北海道の殖民軌道と森林鉄道

 2016年現在、全国の鉄道路線を示した地図を見ると、北海道は広大な土地に、わずかに鉄路が残っているのみである。しかし、この北海道が、かつては鉄道王国と呼ばれた。それは、国内最後となる蒸気機関車たちが活躍していた70年代初めよりさらに時代を遡る。
  北海道の多くが未開の地であった時代、1869年に札幌に開拓使が設置され、大規模な移民・殖民が図られる。これは、広大な北海道を、森林資源、鉱物資源の供給基地としてはもとより、一次産業全般の生産拠点として開発し、ひいては国力を増強する目的で進められた。
 しかし、当時の北海道は、まだ交通網が未発達であり、加えて積雪、融雪の時期があるため、足元の状態は季節によって大きく変わった。
 そのような状況に対応するため、鉄道による輸送が各地で推進されることとなる。 運炭の鉄道とともに大きく発達したのが森林鉄道である。森林資材の搬出を主目的とする鉄道は、1908年の苫小牧の王子製紙工場関連路線の敷設に端を発し、その後官営のものが北海道中央部の山間を中心に敷設された。留辺蘂を起点とする森林鉄道は、標高1,000mを越えて石狩国に至り、丸瀬布の武利森林鉄道は、総延長で80kmを越えた。
 しかし、これらの森林鉄道の多くは、1950年代のうちにピークを迎えるや、急速に線路網を縮小し、1960年代後半に消滅してしまうこととなる。

  北海道の鉄道史で特に特徴的なものの一つに、入植した人の移動、生活物資や農産物等の搬送に供するため敷設された「殖民軌道(のちに簡易軌道と称する)」の存在がある。これらは、融雪期の土壌が不安定であった道東を中心に各地に敷設され、文字通り入植者の利便に供した。当HPで紹介している幌延の殖民軌道はその一つである。
 しかし、こちらも1960年代から70年代はじめにかけてすべて廃止されることとなる。
 本ページでは、森林軌道、殖民鉄道をそれぞれ、路線図化し、北海道の「鉄道王国」ぶりを、視覚的に表現することを目的にまとめてみた。
 とはいえ、これらの線路がすべて同じ時期に存在したわけではない。しかし、それぞれの線路が、いかに北海道の奥深くまで、網の目のようにはりめぐらせられ、北海道を鉄道王国たらしめていたかは、ある程度想像できるものになったと思う。じっさいには、さらに各種の私鉄線、運炭線、鉱山鉄道がこれに加わっていたのであるから、その路線の多様さは、現在の状況からは、まるで想像できないものなのである。


殖民軌道(簡易軌道)

 北海道の奥地への入殖・開拓を行うにあたり、当所、交通手段は馬のみという状況であった。その馬であっても、火山灰地、泥炭地の多い土壌においては、降雨期、融雪期のぬかるみには抗しえず、そのために、入殖が進まないことが問題であった。
 そのような背景から、軌間762mmの簡易軌道が建設されることなる。1925年5月の厚床-中標津58kmの開通が成功を収めたことから、1932年までに13線区318kmが開業。道東、道北を中心に、各地で軌間762mmの「殖民軌道」が敷設されることになる。これらの軌道の多くは、開設時馬車鉄道であったが、長大な線区を中心に動力化が行われる。1929年に根室線(厚床-中標津-浜標津)、枝幸線(小頓別-歌登-北見枝幸)にあいついでガソリンカーが導入される。  
 この根室線と枝幸線は、軌道法第32条に準じ、鉄道省との協議に基づいて設置されたため、時刻表にも掲載されたが、その他多くの線路は、北海道庁が鉄道省との協議なしに建設したものとされる。敗戦後、殖民軌道は、内務省から農林省の管轄となり、「簡易軌道」という別の呼称が与えされた。また、1951年に北海道開発局が発足し、これと管理委託契約を結ぶ「町村営軌道」という形態で運営されるものが増える。  
 1946年には、すでに殖民軌道の総延長は600kmを越え、その後も各地の開発に尽力したが、1960年代後半に入り、道路が改良化されるとともに、これらの軌道は廃止され、最後に残った茶内線が1972年5月1日に廃止され、殖民軌道の時代は終わりを告げた。

参考: 北海道移民事業施設概要 ;北海道庁拓殖民課 編 (北海道庁拓殖民課, 1938)

 
 殖民軌道 路線地図(1)

 根室地域については、1933年の国鉄標津線開業前後で、大きく状況が変わるため、それぞれ別の地図にまとめる形とした。
 本図は「標津線開業前の根室地域」の殖民軌道の路線を示した。
 1925年に開業した厚床から標津に至る83kmの根室線が、成功を収めることとなった最初の軌道であり、北海道の殖民軌道の端緒となったものである。
 その線形は、こまめに集落にたちよるもので、狭軌鉄道ならではのカーブを随所に持っていた。
 1933年から37年にかけて開業する国鉄標津線の線形を併せて記載したので、殖民軌道の線形との違いがある程度見て取れるだろう。
 標津線開業と併せて、並行していた殖民軌路(1)根室線、(4)計根別線、(15)(旧)標茶線は廃止となったが、その際、川北-北標津は(5)忠類線の一部として、開陽-中標津は開陽-上武佐に路線を付け替えて根室線の名を引き継いで、西別-矢臼別土場は(3)矢臼別線として、厚床-風蓮は(2)風蓮線として、それぞれ残ることとなる。そのことは、各集落において、軌道の存在が、生活の成り立ちにきわめて深くかかわっていたことを示す。

