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R.シュトラウス



交響曲 管弦楽曲 協奏曲 室内楽曲 歌曲 歌劇


交響曲

交響曲・交響詩 全集
ロト指揮 南西ドイツ放送交響楽団

レビュー日:2021.2.17
★★★★★  優れた「R.シュトラウスの管弦楽曲集」の一つ
 2011年から2016年まで、南西ドイツ放送交響楽団の首席指揮者を務めたフランスの指揮者、フランソワ=グザヴィエ・ロト(Francois-Xavier Roth 1971-)が、同オーケストラを指揮して録音したR.シュトラウス(Richard Strauss 1864-1949)の管弦楽作品、全5アルバムをまとめて、一つのBox-set化したアイテム。収録内容は以下の通り。
【CD1】
1) 交響詩 「英雄の生涯」 op.40 2012年録音
2) 交響詩 「死と浄化」 op.24 2012年録音
【CD2】
3) 交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快な悪戯」 op.28 2012年録音
4) 交響詩「ドン・キホーテ」 op.35 2012年録音
5) 交響詩「マクベス」 op.23 2012年録音
【CD3】
6) 交響詩 「ツァラトゥーストラはかく語りき」 op.30 2013年録音
7) 交響的幻想曲 「イタリアより」 op.16 2014年録音
【CD4】
8) アルプス交響曲 op.64 2014年録音
9) 交響詩「ドン・ファン」 op.20 2014年録音
【CD5】
10) 家庭交響曲 op.53 2014年録音
11) メタモルフォーゼン ~ 23の独奏弦楽器のための習作 2015年録音
 1)のヴァイオリン独奏は、クリスティアン・オステルターク(Christian Ostertag 1963-)、4)のチェロ独奏はフランク=ミヒャエル・グートマン(Frank-Michael Guthmann)、ヴィオラ独奏はヨハネス・リューティ(Johannes Luthy)。
 ロトと南西ドイツ放送交響楽団の相性は、非常に良かったに違いない。ロトの、音楽の構造対する論理的なアプローチを重視するスタイルが、現代音楽に実績のあるオーケストラを振ることで、高い完成度で実現することが出来た感がある。これらのR.シュトラウスも、質の高さを如実に感じさせる演奏ばかりだ。
 「英雄の生涯」は、大規模で、様々な要素が求められる音楽。当演奏では、冒頭こそ少しこわばったところを感じるが、すぐに透明感のある音響が確立され、見通しの良い音響構造を的確に把握した力配分が行われ、かつ力強い推進性に溢れた表現が導かれる。その様は、鮮やかで、いかにも「こなれた手つきで」演奏されたという感じ。「英雄の戦場」では、様々な役割を担った楽器が重なって、矢継ぎ早に様々なことが起きるのであるが、ロトの棒のもと、オーケストラは高い統率性を見せ、小気味良く畳み掛ける。「英雄の伴侶」等で聴かれるオステルタークのヴァイオリン独奏も実に良い。演奏の全体像を壊さないのは当然であるが、加えて特有の艶やかさがある。この点において、オーケストラはやや控えた印象で、ヴァイオリン・ソロとの対比を出そうとした全体的な試みなのかもしれないが、総じてしっくりいっており、私は好きだ。「英雄の引退と完成」はロトのスタイルに即して淡々とあっさりという感じであるが、この曲は、これくらいでもいいように思う。
 「死と浄化」におけるロトの表現は、「死」というイメージに囚われないものに聴こえる。純器楽曲としてフラットにアプローチした結果、明晰で、むしろ健康的なほどの美観に貫かれた音楽になっていると思う。これもまた良し。
 「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快な悪戯」では、最初のホルンによるティルの主題提示から、変化性に富んだ予感を感じさせてくれる。叙情的な主題との対比感も明瞭で、以下、様々な描写が、明瞭に描き分けられていく。描写に係る表現性に卓越を感じる。その一方で芝居がかった感があるかもしれないが、決して品が崩れているわけではなく、締めるべきところは締めるという、節度があちこちでエッジを利かせている。
 「ドン・キホーテ」においても、ロトと南西ドイツ放送交響楽団の精緻な手法は徹底している。第2変奏で描写される羊の群れ、第4変奏で描写される懺悔者の一行、これらのシーンでR.シュトラウスが工夫して書きあげた描写をつかさどる楽器の役割を、ロトは強調気味に扱い、劇性を明らかにしていく。その手法はどこか演劇的、歌劇的と形容したいところでもある。第7変奏の飛行シーンのしなやかな浮遊感は、この録音の白眉といって良いだろう。他方で、二人の独奏者の演奏は、やや地味に感じられる。特にチェロはところどころ、まるでピリオド楽器でも奏しているかのような禁欲的なところがある。全体的なコンセプトがあるのかわからないが、私にはやや面白味に欠ける印象が残った。
 「マクベス」は、楽曲自体の個性がそこまで際立っていないこともあって、強い特徴を感じる演奏とまで感じなかったが、音の造りはここでも繊細、精妙で、指揮者とオーケストラの意思疎通の緻密さを実感できる内容となっている。
 「ツァラトゥーストラ」は冒頭のオルガン音が、はっきりと聴こえる強さで奏され、そこからやや早めのテンポで有名な主題が提示されていくが、壮大さは強調されず、純音楽的な感触を受ける。最初のクライマックスも、澄み切っていて、爽やかと言っても良い響きに満たされる。「大いなる憧れについて」や「歓喜と情熱について」における管弦楽の表現も、情熱的な発散より、造形的な制御を優先的に機能させ、響きはつねにフレッシュだ。厚ぼったくならないので、聴き味がスキッとしていて疲れない。「学問について」では、線形を明瞭に描いたフーガが瑞々しく、生命力豊か。「病より癒えゆく者」におけるシニカルなトランペットも、軽やかで、瀟洒な味わいだ。全体的に、重さより、全体の澄んだ響きに配慮が置かれており、結果的に、R.シュトラウスならではの見栄を切るような華やかさが減じて感じられるのだが、聴後に得られる充足感は十分であり、美しさに魅了される演奏。録音も優秀だ。
 「イタリアから」も素晴らしい演奏。少しだけゆっくり目のテンポで、こちらも客観性を感じさせる演奏。木管の活き活きとした表情が実に麗しいし、第3楽章「ソレントの海岸にて」など、過去のどの録音より、充実した音楽性が感じられ、私は大きな感銘を受けた。終楽章の「フニクリ・フニクラ」の引用も、下手にやると「俗に落ちる感」を感じさせてしまうところだが、ロトの手に掛かると、芸術的にふさわしい手続きを経たものとして、洗練された姿を見せる。
 「アルプス交響曲」では、冒頭の夜のシーンから、管弦楽のバランスのよい響きが徹底されている。この楽曲は、特に録音映えする音楽であるが、これ見よがしにダイナミックレンジを広くすると、弱音が弱すぎて、逆に聴き手に相応の意味をもって伝わらなくなってしまう危険性がある。当録音ではそれは杞憂となる。いたずらに音を小さくするのではなく、音楽の技法の中で、その大小を扱った合理性から導かれたダイナミックレンジであり、その中での弱音である。だから、一つ一つが、聴く側の心にしっかりと伝わってくる。洗練された当演奏を聴いていると、この曲が持つ一種のケバケバしさのようなものが、洗い流されたかのように爽やかさを感じるだ。とはいえ、金管が奏でる派手な応答は、相応の力強さをもっている。ただし、この曲に対しては、俗っぽくなることを顧みず、あえて泥臭い、情熱的なアプローチを期待する向きもあるだろう。その場合、当演奏は、ちょっと「スカし過ぎて、物足りない」と感じられるかもしれない。ただ、洗練されたといっても、それは主張が弱いことと同意なわけではない。各管弦楽のフレーズの活き活きとした表情は、楽曲全体に鮮明な豊かさをもたらし、明るく魅力的な音楽を作り上げていると私は思う。
 「ドン・ファン」は、元来明朗な曲なので、ロトのスタイルは一切の難を感じさせない。とてもよく合う。この曲では木管楽器、特にファゴットの情感豊かな響きが、私には印象深かった。
 「家庭交響曲」は表題性のある交響曲として、「アルプス交響曲」と好一対の作品であるが、「アルプス交響曲」に比して、演奏・録音回数は少ない。その理由はあきらかで、テクスチュアが複雑で、処理の難しい面があることと併せて、オーケストラの各パートに技巧的に難易度の高いものを要求しているためである。そのため、演奏会で、安定した成功に結び付けることが難しく、美しい一方で、難解な面もあり、つまり、演奏側にとって、要求されることに比して、成果が少なく感じられるからである。しかし、優れた録音・演奏で聴くことが出来れば、R.シュトラウスの巧妙な描写性や、熟達したオーケストラ書法を楽しむことができる。私がこれまで聴いた演奏の中では、アシュケナージ(Vladimir Ashkenazy 1937-)による2種の録音、一つは1996年にベルリン・ドイツ管弦楽団を指揮しライヴ収録されたもの、もう一つは1997年にチェコ・フィルハーモニー管弦楽団を指揮してスタジオ収録されたものがとても良かった。それで、このロトの演奏であるが、それに匹敵する優れた演奏だと思う。ロトのスタイルはより解析的、分析的である。速めのテンポを主体としているところは、アシュケナージの解釈と共通しているが、アシュケナージが豊穣さを導いたのに対し、ロトはよりクールで、テクスチュアの鮮明な音像をつくることにより専心し、結果的にとても見通しのよいスタイルを確立することになった。重要なのは、そうして聴かれる「家庭交響曲」が、とても魅力的に響くという点である。また、録音が優れている点も触れよう。アシュケナージがチェコ・フィルを指揮した録音も、音像のくっきりした素晴らしい録音であったが、当ロト盤も、楽器のくりだす音の明瞭さ、その独立性、距離感が、とても的確にとらえられ、明度、解像度ともにきわめて良好な品質となっている。これも、家庭交響曲のような作品では、特に大きなメリットとなるところだ。弦の輝かしくも、弾力のあるトーンをバックに、透明な木管が奏でられる個所などで、その威力は覿面だ。
 「メタモルフォーゼン」は数多くの名録音のある楽曲であるが、こちらもロトの作り出す透明感の高いサウンドは、一定以上に存在感を感じさせるものであり、この録音がラインナップに加わることは歓迎されるだろう。
 総じて、現代的な洗礼、感覚的に鋭敏さのある優美なバランス感覚に貫かれたR.シュトラウスであり、現在これらの楽曲を入手できるものとして、特に品質の高いものであると思う。個人的には。ドン・キホーテの独奏楽器に寂しさを覚えた以外に目立った欠点はなく、広く勧められる内容だ。

アルプス交響曲 ばらの騎士のワルツ
アシュケナージ指揮 チェコ・フィルハーモニー管弦楽団

レビュー日:2004.2.11
★★★★★ 壮大なアルプスの一日をみごとに描写
 アシュケナージ(Vladimir Ashkenazy 1937-)は1998年から5年間、名門チェコ・フィルハーモニー管弦楽団の音楽監督を務め、このオーケストラの国際化(ジャンルの広範化)に大きな功績を挙げたが、その象徴的な録音が一連のリヒャルト・シュトラウス(Richard Strauss 1864-1949)の管弦楽曲である。当盤もその一枚で、「アルプス交響曲」と「ばらの騎士のワルツ」を収録したもの。1999年の録音。
 「アルプス交響曲」という作品は人によって捉え方に違いの出る作品だ。シュトラウスを敬愛した吉田秀和(1913-2012)氏も、この作品を「シュトラウスの悪趣味なものが出た作品」と書いていた。ただ、氏がその文章を書いたのは1960年ごろだったと思うので、その考えが最後まで変わらなかったのは分からないけれど。
 それでも氏の言おうとしていることは分かる。この音楽はどことなく大仰で下品なところがあるのだ。しかし、CD時代になってから、様々な解釈・演奏を聴けるようになってきて、曲自体の評価や一般的な受け止め方が変化した楽曲も多い。アルプス交響曲も20世紀末から、急速に評価を高めた作品で、今ではとても多くの録音がある。当盤は、そんな中でも最高を競う一枚だと思う。
 ところで、また話が戻ってしまうのだけど、私のこの「作品」に対する考えをちょっと書かせて頂こう。まず、この楽曲は、作曲者によって、場面ごとに何を描写しているのかが示されているので、当盤のトラックナンバーに従って、それを記載してみよう。
1) 夜(Nacht)
2) 日の出(Sonnenaufgang)
3) 登山道(Der Anstieg)
4) 森の入口(Eintritt in den Wald)
5) 小川に沿って(Wanderung neben dem Bache)
6) 滝(Am Wasserfall)
7) 幻影(Erscheinung)
8) 花畑(Auf blumigen Wiesen)
9) 山の牧場(Auf der Alm)
10) 林で道に迷う(Durch Dickicht und Gestr'pp auf Irrwegen)
11) 氷河(Auf dem Gletscher)
12) 危険な瞬間(Gefahrvolle Augenblicke)
13) 頂上にて(Auf dem Gipfel)
14) 見えるもの(Vision)
15) 霧が立ちのぼる (Nebel steigen auf)
16) 次第に傾く陽(Die Sonne verd'stert sich allm'hlich)
17) 悲歌(Elegie)
18) 嵐の前の静けさ(Stille vor dem Sturm)
19) 雷雨と嵐、下山 (Gewitter und Sturm, Abstieg)
20) 日没(Sonnenuntergang)
21) 終末(Ausklang)
22) 夜(Nacht)
 このように、この作品は一日の出来事を登山者の視点で描写した音楽となっている。私が特に面白いと思うのは、ライト・モティーフの扱いにある。つまり、この作品は、オペラのように様々な動機を持っている。例を挙げると、「夜の動機」「太陽の動機」「登山の動機」「山の動機」「岩壁の動機」「頂上の動機」など。そしてこれらを用いて描写が行われる。夜の動機で始まる音楽は、日の出とともに太陽の動機で覆われるし、山を登るにつれて、「山の動機」が周囲を支配していく。厳しい道では「岸壁」が出現し、天気が悪くなると「太陽」が弱く(短調に)なる。下山の動機など、登山の動機の逆行旋律で、音楽による抒情的描写に収まらず、理論の側面まで用いて描写が行われる。その周到な取り組みは実に面白い。もちろん、主題自体の高貴さという点では、やや俗なところがあることは否めないが、それゆえに直截な「分かり易さ」があって、作曲者の意図が直接的に伝わってくるのである。
 これは、やはりリヒャルト・シュトラウスという作曲家の、標題音楽における描写力を端的に示したもので、私は、そういった意味も踏まえて、他に代わりうるもののない「掛替えのない作品」だと思っている。
 それでは、この演奏。最初に書いた通り、最高を競う内容と言っていい。競う相手としては、やはりカラヤン(Herbert von Karajan 1908-1989)がベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮したスペクタクルな名盤ということになろう(他に、ヤンソンス、ハイティンク、アシュケナージがクリーヴランド管弦楽団を指揮した旧盤なども良いが)。カラヤンが音の壮大なグラデーションを用いて、豪華壮麗な音楽を練り上げたのに比べて、アシュケナージの演奏は細部の洗練の精度を高めて、非常に風通しを良くした上で、スムーズに音楽を運んだものと言えそうだ。
 特筆したいのはチェコフィルの音色の素晴らしさで、特に金管陣の、時に柔らかく、時に鋭く放たれる音響は、この録音の素晴らしい印象を決定付けるところだろう。この楽曲の面白さである動機の扱いも、明瞭で、展開のアゴーギグも必要最小にとどめている。このスタイルが、「見通しが良い」「精緻」「明瞭」といった印象に繋がっている。あとは、絶対的な音響美とR.シュトラウスのオーケストレーションの効果に委ねれば良い。そして、クライマックスでは自然に適度な伸やかさを獲得。拘束と自由のバランスが秀逸で、そのため聴いたときに「悪趣味なもの」的なテイストをほとんど感じることもない。(それが物足りないという人もいるかもしれないが)。これぞ現代的なシュトラウス像だと思う。
 末尾に収録されている「ばらの騎士のワルツ」も品のある甘美性に満ちた絶品の演奏。

