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オムニバス(ピアノ)



エマール 有森博 アシュケナージ ディリュカ ガヴリリュク グローヴナー
アムラン ハフ ルガンスキー ヌーブルジェ ロマノフスキー シンプ
ティボーデ トリスターノ ユジャ・ワン その他


エマール


リスト・プロジェクト
p: エマール

レビュー日:2011.10.17
★★★★☆  陰鬱な雰囲気が支配的ですが、美しい部分も多くあります。
 フランスのピアニスト、ピエール=ローラン・エマール(Pierre-Laurent Aimard 1957-)による「ザ・リスト・プロジェクト」と題されたアルバム。ウィーン・コンツェルトハウスで2011年5月に催されたコンサートを収録したもの。コンセプト観の強いコンサートであり、その演奏順に収録がなされていて、内容は以下の通りとなる。
1) リスト 悲しみのゴンドラ
2) ワーグナー ピアノ・ソナタ「マティルデ・ヴェーゼンドンク夫人のアルバムのための」
3) リスト 暗い雲
4) ベルク ピアノ・ソナタ
5) リスト 凶星!
6) スクリャービン ピアノ・ソナタ 第9番「黒ミサ」
7) リスト ピアノ・ソナタ
8) リスト エステ荘の糸杉に-哀歌I
9) バルトーク 挽歌
10) リスト 小鳥に説教するアッシジの聖フランチェスコ
11) マルコ・ストロッパ タンガタ・マヌ
12) リスト エステ荘の噴水
13) ラヴェル 水の戯れ
14) メシアン 「鳥のカタログ」からカオグロサバクヒタキ
15) リスト オーベルマンの谷
 エマールの狙いは、リストの作品と、その影響のある他の作品をペアにして奏で、その関係を明らかにすること・・・にあると思うのだが、実は、私はこのアルバムを数回通して聴いてみたのだけれど、中にはその関連を思いつかないような「難解な」組み合わせもあった。また、それと別に、このたびのコンセプトのために選らばれた作品には、暗く重い雰囲気の楽曲が多い。2枚のCDの冒頭に当たる「悲しみのゴンドラ」「エステ荘の糸杉に-哀歌I」はいずれもリストの暗黒面が表出しているし、その雰囲気は全体に支配的に広がっているようだ。それで、厚い雲が垂れ込めるような中を、不気味な気配を感じながら進むような部分が多く、やや気持ちの沈むラインナップかもしれない。エマールの技術は確かだが、例えばリストのピアノ・ソナタでも、感情をダイナミックに放散するようなことはせず、規則的な進行の中で、クリアなタッチの効果をピンポイントで表出する。たしかにエマールのスタイルではある。とはいえ、この多様な要素の集積したソナタに対し、ここまで均一なスタンスでアプローチすることに、違和感がある人も多いのではないだろうか。
 今回はじめて聴いてとても面白かったのが、ワーグナーのピアノソナタである。古典的でありながら流麗なソノリティは、メンデルスゾーンを彷彿とさせないだろうか?ベルクのピアノ・ソナタもエマールならではの鋭利なクールさが煌めいている。イタリアの作曲家、マルコ・ストロッパ(Marco Stroppa 1959-)の小品も美しく、発見の価値を感じさせてくれる。
 確かにムードは暗いけれど、エマールという芸術家の「らしさ」を端的に示すアルバムと言えるかもしれない。

Pierre-Laurent Aimard: the Warner Recordings
p: エマール

レビュー日:2015.1.29
★★★★★  近現代のスペシャリスト、エマールの成果を一気に楽しめるbox-setです。
 フランスのピアニスト、ピエール=ローラン・エマール(Pierre-Laurent Aimard 1957-)がワーナー・レーベルに録音した音源から主なものを集めたCD6枚からなるBox-set。収録内容の詳細は以下の通り。
【CD1】
1) ドビュッシー(Claude Debussy 1862-1918) 映像 第1集 2002年録音
2) ドビュッシー 映像 第2集 2002年録音
3) ドビュッシー 練習曲集 第1巻 2002年録音
4) ドビュッシー 練習曲集 第2巻 2002年録音
【CD2】
1) アイヴズ(Charles Edward Ives 1874-1954) ピアノ・ソナタ 第2番「コンコード・ソナタ」 2003年録音
 ヴィオラ: タベア・ツィマーマン(Tabea Zimmermann 1966-)
 フルート: エマニュエル・パユ(Emmanuel Pahud 1970-)(フルート)
2) アイヴズ 2台のピアノのための3つの四分音小品 1995年録音
 ピアノ: アレクセイ・リュビモフ(Alexei Lubimov 1944-)
【CD3】
1) リゲティ(Ligeti Gyorgy 1923-2006) 練習曲 第4番「ファンファーレ」 2001-2002年録音
2) リゲティ 練習曲 第8番「鋼鉄」 2001-2002年録音
3) リゲティ 練習曲 第12番「組み合わせ模様」 2001-2002年録音
4) リゲティ 練習曲 第16番「イリーナのために」 2001-2002年録音
5) リゲティ 練習曲 第17番「息を切らして」 2001-2002年録音
6) リゲティ 練習曲 第18番「カノン」 2001-2002年録音
7) メシアン(Olivier Messiaen 1908-1992) 幼子イエスにそそぐ20のまなざし1999録音
【CD4】
1) ラヴェル(Maurice Ravel 1875-1937) 夜のガスパール 2005年録音
2) カーター(Elliott Carter 1908-2012) ナイト・ファンタジーズ 2005年録音
3) カーター トゥー・ディヴァージョンズ・フォー・ピアノ 2005年録音
4) カーター:90+ 2005年録音
【CD5】
1) ブーレーズ(Pierre Boulez 1925-) ピアノ・ソナタ第1番 1990年録音
2) ブーレーズ フルートとピアノのためのソナチネ 1990年録音
 フルート:ソフィー・シェリエ(Sophie Cherrier 1959-)
【CD6】 2001年 カーネギー・ホール リサイタル
1) ベルク(Alban Berg 1885-1935) ピアノ・ソナタ op.1
2) ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven 1770-1827) ピアノ・ソナタ第23番 ヘ短調 op.57 「熱情」
3) リスト(Franz Liszt 1811-1886) 「伝説」より 第2曲「水の上を歩くパオラの聖フランチェスコ」
4) ドビュッシー 映像 第1集から 第1曲「水の反映」
5) ドビュッシー 映像 第2集から 第3曲「金色の魚」
6) リゲティ 練習曲 第2番「開放弦」
7) リゲティ 練習曲 第6番「ワルシャワの秋」
8) リゲティ 練習曲 第10番「魔法使いの弟子」
9) メシアン 幼子イエスにそそぐ20のまなざしよりから「聖母の最初の聖体拝受」
10) ドビュッシー 練習曲 第1巻から 第6曲「8つの指のための」
 このピアニストらしい近現代に重きを置いた内容となっている。全般に精緻で、細やかな音色を正確にトレースしていくこのピアニストらしい仕上がりであるが、個人的に印象に残っているものを中心にコメントしよう。
 アイヴズのソナタは第1楽章にヴィオラ、第4楽章にフルートが付加する版が用いられており、それぞれドイツのヴィオラ奏者、タベア・ツィマーマンとスイスのフルート奏者、エマニュエル・パユが参加するという豪華なラインナップ。演奏時間が45分に及ぶ大作であるが、近現代の器楽曲の中でも、人気の高いものだ。エマールらしいじっくりとした解析的な演奏で、第1楽章などに顕著だがやや遅めのテンポが主体。しかし、そこに生き生きとした要素が加わっており、聴き味は良い。時折現れる民俗的な色彩にはほとんど重きをかけず、現代音楽として純器楽的演奏といったところか。第3楽章の牧歌的風情では、印象派を思わせる淡い詩情がよく映える。この楽曲では、ヴィオラ、フルートの付加版があるが、双方とも付加された録音というのはかなり数が限られている状況で、ツィマーマン、パユという強力な布陣を配した当録音の存在感は圧倒的とも言える様相だ。特にヴィオラの不気味さのある音色の追加は効果的だと思う。付加楽器の観点も含めて、当ディスクは、現代音楽を代表するこのピアノ・ソナタの録音として、象徴的なもの。
 リュビモフのアルバムに、エマールが参加する形で録音されたアイヴズの「四分音による2台のピアノのための3つの小品」は、実に不思議な音楽。2台のピアノの片方を1/4度ずらした音程で奏でられる音楽だ。この響きを、音楽的に快いと感じる人は、正直少ないのではないだろうか。むしろ、音が狂っているように聞こえて、苦しい部分が多い。アイヴズという作曲家がどこまで意図し、そしてそれがどこまで達成されたのか、私にはわからないが、実験性の高さが注目される。
 ドビュッシーでは「映像」が素晴らしい。曲の「味」を、テンポの変動より音色の細やかな差によって描きわけている。スコアに忠実であるが、その中で、繊細な指の先の先まで神経を張り詰めたようなコントロールによって、精密な模写のような作業が行われる。ソノリティは無数の同径のビーズが配置されるようにしてつむがれるのだが、その移り変わりの鮮やかさには本当に驚かされる。第1曲の「水の反映」はまさにこのスタイルに「うってつけ」の曲で、CG映像で細かく再現されたライトアップされた噴水のような印象。
 ラヴェルも同様で、弱音の細かいソノリティの描き分けが抜群に精緻であり、高い抽象性とともに「静寂」を表現する音楽として、きれいな解答となっている。近代アメリカの作曲家、カーターの作品では、トゥー・ディヴァージョンズ・フォー・ピアノが面白い。種の規則的音型を色々と組み合せた実験性の高いものだが、アイデアが多様だ。
 リゲティも全般に面白い。中でも「ファンファーレ」の無窮動ぶりに注目したい。独特の左手の刻みから、即興的な旋律が刻々と様相を変えながら奏でられていく。それにしても、エマールの技巧が圧巻。これほどの曲をいったいどのような練習をすればこのように弾きこなすことができるのだろうか?感服してしまう。
 以上の様なエマールの芸術を様々に堪能させてくれる集成版だ。


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有森博


露西亜秘曲集~アルチュニアン 3つの音楽的絵画  ババジャニアン ポエム 4つの小品  ハチャトゥリアン トッカータ  シチェドリン フモレスケ  リャプノフ ロシアの主題による変奏曲  ブクステフーデ(プロコフィエフ編) 前奏曲とフーガ  バッハ(ヴィゴードスキー編) アリア  リャードフ 音楽の玉手箱  リスト ハンガリー狂詩曲 第2番(カデンツァ:ラフマニノフ)  アレンスキー・グラズノフ・ラフマニノフ・タネーエフ(合作) 4つの即興曲
p: 有森博

レビュー日:2007.11.25
★★★★★ 素晴らしいです。できれば続編を!
 有森博は私が特に新譜を待ち望んでいるピアニストの一人である。だけれども2007年11月に発売された2枚(!)のアルバムについては、前もってそのニュースを聴いてなかっただけに、ふらっと入ったCD店の店頭でこれらのアルバムを発見したときの喜びはことさら大きかった。その日、私は競馬で散々負けて、お金の持ち合わせがないところだったのであるが、カードがあれば買えてしまうという現代社会の病巣にあっけなくとりつかれ、即購入してしまった。
 さっそく家に帰って聴いてみると、いや、これは良い。もう競馬で負けたことなんかどうでもいい(すいません・・)。有森博のアルバムはその曲目の構成にも彼ならではの卓越したセンスを感じるが、この露西亜秘曲集など実に見事だ。ほとんど知らない作品、中には知らない作曲家もいる。いったいどのようにしてこのように魅力的な作品を見つけるのだろうか?70分を超える収録時間もうれしい。
 アルチュニアン、ババジャニアンといったアルメニアの作曲家の作品はなんともオリエンタルなムードだ。その親しみやすいこと。この国にはまだまだ魅力的な作品が埋もれていそうだ。他にもリストのハンガリー狂詩曲はラフマニノフのカデンツァがヴィルトゥオジティを満たす愉悦作だし、ヴィゴードスキーの編曲した「G線上のアリア」の思わぬ美しさにはクラッとくる。また、アレンスキー、グラズノフ、ラフマニノフ、タネーエフの「合作」はショパン・リストらの「ヘクサメロン」の露西亜版といえるもの。聴けるだけでもうれしい。さらにはリャプノフの力作などなど聴き応え万点のすばらしいアルバムである。できれば第2弾を出してほしい、と早くも思ってしまった。

露西亜秘曲集 2
p: 有森博

レビュー日:2017.8.17
★★★★★ 有森博10年ぶりの「露西亜秘曲集」第2弾
 有森博(1966-)は2007年に「露西亜秘曲集」と題したアルバムをリリースし、数々の愛すべき秘曲を披露してくれた。その時の私自身のレビューが残っていて、「できれば第2弾を出してほしい、と早くも思ってしまった。」と書いてある。こうやってレビューを書いていると、自分の人生のいつ、どのような時に、どんな音楽と接し、どのようなことを思ったが残るので、そういう点でもありがたいなぁと思ってしまったけれど、とにかく、10年の歳月を経て、「露西亜秘曲集2」というアルバムがリリースされるとなると、その感慨もひとしおである。
 いきなり自分の話で恐縮でしたけど、今回のアルバムは、超有名曲も含むので、「秘曲集」というタイトルで括るのが微妙なところもあるのだけれど、内容としては、いつもの有森のアルバム同様に素晴らしいものとなった。収録曲は以下の通り。
1) チャイコフスキー(Pyotr Tchaikovsky 1840-1893) ドゥムカ ハ短調 op.59
2) リャブノフ(Sergey Lyapunov 1859-1924) 12の超絶技巧練習曲 op.11 より 第8番「叙事詩」
3) タクタキシヴィリ(Otar Taktakishvili 1924-1989) ポエム
4) モソロフ(Alexander Mosolov 1900-1973) 2つの舞曲op.23b
5) ラコフ(Nikolai Rakov 1908-1990) ロシアの歌(ギンズブルグ(Grigory Ginzburg 1904-1961)編曲)
6) バラキレフ(Mily Balakirev 1837-1910) 東洋風幻想曲「イスラメイ」
7) ストラヴィンスキー(Igor Stravinsky 1882-1971) 春の祭典(作曲者による1台4手編曲版)
8) レビコフ(Vladimir Rebikov 1866-1920) 音楽の玉手箱
 2017年の録音。厳密に言うとタクタキシヴィリはグルジアの作曲家となる。7)は有森に師事する秋元孝介(1993-)との共演。
 結果的に有名曲と秘曲を組み合わせながら、魅力的な構成のアルバムになっている。有森の豊かな教養を背景とするロシア音楽への適性はすでに証明済のことで、いまさら言及が必要なことでもないと思うのだけれど、音色、音量の豊富さ、野趣的なリズムの扱い、厚みのある旋律線の扱いなど、自家薬籠中の物とした感に満ちている。
 聴く機会の少ない作品に少しずつ言及すると、リャプノフの叙事詩は、一遍の中に様々な要素が詰め込まれたものであり、その多彩な技巧で繰り広げられる絵巻が見事。タキタシヴィリ、ラコフの作品はともに情緒的な旋律が親しみやすく、人知れぬ佳曲に触れる喜びを味わえる。「鉄工場」で有名なモソロフの作品は、当時のアヴァンギャルドに相応しい不協和音を積極的に使用したものだが、その一方でロマン的なものが感じられる。レビコフの「音楽の玉手箱」は高音域のみを使用したオルゴールのような音色が楽しい。2007年の「露西亜秘曲集」では、有森はリャードフ(Anatoly Lyadov 1855-1914)の同名の作品で締めくくっていたことも思い出される。
 有名曲では、郷愁と華麗なピアニズムに満ちたチャイコフスキーの「ドゥムカ」、難曲としても高名なバラキレフの「イスラメイ」ともに立派な演奏効果を示した芸術が奏でられる。アルバム中の多くを占めることとなったストラヴィンスキーの「春の祭典」は、1台4手版というのが珍しい。私は、2台のピアノ版を、アシュケナージ(Vladimir Ashkenazy 1937-)とガヴリーロフ(Andrei Gavrilov 1955-)による演奏に親しんだが、2台のピアノ版の「協奏的」面白さに比して、当盤の1台4手版は、まとまりの強さを感じさせるものとなっている。高音と低音という明確な役割分担があるためであろう。有森と秋元は、絶妙の呼吸で、この曲の原色的な面白味を鍵盤にトレースしており、時として管弦楽を彷彿とさせながらも、ピアノならではの鋭い打鍵による演奏効果を存分に堪能させてくれる。
 秘曲を知る喜び、名曲の一風変わったアレンジの楽しみ、今回も聴き手にたくさんの喜びを届けてくれるアルバムとなった。
 せっかくなので書いておこう。「できれば第3弾を出してほしい、と早くも思ってしまった。」

ロシア・バレエの誘惑
p: 有森博

レビュー日:2010.1.2
★★★★★ ピアノで奏でる絢爛たるロシア・バレエの本流
 毎回毎回本当に面白い(そして内容のある)アルバムをリリースする有森博は、今やもっとも目の離せないアーティストの一人だ。当アルバムもまた面白い。ピアノで奏でるロシア・バレエの世界である。
 収録されている曲は、もちろん元来はオーケストラによって奏されるものばかりである。私はバレエの事はほとんどわからないのだけれど、ロシアの音楽家たちが、このジャンルに精力的に取り組み続けていて、それだけの文化的土壌がロシアにあることは知っている。そして、モスクワで勉強をし、ロシアの音楽を深く探求している有森であればこそ、このようなアルバムは輝くのだろう。
 プロコフィエフの「シンデレラ」、ストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ」、チャイコフスキーの「胡桃割り人形」・・まさにロシア・バレエの真髄とも言える楽曲たちだ。
 「ペトルーシュカからの3楽章」はかつてポリーニによる名盤があったし、その他にもヴェデルニコフ、ベロフ、ロルティ・・・最近ではエル=バシャやキーシンも録音した。すでにピアノ曲として確固たる地位を築いている感があるが、有森の演奏もまた素晴らしい存在感のあるものだ。この曲の名演として今後は必ず指折らねばならない。冒頭から歯切れの良いスケールの大きな演奏で、特に細かいニュアンスの交錯するシーンは適切なテンポで細かく音を拾い、かつ全体を見通すダイナミックなリズムが貫いている。それにしてもこの有森のパワフルな演奏は今までの彼の録音とはまた違った魅力的な側面を引き出している。そしてバレエ音楽らしい「華やかさ」。極限までピアノで追い求めている。それが顕著なのが「胡桃割り人形」。これはプレトニョフが編曲したものだが(その編曲ぶり~打楽器の表現までも的確に押さえている~もなかなかの聴きモノだ)、有森は素晴らしく多彩な音色をピアノから引き出している。まさにピアノという一台の楽器をオーケストラのように使いこなすその技術は圧巻。特に終曲の鍵盤を駆け巡る絢爛豪華な響きは、豊穣なる音楽のうねり。ことにその終曲は圧倒される。
 プロコフィエフ、ショスタコーヴィチの曲も瑞々しく躍動的な音楽が好ましいというだけでなく、必然的な説得力を感じさせる。こうなると、また続編を期待してしまう。

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アシュケナージ


Steinway Legends ~シューベルト ピアノ・ソナタ 第17番  タネーエフ 前奏曲とフーガ  ショパン 前奏曲 第25番 マズルカ 第37番 スケルツォ 第4番  スクリャービン ピアノ・ソナタ 第5番  ベートーヴェン ピアノ・ソナタ 第30番  チャイコフスキー ドゥムカ  プロコフィエフ 別れ 仮面  ラフマニノフ 練習曲集「音の絵」から
p: アシュケナージ

