ショスタコーヴィチ
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交響曲全集 映画音楽「馬あぶ」から「ロマンス」「定期市」 ジャズ組曲 第1番 第2番から「ワルツ」 ヤンソンス指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 バイエルン放送交響楽団 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 オスロ・フィルハーモニー管弦楽団 サンクトペテルブルク・フィルハーモニー管弦楽団 ピッツバーグ交響楽団 フィラデルフィア管弦楽団 ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団 レビュー日:2006.8.26 |
★★★★★ 現代的な感性で洗練されたショスタコーヴィチです マリス・ヤンソンス(Marris Jansons)指揮によるショスタコーヴィチの交響曲シリーズがついに全集となって完結した。ショスターコヴィチ生誕100年にあたる2006年に全集化されたのは、あるいは予定通りなのだろうか?と思ってしまうが、かなりの長丁場だったことは録音年をみるとわかる。 最初の録音は第7番で1988年、最後に録音されたのが第13番で2005年のものなので、足掛け18年のプロジェクトということになる。 本盤の特徴としてまず、様々なオーケストラが起用されていることがある。ベルリンフィル(第1番)、バイエルン放送交響楽団(第2番・第3番・第4番・第12番・第14番)、ウィーンフィル(第5番)、オスロフィル(第6番・第9番)、サンクトペテルスブルクフィル(第7番)、ピッツバーグ交響楽団(第8番)、フィラデルフィア管弦楽団(第10番・第11番)、ロンドンフィル(第15番)とかなり多彩で、オーケストラの聴き比べもできてしまう。 第2の特徴として、いくつかの小品がボーナス的に収録されていることがあり、これは他の全集にはみられないきわめて良心的な企画で、私もとても楽しむことができた。 演奏は全般にソフトな洗練を思わせるもので、いわゆる西欧風というスタイルだ。過剰な演出はせずに温厚な音作りを基本としながら、やるべきときにはきちんと音を出してくる。特に印象がよかったのが小気味のいい味わいに満ちた第9番だった。またショスタコーヴィチの録音自体が少ないウィーンフィルの第5番はなかなか貴重であるが、その音色の芳醇さはすばらしく、ショスタコーヴィチでここまで「酔う」色を出せるのかと驚嘆させられた。 また特に人気のない第2番や第12番において、音の層を丹念に構築して聴かせる演奏になっているのも、全集としての質を高めている。 なお、中の各紙パッケージも含めてジャケットデザインのセンスが良いのも好印象だ。 |
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交響曲全集 室内交響曲(原曲:弦楽四重奏曲 第8番 バルシャイ編) オラトリオ「森の歌」 葬送と勝利の前奏曲 祝典序曲 ノヴォロシースクの鐘 交響詩「十月革命」 5つの断章 アシュケナージ指揮 ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団 サンクトペテルブルク・フィルハーモニー管弦楽団 NHK交響楽団 ブライトン・フェスティバル合唱団 二期会合唱団 S: ロジャース B: レイフェルクス レビュー日:2007.7.22 |
★★★★★ ついに完成しました!アシュケナージによる全集 ついに中座しかけたこのアシュケナージによる全集が完成したのは大変感慨深い。加えて、未収録曲のNHK交響楽団との録音により完成をみたのは、このオーケストラにとっても記念すべき里程標となるに違いない。(ただし、なぜか第4交響曲はロイヤルフィルとの録音があったのに、NHK交響楽団との録音に置き換わっている。私としては、ロイヤルフィルの録音を全集としては用いて欲しかった~そうすればNHK交響楽団との録音は単品で購入しただろう)。 「ヴォルコフの証言」以後(証言それ自体の真偽のほどはさておいて)、ショスタコーヴィチの、特に「交響曲」を演奏する場合は、作曲者の体制下での葛藤をどう表現するかに注目が集まるようになった。もちろん「ショスタコーヴィチの作中での体制賛美は、逆説的」というヴォルコフ認識(とごく簡単に書かせていただきます)は、証言の真偽によらず、大いにありえると思う。しかし、アシュケナージのスタンスには、そのような「囚われ」がなく、純音楽的アプローチに徹している。この人が振ると、政治的な色が薄くなり、それが私には好ましい。元来センスがいいのだし、それだけで音楽を作った割り切りは潔いと思う。「ヴォルコフとか・・・いろいろあったけど、それはそれだよ」という感じです。そのメッセージって案外、大切なのでは?伝える価値、絶対ありますよ!と思わず応援。 第5番、第8番、第10番ではサウンドのバランスがよく、急速部の足並みのよさが印象的。金管の音色がいつもより柔らかめなのがユニークで、それが音の彩に馴染んでいる。サンクトペテルブルクフィルとの録音となった第7番と第11番ではオーケストラの音色自体が抜群で、しかも必要以上の恰幅を求めないスマートさがよい。いわゆる「現代的」ショスタコーヴィチだ。第1番、第6番、それにバルシャイの編曲による室内交響曲(原曲は弦楽四重奏曲第8番)や祝典序曲も好演で、部分的にソフトフォーカス気味なサウンドを交えるあたりが巧みで、聴き心地がよい。NHK交響楽団との3曲については、それぞれの単発売の個所で触れたい。個人的にはヤンソンス盤、バルシャイ盤とともに、「今の全集」として、とても価値の高いボックスセットだと思う。 |
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交響曲全集 ペトレンコ指揮 ロイヤル・リヴァプール・フィルハーモニー管弦楽団 レビュー日:2015.11.10 |
★★★★★ 現代的な感性に貫かれたクールで強靭な全集 2008年から2013年にかけて、ワシリー・ペトレンコ(Vasily Petrenko 1976-)がロイヤル・リヴァプール・フィルハーモニー管弦楽団を指揮してナクソス・レーベルに録音したショスタコーヴィチ(Dmitrii Shostakovich 1906-1975)の交響曲全15曲がボックス化された。既発の11枚がそのまま収録された構成で、Box化にあたっての番号順のソートなどは行われていない。その内容は以下の通り。 【CD1】 1) 交響曲 第1番 ヘ短調 op.10 2009年録音 2) 交響曲 第3番 変ホ長調 op.20「メーデー」 2008年録音 ロイヤル・リヴァプール・フィルハーモニー合唱団 【CD2】 3) 交響曲 第2番 ロ長調 op.14「十月革命に捧ぐ」 2011年録音 ロイヤル・リヴァプール・フィルハーモニー合唱団 4) 交響曲 第15番 イ長調 op.141 2010年録音 【CD3】 5) 交響曲 第4番 ハ短調 op.43 2013年録音 【CD4】 6) 交響曲 第5番 ニ短調 op.47「革命」 2008年録音 7) 交響曲 第9番 変ホ長調 op.70 2008年録音 【CD5】 8) 交響曲 第6番 ロ短調 op.54 2010年録音 9) 交響曲 第12番 ニ短調 op.112「1917年」 2009年録音 【CD6】 10) 交響曲 第7番 ハ長調 op.60「レニングラード」 2012年録音 【CD7】 11) 交響曲 第8番 ハ短調 op.65 2009年録音 【CD8】 12) 交響曲 第10番 ホ短調 op.93 2009年録音 【CD9】 13) 交響曲 第11番 ト短調 op.103「1905年」 2008年録音 【CD10】 14) 交響曲 第13番 変ロ短調 op.113「バビ・ヤール」 2013年録音 ロイヤル・リヴァプール・フィルハーモニー合唱団男声セクション ハッダーズフィールド・コーラル・ソサエティ バス: アレクサンドル・ヴィノグラードフ(Alexander Vinogradov 1976-) 【CD11】 15) 交響曲 第14番 ト短調 op.135「死者の歌」 2013年録音 ソプラノ: ガル・ジェイムズ(Gal James 1977-) バス: アレクサンドル・ヴィノグラードフ(Alexander Vinogradov 1976-) 大手レーベルによる交響曲のセッション録音が少なくなったこのご時世に、ショスタコーヴィチの全15曲の交響曲をスタジオ収録した当全集はきわめて価値が高く、制作陣の意気込みの伝わる企画となった。また、この企画を通じて、多くの音楽ファンに、ペトレンコという指揮者とロイヤル・リヴァプール・フィルというオーケストラの実力を、知らしめることとなった。 いずれも精緻なアンサンブルを駆使した現代的な演奏で、シャープな感性に貫かれた解釈となっている。私が特に気に入っている録音は、第4番、第6番、第8番、第9番、第10番、第11番、第12番の7曲である。 第8番を私はこの作曲家の最高傑作だと考えている。ペトレンコの指揮は一見クールに思えるが、よく聴くとただならない刺激が漂っている。これは木管のかもすロシア的風合いと、弦楽器陣の重く、意外に激しいヴィブラートの効果からもたらされる印象。それとともに、様々なエネルギーを感じる演奏でもある。それらは「恐怖」や「悲劇」、「痛み」に似た感情に作用するようだ。言い換えれば「多彩な音を繰り出している」ということ。象徴的なのは第3楽章のトランペットソロ。ちょっと不思議な音色がすると思うが、わかりやすい箇所ではないだろうか?詳細に設計された演奏に敬服してしまう。 第10番も良い。筋肉質に研ぎ澄まされたオーケストラの合奏音が見事で、高い緊張感を持続する空気が醸成されている。何と言っても凄まじいのは第2楽章。超高速の2/2拍子で、激しいシンコペーションの効果で畳み掛けるように音楽を盛り上げていくのだけれど、その辺りすべてを巻き込むようにして推進していく圧倒的な力強さが凄い。怒濤の迫力とはこのことだ。このスケルツォは激昂する怒りを表現した音楽に他ならない。その他、全編に渡って、意味深な主題を吹くホルンの確かな存在感のある響き、弦楽器陣の強奏によるヴィブラートの激しさ、それとコーダで際立つティンパニのリアリティなど、聴き所に事欠かない。第2楽章のパワーとスピードだけでなく、全般によく計算されており、悲劇性も存分に引き出されている。過度に劇的で誇張というわけでもない。第1楽章は全体を見通した配分がよく、クライマックスの演出も力強く、含みが多い。 第11番は「凄演」という形容が相応しい。きわめて繊細なタッチ、鮮明な音色でこの曲の真価を伝えている一方で、第1楽章の不気味な主題の背景で情動を伝えるティンパニの壮絶な暗い深さ、トランペットの物憂げなファンファーレが意味深だ。第2楽章は行進から大量殺戮までを描いているが、怒号のような地を揺るがす音楽の切迫する力はただならない。その後のレクイエムの痛切さも、淡々と描写しながら様々な音色を与えて、きわめて高い集中力をもって描写されている。第4楽章の最後はいつもわたしを不思議な気持ちにさせる。一旦盛り上がった革命歌からクライマックスを迎えながら、再び闇の中に閉じ込められていくような冷たい響きで静かに音楽がフェード・アウトしていく。この交響曲の凄さを改めて知らしめてくれる録音だ。 第4番も凄い。第1楽章冒頭の15分間、何か強く不条理な力を受け続けるような、独特の雰囲気に満たされる。これは音楽の全体的な展望があかされず、「散見」でしか前方を与えないという楽曲の構成に起因するのだが、ペトレンコはこの音楽の仕組みを周到に練り上げ、間断ない緊張で音響を満たす。オーケストラのただならない緊張感も凄い。そして、15分経過ののち、たちまち荒れ狂った世界に聴き手は放り込まれる。圧倒的な疾走の中で、絶望的とも言える恐怖に近い感情が、とても抗うことの出来ない強大な力によって次々と沸き起こり、放散させられる。頂点での咆哮の凄まじさ、ティンパニ、金管のどよもすような迫力が壮絶。第2楽章でも悲劇性に貫かれた強い意志に統御された表現が見事。そして、またまた複雑な第3楽章に入る。冒頭の葬送音楽におけるバズーンの音色のなんと意味深なこと。そしてクライマックスで強固に打ち鳴らされるポリリズムのティンパニの衝撃!こんな音楽を書いてしまったショスタコーヴィチという作曲家の精神性に畏怖するばかり。 第6番と第12番は、今までこの曲に馴染みがなかった人にこそ聴いてほしい。第6番をペトレンコはきびきびとしたテンポで、単純明快にパーツをまとめていて、安定したサウンドが供給され、この作品の多様な面白さに気付くことができる。第12番は爆発的で素晴らしい熱演。まさにハートの伝わる演奏で、特に第1楽章の全管弦楽が咆哮するような怒濤の迫力が圧巻。革命の原動力となった「怒り」の感情を音楽で描写したものだと強く感じられる。この曲で重要な役割を担う打楽器陣の鮮烈な効果を克明に捉えた録音も見事で、立体感があり、臨場感に満ちている。 第9番ではショスタコーヴィチの機知とユーモアを、活き活きと描き出し、生気に溢れたオーケストラからは常に魅力的なオーラが伝わってくる。 他方で、第5番と第7番の人気曲2曲については、スローテンポで丁寧に仕上げた印象であるが、私の中では、ペトレンコの演奏からは前後の結びつきが弱いとう印象を持った。 とはいえ、全集としては、きわめて質の高いものであることは変わりない。指揮者の統率力とオーケストラの演奏技術が合致した、見事な芸術作品として結実している。録音も良好で、現代を代表する全集の一つであることは間違いない。 |
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交響曲 第1番 第3番「メーデー」 ペトレンコ指揮 ロイヤル・リヴァプール・フィルハーモニー管弦楽団 レビュー日:2012.8.12 |
★★★★☆ 20世紀を象徴する交響曲、ショスタコーヴィチの第1番 ワシリー・ペトレンコ(Vasily Petrenko 1976-)がロイヤル・リヴァプールフィルとナクソス・レーベルに進行中のショスタコーヴィチ(Dmitrii Shostakovich 1906-1975)の交響曲全集企画。私も少しずつ聴かせていただいてきたが、そろそろリリースに追いついてきただろうか。当盤に収録してあるのは、交響曲第1番と第3番「メーデー」の2曲。交響曲第3番ではロイヤル・リヴァプールフィル合唱団が加わる。録音は2009年と2010年。交響曲第1番は1925年、第3番は1929年の作品である。 交響曲第1番を作曲したショスタコーヴィチはまだ19歳であった。この楽曲が発表された当時、その音楽の充実した内容と完成度の高さは圧巻で、たちまちセーセーショナルな騒動を巻き起こしたとされる。作風が違うとは言え「現代のモーツァルト」とまで称された神童ぶりであった。その後、確かにショスタコーヴィチは、大戦そして冷戦という激動の時代下にあって、大作曲家への道を歩んでいくことになる。 交響曲第1番という作品を称賛した音楽家には、ブルーノ・ワルター(Bruno Walter 1876-1962)、レナード・バーンスタイン(Leonard Bernstein 1918-1990)、アルトゥーロ・トスカニーニ(Arturo Toscanini 1867-1957)といった錚々たる顔ぶれが並ぶ。しかし、このうち最終的にショスタコーヴィチを主要なレパートリーとしていったのはバーンスタインだけだったのは不思議な気もする。いずれにしてもこの第1番は近代の天才が世に問うた名曲である。また、交響曲第1番は完成度が高いという以上に、芸術家特有の先鋭的な感性が時代の不穏を敏感に察知し、音にしたような強い意志を感じさせる点でも傑出している。このような作品を19歳で完成させたショスタコーヴィチは紛れもなく音楽史上を代表する天才の一人であった。 第1番について、私はロジェストヴェンスキー(Gennady Rozhdestvensky 1931-)がソヴィエト国立文化省交響楽団と録音した泥臭い豪演が忘れられないが、このペトレンコ盤はそれとはまったく印象の異なる演奏(そして、むしろ現代の主流といえる演奏)。まるで別の曲を聴いているみたい。スタイリッシュで実にまとまりがよく味わいがスキッとしている。そもそも、この交響曲第1番は古典的な書法で書かれており、ショスタコーヴィチの交響曲の中でもきちんと折りたたみやすい音楽となっている。ペトレンコはその雰囲気を的確に捉えて、きれいにまとめ上げている。第2楽章は私の大好きな音楽であるが、ピアノの打楽器的な使用、鋭くまとめあげられた性格的な色合いも適度な中庸の美を得ている。現代的な感性を感じさせるし、この方が聴きやすいという人も多いだろう。 交響曲第3番「メーデー」は第2番とともに単一楽章による音楽でかつ最後に合唱が導入されるわけだが、ショスタコーヴィチにしては温和な音楽である。その存在感は地味だが、ペトレンコはリズミカルな処理をこなす過程で、光と影の演出を施していてわかりやすくなっていると思う。 |
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交響曲 第1番 第6番 ボレイコ指揮 シュトゥットガルト放送交響楽団 レビュー日:2020.2.25 |
★★★★★ 指揮者とオケの綿密な呼吸で描かれた暖かみを感じさせるショスタコーヴィチ ロシアの指揮者、アンドレイ・ボレイコ(Andrey Boreyko 1957-)と、シュトゥットガルト放送交響楽団によるショスタコーヴィチ(Dmitri Shostakovich 1906-1975)シリーズの1枚で、当盤には以下の2曲が収録されている。 1) 交響曲 第1番 へ短調 op.10 2) 交響曲 第6番 ロ短調 op.54 いずれの楽曲も2011年にライヴ収録されている。 最近では、ショスタコーヴィチの交響曲の多くが主要な録音レパートリーとなっており、数多くの優れた録音が輩出されている。そのような中で、当盤は、ちょっと地味な存在といったところかもしれないが、なかなか良い演奏であり、捨てがたい魅力がある。 当盤の特徴は室内楽的な緊密さをベースとした暖かい音響づくりにあるだろう。ただし、ショスタコーヴィチの交響曲には、概してアイロニーを想起させる楽想や、ダークな気配を持っている。当演奏では、当該性向への表出力は、高くない。 その一方で、当盤はとても「聴き易い」演奏という事もできるだろう。様々な表現が穏当で、見通しが良い。エッジを利かせるような尖ったところが控えられている分、中音域の厚みが増し、音楽の「本流」部分に流れる音量が常に豊かに感じられる。 交響曲第1番は、有名なスケルツォ楽章において、上述の効果から対比感が弱められた感触を受けるが、品よく仕上がった音楽は、上々な聴き味といって良い。終楽章も、何かをことさら強調することなく、古典的な端正さを描きながら、引っ張らない解釈が、好印象だ。こういうスタイルは、うまく練り上げないと、凡演と評される危険性があるのだけれど、オーケストラの力量もあってか、単調さをうまく回避できている。 交響曲第6番も、劇性の強調にはハナから興味を示さないスタイルで、端正に、適度な暖かみと距離感をキープして音楽を作り上げている。全曲の半分以上を占める第1楽章のラルゴは、当盤の白眉と言える個所であり、明瞭なスイッチングにより、常に楽曲の適切な個所にスポットライトが当たり続けるような気持ちよさがある。終楽章の分かりやすいフレーズも、真面目なスタイルで、中音域に厚みのある音響で描き出しており、オケの音量的には軽量の部類に感じるが、どこかで不足を感じさせるようなところがない。 指揮者とオケの信頼関係を感じさせるような、安定した豊かさのある音楽で、このように暖かみを感じるショスタコーヴィチも、なかなかいいぞ、と思わせてくれる。 |
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第2番「10月革命に捧げる」 第15番 ペトレンコ指揮 ロイヤル・リヴァプール・フィルハーモニー管弦楽団 レビュー日:2012.8.12 |
★★★★☆ ペトレンコならではの軽妙なタッチが冴えるショスタコーヴィチ ショスタコーヴィチ(Dmitrii Shostakovich 1906-1975)の交響曲第2番「10月革命に捧げる」と第15番を収録。ワシリー・ペトレンコ(Vasily Petrenko 1976-)指揮、ロイヤル・リヴァプール・フィルの演奏。第2番が2011年、第15番が2010年の録音。第2番についてはロイヤル・ リヴァプール・フィルハーモニー合唱団が加わる。 特に高い注目を集める若手指揮者の一人、ペトレンコは、ナクソス・レーベルに、ロイヤル・リヴァプール・フィルとのショスタコーヴィチの交響曲全集チクルスを進行中。本盤もその一枚だが、中にあって第2番と第15番の2曲という渋い組み合わせの一枚。 「ショスタコーヴィチは15曲の交響曲を書いた」・・実は、このシンプルな命題がすでに凄いことである。ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven 1770-1827)以後の偉大なシンフォニストの最後の交響曲のナンバーはなぜか「9」である。シューベルト(Franz Schubert 1797-1828)、ブルックナー(Josef Anton Bruckner 1824-1896)、ドヴォルザーク(Antonin Leopold Dvorak 1841-1904)。彼らのラスト・シンフォニーはいずれも第9番。そして、そのいずれもが超名曲である。マーラー(Gustav Mahler 1860-1911)は「9」を死の符合と読み替え、第8交響曲の完成後、番号なしの「大地の歌」を書き、一旦これを回避する。その後第9交響曲を完成させながら、次の交響曲を完成することなく世を去った。この「9の壁」を乗り越えた唯一のシンフォニストがショスタコーヴィチであると言える。 彼は「第9番」の交響曲で、恐ろしく軽いコンパクトな作品を発表し、当時の「9の因縁」を期待する聴衆に強烈な「肩すかし」をくらわした人物でもあった。そして、そんな彼のラスト・ナンバーが「15」。 ところが、この交響曲第15番がまた「一筋縄ではいかない」作品ときている。有名なロッシーニ(Gioachino Antonio Rossini 1792-1868)やハイドン(Franz Joseph Haydn 1732-1809)といった超古典からの引用にあきあたらず、自身の若い頃の作品まで引用でちりばめ、室内楽的な書法でまとめた音楽。悲劇的な色とコメディ・タッチの音色が入り混じり、逆に簡単な解釈を許さないといった気風さえ感じる作品。はたして、これが、本当に激動の20世紀を生きた作曲家の「最後の交響曲」なのだろうか?とてもそんな風には聴こえない。ペトレンコは冷静にタクトを振り、こまやかな楽器の音色を活かし、細心の注意を払って楽曲をまとめている。 第2番は単一楽章からなる作品とも見えるが、3部からなる。中間の巨大なフガートと終楽章の合唱が聴きどころだろう。「暗黒から光明へ」のスタイルが踏襲された作品。こちらも、ペトレンコによりオーケストラは抜群の配色を見せており、成功した演奏だと思う。いずれ、この作曲家の内面ははかりしれないが、これらの楽曲を聴いて、当時のことをいろいろと想像してみるのも一興だろう。 |
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交響曲 第4番 アシュケナージ指揮 NHK交響楽団 レビュー日:2007.6.21 |
★★★★☆ NHK交響楽団にとっても貴重な功績になるのでは・・・ アシュケナージがNHK交響楽団の音楽監督の間に様々な録音活動も行われたが、期間の最後に貴重なショスタコーヴィチの録音がリリースされた。なぜ貴重かというと、NHK交響楽団との録音により、中座していたアシュケナージによるショスタコーヴィチの交響曲全集が、完成に至ったためである。これによってDECCAレーベルからリリースされた全集中で「NHK交響楽団」が3曲を担当したという事は、このオーケストラの歴史の上でも、貴重な功績になるにちがいない。 そのうちの第4交響曲が当盤である。実は第4交響曲については、アシュケナージとロイヤルフィルの録音があったため、なぜかこの曲だけ「再録音」されたことになる。どのような背景があったかわからないが、廃盤となっているロイヤルフィルとの録音も、ぜひいずれ復刻して欲しいと思う。 さて、第4交響曲は難しい曲だと思う。ゲルギエフやチョン・ミュンフンの録音も、なかなか苦戦したものに感じられた。この演奏もやはり苦戦の痕跡ある。中でも第1楽章の「序奏部」に苦戦の色が濃い。ここでは弦の表情がかなり硬い。アウェー・ゲームの立ち上がりを警戒するような感じで、慎重に運ぼうという意識が、やや表情を乏しくしているのが気になる。だが急速部になると、その律儀さがわりと好作用しており、細かいパッセージが緻密に表現されていて、オーケストラも十分にやっている。ただ、迫力を追求した表現ではなく、コントロールという意識は強い。2楽章以降はだいぶほぐれてくる。第3楽章(終楽章)は楽器の音色がかなり魅惑的になり、自然な光が射してくる。コーダ手前のクライマックスは印象深く、ここではティンパニのアクセントがかなり豊かに効いており、ブラスの融合力ある響きとあいまって、みごとな表現となっている。この難曲の録音においては、なかなか健闘しているものに入ると思う。 |
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交響曲 第4番 アシュケナージ指揮 ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団 レビュー日:2008.8.7 |
★★★★★ 全集から外れてしまった不遇の録音 当盤はアシュケナージとロイヤルフィルによる89年の録音だが、最近デッカから全集化されたショスタコーヴィチの交響曲全集には、NHK交響楽団との再録音が採用され、こちらは不採用となってしまった。そのためにカタログからも消えてしまった不遇の録音と言える。 アシュケナージの全集は、交響曲だけでなく、様々な管弦楽曲やオラトリオ、それも結構規模の大きいものも合わせて収録されたサービス性の高いものだっただけに、どうせならこの録音も特典版として加えてくれれば良かったのに・・・と思う。それというのも、これが実に見事な演奏だからである。 NHK交響楽団との再録音は音色が明晰で、終楽章のクライマックスの彫像も細やかであったが、全体の音楽のスタイリッシュな流れという点ではこのロイヤルフィルとの録音の方が素晴らしい。・・・それだけでなくこの録音は数あるショスタコーヴィチの交響曲第4番の録音の中でも真っ先に指折られても不思議ではない名演だと思う。 私はこの曲をかつてロジェストヴェンスキーの録音で聴き、ものすごい爆演だと思ったが(今でも思っているが・・)それでもこの音楽のもつ別の叙情的な面がやや犠牲となっているとも感じた。それに比べるとアシュケナージはさすがに良心とバランスの音楽家である。この曲の荒れ狂う中間部を巧みにまとめ上げ、迫力と同時に美と不安を表現しえている。さすがである。オーケストラの技術も立派で、弛緩なく良く鳴っている。ティンパニと金管は適度に鋭く、リアルな音響を作っている。録音も良く、ぜひいずれは再発売してほしいと強く思う。 |
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交響曲 第4番 ペトレンコ指揮 ロイヤル・リヴァプール・フィルハーモニー管弦楽団 レビュー日:2013.12.2 |