アルプス交響曲
ハイティンク指揮 コンセルトヘボウ管弦楽団

レビュー日:2008.2.11
★★★★★  「アルプス交響曲」の全貌を明らかにした名録音
 R.シュトラウスの管弦楽曲の中でも最後の大曲となるのがこの「アルプス交響曲」である。描写的な意図が強く標題音楽そのものであり、しかも「楽章」といった切れ目がないので、交響曲という「括り」には違和感を感じるが、これをあえて「交響曲」としたのがリヒャルト・シュトラウスの「らしさ」だろう。
 シュトラウスは少年時代から山岳地帯で過ごし、登山が好きで、作曲当時も山暮らしだったそうだ。私もいくつか北海道の山に登ったことがあるが、山というのは行ってみると、なんとも平地とは違った世界で、音楽で何かを伝えたいという気分は、わかるような気がする。もちろん、文化的背景まで理解できるわけではないけれど。
 ハイティンクの演奏は名演の誉れ高いもの。コンセルトヘボウ管弦楽団の音色が素晴らしく、ともすると極彩色でやりすぎてしまうこの曲に、いかにも玄人的なプロフェッショナルなアプローチをしたと思う。響きがジンフォニックで落ち着きがあり、高級感を感じる。細かい部分部分の描写性を一生懸命再現するより、交響曲という一本の大きなテーマに沿って、必然的な帰結としての表現の形を求めたのだろう。弦楽器の深みのある音色は音楽に滋味を与えているし、クライマックスで見下ろすように吹かれる金管陣の壮大にして雄大な音色はまさにパノラマである。夕暮れに向かう情感も美しい。この交響曲の全貌を明らかにした名録音だと思う。

アルプス交響曲 交響詩「ドン・ファン」
ヤンソンス指揮 コンセルトヘボウ管弦楽団

レビュー日:2010.11.1
★★★★★  アルプス交響曲に登場した驚異の名演・名録音
 ヤンソンス指揮コンセルトヘボウ管弦楽団の演奏で、R.シュトラウスの交響詩「ドン・ファン」とアルプス交響曲。録音は2007年と2008年。ライヴ収録。
 発売元のレーベル名は「RCO」。これはロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の自主制作レーベルなのだけれど、ここの自主制作は全部SACD規格である。この辺は私もよくわからないのだけれど、そういったことも自主制作の主眼になるのだろうか?また録音技術などは、どこ製作会社から提供を受けたのだろうか。
 というのも、この録音が本当に見事で、既存のレーベルもびっくりするくらい良い音だからである。音がよいというのは、生々しい、あるいは臨場感がある、というだけでなく、再生したときの奥行きの立体性、楽器のバランスなどが巧みに仕上がっているということである。録音のダイナミックレンジは広いが、弱音も克明に捉えられているし、楽器と楽器の距離感も的確だ。いずれにしても、録音面では自主制作といってもまったくマイナス点にはならず、場合によってはメリットにさえなるということ。
 そして演奏がまた素晴らしい。R.シュトラウスのアルプス交響曲はCD時代になって一気に録音が増えた曲目だが、これまで印象深い録音として、ハイティンク指揮コンセルトヘボウ管弦楽団や、アシュケナージ指揮チェコフィルのものがあった。このヤンソンス盤はそこにまた一頭食い込んでくる名演である。
 アルプス交響曲は、標題性のきわめて高い楽曲で、曲はこまかいパーツに分かれていて、それぞれタイトルが与えられている。ヤンソンスは、これらの細かいパーツを、一つ一つ入念に描いていて、更に全体としてはシンフォニックな輪郭を巧みに整えている。曲想の移り変わりに合わせて、トーン、テンポを自在に変化させ、しかも、それらは不自然ではなく、音楽としての整合性が与えられている。そのため、聴き手に次々と新たな感興をもたらす。頂上のシーンは雄大に第1主題が吹き降ろされ、巨大なスケールを実感する。また、嵐のシーンでは打楽器、ウインドマシーンも加わって、迫力に満ちた音像が迫ってくる。まさに、どよもすような迫力だ。夕暮れの美しさ、山への崇敬で終わるエンディングも透明な耽美性に満ちている。まさに圧巻の一幕。
 「ドン・ファン」も楽器の鮮やかな疾走振りが素晴らしく、R.シュトラウスの素晴らしいオーケストレーションに酔う。

アルプス交響曲 交響詩「ドン・ファン」
ロト指揮 南西ドイツ放送交響楽団

レビュー日:2020.8.13
★★★★★  アルプス交響曲に登場した驚異の名演・名録音
 フランスの指揮者、フランソワ=グザヴィエ・ロト(Francois-Xavier Roth 1971-)と南西ドイツ放送交響楽団によるR.シュトラウス(Richard Strauss 1864-1949)の管弦楽曲シリーズ第4弾で、以下の楽曲を収録。
1) アルプス交響曲 op.64
2) 交響詩「ドン・ファン」 op.20
 2014年の録音。
 ロトと南西ドイツ放送交響楽団によるR.シュトラウスは、概して完成度の高い音響美を楽しめるが、当盤も期待に違わない内容だ。
 冒頭の夜のシーンから、管弦楽のバランスのよい響きが徹底されている。アルプス交響曲は、録音映えする音楽であるが、これ見よがしにダイナミックレンジを広くすると、弱音が弱すぎて、逆に聴き手に相応の意味をもって伝わらなくなってしまう危険性があるのだけれど、当録音ではそれは杞憂となる。いたずらに音を小さくするのではなく、音楽の技法の中で、その大小を扱った合理性から導かれたダイナミックレンジであり、その中での弱音である。だから、一つ一つが、聴く側の心にしっかりと伝わってくる。
 アルプス交響曲という作品が、クラシック音楽フアンの間で、一般的にどのように認知されているか、私も知りたいところであるが、吉田秀和(1913-2012)は「シュトラウスの悪趣味なものが出た作品」と酷評していた。しかし、CD時代になって、様々に洗練を高めた演奏が手掛けられるようになってきて、聴き手の受け止め方も、時代と共に変わってきたように感じる。このロトの演奏も、洗練されたもので、この曲が持つ一種のケバケバしさのようなものは、洗い流されたかのように爽やかだ。とはいえ、金管が奏でる派手な応答は、相応の力強さをもっている。
 もちろん、この曲の演奏に対しては、俗っぽくなることを顧みず、あえて泥臭い、情熱的なアプローチを期待する向きもあるだろう。その場合、当演奏は、ちょっと「スカし過ぎて、物足りない」と感じられるかもしれない。ただ、洗練されたといっても、それは主張が弱いことと同意なわけではない。各管弦楽のフレーズの活き活きとした表情は、楽曲全体に鮮明な豊かさをもたらし、明るく魅力的な音楽を作り上げていると私は思う。
 交響詩「ドン・ファン」も、元来明朗な曲なので、ロトのスタイルはとてもよく合う。この曲では木管楽器、特にファゴットの情感豊かな響きが、私には印象深かった。

アルプス交響曲 交響詩「ドン・ファン」 交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」 交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルのゆかいないたずら」
ロウヴァリ指揮 フィルハーモニア管弦楽団

レビュー日:2023.5.25
★★★★★  フィルハーモニア管弦楽団の首席指揮者に就任したロウヴァリのライヴ音源
 フィルハーモニア管弦楽団と良好な関係を築き上げていたフィンランドの指揮者、サントゥ=マティアス・ロウヴァリ(Santtu-Matias Rouvali 1985-)が、2021年より同オーケストラの首席指揮者に就任するにあたって、R.シュトラウス(Richard Strauss 1864-1949)作品のプログラムによる演奏会が開催され、当2枚組のアルバムが登場することとなった。収録内容の詳細は下記の通り。
【CD1】
1) 交響詩「ドン・ファン(Don Juan)」 op.20
アルプス交響曲(Eine Alpensinfonie (An Alpine Symphony)) op.64
 2) 夜(Nacht (Night))
 3) 日の出(Sonnenaufgang (Sunrise))
 4) 登り道(Der Anstieg (The Ascent))
 5) 森への立ち入り(Eintritt in den Wald (Entry into the Wood))
 6) 小川に沿っての歩み(Wanderung neben dem Bache (Wandering by the brook))
 7) 滝(Am Wasserfall (At the Waterfall))
 8) 幻影(Erscheinung (Apparition))
 9) 花咲く草原(Auf blumigen Wiesen (On Flowering Meadows))
 10) 山の牧場(Auf der Alm (On the Alpine Pasture))
 11) 林で道に迷う(Durch Dickicht und Gestrupp auf Irrwegen (Straying through Thicket and Undergrowth))
 12) 氷河(Auf dem Gletscher (On the Glacier))
 13) 危険な瞬間(Gefahrvolle Augenblicke (Dangerous Moments))
 14) 頂上にて(Auf dem Gipfel (On the Summit))
 15) 見えるもの(Vision)
 16) 霧が立ちのぼる(Nebel steigen auf (Mists rise))
 17) しだいに日がかげる(Die Sonne verdustert sich allmahlich (The Sun gradually darkens))
 18) 哀歌(Elegie)
 19) 嵐の前の静けさ(Stille vor dem Sturm (Calm before the Storm))
 20) 雷雨と嵐、下山(Gewitter und Sturm, Abstieg (Thunder and Storm, Descent))
 21) 日没(Sonnenuntergang (Sunset))
 22) 終末(Ausklang (Final Sounds))
 23) 夜(Nacht (Night))
【CD2】
交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき(Also sprach Zarathustra)」 op.30
 1) 導入部(Einleitung)
 2) 世界の背後を説く者について(Von den Hinterweltlern)
 3) 大いなる憧れについて(Von der grossen Sehnsucht)
 4) 喜びと情熱について(Von den Freuden-und Leidenschaften)
 5) 墓場の歌(Das Grablied)
 6) 学問について(Von der Wissenschaft)
 7) 病より癒え行く者(Der Genesende)
 8) 舞踏の歌(Das Tanzlied)
 9) 夜の流離い人の歌(Nachtwandlerlied)
10) 交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快な悪戯(Till Eulenspiegels lustige Streiche (Till Eulenspiegel's Merry Pranks)) op.28
 「アルプス交響曲」と「ツァラトゥストラはかく語りき」は2021年、「ドン・ファン」と「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快な悪戯」は2022年にそれぞれライヴ収録したもの。ライヴ録音であるが、ノイズはほとんどない。アルプス交響曲の「登り道」で、舞台裏と指定されている金管セクションは、会場(ロイヤル・フェスティヴァル・ホール)の都合により、ステージ内での演奏となっており、一般的な録音と比較すると、かなり明瞭になるのは仕方ないところ。録音に関しては、細かい弱音が拾いきれていないところがあったり、やや響きにゴツゴツした硬さ(これは演奏スタイルのせい?)を残すところがあって、必ずしも最上とは言えないが、平均的な水準は維持している。
 収録曲の中で、特に良いと感じたのが「アルプス交響曲」。この楽曲は、他のR.シュトラウスの管弦楽曲と異なり、哲学的な背景を主としておらず、作曲者自身の登山経験を背景とした大らかな自然賛歌であり、またえてして自然賛歌というものは、人間賛歌も含むのである。とりあえず、そこで用いられる語法は、直接的で、それゆえに通俗的でもある。しかし、私も登山は好きでしばしば地元北海道の山たちに登っているのだが、そこで見られる景観の素晴らしさは、実にストレートで実直なものであり、それゆえに、この楽曲の音楽描写は、素直であり、他者に語りたい登山体験をそのまま音にしたような純朴さに満ちていることが痛切にわかる(と思っている)。
 ロウヴァリの演奏は、前述の通りステージ条件による制約はあるものの、空間的な演出を、楽器の遠近感やコントラストの妙でうまく表現している。ライヴとしては相当に高い完成度であることは間違いない。頂上からの眺望を描く場面での開放感など、実に清々しい。ストレートな感性で書かれた音楽の実直な力強さを堪能させてくれる演奏と言って良い。
 逆に哲学的思索が込められた「ツァラトゥストラはかく語りき」の場合、やや、演奏する側に構えたところがあって、そこが時々伸びやかさに欠けるところを残す。ただ、この印象は、楽曲が進むにつれて解消されていくように感じられ、世俗的なものを表現する舞曲調の個所や、ソロ・ヴァイオリンが華やかに歌うところなどでは、なめらかな輝かしさが得られている。
 「ドン・ファン」と「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快な悪戯」は、ともに快活で、機敏な伸縮性が、心地よいスイングを作り出しており、楽しい。
 36才にしてフィルハーモニア管弦楽団の首席指揮者に就任したロウヴァリであるが、さっそくR.シュトラウスの大規模な管弦楽曲をライヴで取り上げ、見事にこなしているところから、両者間にすでに高い信頼関係があることはよくわかる。今後の録音活動も、当然に注目される。

