過去時刻表の中へ 時代を映す列車たち 


 時刻表は時代を移す鏡であると思う。所要時間は技術革新の様子を、駅と路線の変遷は地域の盛衰を、列車本数や運用方法は当時の人と物流の動線を想像させてくれる。ちょっと古い時刻表に目を通すと、現在の時刻表に見慣れた目には、きわめて異質な世界が広がっていて驚かされる。当ページでは、管理人が所有する60年代及び70年代前半にかけての道内時刻表から、その時代を象徴するような列車たちを紹介してみた。


北海道時刻表 1973年 8月号から 札幌10:25発 札幌行 急行「いぶり」
北海道時刻表 1973年8月号から 釧路9:55発 室蘭行 臨時急行「まりも1号」
北海道時刻表 1973年8月号から 遠軽15:36発 遠軽行 普通列車
北海道時刻表 1973年8月号から 小樽21:31発 釧路行普通列車
北海道時刻表 1971年10月号から 仁木4:54発 稚内行 普通列車
北海道時刻表 1971年10月号から 小樽9:38発 釧路行 急行「大雪4号」
北海道時刻表 1971年10月号から 小樽16:59発 旭川行 快速 (札幌から急行「さちかぜ」)
北海道時刻表 1969年7月号から 函館12:28発 網走行 普通列車 (札幌から夜行急行
北海道時刻表 1969年7月号から 旭川17:32発 函館行 普通列車 (札幌から臨時列車) 
北海道時刻表 1969年7月号から 糠平7:35発 広尾行 臨時急行「大平原」 
北海道時刻表 1969年7月号から 増毛6:25発 小樽行 急行「ましけ」 
北海道時刻表 1967年7月号から 旭川6:10発 旭川行 急行「旭川」
北海道時刻表 1965年6月号から 昭和6:55発 深川行 普通列車
北海道時刻表 1965年6月号から 函館10:40発 釧路・網走行 特急「おおとり」 
全国時刻表 1961年6月号から 幾春別9:32発 手宮行 普通列車
全国時刻表 1961年6月号から 幾春別17:23発 万字炭山行 普通列車
北海道時刻表 1965年6月号から 歌登町営軌道 時刻表
北海道時刻表 1965年6月号から 鶴居村営軌道 時刻表


1973年8月 札幌10:25発 札幌行 急行「いぶり」
 いわゆる出発地と到着地が同じ「循環列車」で、北海道では最盛期に2種の循環急行があった。(もう1つは旭川発旭川行の急行「旭川」)。

 急行「いぶり」は当初週末のみの運転であったが、1963年10月に定期化され、1980年まで運行された。

 元国鉄車掌長で月に1度か2度、急行いぶりに乗車する任務があった田中和夫さんは、映像メディア「スイッチバック 北の鉄道 終列車」という作品で、副音声解説を担当していて、そこで「いぶり」に関するエピソードを披露してくれている。田中さんによると、「いぶり」の面白い点は、循環という経路とともに、その車両運用にあったという。札幌を出る時は7両編成。東室蘭で室蘭行急行普通列車3両を分割し、4両編成に、伊達紋別駅で洞爺行急行「ちとせ」2両を分割し、胆振線に進入する際は2両となる。有珠山、昭和新山を左手に見、長流川の美しい渓谷に沿って走り、尻別川、そして羊蹄山を臨んで倶知安に至ると、ここで蘭越発の普通列車3両と連結し5両編成の急行「らいでん」となり、さらに次駅の小沢で岩内発の普通列車2両を増結。いろいろあって、札幌に戻ってきたときはやっぱり7両の姿となるという、別れと出合いを繰り返す人生を彷彿とさせるような列車だったようだ。

 当時刻表では、壮瞥から北湯沢までは4駅連続で停車となっている。古くから、周辺が温泉地として拓けていたため、相応の利用があったのだろう。ただ、「いぶり」の廃止直前には、蟠渓駅は通過扱いとなっていた。


1973年8月 釧路9:55発 室蘭行 臨時急行「まりも1号」
 室蘭線のページでも紹介したが、この時代には面白い経路の臨時列車があった。 そもそも、急激に札幌一極集中が進んだ70年代後半以降に比べて、それ以前の時刻表は地方都市間の優等列車が充実していて、とても華やかである。