注: 地図中、標津線の「中春別」は「春別」の誤りです。



 殖民軌道 路線地図(2)

 本図は「標津線開業後の根室地域」及び、「その他道東地域」に敷設された殖民軌道の路線を示した。
 すべてが同時期にあったわけではなく、例えば(2)の風蓮線は、厚床-上風蓮の線路を、後に奥行臼-上風蓮に付け替えたものとなる。
 国鉄標津線の各駅を起点とする路線が多く、標津線が開発、入植に果たした役割の大きさをよく示す。
 標津線の西春別駅は、(15)標茶線の同名駅から4kmほど離れたところに建設されたが、殖民軌道の西春別駅も(7)上春別線(その後(10)西別線に編入)に残ったため、同名駅が存在していた。(当時の地形図)。当地図に示した「西春別駅」は国鉄線のものとなる。また、「西別駅」はのちに「別海駅」となる。
 (14)円朱別線の終点は「上風蓮」とされる場合もあるが、(2)の風蓮線の終点とは接続していないため、本図では「開南」と表記した。
 当図に示した殖民軌道のうち、1970年代までその命脈を保ったものは、(12,13,14)の浜中町営軌道、(19)の標茶町営軌道のみである。中で、最後まで運行本数が多かったのは、浜中町営軌道とされている。
 浜中町営軌道で使用されていたDL機関車の1両は、現在まで丸瀬布いこいの森で動態保存されており、無雪期の週末に訪問すると、この機関車の牽く列車に乗ることができる。
 



 殖民軌道 路線地図(3)

  本図は道北に敷設された殖民軌道の路線図を示した。
 このうち、(26)の歌登町営軌道歌登線の小頓別-歌登間と、(31)の幌延町営軌道については、1970年代まで存続していた。前者は、時刻表にも掲載されていた。いずれも、70年代まで運用されていたことで、殖民軌道の象徴的な路線である。
 管理人の父は、1970年に幌延町営軌道を訪問しており、その模様は「幌延町営軌道(簡易軌道問寒別線)」において紹介している。
 (32)仁宇布線と(28)歌登町営軌道幌別線は、いずれも国鉄美幸線建設に伴って廃止された。1964年に国鉄美幸線の美深-仁宇布間が開業し、残る仁宇布-歌登-北見枝幸も工事が進められたが、結局未成線のまま、1985年に廃止となり、歌登町の悲願は叶わなかった。

 



 殖民軌道 路線地図(4)

  本図では、道北、道東以外の道内に敷設された殖民軌道4路線を示す。
 殖民軌道が積極的に建設された道東、道北と比較すると、道央、十勝の建設路線はわずかで、全4路線となる。加えて、これらの4路線は、いずれも長期的な活躍をすることがなかった。
 (35)の貫別線は、他線と接続していない点でユニークな存在。当時、富川-平取間を平取鉄道が結んでおり、これを荷負まで延伸して結ぶという計画があったと考えられる。
 (34)の当別町営軌道は活躍が期待されていたが、台風被害から復旧することができず、やむなく廃止となった。


地図番号 線名 区間  距離 開業 廃止 備考 関連図
(1) 根室線 厚床-根室標津
 厚床-中標津
 中標津-三本木
 三本木-標津
 中標津-開陽
83.0
 (48.3)
 (31.7)
 (-)
 (8.7)

1925.5
1926

1937.12.17
1933.11
193311
1933.11
1933.11
1954
1929.8.20 動力化
国鉄標津線開業により廃止
米軍地図
地勢図
地形図1
地形図2
地形図3
地形図4
地形図5
地形図6
(2) 風蓮線 厚床-風蓮
風蓮-上風蓮5線5号
上風蓮5線5号-上風蓮5線9号
奥行臼-上風蓮
7.2
5.8
3.2
9.9
1933.12.3
1936.12.24
1938.6.3
1963.12 
1960
1960
1960
1971.7 

厚床-風蓮は旧根室線の一部

別海村営軌道 
米軍地図
地勢図
地形図1
地形図2
(3) 矢臼別線 別海村内
西別-矢臼別川
0.6
5.9
1929.11.10
1934.6.2
1936.7.25
1936.7.25

旧根室線の一部
 
(4) 計根別線 中標津-計根別 16.3 1929.11.10 1937.10.24   地形図
地形図3
(5) 忠類線 北標津-古多糠
川北-古多糠
8.9
10.8
1935.9.13
1949.2.23

