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シューベルト



交響曲 管弦楽曲 室内楽曲 器楽曲 声楽曲 歌曲


交響曲

交響曲全集
C.デイヴィス指揮 ドレスデン国立管弦楽団

レビュー日:2008.10.27
★★★★★ 現代オーケストラによるスタイリッシュな快演
 C.デイヴィスとドレスデン国立管弦楽団によるシューベルトの交響曲全集。録音は1994年から96年にかけて行われている。
 最近のシューベルトの交響曲演奏は、やはりピリオド楽器による演奏が一定の勢力を築いていて、ノリントンやインマゼールが興味深い録音を繰り出しているし、あるいはアーノンクールが92年に録音した全集もまだ存在感を強く誇示していると思う。
 その一方で現代オーケストラによる純朴でスタイリッシュな名全集という観点で考えると、このC.デイヴィスによる録音もかなり上位に数えられていいものだと思う。
 最近のピリオド楽器の演奏では、大雑把に言ってしまえば、やはりシューベルトもメリハリの音楽になっていて、特徴的なアゴーギグや、ちょっとイネガル奏法的なテイストを含ませてみたり、あるいはアクセントにちょっと拘った刻みを入れてみたりという演奏が多いと思う。他方このデイヴィスによる録音は非常に清廉に、屈託無く喜んでシューベルトの音世界を表現したものという気がする。第1交響曲では冒頭から音楽は適度にしまっており、快活なテンポで進むが、洗練された管弦の音色はたいへんナチュラルで、緩やかな起伏を軽やかに超えていく。以前、これに似た演奏でスウィトナーのこれも東ドイツのオーケストラの演奏だけれども、都会的なサウンドという印象を持った名演があった。デイヴィスの演奏はそれに近いが、より中心軸がまっすぐに通っているように感じる。ブレが少なく、しかし品の良い歌としなやかな躍動感に満ちている。
 音楽の性格としてはやや内向的なものになっているとも思うが、もちろんそれは悪いことではなく、一つの佇まいとしてシューベルトの演奏を表したものだと思う。
 交響曲第6番の柔らかくも典雅なソノリティは聴き手の多くを魅了すると思うし、未完成交響曲や最後の第9番でもその手法は活かされていて、曲の魅力の一つのあり方を的確に伝えていると思う。全集で廉価版になったことももちろん魅力の一つとして加えたい。

交響曲全集 劇付随音楽「ロザムンデ」~序曲 バレエ音楽 第1番 第2番
ムーティ指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

レビュー日:2010.10.6
★★★★★ ムーティとウィーンフィルならではの歌の溢れるシューベルト
 リッカルド・ムーティ指揮ウィーンフィルハーモニー管弦楽団によるシューベルトの交響曲全集。8曲の交響曲に加えて、劇付随音楽「ロザムンデ」から序曲、バレエ音楽第1番、同第2番が収録されている。録音は1986年から93年にかけて行われている。
 ムーティの指揮する音楽は溌剌とした生命力に溢れ、明朗で快活、陽気な歌に満ちている。もちろん、それは曲想によって変容するところだけど、曲の性格が沿っている場合、いよいよその特性が強くなる。少なくとも私にはそう感じられる。なので、そういったキャラクターを持った作品の場合、ムーティの指揮で聴いてみたい、と思う。例えばモーツァルトの後期のシンフォニー、特に「ハフナー」や「プラハ」はとてもチャーミング。音が跳ねて楽しくて暖かい。ブルックナーでは「ロマンティック」。そういえばムーティはブルックナーの第8や第9は振るのだろうか?あまりイメージが沸かないのだけれど。なので、私の中でムーティの得意ジャンルはそういったイメージがあり、これも先入観だけど、フルトヴェングラーとは真裏のイメージがある。
 それで、このシューベルトを聴いてみると、これがまた無類に楽しい。ムーティの作る音楽の特徴は、まず柔らかい輪郭にある。第2番の冒頭、ゆったりと幅をとるように降りてくる弦楽合奏のなめらかな着地。その瞬間、ぱーっと地面にキレイな模様が広がるような雰囲気だ。このときカラヤンと違って、主旋以外のパートが少し奥ゆかしく感じられるのは、旋律の内包する「歌」の要素をできるだけ外側に発散させたいという気持ちの現れに思う。またティンパニ、金管の溶け合った豊かなサウンドは、ゴージャスだけど品を崩しておらず、歌を覆ってしまうようなところがない。歌至上主義の音楽は、ときどき少し野暮にも思えるが、野暮も時にはいいものである。
 というわけで、この全集では、特に初期の明朗な作品(第1番、第2番、第3番の3曲!)に強く惹かれた。また未完成交響曲や「ザ・グレイト」といった有名曲も、旋律の美しさを存分に味わわせてくれて、過不足ない良演であることは間違いない。欠点は、編集の都合で「ザ・グレイト」の第1楽章と第2楽章以降が別CDになってしまったことと、元のEMIの録音の分解能がやや低かったことにある。これがデッカかフィリップスだったらもっと素晴らしかったと思うのだけれど。

交響曲全集 劇付随音楽「ロザムンデ」~序曲 バレエ音楽 第1番 第2番
バレンボイム指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

レビュー日:2011.2.4
★★★★☆ バレンボイムのアプローチの背景にある音楽論とは?
 バレンボイム指揮ベルリンフィルによるシューベルトの交響曲全集。全8曲の交響曲に加えて劇音楽「ロザムンデ」から「序曲」「間奏曲第3番」「バレエ音楽」が収録されてCD5枚組。録音は1984年。
 バレンボイムという指揮者は、私にとって一筋縄では行かない指揮者だ。この人の演奏を聴いていると、いかにも一時代前への憧憬のようなものが聴こえてくる。「一時代前」というのは、言ってみれば大河的音楽志向のようなもの。けれども、例えばフルトヴェングラーにしてもクレンペラーにしても、それを支える強い確固たる何か(イデアやスピリットのようなもの)があって、それゆえに辿りついた音楽であったのだけれど、バレンボイムのアプローチはもっとコンヴィニエントなのだ。つまり、効率的で生産性が高いイメージが重なるのだけれど、時々、その音楽を聴いていて「うん?」と感じるところもある。
 例えば、このシューベルトの交響曲全集。同時代の他の録音、カラヤン、シュタイン、スウィトナーらと比べると、バレンボイムはティンパニと木管にフォーカスを合わせながら、裾野を広げるだけ広げているように思う。このスタイルの場合、悠長でロマンティックな音楽になり、緩徐楽章などは様々な表情が出てくるのだけれど、実は音楽全般が「緩徐化」することになる。例えば第4交響曲のアンダンテはバレンボイムの場合ちょっと聴いたことがないくらいゆっくりで、速度記号で言えば、「ラルゴ」になっているし、第9交響曲の第2楽章だってカラヤンと比べても3分くらいも長い。つまり構造軸の一つがかなり恣意的に移動しているわけだ。その結果として、「迫力」の必要な箇所の演出は、音を大きくすることと合わせて、更に音楽の恰幅を増す方法論により行われる。
 もちろん、それはそれで一つの演奏哲学なのだけれど、結果として導かれる音楽が、全体に一様なミックス状態になってしまう・・というのか、交響曲なら交響曲としての起承転結があるのだけれど、その境界が希釈されてしまっていると感じるのである。
 サウンドとしてはベルリンフィルの機能性もあり、美しい部分が多いのだけれど、交響曲としてのストーリーを追うことなく、そのまま終わってしまう、言い知れぬ「物足りなさ」を感じてしまう。それは私だけだろうか?
 私の感受性が追いついていないことも考えられる。当然のことながら、バレンボイムにはバレンボイムなりの音楽的価値があるだろうし、そこに自分がまだ気が付いていないだけなのかもしれない。それに「悪い演奏」というのとも違うだろう。いずれの曲もまじめに演奏されているし、未完成交響曲の、特に第2楽章の弦のアンサンブルなんて特筆すべき美しさだと思う。クラリネットも印象的で、オケの力量は伝わってくる。可能であれば、多くの人たちの感想を拝聴したいと思う。

交響曲全集
ブリュッヘン指揮 18世紀オーケストラ

レビュー日:2017.8.25
★★★★☆ 初期作品に高い適性を感じさせるピリオド楽器によるシューベルト
 フランス・ブリュッヘン(Frans Bruggen 1934-2014)指揮、18世紀オーケストラによるシューベルト(Franz Schubert 1797-1828)の交響曲全集。PHILIPS原版だったものがレーベルの統合を経て、DECCAから廉価で再発売されたBox-set。収録内容は以下の通り。
【CD1】
1) 交響曲 第1番 ニ長調 D.82 1996年録音
2) 交響曲 第4番 ハ短調 D.417「悲劇的」 1996年録音
【CD2】
3) 交響曲 第2番 変ロ長調 D.125 1995年録音
4) 交響曲 第3番 ニ長調 D.200 1995年録音
5) 交響曲 第5番 変ロ長調 D.485 1990年録音
【CD3】
6) 交響曲 第8番 ロ短調 D.759「未完成」 1992年録音
7) 交響曲 第6番 ハ長調 D.589 1992年録音
【CD4】
8) 交響曲 第9番 ハ長調 D.944「ザ・グレート」
 すべてライヴ録音となっているが、いずれもきれいにエディットされており、気になる雑音はまったくないと言って良い。
 ピリオド楽器により、いちはやく完成されたシューベルトの交響曲全集として価値のあるものである。以下、私の感想になるが、印象は曲によってかなり異なる。とてもいいのが第5番と第6番。
 第5番は、小さな編成で書かれた交響曲であり、それがピリオド楽器の特性とよく合っている。ブリュッヘンは、当然のことながら、ピリオド奏法を踏まえているとはいえ、過激な表現に固執することなく、旋律をしっかりと伸びやかに、ほどよい太さをもって表現していて、チャーミングな喜びに満ちた響きに溢れている。第1楽章は快速だが早すぎず、歌うところは存分に歌っている。第2楽章も情感が素直に表出して、しっとりした味わいがもたらされていることは素晴らしい。第3楽章の適度なゆとりの幅、第4楽章もしっかりと足の着いた活発さがあり、この交響曲の魅力を、すべての楽章で十全に活かしきった感がある。ブリュッヘンのシューベルト録音では、この第5交響曲が最高の出来栄えと思う。
 第6番も同様にイタリア的で強いフォルテを要求されない楽想と音色の相性が良い。ヴィブラートは少ないが、ほどよい明朗さの中に必要なものがほどよく配分された心地よさがある。テンポは動くが、巧妙に早足になりすぎることを避けていて、成功している。
 第1番~第4番の楽曲も良演。
 第1番は全般にマイルドな味わいであるが、ブリュッヘンという演奏家の根本にあるロマン性が、旋律からにじみ出ているのが良い。特にイタリア風の終楽章におけるバランス感覚は絶妙に奏功していると言って良い。
 第2番は、冒頭の音に適度な厚みがあって、ピリオド奏法の弱みを感じさせないのが良い。付点音も妙なクセがなく、伸びやかだ。展開に入ってからの軽やかな疾走は、音色の暖かさ、適度な透明感、旋律線の豊かな響きがあいまって、絶好の成果を得ている。中間楽章ではやや低音が弱くなる傾向が感じられるが、それでも大きな欠点とまでは言えず、むしろ例えば第3楽章の暖かい響きを持続しながらの推進がもたらす豊かさは、幸福感に作用するだろう。明朗な抒情性も相応しい。
 第3番も同様で、ピリオド奏法らしい特有のテンポの揺れはあるものの、大胆というほどではない。そこには、常にブリュッヘン一流のバランス感覚が働いているのだろう。楽曲の規模の点でも、ピリオド奏法によってふくよかさを失う部分は少なく、現代楽器による演奏と比べても聴き劣りはしない。
 第4番では、繰り返される全合奏によるフォルテの音質がピリオド楽器のため画一的だが、それを過激さで覆そうとせず、十分な歌謡性を持ってシューベルトの旋律を歌ってくれる。付点のリズムなど、いかにもなところが繰り返されるが、飽きに通じないのは、旋律に添えられる情感が豊かだからだ。
 対するに後期の2曲はいまひとつ。
 というのは、ピリオド楽器を用いた演奏の場合、楽器の能力的な強弱の制限が強まるので、後期の交響曲のようにロマン派の濃厚な味わいや甘美性を宿した音楽には、ピリオド楽器は、基本的に不向きな感じを受けざるをえない。確かに部分的に透明度が感じられるが、それは中音域の薄みからもたらされるものであって、一般的な表現の意図としての主従関係は逆転しているのである。つまり、透明感を出そうとしているのではなく、そうならざるをえない。そこに音楽への関わりとし方として、奏者が主体であるのか、受け身であるのかという根本がまず一つある。さらに強弱のメリハリについても、やや拘束的な硬さを感じさせるものとなり、それはフォルテの「うるささ」という印象に直結してしまう。強い音、大きい音であるのはもちろん結構なのであるが、それに加えて「うるささ」が混じってくるのは、ピリオド楽器でロマン派の音楽に挑む場合の大きな壁になり、そして、このブリュッヘンの演奏においても、それはクリアされていない。
 それらの拘束条件、絶対的なディスアドヴァンテージを受け入れた上で演奏に挑まなくてはならない。その結果印象はどうなるか。
 シューベルトの音楽は「ウィーン的」である、と言われる。「ウィーン的」という言葉自体曖昧だが、個人的には、それは「機械的」と究極的に対峙する概念で、「甘美」や「酸味」を湛えた柔らかな豊穣さを指すものではないだろうか。そこには、「憧憬」や「渇望」といった人間的情緒が満ちている。ウィーンゆかりの作曲家シューベルトこそ、現実の暗がりと夢のまどろみを繋ぐ音楽を書いた人で、特に「未完成交響曲」はその究極的作品の一つだろう。しかし、私はピリオド楽器で奏されたシューベルトを聴くと、そういう感じがしない。もちろん、それでもいいのかもしれないし、私の勝手な考え自体が的外れな可能性も大いにあるのだけれど、かつて名演と言われた数々の演奏から伝わった芳醇で豊饒なものがあまり伝わらず、それよりもずっと乾いたソリッドのものが、とつぜん胸の前にストンと来るような感じを受ける。そこにどうしても違和感が残ってしまうのだ。
 とうわけで、楽曲によって私の感想は大きく異なるが、ピリオド楽器の音色や合奏音が好きだという人には、全体として好ましいものかもしれない。
 なお、同じ顔合わせで同時期に録音されたロザムンデの間奏曲第3番が割愛されているのは残念。box化においては、そのような価値も重要であることも指摘したい。

交響曲全集
ツェンダー指揮 南西ドイツ放送交響楽団

レビュー日:2019.12.16
★★★★★ シューベルトの交響曲にもたらされた理知的で、明晰な快演
 ドイツの現代音楽家であり、指揮者であったハンス・ツェンダー(Hans Zender 1936-2019)が、南西ドイツ放送交響楽団と録音したシューベルト(Franz Schubert 1797-1828)の交響曲全集。当盤は後年にBox-set化されたものだが、単発売時にはヴェーベルン(Anton Webern 1883-1945)の楽曲との組み合わせにより、シューベルトとヴェーベルンの共通項を洗い出すというツェンダーならではの意図があったのだが、当アイテムでは、ヴェーベルンの作品が割愛されている。結果、収録内容は以下の様に、シューベルトの交響曲のみとなっている。
【CD1】
1) 交響曲 第1番 ニ長調 D.82 1999年録音
2) 交響曲 第2番 変ロ長調 D.125 2002年録音
【CD2】
3) 交響曲 第3番 ニ長調 D.200 2000年録音
4) 交響曲 第4番 ハ短調 D.417 「悲劇的」 1996年録音
【CD3】
5) 交響曲 第5番 変ロ長調 D.485 2004年録音
6) 交響曲 第6番 ハ長調 D.589 2000年録音
【CD4】
7) 交響曲 第8番 ロ短調 D.759 「未完成」 2001年録音
8) 交響曲 第9番 ハ長調 D.944 「ザ・グレイト」 2003年録音
 「“作曲家の正しい解釈は、その時代の演奏様式の中に見出すべきだ” という主張は誤りである」。ツェンダーのこの言葉は、ピリオド楽器によるピリオド奏法を中心とした「楽曲は、それが作曲された当時の楽器や環境に従って演奏するべきだ」とう現代の流れに、警鐘を鳴らしたものである。当然のことながら、このシューベルトも現代楽器のオーケストラによるものだ。
 また、ツェンダーにとって、シューベルトは特別な作曲家である。彼が「創造的編曲」を試みた管弦楽伴奏版「冬の旅」は、発表当時はセンセーショナルなものだったが、いまなおその芸術的真価について、様々な議論が投げかけられている。
 というわけで、ツェンダーの芸術的学術的背景を考えると、このBox-setも、単に「シューベルトの交響曲全集」として捉えてしまっていいものなのか、それとも、本来のヴェーベルンとの組み合わせで聴くべきなのか、迷うところだけれど、私が所有しているのはこのBox-setなので、それのみを視野としてレビューを書く。
 この全集は、とても洗練を感じさせる演奏だ。概して早目のテンポであるが、それは、各楽曲において十分に考察された「流れ」を維持する音楽像が練り上げられるベースとして活かされている。「ザ・グレイト」のような規模の楽曲において、その統一感はことに鮮やかな聴き味をもたらしているといって良い。この曲は、4つの楽章がいずれもきわめて個性的かつ浪漫的なのであるが、ツェンダーの手腕によって、その楽曲全体の構造自体に、美しさを感じさせてくれる。
 音色は透明で、各楽器の役割がとても明瞭。それでいて全合奏による強奏は、質感のある豊かな響きであり、内面的な充実を味わわせてくれる。初期の交響曲群では、現代楽器ならではの輝かしい響きと、風通しの良い響きの明るさ、過度に広がらない統率能の高い制御がゆきわたっていて、格調の高い音楽が導かれている。管楽器の響きは、輪郭のくっきりしたもので、その表現には、楽器の役割との整合性を徹底したものが感じられる。
 シューベルトの交響曲全集の場合、初期の6曲と、円熟期の2曲との間に大きなスタイルの違いがあり、それぞれにどう取り組むのかが一つのテーマとなると思うが、ツェンダーは共通した方法で、どの楽曲をも美しく描き出しており、しかも未完成、ザ・グレイトの2曲については、名曲にふさわしい高い薫りも与えることに成功している。ツェンダーの論理的明快性が、心地よく解決に導いた、理知的快演といったところだろう。

シューベルト 交響曲 第1番 第2番
ジンマン指揮 チューリヒ・トーンハレ管弦楽団

レビュー日:2013.8.22
★★★★★ シューベルトの初期作品をふさわしい活力で描いた演奏
 アメリカの指揮者、デイヴィッド・ジンマン(David Zinman 1936-)による、蜜月の関係にあるチューリヒ・トーンハレ管弦楽団とのシューベルト(Franz Schubert 1797-1828)の交響曲全集シリーズから。当盤には2011年録音の交響曲第1番と第2番が収録された。
 これらの2曲はシューベルト初期の作品で、交響曲第1番が1813年(作曲者16歳)、第2番が1815年(作曲者18歳)にそれぞれ完成されている。いずれにしてもシューベルトの天賦の才を余すことなく示したものだ。
 後年の名曲のような深さこそないものの、次々と溢れてくるメロディーを、多くの人が受け入れやすい形でアレンジし、「交響曲」という形に仕立てる膂力は、すでに一流中の一流といったところ。なので、この2曲は「名曲」ではないものの、とっても「いい曲」なのである。
 さて、ジンマンの演奏。私は、ジンマンのシューベルトのシリーズは、すでにだいたい聴いており、現時点で第9番以外全部を聴かせていただいたのだが、結果的に一番良いと感じたのが当盤である。ジンマンのスタイルは、ピリオド楽器奏法を引用し、やや速めのテンポで、瞬間的な音色を多用し、アクセントの効果を高めたクセの強いものであるのだが、それがこれらの2曲に、ほどよくマッチしている感覚がある。
 交響曲第1番では冒頭の和音合奏が、短い間合いで弾力的に重ねられ、かつ一つ一つの和音に、ほどよい楽器の強弱のグラデーションが加えられることで、さわやかな風合いを演出しており、この作品の若やぐ魅力がこぼれるように表現されているし、中間楽章の素朴で愛らしい旋律も、適度なアゴーギグにより、表情に深まりが感じられるのが良い。音楽に陰影を与えている。
 交響曲第2番は、付点の扱いがいかにもピリオド奏法で、これが繰り返されるのだけれど、曲想が軽やかなので、しつこく響く感じがなく、むしろ適度な呼吸を与え、ふくよかなリズム感として作用している。終楽章も飛び跳ねるようなリズムの連続で、健康的に楽しく聴ける。この音楽は、これらの解釈で、聴き手が望むものについては十分獲得できているように思う。
 ピリオド奏法特有のアクセントやクセが気になるということも、人によってはあるかもしれないが、シューベルトの初期の瑞々しい才能が示されたこの2つの交響曲を楽しむにあたって、当盤の演奏は、一定以上のレベルでその求めるところに応えたものだと感じられた。

シューベルト 交響曲 第1番  ヴォジーシェク 交響曲
ヘンゲルブロック指揮 ドイツ・カンマーフィルハーモニー・ブレーメン

レビュー日:2015.4.17
★★★★☆ 古典派からロマン派への過渡期に書かれた2つの佳作交響曲
 ヘンゲルブロック(Thomas Hengelbrock 1958-)指揮、ドイツ・カンマーフィルの演奏で、以下の2曲を収録したアルバム。
1) ヴォジーシェク(Jan Vaclav Vorisek 1791-1825) 交響曲 ニ長調 op.24
2) シューベルト(Franz Schubert 1797-1828) 交響曲 第1番 ニ長調 D.82
 1996年の録音。ピリオド楽器による演奏。収録時間は55分程度と短いが、魅力的な選曲と演奏である。ヴォジーシェクの交響曲が書かれたのが1823年、シューベルトの第1交響曲が1813年だから、だいたい同じ頃の作品を組み合わせたといった雰囲気だが、それ以上に、ヴォジーシェクのこの佳作は、シューベルトと相性が良いように思う。二人とも同じ時代を生き、夭折した作曲家であるが、それ以上に音楽の持つ気風が似通っている。
 当盤は、ヴォジーシェクの交響曲の認知を広めることに貢献したと書いてあるものもあるが、個人的には、その点で最大の功績をもたらしたのは、マッケラス(Sir Charles Mackerras 1925-2010)であり、彼は60年代から、この曲をライヴでも取り上げ、録音も行っている。私がこの曲に親しんだのも、マッケラスの演奏を通じて。また最近ではエリシュカ(Radomil Eliska 1931-)と札幌交響楽団にも注目すべき録音がある。
 マッケラスやエリシュカの演奏と比べると、当ヘンゲルブロック盤は、いかにもピリオド楽器の特性を活かしたスタイルで、楽曲の優美さよりも、強烈な対比点を設定することで、音楽の起伏を強く刻んでいる。ダイナミックレンジが広く、ティンパニやトランペットも鋭角的に打ち鳴らされる。
 この攻撃的といってよいアプローチは、刺激的なアクセントを生み出す。スケルツォ楽章のエネルギッシュな表現も熱血性を帯びる。
 天才シューベルトが10代半ばで作曲した第1交響曲も同様のアプローチで、拍の刻みが明瞭なため、中間楽章など舞曲的な雰囲気を醸し出している。面白いが、ピリオド楽器演奏に共通する画一性も感じさせてしまうところだ。
 全般に刺激的な演奏ではあるが、「うるささ」もあちこちで顔を出す印象。なので、いわゆるピリオド奏法が好きという人にはとても良いと思うが、それ以外の方には、両曲とも、他の現代オーケストラによる名演良演が他にあるので、収録時間の短さも考え合わせると、当アルバムはオススメアイテムとまでは行かないかな、といったところでした。

シューベルト 交響曲 第1番 第2番 第3番 第4番「悲劇的」 ロザムンデから「バレエ音楽第1番」「第3番」  ウェーバー 「魔弾の射手」序曲
カラヤン指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

レビュー日:2006.2.19
★★★★★ 帝王が振ったシューベルトの初期作品
 カラヤンによるシューベルトの初期交響曲集。ベルリンフィルとの名演が廉価盤となった。たいへん入手しやすい。収録曲であるが、交響曲第1番から第4番の4曲に加え、ロザムンデのバレエ音楽第1番と第3番、さらにおまけでウェーバーの魔弾の射手序曲まで収録されているお徳用だ。
 シューベルトの初期交響曲はいわゆる名曲ではないが、音楽の喜びや自由な楽想の発芽がすばらしく、実に魅力的で豊な音楽である。中でも、第2番や第4番はベートーヴェンへの意識が強く感じられる充実した作品だ。
 シューベルトの初期作品の演奏方法はさまざまに考えられる。例えば最近ではインマゼールやノリントンのようにオリジナル楽器による演奏もあるし、シュタインやベームのように堅牢な堅気の音楽もある。アーノンクールのような指揮者のカラーに染め抜かれたものもある。多様な表現が可能なのは、楽曲が思いのほか演奏の幅をもたせうるからで、中にあってカラヤンは実に豪壮な音楽を繰り広げた。
 カラヤンの場合、これらの楽曲がシューベルトの初期の作品であり、後期の大作に比してまだまだ若書きの作品であるという前提はあまり意味がない。むしろ、まっすぐに楽譜を見詰め、それをカラヤンなりの技法を燦然と惜しげも無く与えて、オーケストラから輝かしい響きを引き出し、聴衆を音楽の悦楽に浸すことに徹底する。そのスタンスは批評家を一顧だにしない、まさに「帝王の芸風」と言えるものだ。
 第1番の冒頭、これほど末広がりで壮大に開始されるシューベルトの第1はカラヤン以外の誰がやっても、こううまくは行かないだろう。それを王道の説得力で見事に鳴らしきった恰幅の良さ。これは見事である。この2枚組みのCD、筆者はかなり気に入った。

交響曲 第1番 第4番「悲劇的」
ブリュッヘン指揮 18世紀オーケストラ

レビュー日:2017.8.24
★★★★★ ブリュッヘンのバランス感覚が活かされた初期のシューベルト
 フランス・ブリュッヘン(Frans Bruggen 1934-2014)指揮、18世紀オーケストラによるシューベルト(Franz Schubert 1797-1828)の交響曲全集のうち、いちばん最後に録音された2曲を収録したもの。交響曲 第1番 ニ長調 D.82 と 交響曲 第4番 ハ短調 D.417「悲劇的」。1996年のライヴ録音。
 ブリュッヘンのシューベルトについて、私は後期の2曲(未完成交響曲とザ・グレイト)以外はとても素晴らしいと思う。私は、シューベルトの初期の交響曲を初めて聴いたのは、父が大好きだったカール・ベーム(Karl Bohm 1894-1981)の録音で、それは音楽としての立ち振る舞いが凛々しく、全体的な音響の豊かさも見事なものであった。その後、カラヤン(Herbert von Karajan 1908-1989)の豊饒な演奏や、スウィトナー(Otmar Suitner 1922-2010)の洗練された流麗な演奏を通じて、これらの愛すべき佳曲たちに親しんできた。
 ブリュッヘンの演奏は、当然のことながら、ピリオド楽器の使用と言う点で、前提が異なっている。その前提でのアプローチによって、相応の相応しさをもって私に響いてくるのは、シューベルトの場合、初期の交響曲となる。
 ピリオド楽器による演奏の場合、従来のものとテンポにかかわる反応が異なる。一言でいうと、ラジカル(反応性が高い)ものになる。その一方で、強弱のニュアンスについては、特に管楽器において現代楽器ほどの器用さがない分、パターン化しやすい。そのような条件下で楽曲に音楽的表現を求めた場合、やはり古典的な作品でないと、「作品の要求」に応えきれない部分が多くなってしまう。
 それで、ピリオド楽器で演奏する場合、アーティキュレーションの演出には、テンポと強弱のメリハリによる部分の比重が高まる。ブリュッヘンの良さは、そのことに盲目的に頼らず、マイルドな味わいを残している点にある。学術的なものに染まり切らず、自身の表現したい音楽というものがまずあるのだ、ということを感じさせてくれる。ブリュッヘンという演奏家の根本にあるロマン性は、彼の奏でるシューベルトからも十分に感じられる。第1番の終楽章のように第6番に通じるイタリア風の楽章で、ブリュッヘンのバランス感覚は絶妙に奏功していると言って良い。
 第4番でも、第1番同様に、テンポの変動があり、全合奏によるフォルテの音質が画一的だが、それを過激さで覆そうとせず、十分な歌謡性を持ってシューベルトの旋律を歌ってくれる。付点のリズムなど、いかにもなところが繰り返されるが、飽きに通じないのは、旋律に添えられる情感が豊かだからだ。
 ブリュッヘンの音楽性に沿った2曲と言うことが出来、聴き易く楽しい演奏に仕上がっています。

交響曲 第2番 第3番 第5番
ブリュッヘン指揮 18世紀オーケストラ

レビュー日:2017.8.23
★★★★★ ブリュッヘン指揮によるシューベルトでもっとも成功を感じさせる1枚
 フランス・ブリュッヘン(Frans Bruggen 1934-2014)指揮、18世紀オーケストラによるシューベルト(Franz Schubert 1797-1828)の交響曲集。すべてライヴ音源で、収録曲と録音年は以下の通り。
1) 交響曲 第2番 変ロ長調 D.125 1995年録音
2) 交響曲 第3番 ニ長調 D.200 1995年録音
3) 交響曲 第5番 変ロ長調 D.485 1990年録音
 ブリュッヘンのシューベルトのシリーズで、特に良い面が出た楽曲が収録された1枚と思う。中でも特筆したいのが交響曲第5番である。
 交響曲第5番は、小さな編成で書かれた交響曲である。それがピリオド楽器の特性とよく合い、当演奏は、チャーミングで喜びに満ちた響きに溢れている。ブリュッヘンは、ピリオド奏法を踏まえているとはいえ、過激な表現に固執することなく、旋律をしっかりと伸びやかに、ほどよい太さをもって表現しているところが良い。第1楽章は快速だが早すぎず、歌うところは存分に歌っている。第2楽章も情感が素直に表出して、しっとりした味わいがもたらされていることは素晴らしい。第3楽章の適度なゆとりの幅、第4楽章もしっかりと足の着いた活発さがあり、この交響曲の魅力を、すべての楽章で十全に活かしきった感がある。ブリュッヘンのシューベルト録音では、この第5交響曲が最高の出来栄えと思う。
 他の2曲も良い。交響曲第2番は、冒頭の音に適度な厚みがあって、ピリオド奏法の弱みを感じさせないのが良い。付点音も妙なクセがなく、伸びやかだ。展開に入ってからの軽やかな疾走は、音色の暖かさ、適度な透明感、旋律線の豊かな響きがあいまって、絶好の成果を得ている。中間楽章ではやや低音が弱くなる傾向が感じられるが、それでも大きな欠点とまでは言えず、むしろ例えば第3楽章の暖かい響きを持続しながらの推進がもたらす豊かさは、幸福感に作用するだろう。明朗な抒情性も相応しい。交響曲第3番も同様で、ピリオド奏法らしい特有のテンポの揺れはあるものの、大胆というほどではない。そこには、常にブリュッヘン一流のバランス感覚が働いているのだろう。楽曲の規模の点でも、ピリオド奏法によってふくよかさを失う部分は少なく、現代楽器による演奏と比べても聴き劣りはしない。
 ブリュッヘンのシューベルト、どれか1枚聴いてみたい、ということであれば、当盤が絶好だろう。

交響曲 第3番 第4番「悲劇的」
ジンマン指揮 チューリヒ・トーンハレ管弦楽団

レビュー日:2013.8.7
★★★★☆ ピリオド奏法へのこだわりに、若干の疑問を感じる一方で、面白さもある
 たいへんなスピードで、RCAレーベルから、続々と新譜をリリースしているデイヴィッド・ジンマン(David Zinman 1936-)とチューリッヒ・トーンハレ管弦楽団によるシューベルト(Franz Schubert 1797-1828)の交響曲全集のプロジェクトから。当盤には交響曲第3番と第4番「悲劇的」が収録された。2011年の録音。
 シューベルトの8曲の交響曲のうち、第1番から第6番の6曲は、シューベルトが21歳までに書いたもので、シューベルトの天才を端的に示すものとなっている。ここに収められた2曲も、第3番が18歳、第4番が19歳の時の作品である。これらの作品を聴くと、31歳の若さで世を去ったシューベルトの夭折があらためて惜しまれてならないとともに、これほどの才に溢れながら、生前きちんと世に認められることのなかったシューベルトの不幸に、あらためて思いを馳せてしまう。
 じっさい、初期の作品の中でもこれらの2曲において、私は特にシューベルトの将来の飛躍を感じる。楽想のふくらみ、旋律の扱い、劇性の表出等。
 ジンマンの演奏は、現代楽器を用いながらピリオド奏法によるもので、基本的に速いテンポで颯爽と進みながら、豊かな装飾音の挿入で、華やかな効果を盛り上げている。音色自体はビブラートを控えたまっすぐな音だが、前述のテンポと装飾音、瞬発的な強弱により、アーティキュレーションを与えている。
 そうして作られる音楽は、強弱の起伏が大きいにも関わらず、一本調子で淡々と進むところがある。それで、各楽章のリピートなども、省略せずにやっているのだけれど、私は元来、ピリオド奏法の場合、リピートはむしろしないでそのまま前進した方がいいのではないか(無論、一概には言えないのですが)と思っているのだけれど、この演奏でも、やはりリピートによって、むしろ単調な雰囲気が強調されてしまっているようにも思える。
 ただ、私は基本的に、(楽曲・演奏にも依るが)現代楽器奏法の方が好きな人間なので、この点については、もちろん評価者によって意見が分かれるところだというのも承知しているが、その上で、この演奏にも、そういったピリオド奏法ならではの欠点を感じてしまった、というのが正直な感想。
 しかし、その一方で、劇的な抑揚はよく表出されていて、交響曲第3番の第1楽章など、心地よい推進性と相まって、効果的な音楽が豊かに供給されていると感じられる。
 交響曲第4番は、シューベルト自身によって「悲劇的」と命名されているが、ジンマンの演奏はその命名に相応しい劇性に満ちたアプローチであり、ピリオド奏法特有の音の軽重に慣れれば、これはこれで面白いと感じた。
 以上の様に、基本的にピリオド奏法が好きな人に、より好まれる内容かと思う。

交響曲 第5番 第6番
ジンマン指揮 チューリヒ・トーンハレ管弦楽団

レビュー日:2013.8.7
★★★★★ ベートーヴェンの影を感じる第6番にやや演奏の特徴を感じる
 RCAレーベルから、続々と大作曲家たちの交響曲の「全集」をリリースしているデイヴィッド・ジンマン(David Zinman 1936-)とチューリッヒ・トーンハレ管弦楽団。このたびのターゲットはシューベルト(Franz Schubert 1797-1828)。当盤には交響曲第5番と第6番が収録されている。
 さて、最後の2つの大傑作(「未完成交響曲」と「ザ・グレイト」)以外にシューベルトの交響曲は第1番から第6番までの6作品が知られている。初期の6曲の作品についても、魅力的な作品なのだが、これらは1813年から1818年頃にかけて書かれたとされている。つまり、シューベルトが16歳から21歳にかけて書いたものということになり、その天性の異才を明らかにするものとしても知られる。
 これらの初期の6曲についても、いろいろな録音が出ている。しかし、これらの作品では、少なくとも私の場合、それほど演奏によって印象が大きく違うという経験がなくて、どれで聴いてもわりと同じような感じといったところ。ピリオド楽器の高速演奏もいくつか出てきたが、それもピリオド楽器の演奏同志の間では、さほど差異はないように思える。
 というのは、これらの楽曲のスタイルが、天性のメロディが素直に歌われる性格のものであり、主題を用いた論理的な展開があったり、深刻な感情表現が行われたりするわけではないからである。実に天衣無縫なチャーミングな音楽で、誰がやってもそこそこ同じような表現に帰結する。
 そこで、当盤も間違いなくそのような良演・佳演の一つに属すると思う。ただ、当盤ならではの代表的な特徴として「ピリオド楽器の奏法を一部踏襲した現代楽器による演奏」ということがあげられる。そのため、テンポはやや速めで、金管楽器なども短めの、どちらかというと瞬発的な音がよく聴かれる。現代楽器ならではの輝かしい響きとの共存は、通常のピリオド楽器演奏より、やや重い感じはある。
 有名な第5番より、むしろベートーヴェン(Ludwig van Beethoven 1770-1827)を意識して書いたと思える第6番の方に、それらの強い個性が出ているように思う。特に第3楽章のスケルツォ(この楽章ではベートーヴェンの交響曲第7番のスケルツォとの類似はよく指摘される)では、ベートーヴェンの偉大な影を感じさせる響きをやや強調して引き出すことで、この交響曲の特性を打ち出していると思う。
 交響曲第5番は初期の6曲の中ではもっとも評価の高い瀟洒な作品であるが、ジンマンの演奏も心地よいリズムで、健やかな前進性に溢れ、幸福感を感じさせるもの。ただ、この交響曲の演奏は、どのような演奏も、おおむねこのような傾向になるとも思う。なので、これらの曲であればこの演奏、という風に当盤一本を強く推すということではまったくないのだけれど、良質好演盤の一つとしては、まったく問題のない内容と思う。

シューベルト 交響曲 第5番 第8番「未完成」  ドヴォルザーク 交響曲 第9番「新世界より」  シューマン 交響曲 第4番
ベーム指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

レビュー日:2019.6.11
★★★★☆ ベーム晩年のスタイルが良く表れた録音です
 カール・ベーム(Karl Bohm 1894-1981)が、晩年にウィーン・フィルハーモニー管弦楽団と録音した4つの名交響曲を収録した2枚組。収録内容は以下の通り。
【CD1】
1) シューベルト(Franz Schubert 1797-1828) 交響曲 第8番 ロ短調 D759 「未完成」 1977年録音(ライヴ)
2) ドヴォルザーク(Antonin Dvorak 1841-1904) 交響曲 第9番 ホ短調 op.95 「新世界より」 1978年録音
【CD2】
3) シューマン(Robert Schumann 1810-1856) 交響曲 第4番 ニ短調 op.120 1978年録音
4) シューベルト 交響曲 第5番 変ロ長調 D485 1979年録音
 このうち未完成交響曲は、ホーエンエムスで開催されたシューベルト音楽祭におけるライヴ録音。他の3作品はスタジオ収録されたもの。
 私の父は大のベーム・ファンだった。ただ、父が好きだったのは60年代の、主にベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を振った録音で、それらは筋肉質と称したい締まりのある響きをベースとしながら、端然と構成美を示し、その中で品よく歌が奏でられるものだった。私も、この時代のベームが録音したモーツァルトやシューベルトは随分聴いたものだ。
 その後、私も自分でレコードやCDを購入するようになり、70年代のベームの録音も聴くようになった。なるほど、父の言う通り、ベームのスタイルは60年代のイメージから変わっていた。ウィーン・フィルを振ることが多くなったことも一因かもしれないけれど、従来のように音像の輪郭やその均質的な構成感は後退し、代わって大局的な音楽観で、雄大なものを志向するように感じられた。しかし、それらの録音も悪くはなかった。特に、ベームがこの時代にウィーン・フィルやバイエルン放送交響楽団などを振ったブルックナーが私は大好きで、よく聴いている。
 そんなベームは、最晩年になって、これまで録音してこなかった作品にも手を広げるようになった。当盤のドヴォルザークや、あるいはチャイコフスキーの後期の交響曲などである。決して従来のスタイルだとアプローチのしにくい曲だとは思わないが、これらの楽曲と「雄大な表現」という(印象上での)志向性は、相応の蓋然性を思わせる。
 当盤に収録された4曲でも、ベームは裾野の広い音楽を感じさせる。全般にテンポはゆったりとしていて、旋律を担う楽器を朗々と響かせる。以前のベームに比べると、細部の表現はやや軟焦点気味で、流れ気味のところはあるが、大要としては鳴りの良い音楽が導かれている。
 ベームのスタイルがもっとも分かりやすいのがドヴォルザークに思える。大きな構えで朗々と主題がなり、第2楽章なども旋律に膨らみがあり、情緒的だ。それは、やはり以前のベームとの「違い」として、知覚しやすいもの。このドヴォルザーク、聴き様によっては、野暮ったさを感じるところもある。それでも、私は、なかなか捨てがたい魅力があると思う。第3楽章の豊かな弦楽合奏の重量感ある表現は、ウィーン・フィルあってこそかもしれないが、心地よく、この曲に相応しい見栄があって、いいように思う。
 未完成交響曲は、旧来のベーム同様に、1楽章のリピートを省略しているが、弱音を弱め過ぎないベームの演奏は、中庸的な暖かみがあって、ある種の馴染みやすさを感じさせる。シューマン、シューベルトの第5も同様で、堂々として豊か。確かに現代の感覚では、部分的に精度の低い合奏音を感じるが、全体の流れの豊かさと、そこに宿る歌、ときに踏み込みの効いたアクセントなど、なかなか面白いと思う。
 確かに、詰めの甘さを感じさせるところも残るし、音造りに大雑把な感じを受けるところも散見できるのだけれど、ある意味大要を表現した音楽として、この時期のベームらしい暖かさやスケールの大きさも、一定の捨てがたい魅力に感じられる。

交響曲 第5番 第6番 第8番「未完成」 第9番「ザ・グレイト」 ロザムンデ序曲
カラヤン指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

レビュー日:2010.1.2
★★★★★ カラヤンと大オーケストラならではのシューベルト
 ヘルベルト・フォン・カラヤンとベルリンフィルハーモニ管弦楽団によるシューベルト。当2枚組ディスクには、交響曲第5番、第6番、第8番「未完成」、第9番「ザ・グレイト」に併せて「ロザムンデ序曲」が収録されている。録音は1975年から78年にかけて行われている。
 カラヤンとベルリンフィルのコンビは世の名だたる主要な交響曲をグラモフォン・レーベルに録音したが、シューベルトはEMIに録音した。EMIの録音はグラモフォン・レーベルに比べるとやや中間音がダマになる傾向があり、それがここでも少し気になるけれど、カラヤンとの入念な打ち合わせはあったに違いなく、ほとんど気にならない品質になっている。というより、いつものカラヤンらしい、末尾が広がる独特のニュアンスが保たれている。
 シューベルトの交響曲も最近では比較的小編成のオーケストラやピリオド楽器のオーケストラによって録音されることが多い。そういった意味で、このカラヤンの録音は、一時代前の産物と感じさせるが、それは決してマイナスの評価ではない。それどころかここで聴く音楽は素晴らしい魅力が横溢した名演である。
 最初に収録されている「ロザムンデ序曲」からして音のスケールが大きく、大オーケストラを鳴らしきった充実感と喜びに満ち溢れている。まるでワーグナーの楽劇が始まるかのような壮麗な序曲。一つ一つの音の響きがスピーカーから全空間に満ちていく。
 交響曲第5番は室内楽的な趣のある曲であるが、カラヤンの演奏は典雅なだけではなく、美麗さを併せ持っている。ベルリンフィルの豊穣な弦が圧巻で迫力を感じる。第6番は序奏から純ドイツ的ともいえる質感を湛えていて、様々な情景を垣間見せてくれる。最後の有名曲2曲もカラヤンならではの王道を歩んだ音楽で、衒いのない溢れるほどの力強い雄弁さを持っている。未完成交響曲の第2楽章は幽玄なほの暗さを表出していて興味深い。「ザ・グレイト」のフィナーレ目掛けて重なっていく音楽の量感も圧巻だ。