レビュー日:2006.8.26
★★★★★ スタインウェイもアシュケナージの美音あってこそを実感!
 “Steinway Legends”と題されたシリーズで、スタインウェイを使用するピアニストに焦点を当て、その音源を集めた企画盤。アシュケナージのものは初CD化音源(シューベルトのピアノ・ソナタ第17番とショパンのマズルカ第37番)が含まれていて興味深い。リマスター効果で音質も鮮明さを増しているようだ。デッカの音源はもともと優秀なので、いずれにしてもあまり気にならないが。
 各曲の収録年を書くと、モーツァルトの2台のピアノのためのソナタ(2ndピアノ:マルコム・フレージャー)とラフマニノフの練習曲集が1964年、ショパンの前奏曲第25番とスケルツォ第4番が1967年、プロコフィエフの仮面と別れが1968年、ショパンのマズルカ第37番が1972年、スクリャービンのピアノ・ソナタ第5番が1975年、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第30番とシューベルトのピアノ・ソナタ第17番が1976年、チャイコフスキーのドゥムカとタネーエフの前奏曲とフーガが1983年である。
 シューベルトのピアノ・ソナタは躍動感にみちた華やかな演奏で、問題の多いこのソナタをまっすぐに表現していて理屈っぽくならず開放感がある。それでいて細やかな音色などに細心の配慮があるため、決して大味にならず、響きが美しい。まとまりがよくわかり易いため最後まで気持ちよく聴ける。
 タネーエフの前奏曲とフーガはなかなか聴けないが佳曲である。古典的な和声を踏襲しながら、ロシアピアニズムに足を進める作風は、アシュケナージのピアノによく合う。
 ベートーヴェンのソナタにおいては瀟洒な冒頭から終楽章のスケールの大きな表現まで、一連の道行きにストーリーを感じさせる奏者の表現力はさすが。
 もちろん他の収録曲もいずれおとらぬ名演で、アシュケナージの美しいピアノの響きを堪能できる名録音といえるものだ。

ショパン バラード 第2番 マズルカ 第21番 第29番 第35番 第36番 ワルツ 第2番 第6番  リスト 超絶技巧練習曲 第10番 メフィストワルツ 第1番「村の居酒屋での踊り」  ラフマニノフ コレルリの主題による変奏曲  プロコフィエフ ピアノ・ソナタ 第7番「戦争ソナタ」
p: アシュケナージ

レビュー日:2006.2.25
★★★★★ プロコフィエフの尋常ではないスピードにびっくり!
 テスタメントからリリースされたアシュケナージの1950年代の録音集。2枚シリーズの2枚目(1枚目はショパン作品のみの構成)。若きアシュケナージの録音と言えば59年から60年にかけて録音された「幻のエチュード」、あるいは亡命前夜のライヴで録音されたバラードなどの伝説的なものがあるが、ここではショパンをはじめとして以下の楽曲が収録されている。
ショパン バラード 第2番 マズルカ 第21番 第29番 第35番 第36番 ワルツ 第2番 第6番
リスト 超絶技巧練習曲 第10番 メフィストワルツ 第1番「村の居酒屋での踊り」
  ラフマニノフ コレルリの主題による変奏曲 
プロコフィエフ ピアノ・ソナタ 第7番「戦争ソナタ」
 バラードとマズルカの第21番、第29番は1955年のショパンコンクールの際の録音。他は1957年ベルリンでの録音。
 純粋にメカニカルな技巧が見事である。若き技巧派にありがちな「なし崩し的な」技巧ではなく、常に曲への意識が留め置かれているのがアシュケナージらしい。プロコフィエフのソナタの終楽章の一糸乱れぬ集中力は聴きものだ。バラード第2番やメフィストワルツで見せる華麗な技巧は、しかし光学写真のように写実的な楽譜の描写とも言える。
 圧巻はプロコフィエフのソナタの第3楽章。いや、速い速い!なんと3'01で弾ききっている(ちなみにポリーニは3'11、グールドは3'18)。私の知る限りではラエカリオが2'59で弾いていたが、正直技術的な限界で音の輪郭が持ちこたえられていない部分があったのに対し、ここで聴かれるアシュケナージの演奏は恐ろしいほどの正確さである。もちろん、速きゃいいってものではないが、この演奏に関しては音の歯切れの良さ、音楽の生きの良さも手伝って、この曲のベスト盤ともいえる快演だと思う。

Vladimir Ashkenazy 50 Years on Decca (50CD)
p: アシュケナージ アシュケナージ指揮 フィルハーモニア管弦楽団 vn: パールマン 他

レビュー日:2013.4.2
★★★★★ 珠玉の50枚
 現代を代表する偉大なアーティストであるウラディーミル・アシュケナージ(Vladimir Ashkenazy 1937-)がイギリスのレーベル「デッカ」と契約して50年となるとのこと。これを記念して、デッカから50枚組のBox Setが発売された。
 アシュケナージは1955年のショパン・コンクールで第2位に入賞した。このときアシュケナージの1位を強く主張し、コンクールの結果にサインをしなかったのが審査員の一人で、伝説的ピアニスト、ベネディッティ・ミケランジェリ(Arturo Benedetti Michelangeli 1920-1995)である。その後の結果からみて、ミケランジェリは正しかった。アシュケナージの真価はただちに世界に認められることになる。1963年に開始されたデッカへのレコーディングは、数々の偉業となっていく。
 私自身、ここに収録されたものは、いずれも大変印象深いもの。というのは、私が音楽の世界に踏み込んだのはアシュケナージの存在に依るところが圧倒的に大きいからだ。彼の弾くラフマニノフの協奏曲に衝撃を受け、以来、レコード屋で「アシュケナージ」の名のあるものを月に一枚ずつ購入することで、さらに深いクラシック音楽の森へと彷徨いこんだ。実は、この50枚組の音源について、私はすでにすべて個別に所有している。私が長い年月と、それ相応のお金を費やして集めたこれらの珠玉の音源が、なんと50枚一気に、この価格で入手できるというのだから、このアイテムを、これから購入できる人が羨ましくてならないわけである。さらに、再編集により、様々な録音が組み合われていて、実質的に、その価値は「50枚分」を優に超えているだろう。
 50枚の内容すべてを記載できれば、いいのだけれど、残念ながらそこまでのスペースは与えられていないので、以下、特に私の心に残っている録音を挙げてみよう。
 CD2のシューマンのピアノ協奏曲(1977年)はアシュケナージ特有の強靭なスナップから繰り出される弾むような美音が圧倒的で、幻想的な世界を表出している。CD3のマルコム・フレージャーとのモーツァルト「2台のピアノのためのソナタ」(1964年)はチャーミングで素敵。同じくCD3ではロンドン・ウィンド・ソロイスツとのベートーヴェン「ピアノと管楽器のための五重奏曲」(1966年)も聴き漏らせない。CD4のショパンのバラード集(1964年)は静謐な雰囲気が抜群。このようなバラードは他では聴けない。CD6のショパンの舟歌(1967年)は知情意のバランスのとれた知的快演。私は何回も聴いた。CD8のパールマンとのフランクのヴァイオリン・ソナタ(1968年)は高雅な気品と、明朗な情緒が見事。CD10のマゼールとのスクリャービンのピアノ協奏曲(1971年)は、このロマンティックな名曲の真価を知らしめた忘れられない録音。CD11のショパンの24の練習曲(1971,72年)は歴史的名盤の名にふさわしい。特に浪漫性と詩情に満ちた作品25は凄い。
 CD14は親友、アンドレ・プレヴィンとのプロコフィエフのピアノ協奏曲第2番と第3番(1974年)。運動性、弾力、圧巻のリズム感と色彩感でいつだって酔わせてくれる。CD15はパールマンとのベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ第9番「クロイツェル」&第5番「春」(1973,74年)。特にクロイツェル・ソナタの力の開放が見事。CD17のラフマニノフの24の前奏曲(1975年)はスケールの大きいアプローチで描いた絵巻。CD18ではフィッツ・ウィリアム弦楽四重奏団とのショスタコーヴィチのピアノ五重奏曲(1983年)をとろう。凄まじい中央突破力で描き切った豪快さは無類。CD19のスクリャービンでは2つの舞曲(1977年)の神秘的なタッチが忘れがたい。CD22のラフマニノフのピアノ・ソナタ第2番(1977年)はパッションの迸る熱演だ。
 CD25のベートーヴェンのピアノ・ソナタ5曲(第1番、第5番、第6番、第7番、第20番)(1976-80年)はいずれもアシュケナージならではの歌のあるベートーヴェン。これも何度も聴いた忘れられない録音ばかり。CD31と34に収められたハイティンクとのブラームスのピアノ協奏曲(1981-82年)は、2曲とも、これらの曲の普遍的解釈として受け継がれるものだろう。これらのディスクには、ハレルとのブラームスのチェロ・ソナタ2曲(1980年)も入っている。CD30のショルティとのバルトークのピアノ協奏曲第1番、第2番(1979-81年)はメカニカルな冴えが堪能できる。CD32のドビュッシーの喜びの島(1965年)に触れなくては。素晴らしい技巧。もっともっとこの人のドビュッシーが聴きたい。CD33のムソルグスキーの展覧会の絵(1981年)ははじめてこの曲にもたらされたモダンな解釈だった。いまはすっかりこれが主流になった。CD40のシューマンもとにかくいいが、中でも交響的練習曲(1984年)は何度聴いたかわからない。少なくとも100回以上聴いただろう。CD50のベートーヴェンのディアベルリ変奏曲(2006年)は、まさにいま現在の私の愛聴盤。
 さらに、アシュケナージが指揮した録音もいろいろ収められている。CD23のフィルハーモニア管弦楽団とのチャイコフスキーの交響曲第4番(1978年)は意外と取り上げられないが、抜群の均衡感覚で、ほぼ完ぺきに統制された響きが素晴らしい。このオーケストラとはCD26のシベリウスの交響曲第2番(1979年)のクールな白熱も秀逸の一語だし、CD33のアシュケナージが管弦楽版に編曲したムソルグスキーの展覧会の絵(1982年)も、ロシア的な濃厚さを湛えた色合いが見事。ベルリン放送交響楽団を「ベルリン・ドイツ交響楽団」と改名したのはアシュケナージだが、このオーケストラを指揮しての代表作はCD10のスクリャービンの交響曲第4番「法悦の詩」(1990年)かもしれない。官能的な色彩感が表出し尽くした感がある。CD44はクリーヴランド管弦楽団とのR.シュトラウス、「ドン・キホーテ」「ツァラトゥーストラかく語りき」(1985,88年)。明晰な音色が圧巻で気持ちいい。CD45のコンセルトヘボウ管弦楽団を指揮してのプロコフィエフの交響曲第5番(1985年)も是非聴いてほしい。同曲の最高の演奏として、私はこれを断然推したい。さらにコンセルトヘボウとの録音ではラフマニノフも忘れてはいけない。CD35の交響的舞曲(1983年)の迫力を堪能されたい。CD47のサンクト・ペテルブルクフィルを指揮してのショスタコーヴィチの交響曲第7番「レニングラード」(1995年)はオーケストラの完璧とも言える音色、アンサンブルを堪能したい。
 他にここで触れなかったものも含めて、一つとして悪いものはなく、いずれも私にとって生涯楽しめるものばかり。本当に、今までこれらの音楽を聴いてこれて良かったと、万感を込めて思うものばかりである。これから、音楽をいろいろ聴いてみたいという方には、ためらうことなく推薦できる内容である。

栄光のショパン・コンクール 1
p: ツェルニー=ステファンスカ ハラシェヴィチ アシュケナージ コルド指揮 ワルシャワ国立フィルハーモニー管弦楽団

レビュー日:2011.2.17
★★★★☆ 冷戦の空気が伝わってくるようなショパン・コンクール史
 1995年、ショパン・コンクールの年に出版された企画版CDの1枚。シリーズで過去のコンクールで優勝、もしくは注目を浴びたピアニストの演奏を紹介している。当盤では第4回と第5回の3人のピアニストを紹介。注意点として、コンクール時の録音と、その後の別機会の録音が混合していることが挙げられる。収録内容をまとめよう。
・ハリーナ・チェルニー=ステファンスカ 第4回(1949年) 優勝
  (1) ワルツ第1番 (2) 即興曲第4番 (3) ポロネーズ第3番 いずれも1972年録音
・アダム・ハラシェビチ 第5回(1955年) 優勝
  (1) ピアノ協奏曲第2番 コルド指揮 ワルシャワ国立フィル 1979年録音
  (2) 即興曲第3番 (3)前奏曲第25番 (4)バラード第1番 (2)~(4)は1955年 ショパン・コンクール ライヴ音源
・ウラディーミル・アシュケナージ第5回(1955年) 準優勝
  (1) 練習曲第18番 (2)ポロネーズ第6番 いずれも1955年 ショパン・コンクール ライヴ音源
 1955年の録音はモノラル音源となる。さて、ショパン・コンクールの歴史について少し触れたい(というのは、これはそういうディスクだから・・・)。1927年から1937年まで第1回から第3回のコンクールではいずれもソ連のピアニストが優勝した。そして、第二次世界大戦があり、ソ連と開催国ポーランドは、占領国と被災国という関係になる。大戦が終了して4年後に再開された最初のコンクールが第4回。当時の審査員の顔ぶれはよくは知らないけれど、最近のコンクールでは審査員の半数がポーランド人だというし、その傾向は大きな変化はないだろう。とかく冷戦時代というのは、スポーツにしろ芸術にしろ、政治の思惑が介入してくる。第4回ではソ連のベラ・ダヴィドビチとポーランドのチェルニー=ステファンスカが「同点優勝」という形になり、第5回ではソ連のアシュケナージが「準優勝」となり、ポーランドのハラシェビチが優勝となった。この結果に審査員を務めたミケランジェリが抗議し、結果にサインしなかったのはあまりにも有名な話。なので、このディスクのジャケットを見ると、そんな時代の何かが伝わってくる印象がある。
 内容についても少し感想を書こう。チェルニー=ステファンスカのピアノはずいぶん気合と力の入った演奏で、間の空け方がいかにも「おもいきり息を吸い込んでいる」ような感じ。楽しい反面、同様のリピートになるという欠点も見え隠れする。ハラシェビチのピアノは透明で、無害なスタイルとでも言おうか。美しく仕上がっているのは前奏曲第25番で、淡い情感がよく描かれていると思う。印象の良不良が曲によって異なってくるだろう。アシュケナージは2曲しかないけど、とにかく圧巻の技巧が示される。とくに練習曲作品25-6は、伝説ともなった音源だけに、ファンには聴き逃せないものだろう。
 ちなみに、このディスクが売り出された1995年のショパン・コンクールは、「優勝者なし、第2位がフィリップ・ジュジアーノ(フランス)とアレクセイ・スルタノフ(ロシア)」という結果だった。

Ashkenazy in Warsaw CHopIN
p: アシュケナージ フライシャー

レビュー日:2008.9.22
★★★★★ 二人のピアニストの録音による記録
 1937年生まれのアシュケナージが、1955年ショパン・コンクールで第2位となった時の録音と、1928年生まれのアメリカのピアニスト、レオン・フライシャー(Leon Fleisher)の1953年の録音(シューベルト2曲)を併せて収録している。曲目は以下の通り。
ショパン バラード第2番 スケルツォ第4番 練習曲(第1番, 第8番, 第15番, 第18番) ポロネーズ第6番「英雄」 前奏曲第25番 夜想曲第3番
シューベルト さすらい人幻想曲 ピアノ・ソナタ第13番
 なぜこれらの録音が併せられたのかは不明だが、両者には共通点がある。エリザベート王妃国際音楽コンクールで1952年の第1位がレオン・フライシャー、1956年の第1位がヴラディーミル・アシュケナージなのだ。
 レオン・フライシャーは活躍を期待されていたが、局所的筋失調により、右手の指が思うように動かせなくなり、引退を余儀なくされ、指揮活動に音楽表現の領域を移した。しかし、その後の治療により、近年ではピアニストとして実に40年ぶりに復帰し、アシュケナージ指揮のNHK交響楽団とも共演を果たした。おそらく、そのような経緯であるため、アシュケナージとフライシャーの間には長らく親交があったに違いないと思われる。それで、このようなアルバムとなったのかは分からないが、両者の若き日の演奏をよく伝える録音ではある。
 最大の聴きモノなのがアシュケナージによるショパンの練習曲第18番。これはプロのピアニストでも苦戦する難曲中の難曲として知られるが、アシュケナージの技巧は圧巻で、これほどのスピードでしかも質を落とさずに弾ききっている。当時、審査員を務めたミケランジェリが、アシュケナージの優勝を強く主張し、政治的背景があったと推測されるハラチェヴィッチの優勝に抗議し、サインしなかったのは有名な話だ。これを聴くと、ミケランジェリがとった行動にも合点がいく。とかくコンクールの評定というのは余計な思慮が入ってしまうものなのだ。
 他の演奏であるが、アシュケナージは全般に速いテンポで清涼感に溢れながらも、品良く詩情を湛えたピアニズムであり、後の飛躍の原型がすでに随所に聴き取れると感じた。
 レオン・フライシャーのシューベルトは、これまた若手らしい推進力のある闊達な演奏だ。もちろん、もっと深い味わいが欲しいと感じる部分もあるが、この時期だからこそできた演奏の魅力とうのも、やはり大切なのだろう。

Play Chopin/Haydn
p: リヒテル アシュケナージ

レビュー日:2011.12.15
★★★★☆  1955年の貴重なライヴの記録
 ソ連のピアニスト、スヴャトスラフ・リヒテル(Sviatoslav Richter 1915-1997)とウラディーミル・アシュケナージ(Vladimir Ashkenazy 1937-)による1955年のライヴの模様を収めたディスク。それぞれが弾いている曲は、アシュケナージが、(1) ショパン 夜想曲第3番 (2) ショパン バラード第2番 (3) リスト メフィスト・ワルツ第1番「村の居酒屋での踊り」、リヒテルがハイドンのピアノ・ソナタ第33番の1曲のみ。当時リヒテルは40歳、アシュケナージは18歳ということになる。
 二人が互いを良く知っていたことは様々な書物等で記載されている。若きアシュケナージはリヒテルを敬愛していたし、リヒテルはアシュケナージの才を信じて、いろいろな音楽談義などをしてきたらしい。このアルバムが同じ演奏会のものなのかどうか、CDに記載がないからわからないが、二人のピアニストによる同じ演奏会だったという可能性もあるだろう。アシュケナージが1963年に亡命する一方で、リヒテルはソ連で芸術活動を続けてきたのは承知の通り。二人のその後を考えると、これが一夜の演奏会の記録だと考えることは、なかなかロマンティックである。(などと、当事者でもない私が過ぎ去った事とはいえお気楽なコメントをするのもなんだけど)。
 とりあえず聴いてみての感想。さすがに録音状態は1955年のものなので、響きも、こもりがちだが、雰囲気はまずまず良く伝わってこよう。両者のピアノはなかなか対照的で、アシュケナージが明るく華やかなのに対し、リヒテルは深刻だ。これは、もちろん曲の性格を反映していることもある。アシュケナージは若々しく、わずかにミスタッチもあるが、曲の持っている叙情性を健やかに表現しているのが好ましい。夜想曲第3番ではすでに美しい詩情のあふれる歌い回しが聴けてうれしい。バラード第2番は後半の激動ぶりが圧巻で、ロシア・ピアニズムの逞しさを象徴するかのよう。若いころのアシュケナージはリストも主たるレパートリーに加えていて、ここで弾かれているメフィスト・ワルツは中でも十八番だったようで、冒頭のバネのようなスナップの強さ、中間部の跳ねるようなリズムにのった動きなど聴き応え十分だ。
 リヒテルが弾いているハイドンのピアノ・ソナタは、ハ短調というベートーヴェン的な力強い調性の音楽で、不安感や焦燥感、あるいは「疾風怒濤(Sturm und Drang)」期と称される劇的な展開があり、リヒテルならではの求心力のある表現が見事。楽曲の性格を鮮やかに描き出しているといえる。
 その後の二人の芸術家のそれぞれの活躍ぶりを省みながら、当時のこの録音を聴くのは、私にはなかなか感慨深い。

