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ペッテション



交響曲

ペッテション 交響曲 全集(第2番~第16番) 交響的断章  ルジッカ ペッテションへのオマージュ
フランシス トロヤーン アルブレヒト T.ザンデルリンク ホーネック アルネル ルジツカ指揮 BBCスコティッシュ交響楽団 ザールブリュッケン放送交響楽団 ベルリン・ドイツ交響楽団 ハンブルク州立フィルハーモニー管弦楽団 ハノーファー北ドイツ放送フィルハーモニー管弦楽団 スウェーデン放送交響楽団 スウェーデン放送合唱団 エリック・エリクソン室内合唱団 sax: ケリー

レビュー日:2020.3.30
★★★★★ 絶望を描いた交響曲作家、アラン・ペッテションが遺した15の交響曲
 熱狂的なファンの多いアラン・ペッテション(Allan Pettersson 1911-1980)は、スウェーデンの作曲家である。彼は、「絶望を描いた作曲家」と形容される。幼少のころ、家庭環境に恵まれなかったペッテションは、貧困と家庭内暴力に苦しめられる。やがて、ヴィオラ奏者としてオーケストラの中で役割を見出すが、今度は、痛みをともなう関節炎に苦しめられるようになる。40歳を過ぎてから、十二音音楽の権威の一人であるレイホヴィッツ(Rene Leibowitz 1913-1972)に師事し、作曲活動を行うようになる。その作品群の主脈をなすのは交響曲であった。交響曲第1番こそ未完であったが、結局、ペッテションは第2番から第16番まで、15の交響曲を世に遺すことになる。作曲活動の間も、病魔は作曲家を苦しめ、時には痛みでペンを持つことも出来なかったという。しかし献身的な妻の支えもあって、創作活動が行われた。
 転機となったのは、交響曲第7番の成功である。この作品が、ハンガリーの名指揮者、ドラティ(Dorati Antal 1906-1988)の目に留まり、各地の演奏会で取り上げられる様になると、彼の評価は一気に高まった。この第7番を中心とした、第6番から第9番までの4つの交響曲は、現在では名作として、その評価も定まりつつある。
 交響曲第7番の成功は、彼に安定した収入をもたらし、以後経済的な制約のない創作活動を送れるようになったと言うが、それでも、彼の芸術は、絶望を描き続けた。当アイテムは、そんなペッテションが生涯に完成した15の交響曲を集めてBox-set化したものとなっている。まずは収録内容をまとめよう。なお、それぞれ単発売アイテムがある。
【CD1】
1) 交響曲 第2番 1994年録音
2) 交響的断章 1994年録音
 フランシス(Alun Francis 1943-)指揮 BBCスコティッシュ交響楽団
【CD2】
3) 交響曲 第3番 1993年録音
4) 交響曲 第4番 1993年録音
 フランシス指揮 ザールブリュッケン放送交響楽団
【CD3】
5) 交響曲 第5番 1995年録音
6) 交響曲 第16番 1995年録音
 フランシス指揮 ザールブリュッケン放送交響楽団 アルトサックス: ケリー(John-Edward Kelly 1958-2015)(第16番)
【CD4】
7) 交響曲 第6番 1993年録音
 トロヤーン(Manfred Trojahn 1949-)指揮 ベルリン・ドイツ交響楽団
【CD5】
8) 交響曲 第7番 1991年録音
 アルブレヒト(Gerd Albrecht 1935-2014)指揮 ハンブルク州立フィルハーモニー管弦楽団
【CD6】
9) 交響曲 第8番 1984年録音
 トーマス・ザンデルリング(Thomas Sanderling 1942-)指揮 ベルリン放送交響楽団
【CD7】
10) 交響曲 第9番 1993年録音
 フランシス指揮 ベルリン・ドイツ交響楽団
【CD8】
11) 交響曲 第10番 1994年録音
12) 交響曲 第11番 1993年録音
 フランシス指揮 ハノーファー北ドイツ放送フィルハーモニー管弦楽団
【CD9】
13) 交響曲 第12番「広場の死者」 2004年録音
 マンフレート・ホーネック(Manfred Honeck 1958-)指揮、スウェーデン放送交響楽団、スウェーデン放送合唱団、エリック・エリクソン室内合唱団
【CD10】
14) 交響曲 第13番 1993年録音
 フランシス指揮 BBCスコティッシュ交響楽団
【CD11】
15) 交響曲 第14番 1988年録音
 ヨハン・アルネル(Johan Arnell 1947-)指揮 ベルリン放送交響楽団
【CD12】
16) 交響曲 第15番 1993年録音
17)  ペーター・ルジツカ(Peter Ruzicka 1948-) ペッテションのオマージュ 1992年録音
 ルジッカ指揮 ベルリン・ドイツ交響楽団
 7人の指揮者が起用されているが、いずれの演奏からも作曲者と作品への敬意や思慕が感じられるもので、現在入手しうる全集として、高い価値を持つアイテムとなっている。以下、収録順に、内容に触れながら感想を述べる。
 交響曲第2番はレイホヴィッツの指導を経て、作曲者が「最初に」完成した交響曲。単一楽章構成。冒頭から、不穏な3連音からなるフレーズが繰り返され、それが重ねられたり、変容されたりを繰り返しながら、膨張と収縮を繰り返すが、その音楽は緊張を感じさせ、聴き手を安らがせるような要素がほとんどない。ペッテションの作風はまだ未成熟とはいえ、無調ならではのいつ終わるかわからないような不穏さが持続していく。リズムとしては、特に難しいものではないが、フレーズがとても抽象的というか断片的というか、つかみどころの少ないものであるため、表情が一様に険しいものとなる。本領が発揮される前の作品とはいえ、十分に作曲家の個性は感じられる。ただし、ペッテション作品の象徴とも言える「悲痛さ」が伝わってくるとはいえ、音楽的手続きとして、その芸術性に言及するならば、それはあまりにも一様でいて、厚みがないようにも感じる。モーツァルトの引用もあるようなのだが、その引用の音楽的必要性や芸術的意図は、私には正直あまりピンと来ない。
 「交響的断章」は、作曲家後期の「練れた」音楽となっている。フレーズ単体の乾燥した味わいは共通だが、ヴォルテージを上げていく音楽的手腕に練達があり、人の心に訴える力が大きく、聴きでがある。
 【CD1】については、やや音が硬く感じる。もちろん、楽曲の緊張を伝えるために、ある程度硬化した音色は有効であるかもしれないが、聴いていてキツめの響きが続くところがあり、かえって聴き手の気持ちを逸らさせる原因になるのではないか。とはいえ、当該曲の録音が多いとは言えない現状にあって、この曲の姿を伝えてくれるという点では、十分に役目を果たしてくれる。
 交響曲第3番は1955年、第4番は1959年に書かれた作品。ペッテションが書いた交響曲の多くは、長大な単一楽章構成によっている。中にあって例外的に第3番と第8番では「楽章制」が採用されている。第3番は4つの楽章からなる。といっても後半3楽章は続けて演奏される。また当盤では、交響曲第4番についても、5つのパートにわけてトラックを振っており、この交響曲がどのような「部分」から成り立っているか、分かりやすい規格となっている。
 交響曲第3番と第4番は、当盤における演奏時間はいずれも40分弱と、ほぼ同じ規模を持っている。これらの曲は、レイホヴィッツに師事して書き上げた第2交響曲に近い無調に基づく音響変化を演出した実験的な作風であると考えられる。とはいえ、そこにはこの作曲家特有の悲痛な色合いが染みわたっており、それが無調ならではの緊張を交えて伝えられる。決して聴いていて楽しい音楽ではなく、深刻な諸相を感じさせる。だが、その一方で、第2交響曲と比べて、やや音が疎らな印象もある。
 交響曲第3番は、両端楽章に激しい悲嘆の感情が描き出されている一方、第2楽章のラルゴでは静穏が描かれるが、荒廃感のある神妙な情感があると思う。
 交響曲第4番は、音響とリズムの妙にペッテションらしいアプローチを示す。それらは時に無表情を連想する怖さがあるが、簡素な風合いも持っている。この曲では、ラルゲットで刹那的な美しい旋律が表れるが、それはまだ完成しきらないような不思議な雰囲気を持つ。だが、この要素が、後の第7交響曲におけるペッテション音楽の完成への布石となっているだろう。
 交響曲第3番、第4番とも、特有の気難しさがあり、音響的な面白さも全般に渋味をベースとしたものと思うが、フランシスの落ち着いた運びで、大要はわかりやすく再現されている。ただし、この後にペッテションが書いた作品群と比較すると、その魅力はやや落ちると言わざるを得ない。