★★★★★ ここまでやるのか・・・「抑圧」と「恐怖」!畏怖すべきショスタコーヴィチ 2013年も残すところ12月のみとなった。今年は特に面白い、興味深いディスクがたくさん出てきたので、私も寝る間を惜しむようにいろいろと聴いてきたけれど、ここにきてまたまた超強力な1枚が出現した!それが、このディスク。ワシリー・ペトレンコ(Vasily Petrenko 1976-)指揮、ロイヤル・リヴァプール・フィルハーモニー管弦楽団によるショスタコーヴィチ(Dmitrii Shostakovich 1906-1975)の交響曲第4番ハ短調 op.43である。 まず、この作品は近年評価を一気に高めているが、間違いなく傑作である。私個人的には、「ショスタコーヴィチの最高傑作は“交響曲第8番”説」を持っているが、この第4番も凄い作品だ。しかし、この作品、凄すぎて演奏が至難だ。オーケストラの各奏者に高度な力量を求めているだけでなく、3つある楽章のそれぞれが長大で、まとめるのが難しい上に、ショスタコーヴィチの実験的な試みに溢れ、大胆なポリリズム、展開の急な声部の処理など、次から次に山積する問題が降りかかる。実際、この曲をライヴで取り上げるとなると、相当な度胸のいることだろう。ゲルギエフ(Valery Gergiev 1953-)が2001年にライヴ録音したこの曲がリリースされたことがある。ライヴでここまでやったのか、という驚きがあったが、やはり難しさを随所に感じてしまった。 さて、当ディスクはスタジオ録音なので、そういったライヴ音源とその価値を簡単には比較できないが、完成度の高さという点で、既発の様々なディスクを凌駕しているといって良い。いや、単に完成度が高いというだけでなく、この作品の表現形態として、一つの極致を示したものと言えるのではないだろうか。 この演奏を聴いていると、この交響曲が表現しようとしたものが「抑圧」と「恐怖」だったに違いない、という思いに包まれる。もちろん、そういった観念的なことは、後世の人間が、あとから勝手に付けた余分な情報を混ぜ合わせ、多重なバイアスがかかった状態で捻出されるものなわけで、作曲したショスタコーヴィチ自身は、はるかに純音楽的な見地でスコアを書いていたということは大いにありうるのだけれど、当演奏を聴くと、前述の凄まじい緊張を孕んだ空気が、ヒシヒシと伝わってくるのである。この厳しさは何だ? 第1楽章冒頭の15分間、何か強く不条理な力を受け続けるような、独特の雰囲気に満たされる。これは音楽の全体的な展望があかされず、部分部分の「散見」でしか前方を与えられない印象に起因する。ペトレンコはこの音楽の仕組みを周到に練り上げ、間断ない緊張で音響を満たす。オーケストラのただならない緊張感も凄い。そして、15分経過ののち、たちまち荒れ狂った世界に聴き手は放り込まれる。圧倒的な疾走の中で、絶望的とも言える恐怖に近い感情が、とても抗うことの出来ない強大な力によって次々と沸き起こり、放散させられる。頂点での咆哮の凄まじさ、ティンパニ、金管のどよもすような迫力が壮絶だ。 第2楽章でも悲劇性に貫かれた強い意志に統御された表現が見事。そして、またまた複雑な第3楽章に入る。冒頭の葬送音楽におけるバズーンの音色のなんと意味深なこと。そしてクライマックスで強固に打ち鳴らされるポリリズムのティンパニの衝撃!こんな音楽を書いてしまったショスタコーヴィチという作曲家の精神性に畏怖するばかり。 凄まじい恐怖の頂点を何度となく築きあげた後、恐ろしいほどの余韻を残し、静寂の暗闇の中に消え入るように終わるフィナーレ。こんな恐ろしい音楽はなかなか聴けません。 というように、本当に凄い音楽が奏でられているのですが、あまりの緊迫感に「耐えられん」という人もいるかもしれません。集中して聴くにはそれなりの覚悟がいるディスクだと思います。・・そんな人には、私のこの曲のもう一つの愛聴盤であるアシュケナージ(Vladimir Ashkenazy 1937-)指揮、ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団の1989年録音のディスク(DECCA 425 693-2)を最後に紹介しておきましょう。中間部を巧みにまとめ上げ、迫力と同時に美と不安を表現しえたスタイリッシュな名盤です。(アシュケナージはNHK交響楽団と再録音していますが、ロイヤル・フィルとの録音の方がいいと思います)。 |
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交響曲 第4番 「ムツェンスクのマクベス夫人」組曲 ボレイコ指揮 シュトゥットガルト放送交響楽団 レビュー日:2020.3.4 |
★★★★☆ 暖かみある表現に満ちたショスタコの第4。良演だが、気になるところも。。 ロシアの指揮者、アンドレイ・ボレイコ(Andrey Boreyko 1957-)と、シュトゥットガルト放送交響楽団によるショスタコーヴィチ(Dmitri Shostakovich 1906-1975)シリーズの1枚で、当盤には以下の2曲が収録されている。 1) 交響曲 第4番 ハ短調 op.43 2) 「ムツェンスクのマクベス夫人」組曲 op.29a 2006年、ライヴ録音。 ボレイコはロシアの指揮者であるが、この演奏のテイストは、それこそシュトゥットガルトのような中央ヨーロッパ的な、中央音域が豊かで、暖かく、厚みのあるサウンドが醸成されていると感じる。ロシアのオーケストラのように、ショスタコーヴィチのオーケストレーションの根底にある「線」を交錯させながら、金属的で劇的な咆哮を描くのではなく、全体にマイルドであり、音楽はつねに安定を目指している。 交響曲第4番という楽曲は、今ではすっかり人気曲の一つになった感があるが、かつてはどこか謎めいた楽曲というイメージがあった。3楽章構成ながら、両端楽章は長大で、一つの楽章の中に、さらに複数の部分があるという構造、1楽章後半の劇的な疾走、それに終楽章の末尾、静謐な中、不穏なテンションを高める幕引き。いずれもミステリアスなものがある。 しかし、当演奏では、それらの要素はもちろんあるのだが、特にその点を劇的に高めたり、強調したりするようなところはない。むしろ、比較的周到で、必然の運びとして、各表現がそこにあるような落ち着きに満ちている。オーケストラの音色も、柔らかめで、響きはよくブレンドし、豊かで複層的な味わいがある。このような演奏が登場してくるのは、それこそ第4交響曲が広く理解され、人気を博すようになった時代を象徴しているように思う。 さて、私の当盤に関する評価であるが、暖かく聴き易い演奏で、十分な魅力を認めつつ、その一方で、両端楽章の沈静な部分が、安定ゆえに、少々凡庸さを感じるところが弱点と感じられる。穏便ゆえに、緊張感が和らぎ、そのことが緩みとして、聴き手に伝わってしまうところがあり、私の場合、そういった部分では、聴いていてどうも気が逸れてしまうところがあった。もちろん、急速部分では、過度に急かさないしたたかn表現で丁寧な音色を作り上げており、そういったところは、とても良いと思うので、ないものねだり的なところになるのかもしれないが。 一応、私が当曲のベスト録音と思っているのが、アシュケナージ(Vladimir Ashkenazy 1937-)がフィルハーモニア管弦楽団と録音したものなので、興味のある方には一聴をオススメしたい。 末尾に「ムツェンスクのマクベス夫人」組曲が収録されている。2分強の3つの小間奏曲からなる組曲であるが、こちらは華やかで外向的な曲想も手伝って、心行くまで楽しめることが出来た。終結後の拍手も、演奏の成功を湛えている。 |
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交響曲 第4番 第5番「革命」 第6番 マケラ指揮 オスロ・フィルハーモニー管弦楽団 レビュー日:2024.8.26 |
★★★★★ 第6番が素晴らしい名演です フィンランドの指揮者、クラウス・マケラ(Klaus Makela 1996-)とオスロ・フィルハーモニア管弦楽団による、ショスタコーヴィチ(Dmitrii Shostakovich 1906-1975)の下記の3つの交響曲を収録したアルバム。 【CD1】 1) 交響曲 第4番 ハ短調 op.43 【CD2】 2) 交響曲 第5番 ニ短調「革命」 op.47 3) 交響曲 第6番 ロ短調 op.54 第4番と第6番は2022年、第5番は2023年の録音。 マケラとオスロ・フィルは、2021年に素晴らしいシベリウス(Jean Sibelius 1865-1957)の交響曲全集を録音したばかりだから、この録音も、当然、広く期待されるものに違いない。ショスタコーヴィチの中で、番号続きのこの3つの交響曲が選ばれている点にも着目したい。作曲者の代表曲と言える第5番、近年高い人気を誇るようになった第4番、そして、第6番という作品も、個人的には、近年、大いに評価の高まりを感じている楽曲である。 その一方で、これらの3つの交響曲は、番号が続いているとはいえ、性格的には大きく異なっている。1936年にオペラ「ムツェンスク郡のマクベス夫人」が批判を受けたことを踏まえ、ショスタコーヴィチは、モダニズム的作風を持つ第4番の発表をいったん差し控え、代わって書いた作品が第5番であるから、当然のことながら、そこに連続性は乏しいものとなる。また、外向的な(この表現に異論がある人は多いと思うが、ここでは文脈としてそう捉えて表現する)第5番と内省的な第6番の間にも、さほど強い関係性は見出さない。だから、この3つの交響曲が連番だからといって、一つのアルバムにまとめるという試みは、これまでもなかったと思う。逆に言うと、この3つの交響曲で一つのアルバムを構成するということ自体が、新鮮味を感じさせ、若いアーティストの録音に、ふさわしい印象を発している。 さて、というわけで、いろいろ興味を持って聴かせていただいた。感想としては、とても慎重でまじめで、加えてt指揮者の情熱も感じさせる録音となっている。ただ、シベリウスのように、ものすごく見事にはまっている、という感じではないところも残る。慎重さが、指揮者の表現性をやや控えさせた印象のところもあり、その結果、第4番と第5番は、優秀な録音ゆえの透明感に支えられたオーソドックスな良演ではあるのだが、それを越えた何かまでは到達していない、と言うところだろうか。ひょっとしたら、私の中で、彼らのシベリウスの素晴らしい印象があまりにも強すぎるため、そういうふうに感じたのかもしれないが。 ただ、第6番はすごく良いと思う。私はこの曲をこれまでそれほど一生懸命聴いてこなかったかもしれない。あるいは、そう思わせてくれるほど、マケラの演奏が深い洞察に満ちていて、この楽曲の核心に迫ったものなのか。とくに長い第1楽章における緊張感を保った耽美性、それを担保する低弦の表現力が素晴らしく、哀しみと美しさの双方が、内的な力を満たせながら、全編を覆っている。壮絶な美しさだと思った。第2楽章以降では、木管の彩りが抜群に楽想に映え、音色的な面白さと、快適な進行が、見事な調和を果たしている。この第6交響曲は、実に素晴らしいと思う。 第4番では、有名な急速部分はよくコントロールされたサウンドが美しいが、緩徐部分で、やや表情が硬く、私には聴いていて夢中になれないところが、どうしても残る感じがある。また、第5番は、前述の通り良演で、熱のある表現もあるが、慎重な運びは、時として「緩急の乏しさ」として感じられてしまうところが残る。聴きやすい洗練された響きではあるが、少なくとも私の場合、数多くの録音がひしめくこの楽曲において、とりたててここが凄いという印象をもたらすまでには至らなかった。 とはいえ、第4番、第5番ともに、澄んだ音響と、必要な部分でのエネルギーは持ち合わせた録音であり、加えて第6番の素晴らしい解釈を聴くと、やはりマケラという指揮者の才能には特別なものがあることを感じさせる。今後もこの指揮者の活躍には、大いに注目したくなる録音だ。 |
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交響曲 第4番 第11番「1905年」 ネルソンス指揮 ボストン交響楽団 レビュー日:2019.7.2 |
★★★★★ 完成度の高い、美しく洗練されたショスタコーヴィチ ラトヴィアの指揮者、アンドリス・ネルソンス(Andris Nelsons 1978-)とボストン交響楽団によるショスタコーヴィチ(Dmitrii Shostakovich 1906-1975)シリーズから、当盤は2枚組で、以下の親しみやすい2作品が収録されている。 【CD1】 交響曲 第4番 ハ短調 op.43 2018年録音 【CD2】 交響曲 第11番 ト短調 op.103 「1905年」 2017年録音 いずれもライヴ録音。収録された2曲とも近年ではすっかり人気曲となった感があるし、2枚組で比較的廉価になっていることもあって、ショスタコーヴィチの入門にもおすすめのアルバムと言えるだろう。 ネルソンスの音造りは、全般に連続的なスリムさがあって、そのことが全体的には暖かな情感、柔らか味をもって伝わる。これらの2曲は、悲劇的な内容を持っているので、劇演、爆演よりも、このネルソンスの解釈の方が、耳にやさしく、とても聴き易い。 第4番は比較的早めのテンポを主体としており、特に有名な第1楽章後半の急速部分は、乱れない範囲での限界の速度に感じられる。その響きには、つねにアコースティックな奥行があり、単に叫ぶだけではない配慮が行き渡っている。弦楽合奏陣の健闘は称賛されるべきもので、この速度であっても、響きの豊かさと幅を失わない色彩感があって、音楽的で魅力がいっぱいだ。第2楽章の不安さも、ネルソンスの棒にかかると、まず美しさが第一印象として伝わり、その中庸でバランスの取れた響きに、安心感を求めることが出来る。この作品が、そのような音楽的表現で奏でられるべきかは議論があるかもしれないが、私は単に美しいことに十分に感動した。第3楽章は、悲劇的な色彩をよく表現しているが、そのベースはつねに柔らか味があり、感情を吸収する緩衝性を持っている。ティンパニ、チェレスタもいかにもハートのある音色であり、クライマックスは十分な色彩感をもって描かれている。 第11番も同様だ。私は、映画「戦艦ポチョムキン」でこの楽曲を知り、録音メディアとしてはロジェストヴェンスキー(Gennady Rozhdestvensky 1931-2018)の録音ではじめて聴いたのだが、その怒りがさく裂するような爆演は今も耳に残っているが、ネルソンスのものはそれに比べると遥かにウェルバランスであり、優しく暖かい。第1楽章のトロンボーンも、どこかより遠景的に響いていて、それも「柔らか味」として伝わる。合奏音の美しさとあいまって、そこには不思議な安寧が漂う。革命歌の引用も豊かだ。「血の日曜日事件」当日を描いた第2楽章は、前述のロジェストヴェンスキーの凄まじさに対し、厳密なほどの美しさがあり、音楽としては感動的な印象になる。これも、ネルソンスの作法によって、とても洗練された響きになっていて、充足感があり、迫力もある。ただ、ネルソンスの録音でたびたび気になるのだが、ティンパニがかなりドロドロと響くところがあって、全体的な音が、こもった響きになるところがある。とはいえ、ニュアンスのあるソノリティが常に維持されていて、いい意味で音楽的であり続けている。メロディアスな第3楽章はネルソンスの演奏の白眉と言える部分で、ひたすら美しく磨き上げられた合奏音が世界を支配していく。終楽章はテンポの幅をとって音楽に含まれるアイロニーへの感応性を感じさせるが、全体としては柔和で輝かしい合奏音により、洗練度を高めた響きが印象の大要を占めるだろう。 まとめると、現代オーケストラの機能美を活かして、連続的で豊かなサウンドを醸成することに成功しており、悲劇的な2つの楽曲に暖かみをもたらし、とても聴き易いソノリティで仕上がっており、完成度の高さを実感できる演奏となっている。 |
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ショスタコーヴィチ 交響曲 第5番「革命」 ヤナーチェク ラシュスコ舞曲集 テンシュテット指揮 ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団 レビュー日:2007.9.10 |
★★★★☆ 珍しい顔合わせによる録音が出ました テンシュテットがミュンヘンフィルを指揮して1975年に録音したもの。テンシュテットはロシアの指揮者だが、それほどショスタコーヴィチは取り上げなかったと思う。ミュンヘンフィルとの顔合わせというのも、少なくともレコーディングとしては少ないし、興味深いディスクである。 聴いてみると、かなり情熱的というか、気持ちの入った演奏である。まずテンポが意外なほど揺れる。クライマックスでは切迫感をだそうとテンポをぐんぐん上げるため、テンションはあがるがオーケストラの足並みが乱れるところがある。迫力はあるけれど、繰り返し再生するとなるとちょっと気になるところだ。ある意味浪漫的なショスタコーヴィチであり、最近ではこういう演奏は少ないだろう。だが少し演出の意図としてはあざとい感じが残る。 ショスタコーヴィチの演奏や解釈には、どうしても政治的なテーマが出てきてしまう。だがテンシュテットは純粋に楽曲(スコア)とのみ対峙し、聴衆に向けて音楽的な高揚感を持って訴えかける。その潔さは好感が持てるが、ときとして強音の密度がやや薄くなる感じがある。やや練習が足りなかったのか。それでも一応バイエルン放送によるスタジオ録音ということなので、またそれとは別のことなのだろうか。 録音のレヴェルもこの時代としても平均まで達していないような気がする。音色が硬くシャリシャリした感じがあるが、おそらく放送向けの音源と思われるので、これは致し方ないところだろう。 ヤナーチェクも珍しいレパートリーだが、こちらの方がなめらかに音楽が動いている気がする。 |
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交響曲 第5番「革命」 祝典序曲 アシュケナージ指揮 フィルハーモニア管弦楽団 レビュー日:2009.5.24 |
★★★★★ 「暗黒の交響曲」の側面を如実に引き出した凄演 あまり話題にならなかったが、凄い演奏である。ショスタコーヴィチの革命交響曲の演奏(解釈)の歴史には、冷たく暗い20世紀という時代と社会に深い関わりがある。ショスタコーヴィチは第5交響曲に芸術家としての生命を延命させる意図を与えた、と同時に様々なアイロニーを含ませていた。しかし結果として高い外面的効果を獲得したこの曲は、ムラヴィンスキーやバーンスタインによって劇性を高められ、高らかな勝利の凱歌へと変貌を遂げた。その結果、この交響曲は名曲の仲間入りをし、ショスタコーヴィチの名声は轟いたわけだから、もちろんそれはそれで大事なことだった。 しかし、いわゆるヴォルコフの証言(今となってはこの証言自体の信憑性も怪しい・・・しかしその言質の論点は20世紀の歴史の断面を確かに切り取っていると感じられる)によって、この曲の「強制された歓喜」という本来の意図を持つようになる。 アシュケナージはソ連からの亡命者である。「だからこの曲が分かる」なんて短絡な事は誰にも言えないが、この演奏を聴くと、恐ろしいほどの暗さと冷たさが支配していることは確かだ。実際、アシュケナージという演奏家が、これほど深刻な相貌をもってアプローチとすることは珍しい。元来が詩情とヒューマンの芸術家である。しかし、この演奏における彼はまったく違う。真っ暗な夜の凍土に響く重々しい音色。激しく細かく刻まれる打楽器のリズム。おどけた第2楽章も恐ろしいほどの闇を背景にやどし、沈鬱なアダージョは時代の悲歌を淡々と歌う。終楽章は畏怖の迫力が漲るが、硬いサウンドは厳しく、人を容易に寄せ付けない相貌を刻み続ける。フィナーレが終わり、聴き手は闇の中に閉ざされる。 |
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交響曲 第5番「革命」 ムラヴィンスキー指揮 レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団 レビュー日:2008.10.11 |
★★★★☆ ショスタコーヴィチ「第一人者」来日の際の演奏 1973年来日時のライヴ収録。エフゲニー・ムラヴィンスキー(Evgeny Muravinsky)は1903年ペテルブルク生まれの指揮者で、35歳の若さでレニングラード・フィルの常任指揮者に抜擢された。来日当時はソ連の実演に触れる機会の少ない指揮者とオーケストラであり、また録音活動もソ連国内のメロディア・レーベルのものだけだったので、「秘められた指揮者と演奏集団」というイメージだったと思う。東京文化会館の大ホールでNHKによるライヴ録音が行われたため、このようなCDとして復刻することになった。 ムラヴィンスキーはショスタコーヴィチの交響曲第5番の初演者であり、作曲者自身から最大の理解者と考えられていた。しかし、ヴォルコフの証言では、その解釈をめぐって、作曲者との対立、相容れない点もあったと述べられている。つまりムラヴィンスキーの解釈は「社会主義の勝利」であるが、ショスタコーヴィチは「皮肉的な」という接頭語を重視したと言うのだ。もちろんこのヴォルコフの証言自体が信憑性定かではなく、またそれほど複雑な意図を抽象的な音楽でどの程度体現できるかが問題となる。 私が聴く限り、ムラヴィンスキーの演奏は純粋に終楽章の高揚感を外に向かって開放しており、そこに特に深い意味を持たせたとは考えられず、それがヴォルコフの証言の流布の背景かもしれないとも考えた。同じソ連の演奏家でも、ロジェストヴェンスキーの解釈とは大きく違うという点でも面白い。 さて当演奏をもう少しみていくと、第1楽章は低音の支えが太く、全体に重心を低めに置いてすすめられるが、しかし、シンバルの一撃から、加速感を増していく。この部分の迫力は見事だが、しかしオーケストラは部分的に付いていけていないところもあり、やや不ぞろいな音響になっている。長旅の疲れも若干否めないところだ。第2楽章、第3楽章は思いのほか歌心が表れ、甘美性を持っており、最近のショスタコーヴィチの演奏とは一線を画している。終楽章のテンポは速く、なにもこの楽章の演奏について、バーンスタインがいきなりテンポ設定を速くしたわけではないことが分かる。そして高らかな歌い上げで全曲を終える。 この時代の貴重な刻印を聴いたという印象を残す。 |
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交響曲 第5番「革命」 5つの断章 アシュケナージ指揮 ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団 レビュー日:2015.2.8 |
★★★★★ 20世紀の一面を音楽で切り裂いた意欲作 アシュケナージ(Vladimir Ashkenazy 1937-)は、プレヴィン(Andre Previn 1929-)の後任として、1987年にロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団の音楽監督に就任したが、就任直後、最初に行なわれた録音が当盤となる。ショスタコーヴィチ(Dmitrii Dmitrievich Shostakovich 1906-1975)の以下の2作品が収録されている。 1) 交響曲 第5番 ニ短調「革命」op.47 2) 5つの断章 op.42 この時点で彼らの成功を決定付けた名録音であると思う。じっさい、その後彼らはショスタコーヴィチの交響曲をさらに11曲録音することになるのだが、いずれも見事な録音となった。(全集としては、他の管弦楽団の演奏を含む形で完成された)。 当録音はヴォルコフ(Solomon Volkov 1944-)の「証言」以後の象徴的解釈としても注目された。ヴォルコフはソ連からアメリカに亡命した音楽学者で、亡命後の1979年に「ショスタコーヴィチの証言」を発表した。以下に関連する一説を引用させていただく。 …私の最大の理解者を自負していたムラヴィンスキーが、私の音楽を理解していないのを知って、私は愕然とした。私が、交響曲第5番の終楽章で歓喜のフィナーレを書こうとしたが、できなかった、と彼は思っていたのである。私は「歓喜のフィナーレ」など考えたこともないのだ。どんな歓喜があると言うのだ。あの曲の終楽章は「強制された歓喜」なのだ。「おまえの仕事は喜ぶことだ」と命令され、「そうだ、おれたちの仕事は喜ぶことなのだ」とつぶやきながら行進を始めるようなものなのだ… 以上の引用において、「私」は(ヴォルコフの著作の中における)ショスタコーヴィチである。ただ、現在ではヴォルコフの記述自体、信憑性に疑念が多く持たれているので、何が正しいと明言することはできない。しかし、この曲のフィナーレが、単純な「歓喜」であるのか、強制された「歓喜」であるのかは、音楽表現においても影響を与える。 アシュケナージの演奏が「ヴォルコフ証言以後の象徴的解釈」とされたのは、その冷静に徹した音楽の運びゆえの讃辞であると考える。 例えば第1楽章の長大なクライマックスは、トランペットの3連音が拍子に呼応しながら進んで行くが、アシュケナージはテンポを「急かす」ことは決してない。これは、他の多くの演奏とまったく異なる肌合いをもたらす。この部分で聴き手の心を温めることをせず、白熱より冷徹に導いていく。しかし、突如クライマックスの頂点に到着するため、きわめて大きなインパクトが設けられる。その効果は衝撃的であり、悲劇的かつ暗示的なものをもたらす。とても厳しい諸相を持った音楽だ。終楽章の冒頭部では、圧倒的な展開に区切りをつけるトロンボーンの3連符が引き継ぐ減速も、同様の効果を踏襲し、きわめて鋭利。中間楽章の正確に計算されつくしたテンポ設定も見事だ。そのような方法があいまった結果、この音楽全体から受け取る印象は、従来の「勝利」より、はるかに「敗北感」の心情に即したものに思える。 アシュケナージがヴォルコフ証言の音楽表現を求めたのかどうかはわからない。しかし、前述の様なタイミングで、まったく耳新しい当録音が登場したこと、それにアシュケナージ自身がソ連からの亡命者であったことが、人々の捉え方に作用したことは、想像に難くはない。 きわめて知的な演奏であると同時に、20世紀のショスタコーヴィチ像の重要な一面を切り取った記録であろう。 なお、演奏機会がめったにない「5つの断章 op.42」が収録されているのも特徴。管弦楽で室内楽的緊密さを表現したものだと思うが、ショスタコーヴィチらしいダークな雰囲気がなかなか良い。 |
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交響曲 第5番「革命」 第8番 第9番 劇付随音楽「ハムレット」 ネルソンス指揮 ボストン交響楽団 レビュー日:2019.2.25 |
★★★★★ 指揮者と作曲家の間に抜群の相性の良さを感じさせる、ネルソンスのショスタコーヴィチ 2014年からボストン交響楽団の音楽監督を務めているラトヴィアの指揮者、アンドリス・ネルソンス(Andris Nelsons 1978-)が、同交響楽団とライヴ録音したショスタコーヴィチ(Dmitrii Shostakovich 1906-1975)の交響曲集。CD2枚に以下の楽曲が収録されている。 【CD1】 2015年録音 1) 交響曲 第9番 変ホ長調 op.70 2) 交響曲 第5番 ニ短調 op.47 「革命」 【CD2】 2016年録音 1) 劇付随音楽「ハムレット」 op.32 抜粋(第1曲「序奏と夜警」、第2曲「葬送行進曲」、第3曲「ファンファーレと舞踏音楽」、第4曲「狩」、第9曲「オフィーリアの歌」、第10曲「子守歌」、第11曲「レクイエム」) 2) 交響曲 第8番 ハ短調 op.65 私はこれより前にネルソンスがゲヴァントハウス管弦楽団と録音したブルックナーの第3交響曲の録音を聴いたのだが、ショスタコーヴィチの方がずっと素晴らしい出来栄えだと思う。なにより、この録音にはドラマと美の高度な両立があって、音楽として雄弁なものとなっている。ネルソンスは、ショスタコーヴィチのような線で構成された管弦楽曲に抜群の相性を持っていると思う。 交響曲第9番は、母国の戦勝時に書かれた皮肉めいた作品という曰く付きに楽曲。ただ、私はこの作品が純粋に器楽作品としてよく出来ているというだけで十分に思える。ここで強調したいのはボストン交響楽団の、それも管楽器の見事さだ。ネルソンスの勢いを殺すことのないヴィヴィッドなテンポのもと、ボストンの管楽器奏者たちは素晴らしく器用に楽想をこなしている。第1楽章のトランペットの輝き、第3楽章の華やかな色彩の中で添えられるクラリネット、第4楽章のファゴットの哀切。一つ一つのパーツが存在感をもってその独立性を保ち、かつ音楽として魅力的な外発性を持っているという点で、この曲に実に相応しい楽しさがある。 交響曲第5番はショスタコーヴィチの代表作であるが、最近では他の楽曲にいろいろ注目すべき録音がでてきたので、いまひとつ目立たない存在になってきた感があるが、当録音は、そんな雰囲気を鮮やかに薙ぎ払った演奏。あらためてこの楽曲の素敵さを認識した。既出録音の中ではハイティンク盤に近い。冒頭の第1主題から弦の厚み、音感ともに素晴らしく、柔らかさと輝かしさを両立したソノリティーが見事であるが、少し進んだ先で登場するヴァイオリンの嫋やかさは絶品で、しなやかかつくっきりとした刻印を刻んでいる。不穏な歩みの開始から音楽は自足的にテンションを高め、流れるようにコーダに至る様は見事としか言い様がない。中間楽章は練り上げられた音響そのものの美しさが秀抜、終楽章の構造美と燃焼性の高さも圧巻といって良い。 交響曲第8番は、第9番、第5番に比べると少しだけ劣る感じがするが、それでもレベルは高い。ここでも第9番同様に管楽器の音色に魅了されるが、特に第1楽章のイングリッシュホルンは琴線に触れてくる。第3楽章は、その途中から凶暴な音楽が表出してくるが、その迫力の中でも圧殺されることのない情感が表出し、不安を見出す。第5楽章の暗い静謐へ戻っていくエンディングも暗示性が良く出ている。 劇付随音楽「ハムレット」の抜粋が収録されていることは、CD2枚の商品価値を大きく高めるだろう。悲劇と喜劇が入り混じったようなショスタコーヴィチ特有の楽想が印象的だが、当演奏における「オフィーリアの歌」の美しさはことに彼らの成功を物語る部分だろう。レクイエムに潜む滑稽なアイロニーもこなれた表現で楽しませる。 |