ロシアン・ファンタジー
p: アシュケナージ ヴォフカ・アシュケナージ

レビュー日:2011.10.4
★★★★★  ヴォフカ・アシュケナージの編曲にも注目でしょう
 2011年で74歳となるアシュケナージは、ひところに比べて、ピアニストとしての活動の機会が限られてきたようだ。このディスクと同時に発売されたラフマニノフのピアノ・ソロ作品集では、使命感に燃えたピアニズムを感じさせ、このピアニストの本懐に接した心持ちがしたけれど、その一方で、健やかな、音楽の喜びを感じさせる録音もある。
 このアルバムは、しばしば録音で共演するようになった、息子のヴォフカ・アシュケナージ(Vovka Ashkenazy 1961-)との2台のピアノによる作品集。ヴォフカはモスクワ生まれだが、幼少のうちに両親とともにアイスランドに渡り、主にイギリスで音楽家としての教育を受けた。いつのまにか、一流のピアニストの仲間入りを果たした。
 アシュケナージの子息には、クラリネット奏者のディミトリー・アシュケナージ(Dimitri Ashkenazy 1969-)もいるし、こちらも父と何度か共演で録音をリリースしている。晩年になって息子たちと同じジャンルで活躍できるというのは、おそらく幸せなことなのだろう。それはこのディスクに注がれた幸福感に満ちた音楽を聴いていると、そうに違いないと思えてくる。
 このディスクの別の注目点として、ヴォフカ・アシュケナージによる「編曲」がある。ボロディンの「だったん人の踊り」とムソルグスキーの「はげ山の一夜」を、自ら2台のピアノ版に編曲している。いずれも演奏効果の十分にある安定度の高い編曲で、ヴォフカの才の一端を示すものだろう。
 演奏が魅力的なのは、まず縦横に2台のピアノの鍵盤を鳴らしたラフマニノフの「2台のピアノのための組曲 第1番」だと思う。この曲は、ウラディーミル・アシュケナージにはアンドレ・プレヴィンと録音した名盤があるが、ここでは録音技術の進歩とあいまって、立体的な音響効果を存分に味わえるサウンドが展開している。特に第4楽章の鐘楼の鐘が響き渡るような音が凄い。グリンカ、スクリャービンの曲ははじめて聴いた。スクリャービンの「幻想曲」と聞くと、高名なソロピアノのための作品28を連想するが、それとはまったく別の曲。いずれも、ことさら面白い曲というわけではないけれど、配慮の行き届いた演奏で過不足なく奏でられる。
 ヴォフカが編曲した2作品は、曲が本来持っている旋律の美しさを、てらいなく表現した演奏だ。いずれも、冒頭の部分は、ちょっと硬い入り方に思えるが、すぐに解きほぐれたように、闊達なフレーズの交換が行われて楽しい。父・アシュケナージを中心に見ると、芸術家ならではの芳しい晩年の光景と思えてならない。


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ディリュカ


Road66 アメリカ ピアノ作品集
p: ディリュカ S: デセイ

レビュー日:2014.5.12
★★★★★  フランスのミラーレ・レーベルからリリースされた、魅力的なアメリカ・ピアノ作品集
 私が、最近購入したものの中でも、特に気に入って何度も聴いているアルバム。  スリランカ人の両親を持つモナコのピアニスト、シャニ・ディリュカ(Shani Diluka 1976-)による2013年録音の「アメリカ・ピアノ作品集」。
 ディリュカは、すでにクラシックの王道路線の録音でもキャリアを積んでいる芸術家。本アルバムは、アメリカの小説家、ジャック・ケルアック(Jack Kerouac 1922-1969)の代表作「路上」に触発され、ディリュカ自身で選曲した小品集という体裁。ピアニストの遊戯的志向の感じられる企画。この芸術家の技量全般を推しはかるものとは言い難いけれど、逆に、それゆえの魅力が横溢した、とってもステキなアルバムになっていると思います。それに、ディリュカというピアニスト、ジャケット写真などみてもなかなかエスニックな美人で、風貌も魅力的ですね。
 「ルート66」というアルバム・タイトルが与えられています。アルバムのタイトルになっている「ルート66」は、シカゴと西海岸のサンタモニカを結んだ国道。現在は廃道となっているため、全線を辿ることはできませんが、アメリカの文化的シンボルと言える道路の一つ。特にナット・キング・コール(Nat King Cole 1919-1965)の同名曲はヒットし、ジャズのスタンダード・ナンバーとして定着しています。
 収録曲の詳細をまとめると、以下の通り。
1) ジョン・アダムズ(John Coolidge Adams 1947-) 中国の門
2) キース・ジャレット(Keith Jarrett 1945-) マイ・ワイルド・アイリッシュ・ローズ
3) グレインジャー(Percy Aldridge Grainger 1882-1961) 子守唄
4) バーバー(Samuel Barber 1910-1981) パ・ドゥ・ドゥ
5) エイミー・ビーチ(Amy Marcy Beach 1867-1944) ヤング・バーチズ
6) ビル・エヴァンス(Bill Evans 1929-1980) ワルツ・フォー・デビイ
7) フィリップ・グラス(Philip Glass 1937-) エチュード第9番
8) バーンスタイン(Leonard Bernstein 1918-1990) フェリシア・モンテアレグレのために
9) ジョン・ケージ(John Milton Cage 1912-1992) イン・ア・ランドスケープ
10) ガーシュウィン(George Gershwin 1898-1937) キース・ジャレット編 愛するポーギー
11) バーンスタイン 間奏曲
12) ヒャンキ・ジュー(Richard Hyung-Ki Joo 1973-) シャンデルアーズ
13) ヒナステラ(Alberto Evaristo Ginastera 1916-1983) 優雅な乙女の踊り
14) バーンスタイン アーロン・コープランドのために
15) コープランド(Aaron Copland 1900-1990) ピアノ・ブルース第1番「レオ・スミットのために」
16) ビル・エヴァンス ピース・ピース
17) ガーシュウィン グレインジャー編 愛が訪れた時
18) コール・ポーター(Cole Porter 1891-1964) ラファエル・メルラン(Raphael Merlin)編 恋とはなんでしょう
 18)では、フランスの歌手、ナタリー・デセイ(Natalie Dessay 1965-)がヴォーカルを務める。ちなみに「アメリカ・ピアノ音楽集」とはなっているが、オーストラリア出身のグレインジャーや、アルゼンチンの作曲家、ヒナステラの作品なども含まれているので、そちらの「しばり」は緩い印象。
 これらの作品に共通するのは、描写的な音楽である、ということ。どこか静かで、美しい雰囲気に満ちている。憧憬的で、小さいころに見た原風景を思い出すような音楽。夏の暑い日に、木陰から、青空に浮かぶ真っ白な雲を、時間のすぎゆくままに見ていた、あの日を思い返すような。
 ジョン・アダムズ、フィリップ・グラスはいずれもミニマル・ミュージック作家として知られる存在。冒頭のアダムズの曲は、情緒的な雰囲気と、ミニマル的な進行を併せ持った環境音楽的な美観を持っていて、このアルバムの導入に相応しい。ブラウザ・ゲームのサントラのような響きにも聴こえるが、情緒的な含みが深く、色合いが豊か。グラスのエチュードについては、私は作曲者の自作自演盤も持っているが、ディリュカの演奏は響きそのものの美しさで卓越していると感じた。グレインジャーの子守唄は同音連打の印象的な作品。エヴァンスの名作、ワルツ・フォー・デビイはクラシックのグラウンドを持つ弾き手にも取り上げられる機会が多くなったが、ディリュカは、ここで適度な自由さのあるアプローチで、当意即妙な味わいを示してくれる。楽しい。
 バーバーとビーチの似た気配を持つ作品を続けて配列するところも、奏者のセンスを感じさせる。暖かな楽想がよく映える。ケージという作曲家の名前に、思わず身構えてしまう方も多いのではないだろうか?だが心配無用。とても美しい曲。こういう音楽も書ける人だったんですね。ドビュッシーの「かくて月は廃寺に落つ」を彷彿とさせるような、印象的な退廃性、耽美性があります。ガーシュウィンの2曲が美しい。いずれも他者による編曲ものであるが、原曲の彩を巧みに活かした編曲で、適度なスイング感のある聴き味が絶妙。ヒャンキ・ジューの逸品も多彩な音で楽しめます。そして、エヴァンスのもう1曲、「ピース・ピース」は、このアルバムのハートとも言える曲で、前述した「少年の日の、夏の思い出」に浸る様な味わいです。
 最後にデセイが加わって、「恋とはなんでしょう」が歌われますが、なかなか雰囲気が大きく変わるので、ややびっくりしますが、聴いているうちに、その音世界に惹きこまれてしまうから不思議。ディリュカの伴奏もうまいですね。
 最近購入したアルバムの中で、私自身が抜群の悦楽を味わった当アルバム。多くの人に聴いてほしいと思います。

The Proust album
p: ディリュカ ニケ指揮 パリ室内管弦楽団 S: デセイ vn: フシュヌレ 語り: ガリエンヌ

レビュー日:2021.11.16
★★★★★  薫り高く、幻想的。ディリュカによる「ザ・プルースト・アルバム」。
 スリランカ人の両親を持つモナコのピアニスト、シャニ・ディリュカ(Shani Diluka 1976-)による、とても楽しいアルバムがリリースされた。ディリュカの既出のコンセプト・アルバムである「Road 66」もとても素晴らしかったけど、これもとてもいい!今作のタイトルは「ザ・プルースト・アルバム」。マルセル・プルースト(Marcel Proust 1871-1922)へのトリビュート・アルバムといったところだろうか。
 代表作「失われた時を求めて」などで知られる小説家プルーストは、音楽を含めた芸術全般に造詣が深かったそうだ。ただ、最初に断っておくと、私はプルーストの作品を読んでいない。小さいころから、父の書棚には、「失われた時を求めて」が並んでいたのだが、その「長さ」に恐れをなした私は、この小説には挑戦しなかった。ちなみに、父のこの小説に対する評価も「いまいち・・・」みたいなコメントだったのを覚えている。世紀の大作に対する感想としては、あまりに短小なきらいはあるものの、そんな背景もあって、私は当該書を読んでいません。当盤のレビューを書くに際しての前提として、書いておきました。
 では、当盤の内容。まず収録作品と演奏者を記載しよう。
1) アーン(Reynaldo Hahn 1875-1947) ピアノ協奏曲 ホ長調
2) ドビュッシー(Claude Debussy 1862-1918) 夢
3) アーン 最初のワルツ集 第3番 「ニネット」
4) グルック(Christoph Willibald Gluck 1714-1787)/ケンプ(Wilhelm Kempff 1895-1991)編 「精霊の踊り」より 「オルフェウスの嘆き」
5) フォーレ(Gabriel Faure 1845-1924) 3つの歌 op.8 より 第1曲「河のほとりで」
6) フランク(Cesar Franck 1822-1890) 前奏曲、フーガと変奏 op.18 から 前奏曲
7) アーン 夜想曲 変ホ長調
8) イザイ(Eugene-Auguste Ysaye 1858-1931) マズルカ op.10-1
9) シャミナード(Cecile Chaminade 1857-1944)/クライスラー(Fritz Kreisler 1875-1962)編 スペインのセレナード
10) フォーレ(Gabriel Faure 1845-1924) 3つの無言歌 op.17 から 第3番 変イ長調
11) ワーグナー(Richard Wagner 1813-1883) エレジー www.93
12) R.シュトラウス(Richard Strauss 1864-1949) 4つの情緒のある風景 op.9 から 第6番「ノットゥルノ」
13) フォーレ/ディリュカ編 3つの歌 op.23 から 第1番「ゆりかご」
14) マスネ(Jules Massenet 1842-1912) エレジー(メロディ) op.10-5
15) フォーレ 3つの歌 op.23 から 第3番 「秘密」
16) ドビュッシー 喜びの島
17) アーン ピアノ組曲「当惑したナイチンゲール」 第1巻 第16番「エグランティーヌ王子の夢」
 2020年の録音。
 1)のアーンのピアノ協奏曲は、エルヴェ・ニケ(Herve Niquet 1957-)指揮、パリ室内管弦楽団との協演、5)と15)では、ナタリー・デセイ(Natalie Dessay 1965-)のソプラノ、7,8,9)では、ピエール・フシュヌレ(Pierre Fouchenneret 1985-)のヴァイオリンが加わる。また、17)では、ギヨーム・ガリエンヌ(Guillaume Gallienne 1972-)の語りが挿入される。
 連続している3曲で、ヴァイオリンとピアノのデュオが聴けるが、この3曲は、「ヴァントゥイユのソナタ」を再現というコンセプトで収録されている。「ヴァントゥイユのソナタ」とは、(私は読んでいないけれど)「失われた時を求めて」の作中で登場する音楽作品で、架空の作曲家、ヴァントゥイユが書いたヴァイオリン・ソナタということになっている。小説の中ではそれなりに重要な役割を果たしているそうだ。
 この「ヴァントゥイユのソナタ」について、サン・サーンスのヴァイオリン・ソナタ第1番がイメージされていたのではないか、との説が有力だそうであるが、当盤では、第1楽章にアーンの「夜想曲」、第2楽章にイザイの「マズルカ」、第3楽章にシャミナード(クライスラー編)の「スペインのセレナード」を充てるという方法で、架空作品の具体化を行っていて、これが聴いてみるととても面白い。3人の作曲家によるまったく別の作品であるにも関わらず、全体として、きれいな情感と高い香気があり、なかなかの名案と感じ入った。
 この「ヴァントゥイユのソナタ」を含めて、アルバム全体の選曲、並びが、とても良い。聴いていて楽しい。デセイの歌唱の入る2曲も香しい魅力がいっぱいだし、瀟洒で雅なアーンのピアノ協奏曲から始まるのも、とても繊細な感じがして、好ましい。アーンはプルーストと親友だったとのことで、このアルバムでも、彼の作品は重要な位置を占めている。フォーレの「3つの歌」では、第1番「ゆりかご」はディリュカの編曲によるピアノ独奏版、第3番「秘密」は、デセイの歌唱と、これもかなりアイデアを感じさせる選曲だし、演奏もとてもセンシティヴで美しい。軽やかなスタッカート、流れの良い運動性をバックに、しなやかに歌が紡がれていく様は、どこかしら幻想的でもある。
 最後に、アーンの4組曲全53曲からなるピアノ組曲「当惑したナイチンゲール」からの1曲が流れるが、ここにプルーストの詩の語りが添えられる。その効果もなかなか粋だ。
 プルースト作品を読んでいない人でも、純粋な音楽作品として接して、インスピレーションに満ちた豊かな感覚を味わえるだろう。

Pulse
p: ディリュカ チネケ!オーケストラ

レビュー日:2023.5.26
★★★★★  ディリュカによるミニマル・ミュージックを中心としたユニークなアルバム
 スリランカ人の両親を持つモナコのピアニスト、シャニ・ディリュカ(Shani Diluka 1976-)による “Pulse” と題されたアルバム。収録内容の詳細は以下の通り。
1) メレディス・モンク(Meredith Monk 1942-) レイルロード
2) フィリップ・グラス(Philip Glass 1937-) エチュード 第2番
3. ニコラス・ブロドスキー(Nicholas Brodszky 1905-1958)/キース・ジャレット(Keith Jarrett 1945-)編 ビー・マイ・ラブ(ニューオリンズの美女-私の恋人に)
4) フィリップ・グラス マッド・ラッシュ
5) ジョン・ケージ(John Cage 1912-1992) 夢(Dream)
6) ダフト・パンク(Daft Punk)/ディリュカ編 ヴェリディス・クオ(Veridis Quo)
7) フィリップ・グラス エチュード 第5番
8) ルーク・ハワード(Luke Howard) カジノ
9) ジョン・アダムズ(John Adams 1947-) 中国の門
10) テリー・ライリー(Terry Riley 1935-) 賢者の手(The philosopher's hand)
11) フィリップ・グラス エチュード 第9番
12) アイルランド民謡/ビル・エヴァンス(Bill Evans 1958-)編 ダニー・ボーイ
13) フィリップ・グラス メタモルフォシス I
14) ムーンドッグ(Moondog 1916-1999) 鳥のラメント
15) アメリカ民謡/キース・ジャレット編 シェナンドー
16) フィリップ・グラス グラスワークス~オープニング
17) ダフト・パンク/ディリュカ編 ジョルジオ・バイ・モロダー(Giorgio By Moroder)
18) シャニ・ディリュカ シマーズ(Shimmers)
19) ムーンドッグ バーンダンス op.78-8
20) クレイグ・アームストロング(Craig Armstrong 1959-) メロディ(サン・オン・ユー)
21) ジュリアス・イーストマン(Julius Eastman 1940-1990) ホーリー・プレゼンス・オブ・ジャンヌ・ダルク(The Holy Presence of Joan d'Arc) 
22) フィリップ・グラス エチュード 第5番 + ディリュカによるテキスト “Paths That Cross” の朗読付
 ダフト・パンクは、トーマ・バンガルテル(Thomas Bangalter 1975-)とギイ=マニュエル・ド・オメム=クリスト(Guy-Manuel de Homem-Christo 1974-)により結成されたフランスの電子音楽デュオ。ムーンドッグはアメリカの盲目の作曲家、ルイス・トーマス・ハーディン(Louis Thomas Hardin 1916-1999)の芸術活動名。
 21)はサンブリ(A Saint-Bris)による、ピアノと弦楽オーケストラ編曲版で、イギリスに拠点を置くチネケ!オーケストラとの協演による録音。
 2021~2022年の録音。
 ディリュカならではの企画性の高さを感じさせるアルバム。ディリュカが2013年に録音した「Road 66」と高い親近性を感じる。実際、収録曲のうち、アダムズの「中国の門」とフィリップ・グラスの「エチュード第9番」は、双方のアルバムに重複して収録される形となった。
 今回のアルバムは、「ミニマル・ミュージック」に焦点を当てているが、その他にも懐古的・情緒的な旋律に満ちた小品も取り入れられ、全体を聴き通した際に得られる豊かな情感は、とても麗しい。モンクの高揚感あるレイルロードから開始され、しばしばグラスの憧憬的なピースをプロムナート的に挟むようにしながら、様々な楽曲が繰り広げられていく。その美しさは夢想的といても良い。ピアノで奏でられるダフト・パンクの電子音楽も魅惑的だし、ジャレットやエヴァンスのアレンジした小品も魅力たっぷり。個人的に「ダニー・ボーイ」を聴くと、どうしても村上春樹の「世界の終りとハードボイルドワンダーランド」を思い出してしまう(あの小説の核は、ダニー・ボーイの旋律が蘇ってくるところだと、個人的は思っている)のだが、ディリュカの演奏は、雰囲気がビタリと来る感がある。また、ダニー・ボーイと同様に、シェナンドーは広く聴き手の琴線に触れる情感を持った音楽で、このアルバムの中でも重要な役割を果たしている。
 アダムズの「中国の門」は、ミニマル音楽におけるピアノ独奏曲の傑作の一つだし、最後に収録されたグラスのエチュード第5番は、音の間隙を縫って、ディリュカ自身による魅惑的なテキストの朗読が添えられる。美しい色彩感に満ちた一編で、このピアニストならではの着眼点やアイデアに満ちたアルバムでもある。