 交響曲第5番からは、無調とは言え、特有の雄弁さを持ち合わせてくるようになる。静寂から始まり、音楽がゆっくりと首をもたげるように大きくなる様は、ブルックナーを彷彿とさせるが、その色彩はダークで、グロテスクな要素を持っている。やがて、主題が提示されるが、それは音程を大きく行き交う振幅のあるもので、これも今までの彼の作品には見出せない要素である。そして、その主題は、闇をうごめくようにさ迷い始める。そう、この音楽、行く先は杳として知れない。ペッテションの音楽は全般にそうなのであるが、この交響曲第5番から、そのあやしい本体のようなものが、姿を立ち表せた感がある。「もがき」にかかわるエネルギーの濃淡が、明瞭に聴き手に伝わるようになってくるのだ。人呼んで、ペッテションが描いた「絶望」である。この「絶望」は、音楽自体が、行き着く場所を探しながらも見いだせない様相と、無調ゆえの不安なトーンが綯い交ぜとなって聴き手に及ぼす心理的効果である。聴いていて楽しいものではないが、その不穏さ、時折表れる陰りは、厳しく、痛切だ。弦の細切れな響きにティンパニ、金管が抗い、それを覆うように合奏音がやってくる。そして、次第に沈静化してゆく。そこに退廃的な美を感じる。
 交響曲第16番は実質的にサキソフォーン協奏曲であり、他の交響曲と比べて、ずっと健康的な雰囲気を持っている。終始サキソフォーンが音階を駆け巡るのは、演奏技巧的にかなりの難易度だろう。他の交響曲と同様に単一楽章構成を取るが、当盤は4つの部分にわけてトラック化してある。その第2の部分では、ペッテションならではの旋律が姿を現し、情感を誘う。概して、晩年のペッテションの作品は、末期癌に侵されていたにもかかわらず、それまでの絶望のトーンを弱めるのだが、この作品も不思議と安定を感じさせる。だが、そこには冷たさや暗さに通じる響きが満ちている。ケリーの圧巻の技巧がそのことを滾滾と伝え、やがて楽曲は終わる。
 交響曲第6番は長大な単一楽章からなる交響曲で、当盤における収録時間は60分を少し越すくらい。冒頭、内省的な序奏と思われる部分がある。3分を超えたころから、運動的なフレーズが表れてきて、ペッテション節とも言うべき膨張が、時間を費やして行われる。この部分は、やはりダークな成分が多く、なかなか聴いていて気持ちが沈むところがある。とはいえ、フレーズの表現方法を変えながら、ときに鋭い陰りが射すように添えられる装飾性は、音楽的に面白いところが多く、なかなか興味深く味わわせてくれる。楽曲全体が半分にさしかかるころ、ここでこの曲は大きく様相を変え、大地に身を横たえるように、安寧さを身に着け、沈むような効果を見せる。この部分で弦楽アンサンブルの表現は、意欲的なものが求められるが、トロヤーンの指揮の下、ベルリン・ドイツ交響楽団は必要な重量感を、弦楽器陣の輝かい響きで表現し、この楽曲の味を存分に行き渡らせてくれる。ここからは、さながら鎮魂歌を思わせるような、鬱であるが、情緒的な旋律が繰り返される。楽曲にフィナーレが近づいてきた頃、音楽はもう一度様相を変え、弦楽器陣の厚いグラデーションは、黄昏を描くような美しい暖かさを宿していく。この部分は、私にマーラーの第9交響曲の終楽章のアダージョを強く想起させた。音色だけでなく、ペッテションの第6交響曲とマーラーの第9交響曲の間には、精神的な親近性があると思う。ペッテションの交響曲第6番の後半は、旋律的で情緒的である。またペッテションが、はじめて聴き手の側に、その歌をもって近づいてきた音楽であるようにも感じる。傑作群を生み出す展轍点にある作品とでも表現するとよいだろうか。トロヤーンは、成熟を感じさせる音幅のある合奏音で、この情感を鮮烈に描いており、印象に深く刻まれる。
 ペッテションの名を一躍世界的なものとしたのが、ハンガリーの名指揮者、ドラティによって見出され、初演、録音を通じて紹介された「交響曲 第7番」である。交響曲第7番が作曲されたのは、1966年から67年にかけてであるが、このころ、ペッテションは関節炎の痛みに苦しめられ、作曲のペンを取るのも一苦労だったそうだ。しかし、そんな交響曲は、高く評価され、以後、ペッテションは経済的な自由を獲得する。ただ、この人は、その後も、「絶望」に近いものを感じさせる交響曲を書き続けることになるのだが・・・・交響曲第7番は、ペッテションの最高傑作と認識されることが一般的で、人気も高い。録音点数も多い。当盤における演奏時間は45分弱で、テンポはややゆったりめの解釈となっている。この曲も単一楽章によって構成される。楽曲の全容は三部形式に近い。また、場所によって曲想が大きく変わる。冒頭から、リズムにのって、どこかエスニシティを感じさせながらも不穏な主題が提示される。これが徐々にもがきながらも力を蓄えるようにして、音楽を盛り上げていく。ティンパニ、金管の強奏で加わっていき、一つの頂点を築くが、当盤で言えば演奏時間17分程度のところで、急に音楽は安らぎの表情を見せる。この「救い」はペッテションの交響曲ではあまり多くない要素であり、それが第7交響曲の特徴といえる。さらに、音楽がもう少し進んで30分を過ぎると、今度は回顧的ともいいたい暖かい旋律が弦楽合奏から生まれてくる。このあたりは本当に感動的だ。マーラーの第9交響曲の終楽章のような、それよりもいくぶん讃歌調の、懐かしさのある音楽で、異様なほどに美しい。しかし、やがて楽曲は冒頭の不穏さに帰結してゆき、静寂と暗闇の終幕に向けて、息をひそめていく。これは確かに良く出来た作品であり、近現代の名曲の一つ、といっても良いだろう。ペッテションの交響曲ではこの第7番と第8番が親しみやすいという一般的評価に、私はいたく同意する。アルブレヒトの解釈は、この交響曲の持つ穏やかな一面に焦点をあて、その前後の起伏をいくぶん緩やか目に描いた印象だ。弦楽器か奏でる旋律のぬくもりも忘れがたい。攻撃的な側面も、決して弱いというわけではなく、十分な表出力を感じさせる。鮮やかな演出を経て、静寂に帰っていくラストは、劇的で、忘れがたい。
 第8番には、「絶望」というより、どこか暖かなもの、それでいて、すべてを手に入れることはかなわないもの(憧憬)が描かれているように感じられる。冒頭は静寂から始まるが、息の長い旋律がゆっくりとその姿をもたげ、やがて大きなエネルギーを蓄えていく。その様は、私にはどこか自然賛歌的に聴こえる。そう、この交響曲は実に分かりやすい。ペッテションの交響曲の中では特に親しみやすいものの一つだろう。情感が豊かなのだ。彼の書いたものは何もかも絶望だ、という宣伝文句的テーゼは、私にはピンとこない。そもそも、そんなに絶望しきった人間が、15曲も交響曲を書きあげられるはずがないのである。トーマス・ザンデルリンクとベルリン放送交響楽団は、この曲に相応しい「緩やかさ」を存分に表現しているだろう。ペッテション入門にも絶好のものだろう。この曲は、ペッテションの交響曲にしては珍しく2楽章構成となっている。ただし、2つの楽章は、ほとんど合間がなく、連続的に演奏され、性格的にも近しい。
 第9番は、ペッテションらしい長大な単一楽章で構成された作品で、当盤の演奏時間は69分。ただ、この演奏時間は、他の演奏と比べると、少し長め。フランシスはじっくりと腰を据えるようなスタイルで、この大きな作品を鳴らしている。冒頭から不穏な気配のたちこめるフレーズが、繰り返されながら、ゆっくりと巨大な姿を起こしていくのだが、いつものペッテションのように、そこには押さえつけられるような不安があり、エネルギーは外に発散せず、内側で渦巻くようにして立ち込めていく。やがて楽曲はパーカッションの響きとともに、その緊迫感を高めていくが、途中からそれは悲愴とあきらめが綯い交ぜになったような歌に姿を変え、これが延々と紡がれていく。歌は、ときに高まり、ときに抑制しを繰り返すが、こちらも開放されることはなく、あるとき、ふと終りを迎える。この過程が、69分間で起こることの大要である。第9交響曲の特徴は、フレーズの分かりやすさ、それに基づく構成がよく出来ていること、そして歌がもっている退廃的とも言える美しい旋律性にあるだろう。これらの要素があいまって、ペッテションの代表曲の一つと呼ぶにふさわしい音楽的充実があり、その音楽を聴く者に感動を呼び起こさせてくれる。フランシスの演奏は、遅めのテンポ設定で、その過程を丁寧に描いたものと言えそう。ところによっては、テンポを増すことで切迫感をもっと出してもいいのでは、と思うところもあるが、しかし、作品を知り、その魅力に触れるという点では十分な内容で、第7番、第8番とともに、ペッテションの入門盤としても、適当な録音と言えるだろう。
