が古く、弟子屈線の廃止は1949年より前だった可能性もある。

 釧網線斜里駅から、南東、次いで東にまっすぐすすみ、その後北東の島戸狩を目指すのは、殖民軌道斜里線。知布泊までの17.9kmを結んだ馬車鉄道。1932年開業、1953年廃止。
 なお、斜里から以久科に延びるのは、建設中の根北線。越川までは1957年に開業し、根室標津との連絡を目指したが、果たせず1970年に廃止となった。

 釧網線藻琴駅を起点に藻琴川に沿って南下するのは殖民軌道藻琴線。1935年に開業、最盛期の総延長は32.7kmに及んだが、1965年に全線が廃止となった。


斜里(1960年資料修正)

 釧網線藻琴駅を起点とする東藻琴村営軌道(1935-1965)の末端部。藻琴川上流、「藻琴駅逓所」のある山園駅に向かう本線と、途中の末広駅から分岐して、東洋川に沿って東洋沢駅に向かう東洋沢支線が記載されている。
 1961年にまず藻琴-東藻琴間が廃止されたのち、1962年に東洋沢支線、1965年に最後まで残った東藻琴-山園が廃止となった。

 斜里駅と起点に越川駅に向かう国鉄根北線(1957-1970)。
 当初は国防の観点から、知床半島基部を横切り、根室標津まで物資の搬送路を確保することが重視され計画着工された。
 時代背景が分かったこともあり、越川より先は、未成線のまま、開通区間が廃止されることとなった。なお、未通部分にあるアーチ橋「越川橋梁」は、現在もその姿を見ることができる


網走(1939年要修)当該地勢図は、こちらで全体を閲覧可能。

 浜網走駅への貨物線が記載。浜網走駅は、かつて「網走駅」の名で、石北線の終着だったが、1924年の釧網線網走-北浜間開業を経て、1932年に「網走駅」が現在地に移転となり、旧駅は「浜網走駅」の名称の貨物駅となった。
 浜網走駅は、貨物駅として活躍したが、1984年に廃止となった。


紋別(1929年製版)

 名寄線中湧別駅を起点とし、湧別町芭露に至る富士製紙の馬車・森林軌道。1919年に敷設され1930年に廃止となった。


紋別(1939年部修)当該地勢図は、こちらで全体を閲覧可能。

 名寄線下湧別駅(のちの湧別駅)を起点とし、サロマ湖畔のテイネイに向かう湧別町芭露に至る湧別軌道が記載されている。湧別軌道は軌間762mm、全長6.2kmの軌道で、1930年開業。ガソリン機関車が活躍し、上芭露方面への延伸も計画されていたが、1935年に中湧別-佐呂間間の湧網西線が開業した影響等で、1939年に廃止となる。
 なお、下湧別駅は1916年に湧別軽便線の終着駅として開業、1932年に名寄線に編入され、名寄線の支線の末端駅となる。中湧別-湧別間は、その末期は1日2往復の閑散区間として知られたが、名寄線全線廃止に併せて1989年廃止となる。名寄線に先んじて、湧網線は1987年に廃止。
 また、引用図には、1929年製版図でも示した富士製紙の馬車・森林軌道(1919-1930年)も記載されているが、時期的に湧別軌道と共存期間はほとんどなかったと考えられる。湧別軌道は流送された木材の搬送も行っていたとされるため、富士製紙の馬車・森林軌道の代替機関としての役割も果たしていたと推測される。


羽幌(1949年応急修正)

 留萠線留萠駅を起点とし、達布に向かう天塩炭砿鉄道(25.4km,1941-1967)の末端側が記載されている。途中駅である天塩住吉の駅名が見える。
 天塩炭砿鉄道の終着、達布駅を起点としていた達布森林鉄道(1945-1958)については、記載がない。

 羽幌線(1927-1987)の築別駅を起点とする羽幌炭礦鉄道(1941-1970)が記載されている。
 当地図の時点で羽幌線の終着は築別駅。羽幌線が築別駅まで延長されたのが1941年で、羽幌炭礦鉄道は羽幌線の築別延長に合せて開業したことになる。
 ちなみに最後に残った未通区間(初山別-遠別)の開業により、羽幌線が全通したのは1958年。


名寄(1928年製版)

 宗谷線士別駅を起点とし、上士別に至る士別軌道が記載されている。
 士別軌道は、1920年に馬鉄として上士別までの11.9kmが開業。1925年には奥士別(のちの朝日)までが延長開業し、全長21.4kmとなった。(当地図では上士別が終点となっている)
 1928年に蒸気機関車、1954年にガソリンカー、1956年にディーゼル機関車が導入されたが、1959年に廃止となった。