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ガヴリリュク


Alexander Gavrylyuk in Recital 2007
p: ガヴリリュク

レビュー日:2013.6.10
★★★★★  後半になるほど熱くなる圧巻の迫力ライヴ!
 ウクライナのピアニスト、アレクサンダー・ガヴリリュク(Alexander Gavrylyuk 1984-)による2007年フロリダ州フォートローダーデール(Fort Lauderdare)におけるライヴの模様を収録したCD2枚組アルバム。収録曲は以下の通り。
【CD1】
1) バッハ(Johann Sebastian Bach 1685-1750)/ ブゾーニ(Ferruccio Busoni 1866-1924)編 トッカータとフーガ
2) モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791) ピアノ・ソナタ 第18番 (K.576)
3) シューベルト(Franz Peter Schubert 1797-1828) ピアノ・ソナタ 第13番 (D.664)
【CD2】
4) ラフマニノフ(Sergei Rachmaninov 1873-1943) 練習曲集「音の絵」 op.39 全曲
5) モシュコフスキ(Moritz Moszkowski 1854-1925) 練習曲第11番 変イ長調 op.72-11
6) バラキレフ(Miliy Alekseevich Balakirev 1837-1910) 東洋風幻想曲「イスラメイ」
7) ラフマニノフ 前奏曲 嬰ト短調 op.32-12
8) ヴォロドス(Arcady Volodos 1972-) モーツァルトのトルコ・ロンドのコンサートパラフレーズ
 ガヴリリュクは、2000年11月に行なわれた第4回浜松国際ピアノコンクールで優勝したので、日本のフアンには馴染みのあるピアニストの一人かもしれない。優れた技術と圧倒的な膂力に満ちたスタイルで、私たちがイメージするロシア・ピアニズムに近いパフォーマンスを繰り広げてくれる。モシュコフスキの曲は、彼の作品の中でも、ピアニストたちに好んで弾かれることの多い1曲で、ここでも華やかな演奏効果が上がっている。
 このアルバムでは、後半に行くにしたがって畳み掛けるような迫力で盛り上がっていく様子が顕著であり、当初からそれを想定してのプログラムという雰囲気。なので、聴きどころは2枚目にあると言っていいだろう。
 冒頭のトッカータとフーガは、非常に落ち着いた足取りで、一つ一つの音をしっかりと響き渡らせている。曲が後半に向かって重量感を増していくのを、インテンポで堅実に表現している。モーツァルト、シューベルトの可憐なソナタが続くが、ここでは清潔感のあるピアニズムといった雰囲気。もう少し、味わいのようなものが欲しいところが残る。
 前述の通り、「本領発揮」は2枚目からで、ラフマニノフでは、しばしば見せる重々しい低音の迫力が凄まじい。テンポは比較的ゆったり目ではあるが、1枚目のプログラムに比べて、はるかに大きな振幅の幅を携えて、浪漫的で情熱的なアプローチを展開する。
 バラキレフのイスラメイは、腕達者にピアニストに好んで取り上げられる曲としてすっかり定番になった感があるか、ガヴリリュクの質感量感ともに豊かな音が疾走していく様は、巨大な重量物が駆け抜けていくような迫力だ。
 7,8)の2曲はアンコール。ラフマニノフの麗しい曲もさることながら、圧巻の締めくくりはヴォロドスの傑作コンサートピースである。モーツァルトの原曲(トルコ行進曲)に、信じがたいほどの重厚な肉付けを施した楽曲は迫力満点。ガヴリリュクの面目躍如アクセル全開で一気呵成に弾き切った爽快感無比のすごさ。終演後の観客の熱狂ぶりの凄まじさがその成功を物語っていよう。
 この最後の一幕を聴くだけでも、このアルバムを買う価値は十分にあるのではなかろうか。

Alexander Gavrylyuk Live in Recital
p: ガヴリリュク

レビュー日:2013.5.2
★★★★★  現代を代表するヴィルトゥオーソの記録
 ウクライナのピアニスト、アレクサンダー・ガヴリリュク(Alexander Gavrylyuk 1984-)による2005年マイアミ国際ピアノ・フェスティヴァルにおけるライヴの模様を収録したCD2枚組アルバム。収録曲は以下の通り。
【CD1】
1) ハイドン(Franz Joseph Haydn 1732-1809) ピアノ・ソナタ 第47番
2) ブラームス(Johannes Brahms 1833-1897) パガニーニの主題による練習曲(第1巻&第2巻)
3) スクリャービン(Alexander Scriabin 1872-1915) ピアノ・ソナタ 第5番
4) プロコフィエフ(Sergei Prokofiev 1891-1953) ピアノ・ソナタ 第6番
【CD2】
5) ショパン(Frederic Chopin 1810-1849) 練習曲 嬰ハ短調 op.25-7
6) スクリャービン 練習曲 嬰ニ短調 op.8-12
7) メンデルスゾーン(Felix Mendelssohn Bartholdy 1809-1847)リスト&ホロヴィッツ編 結婚行進曲
8) プロコフィエフ ピアノ・ソナタ 第7番「戦争ソナタ」
 ガヴリリュクは、2000年11月に行なわれた第4回浜松国際ピアノコンクールで優勝したので、日本のフアンには馴染みのあるピアニストの一人かもしれない。優れた技術と圧倒的な膂力に満ちたスタイルで、私たちがイメージするロシア・ピアニズムに近いパフォーマンスを繰り広げてくれる。
 しかし、その録音はあまり多いとは言えず、この量のあるライヴ・アルバムは、そういった点でも貴重である。アルバムの記載によると、1)~7)が同じ日の公演内容で、8)だけは別の日の音源となっている。そのため、アルバムを通して聴くと、5)~7)にアンコールの曲目が入った後、8)でまた正規のプログラムに戻ってしまうような印象になるが、それでも、当然のことながら、曲目を充実して収録してくれた企画には感謝したい。
 さて、演奏は恐ろしいほどの強靭なタッチで繰り広げられるスペクタクルといった感じで、特にヴィルトゥオジティを発揮する曲が終了した際の聴衆の反応も凄まじいの一語。圧巻のライヴの記録である。
 冒頭にハイドンのロ短調のソナタが収録されている。美しい透徹した響きと、鮮明なトリルが印象的だ。第2楽章など、少し音色の単調さを感じさせるところもあるが、ピアノの鳴りが良く、気持ちのいい演奏。次のブラームスからが本番といった感じだ。一音一音の重量感がただならない。しかもスピード感を保ちながら、鋭くふるまわれる打鍵の鋭さは尋常ではない迫力を引き出していて、グイグイ迫ってくる。
 スクリャービン、プロコフィエフのピアノ・ソナタでは、力強い跳躍があちこちに刻印されるが、それも決して奇異な演出ではなく、全体の処理の中で巧みに組み込まれ、見事に聴き手に興奮を与えてくれる。
 アンコールの各曲も見事な演奏であるが、中でスクリャービンの練習曲は一陣の疾風のように吹きすさぶスピード感が爽快だ。メンデルスゾーンの結婚行進曲は、リスト(Franz Liszt 1811-1886)とホロヴィッツ(Vladimir Horowitz 1903-1989)という時代を超えたヴィルトゥオーソたちの手による編曲を経て、付加された派手な演奏効果を、惜しげもなく万全のピアニズムで繰り広げており、聴き手にこれでもかといった満足感を叩き込む。ガヴリリュクの圧巻の記録である。
 このアルバムが入手できることを喜びながらも、ぜひ、ガヴリリュクには、より多くの録音をリリースしてほしいものだと思う。

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グローヴナー


Dances
p: グローヴナー

レビュー日:2015.2.19
★★★★★  神童の凄味を見せつける驚異のアルバム
 「神童」という言葉があるが、2004年、11歳でBBCヤング・ミュージシャンのピアノ部門で優勝をかちとったイギリスのピアニスト、ベンジャミン・グローヴナー(Benjamin Grovenor 1992-)などまさにその例だろう。当録音はDECCAレーベルからリリースされた彼の3枚目のアルバムで、2013年、グローヴナーが19歳の時の録音。だがその完成度は恐ろしく高い。「Dances」というタイトルに沿って、古今の舞曲を集めているが、その選曲もなかなか面白い。以下の曲が収録されている。
1) バッハ(Johann Sebastian Bach 1685-1750) パルティータ 第4番 ニ長調 BWV.828
2) ショパン(Frederic Chopin 1810-1849) アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ op.22
3) ショパン ポロネーズ 第5番 嬰へ短調 op.44
4) スクリャービン(Alexandre Scriabine 1872-1915) 10のマズルカ op.3より第6番 第4番 第9番
5) スクリャービン ワルツ 第4番 op.38
6) グラナドス(Enrique Granados 1867-1916) 詩的なワルツ集
7) シュルツ=エヴラー(Adolf Schulz-Evler 1852-1905) 美しき青きドナウの主題によるアラベスク
8) アルベニス(Isaac Albeniz 1860-1909)/ゴドフスキー(Leopold Godowsky 1870-1938)編 タンゴ op.165-2
9) モートン・グールド(Morton Gould 1913-1996) ブギウギ練習曲
 なんとも美しく明朗で研ぎ澄まされた音色だ。濁りの無い細やかな音の描写は、無数の光の粒を連想させる。
 ショパンの「アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ」から感想を書きたい。この曲の冒頭の最初の数秒を聴いただけで、多くの人はうっとりさせられるのではないか。絶対的な美音と、巧妙なルバートによって、この世のものとは思えないほどの美麗な世界に一瞬で誘われる。なんとも陶酔的な音楽。
 続くポロネーズも見事。この土俗的な力の溢れた作品を、グローヴナーは洗練の極みを持って表現する。装飾音の響きのなめらかさは無類だし、スタッカートの連打は、弱音であっても、輝きはつねに完全だ。
 スクリャービンのロマンティックなナンバーも、明朗な切れ味で鮮烈だ。そして。エヴラーの秘曲「美しき青きドナウの主題によるアラベスク」。ヨハン・シュトラウス2世(Johann Strauss II 1825-1899)の高名な管弦楽曲を編曲したものだが、その華麗な演奏効果と超絶的な技巧の要求で、一部ではとても有名な作品。私はこの曲には、ハイルディノフ(Rustem Hayroudinoff)の名演で親しんだのだが、グローヴナーの冒頭部の微小な高音の持続音には心底参った。雪を思わせるような結晶化しきったピアノの響き。
 グラナドス、アルベニス、モートン・グールドといった選曲も楽しい。とにかく楽しくて美しいアルバム。そして、冒頭に置かれたバッハの大曲も、ロマンティックで美麗に奏でられる。サラバンドの響きが特に魅惑的。ただ、この作品に関しては、色彩感が豊か過ぎると思われる人もいるかもしれない。しかし、私は、当アルバムを通して聴いたとき、アルバム全体として受ける効果として、結果的にとても暖かみのあるものに思われる。
 20代に入ったグローヴナーは、これからは神童という肩書きではなく、一流のアーティストとしての道を歩むに違いない。是非とも積極的な録音活動を継続してほしい。

Homages
p: グローヴナー

レビュー日:2016.10.27
★★★★★  グローヴナーによる満点の星空を思わせる美演
 イギリスのピアニスト、ベンジャミン・グローヴナー(Benjamin Grosvenor 1992-)による「オマージュ」と題したアルバム。収録曲は以下の通り。
1) J.S.バッハ(Johann Sebastian Bach 1685-1750)/ ブゾーニ(Ferruccio Busoni 1866-1924)編 シャコンヌ
2) メンデルスゾーン(Felix Mendelssohn Bartholdy 1809-1847) 6つの前奏曲とフーガ op.35 より 第1番 ホ短調、第5番 ヘ短調
3) フランク(Cesar Franck 1822-1890) 前奏曲、コラールとフーガ
4) ショパン(Frederic Chopin 1810-1849) 舟歌 嬰ヘ長調 op.60
5) リスト(Franz Liszt 1811-1886) ヴェネツィアとナポリ S.162
 2015年録音。
 「オマージュ」というタイトルに従って、他の作曲家への敬意の含まれた作品を集めたものとのとで、1),2),3)はそれぞれブゾーニ、メンデルスゾーン、フランクからバッハへの、4)はショパンからリストへのオマージュ作品と見做せるもの、とのこと。最後のリストの作品は、第1曲の「ゴンドラを漕ぐ女」が、逆にショパンの舟歌とつながりのあるものと見做すこともできる。
 これらの楽曲をまとめる意味合いという点で、正直、私にはピンと来ないところもあるのだけれど、あるコンセプトに従った配列というのは、いろいろ試されてしかるべきだろうし、聴いていると、例えばメンデルスゾーンの作品は、ブゾーニとフランクの間で、良い「繋ぎ」の役割を果たしているようにも思える。
 プログラムの観点で論ずることは私には心もとないが、演奏を聴いた感想としては、とても清々しい、ブルーな色彩を感じるもの。そのソノリティは、私には、どこか「美しい夜」を感じさせるものだ。
 グローヴナーの演奏の特徴は、その細やかさにある。決してダイナミックレンジで圧倒するタイプではない。彼のピアニズムで、様々な表現の直接的な動機となっているのは、連続的で流麗なアッチェランドとリタルダンドである。その幾何学的な美しさは、サインカーブを組み合わせたオシロスコープを連想させる。決して角張ることなく、自然な加減速の切り替えが細やかに行われる。もちろん、それは単に機械的なものではなく、音楽表現としてもこなれていて、整合性を伴ったものとして感じられるのだ。
 そして、音色自体の微細な美しさ。ちょっとしたアルペッジョであっても、その中に様々な輝きがあり、一瞬の響きだけで、聴き手を魅惑する力を持っている。
 前述の特徴を備えているため、全般にテンポはやや速めで、快活な明朗さをともなった印象が強くなる。そのため、深刻な諸相をもった楽曲の場合、やや「軽すぎる」という印象に繋がることはあるだろう。このアルバムを通して聴いた際も、これほど軽やかで鮮烈に過ぎてしまって、何か積み残したものはないだろうか?という思いに囚われる部分も、少しはある。しかし、それも含めて、グローヴナーのスタイルであり、魅力である。新しい何かを獲得するために、相容れないものを削ることもあるだろうし、その結果、先述の整合性は見事に整っているのだから、完成度という点で文句の付けようはないのである。
 ブルーな夜空に満点の星をちりばめた美しさ。その絶対的な美に浸ることのできるアルバムだ。


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アムラン


Marc-Andre Hamelin Live at Wigmore Hal
p: アムラン

レビュー日:2007.11.3
★★★★★ アムラン・ワールドにどっぷり浸れるアルバムです。
 1994年ロンドンのウィグモアホールにおけるライヴ録音。いかにもアムランらしいプログラムである。収録曲は以下の通り。1)ベートーヴェン ピアノ協奏曲第3番~第1楽章(アルカン編によるピアノ独奏版) 2)ショパン ピアノ協奏曲第1番~第2楽章(バラキレフ編によるピアノ独奏版) 3)アルカン 片手ずつと両手のための3つの大練習曲 4)ブゾーニ ビゼーのカルメンによる幻想曲 5)メトネル 「忘れられた調べ」から第3曲。
 5曲中3曲が「編曲もの」で、録音ジャンルとしても珍しいものだが、中でもアルカンが編曲したベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番の第1楽章が面白い。オーケストラパートとピアノパートを一人で受け持ってしまっているわけだが、その入れ代わり立ち代わりの演奏技巧がまずは圧巻。そして編曲の面白さがまたすごい。オーケストラパートの秀逸な編曲で、音楽の勢いがまったく失われず、逆に新たな生命を宿したかのようだ。またカデンツァでは運命交響曲の旋律などを様々に引用し、まさしくこれは奇人(?)アルカンと達人アムランのコラボレーションでなければ生み出しえない音の世界が繰り広げられている。その悦楽はめったに得られるものではない。
 また、そのアルカンの練習曲は3つの曲からなり、左手のため、右手のため、そして両手のためとなるが、ここでの技巧のすさまじさ、そしてこれをライヴに取り上げてしまうアムランのパフォーマンス能力全般にまたまた脱帽してしまう。旋律と伴奏の重和音をいささかもスピードの減少を感じさせず突き進むピアニズムの爽快さは比類ない。また「右手のため」の曲というのは曲のジャンル自体がきわめて貴重で、奇人アルカンならではの作品だろう。
 ブゾーニの「カルメン幻想曲」ではカルメンの様々な名旋律が惜しげもなく連なっており、これまた演奏効果の高いお祭り的楽曲。それでいて、メトネルでさりげなくプログラムを閉じるあたりも心憎い。アムラン・ワールドにどっぷり浸れるアルバムです。

Marc-Andre Hamelin Etudes~ 短調による12の練習曲(第1番「トリプル・エチュード」 第2番「昏睡したベレニケ」 第3番「パガニーニ~リストによる」 第4番「無窮動風練習曲」 第5番「グロテスクなトッカータ」 第6番「スカルラッティを讃えて」 第7番「チャイコフスキーの左手のための練習曲による」 第8番「ゲーテの魔王による」 第9番「ロッシーニによる」 第10番「ショパンによる」 第11番「メヌエット」 第12番「前奏曲とフーガ」) 小さなノクターン 「コン・インティミッシモ・センティメント~最も親密な思いをこめて」より 第1番「レントラーI」 第4番「アルバム・リーフ」 第5番「オルゴール」 第6番「ペルゴレージにちなんで」 第7番「子守歌」) 主題と変奏(キャシーズ・ヴァリエーションズ)
p: アムラン

レビュー日:2010.12.20
★★★★★ 現代を代表する「コンポーザー=ピアニスト」のアルバムです
 19世紀のヨーロッパでは「コンポーザー=ピアニスト」と呼ばれる人たちがいた。彼らは超絶的な技巧を必要とする作品を自ら作曲し、これを演奏することで聴衆から喝采を浴びた。その代表格がリストであり、ショパンであり、ルビンシテインである。今日でも同様の活動をするアーティストはいるけれど、なかなか日本のファンの耳に届くような活躍は少ない。しかし、ここに驚くべきアルバムが登場した。フランス系カナダ人ピアニスト、マルカンドレ・アムラン(Marc-Andre Hamelin 1961-)によるまさしく「コンポーザー=ピアニスト」アルバムである。
 収録曲は「短調による12の練習曲」「小さなノクターン」「コン・インティミッシモ・センティメント」からの5曲、「主題と変奏」で総収録時間は74分超、まさに「コンポーザー=ピアニスト」の面目躍如たるびっくりアルバムである。
 まず収録曲の曲目に注目したい。メインは「12の短調による練習曲」となっている。これはアムランがライフワークとしているアルカン(Charles-Valentin Alkan 1813-1888)の重要な作品群と同名。当然のことながら、「アルカンへのオマージュ」とみてとることが出来るだろう。さらにもう1人、色濃くアムランに影響を与えている人物がいる。リトアニアの作曲家ゴドフスキー(Leopold Godowsky 1870-1938)だ。彼はショパンの練習曲全27曲から26曲に基づく53曲の改変曲による練習曲を編み出していて、他ならぬアムランがこの53曲を全曲録音しており、これはピアノファンの間では「語り草」の録音となっている。それで、例えばアムランの12の練習曲の第1番を見てみると「トリプル・エチュード」と題しており、これはショパンの練習曲集のうちop10-2、op25-4、およびop25-11の3曲を対位法に従って組み合わせたまさに「改変作」である。まるで、ゴドフスキーの改作練習曲群の延長線にあるかのような1曲!と思わずにはいられない。
 さらに練習曲第3番はリストの「ラ・カンパネルラ」による変容であり、第4番はアルカンのop.76とop.39-7の統合改変曲。これらもまた大変面白い。他にもスカルラッティ、チャイコフスキー、ラフマニノフ、シューベルト、ロッシーニ、バッハといった作曲家からモチーフまたはメロディを引用し、そこにアムラン自身のオリジナリティを加えたり、もちろんオリジナル曲もあったりと、まさに多彩。最後の変奏曲ではベートーヴェンのソナタ第30番の終楽章の主題が現れるが、その扱いもヴィルトゥオジティを如何なく発揮させる仕上がり。また、オリジナル曲も充実していて、「コン・インティミッシモ・センティメント」の「オルゴール」などメシアンを彷彿とさせる面白さがある。かようにピアノ音楽全般に興味のある人はもちろんのことながら、そうでない人でも十分楽しめる内容だと思う。まさに現代の驚異の「コンポーザー=ピアニスト」の存在を刻印するアルバムだ。