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交響曲 第5番「革命」 第9番 ペトレンコ指揮 ロイヤル・リヴァプール・フィルハーモニー管弦楽団 レビュー日:2012.2.28 |
★★★★☆ このテンポをどう理解するか?難しい革命交響曲 2012年現在、1976年ロシア生まれの指揮者ヴァシリー・ペトレンコ(Vasily Petrenko)は、首席指揮者を勤めるロイヤル・リヴァプール・フィルと、ナクソス・レーベルにショスタコーヴィチの交響曲全集を作製中で、当盤は2009年録音の交響曲第5番「革命」と第9番を収録したもの。 実は、私はこのディスクを聴くよりもさきに、ペトレンコによる素晴らしい第8番と第10番を聴いており、それ以前に録音していたこのディスクにも食指を伸ばしたという順番になっている。 さて、このディスクの問題点はショスタコーヴィチの最高傑作とされる第5番「革命」にある。この作品の背景を整理したい。オペラ「ムツェンスク郡のマクベス夫人」がプラウダ(ソ連共産党機関誌)誌面で批判され、これを受けて社会主義リアリズムに立って改めてトライした作品が交響曲第5番であり、この作品によりショスタコーヴィチは作曲家としての名誉を回復したとされる。しかし、1979年にアメリカに亡命したヴォルコフ(Solomon Volkov 1944-)はショスタコーヴィチの回想録を出版し、中でショスタコーヴィチは「初演者ムラヴィンスキー(Evgeny Muravinsky)でさえも、この交響曲のフィナーレを“喜びを描こうとしたもの”と「誤解」していた」と述べたとしている。しかし、その後、ヴォルコフの証言自体に矛盾点が多く指摘され、真偽の様相は再び分らなくなる。一応、現代では、爆演のスタイルで押し通したバーンスタインの1979年の録音、精緻に距離を置いたアシュケナージの1987年の録音などが、対極にして象徴的な両翼の優れた解釈と考えられている。 つまり、この作品の演奏に関しては、ムラヴィンスキー的な「解放の音楽」と解釈するか、ヴォルコフ的な「抑圧下の音楽」と解釈するか、という二分点があると一般には考えられている。それで、このペトレンコの演奏はどちらか、というと、まず前者ではないだろう。なによりも終楽章のフィナーレで設定される異様とも思えるスローなテンポは、とても開放をもたらす情感を獲得しているとは思えないからである。では、後者なのか、と言うと、これも難しい。アイロニーなメッセージや含みという以上に、フィナーレ以外の緩徐部分でも超スローテンポをとるこの演奏から伝わる印象は、むしろ「分解的、解体的」といったものが支配的で、それは、解釈論以前に“ペトレンコの趣味的なもの”が堂々と横たわったような雰囲気なのだ。 それで、この演奏は、細部では肌理細やかなサウンドが構築されていて、その精度の高さは伝わるのだが、メロディーラインの味~いわゆるもっとも音楽的な「美質」~が希釈(時には分断)されてしまっているように感じられてならない。第8番、第10番の演奏が素晴らしかっただけに、この第5番のアプローチは、少なくとも私には疑問が残る。(穿った見方をすれば、その疑問点の残留こそがペトレンコの意図なのか?・・・そこまでは、ないと思うのだが) 他方、併録された交響曲第9番は素晴らしい演奏だ。「第9番」という交響曲作曲家の先人たちが名曲の系譜を築いてきたナンバーで、あえて軽妙なジョークをまじえた作品を放ったショスタコーヴィチの機知とユーモラスを、活き活きと描き出し、生気に溢れたオーケストラからは常に魅力的なオーラが伝わってくる。第5番と全然違うじゃないか! というわけで、第9番は素晴らしいが、第5番に関しては、私としては保留という扱いにさせていただきたい。 |
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交響曲 第6番 第7番「レニングラード」 劇付随音楽「リア王」組曲 祝典序曲 ネルソンス指揮 ボストン交響楽団 レビュー日:2019.4.23 |
★★★★☆ 丁寧に作り込まれた美しい音響ですが、第7番の解釈には満たされないものが残る 全体的に好評を博している、ラトビアの指揮者アンドリス・ネルソンス(Andris Nelsons 1978-)とボストン交響楽団によるショスタコーヴィチ(Dmitrii Shostakovich 1906-1975)の交響曲シリーズ。当盤には2017年録音の第6番と、2018年録音の第7番・劇付随音楽「リア王」組曲・祝典序曲が収録された。交響曲以外の管弦楽組曲を併録してくれるのは、当シリーズの特徴で、良心的な企画である。 私は、当盤より先に、第5番、第8番、第10番の3曲が収録されたアルバムを聴いて、とても良いと思った。ネルソンスのショスタコーヴィチをもう少し聴いてみたいな、と思っていたところに、当盤がリリースされたので、購入してみた。 感想であるが、交響曲よりも、併録してある管弦楽曲が良いと感じた。2曲の交響曲では、第6番の方が良いと思う。第7番は悩ましい。以下、その理由を書こう。 全般にネルソンスはいつものように、よく練り込まれた音響を作っている。その細部まで精密に計算された設計は、実に精緻で、各楽器のバランスもよく計算されている。最近のショスタコーヴィチの録音で言えば、ワシリー・ペトレンコ(Vasily Petrenko 1976-)の録音にも同じような感慨を抱いたが、ネルソンスの音作りは、より明るく、合成音の美しさで聴かせる。私は、ネルソンスの第5番、第8番、第10番の録音を聴いたとき、「ドラマと美の高度な両立があって、音楽として雄弁なものとなっている。ネルソンスは、ショスタコーヴィチのような線で構成された管弦楽曲に抜群の相性を持っていると思う。」と書いたのだけれど、当盤の特に第7番における音響美の世界は、むしろショスタコーヴィチの音楽が、線的なもので構成されていることをしばしば忘れさせるくらいに感じる。 実際、どこをとっても、その瞬間ごとの音響は完璧といって良い。ボストン交響楽団がまた素晴らしい音を出す。一つ一つの楽器が精妙な音を持っているのと同時に、合奏音を作り上げるときに、自らの楽器と他の楽器とのバランスという客観的な位置取りを、各奏者が的確にとらえ、美しい音空間を作り出している。その結果、小曲が集まった劇付随音楽「リア王」組曲や祝典序曲は、今までに聴いたことがないほど、豊穣な雰囲気をもっていて、冷たさを感じさせない。「序奏とコーデリアのバラード」における日本人の郷愁に触れそうな旋律の憂い、短い3つの「ファンファーレ」のトランペット、ホルン、パーカッションのなめらかな融合、「狩からの帰還」の金管の宿す情感も見事。「祝典序曲」ではシンフォニックな効果が見事。 他方、交響曲第7番ではどうか。もちろんこの楽曲でも、ネルソンスは丁寧に音響を形作る。丁寧なだけではなく、主題をヴィオラが担う時の音色や、第2楽章のクラリネットなど、美しく、印象に残るソノリティは多い。丁寧に真面目に作られる音響は、基本的にゆったりしたテンポの上で実践され、それが継続する。ただ、私が不満に感じるのは、この交響曲が、あまりにも平穏無事なものになり過ぎている、ということである。とにかく美しく、シームレスに続く響きは、長く続く時間を感じさせてしまう。どこをとっても完璧な音響ということは、逆に言うと、楽曲としての起伏やドラマの発揚に力を欠く面が生じるのである。この楽曲は、多少、歪なものを持ちながら、その中で、不安、警鐘、アイロニーといったものを、緊迫の中で描き出すのだと思うけれど、この演奏は、あまりにも天国的で、フラットに過ぎる。少なくとも私の場合は、美しい響きに浸っているうちに、音楽に対して覚醒的であり続けられなくなってくるし、「この曲はそういう音楽ではない」、という気持ちが起きてしまう。それでも面白くて、新しいのならいいのだけれど、一言で言うと、退屈を感じる。実は、前述のペトレンコの「レニングラード」にも、私は満たされないものがあったのだけれど、ネルソンスの演奏でもやはりそれを感じてしまう。 それに比べると第6番は良い。楽曲の性格や長さの問題もあるのだろうが、ネルソンスの演奏に身を委ねて曲の最後まで私は楽しく聴かせていただいた。第1楽章は柔らかな弦のグラデーションの中で歌う木管が抜群の美しさだし、そのほかの場所でもネルソンスの正確なタクトは、的確に焦点を結びながら進んでいく。よく考えられ、調整された配合は、心地よさに通じる。息の長いフレーズであっても、敏捷なリズムが必要なフレーズであっても、そこに至るステップが周到で、自然である。結果として、この交響曲の美しさを良く引き出している。 |
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交響曲 第6番 第12番「1917年」 ペトレンコ指揮 ロイヤル・リヴァプール・フィルハーモニー管弦楽団 レビュー日:2012.3.19 |
★★★★★ 比較的地味なイメージがあった2曲に明晰で劇的な快演盤が登場 2012年現在、ロシアの指揮者ヴァシリー・ペトレンコ(Vasily Petrenko 1976-)は、首席指揮者を勤めるロイヤル・リヴァプール・フィルと、ナクソス・レーベルにショスタコーヴィチの交響曲全集を作製中で、当盤は2009年録音の交響曲第12番「1917年」と2010年録音の交響曲第6番の2曲を収録したもの。 非常に優れた演奏だと思う。20世紀を代表する作曲家、ショスタコーヴィチ(Dmitrii Shostakovich 1906-1975)は15の交響曲を書いたが、ここに収録された2作品はむしろ聴かれる機会の少ない方に分類されるだろう。しかし、この演奏は、これらの交響曲の真価を高らかに示したものだと思う。 交響曲第6番は、高名な第5番「革命」に続く交響曲で、両者は悲劇的な短調から始まり長調で結ばれるという点で共通の顔を持ちながら、その性格は対照的で、まさに「表裏の関係」にある2曲だと思う。外交的な簡明さを持った第5番とくらべると、第6番は技法的にも複雑で、聴いてすぐ分る音楽ではない。3つの楽章は長大なラルゴと2つのスケルツォ的音楽からなり、ラルゴでは悲劇的な主題が、繰り返される転調と背景に、こまやかな感情の機微を伴って表現される。ペトレンコの演奏は、とにかく精緻で、見事なアンサンブルによって転調に伴う微細な変化を克明に顕していく。この楽章で「感情表現」の重要な要素となっているイングリッシュホルンの音色は美しく、最後の方で不思議な「救い」を思わせる色があり、心を動かされる。続く2つの楽章は楽想が軽く調和的になる。明朗な叙情性も発揮され、プロコフィエフを彷彿とさせる。ペトレンコはきびきびとしたテンポで、単純明快にパーツをまとめていく手腕が頼もしく、安定したサウンドが供給されている。 交響曲第12番は「1917年」というタイトルがある。言わずと知れた二月革命と十月革命が起こった年だ。この交響曲は「レーニンの肖像」と伝えられるし、「革命の犠牲者を記念した」作品とも言われる。いずれにせよ意味深だ。1917年の年、10歳のショスタコーヴィチはサンクトペテルブルクの駅でレーニンの姿を目撃したそうだ。第1楽章が「革命のペトログラード」、第2楽章が「ラズリフ」、第3楽章が「アウローラ」、第4楽章が「人類の夜明け」というタイトルが付いている。ラズリフはレーニンが潜んで革命の指導を行った町の名で、アウローラは十月革命の開始の砲声を挙げた巡洋艦の名。 さて、先に書いたように交響曲第12番自体はショスタコーヴィチの作品群の中で目立ったものではないのだけれど、このペトレンコの演奏は爆発的で素晴らしい熱演だ。まさにハートの伝わる演奏で、特に第1楽章の全管弦楽が咆哮するような怒濤の迫力が圧巻。革命の原動力となった「怒り」の感情を音楽で描写したものだと強く感じられる。この曲で重要な役割を担う打楽器陣の鮮烈な効果を克明に捉えた録音も見事で、立体感があり、臨場感に満ちている。 いまひとつ地味なイメージの2曲であるが、このペトレンコの明晰な演奏で、一気にこれらの作品を好きになる人も多いのではないだろうか。強い説得力に満ちた劇的な快演だ。 |
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交響曲 第6番 第15番 ノセダ指揮 ロンドン交響楽団 レビュー日:2024.5.21 |
★★★★★ ユーモラスな響きであっても、常にクールな暗さを宿した演奏 ジャナンドレア・ノセダ(Gianandrea Noseda 1964-)とロンドン交響楽団によるショスタコーヴィチ(Dmitri Shostakovich 1906-1975)・シリーズの1枚で、下記の2作品が収録されている。 1) 交響曲 第15番 イ長調 op.141 2) 交響曲 第6番 ロ短調 op.54 交響曲第6番は2019年、第15番は2022年のライヴ録音。 この2曲は、1枚のアルバムにまとめられてみると「なるほど」と思わさられる組み合わせだ。ショスタコーヴィチの最後の交響曲となった第15番では、第1楽章にロッシーニ(Gioachino Rossini 1792-1868)の「ウィリアム・テル(ギヨーム・テル)」からの、あからさまとも言える引用があるが、第6番では、終楽章に、やはり同作品を思わせるフレーズがある。アルバムに収録された2曲においては、録音順では第6番の方が先だし、普通に番号順に第6番、第15番と並べた方が、ロッシーニを引用した楽章が連続することもあるので、あえてそれを逆順で収録した意図はどこにあるのか。私にはよくわからないが、第6番の終楽章がアルバムの末尾にあった方が、1枚のアルバムが終わったという感触が強くなるというのは、あるのかもしれない。 ノセダの指揮は、非常に繊細と表現したいもので、第15番ではそれが管楽器のソロ・パートの細やかさによくあらわれている。この曲では、全体を通じて、全管弦楽が咆哮するようなところはなく、独奏楽器と弦楽器の細やかなやりとりの中で、一様には解釈しにくい皮肉やユーモアが描かれ、またロッシーニ以外の引用も含まれており、その作品の「あり方」自体が実に不思議なものとなっているのだが、ノセダはその細部を一つ一つ丁寧に描き出しており、終楽章のパッサカリアなども、とてもきれいに分かりやすい処理を進めている。トランペットのソロは抑制的であり、全体として、クールで精密な表現が徹底されており、それゆえユーモラスであっても、独特の暗さや冷たさが伝わってくるが、それがこの交響曲の姿であり、ショスタコーヴィチの晩年の作品が持っている「怖さ」でもある。第3楽章冒頭のファゴットの音色など、いかにも複雑な感情が宿っていると言えるだろう。そういった意味で、この演奏は、高い精度で、この楽曲を表現したものだと思う。聴いていて明るい気持ちになる作品では決してないが、その鋭利な現実をひたすらトレースしているような感触が、そのまま全体を覆う不安・不穏といった雰囲気を描き出している。 第6番も決して外向けの作品ではないが、第15番に比べるとずっと力強い部分を含んだ作品である。とはいえ、第1楽章の広大なラルゴのはじまりから、ノセダは野性味を強調することはせず、熱血性との間には厳密な線引きが設けられていることを宣言するかのよう。第2楽章、そして終楽章と、テンポはやや遅めであり、様々な演奏におけるノセダの解釈のうちでも、テンポの点で特徴を感じさせるものが採用された感がある。第2楽章は独特の緊張感と、息を殺すような雰囲気を偲ばせる部分があり、特にソロ楽器の使用されるシーンでその気配は濃い。終楽章はさすがに、外向きの部分が現れるが、それでも、トーンの暗さは印象的であり、ライヴでもノセダは、音楽に外交的な性格を与えすぎないように、気持ちを引き締めたことが伝わる。 全般に深刻な諸相を感じさせるアルバムとなったが、その演奏の高い完成度は、ことにオーケストラの木管楽器陣の精緻な演奏によってもたらされているだろう。 |
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交響曲 第7番「レニングラード」 ヤルヴィ指揮 スコティッシュ・ナショナル管弦楽団 レビュー日:2004.1.1 |
★★★★★ きわめてエキサイティングな「レニングラード」 ショスタコーヴィチの第7から第9までの3曲の交響曲は「戦争三部作」と呼ばれる。 この第7は経済制裁的焦土作戦として熾烈を極めたレニングラード包囲戦を描いたもの。レニングラード市に捧げられているので、一般に「レニングラード」と呼ばれている。 巨大な悲劇的造型。第7の特徴はなんといっても長大な1楽章中間部を支配するおどけたメロディ。これが小太鼓のリズムにのって延々と続くさまは「ボレロ」を思い浮かべさせる。「ラヴェルの真似」と言われるのは百も承知だったのだろう。この独特の泥臭さにどうアプローチするか? ヤルヴィの演奏は雄渾な迫力に満ちた演奏。序盤から勢いにのったオーケストラの表出力は凄まじく、果敢で戦闘的。ハイテンポで築き上げる第1楽章のクライマックスとともに、フィナーレの壮大な響きも特筆に価する。 |
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交響曲 第7番「レニングラード」 ペトレンコ指揮 ロイヤル・リヴァプール・フィルハーモニー管弦楽団 レビュー日:2013.6.24 |
★★★★☆ 面白いが、このスローなテンポ設定は、問題を残すのでは ペトレンコ(Vasily Petrenko 1976-)とロイヤル・リヴァプール・フィルによるショスタコーヴィチ(Dmitrii Dmitrievich Shostakovich 1906-1975)の交響曲シリーズ第8集。今回は交響曲第7番「レニングラード」を収録。2012年の録音。 ペトレンコという指揮者によって進められている当シリーズであるが、私は最初に第8番の録音を聴いて感銘を受け、以来、これまで録音したものをすべて聴いてきている。ペトレンコはこのソ連の生んだ天才作曲家の交響曲から、様々な音響的色彩を引き出し、新たなものを聴かせてくれている。ショスタコーヴィチの交響曲は、基本的には調和的な意味で響きの音楽とは言い難いところがあるのだが、ペトレンコも、もちろんこれを承知しているので、むしろソロイスティックな効果のある場所で、そのスタイルが顔をのぞかせることが多いという印象。 さて、この曲でもそのスタイルは共通で、例えば第1楽章の例の繰り返しが始まる直前の沈鬱な情景の中、響く木管の音色に独特の冷たい哀しみの情感が感じられるだろう。 しかし、ちょっと気になるのは、全体の悠然たるテンポである。この人が指揮した第5交響曲の終楽章でも気になったのだが、細部の彫像に焦点を合わせるため、全体的なテンポをグンと遅くし、やりたいことが出来るところまで十分な減速を行っている。それはいいのだけれど、この曲の場合、この表現だと、どうしても、少なくとも私は楽曲自体の「長さ」を感じてしまう。 美しいし、雄弁だとも思うのであるが、「それでも、まだまだ先が長いぞ」といった今後の行程が気になってしまうし、要は気が散るのである。これは楽曲を知らなければいいのかもしれないが、それでも、初めて聴けるのは誰だって1回きりだし、やはり、この曲の場合、相応のテンポで前に進んでくれないと、どうしても不安になるところがあるのだ。 それでもクライマックスはいくぶん快活になって、進んでくれるのだけれど、また静謐になると、耽溺するように時間が進まなくなる。これはこれで確かに音楽的効果を持っているのだけれど、この楽曲の表現として、やはり違和感が残るところ。 とはいえ、録音は良好で、アップテンポな部分での楽器の線的な鮮明さなどは、なかなか魅力があるところも確か。全体像として疑問を差し挟むところはあるのだけれど、全集完成の際に、これらの解釈があらためて生きてくるような、そんな仕掛けがあるのなら、一層楽しめることになるだろう。 |
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交響曲 第7番「レニングラード」 アシュケナージ指揮 サンクトペテルブルク・フィルハーモニー管弦楽団 レビュー日:2014.1.9 |
★★★★★ レニングラード包囲戦を描いた交響曲の音楽美を示す名演 アシュケナージ(Vladimir Ashkenazy 1937-)指揮、サンクトペテルブルク・フィルハーモニー管弦楽団によるショスタコーヴィチ(Dmitrii Shostakovich 1906-1975)の交響曲第7番ハ長調 op.60「レニングラード」。1995年の録音。アシュケナージは1987年から2006年にかけて、ショスタコーヴィチの交響曲全集をDECCAレーベルに録音したが、このうち交響曲第11番と、当第7番の2曲で、サンクトペテルブルク・フィルハーモニー管弦楽団を振った。 このディスクには、冒頭に1941年のラジオ放送で流れたショスタコーヴィチの肉声が収録されている。1941年というと、第二次世界大戦において、ドイツ軍のレニングラード包囲戦が開始された年である。最終的にレニングラードは900日間にも及包囲に耐えたが、数十万人とも言われる膨大な戦死者(多くは物資の補給ラインを断たれたことによる餓死者とされる)をも出した悲惨な戦いであった。ラジオ放送は、ショスタコーヴィチが包囲戦の中にある故郷レニングラードへの思いを語り、第7交響曲を書いている事を告げる内容で、市民に感動を与えたとされている。そして書き上げられた作品がこの交響曲第7番で、悲惨な戦時下の抑圧や恐怖を描きながら、最終的には反ファシズムの勝利を高らかに歌いあげる。 こうして書いてみると、本当にショスタコーヴィチという作曲家は、20世紀の政治や歴史と、切ろうとしても切り離せないものがあると思う。 さて、指揮をしているアシュケナージであるが、彼の立ち位置も考えさせられるものだ。彼は芸術の自由を求め、1963年に亡命により、ソ連から離れた人である。結果的に、政治情勢の変化から、80年代になって、彼は再び故郷を踏むことになるのだけれど、当時の亡命は、永遠に祖国と離別することを意味した。アシュケナージが亡命直前に演奏したショパンのバラードに秘められた情熱は凄い(Russian Disc CD 11 208で流通していたことがあり、私はこれを持っている)。 ショスタコーヴィチのラジオでの呼びかけに含まれるプロパガンダの要素、そういった要素は、特に戦時中に記録されたり広報されたりしたものには、色濃くつきまとうのだけれど、そういったものにも、アシュケナージならではの感覚というのがあるのだと思う。私などには計りしえないが。 それで、(冒頭に例のラジオ放送が収録されていることもあって)そういったことを考えながら当盤を聴くのだが、これがもう純音楽的に素晴らしいのである。冒頭から快活なテンポで、オーケストラの抜群の音色を巧みにドライヴし、全曲を俯瞰した上で設定したと思える早めのテンポで、引き締まった音楽を奏でる。例の繰り返しのフレーズも、加速度的にエネルギーを増して、圧巻のクライマックスまでエンルギーを凝集していく。鎮魂の部分は、情緒に流されず、テンポをキープしながらも、透明な美観に溢れている。 中間2楽章のテンポ配分は見事。特に第3楽章のアダージョは、速度記号からすると速すぎる感じだが、全曲を通して聴いたとき、このバランス感覚が私にはもっともしっくり行く。この作品は、長大な楽曲で、いろいろな出来事があるので、前後の関連などを手ごたえとして受けたいと思うとき、このアシュケナージが選んだテンポは理想的なのだ。第3楽章だけ抜き出してみたら「速い」と思う人もいるかもしれないが、そう思ったとしても、是非、何度か聴いてみて、この演奏の意図に触れてみてほしい。また、基本的にイン・テンポであっても、品の好いルパートがあり、単調な聴き味とは一線を画する工夫も満ちている。 第4楽章は凄い。激烈なアレグロ、耽美的で瞑想的な中間部、圧倒的なフィナーレが、有機的に結びついて、凄まじい底力を感じさせてくれる。全曲のコーダ、このやや大仰と思える仕掛けが、これほど聴く人の魂を震わせるのはなぜだろう。オーケストラの能力も凄い。急速部分での足並みの確かさ、細かい音型の正確な刻み、楽器の特性を存分に活かしたソロ・パートの処理。 個人的に、この交響曲は、ヤルヴィ(Neeme Jarvi 1937-)/スコティッシュ・ナショナル管弦楽団の超劇演盤と、ベルグルンド(Paavo Berglund 1929-2012)/ボーンマス交響楽団のシンフォニックな名演、それにこのアシュケナージ盤が特にいいと思っている。 |
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交響曲 第7番「レニングラード」 P.ヤルヴィ指揮 ロシア・ナショナル管弦楽団 レビュー日:2015.5.13 |
★★★★★ 「レニングラード交響曲」の演奏における、現代の一つのスタンダードを示す録音 ロシア・ナショナル管弦楽団は、複数の指揮者を起用しながらショスタコーヴィチ(Dmitry Shostakovich 1906-1975)の交響曲の全曲録音を進めていて、これまでプレトニョフ(Mikhail Pletnev 1957-)の指揮で第11番と第15番、クライツベルク(Yakov Kreizberg 1959-2011)の指揮で第5番と第9番、ベルグルンド(Paavo Berglund 1929-2012日)の指揮で第8番、ユロフスキ(Vladimir Jurowski 1972-)の指揮で第1番と第6番を録音済。 複数の指揮者を起用しながらのシリーズというと、私はデッカのウィーンフィルによるブルックナー(Josef Anton Bruckner 1824-1896)の交響曲全集である。ずいぶんと昔の話だけれど、あの全集は6人の指揮者で9曲を録音し、なかなか素晴らしいものが出来上がったのだった。 そのデッカの企画を彷彿とさせるのだけれど、今回は現代特に人気の高いパーヴォ・ヤルヴィ(Paavo Jarvi 1962-)を起用しての 交響曲第7番 ハ長調 op.60「レニングラード」 となった。2014年セッション録音。 当ディスクを見て、私はもう一つ思い出したものがある。パーヴォの父、ネーメ・ヤルヴィ(Neeme Jarvi 1937-)は、現代、もっとも多くの作品を録音した指揮者としても知られるが、そのネーメは、この曲を1988年にスコッティ・ナショナル管弦楽団と録音していて、これがすさまじい推進力に満ちた文字通りの爆演だったのだ。私は、ずいぶんその録音を聴いたものだ。私は、この交響曲に関しては、そのネーメの録音のほか、アシュケナージ(Vladimir Ashkenazy 1937-)指揮サンクト・ペテルブルクフィルの色彩と統御の美学に満ちた力演、オーケストラとベルグルンド指揮ボーンマス交響楽団のシンフォニックな良奏を、「三大名録音」だと思っている。 そのようなことを思い出しながらこのパーヴォの演奏を聴いた。パーヴォ・ヤルヴィという指揮者もユニークな人だ。曲によってはとても個性的な響きや解釈を披露するが、その一方できわめて安定したオーソドックスなものを目指すこともある。当録音はその後者の方。 とてもまじめなインテンポで、オーケストラも、この曲にまつわる悲劇(第二次世界大戦時のレニングラード包囲戦)を描くというより、徹底して純音楽的見地にのっとり、むしろ過分なニュアンスが出ることを引き締めるようなスタイルで、全般に乾いた響きでこれに応えている。 ダイナミックレンジはそれなりに広いが、音量的なパワーより、定量的な緻密さを主としたアプローチで、もちろん十分な迫力はあるが、そのことが売りではないというクールさを合わせて感じさせる。第2楽章の弦はつややかで美しいが、悲しい色合いの表出というより、音楽的な機能性をメインに考えられたものに聴こえる。早い部分での並足の確かさは、明敏で、力強さに訴えるものだ。 全体的な印象として、的確な表現で無難にまとめられたレニングラード交響曲、という印象だ。突き抜けたインパクトではないが、この曲の現代的かつ正統的な音楽的分析に貫かれた演奏で、等方位的な強度を保っている。 |
