トッホ
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交響曲 全集 フランシス指揮 ベルリン放送交響楽団 レビュー日:2025.2.12 |
★★★★★ 現代を代表する「トッホの交響曲全集」録音
アラン・フランシス(Alun Francis 1943-)指揮、ベルリン放送交響楽団の演奏によるオーストリアの作曲家、エルンスト・トッホ(Ernst Toch 1887-1964)の交響曲全集。CD3枚に下記の様に収録されている。 【CD1】 2001~02年録音 1) 交響曲 第1番 op.72 2) 交響曲 第4番 op.80 【CD2】 1999年録音 3) 交響曲 第2番 op.73 4) 交響曲 第3番 op.75 【CD3】 1995年録音 5) 交響曲 第5番 op.89 6) 交響曲 第6番 op.93 7) 交響曲 第7番 op.95 トッホは、ベルリンを中心に芸術活動をしていたが、ナチスの台頭にともない、アヴァンギャルドな作風とユダヤ系のルーツから、退廃音楽とみなされるようになり、アメリカに亡命して芸術活動を継続した。そんなトッホが「交響曲」を手掛けたのは戦後になってからで、交響曲第1番が完成したのは1950年で、作曲者はすでに63歳になっていた。しかし、ひとたび交響曲を手掛けると勢いがついたのか、最終的に彼は生涯で7曲の交響曲を完成することとなる。 交響曲第1番は、4つの楽章からなり、第2楽章にスケルツォを配した構成は古典的と言えるが、その作風は、非常に斬新であり、ソナタ形式にはよらず、対位法によるフーガなどを織りこみながら、音色を重ねていくものとなる。場所によっては、ヒンデミット(Paul Hindemith 1895-1963)やショスタコーヴィチ(Dmitrii Shostakovich 1906-1975)を強く想起させる。第1楽章は独特の緊迫感が張りつめていて、そこにアイロニーの要素も加わってくる。打楽器が活躍する編成のオーケストラが、神秘的な持続性を背景に、深刻な音響を作っているが、ところどころにユーモアが垣間見える。第2楽章がもっとも分かりやすい音楽で、特に中間部の金管の鮮やかな咆哮は、ショスタコーヴィチの交響曲を連想させる。トッホが第1交響曲を完成した1950年の時点で、ショスタコーヴィチはすで交響曲のジャンルで第9番までの作品を世に送り出しているから、トッホも間違いなく聴いていただろう。陰鬱な緩徐を経て、マーチ的な第4楽章へ至る感じは、いかにも世界大戦を経て冷戦に入ったという時代の気配を感じさせる。 交響曲第2番は、トッホの交響曲群の中にあっても特に暗い世界観を感じさせる作風、全4楽章からなるが、第1楽章では、ティンパニや金管の強音が、どこか啓示的に刻まれる。作られる音響はどこか冷たい。中間2楽章はそれぞれスケルツォと緩徐楽章となるが、これらの性格的な2つの楽章をフランシスは巧妙に陰影をもった演出を施していて、とても聴きやすくなっている。特にピアノの活躍する第2楽章は着想が斬新で、様々な聴き味を楽しませてくれる。第3楽章はストラヴィンスキー(Igor Stravinsky 1882-1971)的な緩徐楽章と形容したい音楽で、とくに弦の豊かな表現性が求められるが、ベルリン放送交響楽団はさすがの艶やかさで、指揮者の要求にこたえている。終楽章はモチーフを重ねながらスケールを大きくしていくトッホの特徴的なスタイルが現れるが、雰囲気は暗い。いくぶん衝撃的な帰結を迎える。なお、この交響曲には、トッホ自身によって、完成後に創世記の中にある言葉「”I will not go until you bless me”(祝福してくださるまでは離しません)」が副題として与えられたというので、聴き手の解釈の一助になると思う。 交響曲第3番は、トッホの代表作の一つとして知られる。実際、全7曲の交響曲を聴きとおしてみて、私もこの第3番はなじみやすく、個性的であると思った。この交響曲は、アメリカ・ユダヤ人コミュニティの設立 300 周年を祝して委嘱されたもので、1956 年のピューリッツァー賞を受賞している。全3楽章構成で、ハモンドオルガンの使用が音色的な面白味を与える。特に神秘的な背景を描き出す際に、高い効果を挙げている。当録音は、すぐれた技術で、とてもバランス良く仕上がっているので、それらの音響の面白味を堪能できる。第1楽章中間部のマーチを思わせる部分は、簡明な明るさと力強さで、トッホの作品中でも異質なほどの分かりやすさをもって響く。続く第2,3楽章とも、第2番と比べて明るく、より聴き手の側に近づいてきてくれる性格を持っているだろう。第3楽章の疾走感は、近代的な響きで形作られているとはいえ、聴きやすく、古典的な求心性も持っている。 