家庭交響曲 メタモルフォーゼン
ロト指揮 南西ドイツ放送交響楽団

レビュー日:2021.2.16
★★★★★  克明な録音、明晰な演奏で記録されたR.シュトラウス
 2011年から2016年まで、南西ドイツ放送交響楽団の首席指揮者を務めたフランスの指揮者、フランソワ=グザヴィエ・ロト(Francois-Xavier Roth 1971-)が、同オーケストラを指揮して録音したR.シュトラウス(Richard Strauss 1864-1949)の管弦楽作品、全5アルバムの最後を飾ったのが当盤。収録作品は以下の2曲。
1) 家庭交響曲 op.53
2) メタモルフォーゼン ~ 23の独奏弦楽器のための習作
 家庭交響曲は2014年、メタモルフォーゼンは2015年の録音。
 R.シュトラウスの家庭交響曲は、「家庭」を題材とした5部からなる音楽で、彼の表題性のある交響曲として、「アルプス交響曲」と好一対の作品であるが、「アルプス交響曲」に比して、演奏・録音回数は少ない。その理由はあきらかで、テクスチュアが複雑で、処理の難しい面があることと併せて、オーケストラの各パートに技巧的に難易度の高いものを要求しているためである。そのため、演奏会で、安定した成功に結び付けることが難しく、美しい一方で、難解な面もあり、つまり、演奏側にとって、要求されることに比して、成果が少なく感じられるからである。
 しかし、優れた録音・演奏で聴くことが出来れば、R.シュトラウスの巧妙な描写性や、熟達したオーケストラ書法を楽しむことができる。私がこれまで聴いた演奏の中では、アシュケナージ(Vladimir Ashkenazy 1937-)による2種の録音、一つは1996年にベルリン・ドイツ管弦楽団を指揮しライヴ収録されたもの、もう一つは1997年にチェコ・フィルハーモニー管弦楽団を指揮してスタジオ収録されたものがとても良かった。
 それで、このロトの演奏であるが、それに匹敵する優れた演奏だと思う。ロトのスタイルはより解析的、分析的である。速めのテンポを主体としているところは、アシュケナージの解釈と共通しているが、アシュケナージが豊穣さを導いたのに対し、ロトはよりクールで、テクスチュアの鮮明な音像をつくることにより専心し、結果的にとても見通しのよいスタイルを確立することになった。
 重要なのは、そうして聴かれる「家庭交響曲」が、とても魅力的に響くという点である。
 また、録音が優れている点も触れよう。アシュケナージがチェコ・フィルを指揮した録音も、音像のくっきりした素晴らしい録音であったが、当ロト盤も、楽器のくりだす音の明瞭さ、その独立性、距離感が、とても的確にとらえられ、明度、解像度ともにきわめて良好な品質となっている。これも、家庭交響曲のような作品では、特に大きなメリットとなるところだ。弦の輝かしくも、弾力のあるトーンをバックに、透明な木管が奏でられる個所などで、その威力は覿面だ。
 メタモルフォーゼンは数多くの名録音のある楽曲であるが、こちらもロトの作り出す透明感の高いサウンドは、一定以上に存在感を感じさせるものであり、この録音がラインナップに加わることは歓迎されるだろう。


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管弦楽曲

交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」 交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルのゆかいないたずら」 皇紀2600年奉祝音楽
アシュケナージ指揮 チェコ・フィルハーモニー管弦楽団

レビュー日:2007.2.24
★★★★★ 発売までずいぶん時間がかかっちゃいました。ざっと8年。
 アシュケナージが90年代にチェコフィルと録音したリヒャルト・シュトラウスの管弦楽曲シリーズは順次EXTONから発売されたが、なぜか1998年録音の当盤だけは発売が見送られ結局リリースが2007年にまでずれ込んだ。どうしてこのようなタイミングになったかは謎だし(CANYONからEXTONへの移行が手間取ったのか?)、聴き手からすれば「幻の録音」のキャッチコピーも手前味噌でちょっと可笑しいが、実際に録音を聴いてみて「どうしてこんな素晴らしい録音をわざわざ8年間以上も寝かしておいたのだろう?!」という種類の驚嘆を感じてしまった。まず録音があいかわらず優秀である。チェコフィルというオーケストラのふくよかで薫り高いサウンドを的確に捉えている。もちろんオーケストラの芳醇な響きは何も録音の賜物ではなく、団員の技量の現れであるが、録音がそれを一層引き立てている。アシュケナージの指揮も見事であり、不自然さのない力配分が、時としてうねるような迫力ある波の重なりを演じてくれる。こういうのを「共鳴」と言うのだろう。クリーヴランド管弦楽団との旧録音と比してもスケールの大きさ、表情の細やかさで当盤は勝ると言える。また1940年に大日本帝国政府が皇紀2600年を記念して、ヨーロッパ各国政府経由で各国の代表的作曲家に新作を委嘱したことで生まれた作品群の一つである「皇紀2600年奉祝音楽」は、貴重な音源である。老境の作曲家の熟達した技法が展開される楽曲で、なかなか楽しむことができる。

交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」 交響詩「ドン・ファン」 「ばらの騎士」組曲
デ・ワールト指揮 オランダ放送・フィルハーモニー管弦楽団

レビュー日:2009.5.23
★★★★★ 発売までずいぶん時間がかかっちゃいました。ざっと8年。
 エド・デ・ワールトという指揮者は、ひとむかし前まで、ほとんど国内ではメジャー・レーベルで録音が紹介されず、唯一知名度の高いものとしてグリーグの劇音楽「ペール・ギュント」がカタログにあるくらいだった。そのグリーグは素晴らしい演奏だったが、他の録音の情報があまりないので、それ以上にこの指揮者を知る機会がなかった。
 しかし、かなり最近になってから、エクストンが積極的に録音を紹介してくれるようになってきた。そんな中でも秀逸なものの一つがこのR.シュトラウスの管弦楽曲集である。
 あまりにも有名な「ツァラトゥストラはかく語りき」の冒頭は、ティンパニの乾いた明瞭な響きがダイナミックな効果抜群でかなりカッコイイ。全管弦楽による合奏音も、ダイナミックレンジが広く、奥行きを感じる。中間の展開部は、好感のもてる清涼感に貫かれており、かつ安易にメロウに逃げない棒捌きだ。オランダ放送フィルは、アシュケナージが録音したレスピーギを聴いた時にも痛感したが、相当な実力を持ったオーケストラで、それぞれのパートの絶対的な安定感が頼もしい。まさにこのような楽曲にはうってつけのオーケストラと言っていい。
 「ドン・ファン」「ばらの騎士組曲」はR.シュトラウスのおおらかな気性がよく出た爛漫な音楽という一面が強いが、十分なエンターテーメント性を保ちながらシンフォニックな説得力を持って音楽が鳴る。いかにも玄人のR.シュトラウスと思わせる。

交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」 交響詩「ドン・ファン」 7枚のヴェールの踊り組曲
シノーポリ指揮 ニューヨークフィルハーモニック ドレスデン・シュターツカペレ ベルリン・ドイツ・オペラ管弦楽団

レビュー日:2012.8.13
★★★★★ シノーポリの重要なレパートリーの一つ、R. シュトラウスの充実した録音集
 2001年、ヴェルディの歌劇「アイーダ」の公演中に指揮台から崩れ落ち、そのまま亡くなったイタリアの名指揮者シノーポリ(Giuseppe Sinopoli 1946-2001)。2012年になってグラモフォン・レーベルから、そのシノーポリの往時の録音を集めた16枚組Box-セットが発売されたので、この機会に購入し、改めて聴かせていただいている。このディスクについても同一内容のものがその中に収録されていたので感想を記そう。
 リヒャルト・シュトラウス(Richard Georg Strauss 1864-1949)の3つの作品をそれぞれ異なるオーケストラと、異なる録音年に収録されたものが集められている。
1) 交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」 ニューヨーク・フィルハーモニック 1988年録音
2) 交響詩「ドン・ファン」 ドレスデン・シュターツカペレ管弦楽団 1991年録音
3) 7枚のヴェールの踊り ベルリン・ドイツ管弦楽団 1990年録音
 守備範囲の広いシノーポリであったが、中でも後期ロマン派の音楽を得意としていて、当然のことながら、R. シュトラウスも重要なレパートリーであった。また1980年代末というと、まだまだ多くのレーベルで活発なセッション録音が行われていた時期であり、これらもその過程で記録されたものである。
 最初に収録された「ツァラトゥストラはかく語りき」は、キューブリック(Stanley Kubrick 1928-1999)が映画「2001年宇宙の旅」で用いて以来、通俗的なイメージを強く持つが、シュトラウスらしい大見得が堪能できる名曲だ。本盤は、オルガンの低音からくっきりと輪郭の伝わる好録音。あまりに有名な冒頭だが、適度に力の蓄えられた安定感のある表現で、シンフォニックな壮大さを引き出している。適度に通俗性を保っていて、エンターテーメントの性向でも不満ない解釈。冒頭の後、輝かしい弦楽合奏の響きを、急がずにじっくりと練り上げていくさまが、いかにもシノーポリらしく、好ましい。内声部の充実した扱いも見事。中でも「情熱について」の清涼感を保った起伏の演出が聴き味を爽やかにしている。
 交響詩「ドン・ファン」は祭典的で華やかな楽想をのびやかに表出している。楽曲の性格を反映したおおらかで伸びやかなサウンドがぴったり。ドレスデンのやや柔らかなホールトンの効いた響きも効果的だ。
 「7枚のヴェールの踊り」は楽劇「サロメ」に挿入される有名な音楽。ここでは木琴類の音色の鮮烈な効果に注目したい。シュトラウスらしい華やかさが全面に表出しており、心地よい。

交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」 交響詩「英雄の生涯」
ペトレンコ指揮 オスロ・フィルハーモニー管弦楽団

レビュー日:2019.5.28
★★★★☆ 安寧を感じさせる優美なR.シュトラウス
 2013年に、オスロ・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者に就任したワシリー・ペトレンコ(Vasily Petrenko 1976-)が、同オーケストラを振ってR.シュトラウス(Richard Strauss 1864-1949)の以下の2つの名作を録音したもの。
1) 交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」 op.30
2) 交響詩「英雄の生涯」 op.40
 2016年の録音。2)のヴァイオリン独奏は、同オーケストラのコンサートマスターであるイリース・ボートネス(Elise Batnes 1971-)が務める。
 ペトレンコとオスロ・フィルは、すでにスクリャービン(Alexander Scriabin 1872-1915)やプロコフィエフ(Sergei Prokofiev 1891-1953)の管弦楽作品に美しい録音を示していたので、引き続いてスラヴ系の作品に取り組むのかと思っていたところ、ドイツ王道と言えるR.シュトラウスとなった。オスロ・フィルとしては何度も手掛けてきた作品なので、別に意外な選曲ではないのかもしれないが、ペトレンコの指揮でR.シュトラウス、しかも「ツァラトゥストラはかく語りき」と「英雄の生涯」という重量級の組み合わせは、なかなか見た目上の新鮮味があって、私の興味を強くひいた。
 演奏は、とにかく流麗。さきほど「重量級の組み合わせ」と書いたけれど、この演奏には、そのような重々しさは感じない。むしろ軽やかで透明。
 「ツァラトゥストラはかく語りき」では冒頭のオルガンの低音が、ホールトーンを踏まえて豊かに響く点にまず惹かれるが、引き続いて金管の導きから全合奏への冒頭は、とにかく爽やかで、私はそれこそこのオーケストラの本拠地であるノルウェーあたりの朝の日の光を浴びるような印象を受けた。オープニングに続くペトレンコの音造りは、「慎重」という形容が相応しい。基本的に落ち着いたやや遅めのテンポで、入念、緻密に音を構成していく。「喜びと情熱について」も、熱を抑えた客観的な視点で端正に描いた音であり、いたずらに強い音を求めず、コントロールが聴いている。その結果、得られる合奏音は美しく、肌理が細かい。ただ、これは逆に言うと、劇性が弱められたと感じられる部分でもある。R.シュトラウスらしい「見栄」が効いていないようにも思える。
 「英雄の生涯」も同様であるが、ここで特筆したいのは、「英雄の伴侶」におけるソロ・ヴァイオリンと管弦楽の交錯が引き出す色彩感である。その柔軟な運動は、連続性を巧妙に維持しながら、音がもたらす情感を、同心円状にゆったりと拡大していく。ソフトなアプローチは天国的と形容したいほどの麗しい音を導いていて感動的だ。「英雄の戦場」では、やはり「激しさ」より「コントロール」を徹底した表現で、常に明瞭なリズムの中で、的確な処理が進められていく。この個所も、人によっては、より熱血的なものがほしいと不足感を感じるかもしれない。だが「英雄の隠遁と完成」では、暖かな安らぎが全体を包むような寛容なものがよく表現されていて、幸福感の中で全曲が閉じてゆく。
 全般に、オスロ・フィルハーモニー管弦楽団の機能性の高さを活かした優美なR.シュトラウスであり、内燃性の力に不足を感じるところがあるとはいえ、一つの方向性を突き詰めた完成度の高さを感じさせる。安定感、やすらぎと言った要素を強く感じさせる演奏になっている。
 なお、当CDは、収録2曲が2トラックに収められる形。両曲とも、曲途中にトラックが振られていない。そのため、ユーザーが、CDプレーヤーの表示によって、長い曲中のどの部分を現在再生中なのか確認できない。このことは、一般的な規格と照らせば、サービス不備の印象を受ける。

交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」 交響詩「死と変容」 交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルのゆかいないたずら」 7枚のヴェールの踊り
シャイー指揮 ルツェルン祝祭管弦楽団