交響曲 第6番 第8番「未完成」
ブリュッヘン指揮 18世紀オーケストラ

レビュー日:2017.8.22
★★★★☆ ピリオド楽器で奏でられる未完成交響曲には、違和感をもってしまいます。
 フランス・ブリュッヘン(Frans Bruggen 1934-2014)指揮、18世紀オーケストラによるシューベルト(Franz Schubert 1797-1828)の交響曲全集の一環として録音されたもので、当盤には 交響曲 第8番 ロ短調 D.759「未完成」 と 第6番 ハ長調 D.589 の2曲が収録されている。1992年のライヴ録音。
 ピリオド楽器による演奏が広がって行くころ、シューベルトにおいてもいくつか録音が製作された。90年代に完成した全集としては、ブリュッヘンのものとインマゼール(Jos van Immerseel 1945-)のものが代表的だろう。
 当盤にはシューベルトの最高傑作として知られる「未完成交響曲」とイタリア風の響きを持つ第6番が組み合わされたわけだが、この2曲を聴くと、明らかに成功しているのが第6番の方だ、という印象を持つ。
 ピリオド楽器を用いた演奏の場合、楽器の能力的な強弱の制限が強まる。未完成交響曲のようにロマン派の濃厚な味わいや甘美性を宿した音楽には、ピリオド楽器は、基本的に不向きな感じを受ける。確かに部分的に透明度が感じられるが、それは中音域の薄みからもたらされるものであって、一般的な表現の意図としての主従関係は逆転しているのである。つまり、透明感を出そうとしているのではなく、そうならざるをえない。そこに音楽への関わりとし方として、奏者が主体であるのか、受け身であるのかという根本がまず一つある。さらに強弱のメリハリについても、やや拘束的な硬さを感じさせるものとなり、それはフォルテの「うるささ」という印象に直結してしまう。強い音、大きい音であるのはもちろん結構なのであるが、それに加えて「うるささ」が混じってくるのは、ピリオド楽器でロマン派の音楽に挑む場合の大きな壁になり、そして、このブリュッヘンの演奏においても、それはクリアされていない。
 それらの拘束条件、絶対的なディスアドヴァンテージを受け入れた上で演奏に挑まなくてはならない。その結果印象はどうなるか。
 シューベルトの音楽は「ウィーン的」である、と言われる。「ウィーン的」という言葉自体曖昧だが、個人的には、それは「機械的」と究極的に対峙する概念で、「甘美」や「酸味」を湛えた柔らかな豊穣さを指すものではないだろうか。そこには、「憧憬」や「渇望」といった人間的情緒が満ちている。ウィーンゆかりの作曲家シューベルトこそ、現実の暗がりと夢のまどろみを繋ぐ音楽を書いた人で、「未完成交響曲」はその究極的作品の一つだろう。しかし、私はピリオド楽器で奏されたシューベルトを聴くと、そういう感じがしない。もちろん、それでもいいのかもしれないし、私の勝手な考え自体が的外れな可能性も大いにあるのだけれど、かつて名演と言われた数々の演奏から伝わった芳醇で豊饒なものがあまり伝わらず、それよりもずっと乾いたソリッドのものが、とつぜん胸の前にストンと来るような感じを受ける。そこにどうしても違和感が残ってしまうのだ。
 それに比べると第6交響曲は良い。そもそも、この交響曲だと、そこまで作品に「含み」が大きくないし、むしろ前述の様なイタリア的な快活な表現があり、そこにブリュッヘンの演奏もよい形で収まるのである。ヴィブラートは少ないが、強烈なフォルテは必要ではなく、ほどよい明朗さの中に必要なものがほどよく配分された心地よさがある。テンポは動くが、巧妙に早足になりすぎることを避けていて、結果としては成功しているだろう。
 以上の様に、未完成交響曲については、私にはしっくり行かないところが残りますが、ピリオド楽器の音色自体が好きな人なら、良いかもしれません。

交響曲 第7(8)番「未完成」 ヴァイオリンと管弦楽のためための作品集(ロンドイ長調 D.438 協奏曲ニ長調 D.345 ポロネーズ ロ長調 D.580)
ジンマン指揮 チューリヒ・トーンハレ管弦楽団 vn: ヤンケ

レビュー日:2013.8.7
★★★★☆ 珍しいヴァイオリンと管弦楽のための作品が併録されています
 デイヴィッド・ジンマン(David Zinman 1936-)とチューリッヒ・トーンハレ管弦楽団によるシューベルト(Franz Schubert 1797-1828)の交響曲シリーズ。本盤の収録曲は以下の通り。
1) 交響曲 第7番「未完成交響曲」
2) ヴァイオリンと管弦楽のためのロンド イ長調 D.438
3) ヴァイオリンと管弦楽のためのポロネーズ ロ長調 D.580
4) ヴァイオリンと管弦楽のための協奏曲 ニ長調 D.345
 2011年の録音で、2-4)では、チューリッヒ・トーンハレ管弦楽団の若きコンサートマスター、アンドレアス・純・ヤンケ(Andreas Jun Janke1983-)が独奏を務める。
 シューベルトの交響曲は全部で8曲が知られている。しかし、番号上では「第7番」を「欠番」とし、第1番~第6番、及び第8番と第9番という番号が慣例的に振られている。これはシューベルトが友人にあてた書簡にあった「グムンデン・ガスタイン交響曲」が発見されていないため、これに該当する番号を欠番としたためである。最後の2曲は、第8番が「未完成交響曲」、第9番が「ザ・グレイト」と称される名曲である。
 しかし、異説で、失われたと考えられていた「グムンデン・ガスタイン交響曲」が、実は第9番が「ザ・グレイト」のことである、との考え方も最近強くなってきて、番号がソートされ直される傾向もある。その場合、第7番が「未完成交響曲」、第8番が「ザ・グレイト」となる。それで、本全集はこの表記方法に従って、「未完成交響曲」を「第7番」としている。
 演奏内容は、ピリオド楽器奏法を多用した現代楽器によるもの、といったところで、未完成交響曲も、速めのテンポで、かなりあっさりと進んで行く感じ。フォルテでブウァッとした急に膨らんで、そして急に閉じるような音色になっているのも、ピリオド奏法らしい。また、自在な装飾音の挿入があり、特に第2楽章で、主旋律を奏でるクラリネットやオーボエが、執拗に装飾音を挿入してくるのは、好みが分かれそうだ。
 楽曲としては、「ヴァイオリンと管弦楽のための作品」という珍しい3曲が加えられたのが興味深い。とはいえ、これらの楽曲は明朗な歌謡性を持ってはいるが、管弦楽の機能や役割と言った点では制約的で、それほど聴いていて面白いとは感じにくい。むしろ、これらの曲を聴くことで、シューベルトがきちんとした体裁の「協奏曲」を手掛けなかったことの理由がわかるような気がする。
 とはいえ、明朗に歌われる健やかな抒情性は、聴いていて気持ちの和むものであり、当然の事ながら、響きも調和的で、耳に優しいものであり、BGM的に室内に流すことで、暖かい気持ちになる効果はあると思う。ヤンケのヴァイオリンの特徴は、これらの曲だけでは判断できない部分を多く残すが、純朴で、無理なく歌うような印象。

シューベルト 交響曲 第8番「未完成」 ブラームス 交響曲 第3番
C.デイヴィス指揮 ドレスデン・シュターツカペレ

レビュー日:2018.4.18
★★★★★ デイヴィスとドレスデンによる味わいある名交響曲2編
 コリン・デイヴィス(Colin Davis 1927-2013)とシュターツカペレ・ドレスデンのライヴ音源をCD化した一連のシリーズの一枚で、以下の2曲が収録されたもの。
1) シューベルト(Franz Schubert 1797-1828) 交響曲 第8番 ロ短調 D.759 「未完成」
2) ブラームス(Johannes Brahms 1833-1897) 交響曲 第3番 ヘ長調 op.90
 1992年の録音で、いずれも10月22日のコンサートの模様。名交響曲2編を並べた形のプログラムだ。
 コリン・デイヴィスは、同オーケストラと1994年から96年にかけてシューベルトの交響曲全集を録音しているので、未完成交響曲については、それに先行する演奏ということになる。さて、当演奏であるが、そのシューベルトの方がより優れた印象である。シュターツカペレ・ドレスデンの深みのある弦の響きが、この交響曲にふさわしいコントラストを描き出している。非常に落ち着いた音楽の運びで、全体的な印象は内省的な厳かさを感じさせるが、クライマックスでは十分な慟哭があって、感動は大きい。デイヴィスのシューベルトへのアプローチは、全般にオーソドックスで、古典的なものと言って良い。すべてが、こうであろうという、きちんと記憶を踏襲するような折り目正しさに満ちている。第2楽章は、のちにセッション録音されたものと比べると、やや速めのテンポを主体とするが、合奏音の美しさはあいかわらずさすがであり、情緒が途切れることなく供給される。クラリネットの物憂い響きは特に忘れがたいものだが、ほかの楽器も含めて、豊かな響きに満ちている。なお、第1楽章はリピートを行っている。
 ブラームスも正統的なアプローチであるが、ややタメの「間」に人工的な感覚を残すところがあり、それ自体が悪いというわけではないが、両端楽章におけるその繰り返しがどこかフラットな印象に結び付くように感じた。もっとドラマチックな揺れがあってもいいのではないだろうか、と。とはいえ中間楽章に流れる暖かくやわらかな情感は、自然な美観に溢れているし、金管の力強い響きの呼応は、随所で聴きごたえに溢れた効果を導いている。全体としてみれば、さすがドレスデンはいい音を出す、という感想は、多くの人に共通するものとなるだろう。
 名曲2曲という組み合わせは、通して聴いたとき、存外に味気ない感じになることもあるのだけれど、さすがにデイヴィスとドレスデンは、それぞれにふさわしい世界を的確に構築し、聴き手を適度に落ち着けて、かつ熱狂させてくれる。

交響曲 第8番「未完成」 第9番「グレイト」
シノーポリ指揮 ドレスデン・シュターツカペレ

レビュー日:2012.7.31
★★★★☆ 未完成交響曲への解釈をおおきく変えたシノーポリ2度目の録音
 イタリアの名指揮者、ジュゼッペ・シノーポリ(Giuseppe Sinopoli 1946- 2001)がヴェルディのアイーダを振っている時に、檀上から崩れ落ち、そのまま亡くなったというニュースは衝撃的で、当時何度もニュースで映像が流されたと記憶している。私も、まさに活躍の盛りであった芸術家が、このような最期を遂げたことにたいへん驚いたものだ。
 あれから10年以上が経過した。私はシノーポリの録音を多く聴いてきたとは言えないが、印象に残っているものもあり、何かの機会に他の録音を聴き直したいと思っていたところ、グラモフォン・レーベルから16枚組のBOXセットが発売されたので、(すでに所有していたものも含まれたが)好機と考え購入させていただいた。それで、該当する内容のアイテムに思いつくことを、少しずつ書いていきたいと思う。
 これはシューベルト(Franz Schubert 1797-1828)の交響曲第8番「未完成」と第9番「ザ・グレイト」を収録したもの。ドレスデン・シュターツカペレを指揮しての1992年の録音。私は、シノーポリが指揮した未完成交響曲というと、すぐに思い浮かべる名盤があり、それがさらに10年ほど前の1983年にフィルハーモニア管弦楽団と録音したものである。それで、私には、就中その「違い」に興味が及ぶ。
 旧録音では、シノーポリは非常にゆったりとしたテンポを設定し、弦楽器のゆったりした振幅から深いダイナミクスを創出した、実に鮮烈な効果のある音楽を作り上げていて、今もって私の未完成交響曲のベスト録音となっている。ところが、この新録音はびっくりするぐらいにオーソドックスというか、スタンダードなのである。これは併録された第9交響曲のアプローチと共通させたという意図があるのかもしれないが、これほど一人のアーティストが一つの楽曲に対し、その解釈を大きく変更するというのは、ちょっとないのではないか、と思うくらいである。
 それでは、この当録音の「良さ」は何か?となると、旧録音のようにはっきりとした個性はないのだけれど、穏当なテンポでオーケストラの安定した響きを堪能させてくれるというような安定志向の良さと思う。もちろん、それが人によって没個性的と感じられるかもしれないが、オーケストラのサウンド自体は素晴らしいので、楽曲を楽しむ分には弊害とはならず、逆にオーソドックスな当方向的な強さが示されていると思う。
 一方、第9交響曲については、そのような比較もないので、率直に楽しんだ。こちらも安定した響きで、過不足を感じる部分はほとんどない。テンポを急くようなことはしないが、必要に応じてアッチェレランドなどの効果が織り込まれ、ふくよかなオーケストラサウンドと相まって、心地よい効果が得られている。管楽器の柔らかめで幅のある響きも曲想との相性が良く、的確だろう。後半2楽章は適度に分離された音響に腐心した感がり、力感という点では強調するより穏当にまとめた趣。まずは問題点の少ない良心的な演奏となっていると思う。

交響曲 第8番「未完成」 第9番「グレイト」
マッケラス指揮 スコットランド室内管弦楽団

レビュー日:2015.7.22
★★★★☆ シューベルトの「ウィーン的」なものについて考える1枚
 マッケラス(Charles Mackerras 1925-2010)指揮、スコットランド室内管弦楽団による、シューベルト(Franz Schubert 1797-1828)の以下の2つの名曲を収録したアルバム。
1) 交響曲 第9番 ハ長調 「グレイト」 D944
2) 交響曲 第8番 ロ短調 「未完成」 D759
 1998年の録音。
 私はこの録音を最近になってはじめて聴いたのだけれど、とても個性的なシューベルトに感じる。発売当時、話題になったのだろうか?おそらく国内盤が流通した形跡がないので、少なくとも日本国内では、それほど話題にはなっていなかっただろう。
 マッケラスは小編成のオーケストラを用いて、やや早めのテンポを維持し、金管の強奏なども踏まえたアクセントに意識の強い演奏を行っている。素朴な風情と、音響的な強さが、特有のバランス感覚を示しており、一種の新しい美観を創出するようなスタイルだと思う。クライマックスの押し出しの強さ、そして吹き渡る金管のリアリティ溢れる音色に、演奏の印象はかなり左右されるだろう。一方で、弦楽器陣の音などは、小編成ならではの光沢をもつ均一さのある響きである。部分的に痩せた音色にも聴こえるが、機動性は十分に発揮されているだろう。
 面白いシューベルトなのだが、聴いてきて「おや?」と思ったところがある。どうも、この演奏、私には「ウィーン的」には聴こえないのだ。ウィーンを象徴する作曲家シューベルトの作品を、オーストリアの指揮者であるマッケラスが振って非ウィーン的な印象がもたらされるということが、面白いと言えば面白い。
 そもそもシューベルトの音楽には歌が溢れている。「ウィーン的」を説明するのは難しいが、それはいわゆる「機械的」の究極の対義語として使用されることが多いのではないだろうか。シューベルトの、例えばピアノ・ソナタなど、他の人の作品と比べると、演奏の良し悪しは別として、奏者の「いまの気持ち」を伝えるのに、最高の媒体だ。シューベルトの作品は、シューベルトの心情を表現するとともに、奏者の気持ちを率直に表現できる素養を存分に持っている。
 つまり、オーケストラでも、私が「ウィーン的」を感じるのは、様々なところに詩や歌があり、その中から憧れや不安、恐怖といった人間の感情が伝わってくるような演奏であり、おそらく多くの人がシューベルトに求めるのは、そのような要素だと思う。
 ところが、このマッケラスの演奏から受ける印象は別物だ。機械的というわけではないが、前述した金管の鋭い立ち上がり、起伏の表現に、線的な成分を見出し、その蓄積によって、私の中には「非ウィーン的」な印象が形成されたのだろう。
 リアリズムに徹した音質と併せて、そのような方向性の録音芸術として、私は面白いと感じたが、その一方で、よりシューベルトらしいものに対する渇望のような気持ちも残ってしまう演奏だと思う。

交響曲 第8番「未完成」 第9番「グレイト」
ヴァイル指揮 ザ・クラシカル・バンド

レビュー日:2021.12.3
★★★★☆ ピリオド楽器とピリオド奏法を用いて、ロマン派の名交響曲を録音するということ
 ドイツの指揮者ブルーノ・ヴァイル(Bruno Weil 1949-)とピリオド楽器によるクラシカル・バンドによるシューベルト(Franz Schubert 1797-1828)の下記の名作2曲を組み合わせた録音。
1) 交響曲 第8番 ロ短調 D.759 「未完成」
2) 交響曲 第9番 ハ長調 D.944 「ザ・グレイト」
 1991年の録音。
 いかにも小編成のピリオド楽器オーケストラらしい演奏。速めのテンポで、弦楽器の響きは薄めで、代わって管楽器とティンパニの音の支配力が増している。テンポは全般に速い。ピリオド楽器の演奏の場合、リピートも忠実に行うことが一般的であるが、当録音では、カットを採用しており、演奏時間も短い。個人的には、ピリオド奏法の執拗なリピートは、飽きを招くことがあるので、リピートのカットは良い判断に思える。
 全体としては、とにかく軽やかで、風通しのよい演奏。未完成交響曲も、悲劇色はあまり感じられず、明るい。両曲とも細かいアクセントが入ることで、リズムが明瞭化されており、テキパキ感が強い。この演奏を聴いていると、いわゆる名曲的な、情動の大きさとか、聴き手への心理的影響の大きさは、強くなく、むしろそういったものを、すっきりと洗い流して、平衡化を目指した感がある。
 これは、ピリオド楽器による演奏全般に言えることだが、様々な制約によって、演奏の内容が均質化し、ことに浪漫派の名曲では、現代楽器による演奏と比較して、その名曲特有の芳醇な香気が、希釈化される傾向にある。たまに聴くと面白いけれど、あまりにもそういう録音ばかりが並んでくると、その価値を再考したくなる。確かに、作曲当時の楽器を使用すれば、当時のスタイルに近い演奏にはなるのだと思うが、作曲当時は、録音技術はなかったし、それゆえに、演奏毎の個性という価値観も現代とは違っていたに違いないので、現代では現代の芸術の敷衍の仕方というものがあると思う。少なくとも録音芸術についてはそうであろう。
 と書いていると、ネガティヴな印象ばかりになるかもしれないが、この演奏自体は、ピリオド奏法の特徴を活かしながら、質の高いものを提供できていて、悪くない。特に交響曲第9番、第2楽章の弦と木管が交錯しつつ、楽想を深めていくところの風合いは印象深く、その美しさは心に残った。

交響曲 第9番「ザ・グレイト」 魔法の竪琴序曲
ノリントン指揮 シュトゥットガルト放送交響楽団

レビュー日:2005.8.20
★★★★★ ここまでぶっちぎれば文句はない
 かつてロジャー・ノリントンはオリジナル楽器によるオーケストラ(ロンドン・クラシカル・プレイヤーズ)を指揮してシューベルトの交響曲全集を録音していた。その経緯を踏まえてこの現代楽器によるシュトゥットガルト放送交響楽団とのシューベルトの第9交響曲の面白い録音が生まれているのは間違いない。
 このノリの軽さはただごとではない。ただ軽いだけではなく、自由な歌謡性と瞬発力を兼ね備えており、縦線のリズムが実に鮮やかに健康的に響く。第1楽章では冒頭のホルンからやや軽い音色である。その後の弦の受け継ぎからして私達はその古楽器風のボウイングを楽しむことになる。木管、金管のクレシェンドの幅は大きく鋭く、弦の刻み幅も短く軽快で間延びしない。それでいて迫力に不足しないのは、その軽さを武器にスピーディーに展開でたたみかける心地よい圧力が常に働くからだ。飽きない、楽しい演奏である。あきらかに新しい。新鮮だ。第2楽章も心地よいリズムにのって軽やかにすすむし、決め所のティンパニも迫真の音だ!ここまでぶっちぎれば文句はない。
 ちなみに「魔法の竪琴」序曲というのは「ロザムンデ」序曲の別名。

シューベルト 交響曲 第9番「ザ・グレイト」 ロザムンデ間奏曲第3番  ベートーヴェン エグモント序曲 コリオラン序曲
ブリュッヘン指揮 18世紀オーケストラ

レビュー日:2009.5.23
★★★★☆ すでに本流の演奏を聴いた後にどうぞ・・というクセのある演奏です
 1992年録音のブリュッヘンと18世紀オーケストラによるシューベルトの交響曲第9番。ブリュッヘンは古学奏法の研究家であり、優れた音楽家である。18世紀オーケストラというピリオド楽器によるオーケストラを編成し、かなり広範囲のジャンルに録音を残した。独特の付点リズムや、楽器のバランスで耳新しい音色を提供したことは大きな魅力である。
 ところで、日本では不思議な現象が起きた。批評家が絶賛して(そしていまなお評価の高い)ブリュッヘンの数々の録音が、リスナーにはさほど受け入れられず、そのため国内盤はほとんど廃盤となり、輸入盤が細々と入ってくるだけの現状とあいなった。この現象は、それこそ無数とも言える量の演奏や録音に接してきた批評家にとっては、無意識のうちに「刺激的で斬新なスタイル」=「いい演奏(価値のある演奏?)」の変換が行われているのに比し、世の中ではやはり「まずはオーソドックスなもの」がゆるぎない主流であることの一つの象徴なのだと思う。だから、次々と学究的で研究的な録音が打ち出されても(それを貶めるつもりは毛頭ないが)、やはり、例えばカラヤンのモーツァルトなどが人気の本線であり、潜在的に「クラシック的」であり、おおむね、リスナーをすべからく満足させるのである。
 つまり、私もこのブリュッヘンの演奏に、ピリオド楽器ならではの風合いやリズムを随所に見出し、そのことを面白がって聴くのだけれど、「シューベルトのグレイトってどんな曲?聴いてみたい」という人には、薦めないのである。私なら・・・そう、ベームとかテンシュテットあたりを最初に聴いてもらいたいと思う。このブリュッヘンのグレイトや、あるいは最近のノリントンの名演なんかも含めて、それらを聴くのは、その次の扉を開くぐらいのリスナーになった時でいいと思う。そうなるとハマルかもしれないですけど。

交響曲 第9番「ザ・グレイト」
ヘンゲルブロック指揮 北ドイツ放送交響楽団

レビュー日:2020.12.14
★★★★☆ 透明な音色で軽やかに描きあげたザ・グレイト交響曲
 2011年に北ドイツ放送交響楽団(現・NDRエルプフィルハーモニー管弦楽団)の首席指揮者に就任したトーマス・ヘンゲルブロック(Thomas Hengelbrock 1958-)が、同オーケストラを指揮して2012年にセッション録音したシューベルト(Franz Schubert 1797-1828)の“交響曲 第9番 ハ長調 D.944 「ザ・グレイト」”。
 なお、CDジャケット及び当サイトのタイトル表示には「Sinfonie NR.8(交響曲 第8番)」の表記が示されているが、日本でおなじみの、“7番を欠番扱いした番号表記方式”では、「第9番」となり、収録されているのは、ハ長調のザ・グレイト交響曲である。お間違いなく。
 さて、演奏であるが、ヘンゲルブロックらしいいわゆるピリオド奏法を応用した解釈である。音価の配分や、強弱の対比感、フレーズの扱いなど、現代楽器のスペックを用いながら、ピリオド的な響きを目指しており、パワーより透明感が主たる印象としてもたらされる。
 オーケストラは現代楽器なので、音自体の安定性はしっかりしており、冒頭のホルン・ソロも、結果的にとてもやわらかな響きで、耳に心地よい。その後も、相対的な印象として、健康的で軽やかな音作りがもたらされる。第1楽章はこの交響曲らしい壮大さは若干控えられ、代わって室内楽的とも言える細やかなアゴーギグがあり、瀟洒な面白味を味わわしてくれる。第2楽章では、木管の透明な響きが瑞々しく、全合奏のフォルテもズシンと来ると言うよりは、ふわっとした手ごたえで、胃もたれとは無縁の清涼さがあって、なかなか良い。第3楽章では、ピリオド奏法ならではのあざとさが、やや単調な感じを催すが、全体にスキッとしていて、そこまで長すぎない良さがある。第4楽章は軽快な足取りで、終結部も意外なほどあっさりした響きである。
 全体的には、とにかく聴き疲れしない、軽やかな響きが魅力的。私は、はじめて聴くディスクについては、2,3日かけて、3,4回繰り返し聴くことが多いが、このCDは、連続再生しても、まったく負担を感じずに聴くことが出来た。ただ、それが、シューベルトの「ザ・グレイト」交響曲にふさわしい利点なのかは、確かに考えどころで、本来、この楽曲は、一度聴いたら、またすぐ最初からもう一度聴きなおすような性格の作品ではないような気もする。うまく表現するのが難しいが、一度通して聴くことにより、聴き手の側から、相応の聴くためのエネルギーを消費する性格のある音楽のような気もする。私がこの曲でいちばんよく聴くのは、テンシュテット(Klaus Tennstedt 1926-1998)の録音なのだが、このヘンゲルブロックの録音と比べて演奏時間がはるかに短いにもかかわらず、何度も続けざまに再生するのに抵抗がないという感じはしない。
 さて、それではこのヘンゲルブロックの録音をどこに位置付けるか、というと、当盤の特徴である「現代楽器によるピリオド奏法のザ・グレイト」をどのように評価するかということになるのだが、実はその点でもノリントン(Roger Norrington 1934-)盤という強力なライバルが存在していて、当ヘンゲルブロック盤は分が悪い。少なくとも、私はノリントンとヘンゲルブロックであれば、より積極的な踏み込みで、この交響曲の熱血的な部分も含めて存分に描きあげた感のあるノリントン盤の方をとる。というわけで、競合盤との比較で考えると☆4つとなるだろう。当盤の澄み切った爽やかさは、それなりの魅力ではあるが、この曲を代表する録音と言うには、もう一つなにかほしい。


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管弦楽曲

弦楽四重奏曲 第15番(ヴィクター・キーシン編 弦楽合奏版)
クレーメル指揮 vn: クレーメル クレメラータ・バルティカ

レビュー日:2013.1.25
★★★★★ シューベルトの名弦楽四重奏曲の弦楽合奏版です
 シューベルト (Franz Schubert 1797-1828)の名曲、弦楽四重奏曲第15番を、ロシアの作曲家ヴィクター・キーシン(Victor Kissine 1953-)が弦楽合奏版に編曲したものを、クレーメル(Gidon Kremer 1947-)の指揮とヴァイオリン、クレメラータ・バルティカ(Kremerata Baltica)の演奏で録音したもの。録音は2003年。クレメラータ・バルティカは、クレーメルの呼びかけで1997年に結成されたリトアニア、エストニア、ラトビアの演奏家からなる室内オーケストラ。
 クレーメルにとってシューベルトは重要な作曲家であり、その作品を多く録音している。また、弦楽四重奏曲第15番についても、ヨーヨー・マ(Yo-Yo Ma 1955-)らとメンバーを組んだ1985年のライヴの模様がCD化されている。一般に、ソリストとして活躍しながら、弦楽四重奏のジャンルにも挑戦することは、多いとは言えず、そういった意味でも、クレーメルにとって、特にシューベルトの弦楽四重奏曲第15番という作品には、強い思いがあるに違いないと思うし、また、この作品自体、人を強く惹きつけるのに十分な芸術的深遠さを湛えたものだと思う。
 しかし、弦楽合奏版という編曲という試みは面白い。確かにこの室内楽は、ブルックナー的とも言える荘厳な気配に満ちていて、その主題も、弦楽四重奏曲というジャンルの響きとして、他に比較が難しいくらいスケールを感じさせるものだと思う。
 聴いてみると、弦楽合奏ならではの重い響きがあり、また協奏曲的な独奏ヴァイオリンの引き立たせの挿入(これは第1楽章で特に特徴的)などにより、この曲の幻想性はより強調されたと思う。第1楽章冒頭の深い霧が立ち込めるようなイメージはブルックナーの交響曲に通ずるもので、思えばブルックナーもまた、シューベルトの作品から多くの霊感を受けた人だった。それで、この編曲自体、この楽曲の持っている本来の性格を助長させたものとなっている。
 その一方で、原曲が持っている弦楽四重奏ならではの峻嶮さや、厳しい相貌は、ソフト化されている。これはいたしかたないところで、弦楽四重奏曲という編成は、音楽的和声的に必要最小限にして最も緊密で充実したものだから、そこから編成を編曲した場合、損なうものはどうしてもある。
 逆に言うと、それでもあえて獲得した何かがあって、編曲者は編曲するのであり、この演奏はその編曲の意図を前述のようによく引き出していると思える。音楽の空想的なニュアンスはその深度の幅を大きくしており、しかも原曲の持っているドラマは損なわれてはいない。クレーメルのヴァイオリンは透明な光を思わせるし、全体として美しい帰結が得られたことで聴き手に不満を感じさせない。面白い試みの一枚として歓迎したい。


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室内楽

ピアノ五重奏曲「ます」 「しぼめる花」による変奏曲 「連梼」(「美しい水車小屋の娘」から)
p: ブラレイ vn: R. カピュソン vc: G. カピュソン va: コセ cb: ポシュ

レビュー日:2007.5.12
★★★★★ 居心地のいい部屋の家具配置のようなアンサンブル
 先日、訪れたゴルフ場のレストランでシューベルトの「鱒」がBGMで流れていた。様々な楽曲を聴くようになったが万人に愛聴される名曲は不思議と回帰するようにまた聴きたくなるものだ。
 当盤はフランスの若手奏者たちによる録音。メンバーはフランク・ブラレイ(p)、ルノー・キャプソン(vn)、ゴーティエ・キャプソン(vc)、ジェラール・コセ(va)、アロイス・ポシュ(cb)。収録曲はフルメンバーによる『ピアノ五重奏曲「鱒」』に加えて、ヴァイオリンとピアノによる『「しぼめる花」による変奏曲』と『「連梼」(「美しい水車小屋の娘」からの編曲)』の2曲が加えられている。2002年の録音。
 『「しぼめる花」による変奏曲』は変奏曲が得意だったシューベルトらしい佳作で、弦楽四重奏曲「死と乙女」の第2楽章にも通じる情緒に溢れた作品でふさわしい演奏内容になっている。
 メインの「鱒」ですが、たいへん清清しくかつ高貴で気持ちのよい演奏。まず各楽器がアンサンブルとしての役割をきわめて的確に果たしており、非常に居心地のいい部屋の家具配置のようになっている。互いの距離感が的確で、それぞれが互いの領域を適度に確保している。弦楽アンサンブルにあわせるピアノはなかなか難しいが、ブラレイのやや乾いた細やかなタッチはこのジャンルに適性を示している。人によってはもっと浪漫的な豊かな音色を求めるかもしれないし、私もそういう演奏も好きだが、ここでは彼らのセンスが存分に活きた録音を楽しんだ(録音はやや地味めな印象)。ゴルフ場のレストランで流れるのにもぴったりな録音かもしれない。

シューベルト ピアノ五重奏曲「ます」  ヴォルフ イタリアのセレナード  モーツァルト セレナード 第13番「アウネ・クライネ・ナハトムジーク」
タカーチ四重奏団 p: ヘフリガー db: カーヴァー

レビュー日:2016.5.13
★★★★★ 制約された音響から引き出された、香高い味わいが魅力の名演です。
 タカーチ弦楽四重奏団、アンドレアス・ヘフリガー(Andreas Haefliger 1962-)のピアノ、ヨーゼフ・カーヴァー(Joseph Carver)のコントラバスによる、以下の3曲を収録した1997年録音のアルバム。
1) シューベルト(Franz Peter Schubert 1797-1828) ピアノ五重奏曲 イ長調 D.667「ます」
2) ヴォルフ(Hugo Wolf 1860-1903) イタリアのセレナード ト長調
3) モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791) セレナード 第13番 ト長調 K.525「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」
 編成は、1)がピアノ、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバス、2)が弦楽四重奏、3)が弦楽四重奏とコントラバスとなる。各奏者がそれぞれ活躍できるようなプログラムといった感じ。
 録音当時のタカーチ弦楽四重奏団のメンバーは、第1ヴァイオリンがエドワード・ドゥシンベル(Edward Dusinberre 1968-)、第2ヴァイオリンがカーロイ・シュランツ(Karoly Schranz 1952-)、ヴィオラがロジャー・タッピング(Roger Tapping 1960-)、チェロがアンドラーシュ・フェエール(Andras Fejer 1955-)。
 とても瑞々しくさわやかな演奏である。特にシューベルトの名曲は、ヘフリガーのまろやかなピアノと、弦楽器奏者たちの柔らかなサウンドがあいまって、たいへんほのぼのとした暖かさの伝わってくる名演だ。
 第1楽章の冒頭から、奥ゆかしいピアノに導かれて、控えめながら輝きのある音楽が開始される。音楽が展開しても、ピアノの活躍は制約を感じさせるもので、人によっては物足りないと感じるかもしれないが、深い聴き味を感じさせる調和的な美観が全体を覆っていくにつれ、名演と呼ぶだけの何かを感じることとなる。第2楽章の憧憬的な一面も、弦とピアノのバランスが巧妙で、美しい息遣いで描かれる。有名な第4楽章の変奏曲は、のびやかな明るさが魅力。第5楽章の快活な表情もふさわしい。
 ヴォルフの「イタリアのセレナード」は、この作曲家が書いたもっとも高名な室内楽作品といって良い。当演奏はこの作品がもつ微細な表情の変化を屈託なく表現したストレートな内容といって良いだろう。
 末尾に収録されているのは、モーツァルトの有名なセレナードだが、弦楽五重奏版による演奏は聴く機会が少なく、録音も貴重と言って良いだろう。弦楽合奏版に比べて、主旋律以外の音が明瞭になっていることで、むしろ複層的な興味を刺激する内容となっている。音の厚みという点で原曲にはかなわないが、スリム化した響きならではの発見を感じさせる録音となっているだろう。

ピアノ五重奏曲「ます」 「しぼめる花」による変奏曲 ピアノ三重奏曲「ノットゥルノ」
p: ヘルムヘン vn: テツラフ va: タメスティ vc: ヘッカー cb: ポッシュ fl: バーテン

レビュー日:2019.1.8
★★★★★ 熟達の合奏で楽しむシューベルトの室内楽の世界
 ドイツのピアニスト、マルティン・ヘルムヘン(Martin Helmchen 1982-)を中心としたアンサンブルによるシューベルト(Franz Schubert 1797-1828)の室内楽3曲を収めたアルバム。収録曲は以下の通り。
1) ピアノ五重奏曲 イ長調 D.667 「ます」
2) 「しぼめる花」の主題による序奏と変奏曲 ホ短調 D.802
3) ピアノ三重奏曲 変ホ長調 D.897 「ノットゥルノ」
 協演者は以下の通り。
 ヴァイオリン: クリスティアン・テツラフ(Christian Tetzlaff 1966-) 1,3)
 ヴィオラ: アントワーヌ・タメスティ(Antoine Tamestit 1979-) 1)
 チェロ: マリー・エリザベス・ヘッカー(Marie-Elisabeth Hecker 1987-) 1,3)
 コントラバス: アロイス・ポッシュ(Alois Posch 1959-) 1)
 フルート:  アルドー・バーテン(Aldo Baerten 1969-) 2)
 2008年の録音。
 「ます」の名にふさわしい透き通った流れのように、自然で溌溂とした演奏だ。ピアノ五重奏曲の第1楽章で、ヘルムヘンとテツラフの呼応は、音楽的な意趣を交換する喜びに溢れていて、聴き手の気持ちを弾ませてくれる。その清々しい生命力と、風合い豊かな楽器の音色は、絶対的な魅力として伝わってくる。その響きは、シューベルトの音楽としては、ロマン性を引き締めた佇まいでもある。言い換えれば、とても古典的な作法を重んじた演奏。だから、このシューベルトからは、ところどころ、モーツァルトやベートーヴェン的な、構築性を尊ぶ響きが聴けてくる。
 私はそれが良いと思う。もちろん、そうである必要はないのだけれど、彼らは、このシューベルトに、如何に普遍的な価値に沿ったアプローチを追及できるか、探求したのではないか。その結果、シューベルトとしては、ややルバートも控えめに感じられる、シャープな縁取りを施したように思う。その結果として、響きの通りが良くなり、例えばコントラバスの音色も、そこにある必然性をしっかりと感じさせる説得力のあるものになっている。
 ヘルムヘンはテツラフと何度もコンサートで協演を重ねる間柄だったらしい。その経験を踏まえて、当演奏でも、両者の一致した表現意志が全体を貫き、音楽としての凛々しいたたずまいを導き出しているのだろう。有名な第4楽章の「鱒」の変奏曲は、心地よいまとまりと、伸びやかな広がりの双方があって、奏者たちの熟達と深い意志疎通を感じさせる。第5楽章は、典雅な楽しさと溌溂したリズムの交錯もふさわしい。
 「しぼめる花」の主題による序奏と変奏曲は、木製フルートを用いた演奏で、ソフトな味わいの仕上がり。繊細な表現が味わえる。
 しかし、「ます」以外の収録曲では、ピアノ三重奏曲「ノットゥルノ」の出来栄えが上回るだろう。再びテツラフを交えた編成で、引き締まりながらも、洗練をきわめたといって良い進展が心地よく、透明な情感が高い薫りを宿す。楽曲の価値を演奏が高めている好例だ。

シューベルト ピアノ五重奏曲「ます」  モーツァルト ピアノ四重奏曲 第1番
p: ブレンデル vn: ツェートマイヤー va: T.ツィンマーマン vc: ドゥヴェン cb: リーゲルバウアー

レビュー日:2020.9.14
★★★★★ 大家たちが奏でる安定と貫禄の名演
 下記のピアノと弦楽のための名曲2編を1枚にまとめたアルバム。
1) シューベルト(Franz Schubert 1797-1828) ピアノ五重奏曲 イ長調 D667 「ます」
2) モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791) ピアノ四重奏曲 第1番 ト短調 K.478
 各器楽奏者は以下の通り。
 ピアノ: アルフレート・ブレンデル(Alfred Brendel 1931-)
 ヴァイオリン: トーマス・ツェートマイアー(Thomas Zehetmair 1961-)
 ヴィオラ: タベア・ツィンマーマン(Tabea Zimmermann 1966-)
 チェロ: リヒャルト・ドゥヴェン(Richard Duven 1958-)
 コントラバス: ペーター・リーゲルバウアー(Peter Riegelbauer 1956-)
 1994年の録音。
 名だたる奏者が揃って、名曲2編が収められたアルバムということもあって、長年にわたって、「定番」として親しまれている録音。かく言う私は、以前、友人から借りたCDを聴き、なるほどと満足してから、その後なぜか入手せずにいた。何度か再版されているのだが、今回、随分廉価になっているのを見つけて、懐かしさも手伝って購入してみた。
 すでにすっかり評価の定着した録音なので、いまさら私が書き足すこともないのだけれど、自然でぬくもりのある響き、古典的まとまりと、適度な歌がバランスよく配合された「安定」という言葉をまず思いつく演奏である。これだけネームヴァリューのある奏者が会しているわけだから、より主張がぶつかり合うようなシーンがあっても、と思うのだけれど、楽曲の性格もあってか、それぞれが役割をこなすと言う合奏の基本を忠実に実行したような肌合いだ。かつ、楽器の響き自体がもつ輝かしさや高級感は、全面を通じて内側からあふれ出すようにして聴き手に届けられる。
 中で、もっとも各奏者の歌が伸びやかさを謳歌するのは、「ます」の由来となったシューベルトのピアノ五重奏曲の第4楽章であろう。ここでは、変奏曲ということもあり、華やかさ、流麗で伸びやかな歌がやや強めの主張を繰り出し、変奏のメリハリを明るく演出している。
 他の楽章は、均整のとれた造形性が重んじられた解釈といって良い。シューベルトのスケルツォなど、シンフォニックと呼びたい構造に即した響きが展開される。モーツァルトも同様で、悲劇的な第1楽章が弛緩なく凛々しく響くのが相応しい。終楽章の典雅さも、模範的と呼びたい節度があり、かつ美しい。奏者の貫禄を感じさせる名演となっている。

弦楽五重奏曲 弦楽四重奏曲 第12番「四重奏断章」
タカーチ四重奏団 vc: カーシュバウム

レビュー日:2013.2.4
★★★★★ シューベルトが死の直前にたどり着いた世界を伝える、深みのある名演
 タカーチ弦楽四重奏団による、シューベルト (Franz Schubert 1797-1828)の弦楽五重奏曲と弦楽四重奏曲第12番「四重奏断章」の2曲を収録。弦楽五重奏曲では、ラルフ・カーシュバウム(Ralph Kirshbaum 1946-)のチェロが加わる。2012年の録音。
 シューベルトが死の直前に完成した弦楽五重奏曲は白鳥の歌と呼ぶに相応しい気高い名品だ。ハ長調という調性は、シューベルトの最後の交響曲である第9番と同じであり、その規模の大きさ、旋律の美しさなど、多くの点でこれら2作品は共通するところがある。
 モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)以来、弦楽五重奏曲は弦楽四重奏曲にヴィオラを追加した編成が主流となった。しかし、シューベルトはあえて、ボッケリーニ(Luigi Boccherin 1743-1805)型の「弦楽四重奏+チェロ」を採用している。この編成で、崇高な気高さを持つこの作品が誕生した。シューベルトは、有名なピアノ五重奏曲でも、弦楽四重奏からヴァイオリンを一艇抜き、かわりにコントラバスを追加するという低音重視志向で超名曲を書いている。いずれにしても興味深いことだ。
 この弦楽五重奏曲は、ハ長調という主調性を持っているが、実に様々な調性的変化を持つ。主題自体が美しいのは言うまでもないが、例えば20分にも及ぶ第1楽章の中で、これらの主題が様々に姿を変えて現れてくるのだけれど、それらが常に以前とは違う「何か」を纏っていて、そのことによって風情が変化し、音楽的情緒がひたすら深まっていくのを感じることができる。時には、期待を裏切ったり、新しい調性への思わぬ飛躍があったりするが、そのどれもが、素晴らしい音楽的効果を引き出している。これこそシューベルトの辿り着いた境地ではないだろうか。
 さて、このタカーチ四重奏団とカーシュバウムの演奏が本当に素晴らしい。上述のこの弦楽五重奏曲の刻々と変化し、深まってゆく諸相を見事に描いている。これは、「何か」が変わる瞬間に的確な強調やフレージングがあるためで、その瞬間に聴き手は、ふっと空中に浮いたような気持になり、次にすっと落ち着いた場所で、さらに新たな世界が広がるような気にさせてくれるためである。この色彩感の変化ぶりが実に巧みである。
 第2楽章の、これもこの時代のシューベルト特有の振幅の大きい緩徐楽章が、やはりきわめて濃厚な気配を持って脈々と迫ってくるのも、上述の様な彼らの秀逸なアナリーゼ(構造解析)によるものに他ならない。その緻密さにはただ敬服するのみといったところ。
 第3楽章、第4楽章の重層的な響きも、的確な幅があり、重い価値提示の印象を引き出している。それにしても、終楽章の冒頭なんか、これもシューベルトの天才の顕れとして示したい箇所ではないか。ハ長調の第1楽章を持つ音楽の終楽章がこんな風に始められるなんて!これもタカーチのこの演奏で聴けば、その新鮮な効果が明瞭に伝わる。
 弦楽四重奏曲第12番は1楽章だけ残された未完成作品だが、こちらも美しさのあるもの。こちらもタカーチの響きは充実しており、併せて推薦したい。

弦楽四重奏曲 第8番 第15番
タカーチ四重奏団

レビュー日:2024.9.12
★★★★★ シューベルト、初期の佳作と晩年の傑作をタカーチの名演で楽しむ
 タカーチ四重奏団によるシューベルト(Franz Schubert 1797-1828)の下記の2作品を収録したアルバム。
1) 弦楽四重奏曲 第15番 ト長調 D.887
2) 弦楽四重奏曲 第8番 変ロ長調 D.112
 2023年の録音。録音時のメンバーは下記の通り。
 第1ヴァイオリン; エドワード・ドゥシンベル(Edward Dusinberre 1968-)
 第2ヴァイオリン; ハルミ・ローズ(Harumi Rhodes 1979-)
 ヴィオラ; リチャード・オニール(Richard O’Neill 1978-)
 チェロ; アンドラーシュ・フェイェール(Andras Fejer 1955-)
 タカーチ四重奏団は、1996年にDECCAに第15番を録音している。ドゥシンベルとフェイェールは当時からメンバーだったので、この曲に関しては27年ぶりの再録音ということになる。
 私は、シューベルトの弦楽四重奏曲第15番という曲がとても好きなのだけれど、弦楽四重奏団にとっては、たいへん重荷な楽曲と言われる。それは、楽曲のスケールの大きさから思い図れることだが、当録音にあたって、ハミル・ローズがそのことに言及していてとても興味深いと思ったので、転載させていただこう。「シューベルトのト長調の曲は、登るべき大きな山であり、恐ろしい挑戦です。繰り返しされるリピートには、それぞれ別の意味があります。空港で別の弦楽四重奏団に会った時に、シューベルトのト長調をツアーしていると言うと、彼らは怪訝な顔をします。シューベルトのト長調を扱うということは、信じられないほどの時間と体力を要するからです。他のどの曲とプログラムを組むのかも難題です」。
 さて、それで、あらためてこのタカーチの録音を聴く。私の場合、前述の1997年のDECCAの録音を愛聴しているので、それとの比較になるが、全体の雰囲気としては、室内楽的な緊密さ、内省的な深さをより追求する方向で深化を感じる演奏である。以前の録音と比べて、やや尖った印象になっているかもしれないが、荘重なトレモロの後に訪れる全休止は、一層闇の部分を感じさせる。また、第1楽章のテンポは、以前の録音と比べて、明らかにテンポ設定を遅くしており、その中で緻密なやりとりが繰り広げられるようになった。弛緩することはないが、決してテンションが高いというわけでもなく、とにかく丁寧に奏でられる。全体としてこの傾向は維持されていて、明暗がくっきりしながらも、全体の響きはよく吟味されたバランスを保ち、歌が伝わってくる。この演奏を聴いていると、なるほど、前述したハミル・ローズの所感が、説得力あるものとして伝わってくる、もちろん、響き自体の美しさも見事なものである。一方で、以前の録音と比べて、聴く側にも一層の集中力が求められていると感じられた。
 このアルバムのもう一つの注目点は、シューベルトが17歳のときの作品である「弦楽四重奏曲 第8番」が収録されていることである。録音機会の少ない楽曲で、私も今回初めて聴いた。17歳といってもシューベルトはすでに傑作「魔王」を書き上げている。この弦楽四重奏曲も聴いてみると、その美しい歌に驚かされる。書法自体はハイドン(Joseph Haydn 1732-1809)の影響を感じさせるものだが、そこにはシューベルト特有の歌がめぐっていて、交響曲でいえば、第1番や第2番に通じる聴き味を持っている。タカーチの暖かな音作りもあって、十分に楽しめる作品だし、その旋律は、聴いた後も頭の中で繰り返されるくらいに、魅力のあるものだ。タカーチの演奏を通じて、この楽曲を知れたのは望外の喜び。第15番の深い味わいとともに、充実したアルバムとなっている。

