夕張周辺の鉄道

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国鉄 夕張線

 国鉄夕張線、真谷地炭鉱専用鉄道の写真は、いずれも1970年10月に撮影されている。大夕張鉄道については、メモ等が発見できなかったが、おそらく同じ時期の撮影だったと想定される。
 夕張線は北海道炭礦鉄道によって1892年に追分-夕張間を開業した路線で、1906年に国有化されている。茅沼炭鉱の索道を除けば、北海道最古といってよい運炭鉄道である幌内線の開業のわずか10年後であり、特に歴史のある線区の一つ。現在でも、札幌と道東を結ぶバイパス線、石勝線の支線として存続している。1960年代の夕張周辺の地形図を見ると、夕張鉄道、大夕張鉄道、真谷地炭鉱専用鉄道、夕張線の登川支線をはじめ、様々な運炭鉄道や引き込み線、さらに大夕張鉄道の南大夕張から各方面に森林鉄道が延び、「全盛期」という言葉を彷彿とさせる。父が訪問した1969年は、その最後の時期に当たる。往時には12万人を近くに達していた夕張市の人口は、1970年の時点では約7万人とだいぶ減少はしていたが、いくつもの炭鉱が稼働しており、まだまだ活気があった。現在、その人口は1万人を割っている。
 清水沢、沼ノ沢付近と思われる商店街は、盛時のこの地域の姿を彷彿とさせる。
 写真1のD51711は、煙突の形状が変わっているが、これはギースル・エジェクタ (Giesel Ejector) と呼ばれるもので、蒸気の吐き出し面積を調節することにより、燃料効率を高めたもの。


1 鹿ノ谷駅にてD51711

2 鹿ノ谷駅 D51733

3 D51733

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5 鹿ノ谷駅 D51711

6 D5025

7 D5025 D5025は北見市南仲町三治公園で静態保存されている

8 夕張線の駅と思われる。沼ノ沢だろうか。

9 沼ノ沢の町並み

10 沼ノ沢駅

11 沼ノ沢の町並み


夕張線の時刻表 上 1965年6月 下 1971年10月

 紅葉山から登川への支線もあり、時刻表も活況を呈していた。1965年の時点では、札幌から直通の準急「夕張」が1日2往復していた。紅葉山以降では、通過駅が南清水沢のみというのももっともという感じがする。沼ノ沢では真谷地炭鉱専用線、清水沢では大夕張鉄道、鹿ノ谷では夕張鉄道がそれぞれ接続していた。夕張-清水沢や夕張‐沼ノ沢の区間運転列車の存在も、当時の人の動線を物語る貴重な証拠。小樽や苫小牧といった港湾都市へ直通する列車は、混合列車の雰囲気を漂わせている。

 1971年の時点では、札幌直通の急行夕張は1日1往復であり、これは追分から普通列車として運転していた。小樽、苫小牧への直通列車も継続して運用されている。

 2015年現在、糸井発夕張行の普通列車(糸井15:37発4489D苫小牧から2641D)が存在する。これは車両運用の関係のダイヤで、通して乗る旅客は少ないと思うが、この列車の存在は、70年代の時刻表への憧憬を掻き立てるものではある。鉄道ファンとしては、このような運用の列車が時刻表に残っているのは、嬉しいもの。


真谷地炭鉱専用鉄道


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14 5055号機

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真谷地炭鉱専用鉄道5055号機  

 4110形と呼ばれる鉄道院が製作した急勾配路線用のEタンク式蒸気機関車の1機。5055号機は、1920年製で、美唄鉄道が国鉄から譲受し、3号機として運用していたものを、1967年に今度は真谷地炭鉱専用鉄道が譲受し、運用していた。

 これらの写真は1970年10月に撮影されたもの。71年5月に廃車となった。

国土地理院発行5万分の1地形図 「紅葉山」 1976年編集 より

 父の話によると、写真17~20を撮影した際、先頭に作業員がいたた。作業員のいない写真を撮りたかったことから、事業所に電話をしてみると「次は作業員なしで運行します」とのこと。果たして待っているとその通りの列車が来て、めでたく写真28~31を収めることができた。


大夕張鉄道のC1101と大夕張鉄道について

 大夕張鉄道は、正式名称を三菱石炭鉱業大夕張鉄道線といい、1911年に清水沢-南大夕張の7.6km、1929年に南大夕張-大夕張炭山の9.6kmを開業した。南大夕張は下夕張森林鉄道の、大夕張炭山は主夕張森林鉄道の基点ともなり、運炭だけでなく、森林資材の搬出にも活躍した。関連炭鉱の閉山等に伴い1973年12月16日に南大夕張-大夕張炭山間が、1987年7月22日に清水沢-南大夕張間が廃止となった。管理人は、当該鉄道廃止前に夕張を訪れ、当該区間に乗車している。

 当時、南大夕張炭礦が年間90万トン、大夕張炭鉱が120万トンを算出しており、そのすべてが大夕張鉄道によって搬出されていた。そのための機関車は96型6両(自社発注の2号機、3号機と国鉄から譲渡された4~7号機)と雄別鉄道を前身とするC1101であった。2,3号機はC56型切欠きテンダー付、C11は大夕張炭山の入換専用だった。
 
注意: 当欄で公開していた写真は、泰和車両で撮影されたと考えられる38-42を除き、幌内線、及び夕張鉄道のものであるとご指摘をいただきました。2016年1月29日付で掲載箇所について修正させていただきます。ご指摘ありがとうございました。

左図  国土地理院発行5万分の1地形図 「石狩鹿島」 1962年発行から 大夕張周辺



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39 大夕張鉄道で活躍したC1101号機

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大夕張鉄道(三菱石炭鉱業大夕張鉄道線) C1101号機  

 C11形は鉄道省が1932年に設計した過熱式のタンク式蒸気機関車で、支線を中心に全国的に相当量が投入された。大夕張鉄道のC1101は1944年に製造された。発注は雄別炭鉱尺別専用鉄道であったが、大夕張鉄道に投入使用された。

 当該機は1972年に廃車となり、三重県長島温泉のナガシマスパーランドに売却された(現在は解体され残っていない)。  

 当ページの写真38-42は、おそらくすでに廃車となったC1101号機と思われる。大夕張に静置されていた際のものかわからないが、付近の風景は大夕張付近には見えにくいため、あるいは琴似の泰和車両などの敷地に、一時置かれていたのかもしれない。



大夕張; 地図上にのみ存在した幻の町

 管理人が1984年に大夕張を訪問したとき、すでにそこに住民はおらず、わずかに廃墟が残るのみだった。しかし、最近まで、地図サイトなどでは、往時の行政区割が存在することにより、鹿島、千年、常盤、明石といった町名が記載されていた。
 これらは、「地図上にのみ存在する幻の町並み」として、地図ファンの間で有名だった。
 2014年のシューパロダムの完成後、これらの地域はダム湖に水没し、ウェブ上の地図サイトなどでも、これらの地名は、青い水域を示した表示に塗られてしまい、かつての街区の様子は、見ることができなくなった。その結果、2万人の人が暮らした大夕張の痕跡は、地図上からも無くなった。
 左図は、ダム完成直前まで示されていた大夕張の街区の様子。
 

 
大夕張鉄道 時刻表 (上段)1969年7月 (下段)1971年10月