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交響曲 第7番「レニングラード」 第11番「1905年」 ベルグルンド指揮 ボーンマス交響楽団 レビュー日:2005.1.2 |
★★★★★ 両曲のかくれ“決定盤” ベルグルンドが録音したショスタコーヴィチの2曲の交響曲が収録されている。 魅力的な組み合わせだ。この2曲はショスタコーヴィチの15曲の交響曲の中でも、第5番「革命」に次いでポピュラリティを獲得するものだろう。第7番と言えば、一昔前、シュワルツェネッガーを起用したCMで「チ~ン・チ~ン・ブイブイッ!」の叫び(!)とともに1楽章中間部のフレーズが歌われ、クラシックフアン以外にも印象を残したものだ。(扱われ様は、ほとんど冗談音楽の域だったが・・・) しかし、本来この第7は第二次世界大戦中、経済制裁的焦土作戦として熾烈を極めたレニングラード包囲戦を描いたもの。ゆえにその名も「レニングラード」であり、戦争三部作(第7番~第9番)の一角をなすものだ。 第11番は映画「戦艦ポチョムキン」で第5番とともに印象的に使用されてこちらも有名だ。この作品も元来はロシアのロマノフ王朝が日露戦争の敗北によりその求心力を失い人民が蜂起していく状況を描いており、ゆえに「1905年」というタイトルがついている。(作曲年は1957年)。 さて、ベルグルンドの演奏であるが、なぜかそれほど評価されていないようだが、大変素晴らしい録音である。まずオケの響きが実にバランスがよく、ムダなタメを作らずに淡々と進み、しかも深い色が出ている。クライマックスでも無理に壮大にしたりテンポを揺らしたりせず、しかし効果的にたたみかけるような場所を備えている。 第7番1楽章の盛りあがりもスケールが大きく、しかも音に濁りがない。2楽章の哀色もよく描かれている。全曲のフィナーレは実に雄大無辺だ。一大スペクタクルのエンディングかくあれ!と思うほど。 第11番も同様に素晴らしい演奏だ。どちらもそれぞれの曲のかくれ決定盤といっていい内容でオススメ。 |
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交響曲 第8番 ヤルヴィ指揮 スコティッシュ・ナショナル管弦楽団 レビュー日:2007.10.6 |
★★★★★ 私版ショスタコーヴィチの最高傑作はこの曲? 世の中に「最高傑作論」とでも呼ぶべき論戦がある。それは他愛ない趣味の世界の話であるが、そこでは他者との感性や思考の「違い」や「共通点」を見出したりして遊ぶことになる。クラシック音楽ファンの間ではよくやる遊びである。さて、いくつでも出題例はあるけれど、さしあたって「ショスタコーヴィチの最高傑作はどれ?」という提起はどうだろうか?これはやはり交響曲第5番という答が模範解答のような気がするが、クラシック音楽フアンとうのはなかなか素直じゃないところがあり、自分だけの回答を探したがるものである。例えば、ヴィオラ・ソナタとか、オラトリオ「森の歌」とか、交響曲なら第6番とか。。。もちろんそういった意見に異論を唱えるつもりは毛頭ないけれど、私の回答は「交響曲第8番」ということになる。・・・ってその曲の収録されたCDのレビューに書いてる時点でみえみえで恐縮なのですが。まず音楽の深刻さがよい。ショスタコーヴィチはいつも深刻だけれども、複雑なアイロニーやユーモアを含んでいる。しかし、この交響曲での彼の書法は精緻でストレートだ。まさに何か心の奥の部分にあるものを抽出し、しかも音楽としてのおおよその体裁を巧みにととのえ、芸術作品として鑑賞するとい観点からも説得力の強い作品だと思う。 いわゆる戦争交響曲と呼ばれる第4番から第9番のいずれも傑作と呼ぶに相応しい一群に含まれるが、第8番にもっともショスタコーヴィチの観念が多く含まれているような気がしてならない。 ヤルヴィとスコティッシュ・ナショナル管弦楽団の録音は1989年のもの。この前年の88年に録音した「レニングラード」が凄まじい推進力の爆演だったのだが、この第8番はその傾向を持ち合わせながらもより感銘領域を深層に移した感があり、それは楽曲の性格上、必然的なのかもしれないけれど、やはり音の作りのうまさは見事だと思う。第1楽章の重過ぎないリズム感と音色、しかしけっして軽薄にならない響き、第3楽章の求心性などなかなか得がたいものだ。このオーケストラはもっともっと名演・名録音を輩出できる力量がある。もったいないと思う。 |
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交響曲 第8番 ショルティ指揮 シカゴ交響楽団 レビュー日:2008.8.7 |
★★★★★ しばらく入手の難しい状況が続いていますが・・ ショルティが録音したショスタコーヴィチの交響曲は、第1番、第5番、第8番、第9番、第10番、第13番、第15番の7曲である。しかし、中にあってシカゴ交響楽団と録音した4曲(第8番、第10番、第13番、第15番)は長らく入手が難しかった。最近になって第13番と第15番はデッカの輸入版が入手できるようにはなったが、寂しい状況と言える。このような状況を考えると、確かに録音点数が著しく増えたとはいえ、ショスタコーヴィチの交響曲はまだまだ一般的に浸透したとは言えないのだろう。それにしても第8番と第10番が再販されないというのはなぜだろうか?何か版権の都合でもあるのだろうか。 この第8番の録音は1989年のライヴ録音である。私としては、ショスタコーヴィチの第8交響曲の代表的な録音であると言うだけでなくショルティとシカゴ交響楽団にとっても代表的な録音と言えるのではないだろうかと思う。第8番は交響曲クリエーターであるショスタコーヴィチの創造性が一つの頂点を築いた作品であると思う。作品の相貌の深さ、深刻さとともにインスピレーションに満ち、聴くたびに何かを問いかけてくる。ショルティの演奏はまさに「厳しい」の一語だ。冒頭の張り詰めた緊張感は尋常ではない。弱音の弦楽陣のただならない気配はただちに私たちを支配する強靭な力を持って訴えかける。この部分だけ聴いてもこの演奏が「フツーじゃない」のは十分に伝わるのだと思うが。。。 さて曲が進むが緊張感は持続する。やはりこの独特のダークな雰囲気がショスタコーヴィチの色であるし、それが一般的な人気を博すものとはやはり異質な性質のものであるだろう。それでも、一度その魅力に踏み入れると、得体の知れぬ到達間のようなものがある。鋭い金管は曲想を反映し、決して安易な妥協点を与えない。それが如実に迫力として伝わる。 注意点としては「この緊迫感の持続は苦しい」と感じる人もいるに違いないということ。だから曲も演奏も決して多くの人に薦められるものではないだろう。ショルティかショスタコーヴィチのどちらかが好きな人にはぜひ聴いてもらいたい一枚です。入手が難しいけれど。 |
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交響曲 第8番 ペトレンコ指揮 ロイヤル・リヴァプール・フィルハーモニー管弦楽団 レビュー日:2011.6.1 再レビュー日:2014.12.5 |
★★★★★ ショスタコーヴィチの悲劇的交響曲に新しい妙味を添える 1976年ロシア生まれの指揮者ヴァシリー・ペトレンコ(Vasily Petrenko)は首席指揮者を勤めるロイヤル・リヴァプール・フィルと、ナクソスレーベルにショスタコーヴィチの交響曲全集を作製中(2011現在)。わりと評判がいいので、自分の好きな第8交響曲を聴いてみた。これは2009年の録音。ペトレンコの録音では、以前チャイコフスキーの「マンフレッド交響曲」を聴いており、たいへん感心したので、もちろんショスタコーヴィチにも期待がかかる。 いきなり余談だが、ショスタコーヴィチという指揮者は20世紀の大戦とそれに続く冷戦時代を象徴する芸術家で、その作品も歴史的背景に照らして解釈されることが多い。交響曲第8番は1943年の作品で、第二次世界大戦の最中の作品。前作の第7番は対ドイツのレニングラード戦の勝利を描いたのに対し、第8番は悲劇的で、戦勝国側の戦争描写としては異質だろう。もちろんこの時点では戦勝国と確定はしていなかったのだが。それにしても芸術家特有の感受性が戦争の悲劇そのものを捉えていたとしても不思議はない。しかし「なんでこの曲はこんなに暗いの!」とジダーノフ批判の対象になったのは承知の通り。 私見であるが、ショスタコーヴィチはどんな作品を書こうとも、ベースに闇や悲劇性を潜ませる芸術家でもあったと思う。文豪ドストエフスキーに通じるものを感じる。 それで、この曲を演奏する場合、悲劇性を高めた爆演スタイルの代表格がムラヴィンスキーだろう。私が持っているのは82年録音のPhilips盤。それは凄まじい演奏である。しかし、時代が進むにつれて、よりクールなスタンスが多くなる。ハイティンク、ヤンソンス、アシュケナージ、バルシャイなどいずれもウェルバランス。異質の硬派で押し通したのがショルティぐらい。・・・それでこのペトレンコ盤を聴くと、明らかに最近のショスタコーヴィチだと思う。すこしライトな響きで、きれいで、木管なんか透明で輝いているよう。しかし、それだけではないところがこの演奏の魅力。何度か聴いて気が付いたが、クールというだけではない刺激が漂っている。これは木管のかもすロシア的風合いと、弦楽器陣の重く、意外に激しいビブラートの効果からもたらされる印象。それに限らずペトレンコの音楽からはクールと言うには割り切れないほど様々なエネルギーを感じる。それらは「恐怖」や「悲劇」、「痛み」に似た感情に作用するようだ。言い換えれば「多彩な音を繰り出している」ということ。例えば、第3楽章のトランペットソロ。ちょっと不思議な音色がすると思うが、わかりやすい箇所ではないだろうか? いずれにしても、おそらくこの指揮者は様々な考察を経て、多様な含みを音楽に与えているに違いない。なかなか面白いものを聴いた、新しいスタイルのこのシンフォニーを聴いたという気がする。 |
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★★★★★ 妙味を添え、新しい感覚を加えたショスタコーヴィチ ロシアの指揮者、ヴァシリー・ペトレンコ(Vasily Petrenko 1976-)が、首席指揮者を勤めるロイヤル・リヴァプール・フィルと、2009年に録音したショスタコーヴィチ(Dmitrii Shostakovich 1906-1975)の「交響曲第8番 ハ短調 op.65」。 当盤を聴いて、私はペトレンコという指揮者に感心し、以後彼のショスタコーヴィチを一通り買うきっかけとなった。そういった意味で、私にとって、とてもインパクトのあった録音。 まず、作品の背景について少し書く。ショスタコーヴィチは、20世紀の大戦とそれに続く冷戦時代を象徴する芸術家で、その作品も歴史的背景に照らして解釈されることが多い。交響曲第8番は1943年の作品で、第二次世界大戦の最中の作品。前作の第7番は対ドイツのレニングラード戦の勝利を描いたのに対し、第8番は悲劇的で、戦勝国側の戦争描写としては異質だろう。もちろんこの時点では戦勝国と確定はしていなかったのだが。それにしても芸術家特有の感受性が戦争の悲劇そのものを捉えていたとしても不思議はない。しかし「なんでこの曲はこんなに暗いの!」とジダーノフ批判の対象になったのは承知の通り。 私見であるが、ショスタコーヴィチはどんな作品を書こうとも、ベースに闇や悲劇性を潜ませる芸術家でもあったと思う。文豪ドストエフスキー(Fedor Dostoevskii 1821-1881)に通じるものを感じる。 それで、この曲を演奏する場合、悲劇性を高めた爆演スタイルの代表格がムラヴィンスキー(Evgeny Mravinsky 1903-1988)だろう。私が持っているのは82年録音のPhilips盤。それは凄まじい演奏である。しかし、時代が進むにつれて、よりクールなスタンスが多くなる。ハイティンク(Bernard Haitink 1929-)、ヤンソンス(Mariss Jansons 1943-)、アシュケナージ(Vladimir Ashkenazy 1937-)、バルシャイ(Rudolf Barshai 1924-2010)などいずれもウェルバランス。異質の硬派で押し通したのがショルティ(Georg Solti 1912-1997)ぐらい。・・・それでこのペトレンコ盤を聴くと、明らかに最近のショスタコーヴィチだと思う。すこしライトな響きで、きれいで、木管なんか透明で輝いているよう。しかし、それだけではないところがこの演奏の魅力。何度か聴いて気が付いたが、クールというだけではない刺激が漂っている。これは木管のかもすロシア的風合いと、弦楽器陣の重く、意外に激しいビブラートの効果からもたらされる印象。それに限らずペトレンコの音楽からはクールと言うには割り切れないほど様々なエネルギーを感じる。それらは「恐怖」や「悲劇」、「痛み」に似た感情に作用するようだ。言い換えれば「多彩な音を繰り出している」ということ。例えば、第3楽章のトランペットソロ。ちょっと不思議な音色がすると思うが、わかりやすい箇所ではないだろうか? いずれにしても、おそらくこの指揮者は様々な考察を経て、多様な含みを音楽に与えているに違いない。なかなか面白いものを聴いた、新しいスタイルのこのシンフォニーを聴いたという気がする演奏だ。私は、当盤を聴いて以後、ペトレンコのショスタコーヴィチを一通り聴かせていただいていて、全般に周到なスタイルで感心しているが、中でも、この第8交響曲に、その特徴がいちばん良く出ているように思う。 |
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交響曲 第9番 第10番 ノセダ指揮 ロンドン交響楽団 レビュー日:2021.6.25 |
★★★★★ ノセダとロンドン交響楽団による、聴き味十分のショスタコーヴィチ 2016年からロンドン交響楽団の首席客演指揮者を務めるジャナンドレア・ノセダ(Gianandrea Noseda 1964-)が同オーケストラを指揮して、ライヴ収録によりシリーズが進んでいるショスタコーヴィチ(Dmitri Shostakovich 1906-1975)の交響曲録音の第4弾。最終目標として全集化が設定されているかは、私の知る限りアナウンスはないのだが、順調に曲目を増やしている印象。このたびは、下記の2曲を収録したアルバムとしてリリースされた。 1) 交響曲 第9番 変ホ長調 op.70 2020年録音 2) 交響曲 第10番 ホ短調 op.93 2018年録音 いずれも、良演。ノセダの演奏スタイルは、ことさらにショスタコーヴィチの悲劇性や暗黒面を強調するわけではなく、交響曲としての正当性、内省的な情動を細やかにトレースした繊細さが聴いていて感じられた。また、全般に楽曲の性格も的確に捉えられている感がある。 交響曲第9番は、第1楽章から、スリリングで明瞭な弦と木管のコントラストが、華やかで鮮烈な味わいをもたらす。第2楽章は程よいテンポで、クラリネットの情感がよく弾き立たせられており、中間部以降の不穏な雰囲気は、適度に中和されながらも、美しさを湛える。第3楽章はこの演奏の特徴が良く出ており、陰陽の切り替えの早さ、全体が明瞭に転換する面白さにみち、このプレスト楽章の醍醐味を存分に味わわせてくれる。第4楽章は、第2楽章同様に、べた付かない情感が巧みに表現されており、ファゴットの音が冴える。第5楽章は、ノセダによって、あえて終楽章らしさを与えられた感がある。マイルドな味わいの中で、音楽は落ち着く場所を探し、それでも速度を上げてフィナーレに向かう。聴き終わってみると、全曲が収まりよくまとまった感があり、中間部の楽しさとあいまって、十分な余韻を感じさせてくれる。 交響曲第10番の第1楽章は、内省的な美観を強く訴える。第9番と続けて聴くと、この第1楽章はとても長い音楽と感じられるのだが、第9番の偶数楽章の雰囲気が第10番の第1楽章に引き継がれた感じがあり、そこにアルバムとしてのまとまりもあると思う。十分な静謐を感じさせるため、息の長さ、呼吸の深さがあるが、決して停滞を思わせるものではなく、緊張が持続している。第2楽章はこの楽章らしい果敢さにみちた演奏が繰り広げられる、制御されながらも勇猛に突進していく様は圧巻で、気迫に満ちるが、線的な明瞭さを崩さないオーケストラの技術もさすが。第3楽章は慎重に進められ、ここでも聴き手は静寂と緊張の印象を刻まれる。第4楽章のアンダンテの部分は、第3楽章の主部との持続性を感じさせるような遅めのテンポを採用。その後、フィナーレに向けての高揚はなかなか聴きでがある。最後に鳴るティンパニのDSCHの刻印も分かりやすい。 全般に質の高い、聴き味十分なショスタコーヴィチである。ノセダとロンドン交響楽団によるショスタコーヴィチを、私は当盤ではじめて聴いたのだが、他の曲の演奏にも十分興味が持てる。 |
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交響曲 第10番 ショルティ指揮 シカゴ交響楽団 レビュー日:2008.8.7 |
★★★★★ ショルティ晩年の驚異の名演 ショルティがどれくらいショスタコーヴィチの音楽に傾倒し、また演奏会などで取り上げてきたのか分からないけれど、少なくともレコーディングに積極的に取り組んだのは90年代で、今にして思えばショルティの晩年の「新ジャンル」だったと思う。そして中でも私が第8番とともに「双璧の名演」と思っているのがこの1990年のシカゴ交響楽団とのライヴ録音による交響曲第10番である。 ショルティの指揮スタイルは、徹底的にスコアを縦線に照射解析して、そこに濁りのない立体的な音像を与えていくというベースがあると思うが、もちろんそれだけではない。そこに固有のアゴーギグやバランスが配されており、その緻密なイメージは私には時折「設計図」を思わせる。理系的イマジネーションを掻き立てられる演奏家と言える。と書いてしまうと、血が通わないイメージがあるが、決してそうではなく、さらにそこにドラマを内包し、深部は確かな脈が打ち続けるという音楽だと思う。 これがショスタコーヴィチの緊迫感を見事に表出する。第10番もまたショスタコーヴィチの「緊張」や「ダークネス」が典型的に表出した音楽だと思うが、ショルティの演奏による「緊張度」はただならない危険水域に達している。まさに呼吸が止まるような緊迫だ。一つ一つの弦楽器のボウイングから、一貫した強い意志が鋭敏に伝わってくる。迫力も凄い。第2楽章の俊敏にしてこまやかなフレーズの交換と移り変わりは、早めのテンポでありながら明瞭であり、次々と層を重ねるようにこちらに迫ってくる。その臨場感はただならない。晩年にこのような凄演を残してくれたショルティに感謝であるが、なぜかこの録音は廃盤で入手が難しい。いずれかの機会に復刻してくれることを願う。 |
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ショスタコーヴィチ 交響曲 第10番 ルトスワフスキ 葬送音楽 ドホナーニ指揮 クリーヴランド管弦楽団 レビュー日:2010.3.27 |
★★★★★ 機能主義に徹した美しいショスタコーヴィチとルトスワフスキ ドホナーニが録音した唯一のショスタコーヴィチである。そういえばカラヤンがショスタコーヴィチの作品のうち、唯一レパートリーに加えていたのも交響曲第10番だった。カラヤン盤も見事だったが、このドホナーニの演奏も素晴らしいものである。 しかし当盤は廃盤である。ドホナーニの数々の録音は、多くがたいへん優れた内容を持っていたにもかかわらず、現在ではそのほとんどが廃盤という不当な扱いを受けている。もちろん市場原理に打ち勝てない面はあるのだろうが、それにしても惜しいと感じる。 当盤が録音されたのは1990年で、なぜかこの年、デッカではショルティ指揮シカゴ交響楽団、アシュケナージ指揮ロイヤルフィルハーモニー管弦楽団もこの曲の録音・リリースがあった。いずれも優秀な演奏であったが、結局現在ではアシュケナージ盤がかろうじて「全集」の形で入手できるのみである。こうして考えてみると、まだまだショスタコーヴィチのダークな音楽は、広く巷で受け入れられるというところには至っていないようだ。 さて、このディスクのもう一つの特徴はルトスワフスキとのカップリングである。ショスタコーヴィチの交響曲第10番は1953年の作品、ルトスワフスキの葬送音楽は1956年から58年にかけての作品である。つまりこれらはスターリン死後(1953年以降)の東側の作品という共通項を持つ。芸術家の活動の仕方は広がったと考えられる。現にルトスワフスキの作品は彼が始めて十二音音楽を試みたものである。ルトスワフスキの葬送音楽は沈鬱な音楽であるが、それでも古典的な調性の名残を色濃く残している点が面白い。消え入るような終結部も印象的だ。ところで、ショスタコーヴィチである。私はショスタコーヴィチが、(よく言われるように)芸術活動において政治的な制約があったのは、その通りだろうと思うが、「そのことが本当にショスタコーヴィチの作品に反映していたかどうかよくわからない」というのが正直なところだ。この交響曲第10番も、素晴らしい作品だが、何か斬新なモダニズムが感じられるかというと、そうではなく、「雪解け時代」でも何でも、この人はこのような音楽を書き続ける人だったのだろうと思う。解釈は後世の人がいろいろ与えるもので、逆に言うとそれだけのものでそれ以上ではない。 ドホナーニの演奏は素晴らしい。明晰でバランス感覚に優れ、全管弦楽を一つの意図のもとに統率し、すべてを的確に動かしている。インテンポで余分な情感を排しているが、楽器の音色は美しく響き、働きの弱い音がない。なんという機能主義だろう!透徹した美学に感服させられる。 |
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交響曲 第10番 ペトレンコ指揮 ロイヤル・リヴァプール・フィルハーモニー管弦楽団 レビュー日:2012.1.10 |
★★★★★ ペトレンコによって引き出されたオーケストラのハイパフォーマンスに驚嘆 1976年ロシア生まれの指揮者ヴァシリー・ペトレンコ(Vasily Petrenko)は、首席指揮者を勤めるロイヤル・リヴァプール・フィルと、ナクソスレーベルにショスタコーヴィチの交響曲全集を作製中(2012現在)。私は、これまで交響曲第8番の録音を聴き、なかなか感銘を受けたので、続けてこちらも評価の高い2009年録音の交響曲第10番を聴いた。 まず、この交響曲についてだが、なかなか意味深なアナグラムに満ちた音楽として有名だ。象徴的なのが長大で深刻な第1楽章で、ドミトリー・ショスタコーヴィチの名にあるDSCHを、「ニ、変ホ、ハ、ロ」にあて、これらを基音に相当させた主題を持っている。加えて、終楽章(第4楽章)では、作曲家、エルミーラ・ナジーロヴァ(Elmira Nazirova 1928-)の「E La Mi Re A」に相当するテーマがたびたびホルンで奏される。この二つの楽章に挟まれて、「スターリンの肖像」と呼ばれる激しく短い第2楽章のスケルツォと、ノクターンとでも呼びたい第3楽章がある。ショスタコーヴィチが古典的書法に則りながらも、自身の音楽を荒々しく、かつ精緻に描いた傑作で、悲劇性が潜む音楽だ。 ペトレンコの演奏は素晴らしい。筋肉質に研ぎ澄まされたオーケストラの合奏音が見事で、高い緊張感を持続する空気が醸成されている。このオーケストラの技術はとにかく圧巻で、ロイヤル・リヴァプール・フィルがこれほどの集団だったとは、恐れ入ったの一語である。 何と言っても凄まじいのは第2楽章。超高速の2/2拍子で、激しいシンコペーションの効果で畳み掛けるように音楽を盛り上げていくのだけれど、その辺りすべてを巻き込むようにして推進していく圧倒的な力強さが凄い。怒濤の迫力とはこのことだ。このスケルツォは激昂する怒りを表現した音楽に他ならない。 また、全編に渡って、意味深な主題を吹くホルンの確かな存在感のある響き、弦楽器陣の強奏によるヴィブラートの激しさ、それとコーダで際立つティンパニのリアリティなど、聴き所に事欠かない。第2楽章のパワーとスピードだけでなく、全般によく計算されており、悲劇性も存分に引き出されている。過度に劇的で誇張というわけでもない。第1楽章は全体を見通した配分がよく、クライマックスの演出も力強く、含みが多い。 この演奏を聴いていると、ショスタコーヴィチの交響曲第10番という作品が、いかにも当時の重々しい命題を背負いつつ、しかし古典的形式の美徳を保った名器楽作品だということがよくわかる。ペトレンコの卓越したオーケストラ・コントロールが存分に活かされた現代的ショスタコーヴィチの名演と言っていいだろう。 |
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交響曲 第10番 室内交響曲(バルシャイ編 原曲:弦楽四重奏曲 第8番) アシュケナージ指揮 ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団 レビュー日:2014.1.16 |
★★★★★ 意義深いカップリング アシュケナージ(Vladimir Ashkenazy 1937-)指揮、ロイヤルフィルハーモニー管弦楽団の演奏で、ショスタコーヴィチ(Dmitrii Shostakovich 1906-1975)の「室内交響曲 ハ短調 op.110a」と「交響曲 第10番 ホ短調 op.93」の2曲を収録したもの。1989年から90年にかけての録音。「室内交響曲 ハ短調 op.110a」は、「弦楽四重奏曲 第8番ハ短調op.110」をバルシャイ(Rudol'f Barshai 1924-2010)が弦楽合奏版に編曲したもの。 アシュケナージが録音したショスタコーヴィチは、いずれも優れたものだと思うが、当盤もその一つ。また、「室内交響曲 ハ短調」と「交響曲 第10番」を組み合わせて一つのアルバムにした、という観点も優れている。 これらの2曲には、ショスタコーヴィチによる共通の暗号が埋め込まれている。この暗号と言うのは、アナグラムのことで、つまりドイツ語で表記した際の「ドミトリー・ショスタコーヴィチ」の名に出現する「D-S(Es)-C-H」のイニシャルを、それぞれ ニ 変ホ ハ ロ の音高に置き換えて、曲の中に象徴的に潜ませたのである。そのため、これら2曲は、作曲者自身の深い刻印が押された作品と解釈することができる。 また、ショスタコーヴィチの芸術作品には、多かれ少なかれ20世紀という時代の暗い影が付きまとうが、これら2曲には、それぞれ特に色濃く第2次世界大戦に関するテーマが含まれている。ショスタコーヴィチの「戦争三部作」と呼ばれる交響曲は、通常第7番から第9番までの3曲であるが、ショスタコーヴィチは、この「交響曲 第10番」こそが、(戦争描写作品の)完結編であると語っている。加えて、苛烈できわめて前進性の強い第2楽章を「スターリンの肖像である」とも述べている。一方、弦楽四重奏曲第8番については、ショスタコーヴィチ自身によって「ファシズムと戦争の犠牲者の想い出に捧げる」と銘打たれている。 というわけで、これらの2曲には、“ショスタコーヴィチ自身が、わが名を刻み込み、20世紀の暗黒の歴史の心象を音楽で綴ったもの” という共通項がある。こうして考えると、バルシャイによる編曲が行われた時点で、これらの2曲は、併せて聴くべき機会を担保されるべき存在であったとさえ思える。そういった意味で、これらの2曲を一つにまとめたアシュケナージの視点は、蓋然性が強く、さすがに作曲者と同郷で生まれ、冷戦の時代を、亡命を経て生き延びた芸術家の趣向であると、納得させられるものだ。 そのような構成面の素晴らしさもさることながら、演奏も見事。奇をてらわない直進的なスタイルで、これらの作品の内面的深みを照らし出したような説得力に満ちている。 交響曲第10番には、ショルティ(Sir Georg Solti 1912-1997)やドホナーニ(Christoph von Dohnanyi 1929-)といった人たちにも、インテンポを基本とした名演がある一方で、カラヤン(Herbert von Karajan 1908-1989)の壮絶なほどの美しい演奏や、最近ではペトレンコ(Vasily Petrenko 1976-)の様々な含みを感じさせる知的好演もあり、激戦区なのだけれど、このアシュケナージの録音は、インテンポでありながら音楽的なふくらみや、エネルギッシュな踏み込みを内包させながら、中庸の美を獲得したものだと思う。迫力が充満しているところが凄い。スターリンの肖像と言われる第2楽章の激烈な疾走ぶりは、熱く、それでいて怜悧な冷たさを感じさせ、スターリンという人物の一面を思わせる刺激に満ちている。 その一方で、全5楽章が続けて奏でられる室内交響曲では、悲しさを秘めた温和さが表現されていて、美しさに満ち、追悼の性格のある音楽であることを思い知らされる。 この名アルバムは、廃盤となってしまっているが、アシュケナージによる「ショスタコーヴィチの交響曲 全集」は2014年現在カタログに残っている。この全集は、それぞれの録音が単発されたときの収録内容を、そのまま各CDに収録したものをボックス化した形になっている。一つ一つのアルバムに、どの曲とどの曲を組み合わせるのかを熟考したアシュケナージの意図が、反映されることを優先したのだろう。「この2曲を一度に聴くこと」の価値を示した当盤に込められた意志が、そのまま活かされている企画に感謝したい。 |