弦楽四重奏曲 第10番 第12番「四重奏断章」 第13番「ロザムンデ」
ベルチャ四重奏団

レビュー日:2020.9.25
★★★★★ 彫が深く、薫り高いベルチャ四重奏団のシューベルト
 ベルチャ四重奏団(Belcea Quartet)によるシューベルト(Franz Schubert 1797-1828)の弦楽四重奏曲集。収録曲は以下の通り。
1) 弦楽四重奏曲 第13番 イ短調 「ロザムンデ」 D.804
2) 弦楽四重奏曲 第12番 ハ短調 「四重奏断章」 D.703
3) 弦楽四重奏曲 第10番 変ホ長調 D.87
 2002年の録音。
 録音時のベルチャ四重奏団のメンバーは、1994年発足時のままで、以下の通り。
 コリーナ・ベルチャ=フィッシャー(Corina Belcea-Fisher 1975-) ;第1ヴァイオリン
 ローラ・サミュエル(Laura Samuel 1976-) ;第2ヴァイオリン
 クシシュトフ・ホジェルスキ(Krzysztof Chorzelski 1971-) ;ヴィオラ
 アラスデア・テイト(Alasdair Tait) ;チェロ
 落ち着いた中にも、熱さ、暗さが表出しており、幽玄でありながら、薫りの高い演奏だ。旋律の起伏に沿った自然なルバートを活かしながら、巧みな表現性を編み出している。
 名曲として知られる第13番は、ややゆったりしたテンポで開始されるが、重々しい荘厳なものが秘められており、聴かせる。時折第1ヴァイオリンからもたらされる強めのヴィブラートも効果的である。第2楽章の有名な主題に基づく変奏は、落ち着いた優しさを感じさせるが、時折射す濃い暗みがシューベルトの刻印のように伝わってくる。第3楽章も静けさと緊張のバランスが秀逸で美しいし、第4楽章はしなやかな生命力がふさわしい。フレーズの扱いに、ややクセを感じるところはあるが、息の長い旋律に巧妙に起伏をほどこす手腕がそなわっており、全体を通じて、演出は成功しており、聴いた後の充実感に不足はない。
 単一楽章のみである第12番は、やや抑えた表情を見せるが、その表現は深みを感じさせるもので、高貴なたたずまいを示す。
 シューベルトが16歳の時に書いた第10番は、演奏・録音の機会の少ない作品であるが、スケルツォの表情豊かな彩りや、第4楽章の推進力に満ちた展開など、若々しい魅力に満ちている。ベルチャ四重奏団は、カンタービレを明朗に響かせ、この楽曲の魅力を良く伝えている。

弦楽四重奏曲 第13番「ロザムンデ」 第14番「死と乙女」
タカーチ四重奏団

レビュー日:2007.9.20
★★★★☆ 正直言って、デッカからリリースしてほしかったアルバムです
 タカーチ弦楽四重奏団による久々のシューベルトである。また、これまで第15番やピアノ五重奏曲をデッカからリリースしていたが、今回はハイペリオン・レーベルからのリリースとなる。従来、私はタカーチの健康的で伸びやかなサウンドの美質が、デッカの秀麗な録音により一層活かされていたことを歓迎していたので、できればこれらの楽曲もデッカからリリースしてほしかった、というのが本音である。
 しかし昨今の事情等あり、新規リリース数の極端に減ったデッカの現状を考えると、悲しいながら致し方ないのか。
 さて第14番の冒頭の音色からやや響きが平板な印象をもった。きちっとそろっていてよく鳴っているのだが、あまりにも音色が一応で、室内楽における音と音の「間」がなく詰め込んでしまったような感じがする。耳障りはやや固めでつめたい感触であるが、これは他のレーベルにも見られる。最近の傾向なのか、デッカのような瑞々しいサウンドは最近はあまり流行らないのだろうか。
 この第1楽章の演奏自体はそう悪くない、という感じ。他方好調なのは「死と乙女」の第2楽章や「ロザムンデ」の第1楽章である。これらの部分では曲想と楽器の役割分担にタカーチの細やかな響きが好作用しており、逆にソリッドな録音が弦のニュアンスを美しく際立たせている。蓄音機からこんな音楽が流れてきたら、あまりにも雰囲気びたりで、一方的に感動しちゃうのではないだろうか。。。重層的な音色の部分より、細やかな歌の部分に大きな魅力を感じる録音となった。

弦楽四重奏曲 第13番「ロザムンデ」 第14番「死と乙女」 第15番
アルテミス四重奏団

レビュー日:2014.12.17
★★★★☆ シューベルトの弦楽四重奏曲に必要なものとは?
 アルテミス弦楽四重奏団によるシューベルト(Franz Peter Schubert 1797-1828)の弦楽四重奏曲集。2009年録音。以下の様に2枚のCDに、傑作3曲を収録した内容。
【CD1】
 1) 弦楽四重奏曲 第14番 二短調 D.810「死と乙女」
 2) 弦楽四重奏曲 第13番 イ短調 D.804「ロザムンデ」
【CD2】
 3) 弦楽四重奏曲 第15番 ト長調 D.887
ちなみに録音時のメンバーは以下の通り。
 1st vn; ナターリア・プリシェぺンコ(Natalia Prischepenko 1973-)
 2nd vn; グレゴール・ジーグル(Gregor Sigl 1976-)
 va; フリーデマン・ヴァイグル(Friedemann Weigle 1958-)
 vc; エッカート・ルンゲ(Eckart Runge 1967-)
 この四重奏団は、2005年から11年にかけて充実した内容のベートーヴェン(Ludwig van Beethoven 1770-1827)の弦楽四重奏曲全集を録音しており、これを平行する時期にこれらのシューベルトも録音したということになる。
 このシューベルトを聴いて、第一の印象は、なんともスキッとした演奏だ、ということ。彼らの演奏は、ベートーヴェンで示された手法に倣い、きわめて緻密で精巧に仕上げられている。一つ一つの音が線的で、それはつねに合奏音というより、個々の楽器の響きを様々な組み合わせで聴いている、という聴き味だ。そのため、つねに透明感があり、贅肉の無いシャープな感触で迫ってくる。
 ところで、これを聴いていて気になったのは、シューベルトの音楽と彼らの手法の相性についてである。もちろんシューベルトは、偉大な先人ベートーヴェンを意識し、彼を目標に作曲を心掛けた人だ。けれども、シューベルトが辿り着いたものは、当然ながらベートーヴェンの世界とは異なる。ベートーヴェンがその後期において、音楽の抽象性、思索性を吟味し、演奏上の一般的な制約を超越するような霊感を注ぎ込むような境地(あの大フーガの演奏の至難さは有名だ)に至ったのに対し、シューベルトはあくまで彼の内部から生まれた歌を、調性という秩序の中で育んだ。つまり、旋律の持つ歌謡性や浪漫性は、まったく別の向きを持っていると言っても良い。だから、ベートーヴェンへのアプローチを、そのままシューベルトに適用したとき、時として何か感情的なものを積み残したような心持ちを聴き手に起こすことがあると思う。私は、この演奏を聴いていて、そういうことを考えた。
 かといって、もちろんこの演奏が良くないというわけではない。アルテミスはシューベルトの古典としての作法を、現在の究極と言っても良いアンサンブルの性能を持って、見事なまでに体現している。その一方で、例えば15番の2楽章や13番の1楽章にある連綿たる歌が、時として、おや、と思うくらいに表情を抑えられていることにも気づく。その徹底は、彼らの師であるアルバンベルク弦楽四重奏団をも凌ぐのではないだろうか。
 また、当演奏は、ビブラートの効果を控えたタイプの演奏でもある。前述の透明なアンサンブルの成果とあいまって、装飾の抑制は、音楽全体の熱を下げ、クールな印象を導く。その結果、悲しみに作用する旋律も、明るい成分で構成される。結果として、聴き手に働きかえる感情の幅も小さくなる。乱暴に行ってしまえば、ロマン的要素を遠ざけ、古典的均衡美に向かう演奏なのだ。
 それで、最終的には、聴き手がそのような演奏を好むかという問題になってくるのだが、私の場合、彼らの完璧なアンサンブルに感心する一方で、シューベルトの音楽にある何かしら必要な成分(心の闇が落とす影のようなもの、と表現すればいいだろうか?)が失われているように感じる寂しさが残った。同じように古典的切り口をみせた2013年録音のパヴェル・ハース弦楽四重奏団による演奏が、必要な肉付けにより、見事な迫力を獲得し、そのような物足りない気持ちを抱かせなかったのに比べて、当演奏は、理性でいい演奏だと理解しても、情緒が付いて行かないような不思議な心象を残す。
 もちろん、現時点で、私の感性が十分音楽的に練れていないせいかもしれないが、現時点では以上の様な感想となった。彼らの手法では、私にはシューベルトより、ベートーヴェンの方が素晴らしく響いた。

シューベルト 弦楽四重奏曲 第14番「死と乙女」  ベートーヴェン 弦楽四重奏曲 第16番
ハーゲン弦楽四重奏団

レビュー日:2013.10.1
★★★★☆ ベートーヴェン後期の難しさを再考してしまう・・
 ハーゲン弦楽四重奏団(Hagen Quartett)は、兄弟4人で結成されたオーストリアの弦楽四重奏団。当初は第1ヴァイオリンがルーカス・ハーゲン(Lukas Hagen)、第2ヴァイオリンがアンゲリカ・ハーゲン(Angelika Hagen)、ヴィオラがヴェロニカ・ハーゲン(Veronika Hagen)、チェロがクレメンス・ハーゲン(Clemens Hagen)というメンバーだったが、1987年にアンゲリカが脱退し、本アルバム録音時の1990年の時点では第2ヴァイオリンはライナー・シュミット(Rainer Schmidt)となっている。
 本アルバムはベートーヴェン(Ludwig van Beethoven 1770-1827)の弦楽四重奏曲第16番とシューベルト(Franz Peter Schubert 1797-1828)の弦楽四重奏曲第14番「死と乙女」という、ドイツ・オーストリアものの名作2曲を収録したもの。そもそもハーゲン弦楽四重奏団は、そのレパートリーにおいても中央ヨーロッパの王道路線といったところを歩んでいて、当盤の収録曲目もそれに相応しいものだろう。
 これら2曲は、いずれも大作曲家の最晩年の作品と言える。特にベートーヴェンの第16番は、大楽聖の最後の作品といって良い。ここで、ベートーヴェンは古典的な4楽章構成を用い、特に前半2楽章は意外なほどの簡潔性を求めながら、長大な第3楽章を置き、終楽章には有名な、「かくあるべきか」「かくあるべし」の二言が書き込まれたフレーズを置くと言う、思索的瞑想的一面をも与えた。演奏にしても、聴くにしても、いろいろな考え方が求められる音楽に思う。そして、歴史的にも、ラサール弦楽四重奏団とかアルバンベルク弦楽四重奏団による深淵を感じさせる演奏が注目されてきたし、私もそれらを名盤だと思っている。
 ところが、ハーゲン弦楽四重奏団の演奏は、もう気配が全然違う。最初から「そこに解くべき謎などない」とでもいった気風で、すべてをサラリとやっているといった感じ。しかも技術的に困難な箇所であっても、「さあ、難所を越えますよ」といった気構えのようなものをまったく感じさせず、活性化エネルギーを必要としない自然拡散のように音楽がすみやかに流れるのである。これはなんとも清々しい。それで、このベートーヴェンを聴いていると、まったく肩肘張らない、ソフトな優しさで包み込むかのようなイメージになるのである。
 問題は、これがこの曲の本当の姿なのか、ということである。いや、そんなことは問題ではないのかもしれない。この演奏はそれを問題とすることさえ、意識していないように感じられる。けれども前述のような、この曲の演奏史や解釈史にちょっとでも触れて、私の様に半端に情報を持っている(?)と、やはり違和感を持つところがあるのです。この演奏の素晴らしさは、そういった技術的な障壁を一切感じさせない「洗練」にある、と思うのですが、その「洗練」という価値が、この曲の持っている本来の価値と、ずいぶん違うところにあるのではないか、そういう違和感です。
 しかし、それを別に、この演奏だけ聴くとやはり美しいと思う、特に第2楽章、この楽章が私は大好きなのだけれど、健やかな歌が内的な活力に満ちて、艶やかに描かれるところなど、本当にきれい。垂れ込めていた雲が分かれて、そこから漏れる日差しが地平を覆っていくような美しさ、といったらいいだろうか?まあ、それは個人の感性で異なるでしょうけれど、やっぱり美しいものは美しい。そして、ベートーヴェンは「美しいためには破りえぬ規則など一切ない」といった人です。それでは、これが回答?とも思うのですが、聴き終わったときに、やっぱり何か足りないような。今度は別の演奏であらためて聴きたくなるような感じ。これも確かに残る。
 それで、現時点での私の感性では、やはり当盤は、「第16番の演奏として最善に属するものの一つ」とは言えないのではないか、というのが結論です。
 それに比べるとシューベルトの方が純然と楽しめる。もちろん、この曲にもいろいろ凄演と呼ばれる様々な他の録音が存在していて、ハーゲン弦楽四重奏団の演奏はそれらと一線を画したくらいの清々しい美観に満ちているのですが、この曲の場合そこにさほど問題性を生じないのは、旋律が持つ「歌の要素」がはっきりと全体を支配する楽曲なだけに、ハーゲンの演奏に浸されているだけで、たいへん幸福感を味わわせてくれるものになるから、だと思います。特に有名な第2楽章の中盤以降の細やかな気配りの効いた暖かい響きは、多くの人に歓迎されるものだと思う。
 以上の様に、彼らのアプローチについて、全体として健やかで柔らかな美に溢れているが、ベートーヴェンの第16番に関しては、何か満たされないものが残ったという印象です。

弦楽四重奏曲 第14番「死と乙女」  弦楽五重奏曲
パヴェル・ハース弦楽四重奏団 vc: 石坂団十郎

レビュー日:2014.1.8
★★★★★ パヴェル・ハース弦楽四重奏団が、ついにドイツ・オーストリア王道ジャンルに登場
 パヴェル・ハース弦楽四重奏団は、私が現代最高と考える弦楽四重奏団の一つで、録音デビューからこれまで、購入可能なアルバムは、すべて聴かせていただいてきた。これまでは、ハース(Pavel Haas 1899-1944)、ヤナーチェク(Leos Janacek 1854-1928)、プロコフィエフ(Sergei Prokofiev 1891-1953)、ドヴォルザーク(Antonin Leopold Dvorak 1841-1904)といった汎スラヴ系の作曲家の作品を対象としてきたわけだが、本アルバムで、はじめてドイツ・オーストリア系のジャンルに進出したことになる。収録されているのは、シューベルトの(Franz Schubert 1797-1828)「弦楽四重奏曲 第14番 ニ短調 D810「死と乙女」」 と、「弦楽五重奏曲 ハ長調 D956, op.163」 という超名曲の2曲。弦楽五重奏曲では、ドイツ生まれの日系ドイツ人チェロ奏者、石坂団十郎(1979-)が加わる。
 ドイツ・オーストリアものの録音のスタートを、このような重量感のあるアルバムで飾るのは、彼らの輝かしいキャリアに相応しい。2013年の録音。
 なお、この録音に前もって、パヴェル・ハース弦楽四重奏団はメンバーの変更を行っており、第2ヴァイオリン奏者がエヴァ・カロヴァ(Eva Karova)から、マレク・ツヴァイベル(Marek Zwiebel)に交代している。他のメンバーはそのままで、第1ヴァイオリンがヴェロニカ・ヤルツコヴァ(Veronika Jaruskova)、ヴィオラがパヴェル・ニクル(Pavel Nikl)、チェロがペテル・ヤルシェク(Peter Jarusek)。
 メンバーの変更があったが、パヴェル・ハースのスリリングで熱血的な味わいは維持されている。弦楽四重奏曲第14番は普通の落ち着いたテンポで開始されるが、この楽曲に込められた情緒的な箇所に差し掛かっても、彼らは情感のためテンポを安易に緩めることはなく、つねに高いテンションを維持し、拘束感のある引き締まった運動を行う。そのため、このロマン派の傑作といえる室内楽は、予期しないほどの古典的な端正さを保つ。しかし、その一方で、隙のないアンサンブルが、細やかなアクセントを見事なタイミングで繰り出すため、音楽を聴いているものは、グングンと音楽の内奥の世界に引き込まれていく。第2楽章の有名な変奏曲も、同様のスタイルで、常に客観的で鋭利な視点を保ちながら、的確にリズム感を高め、音楽の求心力を生み出していく。そのため、この楽章の後半は、突き詰めたような緊張感に満ち、特有の荘厳な気配を引き出している。スケルツォとフィナーレも「クールだけど熱い」彼らの音楽が全開し、清々しく情熱的だ。この通常ならば相反しかねない異なる要素を、同時に高い次元で表現できるところが、彼らの最大の特徴に思う。
 弦楽五重奏曲も素晴らしい。最近、この名曲には、続々と素晴らしい録音が出てきて、例えば2012年録音のタカーチ弦楽四重奏団によるもの(hyperion CDA67864)なども素晴らしくて、私はよく聴くのだけど、当盤もそれに匹敵する出来栄え。タカーチの多彩なふくらみに対し、パヴェル・ハースはより直截で、線的なソノリティを堪能させてくれる。長大な第1楽章も、真摯に、かつ切り込みの深い音で、相剋を刻むように音楽を作り上げている。タカーチの方が夢見るような浮遊感を感じさせてくれたのに対し、パヴェル・ハースの当盤は、よりリアリスティックで、室内楽の緊密さを感じさせる仕上がりになっている。とはいっても、流れる音楽は豊饒で、弦の鳴りの立派さ、音の大きさも申し分ない。第2ヴァイオリンとヴィオラによる内声の肉付けも十分な質感があり、シャープでありながら、この大曲を奏でるのに必要な音の重さも兼ね備えている。やはり、この楽団はタダモノではない。
 以上の様に、ドイツ・オーストリアものの王道路線にも、期待にたがわぬ堂々たるパフォーマンスが繰り広げられていて、今後のパヴェル・ハース弦楽四重奏団の活躍には、ますますもって目が離せなくなった次第。

弦楽四重奏曲 第15番
東京四重奏団

レビュー日:2010.1.2
★★★★★ シューベルトの真の名曲「弦楽四重奏曲第15番」
 東京四重奏団によるシューベルトの弦楽四重奏曲第15番ト長調。1989年の録音。
 シューベルトの最後の弦楽四重奏曲で、1826年の作品。シューベルトの弦楽四重奏曲というと、この作品のひとつ前の第14番「死と乙女」、それと第13番「ロザムンデ」が名曲として知られる。そのあおりを喰って、なぜか一段知名度の低いのがこの第15番である。しかし紛れも無く名曲であるばかりでなく、シューベルトの深遠を描ききった稀有の高みに達した作品だ。この東京四重奏団による録音は、この曲の古典性を踏まえながら、そこに深く宿したロマン性を十分に描いている。
 第1楽章は弦のトレモロが印象的な音楽だが、波打つような起伏が増幅するエネルギーは古来の弦楽四重奏曲中でも最大級だと思う。凄まじい作曲者のインスピレーションに満ちている。また前段で溜められたエネルギーが、波状攻撃のように後段の展開に重ねられていく様が壮絶だ。東京四重奏団の奥行きの深い合奏音は内省的な深みを持つ響きを呈する。
 第2楽章のアンダンテも弦楽四重奏曲のジャンルで一つの究極点に達した音楽だ。ここでもトレモロの強奏による力点が築かれるが、東京四重奏団の表出する哀色の情感が出色。この音楽がシューベルト以外の誰にも到達できない世界であることがよくわかる。
 第3楽章、第4楽章は前半2楽章の深刻さに比較すると、いくぶんリラックスした楽想になるが、そこでも豊かで情熱的な起伏がよく出ている。
 この録音以降では、1997年録音のアルバンベルク四重奏団による深い相貌の名演、1996年録音のタカーチ弦楽四重奏団のスタイリッシュな快演もあるが、東京四重奏団の良い意味で柔軟性のある当録音も忘れてはいけないものだと思う。それと、この弦楽四重奏曲第15番が、いちはやく古今の弦楽四重奏曲を代表する名曲であると認識されることを希求する。

弦楽四重奏曲 第15番 ピアノ三重奏曲「ノットゥルノ」
タカーチ四重奏団 p: ヘフリガー

レビュー日:2011.8.17
★★★★★ 「天国的な長さを持った」弦楽四重奏曲の本分
 「いったい本当に陽気な音楽というものがあるだろうか?そんなもの、僕はひとつも知らない。」とシューベルトは語ったそうである。
 言葉というのは難しい。その言葉がその瞬間の感情から生まれたものなのか、それとも言葉を発した人物が永く心に留め置き大事にしている価値なのか、過ぎてしまった時間の中では判断することは難しい。しかし、このシューベルトの言葉は、夭折した彼の後期の作品を聴くと、切ないほど聴き手の胸に響く言葉である。
 私個人的には、シューベルトの音楽にだって陽気な作品はあると思う。初期の交響曲、また歌曲の中にだって聴いていて楽しいものはたくさんある。しかし、シューベルトが残した傑作と呼ばれる作品の多くは、どこか恐ろしいほどの寂しさや哀しさを秘めていると思う。
 シューマンはシューベルトの遺稿を見たとき、「天国的な長さを持った音楽」と評したと言う。この言葉はシューベルトの第9交響曲に向けられたものだ。「天国的な長さ」とはどういう意味だろう。「天国的」とは美しいことを表している。と同時に、それ自体がすでに時間的長さの象徴的でもある。シューマンは、シューベルトの交響曲に、いつ果てるともない終わることを忘れてしまうような美しさを見出したに違いない。
 それで、私はこの言葉の思い当たるシューベルトの楽曲として、他にも弦楽五重奏曲やピアノ・ソナタ第21番、それにこの弦楽四重奏曲第15番が相応しいと思う。この1996年録音のタカーチ弦楽四重奏団によるシューベルトは、そんな「天国的な美観」をこよなく湛えた録音の一つだろう。シューベルトの弦楽四重奏曲第15番は、交響曲第9番と異なり、非常に深刻な諸相を持った音楽だ。精神的な深化は内省的な方向性を感じさせるし、いつ果てるともない繰り返しの中で、おどろくほど新鮮な香気を何度も感じ取るような不思議さがある。一言で言うと「神秘的な曲」。当録音では、なによりタカーチの棘のない響きが心地よく、全体的に深みを感じさせる印象を引き出している。第1ヴァイオリンが必要以上に歌わないその渋みがシンフォニックに曲を支えていて、深い暗い森へと誘われるような気持ちになる。第1楽章は荘厳な気配に満ちているが、透明感が高く、樹々の合間を差す光線のような色合いが鮮烈。その一方で温もりを湛えた暖かいソノリティを持っているあたりが素晴らしい。第2楽章もスケールの大きい音楽でありながら緊密で、室内楽的な均衡感が巧みに保持されている。この偉大な作品の魅力を存分に引き出した名盤だと思う。

ピアノ三重奏曲 第1番 第2番 ノットゥルノ ピアノ三重奏のためのソナタ楽章
p: ブラレイ vn: R. カピュソン vc: G. カピュソン

レビュー日:2007.5.12
★★★★★ シューベルトにやどる「憧憬」がよく出ていると思う。
 ブラレイのピアノにカピュソン兄弟のヴァイオリンとチェロというシューベルトである。この顔合わせはすでにラヴェルやシューベルトのピアノ五重奏曲の録音があり、楽想を細やかに変化させる彼らの呼吸が聴きモノになっている。
 カピュソン兄弟の弦は如何にも現代的で、その音楽の呼吸は、近年研究の進んだピリオド楽器的な奏法をふまえたコントロールによって織り成されるもので、細やかさが印象的。また、これにぴたりとはまるのがブラレイのピアニズムであろう。元来、この人のピアノは、思い切りよく鳴らすというよりは、微妙な強弱を細かい単位まで吟味し、その中で微細な表現を綾なしていく感があり、これがカピュソンらの手法によく合うのだ。
 さて、そうして聴かれるシューベルト・・・。シューベルトの音楽に宿る感情を言葉で表すと?という問いかけがあったなら(もちろん、正解のない問いだけど)私の回答は「憧憬」である。シューベルトの音楽にはつねに決して手に届かないもの、焦がれながらも行き着けないものへの思い、葛藤、そして自省が聴き取れると思うのだが、その「憧憬」に近い情感がたいへんよく出ているように思う。第2番の第2楽章や終楽章の後半など、とても「シューベルトらしく」感じてしまう。もちろん、この感想は人しれぞれだけれども。
 併録されているソナタ楽章は聴く機会の少ない作品だが、交響曲第5番の終楽章に通じるモチーフが聴かれて興味深い。

ピアノ三重奏曲 第1番 第2番 ノットゥルノ アルペジオーネ・ソナタ
p: シフ vc: ペレーニ vn: 塩川悠子

レビュー日:2004.2.12
★★★★★ 三つの楽器のおりなす見事な調和
 収録曲はシューベルトのピアノ三重奏曲第1番、第2番、ピアノ三重奏のためのノットゥルノ、アルペジオーネソナタ。ヴァイオリンの塩川悠子は、ピアノのシフの夫人である。
 内容は素晴らしいの一語に尽きる。室内楽的な起伏と構成感が超一流。とにかく演奏・録音とも文句なし。ただ難はすべての反復を忠実にやっていることで、第2番の終楽章など、きわめて長大な楽章になっている。
 チェロのペレーニに、このアルバムで注目した方も多いのでは?細やかな色彩、決して大げさにならない音色、豊な感興で実に気品にあふれたチェロだ。チェロとピアノの二重奏でチェロを堪能できるアルペジオーネ・ソナタはまさに絶品。
 これらの曲の代表的(決定的?)録音といっていいだろう。

ピアノ三重奏曲 第1番 第2番 岩の上の羊飼い (ピアノ三重奏編曲版) 歌曲集「白鳥の歌」より「セレナード」(ピアノ三重奏編曲版)
p: シュニーダー vn: ヤンケ vc: ニッフェネッガー

レビュー日:2018.12.13
★★★★★ オリヴァー・シュニーダー・トリオによる、スタイリッシュなシューベルト
 スイスのピアニスト、オリヴァー・シュニーダー(Oliver Schnyder 1973-)を中心にチューリッヒ・トーンハレ管弦楽団の首席ヴァイオリン奏者であるアンドレアス・ヤンケ(Andreas Janke 1983-)と同じく首席チェロ奏者であるベンヤミン・ニッフェネッガー(Benjamin Nyffenegger 1984-)によって結成されたオリヴァー・シュニーダー・トリオによる2012年録音のデビュー・アルバムで、シューベルト(Franz Schubert 1797-1828)の以下の楽曲が収録されている。
【CD1】
1) ピアノ三重奏曲 第2番 変ホ長調 op.100 D.929
【CD2】
2) ピアノ三重奏曲 第1番 変ロ長調 op.99 D.898
3) 岩の上の羊飼い D.965 (ピアノ三重奏編曲版)
4) 歌曲集「白鳥の歌」 D.957より 第4曲 「セレナード」 (ピアノ三重奏編曲版)
 清々しく、柔らかで、流れの良いシューベルトだ。一言で形容するなら「スタイリッシュ」。全体的にアクセントの強調より滑らかなシェイプを作ることを優先して、外観の美しさを整えている。かといって内面が不足しているというわけでもない。ピアノ三重奏曲第2番では、第1楽章の2つの主題の移り変わりのスムーズさが魅力だが、第2主題の自発的な内面性は美しい。第2楽章のアンダンテはシューベルトならではのロマン性が溢れた音楽であるが、シュニーダー・トリオは品のある抑揚で、夢見るような歌を繰り出していて美しい。第3楽章は弦の豊かな表現力に魅了される。第4楽章はカットを行わない初版によっており、演奏時間19分を越える長大なものとなっているが、場面転換の自然な彼らの演奏は、長さを敵にしない。2度行われる第2楽章の回想は、憧憬的で、ここでピアノが醸し出す柔らかく乾いたニュアンスは絶品と言って良いだろう。
 ピアノ三重奏曲第1番では、冒頭の音の柔和な響きにまず魅了される。次いで展開部では、熱っぽさも見せるが、適度な制約があって、響きに高級さを失わない。人によっては、より弾力的な響きを求めるかもしれないが、彼らのシームレスな響きはそれ自体が十分な魅力を持っていると思う。この楽曲では第1楽章に限らず、全般に引き締まった厳かさに傾向が向いている。当曲の表現の方向性としては、特徴的なポジショニングであり、議論の対象となりうるが、私はその聴き味の豊かさに魅了された。
 末尾にシューベルトの名歌曲2曲をピアノ三重奏版に編曲したものが収録されている。「岩の上の羊飼い」は、原曲の声楽とクラリネットが担っていた旋律を、チェロとヴァイオリンが交互に担うものになっている。聴く側に声楽曲としての刷り込みが強い部分はあるが、旋律美が端正に表現されていて、十分に楽しめるものとなっている。

ピアノ三重奏曲 第1番 第2番 アルペジョーネ・ソナタ ヴァイオリンとピアノのための幻想曲
トリオ・レ・ゼスプリ

レビュー日:2019.6.24
★★★★★ 3人の主張と調和が見事なバランスを示す。トリオ・レ・ゼスプリによるシューベルト
 フランスのピアニスト、アダム・ラルーム(Adam Laloum 1987-)、フランスのチェリスト、ヴィクトル・ジュリアン=ラフェリエール(Victor Julien-Laferriere 1990-)、日本のヴァイオリニスト、梁美沙(Yang Misa 1987-)の3人によって結成されたアンサンブル、トリオ・レ・ゼスプリ(Trio Les Esprits)によるシューベルト(Franz Schubert 1797-1828)の室内楽曲集。収録曲は以下の通り。
【CD1】
1) アルペジョーネ・ソナタ イ短調 D.821
2) ピアノ三重奏曲 第1番 変ロ長調 D.898
【CD2】
3) ヴァイオリンとピアノのための幻想曲 ハ長調 D.934
4) ピアノ三重奏曲 第2番 変ホ長調 D.929
 2018年の録音。
 とても素敵なアルバムである。全編にシューベルトらしい音が溢れていて、魅力的。
 これらの演奏の美点として、まず指摘したいのが、巧妙なバランスである。そのバランスを導いているのがラルームのピアノだ。出すぎず、しかし、しっかりとした表現意図を持ち、情感がただよう。そのピアノをベースに、弦2艇も節度と品を重んじた歌を響かせる。
 シューベルトのピアノ三重奏曲の場合、開放的に音を鳴らし過ぎると、全曲の規模が長大なこともあって、全般に聴き疲れする傾向が生じてくると思う。当盤は、音響設計でそのリスクを避け、新鮮味に満ちた時間を続けることを可能とした。例えば、ピアノ三重奏曲第2番の終楽章、この楽章はシューベルトの音楽がもつ一つの冗長な側面を究めた感があって、当盤においても20分近い演奏時間となっているが、ラルームのピアノの精妙なタッチ、ことに同音の二連音の連続や、重音の連続で奏でる音階が、とても鮮度を感じさせ、かつ弦楽器陣との調和や収束性を感じさせ、楽章の冗長な面を心地よく緩和してくれている。二人の弦楽奏者も、その価値観を共有していて、例えば第2番の第2楽章の付点のリズムなど、ヴァイオリンとチェロが一つの楽器になったかのようなソノリティで、肌理こまかな表情付けが行われる。
 また、当演奏は、全体を通して表面的にはつつましい外観をもっているが、その内側におけるエネルギーのやりとりは活発であり、様々な詩情が生まれてくる。自然発揚的な音楽の息遣いが間断なく続く。緩徐楽章における内因性を感じさせる主題に深い陰りが感じられることが嬉しいが、それ以上に急速楽章におけるしなやかな躍動感が素晴らしい。外面的な派手さはないが、楽想が持つ味わいを的確に掘り下げていて、かつ自己の主張が出すぎることもない。
 ピアノ三重奏曲以外に、チェロとピアノ、ヴァイオリンとピアノで奏される名品が各1曲収録されていることも、当盤の大きな魅力だ。その2曲ではアルペジョーネ・ソナタが特に良いと思った。この楽曲では、私はペレーニ(Miklos Perenyi 1948-)とシフ(Andras Schiff 1953-)の名盤を愛聴しているが(ピアノ三重奏曲も名演)、ジュリアン=ラフェリエールとラルームによる当演奏は、より淡い陰影でありながら、憧憬的なものが滲みだしている。若々しい爽やかさもあるが、それだけではない機微が描かれる。
 それに比べると、「ヴァイオリンとピアノのための幻想曲」における梁のヴァイオリンは、慎重さがやや硬さにつながったところがあり、少しもったいないところを感じるとはいえ全般に落ち着いた語り口は好印象だし、終楽章では緊張が解けたかのようなリズム感が顕れ、楽しい。

ヴァイオリンとピアノのための作品 全集 ピアノ連弾のための幻想曲
vn,p: フィッシャー p: ヘルムヘン

レビュー日:2018.5.9
★★★★★ シューベルトのヴァイオリンとピアノのための佳作群に豊かな情感を巡らせた名演。録音も優秀です。
 ユリア・フィッシャー(Julia Fischer 1983-)のヴァイオリン、マーティン・ヘルムヘン(Martin Helmchen 1982-)のピアノによる、シューベルト(Franz Schubert 1797-1828)のヴァイオリンとピアノのための全作品を収録したアルバム。
【CD1】
1) ヴァイオリンとピアノのためのソナチネ 第1番 ニ長調 D.384
2) ヴァイオリンとピアノのためのソナチネ 第2番 イ短調 D.385
3) ヴァイオリンとピアノのためのソナチネ 第3番 ト短調 D.408
4) ヴァイオリンとピアノのための「華麗なるロンド」 ロ短調 D.895
【CD2】
5) ヴァイオリンとピアノのためのソナタ イ長調 D.574
6) ヴァイオリンとピアノのための幻想曲 ハ長調 D.934
7) ピアノ連弾のための幻想曲 ヘ短調 D.940
 2009年の録音。
 なお、ヴァイオリンとピアノのための作品だけでは、ヴォリュームに不足があったためか、嬉しい追加収録曲がある。末尾に収められた「ピアノ連弾のための幻想曲 ヘ短調」である。
 この曲は、シューベルトが短い生涯の最晩年に書いた、無類に美しい4手のためのピアノ曲である。ここで、フィッシャーが、ピアニストとしての腕を発揮し、ヘルムヘンとの連弾を披露している。まず書きたいのが、その連弾の素晴らしさである。決して「余技」という言葉では収められないフィッシャーのピアノは、ヘルムヘンの紡ぐピアノともども、優しく暖かく、しかし底知れない悲しみをたたえたこの名品を、瑞々しいピアニズムで表現しているのである。それにしても、シューベルトの「ピアノ連弾のための幻想曲 ヘ短調」という曲、ピアノ連弾曲というジャンル自体が地味なこともあって、その内容に沿う知名度が得られていない気がして仕方がない。そういった意味でも、当録音により、フアンがこの楽曲を知る機会が増えるであろうことを歓迎したい。
 本旨であるヴァイオリンとピアノのための作品群においては、フィッシャーのヴァイオリンは自然な推進力と、美しい音色が圧倒的で、シューベルトのこれらの初期の作品がまるでモーツァルトの名作のような凛々しさをもって響き渡るところが凄い。テクニカルな安定は当然のこととして、その曇りのない響きの一貫性は、明快にして典雅であり、これらの楽曲を演奏する理想を示しているといって良い。ヘルムヘンのピアノもまた見事。楽想の移り変わりに応じた微細な変化は鮮やかで、そのつながりの自然さは最高の聴き心地といってよい。これがフィッシャーのヴァイオリンと呼応して、極上の流れを生む。
 3つのソナチネは19歳のシューベルトが書いた初々しい作品群で、後の作品のような高貴さはまだ帯びていないものの、明朗な旋律と、それを扱うにふさわしい簡明な運びが楽曲の魅力となっている。第1番のソナチネの第1楽章は、モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)の名作、「ヴァイオリン・ソナタ 第28番 ホ短調 K.304」を下地としたもので、ヴァイオリンとピアノのユニゾンによる主題提示からそのあとの展開までモーツァルトを彷彿とさせる。シューベルトが作曲技法を身に着ける過程に接するような興味深さがある。第1番のみが3楽章構成、第2番と第3番は4楽章構成であるが、いずれも楽章の規模は小さいことは、これらの曲が「ソナチネ」と称される所以であろう。第2番と第3番は短調を主調とするが、悲劇性を強調するような楽曲ではないが、むしろト短調の第3番では、憂いや優雅といった美観の働きかけが、とても積極的に作用し、これまで味わったことのない深みを聴き手に味わわせてくれる。
 「華麗なるロンド」では、両者が一つギアを上げたような表現幅を確保し、この楽曲にふさわしい領域を明敏に示したうえで、作品を堪能させてくれるような、いかにもスマートな解釈を示してくれる。情感の大きさは見事なもので、名演としての充実感に富む。
 ソナタでは、落ち着きの中に憧れが、典雅の中に恐れが潜むよう。柔らかな響きでありながら、深い表現が達成され、楽曲が豊かに陰影をたたえているのが好ましい。
 幻想曲では、ヘルムヘンの絶妙にコントロールされた微細な音に導かれて、ヴァイオリンが憧憬的な情緒を込めて歌いだす冒頭が、録音の素晴らしさとあいまってことに感動的だ。これに続く部分でも天性のメロディストだったシューベルトの魅力が、精密かつ抒情的なタッチで繰り広げられていく。ヘルムヘンのピアノは、やや乾いた柔らかみを感じさせ、そこに潤いに満ちたヴァイオリンが加わった際の対比の鮮やかさも見事であるが、旋律を交錯させるときに見せる深い二つの楽器の霊感的な呼応は、シューベルトの音楽の神髄に触れるような気持ちを引き起こさせてくれる。
 録音時20代の二人の奏者による深い洞察に満ちた、知らず知らずのうちに聴き入ってしまう名演揃いの2枚組である。

ヴァイオリンとピアノのための幻想曲 さすらい人幻想曲
vn: 塩川悠子 p: シフ

レビュー日:2004.1.10
★★★★★ 深い朝の霧から立ち上る幻想曲
 さすらい人幻想曲は4楽章構成で、技巧的であり、ピアノ・ソナタと位置づけてもよい内容を持っている。第2楽章は自作の歌曲「さすらい人」D493の主題による変奏曲となっている。
 シフの演奏を聴くと両曲ともに「なんて素敵な曲なんだろう」と思う。
 ヴァイオリンとピアノのための幻想曲は深い朝の霧を思わせる冒頭が印象的。ピアノの「タメ」が最高の呼吸を見出す。ヴァイオリンの塩川悠子はシフ夫人。さすがに呼吸もビタリ。

ヴァイオリンとピアノのための幻想曲 華麗なるロンド ロ短調 ヴァイオリン・ソナタ(二重奏曲)
vn: ヴィトマン p: ロンクィッヒ

レビュー日:2012.3.7
★★★★★ ヴィトマンとロンクィッヒという注目の顔合わせによるシューベルト
 ドイツのヴァイオリニスト、カロリン・ヴィトマン(Carolin Widmann 1976-)と同じくドイツのピアニスト、アレクサンダー・ロンクィッヒ(Alexander Lonquich1960-)による、シューベルトのヴァイオリンをピアノのための作品集。収録曲は(1)ヴァイオリンとピアノのための幻想曲 D.934 (2) 華麗なるロンド D.895 (3) ヴァイオリン・ソナタ(二重奏曲) D.574 の3曲。録音は2010年。
 私は、2007年録音のヴィトマンによるシューマンのヴァイオリン・ソナタ3曲を収録したアルバム(ECM 476 674 4)が大好きで、それでこのシューベルトも聴くことになった。
 フランツ・シューベルト (Franz Schubert 1797-1828)の“ヴァイオリンとピアノのための作品”は、一般にそれほど有名とは言い難いが、この作曲家らしい歌に満ちており、たいへん美しい。私が特に好きなのは、このアルバムの冒頭に収録してある幻想曲で、かつてはシュナーダーハン(Wolfgang Schneiderhan 1915-2002)とクリーン(Walter Klien 1928-1991)の歴史的名盤で親しんだものである。シューベルトが「ヴァイオリンのための音楽」について試行を重ねて辿りついた名品だと思う。この幻想曲が1827年の作品。ロンドが1826年の作品でソナタが1817年の作品だから、このアルバムは3曲を作曲年代の逆順に収録してあることになる。
 幻想曲の冒頭のピアノの導入部でロンクィッヒはきわめて繊細に整えられた響きを提示する。続いて導かれるヴァイオリンは、適度に抑制が効いた品の良さを感じさせながらも、艶やかに響く。少し人工的な響きにも思えるが、どことなく郷愁を感じさせるのは、シューベルトの旋律がどこか過去を思い起こさせるような憧憬の情感を想起させるからだろう。同曲の第2部はシュナイダーハンのように速くはなく、一音一音しっかりと、しかし流れに乗って弾かれており、流暢だ。同じECMからリリースされている2000年録音の塩川悠子とシフの美演ではテンポ設定はヴィトマンに近いが、フレージングのダイナミクスを利かせていたのとはちょっと違う雰囲気。
 ロンクィッヒの確かな主張のあるピアノは、むしろソナタで特徴的。もともとこの曲は、ソナタであると同時にデュオ(二重奏曲)という副題を持っており、シューベルトが二つの楽器の対等な位置関係を意識して作曲した作品であるに相違ない。ロンクィッヒの「リードする」という以上に感じられる主張の激しさは、この音楽のあり方を強く訴えているようだ。
 ロンドは、冒頭はアンダンテで、やがて早いアレグロに至るのだが、ここでの情熱溢れる奏者のやりとりは、多くの聴き手の心を打つのではないだろうか。ヴィトマンとロンクィッヒというECMレーベルが誇る両アーティストの出会いは、たいへん見事な成果を得ていると思う。ぜひ、別作品の録音もお願いしたい。

ヴァイオリンとピアノのための幻想曲 華麗なるロンド ロ短調 ヴァイオリン・ソナタ(二重奏曲)
vn: ファウスト p: メルニコフ

レビュー日:2012.4.26
★★★★★ どことなく古めかしい品の良さを感じさせるシューベルト
 ドイツのヴァイオリニスト、イザベル・ファウスト(Isabelle Faust 1972-)とロシアのピアニスト、アレクサンドル・メルニコフ (Alexeder Melnikov 1973-)による、シューベルト(Franz Schubert 1797-1828)のヴァイオリンとピアノのための幻想曲、ヴァイオリンソナタ(二重奏曲)、華麗なるロンド・ロ短調を収録した2004年録音のアルバム。
 私は、最近、カロリン・ヴィトマン(Carolin Widmann 1976-)とアレクサンダー・ロンクィッヒ(Alexander Lonquich1960-)による2010年録音の、まったく同じ曲目が収録されたアルバムを聴いたばかりなのだが、あらためてこれらの曲の魅力に触れ、今度はその6年前に録音されていながら聴き漏らしていた当アルバムを聴かせていただいた。
 双方とも、とても良い内容のアルバムだと感じた。ファウストとメルニコフは様々な録音で共演しており、よほど音楽的フィーリングが合うのだろう。ここでも、隅々までしっくり行く、いかにもぴったりサイズの演奏ぶりと言うのが相応しい。
 当盤の第一の特徴はメルニコフのピアノの音色だと思う。ちょっと調べきれなかったのだけれど、ちょっと古めかしい感じの音色である。メルニコフは、最近ではブラームスのピアノ・ソロ曲を、1875年製ベーゼンドルファーで録音しているのだが、ここで聴かれる響きは、それを彷彿とさせるところがある。
 美しい連音がゆっくりと下降してくるいかにもロマンティックな「幻想曲」の冒頭部分で、この丸みのあるまろやかな音色がなかなか雰囲気豊かな効果を上げている。音楽が展開しテンポが速くなる個所でも、この音色のまろ味が、印象に対して支配的で、どことなく古めかしい品の良さを醸し出している。
 演奏そのものは、ダイナミックで、ヴィトマン盤と比較しても、脈流の振幅が大きいと感じられよう。しかし、音楽的な流れは素晴らしく自然で、奇をてらうことのない古典的造形美を湛えたアプローチになっていると感じる。
 ヴァイオリン・ソナタ(二重奏曲)も第1楽章の古典的で典雅な主題が、浪漫的なピアノとヴァイオリンで奏でられる力強さがよく伝わってくる。全般に演奏者の感性で自由に表現しながらも、ポイントを手際よくまとめたセンスの光る内容だ。
 華麗なるロンド・ロ短調も同様で、シューベルトの音楽的性向、つまり古典性を踏まえた歌謡性や劇性といったロマンティシズムを十分に引き出した好演だと感じられた。