 第10番と第11番は、いずれも1970年から73年にかけて書かれた。ペッテションはこの間に腎臓病を患い、9か月に渡る入院生活を送っており、これら2作品には、その絶望ぶりが描かれているとされる。実際に聴いてみると、それは猛々しいほどの怒りの感情を伴った負の感情が描かれている。確かに9か月の入院は心身に重い負担であったに違いないが、この交響曲を聴いていると、「もうすこし医療者のことを信頼しても良かったのでは」と思ってしまうほどに救いがない。もちろん、当時の彼がどのような心持で過ごしていたのか、私には分からないけれど、第7交響曲の成功以来、彼は経済的な面で不自由はなく、また妻の支えも大きいものがあったそうだ。にもかかわらず、この悲痛一色と感じられる音楽は、なかなかに痛々しい。第10番、第11番ともに、単一楽章形式で、当盤における収録時間で30分以下。ただ、楽曲の聴き味は重い。
 第10番はほぼ全編で疾風のような激しさに満ちている。ショスタコーヴィチの第4交響曲を思い起こす人もいるかもしれない。スネアドラムが深刻な響きを続ける中で、警句的と称したい断片的なモチーフが奏でられていくが、何か高まろうとすると他のものに抑え込まれるような救いのない抗争が繰り広げられる。やがて、のたうちながらも、楽曲はクライマックスのようなものを辿るが、それでも、苦し気にうごめき、解放感はない。やがて、叙情的なパートを踏まえながら、悲しい色で曲は終わっていく。実に暗い。暗いのだが、ファゴット、ヴァイオリン、トランペットといった楽器の「叫び」にも通じる使用は、印象的であり、この曲ならではの美しさをもまとっている。聴いていて、相応のメッセージを受けることになるだろう。
 第11番は、第10番に比べると、攻撃性が弱まっていると感じられるが、方向性は一緒であり、親近性が高い。穏やかな様でいて乱れており、叙情的な様でいて荒んでいる。第10番に比べて内向的で閉塞的なものが強まっている。旋律には、慰めの要素が残っており、こまかく聴き手の琴線に触れるフレーズもあるが、多様であり、エネルギー的な可変性が高い。慟哭的で悲痛さを感じさせるものであり、聴く側にも相応の心持ちを求めるものだと思う。ただ、調性的なものと、無調的なものの間を揺らぐようにして描かれる音楽は、個性的な魅力と美しさも持っている。聴く人を選ぶとはいえ、芸術作品としての価値は高いものが示されていると思う。ペッテションを深く理解するフランシスの棒の下、オーケストラも、エネルギッシュに響いている。
 第12番は異色作。コーラスがメインであり、実質的にはカンタータと言って良いだろう。この楽曲は、成功作によりすでに名声を得ていたペッテションに対し、ウプサラ大学が創立500周年記念式典のために作曲を依頼し、書き上げられた作品。使用されたテキストは、母国チリを中心に、迫害に抗しながら反権力・共産主義活動を行った、ノーベル文学賞受賞者でもある詩人パブロ・ネルーダ(Pablo Neruda 1904-1973)によるものである。ネルーダの詩は、1946年1月28日に、サンティアゴの広場で、労働運動(レジスタンス)を行っていた8人の労働者が、警察により死傷させられた事件を扱っている。貧困の中で育ったペッテションにとって、共鳴するところが多かったと思われるが、詩はスペイン語によるものであり、英語訳は付されていない。どうやら英語訳を添付できない法的理由があるらしいのだが、詳細はわからない。全曲は、下記の通り9つの楽章に分かれているが、全曲はアタッカで演奏されるため、ペッテションお得意の単一楽章構成と見なすことも出来るだろう。
1) 第1楽章 広場にて死す(De doda pa torget)
2) 第2楽章 虐殺(Massakern)
3) 第3楽章 塩硝の男(Nitratets man)
4) 第4楽章 死(Doden)
5) 第5楽章 旗の由来(Hur fanorna foddes)
6) 第6楽章 呼び覚ますもの(Jag kallar pa dem)
7) 第7楽章 敵(Fienderna)
8) 第8楽章 彼らはここに(Har ar de)
9) 第9楽章 いつの日も(Alltid)
 楽曲は冒頭から弦楽の悲愴なコントラストを備えた早いパッセージが導入され、パーカッションが激性を高めながら、コーラスが開始される。性急な緊迫感とともに、スネアドラムの響きが怒りにも似た音色を奏で続ける。全般に、パーカッションの活躍は全曲を通して目立ち、第2楽章、第3楽章でも重要な役割を果たしていく。第4楽章は無調的で、不穏、不安が色濃く立ち込めており、鬱な音楽である。楽曲が後半に進むと、ソプラノのパートに、叫びにも似た悲痛さが備わっていくが、末尾には希望も感じられるように終わるのは、ペッテションの作品では珍しい展開。録音はライヴ録音とのことだが、大きな乱れもなく、感覚的な鋭さを感じさせる表現が感じられる。
 第13番は、熱的な坩堝感が増し、混沌としており、長大な単一楽章は、より連続的で、区切りのようなものがなく、模糊としてとりとめがない。弦楽器が中心となって、例によって悲痛、絶望を印象付けるようなフレーズが刻み続けられるが、なにか大きなものが盛り上がるかと思いきや、叩きつけられるように伏せられていく。その繰り返しが連続する様は、さながら「阿鼻叫喚を描いた音楽」のようだ。音の強弱の観点で言うと、第6番から第9番までの4曲に比し、強音側の表現は増えており、ある種の騒々しさを伴う。だから、全体のイメージとして、よりとりとめがなく熱が増している。中間部でやや抑制を感じるところがあるが、概してこの熱的な渦の多重発生のような音響が続くが、それでも演奏時間45分ごろから、例によってペッテション特有の悲歌と称したいメロディが生まれてくる。第6番から第9番までに比べて、第13番は一層、難産である。そして、悲歌の雰囲気は、やはり厭世的で、か細い。第6番から第9番までの傑作群と似ているが、その音楽の性質は、より難渋さを感じさせるものとなっている。この交響曲が、先の4曲と比較し、代表作とされることのない一因であろう。私も、この交響曲を聴くのであれば、少なくとも、第6番~第9番の4曲を聴いて、心を動かされた経験のある者でないと、なかなかついて行けないところがあると思う。ただ、その音楽は、まぎれもないペッテションならではのものであることも間違いないだろう。
 第14番も成熟を感じさせる作品。当盤における演奏時間は47分であり、第13番に比べるとだいぶコンパクトになっている。この交響曲は、ペッテションの交響曲の中で、聴きやすいものの一つであろう。無調的だが、調整的な響きが整えられており、かつ絶望を描くとともに、それに抗う闘争の意志のようなものが随所に感じられ、一般的な意味で感情移入しやすいからだ。冒頭から、他のペッテションの交響曲と比較しても、絶望一色に染め抜かれたわけではなく、どこか安寧さを感じさせる音色が平行してあり、そこから断片的なフレーズの積み重ねと変容が起こるが、金管を中心とした付点が印象的なリズムがたびたび繰り返さえ、これが活力のように供給される。そのため、一方的に打ちのめされて退廃的な余情に至るというより、表現に外向的な表出性があり、ある意味で、ペッテションにしては普通な感じとなり、それが、わかりやすさ、聴きやすさという印象につながっていると思う。アルネルとベルリン放送交響楽団は、ほどよく柔らかみのあるトーンで、中央ヨーロッパ的な、中音域の豊かな響きで音楽を描いており、そういった点でも楽曲の聴きやすさを増し、絶望の中にも戦いや暖かいものを感じさせる演奏となっている。ことに金管の落ち着きながらも緊迫感を演出する響きは、さすがの至芸を感じさせる。
 第15番は1978年に書かれた作品で、ペッテションが確立した書法が成熟し、冗長性が和らぎ、単一楽章の音楽は、コンパクトになっている。当盤における演奏時間は38分ほどで、ペッテションの交響曲にしては短い。第12番~第15番の4曲は、一つの群をなしているように思えるが、その中で第15番には、病的な絢爛を感じる。冒頭から弦を中心とした警告的なフレーズが発生し、やがて、その中から大きなものが出来てくるのは、いつものペッテションのパターンではあるが、第15番には、様々な要素の交錯があり、作曲技法的な側面でより理論的なものを感じさせる部分が多い。後半に入って、弦楽陣を主体とした厚みのある響きが滔々と流れる様は印象的である。楽曲全体としては、書法的な成熟がある一方で、難渋な面も多くある。とはいえ、強音か飛び散るような個所の絢爛さは、この楽曲の特徴であり、ルジッカとオーケストラも、十分な熱気をもってこれを表現している。
 最後に収録されているルジッカの作品は、タイトル通りペッテションへのオマージュである。ルジッカの他の作品と比べて、ロマンティックな響きを持ち、ペッテションを彷彿とさせるオーケストラ作品となっている。ルジッカのいつもの作風とずいぶん肌合いが異なるので、この作曲家にこのような一面があったのか、と感じさせてくれる。当全集の末尾に添えられた、ファン代表からペッテションへの謝辞のようにも思える。