交響曲第4番は、3つの楽章からなり、楽章の間では、指揮をしているアラン・フランシス自身によるテキストの朗読が挿入される。なかなか良い声をしている。このテキストについては、アメリカのピアニストで、芸術家団体を主催したマリアン・マクダウェル(Marian MacDowell 1858-1956)への追悼の意図が込められている。ちなみにマリアンの夫は、作曲家のエドワード・マクダウェル (Edward MacDowell 1860-1908)である。この交響曲では、楽器がソロで活躍する部分が多く、特に第1楽章で息の長い旋律を扱ったヴァイオリンの響きが印象的。悲歌とでも形容しようか。またフルートの独特の情念を感じさせる。短くも軽やかなスケルツォを挟んで、終楽章となる第3楽章では、音楽は深みを増し、内省的な力強さを蓄えたのち、静かに終焉を迎える。 交響曲第5番は、旧約聖書の士師記のエフタ(Jephtha)の物語になぞらえた作品であるとされ、2つの楽章が割り当てらえているが、トッホ自身、狂詩曲的な性格から、交響曲として分類するべきか迷ったという。じっさい、この作品は、それまでのトッホの交響曲と比較すると、そこまでの体裁が感じられないし、構造的なものからもたらされる緊密感という点で薄さを感じさせる。その一方で、ストーリーを感じさせる抑揚があり、ドラマティックな大きさを感じさせる。散文的な抽象性も同居するが、トッホが自著である「旋律学」で言及した「旋律は無限的なものであり、主題は有限的なものである。旋律は観念的なものであり、主題は有形的なものである。」を思い起こさせるものでもある。 交響曲第6番は、連続して演奏される3つの楽章から構成される。この交響曲は、トッホが室内楽のジャンルでそのキャリアを積んできたことを物語る感じで、特に前半の2楽章は、軽さと淡さを背景にニュアンスが交錯するイメージだ。このあたり、聴き手の側にも、相応の集中力が求められる音楽である。そもそも、トッホの交響曲を聴こうと思うなら、そのあたりは、ある程度前もって心構えがあるべきところなのだろう。第3楽章は行進曲ふうに進むが、その転結は、別種のものであり、なにかスッと抜けるような感じである。 交響曲第7番は、3楽章構成であり、かつ音楽の性格として、第6番に近いところが多い。第1楽章の軽さは第6交響曲由来のものに思える。第2楽章のランドラーは、突如楽天的なものが挿入される感があって、そこにマーラー(Gustav Mahler 1860-1911)の交響曲の中間楽章的な雰囲気を感じる。終楽章は、簡単には解釈できない不思議さがあり、その散文調とも言える響きは、物憂さや苦悩を連想させる。 フランシスとベルリン放送交響楽団の演奏は、これらの楽曲の特徴、音色的な魅力を存分に引き出した感がある。私は他の演奏でこれらの楽曲を聴いたことがないので比較はできないが、テンポも非常に妥当性を感じる。全般に深刻な諸相が描かれる中で、妙に軽く明るい部分が織り交じることも多いのだが、フランシスは、それらの楽曲の性格を良く踏まえ、全体に明晰かつ明るめのトーンを用いてくれるので、わかりやすく聴きやすい。録音も良好で、これらの楽曲を聴くための代表的録音と称するに相応しい。 |
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交響曲 第1番 第4番 フランシス指揮 ベルリン放送交響楽団 レビュー日:2024.12.18 |
★★★★★ トッホの個性的な作風を、わかりやすく伝えてくれる1枚
オーストリアの作曲家、エルンスト・トッホ(Ernst Toch 1887-1964)の下記の2作品を収録。 1) 交響曲 第1番 op.72 2) 交響曲 第4番 op.80 アラン・フランシス(Alun Francis 1943-)指揮、ベルリン放送交響楽団の演奏で、2001~2002年の録音。 トッホは、ベルリンを中心に芸術活動をしていたが、ナチスの台頭にともない、アヴァンギャルドな作風とユダヤ系のルーツから、退廃音楽とみなされるようになり、アメリカに亡命して芸術活動を継続した。そんなトッホが「交響曲」を手掛けたのは戦後になってからで、交響曲第1番が完成したのは1950年で、作曲者はすでに63歳になっていた。しかし、ひとたび交響曲を手掛けると勢いがついたのか、最終的に彼は生涯で7曲の交響曲を完成することとなる。 交響曲第1番は4つの楽章からなり、第2楽章にスケルツォを配した構成は古典的と言えるが、その作風は、非常に斬新であり、ソナタ形式にはよらず、対位法によるフーガなどを織りこみながら、音色を重ねていくものとなる。