ヴァイオリンとピアノのための幻想曲 ヴァイオリン・ソナタ(二重奏曲) ピアノ連弾のための幻想曲
vn,p: フィッシャー p: ヘルムヘン

レビュー日:2018.5.8
★★★★★ これぞシューベルト、と思わず唸ってしまうような、情感に満ちた名演です
 ユリア・フィッシャー(Julia Fischer 1983-)のヴァイオリン、マーティン・ヘルムヘン(Martin Helmchen 1982-)のピアノによるシューベルト(Franz Schubert 1797-1828)のヴァイオリンとピアノのための作品集、第2弾。第1弾と併せて、これでシューベルトの当該作品がすべて収録されたことになる。それと別に、当盤には嬉しい追加収録がある。まずは収録曲の紹介。
1) ヴァイオリンとピアノのためのソナタ イ長調 D.574
2) ヴァイオリンとピアノのための幻想曲 ハ長調 D.934
3) ピアノ連弾のための幻想曲 ヘ短調 D.940
 2009年の録音。
 1)と2)はヴァイオリンとピアノのための楽曲であるが、3)はシューベルトが短い生涯の最晩年に書いた無類に美しい4手のためのピアノ曲である。ここで、前2曲でヴァイオリンを奏していたフィッシャーが、こんどはピアニストとしての腕を発揮し、ヘルムヘンとの連弾を披露している。当盤でまず書きたいのが、その連弾の素晴らしさである。決して「余技」という言葉では収められないフィッシャーのピアノは、ヘルムヘンの紡ぐピアノともども、優しく暖かく、しかし底知れない悲しみをたたえたこの名品を、瑞々しいピアニズムで表現しているのである。
 それにしても、シューベルトの「ピアノ連弾のための幻想曲 ヘ短調 D.940」という曲、ピアノ連弾曲というジャンル自体が地味なこともあって、その内容に沿う知名度が得られていない気がして仕方がない。そういった意味でも、当盤へこの曲が収録されたことは歓迎したい。
 もちろん、本編といって良い2つのヴァイオリンとピアノのための作品も素晴らしい演奏内容だ。ことに幻想曲の、ヘルムヘンの絶妙にコントロールされた微細な音に導かれて、ヴァイオリンが憧憬的な情緒を込めて歌いだす冒頭は、録音の素晴らしさとあいまって感動的だ。これに続く部分でも天性のメロディストだったシューベルトの魅力が、精密かつ抒情的なタッチで繰り広げられていく。ヘルムヘンのピアノは、やや乾いた柔らかみを感じさせ、そこに潤いに満ちたヴァイオリンが加わった際の対比の鮮やかさも見事であるが、旋律を交錯させるときに見せる深い二つの楽器の霊感的な呼応は、シューベルトの音楽の神髄に触れるような気持ちを引き起こさせてくれる。
 冒頭に収録されているソナタも落ち着きの中に憧れが、典雅の中に恐れが潜むよう。柔らかな響きでありながら、深い表現が達成され、楽曲が豊かに陰影をたたえているのが好ましい。
 また20代の二人の奏者による深い洞察が感じられる、知らず知らずのうちに聴き入ってしまう名演。

ヴァイオリンとピアノのためのソナチネ 第1番 第2番 第3番 華麗なるロンド
vn: フィッシャー p: ヘルムヘン

レビュー日:2018.5.2
★★★★★ シューベルトの瑞々しい初期作品にふさわしいスマートな解釈
 ユリア・フィッシャー(Julia Fischer 1983-)のヴァイオリン、マーティン・ヘルムヘン(Martin Helmchen 1982-)のピアノによるシューベルト(Franz Schubert 1797-1828)の以下の作品を収録したアルバム。
1) ヴァイオリンとピアノのためのソナチネ 第1番 ニ長調 D.384
2) ヴァイオリンとピアノのためのソナチネ 第2番 イ短調 D.385
3) ヴァイオリンとピアノのためのソナチネ 第3番 ト短調 D.408
4) ヴァイオリンとピアノのための「華麗なるロンド」 ロ短調 D.895
 2009年の録音。
 3つのソナチネは19歳のシューベルトが書いた初々しい作品群で、後の作品のような高貴さはまだ帯びていないものの、明朗な旋律と、それを扱うにふさわしい簡明な運びが楽曲の魅力となっている。第1番のソナチネの第1楽章は、モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)の名作、「ヴァイオリン・ソナタ 第28番 ホ短調 K.304」を下地としたもので、ヴァイオリンとピアノのユニゾンによる主題提示からそのあとの展開までモーツァルトを彷彿とさせる。シューベルトが作曲技法を身に着ける過程に接するような興味深さがある。第1番のみが3楽章構成、第2番と第3番は4楽章構成であるが、いずれも楽章の規模は小さいことは、これらの曲が「ソナチネ」と称される所以であろう。第2番と第3番は短調を主調とするが、悲劇性を強調するような楽曲ではなく、むしろ情感の大きさは、末尾に収録された「華麗なるロンド」に見事なものがある。
 フィッシャーのヴァイオリンは自然な推進力と、美しい音色が圧倒的で、シューベルトのこれらの初期の作品がまるでモーツァルトの名作のような凛々しさをもって響き渡るところが凄い。テクニカルな安定は当然のこととして、その曇りのない響きの一貫性は、明快にして典雅であり、これらの楽曲を演奏する理想を示しているといって良い。ヘルムヘンのピアノもまた見事。楽想の移り変わりに応じた微細な変化は鮮やかで、そのつながりの自然さは最高の聴き心地といってよい。これがフィッシャーのヴァイオリンと呼応して、極上の流れを生む。特にト短調の第3番では、憂いや優雅といった美観の働きかけが、とても積極的に作用し、これまで味わったことのない深みを聴き手に味わわせてくれる。また、末尾に収録された「華麗なるロンド」では、両者が一つギアを上げたような表現幅を確保し、この楽曲にふさわしい領域を明敏に示したうえで、作品を堪能させてくれるような、いかにもスマートな解釈を示してくれる。録音時まだ二十代の二人が、その才気を如何なく発揮させた名演となっている。

シューベルト アルペジオーネ・ソナタ ソナチネ(D.384) 歌曲からの編曲集(「さすらい」「焦燥」「鳥たち」「子守歌」「夜と夢」)  ヴェーベルン 3つの小品   ベルク 4つの小品
vc: ケラス p: タロー

レビュー日:2007.5.12
★★★★★ 「夜と夢」で閉じるシューベルトの夢幻的なまぼろし・・
 ジャン=ギアン・ケラス(vc)とアレクサンドル・タロー(p)による注目の録音。収録曲とその順番が面白い。順番通りに書くと、(1) シューベルト;アルペジオーネ・ソナタ (2) さすらい (3) 焦燥 (4) ヴェーベルン;3つの小品 (5) シューベルト 鳥たち (6) ヴァイオリンとピアノのためのソナチネ D.384 (7) 子守唄 (8) ベルク 4つの小品 (9) 夜と夢 となる。
 シューベルトの作品がメインであるが、5曲収録された歌曲の編曲モノが全編に散りばめられて、その間にさらに新ウィーン学派のチェロとピアノのための作品が挿入されるといった具合。
 このアルバムを通して聴いてみて、なんだか夢と現実を行きつ戻りつするようだな、と感じた。ヴェーベルンとベルクの作品はどことなく時代の虚無や孤独のようなものが感じられるし、一方でシューベルトは苦しい人生を歩みながらも、甘美なメロディーを次々紡いでいった作曲家である。なんだろう、これはまるでシューベルトその人の現実と夢のようでもあり、そして時代と国を超えて多くの人に共感される悩みと逃避かもしれない。だから、このアルバムは「夜と夢」で優しく閉じているのではないだろうか。。。などと考えてみました。
 演奏は、もちろん鮮やかなもので、最近の録音では例えばペレーニとシフがたおやかな優美さと太い音色で一つの究極点のような演奏を提示したのですが、一方でこのケラス盤は、ピアノのタローとともに極めて抑制された美しさを秘め湛えたもので、こまやかなピアノのタッチにのって、おそろしいほど正確な弓の統御によって生まれるモザイク画のような緻密さを感じます。中でもアルペジオーネソナタの終楽章がもっとも見事。名演。

シューベルト アルペジオーネ・ソナタ(ヴィオラ版)  ブラームス ヴィオラ・ソナタ 第2番   シューマン おとぎの絵本
va: ベルトー p: ラルーム

レビュー日:2016.11.16
★★★★★ ラルームがヴィオラと奏でる晩秋の音楽
 リズ・ベルトー(Lise Berthaud 1982-)のヴィオラ、アダム・ラルーム(Adam Laloum 1987-)のピアノによる以下の3曲を収録したアルバム。
1) シューマン(Robert Schumann 1810-1856) おとぎの絵本 op.113
2) シューベルト(Franz Schubert 1797-1828) アルペジオーネ・ソナタ イ短調 D.821
3) ブラームス(Johannes Brahms 1833-1897) ヴィオラ・ソナタ 第2番 変ホ長調 op.120-2
 2013年の録音。
 ラルームは、2009年のクララ・ハスキル国際ピアノコンクールで優勝して以降、録音も数点リリースされているか、その内省的と形容するのがふさわしいピアニズムは、現代の若手ピアニストの中でも特徴的な存在で、私はとても興味をもってその録音に接している。このたび録音されたシューマン、シューベルト、ブラームスといった作曲家は、彼のようなピアニストに特にふさわしいと言えるだろう。しかも、いずれもヴィオラという渋い楽器を伴っての室内楽だ。
 ヴィオラのための作品というのは多くはない。今回の収録曲でも、シューベルトの作品は、元来6弦のチェロに近い楽器のための作品だし、ブラームスの作品は、本来クラリネットとピアノのために書かれたもの。しかし、これらの深い憂いを感じさせる音楽は、弾かれてみると、ヴィオラという楽器にとてもマッチするのである。
 ヴィオラ奏者のベルトーは、すでに合奏者として多彩に活躍しているが、その独奏を聴くのは、私は当盤が初めて。しかし、その音が作り出す雰囲気は、ラルームのピアノに似通う。行ってみれば「晩秋の響き」。
 ベルトーのヴィオラは、強い音も使いこなしながらも、全体的な抒情を大切にしており、なめらかでロマンティックな印象を受ける。ラルームの節度を保った伴奏は見事で、抑制により紡がれる深いコクのある味わいが随所に感じられる。
 アルペジオーネ・ソナタでは、ヴィオラで演奏するにあたり、いくつかのフレーズが高音側に移行するのだけれど、その結果、中音域の豊かな音が増し、暖かい安定感を導いている。当演奏はそのメリットを、自然に引き出している。中間楽章の情感の深さは感動的と言って良い。
 シューマンは、冒頭から晩年のシューマン特有の語り口が提示されるが、適度なタメのあるなめらかさが美しく、聴き手を優しく音楽の世界に誘ってくれる。アルバムの冒頭に置いたのは正解だろう。続けて収録されているシューベルトとブラームスの作品の間には、飛躍があるようにも思うが、続けて聴いてもさほどの不自然さはない。それよりも、ブラームスの枯淡と情熱を、淡くも深く描いていく巧みさに惹かれる。ラルームは、当録音の翌年(2014年)にラファエル・セヴェール(Raphael Severe 1994-)と同曲のクラリネット版を録音している。この曲のヴィオラ版とクラリネット版の両方をピアニストとして録音した人は、そうはいないだろう。そして、このような音楽こそがラルームに相応しいものであることも良くわかる。そういうピアニストなのだろう。
 深まりゆく秋にじっくりと味わいたい一枚になっている。


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器楽曲

ピアノ・ソナタ 全集
p: シフ

レビュー日:2005.4.10
★★★★★ シューベルトの世界を余すことなく伝える
 シューベルトのピアノ・ソナタの全集録音はなかなか困難なものだ。なんせ初期から中期の作品の多くが未完であり、後年になって独立したロンドなどを含めて編算された経緯もあり、ピアニストが楽曲自体を規定しなくてはならないエリアがきわめて大きい。
 アンドラーシュ・シフの全集は、中にあって、もっともしっかりした全集といえる。欠番である第10番以外すべて収録している。例えばリピートなどもすべて行っており、反復を行わない事でほんの1小節でも失われる事なく収録している。また、ソナタ8番のように1楽章の途中で終わる楽曲も収録している(しかも、この「途中まで」の音楽のはかなくも美しいこと!)。
 演奏そのものも素晴らしく、アクセントも鋭さを控えて流線型のまろやかな輪郭で、それでいてダラダラする感じはまったくない。さすがの集中力。ピアノはベーゼンドルファーを使用。とてもソフトで美しく、かつ芯がきちんとした見事な響き。しかも全曲デジタル録音だ。
 村上春樹の小説「海辺のカフカ」のテーマ曲とも言えるニ長調のソナタ(第17番)のとりとめないながらも不思議な決して完結しない美しさも見事に表現されている。

ピアノ・ソナタ 全集 ソナタホ短調 D769a メヌエット(アレグロ)D277a
p: ティリモ

レビュー日:2015.8.7
★★★★★ 知られざる名盤。マルティーノ・ティリモによるシューベルト全集
 キプロス出身の音楽学者でピアニストであるマルティーノ・ティリモ(Martino Tirimo 1942-)による、1995年から96年にかけて録音されたシューベルト(Franz Schubert 1797-1828)のピアノ・ソナタ全集。シューベルト生誕200年に当たる1997年のリリースを目標としたプロジェクトであったと思われる。ティリモはウィーン原典版社のシューベルト・ピアノ・ソナタ全曲集(全3 巻)を監修した人物で、当盤はその原点版に基づく全集ということになる。当初は分売で発売されていたが、すぐに廃盤となり、入手の難しい状態であったが、最近になって、廉価のBox-setとして再発売された。とりあえず、収録内容を書こう。
【CD1】
1) ピアノ・ソナタ 第18番 ト長調「幻想」 D894
2) ピアノ・ソナタ 第5番 変イ長調 D557
3) ピアノ・ソナタ 第3番 ホ長調 D459
【CD2】
1) ピアノ・ソナタ 第17番 ニ長調 D850
2) ピアノ・ソナタ 第2番 ハ長調 D279
3) メヌエット(アレグロ) D277a
【CD3】
1) ピアノ・ソナタ 第19番 ハ短調 D958
2) ピアノ・ソナタ 第9番(旧第8番)嬰ヘ短調 D571
3) ピアノ・ソナタ 第1番 ホ長調 D157
【CD4】
1) ピアノ・ソナタ 第20番 イ長調 D959
2) ピアノ・ソナタ 第11番(旧第10番) ハ長調 D613
3) ピアノ・ソナタ 第4番 イ長調 D537
【CD5】
1) ピアノ・ソナタ 第16番 イ短調 D845
2) ピアノ・ソナタ 第15番 ハ長調 D840「レリーク」
【CD6】
1) ピアノ・ソナタ 第14番 イ短調 D784
2) ピアノ・ソナタ 第12番(旧第11番) ヘ短調 D625 (第3楽章としてアダージョ 変ニ長調 D505を挿入)
3) ピアノ・ソナタ 第7番 ニ長調 D567
【CD7】
1) ピアノ・ソナタ 第13番 イ長調 D664
2) ピアノ・ソナタ 第10番(旧第9番) ロ長調 D575
3) ピアノ・ソナタ 第8番(旧第7番) 変ホ長調 D568 
【CD8】
1) ピアノ・ソナタ 第21番 変ロ長調 D960
2) ピアノ・ソナタ (旧第12番) 嬰ハ短調 D655(断片)
3) ピアノ・ソナタ ホ短調 D769a
4) ピアノ・ソナタ 第6番 ホ短調 D566
 当盤の特徴の一つとして、本来全集に含まれないD568の異稿に当たるD567が、「第7番」として収録されている。そのため、従来第7番と称されるD568が第8番となり、以下番号が従来のものより一つずつ大きく振られている。しかし、従来第12番とされてきたD655が、ナンバリングから漏れており、有名な第13番以降のソナタについては、慣例通りの番号に戻る。
 また、未完成作品のD625は、ティリモ自身の補筆によって完成版として収録されている。また、この曲では、変ニ長調のアダージョ(D505)を第3楽章に充てることで、4楽章構成の体裁にしている。(このD505の挿入は、しばしば行われている)。その他、第2番の第3楽章の初稿であるD277aも収録されている。
 ティリモの演奏は、これらの楽譜を正しく弾き込んだもの。解釈においてきわだった特徴はないが、居ずまいを正した謙虚さを感じる演奏で、とても好感が持てる。フォルテも攻撃的な強さを持った響きは皆無と言って良く、常に暖かなまろやかさを重視し、全体のバランスを吟味し、スコアを読み取りやすい響きで透徹している。音の長さも模範的でスコア通りであり、シューベルトのピアノ・ソナタの本来的な姿というものが良く表れている。特に、古今の演奏家が、様々な表現でシューベルトを奏でたものが聴けるようになった現代では、ティリモのスタイルは、逆にこれらの楽曲に付いた手垢を流れ落とすような刷新たる雰囲気を感じる。しかも、その響きは無機性に陥ることなく、暖かい情緒が巡らされている。だから聴き手は、この演奏から、まぎれもなくシューベルトを感じ取ることができる。ティリモのシューベルト、なかなかどうして素晴らしい。
 ソナタ第12番D625に挿入されたD505のアダージョは入念に弾かれている。厳かな気品を感じさせる。未完のまま扱われることが多い第1楽章は、ティリモの補筆した再現部に工夫が感じられる。あえて別の番号を与えた第7番D567と旧第7番である第8番D568もいかにも血の通った歌の溢れた演奏で、若きシューベルトの率直な音楽性と、不安な美が良く湛えられていると思う。
 モーツァルトを思わせる古典的な造形が美しい第5番D557、素朴な歌で流れの良い第20番D959も素晴らしい演奏。第16番D845も整えられたフォルムが過不足ないし、終楽章の軽やかなスピード感も心地よい。第13番D664のこぼれるようなチャームさは、私にはアシュケナージ(Vladimir Ashkenazy 1937-)、ルプー(Radu Lupu 1945-)以来の感動だった。先に全集を完成したヴァルター・クリーン(Walter Klien 1928-1991)の自由さに対し、ティリモは、あくまで厳格で、とてもまじめな弾き方なのに、同じように豊かな情感が発露しているのは思わぬ発見と言っても良い。シューベルトの楽曲が、そのような音楽となっているのだろう。
 確かに、現代の第一級のピアニストたちの演奏に比べると、輝かしさや刺激には不足すると思うので、そういった点を重視する人には、このティリモの演奏は物足りなく感じるかもしれない。しかし、私はこの演奏にたいへん魅了された。学究的資料的価値があるという以上に、何度も繰り返し聴いて、じっくり味わいたいシューベルトだ。

ピアノ・ソナタ 第1番 第18番「幻想」 水車屋と小川(リスト編)
p: ヴォロドス

レビュー日:2016.6.6
★★★★★ ヴォロドスの芸風の深さを示すシューベルト録音
 ロシアのピアニスト、アルカーディ・ヴォロドス(Arkadij Volodos 1972-)によるシューベルト(Franz Schubert 1797-1828)のピアノ作品集。収録曲は以下の3曲。
1) ピアノ・ソナタ 第1番 ホ長調 D.157
2) ピアノ・ソナタ 第18番 ト長調 D.894 「幻想」
3) 歌曲集「美しい水車小屋の娘」D.795から 第19曲「水車職人と小川」 (リスト(Franz Liszt 1811-1886)編によるピアノ独奏版)
 2001年の録音。
 ロシアのピアニスト、ヴォロドスは、現代を代表するヴィルトゥオジティとして名を知られるピアニストで、華麗な演奏効果をちりばめた「編曲もの」などを中心に辣腕をふるう達人だ。そのコンサートでも、圧倒的な技巧で、聴衆に興奮を巻き起こす。
 そんな彼が、いわゆるドイツ王道的なレパートリーを弾くことは多くはなく、録音となると極端に少ない。そんな中にあって、当アルバムは、珍しい存在と言える。
 そして、その演奏ぶりを聴いて、あらためて意外なものを感じる人が多いと思う。この演奏、正統的な名演と言って良い内容。
 特に、めったに録音されることのないピアノ・ソナタ第1番が良いと思う。この楽曲はシューベルトがまだ10代のうちに書いたもので、3楽章で終わっているが、その第3楽章がメヌエットふうのスケルツォで終わっているから、未完の作品と考えられているのだけれど、ヴォロドスは実に立派な、しかもふさわしい響きでこの楽曲を堂々と鳴らしてくれる。快活な主題の扱い、装飾的なアルペッジョの鮮烈かつ階層的な響き、そして寸分の狂いもないタッチにより、楽曲はその魅力をめいっぱいまで高めている。とても聴きごたえのある充実した響き。もちろん、楽曲の深みという点では、その後の作品にはかなわないのだけれど、シューベルトの初期の交響曲に通じる天性の歌謡性を感じさせる朗らかさが、とても心地よいのである。ヴォロドスというピアニストの音楽的教養の深さは、この1曲に十分聴きとれると感じられる。
 名曲として知られる第18番では、こころにくいほどの落ち着いたスタイルを見せ、それでいて深い相貌を感じさせるシンフォニックな響きがある。ソノリティも硬すぎず、この楽曲にふさわしい温かみを通わせていて、とてもシューベルトらしい瞬間が随所に訪れる。後半3楽章は、やや明るい色彩感を帯び、適度な疾走感も踏まえて快活に弾き進む。ここがあるいはヴォロドスのヴィルトゥオジティとしての一面を、よく伝える部分かもしれない。それにしても、第1楽章の悠然として、力強い進みは、実に魅力的なものがある。
 末尾にリスト編の歌曲が1曲収録されているが、ヴォロドスの技巧の見事さは端的に示されているだろう。できれば、あと何曲か収録してほしかった。
 という風に、実に聴き味豊かなアルバムとなっている。これほどの演奏ができるのに、ヴォロドスがドイツ音楽をきちんと録音する機会がほとんどないのは、なんだかとてももったいないというのが正直な感想だ。

ピアノ・ソナタ 第4番 第7番 第9番 第13番 第14番 第16番 第17番 第18番「幻想」 第19番 第20番 第21番
p: ツァハリアス

レビュー日:2020.9.21
★★★★★ 自然な詩情が横溢しながら、構造性も的確に整えられたシューベルト
 ドイツのピアニスト、クリスティアン・ツァハリアス(Christian Zacharias 1950-)によるシューベルト(Franz Schubert 1797-1828)のピアノ・ソナタ集。CD5枚に以下の楽曲が収録されている。
【CD1】
1) ピアノ・ソナタ 第13番 イ長調 D664
2) ピアノ・ソナタ 第7番 変ホ長調 D568
3) ピアノ・ソナタ 第9番 変ロ長調 D575
【CD2】
4) ピアノ・ソナタ 第16番 イ短調 D845
5) ピアノ・ソナタ 第17番 ニ長調 D850
【CD3】
6) ピアノ・ソナタ 第18番 ト長調 D894 「幻想」
7) ピアノ・ソナタ 第14番 イ短調 D784
【CD4】
8) ピアノ・ソナタ 第19番 ハ短調 D958
9) ピアノ・ソナタ 第21番 変ロ長調 D960
【CD5】
10) ピアノ・ソナタ 第20番 イ長調 D959
11) ピアノ・ソナタ 第4番 イ短調 D537
 1992~93年に録音されたもの。
 とても優れた録音だと思う。
 シューベルトのピアノ・ソナタには、シューベルトの内面からにじみ出た内向的なものと、ベートーヴェンへの憧れから造形性を目指した強靭さを感じさせる部分の両面があり、それらが綯い交ぜとなった揺らぎが様々な形で表出し、時にとりとめのない彷徨を感じさせるような長さを伴った表現となるのであるが、ツァハリスのシューベルトは、それらをある程度明瞭に区分けし、それぞれに対して至適と思えるアプローチを試みたものだと思う。
 こうやって書くと、それでは、一つの楽曲の中でも、場所によって印象が大きく割かれてしまうことになり、結果としてバラバラな全体像となってしまうと感じられるかもしれないが、そこの部分が実にうまくクリアされているので、私にはとても分かりやすく、聴き易い演奏なのだ。また、内面的な掘り下げと、構造性を求める請求力に基づく力強さの双方が蓄えられているため、音楽としての表現幅にも十分なものが感じられるし、加えて、音色が美しく、よくコントロールされているため、聴き疲れに繋がるような部分もない。
 特に印象の強かったものとして、私はソナタ第16番をまず上げたい。劇的でいながらどことなく朴訥とした武骨さがあって、シューベルトのソナタの中でもアプローチのとりわけ難しいものの一つだと思うけれど、ツァハリスは、細やかな緩急を自在に操り、各パートを鮮明に表現しながら、前後の連続性も巧妙に維持して、持続性が高くかつ劇的な音楽を紡ぎだしている。ことに終楽章は見事で、自然なアーティキュレーションでありながら、随所に意志に溢れた活力が感じられる。あるいは、シューベルトの演奏はもっと直截で良いという意見もあるかもしれない。だが、私はツァハリスの造形美にとても魅了された。そこには完成度の高い音楽性を備えた芸術品が表れている。
 難しいといえば、第17番も難しい作品であろう。しかし、ここでもツァハリスは、健やかな歌謡性を張り巡らし、果てない巡回を思わせる世界に明瞭な方向性を指し示すことを達成している。しかもそこに人工的な要素を感じさせずに。
 また、しばしばその詩情は、感覚的な深みを感じさせる。ソナタ第20番の緩徐楽章の憂いに満ちた抒情性はその象徴的な個所だろう。
 このBox-setに一つだけ不満を述べるとしたら、私の好きな第15番の未完のソナタが収録されていないことになるだろうか。とはいえ、CD5枚分の収録時間を使って、総じて、上手く設計され、巧く演奏されたシューベルトを廉価で聴けることは、またとない喜びである。

ピアノ・ソナタ 第4番 第7番 第13番
p: ルイス

レビュー日:2023.2.22
★★★★★ 祝・ポール・ルイスによるシューベルト・チクルス完結
 イギリスのピアニスト、ポール・ルイス(Paul Lewis 1972-)は、現代を代表するシューベルト弾きとして、すっかり評価も定まった観がある。もちろん、彼が弾くものは、シューベルト以外にも素晴らしいものがたくさんあるが、彼が最初に注目されたのはシューベルトの録音だったし、彼自身、シューベルトを自身の最も重要なレパートリーと考えているそうだから、「シューベルト弾き」という形容は、不適当ではないはずだ。
 そんなルイスのシューベルト録音が、リリース元からのアナウンスによると、当盤をもってひとまず完結となるとのこと。この素晴らしいシリーズが長い年月をかけて完結に至ったことをまずは祝いたい。当盤に収録された楽曲は下記の通り。
1) ピアノ・ソナタ 第13番 イ長調 D.664
2) ピアノ・ソナタ 第7番 変ホ長調 D.568
3) ピアノ・ソナタ 第4番 イ短調 D.537
 2022年の録音。
 ちなみに「第7番」は、キプロスの音楽学者マルティーノ・ティリモ(Martino Tirimo 1942-)が監修したウィーン原典版では「第8番」となる。
 「長い年月をかけて」と上述したが、これまでのルイスのシューベルトのピアノ・ソナタ録音を一覧表記すると、下記のようになる。
a) 第14番 第19番 HMN911755 2001年録音
b) 第20番 第21番 HMC901800 2002年録音
c) 第15番 第17番 第18番 4つの即興曲op.90 3つの小品 HMC902115 2011年録音
d) 第16番 さすらい人幻想曲 4つの即興op.142 楽興の時 アレグレット HMC902136 2012年録音
e) 第20番 第21番 HMC902165 2013年録音  【再録音 a)の音源と合わせた2枚組】
f) 第9番 HMM902324 2017年録音  (ウェーバー ピアノソナタ 第2番 と併録)
 以上の様に、21年を費やして、12曲のソナタ(うち2曲は2度)が録音されたこととなる。全集とはならなかったが、取り上げられるべきものが一通りそろったと言えるだろう。
 今回の録音対象となった3曲は、初期の作品群であるが、ルイスの解釈は、深い芸術的知性を通わせたものと言って良く、吟味された音色、力強い運び、そして豊かな表情と、あらゆるものが備わっており、それらが見事な調和を持って、音楽となっている。
 初期の傑作として知られる第13番は、曲想の愛らしさを十全に表現しながらも、ルイスは発色性をコントロールし、時にシンフォニックな響きの幅を与える。第2楽章の左手に添えられた細やかなニュアンスは、かつてこの楽章からもたらされたものの中でも特に味わい深く感じるもので、弾き手の表現幅を感じさせる。
 まとまった解釈をもたらすことが難しいと思われる第7番も素晴らしい聴き応えに仕上がっていて、サロン風と称される楽想も、深い情緒のひだが感じられ、感動が深い。第3楽章のメヌエットで、そのユニークさを十分に引き出してから、終楽章となるが、その情熱的なパッセージは重厚さを帯び、シューベルトの「ベートヴェン至高」を感じさせてやまないものとして姿を現している。この楽章におけるルイスの解釈の冴え、音色の巧みさはアルバムの白眉と思う。
 第4番もニュアンス豊かで、この楽曲が持つ従来の印象以上の味わいが引き出されている。この曲に馴染みのない聴き手であっても、第2楽章の主題には、既聴感を覚えるだろう。シューベルトは、後年、この主題をアレンジしつつ第20番に転用している。ルイスの演奏は、その因果をさりげなく、しかし、聴き手にはっきり伝わるように、投げかけている。ルイスのシューベルト・チクルスが、この後年の布石となる作品で締めくくられるのは、妙に印象深い。

ピアノ・ソナタ 第4番 第13番 さすらい人幻想曲
p: ネボルシン

レビュー日:2017.9.6
★★★★★ 名演。ネボルシンのシューベルト。
 ウズベキスタンのピアニスト、エルダー・ネボルシン(Eldar Nebolsin 1974-)によるシューベルト(Franz Schubert 1797-1828)の3つのピアノ独奏曲を集めたアルバム。収録曲は以下の通り。
1) ピアノ・ソナタ 第4番 イ短調 D537
2) ピアノ・ソナタ 第13番 イ長調 D664
3) さすらい人幻想曲 ハ長調 D760
 2009年の録音。
 とても素晴らしいシューベルトだ。ネボルシンは、完璧な技巧により、爽快なテンポと、豊かな音量をコントロールし、実に流麗なシューベルトを描き出している。詩的なものが少ないという評価もあるようだが、少なくとも、私にはそのような欠点は感じられない。シューベルトらしい旋律が存分に紡がれた上、この作曲家が運命的に持っている「ベートーヴェンへの憧憬」を感じさせる力強い響きと推進力も十全だ。特に低音にしっかりと重みがかかった和音の壮麗さには心を打たれる。
 シューベルト初期の第4番は3楽章構成で完成されたソナタ。力強い第1楽章、そして旋律美に溢れた第2楽章が見事で、作曲者天性のインスピレーションに満ちている。この第2楽章の主題は、のちに有名なピアノ・ソナタ第20番 イ長調 D.959 の終楽章に転用されたもので、聴けばだれしもが「ああ、あの旋律」と思うもの。しかし、ソナタ第4番で登場する姿は、生まれたままといった感じの純朴さで、それもまた固有の魅力を感じさせるのである。ネボルシンは瑞々しいスタッカートと反応性豊かな歌謡性を織り交ぜ、このソナタの魅力を表現しつくしている。
 第13番も3楽章構成のソナタ。一般には、この作品からシューベルトのこのジャンルにおける名作群が始まることになる。ネボルシンの演奏はこの愛らしい曲に、大胆な力強さを与えていて、抒情性と併せて大きさを感じさせる仕上がり。第2楽章のウィット、第3楽章のリズムとも万全の構え。
 最後に収録されているのが、名曲と名高い「さすらい人幻想曲」。ここでネボルシンは見事なヴィルトゥオジティを示す。冒頭から活力にあふれる疾走感。このままのスピードで行けるのか?と思ったが、難所もこともなくクリアし、自然そのもの。時に劇的、そして耽美的。オクターブ音連打が、時に「くどさ」につながりかねない楽曲であるが、ネボルシンは力感に溢れながらも、決して力任せではない制御が行き届いており、大味さがない。この楽曲は、このような演奏で聴いてこそ、と思わせてくれる。
 ネボルシンのシューベルト、個人的には、完璧と形容したいほどの名演と思う。

ピアノ・ソナタ 第6番 第14番 12のドイツ舞曲 2つのスケルツォ 11のエコセーズ エコセーズ
p: ダルベルト

レビュー日:2014.1.21
★★★★★ ダルベルトが提示する辛口なシューベルトの魅力
 1975年のクララ・ハスキルコンクールで優勝したフランスのピアニスト、ミシェル・ダルベルト(Michel Dalberto 1955-)は、現代の“シューベルト弾き”として忘れてはならない存在の1人で、DENONレーベルに、クオリティの高いソナタの全集を録音している。この全集は、ソナタだけでなく「ピアノ作品全集」を謳っており、かなり広範にシューベルト(Franz Peter Schubert 1797-1828)の独奏曲を収録している。本盤は、その全集プロジェクトの第7弾のアルバムとして、1992年から93年にかけて録音されたもので、以下の曲が収録されている。
1) ピアノ・ソナタ 第14番 イ短調 D.784
2) 12のドイツ舞曲 D.790
3) ピアノ・ソナタ 第6番 ホ短調 D.566
4) ロンド ホ長調 D.506
5) 2つのスケルツォ D.593
6) 11のエコセーズ D.781
7) エコセーズ ニ長調 D.782
 私には、このディスクには思い入れがあって、90年代半ばの学生時代に、FM放送で流れる当録音(ソナタ第14番の終楽章)を偶然聴いて、たちまち好きになり「これは、誰の作ったなんという曲だろう、誰が弾いているのだろう?」と思い、当時あったFM誌(私は、FMfanという雑誌を、毎回購入していた)を調べ、当盤に行き当たったのである。
 当時、DENONの新譜CDは高くて、このアルバムも3,000円は下らない値段だったので、学生の私には荷の重い出費だったが、こればかりは買わずにいられない、と思い買ったのである。当時は、私の経済力もさることながら、CDの価格も今と比べて高かったから、一枚のディスクを買うハードルも、随分と高いものだった。それだけに、このアルバムは、私にとって、思い入れのあるディスクでもある。
 ただ、当時の私の感想としては、アルバムを通して聴いたときに、全般に辛口なダルベルトのアプローチに、「もっと柔軟な響きがあった方がいい」というようなものだった。特にドイツ舞曲やエコセーズといった楽曲に、そのような感想を持ったと思う。
 しかし、いま改めてこの録音を聴いてみると、「いい」のである。これは、同じ録音であっても、人生の別のタイミングで聴くと、受ける印象が異なるという、私にとっての良い教訓でもある。実際、最近では、シューベルトの作品を、悪く言うと「腺病質」とでもいいたいほどに、デリケートなタッチで奏でることが多いので、逆にダルベルトの様な辛口なアプローチが、新鮮に響くところがある。
 それでは、ダルベルトの演奏とはどのようなものか?
 基本的にテンポは保持されていて、時間軸に沿った伸縮の効果はほとんどないと言って良い。このテンポで進めは何分後には第〇小節に達するだろうという予測に対し、ほぼ忠実に進行するといった具合。テンポはややゆっくりとしているので、それだけだと「眠くなりそうな」印象かもしれないが、このアプローチでもたらされるピアノ(弱音)とフォルテ(強音)の幅が、緻密に計算されている。そのため、静かな部分では、動くものを最小に抑えた静謐な佇まいを示す一方で、クライマックスでは、ベースラインごと一気に盛り上がり、その音圧で全てを押し流すような迫力に満ちる。私が、FM放送で聴いて感動したソナタ第14番の終楽章は、この盛り上がりが連続して押し寄せるような音楽だから、そのことに強く心を動かされたに違いない。そのようなダルベルトの演奏は、このソナタの持つ厳しい諸相に対し、真正面から向き合った真摯さに溢れている。
 11のエコセーズという、20秒程度のこまやかな舞曲が連なる作品も美しい。ダルベルトは、一つ一つ独立性の高い音タッチで、総体として立体的でシンフォニックと言える幅を築く。そのような「音の和」による微妙な陰影が、こまやかに決まっている。
 2つのスケルツォはあまり聴く機会のない作品で、ショパン(Frederic Chopin 1810-1849)の同名の作品と同様にトリオを挟んだ3部構成の楽曲だが、劇的で詩的なショパンと異なり、シューベルトらしい典雅な温もりとほの暗い響きが交錯するもの。これもダルベルトの精妙なタッチが絶好の聴き映えをもたらしている。
 他の曲も、繰り返し聴いていると、いずれも深い味わいを感じさせるものだと思う。ダルベルトのシューベルトの真価を示す1枚。

ピアノ・ソナタ 第10番 第14番 第21番
p: ハフ

レビュー日:2022.5.16
★★★★★ 演奏家の明晰な意志を感じさせる優れたシューベルト
 イギリスのピアニスト、スティーヴン・ハフ(Stephen Hough 1961-)によるシューベルト(Franz Schubert 1797-1828)のピアノ・ソナタ集。収録曲は下記の通り。
1) ピアノ・ソナタ 第14番 D 784 op.143 イ短調
2) ピアノ・ソナタ 第21番 D 960 変ロ長調
3) ピアノ・ソナタ 第10番 D 613 ハ長調
 1997年から1998年にかけての録音。
 私は最近、ハフが2020年に録音したシューベルトのソナタ18番と13番のアルバムを聴き、とても良かったので、それより20年以上前に録音されていた当盤についても、購入して聴いてみた。
 当盤もとても良いと思う。
 収録されている3つのソナタでは、やはり第21番が名品として、ひときわ格式の高い音楽としての聴き応えあるものだが、ハフの演奏は、この楽曲にふさわしい、広々としていて、それでいて物憂げで、叙情的な性格を巧みに表現している。テクニックの安定自体も驚くほどのレベルであると感じられるが、その音色と音量の幅を自在に操り、楽曲を歌わしながらも、常に俯瞰的な視点の働きが聴き手に明確に伝わってくる。すなわち、音価と音量の制御にともなう構成感に係る表現が、とても緻密なのである。そのため、長大な第1楽章も、確かに長いのだが、明暗の交錯や、進行の過程が分かりやすく、結果的にとても聴き易い演奏となっている。演奏はとても考えられているのだが、その演奏は、聴き手の直感に強く働きかけてくるのだ。第2楽章のアンダンテは、思い切った遅いテンポ設定になっているが、決して間延びはせず、その寂寥たる影の描写に、音楽的な感動を興される。後半2楽章は適度な運動性で、快活にまとまっており、緩みが無い。
 ソナタ第14番も、最近では傑作群の仲間入りをした1曲だと思うが、ハフの演奏はダイナミックで、厳しい相貌を感じさせる。
 テンポは終始、達観しているほど落ち着いているが、ここぞというところでは苛烈なほどに勢いを増した奔流となる。しかし、それとで、輪郭が凛々しく維持されていて、品格を崩さない。演奏者の意志が明瞭に示された演奏と思う。
 第10番は、2つの楽章のスコアが遺されたが、いずれも未完となっている作品で、全集等の企画以外で収録される機会は少ないが、シューベルトのピアノ・ソナタ的な特徴は顕れており、取り留めなく流れるような音楽であるが、ハフは、その愛らしい面を的確に伝えながら、律義に節目を付けて弾いており、これも分かりやすい演奏だと思う。
 2020年録音のシューベルトと同様に、この1997,98年録音のシューベルトも見事な演奏となっており、ハフというピアニストの高い技術と深い教養が感じられる名演となっている。

ピアノ・ソナタ 第13番 第17番 17のドイツ舞曲(レントラー集)から第1番 第3番 第4番 第5番 ハンガリアンメロディー
p: アシュケナージ

レビュー日:2007.7.3
★★★★★ 相応しい優美さを備えた演奏です
 アシュケナージの70歳を記念して、彼の旧録音が一斉にリリースされた。どれも私がLP時代に親しんだ録音であり、CDで所有していない音源については一通り購入させてもらった。聴いてみると、懐かしさとともに、いまなお魅力いっぱいの演奏にあらためて感じ入った。
 アシュケナージは、シューベルトのピアノ・ソナタに関しては若い頃に13番、14番、17番、18番の4曲を録音していて、あとデジタル期に20番、21番の後期の2曲を録音しているが、どれもふさわしい時期に録音されたと思う。
 ソナタ第13番はシューベルトらしいメロディの甘美さと、細やかな情感の漂う曲だが、アシュケナージはそれを表現する上で最良の資質を持っているピアニストであると思われる。こまやかなニュアンスもほほえましく、心温まる演奏だ。
 17番は冗長な面のある曲なだけに、ある程度の勢いを持って曲の方向性をある程度リードした演奏であるが、そこでも「弾き飛ばし」にならないような配慮が張り巡らされており、安心して最後まで聴くことができる。第2楽章の移行主題の美しい膨らみが、何と言っても印象的だ。
 ハンガリアン・メロディーも愛すべき小品だが、相応しい優美さを持った演奏となっている。

ピアノ・ソナタ 第13番 第18番「幻想」 ホ短調 D.769a 断片
p: ハフ

レビュー日:2022.4.20
★★★★★ シューベルトのピアノ・ソナタ録音に、新たな名盤が加わりました
 イギリスのピアニスト、スティーヴン・ハフ(Stephen Hough 1961-)によるシューベルト(Franz Schubert 1797-1828)のピアノ・ソナタ集。収録曲は下記の通り。
1) ピアノ・ソナタ 第18番 ト長調 D.894 「幻想」
2) ピアノ・ソナタ ホ短調 D.769a 断片
3) ピアノ・ソナタ 第13番 イ長調 D.664
 2020年の録音。
 収録曲中、見慣れない(聴き慣れない)のは、ホ短調の「断片(fragment)」と称されたもので、演奏時間はわずか1分10秒程度。シューベルトの未成作品の一つであり、おそらくソナタを念頭に書き始められたものだろう。ちょっと鬱な感じのフレーズが提示され、それに対する低音の応答があり、これから展開に向かうのかなといったあたりでふっと終わってしまう。私も初めて聴いたのだが、なんとなく、悩んでいます、といった雰囲気のフレーズで、なるほど、シューベルトが遺した未成品の中には、このように、本当に手を付けたのみのようなものであっても、現在までスコアとして伝えられているものがあるのだな、と感じた。当作品の佇まいも、いかにもそれらしさを感じるもので、参考になった。
 とはいえ、当然のことながら、当アルバムのメインは、2曲のソナタであり、特に第18番は素晴らしい演奏である。シューベルトのピアノ作品に未完成作品が多くあるのは、シューベルトが展開部に関して悩むことが多かったためであると伝えられる。ベートーヴェンの作品のような建築性にあこがれたシューベルトであったが、自身のうちからわきだすのは歌謡性に満ちた楽想ばかりで(それは素晴らしいことなのだが)、展開のアイデアに餓えていたという。このソナタも、特に第1楽章が、永遠と思われる繰り返しを感じさせるのだが、ハフの演奏は、キリリと引き締まったスタイルで、早目のテンポを主体とし、凛々しい全体像を感じさせるインスピレーションに満ちている。その確固たる演奏には、構造的な弱点など、微塵も感じさせないが如く。かつ、一つ一つの音が磨き脱がれ、こまやかなニュアンスにも事欠かず、情感の対比も鮮明で、とても聴き味が良い。いかにも現代の教養を背景に解釈されたシューベルトであり、音楽的にも、大きな魅力を感じる演奏だ。終楽章の印象的な3連音の繰り返しも、陰影がくっきりしながら、情感が宿っており、瑞々しい感覚美に溢れているだけでなく、広々としたスケール感も併せ持つ。名演だ。
 第13番は、ピアノ・ソナタというジャンルにおけるシューベルトの才能の開花を印象付ける作品。ハフは、この愛らしいソナタに、余裕を感じさせるしなやかな情感をめぐらせ、新鮮な色彩感を与えることに成功している。健やかさとチャームさを適度に配合した巧妙な響きで、作品の魅力をしっかりと伝えてくれる。

ピアノ・ソナタ 第14番 第18番「幻想」 12のワルツ
p: アシュケナージ

レビュー日:2007.6.25
★★★★★ 魔法仕掛けの魅惑のリフレイン
 アシュケナージの70歳を記念して、デッカから彼の若き日の録音がまとめてリリースされた。私にとって懐かしい録音が多く、しばらく廃盤だったものや、初CD化となる音源もあり、とてもうれしい。
 このシューベルト・アルバムではソナタ第18番「幻想」がなぜか長らく廃盤で、CD化を願っていた私にも慶賀もの。この第18番という曲は、最近一気に録音数が増えて、人気も上がった感じがあります。最近では、デリカシーの極みのような演奏が多く(内田や田部の名演もここに入るでしょう・・・)、シューベルトの繊細さを表現していると思う。一方、アシュケナージの演奏を形容するなら、「チャーミング」という言葉がふさわしいのではないでしょうか?例えば幻想ソナタの終楽章を、これほどお花畑を散策するように喜びに満ちて弾いた演奏というのは、なかなかないでしょう。第1楽章の果てしない繰り返しも、やや控えた表現ながら、何度も語られるフレーズがいつのまにか「チャーム」に働きかけて、ふと新鮮な香気を吸い込んだような、はっとする魅力があります。
 一方、第14番は深刻な楽想であるため、印象は異なりますが、それでも若きアシュケナージの手首の弾力の力強さを思い知るピアニズムで演奏効果は見事。終楽章のシャープな流線型の美観も鮮やかです。
 また、ワルツ集もこよなく暖かく歌われており、とても豊かな気持ちにさせてくれる録音です。