交響曲 第2番 交響的断章
フランシス指揮 BBCスコティッシュ交響楽団

レビュー日:2020.1.15
★★★★☆ 「悲痛」を描いた交響曲作家ペッテションが完成した最初の交響曲
 スウェーデンの作曲家、アラン・ペッテション(Allan Pettersson 1911-1980)は、十二音音楽の権威の一人であるレイホヴィッツ(Rene Leibowitz 1913-1972)に師事し、40歳を過ぎてから作曲活動を開始した。その創作活動の多くは「交響曲」を書くことに注がれ、破棄された交響曲第1番を除けば、第2番から第16番まで、15曲の交響曲を手掛けることになる。
 彼の交響曲は、長大な単一楽章構成を基本とする。その作風は十二音音楽というより無調に近く、むしろ初期の作品の方に前衛的な色彩が濃い。また、それらの作品は、いずれも終始悲劇的な色合いであり、関節炎の痛みに苦しめられた彼の後半生となぞらえて、絶望が描かれているとの認識が一般的である。
 私はペッテションという作曲家のことをあまり知らないのだが、彼の遺した交響曲が、一部で熱狂的な支持を得ていることは知っていた。
 当盤にはアラン・フランシス(Alun Francis 1943-)指揮、BBCスコティッシュ交響楽団の演奏で、以下の2作品が収録されている。
1) 交響曲 第2番
2) 交響的断章
 1994年の録音。
 前述の通り、交響曲第2番はレイホヴィッツの指導を経て、作曲者が「最初に」完成した交響曲ということになる。単一楽章構成。冒頭から、不穏な3連音からなるフレーズが繰り返され、それらが重ねられたり、変容されたりしながら、膨張と収縮を繰り返してゆく。その音楽は緊張を感じさせ、聴き手を安らがせるような要素がほとんどない。この交響曲で、ペッテションの作風はまだ未成熟とはいえ、無調ならではのいつ終わるかわからないような不穏さが持続していく。リズムとしては、特に難しいものではないが、フレーズがとても抽象的というか断片的というか、つかみどころの少ないものであるため、表情が一様に険しいものとなる。
 交響曲第2番は、ペッテションの交響曲群における「完成した」最初の作品であり、それゆえにまだペッテションの本領は発揮されていないとされるが、当演奏を聴く限り、十分に作曲家の個性は感じられる。ただし、ペッテション作品の象徴とも言える「悲痛さ」が伝わってくるとはいえ、音楽的手続きとして、その芸術性に言及するならば、それはあまりにも一様でいて、厚みがないようにも感じる。モーツァルトの引用もあるようなのだが、その引用の音楽的必要性や芸術的意図は、私には正直あまりピンと来ない。
 そういった点で、後期の作品である「交響的断章」は、やはり数段「練れた」音楽を示している。フレーズ単体の乾燥した味わいは共通だが、ヴォルテージを上げていく音楽的手腕に練達があり、人の心に訴える力がはるかに大きくなっていて、聴きでがあると言えるだろう。
 演奏については、この曲を他に聴いたことがないので、比較対象があるわけではないのだが、やや音が硬く感じる。もちろん、楽曲の緊張を伝えるために、ある程度硬化した音色は有効であるかもしれないが、聴いていてキツめの響きが続くところがあり、かえって聴き手の気持ちを逸らさせる原因になるのではないか。私の場合、そういうところがあった。とはいえ、当該曲の録音が多いとは言えない現状にあって、この曲の姿を伝えてくれるという点では、十分に役目を果たしてくれる。

交響曲 第3番 第4番
フランシス指揮 ザールブリュッケン放送交響楽団

レビュー日:2020.1.24
★★★★☆ ペッテション初期の実験的な音響を聴くことが出来ます
 アラン・ フランシス(Alun Francis 1943-)指揮、ザールブリュッケン放送交響楽団の演奏で、スウェーデンの作曲家、ペッテション(Allan Pettersson 1911-1980)の以下の2作品を収録。
1) 交響曲 第3番
2) 交響曲 第4番
 1993年の録音。
 交響曲第3番は1955年、第4番は1959年に書かれた作品。ペッテションは第2番から第16番まで15曲の交響曲を書いた(第1番は未完成)が、その多くは長大な単一楽章構成によっている。中にあって例外的に第3番と第8番では「楽章制」が採用されている。第3番は4つの楽章からなる。といっても後半3楽章は続けて演奏される。また当盤では、交響曲第4番についても、5つのパートにわけてトラックを振っており、この交響曲がどのような「部分」から成り立っているか、分かりやすいものとなっている。
 両曲とも、当盤における演奏時間は40分弱で、ほぼ同じ規模を持っている。
 これらの曲は、十二音音楽の権威の一人であるレイホヴィッツ(Rene Leibowitz 1913-1972)に師事して書き上げた第2交響曲に近い無調に基づく音響変化を演出した実験的な作風であると考えられる。とはいえ、そこにはこの作曲家特有の悲痛な色合いが染みわたっており、それが無調ならではの緊張を交えて伝えられる。決して聴いていて楽しい音楽ではなく、深刻な諸相を感じさせる。だが、その一方で、第2交響曲と比べて、やや音が疎らな印象もある。
 交響曲第3番は、両端楽章に激しい悲嘆の感情が描き出されている一方、第2楽章のラルゴでは静穏が描かれるが、荒廃感のある神妙な情感があると思う。
 交響曲第4番は、音響とリズムの妙に、ペッテションらしいアプローチが示される。それらは時に無表情を連想する怖さがあるが、簡素な風合いも持っている。この曲では、ラルゲットで刹那的な美しい旋律が表れるが、それはまだ完成しきらないような不思議な雰囲気を持つ。だが、この要素が、後の第7交響曲におけるペッテション音楽の完成への布石となっているだろう。
 いずれの楽曲も気難しさがあり、音響的な面白さも全般に渋味をベースとしたものと思うが、フランシスの落ち着いた運びで、大要はわかりやすく再現されている。ただし、この後にペッテションが書いた作品群と比較すると、その魅力はやや落ちると言わざるを得ない。

交響曲 第5番 第7番
リンドベルイ指揮 ノールショピング交響楽団

レビュー日:2023.8.2
★★★★★ 精度の高い表現、説得力十分の解釈で描かれたペッテションの交響曲2編
 幼少期の貧困、そして音楽家となってからは病魔に苦しめられたスウェーデンの作曲家、アラン・ペッテション(Allan Pettersson 1911-1980)は、第2番から第16番まで15の交響曲を書き遺した。そのうち第7交響曲は、ドラティ(Dorati Antal 1906-1988)指揮の初演の成功以来、有名曲となった。他にも傑作と呼びうる交響曲を書いたペッテションは、作曲家としては大きな成功をおさめたが、その交響曲は、おおむね悲劇的な色彩に覆われており、「絶望を描いた交響曲作家」としてのイメージが定着している。
 当盤は、スウェーデンの指揮者(作曲家でもある)、クリスティアン・リンドベルイ(Christian Lindberg 1958-)が、スウェーデンのノールショピング交響楽団を指揮して、ペッテションの代表作と言える2作品を録音したもの。収録されているのは、ペッテションが、作風を大きく変えた交響曲第5番と、彼の最初の成功作で、現在でももっとも人気の高い交響曲第7番の2曲。どちらも無調で、長大な単一楽章制が構造上の大きな特徴であるが、当盤では、下記のようにこまかくtrackが振り分けられている。
交響曲 第5番 40'46
 1) Beginning 6'25
 2) Figure 17 5'51
 3) Figure 43 18'13
 4) Figure 129 10'13
交響曲 第7番 41'14
 5) Beginning 2'38
 6) Bar 53 4'52
 7) Bar 172 4'25
 8) Bar 255 3'01
 9) Bar 311 4'36
 10) Bar 389 2'22
 11) Bar 432 0'56
 12) Bar 450 3'08
 13) Bar 512 5'16
 14) Bar 564 2'36
 15) Bar 613 1'57
 16) Bar 648 2'25
 17) Bar 707 3'01
 2017年の録音。
 さて、ペッテションの交響曲の録音として、現在もっとも有名なのは、CPOレーベルが作成した全集CPOの全集で、その全集では、第5番は、フランシス(Alun Francis 1943-)指揮、ザールブリュッケン放送交響楽団(1995年録音)、第7番はアルブレヒト(Gerd Albrecht 1935-2014)指揮、ハンブルク州立フィルハーモニー管弦楽団(1991年録音)であった。私も、その全集を所持しているので、まずはそれとの比較になるが、全般にリンドべルイの方が、早めのテンポを採用している。また、年代の関係もあって、当盤の方が録音精度が上がったこともあり、明暗の描き分けがよりくっきりしているだろう。テンポについては、ペッテションが各交響曲について、その目安として演奏の所要時間を示しており、交響曲第7番は41~42 分としているので、当盤でリンドベルイが採用したテンポは、作曲者の想定に近いものと考えられる。
 第5交響曲は、フランシスの解釈がより悲劇性を強調したものであったのに対し、リンドベルイの演奏は、やや和らいだ印象を与える。金管も、そこまで厳しい咆哮はさせず、同様な箇所における均質性について、精緻な調整が行われた感がある。それでも、2)における深刻なテクスチュアの重なり、4)のトロンボーンの情感などは、発色性豊かな表現性をたたえていて、十分な聴きごたえがあり、また、全体が早めのテンポで締まっているゆえの聞きやすさも、この演奏の魅力の一つになっていると思う。
 第7交響曲も同様のことが言えるが、楽曲の後半、絶望から安寧が生み出されてくるあたりのトーンの描き方は美しい。特に、楽曲の末尾部分に近づくにつれて、オーケストラの表現も、深い情感をたたえるようになり、懐古的な感情が、透明なパレットを用いて描き出されていく。これは、ペッテションの第7交響曲が好きな人には、十分に歓迎される内容になっていると思われる。8)までの怒りの噴出と、その後、やがて古典的なハーモニーが支配していく安寧の世界の流れは、この作品がもつ性格を、単純に前衛的と言い切れるものではないことを示しているが、リンドベルイの解釈は、その点でとても分かりやすい解決が導かれており、安心して身を委ねられる。
 早いテンポを採用したがゆえに、2つの大作が1枚のアルバムに収められたことと合わせて、質の高い録音、聴き手を満足させる演奏で、コスト・パフォーマンスに優れたアイテムになっていると思う。