レビュー日:2019.10.21
★★★★★ シャイー初のR.シュトラウス録音は、最高の聴き心地
 アバド(Claudio Abbado 1933-2014)の後任として、2016年からルツェルン祝祭管弦楽団の音楽監督に就任したシャイー(Riccardo Chailly 1953-)による2017年のライヴ音源がリリースされた。シャイーにとっておそらく初録音となるR.シュトラウス(Richard Strauss 1864-1949)の作品集で、1枚のCDになんと収録時間85分超が収められており、DECCAレーベルらしいサービス精神満点の内容だ。収録楽曲は以下の4作品。
1) 交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」 op.30
2) 交響詩「死と変容」 op.24
3) 交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快な悪戯」 op.28
4) 楽劇「サロメ」 op.54 より 7つのヴェールの踊り
 収録内容の量が素晴らしい、というだけでなく、質も見事。録音美麗、演奏秀麗といったところ。  シャイーは、このオーケストラをすでに手中に収めた感がある。「自在に操る」という慣用句があるが、当演奏は、シャイーが思うままにオーケストラをドライヴした一体感がある。テンポもある程度の自由度を持っているが、その変化に合わせたギアチェンジが巧妙で、実に心地よく、音楽的な効果と自然さを併せ持っている。強弱のコントロールも同様で、例えばあまりにも有名な交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」の冒頭部分、低音のオルガンから開始され、トランペットのクレッシェンドから、全合奏までのダイナミックな展開における強弱変化の大きさと滑らかさは、これまで聴いた演奏の中でも最上といったところで、抜群の聴き味の良さだ。全体としては落ち着きを感じさせる演奏であり、破裂的な要素はないが、音響の充実度は高く、十分に熱気も感ぜられる。「世界の背後を説く者について」では合奏音の瑞々しい響き、そして「学問について」では弦楽器のパッセージの美しさが目立つ。シャイーならではの緻密かつ弾力的な音作りはつねに高い次元で安定するが、中でも「舞踏の歌」の完成度の高さは、聴き手を圧倒するものではないだろうか。ヴァイオリンの響きの壮麗で華麗な美しさは筆舌に尽くしがたいし、明晰な録音がすべてを捉え切った感がある。
 「死と変容」の無限を感じさせる伸びやかなサウンドも魅力だ。あるいはこの演奏は健康美に溢れすぎているのかもしれないが、しなやかで、音楽的な起伏に沿って緩急が自然に整っていく弾力は、これまた最高の感触で、心地よい。「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快な悪戯」で繰り広げられる様々な楽器のニュアンスの交錯は、楽しいだけでなく、楽器の音色そのものの美しさを存分に堪能させてくれるだろう。オーケストラ奏者の練達ぶりも存分に味わえる。
 そして「7つのヴェールの踊り」には、打楽器もふくめた各フレーズが抜群の見通しの良さで立体的に響く愉悦を味わわせてくれる。この小曲から、これほど多彩な要素を感じた経験はないといって良い。
 シャイー初のR.シュトラウス録音は、ルツェルン祝祭管弦楽団との幸せな邂逅により、大成功を収めたと言える。

交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」 交響的幻想曲「イタリアより」
ロト指揮 南西ドイツ放送交響楽団

レビュー日:2020.9.28
★★★★★ モダンで、洗練を究めたR.シュトラウス
 フランスの指揮者、フランソワ=グザヴィエ・ロト(Francois-Xavier Roth 1971-)と南西ドイツ放送交響楽団によるリヒャルト・シュトラウス(Richard Strauss 1864-1949)の管弦楽曲録音シリーズの1枚で、以下の楽曲が収録されている。
交響詩 「ツァラトゥーストラはかく語りき」 op.30
 1) 序奏
 2) 後の世の人々について
 3) 大いなる憧れについて
 4) 歓喜と情熱について
 5) 埋葬の歌
 6) 学問について
 7) 病より癒えゆく者
 8) 舞踏の歌
 9) 夜のさすらい人の歌
交響的幻想曲 「イタリアより」 op.16
 10) カンパーニャにて
 11) ローマの廃墟にて
 12) ソレントの海岸にて
 13) ナポリのひとの生活
 「ツァラトゥーストラはかく語りき」は2013年、「イタリアより」は2014年のライヴ録音。「ツァラトゥーストラはかく語りき」におけるヴァイオリン独奏は、同交響楽団でコンサートマスターを務めるイェルモライ・アルビケル(Jermolaj Albiker 1981-)。
 洗練を感じるモダンなR.シュトラウスだ。ロトは、客観性を感じさせるアプローチに心掛けながら、自然発揚的なフレージングを巧みに扱い、緻密な音響設計に沿って、精度の高いドライヴを心掛ける。サウンドは、明晰で、落ち着いていて、かつソフト。現代的でスマートな響きに満ちている。
 「ツァラトゥーストラ」は冒頭のオルガン音が、はっきりと聴こえる強さで奏され、そこからやや早めのテンポで有名な主題が提示されていくが、壮大さは強調されず、純音楽的な感触を受ける。最初のクライマックスも、澄み切っていて、爽やかと言っても良い響きに満たされる。「大いなる憧れについて」や「歓喜と情熱について」における管弦楽の表現も、情熱的な発散より、造形的な制御を優先的に機能させ、響きはつねにフレッシュだ。厚ぼったくならないので、聴き味がスキッとしていて疲れない。「学問について」では、線形を明瞭に描いたフーガが瑞々しく、生命力豊か。「病より癒えゆく者」におけるシニカルなトランペットも、軽やかで、瀟洒な味わいだ。全体的に、重さより、全体の澄んだ響きに配慮が置かれており、結果的に、R.シュトラウスならではの見栄を切るような華やかさが減じて感じられるのだが、聴後に得られる充足感は十分であり、美しさに魅了される演奏。録音も優秀だ。
 演奏・録音機会の少ない「イタリアから」も素晴らしい演奏。少しだけゆっくり目のテンポで、こちらも客観性を感じさせる演奏。木管の活き活きとした表情が実に麗しいし、第3楽章「ソレントの海岸にて」など、過去のどの録音より、充実した音楽性が感じられ、私は大きな感銘を受けた。終楽章の「フニクリ・フニクラ」の引用も、下手にやると「俗に落ちる感」を感じさせてしまうところだが、ロトの手に掛かると、芸術的にふさわしい手続きを経たものとして、洗練された姿を見せる。
 質の高いロトと南西ドイツ放送交響楽団によるR.シュトラウス・シリーズの中にあって、とりわけ、彼らのスタイルが明確に示された録音だと思う。

交響詩「英雄の生涯」 交響詩「メタモルフォーゼン」
アシュケナージ指揮 チェコ・フィルハーモニー管弦楽団

レビュー日:2006.8.13
★★★★★ チェコフィルの、アシュケナージ時代の最良の作品の一つ
 1998年にアシュケナージがチェコフィルの首席指揮者となったとの報を聞いて、意外な感を持った人も多かったかもしれない。結果的にアシュケナージがこのポストを勤めた2003年までの時期は、チェコフィルにとっても実りの多い時期となった。まずなにより、この国際的なオーケストラがなぜか閉鎖的なレパートリーを持っていたことに風穴を開けたことが大きい。特にリヒャルト・シュトラウス、ラフマニノフといったレパートリーが加わったこと、そしてそれらの演奏・録音内容が、このオーケストラが世界超一流のオーケストラであることを立証したのはなによりである。
 ここに収録された「英雄の生涯」と「メタモルフォーゼン」は、そんなアシュケナージ時代の最良の作品の一つといってよい。
 なんて素敵なオーケストラ・サウンドだろう!一聴してだれもが心奪われるのではないか?冒頭の弦による導入の美しい響き。そこから天高く駆け上がるような飛翔感、リズムを加える金管陣の豊かな音色と質感、そして全管弦楽による合奏の瑞々しい響き!そこではすべての楽器が適切な情報量を持ちながら、一体となって聴き手に寄せてくる。その爽快感の比類なさ!木管と独奏ヴァイオリンのかけあいはビロードのように繊細で多彩に色合いを変えながら時とともに移ろう。戦闘シーンでは舞台裏のトランペットの方向に呼応しどよもすように呼応する合奏音の迫力がすさまじい。まさに中心めがけて一点にたたみかけるような気迫みなぎる演奏だ。
 メタモルフォーゼンも楽器のバランスがこれ以上ないくらい見事である。ともに同曲のあらゆる録音において、ベストと呼ぶにふさわしいものだ。

R.シュトラウス 交響詩「英雄の生涯」  ベートーヴェン 交響曲 第4番
カラヤン指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

レビュー日:2009.1.21
★★★★☆ 「本来の」と言うべきか否かはわからないが・・・
 1985年のベルリンフィルとのライヴで、曲目はベートーヴェンの交響曲第4番とR.シュトラウスの交響詩「英雄の生涯」。
 カラヤンという演奏家を、特にその録音から語るとき、彼のわりきった「録音芸術へのスタンス」が大きな論点となることが多い。彼の正規録音の多くは、ディレクターとの綿密な打ち合わせにより設計されたものであり、ソフトな肌触りと裾野の広いサウンド、そして骨太の響きが特徴であり「ゴージャス」と形容された。その壮麗なサウンドに音楽の喜びを感じる人々も多かったし、それが「作り物めいている」として一定の距離を置く人たちもいた。カラヤンの考え方は、(好き嫌いは別として)とても理論的で、筋が通っていたと思う。できるだけ理想の音を提供したいという心理は、音楽家としてだけでなく、もっと大きな枠での総合芸術演出として巨視的な価値を持ち合わせたからであり、そのような偉人が出現することで、世界は変わっていく。
 当盤を含めいくつかのライヴ録音が出てきたとき「これが本来のカラヤンだ」的なキャッチコピーや論評があったが、これも考えどころだ。「本来の」とは何だろうか?録音芸術としての完成を目指した以上、録音媒体としての完成度はスタジオ録音がはるかに勝ることは言うまでもない。しかし、なにか聴き手に新しいものをアピールすることで、市場を開拓する以上、そのような売り文句もまた効力を発する。言葉はそれが使われている場所や状況により、多層に意味を持ってしまうものだ。時として発言者の意図以上に。
 いい演奏である。たしかにカラヤンの目指したサウンドがそこにはあると感じられる。一方でスタジオ録音に比したとき、尺度によっては「未完成な芸術」とも映ることもあるだろう。野太い主旋律とゆたかな響きは共通だが、スタジオ録音以上の踏み込みと刹那の起伏が特徴だ。迫力はあるがバラツキもある。興味のつきない一枚には間違いない。

交響詩「英雄の生涯」 ウィーン・ファンファーレ ウィーン市音楽週間オープニングのためのファンファーレ ウィーン・フィルハーモニーのためのファンファーレ ヨハネ騎士修道会の荘重な入場 ウィーン市の祝典音楽
アシュケナージ指揮 チェコ・フィルハーモニー管弦楽団

レビュー日:2008.10.27
★★★★★ チェコフィルにとって画期的な転轍点とも言える名録音
 アシュケナージは1998年から2003年までチェコフィルの音楽監督を務めたが、就任当初、自分のここでの仕事は、「このオーケストラが国際的で多彩な多くの作品に対して一流の演奏が可能であることを、より明らかにすること」と思っている、という風に語っていたと記憶している。じっさい、チェコフィルにはスラヴ系の指揮者がいて、そのジャンルの作曲家の演奏をすることが一般的であり、そうなった一因は、レコード会社としても「チェコフィルによるお国モノ」を「はずれのない企画」として重宝したという面がある。つまり外因性の問題なので、外から自分のような人間が招かれたのは、その問題を解決するいい機会ですね、とアシュケナージは語ったのだと思う。
 果たして、アシュケナージが中心的に取り組んだ作品の一つが、いままでチェコフィルがほとんど録音してこなかったリヒャルト・シュトラウスの作品群である。
 この録音は本当に素晴らしい。冒頭の低弦の響きからしていかにもシンフォニック。そして全管弦楽による音の色合いの深く柔らかな融合。もちろん一朝一夕で到達する音ではなく、真にヨーロッパの中心にあり、だからこそはぐくまれた歴史的背景までもがたちまちのうちに伝わってくる。色めく場面での細やかなアンジュレーションを表現しつくした微細な変化はまさに至福の音色だ。そして戦闘シーンでの立ち上る緊迫感と勇壮なる中央突破力はまぎれもない本物ならではの迫力。真髄に響く音色だ。ここまで再現した録音技術も見事の一語に尽きる。
 それに加えてこのアルバムにはリヒャルト・シュトラウスの書き残した貴重な金管楽器とティンパニのためのファンファーレが一通り収録されている。12本のトランペットを要するものや、演奏時間が優に10分を超えるものなどあるが、いずれも技術的に至難の楽曲であり録音もほとんどない。しかし個人技にも圧倒的なチェコフィルのことに看板とも言えるブラス陣の意気揚々たる演奏は健やかな美しさに満ちている。技術的な苦しさを垣間見ることも無く、壮大な音の伽藍を築き上げた圧巻の内容だと思う。

交響詩「英雄の生涯」 交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルのゆかいないたずら」
ドホナーニ指揮 クリーヴランド管弦楽団

レビュー日:2011.1.17
★★★★★ 1990年代前半の「最先端」モードは、いまなお色褪せず
 クリストフ・フォン・ドホナーニ指揮クリーヴランド管弦楽団による演奏で、R・シュトラウスの交響詩「英雄の生涯」と「ティル・オイレンシュピーゲルのゆかいないたずら」。前者が1992年、後者が1991年の録音。
 非常に明快にして克明な音像である。同じクリーヴランド管弦楽団によるR.シュトラウスというと、前任のウラディーミル・アシュケナージがこれもやはり同じデッカレーベルに一連のステキな録音を残していて、中でも1984年の「英雄の生涯」は1985年のレコード・アカデミー賞を受賞している。それで、このドホナーニの演奏を聴いて思ったのが、アシュケナージの録音と似通った印象があるということである。似ているポイントとしては、両者とも機能的でインテンポを重視したシュトラウスだと思うし、そのためにクリアなオーケストラ・サウンドを駆使した描き分けを行う、という経由点も共通している。ただ、アシュケナージが叙情的な側面をも合わせて描いていたのに対し、ドホナーニは、さらにひと際徹底しているというか、ものすごく一本気なのである。けれども、それはネガティヴな意味で言っているのではなく、そうして得られた純度の高い合奏音がR.シュトラウスの卓越したオーケストレーションをまるでスケルトンの模型でも見るように興味深く観察できるということである。もちろん、音楽的な美観も備わっているので、最近のRPGの画面のように結晶化したリアルな情報量が圧巻で、別次元の価値を獲得するに至っていると思う。
 こういったアプローチは、ドホナーニが非常に現代的な感性の持ち主であったことを思わせる。わけても、その感性を感じるのが、「英雄の敵」と「英雄の引退と完成」の部分。「英雄の敵」は、冒頭の「英雄」の音楽がクライマックスに達したとき、突如様々な楽器が自由に即興的なフレーズを奏でていく非常に印象に強いところだけれども、ドホナーニの棒の下、完璧に棲み分けされた各楽器の音色の独立性の高い輪郭が鮮やかで、それらが合奏に至るまで、さまざまな角度で音楽を照らし出していく。その過程で出現するサウンドは、立体的かつ独立的で、しかし一つの構造をきれにトレースしていく。その解析的なアプローチが鮮やかで本当に面白い。この部分だけでも何度も聴きたくなってしまう。また「英雄の引退と完成」は、ドホナーニの特徴である透明感が強くプラスに作用する音楽で、終結に向けて突き抜けるような澄み切った情感が得られており、これはこれで見事。
 思えばドホナーニも1989年にウィーンフィルと録音したR.シュトラウスの管弦楽曲集でレコード・アカデミー賞を受賞していた。このころのデッカのサウンド・クリエイティングとプロデュースの能力も実に素晴らしかったと再確認した次第。

交響詩「英雄の生涯」 交響的幻想曲「影のない女」 アルプス交響曲 「ばらの騎士」組曲
ティーレマン指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 vn: ライナー・ホーネック