ピアノ・ソナタ 第14番 第19番
p: ルイス

レビュー日:2004.2.11
再レビュー日:2015.3.6
★★★★★ あまりにも美しいシューベルト!
 シューベルトのピアノ・ソナタは特殊なジャンルである。
 展開の浪漫性、夢想的な繰り返し、方向性のないさまよい、そしてはかない美しさ。シューベルト演奏には特有の芸術性と詩情が不可欠だ。古今のシューベルト弾きたちだって、おおよそ「完成されない美しさ」として最大限の表現を試みた。リヒテル、ケンプ、カーゾン、レオンスカヤ、中で最近のリリカルな方向性を踏まえたブレンデルやアシュケナージの演奏は特に完成度が高い。
 ところで、このポール・ルイス、日本ではまだ無名だが、あまりにも素晴らしいシューベルトである。まさに「こんなところに、こんな名演が!」の典型。とにかく流れがよく、やわらかい手首から細やかなパッセージの表情付けがことごとくフィットするのだ。
 第19番の第1楽章の展開がはじまった途端に聴き手は魔法じかけにかけられる。とにかく「いまあるシューベルトにまだ納得できない」という方、ぜひ聴いてみてください。
★★★★★ シューベルトの音楽に、深く意思を通わせた演奏
 イギリスのピアニスト、ポール・ルイス(Paul Lewis 1972-)による2001年録音のシューベルト(Franz Peter Schubert 1797-1828)のピアノ・ソナタ集。再発売版。以下の2曲を収録。
1) ピアノ・ソナタ 第19番 ハ短調 D958
2) ピアノ・ソナタ 第14番 イ短調 D784
 ルイスはこれらの2曲を2013年に再録音しているが、なぜかそのアルバムは、2002年録音の第20番と第21番を「抱合せた」ものであったため、演奏は素晴らしいのだが、アイテムとしての魅力が減じられた規格となってしまった。
 それはまた別の話として、ルイスによる一連の、現代最高と言うことも可能なシューベルトのシリーズにおいて、その発端といえるのが当アルバム。2013年録音のスケールを増した演奏ももちろん素晴らしいが、彼の演奏は、その10年以上前のこの録音が行われた時から、すでにとても高いところに到達している。
 ルイスは、シューベルトのピアノ・ソナタの中から、最初にこの単調で書かれた2作品を録音に選んだ。いずれも深刻な諸相を持った作品で、特に第19番は、シューベルトが終生敬愛したベートーヴェン(Ludwig van Beethoven 1770-1827)を、思い切り意識して書いた作品だ。ルイスはこれらの作品にきわめて力強いトーンと、洗練されたフォルムの双方を与えた。
 シューベルトは自身の作曲に悩みに悩んだ人で、特に自身のソナタにおける展開部のインスピレーションに問題を感じていた。実際、シューベルトのソナタには、美しいメロディが満ちる一方で、展開の散漫さや浪漫さが目立ち、印象としてくっきりしたものを与えにくい性格がある。そんな儚い、不完全さが、シューベルトのソナタの不思議な魅力にもなっている。
 しかし、ルイスの強い表現力は、これらのソナタにまつわる不完全性を払拭するような自信に満ちている。シューベルトのピアノ・ソナタをひたすら優しく紡ぐ演奏に、腺病質な暗さを感じるのであれば、このルイスの雄渾な演奏を聴くべきだ。そこには古典とロマンの幸福な邂逅がある。
 ルイスの演奏を聴いていて、私が不思議に感じることは、このピアニストから、自己表現的なものをあまり感じないということである。これは私の感受性の問題でもあるし、一般にどの程度共感を得られる感想なのかわからない。ただ、彼の弾くシューベルトを聴いていると、そこで行われているのはルイスの芸術家としての活動というより、ひたすらスコアを読み解く理知的な意思疎通が行われているように思える。実際は違うのかもしれないが、その印象は、彼の弾くシューベルトが、私に、他に例をみないほどの「完成」を感じさせてくれることにリンクする。シューベルトの作品と自己を同化させたかのような演奏だ。
 ルイスの弾くシューベルトのスタイルが、2001年録音のこのアルバムで、すでに明らかになっている。

ピアノ・ソナタ 第14番 第19番 第20番 第21番
p: ルイス

レビュー日:2004.2.11
★★★★☆ 要注意!第20番と第21番の2曲は、既出盤とまったく同内容です。
 イギリスのピアニスト、ポール・ルイス(Paul Lewis 1972-)によるシューベルト(Franz Peter Schubert 1797-1828)の「後期ピアノ・ソナタ集」。私が購入したのは、ハルモニアムンディによる2枚組のCDメディア(HMC902165); つまり、当アイテムです。
 収録内容は以下の通り。
【CD1】 2013年録音
1) ピアノ・ソナタ 第14番 イ短調 D.784
2) ピアノ・ソナタ 第19番 ハ短調 D.958
【CD2】 2002年録音
3) ピアノ・ソナタ 第20番 イ短調 D.959
4) ピアノ・ソナタ 第21番 変ロ長調 D.960
 ご購入をお考えの方には、是非メディアの選択を慎重に吟味されたい。というのは、当アイテムは、非常に扱いの困ったアルバムだからである。つまり、このたび新しく録音されたのは、【CD1】の2曲のみで、【CD2】については、廃盤とはいえ、既出ディスク(HMC901800)とまったく同じ内容。私は既出盤を所有していた。そのため、私は【CD1】の内容が欲しいばかりに、2枚組アルバム分の価格を、改めて支払わされることになった。これは、消費者心理として納得が行かない。
 そういった点で、mp3ダウンロードは有利である。しかし、製作側としては、CDというメディア商品を売り上げた方が、収益性は有利なはず。そういった点で、私は、今回のCDの内容については、どうしても理解ができない。とはいえ、私の様に、クラシックフアンはダウンロードよりCDメディアを優先的に購入する傾向があるらしいから、そこも踏まえて、製作側に足元を見られたのだろうか。どちらにしても気分は良くない。
 しかし、内容は素晴らしいのである。ポール・ルイスのシューベルトは、本当に良い。
 ルイスは、シューベルトの主要なソナタについては、一通り録音している。【CD1】に収録された第14番と第19番も2001年に一度録音済だ。その後、2002年に第20番と第21番(当アルバム収録音源)が収録された。その後、10年近いインターバルを経て録音が再開され、2011年に第15番、第17番、第18番の3曲、2012年に第16番が録音された。
 だから、今回の録音も、「インターバル後の流れに沿って、第14番と第19番が再録音が行われた」、とみなされるのだけれど、そうなると、なおのこと、「なぜ、インターバル前の第20番、第21番と組み併せてリリースしたのか?」という疑問が大きくなる。いや、疑問というより、「欠陥」と言ってもいい。それくらい残念な企画となってしまった。
 再度、書く。内容は素晴らしい。再録音された2曲は、以前の録音にさらなるスケール感を加え、その悲壮感、悲劇性がより深い相貌で刻まれている。緩徐な部分の、孤独を象徴する影を伴ったような、絶妙な陰影など、このピアニストのシューベルトだからこそ聴ける味わいだと思う。一陣の疾風のように吹き荒れる第19番の終楽章、それは、いつ果てるともしれない付点のリズムが、壮絶な美しさと、時に狂気を思わせる鋭利さを伴って、力強く流れていく音楽となっている。まさに圧巻の一語。現代聴きうる最高のシューベルトと言ってもいい。
 2002年録音の第20番と第21番も素晴らしい。心地よいホール・トーンを保って、暖かい色合いで微細な表情変化を伴って、楽曲が奏でられる心地よさは無類だ。
 そういったわけで、第20番と第21番の既発ディスクをお持ちでない方には、私は当2枚組CDアルバムを、迷うことなく推薦できる。しかし、一つの商品として、当該品の評価を考えあわせたならば、前述の問題が大きすぎるため、星一つ分の評価を減じるのはやむを得ない。残念!

ピアノ・ソナタ 第14番 第20番
p: ボレット

レビュー日:2011.8.26
★★★★★ 不遇の名盤が廉価で復刻!
 世の中には不遇の扱いを受けて、廃盤となってしまう名盤も多いけれど、このボレットのシューベルトもそんな一枚だった。それが、DECCAの廉価シリーズからあっさり復刻してしまい、突然、安価でカンタンに入手可能な環境になった。時々不思議さを感じてしまう。この復活する、しない、という線引きは、いったいどのような経緯で決まるものなのだろうか?
 とはいえ、本当に素晴らしいこのディスクが市場に再登場したことを心底歓迎したい。
 ホルヘ・ボレット(Jorge Bolet 1914-1990)について書こう。彼は1978年、64歳になってデッカと契約し、その後の録音活動を通じてやっとフアンに知られるようになった。それ以前の経歴は少し変わっている。生まれはキューバであるが、米陸軍に所属し、進駐軍の一員として日本に来ている。ピアニストとしてのボレットは、リストの弟子であるモーリツ・ローゼンタール(Moriz Rosenthal 1862-1946)に師事しており、ボレットは「リストの直系の弟子」と言うことになる。
 ボレットのピアニストとしての主だった活躍が晩年となった理由について、私が読んだ資料では「米国内で、批評家から芳しい評価を受けることがなかったため」とあった。それが本当かどうかしらないけれど、まったく、この素晴らしいシューベルトを聴くと「批評家受けしない」ことなど、本当にどうでもいいことなのだと思う。それでも、彼を発掘して録音活動にこぎつけたDECCAのスタッフには感謝したい。
 それでは、この1989年録音のシューベルトのピアノ・ソナタ第20番と第14番を聴いてみよう(死の前年の録音ということになる)。ソナタ第20番、冒頭の和音の素晴らしい響きでたちまち心を奪われる。続いて、的確な間合い、風合いを保ちながら、呼吸するように和音を鳴らし、細やかな音階が輝く。なんと結晶化した美麗な響き。シューベルトの晩年のソナタに呼応するような、歌と哲学の邂逅を感じてしまう。この第1楽章は本当にステキだ。
 第2楽章は雪に凍った大地をゆっくりと踏みしめて歩くよう。ややゆったりしたテンポだが、弛緩がなく、一つ一つの音が十分過ぎるほどの情感を湛えて響く。本当に心の深いところから湧き出た音楽性が、鍵盤の上に表出しているのだと実感する。この1,2楽章が白眉だろう。
 第14番も名演だ。厳かな雰囲気を引き出した内容で、全ての音に魂があるように聴こえてくる。終楽章はスピーディーではないけれど、内省的なパワーを感じさせて、凛々しいサウンドになっている。内容の濃い音楽だ。あらためてこの名盤の復刻を祝いたい。

ピアノ・ソナタ 第15番「レリーク」 第17番 第18番「幻想」 4つの即興曲 op.90 3つの小品
p: ルイス

レビュー日:2011.12.16
★★★★★ 演中の名演!天啓に満ちたような素晴らしいシューベルト
 1994年のロンドン国際ピアノ・コンクールで第2位に入賞し、以後世界的に活躍しているイギリスのピアニスト、ポール・ルイス(Paul Lewis 1972-)によるシューベルト。ピアノ・ソナタ第15番「レリーク」、第17番、第18番「幻想」、4つの即興曲 op.90、3つの小品を収録した2枚組みアルバムで、2011年の録音。
 ルイスは、2001年にシューベルトのピアノ・ソナタ第14番と第19番を、2002年に、第20番と第21番を録音していて、いずれも本当に素晴らしい内容だった。それで、当然私も続編を期待していたのだけれど、その後ルイスはシューベルトではなく、ベートーヴェンに集中的に取り組み、ソナタと協奏曲の全集を完成させた。それで、ルイスも別にシューベルトばかり弾く訳ではないし、続編があるというわけでもないのかな・・と思っていたところに、このような質・量ともに素晴らしいアルバムがリリースされたのだから、聴く方としても望外の喜びの感がある。
 このアルバムが手元に届いてから、私はもう随分聴いている。何度でも聴きたくなる素晴らしいシューベルトだ。1枚目の最初に収録してある第17番の第1楽章冒頭。再生機から流れる音は溢れるほどの生命力に満ち、歌に溢れ、部屋を駆け巡るようにして響いてくる。なんという心地よさ。このピアニストは師であるブレンデル(Alfred Brendel 1931-)からシューベルトの奏法なども学んだとされるが、この演奏を聴いていると、「天性」という言葉を思いつく。これほどシューベルトを弾く資質に溢れるピアニストは他にいないのではないか?
 シューベルトのピアノ・ソナタには作品としての問題点がよく指摘される。展開に時間を要し、何度も繰り返されるメロディーは時として聴き手に「忍耐」を要求する。だがルイスのシューベルトを聴いていると、そこで繰り広げられているのは、演奏者とスコアのきわめてストレートなコミュニケーションであると思う。次々とそこで編み出されたかのような音楽が、はちきれるような生気に溢れて転がる様を観ているうちに、聴き手はシューベルトの世界に分け入り、野山や花園を散策するのである。長大な時間を感じることはない。なんと能動的に施されたシューベルト!
 また、名曲の誉れ高い即興曲や3つの小品においても、ルイスの真剣なスコアとのコミュニケーションの姿勢は一貫している。これらの曲の「愉悦」や「遊戯」といった要素は、そういった真剣なやりとりの中で、極めて自然発生的にかつ力強く引き出されている。ルイスの高い集中力によって、聴き手もまた、いよいよシューベルトの世界に深く深く携わっていくのだ、と実感する。さきほど「天性」という言葉を用いたが、聴き手にこのような感慨を味わわせてくれるものは、「天啓」と言えるかもしれない。それほどの稀有なシューベルト弾きだと思う。以前の録音群よりもあきらかにレベルアップした名演中の名演と言っていいだろう。

ピアノ・ソナタ 第15番「レリーク」 第20番
p: エッカードシュタイン

レビュー日:2020.3.9
★★★★★ 演奏者の意趣と作品解釈によって、新たな聴き味が引き出されたシューベルト
 2003年のエリザベート王妃国際コンクールで優勝したドイツのピアニスト、セヴェリン・フォン・エッカードシュタイン(Severin von Eckardstein 1978-)によるシューベルト(Franz Schubert 1797-1828)の以下の2作品を収録したアルバム。
1) ピアノ・ソナタ 第15番 ハ長調 「レリーク」 D840
2) ピアノ・ソナタ 第20番 イ長調 D959
 2009年の録音。
 エッカードシュタインというピアニストは、様々な作曲家の作品を聴いてみたいと感じさせるピアニストだ。なにより、彼の「解釈」が、明敏に伝わってくるし、それも楽曲をないがしろにするのではなく、いかにも大切に考えた末に、自分なりの語法を編み出して、それを魅力的な形で提示してくれる。このシューベルトも個性的かつ面白い。
 エッカードシュタインは、時に強靭な音色を用いることも躊躇せず、こまかなアクセントや、フレーズを洗い出し、その装飾性を明敏に形で聴き手に提示する。その傾向は、特にシンフォニックな幅のある両ソナタの第1楽章において顕著である。
 ソナタ第15番は、未完に終わった未出版品であるため、「レリーク(遺作の意味)」の名を与えられている。完成された楽章は第1楽章と第2楽章のみであるが、それはシューベルトならではの歌と彷徨を感じさせるものとなっている。エッカードシュタインの演奏では、特に第1楽章に鋭いコントラストが設けられており、時にゴツゴツしたフレーズであっても、直截にそれを表現する。その一方で、各フレーズにはこまやかなルバートを巡らせ、一つ一つの小さなものに大きな音楽的存在感を与えていく。第2楽章では打って変わってなだらかにメロディが歌われていく。透明感の高い音響をバックに、適度な伸縮のある歌が心地よい。
 名曲として知られるソナタ第20番でも、第1楽章において、様々な意匠を感じることが出来る。全体の緩急と併せて、もう一段細かい段階の緩急が明確な意志によって設定されていて、それらの組み合わせの結果、同じようなフレーズの繰り返しであっても、その間に様々なベクトルの変化を感じさせる。その結果、聴き手が受け取る感情表現には、幅が生まれ、柔軟な面白味が介在してくる。個人的に、当アルバムで、一番楽しんだのがソナタ第20番の第1楽章である。第2楽章になると、楽曲の性格もあって、表現は単純化し、エッカードシュタインの演奏は、なめらかな伸びやかさを重んじるようになる。後半2楽章は比較的軽妙にこなしているが、やや残響を抑え気味の録音であるため、落ち着いた、少し暗めの雰囲気があって、全体の印象にもつながっているものになると思う。
 全体としては、演奏者の意匠とシューベルトの作品性の両立が良く達せられていて、「エッカードシュタインのシューベルト」として、聴き手に味わいを感じさせてくれる演奏で、私は気に入っている。当盤のように演奏家の表現意欲が伝わってくる演奏の存在を見つけ出すことは、クラシック音盤収集者にとって、一つの喜びであると思う。

シューベルト ピアノ・ソナタ 第15番「レリーク」 第20番  クルターク ユディットの誕生日に寄せるエレジー シューベルトへのオマージュ
p: ビス

レビュー日:2020.8.28
★★★★★ ジョナサン・ビスによる孤愁を感じさせるシューベルト、そしてクルターク
 アメリカのピアニスト、ジョナサン・ビス(Jonathan Biss 1980-)が、2008年に、ロンドンのウィグモア・ホールで開催したコンサートの模様をライヴ収録したもの。以下の楽曲を収録している。
1) クルターク(Kurtag Gyorgy 1926-) ユディットの誕生日に寄せるエレジー
2) シューベルト(Franz Schubert 1797-1828) ピアノ・ソナタ 第15番 ハ長調 D840 「レリーク」
3) シューベルト ピアノ・ソナタ 第20番 イ長調 D959
4) クルターク シューベルトへのオマージュ
 クルタークの意味深な短い2編により、シューベルトの2つのソナタを挟むという形になっている。
 冒頭に置かれたクルタークの作品は、単音で構成された楽曲で、大きな間合いのなかで、ポツポツと降り始めた雨のように音がもたらされていく。特有の緊張感と哀しい響きがあり、この楽曲を導入に持ってきたことで、その後に弾かれるシューベルトも、おそらく楽曲のもつ孤愁に通じる性格に焦点を当てた演奏になるのだろう、と推察がつく。
 果たして、シューベルトは開始から、哀しい色合いが感じられる演奏だ。強奏は抑制的であり、ペダルの効果も小さく、淡々、切々といった感じで音化されていく。音の間隙を大切にした演奏であり、安易に音を延ばさず、必要な音量について必要なものだけ引き出す。テンポは穏当だ。未完成に終わった第15番は、私の好きな作品であるが、ビスの演奏には乾いた、それでいて情感のある風情があり、美しいと思う。印象的な低音と高音の交錯も、何かを強調したりぜず、行間の情とでもいうべきものを描いている。それは詩情と表現するのが適当だろうか。
 傑作として知られる第20番もやや控えた体裁の演奏。第1楽章と第2楽章の間を詰めて演奏しているのも一つの特徴だろう。第2楽章は揺蕩うような振幅が情緒に作用することで、表現性の低下を巧みに回避している。この曲の第3,4楽章はビスの演奏の良い面が特に発揮された部分であり、小回りの利いたピアニスティックな冴えが、各所にエッジの利いた素早い転換をもたらして実に心地よい。簡素な感じでありながら、暖かみを保った音色も良いと思う。
 末尾に置かれたクルタークの小品は、アンコールで弾かれたもの。短く、抽象的な、しかし寂しげな佳品ながら、コンサートの両端をクルタークの作品で挟むことは、ビスのシューベルト観を象徴する、聴衆へのメッセージと感じられる。

ピアノ・ソナタ 第16番 さすらい人幻想曲 4つの即興曲op.142 楽興の時 アレグレット
p: ルイス

レビュー日:2012.11.9
★★★★★ 「これこそ音楽である」と言いたくなるシューベルト
 1994年のロンドン国際ピアノ・コンクールで第2位に入賞し、以後世界的に活躍しているイギリスのピアニスト、ポール・ルイス(Paul Lewis 1972-)によるシューベルト(Franz Peter Schubert 1797-1828)のピアノ・ソロ曲集。ピアノ・ソナタ第16番 さすらい人幻想曲 4つの即興曲op.142 楽興の時 アレグレットを収録した2枚組みアルバムで、2012年の録音。
   ルイスは、2001年にシューベルトのピアノ・ソナタ第14番と第19番を、2002年に、第20番と第21番を録音していて、いずれも本当に素晴らしい内容だった。しかし、その後しばらくシューベルトの録音から遠ざかっていた。その後、ほぼ10年のインターバルをおいて、2011年にピアノ・ソナタ第15番「レリーク」、第17番、第18番「幻想」、4つの即興曲 op.90、3つの小品により録音を再開し、さらに今度はそこから間をおかずに、このたびの2枚組アルバムが続いたことになる。これで、ルイスの録音がほぼシューベルトの主要なピアノ・ソロ作品を網羅するまでに至った。
 それにしても、このピアニストの弾くシューベルトは素晴らしい。まさに当代随一の弾き手といっても過言ではないのではないだろうか。以前のこのピアニストのシューベルトを聴いたときも、感慨を持ったが、ここで聴かれるの音楽は、私にはピアニストとスコアの間での高次なコミュニケーションであると思われる。これは、ルイスの演奏が、まさしく我が身を動かすくらいに自由にピアノを動かしており、そのことに起因する自然さ、屈託のなさ、すべてに神経が行き届く濃密さから、総体として得られる印象である。
 冒頭に収録された「さすらい人幻想曲」から、その間断のない音楽の健やかな展開、移ろいに、まったく安心して身を任せることができる。そうして聴いているうちに、聴き手はシューベルトの音楽が描いている世界を、一種の「疑似体験」をしているかのような興奮に、いつの間にか巻き込まれていることに気付く。それは、実に幸福な体験で、もちろん、シューベルトの歌には喜びも悲しみもあるのだけれど、それらが音楽的に鮮やかに編まれていく様に接することは、感情的な暖かさとして伝わるため、最終的に、聴き手には豊かな感興を得ることになる。俗な言い方をすれば「癒し」になるのかもしれないが、この音楽には単に「癒し」というより、はるかに高度な感覚的興奮も含まれている。
 続く4つの即興曲でも、音楽の奔流は実に自然で心地よい。音楽は様々な感情を表現するが、余分なものを排してくれる。だから、悲しみの感情や恐れの感情であっても、音楽であれば、その原因や背景と無関係に、気持ちだけを汲みとることができる。小林秀雄は「詞のない音楽を聴いたときに流す人間の涙は、人間の流すもっとも純粋な涙」の様な意のことを言ったというが、それはこのような音楽によって体得される印象だろう。
 ソナタ第16番はシューベルトの闇の部分、悩みや恐れが表現されているが、ルイスのピアノの音色で紡がれるその感情がなんと魅力的に響くことか。恐れや悲しみといった感情が、人にとってどれほど大切なものであるか、この演奏を通して伝わってくる。特に一陣の風のように駆け抜ける第4楽章の美しさは比類ない。
 楽興の時も同様に、現代を代表するシューベルトであり、シューベルトの音楽の神髄を感じさせてくれる。私自身の感性による主観である部分は当然含まれるが、それにしても、この演奏は素晴らしいに違いないと思う。

ピアノ・ソナタ 第17番 第19番 第20番 第21番
p: アンスネス

レビュー日:2008.2.9
★★★★★ ピアノ・ソナタだけ集めた再編集盤です
 レイフ・オヴェ・アンスネス(Leif Ove Andsnes)のシューベルトのピアノ・ソナタ集。収録曲は第17番(2002年録音)、第19番(2006年録音)、第20番(2001年録音)、第21番(2004年録音)。
 これらは元々歌曲集とのカップリングによりリリースされていたわけで、言ってみればアンスネスとボストリッジによるシューベルトの「ピアノ・ソナタ+歌曲」というコンビネーションに主眼をおいたシリーズ企画だった。それを思うと、このようなピアノ・ソナタだけを抽出した再編集版が出てしまうことは、本来あった企画の意図がなしくずしになるようにも思えるわけですが、しかし私のようになんとなくその企画性に加わりそびれて、これらの録音を聴かずにいた人が、聴き易い形にまとまって再発売してくれたのを機に買ったりもするので、難しく考えなければいいのだろう、という気にもなります。この辺は実際アンスネスさんの意見も訊いてみたいところです。
 演奏はきわめて清廉なシューベルトといったイメージ。さらさらと流れていき、淀むような部分のない演奏。といっても簡単に弾き飛ばすわけではなくて、アンスネスらしいクリアで清澄な歌となっています。とくに緩徐楽章の、抽出され、再結晶したかのようなソノリティによって構成された音楽は、一面真っ白な雪原のようなイメージ。特に第21番の第2楽章は淡い青みのさすような光沢を感じる美しい仕上がり。第19番の終楽章などはもっと高音のアクセントが効いてもいいような感じがするのですが、この演奏の高い気品を象徴して表情はセーヴされているのでしょう。第17番の「さまよえる感」も蒸留されたような直線性のラインが美しいです。

ピアノ・ソナタ 第18番「幻想」 第19番
p: ラルーム

レビュー日:2021.6.10
★★★★★ 淡さの中に豊かな語り掛けが感じられるラルームのシューベルト
 フランスのピアニスト、アダム・ラルーム(Adam Laloum 1987-)によるシューベルト(Franz Schubert 1797-1828)の下記の2つのピアノ・ソナタを収録したアルバム。
1) ピアノ・ソナタ 第18番 ト長調 D.894 「幻想」
2) ピアノ・ソナタ 第19番 ハ短調 D.958
 2019年の録音。
 すでに室内楽を含めて、ブラームス(Johannes Brahms 1833-1897)、そしてシューマン(Robert Schumann 1810-1856)に、内省的な深みのある素晴らしい演奏を記録しているラルームが、シューベルトのソナタを録音した。そのスタイルから、シューベルト作品との相性も期待されたが、果たして、良い演奏となっている。作品自体を自然に響かせながらも、音色のバランス、品の良いカンタービレ、そしてバランス感覚に優れた精緻な解釈であり、シューベルトのピアノ作品がもっているある種素の朴さを、うまくエスコートして、消化した良演だ。
 最近のシューベルトのピアノ・ソナタの録音のうち、私が特に良かったと感じているのは、当盤と同じくHarmonia Mundiからリリースされたポール・ルイス(Paul Lewis 1972-)の一連の録音であるが、ルイスが積極的な語り掛けで、能動的な表現でシューベルトを描いたのに対し、ラルームは、さながら後期のブラームスを彷彿とさせるような、間隙を意識させる一種の淡さを描いて見せている。言い方を変えれば、この演奏は、聴き手の感受性にある程度の信頼を置いて、そっと投げかけたような自然さがある。例えば、ピアノ・ソナタ第18番の第1楽章の繰り返されるフレーズは、ラルームは繊細、かつ穏便に仕上げている。クライマックスの和音も、強靭、圧倒という言葉とは無縁で、神経を巡らせて、音色、バランスに周到に配慮した響きを演出する。その一方で、内面性に浸り込んで、腺病質になってしまうこともない。健全なテンポの中、やわらかな日差しの中で浮かび上がるカンタービレは、それ自体が感動的で、美しい。
 ソナタ第19番では、第2楽章がことに印象的で、物憂さ、儚さといったものが、自然なものとして、さりげなく提示されているだけでなく、音楽としての濃淡付けによって、聴き手が耳を傾けた時、十分な語り掛けがあるものになっている。
 シューベルトのピアノ・ソナタに、もっと濃厚な表現や、孤独の強調が欲しい人には、物足りなく感じられるかもしれないが、私はこのシューベルトに感動し、今後もこのピアニストの録音を聴いていきたいと思った。

ピアノ・ソナタ 第18番「幻想」 第20番
p: コロリオフ

レビュー日:2015.5.12
★★★★★ コロリオフらしい内面豊かで素直なシューベルト
 エフゲニー・コロリオフ(Evgeni Koroliov 1949-)による2012年録音のシューベルト(Franz Schubert 1797-1828)のピアノ・ソナタ集。以下の2曲を収録。
1) ピアノ・ソナタ 第18番 ト長調 D.894「幻想」
2) ピアノ・ソナタ 第20番 イ長調 D.959
 以前からバッハ(Johann Sebastian Bach 1685-1750)の演奏に関しては定評のあるコロリオフであるが、2012年から14年にかけて録音されたベートーヴェン(Ludwig van Beethoven 1770-1827)の後期5曲のピアノ・ソナタにおいても素晴らしい演奏を聴かせてくれた。それと並行して録音されたシューベルトの名曲2曲ということになる。
 聴いてみての第1印象はとても素直な演奏ということ。クセもなく、テンポも穏当で、飾り気も少ない。だから、最初聴いたときは、なんとなく普通の演奏だな、といった受け止め方になるかもしれない。しかし、私はとても素晴らしい演奏だと思う。
 一つ一つのフレーズの明瞭さ、ラテン的な要素さえ感じさせる明るい伸びやかさを持った弾きこなし、それでいてさり気なく陰りを感じさせるコロリオフの演奏は、私にとってシューベルトのソナタの美質をこよなく伝えるものだ。例えばソナタ20番の第1楽章、冒頭部が終わってからシューベルトらしい長大な展開部へと突入していくのだけれど、ここで扱われる一つ一つの断片が明朗な輝きをもって、とても明晰に処理されていく。この繰り返しが、シューベルトの音楽で弱いとされる造形的な面をよく補完する一方で、簡明な旋律線を形成していて、それは私にはとても音楽的に響く。つまり、表現が表面的なものでなく、内省的な掘り下げにより、歌が生まれてくるので、私はそこにシューベルトの音楽の深さを見出すのである。
 ソナタ第18番においても、コロリオフの表現はとてもストレートで聴き味がなめらかであるが、それだけでなく、個々の経過句の丁寧な扱いと、ほどよい間合いの挿入によって、滋味の溢れた音楽表現になっているのが特徴だ、そのため、繰り返し聴くほどに味わいが増し、食傷とは無縁の淡麗さを持っている。
 終楽章で色彩感はやや抑えられているが、しっかりと支えられた広がりの感じられる表現で、シューベルトの音楽の内的な充実を実感させてくれる響きだと思う。
 コロリオフのバッハに感動した人は、是非彼のベートーヴェン、それにこのシューベルトも味わってほしい。

ピアノ・ソナタ 第18番「幻想」 第21番 ハンガリアンメロディー 楽興の時 アレグレット 4つの即興曲 op.142, D.935
fp: シフ

レビュー日:2015.4.24
★★★★☆ 1820年ウィーン製フォルテ・ピアノによるシューベルト
 アンドラーシュ・シフ(Schiff Andras 1953-)によるフォルテ・ピアノを使用したシューベルト(Franz Schubert 1797-1828)のピアノ作品集。2014年録音のCD2枚組。収録内容の詳細は以下の通り。
【CD1】
1) ハンガリーのメロディ ロ短調 D.817
2) ピアノ・ソナタ 第18番 ト長調 D.894「幻想」
3) 楽興の時 op.94, D.780
【CD2】
4) アレグレット ハ短調 D.915
5) 即興曲集 op.142, D.935
6) ピアノ・ソナタ 第21番 変ロ長調 D.960
 シフは、1992年から93年にかけてシューベルトのピアノ・ソナタ全集を録音しており、その際はベーゼンドルファーを使用していた。それは、とてもソフトで美しく、かつ芯がきちんとした響きであった。今も私の好きな録音である。また、ハンガリーのメロディ、楽興の時、即興曲、アレグレットについても、80年代末から90年代はじめにかけて録音していたので、このたびのアルバムの収録曲すべてがおよそ20年ぶりの再録音ということになる。
 今回の録音の特徴は、やはり楽器にある。1820年にウィーンで作られたフランツ・ブロードマン製のフォルテ・ピアノなのだが、この楽器の選択について、シフ自身は以下のように述べている。「この楽器は、シューベルトのピアノ作品を演奏するのにとても適したものです。ウィーン的な何か、優しい円熟味や憂鬱なカンタービレを引き出します。そして、シューベルト以外の誰にも書きえなかった静寂の中の真の静寂の一瞬を引き起こします。それが私たちの心をさらうのです。」また、当アルバムの録音場所にも言及していて、「この楽器には、適切な場所が必要です。大きすぎるホールは良くありません。音響効果、規模、響きの醸し出す雰囲気、すべてがこの楽器に適している必要があります。そういった意味で、今回の録音を行ったボンのベートーヴェン・ハウスは、理想的と言えるでしょう」。
 実際に訊いてみての感想だが、やはりフォルテ・ピアノという楽器の音色自体をどう捉えるか、というのが焦点になるだろう。ぺダリングの効果にも音量にも制約があるから、全般に流れは一様で、大きな変化はない。木目調のポロンポロンとした響きに支配された状態で、音楽的なものを求めていくことになる。
 なるほど、この楽器で奏でるシューベルトは、とても小規模なものに聞こえる。低音は微妙な不安定さを持っていて、強奏の際は若干の音程の緩みを導くように、タッチたけでコントロールできない部分が存在する。高音は、伸縮の自由がないから、場所によってはハープが鳴っているような趣で、こちらも表現の多様性という観点では乏しいだろう。一方で、全般に暖かい雰囲気があり、前述のシフの指摘した「静寂」も、現代ピアノの演奏より訪れが早いと感じられる。しかし、その「静寂」は、ダイナミックレンジのギャップが小さいために、それほど意識的なものを感じさせない。逆に言うと、「静寂」の自然な出現が魅力になる、ということだろうか。
 これらの現代ピアノと異なる特性は、聴き手に寂しさや侘(わび)しさといった印象をももたらす。これは現代ピアノの演奏に慣れているということもある以上に、現代ピアノによるシューベルトの奏法が、長い歴史の中で進化してきたことの証明でもあるだろう。それを承知の上でシフはフォルテ・ピアノでシューベルトを弾く。そんなシフのアプローチについて、私は、その多くを理解した、と言い切ることはとてもできないけれど、「興味深い」というレベルで楽しむことは出来た。特に変ロ長調のソナタは、この楽器特有のモチーフの受け渡しや、意欲的な音色の選択があったと思う。しかし、全体的には、どうしても「物足りなさ」が印象としてまさる、というのが正直な感想だ。
 シフという優れたアーティストが、この楽器の響きを丹精に伝えてくれることに感謝しつつ、できれば、今のシフが、ベーゼンドルファーを存分に弾きこなしたシューベルトの方を、なお聴きたいと願った。

ピアノ・ソナタ 第18番「幻想」 第21番
p: ソコロフ

レビュー日:2020.12.16
★★★★☆ ソコロフ1992年のライヴ録音です
 ロシアのピアニスト、グリゴリー・ソコロフ(Grigory Sokolov 1950-)が、1992年に、ヘルシンキのフィンランディア・ホールで行ったコンサートの模様をライヴ収録したもの。シューベルト(Franz Schubert 1797-1828)の下記の2つのピアノ・ソナタが、それぞれCD1枚に収録された2枚組となっている。
【CD1】 ピアノ・ソナタ 第18番 ト長調 「幻想」 D.894
【CD2】 ピアノ・ソナタ 第21番 変ロ長調 D.960
 ソコロフのシューベルトは武骨さと清澄さを併せ持ったもの。ブレンデル(Alfred Brendel 1931-)、アシュケナージ(Vladimiri Ashkenazy 1937-)、ルイス(Paul Lewis 1972-)といった人たちの弾く流暢な歌のある演奏とは、雰囲気が大きく異なる。タッチや強弱もシームレスではなく、いくつかの飛びのあるステップを組み合わせたような感じで、厳密とも表現できるし、中間色に乏しいとも表現できる。
 2曲弾かれたソナタでは、第18番の方が良いとおもう。立ち止まっては呼吸し、その溜めを活かしたコードを鳴らす。その第1楽章の特徴的なフレーズが、このピアニストのスタイルに合っていて、独特の気高い雰囲気を醸成することに役立っている。ところどころで、武骨なフォルテが繰り出される。個人的には気になるところであるが、フォルテそのものの力強さや凛々しさに惹かれる人には、十分魅力的なポイントになると思う。中間楽章は、淡さと渋さがあり、墨絵を思わせるモノトーンゆえの美観が整っており、悪くはない。終楽章は、楽想に比して重さを感じさせるが、これも、前3楽章とのバランスを考えると、良いと思う。
 一方で第21番は、私はそれほど好きではない。どういう点が、というと例えば第1楽章における、ゴロゴロと遠雷を思わせる象徴的な低音は、存在感が強調され過ぎて、私にはしっくりこないし、第2楽章も肌合いが硬すぎると思う。特にこの第2楽章は、私には直接的ではなくても、情感を訴えるものをしっかりと感じたいところなのであるが、ソコロフの演奏は、そういう味わいを求める人には、やや角ばり過ぎていて、テンポも遅いし、ルバートも人工的過ぎると思う。このあたり、私がこのピアニストの演奏に、たびたび惑わされる思いを感じるところが、はっきり出ている部分でもある。終楽章も、強靭さを尊ぶあまり、その強い音の介入の度合いは大きすぎて、構造的な把握という点で、瑕疵を感じさせる。もちろん、全般に清澄さがあり、このピアニストならではのテンションのある演奏でもあることは認めるが、私の好みという点で評価すると、どうしても、やや辛めのものとならざるをえない。
 以上、良くも悪くも、ソコロフというアーティストの個性がしっかりと刻印された記録ではあると思う。

ピアノ・ソナタ 第19番 4つの即興曲(op.142, D.935)
p: ルガンスキー

レビュー日:2015.12.10
★★★★★ ルガンスキーが提示する、新しく鮮烈な「シューベルト」の切り口
 2015年録音の、ルガンスキー(Nikolai Lugansky 1972-)初のシューベルト(Franz Schubert1797-1828)・アルバム。収録曲は以下の通り。
1) ピアノ・ソナタ第19番ハ短調 D.958
2) 4つの即興曲 op.142, D.935 第1番 ヘ短調
3) 4つの即興曲 op.142, D.935 第2番 変イ長調
4) 4つの即興曲 op.142, D.935 第3番 変ロ長調
5) 4つの即興曲 op.142, D.935 第4番 ヘ短調
 なんと淡くも鮮烈なシューベルトだろう。かつて、このようなシューベルトを奏でた人がいただろうか。
 シューベルトのピアノ曲にどのように相対するのか。これはとても興味深いテーマだ。シューベルトの、特にピアノ・ソナタでは、作曲者の心の深いところから紡がれた旋律美と併せて、作曲家自身が悩みに悩みぬいた展開技法への憧れが、その理想的な解決を見いだせぬまま彷徨うような不確かさがある。これが、聴き手には、若くして世に認められぬままに去ったシューベルトの夢と苦悩を表現しているように感じられるのは、自然なことだろう。美しさと恐ろしさが同居している、という多くの人が抱く感想もそこから起因する。
 私は、そんなシューベルトを、あまりにも大切に扱いすぎる解釈が苦手である。腺病質とまで言わないまでも、どこかに引きこもるかのように内省的な表現を追求するばかりでは、これらの楽曲の解釈として、狭いというか、学術的に過ぎるというか。
 そんな私が最近大好きなシューベルトは、ポール・ルイス(Paul Lewis 1972-)というピアニストによる一連の録音で、そこでは様々なニュアンスを織り込みながら、奏者とスコアの密な対話を感じさせる世界が展開している。その楽想に沿った変化の豊かさに、私は魅入らされて、ずいぶん何回もルイスの弾くシューベルトを聴いた。
 ところで、このルガンスキーの演奏は、そこにクールで清冽な風を吹き込むような響きである。高貴なる抑制、とでも形容しようか。そもそも、ルガンスキーの演奏には、いつも高い視点で制御されたような、俯瞰的なイメージが付随する。しかし、演奏を聴いていると、それが決して表面的なものに響かず、むしろその遠視点的スタイルによって、内奥まで光が届くような神々しさを感じさせる。このシューベルトもまさにそういった雰囲気で、ピアノ・ソナタの冒頭から、決然と襟を正した厳粛さに覆われる。そして、その後も、決して情緒に逃げることのない、鋭利な思考に支配された音響が構築されていく。ルイスの演奏で感じられる躍動や跳躍は影をひそめ、時系列にそってきちんと事象が並ぶような趣で、音楽が進められる。
 しかも、その音楽が澄み切っていて、とても美しいのである。ルイスの描くシューベルトが秋の風景だとすると、ルガンスキーのそれは冬の風景だ。針葉樹林、雪、灰色の雲。しかし、一見無彩色に思えるその風景が、その美しさに気付いたとたん、見るものにとって代えがたいものとなる。
 4つの即興曲にしても、これほど「淡々と」した演奏は今までなかったと思う。だれだってこの美しい旋律に溢れた楽曲たちに接すると、たっぷりとした情緒を与えたい、と思うものだ。しかし、ルガンスキーの解釈は、きわめて線的で、きちっとした構図に沿った音の配列がなされる。とはいっても、その音楽は決して無機質なものではなく、進むほどに崇高な気配があたりを包んでいくのである。
 このようなシューベルトがあったのか、と感服させられた一枚でした。

ピアノ・ソナタ 第19番 第20番 第21番
p: アファナシエフ

レビュー日:2006.1.22
★★★★☆ 「アファナシエフを聴いてみる」ためのディスク
 しばらく廃盤だったアファナシエフによるシューベルトの最後の3つのソナタが再版された。とにもかくにも存在感のある演奏である。
 シューベルトのピアノ・ソナタというと、なんといってもその長さが問題となってくる。いくつかの美しい主題が提示されながらも、展開部の構築が浪漫的で、曲の構造はどんどんとりとめもつかないまま放浪していく。ピアニストはこれらの作品に起伏を持たせ、節度あるテンポを持って、終結へと導く。そして、私達はシューベルトの孤独や苦悩を感じたり、あるいは自分たちの感覚に照らしたりして、感動を覚えたりする。
 ところが、アファナシエフの解釈はそこに一石投じている。シューベルトの長い長いピアノ・ソナタを、彼はさらにことさらゆっくりと弾いて行く。この2枚組みのCDの場合、第20番の第2楽章が終わったら、私達はCDを2枚目に交換する必要がある。というのは、あまりにも長い演奏時間により、とても2曲を1枚のCDに収録できないからだ。
 アファナシエフの世界は瞑想的である。ゆっくりとさらに断片化されたシューベルトのソナタは、一つ一つ刻印をきざむ様にしなければ前に進まない。そこには美しい音もあるが、ある意味苦行とも言える部分がある。これがシューベルトの苦悩なのかわからないが、アファナシエフの問いかけのような遅い進みは、様々な空想を孕む一方で、私達の集中力の限界との戦いというリアルな問題まで勃発している。これは確かに存在感のある録音である。
 しかし、聴く人はある程度の覚悟を要する録音だ。少なくとも「これからシューベルトを聴いてみる」という人にはオススメできない。シューベルトのこれらの楽曲について、ある程度知った人が「アファナシエフを聴いてみる」ためのディスクといえる。

ピアノ・ソナタ 第19番 第20番 第21番 3つの小品
p: ロンクィッヒ

レビュー日:2018.11.26
★★★★★ ロンクィッヒの設計力の巧さが感じられるシューベルト
 ドイツのピアニスト、アレクサンダー・ロンクィッヒ(Alexander Lonquich 1960-)による「1828」と題したシューベルト(Franz Schubert 1797-1828)のピアノ作品集で、シューベルトが亡くなった年に作曲した以下のピアノ独奏曲が収録されている。
【CD1】
1) ピアノ・ソナタ 第19番 ハ短調 D.958
2) ピアノ・ソナタ 第20番 イ長調 D.959
【CD2】
3) ピアノ・ソナタ 第21番 変ロ長調 D.960
4) 3つの小品 D.946 (第1番 変ホ短調 第2番 変ホ長調 第3番 ハ長調)
 2017年の録音。
 ロンクィッヒのシューベルトと言うと、私はすぐにカロリン・ヴィトマン(Carolin Widmann 1976-)と録音したヴァイオリンとピアノのための作品集のことを思い起こすのであるが、このたびは充実した独奏曲2枚組のアルバムということで、さっそく入手して聴かせていただいた。
 とても素晴らしい内容だった。私は、現在最高のシューベルト弾きはルイス(Paul Lewis 1972-)ではないか、と思っているのだけれど、最後の2つの曲については、美しく、見事に弾かれている一方で、ベストの一つというまでの説得力には今一つなにかほしいものを感じさせるところがあった。個人的に、第20番はアシュケナージ(Vladimir Ashkenazy 1937-)とボレット(Jorge Bolet 1914-1990)が素晴らしく、第21番はフォークト(Lars Vogt 1970-)をよく聴いている。そこにこのロンククイッヒ盤が加わったのは、なんとも嬉しいこと。
 ロンクィッヒのピアノは、一言で言って、解釈の深さを感じさせるものだ。音の間隙やアクセントといったものに、巧妙なバランスを配していることがまず強く印象付けられるだろう。第19番にしろ、第20番にしろ、冒頭の和音から見事なのは、その音の消失までの間と、音と音のタイミングが、高い精度でコントロールされている点だ。こういう演奏は、あるいみ人工的な匂いを感じさせるのであるが、ロンクィッヒの演奏では、その間隙に感じられる風合いが、実に自然で、それは音の強弱が巧妙に設計されているためでもある。「設計を徹底することによって到達した自然感」という、高度な芸術表現がそこで繰り出されている。
 また情感の表出も見事。カンタービレが必要な旋律においては、十分な瑞々しさ、ときにうっとりするようなメロディの膨らみがあるが、そのような部分と、前述のどこか乾いた間隙を意識させる部分との間に、不自然な渡りはなく、美しい地続きの世界として、完成を感じさせる表現が実践される。
 ロンクィッヒのシューベルトの魅力はそれだけではない。ソナタ第21番で、前述の音の消失と間隙の効果は、この音楽に潜むいわゆる「素」の性格を端的に指摘している。「素」とは「素朴」のことであり、この音楽がもって生まれたままの「要素」のことであり、この作品が世に生まれるべくした「素因」のことでもある。この長大なピアノ・ソナタに、人がシューベルトの「最期の歌」を聴くというのは、後天的に刷り込まれた情報という面ももちろんあるだろうけれど、連綿と紡がれる旋律にさしたる大きな展開を与えず、むしろ憚ることなく長いフレーズを繰りかえし滔々と流させる様に、シューベルトのそれまでの展開技術に関する葛藤と、いきなり無関係に歩みだしたような「素」を感じることと無縁ではないはずだ。私はロンクィッヒの弾くこの曲に、そのことを強く感じ取る。精妙・精緻な表現を突き詰めながら、この曲の性質がつき感覚に、感銘を受けた。
 聴き手によっては、ロンクィッヒのシューベルトに、ロマン的な熱の不足を感じる人もいるかもしれない。確かにそのような劇的なシューベルトも魅力的だ。私もそういったシューベルトを否定する気は毛頭ない(むしろ喜んで聴いている)。ただ、この演奏のそれらと異なった語り口を示した魅力に、深い説得力を感じたことも事実である。少なくとも、このピアニストのシューベルトは、現代、十分に聴く価値のあるものだと感じる。