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ハフ


タウジヒ ハンガリーのツィゴイネルワイゼン  マクダウェル ヘクセンタンツ  パデレフスキ メヌエット 夜想曲  モシュコフスキ シチリアーノ カプリース・イスパノール セレナーデ  ビゼー アダージェット  ルビンシテイン へ調のメロディ 他 
p: ハフ

レビュー日:2004.11.23
★★★★☆ ちょっと変った小品集
 スティーヴン・ハフによるピアノ小品集。なかなか面白い作品が紹介されている。取り上げた作曲家の量が膨大。
 タウジヒ(Karl Tausing 1841-1871 ポーランド~ショパンのピアノ協奏曲第1番をソロ版に編曲した人物)、マクダウェル(MacDowell Edward Alexander 1861-1908 アメリカ)、クィルター(Quilter Roger 1877-1953 イギリス)、チェルニー(Czerny Karl 1791-1857 オーストリア)、 レヴィツキー(Mischa Levitzki 1898-1941ポーランド)、レビコフ(Rebikov Vladimir Ivanovich 1866-1920 ロシア)、ラヴィーナ(Jean Henri Ravina  1818-1906 フランス)、 エイミー・ウッドフォルデ=フィンデン(Amy Woodforde-Finden 1860-1919 イギリス)といったマイナーな作曲家から、ジャズのロジャース(Richard Rodgers 1902-1979)まで含み、ハフがアレンジ等手がけた曲も含む。
 また、サンサーンスの「白鳥」のゴドフスキー版やショパンの歌曲“Maiden's Wish”をリストがポロネーズに編曲たものも含まれていて興味は尽きない。
 ハフのテクニックはさすがに冴え渡っていて、すさまじい華麗な演奏効果を撒き散らす曲もあれば、可憐な小曲もあり。

Stephen Hough's French Album
p: ハフ

レビュー日:2014.11.25
★★★★★  スティーブン・ハフによる、とても面白いフレンチ・プログラム
 イギリスのピアニスト、スティーヴン・ハフ(Stephen Hough 1961-)による「フレンチ・アルバム」と題したアルバム。一風変わった選曲が面白い。以下に収録曲をまとめよう。
1) バッハ(Johann Sebastian Bach 1685-1750)/ コルトー(Alfred Cortot 1877-1962)&ハフ編 トッカータとフーガ ニ短調 BWV.565
2) バッハ/コルトー編 チェンバロ協奏曲 第5番 ヘ短調 BWV.1056より 第2楽章
3) フォーレ(Gabriel Faure 1845-1924) 夜想曲 第6番 変ニ長調 op.63
4) フォーレ ピアノのための8つの小品から 第5曲「即興曲」 嬰ハ短調 op.84-5
5) フォーレ 即興曲 第5番 嬰ヘ短調 op.102
6) フォーレ 舟歌 第5番 嬰ヘ短調 op.66
7) ラヴェル(Maurice Ravel 1875-1937) 「鏡」より「道化師の朝の歌」
8) マスネ(Jules Massenet 1842-1912)/ハフ編 「田園詩」より「たそがれ」
9) シャブリエ(Alexis-Emmanuel Chabrier 1841-1894) 「絵画的な10の小品」から 第2曲「憂鬱」
10) プーランク(Francis Poulenc 1899-1963) 憂鬱
11) プーランク 夜想曲 第4番 ハ短調「幻の舞踏会」
12) プーランク 即興曲 第8番 イ短調
13) シャミナード(Cecile Chaminade 1857-1944) 秋 op.35-2
14) アルカン(Charles Valentin Alkan 1813-1888) 25の前奏曲から 第8番「海辺の狂女の歌」 op.31-8
15) ドビュッシー(Claude Debussy 1862-1918) ベルガマスク組曲より「月の光」
16) ドリーブ(Clement Leo Delibes 1836-1891)/ハフ編 バレエ組曲「シルヴィア」より「ピチカート」
17) リスト(Franz Liszt 1811-1886) ユダヤの回想~アレヴィの歌劇のモチーフに基づく華麗な幻想曲
 録音は、2009年と2011年に行なわれている。収録時間は78分を越える。
 とにかくプログラムが面白い。フレンチと題しながら、アルバムの両端にバッハとリストを配し、その中間に、本来のフランスものから、通俗的な名曲と隠れた逸品を織り交ぜて配置した点がとても巧妙。また、マスネとドリーブの美しい旋律を、ハフ自身の瀟洒な編曲で聴けるのもうれしい。
 冒頭のバッハの2作品は、フランスの生んだ歴史的ピアニスト、コルトーが編曲したもの、ということで、当アルバムに収録された。バッハ作品のピアノ編曲というと、ブゾーニ(Ferruccio Busoni 1866-1924)による一連の作品が有名なため、他の編曲が演奏される機会が少なくなっている傾向があるが、このコルトーの編曲も素晴らしい。ブゾーニの豪放な編曲と比べると、より直線的でシャープなイメージで、心地よいスピード感が持続する。ハフの安定したピアニズムは、これらの楽曲の推進力を強め、軽快な聴き味を演出する。
 フォーレの夜想曲第6番が素晴らしい。この楽曲自体、フォーレのピアノ独奏曲の中でも、高貴さと幻想性を湛えた名品なのだけれど、細やかな音型を繊細かつエレガントに積み上げたハフの演奏は見事の一語に尽きる。この演奏で、本アルバムの「フランスもの」が開始されるのはとても相応しい。
 ラヴェルの有名曲「道化師の朝の歌」も古今の名演の一つに数え上げられるべき内容。マスネの美しい旋律が、当企画で取り上げられることも嬉しい。シャブリエの代表的ピアノ作品である「絵画的な10の小品」からは、 第2曲「憂鬱」が選ばれている。これまた洒落た響きが楽しい。むしろ憂鬱を巧みに表現した作曲家はプーランクであろう。夜想曲第4番は、ショパンフレデリック・フランソワ・ショパン(Frederic Chopin 1810-1849)の前奏曲第7番を思わせながら、なんとも幻想的な憂鬱を描いた美品に違いない。
 シャミナードの「秋」が聴き漏らせない名品。明快なABAの3部形式ながら、情緒的なAと、激情的なBの対比が激しい。ハフの演奏は、この小品に潜む激しいドラマを、ダイナミックに描き切っている。続くアルカンの「海辺の狂女の歌」は、巧妙なペダリングで、どこか暗黒的な情緒を掘り下げる。
 ドビュッシーの「月の光」が適度な間をもって、エレガントに奏でられる。こちらも美しい演奏だ。ちなみに、私が最近プレイした「サイコブレイク」というPSソフトでは、この曲をヴァイオリンとピアノに編曲したものが巧みに用いられていて、なかなか感心したのだけれど、私の場合、そんなことを思い出しながら聴きました。続くドリーブの曲も、聴けば多くの人が「ああ、あの曲か!」と膝を打つであろう有名な旋律。この旋律がこれほどピアノと言う楽器に適性があるとは驚いた。編曲も含めてハフの才にあらためて感服させられる。
 最後はリストのパワフルなアレンジを堪能しよう。フランスのオペラ作曲家、アレヴィ(Jacques-Fromental Halevy 1799-1862)の代表作「ユダヤの女」の旋律を扱った大きな構造を持った作品だ。ここではハフによって繰り広げられる圧倒的なパフォーマンスにひたすら心を奪われてしまう。
 以上の様に、冒頭から最後まで、とても楽しめる濃厚なアルバムだ。名演奏による数々の名旋律に浸れる、とても贅沢なアルバムとなっています。

Stephen Hough's Spanish Album
p: ハフ

レビュー日:2015.2.13
★★★★★  ハフによる魅力いっぱいの “スパニッシュ・アルバム”
 スティーブン・ハフ(Stephen Hough 1961-)による“スパニッシュ・アルバム”。2005年の録音。収録曲は以下の通り。
1) ソレール(Antonio Soler 1729-1783) ソナタ 嬰へ長調
2) グラナドス(Enrique Granados 1867-1916) 詩的な情景
3) アルベニス(Isaac Albeniz 1860-1909) 組曲イベリア第1巻より第1曲「招魂(エヴォカシオン)」
4) アルベニス 組曲イベリア 第2巻 第3曲 「トゥリアーナ」
5) モンポウ(Federico Mompou 1893-1987) 「内なる印象」より(第5曲「悲しい鳥」、第6曲「小舟」、第8曲「秘めごと」、第9曲「ジプシー」)
6) ロンガス(Federico Longas 1893-1968) アラゴン
7) ドビュッシー(Claude Debussy 1862-1918) 「版画」より第2曲「グラナダの夕暮れ」
8) ドビュッシー 前奏曲集 第1巻 第9番 さえぎられたセレナード
9) ドビュッシー 前奏曲集 第2巻 第3番 ヴィーニョの門
10) ラヴェル(Maurice Ravel 1875-1937)/デュメニル(Maurice Dumesnil 1886-1974)編 ハバネラ形式による小品
11) アルベニス / ゴドフスキー(Leopold Godowsky 1870-1938)編 タンゴ
12) シャルヴェンカ(Franz Xaver Scharwenka 1850-1924) スペインのセレナード op.63-1
13) W.ニーマン(Walter Niemann 1876-1953) セヴィリャの夕暮れ op.55-2
14) ハフ オン・ファリャ
 一編の小粋な小説を読むかのようなアルバムだ。全体は3つの部分から構成されている。第1の部分は1)~6)で、これは文字通りスペインの作曲家たちによる作品。第2の部分は7)~10)でフランスの印象派の作曲家たちによる隣国スペインを題材とした作品集。第3の部分か11)~14)で、これはスペインの素材を用いるか、あるいはスペインの印象からインスパイアされた作品を集めたもの。
 このアルバムを聴くと、当アルバムには1世紀半にわたる時間の中で編み出されたスペインに由来を持つ音楽たちが収められているが、それらには、代表的な2つの共通する表現対象があるように思える。一つは燃え上がる様な力感が溢れる情熱の世界、もう一つは神秘的な静寂が支配する夜の世界である。もちろん、それだけではないのだけれど、ハフの演奏は、この2つの対照的な要素を、いずれも鋭敏に描き出している点で見事だ。
 ソレールのソナタは当時の作品らしい優美さの中に力強さを秘めた美品だ。一方、モンポウが描くのは夜の世界、それもとても透明な悲しさが染み込むような、静謐な時間。ドビュッシーの前奏曲からの2曲も、ハフの精妙なタッチが冴えた好演だ。ラヴェルの「ハバネラ形式による小品」は、独奏楽器とピアノによって奏されることが多いが、デュメニル編の独奏版も、ハフのリズム処理の機敏さも手伝って、とても楽しいもの。
 最後の4曲は、いずれも多くの人に発見の喜びをもたらすものだと思う。フランスの印象派に影響を受けたドイツの作曲家、W.ニーマンの小品など、とても魅力的だ。そして末尾に収録されたハフの手による「オン・ファリャ」は、その名の通り、ファリャ(Manuel de Falla 1876-1946)の素材を用いたピアノ曲だが、野性的なリズム感に富んだ見事な一遍。ハフの輝かしい才能を見せつけてくれる。
 アーティスト・ハフに存分に酔える一枚となっている。

Stephen Hough's New Piano Album
p: ハフ

レビュー日:2015.2.18
★★★★★  奏者のセンスを存分に感じさせるピアノ作品集
 イギリスのピアニスト、スティーヴン・ハフ(Stephen Hough 1961-)による“ニュー・ピアノ・アルバム”と題したピアノ小品集。1997年から98年にかけての録音。ハフには、これより前にvirginレーベルからやはり小品ばかりを集めた“ザ・ピアノ・アルバム”があったので、その後継企画と言う意味で、newとしたのだろう。今回もユニークな収録内容だ。まずはその詳細を紹介する。
1) シューベルト(Franz Peter Schubert 1797-1828)/リスト(Franz Liszt 1811-1886)編 音楽の夜会
2) シューベルト/ゴドフスキー(Leopold Godowsky 1870-1938)編 朝の挨拶
3) シューベルト/ゴドフスキー編 楽興の時 第3番 ヘ短調
4) ゴドフスキー 古きウィーン
5) モシュコフスキ(Moritz Moszkowski 1854-1925) 8つの性格的小品op.36から 第6番「火花」
6) パデレフスキ(Ignacy Jan Paderewski 1860-1941) ミセラネア op.16 から 第2曲「メロディ」
7) シャミナード(Cecile Chaminade 1857-1944) ピエレット op.41
8) シャミナード 6つのユーモラスな小品 op.87 から 第4曲
9) カールマン(Emmerich Kalman 1882-1953)/ハフ編 くちづけせぬバラの唇は
10) ハフ 音楽の宝石箱
11) ハフ 演奏会用練習曲
12) ロジャース(Richard Rodgers 1902-1979)/ハフ編 ハロー・ヤング・ラヴァーズ/
13) ロジャース/ハフ編 カルーセル・ワルツ
14) 民謡/ハフ編 ロンドンデリーの音楽
15) ラフマニノフ(Sergei Rachmaninov 1873-1943) サロン小品集op.10から第5曲「ユモレスク」
16) ラフマニノフ 幻想的小品集 op.3から第3曲「メロディ」
17) チャイコフスキー(Pyotr Ilyich Tchaikovsky 1840-1893) 2つの小品op.10から第2曲「ユモレスク」
18) チャイコフスキー ドゥムカ op.59
19) チャイコフスキー/ワイルド(Earl Wild 1915-2010)編 4羽の白鳥の踊り
20) チャイコフスキー/パブスト(Paul Pabst 1854-1897)&ハフ編 「眠りの森の美女」パラフレーズ
 有名・無名曲に加えて、ハフ自身の作品もラインナップされている。ハフにはこのような企画盤が2015年現在までいろいろリリースされているが、どれもピアノを弾く喜びに溢れたもので、聴き手を楽しませてくれるものだ。本盤ももちろん良い。
 これらの楽曲は、一般にクラシックのピアニストが取り組む王道作品とは言えない。むしろ余技的な、ちょっとした趣味のような世界。ハフのアルバムも、もちろんそのことを踏まえてはいるが、しかし、ほどよいルバートを効かせたロマン性溢れる演奏と、瑞々しいタッチで描かれた音世界は、おどろくほどの香気に満ちていて、そのような前提とは無関係に聴き手を感動させてくれる。
 ゴドフスキーの「古きウィーン」など、音響的な豊かさとともに、心象スケッチ的な、聴き手の心に触れる要素が存分にあり、この楽曲の演奏として理想の姿を示していると思う。パデレフスキの「メロディ」では、瀟洒な旋律と装飾の扱いの妙が楽しめる。真ん中にあるハフ自身の作品は、愛らしい「音楽の宝石箱」と、運動的な「演奏会用練習曲」の対比が楽しい。どちらも、当アルバムにあって、他の作品と比べても遜色ないピースだ。
 ロジャースの2曲はともにノスタルジックな味わいを感じさせてくれる。のどかな田舎の風景を思わせるが、併せて高尚な抒情性をも偲ばせるピアノが心憎い。ロンドンデリーの音楽が抜群の美しさ。ハフによる編曲が見事なこともあって、当アルバムのハートの役割を担うに値する存在感だ。
 ラフマニノフ、チャイコフスキーといった大家による作品はさすがの味わいと重厚さで、末尾にこれらの楽曲を配することで、アルバム全体の質感を豊かにする効果も上がっている。誰もが知っている「4羽の白鳥の踊り」や「眠りの森の美女」の旋律が、健康的な明朗さで響き渡っており、気持ち良い締めくくりとなっている。

Stephen Hough's English Album
p: ハフ

レビュー日:2015.2.25
★★★★★  ハフによる“イングリッシュ・アルバム”で、知られざる英国ピアノ小品に親しむ
 スティーヴン・ハフ(Stephen Hough 1961-)による“イングリッシュ・アルバム”と題したピアノ小品集。収録曲は以下の通り。
1) ロースソーン(Alan Rawsthorne1905-1971) 4つのバガテル
2) レイノルズ(Stephen Reynolds 1947-) ディーリアスの思い出に捧げる2つの詩
3) ハフ エニグマのワルツ 第1番 第2番
4) エルガー(Edward Elgar 1857-1934) スミルナにて
5) レイノルズ フォーレの思い出に捧げる2つの詩
6) バントック(Granville Bantock 1868-1946)/ハフ編 封印された歌
7) ボーウェン(York Bowen 1884-1961) 愛の夢 op.20-2
8) ボーウェン シリアスな踊り op.51-2
9) ボーウェン ポルデンへの道 o.76
10) ブリッジ(Frank Bridge 1879-1941) しずくの妖精
11) ブリッジ 気楽な心
12) レイトン(Kenneth Leighton 1929-1988) 6つの練習曲(練習用変奏曲)op.56
 録音は3)と8)が1997年、他は2001年。
 ハフは、企画性の高いピアノ小品集をいくつか録音していて、本盤もその一つ。タイトルの通り、自らも含めて、イギリスの作曲家によるピアノ小品を集めたもの。
 ハフは、他にも「スパニッシュ・アルバム」や「フレンチ・アルバム」といった同様の主旨のアルバムを作製しているが、こと、イギリスに関しては、日本では、誰もが思い浮かべるようなピアノ曲作家というのは、いないだろう。実際、当盤のインデックスを見ても、それなりに知名度のある作曲家というのはエルガーくらいだし、そのエルガーにしても、彼のピアノ独奏曲を1曲でも知っている人というのは、それほどいないのではないだろうか。
 しかし、だからこそ、このようなアルバムで、ハフのような達人が、母国の知られざる佳作を紹介してくれるのはありがたい。実際、聴いてみると、たいへん素敵なアルバムに仕上がっている。
 まず、注目いただきたいのが、ボーウェンの作品だ。ボーウェンは「イギリスのラフマニノフ」と呼ばれた作曲家で、郷愁に溢れたピアノ曲を書いた。サンサーンス(Camille Saint-Saens 1835-1921)はボーウェンを「イギリスの作曲家の中で最大の注目株」と評価している。ボーウェンはピアニストとしても高名だったが、彼の演奏スタイルは非常にロマンチックなもので、ベートーヴェンなどを弾いたときは賛否両論であったらしい。
 さて、そのボーウェンの3曲が美しい。印象派的な色彩感を持ち、ロシア風の情緒を湛えたなんとも麗しさのある楽曲だ。子守唄を思わせるような風情を、気品ある味わいの中でさりげなく出してゆく。ハフの細やかなタッチによって、とても豊かな響きが導かれている。
 ブリッジの2作品も美しい。また、ボーウェンの前に収録されているバントックの「封印された歌」は牧歌的な中に淡く悲しげな表情があり、こちらもまた人の心に大きく作用する音楽だと思う。
 ハフ自身の作品は、瀟洒でサロン風の味わい。ハフの作曲家としての能力もなかなかのものだし、いずれは自作のみのアルバムなど作ってみても面白いのではないだろうか、と思う。
 ロースソーンの4つのバガデルは、4曲の性格分けが明瞭で、なかなか面白い作品。最後に収録されているレイトンの作品は、クラスター音的な音の使用があるなど、現代音楽的な素養を要求されるが、野趣性のあるリズムが興味深い。
 イギリスの、普段ほとんど聴く機会のない作品を、ハフの安定感のある技巧と、暖かい歌いまわしで楽しませてくれるアルバムで、聴き手に良い聴き味を与えてくれるものになっている。