レビュー日:2013.6.25
★★★★★ これぞR.シュトラウス、と言いたくなる芳醇な演奏
 クリスティアン・ティーレマン(Christian Thielemann 1959-)がウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮して録音したR.シュトラウス(Richard Strauss 1864-1949)のアルバム2枚をまとめたもの。収録曲は以下の通り。
1) 交響的幻想曲「影のない女」
2) 交響詩「英雄の生涯」 ヴァイオリン・ソロ:ライナー・ホーネック(Rainer Honeck 1961-)
3) アルプス交響曲
4) 「ばらの騎士」組曲
 録音は、1)と2)が2002年、3)と4)が2000年。
 R.シュトラウスの作品群の中でも、評価が分かれやすいのが「アルプス交響曲」という作品だ。CD時代になって、一気にリリースが増え、認知度の上がった作品であるが、派手な演奏効果のため、ウインドマシーンまで導入した趣向は、大仰な印象もあり、吉田秀和氏(1913-2012)などは、「R. シュトラウスの悪趣味なものが出た」作品のような意味合いのことを述べていた。しかし、私はこれはなかなか面白い作品だと思う。
 「登山」に文化的嗜好性を発見したのはジャン=ジャック・ルソー(Jean-Jacques Rousseau 1712-1778)であると言われる。ルソーは「新エロイーズ」のヴァレ地方からの手紙で、ペトラルカのソネットを引用している。ペトラルカ(Francesco Petrarca 1304-1374)は1336年にプロヴァンス・アルプスにあるヴァントゥー山(1,912m)に登山している。ルソーは登山に心身の共同的自然体験を見出し、つねに思いがけない光景に接して夢想からそらされる感動を味わっている。ルソーが登った山は現代では高いものとは言えないが、アルピニズムの祖と言える精神性に言及した文化人としてルソーを挙げなくてはならない。
 さて、R.シュトラウスも山を愛し、そしてアルプス交響曲を書いたのだが、そこにはルソーの思索とはまた風合いの違った広大で崇高な景観を前にした自己陶酔的な感慨が感じ取れる。それがまさにロマン派の音楽衝動と重なると私は思える。そういった意味で、この音楽作品は、とても興味深く、面白い。
 さて、ティーレマンの指揮ぶりが、この浪漫的な主張にビタリとハマッているように聴こえるのが、この録音いいところ。ティーレマンは思い切りの良いアゴーギグを用い、ここぞというところではたっぷりしたタメを効かせるだけでなく、主旋律を司る楽器をその都度わかりやすくクローズアップし、ケレン味に溢れた演出効果で濃厚な味付けを施していく。ウィーンフィルの応答ぶりも万全だ。嵐のシーンでは、バックでなるオルガンを強く響かせて劇的効果を煽るところも、またティーレマンらしい。そして、私はこの演奏が、「アルプス交響曲」という作品の立ち位置を、ひじょうに的確に示しているように思えるのである。
 そういったわけで、この「アルプス交響曲」の演奏は、この音楽の意趣だとか、精神性を、ベタにディスプレイしてくれる実にわかりやすい、エンターテーメント精神に溢れたものになっているのである。これは聴いていて楽しい。
 ティーレマンの豪放なスタイルは他の楽曲でも良く出ていて、例えば、交響的幻想曲「影のない女」における、豪快なティンパニ連打の叩きっぷりなども衒いがなく気持ちいい。
 ある意味、これぞR.シュトラウスといった、管弦楽の醍醐味を堪能させてくれる2枚組アルバムとなっている。

交響詩「英雄の生涯」
パイタ指揮 フィルハーモニック交響楽団

レビュー日:2019.10.12
★★★★☆ これも芸術の一つの形なのか、パイタの謎の音源、ひたすら熱い英雄の生涯
 カルロス・パイタ(Carlos Paita 1932-2015)が、ロンドンに自ら設立したオーケストラ、フィルハーモニック交響楽団を指揮してのライヴ音源で、R.シュトラウス(Richard Strauss 1864-1949)の交響詩「英雄の生涯」。ただ1曲のみが収録されている。
 当録音はライヴ録音。ただ、それ以上のことは不明で、いつどこで行われたものなのか、一切不明。なかなかあやしい音源だ。Lodiaレーベルからの発売も、録音からかなり年数が経過してからのものであろう。それまでCD化されなかった理由は、おそらく音質状況によるだろう。音質は、現在の感覚ではやや粗く、70年代に録音されたものっぽいが、フィルハーモニック交響楽団の設立は1982年だから、80年代前半ごろの録音ではないかと推測する。また、マスターテープに起因すると思われるひずみやゆらぎがあって、音響的に安定しているところとそうでないところが混ざっている。またライヴ特有の雑音のみならず、指揮者の発する声もしばしば入っている。強く鋭い口調で、おそらく指示を与えているのだろうけれど、指揮者が演奏会で発声してオーケストラに指示を出すのなんて、そうそう聞けるもんじゃない。まあ、そのようなものが重なると、当録音をしばらくお蔵入りさせていた判断は至極まっとうなものと言えるだろう。
 しかし、この演奏、なかなか面白い。熱狂的に支持する人がいるのは間違いないだろう。冒頭の低弦からして、今までに聴いたことがないような強い響き。振動が床を伝わってくるような朗々たる大きさだ。そしてそこから奏でられる英雄の主題の描き方の大きいこと。なんとも浪漫的。そこに刻みをいれる低弦の強さも言わずもがな。そして全管弦楽による合奏となるが、とにかく気宇壮大な響きが描き出される。そして、全編に渡ってこの傾向が続くのである。
 「英雄の敵」では、4連音によるフレーズの意味深を通り越すほどの強調があり、「英雄の妻」ではこれでもかと独奏ヴァイオリンが歌い上げる。つねに熱血的で、フレーズはふくらみ、情感を最大値めざして高め上げる。それにしても、どうやってここまでの音の強弱のメリハリの演出を出しているのか。どのような環境で録音され、またエディットされたものなのか、いろいろ考えてしまうが、それも含めて音盤演出としての面白味は確かにある。
 「英雄の戦場」はまさに独壇場といった暴れっぷりで、金管の咆哮、ティンパニのさく裂、もう、これは戦場としても、かなり一方的というか攻撃的というか、とにかくそんな感じでぶっちぎった演奏。熱の坩堝のクライマックスで指揮者の一喝(笑)。おいおい。そして、「英雄の業績」と「英雄の引退と完成」でも、過去を思い出すというより、常に全力で今を描き出すような濃厚な表情付け。最後の一音の収束とともに喝采の拍手。すごいな。
 まあ、もちろん、芸術作品の演奏形態として、いくらでも欠点を突くことは出来るし、録音は良くないし、英雄の生涯1曲だけでコスト・パフォーマンスだってよろしくないのだが、多分に趣味的な一枚として、持っていても悪くないかな?たまに濃厚な味付けの甘味が欲しくなるようなときに、このアルバム、いかがでしょうか。

交響詩「英雄の生涯」 交響詩「死と変容」
ロト指揮 南西ドイツ放送交響楽団

レビュー日:2020.6.5
★★★★★ ロトの感性とオーケストラの力量によって瑞々しく表現されたR.シュトラウス
 フランスの指揮者、フランソワ=グザヴィエ・ロト(Francois-Xavier Roth 1971-)と南西ドイツ放送交響楽団によるR.シュトラウス(Richard Strauss 1864-1949)の管弦楽作品シリーズの第1弾として2012年に録音されたアルバム。以下の2作品を収録。
1) 交響詩 「英雄の生涯」 op.40
2) 交響詩 「死と浄化」 op.24
 「英雄の生涯」のヴァイオリン独奏は、クリスティアン・オステルターク(Christian Ostertag 1963-)。
 ロトは2011年から2016年までこのオーケストラの首席指揮者を務めたが、そのいくつかの録音を聴いた限りでは、両者の相性は非常に良かったと感じられる。ロトのスタイルは、音楽の構造に論理的なアプローチをすることが主体となるものだと思うが、現代音楽に実績のある同オーケストラにおいて、自身のやりたいことを高いレベルで実行できているように感ぜられるからだ。
 そのことを実感するのは「英雄の生涯」である。大規模で、様々な要素が求められる音楽である。当演奏では、冒頭こそ少しこわばったところを感じるが、すぐに透明感のある音響が確立され、見通しの良い音響構造を的確に把握した力配分が行われ、かつ力強い推進性に溢れた表現が導かれる。その様は、鮮やかで、いかにも「こなれた手つきで」演奏されたという感じ。「英雄の戦場」では、様々な役割を担った楽器が重なって、矢継ぎ早に様々なことが起きるのであるが、ロトの棒のもと、オーケストラは高い統率性を見せ、小気味良く畳み掛ける。
 また、「英雄の伴侶」等で聴かれるオステルタークのヴァイオリン独奏も実に良い。演奏の全体像を壊さないのは当然であるが、加えて特有の艶やかさがある。この点において、オーケストラはやや控えた印象で、ヴァイオリン・ソロとの対比を出そうとした全体的な試みなのかもしれないが、総じてしっくりいっており、私は好きだ。
 「英雄の引退と完成」はロトのスタイルに即して淡々とあっさりという感じであるが、この曲は、これくらいでもいいように思う。
 「死と浄化」は「英雄の生涯」に比べるとかなりシンプルな作りをした楽曲であり、ロトの表現は、「死」というイメージに囚われないものに聴こえる。純器楽曲としてフラットにアプローチした結果、明晰で、むしろ健康的なほどの美観に貫かれた音楽になっていると思う。これもまた良し。
 という感じで、当盤全体を通じて、ロトの感性が活きた、瑞々しいR.シュトラウス像が獲得されていると思う。

R.シュトラウス 交響詩「英雄の生涯」  シューベルト 交響曲 第2番
ベーム指揮 バイエルン放送交響楽団

レビュー日:2021.1.21
★★★★★ ベームならではのスケール感で、情感豊かに描かれた音楽
 ベーム(Karl Bohm 1894-1981)がバイエルン放送交響楽団を振って記録した1973年のライヴ音源をCD化したもの。収録曲は以下の通り。
1) シューベルト(Franz Schubert 1797-1828) 交響曲 第2番 変ロ長調 D125
2) R.シュトラウス (Richard Strauss 1864-1949) 交響詩 「英雄の生涯」 op.40
 ベームは、かつては日本の音楽フアンの間でも、圧倒的な人気を誇っていたが、しかし、最近私が目にする国内のレビューなどでは、概してその評価が「凋落」と言っても過言ではないくらいの状況に感じられる。そのことを統計的、科学的に裏付けるデータがあるわけではないが、音楽雑誌等で、なにかの曲の代表的名演について、評論家が言及するとき、ベームの名前が登場する機会は、明らかに減っている。
 ベームの演奏で一般的に言われている「酷評点」として、とくに70年代以降の録音について、「細部がゆるい」「しまりがない」などがある。また「ライヴは比較的良い」と補正を加えられる場合も多いだろう。私はこれらの指摘をある程度理解する。いわゆる「思い当たるフシがある」という感じ。しかし、私は、それであっても、晩年のベームの演奏に特有の魅力を感じるのである。
 現代では、細部がいかに高い精度で演奏出来ているか、アンサンブルに乱れはないか、意図に従った表現が正確に出来ているか、といった点に評価の大きなウェイトが置かれる。それが間違っているとは思わないが、ベームの演奏にあるような、音楽が描き出す一種の懐の大きさ、広さのようなもの、総体として聴き手にエモーショナルな働きかけをもたらすより抽象的な部分について、こなれた論評が行われる機会は、ずいぶん減じているように感じる。どちらが大事とか、そういうことではなく、音楽がもっている価値は、本質的に多様なものであり、その多様なことを踏まえて、はじめて歩み寄れる価値観というものがあるはずで、私はその点を喚起したいのである。そもそも、細かい話より、そういった大局的な部分によって、聴き手に強い印象を残すことの方が圧倒的ではないだろうか。最近では、教条主義的な傾向が強まってしまい、「音楽作品は、それが作曲された時代の楽器と演奏作法によって演奏されるべき」という論調まで正統性を与えられた感があるが、私は、率直にって、その論調は間違っていると確信している。・・・もちろん、その考えに沿って演奏されたものが、素晴らしい効果をもたらす場合もあるが、それはあくまで演奏が良いためであり、音楽における前述の教条主義の実践が正しいためではない・・・。しかし、現状の国内の批評の多くは、そういった幅広い観点と言う点で、私に不満をいだかせてならないのである。
 というわけで、ベームのこの演奏、ざっくり言って、いい演奏です。指揮者の情熱とオーケストラの情感が、直截に聴き手に伝わってきて、暖かみがあり、余韻が豊か。大きなオーケストラをしっかりと鳴らしたシューベルトの恰幅の豊かさ。情緒を悠然泰然と表現し、歌うべきところでは存分に歌ったR.シュトラウス。とくに「英雄の妻」及び「英雄の引退と完成」は情感たっぷり。これを聴いていると、「音楽は、こうでなくちゃ」と思ってしましますが、いかがでしょうか。

交響詩「ドン・ファン」 交響的幻想曲「イタリアから」 交響詩「ドンキホーテ」
ルイージ指揮 ドレスデン・シュターツカペレ vc: ヤン・フォーグラー va: ヘルベルク vn: カイ・フォーグラー