1953.7.25
  米軍地図
地勢図
地形図1
地形図2
(6) 中春別線 中春別-上春別原野34線南10号
上春別原野34線南10号-上春別
8.4
9.0
1936.5.27
1936.12.18
1942
1942
  地勢図
地勢図2
地形図1
地形図2
(7) 上春別線 西春別-上春別
西春別原野63線北2号-西春別原野64線北2号
9.6
4.6
1933.11.2
1936
  1941.10.22 西別線に編入 地勢図1
地勢図2
地形図
地形図2 
(8) 虹別線 西春別-虹別 9.7 1938  1954   地形図1
地形図2 
(9) 養老牛線 計根別(計根別48線北7号)-養老牛(養老牛52線北5号)  11.1 1938.7.7  1961.12.11   地勢図
地形図1
地形図2
(10) 西別線 西別-廣野(上西別原野51線南142号)
廣野-栄進(西別原野54線南91号)
栄進-春日
16.5
3.4
6.2
1929.11.10 
1939.4.16
1939.4.16
1956.3.3
1956.3.3
1953
  米軍地図
地勢図1
地勢図2
地勢図3
地形図1
地形図2
地形図3
(11) 弟子屈線 弟子屈-虹別 22.0 1933.11.10  1949.2.23   地勢図
(12) 茶内線 茶内-西円朱別(奥茶内) 13.0 1929.11.10 1972.5.1 1957.6 動力化 浜中町営軌道 米軍地図
地勢図
地形図1
地形図2 
(13) 若松線 中茶内(茶内原野西12線風防林内)-若松(茶内原野西17線82)
若松-別寒辺牛
5.9
1.9
1929.11.10
1964.12 
1972.5.1
1972.5.1
1957.6 動力化 浜中町営軌道 米軍地図
地形図1
地形図2
(14) 円朱別線 秩父内-下茶内(茶内原野西7線3番)
下茶内-東円朱別(円朱別原野西7線北9号風防林内)
東円朱別-上風蓮(開南)
3.4
5.8
4.2
1929.11.10
1932.9.16
1932.9.16
1972.5.1
1972.5.1
1972.5.1
1957.6 動力化 浜中町営軌道 米軍地図
地勢図
地形図
(15) (旧)標茶線 標茶-両国(根室国境)
両国(根室国境)-西春別
西春別-計根別 
13.8
13.6
11.5
1930.12.12
1931.12.13
1932.10.20 
1936.7.11
1936.7.11
1936.9.4 
  地形図1
地形図2
地形図3
(16) 知安別線 標茶-宮文(チャンベツ原野西1線南2号) 7.1 1938.6.23 1947    
(17) 阿歴内線 塘路-阿歴内(塘路原野北6線東128号) 8.3 1938.7.29 1960   米軍地図
地形図 
(18) 久著路線 塘路-中久著路
中久著路-上久著路(クチョロ原野北40線南2号) 
20.6
8.3
1930.8.15
1934.9.14
1965
1965
  米軍地図
地勢図
地形図1
地形図2
地形図3
(19) (新)標茶線 標茶-上オソベツ
開運町-標茶駅
中オソベツ-沼幌
22.5
1.7
6.5
1954
1961
1966
1971
1967
1970
当初から動力 標茶町営軌道  地形図
(20) 雪裡線 新富士-中雪裡 28.8 1929.11.10 1968 1952動力化 鶴居村営軌道 米軍地図
地勢図1
地勢図2
地形図1
地形図2
地形図3
(21) 幌呂線 下幌呂-上幌呂
上幌呂-新幌呂
15.5
3.8
1929.11.10
1943.12
1968
1968
1952動力化 鶴居村営軌道 米軍地図
地勢図
地形図1
地形図2 
(22) 仁々志別線 穏称平-元仁々志別(仁々志別原野32線90号) 12.2 1937.9.30 1964   地勢図
地形図1
地形図2
地形図3
(23) 斜里線 斜里-知布泊 17.9 1932.12.23 1953   地勢図
地形図1
地形図2 
(24) 藻琴線 藻琴-東藻琴基線南20号
東藻琴基線南20号-東藻琴基線南29号
東藻琴基線南29号-山園(東藻琴基線南36号)
福山-東洋沢
15.2
5.9
4.4
7.3
1935.9.13
1937.10.9
1938.1.13
1949 
1961
1965.7.17
1965.7.17
1965.7.17 
東藻琴村営軌道
1954年から網走交通㈱に委託 
米軍地図
地勢図1
地勢図2
地形図1
地形図2
地形図3 
(25) 雄武線 雄武-上幌内 24.2 1950 1956 当初から動力 米軍地図
地形図
(26)  枝幸線(歌登線) 小頓別-歌登(上幌別6線)
歌登-枝幸港
19.1
16.1
1929.12.1
1930.9.2
1970.11.1
1951
1931.7.10動力化
歌登村営軌道
地勢図1
地勢図2
地勢図3
地形図1
地形図2 
(27) 本幌別線 歌登(上幌別6線)-本幌別(幌別26線) 10.0 1936.10.27 1956 歌登村営軌道 地勢図
(28) 幌別線 上幌別(上幌別6線)-志美宇丹 12.6 1933.11.10  1969.5 1965動力化 歌登村営軌道  地勢図
地形図
(29) 沼川線(幌沼線) 幌延-北澤(エベコロベツ原野東9線北36号)
北澤-上福永
上福永-沼川
13.8
6.2
14.9
1929.12.24
1934.8.5
1933.11.16 
1950
1950
1965.2.18 
幌延-北澤開業時は幌延線  米軍地図
地勢図1
地勢図2
地形図 
(30) 勇知線 勇知-下勇知原野 9.8 1945 1958   米軍地図
地形図
(31) 問寒別線 問寒別-上問寒第二 13.2 1930.9.10 1971.6.1 1941動力化 幌延炭鉱線3.2km 米軍地図
地形図1
地形図2 
(32) 仁宇布線 美深-仁宇布(ニウプ原野25線) 21.4 1935.4.25 1963   地勢図
米軍地図
(33) 真狩線 狩太-真狩(真狩別6線20) 13.0 1936.1.11 1952 当初から動力  
(34) 当別線 石狩当別-大袋 31.3 1949 1956 当初から動力 当別町営軌道 米軍地図
地形図1
地形図2
地形図3
(35) 貫別線 荷負(平取村ポンポエケナシ312)-貫気別(ホロマップ95) 13.4 1934.12.14 1940.8.15    
(36) 居辺線 高島(池田町下利別北15線東26)-居辺(下居辺西2線132) 18.8 1935.12.14 1948   地勢図

