幌内線


 幌内線は北海道に鉄道網が形成される端緒となった路線。幌内周辺で産出される良質の石炭を小樽の手宮港まで搬送する目的で、アメリカの鉄道技師ジョセフ・ユーリー・クロフォードの指導により、1882年に鉄道が敷設された。

 石炭産業の衰微から、1982年に廃止となったが、現在でも小樽の手宮と同様に、幌内駅跡に三笠鉄道記念館、三笠駅跡に旧幌内太駅のイメージで建設されたクロフォード公園があり、併せて「三笠鉄道村」として充実した施設になっている。期せずして、北海道最初の本格的な鉄道であった手宮-幌内間は、その両端が廃止されてしまったことになる。

 父の訪問は、蒸気機関車末期の1974年5月と10月であった。すでに幌内-三笠間の支線については、1972年の時点で旅客営業を打ち切り、貨物線となっている。(この区間の線路は、大部分が現存している)。この双方の訪問には、幼少の管理人も一緒だった。とは言っても生まれて間もないころの事であり、記憶はない。しかし、その一方で、故郷の札沼線を行く蒸気機関車を眺めた記憶はなんとなくある。これは、繰り返し作業による記憶の定着かもしれないし、後に何度かその話を聞く機会があって、疑似記憶的に後発的に刷り込まれたものかもしれないが、本人にもよくわからない。いずれにしても、幌内線については、記憶がなかったので、これらの写真の中に、幼少の自分の姿を発見して初めて「自分も行っていたのだな」と思った次第。

 写真18~27の59609は、現在三笠鉄道村で静態保存されている



1 三笠駅。母、妹、管理人。1974年5月

2 79653

3 79653

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5 79653

6 79653 1974年5月

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8 79653

9 79653

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15 三笠駅

16 三笠駅。幌内からの支線が合流

17 三笠駅

18 59609

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20 59609 1974年10月

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49 幾春別川に沿って

50 幾春別川に沿って

51 幾春別川に沿って

52 幾春別川に沿って

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55 近くにいたネコの親子

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57 59609

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62 給水塔

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65 79653 幌内駅

66 79653 幌内駅

67 79653

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69 D5159

70 D5159

71 D5159

72 D5159

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75 給水塔

76 転車台

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 国土地理院発行5万分の1地形図「岩見沢」 1974年編集

 三笠駅では幌内からの支線が合流していた。分岐点が三笠駅より岩見沢寄りにあったため、かつて幌内を出た旅客列車は、一旦本線に入ってから、後進して三笠駅に入線していた。幌内線廃止時に運行された臨時列車も、この経路を辿った。5万分の1地形図1978年編集「三笠」;分岐点が三笠駅の少し先だった様子が示されている。三笠駅は、三笠市街から幾春別川を渡った南側にあった。現在、この場所がクロフォード公園となっている



 1961年1月の幌内線時刻表。

 北海道の鉄道史を感じさせる「幾春別発手宮行」の旅客列車があった。また、幾春別発万時炭山行なども、当時に思いを馳せさせる列車である。タイムスリップしたら、乗り通してみたい列車の一つ。

 左に除くと書かれた列車番号以外は、すべて蒸気機関車が牽引していた。
   
 1965年6月の幌内線の時刻表

 この頃は、まだ幌内-三笠間も旅客営業があり、三笠駅への発着はスイッチバック式の運転が行われていた。とはいえ、1961年と比較すると、旅客列車の削減が進められており、土曜日以外では7時から16時まで、旅客列車の運行がない空白の時間帯となっている。
 「汽」とあるのは、蒸気機関車が牽いていた列車。

 1973年8月の幌内線の時刻表

 幌内-三笠間は貨物専用線となったことで、時刻表から姿を消した。
 
 1日9往復の旅客列車で、訪問・撮影時もほぼ同様の運転形態だったと思われる。