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交響曲 第10番 歌劇「ムツェンスク郡のマクベス夫人」から パッサカリア ネルソンス指揮 ボストン交響楽団 レビュー日:2020.6.22 |
★★★★★ 暖かく豊饒なショスタコーヴィチ ラトヴィアの指揮者、アンドリス・ネルソンス(Andris Nelsons 1978-)は、2014年からボストン交響楽団の音楽監督に就任し、グラモフォン・レーベルからショスタコーヴィチ(Dmitrii Shostakovich 1905-1975)の交響曲シリーズをリリースすることとなったのだが、当盤はその第1弾に当たるアルバムで、以下の2曲を収録した内容。 1) 歌劇「ムツェンスク郡のマクベス夫人」から パッサカリア 2) 交響曲 第10番 ホ短調 op.93 2015年のライヴ録音。 優秀な録音で、オーケストラ全体の響きが、ほどよいホールトーンの効果を踏まえて、巧妙に捉えられている。ネルソンスは、このオーケストラから精緻でありながら、よくブレンドした音を引き出しており、その結果、ショスタコーヴィチのこれらの楽曲から、従来にないほどの暖かくゴージャスなサウンドを引き出すことに成功している。 冒頭のパッサカリアは、衝撃的な全合奏から、コードが激しく移行する様が描かれるが、ネルソンスは階層的な響きと全体的な飽和性の間で、巧みにバランスを取り、計算された、しかし感情的な色合いを失うことのない音楽を作り出している。高いドラマ性を湛えている。それに続く静穏さも、十分な気配を感じさせており、この楽曲の魅力を十全に伝えるものとなっている。 名作、交響曲第10番も優れた演奏。 カラヤン(Herbert von Karajan 1908-1989)は、ショスタコーヴィチの諸作品の中からこの交響曲のみをレパートリーに加え、録音も行ったのだが、このネルソンスの録音は、カラヤンの演奏に近いものを感じる。共に豊かな音響で、厚みのある響きを用いたが、カラヤンが、強弱とともに緩急を連動させて、より激しい動きを感じさせたのに対し、ネルソンスはつねに「平常心」を感じさせるスタンスと言える。ネルソンスは、1つ1つのパッセージを、徹底的に吟味し、総てを最善の形で鳴らし切ることを最終形態として向かっており、常に全パレットを用いて、総てに焦点を合わせた克明さを追求している。逆に言うと、全体的な大きな流れとしては、カラヤンの方がより捕捉出来ているかもしれない。 ネルソンスのショスタコーヴィチが求めるものは、安定と豊かさであり、それは本来、線的な音楽志向で書かれたショスタコーヴィチの音楽と異なる方向性を感じさせるものでもあるのだが、ネルソンスの卓越はその齟齬を感じさせない巧さにあるといって良いだろう。全体としてはイン・テンポであるが、合奏音の魅力で聴き手を引っ張っていく強さを持っている。また、ここぞという時のソロの表現力も見事だ。とくに静謐な弦を背景として、木管が旋律を奏でる部分など、そのバランス感覚と距離感の的確さだけでなく、音色の美しさ自体が絶対的な魅力を持っている。また、「スターリンの肖像」と呼ばれることもある苛烈な第2楽章も、全体に急くというよりは、地に足を付けた表現から逸脱しないというルールに即した感がある。それでいて、音楽が本来持っている自然発揚的な果敢さは、よく表現されていると言えよう。終楽章のエンディングのリズムに合わせた音彩は華やかで、聴衆は終結直後の熱狂的な喝采でこれを迎える。 細部まで克明を尽くして完全性を目指したネルソンスの音作りは、当盤に収録された2作品において高い効果を獲得しており、見事な成果を収めている。 |
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交響曲 第11番「1905年」 ペトレンコ指揮 ロイヤル・リヴァプール・フィルハーモニー管弦楽団 レビュー日:2012.9.7 |
★★★★★ この交響曲の凄さを改めて知らしめてくれる名演・名録音 ワシリー・ペトレンコ(Vasily Petrenko 1976-)指揮、ロイヤル・リヴァプール・フィルによるナクソス・レーベルへのショスタコーヴィチ(Dmitrii Shostakovich 1906-1975)交響曲全曲録音企画の一枚で、交響曲第11番「1905年」を収録。2008年の録音。 私は、ペトレンコのショスタコーヴィチについてはまず第8番を聴いて感銘を受けたので、その他の録音も少しずつ聴き進めてきたところ。交響曲第11番という作品はファンの多い曲で、漫画家の砂川しげひさ氏も好きな作品として推していた記憶がある。私の場合、この曲のイメージとしては、圧倒的にセルゲイ・エイゼンシュテイ(Sergei Mikhailovich Eisenstein 1898-1948)の名画「戦艦ポチョムキン」のイメージがある。この映画は1925年に、第1次ロシア革命の20周年を記念して製作されたサイレント映画であるが、映像の美観と力強さ、音楽の濃厚で雄弁な迫力があいまった素晴らしい芸術作品であった。この映画の音楽として使用されていたのがショスタコーヴィチの音楽であり、中でも交響曲第11番は多用されていた。 とここまで読んでいただいた時点で、矛盾を感じた方もいると思う。「あれ、ショスタコーヴィチの第11番って、いつの作品だっただろう?」。その通り。この作品は1957年の作品で映画の完成のはるか後。実は、普及している「戦艦ポチョムキン」は音楽などを録り直したリメイク・ヴァージョンである。しかし、このリメイクがまた見事な出来栄えで、私はそれを観て感心していたのである。 第11番は沈鬱さと劇性の対比の激しい音楽だ。「1905年」というのは、ロマノフ王朝に請願するためペテルブルク宮殿に向かっていた民衆に対して軍隊が発砲し、千人以上を射殺した「血の日曜日事件」の起こった年であり、第1楽章「宮殿前広場」、 第2楽章「1月9日」、第3楽章「永遠の記憶」、第4楽章「警鐘」の副題がある。第1楽章の不穏な雰囲気、第2楽章後半の大量射殺の描写、第4楽章の革命歌の謳歌など、一級の音楽描写が堪能できる名品だ。 ペトレンコの演奏も素晴らしい。きわめて繊細なタッチ、鮮明な音色でこの曲の真価を伝えていると感じられる。第1楽章の不気味な主題の背景で情動を伝えるティンパニのなんとも言えない暗い深さは怖いほどの雰囲気。トランペットの物憂げなファンファーレも遠い距離感が適切に引き出されている。第2楽章は行進から大量殺戮までを描いているが、怒号のような地を揺るがす音楽の切迫する力はただならない。その後のレクイエムの痛切さも、淡々と描写しながら様々な音色を与えて、きわめて高い集中力をもって描写されている。実にリアルな感触がある。第4楽章の最後はいつもわたしを不思議な気持ちにさせる。一旦盛り上がった革命歌からクライマックスを迎えながら、再び闇の中に閉じ込められていくような冷たい響きで静かに音楽がフェード・アウトしていく。なんと凄い音楽だろう。この交響曲の凄さを改めて知らしめてくれる名演・名録音だと思う。 |
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交響曲 第13番「バビ・ヤール」 アシュケナージ指揮 NHK交響楽団 二期会合唱団 B: コプチャク レビュー日:2007.6.25 |
★★★★★ 普遍的な音楽となっている「バビ・ヤール」 アシュケナージがNHK交響楽団とショスタコーヴィチの交響曲3曲を録音した。これによって中座していた彼のショスタコーヴィチの全集が完結することになった。全集になったら買おうと思っているうちに計画が中座し、しかも既発のものの中には廃盤となってしまうものもあるという状況で、半ばあきらめていただけに、全集の完成を祝いたい。しかもうち3曲をNHK交響楽団が担当するなんて想像だにしなかったことである。 さて、アシュケナージの演奏であるが、この人のスタイルについて私はこう思う。「ノン・ポリティカル、ノン・ローカル」・・。いや、いきなりでアルコール飲料の宣伝みたいで唐突でしたけれど(すいません)、作品について必要以上に政治的なものを詮索したり、土地柄や国家感のようなものを押し出したりしないという点を強調してみたのです。むしろ作品と向き合うに際して、どこまで既成の概念と折り合いをつけるかという点をまずクリアし、次に作品に一人の芸術家として、共有できる何かを見出す。そして、そこから同心円状に「表現」を形作っていく。。。どの程度意識的なのかわからないし、あるいは私の見当違いかもしれないけれど、でもそうして獲得される表現は、いつも転結がとれていて、ほどよい情感と、暖かい人柄のようなものが聴き取れるのだ。だから、逆に彼のショスタコーヴィチは個性的になる。オーケストラの技巧は安定しているが、感情を極端に「あらわ」にしないので、聴く人によっては「共鳴感が足りない」と思うかもしれない。(それはそれで仕方ない)。しかし、一方で真摯に音楽を掘り下げた普遍性が感じられる。(政治的皮肉を込めて)「ユーモア」と題された第2楽章を、まじめに構築していく方法は、個人的には「これもまた良し」な音楽である。もちろん、ロジェストヴェンスキーやコンドラシンのような演奏も立派なことは当然であるが、亡命者アシュケナージがこれほど、自分の音楽性のみでこの曲に対応するのは、とても興味深いことだと思う。 オーケストラもよく鳴っているが、やや弦楽器の音色がソリッドなのはこのオーケストラの特色だろうか。二期会の男声合唱も淡々とはしているが、まずは問題なくこなしていて、他の録音と比較しても遜色ない。 |
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交響曲 第13番「バビ・ヤール」 ペトレンコ指揮 ロイヤル・リヴァプール・フィルハーモニー管弦楽団 B: ヴィノグラードフ レビュー日:2014.12.22 |
★★★★★ 管弦楽に込められた深層の意味にスポットライトを当てたペトレンコの知的名演 2008年に開始されたワシリー・ペトレンコ(Vasily Petrenko 1976-)指揮、ロイヤル・リヴァプール・フィルハーモニー管弦楽団によるショスタコーヴィチ(Dmitry Shostakovich 1906-1975)の交響曲全曲録音は、2013年録音の当盤により完結した。最後に収録されたのは、交響曲 第13番 変ロ短調 「バビ・ヤール」である。バス独唱はアレクサンドル・ヴィノグラードフ(Alexander Vinogradov 1976-)、男声合唱はロイヤル・リヴァール・フィルハーモニー男声合唱団とハッダーズフィールド・コーラル・ソサエティ。 ショスタコーヴィチの第13番は、歴史的な問題を扱った作品で、エフゲニー・エフトゥシェンコ(Yevgeny Yevtushenko 1933-)の詩による5つの楽章、(第1楽章「バビ・ヤール」、第2楽章「ユーモア」、第3楽章「商店で」、第4楽章「恐怖」、第5楽章「立身出世」)からなる。エフトゥシェンコの詩は、ナチス・ドイツによるキエフでのユダヤ人虐殺と、それに先んじてあった帝政ロシア時代の右派によるユダヤ人弾圧を告発するものだが、その内容は暗にソヴィエト政府以後も人種差別が解消していないことを指し示したものであったため、初演前には権力側からの圧力があり、またフルシチョフ(Nikita Khrushchev 1894-1971)とエフトゥシェンコ、ショスタコーヴィチの三者で会談も行われたが、最終的にコンドラシン(Kirill Kondrashin 1914-1981)の指揮により初演は行われ、ソ連の聴衆から熱狂的に迎えられたと言う。 しかし、この曲は、かつての西側諸国ではあまり取り上げらなかったようだ(ロシア語による独唱と合唱の問題もあった)。日本では、1986年になって、ハイティンク(Bernard Haitink 1929-)の録音がレコード・アカデミー賞を受賞したこともあって、やっとその存在が知られるようになったと言う。 現在でもそれほどの人気曲とは言えない。やはりバス独唱、バス合唱のみを伴った声楽パートによって、重く、暗い雰囲気が全般に垂れ込めた音楽だけに、簡単に聴ける音楽とは言い難いし、聴く側にもそれなりの覚悟が要求される作品だと思う。 そんな中で、当ペトレンコの演奏は、現代的な洗練を究めたものとして、この曲の演奏として、一つの理想像を示しえたものとして、たいへん注目される。まさに、全集を締めくくるのに相応しい出来栄えだ。 ペトレンコのショスタコーヴィチ全般に言えることであるが、管弦楽の一つ一つのフレーズのもつ意図への意識が高く、ショスタコーヴィチの線で構成された音楽ならではの「線の意味合い」が、十分に高まっているところが相応しい。例えば、ピッコロの強奏が示す権力の冷酷さや、フルートが代弁する人々の不安、そして結末でチェレスタが誘導する安らぎ・・・そういったパーツがとても合理的で、かつ音楽的に配置されている。それで、このディスクを聴くときは、ぜひともホームページなどに、全曲の歌詞が書いてあるので、その大意を把握して聴くのが良いだろう。 男声のソロと合唱は、それほど痛切な暗さを訴えてはいないが、機能的な役割をこなしていて、むしろ器楽パートによる隠れた意図を「暗に」示す作用に焦点があたっているように思う。つまり、この楽曲では、歌詞で大意を述べながらも、皮肉的とも言える深層の意図を、管弦楽書法の中に織り込めたのであり、その作曲者の意志が、ペトレンコの解釈で、いよいよ明瞭になったと感じられる。そういった意味で、私はこの演奏は、名演だと思う。 |
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交響曲 第14番「死者の歌」 アシュケナージ指揮 NHK交響楽団 S: ロジャース Br: レイフェルクス レビュー日:2007.6.30 |
★★★★★ アシュケナージとNHK交響楽団による結実と呼ぶのにふさわしい録音 NHK交響楽団にとって、デュトワ、そしてアシュケナージを音楽監督に迎えたことは、非常に意義がが大きかったと思う。とくにドイツ・オーストリアものに重きを置いていたこのオーケストラが、より多様なジャンルにおいても、その適性を示したことが貴重だ。しかも、両指揮者とも世界的なレーベルであるデッカとのつながりがあり、このレーベルからNHK交響楽団の名でアルバムをリリースできたことは慶賀の至りだと思う。(そして、楽曲がデュトワの場合プロコフィエフであり、アシュケナージの場合、本盤を含めたショスタコーヴィチの3曲である!) ショスタコーヴィチの交響曲第14番は「死者の歌」の副題が示すように、アポリネール、リルケ、キュヘルベルらの死に関する11編の詩に曲をつけたものだが、登場する楽器は弦楽器陣と打楽器群だけで、しかも楽章ごとにその編成は変わってゆく。このような変り種の交響曲では、一人一人の奏者の技術力がより試されることになるが、NHK交響楽団の技量は十二分な高さを示しており、ショスタコーヴィチの求めた音色はよく再現されていると思う。第2楽章から第3楽章への転身ぶりも鮮やかで、断片のようなモチーフも鋭い影を刻んでいる。 アシュケナージの指揮は、特に詩の意味深な「ヒネリ」を意識せずに、純音楽的に、室内楽的・均質的なものを目指しており、そういった意味で二人の独唱者(レイフェルクスとロジャーズ)の歌いぶりも過剰な演出を配したノーブルさを保っており、品位が高い演奏となっている。もちろん、もっとどろどろと演奏するやり方もあるのですが、私の場合はこういう演奏が結構好きだ。(あまり政治的なメッセージに凝らない方がいいと思う)。管弦楽ともども個性的な各楽章の魅力を的確に伝えており、録音も安定している。アシュケナージとNHK交響楽団による結実と呼ぶのにふさわしい録音となった。 |
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交響曲 第14番「死者の歌」 クルレンツィス指揮 ムジカエテルナ S: コルパチェヴァ Br: ミグノフ レビュー日:2011.5.9 |
★★★★★ ノヴォシビルスク発、ゼロからの発想が活きた「死者の歌」 ショスタコーヴィチの交響曲第14番「死者の歌」。テオドール・クルレンツィス (Teodor Currentzis)指揮ムジカエテルナ(Musicaeterna)の演奏で、独唱はソプラノがユリア・コルパチェヴァ(Julia Korpacheva)、バリトンがペトル・ミグノフ(Petr Migunov)。録音は2010年。 クルレンツィスという指揮者、ムジカエルテナという楽団、私はいずれも初めて聴いた。クルレンツィスは1962年アテネ生まれの指揮者で、2004年から2010年までノヴォシビルスク歌劇場の音楽監督を務めた。この間、モーツァルト、ヴェルディ、ショスタコーヴィチなどのオペラを振っている。・・・余談だが、このノヴォシビルスク市は、私が現在住んでいる札幌市と姉妹都市である。そして、このディスクで彼が指揮しているムジカエテルナは、クルレンツィス自身のプロデュースにより結成された、これまたノヴォシビルスク市に拠点を置くピリオド楽器による楽団。 というわけで、この録音、ショスタコーヴィチの作品でありながら、ピリオド楽器による演奏となっている。もちろん、作曲者がそのような演奏形態を思い描いて作曲したとは考えられない。このたびの録音は、まさに「ゼロからの発想」の賜物だろう。 ただし、最近では、ピリオド楽器の扱いが多彩になっていることも確かで、例えばパーヴォ・ヤルヴィはドイツ・カンマー・フィルとのベートーヴェンで、「一部を」ピリオド楽器に置き換えている。ピリオド楽器を単に一つの音色の選択肢として持つというアイデアは、フランクな思考であり、面白い。 私個人的には、楽器はやはり現代楽器の方が、パワー、表現力の両面で勝ると思っている。ただし、ピリオド楽器の場合、特にガット弦による弦楽器の響きが、全般に押さえられることで、逆に合奏音の表情が豊かに聞こえる場合がある。この交響曲の場合、編成が声楽以外弦楽器と打楽器だけなので、それによって室内楽的な濃密さを得られているようにも思う。 とにかく演奏は成功している。几帳面にスコアを読み込み、今までにない新たな種類のエネルギーをこの曲から感じることができる。録音状態が良好なのも強みで、打楽器のインパクトの輪郭が鮮明に捉えられている心地よさもある。声楽はなかなか演劇口調というか、表現力があり、この辺はオペラ指揮者らしい演出だと思う。個人的には、ちょっと表情が出すぎていると思う部分もあるけれど、決して大仰には響かないところに音楽家たちの含蓄の深さを感じさせる。また静寂の「暗さ」や「怖さ」も、旧来の演奏に比べて深まっている印象を持った。 決してキラクに聴ける種類の音楽ではないけれど、ショスタコーヴィチ・フアンなら聴いておいて損はないだろう。また、広大なシベリアに面するノヴォシビルスク市の、高い文化にも思いを馳せられる一枚でもある。 |
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交響曲 第14番「死者の歌」 ペトレンコ指揮 ロイヤル・リヴァプール・フィルハーモニー管弦楽団 S: ジェイムズ Bs: ヴィノグラードフ レビュー日:2014.6.2 |
★★★★★ ほどよい「柔らか味」を伴ったペトレンコの「死者の歌」 ワシリー・ペトレンコ(Vasily Petrenko 1976-)とロイヤル・リヴァプール・フィルハーモニー管弦楽団によるショスタコーヴィチ(Dmitry Shostakovich 1906-1975)の交響曲全曲録音シリーズから、2013年録音の 交響曲 第14番 ト短調 op.135「死者の歌」。これで、全集完結まで、第13番1曲を残すのみとなった。独唱は、ソプラノがイスラエルのガル・ジェイムズ(Gal James 1977-)、バスがロシアのレクサンドル・ヴィノグラードフ(Alexander Vinogradov 1976-)。 この暗鬱な交響曲も、最近では録音点数も増え、いろいろ興味深い比較も出来るようになってきた。当盤の特徴は、指揮者の構成的な把握の正確さ、室内楽的とも言える音響の緻密さ、そして暗さ一辺倒ではない独唱の色合いにある。 まず、この交響曲の背景を簡単にまとめると、11の楽章からなっており、それぞれが「死」をテーマとした詩に音楽を与えたもの。独唱者はソプラノ、バスの二人で、オーケストラは弦楽合奏とパーカッションという編成。ただし、楽章によって、楽器編成がやや異なる。まとめると、以下の様になる。 1) 第1楽章 「深いところから」 バス、弦楽合奏 2) 第2楽章 「マラゲーニャ」 ソプラノ、独奏ヴァイオリン独奏、カスタネット、弦楽合奏 3) 第3楽章 「ローレライ」 二重唱、パーカッション、弦楽合奏 4) 第4楽章 「自殺者」 ソプラノ、チェロ独奏、弦楽合奏 5) 第5楽章 「心して」 ソプラノ、パーカッション、弦楽合奏 6) 第6楽章 「マダム、御覧なさい」 二重唱、シロフォン、弦楽合奏 7) 第7楽章 「ラ・サンテ監獄にて」 バス、弦楽合奏 8) 第8楽章 「コンスタンチノープルのサルタンへのザポロージェ・コサックの返事」 バス、弦楽合奏 9) 第9楽章 「おお、デルウィーク、デルウィーク」 バス、弦楽合奏 10) 第10楽章 「詩人の死」 ソプラノ、ヴィブラフォン、弦楽合奏 11) 第11楽章 「結び」 二重唱、カスタネット、トムトム、弦楽合奏 ちなみに、引用された原詩の作者は、1),2)がロルカ(Garcia Lorca 1898-1936)、3)~8)がアポリネール(Guillaume Apollinaire 1880-1918)、9)がキュッヘルベケル(Wilhelm Kuchelbecker 1797-1846)、10),11)がリルケ(Rainer Maria Rilke 1875-1926)である。管楽器が不在のため、発色感が抑えられた、一種の抑圧的雰囲気が濃厚だ。 さて、当盤の話に戻ると、まずは構成感である。この楽曲は11の楽章に分かれているが、大きく3つの部分からなっている、と思われる。第1の部分は第1楽章~第3楽章が相当し、これは、序奏、そしてスケルツォ部分を伴って、躍動的な部分を踏まえ、再びテンポを落として戻る形。第2の部分は第4楽章~第7楽章が相当し、間奏曲的雰囲気を持った比較的スローな音楽が支配的となる。3つ目の部分は残りの第8楽章~第11楽章が相当し、これは決然とした終曲と、これに向かうための、それよりゆっくりした過渡性のある音楽によって構成されている。ペトレンコの指揮には、この視点に基づく明瞭性が感じられ、全体と部分の対比的な理解がしやすいというメリットがある。この音楽に近づくために、適切にマッピングが行われていると思う。 次に緻密性であるが、これはオーケストラの編成を必要最小限にとどめて、細やかなパッセージの明瞭化が徹底していることが大きい。これはペトレンコのショスタコーヴィチ全般に言えるのだけれど、高い透明度が維持されていて、そのため、楽器編成のサイズが、リアルな感触で、聴き手まで届くのである。 もう一つ「暗さ一辺倒ではない独唱」と書いたのだけれど、二人の独唱者の声質自体が、さほど暗くないこともあって、適度な柔らか味と洗練を感じさせてくれる。これが私にはありがたい。この音楽は、「死」というテーマを持っていることもあって、聴いていて暗鬱になるところがあり、それは仕方ないのだけれど、当盤のように音楽自体が美しく解決する方向を持って、適度にマイルドになってくれた方が、個人的に好きなのである。 以上の特徴を総じて、当盤は、現代を代表するこの交響曲の良質な録音の一つであるとして、推奨したい。 |
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ジャズ組曲 第1番 第2番「プロムナート・オーケストラのための」 ピアノ協奏曲 第1番 タヒチ・トロット(二人でお茶を) シャイー指揮 コンセルトヘボウ管弦楽団 p: ブラウティガム tp: マス-ズ レビュー日:2004.1.1 |
★★★★☆ ショスタコのウラ?
ジャズ,ダンス?・・・ とかく国家、社会主義、思想と結びついた暗いイメージが先行するショスタコーヴィチ。実際交響曲や弦楽四重奏曲は暗く重いのだが,まったく別の面を持っている。 シャイーが録音した一連の「ウラ」ショスタコーヴィチ・シリーズはデッカらしい慧眼の企画である。ショスタコーヴィチの国家という強大な重力と無縁なこのような領域があるとは。 だが,例えば2曲のピアノ協奏曲など本来外向的な曲なのだ。屈折鬱屈したショスタコーヴィチ像。それすら幻想ではないだろうか?と思えてならない。 |
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組曲「マクシム・トリロジー」 「銃をとる人」からの音楽 「女ひとり」からの音楽 「リア王」からの音楽 シナイスキー指揮 BBCフィルハーモニー管弦楽団 シェフィールド・フィルハーモニック合唱団 レビュー日:2005.6.25 |
★★★★★ 知って得するショスタコーヴィチ
ショスタコーヴィチの映画音楽集1と題されたシャンドス・レーベルらしい企画モノ。演奏はシナイスキー指揮BBCフィル&シェフィールド・フィルハーモニック合唱団。 ショスターコヴィチはかなりの数の映画音楽を作曲し、多くの作品にかかわっているが、体制下での芸術活動として様々な複雑な動機があったことが考えられている。 とはいえ、音楽の世界は純粋に映像のために存在するものとして完成されている。1938年作品の「銃をとる人」はレーニンを題材とした映画であり、映画も成功している。しかし1970年作品の「リア王」は、指導者不在の世界を描き、ブレジネフ政権を糾弾するような内容となっている。そのような背景考察も面白いが、このアルバムは聴いていて本当に面白い、楽しいアルバムだ。 この作曲家の交響曲や弦楽四重奏曲でみせる渋み走った作風が鳴りをひそめ、奔放に感情を歌っているからだ。もちろん、映画音楽特有の、過大表現や仰々しさがまったくないわけではないが、高度な純粋音楽芸術を目指したわけでもないし、これはこれで、聴いて楽しいのだから、まったく文句はない。ドラマチックに戦闘的な音楽なりひびいたり、高らかに感情を歌い上げたり、おもいきり切ない郷愁をメロディに載せたり・・・ こんなショスタコーヴィチ。。。知って得するショスタコーヴィチだ。 |
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「黄金の山々」組曲 「馬あぶ」組曲 ヴォロチャーエフの日々 シナイスキー指揮 BBCフィルハーモニー管弦楽団 レビュー日:2005.7.9 |
★★★★★ ハワイアン・ギター映画音楽デビュー作!