場所によっては、ヒンデミット(Paul Hindemith 1895-1963)やショスタコーヴィチ(Dmitrii Shostakovich 1906-1975)を強く想起させる。第1楽章は独特の緊迫感が張りつめていて、そこにアイロニーの要素も加わってくる。打楽器が活躍する編成のオーケストラが、神秘的な持続性を背景に、深刻な音響を作っているが、ところどころにユーモアが垣間見える。第2楽章がもっとも分かりやすい音楽で、特に中間部の金管の鮮やかな咆哮は、ショスタコーヴィチの交響曲を連想させる。トッホが第1交響曲を完成した1950年の時点で、ショスタコーヴィチはすで交響曲のジャンルで第9番までの作品を世に送り出しているから、トッホも間違いなく聴いていただろう。陰鬱な緩徐を経て、マーチ的な第4楽章へ至る感じは、いかにも世界大戦を経て冷戦に入ったという時代の気配を感じさせる。 交響曲第4番は3つの楽章からなり、楽章の間では、指揮をしているアラン・フランシス自身によるテキストの朗読が挿入される。なかなか良い声をしている。このテキストについては、アメリカのピアニストで、芸術家団体を主催したマリアン・マクダウェル(Marian MacDowell 1858-1956)への追悼の意図が込められている。ちなみにマリアンの夫は、作曲家のエドワード・マクダウェル (Edward MacDowell 1860-1908)である。この交響曲では、楽器がソロで活躍する部分が多く、特に第1楽章で息の長い旋律を扱ったヴァイオリンの響きが印象的。悲歌とでも形容しようか。またフルートの独特の情念を感じさせる。短くも軽やかなスケルツォを挟んで、終楽章となる第3楽章では、音楽は深みを増し、内省的な力強さを蓄えたのち、静かに終焉を迎える。 フランシスとベルリン放送交響楽団の演奏は、これらの楽曲の特徴、音色的な魅力を存分に引き出した感がある。私は他の演奏でこれらの楽曲を聴いたことがないので比較はできないが、テンポも非常に妥当性を感じる。フランシスが録音したアラン・ペッテション(Allan Pettersson 1911-1980)の交響曲にも通じ、見事に作品の伝え手の役割を果たした感がある。 |
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交響曲 第2番 第3番 フランシス指揮 ベルリン放送交響楽団 レビュー日:2025.2.1 |
★★★★★ トッホの代表作と呼ぶにふさわしい「交響曲 第3番」を収録
オーストリアの作曲家、エルンスト・トッホ(Ernst Toch 1887-1964)の下記の2作品を収録。 1) 交響曲 第2番 op.73 2) 交響曲 第3番 op.75 アラン・フランシス(Alun Francis 1943-)指揮、ベルリン放送交響楽団の演奏で、1999年の録音。 トッホはオーストリアの作曲家。ナチスの迫害を避け、アメリカに亡命し、第1交響曲を完成した時、すでに作曲者は63歳(1950年)であったが、そこから矢継ぎ早に交響曲を手掛け、結局7曲の交響曲を遺すこととなった。その作風は、対位法をはじめとする古典的なベースを用いながらも、フレーズは断片的なものが多く、音色に妙を凝らしたもので、大局的に「アヴァンギャルド」ど称されるところとなる。当盤に収められた2曲においても、ヒンデミット(Paul Hindemith 1895-1963)あるいはニールセン(Carl Nielsen 1865-1931)の後期を思わせるところが多い。 交響曲第2番は、中でも暗い世界観を感じさせる作風、全4楽章からなるが、第1楽章では、ティンパニや金管の強音が、どこか啓示的に刻まれる。作られる音響はどこか冷たい。中間2楽章はそれぞれスケルツォと緩徐楽章となるが、これらの性格的な2つの楽章をフランシスは巧妙に陰影をもった演出を施していて、とても聴きやすくなっている。特にピアノの活躍する第2楽章は着想が斬新で、様々な聴き味を楽しませてくれる。第3楽章はストラヴィンスキー(Igor Stravinsky 1882-1971)的な緩徐楽章と形容したい音楽で、とくに弦の豊かな表現性が求められるが、ベルリン放送交響楽団はさすがの艶やかさで、指揮者の要求にこたえている。終楽章はモチーフを重ねながらスケールを大きくしていくトッホの特徴的なスタイルが現れるが、雰囲気は暗い。いくぶん衝撃的な帰結を迎える。なお、この交響曲には、トッホ自身によって、完成後に創世記の中にある言葉「”I will not go until you bless me”(祝福してくださるまでは離しません)」が副題として与えられたというので、聴き手の解釈の一助になると思う。 交響曲第3番は、トッホの代表作の一つとして知られる。実際、全7曲の交響曲を聴きとおしてみて、私もこの第3番はなじみやすく、個性的であると思った。