交響曲 第5番 第16番
フランシス指揮 ザールブリュッケン放送交響楽団

レビュー日:2020.1.27
★★★★☆ 絶望、不安、闇。ペッテションの音楽が描き出すもの。
 アラン・ フランシス(Alun Francis 1943-)指揮、ザールブリュッケン放送交響楽団の演奏で、スウェーデンの作曲家、アラン・ペッテション(Allan Pettersson 1911-1980)の以下の2作品を収録。
1) 交響曲 第5番
2) 交響曲 第16番
 1995年の録音。ペッテションが書いた最後の「交響曲」である「交響曲第16番」は、全編に渡ってアルトサックスが独奏楽器として活躍するので、事実上、サキソフォーン協奏曲であるが、ペッテションはこれを交響曲にカテゴライズした。当盤では、ジョン=エドワード・ケリー(John-Edward Kelly 1958-2015)がアルトサックスを担う。
 生涯において、第2番から第16番まで15曲の交響曲を完成したペッテション(第1番は未完)であるが、そのペッテションがいよいよ独自の語法で音楽を書いたのが、交響曲第5番となる。ブルックナー(Anton Bruckner 1824-1896)が交響曲第2番と第3番の間で、独自性に飛躍を見せたのと同じような「間隙」をそこに見て取れる。思えば、ペッテションもブルックナーも、作曲活動に本腰を入れたのは40歳を過ぎてから。ブルックナーには第1番の前に完成した交響曲が2曲あることを考えると、飛躍のタイミングにも類似を覚える。
 さて、当ペッテションの飛躍であるが、交響曲第4番までは、師であるレイホヴィッツ(Rene Leibowitz 1913-1972)の影響を感じさせる十二音音楽に端を発した無調的な音楽であったのだが、当第5番は無調とは言え、特有の雄弁さを持ち合わせてくる。冒頭の静寂から始まり、音楽がゆっくりと首をもたげるように大きくなる様は、前述のブルックナーを彷彿とさせる。しかし、その色彩はダークで、グロテスクな要素を持っている。やがて、主題が提示されるが、それは音程を大きく行き交う振幅のあるもので、これも今までの彼の作品には見出せない要素となる。
 そして、その主題は、闇をうごめくようにさ迷い始める。そう、この音楽、行く先は杳として知れない。ペッテションの音楽は全般にそうなのであるが、この交響曲第5番からは、そのあやしい本体のようなものが、姿を立ち表せた感があるので、そのもがきにかかわるエネルギーの濃淡が、明瞭に聴き手に伝わるようになってくる。人呼んで、ペッテションが描いた「絶望」である。
 この「絶望」は、音楽自体が、行き着く場所を探しながらも見いだせない様相と、無調ゆえの不安なトーンが綯い交ぜとなって聴き手に及ぼす心理的効果である。聴いていて楽しいものではないが、その不穏さ、時折表れる陰りは、厳しく、痛切だ。弦の細切れな響きにティンパニ、金管が抗い、それを覆うように合奏音がやってくる。そして、次第に沈静化してゆく。そこに退廃的な美を感じる。
 交響曲第16番はそれにくらべると、ずっと健康的といって良い。楽曲も第5番よりずっと短い。だが、終始サキソフォーンが音階を駆け巡るのは、演奏技巧的にかなりのものだ。サキソフォーン協奏曲というと、吉松隆(1953-)の作品が想起されるが、ペッテションの作品は、やはり暗い。この交響曲、第5番や他の多くのペッテションの交響曲と同様に1楽章構成を取るが、当盤は4つの部分にわけてトラック化してある。その第2の部分では、ペッテションならではの旋律が姿を現し、情感を誘う。
 概して、晩年のペッテションの作品は、末期癌に侵されていたいたにもかかわらず、それまでの絶望のトーンを弱めるのだが、この作品も不思議と安定を感じさせる。だが、そこには冷たさや暗さに通じる響きが満ちている。ケリーの圧巻の技巧がそのことを滾滾と伝え、やがて楽曲は終わる。

交響曲 第6番
トロヤーン指揮 ベルリン・ドイツ交響楽団

レビュー日:2020.1.28
★★★★★ 交響曲第6番の後半、ペッテションが、歌で聴き手に語りかける
 マンフレート・トロヤーン(Manfred Trojahn 1949-)指揮、ベルリン・ドイツ交響楽団による、スウェーデンの作曲家、アラン・ペッテション(Allan Pettersson 1911-1980)の「交響曲 第6番」を収録。1993年の録音。
 交響曲第5番で自らの語り口を見出したペッテションによる意欲作といって良いだろう。交響曲第6番は長大な単一楽章からなる交響曲で、当盤における収録時間は60分を少し越すくらい。恵まれない家庭で過ごした幼少年期、そして作曲活動を志すころから襲われた関節炎により、ペッテションはその音楽作品に自らの「絶望」を反映するようになったといわれる。第6番もまた無調の音楽であるが、この楽曲は調性的な分かりやすさを併せ持っている。この後、第7番、第8番といった、名作を手掛けることになるのだが、この第6番もまた名作といって良いだろう。
 冒頭、内省的な序奏と思われる部分がある。3分を超えたころから、運動的なフレーズが表れてきて、ペッテション節とも言うべき膨張が十分な時間を費やして行われる。この部分は、やはりダークな成分が多く、なかなか聴いていて気持ちが沈むところがある。とはいえ、フレーズの表現方法を変えながら、ときに鋭い陰りが射すように添えられる装飾性は、音楽的に面白いところが多く、なかなか興味深く味わわせてくれる。楽曲全体が半分にさしかかるころ、ここでこの曲は大きく様相を変え、大地に身を横たえるように、安寧さを身に着け、沈むような効果を見せる。この部分で弦楽アンサンブルの表現は、意欲的なものが求められるが、トロヤーンの指揮の下、ベルリン・ドイツ交響楽団は必要な重量感を弦楽器陣の輝かしさをもって、この楽曲の味を存分に行き渡らせてくれる。ここからは、さながら鎮魂歌を思わせるような、鬱であるが、情緒的な旋律が繰り返される。
 楽曲にフィナーレが近づいてきた頃、音楽はもう一度様相を変え、弦楽器陣の厚いグラデーションは、黄昏を描くような美しい暖かさを宿していく。この部分は、私にマーラー(Gustav Mahler 1860-1911)の第9交響曲の終楽章のアダージョを強く想起させた。音色だけでなく、ペッテションの第6交響曲とマーラーの第9交響曲の間には、精神的な親近性があると思う。
 ペッテションの交響曲第6番の後半は、旋律的で情緒的である。またペッテションが、はじめて聴き手の側に、その歌をもって近づいてきた音楽であるようにも感じる。傑作群を生み出す展轍点にある作品とでも表現するとよいだろうか。
 トロヤーンは、成熟を感じさせる音幅のある合奏音で、この情感を鮮烈に描いており、印象に深く刻まれる。