シナイスキー&BBCフィルによるショスタコーヴィチの映画音楽集2。出来のよかった第1集に優るとも劣らない内容。 冒頭の「黄金の山々」の勇壮な高らかに鳴るファンファーレから聴き手はショスターコヴィチの世界へと誘われる。続く「ワルツ」で物憂げな美しい旋律を奏でるのはなんとハワイアン・ギターだ(なんでも映画音楽にこの楽器が用いられたのは世界初だそうだが、それがソ連映画なのだ!ショスターコヴィチがいてこその歴史だ)。この雰囲気は第三の男のチターの響きにも通じる。この組曲では映画で使用されたオルガンによるフーガが入っていないのが残念だが、それでも雰囲気・演奏の質ともこの上ない。 次いで馬あぶではあの有名な「ロマンス」を含む数々の美しい旋律、激しい慟哭などが聴ける。聴きどころ満点だ。また現在唯一の録音と思われる「ヴォロチェーエフの日々」も貴重だ。ここでは日本軍のシベリア出兵のシーンのBGMとして使われた「日本軍の攻撃」が聴きモノ。やや楽天的なマーチだが途中から加えられるトロンボーンの独特な効果で不安を煽る。 ショスタコーヴィチの映像音楽家としての才能と技量を存分に堪能し、純音楽的にも楽しめるアルバム。 |
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「ハムレット」組曲 「若き親衛隊」組曲より 第2、第4、第5楽章 「忘れがたき1919年」 「5日5夜」組曲 シナイスキー指揮 BBCフィルハーモニー管弦楽団 p: ロスコー レビュー日:2007.1.2 |
★★★★★ 上質なエンターテーメント性あるアルバム
ワシーリー・シナイスキー(Vassily Sinaisky)によるショスタコーヴィチの映画音楽シリーズ第3弾。いつも楽しませてくれるシリーズだが今回は中でも充実の出来栄え。まず、収録曲だが、「ハムレット」組曲、忘れがたき1919年~クラースナヤ・ゴールカへの攻撃、「五日五夜」組曲、「若き親衛隊」組曲から3曲となっている。オーケストラはBBCフィル。 収録時間は79分を超え、存分に堪能させてくれる内容だが、まずなんといっても映画音楽の傑作に挙げられる「ハムレット」が収録されているのが嬉しい。すさまじい緊迫感に支配されながら、鋭角的な旋律とリズムで壮大に描かれている。オーケストラも最高にノッている。映画音楽的分かりやすさがこの音楽への距離感を縮めてくれる。ちょっと「ロード・オブ・ザ・リング」のハワード・ショアのスコアみたいではないかしら?「忘れがたき1919年」はマーティン・ロスコー(Martin Roscoe)をソリストに向かえたチャイコフスキーもびっくりな壮麗なピアノ協奏曲に仕上がっている。「五日五夜」はオルガンを含む編成が魅惑的なサウンドを醸成しているし、ベートーヴェンの第九の旋律の思いっきりのいい使い方も映画音楽ならでは。「若き親衛隊」は3曲のみだが、終曲など、日本人の琴線に触れるようなメロディーに違いない。ショスタコーヴィチの音楽の奥深さも知れ、かつ上質なエンターテーメント性あるアルバムに仕上がった。 |
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アニメーション映画「司祭と下男バルダの物語」のための音楽 「ムツェンスク郡のマクベス夫人」交響組曲 ザンデルリンク指揮 ロシア・フィルハーモニー管弦楽団 Br: レイフェルクス B: ベロセリスキー S: ソローキナ 他 レビュー日:2007.3.14 |
★★★★★ 若きショスタコーヴィチの魅力が横溢
ショスタコーヴィチの生誕100年にあたる2006年、様々な新譜がリリースされて、この作曲家の様々な側面がさらに知れるようになった。中にあって、このアルバムなど、いずれも収録されたものは世界初録音と言えるものばかりで珍重この上ないものである。「司祭と下男バルダの物語」はプーシキンの戯曲に基づくアニメーション映画のために書かれた映画音楽であるが、結局、肝心の映画本編は完成されなかった(部分的には出来ていたそうだ)。しかし、その一方で、音楽だけはこれだけ充実したものが残ったというから、世の中、何がどう弾むかわかったもんじゃない。ショスタコーヴィチがこの映画音楽を書いたのはまだ20代のころで、それゆえ音楽には若々しいフィーリングが伝わってくる。なんといっても、この作曲家が様々な楽器を駆使して繰り広げる音色のマジックは、当代随一と言っていいものだったし、それゆえ、このような自由な束縛のない、「映画音楽」など、自分の才覚を発揮する格好の場だったのではないか。実際、登場する楽器の面白いこと。また加えられるナレーションや声楽の独特の皮肉を含んだユーモラスさ。そして華やいだ音楽に付き従うグロテスクなど、この作曲家の個性が思いっきり表出していると感じられる。併録されているムツェンスク郡のマクベス夫人からの交響組曲は、同名の歌劇から明るい曲をつないだ短い組曲で、闊達なリズムで生き生きと表現されている。歌劇は暗いが、この組曲なら親しみやすいのでは。演奏も技術水準が高く、安定感があり、問題ない。 |
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ショスタコーヴィチ ピアノ協奏曲 第1番 第2番 シチェドリン ピアノ協奏曲 第2番 p: アムラン リットン指揮 BBCスコティッシュ交響楽団 レビュー日:2006.1.15 |
★★★★★ ソ連が生んだ3つの名ピアノ協奏曲の鮮やかな快演
アムランの超絶技巧が楽しめる。ショスタコーヴィチの2曲のピアノ協奏曲に加えて、シチェドリンのピアノ協奏曲第2番を収録。オーケストラはリットン指揮のBBCスコティッシュ交響楽団だが、実はリットンはピアニストとしてもショスタコーヴィチをレパートリーにしている。 ショスタコーヴィチの2曲のピアノ協奏曲は、この作曲家の作品の中でももっとも華やかで「外向的」といえる作品。第1番は弦楽オーケストラと独奏トランペットとともに繰り広げられる一種のダブル・コンチェルトだ。アムランの乾いたソノリティが楽曲の縦線を明確にし、スピーディーに展開する曲想を楽しませてくれる。第2番はより本格的な協奏曲であるが、クライマックスの盛りあがりは小気味が良く爽快だ。オケの音がやや薄味な録音ながら、現代の代表的ショスタコ演奏例といえるスリムな響きが魅力的。 カップリングされたしシチェドリンは、スターリン以後のソ連の芸術家の苦悩を現代に伝える作曲家といえる。象徴的な苦悩の作曲家、ショスタコーヴィチとのカップリングが憎い。この曲も余禄に終わらせるのは惜しい佳作である。特に終楽章でオーケストラが突如、ジャズ・トリオのセッションに変って、ビヴラフォンとドラムスのリズムにのってピアノの音階が縦横無尽に炸裂するありさまは鮮やか!しかもまったく不自然さがない。 アムランはカプースチン作品でも抜群の相性を見せていたし、ここらへんはお手のものか。あっという間に終わる切れ味鋭いアルバムである。 |
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ピアノ協奏曲 第1番 第2番 ヴァイオリン・ソナタ p: メルニコフ vn: ファウスト tp: ベルヴァルツ クルレンツィス指揮 マーラー室内管弦楽団 レビュー日:2012.2.28 |
★★★★★ 現代ロシア・ピアニズムの存在感を示すメルニコフの快演
質の高いアルバムのリリースが続くアレクサンドル・メルニコフ(Alexander Melnikov 1973-)による2011年録音のショスタコーヴィチ Dmitrii Shostakovich 1906-1975)アルバム。収録曲は、テオドール・クルレンツィス (Teodor Currentzis 1962-)指揮マーラー室内管弦楽団のバックでピアノ協奏曲第1番と第2番。それにヴァイオリンにイザベラ・ファウスト(Isabelle Faust 1972-)を招いてのヴァイオリン・ソナタの3曲。ピアノ協奏曲第2番ではトランペット・ソロをベルギーのトランペット奏者、イェルン・ベルヴァルツ(Jeroen Berwaerts 1975-)が務めている。 メルニコフには2008-09年に録音したショスターコヴィチの24の前奏曲とフーガの素晴らしいアルバムがあった。今回は、やはりショスタコーヴィチの交響曲第14番で意欲的な録音(2010年)をリリースしたクルレンツィスとのコンビということで、私個人的にも俄然、注目のアルバムとなる。(しかもファウストとのヴァイオリン・ソナタまで収録!) さて、聴いてみての感想だが、期待に違わない、いや期待を上回る名快演だ。私は、ショスタコーヴィチの2曲のピアノ協奏曲が大好きで、それなりの数の録音を聴いてきたけれど、このメルニコフ盤は勇躍トップ争いに絡むに違いない録音だと思う。まず協奏曲第1番からオーケストラのストラヴィンスキー的とも言える色彩感が見事なのだが、その背景に見事に調和したピアノの活き活きとした表情が素晴らしい。ショスタコーヴィチは陰鬱な楽曲を多く書いた一方で、華やかでメロディアスな音楽も書ける人だった。その「陽性」の部分を思う存分解き放った軽快で流麗なスタイルが圧巻。また、「軽快」ではあるが、必要な場所では思い切ったペダリングでズシンとくるようなメリハリがあり、心地よい踏み外しを交えてどんどん聴き手の気持ちに切り込んでくる。 協奏曲第2番は、オーケストラが弦楽合奏と独奏トランペットのみという一風変わった編成であるが、こちらも心地よいスピード感が横溢したサウンドが素晴らしい。ベルヴァルツの柔らか味を保ちながら安定したトランペットも秀逸で、シックでスピーディーな展開に大きく貢献している。第2楽章ではメルニコフのピアニスティックな技術が様々に提示されていて、音楽に即した表現力、アピールに脱帽してしまう。 二つの協奏曲に挟まれる形でヴァイオリン・ソナタが収録されている。実は、演奏時間で言うと、このソナタが収録曲中最大の「大曲」となる。ヴァイオリン・ソナタは協奏曲と比べると、より現代的で、十二音技法なども取り入れているが、ショスタコーヴィチらしい野生的リズム感を持った深刻な諸相は、よりショスタコーヴィチの内面を照らし出す音楽だろう。ファウストとメルニコフは、鋭く切り込むような手法でダイナミックに作品を解釈している。ファウストの質感のある重音や、ヴァイオリンの板に強く響くピチカートも聴き応えがあるが、メルニコフのテクスチュアを鮮明に読み解くような、キレのあるピアニズムが見事の一語。総じて内容の詰まった素晴らしいアルバムになっている。 |
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ショスタコーヴィチ ピアノ協奏曲 第1番 第2番 シチェドリン ピアノ協奏曲 第5番 p: マツーエフ ゲルギエフ指揮 マリインスキー劇場管弦楽団 レビュー日:2015.10.30 |
★★★★☆ 豪奢な味付けを施したオーケストラをバックに繰り広げられる華やかなマツーエフのピアニズム
デニス・マツーエフ(Denis Matsuev 1975-)のピアノ、ワレリー・ゲルギエフ(Valery Gergiev 1953-)指揮、マリインスキー劇場管弦楽団の演奏による2009年録音のアルバム。以下の3曲を収録。 ショスタコーヴィチ(Dmitry Shostakovich 1906-1975) 1) ピアノ協奏曲 第1番 ハ短調 op.35 2) ピアノ協奏曲 第2番 ヘ長調 op.102 シチェドリン(Rodion Shchedrin 1932-) 3) ピアノ協奏曲 第5番 1)におけるトランペット・ソロはチムール・マルチノフ(Timur Martynov 1979-)。 マツーエフは2004年にもシチェドリンのピアノ協奏曲第5番を録音しており、その際は、ヤンソンス(Mariss Jansons 1943-)指揮、バイエルン放送交響楽団との共演だった。1999年に書かれたこの曲をすでに2度も録音したのだから、マツーエフには、この曲をより多くの人に知ってほしいという意思が強いのだろう。急緩急の全体構造を持つ作品を、多彩な技術を駆使して表現しており、特に金属的な響きをもたらす楽器たちと、打楽器的な用法で引き出されたピアノの音色が掛け合うところは興をそそるところだが、この作曲家の作品としては、人気を獲得できるという点ではやはり第2番に軍配があがるだろう。 やはりメインとなるのはショスタコーヴィチの2曲。これらの楽曲は、緊張感が支配す中で、様々なアイロニーを宿させたショスタコーヴィチの作品群の中にあって、軽やかな味わいで、かなり気軽に楽しく聴くことのできる音楽だろう。ここで、マツーエフは、実に華やかなタッチを繰り出し、軽妙かつダイナミックな表現で、華々しい演奏を繰り広げている。また、特筆したいのは、第1番でトランペット・ソロを担ったマルチノフのテクニックで、ピアノと対抗するかのような早いパッセージを、きわめて俊敏かつ活力豊かにこなしていて、ピアノの効果と併せて、とてもスリリングな音楽を形成している。 他方で、ゲルギエフの全体的な指揮には、私はやや重さを感じるところがある。これはゲルギエフが指揮したショスタコーヴィチ全般に言えるのだけれど、豪壮で華やかな色付けを施すことで、音楽の重量感や質感を増し、かつテンポで妥協をしない方法で独特の迫力を引き出すのだけれど、私はときおりこの表現手法に胃もたれするような感触を持つことが多い。ちょっと味付けを施し過ぎているというのだろうか。 だから、私の場合、当盤を聴いていても、オーケストラはもっと軽くやった方がいいように思うところもあるのだけれど、それはそれで「彼らのショスタコーヴィチ」ではなくなってしまうのかもしれない。もちろん、そんなゲルギエフとキーロフだからこその、ズシーンとくるような重みを、魅力と感じる人にはとてもいいのだろう。 そういうわけで、私はソリストたちの妙技に酔い、重量級のパフォーマンスを楽しんだのだけれど、これらの楽曲の録音としては、メルニコフ(Alexander Melnikov 1973-)、アムラン(Marc-Andre Hamelin 1961-)、第1番;ヤブロンスキー(Peter Jablonski 1971-)&第2番;オルティス(Cristina Ortiz 1950-)といった人たちのアルバムを、より強く推したい。 |
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ピアノ協奏曲 第1番 第2番 弦楽四重奏曲 第2番~第3楽章(ギルトブルク編ピアノ版) 第8番(ギルトブルク編ピアノ版) p: ギルトブルク ペトレンコ指揮 ロイヤル・リヴァプール・フィルハーモニー管弦楽団 レビュー日:2017.3.27 |
★★★★★ 衝撃的なショスタコーヴィチの新録音
イスラエルのピアニスト、ボリス・ギルトブルグ(Boris Giltburg 1984-)とワシリー・ペトレンコ(Vasily Petrenko 1976-)指揮、ロイヤル・リヴァプール・フィルハーモニー管弦楽団の演奏によるショスタコーヴィチ(Dmitri Shostakovich 1906-1975)の作品集。2016年録音。収録内容は以下の通り。 1) ピアノ協奏曲 第1番 ハ短調 op.35 2) 弦楽四重奏曲 第2番 イ長調 op.68~第3楽章「ワルツ」(ギルトブルク編ピアノ独奏版) 3) ピアノ協奏曲 第2番 へ長調 op.102 4) 弦楽四重奏曲 第8番 ハ短調 op.110(ギルトブルク編ピアノ独奏版) 1)のトランペット独奏はリーズ・オーウェン(Rhys Owens 1967-)。 ペトレンコは2008年から2013年にかけて、ロイヤル・リヴァプール・フィルハーモニー管弦楽団とショスタコーヴィチの交響曲全集を完成しており、そのシリーズの流れを踏まえての当盤の登場かと思うが、驚くべきは2002年サンタンデル国際ピアノ・コンクールで優勝したピアニスト、ギルトブルクの力量である。 私はこれまで、このピアニストの録音として、スクリャービンの第2ソナタ、プロコフィエフの第8ソナタを聴いたことがあり、熱とクールの両面を、巧みに音楽の中で組み合わせるピアニストだと感じてきたが、当盤で示されたショスタコーヴィチの充実は、それをさらに上回るものだった。 しかも、当盤にはギルトブルクによってピアノ独奏版に編曲された弦楽四重奏曲が2編収録されている。この編曲がまず面白い。第2番からは安定せず、不気味さの漂うワルツが取り上げられているが、ピアノ曲として過不足のない響きになっている。いかにも難しそうなのは第8番の編曲である。特に弦楽器特有の長い持続音を持った両端楽章が至難に思われたのだが、ギルトブルクはペダルの効果を巧みに使い、原曲の雰囲気を損なうことなく描き出すことに成功している。また、中間2楽章では、逆にピアノならではのスナップの効いた音色を用い、この名作から、新たな印象を呼び覚ますことにも成功しており、編曲のポジティヴな効果を実感できる優れた内容となっている。 2曲の協奏曲では、色彩感覚に鋭敏な反応性があって楽しい。この2曲の協奏曲を表現するのに必要な敏捷性と力強さを十分に備えているだけでなく、感情表現にも卓越した冴えがある。両曲の終楽章の機敏な運動美が圧巻だが、第1協奏曲では、同オーケストラ主席奏者であるオーウェンのトランペットも冴えており、特に低音の節回しが鮮やか。第2協楽章のロマンティックな情緒はピアノ、オーケストラの一体感によって高められている。第2協奏曲の第1楽章のクライマックスは、ペトレンコとロイヤル・リヴァプール・フィルハーモニー管弦楽団の卓越した表現力、弦の幅広く輝かしい響きが端的に示されている箇所として特筆したい。それにしてもピアノとオーケストラの、瞬時も揺るがない有機的な連携は見事。かつ美麗な録音がこれを極上のものとして聴き手に届けてくれる。 以上の様に、ペトレンコの優秀なショスタコーヴィチ・シリーズの一環というだけでなく、ギルトブルクの才覚によって多面的な価値のもたらされたアルバムであり、他に名演・名録音の多い協奏曲においても、ひときわ大きな存在感を放つ録音であると感じられた。ギルトブルクの今後の活動にも注目したい。 |
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ピアノ協奏曲 第1番 室内交響曲(バルシャイ編 原曲:弦楽四重奏曲 第8番) p: ドミトリー・ショスタコーヴィチJr tp: トンプソン マキシム・ショスタコーヴィチ指揮 トゥロフスキー指揮 ムジチ・ドゥ・モントリオール レビュー日:2009.11.7 |
★★★★☆ ショスタコーヴィチ一族によるアルバムです
ピアノ独奏はドミトリ・ショスタコーヴィチ・・・といっても作曲者の自作自演ではない。同姓同名であるが、ここでピアノを弾いているドミトリは作曲者の孫である。また、ピアノ協奏曲第1番を指揮しているのは、ピアニスト・ドミトリの父でマキシム・ショスタコーヴィチである。 というわけで、当盤の収録内容は以下の通り。 (1) ショスタコーヴィチ(父) ピアノ協奏曲第1番 p: ドミトリ・ショスタコーヴィチ(孫) マキシム・ショスタコーヴィチ(子)指揮 ムジチ・ドゥ・モントリオール トランペット・ソロ:ジェームス・トンプソン (2) ショスタコーヴィチ 室内交響曲 (バルシャイ編による弦楽四重奏曲第8番の弦楽合奏版) ユーリ・トゥロフスキー指揮 ムジチ・ドゥ・モントリオール 私も、実はこれらの演奏家の他の録音をほとんど聴いていない。マキシム・ショスタコーヴィチはときどき協奏曲の指揮者として登場するけれど、あまり録音活動が日本まで伝わってこないというのが実情。 しかし、これらの演奏はなかなかいい内容である。決して血が良演の条件というわけではないけれど、非常にクールに研ぎ澄まされたタッチだと思う。ピアニスト・ドミトリは鋭角的なタッチが武器で、それほど美音の持ち主という感じではないが、この曲の荒ぶる面をよく描いている。マキシムの指揮は、ところどころ粗い音色はするものの、必要な情感はきちんと引き出していて、音楽の流れは生命力を持っている。トンプソンのトランペットの響きもなかなか生々しい。 室内交響曲は、バルシャイによって編曲されたものであるが、すでに多くの録音が出ていて、すでに立派なレパートリーになっている。トゥロフスキーの演奏が中でも際立っているというわけではないが、特有の泥臭さを感じさせる面で、現代ではあまり聴かれない質感を漂わせている。ちょっと音色がキツイ感じもするが、迫力があるとも言えるだろう。 |
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ショスタコーヴィチ ピアノ協奏曲 第1番 モーツァルト ピアノ協奏曲 第17番 p: ボジャノフ シュルツ指揮 バイエルン放送室内管弦楽団 tp: ロイビン レビュー日:2018.7.17 |
★★★★★ これは楽しい!ボジャノフがソリストを務めた協奏曲の面白さ!
2010年に開催されたショパン国際ピアノ・コンクールで第4位に入賞したブルガリアのピアニスト、エフゲニ・ボジャノフ(Evgeni Bozhanov 1984-)によるライヴ収録された2曲の協奏曲を収録したアルバムがリリースされた。 1) モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791) ピアノ協奏曲 第17番 ト長調 K.453 2) ショスタコーヴィチ(Dmitrii Shostakovich 1906-1975) ピアノ協奏曲 第1番 ハ短調 op.35 ラドスワフ・シュルツ(Radoslaw Szulc)指揮、バイエルン放送室内管弦楽団との共演。ショスタコーヴィチのトランペット独奏はハンネス・ロイビン(Hannes Laubin 1958-)。2016年、ミュンヘンのプリンツレーゲンテン劇場における録音。 ボジャノフという面白い存在のピアニストのことを以前から気にかけて何度かレビューも書いてきたが、このたびは初めて協奏曲の演奏を聴くことが出来た。これがまためちゃくちゃに面白い。2曲が鳴っている間、とにかく楽しくて、私はあっと言う間に聴き通したような気がした。 まず、モーツァルト。開始と同時にただちに一つの特徴が明瞭となる。すなわち、オーケストラによる導入部から、すでにピアノが入ってくるのである。さながら、それこそモーツァルトの時代の通奏低音の様に。しかもボジャノフが操るのは、音彩豊かな現代の楽器である。現代ピアノの音響を用いたがゆえの、創造性に満ちた響きがあちらこちらで生まれて、ただちに聴き手を楽しませてくれる。私はこれを聴いて、グルダ(Friedrich Gulda 1930-2000)が、時々モーツァルトの協奏曲で、同じような遊び心に満ちた演出を繰り広げていたことを思い出す。グルダにしろ、ボジャノフにしろ、これはある意味即興的・感覚的な試みで、やりようによっては、華美に過ぎたり、聴き減りしたりしてしまう危険性もあるのだけれど、ボジャノフのコントロールはグルダ以上と言いたいほどに巧妙で、強弱を細やかにコントロールし、滋味さえ感じさせる音響をオーケストラと作り上げていく。そして本来のソロ・パートでは、これまた、装飾性豊かで、跳ねるように生命感に満ちたリズム、鮮やかな音色によって、私たちを楽しませてくれるのである。なんとカラフルで幸せなモーツァルト。もし、「ピアノ協奏曲第17番」という楽曲に、地味なイメージをお持ちの方がいたら、当盤はそれを一新してしまう可能性に満ちている。 ショスタコーヴィチも楽しい。この外向的な軽妙さを湛えた楽曲に、ボジャノフはスリリングなインパクトと多彩な音色を用いて、とにかく「ノリの良い」演奏に仕上げる。あちらこちらで畳みかけるような演奏効果がさく裂し、鮮やかな絵巻が繰り広げられる。特に第3楽章の光沢あるピアノのタッチによる導入から描かれる透明な情感と、引き続く第4楽章で、名手ロイビンのトランペットとピアノ・ソロの圧倒的なやりとりは、極め付けといって良い楽しさだ。 両曲におけるシュルツ指揮のオーケストラも、特に管楽器陣の美しさが見事で、ソリストの描く魅力的な世界を、見事にサポートしている。 |
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ヴァイオリン協奏曲 第1番 第2番 vn: モルトコヴィチ ヤルヴィ指揮 スコティッシュ・ナショナル管弦楽団 レビュー日:2009.11.7 |
★★★★★ ショスタコーヴィチの2曲のヴァイオリン協奏曲を収録した名演
ショスタコーヴィチが書いた2曲のヴァイオリン協奏曲を併せて収録。ヴァイオリン独奏はリディア・モルトコヴィチ。ヤルヴィ指揮スコティッシュ・ナショナル管弦楽団の演奏。録音は1989年。 ショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲第1番は1948年の作品でジダーノフ批判の対象となったころ、また第2番は1967年の作品で雪解け後の作品だ。ショスタコーヴィチの作品の場合、冷戦構造を通した政治的視点が云々される場合が多いが、ショスタコーヴィチの音楽の難渋な一面は言うまでもなく、とかくまず作曲者の個性でもある。傑作として知られる第1番の方が演奏機会は多く、独特の情念がとぐろを巻くような楽想は印象的である。他方第2番はやや簡素な後期の作風を示す。 リディア・モルトコヴィチはオイストラフの弟子だそうである。オイストラフは作曲者と親交が深く、その作品にも助言を与えたり、初演を行ったりしている。モルトコヴィチの音色はなるほどオイストラフを思わせるところがある。とくに低音部の逞しい鳴りっぷりが凄い。ショスターコヴィチの曲にこのような野太い情感が潜んでいたのかと感服する。たっぷりとした響きが聞けるカデンツァも印象深いし、ところどころで聴かれる即物的ともいえる物憂いピチカートの雰囲気もとてもよい。 ヤルヴィとスコティッシュ・ナショナル管弦楽団の演奏も良い。それにしてもヤルヴィの守備範囲は広い。シャンドスへの一通りの録音で、もう振ったことのない曲を探す方が大変なのではないかと思うほどだ。学究的とも言えるマジメなスタンスながら、ここぞというときにオーケストラから引き出す切迫感を表出させる技量がある。モルトコヴィチとの相性もとても良く思える。 |
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ショスタコーヴィチ ヴァイオリン協奏曲 第1番 「7つの人形の踊り」から「抒情的なワルツ」(編:タマーシュ・バティアシヴィリ) カンチェリ ヴァイオリン、弦楽合奏とテープのための「V&V」 ペルト 鏡の中の鏡 ラフマニノフ ヴォカリーズ vn: バティアシヴィリ サロネン指揮 バイエルン放送交響楽団 p: グリモー レビュー日:2011.4.25 |
★★★★★ 暖かい低音が印象的なバティアシヴィリによる20世紀作品集
リサ・バティアシヴィリ(Lisa Batiashvili)は1979年グルジア出身のヴァイオリニスト。1995年ジャン・シベリウス国際ヴァイオリンコンクールで優勝。BBCが1999年から2001年にかけて選出した「次世代芸術家」の1人。2006年にはマグヌス・リンドベルイ(Magnus Lindberg 1958- )のヴァイオリン協奏曲の世界初演を担うなど、現代のヴァイオリニストとして注目すべき活動を行っている。当盤は、「時の谺」というタイトルで20世紀の作品を集めたバティアシヴィリらしいアルバムと言える。 収録曲は (1) ショスタコーヴィチ ヴァイオリン協奏曲第1番 (2) カンチェリ(Giya Kancheli 1935-) ヴァイオリン、弦楽合奏とテープのための「V&V」 (3) ショスタコーヴィチ 組曲「人形の踊り」から から「抒情的なワルツ」(編:タマーシュ・バティアシヴィリ) (4) ペルト(Arvo Part 1935-) 鏡の中の鏡 (5) ラフマニノフ ヴォカリーズ (1)~(3)はエサ=ペッカ・サロネン指揮、バイエルン放送交響楽団がバックを務め、(4)と(5)はエレーヌ・グリモーのピアノ。録音は2010年。 ヴァイオリンの密やかな耽美性を満喫できる優れたアルバムだ。わざわざ「密やかな」と書いたのは、ここで表出される耽美性が、このヴァイオリニストの本来的な狙いとはちょっと異なった感想かもしれないと思ったら。つまり、バティアシヴィリは低音の音量が豊かで、コントロールに幅があるため、この領域から情感をあぶり出し、ほの暗くも暖かな雰囲気を表出していて、その基盤の上に音楽を築き上げているように思うからだ。そのようなスタイルで導かれる印象が、私にはたまたま耽美的に思えた、ということ。 メインのショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲で感心したのは、抜群に第1楽章である。このヴァイオリニストのやりたい世界というのがとてもよく判る。悲しくも重い楽想でありながら、暖かい脈打つような音楽の情感に満ちていて、刻々と迫るように満ちるように情感を湛えていく。そうしたエネルギーの蓄積と放散の過程が見事で、音楽全体が力に満ちている。この楽曲ではサロネンの好サポートも言及すべきだろう。メタリックでありながら、無機的ではない知的なドライヴだ。 その他、やはりグルジアの作曲家であるカンチェリ作品への共感溢れるロマンティシズムも見事。またペルトの「鏡の中の鏡」はボーダレス音楽風で、ピアノの高音のゆったりとした3連音のモノローグをバックに、ヴァイオリンが歌うのが印象的。いかにも夜の音楽といった雰囲気に満ちている。いずれも調性的で馴染み易い楽曲とも言えるだろう。 |
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ショスタコーヴィチ チェロ協奏曲 第1番 リドストレム リゴレット・ファンタジー vc: リドストレム アシュケナージ指揮 オックスフォード・フィルハーモニー管弦楽団 レビュー日:2018.6.1 |
★★★★★ リドストレムとアシュケナージが久々に共演した「協奏曲録音」は、再び見事な内容に仕上がっています。