参考資料: 湯口徹「簡易軌道のはなし(2)」『鉄道ファン』1992年10月号(No.378)


森林鉄道

 北海道で最初に建設された森林鉄道は民間のものであった。苫小牧に工場の進出を計画した王子製紙は、1908年にいちはやく、原料資材の確保・搬送と、水力発電所建設のための資材搬送を兼ね、苫小牧から支笏湖畔、千歳川上流域を結ぶ鉄道を建設した。また、同年に三井物産が鵡川まで、その3年後には沙流太(のちの富川)まで建設した鉄道も、同様に森林資材の搬送を目的とする。さらに、1906年に北海道の金山と江別、その後釧路と池田に進出した富士製紙も、森林資材開発のための鉄道を敷設している。1915年に留辺蘂で、個人により敷設されたものも、この中に含まれる。
 1920年代に入ると、温根湯森林鉄道をはじめ、官営による森林鉄道が随所に敷設されるようになる。これらの森林鉄道の多くは、国鉄線、もしくは私鉄線の起点駅から、河川を遡る線形で山域の森林地帯に線路を伸ばしていた。その線形は、支流の存在によって分岐するものが多く、支線の付け替えもある程度の頻度で行われたため、詳細な記録が残っていないこともある。基本的には、一つの本流の水系をカバーする路線図を持っていたが、温根湯森林鉄道(と層雲峡開発森林鉄道)のように、北見国側から、標高1,030mの分水嶺(旭北峠)を越えて石狩国にまでその版図を広げたものもある。
 地図に示すように、これらの線路は道央域を中心に張り巡らされたが、森林資源の輸入量の増加や、道路整備が進むにつれて、1950年代から急速にその勢力を弱めていき、1960年代のうちに、北海道からその姿を消すこととなる。なお、表中では、もっとも最後に廃止された森林鉄道が定山渓森林鉄道の1968年となっており、そのため北海道の森林鉄道が消滅した年として一般には1968年とされるが、この廃止年には別の報告もある。
  なお、上川町中越駅からの中越森林鉄道、本別町本別駅からの美利別森林鉄道については、存在していたという説があるが、現時点までこれを明示する資料等が見つけられず、地図中には掲載しなかった。
 19番の常呂森林鉄道、43番の三井軌道については、いずれも駅ではなく、港までの搬送を行う形態であった。


 注: 本図で示したのは本線とこれに準じる線路の概要であり、細かな支線については、当該縮尺では記載が不能であり、また全体を網羅できる資料が不足していることを踏まえ、省略している。 