交響曲 第7番
アルブレヒト指揮 ハンブルク州立フィルハーモニー管弦楽団

レビュー日:2020.1.23
★★★★★ 近現代の名曲の一つ、ペッテションの第7交響曲
 スウェーデンの作曲家、アラン・ペッテション(Allan Pettersson 1911-1980)は、家庭内不和と貧困に喘いだ少年時代を過ごし、後半生も病魔との闘いに苛まれた人で、40歳を過ぎてから開始した「作曲活動」により、絶望を描いたと言われる数多くの交響曲を生み出した。
 そんなペッテションの名を一躍世界的なものとしたのが、ハンガリーの名指揮者、ドラティ(Antal Dorati 1906-1988)によって見出され、初演、録音を通じて紹介された「交響曲 第7番」である。交響曲第7番が作曲されたのは、1966年から67年にかけてであるが、このころ、ペッテションは関節炎の痛みに苦しめられ、作曲のペンを取るのも一苦労だったそうだ。しかし、そんな交響曲は、高く評価され、以後、ペッテションは経済的な自由を獲得する。ただ、この人は、その後も、「絶望」に近いものを感じさせる交響曲を書き続けることになるのだが・・・・
 ペッテションの交響曲第7番は、ペッテションが完成した第2番~第16番の15曲の交響曲のうち、最高傑作と認識されることが一般的で、人気も高い。録音点数も多いだろう。当盤は、cpoレーベルによるペッテションの交響曲全集製作の一環としてリリースされたもので、ゲルト・アルブレヒト(Gerd Albrecht 1935-2014)指揮、ハンブルク州立フィルハーモニー管弦楽団による1991年のライヴの模様が収録されている。演奏時間は45分弱で、テンポはややゆったりめの解釈となっている。
 ペッテションの多くの交響曲がそうであるように、この曲も単一楽章によって構成される。楽曲の全容は三部形式に近い。また、場所によって曲想が大きく変わる。冒頭から、リズムにのって、どこかエスニシティを感じさせながらも不穏な主題が提示される。これが徐々にもがきながらも力を蓄えるようにして、音楽を盛り上げていく。ティンパニ、金管の強奏で加わっていき、一つの頂点を築くが、当盤で言えば演奏時間17分程度のところで、急に音楽は安らぎの表情を見せる。この「救い」はペッテションの交響曲ではあまり多くない要素であり、それが第7交響曲の特徴といえる。さらに、音楽がもう少し進んで30分を過ぎると、今度は回顧的ともいいたい暖かい旋律が弦楽合奏から生まれてくる。このあたりは本当に感動的だ。マーラーの第9交響曲の終楽章のような、それよりもいくぶん讃歌調の、懐かしさのある音楽で、異様なほどに美しい。しかし、やがて楽曲は冒頭の不穏さに帰結してゆき、静寂と暗闇の終幕に向けて、息をひそめていく。
 これは確かに良く出来た作品だ。近現代の名曲の一つ、といっても良いだろう。ペッテションの交響曲ではこの第7番と第8番が親しみやすいという一般的評価に、私はいたく同意する。
 ゲルト・アルブレヒトの解釈は、この交響曲の持つ穏やかな一面に焦点をあて、その前後の起伏をいくぶん緩やか目に描いた印象だ。弦楽器か奏でる旋律のぬくもりも忘れがたい。攻撃的な側面も、決して弱いというわけではなく、十分な表出力を感じさせる。鮮やかな演出を経て、静寂に帰っていくラストは、劇的で、忘れがたい。

交響曲 第8番
T.ザンデルリンク指揮 ベルリン放送交響楽団

レビュー日:2020.1.16
★★★★★ 自然謳歌的な暖かみを持った音楽。ペッテションの音楽が描くものは「絶望」だけじゃない。
 スウェーデンの作曲家、アラン・ペッテション(Allan Pettersson 1911-1980)は、十二音音楽の権威の一人であるレイホヴィッツ(Rene Leibowitz 1913-1972)に師事し、40歳を過ぎてから作曲活動を開始した。その創作活動の多くは「交響曲」を書くことに注がれ、破棄された交響曲第1番を除けば、第2番から第16番まで、15曲の交響曲を手掛けることになる。
 彼の交響曲は、長大な単一楽章構成を基本とする。その作風は十二音音楽というより無調に近く、むしろ初期の作品の方に前衛的な色彩が濃い。また、それらの作品は、いずれも終始悲劇的な色合いであり、彼の置かれた境遇の厳しさを照らした絶望が描かれているとの認識が一般的である。
 当盤は、トーマス・ザンデルリング(Thomas Sanderling 1942-)指揮、ベルリン放送交響楽団の演奏で、「交響曲 第8番」が収録されている。1984年のライヴ音源。
 ペッテションの交響曲が描き出す「絶望」の色合いには、ペッテション自身が子供時代に経験した不幸な家庭生活、そして作曲家活動中に患った関節炎という痛みを伴う病気の反映があると言われる。また、40歳を過ぎてから開始した作曲活動が、世に認められるのにも、時間を要した。
 そんな中、彼の作曲家としてのステイタスが一気に確立したのは、作曲者56歳の年、1967年に書きあげた交響曲第7番がドラティ(Antal Dorati 1906-1988)に認められ、彼の演奏と録音を通じて世界に紹介されてからである。そんな折の1969年に、当交響曲第8番が生み出された。
 ペッテションという作曲家は、絶望的な人生を送ったと言われる。彼の遺した言葉、例えば「私は音楽が止まってしまうことを恐れた。なぜなら、そこには恐ろしい世界が頑として現れるからである」なども、絶望を連想させる。しかし、彼の人生は、決して絶望ばかりがあったわけではないであろう。最終的に彼の芸術は認められ、名声を博すことで、彼の生活は困窮とは無縁になった。病気に悩みながらも作曲活動は継続し、彼の活動を支える妻もいた。
 私は、交響曲第8番という作品に、「絶望」というより、どこか暖かなもの、それでいて、すべてを手に入れることはかなわないもの(憧憬)が描かれているように感じられる。冒頭は静寂から始まるが、息の長い旋律がゆっくりとその姿をもたげ、やがて大きなエネルギーを蓄えていく様は、私にはどこか自然賛歌的に聴こえる。そう、この交響曲は実に分かりやすい。ペッテションの交響曲の中では特に親しみやすいものの一つだろう。情感が豊かなのだ。彼の書いたものは何もかも絶望だ、という宣伝文句的テーゼは、私にはピンとこない。そもそも、そんなに絶望しきった人間が、15曲も交響曲を書きあげられるはずがないのである。
 また、私は、交響曲第8番に、ラウタヴァーラ(Einojuhani Rautavaara 1928-2016)の一部の作品に通じるものを感じる。ラウタヴァーラも自然のおおらかさを歌い上げるような音楽を書いた人だ。もう一度ペッテションの第8交響曲を聴いてみよう。黄昏が地平を染め抜いていく。そこから何かがこちらに降りてくるようでいて、結局それは元の世界に戻っていき、自分のところには来ない。そんな表現が滾滾と描き出されていく。クライマックス目掛けて金管とティンパニが壮大な力を込めていく激性など、実に美しく、壮大だ。
 トーマス・ザンデルリンクとベルリン放送交響楽団は、この曲に相応しい「緩やかさ」を存分に表現しているだろう。ペッテション入門にも絶好の一枚といって良い。
 なお、この交響曲第8番は、ペッテションの交響曲にしては珍しく2楽章構成となっている。ただし、2つの楽章は、ほとんど合間がなく、連続的に演奏され、性格的にも近しい。