マッツ・リドストレム(Mats Lidstrom 1959-)のチェロ、アシュケナージ(Vladimir Ashkenazy 1937-)指揮、オックスフォード・フィルハーモニー管弦楽団による魅力的なアルバムがリリースされた。収録曲は以下の2曲。 1) リドストレム リゴレット・ファンタジー 2) ショスタコーヴィチ(Dmitri Shostakovich 1906-1975) チェロ協奏曲 第1番 変ホ長調 op.107 2016年の録音。 リドストレムとアシュケナージの共演としては、1995年にやはりBISレーベルからリリースされたハチャトゥリアンとカバレフスキの協奏曲を収めたものがあるほか、2012年には、DECCAにラフマニノフのピアノ三重奏曲集を録音しており、いずれも見事な内容だった。当盤も当然のことながら素晴らしい。 ところで、収録されたリドストレムによる「リゴレット・ファンタジー」という楽曲について、まずは解説したい。これはヴェルディ(Giuseppe Verdi 1813-1901)の名作、歌劇「リゴレット」から有名な旋律やフレーズ、全11か所を集めて、独奏チェロと管弦楽のための、演奏時間30分程度のピースに編曲したものだ。その11の場所を書くと以下の通りとなる。 1) 序曲と公爵のアリア「あれかこれか」 2) 慕わしい名前、私の心を(ジルダ) 3) いつも日曜日に教会で(ジルダ) 4) 娘よ!お父様!(リゴレットとジルダの二重唱) 5) 皆で町外れを行きますと(合唱) 6) 女心の歌(公爵) 7) 聞く意味はないだろう?(リゴレット) 8) 悪魔め鬼め(リゴレット) 9) 旦那様たちよ・・・ご容赦を、お慈悲を・・・(リゴレット) 10) 孤独で、奇形で、惨め(リゴレット) 11) 無謀にも宴を妨げし者よ(公爵) まず、この編曲が良くできていて、とても楽しい。「慕わしい名前、私の心を」「女心の歌」「悪魔め鬼め」のような有名な旋律が続々と出現し、管弦楽と息の合ったチェロがこれを存分に歌いあげながら、スピーディーに場面が切り替わっていく。この作品を聴いていると、この規模に収まった純器楽曲だからこそ聴きやすく馴染みやすい、という要素が多々感じられ、とても楽しめる。各パーツのつながりも不自然さはなく、とても心地よい。アシュケナージの指揮するヴェルディのメロディーというのも新鮮だが、それがとてもスマートに繰り出される様を聴いていると、その思わぬ適性に、耳をそばだててしまうことも頻りだ。この楽曲、ほかのチェリストも思わず弾いてみたくなるくらいに魅力いっぱいだと思うのだけれど、どうだろうか? され、そのあとにショスタコーヴィチのチェロ協奏曲第1番となる。1959年にこの曲が書かれたときはフルシチョフ(Nikita Khrushchev 1894-1971)の時代ではあったが、それでもソビエト連邦作曲家同盟の前での試演は緊張したもので、その場に居合わせた20代前半だったアシュケナージは、その緊張感を今も強く覚えているという。そんなアシュケナージだけに、相応の思いのある1曲にはちがいないが、ここではショスタコーヴィチらしいリズムと線で構成された楽想を、ことに両端楽章でキビキビと描いていく様が印象的。第2楽章は、彼の名交響曲群を思わせる、沈むような情緒が印象的だが、これも鮮明な墨絵のような音感で描き切っている。チェロの安定感も見事で、とにかくいつも音が美しくかつ緊張感をたたえて鳴っている。難所として知られる第3楽章のカデンツァも、ほの暗い情感を冷ややかな怜悧さを併せて感じさせるシャープな響きで締めており、十全な内容だ。 この作品にふさわしい雰囲気を存分にたたえた名演といって良い。 |
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ピアノ五重奏曲 ブローグの詩による7つの歌 弦楽四重奏のための二つの小品 p: アシュケナージ フィッツウイリアム弦楽四重奏団 S: ゼーダーシュトレーム レビュー日:2009.9.19 |
★★★★★ 録音時から色褪せないショスタコーヴィチのピアノ五重奏曲
2006年はショスタコーヴィチの生誕100年となるアニーヴァーサリー・イヤーである。しかし上半期はなかなかこれはという企画がなく、モーツァルトの生誕250年にすっかり飲み込まれている状況であった。 しかし、ここにきてユニヴァーサル・レーベルがいくつか意欲的な新譜を出してきている。歓迎したい。 室内楽で注目されるのがハーゲン弦楽四重奏団による10年ぶりのショスタコーヴィチとなる当盤である。最近次々と充実した録音をリリースしている彼らの新譜だけに注目度は高い。 ショスターコヴィチの弦楽四重奏曲は全部で15曲(交響曲と同じ数)あるが、なかなかその筋のファンにはこたえられない楽曲がそろっている。 当盤を聴いてみる。第3番は演奏時間が30分に及ぶ長い曲だが、ここでは作曲者の独特のユーモラスなしぐさ、不思議な可愛らしさが聴ける。弦による表情づけがおもしろく、その様が時折、深く暗いものを湛える瞬間があり、はっとする。それでも1楽章の末尾のこの作曲家ならではの「軽み」も十分に効果的に仕上がっている。 第7番は10分程度の小曲だが、的確に整えられている。 第8番は交響曲に匹敵する主題を持った作品で、最も有名なものだが、ここでの深刻な諸相は実にスケール大きく表現されている。第2楽章の過渡期的で、しかし非常にダイナミックな音楽が、きわめて雄弁に響いている。弦の軋む迫力が伝わってくる。第4楽章の深い悲しみの瞑想のラルゴも美しい限り。さて、ぜひともこのアニヴァーサリー・イヤーには、さらなる旧譜復刻などをユニヴァーサルには期待したい。 |
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ピアノ五重奏曲 弦楽四重奏曲 第2番 タカーチ四重奏団 p: アムラン レビュー日:2016.7.30 |
★★★★★ 真摯で内省的な語り口が深淵に誘うタカーチのショスタコーヴィチ
タカーチ四重奏団<第1ヴァイオリン;エドワード・ドゥシンベル(Edward Dusinberre 1968-)、第2ヴァイオリン;カーロイ・シュランツ(Karoly Schranz 1952-)、ヴィオラ;ジェラルディン・ウォルサー(Geraldine Walther 1951-)、チェロ;アンドラーシュ・フェイェール(Andras Fejer 1955-)>によるショスタコーヴィチ(Dmitri Shostakovich 1906-1975)の以下の2つの室内楽作品を収録。 1) 弦楽四重奏曲 第2番 イ長調 op.68 2) ピアノ五重奏曲 ト短調 Op.57 2)では、マルカンドレ・アムラン(Marc-Andre Hamelin 1961-)のピアノが加わる。2014年の録音。 最終的に交響曲と同数の15曲もの弦楽四重奏曲を書いたショスタコーヴィチであるが、このジャンルへの進出は遅く、第1番を書いたのが、革命交響曲の翌年の1938年、当盤に収録された第2番を書いたのは、交響曲第8番の翌年の1944年のこととなる。また、ピアノ五重奏曲が書かれたのは1940年のことであり、いずれにしても、この作曲家が充実した創作活動を行っている真最中であると同時に、大戦の暗い影が、様々に影響を及ぼしていた時期でもある。 名作として知られるピアノ五重奏曲は、当時からスターリン賞を受賞するなど、賞賛を得た作品。ここではショスタコーヴィチのバッハ(Johann Sebastian Bach 1685-1750)研究に基づく新古典主義的要素と、ショスタコーヴィチ特有のダークな感情表現が結びついている。特に第2楽章のゆったりとしたフーガはその象徴ともいえる。4つの弦楽から始められる4声のフーガが描き出す様々な表情が見事だ。 私がこの曲に親しんだのはアシュケナージ(Vladimir Ashkenazy 1937-)とフィッツウィリアム弦楽四重奏団による1983年録音の名盤で、その演奏を、FM放送のエアチェックで聴いた私はたちまち虜になったのを覚えている。それは強烈な色彩感と迫力に満ちた演奏だった。 その一方で、アムランとタカーチ四重奏団による当録音は、ずっとシックで内省的な色合いを感じさせる。粘りの効いた弦楽器の響きと、俊敏なリズム感とアクセントを持ったピアノが、精緻に楽曲の内面的な要素を掘り込んでいく。色彩のパレットは、アシュケナージ盤のような広がりはないが、必要なものは揃っており、クライマックスであっても不足を感じさせない。時として、かなり遅いテンポを取る部分もあるが、聴いていて、そのような解釈もあるという説得力を持っている。 弦楽四重奏曲は、この第2番という規模の大きい作品が、退廃や諦観といった感情にいかに強い働きかけを持っているかを示す演奏で、ピアノ五重奏曲で繰り広げられたある意味内向的な志向性が、合理的に作用している。そのため、このアルバム全体のイメージは、特有の暗さが漂うのであるが、これらがそのような芸術作品であるという真摯で辛口な彼らの語りかけには、強いメッセージ性を感じるのである。 これもまた、ショスタコーヴィチの室内楽作品がもつ、重要な要素に違いない。 |
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ピアノ五重奏曲 弦楽四重奏曲 第3番 ベルチャ四重奏団 p: アンデルジェフスキ レビュー日:2018.5.17 |
★★★★★ ベルチャ四重奏団初のショスタコーヴィチ。アンデルジェフスキとの共演も注目。
1994年に結成されたベルチャ四重奏団は、ルーマニアのヴァイオリニスト、コリーナ・ベルチャ(Corina Belcea-Fisher 1975-)を中心に、現在、スイスのヴァイオリニスト、アクセル・シャッハー(Axel Schacher 1981-)、ポーランドのヴィオラ奏者、クシシュトフ・ホジェルスキー(Krzysztof Chorzelski 1971-)、フランスのチェリストアントワーヌ・ルデルラン(Antoine Lederlin 1975-)の4人からなるなかなか国際色豊かなメンバー構成を持っている。 これまで、ベートーヴェン、ブラームス、バルトーク、ブリテンの全弦楽四重奏曲を録音し、おおむね高い評価を得ているが、このたびはじめてショスタコーヴィチ(Dmitri Shostakovich 1906-1975)の室内楽を録音した。収録されたのは以下の2曲。 1) ピアノ五重奏曲 ト短調 op.57 2) 弦楽四重奏曲 第3番 ヘ長調 op.73 1)では、世界的ピアニスト、ピョートル・アンデルジェフスキ(Piotr Anderszewski 1969-)との共演ということでも注目される。2017年の録音。 ピアノ五重奏曲と弦楽四重奏曲第3番は、ともにショスタコーヴィチの室内楽ジャンルを代表する作品といって良く、しかもどちらの楽曲も5楽章構成となっており、好一対の組み合わせと言えるだろう。 ベルチャ四重奏団は、これらの楽曲の性格的なものを、鋭い感覚で描き出している。特に弦楽四重奏曲第3番は、ショスタコーヴィチが戦争三部作を手掛けていたころの重厚さと、この作曲家特有のダークな皮肉や愉悦といったものが、巧妙に引き出されている。音色に鋭さがあって、ところによって、耳に伝わる響きに刺々しいものが感じられるが、そのことが全体としてはコントラストとして効いている。 特に荒々しい粗暴を見せる第3楽章が印象的で、強烈に放つような合奏連音から、力強く一気に推進する様は、ショスタコーヴィチ特有の息巻くような線が織りなす音楽の迫力を形成していて、圧倒的だ。これに続く第4楽章の深い悲しい色合いに満ちたアダージョとなっており、交響曲を思わせる多様で重層的な音楽表現に満ちている。この作品の「凄み」を味わわせてくれる演奏といって良い。 ピアノ五重奏曲は、ショスタコーヴィチの作品群の中では外向的な性格を持っている。私がこの曲で大好きなのは、アシュケナージ(Vladimir Ashkenazy 1937-)とフィッツウィリアム四重奏団による名演で、それはとにかく勢い豊かに一気果敢に攻め切ったような豪演だったのだが、この演奏は、アンデルジェフスキというピアニストの性向もあって、ずっと内向的な力の作用する部分が増えた解釈といって良い。 もちろん、音楽としては華やかであったり、舞曲的であったりするのであるが、その落ち着くところというのが、つねにどこか内側に向かうようなまとまりを求めていて、どこかから抑制の力が働いてくる。その結果、どこか禁欲性を感じさせる細やかさが漂う。ソノリティが美しいため、聴かせる演奏ではあるが、この演奏をどう感じるかは、聴き手がこの曲になにを求めるかで、だいぶ印象が異なるかもしれない。 |
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弦楽四重奏曲 第2番 第7番 第8番 パヴェル・ハース四重奏団 レビュー日:2019.11.20 |
★★★★★ 圧倒的で輝かしいショスタコーヴィチ。パヴェル・ハース四重奏団による現代の名演。
CD収集をしていて、毎年、何度か「これは凄い!」というものに巡り合うのだけれど、そんな私にとって、当盤は、疑いもなく、2019年を代表するものの一つ。私見では、現代最高の弦楽四重奏団であるパヴェル・ハース四重奏団による、ショスタコーヴィチ(Dmitri Shostakovich 1906-1975)の作品集。以下の3曲が収録されている。 1) 弦楽四重奏曲 第2番 イ長調 op.68 2) 弦楽四重奏曲 第7番 嬰ヘ短調 op.108 3) 弦楽四重奏曲 第8番 ハ短調 op.110 2019年録音。録音時のパヴェル・ハース四重奏団の団員は以下の通り。 第1ヴァイオリン: ヴェロニカ・ヤルツコヴァ(Veronika Jaruskova) 第2ヴァイオリン: マレク・ツヴァイベル(Marek Zwiebel) ヴィオラ: イジー・カバート(Jiri Kabat) チェロ: ペテル・ヤルシェク(Peter Jarusek) 第2ヴァイオリンとヴィオラにメンバー交代があったが、この四重奏団の特徴はきちんと引き継がれており、パワフルな音量、輝かしい音色、そして明晰な解釈で、ショスタコーヴィチのこれらの楽曲から、新鮮な魅力を引き出している。 弦楽四重奏曲第2番、冒頭から自信に満ち溢れた輝かしい響きが全体を覆う。それはショスタコーヴィチが芸術作品に込めたといわれるアイイロニーやメッセージ性を考慮すると、人によってはあまりに純音楽的過ぎると感じられるかもしれない。しかし、私は、この演奏を聴いた瞬間に、ショスタコーヴィチの「作曲家としての天才性」が、目の前で余すことなく開闢されたような感激を覚えた。なんと素晴らしい音楽だろう、と。当盤では、第2楽章の階層性を踏まえた展開の鋭さも見事ながら、第3楽章の緻密な迫力にも驚かされる。クレッシェンドはこの上なく激しく、そして美しい。そして、終楽章の高音の素晴らしさ。時として、弦楽器が奏でる強高音は、不快な成分を含まざるをえないのであるが、これほど高く強く美しい合奏音、それも音楽的整合性を一瞬も失わない音色というのは、録音芸術でもめったに聴けないものではないだろうか。 弦楽四重奏曲第7番は、ショスタコーヴィチがこのジャンルで書いたもっとも小規模な作品であるが、この演奏ではなんといっても第1楽章のピチカートの存在感が聴きどころだ。そして構成感に満ちたアンサンブルは、その統率性をたゆませることなく、全曲を引き締めたものにしている。 このジャンルの代表作として知られる第8番は、近年ではバルシャイ(Rudol'f Barshay 1924-2010)による室内オーケストラ版で広く知られるようになったが、パヴェル・ハースによる演奏は、室内オーケストラ版にもまけない雄弁さと、弦楽四重奏ならではの厳粛さを併せ持った名演と言えるだろう。線的な処理がもたらす躍動感とともに、ショスタコーヴィチならではの緊張の持続が、圧倒的といいたいほどの完成度で示されている。人によっては息詰まるほどかもしれないが、私はこの演奏を聴いて、たいへん興奮した。 もちろんボロディン四重奏団に代表される「シニカルさ」の解釈を提言した名演も知られるショスタコーヴィチの楽曲たちであるが、純音楽的アプローチで、ショスタコーヴィチの音楽そのものを描き切った名演として、私にはこのパヴェル・ハースの演奏こそ、現代を代表するものにふさわしいように感じられる。 |
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弦楽四重奏曲 第3番 第7番 第8番 ハーゲン弦楽四重奏団 レビュー日:2006.7.24 |
★★★★★ 生誕100周年の年にふさわしい室内楽のアルバム
ショスタコーヴィチの「弦楽四重奏のための二つの小品」「ブローグの詩による7つの歌」「ピアノ五重奏曲」の3曲を収録。演奏はフィッツウイリアム弦楽四重奏団、アシュケナージ(ピアノ)、ゼーダーシュトレーム(ソプラノ独唱)。録音は「弦楽四重奏のための二つの小品」のみ1986年で、他の2曲は1983年。 私が音楽を聴き始めたころ、FM放送から奏でられたショスタコーヴィチのピアノ五重奏曲を始めて聴いて、大変に感動したのだが、それがこの演奏である。ショスタコーヴィチの数ある曲の中でも外的な演奏効果と、内省的な深遠さを強く感じ取れる名曲として、この曲ははじめに指折りたい作品だ。さて、このかつて私が感動した演奏であるが、いま聴いてみてもアシュケナージ、フィッツウイリアム弦楽四重奏団ともにショスタコーヴィチの作品に深く共鳴し、音楽を強く鳴らしきった充実した響きに満ちているのが素晴らしい。そのスケールの大きな響きは「室内楽」というカテゴリに属しながら、巨大な交響詩に匹敵するようなポテンシャルを持っている。アシュケナージのピアノはもちろん素晴らしい音色であるし、それを統御しながら他の楽器と瞬時に調和して帰結させる感性は、この作品の「名曲性」を証明してくれる。 「ブローグの詩による7つの歌」は独唱にピアノ三重奏が編成を変えながら伴奏をする(最初の3楽章は各楽器のソロが伴奏となる)珍しい作品。ここれもアシュケナージの決然たるピアノがショッキングで、いよいよショスタコーヴィチの本質を聴いていると思わせてくれる。この曲にはボザール・トリオとロジャースによる2005年録音の名演もあるので、聴き比べても楽しい。当盤の特徴はやはりアシュケナージのピアノの音による部分が大きいと思う。 「弦楽四重奏のための二つの小品」は録音が珍しい作品。ショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲を全曲録音したフィッツウイリアム弦楽四重奏団の卓越したテクニックでなかなか良く響いている。 |
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ピアノ三重奏曲 第1番 第2番 ブローグの詩による7つの歌 ボザールトリオ S: ロジャース レビュー日:2006.8.6 |
★★★★★ たしかな重みのある内容をともなったアルバムです
2006年はショスタコーヴィチ生誕100年のアニヴァーサリー・イヤーだが、ここにまた一つ注目すべき録音がリリースされた。 ボザール・トリオによるピアノ三重奏曲集である。ショスタコーヴィチはピアノ三重奏曲を2曲書いている。比較的若いころの作品である第1番は作曲者の死後に発表されたもの。名作の呼び声高いのが第2番だ。そして、それと別にもう一つ「ピアノ三重奏の伴奏による歌曲」という珍しい編成の作品がある。それがこのアルバムに収録されている「ブロークの詩による七つの歌」だ。 ピアノ三重奏曲第1番は古典的な作品で、ここではチャイコフスキー、アレンスキー、ラフマニノフといったロシアピアノ三重奏曲の流れを垣間見ながら、暗めの楽想が推移していく。ピアノの物憂げな和音に導かれて奏でられる弦楽器の音色は冬の北国の空の灰色を帯びる。 第2番はロストロポーヴィチの助言によりスコアが完成した問題のチェロパート(第1楽章)が聴きモノだが、さすがにベテランのトリオだけあって、非常にしっくりいっている。終楽章の激しいピッチカートとピアノのやりとり(いわゆるユダヤの旋律)も的確に奏でられる。この曲は親友の死によるインスピレーションが交えられ、その「陰り」も適度に表出している。交響曲ばりの深さと完成度を誇る音楽であることを実感できる演奏だ。 「ブロークの詩による七つの歌」・・1曲目はチェロのみ、2曲目はピアノのみ、3曲目はヴァイオリンのみ、4曲目はピアノとチェロ、5曲目はピアノとヴァイオリン、6曲目はヴァイオリンとチェロ、7曲目はピアノトリオが伴奏になるという順列組み合わせの構成となっている。ここでは抑圧と虚無といった感情が交錯し、「死者の歌」にも通ずる晩年の退廃的な音楽が聴かれる。ジョーン・ロジャースのソプラノも、曲の雰囲気によく合っている。決して気楽に聴ける音楽ではないが、たしかな重みを感じさせてくれるアルバムだ。 |
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ショスタコーヴィチ ピアノ三重奏曲 第1番 第2番 シュニトケ ピアノ三重奏曲 p: F.ケンプ vn: バンセー vc: シャウシヤン レビュー日:2010.4.3 |
★★★★★ 近現代ソヴィエトのピアノ三重奏曲像を克明に描写
ケンプ・トリオ(p: レディ・ケンプ、vn: ピエール・バンセー、vc: アレクサンドル・シャウシヤン)によるショスタコーヴィチのピアノ三重奏曲第1番・第2番とシュニトケのピアノ三重奏曲。2004年の録音。 ケンプ・トリオにはチャイコフスキーとラフマニノフ、それにベートーヴェンの録音があるので、当盤で3枚目のディスクとなる。若々しいスマートさと、抑制された美観、鋭角的なサウンドが特徴だ。 ショスタコーヴィチは20世紀にあって、マジメに「古典的編成」の楽曲を多数残した作曲家で(独自の編成の作品もあるが)、多作家でもあった。室内楽の分野でも「ピアノ三重奏曲」を2曲遺した。中でも傑作として知られるのが第2番で1944年の作品である。 かの有名なピアノ五重奏曲が1940年の作品で、軽妙な交響曲第9番が1945年の作品であるから、充実した新古典主義的作風を発揮したころの作品と言える。第2楽章の躍動感はピアノ五重奏曲に通じる雰囲気を持っている。この音楽の強く性格付けているのは第3楽章の「ラルゴ」で、これは革命交響曲の第3楽章にも似た戦争鎮魂曲とでも言える現代的な悲しい色、叙情的なオーラを持っている。平明なスタイルの中にこのような叙情性を通わせることは、ショスタコーヴィチの重要な音楽の要素である。 ピアノ三重奏曲第1番は単一楽章で1923年の作品だからまだ作曲者は17歳である。若き天才の作となるが、すでに斬新な音響を求めており、第2番よりもむしろ先鋭的かもしれない。 シュニトケの作品はアルバン・ベルク生誕百年を記念して1985年に書かれた弦楽三重奏をその7年後にピアノ三重奏へ編曲したもの。ピアノはモノフレーズ的な部分が多いが、ピアノが加わることで、音楽は分かりやすさを持ったと思う。ショスタコーヴィチをより抽象化したような近現代のロマンティシズムが感じられる。ケンプ・トリオの先鋭な感性がよく反映される選曲と言える。 |
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ピアノ三重奏曲 第1番 第2番 ヴィオラ・ソナタ p: アシュケナージ vn: ヴィゾンタイ vc: リドストレム va: メーニッヒ レビュー日:2016.6.20 |
★★★★★ アシュケナージのピアノが光るショスタコーヴィチの室内楽曲集
アシュケナージ(Vladimir Ashkenazy 1937-)を中心に、ショスタコーヴィチ(Dmitrii Dmitrievich Shostakovich 1906-1975)のピアノを含む室内楽曲3曲を収録したアルバム。収録曲は以下の通り。 1) ピアノ三重奏曲 第1番 ハ短調 op.8 2) ピアノ三重奏曲 第2番 ホ短調 op.67 3) ヴィオラ・ソナタ op.147 1)と2)のヴァイオリンはツォルト=ティハメール・ヴィゾンタイ(Zsolt-Tihamer Visontay 1983-)、チェロはマッツ・リドストレム(Mats Lidstrom 1959-)、3)のヴィオラはアダ・メーニッヒ(Ada Meinich 1980-)。2015年の録音。 アシュケナージ、ヴィゾンタイ、リドストレムの三者による共演は2012年録音のラフマニノフ(Sergei Rachmaninov 1873-1943)以来となる。 とても興味深いアルバムだ。収録された3曲がショスタコーヴィチの初期、中期、そして最晩年の作品という組み合わせとなっていることも面白い。それぞれの時期のショスタコーヴィチらしさが随所に溢れた楽曲でもある。 ヴィオラ・ソナタはショスタコーヴィチが、その生涯で最後に完成した芸術作品である。吉田秀和(1913-2012)はこの作品を聴いて、はじめてショスタコーヴィチという作曲家の価値に気付かされたようなことを書いていたと記憶するが、無調性の深刻な相貌をもった作品で、どこか不気味さのあるヴィオラの音色とともに、終楽章であらわれるベートーヴェン(Ludwig van Beethoven 1770-1827)の月光ソナタに端を発した主題が、恐ろしいほどの静謐や闇を連想させる曲である。 私はかつて、バシュメット(Yurii Bashmet 1953-)によるこの曲の録音を聴き、ずいぶん感銘を受けたのだけれど、このメーニッヒとアシュケナージによる演奏は、さらに深い闇を覗き見るような、情緒に救いを求めることを排した恐ろしさに満ちている。実に淡々としていて、美しいのだけれど、どこかで人の感情と隔絶したような雰囲気で、しんしんと降り積もる雪のように音楽が響いていく。これは、やはりアシュケナージの存在が大きい。彼のピアノのタッチは、美しく結晶化している一方で、この音楽が持っている闇を伝えるような音の辺縁のコントロールがある。その抑制の中で紡がれる美しさから、孤独に通じる畏怖が伝わってくるのだ。もちろん、メーニッヒのヴィオラもそれに応えて、繊細さと、時に太い不安さを交えた魅力たっぷりの弾きぶりである。 とはいえ、やはりこのアルバムの主となるのは、アシュケナージのピアノだ。ショスタコーヴィチのこれらの3つの様々な楽曲に、的確な流れと音色を施している。ピアノ三重奏曲第1番であれば、諧謔的な趣きを持つ響きの中に、不思議な神妙さをたたえているし、第2番でも、悲哀や皮肉に応じた、巧妙な弾きぶりで感心させられる。他の弦楽器奏者たちとの相性も、ラフマニノフで示されたように素晴らしいもので、特に第2番でのヴァイオリンの艶やかさと鋭さを併せ持った美感は、奏者の尋常ではない集中力を反映したもので、多くの聴きどころを形成する。 いずれの楽曲も見事という他ない名演。 |
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ピアノ・ソナタ 第2番 3つの幻想的舞曲 5つの前奏曲 抒情的なワルツ 「馬あぶ」から小品、スペイン舞曲 「明るい小川」から夜想曲 格言集 「黄金時代」からポルカ p: アシュケナージ レビュー日:2004.2.28 |
★★★★★ 曲を知る以上に価値のあるショスタコを知る1枚
ショスタコーヴィチの中でもさらにマイナーなピアノ曲を集めたアルバム。しかし、「馬あぶ」のように魅力的な旋律を持つ作品も含まれている。 ショスタコの多面性、皮肉、不思議な構成感など配慮の行き届いたバランスで見事に演奏されていて、思わず「さすがアシュケナージ」となる録音。 また、ショスタコ15歳当時の作品も収録されているが、さすがにまだ多面性はないものの、その完成度の高さに驚かされる。 ピアノの音色は本当に透明でピアニスティックで純度が高い。あらゆる情感が透き通って見えるようだ。アシュケナージならではのアルバムである。 |
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24の前奏曲とフーガ p: メルニコフ レビュー日:2010.7.5 |
★★★★★ 人の心に沿うショスタコーヴィチ
ショスタコーヴィチ(Dmitrii Shostakovich 1906-1975)の24の前奏曲とフーガ、アレクサンダー・メルニコフ(Alexander Melnikov 1973-)のピアノ独奏。録音は2008年から09年にかけて。 メルニコフはヴァイオリニスト、イザベル・ファウスト(Isabelle Faust 1972-)との素晴らしい録音や、あるいはスクリャービンのアルバムなどで感嘆した。このショスタコーヴィチも購入したところ、これまた素晴らしい内容だった。 最初に収録ディスクについて補足。2CD+1DVDとなっているが、3枚目はCDとDVDの「両面ディスク」で、収録時間の関係で第24番のみこの「両面ディスク」のCD面に収録されている。 このDVDの内容は、メルニコフと、それからメルニコフ彼の師にあたるピアニストの一人、アンドレアス・シュタイアー(Andreas Staier 1955-)が英語で作品について熱心に語っているインタビューである。ただ、この両面ディスクがくせもので、一部のBlu-ray再生可能ディスクでは再生できないことがある。旧DVDプレーヤーであれば問題ないのであるが。それにしても「両面」というのは、片面を再生しているとき、反対のディスクが傷つかないか、と心配になってしまって、どうもいけない。 さて、ショスタコーヴィチの24の前奏曲とフーガは、この作曲家の天才が示された傑作であると同時に、ショスタコーヴィチが多くの作品に反映させたこの作曲家特有の心理、月並みな言葉を借りれば「不安」「葛藤」「恐怖」「皮肉」などが端的に表出した作品である。ショスタコーヴィチは、ニコラーエワ(Tatiana Nikolayeva 1924-1993)の弾くバッハの同名曲の演奏に感銘を受け、この作曲を思い立ったという。全曲を初演したニコワーエワの伝説的名演も入手可能なものがあり、ディスクで聴くことが出来る。 さて、一方で、「前奏曲とフーガ」という作品には、音楽としての調性と形式の規則はあるけれど、その一方で、演奏家が自在に表現する幅も広くあると思う。例えば、アシュケナージ(Vladimir Ashkenazy 1937-)は、この作品から思わぬ歌の要素を拾い、透明な悲しみをすくいだし、聴くものの心を動かしたし、ムストネン(Olli Mustonen 1967-)はこの音楽が持つ攻性の側面を挑発的なほどに繰り出して、楽しませてくれた。 そこにまた新たな一面を切り開いてくれたのがこのメルニコフの名演。私が思うにメルニコフはこれらの曲の「1曲1曲」をそれぞれその最も人の心に染み込む方法で表現しようとしたのではないか?つまり「判り易い」音楽。注意しておかなければならないが「判り易い」音楽の再現が表現者にとってたやすいかと言えば、もちろんそうではない。どんな表現者もいかにして人の心に働きかえるかで苦労するのであり、それが強くあるいは大きく働きかける方法を模索するのである。メルニコフは、曲の魅力を妥当なテンポ、力強いピアニズム、そしてときには諧謔的とも言える音色やリズムによって、見事にこの曲集の魅力を存分に引き出した。人によっては、メルニコフが用いるルバート奏法が、時としてフーガの対位法の厳しさをやや緩めていると感じるかもしれない。しかし、私の場合、実際にこのアルバムを聴いていると、いつの間にか時が過ぎてしまう。聴くのが面白い、どんどん聴きたいと思う。一曲一曲がその個性を明らかにし、一つの調性を担うという以上に一つの芸術品として凛と輝くのである。メルニコフはいまやロシア・ピアニズムの代表格の1人となったと思う。 |