地図番号 路線名 接続駅 所管 竣工 廃止 最長時延長km(年) 備考 関連図 
1 宇津内森林軌道 下頓別 北海道庁 1923 1945 17.4  (1936)   地勢図
地形図
2 美深森林鉄道 美深 北海道庁 1942 1956 35.6  (1952) 殖民軌道 仁宇布線
路線図
米軍地図
地勢図
地形図1
地形図2
地形図3
3 羽幌森林鉄道 羽幌 旭川営林局(帝室林野局) 1941 1963 44.4  (1959)   米軍地図
地形図1
地形図2
4 古丹別森林鉄道 古丹別 旭川営林局(帝室林野局) 1940 1962 66.5  (1957) ※1 米軍地図
地形図1
地形図2
地形図3
5 達布森林鉄道 達布 旭川営林局(帝室林野局) 1945 1958 22.2  (1952)   米軍地図
地形図1
地形図2
6 珊瑠(下川)森林鉄道 下川 旭川営林局(帝室林野局) 1934 1956 26.0  (1951)   米軍地図
地形図1
地形図2
7 中名寄(下川)森林鉄道 下川 旭川営林局(帝室林野局) 1942 1959 13.9  (1951)   米軍地図
地形図
8 奥名寄森林鉄道・然別森林鉄道 一ノ橋 旭川営林局(帝室林野局) 1931 1962 32.5  (1952) ※2 米軍地図
地形図1
地形図2
地形図3
9 士別森林鉄道 奥士別 旭川営林局(帝室林野局) 1930 1958 58.4  (1954) 路線図 地形図1
地形図2
地形図3
地形図4
地形図5
10 渚滑(濁川)森林鉄道 濁川 北見営林局(北海道庁) 1935 1959 65.6  (1956) ※3 米軍地図
地形図1
地形図2
地形図3
地形図4
地形図5
地形図6
11 層雲峡森林鉄道 上川 旭川営林局 1947 1952 20.5  (1949)    
12 富士製紙馬鉄 中湧別 富士製紙 1919 1930 12.5  (1923)   地勢図
地形図1
地形図2
13 武利(武利意)森林鉄道 丸瀬布 北見営林局(北海道庁) 1928 1963 81.8  (1944) 路線図 米軍地図
地形図1
地形図2
14 上生田原森林軌道 → 上生田原森林鉄道 生田原 北見営林局(北海道庁) 1928 1954 28.9  (1944)   米軍地図
地形図1
地形図2
15 温根湯森林鉄道 留辺蘂 北見営林局(北海道庁) 1921 1960 72.9  (1944)   米軍地図
地勢図
地形図1
地形図2
地形図3
地形図4
16 層雲峡開発森林鉄道 大町 北見営林局 1950 1958 15.9  (1954) ※4 地形図
17 小沢花二郎 → 岸尾木材店 留辺蘂 個人 → 岸尾木材店 1915 1924 4.0  (1915)    
18 置戸森林鉄道 置戸 北見営林局(北海道庁) 1921 1962 72.6  (1942) 路線図  米軍地図
地勢図
地形図1
地形図2
地形図3
19 常呂森林軌道 - 北見営林局(北海道庁) 1945 1949 1.5  (1945)    
20 津別森林鉄道 津別 北見営林局(北海道庁) 1927 1962 45.6  (1944)   米軍地図
地形図1
地形図2
地形図3
21 上札鶴森林鉄道 上札鶴 北見営林局(北海道庁) 1935 1955 21.1  (1950)   米軍地図
地形図1
地形図2
22 上尾幌森林軌道 上尾幌 帯広営林局(北海道庁) 1944 1950 4.4  (1944)   地形図
23 陸別森林鉄道 陸別 帯広営林局(北海道庁) 1923 1953 38.3  (1947) 路線図  米軍地図
地勢図
地形図
24 斗満森林鉄道 陸別 帯広営林局(北海道庁) 1924 1966 50.5 (1939) 路線図  米軍地図
地形図1
地形図2
地形図3
25 足寄森林鉄道 足寄 帯広営林局(北海道庁) 1923 1960 67.1  (1952) 路線図 米軍地図
地形図1
地形図2
26 音更本流森林軌道 → 音更本流森林鉄道 十勝三股 帯広営林局(北海道庁) 1944 1958 8.8  (1951) 路線図 米軍地図
地形図
27 富士製紙馬鉄 本別 富士製紙 191? 194? 15   地勢図
地形図
28 王子製紙十勝上川森林鉄道
十勝上川森林鉄道
屈足 王子製紙
帯広営林局
1928
1950
1951
1960
17.0  (1928)
69.9  (1958)
路線図  米軍地図
地勢図
地形図1
地形図2
地形図3
29 落合森林軌道 落合 北海道庁 1928 1945 24.0  (1930) 路線図   
30 トマム森林鉄道 落合 北海道庁 1922 1928 23.0  (1922)    
31 幾寅森林軌道 幾寅 北海道庁 1921 1928 14.8  (1923)    
32 金山森林鉄道 金山 旭川営林局(帝室林野局) 1928 1958 12.3  (1951)   米軍地図
地勢図
33 東京帝国大学北海道演習林森林軌道 布部、下金山 東京帝国大学農学部 1921 1952 59.3  (1935) 路線図(布部)
路線図(下金山) 
米軍地図1
米軍地図2
地勢図1
地勢図2
地勢図3
34 芦別森林鉄道 上芦別 札幌営林局(帝室林野局) 1932 1962 63.7  (1953) 路線図  米軍地図1
米軍地図2
米軍地図3
地勢図1
地勢図2
地形図1
地形図2
35 幾春別森林鉄道 幾春別 札幌営林局(帝室林野局) 1935 1955 22.3  (1948) 路線図  米軍地図
地勢図
地形図
36 主夕張森林鉄道 大夕張炭山 札幌営林局(帝室林野局) 1934 1961 19.8  (1939) 路線図  米軍地図
地勢図
地形図
37 下夕張森林鉄道 南大夕張 札幌営林局(帝室林野局) 1939 1966 46.7  (1961) 路線図  米軍地図
地勢図
地形図1
地形図2
38 遠幌加別森林鉄道 遠幌 帝室林野局 1940 1944 8.5  (1942) 路線図   
39 定山渓森林鉄道 定山渓 札幌営林局(帝室林野局) 1938 1968 19.2  (1954)   米軍地図
地勢図
地形図1
地形図2 
40 恵庭森林鉄道 恵庭 札幌営林局(帝室林野局) 1931 1955 21.3  (1944)  ※5
路線図
米軍地図
地勢図
地形図1
地形図2
41 王子製紙苫小牧工場専用線(山線) 苫小牧 王子製紙 1908 1951 39.4  (1941)   地勢図1
地勢図2
地形図1
地形図2
地形図3
地形図4
地形図5
42 三井物産専用鉄道(海線) 苫小牧 三井物産 1908 1913 41.6  (1911)   地勢図1
地勢図2
地形図1
地形図2
43 三井軌道 西様似(港) 三井物産 1931 1945 18.0  (1931) 路線図   
44 上ノ国森林軌道 石崎(漁港) 北海道庁 1943 1953 16.1  (1947)    