交響曲 第9番
フランシス指揮 ベルリン・ドイツ交響楽団

レビュー日:2020.2.28
★★★★★ フランシスの入念な音作りでじっくりと仕上げられたペッテションの代表作
 アラン・フランシス(Alun Francis 1943-)指揮、ベルリン・ドイツ交響楽団の演奏による、スウェーデンの作曲家、アラン・ペッテション(Allan Pettersson 1911-1980)の「交響曲 第9番」を収録。
 「絶望を描いた」と言われるペッテションの交響曲は、完成作品として第2番から第16番まで15曲が遺されている。幼少期から少年期のペッテションは、家庭内不和と貧困という厳しい境遇を過ごしながらも、ヴィオラ奏者として生計を立てるようになるが、40代をすぎて、作曲活動に入る。しかし、重い関節炎を患い、その後半生は病気との闘いだったという。
 そんなペッテションが書く交響曲は、深刻な表層が続き、「救い」につながる情感を得られる部分は少ない。作曲者の歩んだ人生に照らして「絶望が描かれている」というのも、わかりやすい形容だ。
 ただ、ペッテションの人生は、当然のことながら、すべてが絶望だったわけではない。もし、そうだったら、こんなにたくさん交響曲を書いたりしなかっただろう。彼の生き方を献身的に支える妻がいただけでなく、彼の交響曲第7番は、いちはやく世界でその価値を認められ、以後、彼は経済的には不自由のない日々を送ることができた。
 そんなペッテションの作品の中で、第7番とともに人気曲となっているのが、この第9番である。ペッテションらしい長大な単一楽章で構成された作品で、当盤の演奏時間は69分。ただ、この演奏時間は、他の演奏と比べると、少し長め。
 というわけで、フランシスはじっくりと腰を据えるようなスタイルで、この大きな作品を鳴らしている。冒頭から不穏な気配のたちこめるフレーズが、繰り返されながら、ゆっくりと巨大な姿を起こしていくのだが、いつものペッテションのように、そこには押さえつけられるような不安があり、エネルギーは外に発散せず、内側で渦巻くようにして立ち込めていく。やがて楽曲はパーカッションの響きとともに、その緊迫感を高めていくが、途中からそれは悲愴とあきらめが綯い交ぜになったような歌に姿を変え、これが延々と紡がれていく。歌は、ときに高まり、ときに抑制しを繰り返すが、こちらも開放されることはなく、あるとき、ふと終りを迎える。この過程が、69分間で起こることの大要である。
 第9交響曲の特徴は、フレーズの分かりやすさ、それに基づく構成がよく出来ていること、そして歌がもっている退廃的とも言える美しい旋律性にあるだろう。これらの要素があいまって、ペッテションの代表曲と呼ぶにふさわしい音楽的充実があり、その音楽を聴く者に感動を呼び起こさせてくれる。
 フランシスの演奏は、遅めのテンポ設定で、その過程を丁寧に描いたものと言えそうだ。ところによっては、テンポを増すことで切迫感をもっと出してもいいのでは、と思うところもあるが、しかし、作品を知り、その魅力に触れるという点では十分な内容で、ペッテションの入門盤としても、適当な一枚と言えるだろう。

交響曲 第10番 第11番
フランシス指揮 ハノーファー北ドイツ放送フィルハーモニー管弦楽団

レビュー日:2020.1.20
★★★★☆ 慟哭と調性の狭間にペッテションの美意識が描かれる
 アラン・フランシス(Alun Francis 1943-)指揮、ハノーファー北ドイツ放送フィルハーモニー管弦楽団による、スウェーデンの作曲家アラン・ペッテション(Allan Pettersson 1911-1980)の以下の2作品を収録。
1) 交響曲 第10番 1994年録音
2) 交響曲 第11番 1993年録音
 ペッテションは十二音音楽の権威の一人であるレイホヴィッツ(Rene Leibowitz 1913-1972)に師事し、40歳を過ぎてから本格的な活動を開始した交響曲作曲家である。その作風は、「絶望を描いた」と形容されるもので、そこには彼の不遇な少年時代や、後半生の病魔との闘いが反映しているとされる。
 当盤に収録された2作品は、1970年から73年にかけて書かれた。ペッテションはこの間に腎臓病を患い、9か月に渡る入院生活を送っており、これら2作品には、その絶望ぶりが描かれているとされる。
 実際に聴いてみると、それは猛々しいほどの怒りの感情を伴った負の感情が描かれている。確かに9か月の入院は心身に重い負担であったに違いないが、この交響曲を聴いていると、「もうすこし医療者のことを信頼しても良かったのでは」と思ってしまうほどに救いがない。もちろん、当時の彼が。どのような心持で過ごしていたのか、私には分からないけれど、第7交響曲の成功以来、彼は経済的な面で不自由はなく、また妻の支えも大きいものがあったそうだ。にもかかわらず、この悲痛一色と感じられる音楽は、なかなかに痛々しい。
 収録されている両曲は、他のペッテションの多くの交響曲と同様に、単一楽章形式。楽曲の規模自体は、どちらも当盤の収録時間で30分以下であり、大曲というわけではない。ただ、楽曲の聴き味は重い。
 交響曲第10番はほぼ全編で疾風のような激しさに満ちている。ショスタコーヴィチ(Dmitri Shostakovich 1906-1975)の第4交響曲を思い起こす人もいるかもしれない。スネアドラムが深刻な響きを続ける中で、警句的と称したい断片的なモチーフが奏でられていくが、何か高まろうとすると他のものに抑え込まれるような救いのない抗争が繰り広げられる。やがて、のたうちながらも、楽曲はクライマックスのようなものを辿るが、それでも、苦し気にうごめき、解放感はない。やがて、叙情的なパートを踏まえながら、悲しい色で曲は終わっていく。
 実に暗い。暗いのだが、ファゴット、ヴァイオリン、トランペットといった楽器の「叫び」にも通じる使用は、印象的であり、この曲ならではの美しさをもまとっている。聴いていて、相応のメッセージを受けることになるだろう。
 交響曲第11番は、第10番に比べると、攻撃性が弱まっていると感じられるが、方向性は一緒であり、親近性が高い。穏やかな様でいて乱れており、叙情的な様でいて荒んでいる。第10番に比べて内向的ではあるが、逆に閉塞的なものもある。旋律には、慰めの要素が残っており、こまかく琴線に触れるフレーズもあるが、多様であり、エネルギー的な可変性が高い。
 これらの音楽は、慟哭的で悲痛さを感じさせるものであり、聴く側にも相応の心持ちを求めるものだと思う。ただ、調性的なものと、無調的なものの間を揺らぐようにして描かれる音楽は、個性的な魅力と美しさも持っている。聴く人を選ぶとはいえ、芸術作品としての価値は高いものが示されていると思う。ペッテションを深く理解するアラン・フランシスの棒の下、オーケストラも、エネルギッシュに響いている。

交響曲 第12番「広場の死者」
ホーネック指揮 スウェーデン放送交響楽団 スウェーデン放送合唱団 エリック・エリクソン室内合唱団

レビュー日:2020.3.17
★★★★☆ ペッテションの異色作。社会性を説いたカンタータ交響曲
 マンフレート・ホーネック(Manfred Honeck 1958-)指揮、スウェーデン放送交響楽団、スウェーデン放送合唱団、エリック・エリクソン室内合唱団の演奏で、スウェーデンの作曲家、ペッテション(Allan Pettersson 1911-1980)の 交響曲 第12番 「広場の死者」 を収録。2004年の録音。
 幼少期から貧困に晒され、その後は病魔と闘いながら音楽活動をつづけたペッテションは、自らの音楽で「絶望」を表現したとされる。ペッテションは第2番から第16番まで15曲の交響曲を完成し、世に遺した。彼の名を一気に高めた交響曲第7番をはじめ、第6番から第9番までの4曲は「傑作」と呼ぶにふさわしい内容を持っている。
 ペッテションの書いた交響曲は、その多くが純器楽のための単一楽章構成によるものである。中にあって、異色作と呼べるのが、当交響曲第12番である。この曲は、コーラスがメインであり、実質的にはカンタータと言って良い内容だろう。
 この楽曲は、成功作によりすでに名声を得ていたペッテションに対し、ウプサラ大学が、その創立500周年記念式典のために作曲を依頼し、それに応じて書き上げられたもの。
 テキストには、母国チリを中心に、迫害に抗しながら反権力・共産主義活動を行った、ノーベル文学賞受賞者でもある詩人パブロ・ネルーダ(Pablo Neruda 1904-1973)によるものが採用されている。ネルーダの詩は、1946年1月28日に、サンティアゴの広場で、労働運動(レジスタンス)を行っていた8人の労働者が、警察により死傷させられた事件を扱っている。貧困の中で育ったペッテションにとって、共鳴するところが多かったと思われるが、詩はスペイン語によるものであり、英語訳は付されていない。どうやら英語訳を添付できない法的理由があるらしいのだが、詳細はわからない。
 全曲は、下記の通り9つの楽章に分かれているが、全曲はアタッカで演奏されるため、ペッテションお得意の単一楽章構成と見なすことも出来るだろう。
1) 第1楽章 広場にて死す(De doda pa torget)
2) 第2楽章 虐殺(Massakern)
3) 第3楽章 塩硝の男(Nitratets man)
4) 第4楽章 死(Doden)
5) 第5楽章 旗の由来(Hur fanorna foddes)
6) 第6楽章 呼び覚ますもの(Jag kallar pa dem)
7) 第7楽章 敵(Fienderna)
8) 第8楽章 彼らはここに(Har ar de)
9) 第9楽章 いつの日も(Alltid)
 楽曲は冒頭から弦楽の悲愴なコントラストを備えた早いパッセージが導入され、パーカッションが激性を高めながら、コーラスが開始される。性急な緊迫感とともに、スネアドラムの響きが怒りにも似た音色を奏で続ける。全般に、パーカッションの活躍は全曲を通して目立ち、第2楽章、第3楽章でも重要な役割を果たしていく。第4楽章は無調的で、不穏、不安が色濃く立ち込めており、鬱な音楽である。楽曲が後半に進むと、ソプラノのパートに、叫びにも似た悲痛さが備わっていくが、末尾には希望も感じられるように終わるのは、ペッテションの作品では珍しい展開だ。
 録音はライヴ録音とのことだが、大きな乱れもなく、感覚的な鋭さを感じさせる表現が感じられる。ホーネックはペッテションの作品に大きな敬意を持っているそうだが、そのことが感じられる演奏だ。ペッテションの交響曲群の中で、異色の存在感を誇る交響曲第12番の姿を良く伝えている。