ピアノ・ソナタ 第20番 4つの即興曲 op.90
p: アシュケナージ

レビュー日:2008.1.28
★★★★★ なぜこの録音が廃盤に!?
 世の中にはいろいろ不思議なことがあるけれど、こと音楽の世界に限ってみても「なぜこの録音が廃盤に?」と首を傾げざるをない録音が多々ある。私の場合、ピアノというジャンルで限れば、ヴェデルニコフのバッハのパルティータ、それにアシュケナージのベートーヴェンの晩年の3つのソナタ(91年録音の方)、それとこの95年録音のアシュケナージのシューベルトということになろう。確かに私はアシュケナージというピアニストが好きだけれども、それにしたってこの名盤がきちんとした評価を受ける間もなく廃盤となってしまい、影が薄くなってしまったのは「残念」の一語には決して言い尽くせないものがある。
 収録曲は「ピアノ・ソナタ 第20番」と「4つの即興曲 op.90」である。冒頭のピアノ・ソナタと潤いに満ちたピアノの響き、~それ自体がすでに歌で満ち溢れるかのような響き~で聴き手は一瞬にしてシューベルトの世界へ誘われる。このソナタの冒頭に描かれる大きな夢想という点で、この録音はボレット盤と双璧だと思う。(しかもボレット盤まで廃盤!なぜだ!!)。なおかつ、そこからシューベルトの孤独と懊悩をときおり垣間見せながらそれでも歌から歌へと美音の限りを尽くした音楽の流れは圧巻である。第2楽章のやや表情を押さえた耽美な憂いは、人知れず森の中に透明な水を湛えた湖に広がる波紋のよう。
 即興曲も実によい。音楽の流れが一瞬も動きを濁さず、湖に端を発した清流が、新緑の中を、大量の陽イオンを発生させながら流れ下っていくようである。その優美さと自然さは家にいながらにして森林浴の恩恵に浸るような淡い風を起こしていく。まさにこのピアニストでなければ表現しえないシューベルトの真髄といえる。なぜ廃盤?いまさらながらその問いかけだけが残る。 

ピアノ・ソナタ 第20番 楽興の時
p: ヘルムヘン

レビュー日:2009.8.11
★★★★☆ 「考える」タイプ、ヘルムヘンのシューベルト
 マーティン・ヘルムヘン(Martin Helmchen) は1982年ベルリン生まれのピアニスト。2001年のクララ・ハスキルコンクールで19歳の若さで優勝し、一躍注目を集めた。当盤は2007年の録音でシューベルトのピアノ・ソナタ第20番と楽興の時を収録している。
 聴いてみると、これは技巧華やかなというわけではなく、非常にリリカルというか、どのような音楽的なアプローチをするかということに終始思考の中心を置いているピアニストなのだ、という印象が強い。テンポの設定、アゴーギグ、音の強弱、ぺダリングなど、すべてを自分で設定し、アプローチしているというイメージだ。
 第20番では冒頭からぺダリングの浅い音色で、乾いた感触が印象的。木目調と言いたい雰囲気で、風通しのよい響きだ。スラーよりもアクセントの効果が重点目標に思える。やや作為的なところも感じるが、やり過ぎているわけではないし、個人的には最近はやりの過度に繊細なシューベルトより、ヘルムヘンのスタイルの方が好きである。第1楽章の終結部手前からの回想部の思い切った間の取り方と、強弱の選択が面白い。第2楽章の憂いに溢れる主題も適度な距離感を感じる。
 「楽興の時」は即興性とともに自由度の高い曲で、まとめるのは難しく、むしろ無理して全曲をくくった解釈にしなくてもよいと思うが、ヘルムヘンはやはり個性的なアプローチで歌っている。性急なことはせず、つねに呼吸と間合いを意識して、音楽たりえようと試みている。このような個性的な演奏家が音楽の裾野を広げてくれる。今後の活躍が楽しみなピアニストの一人である。

ピアノ・ソナタ 第20番 メヌエット イ長調 D.334 ホ長調 D.335 嬰ハ短調 D.600 トリオ ホ長調 D.610
p: ヴォロドス

レビュー日:2019.12.6
★★★★☆ 完璧に近い美しいフォルムを持つのだが、いまひとつ感動に薄さを感じてしまう
 アルカディ・ヴォロドス(Arkadij Volodos 1972-)によるシューベルト(Franz Schubert 1797-1828)の以下の楽曲を収録したアルバム。
1) ピアノ・ソナタ 第20番 イ長調 D.959
2) メヌエット イ長調 D.334
3) メヌエット ホ長調 D.335
4) メヌエット 嬰ハ短調 D.600 - トリオ ホ長調 D.610
 2018年の録音。
 近年のヴォロドスの新録音には素晴らしいものが多いので、当盤もさっそく購入して聴かせていただいたのだが、その感想は・・・うーん、難しい。これは楽曲が難しいということだろうか。
 ヴォロドスの演奏はやはり見事なものだと思う。全体としては禁欲的といってよい、厳しい戒律を感じさせるような演奏であり、内省的で、細部までコントロールが尽くされている。一つ一つのタッチは完璧で、シューベルトが指示したピアニシモも極限まで弱音で美しく響いている。では、その演奏は私にとって素晴らしく、感動するものであったのか?
 これが実に難しい。これが極めて精度が高く、抑制された美観で全編が整っていることは理解できるのだけれど、それが私にエモーショナルな意味での感動として伝わったのかというと、どうも乾いた人工的な印象を否定しきれないのである。良い、と思うのだけれど、それでいて時々「味もそっけもない」というフレーズが頭にちらつく。。。
 演奏工学という学問があるのであれば、この演奏はほぼ完ぺきといってよい仕上がりだろう。一部のスキもない。特に第3楽章の緻密さから引き出された彫像的な音響は、かつて味わったことのないほど整ったフォルムを持っている。また、第1,2楽章を中心とした「静謐さ」の維持には、万全の神経が払われているといって良い。通常、華やかな第4楽章でさえ、沈静化しており、かといって音楽的な抑揚は生きている。だが、それなのに、なぜか私の心は、一抹の感動の薄さを感じてしまう。
 音楽は難しい。ちなみに、私の好きなソナタ第20番の録音はボレット(Jorge Bolet 1914-1990)盤、そしてアシュケナージ(Vladimir Ashkenazy 1937-)盤の2つである。参考までに。
 なお、余白に収められたメヌエットも内省的な美しさを湛えている。

ピアノ・ソナタ 第20番 第21番
p: ルイス

レビュー日:2004.2.11
★★★★★ 実に美しいシューベルト!
 ここでシューベルトの「白鳥の歌」ともいえる2曲の最期のソナタを演奏しているのは、ポール・ルイスというピアニストだ。彼の名はまだ日本ではあまり知られていない。
 私の知る範囲では彼は1994年のロンドン国際ピアノコンペティションで第2位に入賞し、その後、ロイヤル・アカデミーに教授として招かれているが、まだ若手だ。
 彼の評価を高めたのは、なんといっても01年から02年にかけて行った「シューベルト・チクルス」演奏会である。そのピアニスティックな抒情溢れる表現、豊な感性は人々をたちまち夢中にさせた。まさに新時代のシューベルトのホープなのだ。(それだけでなく、古今のシューベルトの代表的録音としてステイタスを確立しつつある。)
 21番の1楽章のリピートが省略されているのが個人的には残念だが、まともに弾くと20分にもなるこの楽章が15分で収まっているのは、かえって聴きやすいかもしれない。両曲の2楽章の耽美的でかつ明朗な、健康性を兼ね備えた美しさは、一級品の表現芸術といって間違いない。

ピアノ・ソナタ 第20番 第21番
p: ツィマーマン

レビュー日:2017.9.19
★★★★★ 録音数の少ないツィマーマンの貴重なセッション録音です
 クリスティアン・ツィマーマン(Krystian Zimerman 1956-)によるシューベルト(Franz Schubert 1797-1828)の最後の2曲のピアノ・ソナタを収録したアルバム。2016年、日本ツアー終了後に新潟県柏崎市文化会館アルフォーレで録音されたもの。
1) ピアノ・ソナタ 第20番 イ長調 D.959
2) ピアノ・ソナタ 第21番 変ロ長調 D.960
 ツィマーマンは、1975年のショパン国際ピアノコンクールで優勝を果たし、以後、ドイツグラモフォン・レーベルと専属契約を結んでおり、これまでの録音の多くが国際的に高い評価を得ているが、録音点数は少ない。これについて、ツィマーマン自身は、現代の録音技術について言及している。「現代のデジタル録音技術はあまりにもクリアに音を拾いすぎ、すでに音楽からかい離したものとなっています。そこでは、文化的背景と無関係な同質性が支配しています」。
 つまり、録音技術の進展に伴い、どのような作品も同じように響かせる環境となったことは、彼の芸術的主張と相反することだと言うのである。
 これは、もちろん芸術家個人の考えであり、尊ばれるべきものであるが、その一方で、アジアの辺縁に住む私にとっては、残念なことで、彼の芸術に接するチャンネルが極端に限られてしまっていることになる。私見では、デジタル技術が画一的なものである、とは考えないのであるが、ツィマーマンほどの芸術家の耳には、そのように聴こえないのかもしれない。
 逆に言うと、それでも行われた当録音は貴重なもので、ツィマーマン自身はその録音について「確かに音符はすべて明瞭ではあるが、それぞれが暖かい環境的クッションを得ている」としており、その録音環境の特徴が踏まえられていることを、音楽的な意味で評価していることがうかがえる。
 さて、そんな録音を聴いてみる。ソナタ21番の第1楽章の反復も行って、82分超が1枚のディスクに収録されている。
 ソナタ第20番の冒頭から、新鮮な趣きに満ちている。和音の鳴りとその減衰の間隔が短めで、全体に颯爽とした雰囲気で、テンポも全般に早めの印象。ソノリティの細やかさはこの人らしいが、全体の弛緩のない進みが自然で、全体的に乾いた暖かさを感じる。第2楽章の情緒は、ポツン、ポツンと単音を意識させる弾きぶりで、全体に淡さを漂わせながら、不思議にモノローグな語りが深まって行くのを感じさせる。後半2楽章も細やかな運動美に満ちている。旋律を弾けすぎないように扱うその姿勢は、完全なコントロールを思わせる。完璧でありながら、暖かみのある健やかさ、そこに晩年のシューベルト特有の、時折ひそむ陰りが忘れがたい。
 ソナタ第21番の第1楽章は穏当なテンポ。周到に用意され計算された表現によって、この長大な楽章に一つの緻密さを感じさせる表現。しかし、時として音が疎らになるところ、思いのほか静謐な背景が出現し、ハッとさせられる。サスティンペダルの使用から得られる効果ではないかと推測する。第2楽章は第20番の表現に似通っており、物憂いながらも、どこか淡さがあって、一つ一つの音に、陰影を与えて進むような様がことに印象的である。直接的にそれを「死の影」のように表現してしまうことは、私には音楽の抽象性という点で、ためらいがあるが、そう言う人がいることは不思議ではない。後半2楽章は緩みのない進展の中で、必要な情緒が添えられ、ほのかで上品な味わいに満ちている。細やかなアーティキュレーションの見事さも当然と言えば当然か。
 ツィマーマンというピアニストは、やはりすごい芸術家なのだと感じさてくれる。このシューベルトも様々な点で完成度が高いし、何か一つに偏っているわけでもないのだけれど、聴いていて感じられる味わいの豊かさや深さは絶妙のものとなっている。ぜひ、今後も適切な環境があれば、録音を行って、フアンを楽しませていってほしいと願う。

ピアノ・ソナタ 第21番 3つの小品
p: フォークト

レビュー日:2009.1.22
★★★★★ ダイナミックな感情の動きを捉えたシューベルト
 ラルス・フォークト (Lars Vogt)は1970年生まれのドイツのピアニスト。いろいろな録音がリリースされているが、このシューベルトのピアノ・ソナタ第21番と3つの小品は2006年から07年にかけて録音されている。
 非常に素晴らしい演奏である。最近、シューベルトのピアノ・ソナタの演奏は、どこかソフトなタッチで、テンポも落とし、微弱な変化により夢想的に奏でる傾向のものが多いと思う。もちろん、それが良くないわけでも間違っているわけでもないけれど、果たしてこれがシューベルトなのだろうか、と思わなくもなかった。なぜなら、シューベルトのピアノ・ソナタには様々な激しい感情の起伏が突発的に出てくるものと思えるからで、その瞬時の表情の移り変わりを無性に聴きたくなる時があるからである。天国的な演奏を聴いている場合は特にそうだ。(それはブルックナーの交響曲でも言える)
 そこで、このフォークトの演奏を聴くと、これがとても面白い。このソナタに潜む「怖さ」というか美の狭間にある感情のゆらぎを突如クローズアップするような刃がきらめく瞬間がある。これは最近のシューベルト演奏ではあまり感じることの出来ない性質のものだ。そのためソナタのスケールがひとまわりもふたまわりも大きくなったように感じられる。第1楽章の壮大なダイナミックレンジの使用、第2楽章の大きな情動の揺らぎがやはり端緒。第3楽章、第4楽章は純然たる運動美が楽しめる。また3つの小品も同様に感情の振幅の幅を持っており、スケール感を楽しむことができる。しばしばカットされてしまうことが多い第1番の末尾のパートが収録されている点でも貴重だ。

ピアノ・ソナタ 第21番 楽興の時 アレグレット
p: コヴァセヴィッチ

レビュー日:2011.7.26
★★★★★ シューベルトの情念が表に出るような急峻さが魅力
 スティーヴン・コヴァセヴィッチ (Stephen Kovacevich 1940-)によるシューベルトのピアノ・ソナタ第21番、アレグレット、楽興の時(全6曲)を収録。録音は1994年。
 シューベルトの最後のピアノ・ソナタ、「第21番」は多くのファンがいる作品だ。シューベルトの演奏で定評のあったブレンデルは、ベートーヴェンを建築家に例えた上で、シューベルトを夢遊病者と語っていた記憶がある。一方が職業で、もう一方は病気持ちという例えはシューベルトに気の毒だが、言い得て妙である。シューベルトのピアノ・ソナタは展開のテンポが遅く、延々とメロディーを紡いでいるようなまどろみがある。その最たるものがこの最後のソナタで、ことに第1楽章はリピートを含めると演奏時間20分を越える長大さで、そのほとんどが息の長い第1主題と夢見るような第2主題の交錯で描かれている。この第1楽章はリヒテル以来、遅めのテンポをとるスタンスが一般的だ。
 コヴァセヴィッチも例外ではない。例外ではないのだが・・・彼のアプローチはまた一風変わっている。これを録音した1994年は、コヴァセヴィッチがベートーヴェンに集中的に取り組んでいた時期である。それもあるかもしれないが、この第1楽章、びっくりするくらいダイナミックだ。冒頭はこれ以上ないと言うくらいそっと始められるのに、楽想が膨らんで、シューベルトが「もうどうしようもない」と言うようにフォルテを書き込んでいるところ、そこのコヴァセヴィッチの集中的な打鍵はきわめて強く、鋼のようなサウンドを聴かせる。そう、それこそベートーヴェンの疾風怒濤の趣を色濃くたたえた中期のソナタのように。
 この曲にはラルス・フォークト (Lars Vogt)にも面白い録音があって、ただ天国的ではない激性が感じられたのだけれど、コヴァセヴィッチのはそれを上回る力感で、聴いていて圧倒される。音響の完成度は高く、音楽的でもある。ただ、人によっては、この曲の持つイメージとの間に大きなギャップを感じるかもしれない。
 それでも、私個人的にはこの演奏、結構気に入っている。シューベルトを美しく弾くのはもちろん素晴らしいのだけれど、シューベルトはベートーヴェンになることを夢見続けた人でもある。そのソナタには、間違いなく、パッションの放出を宿したい、という情念があったろうし、それを感じさせる部分も実際あるのだ。コヴァセヴィッチはそんなシューベルトの果たせぬ思いに、大いなる助力を与えているように思える。
 他の曲もコヴァセヴィッチの力強いアプローチは活きていて、楽興の時の第4番の確信的とも言えるしっかりした足取りも重層感があり見事だ。EMIの録音が、やや奥行きが乏しく固めなのがとっつき難さを残しているが、演奏そのものには愛着を持つ。

ピアノ・ソナタ 第21番 小品集
p: ディリュカ

レビュー日:2016.1.22
★★★★☆ 小曲たちにシューベルトらしい情感が漂う
 モナコのピアニスト、シャニ・ディリュカ(Shani Diluka 1976-)による2013年録音のシューベルト(Franz Schubert 1797-1828)のピアノ・ソロ曲集。収録曲は以下の通り。
1) 34の感傷的なワルツ D.779 から 第13番
2) 16のドイツ舞曲 D.783 から 第5番
3) 12のワルツ D.145 から 第2番
4) 12のワルツ D.145 から 第8番
5) 16のドイツ舞曲 D.783 から 第14番、第15番
6) 12のドイツ舞曲 D.790 から 第5番
7) 高貴なワルツ D.969 から 第10番
8) オリジナル舞曲集 D.365 から 第1番
9) 17のレントラーD.366 から 第3番、第4番
10) 12のドイツ舞曲 D.790 から 第11番
11) 12のドイツ舞曲 D.790 から 第3番
12) オリジナル舞曲集 D.365 から 第9番
13) 16のドイツ舞曲 D.783 から 第10番
14) ハンガリー風の舞曲 D.817
15) ピアノ・ソナタ 第21番 変ロ長調 D.960
 最後にピアノ・ソナタ第21番という大曲が収録されているが、その他に収録されているのは、いずれもシューベルトが書いた小さな舞曲たちで、しかもハンガリー風の舞曲を除けば、いずれも曲集からの抜粋という形。自身のスタイルで、弾きたいと思う楽曲を連ねた構成は、彼女が同じ2013年に作製した「ルート66」と題したアメリカピアノ作品集を彷彿とさせる。私は、そのアルバムが大好きで、まさに愛聴盤といった感じでよく聴いている。
 このシューベルトのアルバムを聴くと、メインのソナタより、前半の小曲集がいかにも相応しく響くように思う。ディリュカというピアニストは、現代の世界では、特に技術に秀でたというわけではないと思うけれど、音楽に暖かい情感を通じて表現することにとても長けたと感じさせる人で、これらの小曲が持つ優しさや悲哀といったものが、とても血の通った表現として響く。それは「音楽的」と形容してしかるべきもので、シューベルトの音楽が持っているウィーン的な雰囲気とも、密にかかわり合っている要素である。だから、私はこれらの曲を。ディリュカの演奏で聴いていると、とてもシューベルトを聴いたという感慨で、腑に落ちるような感触を味わうことになる。
 一方で、シューベルト最後のピアノ・ソナタでは、随所にディリュカならではの情緒を感じるところがある一方で、スケールの大きい個所で、やや気張りのようなものが感じられ、作為的なものが残る印象がある。聴いていて突如でっぱりがあるような不自然さになっていて、それはまだアゴーギグとしての洗練の余地を残しているように思えるのだ。だから、私は、このアルバムでは小曲たちの演奏が、より良いと思う。
 しかし、ディリュカというピアニストのシューベルトへの適性は高いと感じられるので、是非、これからも様々な作品に挑戦していってほしい。
 なお、冒頭曲は、リスト(Franz Liszt 1811-1886)が、「ウィーンの夜会」S.427の「ヴァルス・カプリース 第6番」の原曲とした楽曲。

シューベルト ピアノ・ソナタ 第21番  シューマン ダヴィッド同盟舞曲集
p: ラルーム

レビュー日:2016.11.30
★★★★★ どこまでも自然に、音楽の語りかけを引き出すラルームの作法
 2009年クララ・ハスキル国際ピアノ・コンクールで優勝したフランスのピアニスト、アダム・ラルーム(Adam Laloum 1987-)による以下の2曲を収録したアルバム。
1) シューマン(Robert Schumann 1810-1856) ダヴィッド同盟舞曲集 op.6
2) シューベルト(Franz Schubert 1797-1828) ピアノ・ソナタ 第21番 変ロ長調 D.960
 2015年の録音。シューベルトのソナタのリピートも行っており、CDでは、収録時間79分を越えている。
 私は、ラルームによる2010年録音のブラームス(Brahms 1833-1897)の独奏曲のアルバムを聴いて気持ちを動かされて以来、このピアニストの録音に注目しているのだけれど、今回は2012年のシューマンのソナタ第1番とフモレスケを収録したアルバム以来となる独奏曲集となる。
 ラルームというピアニストの魅力は、すでにほかの所でも書いてきたのだけれど、とても内面的な歌を自然に紡ぐ能力に長けている点である。しかも、その内面的、内省的な掘り込みにおいて、私は音楽作品にまっすぐに触れることが出来たような気持になる。
 例えば、シューベルトの最後のソナタなど、ピアノを弾ける人にとって、そのときの自分の感情を、とてもトレースし易いもの。プロの手にかかると、それがさらに考え抜かれた表現として繰り広げられる。けれども、私はしばしば、演奏者のそういった「表現しよう」という意識の強さを感じるあまり、楽曲そのものへの興味が逸れてしまうことを体験してきた。それは、あるいは、この曲を、もう何度も聴いてしまったという私自身の蓄積による弊害なのかもしれない。しかし、私の場合、そういった演奏には、どこか腺病質で、神経質なイメージがつきまとい、結果として美しい幻想に素直に入っていくことから遠のく。それはしばしばあること。
 けれども、ラルームの演奏を聴いていると、自然で、気が付いた時には、もう曲はだいぶ先に進んでいるという感じ。もちろん、その間、ある程度、神経を澄ませて、私は音楽を聴いているのだけれど、彼の内省的な歌は、あざとさがなく、全てが自然に収まっていく。こういう作法というのは、なかなか身に着けられるものではないような気がする。育ってきた環境とか、芸術家の根源的な人柄のようなものに由来するのだろうか。
 シューマンの「ダヴィッド同盟舞曲集」は、元来、様々な感情を織り込んだり、発色させたり、はしゃいだりする曲。けれども、ラルームの手で弾かれると、やはり自然な屈託のなさの中で、いつのまにか驚くほど深く織り込まれた音楽世界の中に佇むことになる。
 このピアニストが成長すると、あるいは、感情表現がより多彩で、幅のあるものになるのかもしれない。しかし、そうなったときに、今聴くことが出来る無垢といって良いほどに自然であざとさのない、しかも機微の深い情緒が、損なわれてしまわないことを切に望む。

シューベルト ピアノ・ソナタ 第21番  R.シュトラウス/レーガー編 明日!  ブラームス/レーガー編 交響曲 第3番 から 第3楽章 交響曲 第1番 から 第2楽章
p: ボジャノフ

レビュー日:2019.11.6
★★★★★ ロマンティックな芳香が立ち込める、美しいピアノ・アルバム
 2010年のエリザベート王妃国際ピアノコンクールで第2位、ショパン国際ピアノコンクールで第4位に入賞したブルガリアのピアニスト、エフゲニ・ボジャノフ(Evgeni Bozhanov 1984-)による久しぶりの独奏曲アルバムで、以下の楽曲が収録されている。
1) R.シュトラウス(Richard Strauss 1864-1949)/レーガー(Max Reger 1873-1916)編 明日! op.27-4
2) ブラームス(Johannes Brahms 1833-1897)/レーガー編 ポコ・アレグレット(交響曲 第3番 ヘ長調 op.90 の第3楽章)
3) シューベルト(Franz Schubert 1797-1828) ピアノ・ソナタ 第21番 変ロ長調 D.960
4) ブラームス/レーガー編 アンダンテ・ソステヌート(交響曲 第1番 ハ短調 op.68 の第2楽章)
 2017年の録音。
 とても面白い選曲だ。メインはシューベルトの最後のソナタなのだが、その両側をレーガーによる最高にロマンティックなピアノ編曲で挟んでおり、全般に夢見るような情緒に浸れるアルバムとなっている。
 冒頭のR.シュトラウスの名品は、原曲である歌曲が、すでに繊細な表現を求められるものであったが、その本質を損なわないレーガーの見事な編曲があり、さらにそれをデリケートを究めたようななタッチで練り上げたのが、当盤に収録されたボジャノフの演奏である。ボジャノフのタッチの魅力的なこと。柔らか味がありながら、芯があり、軽やかであっても、適度な粘りを失わず、情感の幅が保たれている。
 次いで、ブラームスの第3交響曲の第3楽章をレーガーが編曲したものが置かれるが、こちらも編曲の妙がまずは見事だ。レーガーの編曲は、オーケストラ譜をトレースするというより、楽想をピアノ曲に仕立て直したような気風があり、ピアノ独奏曲としての完全性を感じさせる。加えてボジャノフの呼吸を思わせるような自然な起伏が彩を添える。
 次いでシューベルトのソナタ。ボジャノフはここでダイナミックレンジを弱音域に移し、繊細な演奏を繰り広げる。とても情緒的であるが、スタッカート奏法の軽やかさは、ボジャノフの設計性を感じさせる。実は、私はこの演奏を聴くまで、ボジャノフの演奏はより本能的な感覚性が強いものという印象があったのだが、どうしてどうして、なかなかに計算が深い。強音を避けているものの、巧みに平板さを回避していて、単に情緒的なだけでなく、高貴な輪郭を備えている。第3楽章のしなやかさ、終楽章のまとまりの良さも見事。
 最後に、再びレーガーの編曲によるブラームスの第1交響曲の第2楽章を聴く。これまた美しい。当盤のプログラムのしたたかさも感じさせるが、濃いロマンティックな芳香が立ち込めている。それでいて、咽(むせ)んでしまうような質の偏りを感じさせない。原曲の旋律の美しささえ、再認識させてしまうような、感動的なピアニズムであり、レーガーの優れた編曲を味わうのにふさわしい演奏であり、録音である。

シューベルト ピアノ・ソナタ 第21番  ショパン 夜想曲 第1番 第3番 第13番 第17番
p: ブームスマ

レビュー日:2021.10.4
★★★★★ オランダのピアニスト、ブームスマが描く味わい深いピアノ音楽
 オランダのピアニスト、カミエル・ブームスマ(Camiel Boomsma 1990-)による下記の楽曲を収録したアルバム。
1) ショパン(Frederic Chopin 1810-1849) 夜想曲 第1番 変ロ短調 op.9-1
2) ショパン 即興曲 第3番 変ト長調 op.51
3) ショパン 夜想曲 第17番 ロ長調 op.62-1
4) ショパン 夜想曲 第13番 ハ短調 op.48-1
5) シューベルト(Franz Schubert 1797-1828) ピアノ・ソナタ 第21番 変ロ長調 D.960
 2017年の録音。
 私がブームスマというピアニストの録音を聴いたのは当盤が初めて。その感想は、嫋やかで、瞑想的、そしてどこか物憂げな雰囲気のたちこめるニュアンスのある演奏、といったところ。録音時27才であるが、落ち着いた響きで、しっとりとした味わい深い表現が連なっている。その演奏は、際立った特徴があったり、目新しさを感じさせるものがあるわけではないのだが、これらの音楽に相応しい流れと歌があって、シューベルトのソナタのように長大な楽曲では、加えて、全体のおさまりが良く、とても座りが良い。
 また、収録された楽曲に、互いに親近性を感じさせる演奏でもある。シューベルトの楽曲は、連綿たる歌の合間に、時に情熱があふれ出てくる部分があるのだが、ブームスマはこれを抑制的に導き、安寧の中にその居場所を見出す。収録されているショパンの楽曲も、もちろんどういう方向性が選択されていて、夜想曲第13番は劇的な性格を持つとはいえ、その点が強く主張されるわけではない。結果として、アルバム全体が、強い均衡感の中に収められたかのような印象を持つ。
 夜想曲第1番は、いかにもこのアルバムの幕開けに相応しい楽曲であり、その静謐な流れ、決して過度に膨らまない構築で、透明でなめらかに響く。次いで即興曲の第3番が収録されているのが、このアルバムの構成上の一つの「妙」と言える部分であろう。その特徴的な華やかさに、ブームスマは夢想的と言えるベースを提供し、その中で適度な伸縮ある弾きぶりが披露されていて、私はとても良いと感じた。夜想曲第17番は、私にとってショパンの最高傑作と言える特別な楽曲だが、ブームスマの演奏はさりげなく、歌う。いかにも品が良いが、ここで物足りなさを感じるのは、アルバムの狙いとは異なった要求になるだろう。
 シューベルトのソナタは、ペダルを精妙に使用し、前述の通り抑制的でありながら、粒立ちよく整っており、主となるメロディーが、ずっと遠くまで続いていくのが見通せるような、そんな演奏である。そして、その美観は、魅力的であり、このソナタに相応しい。最後の2つの楽章で、適度にリズムに乗った華やぎが帰ってくるのは、どこか幻想から現実への帰還のプロセスのような印象を持った。
 はじめて録音を聴いたピアニストであるが、これらの楽曲の選曲の意図のよく伝わる、意趣性のあるアルバムで、楽しい。

さすらい人幻想曲 12のドイツ舞曲 アレグレット レントラー  3つの小品(即興曲) 水の上で歌う(リスト編) 連祷(リスト編) 水車職人と小川(リスト編) クーペルヴィーザー・ワルツ(R.シュトラウス編)
p: シャマユ

レビュー日:2014.5.19
★★★★☆ 特に前半2曲のゴツイ趣に、やや違和感を持ったのですが・・
 フランスのピアニスト、ベルトラン・シャマユ(Bertrand Chamayou 1981-)による2013年録音のシューベルト(Franz Peter Schubert 1797-1828)の作品を集めたアルバム。収録曲は以下の通り。
1) 水の上で歌う
2) 幻想曲ハ長調「さすらい人」D.760
3) 連祷
4) 水車職人と小川
5) 12のドイツ舞曲(レントラー集)D.790
6) アレグレット ハ短調 D.915
7) レントラー D.366-12
8) 3つの小品(即興曲) D. 946
9) クーペルヴィーザー・ワルツ
 収録曲中、1),4),5)は、原曲の歌曲を、リスト(Franz Liszt 1811-1886)がピアノ独奏曲に編曲したもの。また、最後に収録されている「クーペルヴィーザー・ワルツ(Kupelwieser Walzer)」は、シューベルトの没後100年経ってから、R.シュトラウス(Richard Georg Strauss 1864-1949)がその遺稿からスコアを起こして、まとめたものとのことで、私は初めて聴いた。
 有名曲と無名曲を織り交ぜて配列したプログラムになっている。
 私は、ナイーヴ・レーベルからリリースされたシャマユの弾くリストの「巡礼の年」全集にたいへん感銘を受け、以来このピアニストの録音には注目している。このたびは初のシューベルトということもあり、興味深く聴いた。
 一聴してすぐ思ったのは「なかなかゴツイ演奏だぞ」ということ。例えば、冒頭の「水の上で歌う」は、メロディーの天才だったシューベルトと、鍵盤を操る異才リストのヴィルトゥオジティが融合した傑作だと思うが、シャマユのアプローチは、メロディーに厚みを与えていってシンフォニックな膨らみを与える演奏効果を目指したというより、一つ一つの音を骨太に鳴らすことで、むしろ厳しい気風を生みだす効果を狙っているようだ。ペダルの使用も抑制的で、歌謡的な流れより、鍵盤作品としての独立性を打ち出していると思う。しかし、この曲に関しては、私はギンジン(Alexander Ghindin 1977-)の壮大でシンフォニックな演奏(TRITON OVCT-00004)が忘れがたく、そのこともあって、当演奏には、よりメロディアスなふくらみを求める気持ちが残る。
 「さすらい人幻想曲」も同様で、私がこれまでに聴いた多くの演奏の中で、シャマユの演奏は、曲が持っている一種の「硬さ」を特に感じさせるものだと思う。低音はかなりずっしりとした手ごたえを持っている。第2楽章も、情緒に流れず、やはりペダルの使用を最小限にと留めながら進められていて、たいへん意識的な音楽であると思う。これは、私のイメージでは、むしろ「幻想的」とは反対の音楽表現に感じる、ということ。面白いことは面白いし、技巧的な卓越や、それに基づく表現の幅の広さは、さすがだけれど、やや違和感も残るところ。
 しかし、次の「連祷」以降では、若干ニュアンスが変わっているようにも思う。特に「連祷」「レントラー」といった曲集では、メロディーの持っている歌謡性を、自然に引き出したスタイルになっていて、あるいは、そのギャップを楽しむような配列なのかもしれない。
 さらに、「3つの小品」では、むしろ正統的な名演といった雰囲気を持っていて、加減速の自然さ、クライマックスの求心性、中間部の抒情性などが、適切に表現された美観を備えている。いろいろなアプローチで楽しめるシューベルト、といったところだろうか。
 最後に収録された「クーペルヴィーザー・ワルツ」も佳品と言えるもので、R.シュトラウスが書き加えた音符はどれだろう?と想像しながら聴くと楽しい。
 まとめとしては、シャマユのこれまでの録音に比べて、やや未洗練なところを(敢えて)残した感じであり、演奏者の、シューベルトという作曲家への、過渡期的な距離感を感じさせる録音に思う。

シューベルト さすらい人幻想曲  リスト ピアノ・ソナタ  ベルク ピアノ・ソナタ
p: チョ・ソンジン

レビュー日:2014.5.19
★★★★★ 「さすらい人」をテーマに、チョ・ソンジンのロマン性に溢れた演奏が楽しめるアルバム
 2015年のショパン国際ピアノコンクールで優勝を果たした韓国のピアニスト、チョ・ソンジン(Seong-Jin Cho 1994-)は、グラモフォン・レーベルと契約し、現在では拠点をベルリンに置いて活動している。そんなチョ・ソンジンによる “The Wander(さすらい人)”と題して録音した新しいアルバム。収録曲は以下の通り。
1) シューベルト(Franz Schubert 1797-1828) さすらい人幻想曲 ハ長調 op.15 D.760
2) ベルク(Alban Berg 1885-1935) ピアノ・ソナタ op.1
3) リスト(Franz Liszt 1811-1886) ピアノ・ソナタ ロ短調
 2019年の録音。
 収録された楽曲をながめて、「なるほど、さすらい人か」と感じた。ここに収録された楽曲は、いずれも一つの主題に端を発し、それが様々に展開しながら帰結していく楽曲である。リストがピアノ・ソナタを構想するにあたって、シューベルトの「さすらい人幻想曲」からは大きな影響を受けたとされているし、ベルクのピアノ・ソナタとリストのピアノ・ソナタの間には、前述の他にも不思議な怪奇性、ロマンティシズム、多様なパーツを含む単一楽章構成など、様々な共通項が存在する。そういった意味で、これらの3つの楽曲は、音楽史の上で、相応の関連性をもって浮かび上がる価値を持っているといっていいだろう。
 私は、リストとベルクのピアノ・ソナタを組み合わせたヴァーリョン・デーネシュ(Varjon Denes 1968-)による2011年録音のアルバムのことを思い出した。それは、さらにヤナーチェクの作品を加えた、印象的で素敵なアルバムだった。
 この、チョ・ソンジンのアルバムも、魅力的な一枚になっている。この人特有の美音、しなやかで、手首のバネを感じさせる糸を引くような音色をあやつり、じつにロマンティックなアプローチで3曲をまとめ上げている。
 チョ・ソンジンが、ショパン(Frederic Chopin 1810-1849)作品で聴かせてくれたような運動美と流麗なカンタービレの結合は、特にリストのピアノ・ソナタで、聴き手を圧倒することになるだろう。その導入部の巧妙な動線は、内的な躍動感を宿し、安定していながら十分にスリリングという、ヴィルトゥオーゾらしい演奏効果に満ちていて、豪壮だ。その一方で、この作品がもつ思索性については、あえて踏み込んだ解釈をとどめた感じのところがあり、ロマンティックな美観で最後まで貫いた演奏となっている。
 ベルクも同様で、チョ・ソンジンのアプローチは、この楽曲をロマン派の延長線上に存在する作品と捉えている感が伝わる。この楽曲はそのような楽曲ではないと捉える人もいるかもしれないが、その点は各演奏家それぞれが解釈する部分であり、私はチョ・ソンジンの解釈も当然成り立つと思う。なぜなら、実際の演奏が美しいからだ。当演奏では、とくに和音の連なりの美しさには心を奪われる。この楽曲の甘美さを、これほど明確かつ健康的にプレゼンテーションした演奏はなかったのではないだろうか。もちろん、それと別個に聴き手の嗜好性があるわけだが、私は純粋にその美しさに酔った。
 シューベルトは、意外にも他の楽曲とくらべて、すこし楽曲と演奏者の間をとることに集中したようなところをがある。楽曲の性格を踏まえて、流麗さと甘美さが全面に出すぎないよう気を配ったという感じだろうか。とはいえ、響き自体の美しさは完璧と称したいほどだし、第2楽章の心を込めたカンタービレは、多くの聴き手の心に強く訴えかけるものに違いない。

4つの即興曲 op.90 楽興の時 劇付随音楽「ロザムンデ」からの音楽(タロー編ピアノ独奏版)
p: タロー

レビュー日:2023.6.7
★★★★★ 奏者の解釈の意図を想像して楽しむアルバム
 アレクサンドル・タロー(Alexandre Tharaud 1968-)による、シューベルト(Franz Schubert 1797-1828)のピアノ独奏曲を集めたアルバム。収録曲は下記の通り。
4つの即興曲 D.899, op.90
 1) 第1番 ハ短調
 2) 第2番 変ホ長調
 3) 第3番 変ト長調
 4) 第4番 変イ長調
劇付随音楽「ロザムンデ」 D.797からの音楽(タロー編ピアノ独奏版)
 5) アンダンティーノ(バレエ音楽第2番)
 6) アレグロ(序曲からの抜粋)
 7) アンダンティーノ(第3幕間奏曲)
 8) アレグロ・モルト・モデラート(第1幕後の間奏曲からの抜粋)
楽興の時 D.780, op.94
 9) 第1番 ハ長調
 10) 第2番 変イ長調
 11) 第3番 ヘ短調
 12) 第4番 嬰ハ短調
 13) 第5番 ヘ短調
 14) 第6番 変イ長調
 2021年録音。
 タローのシューベルトは、室内楽の録音をいくつか聴いたことがあるが、独奏曲の録音を私が聴いたのは当盤が初めて。その印象は、全体に低音部をやや抑制して、高音部をクリアに響かせることで、全体のソノリティを、軽め・明るめな方向で仕上げており、かつ輪郭のくっきりした音色で、明瞭に拍を刻んだ爽やかさがある。結果として、シューベルトの音楽のもつ、浪漫的情熱からはやや距離感を置いた演奏で、濾過したような透明な響きが支配的だ。
 その傾向が端緒に出ているのが、冒頭の即興曲で、変ホ長調の楽曲など、本来はシューベルトの浪漫性が強く顕れたもので、それゆえの表現における踏み込みや、力感を感じさせる演奏が多いのであるが、タローの演奏は、とてもサラサラとしていて、スナップを強調させるようなこともない。だから、なにか定番の事象が発生しないうちに通り過ぎるような呆気なさも感じる。その一方で、変イ長調の終曲では、中間部で、各小節の開始時に放たれる低音が、象徴的なニュアンスを持っていて、そこを中心に波紋が広がるような劇性が、全体に広がっていくのが、とても見通し良く演出されている。
 このタローの解釈については、次にロザムンデからの有名な4つの楽曲を、タロー自らが編曲したピアノ独奏曲を聴くことで、なんとなく分かるように感じる。このロザムンデからの4曲は、アクセントなどはそこまで強くなく、これまた比較的軽めで、全体としては淡いトーンで描かれている。もちろん情緒的な歌はあるが、それらを全体の中に組み込む要素が強くあって、すなわち、タローは、この編曲を、一つの4楽章構成のソナタのように「見立てた」解釈をしているように感じられる。そして、それは、その前に収録してある4つの即興曲と共通したものである気がしてならない。
 シューマン(Robert Schumann 1810-1856)は、シューベルトの兄であるフェルナンド(Ferdinand Schubert 1794-1859)の書斎で、いくつものシューベルトの未発表の遺構を見て、感激するのであるが、その際のものかどうかわからないけれど、シューベルトの4つの即興曲を見て、「シューベルトのソナタに、また一つ新たなものが加えられたと解釈して良いのではないか」という内容の感想を述べている。タローは、そこにさらに自身のアイデアとして、「ロザムンデ」からの4曲からなる「ソナタふうの音楽」を提案してくれているような気がする。
 最後に収録されている楽興の時の方が、響き自体の軽やかさは共通するとはいえ、解釈幅は広くとられていると思う。歌謡性にあふれるフレーズは、よりレガートやルバートの効果がくっきりとしていて、変イ長調の曲は、より繊細な優美さを深めているし、劇的な部分の激しさ、悲しい部分の切実さも、より直情的なものが増えている。嬰ハ短調のコントラストの付け方も独特な自由さがあって面白い。
 あくまで、私の感覚でしかないが、即興曲については、いずれも、その浪漫性に相応しい演奏の方が好みではあるが、ロザムンデを含むタローのアルバムは、全体を通じて、聴き手に作用するものを感じさせてくれる。そのような点で、ユニークで、存在感を持ったシューベルトになっている。

4つの即興曲 op.142 3つの小品 アンセルム・ヒュッテンブレンナーの主題による変奏曲
p: オズボーン

レビュー日:2020.2.3
★★★★★ 高い完成度を感じさせるオズボーンのシューベルト
 スティーヴン・オズボーン(Steven Osborne 1971-)によるシューベルト(Franz Schubert 1797-1828)のピアノ独奏曲を集めたアルバム。収録曲は以下の通り。
4つの即興曲 D.935 (op.142)
 1) 第1番 ヘ短調
 2) 第2番 変イ長調
 3) 第3番 変ロ長調
 4) 第4番 ヘ短調
3つの小品 D.946
 5) 第1番 変ホ短調
 6) 第2番 変ホ長調
 7) 第3番 ハ長調
8) アンセルム・ヒュッテンブレンナーの主題による変奏曲 D.576
 2014年の録音。
 75分を越える長時間収録。収録曲中、最後の「アンセルム・ヒュッテンブレンナーの主題による変奏曲」はめったに演奏されることのない楽曲。この曲は、シューベルトと深い交友関係があったオーストリアの作曲家、アンセルム・ヒュッテンブレンナー(Anselm Huttenbrenner 1794-1868)のop.12の弦楽四重奏曲の緩徐楽章に基づく変奏曲である。行進曲風の主題は、どこかベートーヴェンの第7交響曲のアンダンテを思わせる。シューベルトはこの主題に13の変奏を付してピアノ独奏曲とした。変奏が進むごとに要素の増えていく楽曲をオズボーンは暖かいタッチで巧妙な起伏をもたらしており、なかなか興味深く聴くことができる。
 とはいえ、アルバムのメインは他の楽曲となるだろう。
 オズボーンのスタイルを何と評すれば良いか。禁欲的、というのは妥当ではないかもしれないが、ある面ではそう感じられるだろう。そのタッチからはシューベルトの作品への忠誠心というか、楽曲そのものが語ることを邪魔だてしないという律義さがにじみ出ている。テンポの変動も極力小さく、誠実に音を生み出している。
 その結果、聴き味はピアニスティックであるとともに、内省的だ。人によっては地味に感じるかもしれない。だが、この演奏には、シューベルトのこれらの楽曲につきまとう独特の孤愁が漂っており、その点が私の心を動かす。
 4つの即興曲の第1番では、厳密なスコアのトレースが行われた演奏であるが、それとともに行間の詩情が添えられており、暖かさと悲しさが夾雑する複雑な感情が描かれる。強い統御感により、抑制や安定が第一の印象となると思うが、聴き込むべき味わいを持っている。第3番のロザムンデの主題による変奏は、フレーズの合間に、呼吸に即したような感情の昇華を感じるが、これはフレーズの始まりと終わりにもたらせる厳密な強弱のコントロールによってもたらされる。その完成度は高くピアニストの身体的かつ精神的強度の高さを感じる瞬間でもある。
 シューベルト最晩年の作品である3つのピアノ曲も同様に安定しながらも深い音楽が感じられるが、中でも第1番中間部の瞑想性は気高い凛々しさがあり、孤高の音楽となっている。