参考文献:河野哲也「北海道の森林鉄道,殖民軌道」『鉄道ピクトリアル』No.733

※1 古丹別駅から古丹別川に沿ったものを「古丹別森林鉄道」、三毛別川に沿ったものを「三毛別森林鉄道」と区分する呼称あり。
※2 一ノ橋駅から名寄川に沿ったものを「奥名寄森林鉄道」、然別川に沿ったものを「然別森林鉄道」と区分する呼称あり。
※3 濁川駅からオシラネップ川に沿ったものを「濁川森林鉄道」、渚滑川に沿ったものを「滝上森林鉄道」と区分する呼称あり。
※4 温根湯森林鉄道と一体とみなされる場合が多い
※5 漁森林鉄道と表記される場合もある


中越森林鉄道は存在したのか?

 1929年に旭川から延びる石北西線が中越まで開業したことに伴って、中越駅が開設された。1932年には中越-白滝間の開通により、石北線は分水嶺を越えて文字通り石狩国と北見国を結ぶこととなる。その後、中越駅では貨客の取り扱いが行われるが、林業の衰退等により、1975年に貨物の取り扱いを廃止し、1986年にはついに1日に停車する列車が普通列車1往復のみとなり「日本一下車の難しい駅」と呼ばれることになる。その後、2001年に駅業務を終了し、現在は信号場としてその機能を残すにとどまっている。周囲の集落は消失し、駅舎だった建物のみが木々に囲まれて佇んでいる。  
 これは中越駅について、現時点で共有可能な歴史と現状である。その一方で、この中越駅を起点とする「森林鉄道」の存在が一部で取りざたされている。ここでは、それに関して管理人が現時点で把握しうる情報を整理し、その存在について検討してみよう。  
 
 当サイトでは、「中越森林鉄道、本別町本別駅からの美利別森林鉄道については、存在していたという説があるが、現時点までこれを明示する資料等が見つけられず、地図中には掲載しなかった。」と記載した。確かに「明示する」資料はないのだが、存在を類推するものはある。それは、北海道庁拓殖部が刊行していた「国有林事業成績」である。  

 「国有林事業成績」の最初のものは1921年度の報告をまとめる形で翌年度に刊行されたもので、その43ページに「森林鐵道軌道延長線」という一覧表がある。そこには「温根湯幹線」「置戸幹線」「温根湯軌道」「幾寅軌道」の4つが記載されており、表外に「運轉気關車及び車輛数」として「温根湯3、置戸3、足寄3」とある。足寄は、一覧表に記載がないにもかかわらず、機関車の記載があるのである。  
 実は、この「国有林事業成績」を追っていくと、いろいろ誤記に相当する可能性のあるものがあり、信頼度と言う点で微妙なのであるが、他に適当なものがなく、これらに準拠して以下の話をすすめたい。「国有林事業成績」に「中越」の文字が登場するのは、1928年度のものとなる。  
 1928年度の「国有林事業成績」には、工事施工の一覧表があり、その中に「上川郡中越森林軌道」の表記がある。そこでは、年度内施行として948円による用地買収が記載されている。さらに翌年の1929年度では、施工費37,271円を費やして「土工4哩26完成軌條敷設未了」とあり、当該年度内に6,855mに及ぶ道床工事が完遂したとみてとれる。  

 そして、1930年度において、中越森林軌道は晴れて「森林鐵道軌道延長」一覧表にその名を登場させるのである。しかし、その種類に「鐵道」と明記されているにもかかわらず、レールの軌重及び延長欄に記載はない。なお、同じ表に「螺湾」が種類「林道」として記載されているため、あくまで中越は「鐵道」という分類がなされていることがわかる。そして、欄外に以下の注意書きがある。「中越森林軌道四哩ニ六ハ土工完了シタルモ軌條敷設未了ニ付哩数ヲ掲ゲズ」。つまり、表に「鐡道」として掲載しながらも、レールは敷かれておらず、これから敷くものと読める。  

 翌年の1931年度のものを見ても同様である。中越は「軌道」に分類されており、さらにレールに軌重として16封度という数字もあるが、「中越森林軌道四哩ニ六ハ土工完了シタルモ軌條敷設未了ニ付哩数ヲ掲ゲズ」の扱いとなる。そしてさらに翌年の1932年度の表では中越は「車馬道」に分類が修正された上、表外に「中越軌道延長4.26哩車馬道ニ編入」とある。つまり、ついにレールは敷設されず、車馬道として運用を開始したことになる。なお、その延長は、前述の6,855mとなっている。  

 こののち「国有林事業成績」では、1939年まで、中越は「車馬道」として記載されている。これらから類推するに、中越森林軌道は、軌道の計画をもって着工し、1929年度に道床が完成されたにもかかわらず、何らかの理由をもって以後林道として、運用されたと考えれらる。ちなみに、道床が完成した1929年という年は、中越まで石北西線が開通した年であり、鉄道線の開通に合わせて、中越からの森林資源の搬出が検討されたことは想像に難くない。ただし、中越への林材の集積方法は、少なくとも1939年までは軌道という形態ではなかったことになる。  