名寄(1939年部修)当該地勢図は、こちらで全体を閲覧可能。

 宗谷線美深駅を起点としニウプ川に沿って遡るのは殖民軌道仁宇布線で、1935年から1963年まで運用された。途中、美深森林鉄道としての機能を併用した時期もある。美幸線建設のため廃止となり、その道床の多くを利用して美幸線(美深-仁宇布間)は1964年に開業するが、北見枝幸までの全通を果たすことなく、1985年に廃止となった。


名寄(1951年資料修正)

 宗谷線士別駅を起点とし、奥士別に至る士別軌道が記載されている。
 士別軌道は、1920年に馬鉄として上士別までの11.9kmが開業。1925年に奥士別(のちの朝日)までが延長開業し、全長21.4kmとなった。
 奥士別を起点としていた士別森林鉄道(1930-1958)の記載はない。
 1959年に廃止となった。


枝幸(1929年製版)

 宗谷線(のちに北見線への改称を経て、天北線となる)の下頓別駅を起点とし、宇津内川に沿って遡る宇津内森林軌道が記載されている。1922年から1944年まで運用された。最盛期には17.5kmに及ぶ延長があったとされている。
 


枝幸(1939年部修)当該地勢図は、こちらで全体を閲覧可能。

 殖民軌道枝幸線の線形が記載されている。引用図中「上毛登別」付近から「本幌別」に至るのは、北見線(のちの天北線)小頓別駅を起点とし、歌登を経て枝幸に至る殖民軌道枝幸線。枝幸線は1929年開業、1931年に動力化を果たす。枝幸へは、1936年に興浜北線が開業したこともあり、1951年に歌登-枝幸間は廃止となるが、その後も引用図を含む小頓別-歌登間は、運用が継続され、1970年まで活躍した。  引用図で「本幌別」から「二十六線」に至るのは、枝幸線歌登と本幌別を結んだ全長10.6kmの本幌別線で、1936年から1956年まで運用された。
 

 宗谷線問寒別駅を起点とする殖民軌道問寒別線。問寒別川に沿う線形が記載されている。全長13.2kmであるが、さらにクロム鉱山や炭鉱への延長線が配された時期もあった。1930年開業、1941年動力化を経て、1970年に廃止。
 


枝幸(1949年応急修正)

 興浜北線(1936-1985)北見枝幸駅付近から北見幌別川に沿って歌登に向かっているのは、殖民軌道枝幸線(歌登線)。枝幸港-歌登間16.1kmは1930年に開業、1951年に廃止。
 歌登-小頓別間19.1kmは、歌登町営軌道として1970年まで営業が続けられた。
 美深と北見枝幸を結ぶ予定だった未成線、美幸線の線形は、ほぼ枝幸線に沿っていた。
 

 引用図左上端部、北から西に向かうのが殖民軌道枝幸線(歌登線)。六線とあるのが歌登の市街。分岐点から志美宇丹(シビウタン)に向かうのが殖民軌道幌別線。
 枝幸線(歌登)は1930年開業、引用図中分岐点に相当する歌登駅以東(16.1km)は1950年に廃止。歌登と天北線小頓別駅を結んだ歌登駅以西(19.1km)は1929年開業で、歌登町営軌道として1970年まで存続した。
 歌登-志美宇丹の幌別線(12.6km)は1933年開業。やはり歌登町営軌道の一部として、1969年まで存続した。


天塩(1953年資料修正)

 北見線(のちの天北線 1914-1989)沼川駅を起点に南に向かうのは殖民軌道幌沼線(沼川線)。幌沼線は、宗谷線幌延駅と北見線沼川駅を結ぶ全長34.9kmの長大な路線だが、全線が運用されていたのは1934年から1950年にかけて。最初に敷設されたのは1929年幌延側の13.8km、次いで1933年に沼川側14.9kmが敷設され、中間部が開通したのが1934年。
 1950年の廃止後、沼川側のみ1965年まで存続した。
 当地図では、全線が連絡された状態での線形を見ることができる。

 上記、殖民軌道幌沼線(沼川線)(1929-1965)の幌延側。宗谷線豊富駅を起点とする日曹炭鉱天塩砿業所専用鉄道(1940-1972)とは下エベコロベツ付近で平面交差をしていたはずだが、なぜか当地図は日曹炭鉱天塩砿業所専用鉄道の記載が落ちている。
※ 引用図は原寸を縦横1.5倍にして表記してあります。

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謝辞

 本ページの作成にあたり、東京都世田谷区在住の方より、貴重な古地勢図を数多く寄贈いただきました。この場を借りて、御礼申し上げます。