Stephen Hough's Dream Album
p: ハフ

レビュー日:2018.6.21
★★★★★  実力派ピアニスト、ハフの多面的な芸術の才に浸れるアルバムです
 作・編曲活動にも力を入れているイギリスのピアニスト、スティーヴン・ハフ(Stephen Hough 1961-)による、ハフらしい、とても魅力的なアルバムがリリースされた。80分の収録時間を用いて、以下の27の楽曲が収録されている。
1) ハフ ラデツキー・ワルツ 原曲: ヨハン・シュトラウス1世(Johann Strauss I. 1804-1849) ラデツキー行進曲 op.228
2) ヘンリー・ラヴ(Henry Love 1895-1976)/ハフ編 古い歌
3) ユリウス・イッサーリス(Julius Isserlis 1888-1968) 子供の頃の思い出 op.11より イン・ザ・ステップス
4) ルートヴィヒ・ミンクス(Ludwig Minkus 1826-1917)/ハフ編 バレエ音楽「ドン・キホーテ」より キトリの変奏曲
5) ミンクス/ハフ編 バレエ音楽「ドン・キホーテ」より ドルシネアの変奏曲
6) ヴァシリー・ソロヴィヨフ=セドイ(Vasily Solovyov-Sedoi 1907-1979)/ハフ編 モスクワの夜
7) リスト(Franz Liszt 1811-1886) 超絶技巧練習曲 第11番 変ニ長調 「夕べの調べ」 S.139-11
8) リスト 超絶技巧練習曲 第10番 ヘ短調 S.139-10
9) イサーク・アルベニス(Isaac Albeniz 1860-1909)/ハフ編 組曲「スペイン」 op.165 より カタルーニャ奇想曲
10) マヌエル・ポンセ(Manuel Ponce 1882-1948) 間奏曲 第1番
11) エルネー・ドホナーニ(Dohnanyi Erno 1877-1962) 狂詩曲 ハ長調 op.11-3
12) ジャン・シベリウス(Jean Sibelius 1865-1957) 5つの小品 op.75 より 第5曲「もみの木」
13) ヴィリアム・セイメル(William Seymer 1890-1964) 夏のスケッチ op.11 より 第3番「キンポウゲ」
14) セシル・シャミナード(Cecile Chaminade 1857-1944) バレエ「カリロエ」の主題によるピアノ組曲 より 「スカーフの踊り」
15) ハフ ニコロのワルツ 原曲: パガニーニ(Niccolo Paganini 1782-1840)
16) ハフ オスマンサス・ロンプ
17) ハフ オスマンサス・レヴリー
18) エリック・コーツ(Eric Coates 1886-1957) バイ・ザ・スリーピー・ラグーン
19) アーサー・F・テイト(Arthur Fitzwilliam Tait 1819-1905)/ハフ編 どこかで呼ぶ声が
20) 伝承曲/ハフ編 マチルダのルンバ
21) ハフ アイヴァー・ソング(子守歌)
22) ドヴォルザーク(Leopold Dvorak 1841-1904) ユーモレスク 変ト長調 op.101-7
23) ドヴォルザーク/ハフ編 ジプシーの歌 op.55 より 第4曲「わが母の教え給いし歌」
24) エルガー(Edward Elgar 1857-1934) 愛の挨拶 op.12
25) 伝承曲/ハフ編 ブロウ・ザ・ウィンド・サザリー
26) ハフ 子守歌
27) フェデリコ・モンポウ(Federico Mompou 1893-1987) 子供の情景 より 第5曲「庭の乙女たち」
 2016年の録音。
 本盤には「Dream Album」なるサヴタイトルが付されている。なるほど、全体的に美しい安寧な響きが支配的である。私は、先日、一人で過ごす機会に、夜のあいだ一晩このディスクを、ヴォリュームを絞ったままエンドレスで鳴らして、眠ってみたのだが、なかなか心地よかった。まあ、そういう意図のアルバムではないとは思うのだけれど。
 ハフのタッチの精緻さ、テクニックの見事さについては、例えば収録曲中のリストの2編をお聞きいただければ分かるだろう(このアルバムに限らず、ハフの弾くリストはいつもとても素晴らしい!)。決して仰々しくない清冽なピアニズムで、端正な語り口。清流が、ときに劇的な要素を踏まえながら、鮮やかに流れ下るようなピアニズムだ。それは自然で、健康的なエネルギーが満ちている。
 収録された楽曲には「聴き馴染んだもの」と「珍しいもの」が織り交ぜられている。また、「聴き馴染んだもの」であっても、編曲によって、おもわぬ語り口で響かせられるものもある。冒頭のラデツキー行進曲によるワルツなどその典型だし、15曲目のニコロのワルツも同じ趣向だ。
 「モスクワの夜」は様々な編曲によって知られるノスタルジックな名旋律だが、ハフの編曲では、冒頭にラフマニノフのピアノ協奏曲第2番冒頭の有名な和音を挿入するなど凝った演出が楽しめる。アルベニスのギター曲の編曲も楽しいし、エリック・コーツの「バイ・ザ・スリーピー・ラグーン」をハフの冴えた編曲で聴くのも乙だ。ドヴォルザークの郷愁たっぷりの旋律は、蒸留されたような透明感でクリアに表現される。
 また、ドホナーニの「狂詩曲 ハ長調」は収録自体が嬉しい。この作曲家自体、実力に比して作品の評価が追い付いていない傾向があるのだけれど、このような充実した一品が、ハフのような優れたピアニストに弾かれる機会を得ただけでも貴重だ。この1曲は、相応の心構えで聴いてほしい曲である、とも言える。
 一つ一つコメントするとキリがないが、ハフの作編曲の能力、ピアニストとしての能力の他に、アルバム構成のセンスにも感嘆する1枚となっている。なお末尾に収録されたモンポウの楽曲は、ハフがピアノを習い始めたころに出会い、以後、アンコール・ピースとしてずっと大切にしてきた作品であるとのこと。心のこもった1曲で締めくくられるこの1枚は、ピアニスト、ハフを知る絶好の1枚とも言える。

The Stephen Hough Piano Collections
p: ハフ

レビュー日:2018.8.6
★★★★★  ハフの天才性を感じるオムニバス・アルバム
 スティーヴン・ハフ(Stephen Hough 1961-)による「ピアノ・コレクションズ」と題したオムニバス・アルバム。以下の収録曲で、80分近い収録時間となっている。
1) ショパン(Frederic Chopin 1810-1849) バラード 第3番 変イ長調 op.47
2) モンポウ(Federico Mompou 1893-1987) 風景 より 「噴水と鐘」
3) ベン・ウェバー(Ben Weber 1916-1979) ファンタジア
4) 鄧雨賢(Deng Yu-Hsien 1906-1944)/ハフ編 春風に焦がれる思い
5) ブラームス(Johannes Brahms 1833-1897) ピアノ・ソナタ 第3番 へ短調 op.5より 第3楽章 スケルツォ
6) ボーウェン(York Bowen 1884-1961) 子守歌
7) シューベルト(Franz Schubert 1797-1828) ピアノ・ソナタ 第10番 ハ長調 D613より フィナーレ
8) フンメル(Johann Nepomuk Hummel 1778-1837) ピアノ・ソナタ 第5番 嬰へ短調 op.81より 第3楽章 ヴィヴァーチェ
9) チャイコフスキー(Pyotr Tchaikovsky 1840-1893)/ワイルド(Earl Wild 1915-2010)編 四羽の白鳥たちの踊り
10) レイノルズ(Stephen Reynolds 1947-) 秋の歌
11) リスト(Franz Liszt 1811-1886) ポロネーズ 第2番 ホ長調 S223-2
12) ハフ 組曲「金木犀」
13) フランク(Cesar Franck 1822-1890)/ハフ編 コラール 第3番 イ短調
 2003年の録音。
 とにかく楽しいアルバムだ。収録曲の中には有名曲もあるが、あまり知られていない曲の方が多いだろう。これらがとても楽しく、近づきやすいものとして奏でられる。また、選曲と併せて収録曲順の妙も加わって、実に工夫が感じられるし、ハフの作・編曲能力も堪能できる。
 アルバムはショパンのバラード第3番から始まる。この名曲を力強く響かせたハフの解釈は、それだけでも聴きごたえがあると思うが、それはこのアルバムの入り口に過ぎない。モンポウの瀟洒な小曲を経て、いよいよハフの世界が始まる。
 ベン・ウェバーの作品は初めて聴いたが、和音の様々な美しさを味わわせてくれる佳作で、その魅力を鮮やかに引き出すハフの手腕が見事。ついで台湾の作曲家、鄧雨賢の歌謡曲をハフが編曲したものが流れる。これがいかにも東洋的な情緒に溢れたオルゴールが鳴るようなかわいらしい出来栄えで、いわゆるクラシックの楽曲としての深みがあるものではないけれど、とても気が利いているのである。ゼンマイの力を失うようにして泊る末尾も印象的だ。
 ブラームスのピアノ・ソナタ第3番のスケルツォも、単品として取り出すと、どこかリストのような豪放磊落さをもって鳴るので、これまた面白い。こういう聴き方をして初めて気づかされる魅力がある。それはシューベルトの未完のソナタの楽章においても言えることだろう。
 フンメルの劇的でスピーディーな楽章は、作曲時、その技巧性、音楽効果からたいへん有名になった作品。ベートーヴェンが「こんな難しいもんが弾けるか」と言ったとか言わなかったとか。その楽章がハフの快刀乱麻を断つスリリングな演奏で聴けるのも、なかなか感動的である。この曲を知らないという人にもぜひ聴いてほしい。
 ハフの自作は、6つの小曲からなる組曲という体裁であるが、特にアクロバチックな第5曲、印象派的なソノリティに満つ第6曲が美しく、聴いた後も心に残る。
 そして、最後にフランクの名作、コラール第3番が置かれる。元来はオルガン曲であるが、ハフのピアノ編曲が素晴らしい。ことに勇壮にして、荘厳な主要主題が、さく裂するような迫力をもって奏でられるところは感動的である。
 以上、触れなかった曲もあるけれど、聴いていてとても楽しく、また様々な人に、それぞれの「気づき」のきっかけを与えてくれるアルバムとなっている。このようなコンセプトで作品を作ることのできるハフは、間違いなく天才である。

Hough: 5 Classic Albums
p: ハフ

レビュー日:2015.9.11
★★★★★  サービスの良い5枚組です
 イギリスのピアニスト、スティーヴン・ハフ(Stephen Hough 1961-)による初期の録音を集めた5枚組アルバム。コスト・パフォーマンスに優れた内容でオススメだ。収録内容は以下の通り。
【CD1】 1987年録音
モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)
1) ピアノ協奏曲 第21番 ハ長調 K.467(カデンツァ:ハフ)
2) ピアノ協奏曲 第9番 変ホ長調 K.271 「ジュノム」(カデンツァ:モーツァルト)
ブライデン・トムソン(Bryden Thomson 1928-1991)指揮 ハレ管弦楽団
【CD2】 1989年録音
ブラームス(Johannes Brahms 1833-1897)
ピアノ協奏曲 第2番 変ロ長調 op.83
アンドルー・デイヴィス(Andrew Davis 1944-)指揮 BBC交響楽団
【CD3】 1987年録音
リスト(Franz Liszt 1811-1886)
1) メフィスト・ワルツ 第1番 「村の居酒屋での踊り」
2) 巡礼の年 第2年 補遺「ヴェネツィアとナポリ」から 第3曲「タランテラ」
3) スペイン狂詩曲
4) 「詩的で宗教的な調べ」から 第4曲「死者の追憶」
5) 2つの伝説曲から 第1曲「小鳥に説教するアッシジの聖フランソワ」
6) 「詩的で宗教的な調べ」から 第3曲「孤独の中の神の祝福」
【CD4】 1988年録音
シューマン(Robert Schumann 1810-1856)
1) ダヴィッド同盟舞曲集 op.6
2) 子供のためのアルバム op.68 より 第21曲、第26曲、第30曲
3) 幻想曲 op.17
【CD5】 1990年録音
ブリテン(Edward Benjamin Britten 1913-1976)
1) 組曲「休日の日記」 op.5
2) 3つの性格的な小品
3) ノットゥルノ
4) ソナティナ・ロマンティカ
5) 12の変奏曲
6) 5つのワルツ
7) 2つの子守唄
8) 悲歌的マズルカ op.23-2
9) 序奏とブルレスク風ロンド op.23-1
 いずれもハフの卓抜した技術と健やかな音楽性が息づいた好録音だが、特に、リストとモーツァルトが素晴らしい。リストは、全体の安定感が抜群であり、音響の交錯が正確無比に繰り広げられていく。技巧を崩しに使うのではなく、徹底した安定、構造の強化に用い、堅牢な音の伽藍を築き上げる。しかも、決して安定のためにスピードを犠牲にすることもない。重量感、スピード、安定感にともに卓越した稀有の名演。特にメフィスト・ワルツ 第1番は圧巻の出来栄え。「死者の追憶」の情感の通ったピアニズムも見事で、出色のリスト・アルバムとして挙げたい1枚。
 モーツァルトは粒立ちの良い音色で、微細な軽重をコントロールし、感情的なひだを感じさせる音を導き出しているが、それらが非常に自然な造作の中で行われている。トムソン指揮のハレ管弦楽団も好演で、すべての音に歌心が溢れていて、自然な輝きに満ちている。管楽器の表情付も、決して出すぎず、さりとて不足も抱かせない、堂々たるモーツァルトだ。
 シューマンも美しい。心地よいテンポの中で、淡々と進むようでいて、適度な暗みが表現されていて、繰り返し聴き込むほどに、聴き手を音楽の深い森に誘う。
 ブリテンは、これだけ作品を集めたものが少ないだけに貴重。細やかな音型の変化を機敏に示す奏法、また確信的と感じるダイナミズムにより、ブリテンの曲の「変化していく面白さ」を味わわせてくれる。
 ブラームスは、前半2楽章はやや硬い印象を持つ響きの演奏であり、オーケストラとピアノが、互いの響きの差異を主張しあうようなところがある。後半2楽章の方が、流れが良く、私には好印象。
 以上のように、名曲、録音の少ない曲の双方を、ハフの優れたピアノでまとめて楽しむことができる。私は、リストの超名演だけでもお釣りのくるような内容だと思っているので、他にもこれだけ聴けるのはありがたい。

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ルガンスキー


Nikolai Lugansky: Chopin, Rachmaninov, Beethoven, Prokofiev
p: ルガンスキー

レビュー日:2014.6.20
★★★★★  ルガンスキーの数々の名録音がお得な9枚組になりました。
 1994年のチャイコフスキー・コンクールで、2位(1位なし)獲得以後、世界的に活躍しているロシアのピアニスト、ニコライ・ルガンスキー(Nikolai Lugansky 1972-)が、1999年から2006年にかけてエラート・レーベルに録音した全音源を9枚組のBox-setとしたもの。いずれも見事な録音なので、これらの録音の一部しか持っていない、あるいは一枚も持っていないという方には、是非オススメしたいアイテム。収録内容は以下の通り。
【CD1】 ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven 1770-1827) 2005年録音
1) ピアノ・ソナタ 第23番 ヘ短調 op.57「熱情」
2) ピアノ・ソナタ 第14番 嬰ハ短調 op.27-2「月光」
3) ピアノ・ソナタ 第22番 ヘ長調 op.54
4) ピアノ・ソナタ 第7番 ニ長調 op.10-3
【CD2】 ショパン(Frederic Chopin 1810-1849) 1999年録音
1) 24の練習曲(op.10 & op.25)
2) 3つの新しい練習曲
【CD3】 ショパン 2001年録音
1) バラード 第3番 変イ長調 op.47
2) 夜想曲 第13番 ハ短調 op.48-1
3) 夜想曲 第8番 変ニ長調 op.27-2
4) バラード 第4番 ヘ短調 op.52
5) 24の前奏曲 op.28
6) 夜想曲 第18番 ホ長調 op.62-2
【CD4】 2006年録音
1) ショパン チェロ・ソナタ ト短調 op.65
2) ラフマニノフ(Sergei Rachmaninov 1873-1943) チェロ・ソナタ ト短調 op.19
3) ラフマニノフ /ウォルフィッシュ(Raphael Wallfisch 1953-)編 ヴォカリーズ op.34-14
【CD5】 ラフマニノフ 2000年録音
1) 前奏曲 嬰ハ短調 op.3-2「鐘」
2) 10の前奏曲集 op.23
3) 楽興の時 op.16
【CD6】 ラフマニノフ 2002,03年録音
1) ピアノ協奏曲 第1番 嬰ヘ短調 op.1
2) ピアノ協奏曲 第3番 ニ短調 op.30
【CD7】 ラフマニノフ 2005年録音
1) ピアノ協奏曲 第2番 ハ短調 op.18
2) ピアノ協奏曲 第4番 ト短調 op.40
【CD8】 ラフマニノフ 2003,04年録音
1) パガニーニの主題による狂詩曲 op.43
2) コレッリの主題による変奏曲 op.42
3) ショパンの主題による変奏曲 op.22
【CD9】 プロコフィエフ(Sergei Prokofiev 1891-1953) 2003年録音
1) ピアノ・ソナタ 第6番 イ長調 op.82
2) ピアノ・ソナタ 第4番 ハ短調 op.29「古い手帳から」
3) 「ロメオとジュリエット」からの10の小品 op.75(フォーク・ダンス 情景 メヌエット 少女ジュリエット 仮面 モンターギュー家とキャピュレット家 僧ローレンス マーキュシオ 百合の花を手にした娘たちの踊り ロメオとジュリエットの別れ)
 【CD4】のチェロはアレクサンドル・クニャーゼフ (Alexandre Kniazev1961-)、【CD6】、【CD7】及び【CD8】の(1)は、サカリ・オラモ(Sakari Oramo 1965-)指揮、バーミンガム市交響楽団との共演。全てスタジオ録音。いずれのCDも発売時のままの収録内容で、box化に際して、収録順も含めて変更点はない。
 ルガンスキーの大家としての堅実な歩みを記録したものばかり。特に印象的だったものに絞って簡単に感想を書こう。
 99年に録音されたショパンのエチュードは、鮮烈な技巧で颯爽と弾き切った気持ちよい演奏。清潔にまとまり過ぎている感もあるけれど、よくコントロールされたタッチの小気味良さは捨てがたい魅力。01年録音のショパンの前奏曲他のアルバムも、音の粒立ちが見事で、輝かしいサウンド。併録してある2曲のバラードが曲想を捉えた求心性に満ちた演奏で、ぜひいずれは残りの2曲も録音してほしいと思わせるもの。  2000年に録音されたラフマニノフの独奏曲集はさらに素晴らしい。この頃、ルガンスキーがいちばん自分のピアニズムを反映させた作曲家は、ラフマニノフだったのではないだろうか。技術と表現のバランスが細部まで徹底されていて、美しさと迫力の双方を突き詰めた壮絶と言ってもいい名演。
 その後録音された協奏曲も名演揃い。「ロシア・ピアニズム」を体現する力強い響によって、作品に秘められたロシア的なメランコリーや情緒が、きわめて濃厚な力強さを持って引き出されている。さらに「エレガント」と形容したいセンシティヴな表現力も魅力。しかも、濃厚な情緒を表現するときであっても、音楽との距離感を緊密にたもち、常に遠視点的なコントロールで全体を統御し、凛々しいほどの彫像線が強固にキープされている。例えば、協奏曲第1番の第2楽章におけるおどろくほど禁欲的な表現と透徹されたイン・テンポ、落ち着いたフレージングの扱いに注目されたい。細やかなパッセージがいかにも闊達に動くように聴こえるのは、この演奏がきわめてしっかりした礎を根底に持っているからだ。その礎があるからこそ、瞬間的な放散において、一気に解き放つエネルギーが見事な効果を上げるのである。
 オラモ指揮のオーケストラも素晴らしい。情感を淡く漂わせて、低音を強調し過ぎない音色は、オラモが得意とする故郷北欧の音楽を連想するが、本演奏では独奏とあいまって、要所でシンフォニックかつ雄大な効果を引き出していて、聴き手をゾクッとさせてくれる。ルガンスキーの技術のメカニカルな万全さと、決してそれだけに終始しない、血の通った音楽的霊感に満ちたピアノの響きと重なって、人の心に強く訴えかけるラフマニノフとなっている。
 なお、ピアノ協奏曲第3番第1楽章のカデンツァは大カデンツァ(オッシア)ではなく、オリジナルの小カデンツァを弾いている。
 2003年録音のプロコフィエフも素晴らしいの一語。特にピアノ・ソナタ第6番は、古今の名演の中でも最初に指おりたくなる名快演だ。圧倒的な指の動き、爆発的とも言える音量、疾風のようなスピード、そのような場面場面を印象付ける特徴はもちろんあるのだけれど、ルガンスキーの演奏の充実は、それらを音楽として構築する過程で、緻密で理論的な手法に徹していて、そのことを通じて、聴き手の作品への理解を容易にしたところが凄い。この演奏には、ヴィルトゥオジティの発揮というだけでなく、人に、この音楽がどういう音楽であるのかということを、強く理解させ、感銘させる力強さが満ちているからである。
 以上の様に、素晴らしい録音ばかりなので、当廉価Box-setは、これまで彼の録音を聴き逃していた人、これから聴こうと思っている人に、最優先でオススメさせていただきたいものです。