 とはいっても、この「まりも」の経路は札幌に見向きもしないという点で、きわめて特徴的。釧路を発ち、帯広、滝川を経て、岩見沢からふっと室蘭線に進入する。

 函館線の時刻表をみると、「岩見沢で消失する」優等列車として、異彩を放つ。

 また、千歳、室蘭線のページでは、沼ノ端で突如出現し、室蘭に向かう。しかも、当時刻表にはもう1往復、釧路-登別間に同様の臨時列車が設けられている。釧路という都市が、札幌とともに拠点として高い機能を担っていたことをよく示している。

 ちなみに、根室線にはダムに消えた滝里駅の名を見ることも出来る。


1973年8月 遠軽15:36発 遠軽行 普通列車
 先に循環急行「いぶり」を紹介したが、同じ時刻表をくまなく見ていると、こんどは循環普通列車の存在に気付くかもしれない。それがこの遠軽発遠軽行普通列車である。

 ただ、この列車の場合、車両としては全区間を通して循環するわけではない。一番左の名寄線の時刻表では、中湧別で分割され、湧網線に入る列車は「北見行」の案内となっている。

 この列車、湧網線を通ったあと、石北線の普通列車「遠軽行き」に併結されるのだが、遠軽発の車両の併結は北見まで。北見から当該車両は切り離され、遠軽まで行くのは網走からの先頭側車両のみ。そのため、「循環運転」を全線堪能するなら、網走-北見を走行しているうちに、前方の車両に移動する必要が生じる。

 そのような運用のため、名寄線、湧網線の時刻表では、いずれも単なる「遠軽発北見行」の表記にとどまる。循環表記となるのは、石北線の時刻表上(いちばん右側)のみで、そこには「遠軽発遠軽行」という循環普通列車の姿が立ち現れている。


1973年8月 小樽21:31発 釧路行普通列車
 かつて旅は時間を要するものだった。遠隔の地に向かうには相応の時間を要する。広い北海道は、各地を夜行列車が結んでいた。その中でも象徴的な存在が当時刻表で小樽を21:31に出発する夜行普通列車。なんと、夜行というだけでなく、寝台の付いた普通列車。

 この列車、1974年に「からまつ」の名称が与えられたので、その名前で知っている人が多いだろう。しかし、この列車の誕生は1950年にさかのぼる。「からまつ」の名称で呼ばれたのは、1974年から廃止される1980年9月いっぱいまでの間で、列車そのものの歴史に比べると、短い期間である。

 深夜帯であっても、ほとんどの駅に停車するダイヤに、長い冬の夜のような情緒が漂っているようだ。


1971年10月 仁木4:54発 稚内行 普通列車
 2016年現在、日本最長の運行時間を誇る列車が北海道にある。滝川を9:36に出る釧路行普通列車2429Dで、釧路着時刻は18:03。308.4kmを8時間27分で走破する。

 しかし、昔はその程度の長距離普通列車はいろいろあった。

 1971年10月の時刻表で印象的なのは仁木を早朝の4:54に出る普通列車である。その行先票に掲げられた駅名はなんと「稚内」。小樽、札幌、滝川、旭川を経て、石狩国を塩狩峠で越え、士別、名寄、そして天塩川に沿って音威子府、幌延を経て、抜海から利尻島を見渡し、稚内に到着するのは18:57。454.3kmを14時間3分かけて走破する。

 岩見沢で19分、滝川で14分、旭川で27分、名寄で13分、音威子府で48分という停車時間で、休憩も十分とれそうだ。


1971年10月 小樽9:38発 釧路行 急行「大雪4号」
 小樽発釧路行の急行列車の名称が「狩勝」ではなくて「大雪」?。なんともその時点で違和感いっぱいの列車である。

 この列車、なんと根室線ではなく、石北線を走る。おそらく通して乗る人はめったにいないだろう。そういった意味で、複数の列車を強引に繋いで、一つの列車にしたような雰囲気が漂っている。

 ちなみに、この列車、11:26に滝川に到着しているが、ここで列車を降り、滝川で一仕事して、およそ3時間後の14:21滝川発根室行の急行「狩勝2号」に乗ったとすると、釧路に着くのは19:35。一方、「大雪4号」は、そのさらに15分後に、遠路はるばるの体で釧路にやってくることになる。