交響曲 第13番
フランシス指揮 BBCスコティッシュ交響楽団

レビュー日:2020.3.18
★★★★☆ 熟成した絶望?ペッテションの交響曲第13番
 アラン・ フランシス(Alun Francis 1943-)指揮、BBCスコティッシュ交響楽団の演奏で、スウェーデンの作曲家、アラン・ペッテション(Allan Pettersson 1911-1980)の「交響曲 第13番」。1993年の録音。
 第2番から第16番まで、生涯に15曲の交響曲を完成したペッテション。交響曲第6番から第9番まで、独自の語法を完成したと考えられる4つの名作と呼びうる作品を書いたのち、第10番以降、別の方向性を模索していたが、この第12番で、第9番までのスタイルに回帰したと考えられる。
 ただ、第12番は、より熱的な坩堝感が混沌としており、長大な単一楽章は、より連続的で、区切りのようなものがなく、模糊としてとりとめがない。弦楽器が中心となって、例によって悲痛、絶望を印象付けるようなフレーズが刻み続けられるが、なにか大きなものが盛り上がるかと思いきや、叩きつけられるように伏せられていく。その繰り返しが連続する様は、さながら「阿鼻叫喚を描いた音楽」のようだ。音の強弱の観点で言うと、第6番から第9番までの4曲に比し、強音側の表現は増えており、ある種の騒々しさを伴う。だから、全体のイメージとして、よりとりとめがなく熱が増している。
 中間部でやや抑制を感じるところがあるが、概してこの熱的な渦の多重発生のような音響が続くが、それでも演奏時間45分ごろから、例によってペッテション特有の悲歌と称したいメロディが生まれてくる。第6番から第9番までに比べて、第13番は一層、難産である。そして、悲歌の雰囲気は、やはり厭世的で、か細い。
 第13番は第6番から第9番までの傑作群と似ているが、その音楽の性質は、より難渋さを感じさせるものとなっている。この交響曲が、先の4曲と比較し、代表作とされることのない一因であろう。私も、この交響曲を聴くのであれば、少なくとも、第6番~第9番の4曲を聴いて、心を動かされた経験のある者でないと、なかなかついて行けないところがあると思う。ただ、その音楽は、まぎれもないペッテションならではのものであることも間違いないだろう。
 アラン・フランシスは、BBCスコティッシュ交響楽団から、この交響曲を表現するための適切な音色を引き出した感があり、信頼すべきペッテション解釈者としての手腕をふるっている。

交響曲 第14番
アルネル指揮 ベルリン放送交響楽団

レビュー日:2020.3.26
★★★★★ ペッテションの交響曲群の中にあって、聴きやすい要素の多い第14番
 ヨハン・アルネル(Johan Arnell 1947-)指揮、ベルリン放送交響楽団の演奏で、スウェーデンの作曲家、アラン・ペッテション(Allan Pettersson 1911-1980)の「交響曲 第14番」を収録。1988年の録音。
 幼年期の恵まれない家庭環境、そして、音楽家として活動するようになってからは痛みを伴う病気に苦しめられ、絶望を表現し続けたとされるペッテション。その音楽活動の主脈となっているのが、交響曲群である。第1番は未完となっているが、ペッテションは第2番から第16番まで、15曲の交響曲を世に送り出すことになる。最初のうち、その活動は、目立たないものだったが、交響曲第7番が、ハンガリーの名指揮者、ドラティ(Dorati Antal 1906-1988)の目に留まり、各地で取り上げられるようになると、一気に評価が高まった。第7番をはじめ、第6番から第9番までの4曲は、いずれも名作と形容するにふさわしい作品であり、こんにちでは、それなりの録音数もある。作曲家としてのステイタスを確立したペッテションは、以後経済的な制約からは解き放たれえるが、以後も悲劇的な作風の音楽を書き続けた。
 交響曲第14番は成熟期の作品と言うことができるだろう。ペッテションが得意として単一楽章構成による楽曲であるが、当盤における演奏時間は47分であり、他のペッテションの交響曲と比べると、コンパクトにまとまっているものの一つであろう。
 この交響曲、個人的にはペッテションの交響曲の中で、聴きやすいものの一つと思う。無調的だが、調整的な響きが整えられており、かつ絶望を描くとともに、それに抗う闘争の意志のようなものが随所に感じられ、一般的な意味で感情移入しやすいのだ。冒頭から、他のペッテションの交響曲と比較しても、絶望一色に染め抜かれたわけではなく、どこか安寧さを感じさせる音色が平行してあり、そこから断片的なフレーズの積み重ねと変容が起こるが、金管を中心とした付点が印象的なリズムがたびたび繰り返さえ、これが活力のように供給される。そのため、一方的に打ちのめされて退廃的な余情に至るというより、表現に外向的な表出性があり、ある意味で、ペッテションにしては普通な感じとなり、それが、わかりやすさ、聴きやすさという印象につながっていると思う。
 アルネルとベルリン放送交響楽団は、ほどよく柔らかみのあるトーンで、中央ヨーロッパ的な、中音域の豊かな響きで音楽を描いており、そういった点でも楽曲の聴きやすさを増し、絶望の中にも戦いや暖かいものを感じさせる演奏となっている。ことに金管の落ち着きながらも緊迫感を演出する響きは、さすがの至芸を感じさせる。

ペッテション 交響曲 第15番  ルジッカ ペッテションへのオマージュ
ルジッカ指揮 ベルリン・ドイツ交響楽団

レビュー日:2020.3.30
★★★★☆ 成熟を経て、絢爛へ至ったペッテションの絶望
 ドイツの現代音楽作曲家で指揮者でもあるペーター・ルジッカ(Peter Ruzicka 1948-)指揮、ベルリン・ドイツ交響楽団の演奏で、以下の2曲を収録。
1) ペッテション(Allan Pettersson 1911-1980) 交響曲 第15番
2) ルジッカ ペッテションへのオマージュ
 1)は1993年、2)は1992年の録音。
 恵まれない家庭時代を過ごした幼少期、痛みをともなう病魔と闘った成人期を通じ、「絶望」を描く交響曲作家となったスウェーデンの作曲家、アラン・ペッテションは、第2番から第16番まで15曲の完成した交響曲を世に遺した。第7番の成功で、作曲家としてのステイタスを確立し、経済的な制約から解き放たれた以後も、彼の創作性向は悲劇的で、多くの交響曲が、絶望を聴き手に印象付けるが、印象がすべて絶望というわけではなく、その作品の中で聴かれる歌の美しさなど、忘れがたいものも多い。
 交響曲第15番は1978年に書かれた作品で、ペッテションが確立した書法が成熟し、冗長性が和らぎ、単一楽章の音楽は、コンパクトになっている。当盤における交響曲第15番の演奏時間は38分ほどで、ペッテションの交響曲にしては短い方。
 第12番~第15番の4曲は、一つの群をなしているように思えるが、私はその中では第14番がいちばん聴き易く、楽しいと思った。第15番は、なんと表現しようか迷うが、私は病的な絢爛を感じる。
 当盤では、第15番を5つのトラックに分けて収録している。冒頭から弦を中心とした警告的なフレーズが発生し、やがて、その中から大きなものが出来てくるのは、ペッテションのいつものパターンではあるが、第15番では、様々な要素の交錯があり、作曲技法的な側面でより理論的なものを感じさせる部分が多い。4トラック目で、弦楽陣を主体とした厚みのある響きが滔々と流れる様は印象的である。楽曲全体としては、書法的な成熟がある一方で、難渋な面も多くある。とはいえ、強音か飛び散るような個所の絢爛さは、この楽曲の特徴であり、ルジッカとオーケストラも、十分な熱気をもってこれを表現している。
 併録されているルジッカの作品は、タイトル通りペッテションへのオマージュであり、ルジッカの他の作品と比べて、ロマンティックな響きを持っており、ペッテションを思わせるオーケストラ作品となっている。ルジッカのいつもの作風とずいぶん肌合いが異なるので、この作曲家にこのような一面があったのか、と感じさせてくれる。ルジッカの、ペッテションへの熱い思いが感じられる。


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