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オルフ



声楽曲

カルミナ・ブラーナ
スラトキン指揮 セントルイス交響楽団 合唱団 少年合唱団 S: マクネアー T: エイラー Br: ハーゲゴール

レビュー日:2011.5.25
★★★★★ 目も覚める様な「カルミナ・ブラーナ」です
 オルフの「カルミナ・ブラーナ(世俗カンタータ)」・・・今や言わずと知れた通俗曲の録音。レナード・スラトキン(Leonard Slatkin 1944-)指揮、セントルイス交響楽団、同合唱団、少年合唱団の演奏。独唱陣は、ソプラノがシルヴィア・マクネアー(Sylvia McNair)、テノールがジョン・エイラー(John Aler)、バリトンがホーカン・ハーゲゴール(Hakan Hagegard)。1992年の録音。
 意外と知られていないが、このディスク、目も覚める様な快演奏&快録音である。私がこの曲を始めて聴いたのはストコフスキーの怪演である。それは、面白い演奏なのだけれど、ストコフスキー独自のアレンジが随所にあって、いま思うとむしろ魅力的「怪演」といったところ・・・・その後、有名なヨッフムや、レヴァイン、デュトワなど聴いてきた。レヴァインには相当な迫力を期待したが、意外と細身の音だった印象があり、最近ではこの曲に俗っぽいイメージが付きまとうようになり、当方の気分で勝手に避けてきたところ。
 ところが、久しぶりにこの廉価のスラットキン盤を聴いて、なんとも鮮烈で爽快な気分になれた。なるほど、私はこういう演奏が聴きたかったのかもしれない。
 まず、この演奏であるが、とにかく鋭角的なリズム、スリリングな輪郭が見事である。冒頭曲のあまりにも有名な「おお、運命の女神」では、ぐわっと曲がアップテンポで盛り上がって行くところで、迫力満点のティンパニがすごい。重いというより鋭いヒット感で、ダダダダーン、と小気味よく貫くような音色。これに続く「運命の女神の痛手を」では、金管のファンフアーレのバックでくっきりと浮き立つ木管の速いパッセージの明瞭さが際立っている。いずれにしても強靭なエネルギー片を叩きつける様な豪快なサウンド。一方でテンポは基本的にインテンポで、「世俗的」なニュアンスはむしろ押さえたクールさがある。
 迫力の演出に欠かせないのが見事な録音技術。インパクトの瞬間を鮮明に、的確な距離感で捉えている。「昔は湖に住まっていた」などは本録音の高い品質が如実に伝わってくるリアルさに満ちている。また全体に合唱も良好な距離感で捉えられている。
 当盤のもう一つの聴き所はソプラノのシルヴィア・マクネアーの歌唱。「とても、いとしいお方(Dilcissime)」に代表されるが、随所で美しい響きを聴かせる。というわけで、本当に久しぶりにカルミナ・ブラーナで楽しませていただいた。この曲、もっといろいろ聴いてみてもいいかな。

カルミナ・ブラーナ
ラトル指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 S: マシューズ T: ブラウンリー Br: ゲルハーヘル ベルリン放送合唱団 ベルリン大聖堂国立合唱団少年合唱団員

レビュー日:2019.2.13
★★★★☆ ラトル2004年録音のカルミナ・ブラーナ
 2002年から2018年までベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者兼芸術監督を務めたサイモン・ラトル(Simon Rattle 1955-)が、その時期の最初のころに録音したものが廉価のBox-setとなったので、この機会に入手して聴いている。その1枚が当盤に相当。オルフ(Carl Orff 1895-1982)の名曲「カルミナ・ブラーナ」で、2004年のライヴ録音。複数回のライヴ録音からベストテイクを編集する形でメディア化されていて、聴き味はスタジオ録音に近い。
 合唱はベルリン放送合唱団とベルリン大聖堂国立合唱団少年合唱団員、独唱はソプラノがサリー・マシューズ(Sally Matthews 1975-)、テノールがローレンス・ブラウンリー(Lawrence Brownlee 1972-)、バリトンがクリスティアン・ゲルハーヘル(Christian Gerhaher 1969-)。
 この曲に何を求めるかで評価が異なってくる演奏だろう。ラトルの指揮はリズム感が鋭くこれを表現する楽器が前面に出る。ティンパニをはじめとする打楽器群の鋭角的な音色が全体の印象を支配的に形作る。ダイナミックレンジは広く、静寂は息を殺すようだ。冒頭の「おお、運命の女神よ」は壮烈なティンパニ強打で開始されるが、それに続く緊張は、静謐な中でひたすら正確なリズムを刻むことで達せられ、均質化された背景の中でファゴットが生々しく浮き立つ。
 演奏の完成度は高い。明晰かつ慎重。テノールのブラウンリーは「昔は湖に住まっていた」で光沢ある高音を響かせ、バリトンのゲルハーエルは「わしは僧院長さまだぞ」で闊達自在な響きを見せる。また合唱も立派に制御されていて、鋭い金管陣と間断ない応答を聴かせてくれる。
 以上のように、ラトルのスタイルは徹底していて、オーケストラ、声楽ともその要求にほぼ完ぺきに応えた演奏となっている。
 ただ、私はそれと同時に、この演奏にどこか味気無さを感じてしまう。確かに音の迫力はあり、時に鳥肌がたつような凄まじさがあるのだが、音楽の内燃的な熱血性にどこか背を向けたような金属質な感触が常につきまとっていて、音楽的感動と異なる冷たさを同時に感じるところがある。これは熱血性を持たすものが、リズムと音の強弱の他に、フレーズにルバートでどのような思いを込めるか、加えてフレーズの表現の中でいかにエネルギーの伸縮を持たせるかといった作法により導かれるわけだが、そのような要素があいまいさとともに洗われてしまった感があり、力強さの中に熱さを感じにくいのである。
 確かにみごとな完成度を誇る音響が聴かれるが、陰影のくっきりした完璧な演奏にありがちな「淡さ」は、私をいまひとつ夢中にさせてくれない。


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