 なんとも気宇壮大な列車だ。


1971年10月 小樽16:59発 旭川行 快速(札幌から急行「さちかぜ」)
 蒸気機関車たちが去って行った無煙化の時代は、高速化の時代でもある。1969年に旭川までの電化開業を経て、1971年から国鉄のプレミアム的列車として、札幌-旭川間をノンストップで結ぶ電車急行「さちかぜ」が導入された。
 さちかぜは1日1往復。
 下りは、小樽を快速列車として出発し、手稲、琴似の停車を経て、札幌から急行となり、以後旭川までノンストップ運転となっていた。
 札幌-旭川間の所要時間は1時間39分。現在のスーパーカムイが1時間25分ほどで結んでいるのと比べると、さすがに時間を要してはいるが、同時代、札幌を16:25に出る函館発網走行の特急「おおとり」は、岩見沢、滝川の2駅に停車することもあって、当該区間の走破に1時間50分を要している。 
 特急より停車駅が少なく、所用時間も少ないことは、急行「さちかぜ」の特殊さをよくあらわすものである。
 なお、同時期に、札幌-旭川を結んだ電車急行として「かむい」(一部、他の列車を併結する関係で気動車)があり、基本的な停車駅は、江別、岩見沢、美唄、砂川、滝川、深川であったが、これらもおよそ1時間50分程度で、札幌-旭川を結んでおり、停車駅が多いにもかかわらず、特急と同程度で札幌-旭川を走破していたことがわかる。電車の加速性能の高さを示している。
 急行「さちかぜ」は、1975年まで運行されることとなる。


1969年7月 函館12:28発 網走行 普通列車 (札幌から夜行急行)
 急行列車や特急列車がその末端部を普通列車として区間運転することはままある。2016年現在でいえば、札幌-室蘭間を運転している特急「すずらん」。この場合、東室蘭-室蘭間は普通列車として運転している。

 これは、東室蘭-室蘭間で市街地が連続しているため、これらの駅への乗継の利便性や速達性を比較し、合理的な運用方法を選択しているためである。 
 しかし、古い時刻表をひもとくと、おもわず「なんだこれは」とつぶやいてしまいたくなるような区間運転のケースが存在する。

 その際たるものがこれ。というよりも「区間運転」と呼ぶようなスケールではない。函館から札幌へご丁寧に張碓も含めて全駅に停車した長大な普通列車が、そのまま網走行の夜行急行となり、寝台車、指定席まで併結した上で網走へ向かう。
 
 しかも、北見で再び普通列車に逆戻り。函館を12:28に出た普通列車は、途中急行列車となり、またその姿を普通列車に戻し、翌日7:58、網走に到着する。料金精算の計算も、ちょっと手間取りそう。

 ちなみに、函館線の時刻表では、線路付け替えで1969年に廃止となった神居古潭駅の名を、石北線の時刻表では1971年に廃止となった鳥ノ沢仮乗降場の名を、それぞれ見ることが出来る。


1969年7月 旭川17:32発 函館行 普通列車 (札幌から臨時列車)
 当該時刻表には、普通列車に分類されながら、実態はかなりの快速列車である旭川17:32発も目立つ存在である。
 この列車、旭川を出てから砂川までは、特に変わったところのない普通列車なのだが、砂川を発車したとたんに、人が変わった様に、その趣を変え、急行停車駅以外すべてを通過し、札幌駅へ向かう。砂川-札幌の所要時間は1時間17分。
 ちなみに、19:09砂川発のディーゼル急行「かむい6号」の、砂川-札幌の所要時間は1時間14分であり、この普通列車の実態は、ほとんど急行列車なのである。
 さらに、この列車、お盆の前期には、函館まで延長運転されている。その際の、途中停車駅は、小樽、倶知安、長万部の3駅のみとこれまた大変なハイスピードで、函館着は3:46。
 ちなみに、同時期の夏季に運転されていた臨時急行ニセコ4号は札幌を22:55に出て、函館着は4:30。季節運航されている青函連絡船304便は、ニセコの接続を待って函館港を4:50に出る。
 先行する普通列車に乗車すると、函館での待ち時間は長くなるが、青函連絡船で良い座席を確保出来そうである。 


1969年7月 糠平7:35発 広尾行 臨時急行「大平原」
 時刻表を眺めていて「こんな列車があったら面白いのに」といろいろ想像することがある。かつて帯広からは北に向けて士幌線、南に向けて広尾線が延びていた。管理人は80年代に時刻表を見て、この2線を関連付ける列車を想像して楽しんだことがあった。そのころ、管理人は、実際にそのような列車、しかも優等列車が存在していたことを知らなかったのである。
 1969年7月号の時刻表に、夏季季節急行として、それは登場する。その名も急行「大平原」。十勝平野を縦断するのに相応しい愛称だ。
 糠平を出発、上士幌、士幌に停車したのち、帯広で10分停車。広尾線に直接乗り入れて大樹に途中停車し、広尾に至る。
 ぜひ、その時代にいたなら、乗りとおしてみたい列車の一つである。 