リスト&ラフマニノフ
p: ルガンスキー

レビュー日:2015.8.20
★★★★★  ルガンスキーの名盤2つを1枚相当の価格で聴けるお得なアイテムです
 naiveレーベルの設立15年を記念して、2枚の既発CDをまとめ、1枚相当の価格で売り出されたもの。当盤に収録された2つのアルバムは、ともに内容が素晴らしいため、どちらも所有されてない方には、是非とも強く推奨したいアルバム。収録内容は以下の通り。
【CD1】 2012年録音
ラフマニノフ(Sergei Rachmaninov 1873-1943)
1) ピアノ・ソナタ 第1番 ニ短調 op.28
2) ピアノ・ソナタ 第2番 変ロ短調 op.36(ルガンスキー版)
【CD2】 2011年録音
リスト(Franz Liszt 1811-1886)
1) 超絶技巧練習曲集より 第12番 変ロ短調「雪あらし」
2) 超絶技巧練習曲集より 第10番 ヘ短調
3) パガニーニによる大練習曲より 第3番 嬰ト短調 「ラ・カンパネルラ」
4) 巡礼の年第1年「スイス」より 第6曲「オーベルマンの谷」
5) 巡礼の年第2年「イタリア」より 第1曲「婚礼」
6) 巡礼の年第3年より 第4曲「エステ荘の噴水」
7) 巡礼の年第2年「イタリア」より 第6曲「ペトラルカのソネット第123番」
8) ワーグナー/リスト編「イゾルデの愛の死」
9) 超絶技巧練習曲集より 第5番 変ロ長調「鬼火」
10) 忘れられたワルツ 第1番 嬰へ長調
 ピアノはニコライ・ルガンスキー(Nikolai Lugansky 1972-)。
 【CD1】について:
 ラフマニノフのピアノ・ソナタ第2番については1931年版に少し手を加える形のスコアを使用している。この第2番に関しては1993年以来19年ぶりの再録音ということになる。
 ラフマニノフのピアノ・ソナタについては、第2番はすでに名作としてのステイタスが確立しているが、第1番はまだ一部のラフマニノフ・フアンのための音楽となっている感がある。しかし、近年では、このソナタについても徐々に評価が高まってきている。私がこれまで当曲を聴いてきたのは、ヤコフ・カスマン(Yakov Kasman 1967-)、ワイセンベルク(Alexis Weissenberg 1929-2012)、アシュケナージ(Vladimir Ashkenazy 1937-)のいずれも優れた3種の録音であるが、それぞれに満足してはきたけれど、その一方で、より多くのピアニストにこの曲を録音してほしいと思っていた。そこにルガンスキー盤が加わり、いよいよ陣容は厚みを増してきたように思われる。
 ルガンスキーは、ラフマニノフを弾くのに実に相応しいピアニストだ。膂力にあふれたピアニズム、彫像性ある立体的音響の構築、そして旋律を美しく響かせるセンス、いずれも超一級の才がある。特に、今回収録されたピアノ・ソナタ第1番を聴いていると、「この楽曲はこういう風に演奏されることを待っていたのではないか?」と感じてしまうほどに、求心力と説得力に満ちた力演だ。特に前半2楽章が秀逸で、ラフマニノフの野心的ともいえる恰幅のあるテクスチュアを見事に解きほぐし、瞬時に論理的に構築していく爽快感は比類ない。情緒的なニュアンスの扱いも過不足なく、あらゆる点からみて欠点の見いだせない出来栄え。終楽章も立派だが、クールに透徹したスタイルについては、より情熱的な放散を求める人もあるかもしれない。しかし、もちろん、非常にレベルの高い演奏である。
 名曲の誉れ高いピアノ・ソナタ第2番においても、ルガンスキーの解釈は論理的で蓋然性の高さを感じさせる。言い方を変えれば、この浪漫的なソナタに、一種の古典的統一感をもたらしているので、その点について、若干の齟齬を感じる方もいるかもしれないが、そこで鳴っている音楽は、純度の高さを感じさせる。この効果は、ルガンスキーの高い技術、五指の力、高い集中力によってもたらされている。音が均質であることの絶対的な美観を、これらの楽曲でここまで追求しえたことには、多くの人が驚愕することではないだろうか。
 【CD2】について:
 リストは膨大なピアノ作品を書いた。それらの作品には、様々な編曲ものも含まれ、全体を俯瞰することが難しい。そんなリストのピアノ作品集からアルバムを作る場合、特定のジャンルのもの、例えば練習曲なら練習曲を集約するような方法論よりも、様々なジャンルから寄せ集めた楽曲で構成を行うことが多い。このアルバムも、そのようなコンセプトであり、まずは選曲という観点で興味がわく。
 私は、本アルバムには、ルガンスキーがそのピアニズムを発揮するのに相応しい楽曲が並んでいるように思う。リストのピアノ独奏曲は概して奏者に高度な技巧を要求するが、その技巧が悪魔的とも言える荒々しさに通じる楽曲(つまり技巧自体が目的となっている楽曲)と、音楽表現の必要に応じて技巧が組み込まれた楽曲があり、私は当盤で集められているのは、後者の側の楽曲であると感じる。
 それで、ルガンスキーの演奏も、常に音楽的な表現、それも高貴さを引き出す設計力に基づいた表現が心がけられている、と感じる。だから、この演奏を聴いても、華やかで豪胆なヴィルトゥオジティを満喫するというわけではない。むしろリストの作品に巡らされた詩的な感性や、美しいニュアンスを組んだ、丹精さに心が動く演奏である。
 しかし、そうであってもルガンスキーの技巧の素晴らしさや音量の豊かさは圧倒的である。かの有名なパガニーニ(Niccolo Paganini 1782-1840)作品を編曲した「ラ・カンパネルラ」の終結部の鮮やかなこと。気持ち良いリズムで、明瞭に打ち鳴らされる左手から引き出されるシンフォニックな低音、そして独立性を確保した目覚ましい和音による旋律の共演は、多くの聴き手に胸のすく思いを味わわせてくれるに違いない。
 「エステ荘の噴水」も象徴的だ。この楽曲の水の描写は、後の印象派の作曲家たちに影響を与えたのだけれど、ルガンスキーの緻密で正確無比な表現は、水面におこる波紋や、光の屈折を克明に記録したような、デジタルな感覚を呼び起こす。それでいて、全体の雰囲気は決して無機的ではなく、明瞭な音像を持った音楽として豊かに鳴るのである。
 このような高貴な完成度をもったリストというのは、実はなかなか聴けない。どうしてもこの作曲家特有の悪魔的ヴィルトゥオジティに、人は「挑戦」してしまう。ルガンスキーの演奏には、そういった衝動を超越したクールさを感じ、私は心底感嘆してしまうのである。
 以上、2つの名盤を組み合わせた当盤は、価格面のメリットも大きく、個人的に推薦をためらわないアイテムとなっている。なお当盤の装丁は、紙パッケージの中に、既発の紙製の【CD1】とプラスチック製の【CD2】をそれぞれ押し込んだものであり、特に2枚組化に当たって規格・デザインの変更は行われていない。

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ヌーブルジェ


Jean-Frederic Neuburger Live At SUNTORY HALL
p: ヌーブルジェ

レビュー日:2022.2.9
★★★★★  2007年サントリー・ホールでのライヴ録音です
 2004年のロン=ティボー・コンクール第3位に入賞したフランスのピアニスト、ジャン=フレデリック・ヌーブルジェ(Jean-Frederic Neuburger 1986-)による、2007年11月17日にサントリー・ホールで行われたコンサートの模様を収録した2枚組のアルバム。収録曲は以下の通り。
【CD1】
1) J.S.バッハ(Johann Sebastian Bach 1685-1750) イギリス組曲 第2番 イ短調 BWV.807
2) ショパン(Frederic Chopin 1810-1839) バラード 第2番 op.38
3) ショパン 夜想曲 第4番 ヘ長調 op.15-1
4) ラヴェル(Maurice Ravel 1875-1937) ラ・ヴァルス
【CD2】
5) リスト(Franz Liszt 1811-1886) ピアノ・ソナタ ロ短調
6) ラヴェル 古風なメヌエット
7) ストラヴィンスキー(Igor Stravinsky 1882-1971) 練習曲 嬰ヘ長調 op.7-4
8) ヌーブルジェ バガテル
9) J.S.バッハ/S.フェインベルク(Samuil Feinberg 1890-1962)編 オルガンのためのソナタ第5番ハ長調 BWV 529より 第2楽章「ラルゴ」
 奏者が22才のときのコンサートであるが、中間に難曲であるリストのピアノ・ソナタを配し、さらには自身の作曲活動の成果作品も含めた、なかなか積極的な表現意欲を感じさせるプログラムだ。
 全体を聴いての印象は、「清廉潔白」といったところ。この「清廉潔白」という日本語が、音楽を形容するのに適しているのかどうか知らないけれど、一つ一つの音の輪郭がとてもきれいに等価な感じで、その音が速やかに流れていく様は、私には、山の中で出会う早瀬を想像させる。
 バッハのイギリス組曲から、その実直で外連味の無いピアノが、サラサラと流れていく。音色の粒立ちが、高い次元で揃っているため、とても清々しい印象に連なる。もちろん、バッハの楽曲であれば、もっと感情的な陰りのような表現性が豊かであってもいいとも思うのだけれど、ヌーブルジェの演奏は、禁欲的と言って良いほど、淡々として、かつ瑞々しい。
 ショパンの2作品も同様で、いかにも若いピアニストが弾いた爽やかさを感じさせる演奏。特に夜想曲第4番の激しい中間部は、音の階層がきれいに冴え、シンフォニックな効果をもたらしていて、見事だ。
 ラヴェルの2作品で、ヌーブルジェはちょっと心を許したような、微笑ましい愉悦性を感じさせてくれるのは、構成的にも良いと思う。自由なのびやかさと、端正な音色が織りなす印象派ならではの音のマジックが楽しめる。
 リストのピアノ・ソナタも、きわめて流麗。この曲の場合、激しい起伏を描き出す演奏が多いのだが、ヌーブルジェの演奏は全体が流線形のフォルムで、この楽曲のもつ一種の難渋さを、聴き手に意識させない軽やかな足取りがある。なるほど、こういう味をこの楽曲から引き出せるのか、と感じた。
 末尾の3曲も、それぞれ面白い。これらは、ヌーブルジェがコンサートに足を運んだ人たちに「こんな楽曲を紹介してみましょう」といった意図を感じるところだが、いずれも即興性を踏まえながらも、きめ細やかに磨かれた演奏で、ライヴということを考えると、その完成度の高さに驚かされる。

Jean-Frederic Neuburger Coffert 4 CD
p: ヌーブルジェ

レビュー日:2022.2.25
★★★★★  フランスのピアニスト、ヌーブルジェの芸術に接するのに絶好のアイテムです
 2004年のロン=ティボー・コンクール第3位に入賞したフランスのピアニスト、ジャン=フレデリック・ヌーブルジェ(Jean-Frederic Neuburger 1986-)に既出の4つのアルバム、CD6枚を一つのBox-setにしたもの。収録内容は以下の通り。
【CD1&2】 2006年録音
1) ツェルニー(Carl Czerny 1791-1857) 指使いの技法(50番練習曲)全曲 op.740
2) リスト(Franz Liszt 1811-1886) 2つの演奏会用練習曲 第1番 変ニ長調「森のざわめき」 第2番 嬰ヘ短調「小人の踊り」
3) リスト 3つの演奏会用練習曲 より 第2番 ヘ短調「軽やかさ」
4) ヘラー(Stephen Heller 1813-1888) ウェーバーの「魔弾の射手」による4つの練習曲(フライシュッツ=エチュード)op.127
【CD3&4】 2007年 サントリー・ホールでのライヴ録音
5) J.S.バッハ(Johann Sebastian Bach 1685-1750) イギリス組曲 第2番 イ短調 BWV.807
6) ショパン(Frederic Chopin 1810-1839) バラード 第2番 op.38
7) ショパン 夜想曲 第4番 ヘ長調 op.15-1
8) ラヴェル(Maurice Ravel 1875-1937) ラ・ヴァルス
9) リスト(Franz Liszt 1811-1886) ピアノ・ソナタ ロ短調
10) ラヴェル 古風なメヌエット
11) ストラヴィンスキー(Igor Stravinsky 1882-1971) 練習曲 嬰ヘ長調 op.7-4
12) ヌーブルジェ バガテル
13) J.S.バッハ/S.フェインベルグ(Samuil Feinberg 1890-1962)編 オルガンのためのソナタ第5番ハ長調 BWV 529より 第2楽章「ラルゴ」
【CD5】 2011年 パリ、ラ・シテ・ドゥ・ラ・ムジークでのライヴ録音
1) リストFranz Liszt 1811-1886:詩的で宗教的な調べ より 第7曲 「葬送曲」
2) ヌーブルジェ マルドロール
3) バラケ(Jean Barraque 1928-1973) ピアノ・ソナタ
4) ドビュッシー(Claude Debussy 1862-1918) 映像 第2集 より 「そして月は荒れた寺院に落ちる」
【CD6】 2013年録音
1) ラヴェル 夜のガスパール(オンディーヌ、絞首台、スカルボ)
2) ラヴェル 高雅にして感傷的なワルツ
3) ラヴェル クープランの墓(プレリュード、フーガ、フォルラーヌ、リゴドン、メヌエット、トッカータ)
 全体を聴いての印象は、「清廉潔白」といったところ。この「清廉潔白」という日本語が、音楽を形容するのに適しているのかどうか知らないけれど、一つ一つの音の輪郭がとてもきれいに等価な感じで、その音が速やかに流れていく様は、私には、彼の弾くピアノは、山の中で出会う早瀬を想像させる。
 【CD1&2】のツェルニーの曲集は、奏者の「運指の上達」という目的に特化した作品であって、決して鑑賞芸術のために書かれた作品ではない。しかし、当盤で聴くヌーブルジェの演奏は、闊達で清涼。実に気持ちが良くて鮮やかで、楽曲がもっている鑑賞芸術としての価値を、考え直させるような内容だ。演奏が明瞭で正確という以上に、表現意欲にあふれていて、一つ一つの楽曲の「持ち味」が、きわめて雄弁に表現されている。こうして聴いてみると、第14番や第28番はカッコイイし、第43番はメロディ自体に十二分な魅力がある。ツェルニーの作品が生まれたのち、しばらく時が過ぎてから、様々なロマン派の作曲家たちが「練習曲」の作曲をこころみるわけだが、その「先駆け」と言えるものが、当曲集の中に確実に存在している。そのことに覚醒的になれるという点で、とても価値のある録音だ。考えてみれば、ただの指使いのための練習曲であっても、弾くときには、音楽的な表現性は必ず伴うものであり、作曲という行為は、その担保があってこそ、行われるものなのだ。ヌーブルジェの快録音を聴いて、私は、すでに広く世に知られた曲集であるにも関わらず、新たに魅力的な楽曲集を発見したかのような喜びを味わった。
 ツェルニーの後に、ロマン派の作曲家による「練習曲」がいくつか収録されている。このうち、ハンガリーのピアニストであったヘラーが書いたものはたいへん珍しい。私も初めて聴いた。ほとんど録音されることはないのではないか。この楽曲はウェーバー(Carl Maria von Weber 1786-1826)の歌劇「魔弾の射手」の旋律を転用して練習曲としたもので、旋律がよく知られているものだけに、親しみやすさのある作品となっており、現在では、ほぼ埋もれた作品と言って良い当該曲にとって、幸運な録音。リストの作品では、「森のざわめき」における3連符の健やかな流れや、「小人の踊り」のスピーディーかつ細やかな立ち回りが見事。このピアニストの「趣味の良さ」が良く出た録音となっている。
 【CD3&4】の冒頭にあるバッハのイギリス組曲は、実直で外連味が無い。音色の粒立ちが、高い次元で揃っているため、とても清々しい印象に連なる。もちろん、バッハの楽曲であれば、もっと感情的な陰りのような表現性が豊かであってもいいとも思うのだけれど、ヌーブルジェの演奏は、禁欲的と言って良いほど、淡々として、瑞々しい。続くショパンの2作品も同様で、いかにも若いピアニストが弾いた爽やかさを感じさせる演奏。特に夜想曲第4番の激しい中間部は、音の階層がきれいに冴え、シンフォニックな効果をもたらしていて、見事だ。ラヴェルの2作品で、ヌーブルジェはちょっと心を許したような、微笑ましい愉悦性を感じさせてくれるのは、構成的にも良いと思う。自由なのびやかさと、端正な音色が織りなす印象派ならではの音のマジックが楽しめる。
 リストのピアノ・ソナタも、きわめて流麗。この曲の場合、激しい起伏を描き出す演奏が多いのだが、ヌーブルジェの演奏は全体が流線形のフォルムで、この楽曲のもつ一種の難渋さを、聴き手に意識させない軽やかな足取りがある。なるほど、こういう味をこの楽曲から引き出せるのか、と感じた。
 【CD5】は、パリでのコンサートの模様を収録しているが、この1枚に関しては、かなり現代音楽志向の強いアルバムとなっている。冒頭のリストの葬送曲、そして末尾のドビュッシーと、20世紀の音楽に様々な影響を及ぼした2作品があって、その間に、ルーブルジェの自作品と、ブーレーズ(Pierre Boulez 1925-2016)から強い影響を受けて創作活動を行ったフランスの作曲家、バラケのピアノ・ソナタが収録されている。中間に収録されている2作品は、響きとリズムによって支配される作品で、フレーズは断片的であり、中心線を明瞭に見出せる作品では決してない。しかも、この中間2作品の演奏時間が長い。当盤において、ヌーブルジェのマルドロールは20分、2楽章からなるバラケのピアノ・ソナタは39分の演奏時間を要している。ヌーブルジェの自作は、ピアノの弦を弾く音などを、効果的衝撃的に用いた特徴があり、高い集中力を要求される。ヌーブルジェの研ぎ澄まされた音は見事だが、このような楽曲では、その演奏時間の中で、聴き手にどのような感情をインスパイアさせ、芸術における抽象的な高みへ到達するかを、聴き手の感覚で測るしかないわけだが、正直言って、長すぎると思う。バラケのピアノ・ソナタは、より技巧的な色彩感があって、その迫力や衝撃は見事だが、やはり、ある種偶発的なものが重なる過程は、それを聴く側の時間の長さとの闘いになってしまう。部分的に凄いものがあっても、一つの音楽としての咀嚼が、少なくとも私には難しい。ただ、幸いにして、聴きづらい、不快な音が発生するところはなく、現代音楽でありながら環境音楽という、不思議な中和点を感じさせる楽曲ではある。そういった点で、ユニークだが、39分は、やっぱり長い。というわけで、【CD5】に関しては、両端の曲が、やはりほっとする。リストの「葬送曲」では、ヌーブルジェの輪郭のくっきりした音が、陰影をしっかり刻んでおり、楽曲の性格をよく引き出しているし、ドビュッシーの楽曲では、細やかな音色が、キラキラと反射するようで、幻想的。
 【CD6】では、軽やかかつ正確な音価で再現された精密なモザイク画を思わせるラヴェル。夜のガスパールの冒頭から、ガラスのビーズが零れ落ちるような音がつながり、それらが集まって、メロディを立ち上がらせてゆく。その様は、幻想的で美しい。一つ一つの音がくっきりしているのに、全体として描かれるものがなめらかな縁取りを感じさせるというのは、この楽曲の演奏として、一つの理想形を感じさせるし、聴き手の期待に存分に応えてくれる演奏だ。絞首台の静謐さも見事だが、スカルボの鮮明な響きは、高い爽快感をもたらすもので、この演奏の美点が集約された部分だと思う。高雅にして感傷的なワルツは、ワルツゆえの間合い、リズムの色付けが楽しい。ソノリティ自体に清潔感と透明さがあるため、アヤ付けによる遊戯性が、嫌味なく伝わるのは、このピアニストの特徴といっていいだろう。細やかなルバートも品が良く、健康的。この楽曲に相応しい聴き味だろう。中でもクープランの墓の両端にあたる「プレリュード」と「トッカータ」は、【CD6】の白眉と言っても良い。輝かしい音色と、スマートな運動性で、早さに即したインパクトが施され、聴いていて気持ちが良い。ここまで清々しい「クープランの墓」は、ちょっとお目にかかれないのではないだろうか。もちろん、その一方で、フーガやフォルラーヌは、人によって淡泊に過ぎる印象をもたれるかもしれない。しかし、全般に淡色系で描かれたこの好演の在り様を考えると、やはりこのスタイルが正解だと思わざるを得ない。
 全体を通して、ヌーブルジェというピアニストの、確かな技巧で支えられた清冽な美音を味わえる。6枚を聴くことで、このピアニストのスタイルをとても良く知ることが出来る。特にツェルニーとラヴェルの作品はピアニストとの相性が良い方向に作用した感が強く、印象深い。