レビュー日:2011.4.5
★★★★★ ルイージの絶妙な棒さばきが堪能できる2枚組です
 ファビオ・ルイージ(Fabio Luisi)指揮ドレスデン・シュターツカペレによるR.シュトラウスのCD2枚組の管弦楽曲集。収録曲は、交響詩「ドン・ファン」、交響的幻想曲「イタリアから」、交響詩「ドン・キホーテ」の3曲。録音は「ドン・キホーテ」が2003年で「ドン・ファン」と「イタリアから」の2曲が2008年。「ドン・キホーテ」のソリストは、vc: ヤン・フォーグラー、va: セバスティアン・ヘルベルク、vn: カイ・フォーグラー。
 まず秀逸なのが録音。本当に細かい音のニュアンスをよく伝えている。弦楽器の表情、特に「ドン・キホーテ」では弦楽器のソロが3本も出てくるので、それがきわめて重要なのだけれど、きれいに鳴っているという以上に深みのあるコクの伝わる録音だ。
 そしてルイージの指揮ぶりも素晴らしい。R.シュトラウスの楽曲は一面、大仰なところがありながらも、それらは、非常に細やかで入りくんだ管弦楽書法に裏付けられたものであり、全体のドライヴが出来ていても、細かいファウンダメンタルな部分にほころびがあると、どうも聴いていて一つ心残りのような印象になってしまうことがある。
 ルイージの演奏は本当に肌理が細かい。エステティシャン指揮者といった感じで、ことに弦楽器陣のバランス、微細なハーモニーのグラジエントなど、実に感性鋭い。それに、一面的でも画一的でもなく、音楽の起伏や展開を鮮やかに演出してくれるのは心にくいばかり。
 最大の聴きモノは個人的には「ドン・キホーテ」だ。室内楽的書法の導入、大胆に移り行く描写性、多様なサウンド、素早い場面展開。この曲のそういった特徴のすべてがルイージの棒の巧妙さで引き立たされている。現在ソリストとして縦横な活躍をしているチェロのフォーグラーもぬくもりのある音色をベースにしながら、時に応じて曲想を艶やかに奏でたり、少し引いてみたり、本当に上手い。
 「ドン・ファン」は録音の多い有名曲だが、交響的幻想曲「イタリアから」は、私は今まで、アシュケナージとムーティしか聴いたことがなかった。ルイージの演奏も明朗でありながら豊かさを感じさせるもので、この曲の名演の一つになるに違いない。終楽章の「フニクリ・フニクラ」の開放感も楽しい。
 いずれの曲も録音の美麗さと演奏の秀抜さがあいまって、非常に魅力的な2枚組アルバムだと感じた。

交響詩「ドン・ファン」 交響的幻想曲「イタリアから」
アシュケナージ指揮 クリーヴランド管弦楽団

レビュー日:2008.7.21
★★★★★ スッキリした爽快な味わいが魅力の清冽なR.シュトラウス
 1983年からクリーヴランド管弦楽団の首席客演指揮者としてデッカレーベルへ数々の録音を行ったアシュケナージ(Vladimir Ashkenazy 1937-)であるが、その中でも重要な録音が一連のリヒャルト・シュトラウス(Richard Strauss 1864-1949)の作品である。
 アシュケナージはその後、チェコフィルとも主要なシュトラウスの作品を録音したので、今でこそ主要なレパートリーとなっているが、クリーヴランド管弦楽団との一連の録音は、この汎スラヴ的ユダヤの指揮者がアメリカのオーケストラを振ってのリヒャルト・シュトラウスということで、大変新鮮な印象をもたらした。
 さて、それらのリヒャルト・シュトラウスがどのような録音であったかと言うと、「非常に颯爽としたスタイリッシュなもの」であった。いかにもスラリとした新しい時代のもの・・・この場合、対比する録音は例えばカラヤン(Herbert von Karajan 1908-1989)はのゴージャスなサウンドや、ベーム(Karl Bohm 1894-1981)の逞しいサウンドであるのだけれど、アシュケナージの演奏は、初夏の緑の丘に立って、吹き渡る風を全身で受けるようなサウンドだった。
 ここに収録されたシュトラウスの20代前半のころの管弦楽曲でもその方向性は顕著だ。とにかく明瞭で圧倒的に爽快無比。気持ちの良い突き通る音色。「ドンファン」についてはアシュケナージがチェコフィルと再録音しており、そちらはコクの深い本格的な名演だったが、当録音は多少のコクを失っても、「のど越しのさわやかさ」一点に焦点を絞って押し切った潔さが気持ちよい。リズムもよく決して滞ったりすることない渓流のような響きで、最後まですらっと押し通している。管弦楽もアクセントに切れがあり、ぱっ、ぱっと楽想が切り替わっていく。楽しい。
 交響的幻想曲「イタリアから」はシュトラウスの最初の大規模管弦楽曲といえる。4楽章からなっていて、それぞれの楽章には「カンパーニャ地方にて」「ローマの遺跡にて」「ソレントの浜辺にて」「ナポリの人々の生活」と副題がついている。ドイツの人にとって陽光降り注ぐイメージのイタリアは一種の憧憬の対象であるが、若きシュトラウスの感性は、まだ個性が強く出てないとは言え、屈託なくイタリアの印象を明朗な音楽にしている。アシュケナージとクリーヴランド管弦楽団の音色がこの曲ではことさらビタリとはまる。ほぼ理想的な演奏だ。終楽章の「フニクリフニクラ」のメロディも輝いている。とにかく楽しいシュトラウスの管弦楽曲が聴きたい、という方には最適の録音だと思う。

交響詩「ドン・ファン」 交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快な悪戯」  ブルレスケ  楽劇「ばらの騎士」から三重唱と第3幕フィナーレ
アバド指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 p: アルゲリッチ S: フレミング バトル MS: シュターデ

レビュー日:2015.8.13
★★★★☆ 1992年大晦日、ベルリン・フィルのジルヴェスター・ライヴです
 クラウディオ・アバド(Claudio Abbado 1933-2014)指揮、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団による1992年大晦日のジルヴェスター・コンサートの模様をライヴ収録したアルバム。すべてがR.シュトラウス(Richard Strauss 1864-1949)作品というプログラムで、収録内容は以下の通り。
1) 交響詩「ドン・ファン」 op.20
2) ピアノと管弦楽のためのブルレスケ ニ短調 op.85
3) 交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」 op.28
4) 楽劇「ばらの騎士」 op.59 から 第3幕の三重唱とフィナーレ
 2)のピアノ独奏はマルタ・アルゲリッチ(Martha Argerich 1941-)。4)の三重唱の独唱者は以下の通り。
 ルネ・フレミング(Renee Fleming 1959- ソプラノ)
 フレデリカ・フォン・シュターデ(Frederica von Stade 1945- メゾソプラノ)
 キャスリーン・バトル(Kathleen Battle 1948- ソプラノ)
 カラヤン(Herbert von Karajan 1929-1989)の跡を継いでベルリン・フィルの芸術監督となったアバドであるが、R.シュトラウスについては、カラヤンのように積極的に取り上げたわけではなく、管弦楽曲でもレパートリーとして取り上げたものは限定的。なので、このような機会に、彼の作品を集中して演奏したのは、おそらく珍しいことだったと思う。
 当盤の特徴は、豪華な4人の女性奏者のゲストで、年末の祭典的な雰囲気を盛り上げている。特にR.シュトラウスが死後の演奏を所望したという三重唱は、3人の奏者のしっかりとビブラートの効いたロマンティックな謡回しが華やか。バトルのイントネーションのはっきりした声が全体の中でよく役柄に合った印象。高らかに鳴り渡る楽曲は、聴衆の喝采を引き出すのに絶好だろう。
 ブルレスケは、アルゲリッチの軽い動感に満ちたピアノが面白い。刹那的なエネルギーを放出する演奏で、この楽曲にもまずまず合っている。ピアノと管弦楽が呼応して旋律を形成するところも、成功しているだろう。
 他の純器楽のための2作品は、とてもスマートな演奏といったところ。スピード感のある表現で、音の種類よりも機能性で貫いた感がある。そのため、ところどころで響きに硬さを感じるところはあるのだけれど、アバドの気迫に応えるオーケストラの技術的な反応が機敏だ。「ばらの騎士」に比べても、管弦楽がずっと引き締まった感触になっているのは楽曲の性格からか。それにしてもティルのような曲の場合、もっと豊かな音色を使用した方が、このような祭典的な機会には良いような気もするが、まじめな演奏だ。個人的にはドン・ファンの方がアバドの演奏には適合した楽曲に感じた。

交響詩「ドンキホーテ」 7枚のヴェールの踊り
アシュケナージ指揮 クリーヴランド管弦楽団

レビュー日:2009.8.15
★★★★★ クリーヴランド管弦楽団によるR.シュトラウスの真髄
 アシュケナージが1984年から1989年にかけてクリーヴランド管弦楽団と録音した一連のR.シュトラウスの管弦楽曲は、「英雄の生涯」がレコード・アカデミー賞を受賞したことが示すようにいずれもきわめて良質の成果であった。しかし、現在入手できるものは限られているようだ。いくつか理由があるが、同時期にカラヤンがベルリンフィルと録音した一連のものに比べてネームバリューに違いがあったこと、そしてアシュケナージ自身、その多くをチェコフィルと再録音したことが大きい。もちろんチェコフィルとの再録音集は、熟達した至芸といえる素晴らしいものばかりで私も大好きだが、しかしこのクリーヴランド管弦楽団と録音したものも代えがたい魅力を持っている。
 クリーヴランド管弦楽団はセルによって鍛え上げられ、その後ブーレーズ、アシュケナージ、ドホナーニによってその機能性を磨き上げられた。デッカの秀逸な録音はこのオーケストラの利点を明瞭にひろっている。また、当盤の「ドン・キホーテ」でチェロ独奏を担当するリン・ハレルはセルによって見出され、クリーヴランド管弦楽団の首席奏者に抜擢されたチェリストで、そういった意味でも「クリーヴランド・カラー」が全面に出た録音である。アシュケナージの指揮スタイルもこのオーケストラと良くあっている。
 誰だってこのCDを一聴してみると、その混ざりもののないクリアなサウンドに圧倒されるだろう。金管、木管、弦、打楽器がそれぞれ明瞭に自分のテリトリーを受け持っていて夾雑することがない。突き通るような音色は各個が屹立としているが、音楽的には高いレベルの融合性を持っていて、乱れが無い。まさに現代的な快刀乱麻を断つR.シュトラウスである。ハレルのチェロはいわゆる悠然と主張するようなものではなく、どちらかというと室内楽的な均質性を感じるが、それもこのオーケストラとの一体感に繋がっていると思える。いずれにしてもアシュケナージがクリーヴランド管弦楽団と録音した一連のものは(R.シュトラウスに限らず)何らかの機会にまとめて再発売するべき音源だと思う。

交響詩「ドンキホーテ」 交響詩「死と変容」
アシュケナージ指揮 チェコ・フィルハーモニー管弦楽団 vc: マイスキー va: トムター

レビュー日:2014.1.7
★★★★★ クリーヴランド管弦楽団によるR.シュトラウスの真髄
 アシュケナージ(Vladimir Ashkenazy 1937-)指揮、チェコ・フィルハーモニー管弦楽団によるリヒャルト・シュトラウス(Richard Georg Strauss 1864-1949)の 交響詩「ドン・キホーテ」op.35 と、交響詩「死と変容」 op.24 の2曲を収録したアルバム。1999年の録音。交響詩「ドン・キホーテ」におけるチェロ独奏はミッシャ・マイスキー(Mischa Maisky 1948-)、ヴィオラ独奏はラース・アンダース・トムター(Lars Anders Tomter 1959-)。
 R.シュトラウスの音楽に関して、私の場合、最初に「英雄の生涯」や「ツァラトゥーストラかく語りき」といった管弦楽曲から親しみ、次いで「サロメ」や「ばらの騎士」といった歌劇に触れ、やがてヴァイオリン・ソナタや協奏曲といった若いころの作品にも食指を伸ばしてきたが、結局は、「やっぱり管弦楽曲がいちばんいいな」と思うようになってきた。中でも、当アルバムに収録された2曲は、特に素晴らしい作品だと思う。何度聞いても感嘆する。それも、このアルバムの様な、素晴らしい録音と演奏であれば、言う事なしだ。
 実際、このアルバムは素晴らしい。「ドン・キホーテ」は文豪セルバンテス(Miguel de Cervantes 1547-1616)の同名の小説になぞらえて書かれた作品で、「大管弦楽のための騎士的な性格の主題による幻想的変奏曲」という副題が示す通り、変奏曲形式によって、小説中の代表的な場面を描いている。このCDでも変奏ごとにトラックが振ってある。描写されるシーンと照合すると、以下のようになる。
1) 序奏 ドン・キホーテが英雄伝を空想し、旅立つところ
2) 第1変奏 風車を巨人と思い、突撃するところ
3) 第2変奏 羊の群れを敵の大群と思い、剣をふるうところ
4) 第3変奏 理想を語るドン・キホーテと現実をかたるサンチョ
5) 第4変奏 巡礼の一段に切りかかり、取り押さえられるところ
6) 第5変奏 愛と憧憬を語るドン・キホーテ
7) 第6変奏 田舎の娘を敬慕する姫と間違えるところ
8) 第7変奏 木馬上で、空を飛んでいると思い込むところ
9) 第8変奏 水車小屋を城塞に見たて、小舟で転覆するところ
10) 第9変奏 修道士たちを悪魔に見立てて追い散らすところ
11) 第10変奏 銀月の騎士との決闘に敗れ、故郷に帰るところ
12) フィナーレ 故郷で正気を取り戻したドン・キホーテが逝くところ
 二つの独奏楽器はチェロがドン・キホーテ、ヴィオラが従者のサンチョ・パンサを表している。この音楽作品が優れているのは、描写性が秀逸なところで、例えば第2変奏の羊の群れの鳴き声を表現する金管や、第7変奏の飛行シーンの全管弦楽による浮遊感とスピード感に満ちた効果など、たいへん素晴らしい。また、描写的でありながら、音楽には併せて主人公の主観性が存分に与えられていて、飛行のシーンなど、滑稽な笑い話であるにもかかわらず、音楽だけ聴いていると、本当に馬に跨って空を飛んでいるかのような、素晴らしい高揚感に満ちたものになっている(しかも同時に持続する低音が、シニカルに現実を表現している)。音楽という抽象性の高い芸術媒体ならではの、多分に感覚的な描写になっている。
 それで、そういった細やかな描写力を聴き取るために、克明で、細部までよくわかる分解能の高い録音で聴きたい、と思うのだけれど、そういった欲求に当盤はほぼパーフェクトに応えてくれているといっていい。とにかく一つ一つの楽器の音色の生々しいこと。どの楽器も、目の前で鳴っているかのように思えてくる。そして、各奏者の高い技術、安定した表現、かつ精緻なアンサンブルによって編み出される合奏音の美しいこと!シルクのような肌触りであり。しかも、必要な場面では、しっかりと芯の通った、勇壮なフォルテを引き出してくる。メリハリの効いた快活でドラマティックな演奏だ。二人の独奏者も、全体の枠組みをしっかりキープして、瑞々しい情感を湛えた表現を繰り広げていて、美麗この上ない。
 「死と変容」も素晴らしい。チェコ・フィルハーモニー管弦楽団のスペックを存分に活かしきった素晴らしい高級なサウンドが繰り広げられている。終末に向かって高らかに歌いあげられる主題、そしてしめやかに、暖かい余韻を残してスーッと糸をたなびく様に終えるエンディングは、感動的だ。もちろん、この楽曲でも、オーケストラの音色が理想的なコンディションで収録されている。
 私にとって、R.シュトラウスの諸作品の中でも特に大好きな2曲の、現時点での決定盤と言える録音です。

交響詩「ドンキホーテ」 交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルのゆかいないたずら」 交響詩「マクベス」
ロト指揮 南西ドイツ放送交響楽団 vc: グートマン va: リューティ