 その場合、不思議なのは「国有林事業成績」の「保有車両」の欄に「中越」が登場することである。この保有車両欄は森林鉄道・軌道について「機関車」「貨車」等の種類毎にその輌数が記載されているのだが、これによると中越では1932年度から36年度までの間、「手押貨車」25両が運用された、となっている。手押貨車はトロッコ状のものと考えられるが、道床完成から3年を経て、軌道の必要な貨車が25両運用されているのである。この1932年度は、「中越」が「車馬道」に分類された年であり、両者の記述は大いに矛盾する。ちなみに、1921年から1939年度までの間に、中越と同様に「手押貨車のみの運用」によった軌道として「上生田原」、「ウツナイ」、「幾寅」があり、これらはいずれも軌条によっていたことが確認されたものである。こちらの表を信頼するならば、少なくとも1932年度から1936年度の間、中越では森林軌道の運用が行われていたことになる。  

 とここまで考えを進めた上で、ところで中越森林軌道は、どのような線形で計画されたのかについても検討してみた。上記「国有林事業成績」を調べていくと、その類推の可能なところがあった。中越が森林鉄道であったにしろ、林道(車馬道)であったにしろ、「幹線」から「枝線」が延びる形態により、運用が行われていたものと考えられる。そこで、1934年の当該表を見ていると、中越シビナイ線(乙種車馬道;1,298m)、中越ニタイオマップ線(乙種車馬道;2,233m)、中越オタツヌマイオップ線(乙種車馬道;2,236m)、上越ポンルベシベ線(乙種車馬道;距離未記載)という4つの中越関連の林道が掲載されている。「乙種」は「支線」に相当すると考えられる。現在の中越付近のマップを見てみる。

 
現在の中越信号場付近の地図
 こちらに示したように、これらの支林道は、それぞれシビナイ川、ニタイオマップ川、オタツニタイオマップ川、ポンルベシベ川に沿うものに違いない。ということは、中越森林軌道は、現在の石北線にほぼ沿った計画だったのではないか、と考えられる。ちなみに地図中に中越駅跡から石北線に沿った6.5km地点を示した。中越森林軌道の道床の延長は6,855mとあるが、中越駅からこれらの支線への分岐点をつないだ距離であると考えると、辻褄があう。そのような形で両線が完成していたなら、さながら仙山線に並走していた新川森林鉄道のような姿になったであろう。

 となると、以下の仮説を続けて提起することが出来る。当初中越から森林軌道を建設の上、産物の搬送を計画していた。1929年度に道床も完成するが、これに並行して石北線の建設がすすめられたことから、軌条の敷設は見送られた。1932年に石北線の当該区間が完成したことから、中越森林軌道は、軌道ではなく車馬道として扱った。車馬道の他、石北線を使用して木材の搬送を行うため、小規模な引込線などで、1932年度から5年間、搬送用の手押貨車が運用された。

 この仮説の場合、中越森林軌道は軌道として完成されなかったが、どこかに存在した引込線で手押し貨車が運用されたことになる。上記「国有林事業成績」では「中越」に2.23haの貯木場が運用されていることが示されていて、集積した木材を、中越駅付近の貯木場まで駅からの引込線が延び、25輌の手押貨車を利用して、搬送、積み替え等の作業が行われていたのではないだろうか。

 しかし、この仮説の検証のため、1966年に刊行された上川町史を入手し頁をめくってみるや、あっさりと反証が出てきた。町内の地域ごとの歴史をまとめた章における「中越」の「官行斫伐の中越」という記事に以下のようにある。

 『搬送問題で、この中越地区に残る話題は、森林軌道の敷設であった。昭和8年(1933年)頃道庁拓殖部はトイマルクシュベツ川に沿う官行軌道約7キロの計画を樹てる。現地をつぶさに調査したが、旭川営林区署技手林博はこの敷設に極力反対する。林鉄計画としてはそんな距離では不経済である、その不経済なことに莫大な施設費、維持費をかけるのは不合理だと、終始力説した。本庁計画も遂に計画で終わったが、中越駅目がけて一挙に陸送する方針を堅持してやりぬいたという。一方、労務者の中に飛び込んでの融和が作業遂行の一要因でもあった。莚にうすべりを敷いた事務所であったが、旭川に出るたびに買ってくるレコードで、蓄音機を鳴らして車座の皆に聞かせる。雪の吹き込む吹雪の夜など昼の労苦を忘れて団欒がそこにあった。焚物だけはお手のもの、事務所の壁も焦げるほど焚く。結局、斫伐の先頭に立つ山官には土曜も日曜も、そして夜も昼もない二十四時間勤務であった。
 こうした背景で、生産された愛別第一事業区、同第二事業区(ほぼ石北線の北が第一、南が第二)の実績数は、「林業編」であげる連年の材積が実証する。なお流送は今日でも上川営林署経営で行われている。』

 レコードの一説など、当時を彷彿とさせる描写も興味を惹くが、ここで重要なのは、「道庁拓殖部はトイマルクシュベツ川に沿う官行軌道約7キロの計画を樹てる」ということと、「本庁計画も遂に計画で終わったが、中越駅目がけて一挙に陸送する方針を堅持してやりぬいたという」ということである。 ここに至って、中越森林鉄道は、中越駅付近を起点とし、トイマルクシュベツ川に沿って、南東に向かう全長6,855mの計画線として、道床まで完成するも、旭川営林区署技手林博氏の反対等により中座し、それでも、道床を「林道」に転用することにより、付近で生産された木材の搬送形態は、流送中心から陸送中心へとそのスタイルを大きく変えたこととなる。ただし、その場合、前述の中越で運用されたという「手押し貨車」の数の記録のみが宙に浮くこととなる。
 現時点では、以上が結論で、やはり中越森林鉄道については、完成しなかった「幻の森林鉄道」であったと考えられる。