4つの即興曲 op.90 op.142
p: ツィマーマン

レビュー日:2021.7.29
★★★★☆ 輝かしいシューベルト
 ポーランドのピアニスト、クリスティアン・ツィマーマン(Krystian Zimerman 1956-)による、シューベルト(Franz Schubert 1797-1828)の即興曲集。収録曲は以下の通り。
4つの即興曲 D.899, op.90
 1) 第1番 ハ短調
 2) 第2番 変ホ長調
 3) 第3番 変ト長調
 4) 第4番 変イ長調
4つの即興曲 D.935, op.142
 5) 第1番 ヘ短調
 6) 第2番 変イ長調
 7) 第3番 変ロ長調
 8) 第4番 ヘ短調
 1990年の録音。
 一つ一つの録音を隅々まで磨き上げるツィマーマンらしい内容。一つ一つの音のすべてにピントがあって、くっきりと響かせている。全体的な印象は、その圧倒的といっても良い輝かしさによってほぼ支配されていると言って良いだろう。スタッカートの明晰さも、他のどの演奏でも聴かれないほどにはっきりとしており、メカニカルな冴えが全般を覆っている。ただメカニカルなだけでなく、呼吸に応じた間合いや、流れの良いカンタービレもあり、流麗で曇りのない演奏だ。
 そういうわけで、私はこの演奏に人気があることはよく分かる。よく分かるのだが、私にとって、この演奏が最上の部類に入るかというと、そこはまた違うという感想になる。これは、個人の感覚の問題になってくるかもしれないのだが、ツィマーマンのこれらの演奏を聴いていると、あまりにもすべてが明晰でくっきりし過ぎており、私は乾きを感じるのである。シューベルトの楽曲特有の憂いや曇りといったものが、無いわけではないのだが、いかにも燦燦と輝く日の光の下にすべてが引っ張り出された感じがして、結果的に、これらの楽曲を聴いた時に、自分の中で沸き起こってくる楽曲への愛情が、そこまでたち現れてくるのを感じられないのである。ちなみに、私が、これら8曲を録音したもので愛聴しているのは、ポール・ルイス(Paul Lewis 1972-)とアルフレート・ブレンデル(Alfred Brendel 1931-)の2種なのだが、それらの演奏と比べると、この作品に含まれるべき滋味と言う点で、ツィマーマンの演奏には、どうしても物足りなさを感じてしまう。(そういった点で、ツィマーマンが最近録音したシューベルトのソナタ集の方を、1990年の当録音より、私は好むのである)
 とはいえ、ツィマーマンの演奏の輝かしさこそ魅力である、という考えもあるだろう。私も、その魅力はもちろん感じるところで、ことに、最後に収録されているD.935の第4番など、技術的な爽快さと言う点で、一頭抜けた感がある。個人的には、ソフト・フォーカス気味の濃淡を欲する面が残るが、この演奏が完成度の高い優れたものであることは否定できない。

4つの即興曲 op.90 op.142 さすらい人幻想曲 楽興の時 3つの小品
p: デミジェンコ

レビュー日:2022.6.21
★★★★★ 廃盤状態が惜しい。デミジェンコの名演
 イギリスを中心に活躍するロシアのピアニスト、ニコライ・デミジェンコ(Nikolai Demidenko 1955-)によるシューベルト(Franz Schubert 1797-1828)のピアノ独奏曲集。CD2枚に以下の楽曲が収録されている。
【CD1】
1) さすらい人幻想曲 D.760
楽興の時 D.780
 2) 第1番 ハ長調
 3) 第2番 変イ長調
 4) 第3番 ヘ短調
 5) 第4番 嬰ハ短調
 6) 第5番 ヘ短調
 7) 第6番 変イ長調
4つの即興曲 D.899
 8) 第1番 ハ短調
 9) 第2番 変ホ長調
 10) 第3番 変ト長調
 11) 第4番 変イ長調
【CD2】
4つの即興曲 D.935
 1) 第1番 ヘ短調
 2) 第2番 変イ長調
 3) 第3番 変ロ長調
 4) 第4番 ヘ短調
3つの小品 D.946
 5) 第1番 変ホ短調
 6) 第2番 変ホ長調
 7) 第3番 ハ長調
 1995年の録音。
 当盤は、投稿日現在、廃盤となって久しい状態のようだが、それはかなり「もったいない」ことだと思う。シューベルトの傑作をこれだけ集めて、しかも演奏も立派なものであるので、ぜひとも再版してほしい。
 デミジェンコの演奏は、直線的なスタイルで、急速部では勢いを増し、緩徐部では、通常以上にテンポを落してという緩急のコントラストを明瞭にしたものだ。それは、そのまま、このピアニストの基本スタイルでもあり、彼の録音には、概ね上記の特徴が当てはまる。それで、これらのシューベルトの場合、その結果、どのようなものになっているかというと、これは私の感想だが、とても聴き味が良い、と感じた。
 これらのシューベルトの傑作群は、シューベルト特有の美しいメロディに溢れているとともに、ときおり彷徨するような浪漫性を湛えているのだが、デミジェンコの解釈は、楽曲の輪郭をくっきりと浮き立たせ、性急点を明瞭に描き出すことによって、全般に楽曲の流れがシェイプアップし、洗練された流れがもたらされている。
 例えばD899の第1番など、強弱の対比の明瞭さが、音楽全体に起伏のある活力を与えるとともに、劇的な変奏における急速を維持した強靭な左手の迫力に、凄まじい勢いがあり、それが正確で明瞭なため、高い求心力を持って聴き手に迫ってくる。そのリアルな迫力に圧倒される。
 さすらい人幻想曲も、インテンポを維持した、一本気な演奏で、この楽曲の場合、このような演奏が特に効果を上げると思う。私がこれまで聴いてきた演奏の中では、(意外かもしれないが)実はアシュケナージ(Vladimir Ashkenazy 1937-)が、すこぶる勢いを維持した快演を披露していて、個人的にはとても気に入っている。デミジェンコは、第2楽章相当の部分で、思い切ってテンポを落している点がアシュケナージと異なるが、それでも、この楽曲の特徴を前面に押し出した演奏として、見事なものだと感じさせられる。
 3つの小品の第1番は、作曲者が最終的に削除したとされる末尾部分が附属している。私は、この部分を聴くと、しばしば別の曲が始まったかのような違和感をおぼえ、晩年のシューベルトの悩みを感じるのだが、デミジェンコはこの部分にやや速めのテンポを維持し、とても流れの良い解釈をもたらした。私がこれまで聴いてきた、「削除部分」の演奏の中では、当盤が断然しっくりいく。というよりも、この演奏を聴いて、私はやっと、シューベルトが言いかけていたことが、少し分かったかもしれないと感じられた。デミジェンコに感謝したいところである。
 また、全曲を通じて、強靭な音色の連続する部分であっても、明確な階層付けのあるデミジェンコの演奏は、全般に快適だ。弱点を挙げるなら、テンポを落したことが、やや散漫さを強めることも導いた部分があって、例えば楽興の時の最後の曲など、私にはそんな感じもするのだけれど、全体のクオリティとしては、文句なく高い。
 この力強く美しいシューベルトの録音が、廃盤状態にあるのは、たいへんもったいない。

楽興の時 アレグレット 4つの即興曲 op.90
p: フレイ

レビュー日:2019.9.28
★★★★★ フレイの感受性が紡ぎだしたエレガントなシューベルト
 フランスのピアニスト、ダヴィド・フレイ(David Fray 1981-)によるシューベルト(Franz Schubert 1797-1828)のピアノ独奏曲集。収録曲は以下の通り。
楽興の時 D.780(6曲)
 1) 第1番 ハ長調
 2) 第2番 変イ長調
 3) 第3番 ヘ短調
 4) 第4番 嬰ハ短調
 5) 第5番 ヘ短調
 6) 第6番 変イ長調
7) アレグレット ハ短調 D.915
即興曲 D.899(op.90)
 8) 第1番 ハ短調
 9) 第2番 変ホ長調
 10) 第3番 変ト長調
 11) 第4番 変イ長調
 2009年の録音。
 しなやかな若々しさをもって、エレガントに描き出されたシューベルト。タッチの濁りのない軽い爽やかさは、どこか水彩画を思わせる。もちろん、まださらに熟成する余地も感じさせるのだが、その剰余の可能性も含めて、この演奏の魅力と捉えるのが良さそうだ。
 フレイの豊かな感受性は、肌理駒やな処理と表現に集約されている。例えば楽興の時の第2番。シンプルに繰り返される主題が、淡い儚さを持ちながらも、溢れるような詩情を紡ぎながら、様々な情感を込めて奏でられる。シューベルトが書いたスコア、その時には単調なメロディの巡回が、これほど豊かに響くことは感動的である。
 フレイは、様々なタッチ、そしてペダリングの妙を駆使して、シューベルトの音楽から「多様さ」を引き出している。全体的には、音色は弱音域が主体であり、内省的な雰囲気に満たされているのだが、その演奏は、時に雄弁で、聴き手の気持ちに強く働きかけてくる。単に耽美であったり、内省的であったりするわけではなく、そこには様々な音楽表現があり、その感情の豊かさを、私たちは暖かみとして受け取ることができる。そういった点で、これは、美しい、詩的なシューベルトと評して良いだろう。
 アレグレット、即興曲も同じスタイルであるが、特に印象深いところとして、即興曲第4番の中間部は、私を夢見心地にさせてくれる場所であり、フレイのシューベルトの魅力がギュッと詰まった場所であると思う。
 前述の「熟成する余地」についても自分の思ったところを記しておくと、例えば即興曲の第1番で、繊細さを大事にするあまり、テンポが落ち着き過ぎて、シューベルトの運動美と言う点で、物足りなさがあるところ、また楽曲によっては、より深刻な感情表現が芯に蓄えられるべき(例えばヘ短調の楽興の時)などがあると思うが、その踏み込まない心得も含めて、録音時のフレイの感性であり、この時のみの魅力であると言えば、そうだとも思う。
 なので、それらの要素はまた別に置いておくとして、現在聴きうる芸術として、十分に美しい価値あるものになっていると思う。

アレグロ イ短調D.947「人生の嵐」 アンダンティーノと変奏曲 ロ短調D.823-2 フーガ ホ短調D.952 ロンドイ長調D.951 創作主題による変奏曲 変イ長調D.813 幻想曲 ヘ短調D.940
p: オズボーン ルイス

レビュー日:2014.1.17
★★★★★ シューベルトの孤独が投影されたかのような楽曲たち
 イギリスのピアニストであるスティーヴン・オズボーン(Steven Osborne 1971-)とポール・ルイス(Paul Lewis 1972-)によるシューベルト(Franz Schubert 1897-1828)の2台のピアノのための作品集。2010年の録音。収録曲は以下の通り。
1) アレグロ イ短調 D.947「人生の嵐」
2) アンダンティーノと変奏曲 ロ短調 D.823-2
3) フーガ ホ短調 D.952
4) ロンド イ長調 D.951
5) 創作主題による変奏曲 変イ長調 D.813
6) 幻想曲 ヘ短調 D.940
 シューベルトは、結構な数の「2台のピアノのための」あるいは「4手のための」作品を書いている。シューベルトが遺した作品の束から数多くの名作を見出したシューマン (Robert Alexander Schumann 1810-1856)は、「四手のためのピアノソナタ ハ長調」について、その楽想と構想から「交響曲として完成されることを想定して書かれたに違いない」と述べている。<~ちなみに、この作品は、実際にヨアヒム(Joseph Joachim 1831-1907)により、オーケストラの総譜化が行われている~>。その際、シューマンは、興味深いことを併せて言っている。それは、「オーケストラ譜よりも、ソナタの方が、出版は容易であったから、最初はそのような形で完成させようとしたことは、十分に考えられる」ということだ。
 シューベルトは生涯きちんとした評価を受けることなく、偉大な名曲の多くを埋もらせたまま、赤貧の中で夭折した人だ。だから、自身のアイデアを世に認められる形で還元することに、いろいろと苦しんだことは、想像に難くない。そのような中で、自身のインスピレーションの初案を、まずは「2台のピアノ」のようなスタイルによりスコアを起こすということも、多くあったのではないだろうか。そして、それが現在では最終的な作品として伝わっている、のではないだろうか。そういった意味で、これらの作品は、作曲家本人にとっては「スケッチ的な存在」であったものかもしれない。私がそう思うのは、これらの作品が、シューベルトらしい可憐で切ないメロディを湛えたり、激烈な感情を持ち合わせたりしながらも、どこか消化しきれていないようなところを、併せて感じ取れるからである。
 けれども、そのような特性は、シューベルトの浪漫性の一つである、という見方ももちろんある。彼の音楽には、時として、行く先を失うかのような、酩酊感が伴うことがある。とりとめのない彷徨とでも言おうか。しかし、その中で、驚くほど心の奥深いところから発するような感情に触れる時がある。これは、シューベルトという作曲家の作品の根底に潜む「恐ろしさ」であり「美しさ」にも通ずる。当アルバムに収められた作品たちは、同時期に作曲され、名曲として知られる交響曲やソナタ、室内楽といった他の器楽作品と比して、少し緩いところもあるけれど、そういった意味で疑いなくシューベルトの所産であり、孤高の歌が通っている。シューマンは「シューベルトについて語るとき、その相手は人間では足りなくて、ただ夜空の星と樹木だけが相手だ」ということを書いていたと思うけれど、私は、当盤に収録された、ある意味無垢にも通じる、シューベルトのインスピレーションをそのままストレートにスコア化したような楽曲たちを聴いていると、シューマンのその言葉を思い出すのである。
 中で、もっとも美しい充実を認めるのは「幻想曲」で、晩年のシューベルトのソナタにも通じる孤独な歌が響いていて胸を打つ。冒頭のアレグロは、苛烈な音楽で、これもひょっとしたら、もっと規模の大きい管弦楽曲へという構想があったかもしれない、と抱かせる。ロンドの可憐さは、ピアノソナタ第13番や幻想ソナタの終楽章を思わせる魅力があるし、創作主題による変奏曲、これも冗長さを感じさせる長さのある音楽だが、こちらはベートーヴェン(Ludwig van Beethoven 1770-1827)の第7交響曲の不滅のアンダンテを想起させる音楽で、シューベルトの憧憬のような情念が感じられる。
 二人のピアニストの実力は、言うまでもないかもしれないが、特にルイスは、harmonia mundiレーベルに、多くのシューベルトの独奏曲の優れた録音があり、この作曲家への並々でない適性はすでに証明済みといったところだろう。オズボーンも、優れた技巧と音楽性を持つピアニストであり、二人の演奏は、きわめて高い完成度を示す。テンポの自然さ、音楽が持つ感情的側面を表現する巧さが目立つ。やや乾いたタッチで、2台のピアノの音量によって、音響が濁ったり、音色がつぶれたりしないように、周到な予防線を張っており、逆にもっと瑞々しさが欲しいところもないわけではないが、十分に素晴らしい音楽に浸れる内容です。曲たちだから。


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声楽曲

ドイツ・ミサ曲 ミサ曲 第2番 第4番
シュルト=イェンセン指揮 インモータル・バッハ・アンサンブル ライプツィヒ室内管弦楽団 S: ラインハルト A: ヴェーラー T: ミナルシーク、バルホルン Br: ベルント Bs: フライク

レビュー日:2017.5.16
★★★★☆ シューベルト初期の朗らかで典雅なミサ曲も一興
 デンマークの指揮者、モルテン・シュルト=イェンセン(Morten Schuldt-Jensen1958-)とインモータル・バッハ・アンサンブル、ライプツィヒ室内管弦楽団によるシューベルト(Franz Schubert 1797-1828)のミサ曲集。2007年の録音。収録曲は以下の通り。
1) ミサ曲 第4番 ハ長調 D452
2) ミサ曲 第2番 ト長調 D167
3) ドイツ・ミサ D872
 独唱者は、以下の通り
 クラディア・ラインハルト(Claudia Reinhard 1974- ソプラノ)(ミサ曲 第2番、第4番)
 クリスティーネ・ヴェーラー(Christine Wehler アルト)(ミサ曲 第4番)
 ライムンド・ミナルシーク(Raimund Mlnarschik テノール)(ミサ曲 第4番)
 ルディガー・バルホルン(Rudiger Ballhorn 1973- テノール)(ミサ曲 第2番)
 トビアス・ベルント(Tobias Berndt 1979- バリトン)(ミサ曲 第4番)
 マルクス・フライク(Markus Flaig 1971- バス)(ミサ曲 第2番)
 なお、ドイツ・ミサ曲は独唱を配しない。
 シューベルトは6曲のミサ曲を遺した。これらのうち、1819年以降に書かれた第5番と第6番が名作とされ、録音は第6番に多い。しかし、シューベルトが10代のころに書いた初期の4曲に関しては、演奏・録音の機会はきわめて少ないだろう。また、ドイツ・ミサ曲は、ラテン語ではないドイツ語のミサ曲として、単独で着想されたもの。円熟期である1827年の作品である。とはいえ、こちらも同時期のシューベルトの他の楽曲に比べると、録音機会ははるかに少ない。
 録音の少ない理由はいろいろだが、楽曲としての主題の重みのようなものが、他の作品に比べて、今一つといった印象があるからだろう。これらの楽曲は、モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)の影響から、古典的たたずまいを目指しているが、その旋律はおどろくほど素朴といってよく、シューベルトの歌謡性はもちろんあちこちに溢れているものの、全体として多くの人が強いインスピレーションを感じるような部分はないかもしれない。
 しかし、決して楽曲に魅力がないわけではない。私の思い出で恐縮だが、かつてFM放送をエアチェックしていたころ、ドイツ・ミサ曲を聴いて「美しい曲だ」ととても感心し、その後しばらくレコードを探し求めたのだが、見つけることができなかった記憶がある。今の様に簡単にネットで検索して情報を引き出せる時代ではなかった。様々なカタログを入念に調べたのだが、当時の自分の探索能力では及ばなかったのだろう。
 しかし、今や、このような良質な廉価版がカンタンに手に入る時代となった。そのことの功罪は人それぞれ様々にあるのだろうが、少なくとも私にはありがたい。
 いまドイツ・ミサ曲を聴くと、1827年のシューベルトの作品とは思えないほどの素朴な美観にあらためて驚かされる。そこには、同時期の彼の作品にみられる強い「陰り」のようなものや、諦観、恐怖といった情緒は、まったく感じられないといってよい。明るい伸びやかさと快活さがあり、教会的な雰囲気がよく引き出されているのである。当盤の演奏も、自然体で健やかな推進力に基づいたもので、たいへん好ましい。
 初期の2曲のミサ曲も同様で、そこにはシューベルトの初期の交響曲に通じる朗らかさがある。とくに難しいことはしないし、する必要もないという典雅な佇まいで、様々な音楽を聴いた後でこのような楽曲に接すると、思わず戸惑ってしまうほど。2曲の作品では、世評の通り第2番に特に魅力を感じる。特にベネディクトゥス(トラック17)の美しさには心が洗われるようだ。
 数々の名曲と比較すると、聴いたときに受ける重みのようなものは感じられないが、これらの曲にはこれらの曲の魅力があると感づかせてくれる一枚だ。なお、ライプツィヒのパウル=ゲルハルト教会で行われた録音は、ややソフトな感じである。

ドイツ・ミサ曲 ミサ曲 第5番
ヴァイル指揮 エイジ・オブ・エンライトゥンメント管弦楽団 ウィーン少年合唱団 T: ヘリング Br: カンプ

レビュー日:2021.10.22
★★★★★ シューベルトの隠れた名品2編を記録した良アルバム
 ブルーノ・ヴァイル(Bruno Weil 1949-)指揮、エイジ・オヴ・インライトゥンメント管弦楽団とウィーン少年合唱団によるシューベルト(Franz Schubert 1797-1828)の2編を収録したアルバム。
ミサ曲 第5番 変イ長調 D 678 (第2版)
 1) キリエ
 2) グローリア
 3) クレド
 4) サンクトゥス
 5) ベネディクトゥス
 6)アニュス・デイ
ドイツ・ミサ曲 D 872
 7) 入祭のために 「われ、いずこに向かわん」
 8) グローリアのために 「いと高き神に 栄光あれ!」
 9) 福音書朗読とクレドのために 「聖書 いわく」
 10) 奉献のために 「汝は わが姿と生命を与え給う」
 11) サンクトゥスのために 「聖なるから、聖なるかな」
 12) 聖変化の後で 「おお、わが救い主よ、われに向けられし」
 13) アニュス・デイのために 「わが救い主、わが主、わが師よ!」
 14) 終祭の歌 「主よ、汝はわが懇願を聞き入れ給えり」
 ミサ曲第5番における4人の独唱者は下記の通り。
 S: シュテファン・プレイヤー(Stefan Preyer 1979-)
 A: トーマス・ヴァインハッペル(Thomas Weinhappel 1980-)
 T: イェルク・ヘリング(Jorg Hering 1963-)
 B: ハリー・ファン・デル・カンプ(Harry van der Kamp 1947-)
 プレイヤーとヴァインハッペルは、録音時ウィーン少年合唱団の団員で、ボーイソプラノとなる。オルガンは、アルノ・ハルトマン(Arno Hartmann 1964-)。1993年の録音。
 シューベルトは、交響曲とほぼ同数のミサ曲を書いた。それらのミサ曲は、交響曲と同様に、後期に書かれた第5番と第6番が傑作とされるが、なぜか演奏・録音の機会に恵まれない。そのような中で、このヴァイル指揮の録音は、内容豊かなものの一つ。
 ピリオド楽器によるオーケストラゆえ、ヴィブラートは控えめであり、またミサ曲第5番は、全般にかなり早いテンポを採用しての演奏となっているが、それゆえの透明感、率直な表現が良い方向に作用し、とてもすっきりとした味わいになっている。そのことが、楽曲にふさわしい印象をもたらしているだろう。
 ミサ曲第5番では、勇壮なグローリアとこれに続くクレドの幻想的壮大さがなんといっても聴きどころであるが、ヴァイルのタクトはスピーディーであり、引き締まったフォルムを楽曲にもたらしている。フーガの明瞭な効果も当演奏の美点であり、その階層的な響きの整然たる様が、厳かで典礼的な雰囲気をよく引き出している。
 ドイツ・ミサ曲は、シューベルト後期の作品であるが、おどろくほど素朴な音楽であり、いかにもシンプルなメロディーに、必要なポリフォニーのみ付加していった様な作品であるが、私は十代の頃、この作品をFM放送で聴き、心が洗われるような思いをした記憶がる。あの当時、カセットテープに録音して、何度か聴いていたのだけれど、あれは誰の演奏だったのだろうか。当時聴いた演奏の記憶はほとんどないのだけれど、このヴァイルの演奏も、この楽曲の素朴さ、無垢さを、自然に響かせたもの。この曲の場合、演奏で大きく印象が変わることはないと思うのだけれど、当演奏も良心的に響く健やかなもので、好ましい。


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歌曲

歌曲集「冬の旅」 「美しい水車小屋の娘」 「白鳥の歌」 歌曲(秘密 馭者クロノスに 水鏡 別れ)
T: ボストリッジ p: 内田光子 アンスネス パッパーノ

レビュー日:2016.8.19
★★★★★ ボストリッジのシューベルト3大歌曲集が、box-setになりました。
 イギリスの名テノール、イアン・ボストリッジ(Ian Bostridge 1964-)による、シューベルト(Franz Schubert 1797-1828)の3大歌曲集の4つの音源を集めたアイテム。コスト・パフォーマンスに優れた内容。そのコンテンツは3枚のCDと1枚のDVDからなる。その内容を以下にまとめる。
【CD1】
歌曲集「美しい水車小屋の娘」 D.795
 ピアノ: 内田光子(1948-) 2003年録音
【CD2】
歌曲集「冬の旅」 D.911
 ピアノ: レイフ・オヴェ・アンスネス(Leif Ove Andsnes 1970-) 2004年録音
【CD3】
1) 秘密 D.491
2) 馭者クロノスに D.369
3) 反射(水鏡) D.639
4) 歌曲集「白鳥の歌」 D.957
5) 別れ D.475
 ピアノ: アントニオ・パッパーノ(Antonio Pappano 1959-) 2008年録音
【DVD】
歌曲集「冬の旅」 D.911
 メイキング「オーヴァー・ザ・トップ・ウィズ・フランツ」
 ピアノ: ジュリアス・ドレイク(Julius Drake 1959-)
 ディレクター: デイヴィッド・オールデン(David Alden 1949-)
 1997年製作 124分(通常のプレイヤーで再生可能)
 なかなか興味深いアルバムで、4つの音源でピアノ伴奏を担うものが異なっているのも特徴となるだろう。
 さて、私の感想であるが、抜群に良かったのが【CD3】。これは、パッパーノの伴奏ピアノが素晴らしいことが、全体の印象に大きく寄与していると思う。時に独唱者に寄り添い、勇気づけ、そして陰に控え、という音楽的作法が抜群であることに由来する。「ドッペルゲンガー」における力強いコード進行、「街」における風のようなアルペッジョ、「アトラス」における刹那的な力強さ、「別れ」における高速で添えられるアクセント、それらが「歌曲」という枠組みの中で、適切かつ自在に表現される様は、圧巻と言って良い。ボストリッジの、表現力豊かで、熱のこもったロマンチックなスタイルは、パッパーノの絶好のサポートを受けて、個々の曲の特徴を明確にしている。その結果、各曲がもつ「放浪」や「孤独」といったニュアンスが、陰影豊かに表現されている。「アトラス」から「海辺にて」に至る曲を続けてじっくり聴くことで、それを深く味わうことができると思う。
 それに比べると、他のCD2枚については、美しい反面、私には物足りなさが残る。「美しい水車小屋の娘」のボストリッジの歌唱は、スマートな明瞭さがあって、ほどよいレガートを含めた暖かさがあるが、内田のピアノにはずいぶんと含みがあって、例えば第10曲「涙の雨」で、ここまで感情たっぷりのピアノはちょっとないだろう。これが歌曲として聴いたとき、私には引っかかりが残る。ピアノから溢れる表現が、あまりにも考察を含み過ぎていて、逆に軽重のバランスがしっくりこないところが多いのだ。確かに響きは美しい、抑制された美観は見事なものだが、第16曲「好きな色」、第18曲「枯れた花」、そして第20曲「小川の子守唄」などは、私はむしろピアノ伴奏はもっと淡々として、同じように繰り返している方が、怖くて美しいと思うのだ。ここまで、音を解説されてしまうと、なにか、学術講義を受けているような気がしてしまう。そういった意味で、比較的前半の曲の方が良いと思う。
 「冬の旅」は明朗な情緒を感じさせる歌唱に客観的な視点を感じさせるところが一つの特徴で、例えば「村にて」であるが、ピアノといくぶん距離感を設けた歌唱で、やや遠視点的に村の風景を見渡すような趣が感じられる。ボストリッジのテノールとしての声域と、基本的に生き生きとした声質、感情表現に過度に入りこまない緻密さを活かした意図だろう。旋律線の扱いの浮き沈みや、インターバルの設け方、「孤独」と「郵便馬車」における対比感の演出なども、俯瞰視点を感じさせるところだろう。アンスネスのピアノは、彼が弾いたシューベルトのピアノ・ソナタの印象に近く、清廉でクリーンな響きであり、それも演奏の全体的な印象に大きく影響を与えているのであるが、ややストレートになりがちな印象がある。全体の味わいの簡素さにつながるもので、楽曲としてより深い作用を求め、飢えが残る印象もある。
 これと別に【DVD】に収録された映像作品は単独で面白い。ドレイクのピアノが劇的で見事なこともあるが、これは映像作品としてとらえるべきものだろう。ボストリッジは、廃墟のような木造の建築物の中や、白抜きの世界で、様々な演技を行いながら歌唱を行う。刃物を扱ったり、椅子を投げたり、その様子から、一種の「凶器的なもの」を描こうという監督の意思が感じられる。ボストリッジは、本意ではないかもしれないが、監督の指示によく従って、時に座り込んだり、あおむけに寝そべったりしながら、歌唱を行っている。決して発声に有利とはいえない姿勢をとりながら、見事な雰囲気を作り上げている。芸術作品として、高い水準にあるものと感じられた。また、メイキング部分に収録された、監督と演者のやりとりなども、なかなか楽しめる。といっても、日本語字幕はないので、理解に限界はあるけれど。
 以上4つの音源が抱合されて、一つのアイテムとなっている。個人的に、物足りない部分は残るとはいえ、この内容で、廉価な設定にしていただけたのだから、コスト・パフォーマンとしてはもちろん文句のない内容。シューベルトの3大歌曲集があっさりと揃えられる点でも絶好のアイテムだと思う。

歌曲集「冬の旅」
Br: 河野克典 p: 野平一郎

レビュー日:2009.4.23
★★★★★ 「冬の旅」を聴きたい、と思わせてくれる深みのある演奏
 シューベルトの歌曲集「冬の旅」を昔聴いた時、美しい曲集だけれども、このミュラーの詩はどうにも理解し難かった。たかだか失恋ぐらいで24編もの厭世的な詩を書き連ねて、それもあまつさえ半死半生のようになって郷里を捨て行くという物語は、いくらなんでも大げさ過ぎるというか、それを通り越してアレなんじゃないかと失礼な連想までしたものである。しかし、この曲集はむしろ音楽を与えられたことで、そこに含まれるさらなる情緒、その行間の哲学を漂わせているのである、と次第に気づいてきた。だから、詩の翻訳を文字通り目で追っても、この作品は味わえない。むしろドイツ語リートであることで、ドイツ語に疎い聴き手こそが幅を持って抽象的に解釈することができ、その作品の凄味のようなものを感じ取ることができる、というのはうがった考えだろうか。
 そういうわけで、いささか我田引水ながら、(私がドイツ語の発音のことをわからないこともあり)、むしろ母国語ではない人が歌う方が、私はなんだかこの曲をじっくり聴いてる感じがするのである。それで、この日本を代表するバリトン河野克典と、同じく日本を代表するピアニスト野平一郎の名演を感慨深くじっくり聴くこととなる。
 ドイツ語の発音のことはわからないが、おそらく問題はまったくないのだろう。それは日本人の聴き手である私には観念的な部分だ。河野の美声は響くごとに聴き手を魅了するし、時として決然として鳴る潔さが張り詰めたピリッと好ましい雰囲気を生む。凛とした「おやすみ」も良いが、「凍結」の流れの良さ、「休息」や「からす」の疎にしてワビのある響き、そして終曲「辻音楽士」の虚無へと何か一つの観念を描くような見事な感情が伝わってくる。伴奏でありながら主張のある野平のピアノも素晴らしい。まさに雪ふりつむモノクロームの森閑たる清浄な世界を感じさせる。このような演奏でこそ私は「冬の旅を聴きたい」と思う。

歌曲集「冬の旅」
Br: F.ディースカウ p: ポリーニ

レビュー日:2013.10.22
★★★★☆ 若々しいポリーニのエネルギーが堰を切ったかのような、独創的な「冬の旅」
 時々、思いもよらぬ音源がCD化されることがあるが、これもそんな1枚で、フィッシャー=ディースカウ(Dietrich Fischer-Dieskau 1925-2012)とポリーニ(Maurizio Pollini 1942-)によるシューベルト(Franz Schubert 1797-1828)の歌曲集「冬の旅」全曲である。
 これは、1978年のザルツブルク音楽祭の模様を収録したもので、私は、そのような演奏が行われたことを知らなかったのだけれど、ネットなどで調べてみると、当時その模様を録音したものがNHK-FMで放送されたことで、その筋では随分話題になったものらしい。
 それと別に、私がびっくりしたのは、ポリーニというピアニストに歌曲の伴奏というイメージがほとんどなかったからである。歌曲だけではない。彼には、室内楽の録音も極端に少ない。ヴァイオリン・ソナタとか、チェロ・ソナタとかで、誰かと「合わせる」というイメージが極端に薄い人なのだ。彼のピアニズムは、一種の完全性を目指していて、その主張は、「独奏」というジャンルで、高い完成度に到達できるもののように思う。だから、室内楽にしても、歌曲の伴奏にしても、いわゆる「相補的」な音楽の関わり方というのが、このピアニストのスタイルにはそぐわないのではないか?特に70年代なんて、そういったポリーニの完全主義者的傾向が、もっとも顕著といってもいい時期。なにゆえ、このような企画に至ったのだろうか。
 さて、歌手はフィッシャー=ディースカウである。言わずと知れた偉大な歌手だ。そして、この歌手の場合、シューベルトの歌曲集「冬の旅」との縁の深さは、はかりしれないものがある。今回、入手可能なもの(あるいは可能だったもの)を全部、調べてみた。当盤を含めて13種も出てきた。ちょっと年代順に、伴奏者名とあわせて書いてみよう。
1) 1948年 クラウス・ビリング(Klaus Billing) Live
2) 1952年 ヘルマン・ロイター(Hermann Reutter 1900-1985) ラジオ放送音源
3) 1953年 ヘルタ・クルスト(Hertha Klust) Live
4) 1955年 ジェラルド・ムーア(Gerald Moore 1899-1987)
5) 1955年 ジェラルド・ムーア Live
6) 1962年 ジェラルド・ムーア
7) 1965年 イェルク・デームス(Jorg Demus 1928-)
8) 1971年 ジェラルド・ムーア
9) 1978年 マウリツィオ・ポリーニ Live
10) 1979年 ダニエル・バレンボイム(Daniel Barenboim 1942-)
11) 1979年 アルフレート・ブレンデル(Alfred Brendel 1931-)(DVD)
12) 1985年 アルフレート・ブレンデル
13) 1990年 マレイ・ペライア(Murray Perahia 1947-)
 おそらく決定盤と言われているのは8)のディスクであると思う。私がかつてよく聴いたのは6)。いずれも名人と謳われたムーアの伴奏である。12)なども持っているが、この時代の録音では、声の力に衰えを感じるところが多い。
 70年代後半以降の共演者は、すでにソリストとして名の通ったピアニストばかり。レコード会社の戦略もあったと思うが、彼らが、ムーアの伝説的伴奏を意識して臨んだことは、想像に難くない。
 ところが、本盤のポリーニは、ムーアとはもう全然違うと言ってもいい。影響みたいなものはほとんど感じない。むしろあらためてゼロからスコアも見直し、その上で自身のピアニズムに徹して、完璧に鳴らしきった感がある。
 これを、聴き手として、どう受け取るかが難しい。ピアノのシンフォニックで立体的な響きは凄いのだが、妙な威圧性を感じるところも出てくる。
 例えば、第4曲「氷結」におけるピアノ伴奏の力強いこと。劇的で深刻な諸相が、しっかりと高速に打ち鳴らされる3連符に従い、ひたすら前進していくのだが、ここまで、直進的な「氷結」は、ちょっと聴いたことがない。なんだか凄いぞ、と思うけれど、歌曲としての声との旋律の交換、交錯といった「ニュアンス」が圧殺されたという観も否定できない。第18曲「嵐の朝」なんて、もう本当に嵐である。しかし、「気象現象の嵐」の描写は卓越しているが、そこで並行して歌われる主人公の悲愴な心というのが、どこか副次的要素になっている気がしてしまう。ここまで突き抜ければ、逆に気持ちいいという意見もあるかもしれないが。
 フィッシャー=ディースカウの歌唱は、いかにも彼らしい音色で、表情も豊か。ホールの影響からか、やや高音が細って聴こえるのが残念だが、往年の声の力だとは思う。ポリーニの若々しいピアノとともに、確かに一期一会の「なんだか凄い」音楽を奏でてはいる。
 と同時に、全般に、ニュアンスや含み、影の味わいへの不足といったものが残るというのも正直な感想だ。貴重なものが聴けてありがたいが、「冬の旅」の名演の一つである、というには、どうしても引っかかるところを多く感じてしまった次第。

歌曲集「冬の旅」
T: ボストリッジ p: アンスネス

レビュー日:2016.8.17
★★★★☆ 描写的表現をあちこちで感じさせる「冬の旅」
 イアン・ボストリッジ(Ian Bostridge 1964-)のテノール、レイフ・オヴェ・アンスネス(Leif Ove Andsnes 1970-)によるシューベルト(Franz Peter Schubert 1797-1828)の歌曲集「冬の旅」。2004年の録音。参考までに、収録されている冬の旅の全24曲を以下に記載する。
第1部
第1曲 おやすみ Gute Nacht
第2曲 風見の旗 Die Wetterfahne
第3曲 凍った涙 Gefrorne Tranen
第4曲 氷結 Erstarrung
第5曲 菩提樹 Der Lindenbaum
第6曲 溢れる涙 Wasserflut
第7曲 川の上で Auf dem Flusse
第8曲 回想 Ruckblick
第9曲 鬼火 Irrlicht
第10曲 休息 Rast
第11曲 春の夢 Fruhlingstraum
第12曲 孤独 Einsamkeit
第2部
第13曲 郵便馬車 Die Post
第14曲 霜おく頭 Der greise Kopf
第15曲 烏 Die Krahe
第16曲 最後の希望 Letzte Hoffnung
第17曲 村にて Im Dorfe
第18曲 嵐の朝 Der sturmische Morgen
第19曲 まぼろし Tauschung
第20曲 道しるべ Der Wegweiser
第21曲 宿屋 Das Wirtshaus
第22曲 勇気 Mut
第23曲 三つの太陽 Die Nebensonnen
第24曲 辻音楽師 Der Leiermann
 フィッシャー=ディースカウ (Dietrich Fischer-Dieskau 1925-2012)に師事し、デビュー・リサイタルでも「冬の旅」を演奏したというボストリッジにとって、特別な楽曲であることは間違いないだろう。加えて、コンサート・ピアニストとして名声の高いアンスネスを伴奏者に迎えたことで、発売当時様々に注目された録音。
 「冬の旅」は、ミュラー(Wilhelm Muller 1794-1827)の詩に基づいて、「恋愛経験」からの厳しい「自己反省」へ言及する内容であるが、ボストリッジのテノールは、どちらかというと明朗な情緒を表現していて、歌唱はやや客観的な視点で表現される傾向を感じる。例えば「村にて」であるが、ピアノといくぶん距離感を設けた歌唱で、やや遠視点的に村の風景を見渡すような趣が感じられる。これはボストリッジのテノールとしての声域と、基本的に生き生きとした声質、感情表現に過度に入りこまない緻密さが背景にある。
 旋律線の扱いの浮き沈みや、インターバルの設け方、「孤独」と「郵便馬車」における対比感の演出なども、俯瞰視点を感じさせるところだろう。また、アンスネスのピアノは、彼が弾いたシューベルトのピアノ・ソナタの印象に近く、清廉でクリーンな響きであり、それも演奏の全体的な印象に大きく影響を与えているのであるが、歌曲ならではの呼吸のようなものより、ストレートな印象がある。それでも、ボストリッジ同様に、描写的な表現には敏感さがあって、そのような両者の芸術がもっともよく表現された曲の一つは「春の夢」に感じられる。ピアノの音色に注目して聴いてほしい1曲でもある。
 他方で、最終版の楽曲が、すっきりし過ぎていて、音楽の影の部分など、もっとほしいものがあるようにも思う。両者がさらに芸術家としてのキャリアを積んだ今であれば、さらに一味加わった演奏となっても不思議ではない。

歌曲集「冬の旅」(ツェンダー編 管弦楽伴奏版)
T: ブロホヴィッツ ツェンダー指揮 アンサンブル・モデルン

レビュー日:2019.12.30
★★★★★ 「創造的編曲」と訳されたツェンダー版「冬の旅」をあらためて聴く
 ドイツの現代音楽家であり、指揮者でもあるハンス・ツェンダー(Hans Zender 1936-2019)の名をひときわ有名なものとしたのが当アルバムである。収録されている楽曲は、シューベルト(Franz Schubert 1797-1828)の歌曲集「冬の旅」D911の全24曲であるが、副題として "A Composed Interpretation" なるフレーズが与えられている。これは日本では「創造的編曲」と訳されたのであるが、どういうことかと言うと、シューベルトの原曲のピアノ伴奏を管弦楽伴奏に編曲し、かつそれを「創造的な」ものにしたのである。と書くとなにも説明していないのとほぼ同じだが、つまり、単にピアノ譜をオーケストラ譜に移したという以上の創作性を加え、歌曲の旋律自体はだいたいそのままであるにもかかわらず、音楽作品としての「聴き味」を大いに異にする「芸術作品」を編み出したのである。
 ツェンダーの当該創作が行われたのは、1993年のことで、当盤は、その翌年である1994年に、ハンス・ペーター・ブロホヴィッツ(Hans Peter Blochwitz 1949-)のテノール独唱、ツェンダー自身の指揮、現代音楽演奏家集団であるアンサンブル・モデルンの管弦楽により録音されたものである。以来、ツェンダーのこの作品は、話題となり、演奏会で取り上げられたり、別の録音がリリースされたり、当盤も再版されるなど、一つの芸術作品として、すっかり「認識」された感がある。私は最近ツァンダーが指揮をしたシューベルトの交響曲全集を聴く機会があり、あらためて当盤のことを思い出して聴いてみたので、あらためて感想を書いてみよう。
 この編曲は、「創造的」と訳されたと前述しているが、そのソノリティーは打楽器や効果音、前衛的な音響を交えたもので、なまじシューベルトの原曲が耳に染みわたっているばかりに、それは「意表をついた」ものに感じられるところがある。シューベルトの美しい音楽に当然きたいされるべき価値を、なにか引っぺがして、ときには崩落させるがごときに斬新さを導く。この録音が日本で紹介されたとき、私の記憶が正しければ、国内での批評も惨憺たるものだった。もともと権威主義的な土壌の強いクラシック音楽の世界において、ツェンダーの試みは、さながら歌曲王シューベルトへの冒涜行為のようにみなされたものである。
 しかし、そうだとすると、なぜこの作品がそれから四半世紀経過した今でも、忘れられることない存在感をたもっているのか。いろいろあると思うが、一つはツェンダーの編曲が、ただ音響的に聴き手をびっくりさせ、シューベルトからの乖離を目的としたものではなく、やはり「創造的」なものだったからではないだろうか。そう、例えば、「冬の旅」のテキストはミュラー(Wilhelm Muller 1794-1827)の詩なのであるが、この失恋からはじまる暗い詩集は、「冬」と「旅」という二つのキーワードによって強く刻印され、当然のことながらそれゆえの描写性があちこちに染み出しているのである。ツェンダーの編曲が紡ぎだす音は、一種独特の間隙と暗さを感じさせるもので、それは、私には「隙間」を連想させる。「隙間」は心理的には、寂しさ、悲しさの象徴であり、物理的には「寒さ」「耐久性のなさ」の象徴である。それらのシンボライズされたイメージが、実にこの詩によく共鳴するのである。また、ツェンダーの編曲は、前奏と間奏の部分により大きな意趣を割いているが、そのことによって、歌い手と聴き手の距離感に新たなもの、より具体的に言えば、「冬の旅」に「のめり込む」のではなく、冬の風景をゆく寂しげな青年の姿を見るというような、遠景的な見方を聴き手に解釈させる距離感が生み出されているように感じる。その「距離感」は、前述の「隙間」とも符合するものである。また、それ以外にもツェンダーはさりげない仕掛けを施している。例えば第21曲「宿屋」における第5曲「菩提樹」の回顧など意味深だ。
 様々な楽器による音色の表現性は、全編に渡って興味深いところだ。第4曲「氷結」のギター、第5曲「菩提樹」のアコーディオン、第8曲「回想」のサキソフォン、第21曲「宿屋」のパーカッション、そしてそれらが私には、聴き手と朗読者の間にある何かを補完する性格のものであるように感じられる。そこに私は、ツェンダーの確かな芸術性を感じるのである。ブロホヴィッツの誠実な独唱は、私にはツェンダーの編曲自体を芸術作品として敬意する気配が満ちていると感じられ、ひたすら素晴らしいと思う。
 ツェンダーの創作は、決してシューベルト作品の冒涜ではない。この芸術作品から伝わってくるのは、ひたすらなシューベルトとミュラーへの畏敬である。