レビュー日:2019.7.5
★★★★★ ロトの緻密なオーケストラ統率力が光るR.シュトラウス
 フランスの指揮者、フランソワ=グザヴィエ・ロト(Francois-Xavier Roth 1971-)と南西ドイツ放送交響楽団がHanssler Swr Musicからリリースしたリヒャルト・シュトラウス(Richard Strauss 1864-1949)の管弦楽曲シリーズの第2弾に当たるアルバムで、以下の3曲が収録されている。
1) 交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快な悪戯」 (Till Eulenspiegels lustige Streiche) op.28
2) 交響詩「ドン・キホーテ」 (Don Quixote) op.35
3) 交響詩「マクベス」(Macbeth) op.23
 2012年の録音。2)のチェロ独奏はフランク=ミヒャエル・グートマン(Frank-Michael Guthmann)、ヴィオラ独奏はヨハネス・リューティ(Johannes Luthy)。
 ロトはこれらの楽曲、とくにティルとドン・キホーテにおいて不可欠な、ユーモアの要素に十分に踏み込んだ機知豊かな演奏を繰り広げている。オーケストラの俊敏な反応性、演奏会場の減衰まで巧みに計算された音響構成もあって、たいへん完成度の高い録音に仕上がっている。
 「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快な悪戯」では、最初のホルンによるティルの主題提示から、変化性に富んだ予感を感じさせてくれる。叙情的な主題との対比感も明瞭で、以下、様々な描写が、明瞭に描き分けられていく。描写に係る表現性に卓越を感じる。その一方で芝居がかった感があるかもしれないが、決して品が崩れているわけではなく、締めるべきところは締めるという、節度があちこちでエッジを利かせている。
 より、楽曲の規模が大きく、描かれるシーンも様々で、多様な描写性が求められる「ドン・キホーテ」においても、ロトと南西ドイツ放送交響楽団の精緻な手法は徹底している。第2変奏で描写される羊の群れ、第4変奏で描写される懺悔者の一行、これらのシーンでR.シュトラウスが工夫して書きあげた描写をつかさどる楽器の役割を、ロトは強調気味に扱い、劇性を明らかにしていく。その手法はどこか演劇的、歌劇的と形容したいところでもある。第7変奏の飛行シーンのしなやかな浮遊感は、この録音の白眉といって良いだろう。
 他方で、二人の独奏者の演奏は、やや地味に感じられる。特にチェロはところどころ、まるでピリオド楽器でも奏しているかのような禁欲的なところがある。全体的なコンセプトがあるのかわからないが、私にはやや面白味に欠ける印象が残った。
 「マクベス」は、上記2編と比較すると、楽曲自体の個性がそこまで際立っていないこともあって、強い特徴を感じる演奏とまで感じなかったが、音の造りはここでも繊細、精妙で、指揮者とオーケストラの意思疎通の緻密さを実感できる内容となっている。

交響詩 「死と変容」  交響詩「 メタモルフォーゼン」 4つの最後の歌
カラヤン指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 S: ヤノヴィッツ

レビュー日:2019.7.10
★★★★★ 永遠の名盤
 カラヤン(Herbert von Karajan 1908-1989)指揮、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団による、R.シュトラウス(Richard Strauss 1864-1949)の以下の3つの録音を収めたもの。
1) 交響詩「死と変容」(Tod Und Verklarung) op.24
2) メタモルフォーゼン(Metamorphosen)
 4つの最後の歌(Veir Letzte Leider)
3) 春(Fruhling)
4) 九月(September)
5) 眠りにつくとき(Beim Schlafengehen)
6) 夕映えの中で(Im Abendrot)
 「4つの最後の歌」のソプラノ独唱はグンドゥラ・ヤノヴィッツ(Gundula Janowitz 1937-)、「メタモルフォーゼン」は1969年の録音、他は1972~73年にかけての録音。
 今さら私が何か書き足す必要などまったく無用な歴史的名録音。最近改めてじっくり聞いてみたが、あらためて深い感動を味わった。
 これらの作品には、いずれも死にまつわるイメージがある。「死と変容」は作曲者自身が経験した闘病の描写がベースにあり、メタモルフォーゼンは戦争で崩壊したドイツへの思いが作曲の背景にあったと伝えられる。そして、4つの最後の歌は、文字通りR.シュトラウスの最後の作品であり、84歳となった作曲者が書き残した辞世の句に思えるものだ。また、この作品は、後期ベートーヴェン以後、脈々と続いたロマン派の音楽が、ついに途絶える瞬間である。しかし、私はこの「4つの最後の歌」の「夕映えの中で」・・(それは、偶然最後の曲となっただけで、R.シュトラウスは5曲目を手掛けるつもりだったと言われるが)・・この作品を聴くと、ロマン派の陽が落ちるその最後の瞬間に、壮絶なまでに美しい世界を私たちに垣間見せてくれるような感動を覚えるのである。その劇性は、あまりにも「出来過ぎている」ほどで、胸に迫る感傷は、壮絶なほどにロマンティックだ。
 「4つの最後の歌」の録音では、ジェシー・ノーマン(Jessye Norman 1945-)の録音とともに、このヤノヴィッツの名唱は、私には忘れられないものだ。「夕映えの中で」は、当盤の方が早いテンポをとるが、ヤノヴィッツの光を感じさせる歌唱とともに、全体の音響は豊穣無比な広がりを保ち、スケールが大きく雄大だ。木管が添えるトリルが、圧倒的な郷愁のように、聴くものの胸を締め付ける。カラヤンのタクトは、オーケストラが表現しうるものをほぼ最高な形で引き出していて、「九月」のヴァイオリン、「眠りにつくとき」のホルンも、最美と形容したいほどの麗しさである。
 「死と変容」「メタモルフォーゼン」の2曲も素晴らしい。これらの楽曲については、同じ顔合わせでの再録音もあり、そちらも素晴らしいのだが、この旧録音にある一種の厳しい凛とした佇まいのようなものにも、強い魅力がある。当時のグラモフォン・レーベルの録音は、ところどころ響きがソリッドに感じられるところは残るものの、この時代としてはほぼ最高の品質と言って良いものであり、現代の録音と比べても、大きく後れを取るところはない。私の感触では、むしろ当時の録音によって、カラヤンのこれらの演奏は、ほどよく明瞭な輪郭付けを持ったところもあるように思う。いずれにしても、世界最高の指揮者が世界最高のオーケストラを振ったにふさわしい録音であり、その事実が映える楽曲たちである。永遠の名盤と呼ぶにふさわしい。


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協奏曲

R.シュトラウス ヴァイオリン協奏曲 オーボエ協奏曲 デュエット協奏曲 ホルン協奏曲 第1番 第2番 ブルレスケ  フランツ・シュトラウス ホルン協奏曲
vn: ベルキン ob: ハント cl: D.アシュケナージ fg: ウォーカー アシュケナージ指揮 ベルリン放送交響楽団 hrn: タックウェル p: グルダ ケルテス指揮 コリンズ指揮 ロンドン交響楽団

レビュー日:2008.9.22
★★★★☆  R.シュトラウスのレアな協奏曲を質の揃った演奏で集めました
 R.シュトラウスの協奏曲を様々な音源から集めた再編集盤。収録曲と演奏者、録音情報を記す。
1) ホルン協奏曲 第1番 第2番 協奏曲ハ短調(フランツ・シュトラウス作曲) hrn: タックウェル ケルテス指揮 ロンドン交響楽団<1966年録音>
2) ブルレスケ p: グルダ コリンズ指揮 ロンドン交響楽団<1954年録音>
3) ヴァイオリン協奏曲 vn: ベルキン アシュケナージ指揮 ベルリン放送交響楽団 <1991年録音>
4) オーボエ協奏曲 ob: ハント アシュケナージ指揮 ベルリン放送交響楽団 <1991年録音>
5) デュエット協奏曲 fg: ウォーカー cl: ディミトリ・アシュケナージ アシュケナージ指揮 ベルリン放送交響楽団 <1991年録音>
 2)はモノラル録音。実質的なチェロ協奏曲といえる「ドン・キホーテ」を除けば、R.シュトラウスの協奏曲が全て収録されていることになる。ホルン協奏曲はそこそこ録音もあるけれど、他の楽曲は現役盤が少ないのでひと際貴重である。
 タックウェルはホルン協奏曲の第1番と第2番をアシュケナージ指揮ロイヤルフィルと1990年に録音しているので、このCDの表題だけ見ると、そちらの録音と勘違いしそうだ。さて、そのホルン協奏曲は1966年の録音だが、音質はびっくりするほど良く、デッカの技術力を思い知らされる。第1番は若き日の、第2番は老境の作品であるが、どちらも逞しい音楽だ。元来ホルンという楽器には狩猟のイメージがある。シューマンのライン交響曲でも川辺の狩猟のホルンがこだまするし、ウェーバーの魔弾の射手も言わずもがなである。加えて山を愛した作曲家R.シュトラウスであれば、なおのことこの楽器への深い愛着があったに相違ない。ブラームスやワーグナーといった後期ロマン派の影響を色濃く反映したシュトラウスらしい世界だ。また当盤にはリヒャルトの父フランツの作品も収録されていて興味を深めている。「ブルレスケ」はヴィトゲンシュタインの依頼に基づいて作られた「左手のためのピアノ協奏曲」シリーズの一つで(ラヴェルのものが有名)、家庭交響曲のモチーフを転用した作品。若きグルダの演奏で聴ける。
 アシュケナージ指揮による3つの協奏曲は比較的地味な存在。「天才の若書き」的なヴァイオリン協奏曲は冒頭の工夫にシュトラウスのひらめきと個性を認めるが、そのあとの音楽は渋め。ベルキンのヴァイオリンは鋭い陰影で技巧的。健闘した内容と思う。他方で晩年の作品であるオーボエ協奏曲は、シュトラウスの作品にしてはやや脂が抜けすぎた感もある。デュエット協奏曲は編成が面白いので、独特の音色を楽しめる。


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室内楽

R.シュトラウス ヴァイオリン・ソナタ アレグレット ホ長調 3つの歌曲(子守歌 森の幸せ あすの朝)  フランク ヴァイオリン・ソナタ
vn: エーネス p: アームストロング

レビュー日:2015.10.28
★★★★★  存在感のある透明感、森閑たる情緒漂う名演
 カナダのヴァイオリニスト、ジェイムズ・エーネス(James Ehnes 1976-)とアメリカのピアニスト、アンドリュー・アームストロング(Andrew Armstrong)によるロマン派の傑作ソナタ2曲を収めたアルバム。収録曲は以下の通り。
フランク(Cesar Franck 1822-1890)
 1) ヴァイオリン・ソナタ イ長調
R.シュトラウス(Richard Strauss 1864-1949)
 2) ヴァイオリン・ソナタ 変ホ長調 op.18
 3) アレグレット ホ長調 AV.149
 4) 5つの歌曲 op.41 から 第1曲「子守歌」
 5) 8つの歌曲 op.49 から 第1曲「森の喜び」
 6) 4つの歌曲 op.27 から 第4曲「あすの朝」
 2014年の録音。エーネスとアームストロングの共演による録音は、すでにプロコフィエフ(Sergei Prokofiev 1891-1953)とバルトーク(Bartok Bela 1881-1945)の作品集がリリースされている。私はプロコフィエフのアルバムを所有しているが、演奏芸術としての完璧性と、情感を湛えた麗しい表現を両立させた素晴らしいものだった。
 今回は、ロマン派の名曲ソナタ2曲を中心としたものであり、いずれも古今様々な名盤が競ってきた楽曲たちである。
 演奏は、まったく気負うことなく、彼らの普段の演奏を繰り広げている。つまり、ヴァイオリンの技術の完璧さ、一切の濁りを感じさせない響きで、スマートかつ健やかな情緒を通わせた演奏。いかにも現代的な洗練の極致といった塩梅だ。
 彼らの演奏の特徴が如実に表れているところとして、フランクのヴァイオリン・ソナタの第3楽章を挙げたい。この美しい幻想的な楽章がどのように奏でられるかは、演奏の印象を大きく左右するが、ここでのエーネスの微弱音の美しいこと。美しいだけでなく、とてもストレートで、まっすぐに突き通る様な響きだ。音は小さいのに、素晴らしい存在感があり、しかもそのなめらかな美観はこよなく音楽的だ。この第3楽章の凛とした透明感のある色彩は、山中の雪景色のように森閑とし、しかしその美しさに気付いた瞬間に体が固まる様なテンションを隠している。
 この楽章が象徴的なのだけれど、全般に彼らの演奏はそのスタイルを維持する。冒頭の分散和音から導かれる旋律だって、とても幾何学的な美しさを感じさせ、しかしそこに宿る情感に心を動かされる。とても芸術の高みを感じさせてくれるのだ。
 R.シュトラウスは、楽曲の性格がそこまで神がかりではないのだけれど、やはり純粋を感じさせる音色で、それはモノトーンな印象ではあるのだけれど、完結していて不足を感じさせない。歌曲の編曲3曲が収録されているのも嬉しい。特に「子守歌」は、R.シュトラウスが編み出した特に美しい旋律の一つだと思うし、それが彼らの圧倒的な透明感にみちた演奏で聴くことが出来るのは、私には大きな喜びである。


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歌曲

4つの最後の歌 ツェツィーリエ あすの朝 子守歌 憩え、わが魂 わが子へ 献身
S: ノーマン マズア指揮 ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団