 なお、「上川町誌」では、中越駅と、同町内に存在した「層雲峡森林鉄道」に関する記載があるので、それぞれ引用したい。

  「中越駅開駅」
 『昭和4年(1929年)11月20日の中越駅開業は、この地域にとって画期的なものであった。 もともと明治22年(1889年)以来北見道路の開削という恵まれた地理にあった中越ではあった。しかし文化の動脈において鉄道に勝るものはない。その日の処女列車運転に喜ぶ部落民、学童の心地は今日では到底想像出来ない。かの茅刈別(ちかりべつ)林内移民であった西野倉太の記憶でも、それまでは上川市街地から、鰊を箱で背負って林内へ帰ったという。物資の供給、人の出入は問題にならぬ便利さとなる。すなわつ中越駅到着貨物(昭和4年(1929年)度分、11月~翌3月)の総量は2,227トンと記録されている。他方乗降客記録も(前記期間)乗客6,088名、降客6,267名。1日辺りにして乗客46名、降客48名であった。  
 したがって部落内の転廃業農家を始めかなりの人々が、中越駅周辺を目指して集中する姿となる。駅関係者の官舎が構内を背に集結すれば、一般民家またT字路に軒を並べるという有様。』

 「森林鉄道」  
 『国有林産物搬出に層雲峡森林鉄道が敷設されたことも特異なことである。全国的にも森林鉄道万能の時代があったが、層雲峡森林鉄道はややその末期頃の施設であった。幾寅森林軌道の大正10年(1921年)着工が全道的記録の一つであるが、落合森林鉄道もまた古いものであった。たまたま層雲峡地区開発が重視されるようになった昭和18年(1943年)、落合森林鉄道の全線撤去、軌道の層雲峡地区移設となる。  
 上川貯木場から層雲峡への190.25キロ(前掲引用以下同様)の延長工事は、同19年(1944年)から始められ同24年(1949年)竣工。工費1,470万円。幅員2.7メートル、勾配平均11.7‰、最高勾配31.7‰は、当時旭川営林局管内十数か所の林鉄中最急のもの。橋梁も25か所に及ぶ。  
 運材実績は、23年(1948年)72,000石、24年(1949年)62,000石、25年(1950年)38,000石、26年(1951年)47,000石、計219,000石であった。短期間の運行に終わったことは、当時自動車輸送の積極的利用にあった。路線の選定、工事費・維持費の問題、また運材の冬季能力の弾力性、原資外の利用等種々検討されトラックの時代が来る。林鉄撤去後その路線の改良を行って専用道路、幅員4.5メートルとなる。ただし道道と併用される上川寄りの4キロは幅員7メートル。さらに温泉地帯に入って観光客の面と、運材能率の面から、層雲峡隧道工築が考えられ、自動車輸送万能時代となる。なお「撤去実績表」によると昭和27年(1952年)19キロ、同29年(1954年)7.5キロとなった。  
 専用道路は、当時の自動車産業の進歩に大いに活用された。運材がいかだ流し、しゅら道利用等の旧式なものから、機械力の林鉄利用へと移行し、新しくトラック輸送万能の時を迎えた。』  

 今は付近に人が住まず、林の中に佇む信号場のみとなった中越駅に、かような賑わいの歴史があったことが感慨深い。
 上川貯木場から層雲峡への「190.25キロ」というのは現実離れした数字であり、上表の参考とした河野哲也氏のまとめの通り、層雲峡森林鉄道の全長は20.5km程度と考えられる。1945年に撤去された落合森林鉄道が全長24kmであり、この資材を用いて建設された層雲峡森林鉄道であるので、スケールが落合から大きく変わることはない。なお、河野哲也氏によると層雲峡森林鉄道の廃止は1952年となっているが、上川町史の記載と併せると、廃止後もレールの一部は撤去されずに残っていたと考えられる。

 左に示したのは、1974年発行の「2万5千分の1地形図 中越」から、中越駅周辺を引用したもの。 
 東西に流れる留辺志部川に沿って、北見峠を目指して東上する石北線が走る。
 
 中越の集落は、国道に沿って東西方向に形成されており、国道の南側には中越小学校(1917年開校、1973年閉校)があった。当地図発行時は閉校直後ということになる。中越駅の開業は、小学校の開校から12年を経て、上川-中越間が開業した1929年で、当時は終着駅だった。1932年に白滝までが開業し、その結果「石北線」として全通したこととなった。小学校が閉校になったのちも中越駅は旅客営業を続けるが、2001年7月1日に駅業務を廃止し、現在は信号場となっている。当地図では中越駅北側に、長い側線を見ることができる。
 
 集落の西に神社があったことがわかる。その正面付近から留辺志部川を渡り、トイマルクシュベツ川に沿って進む道がある。この道は現在も使用されているが、未完と考えられる中越森林鉄道の道床を転用したものである可能性が高い。