1969年7月 増毛6:25発 小樽行 急行「ましけ」
 2016年12月4日限りで留萌線の留萌-増毛が廃止となる。寂しい限りである。車窓から見る日本海が好きだったが、増毛を訪問する機会も少なくなるだろう。
 ここでは、かつて増毛から札幌まで直通していた優等列車、その名も急行「ましけ」が存在していたことを紹介しよう。
 増毛を6:25発。深川で急行「かむい1号」に併結し、札幌着は9:49。
 ちなみに、この「かむい1号」、連結、切り離しの顕著な列車で、まず季節限定で名寄始発の臨時急行「なよろ」を併結する。次いで、深川では車両の一部が切り離され、急行「るもい1号」として築別に向かう。代わって増毛を始発とする急行「ましけ」を連結する。
 さらに滝川では、富良野を始発とする急行「そらち1号」を併結。 札幌に向かう。札幌では、「ましけ」「なよろ」が切り離され、他の車両が小樽に向かう。
 札幌もしくは小樽で、後続の函館行急行「ていね」に乗り継ぐことができる。
 急行「かむい1号」と急行「ていね」は、それぞれ、南小樽、小樽築港に分散停車し、乗客を集めている。


1967年7月 旭川6:10発 旭川行 急行「旭川」
 1973年8月の時刻表から紹介した循環急行「いぶり」の旭川鉄道管理局版といったところ。「いぶり」が名称を「基点の遠点の地名」としたのに対し、「旭川」は「起終点の駅」をそのまま列車の名称とした。「いぶり」風に名付けるなら「なよろ」「紋別」といったところであるが、いずれも既存の列車名と重複してしまう。管理人個人的には、沿線の美しい岬の名称「沙留(さるる)」など、この列車の名称に良いような気がするが、ややネームヴァリューとして不足だろうか。

 この「旭川」は、1962年に準急として運転が開始され、1966年に急行となったが、わずかその2年後の1968年に廃止となった。(廃止後は、旭川-遠軽-興部-名寄を急行「オホーツク」が引き継いだ)。

 両端側を他の急行と併結するあたりも「いぶり」にそっくりで、当サイトで紹介した“時計回り”の列車の場合、名寄までを急行「礼文」に、遠軽からを急行「美幌」に併結していた。(ただし、「美幌」は季節運転)。

 一周7時間42分の旅である。旭川→紋別は3時間29分、紋別→旭川は3時間49分であり、両駅間は名寄回りの方が若干有利だったようだ。


1965年6月 昭和6:55発 深川行 普通列車
 2016年現在、北海道内に旅客営業を行っているJR以外の私鉄は、自治体や第3セクターのもの以外存在しない。しかし、かつては「私鉄王国」の一面を持つほどに数多くの鉄道が運営されていた。この時代の時刻表を見ると、それらの私鉄の賑わいがとても楽しい。

 ただ、意外にも国鉄線に乗り入れる旅客列車は少なく、定山渓鉄道の豊平-札幌間の乗り入れが目立つ程度である。

 そんな中にあって異彩を放つのは留萌線の恵比島から昭和炭鉱に至っていた留萠鉄道であり、定期便の一部が深川に乗り入れを行っている。

 留萠鉄道は1930年に営業開始、1971年に廃止となったが、気動車による深川乗り入れを開始したのは1956年。留萠鉄道が臨港線を有していた留萌ではなく、深川に乗り入れたのは、旭川、札幌といった大都市への旅客の移動の利便性確保のためだろう。

 この留萠鉄道末端の昭和炭鉱では、元国鉄10形のドイツクラウス社1889年製15号蒸気機関車が活躍していたことでも知られる。当該機は、日本最古の現役蒸気機関車として、多くのファンが押し掛けたとのこと。