レビュー日:2015.7.13
★★★★★  ノーマンの代表作であり、「4つの最後の歌」の最高の名演の一つ
 アメリカのソプラノ歌手、ジェシー・ノーマン(Jessye Norman 1945-)が、1982年に東ドイツのクルト・マズア(Kurt Masur 1927-)指揮、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の演奏とともに録音したリヒャルト・シュトラウス(Richard Strauss 1864-1949)の管弦楽伴奏付の歌曲集。収録曲は以下の通り。
4つの最後の歌(Vier Letzte Lieder)
 1) 春(Fruhling)
 2) 9月(September)
 3) 眠りにつく時(Beim Schlafengehen)
 4) 夕映えの中で(Im Abendrot)
オーケストラ伴奏歌曲集
 5) ツェツィーリエ(Caecilie) op.27-2
 6) 明日の朝(Morgen) op.27-4
 7) 子守歌(Wiegenlied) op.41-1
 8) 憩え、我が魂(Ruhe, Meine Seele) op.27-1
 9) 我が子に(Meinem Kinde) op.37-3
 10) 献呈(Zueignung) op.10-1
 なお5)~10)は、ピアノ伴奏による原曲を、ロベルト・ヘーガー(Robert Heger 1886-1978)が編曲したもの。
 ノーマンの数ある録音の中で、特に高い評価を受け、今なおこれらの楽曲の代表的録音として挙げられるもの。
 「最後の4つの歌」は文字通りR.シュトラウスの最後の作品で、作曲者84歳の時、1948年に書かれた。しかし、これらの楽曲の美しいこと。何とも豊かな郷愁に満ちた、悠然たる時の流れの中、泰然自若たる風に身を置き、自然の美をそのまま享受するような風情に満ちている。
 ノーマンの歌唱はその柔らかさが圧巻。その柔らかさは、果てしなさを感じさせる伸びと、その健やかで無理のない強弱の扱いから由来するものだ。オーケストラ伴奏に相応しい、大きなホールの隅々まで呼応し、響き渡っていく声だ。また、オーケストラも素晴らしい。黄昏を思わせる金色の音色の響き。豊饒で、ふくよかで、ニュアンスが深い。木管、金管のトーンは、天国的と称したいほどの伸びやかな柔軟性を持っていて、ノーマンの歌唱に抜群の呼応を示す。「夕映えの中で」で添えられる木管のトリルによる装飾音が、なんと印象的なことか。中でも終結部近くの「"So tief im Abendrot"(こんなにも深く夕映えに包まれて)」に感動の頂点が築き上げられるように感じる。個人的に4つの最後の歌の決定盤として、当ディスクを推したいと思う。
 さらにヘーガーの編曲によってオーケストラ伴奏となった歌曲も良い。いずれも、旋律的な美しさ、そしてオーケストラ音楽的なポテンシャルを持っていた楽曲たちで、編曲者の才も感じさせる。「4つの最後の歌」に引き続いて、私はこれらの演奏から夕暮れの情景を思い浮かべる。特に「ツェツィーリエ」「子守唄」「献呈」あたりの瑞々しい表現は、楽曲の魅力を最高に引き出したものだと思う。

R.シュトラウス 4つの最後の歌  ワーグナー ヴェーゼンドンクの5つの歌 楽劇「トリスタンとイゾルデ」から前奏曲と愛の死
S: ステューダー シノーポリ指揮 シュターツカペレ・ドレスデン

レビュー日:2020.12.7
★★★★★  荘厳な夕映えの美しさに浸るアルバム
 アメリカのソプラノ、シェリル・ステューダー(Cheryl Studer 1955-)と、シノーポリ(Giuseppe Sinopoli 1946-2001)指揮、シュターツカペレ・ドレスデンの演奏で、リヒャルト・シュトラウス(Richard Strauss 1864-1949)とワーグナー(Richard Wagner 1813-1883)の歌曲集。収録内容は以下の通り。
 R.シュトラウス 4つの最後の歌(Vier letzte Lieder)
1) 第1曲 春(Fruhling)
2) 第2曲 9月(September)
3) 第3曲 眠りにつくとき(Beim Schlafengehen)
4) 第4曲 夕映えに(Im Abendrot)
 ワーグナー ヴェーゼンドンクの5つの歌(Wesendonck-Lieder)
5) 第1曲 天使(Der Engel)
6) 第2曲 止まれ!(Stehe still!)
7) 第3曲 温室で(Im Treibhaus)
8) 第4曲 悩み(Schmerzen)
9) 第5曲 夢(Traume)
 ワーグナー 楽劇「トリスタンとイゾルデ(Tristan und Isolde)」から
10) 前奏曲(Prelude)
11) 愛の死(Liebestod)
 1993年の録音。
 私は、R.シュトラウスの「4つの最後の歌」が好きだ。タイトルの通りR.シュトラウスの生涯最後の作品である。R.シュトラウスは第5曲以降も構想していたが、第4曲を書きあげた時点で、彼は生に永遠の暇を告げる。くしくも第4曲「夕映えに」は、「おお はるかな 静かな平和よ!こんなにも深く夕映えに包まれて。私たちはさすらいに疲れた。これが死というものなのだろうか?」で終わる。それはR.シュトラウスの辞世とも重なるし、様々に熱を孕んで芸術の奔流を築き上げたロマン派の終焉の瞬間でもある。その最後の最後に、壮麗な美しい「夕映え」が空を染め抜く。その出来過ぎたほどの演出に、私は強く心を動かされる。私は、2年前に、サロマ湖でこの世のものとは思えない美しい夕陽をみた。世界のすべてが金紅色に染め抜かれていく中で、私の脳裏に響いていたのは、R.シュトラウスの「夕映えに」である。
 この録音も、当曲集を代表する録音の一つ。きわめて透明感の高い演奏である。シノーポリの指揮は、伴奏に徹した奥ゆかしい美観を維持したもので、それをバックにステューダーの、とても流れの良い、連続的でスマートな歌唱が響き渡る。テンポは少し早めくらいに感じるが、決して急ぐ感じではなく、ニュアンスは豊かだ。オーケストラはことに弱音の美しさが出色で、ホルンがメロディを奏でるところなど、その細やかさにうっとりさせられる。この曲集に相応しい神々しさを感じさせる録音だ。
 ワーグナーの楽曲も、すっきりとした清涼な感覚に満ちていて、美しい。「ヴェーゼンドンクの5つの歌」の第2曲「止まれ!」における情熱の放散も、凛々しさが満ちていて好ましいし、トリスタンとイゾルデの「愛の死」は、シノーポリがオーケストラから瑞々しく端正な音を引き出していることとあいまって、ステューダーのくっきりとピントのあった歌唱は美しく響く。この楽曲特有の劇的精神性の描写という点でも、十分なものが伝わっており、一つのアルバムとしても、聴きごたえのあるプログラムになっている。


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歌劇

楽劇「サロメ」
ドホナーニ指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 S: マルフィターノ Bs: ターフェル T: リーゲル Ms: シュヴァルツ

レビュー日:2012.12.3
★★★★★  通俗作品には通俗作品の魅力があるものだ
 リヒャルト・シュトラウス( Richard Strauss 1864-1949)の、オスカー・ワイルド(Oscar Wilde 1854-1900)原作の戯曲による楽劇「サロメ」の全曲盤。クリストフ・フォン・ドホナーニ(Christoph von Dohnanyi 1929-)指揮、ウィーンフィルの演奏。1994年の録音。主な配役は以下の通り。
 サロメ: キャサリン・マルフィターノ (Catherine Malfitano (1948- ソプラノ)
 ヨカナーン: ブリン・ターフェル(Bryn Terfel 1965- バリトン)
 ヘロデ(サロメの義父): ケネス・リーゲル(Kenneth Riegel 1938- テノール)
 ヘロディアス(サロメの母): ハンナ・シュヴァルツ(Hanna Schwarz 1943- メゾソプラノ)
 「サロメ」は、一舞台で構成される単純性、全曲で1時間40分くらいの短さ、物語の分かりやすさ、大衆受けする猟奇性などから日本でも通俗的な人気を持っている作品。参考までに簡単にどういう話か書いておく。
 ヘロデは兄を殺害し、その妻を娶った君主。ヨカナーン(預言者ヨハネのこと)はヘロデに幽閉されている。若き王女サロメはヨカナーンに興味を持ち、牢獄から連れ出すが、ヨカナーンはサロメのことを歯牙にもかけない。ヘロデの命により舞を踊るサロメは、その褒美にヨカナーンの首を希求する。ヨカナーンの生首に口づけるサロメの狂気を目にしたヘロデはサロメの処刑を命じる。
 オペラとして上演する場合、サロメの舞のシーン(「7枚のヴェールの踊り」 CD2枚目の3トラック)が見せ場で、直後のアリアと合わせてサロメ役には相当な体力が要求される。またこのシーンには、妖艶な演出がつきもので、物議のネタになることが多い。しかし、CDで聴くだけならば、オーケストラの楽曲としてエキゾチックなリズム感に溢れた効果を楽しみ、舞台を想像することになる。
 ドホナーニが得意としていた作品の一つで、ウィーンフィルの美麗の限りをつくしたサウンドが立派な名演。私個人的には、この作品の「俗っぽさ」を敬遠したい気持ちもあるのだけれど、このような立派な演奏で聴くと、この時代にまじめにドイツロマン派の流儀に即してオペラを書き続けたリヒャルト・シュトラウスの誠実さにも頭が下がる思いだ。
 全般に「7枚のヴェールの踊り」を終えてから、高まる緊迫感を表現したオーケストラの音色が卓越していて、この管弦楽のおりなす重厚な豊饒さが見事。マルフィターノの声は、いかにも頑張った感じがするが、雰囲気は出ており、好意的に捉えたい。ターフェルのその後の活躍を感じさせるヨカナーンも存在感がある。私のイメージでは、もっと寂びた声が相応しいのだが、まぎれもなく立派な歌唱であり、文句はつけにくい。「サロメ」の代表的な録音の一つであるこのドホナーニ盤を、デッカが再発売してくれたことに感謝したい。

楽劇「ばらの騎士」(抜粋)
パリー指揮 ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団 S: ケニー Bs: トムリンソン Ms: ダイアナ・モンタギュー Br: ショア S: ジョシュア S: ライス=デイヴィス

レビュー日:2013.12.18
★★★★☆  英語版のばらの騎士です
 R.シュトラウス(Richard Strauss 1864-1949)の代表作、楽劇「ばらの騎士(Der Rosenkavalier)」を、イギリスの文学者で音楽評論家だったアルフレッド・カリッシュ(Alfred Kalisch 1863-1933)が「英語版」にしたものの録音。全曲盤ではなくハイライト。全曲だと通常3時間20分程度の演奏時間であるが、当盤の収録時間は1時間20分程度。デヴィッド・パリー(David Parry 1949-)指揮、ロンドンフィルの演奏。1998年の録音。主なキャストは以下の通り。英語版なので、イギリスの歌手陣で占められている。
 マルシャリン(マリー・テレーズ); イヴォンヌ・ケニー(Yvonne Kenny 1950- ソプラノ)
 レルヒェナウ男爵(オックス); ジョン・トムリンソン(John Tomlinson 1946- バス)
 オクタヴィアン; ダイアナ・モンタギュー(Diana Montague 1953- メゾ・ソプラノ)
 ファニナル; アンロリュー・ショア(Andrew Shore 1952-)
 ゾフィー; ローズマリー・ジョシュア(Rosemary Joshua ソプラノ)
 マリアンヌ; ジェニファー・ライス=デイヴィス(Jennifer Rhys-Davis ソプラノ)
 抜粋内容であるが、おおよそ以下のようなトラック番号であるが、以下に付したセリフから始まる部分がすべて収録されているわけではないので、一応、参考程度として見てほしい。
1) 第1幕 導入曲
2) 第1幕「あなたはすばらしかった、とても!そして今も!」(オクタヴィアン、マルシャリン)
3) 第1幕「ああ、また来たのね」
4) 第1幕「でも、時は不思議なもの」
5) 第1幕「最愛の人、なぜあなたは自分を責めるのか」
6) 第1幕「行こう、教会に祈りをささげに」(マルシャリン、オクタヴィアン)
7) 第2幕 導入曲
8) 第2幕「おごそかな日じゃ、大いなる日じゃ」(ファニナル、マリアンネ、執事)
9) 第2幕「試練のこのおごそかな時に当たって」(ゾフィー、マリアンネ、従僕)
10) 第2幕「目に涙をたたえ」〔二重唱〕(オクタヴィアン、ゾフィー)
11) 第2幕「レルヒェナウ男爵さま!」
12) 第2幕「ああ、こんなになっちまった」〔オックス男爵のワルツ〕
13) 第3幕「時はすぎ去り」(アンニーナ、子供たち、給仕、男爵、ヴァルツァッキ、音楽家ほか)
14) 第3幕「何ということでしょう!ただの笑劇にすぎなかった!」(ゾフィー、オクタヴィアン、マルシャリン)
15) 第3幕「今日か、明日か、あさってか」(マルシャリン、ゾフィー、オクタヴィアン)
16) 第3幕「マリー・テレーズ!…私が誓ったことは」〔三重唱〕(ゾフィー、オクタヴィアン、ファニナル、マルシャリン)
17) 第3幕「夢なのでしょう、本当ではないのでしょうか」(ゾフィー、オクタヴィアン、ファニナル、マルシャリン)
18) 第3幕 同 (オクタヴィアン、ゾフィー)
 歌唱に焦点を集めた収録で、当然のことながらもっとも有名な二重唱、三重唱なども含まれているが、第3幕の冒頭の管弦楽によるパントマイム音楽などは割愛されている。第2幕後半を彩るオックス男爵のワルツは聴くことが出来る。
 一応、簡単に粗筋をまとめると、18世紀のウィーンを舞台とした貴族の喜劇という体裁で、主人公はオクタヴィアンという美貌の青年(この青年役はメゾソプラノが務める)。オクタヴィアンは元帥夫人であるマルシャリンと、夫の留守中に逢引していると、朝、俗物のオックス男爵が訪ねてくる。男爵は、資産家ファニナルの娘ゾフィーと婚約したので、彼女に「銀のばら」を贈る「ばらの騎士」を探していたとのこと。マルシャリンはばらの騎士としてオクタヴィアンを推薦する。一方で、オクタヴィアンもいずれ自分を捨てるだろうと、憂いを感じる。果たして、ばらの騎士オクタヴィアンは男爵の婚約者ゾフィーとたちまち相違相愛の中となる。これに対する男爵の抗議の下品さから、オクタヴィアンとの剣劇となり、男爵は肘に軽い傷を受ける。騒ぎが終わって、今度はオクタヴィアンがオックスを奸計に落とし入れる。結果、衆目のなかでその醜態を散々さらした男爵は、最後にマルシャリンの決めの一語をもらい、退場する。マルシャリンは二人の為に身を引くことを告げて去り、オクタヴィアンとゾフィーの恋は成就する。
 本盤は英語版ではあるが、楽曲への変更などはなく、音楽的にはそのまま楽しむことができる。シュトラウスが目指したモーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)ふうの古典的で典雅なオペラは、ドイツ語の発音に強い拘束を受けないように思うので、楽曲の軽やかさにもほどよくあっているだろう。抜粋版であることが、むしろ「聴き易い」感じであり、この演奏で「ばらの騎士」という作品に馴染むことは、特に問題ないと思う。
 演奏は、オーケストラの輝かしい音色をバックに、歌手陣も粒だった顔ぶれで、特に突飛な部分もなく、自然な喜ばしさや愉快さが出ているだろう。三重唱も美しいが、第3幕のオックス男爵を奸計に仕掛けたシーンの笑いに通じる要素なども、明朗に表現されていて、楽しい。
 1枚79分という収録時間を考えれば、十分なサービス内容の伴った録音だと思う。


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