この交響曲は、アメリカ・ユダヤ人コミュニティの設立 300 周年を祝して委嘱されたもので、1956 年のピューリッツァー賞を受賞している。全3楽章構成で、ハモンドオルガンの使用が音色的な面白味を与える。特に神秘的な背景を描き出す際に、高い効果を挙げている。当録音は、すぐれた技術で、とてもバランス良く仕上がっているので、それらの音響の面白味を堪能できる。第1楽章中間部のマーチを思わせる部分は、簡明な明るさと力強さで、トッホの作品中でも異質なほどの分かりやすさをもって響く。続く第2,3楽章とも、第2番と比べて明るく、より聴き手の側に近づいてきてくれる性格を持っているだろう。第3楽章の疾走感は、近代的な響きで形作られているとはいえ、聴きやすく、古典的な求心性も持っている。フランシスは、楽曲の性格を良く踏まえ、全体に明るい響きで描いており、過不足ない。 |
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交響曲 第5番 第6番 第7番 フランシス指揮 ベルリン放送交響楽団 レビュー日:2025.2.12 |
★★★★☆ 気難しい面が強くなった感のあるトッホの最後の3つの交響曲
オーストリアの作曲家、エルンスト・トッホ(Ernst Toch 1887-1964)の下記の2作品を収録。 1) 交響曲 第5番 op.89 2) 交響曲 第6番 op.93 3) 交響曲 第7番 op.95 アラン・フランシス(Alun Francis 1943-)指揮、ベルリン放送交響楽団の演奏で、1995年の録音。 オーストリアの作曲家トッホは、ナチスによる迫害を逃れてアメリカに拠点を移して活動した。それまでは室内楽の分野で多くの作品を発表してきたトッホが、交響曲を手掛けたのは、60歳を過ぎてからで、しかし、勢いがついたのか、そこからトッホは7つの交響曲を書きあげることになる。その作風は、(語弊を招く表現かもしれないが)同じ無調であっても、シェーンベルク(Arnold Schoenberg 1874-1951)のように耳に厳しいものではなく、むしろヒンデミット(Paul Hindemith 1895-1963)やショスタコーヴィチ(Dmitrii Shostakovich 1906-1975)、ニールセン(Carl Nielsen 1865-1931)、あるいはプロコフィエフ(Sergey Prokofiev 1891-1953)といった作曲家たちに通じるものが多いと感じる。 交響曲第5番は、旧約聖書の士師記のエフタ(Jephtha)の物語になぞらえた作品であるとされ、2つの楽章が割り当てらえているが、トッホ自身、狂詩曲的な性格から、交響曲として分類するべきか迷ったという。じっさい、この作品は、それまでのトッホの交響曲と比較すると、そこまでの体裁が感じられないし、構造的なものからもたらされる緊密感という点で薄さを感じさせる。その一方で、ストーリーを感じさせる抑揚があり、ドラマティックな大きさを感じさせる。散文的な抽象性も同居するが、フランシスの演奏は、各パートを引き締めて、祖語のない表現を導いている。この演奏と訊いていると、トッホが自著である「旋律学」で言及した「旋律は無限的なものであり、主題は有限的なものである。旋律は観念的なものであり、主題は有形的なものである。」を思い起こさせる。 交響曲第6番は連続して演奏される3つの楽章から構成される。この交響曲は、トッホが室内楽のジャンルでそのキャリアを積んできたことを物語る感じで、特に前半の2楽章は、軽さと淡さを背景にニュアンスが交錯するイメージだ。このあたり、聴き手の側にも、相応の集中力が求められる音楽である。そもそも、トッホの交響曲を聴こうと思うなら、そのあたりは、ある程度前もって心構えがあるべきところなのだろう。第3楽章は行進曲ふうに進むが、その転結は、別種のものであり、なにかスッと抜けるような感じである。 交響曲第7番も3楽章構成であり、第6番に近いところが多い。第1楽章の軽さは第6交響曲由来のものに思える。第2楽章のランドラーは、突如楽天的なものが挿入される感があって、そこにマーラー(Gustav Mahler 1860-1911)の交響曲の中間楽章的な雰囲気を感じる。終楽章は、簡単には解釈できない不思議さがあり、その散文調とも言える響きは、物憂さや苦悩を連想させる。 トッホの最後の3つの交響曲は、なかなか気難しい部分が深まった感があり、これらの作品を簡単に「楽しむ」というわけには行かないが、この時代の流れの中で生まれたものとして、相応の意味を感じさせるもので、フランシスの丁寧な音作りと、良好な録音品質は、聴き手の理解が進むことを助けてくれるだろう。 |