 現在は沼田町ほろしん温泉で静態保存されている。なお、浅野炭鉱があったのは「新雨竜駅」付近。

※ 留萌港に臨港線としてしばらく残った旧留萠鉄道線が掲載された地形図は、留萌線沿線風景のページで紹介しています。


1965年6月 函館10:40発 釧路・網走行 特急「おおとり」
 全国的に、「1ケタ」の列車番号は、その時代の国家の主軸を示し、主権の及ぶ範囲の一つの象徴のような存在であった。戦前であれば、上野→青森、函館→稚内 を経て、サハリンを結ぶ稚泊(ちはく)連絡船への接続があった。
 1965年では、上野発の夜行を引き継いだ連絡船から、函館4:55発の列車番号1番の特急「おおぞら」が旭川(11:28着)と釧路(15:25着)に向かっていた。
 そして、引用したのは列車番号3番の特急「おおとり」。こちらは函館を10:40に発し、網走(21:15着)と釧路(21:30着)を目指した。厳選された停車駅が、「おおとり」の優越度の高さを物語る。まさに大動脈を担う存在だった。
 ちなみに、同じ連絡船から接続する形で、函館を10:57に出発し、稚内に向かっていたのが、当時の急行「宗谷」となる。「おおとり」は室蘭、千歳線、「宗谷」は函館線の山線を経由した。
 参照引用図には、20世紀中に廃止された駅として、函館線上目名駅(1984年3月31日廃止)、神威古潭駅(1969年10月1日廃止)、室蘭線豊泉駅(1968年5月15日廃止)、千歳線大谷地駅(1973年9月10日廃止)、月寒駅(1973年9月10日廃止)、東札幌駅(1973年9月10日廃止)、根室線滝里駅(1991年10月22日廃止)、鹿越駅(1986年11月1日廃止)、狩勝駅(1966年10月1日廃止)、新内駅(1966年10月1日廃止)、石北線上越駅(1975年12月25日廃止)、常紋駅(1975年7月1日廃止)の名を見ることができる。野上仮乗降場は、のちの新栄野で、今世紀になって廃止。他に今世紀の廃止駅として、鷲ノ巣、張碓、天幕、中越、奥白滝、上白滝、旧白滝、下白滝、伊奈牛、金華があり、2016年11月現在廃止が取沙汰されている駅として、東山、姫川、桂川、北豊津、蕨岱、美々、島ノ下、上厚内がある。
 「幌浦」は「浦幌」の誤植。


1961年6月 幾春別9:32発 手宮行 普通列車
 北海道最初の鉄道は、日本最初の鉄道でもある茅沼炭鉱軌道(1869年使用開始)であるが、一般的には、官営幌内鉄道として開業し、1880年から旅客営業を行った手宮-札幌間、そして1882年の札幌-幌内間を、最初の鉄道と呼ぶことが多い。鉄道を暗に「旅客鉄道」と定義した場合はそうなるだろう。

 幌内鉄道は、幌内の良質な石炭を、小樽の手宮港で搬出するための運炭を主目的とする鉄道であり、北海道だけでなく、日本の文化を象徴する鉄道であったが、現在ではその両端側の手宮線、幌内線がともに廃止となってしまい、由緒ある鉄路も過去のものとなった。

 1961年6月の時刻表をみると、この開通当時を偲ばせる幾春別発手宮行の旅客列車が下り1本のみ運行されている。(幌内始発ではないのが少し残念だが)。

 岩見沢で函館線に入り、札幌を経て、小樽の手前、南小樽でふと消えてしまう時刻表は、現在の時刻表に見慣れた目には斬新だ。手宮には12:07、お昼時に到着していた。


1961年6月 幾春別17:23発 万字炭山行 普通列車
 石狩炭田の運炭鉄道は国鉄、私鉄を含め、主軸となる函館線からさながら櫛の歯のように各炭鉱めがけて路線が敷かれていた。

 そんな中、その歯の先から別の歯の先に向かう、いっぷう変わった普通列車があった。幾春別発万字炭山行。直線距離にして15km程度であるが、列車は45km程度の道のりを2時間半かけて走り抜ける。


1965年6月 簡易軌道の時刻表
 北海道では、私鉄以外にも殖民開拓のため、様々な狭軌の軌道が張り巡らされ、列車が運行していた。そのうち幌延町の問寒別線については、本サイトでも写真を紹介させていただいた。

 しかし、これらの軌道の時刻表は、道内版においてもほとんど掲載はされず、その時刻表は現地を訪問しないとわからないことが多かったという。

 その一方で、1965年6月の道内時刻表をめくると、そのうち2つの軌道の時刻表が掲載されている。歌登町営軌道(小頓別-歌登)と、鶴居村営軌道(雪裡線と幌呂線)である。その貴重さに鑑み、ここでも紹介することにした。

 鶴居村営軌道は、新富士を出て、下幌呂で中雪裡への路線と新幌呂への路線が分岐していた。雄別鉄道とのクロスがあったのは、新富士-温根内間。歌登町営軌道は1929年開業1971年廃止、鶴居村営軌道は1928年開業1968年廃止。