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24の前奏曲とフーガ p: シェパード レビュー日:2016.9.13 |
★★★★★ クレイグ・シェパードの堅実で深みのあるショスタコーヴィチ
フィラデルフィアで生まれたベテラン・ピアニスト、クレイグ・シェパード(Craig Sheppard 1947-)は、1972年のリーズ国際ピアノコンクールで銀賞を受賞したコンクール歴の持ち主。音楽教育者として活躍する他、コンサート・ピアニストとしても世界各地でコンサートを開いている。日本を5度訪問しているというから、その実演に触れた人も少なからずいるのだろう。 ただ、これまでの録音点数は多くなく、メジャーレーベルからのリリースもほとんど無い状況であるため、フアンの間の認知度と言う点では、かなり低いと言わざるを得ない。しかし、そのようなピアニストであっても、見事な実力を備えていることは、ままあること。当盤はシェパードが、シアトルのミーニー・シアターで、2015年に開催した2つのコンサートの模様を収録したもので、ショスタコーヴィチ(Dmitri Shostakovich 1906-1975)の傑作、「24の前奏曲とフーガ op.87」の全曲が収録されている。 シェパードは広範なレパートリーを持つピアニストとしても知られているが、これらの演奏会でショスタコーヴィチのこの作品を選んだ際、作品について以下のように言及している。「作品87は、ショスタコーヴィチが、ロシア正教会、民俗音楽などの様々な要素を素材に、知的で、想像力に富んだ感情的な力作としたものです。私の経験において、間違いなく20世紀のピアノ独奏曲で、最もすばらしい一組の集積物です。」 シェパードの発言から、その演奏の主眼の一つに、ショスタコーヴィチが引用したモチーフを意識した再現、ということがあるのだろうが、それと別に、私には以下の2つの印象が強く残った。 1) やや骨太な音色で、卓越した技巧を背景とした落ち着いた響きが作品を端正に描き出していること 2) 特に後半の楽曲で、深刻な諸相を感じさせる悲劇的な色彩が感じられること ショスタコーヴィチは、旋律的な素因を踏まえながらも、線的な音楽書法を駆使して、感情表現に至る過程を示したのであるが、このシェパードの演奏は、そのようなショスタコーヴィチの作曲書法の序列を、良く感じさせるものでもある。特にフーガの部分で、旋律を明瞭に提示した上で、その声部の処理を緊密に行い、その基礎の上に感情を発露させる。その厳粛さゆえに、端正で、悲劇的なイメージが、色濃くなるのだろう。カリヨンが打ち鳴らされるような第24番の壮麗さも見事だ。 この曲集には、かつてニコラーエワ(Tatiana Nikolayeva 1924-1993)の名盤があり、暫くはこれと並ぶものがない状況だったのだが、デジタル化時代になって、ムストネン(Olli Mustonen 1967-)、アシュケナージ(Vladimir Ashkenazy 1937-)、メルニコフ(Alexander Melnikov 1973-)がいずれも見事な録音をリリースしてくれた。このシェパードの録音は、そこにまた一つ加わった名盤と呼ぶにふさわしい。 |
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24の前奏曲とフーガ p: シチェルバコフ レビュー日:2019.7.22 |
★★★★★ 安定感のある演奏。叙情的な旋律の扱いが美しい。
1983年の第1回ラフマニノフ国際コンクールで優勝歴を持つロシアのピアニスト、シチェルバコフ(Konstantin Scherbakov 1963-)によるショスタコーヴィチ(Dmitrii Shostakovich 1906-1975)の24の前奏曲とフーガ全曲。1999年の録音。 この曲集にはニコラーエワ(Tatiana Nikolayeva 1924-1993)によるベンチマーク的録音が存在し、いまなお存在感を持っているが、近年までに注目すべき録音が順調に増えている感がある。私にとって印象的なものを挙げてみると、1996-98年録音のアシュケナージ(Vladimi Ashkenazy 1937-)、1997,2002年録音のムストネン(Olli Mustonen 1967-)、2008-09年録音のメルニコフ(Alexander Melnikov 1973-)、2015年録音のシェパード(Craig Sheppard 1947-)といったものがある。いずれも奏者の考察と感性によって、魅力的な演奏となっているが、このシチェルバコフによる演奏も、それらの優れた録音の一つとして、指折られるにふさわしい存在である。 シチェルバコフの演奏の特徴は、安定した技巧をベースとして、メロディを活かしたフレージングに配慮を届かせたもので、叙情的な面に主張を感じさせる点にある。声部の扱いにも、それに相応しいコントラストが与えられていて、線的な描き分けとともに、その情感に沿ったふくらみや、適度なアゴーギグが添えられる。線的に構成された音楽であるという以上に、性格的な暖かさが伝わってくるので、ロマン派的な解釈、というふうにも言えるだろう。そのような「アヤ」を織り込むため、タッチは細かく、聴き様によっては「線が細い」という印象になるかもしれないが、それを欠点にさせない演出面での巧みさがある。 印象に残った楽曲としては、まず第7番の明るい穏やかさとリズムの妙が、とても相応しく感じられる。次いで技巧的なものと歌謡的なもののバランスが美しいたたずまいをみせる第14番もとても素晴らしく感じられた。他では、メロディーを浮き立たせる演出が自然で心地よい第5番、厳密な音量のコントロールが冴えた第8番、抑制的な響きで、しかしどこか愛らしい雰囲気をまとって心に訴える第15番、深い情感の交錯が描かれる第23番など、シチェルバコフの演奏の特徴が良い方で表れている楽曲ではないだろうか。また劇的な作品では、それに相応しいリズムと強さで音像を作り上げており、決して迫力に不足があるというわけでもない。 全体的に高い演奏品質で、安定を感じさせるし、この曲集における正統性を感じさせる解釈の一つになっていると考えられる。廉価レーベルからのリリースとあって、市場価値も十分なものがあると思う。 |
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24の前奏曲とフーガ p: ニコラーエワ レビュー日:2021.8.13 |
★★★★☆ 初演者ニコラ―エワによる最初のショスタコーヴィチ「24の前奏曲とフーガ」全曲録音
タチアーナ・ニコラーエワ(Tatiana Nikolayeva 1924-1993)によるショスタコーヴィチ(Dmitri Shostakovich 1906-1975)の「24の前奏曲とフーガ op.87」全曲。 ショスタコーヴィチがこの楽曲を作曲する過程で、当時ソ連国内でバッハ演奏の権威であったニコラーエワの弾くバッハに触発され、完成した楽曲の初演をニコラーエワ依頼。作曲者の希望を叶えて、ニコラーエワが1952年に、この曲集を初演されたことはよく知られている。ニコラーエワの演奏は、作曲者と実際にコンタクトを取りながら練り上げ、完成されたものであったため、この曲集における教典的な録音として、ニコラーエワの録音が存在し続けている。 ニコラーエワは、この曲集を3度、全曲録音している。当録音は、その最初のもので、1952年の初演から10年を経た1962年に、ソ連国内でスタジオ録音されたものである。ニコラーエワはその後、1987年と1990年にも、この曲集の全曲を録音しているが、当録音はショスタコーヴィチの存命中に、ショスタコーヴィチの監修の元、初演者が録音したものとして、たいへん貴重なものと言える。 ニコラーエワの当盤の演奏は、他の彼女の様々な録音に比べて、インテンポな均衡感が強く、線で描かれているという当楽曲の性格に即した感が強い。緊迫感が強く、強音に秘められた意志や、弱音に潜む情感にも、濃い気配があり、その演奏は雰囲気に富む。表現の明晰さと強さは、全体として明るい響きをもたらしていて、聴き手は見通しの良い音楽を感じることとなるだろう。テンポの厳密性は、様々な表現上のアヤを排しているが、決して無機質な音楽にはなっておらず、ショスタコーヴィチの意図がストレートに伝わる面白味がある。第5番のニ長調などに、その特徴は明瞭に感じられるだろう。また、ショスタコーヴィチが使用したロシア的な旋律についても、十分な造形をもって奏でていることは、十分に想像される(私には、その点の理解については、どうしても限界があるが)。 以上の様に、この楽曲における、一つのシンボル的な録音ではあるが、録音技術的には時代を考慮してもいま一つで、高音の抜けが良くなく、全体に響きがこもったり割れたりするところが残念で、特にこの曲集は、録音映えする楽曲でもあるため、その点を踏まえると、現在となっては、アイテムとしての価値はやや下がった感もある。 |
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24の前奏曲とフーガ p: ニコラーエワ レビュー日:2021.8.27 |
★★★★★ 初演者ニコラ―エワによる、2度目のショスタコーヴィチ「24の前奏曲とフーガ」全曲録音
タチアーナ・ニコラーエワ(Tatiana Nikolayeva 1924-1993)によるショスタコーヴィチ(Dmitri Shostakovich 1906-1975)の「24の前奏曲とフーガ op.87」全曲。 ショスタコーヴィチがこの楽曲を作曲する過程で、当時ソ連国内でバッハ演奏の権威であったニコラーエワの弾くバッハに触発され、完成した楽曲の初演をニコラーエワ依頼。作曲者の希望を叶えて、ニコラーエワが1952年に、この曲集を初演されたことはよく知られている。ニコラーエワの演奏は、作曲者と実際にコンタクトを取りながら練り上げ、完成されたものであったため、この曲集における教典的な録音として、ニコラーエワの録音が存在し続けている。 ニコラーエワは、この曲集を3度、全曲録音している。当録音は、その2度目のもので、1987年の録音。最初の録音は、1952年の初演から10年を経た1962年に、ソ連国内でスタジオ録音されたものであり、また当盤の3年後にあたる1990年にも、ニコラーエワは全曲を録音している。 この曲集を3度にわたって全曲録音していることは、このピアニストとこの楽曲の運命的な結びつきの強さを示すものであろう。 私は、ニコラーエワの当該曲集の録音では、1962年のものと、当盤の2種を聴いたが、当盤の方がより情緒的な味わいが感じられる。テンポも、ややゆっくり目をとることが多い。響きは、以前同様に明晰で明るめであるが、緩急の織り込みが深まったことで、曲想の描き分けに多彩さが加わり、いわゆる詩情と称されるものを感じさせる部分が多い。第6番の感情的な深みや、第7番の情感の発露に、このピアニストの語り口ならではのショスタコーヴィチを感じさせてくれる。 技術的には、1962年の録音の方が、高かったと思う。当録音では、ところどころで、緩みのようなものを感じる。ただ、それは弱点とはなっておらず、音楽的な情感の中で、うまく吸収され、全体の呼吸の中で、芸術的表現として中和されている。その作法は、いかにもこれらの楽曲を知り尽くしたような手練を感じさせるもので、それゆえの安定が感じられる。 1962年版の鋭い感覚的な演奏も良いものであったが、当盤とどちらが良いかは聴き手によって、意見の相違を生むところだろう。個人的には、時代さに伴う録音技術的な側面において、当盤の方に圧倒的なメリットがあることもあって、当盤の方をより優れたアイテムとして、取りたいと思う。 |
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交響曲 第4番(2台のピアノ版) p: ハイルディノフ ストーン レビュー日:2012.9.11 |
★★★★★ 封印された楽曲への作曲者の気持ちがこもった「ピアノ版」
ショスタコーヴィチ(Dmitrii Shostakovich 1906-1975)が自身の交響曲第4番を2台のピアノ版に編曲したもの。ロシアのピアニスト、ルステム・ハイルディノフ(Rustem Hayroudinoff)とイギリスのピアニスト、コリン・ストーン(Colin Stone)による演奏で2004年の録音。 ショスタコーヴィチの交響曲第4番は奇妙な立ち位置の作品だ。彼は、この作品を1936年位完成しているのだが、その年に彼の歌劇「ムツェンスク郡のマクベス夫人」がプラウダ誌に批判されたこともあり、この交響曲を発表しなかった。結果として、第5交響曲の成功により、彼の音楽家としての成功は確約されたわけだが、いったいなぜ第4番ではダメだという判断をしたのかはナゾである。結局、交響曲第4番は1961年に初演されるまで25年間も封印されていたことになる。 不思議なのは、交響曲第4番が優れた作品だと思われる点である。ショスタコーヴィチ自身もこの作品を気に入っていないわけではなく、2台のピアノ版というスコアを遺している。他にも第10番についても同様のスコアが残っているが、優れたピアニストでもあったショスタコーヴィチがピアノスコアにするのだから、それなりに気に入っていたには違いないのである。 そして、現代では、この作品は傑作としての価値がほぼ定まり、オーケストラに至難な技巧を要求する1曲としても重宝されている。私は、オーケストラ版の録音としてはアシュケナージがロイヤルフィルと録音した1989年の録音を薦めたい。バランスの良く、かつ強靭な集中力を感じる実に見事な演奏である。 さて、この「2台のピアノ版」であるが、これまたたいへんに面白い。面白いというのはまず編曲がさすがに素晴らしいというのと、ハイルディノフとストーンによる高い技術を駆使した表現力が実に豊かなためである。なんといっても3つの主題を扱った長大な第1楽章が凄い音楽なのだが、その後半部、全管弦楽による圧倒的な速度でのフーガがピアノで実に色彩鮮やかに奏でられている。ショスタコーヴィチらしい怒涛の迫力で、息つく間もない臨場感だ。打楽器のニュアンスもたくみに再現した譜読みの確かさも見事で、原曲に親しんだ人ほどその驚きは大きいのではないかと思う。 第2楽章、第3楽章については、もう少し穏当な雰囲気にシフトしているが、音楽としてはよく鳴っており、2人の呼吸のあった演奏は楽しい。なぜ、この曲をショスタコーヴィチは25年間も寝かしておいたのだろう。まったく不思議な話だ。 他に有力な競合盤がない状況であるが、録音の秀逸さも含めて、まずはこの1枚があればおおむね満足できると言えるディスク。できればこの二人には交響曲第10番の2台のピアノ版も録音していただきたい。 |
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ピアノによる劇場音楽(「人間喜劇」 組曲「南京虫」 約束通り殺された 組曲「ハムレット」 スペインに敬礼! 「ロシアの川」 から「フットボール」 劇音楽「リア王」第2幕から「情景」 バレエ音楽「黄金時代」-第2幕から 「ポルカ」) p: ハイルディノフ レビュー日:2012.9.11 |
★★★★☆ ショスタコーヴィチのあまり知られていない部分をクローズアップ!
ロシアのピアニスト、ルステム・ハイルディノフ(Rustem Hayroudinoff 生年不詳)によるショスタコーヴィチ(Dmitrii Shostakovich 1906-1975)の「ピアノによる劇場音楽」集。2000年の録音。収録曲は以下の通り。 1) 人間喜劇 op. 37(全6曲) 編曲 : レフ・ソリン(Lev Solin 1923-) 2) 組曲「南京虫」op. 19(全7曲) 編曲:ショスタコーヴィチ 3) 約束通り殺された op. 31(全6曲) 編曲:ショスタコーヴィチ 4) 組曲「ハムレット」 op. 32(全8曲) 編曲 : レフ・ソリン 5) スペインに敬礼! op. 44 (全2曲) 編曲 : レフ・ソリン 6) ロシアの川 op. 66 から「フットボール」 編曲 : V. Samarin 7) 劇音楽「リア王」 op. 58a - 第2幕から「情景」 編曲:ショスタコーヴィチ 8) バレエ音楽「黄金時代」 op. 22 - 第2幕から 「ポルカ」 私はハイルディノフという若手(あるいは中堅?)ピアニストを、ジャナンドレア・ノセダ(Gianandrea Noseda 1964-)指揮のドヴォルザークのピアノ協奏曲を聴いて知ったが、その清涼感に溢れた瑞々しいピアニズムにたちまち魅了された。さらにChandosレーベルから出ていたラフマニノフの前奏曲全曲、練習曲「音の絵」全曲を聴き、そのセンスにますます感じ入ったところ。そこで、今回はこのショスタコーヴィチの珍しい楽曲を収めたアルバムを聴かせていただいた。 ショスタコーヴィチと言えば、ダークな感情を宿した交響曲や弦楽四重奏曲のイメージが支配的だ。だが、20世紀末くらいから、他にもいろいろな作品が紹介され、聴かれるようになってきている。それでも、ソロ・ピアノのための軽音楽の録音は、黄金時代からの有名なポルカを含む一握りのバレエ・スコアからの編曲ものに限られてきた。そんな背景にあって、一気にそのジャンルを充実させてくれる一枚。 ショスタコーヴィチは1936年のプラウダ批判を機にこのようなユーモアやエスプリの要素を持ったジャンルから遠ざかったと言われる。組曲「南京虫」が1929年、「約束通り殺された」が1931年、ハムレットが1932年、人間喜劇が1933-34年の作品である。特異で、感傷的な性分を含む音楽という共通項が見いだせる。「南京虫」は23歳の作曲者がはじめてオペラ以外の舞台作品を手がけたもの。憂鬱なワルツ、不調和なマーチ、陽気なギャロップ・・・。開幕を告げるインテルメッツォなどそれ1曲だけで十分魅力的な音楽として響く。 「ハムレット」は情緒的な旋律の中に、風刺の要素を湛えているのがこの作曲者らしい。多様な情感が入り混じっている。子守唄、葬送行進曲などなかなか面白いピースだ。 ハイルディノフのピアノはあいかわらずクオリティーが高い。新鮮で、知的で、とても機知に富んだ高級な遊戯性に満ちている。ぜひ、このピアニストの録音点数を、もっともっと増やしてほしいと切に願う。 |
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バラード「ステパン・ラージンの処刑」 組曲「ゾーヤ」 フィンランドの主題による組曲 アシュケナージ指揮 ヘルシンキ・フィルハーモニー管弦楽団 ラトヴィア国立合唱団 Br: シェンヤン S: パロ T: カタヤラ レビュー日:2013.10.1 |
★★★★★ 無名な曲でも、しっかりとショスタコーヴィチの刻印を感じさせてくれる演奏
たびたび面白いレパートリーを提供してくれるアシュケナージ(Vladimir Ashkenazy 1937-)による、2013年録音のユニークなショスタコーヴィチ(Dmitrii Shostakovich 1906-1975)の作品集。まず、収録曲は以下の通り。 1) バラード「ステパン・ラージンの処刑」 2) 組曲「ゾーヤ」 3) フィンランドの主題による組曲 いずれも、ちょっと聞いたことのない曲ばかりだ。これらは声楽と管弦楽のための作品で、ヘルシンキ・フィルハーモニー管弦楽団とラトヴィア国立合唱団が演奏を務める。また1)では、バリトン独唱をシェンヤン(Shenyang 1984-)、3)ではソプラノのマリ・パロ(Mari Palob1975-)とテノールのトゥオマス・カタヤラ(Tuomas Katajala1975-)が加わる。 「ステパン・ラージンの処刑」はロマノフ王朝に反旗を翻し処刑されたコサック人をモデルとしたもので、テキストは、「バビ・ヤール」でもショスタコーヴィチとコラボした詩人エフゲニー・エフトゥシェンコ(Yevgeni Yevtushenko1933-2000)の「巨大な水力発電所のための詩」から採用されている。 組曲「ゾーヤ」はレフ・アルンシュタム(Lev Arnshtam 1905-1979)監督の同名の映画のために書かれた映画音楽をレフ・アトフミャン (Lev Atovmyan 1901-1973)が組曲として編算したもの。 「フィンランドの主題による組曲」は1曲あたり1~2分程度の小曲7曲からなるもので、小編成の管弦楽を伴奏とした歌曲集といった雰囲気。ただし曲によってはピアノも活躍する。 いずれもショスタコーヴィチらしい悲劇性とアイロニーを湛えた楽曲で、雰囲気としては暗い。しかし、ショスタコーヴィチの作曲家としての手腕はよく発揮された感があり、本盤の演奏、録音はそういった側面をよく伝えている。例えば組曲「ゾーヤ」の終曲では、管弦による静謐さが、線的に構成された繊細な各パートの響きの重なりによって、緊密に造形されている。それが曲の進行につれ壮麗な効果を高め、劇的な高揚感に結びついていくのだが、その縦線の処理の明晰さと、特に金管のコントロールされた響きが、適度な「響きのスペース」を作っており、音楽の形がよく伝わるものになっている。 バラード「ステパン・ラージンの処刑」はダイナミックな音楽であるが、この作曲家らしい「どこか心の冷めたようなところ」が管弦楽のインテンポに徹した処理によって、逆に主張を伴って伝わってくる。 こうして聴いていると、ショスタコーヴィチの音楽というのは、本当に「辛さ」や「厳しさ」をにじませたものなのだと分かる。音楽に、外向的な性格を与えるところであっても、金管のファンファーレやティンパニのリズムには、どこか即物的な定型性を伴っている。そのことが、聴いていて、重さや苦しさの感情に作用してくることが多いから、楽しく聴く音楽にはなりにくいわけだ。 これらの聴きなれない楽曲を聴いても、ショスタコーヴィチのそのような刻印は明瞭に刻まれていることにあらためて感服する。そういった表現と主張の一貫性を、高い作曲技法を通じて、訴え続けた人だったのだろう。このアルバムを聴いて、その感を新たにした。 なお、声楽陣については、同曲異演を聴いたことがないため限定的な感想になるが、管弦楽、コーラスとのバランスが見事で、コントロールのよく効いた知的な感覚が漂っていると思う。これらの楽曲への起用に見事に応えた歌唱だと思う。 |
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ミケランジェロの詩による組曲(管弦楽伴奏版) レヴャートキン大尉の4つの詩 p: アシュケナージ レビュー日:2008.8.7 |
★★★★☆ ショスタコーヴィチの死生観
ショスタコーヴィチの「ミケランジェロの詩による組曲(管弦楽伴奏版)」と「レヴャートキン大尉の4つの詩」を収録。バリトン独唱はフィッシャー=ディースカウ、アシュケナージ指揮のベルリン放送交響楽団の演奏。「レヴャートキン大尉の4つの詩」はピアノ伴奏の歌曲で、ここではアシュケナージのピアノ。録音は1991年。 アシュケナージとディースカウの録音という点でも珍しいが、曲目がショスタコーヴィチであるからこれも面白い。ディースカウにとっては引退2年前の録音ということになる。 「ミケランジェロの詩による組曲」はショスタコーヴィチの晩年の作品で、「真実」「朝」「愛」「別れ」「怒り」「ダンテ」「追放された者に」「創造」「夜」「死」「不滅」の11曲からなる。原曲はピアノ伴奏版で、ムソルグスキーの「死の歌と踊り」の影響があるだろう。ショスタコーヴィチは死の前年である1974年に弦楽四重奏曲第15番と並行してこの作品を書いている。「組曲」と称しているが、「真実」「朝」「愛」が前奏的作品、「創造」以降の4曲が末尾句のように全体を3部の構成と見ることができる。すでに大きな病気を経た作曲者の死生観が描かれた作品であり、「朝」ではやわらかく、「怒り」では粗暴に、「夜」では瞑想的に描かれる。全般に透明な枯淡を感じさせるが特に終曲の「不死」は退廃と虚無に加え達観までも感じさせる。これらの曲はやはり管弦楽伴奏による色彩感がふさわしい。ディースカウの声はすでに全盛期とは言えないが、雰囲気は十分に伝わっている。 「レヴャートキン大尉の4つの詩」ではやはりアシュケナージのピアノの光沢が見事で、ディースカウとの貴重な共演が残されたことに感謝したい。 |
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歌劇「ムツェンスク郡のマクベス夫人」 クルイロフによる2つの寓話 プーシキンの詩による3つのロマンス作品 6つのロマンス ユダヤの民族詩より(管弦楽伴奏版) 日本の詩人の詞による6つのロマンス マリア・ツヴェターエワの6つの詩 チョン・ミュンフン指揮 バスティーユ歌劇場管弦楽団、合唱団 S: ユーイング ヤルヴィ指揮 エーテボリ交響楽団 エーテボリ歌劇場女声合唱 B: レイフェルクス S: ゼーダーシュトレーム Br: シャーリー=カーク p: アシュケナージ レビュー日:2013.4.11 |
★★★★☆ ショスタコーヴィチの音楽を愛する人へ、コアな5枚組
ショスタコーヴィチ(Dmitrii Dmitrievich Shostakovich 1906-1975)の声ものの作品を集めた5枚組再編集セット。まずは収録内容を記載したい。 【CD1】 1) クルイロフによる2つの寓話 2) プーシキンの詩による3つのロマンス作品 3) 6つのロマンス 4) ユダヤの民族詩より(管弦楽伴奏版) ラリッサ・ディアドコヴァ(Larissa Diadkova 1954- メゾソプラノ) セルゲイ・レイフェルクス(Sergei Leiferkus 1946- バス) リューバ・オルゴナソーヴァ(Luba Orgonasova 1961- ソプラノ) ナタリー・シュトッツマン(Nathalie Stutzmann 1965- コントラルト) ネーメ・ヤルヴィ(Neeme Jarvi 1937-)指揮 エーテボリ交響楽団 エーテボリ歌劇場女声合唱 1992,93年録音 【CD2】 1) 日本の詩人の詞による6つのロマンス 2) マリア・ツヴェターエワの6つの詩 3) ミケランジェロ・ブオナロッティの詩による組曲(管弦楽伴奏版) リーヤ・レヴィンスキー(Ilya Levinsky 1965- テナー) エレナ・ザレンバ(Elena Zaremba 1957- メゾソプラノ) セルゲイ・レイフェルクス ネーメ・ヤルヴィ指揮 エーテボリ交響楽団 1994年録音 【CD3】 1) レビャートキン大尉の4つの詩 ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ((Dietrich Fischer-Dieskau 1925-2012バリトン) p: ウラディミール・アシュケナージ(Vladimir Ashkenazy 1937-) 1991年録音 2) アレクサンドル・ブロークによる7つの詩 エリザベート・ゼーダーシュトレーム(Elisabeth Anna Soderstrom 1927-2009 ソプラノ) p: ウラディミール・アシュケナージ vc: アイオナ・ディヴィス(Iona Davis) vn: クリストファー・ローランド(Christopher Roland) 1983年録音 3) ミケランジェロ・ブオナロッティの詩による組曲 ジョン・シャーリー=カーク(John Shirley-Quirk 1931- バリトン) p: ウラディミール・アシュケナージ 1976,77年録音 【CD4,5】 歌劇「ムツェンスク郡のマクベス夫人」 エカテリーナ (ジノーヴィーの妻): マリア・ユーイング(Maria Louise Ewing 1950- ソプラノ) アクシーニャ(使用人): クリスティーネ・チーシンスキ(Kristine Ciesinski 1952- ソプラノ) セルゲイ(使用人): セルゲイ・ラーリン(Sergei Larin 1956- テノール) ジノーヴィー(ボリスの息子): フィリップ・ラングリッジ(Philip Langridge 1939-2010 テノール) 農民: ハインツ・ツェドニク(Heinz Zednik 1940- テノール) ボリス(商人): オーゲ・ハウグランド(Aage Haugland 1944-2000 バス) チョン・ミュンフン(Myung-Whun Chung 1953-)指揮 バスティーユ歌劇場管弦楽団、合唱団 1992年録音 内容が多岐にわたっており、しかもいずれも一般的によく聴かれる曲とは言い難い。ショスタコーヴィチ特有の悲劇性やダークな雰囲気を好む人でなければ、聴いていてむしろ心が萎えるところが大きいかもしれない。 メインは、チョン・ミュンフン指揮による歌劇「ムツェンスク郡のマクベス夫人」である。この歌劇は、ショスタコーヴィチがソ連政府から批判される大きなきっかけとなったものだ。ストーリーは、主人公のエカテリーナを中心に描かれる。エカテリーナは、使用人セルゲイに性交を強いられたことから、逆にセルゲイを忘れられなくなり、その不義を咎める身内を毒殺していく。しかし、その罪がついに暴かれ、セルゲイともどもシベリアに流刑となる。シベリアでセルゲイに裏切られたエカテリーナは悲嘆に暮れて自ら命を絶つというもの。激しい性描写のある歌劇であったこともあり、その扱いに政治が介入したことになる。 このオペラは優れたショスタコーヴィチの管弦楽書法と、暗くも悲しい旋律の美しさにより、現代では作曲者の代表作の一つとされている。チョン・ミュンフンのバランスの良い音響設計が秀逸。 アシュケナージがピアノを担い、3つの歌曲集が収録されている。アレクサンドル・ブロークによる7つの詩は、独唱とピアノ三重奏からなる作品だが、1曲目はチェロのみ、2曲目はピアノのみ、3曲目はヴァイオリンのみ、4曲目はピアノとチェロ、5曲目はピアノとヴァイオリン、6曲目はヴァイオリンとチェロ、7曲目はピアノトリオが伴奏になるという順列組み合わせの構成となっている。ここでは抑圧と虚無といった感情が交錯し、「死者の歌」にも通ずる晩年の退廃的な音楽が聴かれる。ヴァイオリンのローランド、チェロのデイヴィスは、それぞれショスタコーヴィチを得意としたフィッツウィリアム弦楽四重奏団のメンバーで、ここでも確かな響きを聴かせる。アシュケナージのピアノはさすがに巧い。 管弦楽の伴奏付の歌曲は、これも録音があまり多くないので貴重だが、中でもレイフェルクスの存在感が圧倒的だ。ここでは、彼の歌唱を中心に聴きたい。 |