歌曲集「冬の旅」 「美しい水車小屋の娘」
T: ベーア p: パーソンズ

レビュー日:2023.8.15
★★★★★ シューベルトの音楽性を素直に歌い上げたベーアの録音
 ドイツのバリトン、オラフ・ベーア(Olaf Bar 1957-)が、オーストラリアのピアニスト、ジュエフリー・パーソンズ(Geoffrey Parsons 1929-1995)と録音したシューベルトの歌曲集2編を集めた2枚組CD。収録内容の詳細は下記の通り。
【CD1】 歌曲集「美しき水車小屋の娘」(Die Schone Mullerin)D.795 1986年録音
1) 第1曲 さすらい(Das Wandern) 2:49
2) 第2曲 どこへ?(Wohin?) 2:22
3) 第3曲 止まれ!(Halt!) 1:39
4) 第4曲 小川への言葉(Danksagung An Den Bach) 2:27
5) 第5曲 仕事を終えた宵の集いで(Am Feierabend) 2:44
6) 第6曲 知りたがる男(Der Neugierige) 4:28
7) 第7曲 苛立ち(Ungeduld) 2:47
8) 第8曲 朝の挨拶(Morgengrus) 4:19
9) 第9曲 水車職人の花(Des Mullers Blumen) 3:07
10) 第10曲 涙の雨(Tranenregen) 4:05
11) 第11曲 僕のもの(Mein!) 2:36
12) 第12曲 休み(Pause) 3:59
13) 第13曲 緑色のリュートのリボンを手に(Mit Dem Grunen Lautenbande) 1:59
14) 第14曲 狩人(Der Jager) 1:06
15) 第15曲 嫉妬と誇り(Eifersucht Und Stolz) 1:42
16) 第16曲 好きな色(Die Liebe Farbe) 5:12
17) 第17曲 邪悪な色(Die Bose Farbe) 2:07
18) 第18曲 凋んだ花(Trockne Blumen) 4:08
19) 第19曲 水車職人と小川(Der Muller Und Der Bach) 3:58
20) 第20曲 小川の子守歌(Des Baches Wiegenlied) 7:35
【CD2】 歌曲集「冬の旅」(Winterreise)D.911 1988年録音
1) 第1曲 おやすみ(Gute Nacht) 6:07
2) 第2曲 風見の旗(Die Wetterfahne) 1:37
3) 第3曲 凍った涙(Gefror'ne Tranen) 2:45
4) 第4曲 氷結(Erstarrung) 3:05
5) 第5曲 菩提樹(Der Lindenbaum) 5:00
6) 第6曲 溢れる涙(Wasserflut) 4:20
7) 第7曲 川の上で(Auf Dem Fluse) 3:43
8) 第8曲 回想(Ruckblick) 2:10
9) 第9曲 鬼火(Irrlicht) 2:52
10) 第10曲 休息(Rast) 3:16
11) 第11曲 春の夢(Fruhlingstraum) 4:13
12) 第12曲 孤独(Einsamkeit) 3:06
13) 第13曲 郵便馬車(Die Post) 2:31
14) 第14曲 霜おく頭(Der Greise Kopf) 3:24
15) 第15曲 烏(Die Krahe) 2:05
16) 第16曲 最後の希望(Letzte Hoffnung) 2:02
17) 第17曲 村にて(Im Dorfe) 3:34
18) 第18曲 嵐の朝(Der Sturmische Morgen) 0:54
19) 第19曲 まぼろし(Tauschung) 1:26
20) 第20曲 道しるべ(Der Wegweiser) 4:16
21) 第21曲 宿屋(Das Wirtshaus) 4:20
22) 第22曲 勇気(Mut) 1:25
23) 第23曲 幻の太陽(Die Nebensonnen) 3:11
24) 第24曲 辻音楽師(Der Leiermann) 3:48
 私の世代だと、シューベルトのこれらの歌曲集というと、どうしてもフィッシャー=ディースカウ (Dietrich Fischer-Dieskau 1925-2012)の録音が染み込んでいるものだ。特に、私の場合、小さいころから、両親がよくLPでディースカウの「冬の旅」を聴いていた。それは、ジェラルド・ムーア(Gerald Moore 1899-1987)と1960年に録音したものだった。
 ディースカウの録音は、今聴いても、なるほど説得力のあるもので、とにかく込められた感情の濃厚な表現に圧倒されるものだった。特に、ミュラー(Wilhelm Muller 1794-1827)の詩が暗いものだから、その美しさは無類に切なく、寂しいものでもあった。
 だから、それを思い起こせば、このベーアの歌唱は、とても大人しいというか、真摯に楽曲として、音楽表現に徹しているように響く。ベーアの歌唱は、非常に素直で、ドイツ・リートの古典性を踏まえたアプローチであり、浪漫性につながる装飾的な要素は、あくまで副次的であり、それゆえに、シューベルトの旋律を、まるで楽器のような純朴さで奏でているように感じる。その結果、受け取る側も、重さや暗さの呪縛から離れ、変わって受け取る要素として、暖かさやなごやかさの成分が強くなる。
 それは、ミュラーの詩の荘厳な悲劇性を考慮すると、やや物足りなさに感じるかもしれないが、時にその着実な歩みゆえに、深く潜っていくように感じられるところがある。個人的には、「美しい水車小屋の娘」の終盤の5曲くらいに、その雰囲気が端緒に出ている感じがして、この演奏を聴いて気に入ったところである。
 ミュラーの詩の病的(芸術的?)な要素を、鋭く反映したディースカウの歌唱とは異なるものの、シューベルトの豊かな音楽性を楽しむという分には、このベーアの録音の方が聴きやすいという人もいると思う。パーソンズは、さすがベテランというべき、安定した伴奏。

歌曲集「美しい水車小屋の娘」
T: プレガルディエン fp: シュタイアー

レビュー日:2015.1.15
★★★★☆ フォルテ・ピアノ伴奏に様々な感触を抱きつつ・・
 プレガルディエン(Christoph Pregardien 1956-)のテノール、シュタイアー(Andreas Staier 1955-)のフォルテ・ピアノによるシューベルト(Franz Peter Schubert 1797-1828)の歌曲集「美しき水車小屋の娘」D.795全曲。1991年の録音。参考までに全20曲のタイトルを書くと以下の通り。
第1曲 さすらい Der Wandern
第2曲 どこへ? Wohin?
第3曲 止まれ! Halt!
第4曲 小川へ寄せる感謝の言葉 Danksagung an den Bach
第5曲 仕事を終えた宵の集いで Am Feierabend
第6曲 知りたがる男 Der Neugierige
第7曲 苛立ち Ungeduld
第8曲 朝の挨拶 Morgengruss
第9曲 水車職人の花 Des Mullers Blumen
第10曲 涙の雨 Tranenregen
第11曲 僕のものだ Mein!
第12曲 休息 Pause
第13曲 緑色のリュートのリボンを手に Mit dem grunen Lautenbande
第14曲 狩人 Der Jager
第15曲 嫉妬と誇り Eifersucht und Stolz
第16曲 好きな色 Die liebe Farbe
第17曲 邪悪な色 Die bose Farbe
第18曲 枯れた花 Trockne Blumen
第19曲 水車職人と小川 Der Muller und der Bach
第20曲 小川の子守歌 Des Baches Wiegenlied
 プレガルディエン(Christoph Pregardien 1956-)1回目の「美しき水車小屋の娘」全曲録音であり、2007年にはミヒャエル・ギース(Michael Gees 1953-)のピアノで再録音を行っている。
 当番の最大の特徴は、伴奏のシュタイアーが用いているフォルテ・ピアノである。1818年頃のウィーン製の楽器ということで、これはシューベルトの作曲時期である1823年を念頭においたものと言える。ただし、これらの曲集が世で演奏されるようになったのは、シューベルトの死後ずいぶん経ってからで、初演は1856年とされているから、「当時の演奏の再現」ではなく、「もし、作曲直後に演奏されていたら、伴奏はこんな音色」というイメージに従ったものと言える。
 さて、このフォルテ・ピアノの使用が、様々にこの演奏を特徴づけている。まず、一つ一つの音の伸びやかさに限界があるため、例えば第18曲「枯れた花」(フルートとピアノのための「しぼめる花の主題による序奏と変奏曲」D.802の主題となった曲)や第19曲「水車職人と小川」のように通常ピアノ伴奏がたっぷりした余韻をもたらすような箇所でも、伴奏は、調子の良い合いの手のようになっていて、楽曲全体がヴィヴィッドな方にシフトしてしまっている。全般にテンポは早めで維持されることが多く、そのため第5曲「仕事を終えた宵の集いで」など、若干騒々しい感じもしてしまう。その一方で、プレガルディエンの、どちらかと言う柔らか味のある声は、この楽器と調和する傾向があり、第1曲「さすらい」の快活さなどはよく表現できていると思う。第14曲「狩人」も良いと思う。
 以上の様に、曲全体が元気なイメージとなることで、聴き易さがもたらされる反面、シューベルトの音楽に潜む闇や怖さと言った要素は減衰している感じが強いので、これらの音楽から何を感じたいか、によって当演奏の評価は変わってきそうだ。また、楽器の制約は、歌唱に呼応する音型などでも、奏法的な限界で、フォルテ・ピアノ独自のアプローチになってしまい、互いの応答の魅力と言う点でも、減じられるものが多いと感じる。
 個人的に、それでも強く印象に残ったのが第16曲「好きな色」で、単調な悲しさが、むしろその即物的な響きにより、さらに透明感を増した感じがあった。
 当曲集の代表的録音とは言い難いが、この演奏ならではの美点も多く見出せる一枚だと思う。

歌曲集「美しい水車小屋の娘」
T: ボストリッジ p: 内田光子

レビュー日:2016.8.8
★★★★☆ 美しく暖かい演奏だが、特に後半の楽曲にやや疑問が残る
 ボストリッジ(Ian Bostridge 1964-)のテノール、内田光子(1948-)のピアノによるシューベルト(Franz Peter Schubert 1797-1828)の歌曲集「美しき水車小屋の娘」D.795全曲。2003年の録音。参考までに全20曲のタイトルを書くと以下の通り。
第1曲 さすらい Der Wandern
第2曲 どこへ? Wohin?
第3曲 止まれ! Halt!
第4曲 小川へ寄せる感謝の言葉 Danksagung an den Bach
第5曲 仕事を終えた宵の集いで Am Feierabend
第6曲 知りたがる男 Der Neugierige
第7曲 苛立ち Ungeduld
第8曲 朝の挨拶 Morgengruss
第9曲 水車職人の花 Des Mullers Blumen
第10曲 涙の雨 Tranenregen
第11曲 僕のものだ Mein!
第12曲 休息 Pause
第13曲 緑色のリュートのリボンを手に Mit dem grunen Lautenbande
第14曲 狩人 Der Jager
第15曲 嫉妬と誇り Eifersucht und Stolz
第16曲 好きな色 Die liebe Farbe
第17曲 邪悪な色 Die bose Farbe
第18曲 枯れた花 Trockne Blumen
第19曲 水車職人と小川 Der Muller und der Bach
第20曲 小川の子守歌 Des Baches Wiegenlied
 ボストリッジは、1995年に、グレアム・ジョンソン(Graham Johnson 1950-)のピアノでこの曲集を録音しているので、当盤は8年ぶりの再録音ということになる。
 ボストリッジは、この歌曲集について、「他の作品ではめったに見ることのできない方法で、性、死、愛の問題にアプローチでしているもの」と語っていて、それはミュラー(Wilhelm Muller 1794-1827)の原詩に基づく世界観に、音楽の抽象的な部分で、より集合を無意識的なものに広げて、シューベルトが芸術作品として完成させたことを指摘しているわけだ。実際、この歌曲集を通して語られるのは、「愛への失望」が「死への動機」へ変容していく様である。
 私は、若い頃、「冬の旅」やこの歌曲を聴いて、「たかが失恋で大げさな」「そんな性格だから重すぎて敬遠されるんだろう」と思ってしまったのは素直な感想で、今もまったくそう思わないわけではないけれど、詩という芸術は、文字の意味をそのまま受け取るものではないし、その抽象性を音楽として見事に補完したから、シューベルトは天才なのだろう、とも思う。
 それで、ボストリッジの歌唱は、わざわざその点に言及したくらいだから、それに沿った表現の歌唱なのか、というと、実はいまひとつわかりにくい。むしろスマートな明瞭さがあって、ほどよいレガートを含めた暖かさのある歌唱というのが私の印象。しかし、彼らの演奏においては、前述の表現の役割を、むしろ内田のピアノが引き受けていると感じられる。第10曲「涙の雨」で、ここまで感情たっぷりのピアノはちょっとないだろう。
 ところが、これが歌曲として聴いたとき、私には引っかかりが残る。ピアノから溢れる表現が、あまりにも考察を含み過ぎていて、逆に軽重のバランスがしっくりこないところが多いのだ。確かに響きは美しい、抑制された美観は見事なものだが、第16曲「好きな色」、第18曲「枯れた花」、そして第20曲「小川の子守唄」などは、私はむしろピアノ伴奏はもっと淡々として、同じように繰り返している方が、怖くて美しいと思うのだ。ここまで、音を解説されてしまうと、なにか、学術講義を受けているような気がしてしまうのだけれど。
 そういった点で、彼らの演奏は、むしろ前半の曲たちの方が違和感なく聴けた。後半に進むにつれて、彼らの意図を、自分にはうまく捉えることは出来なく感じた。

歌曲集「白鳥の歌」 ピアノ・ソナタ 第21番
Br: ゲルネ p: エッシェンバッハ

レビュー日:2016.6.28
★★★★☆ 「白鳥の歌」を一つの作品集として、その演奏のあり方を厳しく突き詰めた演奏
 ドイツのバリトン歌手、マティアス・ゲルネ(Matthias Goerne 1967-)がハルモニア・ムンディ・レーベルに録音した一連のシューベルト(Franz Schubert 1797-1828)の歌曲集第6弾で、2010~11年の録音。ピアノはエッシェンバッハ(Christoph Eschenbach 1940-)。本盤はCD2枚組となっていて、1枚目に歌曲集「白鳥の歌」D.957、2枚目にエッシェンバッハによる ピアノ・ソナタ 第21番 変ロ長調 D.960 が収録されている。
 「白鳥の歌」は、連作歌曲ではなく、シューベルトが死の直前に書きあげた複数の曲集を出版の時点でまとめたもので、レルシュタープ(Ludwig Rellstab 1799-1860)の詩による7曲、ハイネ(Heinrich Heine 1797-1856)の詩による6曲、ザイドル(Gabriel Seidl 1848-1913)の詩による1曲の全14曲という構成になるが、本盤では、レルシュタープの詩による別の一遍、「秋」D.945を第5曲と第6曲の間に挿入し、全15曲という形としている。その並び順を踏まえて、収録内容を改めて記載すると以下のようになる。
【CD1】 歌曲集「白鳥の歌」 D.987
レルシュタープの詩による8曲
1) 第1曲「愛の使い」(Liebesbotschaft)
2) 第2曲「兵士の予感」(Kriegers Ahnung)
3) 第3曲「春の憧れ」(Fruhlingssehnsucht)
4) 第4曲「セレナーデ」(Standchen)
5) 第5曲「住処」(Aufenthalt)
6) 挿入曲「秋」(Herbst) D.945
7) 第6曲「遠い地にて」(In der Ferne)
8) 第7曲「別れ」(Abschied)
ハイネの詩による6曲
9) 第8曲「アトラス」(Der Atlas)
10) 第9曲「彼女の肖像」(Ihr Bild)
11) 第10曲「漁師の娘」(Das Fischermadchen)
12) 第11曲「街」(Die Stadt)
13) 第12曲「海辺にて」(Am Meer)
14) 第13曲「影法師(ドッペルゲンガー)」(Der Doppelganger)
ザイドルの詩による1曲
15) 第14曲「鳩の便り」(Die Taubenpost)
【CD2】 ピアノ・ソナタ 第21番 変ロ長調 D.960
 当盤の企画意図としては、シューベルトの文字通り「白鳥の歌」である2曲をまとめて聴くことができるもの、ということになる。とはいえ、ゲルネの一連のシリーズでは、これまで器楽曲と組み合わせる形のものがなかったから、やや唐突な印象もあるけれど。
 歌曲集「白鳥の歌」は前述の様に、別に作曲されたものを寄せ集めたものであり、かつレルシュタープの詩による部分は1曲が未完となっているので、一つの曲集としてどのような表現するか、なかなか難しい。ゲルネは、コンサートでは「鳩の便り」をアンコールとして歌ったそうである。情緒と深遠な闇の交錯する曲集において、確かに終曲がこれで良いのかは、検討の余地があるだろう。
 いずれにしてもゲルネの歌いぶりは、禁欲的な美しさを湛えた厳かな気配に満ちたもので、少なくとも何気なく聴くような性格の音楽にはなっていない。聴き手にも、相応の集中力を求めた表現といっていいだろう。抒情性はもちろんあるのだが、積極的な感情の発露より、どこかに一線を引いた厳しさが支配する。テンポもどちらかというと遅めで、感情の高ぶりを抑える方向性を感じるもの。冬の荘厳な空気が立ち込めるような音楽、と表現したらいいだろうか。これは「愛の使い」「アトラス」の各詩集の冒頭を飾る性格的な作品で顕著である。
 ゲルネの歌唱の高い緊迫感は、極めて弱い音をコントロールする彼の能力による。 「彼女の肖像」や「海辺にて」に漂うこの演奏特有の凛とした気配は、その厳密な歌唱によってもたらされるものだ。かの有名な「セレナード」でさえ、恋人に寄せる歌というより、厳しい佇まいを感じさせる。
 私は、この厳しさに満ちたシューベルトを聴いて、元来そういうシューベルトの聴かせ方が好きというわけでもないのに、とても魅了された。エッシェンバッハの伴奏も、さすがで、主張を戒めたこの演奏にふさわしいもので、そのような演奏によって、やっとこの作品の一つの「曲集」としての魅力が伝わったように思う。それは、出版社の意向によってまとめられたものかもしれないけれど、それも踏まえて、彼らは一流ならではの見事な回答を提示したのだと、深く感じ入った。
 一方で、もう一枚のディスクに収録されたピアノ・ソナタは、やや疑問が残る。特に前半2楽章のスローなテンポは、カンタービレの美しさから距離を感じさせるものだ。もちろん、そのような表現法もあるだろうけれど、私にはピンと来ないところが多い。特に第2楽章中間部は、停滞を感じさせてしまう。あるいは、歌曲集と同じ抑制的な性格を描こうと考えたのかもしれないが、私には、やや理が勝ち過ぎているように思える。

歌曲集「白鳥の歌」
T: ボストリッジ p: パッパーノ

レビュー日:2016.8.17
★★★★★ パッパーノの伴奏の「巧さ」に感服。ボストリッジの名演、「白鳥の歌」
 ボストリッジ(Ian Bostridge 1964-)のテノール、アントニオ・パッパーノ(Antonio Pappano 1959-)のピアノによるシューベルト(Franz Peter Schubert 1797-1828)の歌曲集。歌曲集「白鳥の歌」D.987全曲に他4曲を加えた構成。2008年の録音。
1) 秘密(Geheimnis) D.491
2) 馭者クロノスに(An Schwager Kronos) D.369
3) 反射(水鏡)(Wiederschein) D.949
歌曲集「白鳥の歌」 D.987
 4) 第1曲「愛の使い」(Liebesbotschaft)
 5) 第2曲「兵士の予感」(Kriegers Ahnung)
 6) 第3曲「春の憧れ」(Fruhlingssehnsucht)
 7) 第4曲「セレナーデ」(Standchen)
 8) 第5曲「住処」(Aufenthalt)
 9) 第6曲「遠い地にて」(In der Ferne)
 10) 第7曲「別れ」(Abschied)
 11) 第8曲「アトラス」(Der Atlas)
 12) 第9曲「彼女の肖像」(Ihr Bild)
 13) 第10曲「漁師の娘」(Das Fischermadchen)
 14) 第11曲「街」(Die Stadt)
 15) 第12曲「海辺にて」(Am Meer)
 16) 第13曲「影法師(ドッペルゲンガー)」(Der Doppelganger)
 17) 第14曲「鳩の便り」(Die Taubenpost)
18) 別れ(Abschied) D.475
 ボストリッジにとってきわめて重要なレパートリーであるシューベルトの歌曲であるが、特に成功した録音として、私は当盤を挙げたい。ボストリッジの、細身なところがありながらも、暖かい抒情性のあるテノールが、楽曲によく映え、自然発生的な抒情がきわめてスムーズに引き出されている。これらの楽曲の名曲性を、余すことなく伝える名演だ。
 それにしても、パッパーノのピアノの素晴らしさには深い感銘を受けた。私は、この人の名を指揮者として認識してきたのだけれど、これほど優れたピアニストだったとは知らなかった。
 ボストリッジは、シューベルトの歌曲を、アンスネス(Leif Ove Andsnes 1970-)や内田(1948-)との共演により録音しているが、伴奏ピアノの完成度として、パッパーノは前2者を遥かに凌駕していると感じられる。それは、ピアノによって与えられる呼吸が巧妙で、時に独唱者に寄り添い、勇気づけ、そして陰に控え、という音楽的作法が抜群であることに由来する。「ドッペルゲンガー」における力強いコード進行、「街」における風のようなアルペッジョ、「アトラス」における刹那的な力強さ、「別れ」における高速で添えられるアクセント、それらが「歌曲」という枠組みの中で、適切かつ自在に表現される様は、圧巻と言って良い。
 このパッパーノの能力は、おそらく指揮者として形成された音楽観に裏打ちされたものであろう。思えば、私が「伴奏」に関しても「うまい」と思わせる名ピアニスト、例えば、アシュケナージ(Vladimir Ashkenazy 1937-)、エッシェンバッハ(Christoph Eschenbach 1940-)、バレンボイム(Daniel Barenboim 1942-)といった人たちは、みな指揮者としても立派な業績を挙げている。これは偶然ではないだろう。ピアニストの指揮活動について、「ピアノに専念してほしい」という意見をしばしば見ることがあるが、このような実例を目の当たりにすると、指揮という経験が、芸術家の能力を、これほど高めることになるのだ、と実感させられる。疑問に思われる人は、まずはこのアルバムを聴いてみてほしい。
 ボストリッジの、表現力豊かで、熱のこもったロマンチックなスタイルは、パッパーノの絶好のサポートを受けて、個々の曲の特徴を明確にしている。その結果、各曲がもつ「放浪」や「孤独」といったニュアンスが、陰影豊かに表現されている。「アトラス」から「海辺にて」に至る曲を続けてじっくり聴くことで、それを深く味わうことができると思う。
 ピアノの見事なサポートによって、ボストリッジの代表的録音といっても良い内容のアルバムとなっている。

愛の使い あなたこそわが憩い 魔王 ギリシャの神々 糸を紡ぐグレートヒェン ミニョンの歌「ただ憧れを知る者だけが」 都会 春に川辺にて ひめごと ガニュメート 夜咲きすみれ 憩いのない愛 春に 岩の上の羊飼い 水の上にて歌う(リスト編ピアノ独奏版)
S: デセイ p: カサール cl: サヴィ

レビュー日:2017.5.1
★★★★★ ナタリー・デセイ 初のシューベルト・アルバムです。
 現代フランスを代表するオペラ歌手だったナタリー・デセイ(Natalie Dessay 1965- ソプラノ)は、2013年にオペラ歌手としての活動を終了し、リートを中心にジャンル横断的な活躍をするようになった。ソニー・レーベルへの移籍も果たして、いろいろとイメージを変えて、今回、初となるシューベルト(Franz Schubert 1797-1828)の歌曲集をリリースした。収録曲は以下の通り。
1) 愛の使い(歌曲集「白鳥の歌」D.957より 第1曲)
2) 君は安らぎ D.776
3) 魔王 D.328
4) ギリシャの神々 D.677
5) 糸を紡ぐグレートヒェン D.118
6) ミニョンの歌「ただ憧れを知る者だけが」(歌曲集「ヴィルヘルム・マイスターの修業時代より」D.877より 第4曲)
7) 都会(歌曲集「白鳥の歌」D.957より 第11曲)
8) 春に川辺にて D.361
9) ズライカⅠ「吹き通うものの気配は」 D.720
10) 水の上で歌う(原曲 D.774) ;リスト(Franz Liszt 1811-1886)編によるピアノ独奏版
11) ひめごと D.719
12) ガニュメート D.544
13) 夜咲きすみれ D.752
14) 憩いなき愛 D.138
15) 春に D.882
16) 岩の上の羊飼い D.965
 ピアノはフィリップ・カサール(Philippe Cassard 1962-)、16)のクラリネットはトーマス・サヴィ(Thomas Savy 1972-)。2016年の録音。
 様々なものが集められたサービス精神旺盛な内容。「水の上で歌う」が、リスト編のピアノ独奏版になっているのが不思議。このピアノ編曲は美しいけれど、このアルバムの中では、本来の歌唱付で聴きたかったと思う。
 さて、デセイの歌唱は、フレーズを明確に分けたもので、わかり易く、明るい可憐さを伴いながら、詩のドラマをよく描写したものと思う。そのへんの詩の捉え方は、オペラ歌手として長年培った背景からもたらされたものも大きいだろう。
 「白鳥の歌」からの2曲は、通常男声で歌われる楽曲であるため、ソプラノで聴くのは新鮮だ。全体に色合いが明るく感じられるのは音程とともに、軽やかなピアノと、ドイツ語特有の力のこもる部分を、比較的軽く乗り越えて行く歌唱の影響によるだろう。そういった点で、パワーよりも、「優しさ」や「愛らしさ」といった表現に適したデセイの声質が、全体の雰囲気を大きく決定付けていると言っていい。
 「春に川辺にて」や「ひめごと」のような、そこはかとない、儚さや可憐さを感じさせる曲で、その雰囲気は強く作用していて、聴き手の気持ちを音楽の世界に引きこんでくれる。「ガニュメート」のような繊細な変化を伴った楽曲も、とても美しい。
 「岩の上の羊飼い」はサヴィのクラリネット、カサールのピアノと併せて、なかなか聴かせてくれる。この曲のメロディの持つ絶対的な美しさを、各奏者が自分の役割を十分に心がけて表現した、配慮のゆき届いた響き。やや線は細めに感じられるが、そこに素朴な良い味わいが生まれているから、欠点とは感じさず、巧い。デセイの歌唱は、個人的にはこの曲ではもっと朗々とおおらかに歌っても良かったとも思うが、それはデセイの個性とはまた別のものになるかもしれないし、全体的にはよくまとまっていて、完成度は高い。私も久しぶりにこの佳品を楽しんだ。
 ドイツ・リートとしては、全般にドイツ語特有のクセやアクが抜けたようなところも感じられ、そこは好みが分かれるかもしれないが、デセイの声質が好きな人なら、まったく気にすることなく受け入れられるだろう。
 また、カサールのピアノは、一聴したとき、やや軽すぎる気もしたのだけれど、聴くにつれて歌曲伴奏として、それもデセイの歌唱の伴奏として、ほぼ理想的と言っていいものと思われてきた。独唱とともに一つのコンパクトな世界を精緻に作り出していて、音楽的な機微の大きさもぴったりくる。実に優れた伴奏ピアノである。

音楽に寄せて 野ばら ます 水の上で歌う 君はわが憩い 春に さすらい人の夜の歌 II 夜と夢 小人 糸を紡ぐグレートヒェン 若い尼僧 ヴィルヘルム・マイスターから D. 877 - 第3番 ミニョンの歌「このよそおいをお許し下さい」  第4番 ミニョンの歌「ただあこがれを知る者だけが」 ズライカ I ズライカ II 死と乙女 魔王
MS: タカーチュ p: ヤンドー

レビュー日:2017.8.14
★★★★★ シューベルトの名歌曲を揃えた "お得な一枚"
 ハンガリーのメゾ・ソプラノ、タマラ・タカーチュ(Tamara Takacs 1950-)によるシューベルト(Franz Schubert 1797-1828)の歌曲集。ピアノ伴奏はタカーチュの夫でもあるハンガリーのピアニスト、イェネ・ヤンドー(Jeno Jando 1952-)。収録曲は以下の通り。
1) 音楽に寄せて(An die Musik) D.547
2) 野ばら(Heidenroslein) D.257
3) ます(Die Forelle) D.550
4) 水の上で歌う(Auf dem Wasser zu singen) D.774
5) 君はわが憩い(Du bist die Ruh) D.776
6) 春に(Im Fruhling) D.882
7) さすらい人の夜の歌 II(Wandrers Nachtlied II) D.768
8) 夜と夢(Nacht und Traume) D.827
9) 小人(Der Zwerg) D.771
10) 糸を紡ぐグレートヒェン(Gretchen am Spinnrade) D.118
11) 若い尼僧(Die junge Nonne) D.828
「ヴィルヘルム・マイスター」からの歌 D.877 (抜粋)
 12) 第2番 ミニョンの歌「語らずともよい、黙っているがよい」(Heiss mich nicht reden)
 13) 第3番 ミニョンの歌「このよそおいをお許し下さい」(So lasst mich scheinen)
 14) 第4番 ミニョンの歌「ただあこがれを知る者だけが」(Nur wer die Sehnsucht kennt)
15) ズライカ I(Suleika I) D.720
16) ズライカ II(Suleika II) D.717
17) 死と乙女(Der Tod und das Madchen) D.531
18) 魔王(Erlkonig) D.328
 1991年録音。
 シューベルトの代表的な名歌曲を、安心して味わうことのできる一枚。タカーチュはメゾ・ソプラノで、全体的に低めのトーンとなり、雰囲気はやや暗いものがあるが、落ち着いた肌合いとも言える。名演として知られる他盤とくらべると、やや地味さを感じさせるが、楽曲そのものの魅力もあって、十分に聴き映えする内容だろう。タカーチュの歌唱は、概して一歩引いた視点を感じさせ、当事者というより、物語の伝い手としての役目を担うかのような客観性を感じさせるところが多い。とはいえ、死と乙女や魔王では、もちろん相対立するものを描き分けている。その辺は詩の内容によって、アプローチをやや変えているようにも感じられる。
 落ち着いて、冷静に距離を取るタカーチュの歌唱が、特に美しく秀でて感じられるのは「さすらい人の夜の歌 II」と「夜と夢」の2曲であり、そのおおらかな柔らかさと芯の通った伸びやかさが、心の深いところまでまっすぐ突き通って行くように感じられる。「糸を紡ぐグレートヒェン」などでは、もっと熱血的な放散を欲する人も居るだろう。しかし、多曲のアプローチと比較すると、バランスとしては申し分ないようだ。
 全般にヤンドーのピアノも魅力だ。ドイツ・オーストリア音楽らしい重厚さを持ちながら、歌唱に併せた巧妙な足取りの豊かさがある。魔王の伴奏に見られる安定した技巧からもたらされるしっかりとしたタッチも魅力十分。
 シューベルトの歌曲集には、当然のように名盤が目白押しであり、その中でも当番を強く推したいとまでは行かないけれど、全体の演奏の質は安定しているし、収録曲の魅力も高いので、アイテムとしての魅力は十分なものがあるでしょう。全般に聴き易さを感じさせてくれるのも好印象です。

嘆きの歌 糸をつむぐグレートヒェン 乙女の嘆き 太陽に寄せて ミニョン「君を知るや南の国」 セレスの嘆き お妃の夕べの歌 夜鶯に寄せて 子守歌 ブランカ 恋する女の手紙 ズライカⅡ ズライカⅠ 君はわが憩い 若い尼 アン・ライルの歌 ノーナの歌  エレンの歌第1番(憩え戦士よ) エレンの歌第2番(憩え猟師よ) エレンの歌第3番(アヴェ・マリア) 4つのリフレイン歌曲 から 第3曲「男は人が悪い」 ヴィルヘルム・マイスター から 第2曲 ミニョンの歌 「語れといわないで」   第3曲 ミニョンの歌 「このよそおいをお許し下さい」  第4曲 ミニョンの歌 「ただあこがれを知る者だけが」  野外で 岩の上の羊飼い
S: ヤノヴィッツ p: ゲージ cl: ローデンハウザー

レビュー日:2018.12.11
★★★★★ シューベルトの名歌曲を揃えた "お得な一枚"
 ドイツの名ソプラノ、グンドゥラ・ヤノヴィッツ(Gundula Janowitz 1937-)によるシューベルト(Franz Schubert 1797-1828)の歌曲集第1巻。2枚組の当アルバムには以下の楽曲が収録されている。
【CD1】
1) 嘆きの歌 (Klaglied) D23
2) 糸をつむぐグレートヒェン (Gretchen am Spinnrade) D118
3) 乙女の嘆き (Das Madchens Klage) D191
4) 太陽に寄せて (An die Sonne) D270
5) ミニョン「君を知るや南の国」 (Mignon) D321
6) セレスの嘆き (Klage der Ceres) D323
7) お妃の夕べの歌 (Abendlied der Furstin) D495
8) 夜鶯に寄せて (An dei Nachtigall) D497
9) 子守歌 (Wiegenlied) D498
10) ブランカ (Blanka Das Madchen) D631
11) 恋する女の手紙 (Die Liebende schreibt) D673
12) ズライカⅡ「ああ、湿っぽいお前の羽ばたきが」 (Suleika II) D717
13) ズライカⅠ「吹き通うものの気配は」 (Suleika I) D720
14) 君はわが憩い (Du bist die Ruh) D776
【CD2】
1) 若い尼 (Die junge Nonne) D828
2) アン・ライルの歌 (Lied der Anne Lyle) D830
3) ノーナの歌 (Gesang der Norna) D831
4) エレンの歌 第1番(憩え戦士よ) ('Raste Krieger!' Ellens Gesang I) D837
5) エレンの歌 第2番(憩え猟師よ) ('Jager ruhe von der Jagd!' Ellens Gesang II) D838
6) エレンの歌 第3番(アヴェ・マリア) ('Ave Maria' Ellens Gesang III) D839
7) 4つのリフレイン歌曲 から 第3曲「男は人が悪い」 (Die Manner sind mechant) D866 No.3
8) ヴィルヘルム・マイスター から 第2曲 ミニョンの歌 「語れといわないで」 ('Heiss mich nicht reden') D877 No.2
9) ヴィルヘルム・マイスター から 第3曲 ミニョンの歌 「このよそおいをお許し下さい」 ('So lasst mich scheinen') D877 No.3
10) ヴィルヘルム・マイスター から 第4曲 ミニョンの歌 「ただあこがれを知る者だけが」 ('Nur wer die Sehnsucht kennt')D877 No.4
11) 野外で (Im Freien) D880
12) 岩の上の羊飼い (Der Hirt auf dem Felsen) D965
 ピアノ伴奏はアーウィン・ゲージ(Irwin Gage 1937-2018)、「岩の上の羊飼い」のクラリネットはウルフ・ローデンハウザー(Ulf Rodenhauser)。1976年から77年にかけてのアナログ録音。
 言わずと知れた名盤だろう。カラヤン(Herbert von Karajan 1908-1989)にも重用されたヤノヴィッツの美声は、細やかでかつ豊かなエネルギーをもった振動があり、聴くものの心を動かす力を秘めている。スタジオ録音である当盤は、ライヴ収録されたオペラ等に比べると、慎重さの感じられる歌いまわしなのは当然なことであるが、そのことがシューベルト作品の一種の気高さを引き立てていて、私はむしろ良いと思う。
 特にヤノヴィッツの声と楽曲の性質があわさって、神々しいほどの美しさを感じるのは「君はわが憩い」や「アン・ライルの歌」である。こことは、シューベルトがソプラノのために書いた旋律が、光を感じる厳かさで再現されていて、聴いていて鳥肌が立つような思いにとらわれる。弱音の輝きは特筆ものだ。
 名曲の誉れ高い「アヴェ・マリア」「子守歌」「ズライカⅡ」も、その名曲性に相応しい歌唱であるが、あまり知られていない楽曲、例えば「男は人が悪い」なども、当演奏でその存在と魅力を知ることになる。
 ゲーギの貫禄ある伴奏も見事。「糸をつむぐグレートヒェン」では落ち着きを保ちながら、緊張の高まりを鮮やかに演出している。
 末尾にクラリネットを含む名品、「岩の上の羊飼い」が収録されているのも当盤の魅力だ。録音から40年以上が経過した現在でも、その価値が褪せることはない。

ハガルの嘆き 乙女の嘆きD73 テクラ、霊の声D. 239 恋はいたるところに 曙を讃えるリラ ランベルディーネ トゥーレの王 乙女の嘆きD389 鱒 グレートヒェンの祈り イフィゲニア テクラ、霊の声D595 マリアの苦悩を思って 乙女 ベルタの夜の歌 流れ 囚われの歌人たち 薔薇 妹の挨拶 勿忘草 2つのシェーナ 漁師の歌 春に 秘めた恋
S: ヤノヴィッツ p: ゲージ

レビュー日:2019.6.10
★★★★★ 孤高の美が漂うシューベルト
 ドイツの名ソプラノ、グンドゥラ・ヤノヴィッツ(Gundula Janowitz 1937-)と、アーウィン・ゲージ(Irwin Gage 1937-2018)のピアノ伴奏によるシューベルト(Franz Schubert 1797-1828)の歌曲集第2巻。2枚組の当アルバムには以下の楽曲が収録されている。
【CD1】
1) ハガルの嘆き(Hagars Klage) D 5 17:01
2) 乙女の嘆き(Das Madchen Klage) D 6 5:29
3) テクラ、霊の声(Thekla. Eine Geisterstimme) D 73 4:15
4) コルマの嘆き(Kolmas Klage) D 217 6:12
5) 歌劇「クラウディーネ・フォン・ヴィラ・ベッラ」(Claudine von Villa Bella D 239)より、アリエッタ「恋はいたるところに」(Ariette Der Claudine) 1:26
6) 曙を讃えるリラ(Lilla an Die Morgenrote) D 273 1:15
7) ランベルディーネ(Lambertine) D 301 3:06
8) トゥーレの王(Der Konig in Thule) D 367 3:56
9) 乙女の嘆き(Des Madchens Klage) D 389 1:50
10) 鱒(Die Forelle) D 550d 2:00
11) グレートヒェンの祈り(Gretchens Bitte) D 564 5:08
12) イフィゲニア(Iphigenia D 573) 2:50
13) テクラ、霊の声(Thekla. Eine Geisterstimme) D 595 5:32
14) マリアの苦悩を思って(Vom Mitleiden Mariae) D 632 5:44
【CD2】
1) 乙女(Das Madchen) D 652 2:27
2) ベルタの夜の歌(Berthas Lied in Der Nacht) D 653 4:47
3) 流れ(Der Fluss) D 693 5:36
4) 囚われの歌人たち(Die Gefangenen Sanger) D 712 4:21
5) 薔薇(Die Rose) D 745b 3:05
6) 妹の挨拶(Schwestergruss) D 762 5:25
7) 勿忘草(Vergissmeinnicht) D 792 12:27
8) 劇「ラクリマス」(Lacrimas)からの2つのシェーナ~ デルフィーネの歌(Szene der Delphine) D 857-1 4:28
9) 子守歌(Wiegenlied) D 867 5:48
10) 漁師の歌(Fischerweise) D 881b 3:25
11) 春に(Im Fruhling) D 882  4:37
12) 秘めた恋(Heimliches Lieben) D 922b 4:52
 1977~78年の録音。
 ヤノヴィッツとゲージのシューベルトの歌曲集は、第1巻の方により「知られた」名曲が集まっていて、こちらの第2集の収録曲では、広く知られた名曲といえるのは「鱒」くらいだろう。「子守歌」も有名なD 498ではなく、当盤にあるのはザイドル (Johann Gabriel Seidl 1804-1875)の詩によるD 867である。
 しかし、このアルバム、本当に素晴らしい。むしろ広く知られた旋律から一定の距離を置いたがゆえに、シューベルトの歌曲を味わう新鮮味が高まり、また収録された曲たちも、じっくり聴き込める素晴らしい曲たちだ。ヤノヴィッツのソプラノ、ゲージの伴奏ピアノが素晴らしいことは言うを待たないと思うが、楽曲そのものも、「宝」と称したいものたちだ。
 冒頭にある「ハガルの嘆き」はシューベルト14歳の作品であるが、演奏時間17分におよぶ大曲だ。創世記の一説に基づくエピソードであるが、17分の楽曲の中にはオペラを思わせる劇的な展開があり、様々に場面の移り変わりを彷彿とさせてくれる。まさに天才の作品。
 歌劇「ヴィラ・ベッラのクラウディーネ」はシューベルト18歳の作品だが、現在まで残っているのは序曲と第1幕のみ。アリエッタ「恋はいたるところに」はその中の1曲で、現在ではピアノ伴奏で奏されることがほとんど。短いながら陰りのある美しさに惹かれる。シラー (Friedrich von Schiller 1759-1805)の詩による「乙女の嘆き D 389」も悲しく美しい楽想がたゆたう流れの中で紡がれていき、幻想的な美しさに秀でる。
 「妹の挨拶」も名品といって良い。情緒が香る旋律、シューベルトならではの転調の美しさが無類だ。長大な「勿忘草」、堀朋平(1979-)はこの楽曲をあまり評価しないこと書いていたと思うが、私は好きだ。どこか「菩提樹」を思わせる甘さが香っていて、全体の音楽的描写性も美しい。「子守歌 D867」は同名の別曲の陰であまり聴かれないと思うが、聴き逃すのはあまりに惜しい作品だ。暖かかく、しかしどこか悲しいメロディーと、それを支えるピアノの交錯は忘れがたい高貴な情感を帯びている。
 いくつかの曲についてだけ感想を書いたけれど、その他の曲も含めて全般に美しいことは言うまでもないし、ヤノヴィッツ、ゲージの演奏のしたたかな安定感、模範的と形容したい音楽表現に貫かれた秩序だった美しさは、シューベルトの歌曲に相応しい。録音も、理想的といってよい良質なもので、いまなおこれらの楽曲の代表的録音といって間違いないだろう。

シルヴィアに 羊飼いの嘆きの歌 ガニュメート 冥府への旅 宝掘りの願い  死と少女 魔王 さすらい人の夜の歌 人間の限界 3つの竪琴弾きの歌 郷愁 巡礼の歌 夕星 アリンデ 愛の声 漁夫の恋の幸せ 遠く去った人に(シュマルツ編オーケストラ伴奏版)
Br: ゲルネ ドンデラー指揮 ドイツ・カンマーフィルハーモニー・ブレーメン

レビュー日:2023.10.23
★★★★★ ピアニスト、シュマルツがあえてオーケストラ版に編曲した、シューベルトの歌曲集
 ドイツのバリトン、マティアス・ゲルネ(Matthias Goerne 1967-)による、管弦楽伴奏版のシューベルト(Franz Schubert 1797-1828)の歌曲集。ドイツ・カンマーフィルハーモニー・ブレーメンの演奏。指揮者のテロップはなく、代わりに同楽団のコンサートマスターとして、フロリアン・ドンデラー(Florian Donderer 1969-)の名があり、指揮者としてもキャリアのあるドンデラーが、実質的な指揮を務める形。2019年の録音。
 注目したいのは、編曲者のアレクサンダー・シュマルツ(Alexander Schmalcz 1969-)で、彼は、長年ゲルネのピアノ伴奏者として活躍し、シューベルトの歌曲録音でも協演したことのあるピアニスト。歌曲伴奏に実績のあるピアニストが、あえて書いた「オーケストラ編曲版」というのは、それ自体、とても興味深いもの。収録された楽曲は下記の通り。
1) シルヴィアに(An Sylvia) D.891
2) 羊飼いの嘆きの歌(Schafers Klagelied) D.121
3) ガニュメート(Ganymed) D.544
4) 冥府への旅(Fahrt zum Hades) D.526
5) 宝掘りの願い(Schatzgrabers Begehr) D.761
6) 死と乙女(Der Tod und das Madchen) D.531
7) 魔王(Erlkonig) D.328
8) さすらい人の夜の歌(Wandrers Nachtlied I 'Der du von dem Himmel bist') D.224
9) 人間の限界(Grenzen der Menschheit) D.716
3つの竪琴弾きの歌(Harfenspieler)
 10) 第1曲 孤独に身を委ねる者は(Wer sich der Einsamkeit ergibt) D.478
 11) 第2曲 家々の門辺に歩み寄って(Wer nie sein Brot mit Tranen as) D.479
 12) 第3曲 涙を流しながらパンを食べたこと(An die Turen will ich schleichen) D.480
13) 郷愁(Das Heimweh) D.851
14) 巡礼の歌(Pilgerweise) D.789
15) 夕星(Abendstern) D.806
16) アリンデ(Alinde) D.904
17) 愛の声(Stimme der Liebe) D.412
18) 漁夫の恋の幸せ(Des Fischers Liebesgluck) D.933
19) 遠く去った人に(An die Entfernte) D.765
 集められた歌曲は、名曲集、というのとは少し違うかもしれないが、それでもシューベルトの歌曲を愛好する人にとっては、何度も聴いてきたものが多いだろう。
 まずは、編曲に興味が沸く。シュマルツの編曲は、なにか新たなフレーズを付け加えるようなものではなく、ピアノスコアにある音を、各楽器に与えていくというスタイルで、シューベルトの音楽に、オーケストラの音色以上のものを付け加えたものではない。しかし、その楽器に与えられたニュアンス、音色は、シュマルツの伴奏におけるインスピレーションを、一つの形として具体化したものとして、とても面白い。例えば、「死と乙女」の暗示的なトロンボーン、「魔王」の現実から逃れたあたたかなクラリネット、「3つの竪琴弾きの歌」では、ナチュラルホルンやミュート奏法の弦楽器が、素晴らしい情感を発揚していて、オーケストラならではの表現性を、決して、深く入り込み過ぎないレベルで獲得しており、その美しさは、実直に聴き手に訴えかけてくるものだ。
 中でも特に素晴らしいのは「漁夫の恋の幸せ」であろう。この7分を超える舟歌は、シューベルトのロマン性が満ちた傑作だが、シュマルツのオーケストラ編曲も、それに応える見事なもので、フルートとヴィオラが醸し出す夜霧の風景は、無性にロマンティックで、聴き手の心のうちに、その風景が浮かび上がってくるように感動的だ。
 ピチカートの効果が冴える「巡礼の歌」や、弦が柔らかく包み込むような「シルヴィアに」も素晴らしい。こうして聞いていると、シュマルツが、ピアノではなく、オーケストラでこそ醸し出せる雰囲気を、絶妙に引き出した感がある。あるいは、シュマルツが、これらの曲では、ピアノ伴奏でも、同じニュアンスを目指しているのかまではわからないけれど、このアルバムが描き出した世界観は、一つの美しく完結したものという印象を、私に強くもたらした。
 ゲルネの歌唱については、いつものように、高貴さをたたえ、かつ明瞭な輪郭を感じさせる整然さをたたえていて、見事。やや早めのテンポで奏される「さすらい人の夜の歌」であっても、足並みはしっかりとし、凛々しい音が供給される。どの音域も豊かで艶があり、メロディには、気品と情感の双方が、バランスよく添えられている。全体として、魅力いっぱいのアルバムになっている。



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