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ロマノフスキー



Busoni Competition 2001 Winner Recital
p: ロマノフスキー

レビュー日:2013.5.17
★★★★★  ウクライナの新星ロマノフスキー、17歳(2001年)の記録
 ウクライナのピアニスト、アレクサンダー・ロマノフスキー(Alexander Romanovsky 1984-)は、私が、一層の活躍を期待しているピアニストの一人。彼の録音は、2013年現在、ワーナーからグラズノフのピアノ協奏曲が、デッカからソロ・アルバム3点が発売されていて、いずれも充実した内容。レパートリーも広そうだ。
 ロマノフスキーは、2001年に開催されたブゾーニ国際ピアノコンクールで優勝を果たして、一躍注目されるようになった。当アルバムは、“ブゾーニ・コンクール「優勝者リサイタル・ライヴ」2001”と題して、その優勝直後に開催されたコンサートの模様を収録したもの。収録曲は以下の通り。
1) バッハ(Johann Sebastian Bach 1685-1750)/ ブゾーニ(Ferruccio Busoni 1866-1924)編 コラール前奏曲「いざ来れ、異教徒の救い主よ」
2) ハイドン(Franz Joseph Haydn 1732-1809) ピアノ・ソナタ 第62番(Hob. XVIno. 52)変ホ長調
3) ショパン(Frederic Chopin 1810-1849) スケルツォ 第2番
4) リスト(Franz Liszt 1811-1886) メフィスト・ワルツ 第1番「村の居酒屋での踊り」
5) プロコフィエフ(Sergei Prokofiev 1891-1953) ピアノ・ソナタ 第2番
6) リゲティ(Ligeti Gyorgy 1923-2006) 練習曲 第5番「虹」
 このプログラムを見ただけで、バロック、古典、ロマン派、近代、現代と実に多様な背景をもった楽曲を弾きこなしている、という感想を持つ。このコンサート時のロマノフスキーの年齢が17歳だったことを考え併せると、改めて驚かされるが、演奏内容も立派なものである。
 まず聴いてほしいのは、リストのメフィスト・ワルツ第1番で、冒頭の卓越したリズム感にのって、力感溢れるタッチが紡ぎだす迫力が見事。その後の音型の力強い跳躍を踏まえたダイナミックが歌いまわしがいかにも堂に入った趣で、この作品を存分に味わったという充足感に満ちている。
 ショパンも良い。少々ミスタッチはあるのだけれど、右手で、めまぐるしく上下する運動的なパッセージにおいて、一つ一つの音の重量感が素晴らしい。いわゆるロシア・ピアニズムを彷彿とさせる。実に野太いスケルツォだ。
 ハイドンのソナタもその重量感ある響きが魅力だが、ベートーヴェン的な響きになっているようにも聴こえるので、好悪が分かれるところかもしれない。しかし、私はいいと思う。また、プロコフィエフのソナタにおいても、メカニカルな技巧の冴えで、この曲の持つ一種のグロテスクなところを、解析的な立体感をもって提示するところなど、このピアニストの特徴が良く出ている。
 すでにこの録音から11年以上が経過し、演奏家として、これからより一層充実した時期を迎えることになるわけで、今後の録音活動には、大いに期待したい。改めてそう思わせるアルバム。

childhood memories
p: ロマノフスキー

レビュー日:2017.8.28
★★★★★  現代の作曲家アレクセイ・ショアを知り、かつ大作曲の名曲で楽しめるアルバムです
 ウクライナの俊英、アレクサンダー・ロマノフスキー(Alexander Romanovsky 1984-)による2017年録音のアルバムは、ちょっと変わった趣向。全体的に「2部構成」の内容で、前半には数々の大作曲家による名曲が並び、後半には、ウクライナのキエフで生まれ、ニューヨークで作曲活動を行っているアレクセイ・ショア(Alexey Shor 1970-)の独奏ピアノのため組曲「子どもの頃の思い出」が収録されている。アルバムのタイトルとなっている“Childhood Momories”はショアの組曲のタイトル。収録内容の詳細は、以下の通りとなる。
1) シューマン(Robert Schumann 1810-1856) アラベスク ハ長調 op.18
2) リスト(Franz Liszt 1811-1886) パガニーニによる大練習曲 S.141より 第3曲「ラ・カンパネッラ」
3) ショパン(Frederic Chopin 1810-1849) 夜想曲 第20番 嬰ハ短調(遺作)
4) ショパン 12の練習曲 op.10 より 第5番 変ト長調「黒鍵」
5) ショパン 12の練習曲 op.10 より 第12番 ハ短調 「革命」
6) ショパン ワルツ 第7番 嬰ハ短調 op.64-2
7) スクリャービン(Alexander Scriabin 1872-1915) 12の練習曲 op.8 より 第12番 嬰ニ短調「悲愴」
8) ラフマニノフ(Sergei Rachmaninov 1873-1943) 10の前奏曲 op.23 より 第5番 ト短調
9) ドビュッシー(Claude Debussy 1862-1918) ベルガマスク組曲 より 第3曲「月の光」
10) バッハ(Johann Sebastian Bach 1685-1750) ユシュケビッチ(Sergei Yushkevich)編 管弦楽組曲 第2番 BWV1067 より「バディヌリー」
アレクセイ・ショア 組曲「子どもの頃の思い出」
11) Chasing fireflies(ホタルを追って)
12) Bloomimg May(花咲く5月)
13) First dance(はじめてのダンス)
14) Sand box(砂場)
15) Marionette's waltz(マリオネットのワルツ)
16) Last days of Summer(夏の最後の日)
17) Hidden messages(隠されたメッセージ)
18) Hourglass(砂時計)
19) Air(空気)
20) Raindrops on the roof(屋根から落ちる雨しずく)
21) Naivete(素朴)
22) Coming of age(時は去り)
23) Melancholy(メランコリー)
24) First love(初恋)
 ショアの楽曲はいわゆるイージーリスニングであろう。吉松隆(1953-)あたりを連想させる。いろいろ調べてみたが、この作曲家に関する情報は多くない。公式サイトでは、彼の作品は世界の多くのオーケストラによって、すでに演奏されている、と書いてある。また、数学の研究者でもあるようだ。現在入手可能な音源として、他に「マンハッタンの四季」という作品がCD化されているという。
 当盤に収録されたショアの楽曲は、メロディアスで、不協和な響きはなく、穏当でやさしい響きに満ちている。そして、全体的にメランコリーな情緒が覆っている。曲ごとにタイトルがついているが、聴いた限りではそこまで標題性の強さを感じさせず、むしろどの曲の似たような印象と言えるかもしれない。できれば、曲集の「顔」となるような楽曲が一つ欲しいような気もするが。
 このたび、ロマノフスキーが、ショアの作品を大作曲家たちの名曲と組み合わせたのは、現代の作曲家を紹介するにあたって、ロマンティックな名曲たちと一緒に聴くても、特に不自然さのない作風であることを伝えるためのものであると思われる。回想的ななかに物憂い情緒を宿しつつも、ロマノフスキーの明朗なタッチで透明な響きに満たされた曲たちは、安らぎの要素を多く持っており、すんなりと聴きなじむことができるだろう。直前のバディヌリーから繋がる流れも良い。
 そうはいっても、やはりロマノフスキーが弾いた「前半」の名曲たちが私にはより魅力的だ。いずれの楽曲も明晰でありながら、ゴツゴツすることのない弾力的なソノリティを活かした見事なアプローチである。全部いいのだけれど、特に印象的なものとして、ラフマニノフの前奏曲における鮮烈なリズムと音の冴え、ドビュッシーの「月の光」における静謐な透明感、そしてリストの「ラ・カンパネッラ」における結晶化しきった高音の輝きの美しさといったところ。どれも圧巻と言って良い。いずはセレクションではなく、全曲と言う形でいずれは聴いてみたいものだ。また、スクリャービンの名曲「悲愴」については、ついにこのようなラインナップに登場する楽曲となったのか、という思いもする。あるいは、これをきっかけにスクリャービンの音楽世界への入口となる人があらわれれば、その人にとって大きな幸いになるだろう。
 ショパンも素晴らしい。ロマノフスキーの今後の録音への期待がさらに膨らむ一枚でもある。

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シンプ


アレクサンダー・シンプ:ラヴェル、スクリャービン、シューベルトを弾く
p: シンプ

レビュー日:2013.8.26
★★★★★  ドイツの新鋭ピアニスト、シンプによる、謎かけ的プログラム
 長年、優勝者を輩出しなかった「ドイツ音楽コンクール」で、2008年、14年ぶりに「優勝」の称号を勝ち得たのがドイツのピアニスト、アレクサンダー・シンプ(Alexander Schimpf 1981-)であった。当アルバムはそのシンプによる2012年録音のもの。収録曲を記載する。
1) ラヴェル(Maurice Ravel 1875-1937)クープランの墓
2) スクリャービン(Alexander Scriabine 1872-1915) 5つの前奏曲 op.74
3) シューベルト(Franz Schubert 1797-1828) ピアノ・ソナタ 第21番
 まず、面白いのは選曲であるが、ここではシンプ自身がライナー・ノーツを書いているので、それを読んでみたい。
 シンプは、何か新しい側面から複数の作品を比較し、一つのリサイタルの形にまとめることは、芸術的な思考過程を要するものであるとして、これについてまとめたブレンデル(Alfred Brendel 1931-)の著書「音楽の中の言葉 Music Sounded Out」の中の"About Solo Recitals and programs(ソロ・リサイタルとプログラムについて)"が参考になる、とまず前述している。
 その上で、今回の選曲の理由を述べている。そのポイントを書き出してみよう。
・これらの3つの作品は、いずれも、作曲者のピアノ独奏作品群の中にあって、生涯最後の作品である。
・シューベルトは夭折したが、このソナタを書いた30歳前後という年齢は、今の自分の年齢に近い。
・ラヴェルとスクリャービンが共に当該作品を書いた1914年頃は、第一次世界大戦という大きな社会情勢があった。
・同じ時代背景から、ラヴェルは「死者への追悼」、スクリャービンは「時代の混乱」を作品に盛り込んだ。
・ラヴェル作品のバロック舞曲風様式は、シューベルトのソナタ21番の後半2楽章と共通の要素がある。
・情緒性と、野生的な劇情性を、交互に表現したシューベルトのソナタの前半2楽章は、スクリャービンの簡潔な描写と通じる。(特に、シューベルトの第2楽章の後半と、スクリャービンの前奏曲の第4曲の類似性)
 いずれも指摘されてみると、「なるほど」と首肯するところのある考え方である。また、アルバムの編集自体も、コンセプトに基づいた感があり、それぞれの楽曲間のインターバルが短く、いかにも「連続して聴くこと」を重要視している。特にスクリャービンの最後の曲が終わって、すぐ、シューベルトのあの夢見るような冒頭が流れ出すところなど、ちょっと衝撃的なほどのインパクトを感じる。
 シューベルトの最後の3つのソナタ(第19番~第21番)は、作曲者の死後に発見され、遺作として世に出るのであるが、その評価というのは一定しなかった。シューマン(Robert Alexander Schumann 1810-1856)はその著、「シューベルトの最後の作品について(Schubert's last compositions)」で以下の様に述べている。「まるで決して終わることがないかのように、継続はいくら長くても困らないように、次から次へと音楽の流れが進んで行き、ときたま二、三の激しい興奮によって中断されるが、たちまちまた平静に帰するのである」。現在では、これらの作品は、ベートーヴェンの偉大な影から、ロマン派への大きな展開であり、そういった意味で時代の転轍を象徴する作品として、重視されている。しかし、さらに一層飛躍して、スクリャービンやラヴェルとの共通軸をシンプは指し示しているのである。その「類似点」について、どのように評価するのかは各人に委ねるしかないが、私には面白く、想像力をかき立てるものであった。
 さて、シンプの演奏自体であるが、ぺダリングの少ない響きで、サウンドはかなりリアリスティックな印象。「クープランの墓」の第3曲「フォルラーヌ」の瀟洒なタッチは俊敏で細やかな色彩を与えている。第6曲「トッカータ」でも情熱より感性で弾き切ったすっきりした味わい。スクリャービンでは重々しくならずに、濃淡を与え、ミステリアスな雰囲気を表出している。シューベルトの演奏も直截でシンプル。第1楽章はリピートしているが、淡々としたニュアンスで音楽を進めていて、余計な色づけは与えないが、そのシックな雰囲気がほどよい相剋を与えている。
 アルバムのコンセプト上、各曲を個性的に演奏するよりは、共通項を抽出しようと、3曲に普遍的なアプローチを心掛けたように思う。今後、どのようなアルバムをリリースするのか興味深い。

アレクサンダー・シンプ:ブラームス、ドビュッシー、ベートーヴェンを弾く
p: シンプ

レビュー日:2015.6.30
★★★★★  前回のアルバムに引き続いて、リサイタル的コンセプトを持ったアルバムです。
 長年、優勝者を輩出しなかった「ドイツ音楽コンクール」で、2008年、14年ぶりに「優勝」の称号を勝ちとったドイツのピアニスト、アレクサンダー・シンプ(Alexander Schimpf 1981-)による2枚目のアルバム。2013年から14年にかけて録音されたもので、収録曲は以下の通り。
1) ブラームス(Johannes Brahms 1833-1897) 4つのピアノ小品 op.119
 第1曲 間奏曲 ロ短調
 第2曲 間奏曲 ホ短調
 第3曲 間奏曲 ハ長調
 第4曲 ラプソディ 変ホ長調
2) ドビュッシー(Claude Debussy 1862-1918) 映像 第2集
 第1曲 葉末を渡る鐘の音
 第2曲 そして月は荒れた寺院に落ちる
 第3曲 金色の魚
3) ドビュッシー 喜びの島
4) ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven 1770-1827) ピアノ・ソナタ 第32番 ハ短調 op.111
 シンプが2012年に録音したアルバムでは、ラヴェル(Maurice Ravel 1875-1937)、スクリャービン(Alexander Scriabine 1872-1915)、シューベルト(Franz Schubert 1797-1828)という3人の作曲家が取り上げられ、いずれもその作曲者の生涯最後のピアノ独奏曲を組み合わせるものだった。また3人の作曲家の選択について、シンプは、ブレンデル(Alfred Brendel 1931-)の著書「音楽の中の言葉 Music Sounded Out」の中の"About Solo Recitals and programs(ソロ・リサイタルとプログラムについて)"を参考文献として挙げたうえで、アルバム構成のコンセプトを披露していた。
 今回のアルバムは、その第1弾を思わせる構成で、このたびは、ブラームス、ドビュッシー、ベートーヴェンの作品を集めている。しかし、ドビュッシーの作品は中期のものであるし、ベートーヴェンのソナタ第32番は、最後のソナタとは言え、そのあとに、ディアベッリの主題による変奏曲という超大曲やガデルなんかも書いているから、前回のアルバムほど強い拘束をもった選曲とはなっていないようだ。
 シンプの解説を読んでも、前回ほど明瞭に全体の構成に関するコンセプトを述べてはいない。音彩的な新鮮さという観点で、ベートーヴェン、ドビュッシーそれぞれの到達点に相応しい作品を取り上げ、その間に存在するブラームス最晩年の作品を加えたといったところだろうか。
 演奏は、非常に柔らか味を感じさせるものだと思う。シンプのタッチは優しさを感じさせるとともに、とても落ち着いた雰囲気に満ちている。例えば、ベートーヴェンのソナタの第2楽章の中間部、あの付点のリズムが繰り返される華やかな部分でも、私がシンプの演奏から感じるのは、強いセーヴ感である。決して急がず、音色を大切にして先に進めていく。そうして、晩年のベートーヴェンならではの歌の要素を繊細に紡ぎあげ、このソナタを終結に導いていく。その道のりはとてもロマンティックだ。
 ドビュッシーの「喜びの島」がまた素晴らしい。この楽曲は、一騎果敢に豪放に弾ききる方法もあるのだけれど、ドビュッシーが編み込んだ巧妙な和声を味わうには、このシンプの演奏くらいのテンポが絶妙だ。ぺダリングの妙と併せて、細やかな色彩感が表現されている。映像でも、シンプは、ドビュッシーの作品の描写性をとても細やかに表現しようと試みている。そこに水の気配や夜の気配を感じる。
 ブラームスの作品の場合、私はこの4曲の間に関連性をあまり見出さないのだけれど、シンプの演奏には、どこか神秘的なところがあって、なにか腑に落ちるようなところを感じた。
 今後の活躍に大きな期待を寄せるピアニストの一人。

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ティボーデ


オペラ・ウィザウト・ワーズ~サンサーンス 歌劇「サムソンとダリラ」からの2つの主題による幻想曲 (ティボーデ、ケーバー編)   R.シュトラウス ランブル・オン・ザ・ラスト・ラヴ・デュエット~歌劇「ばらの騎士」から (グレインジャー編)   プッチーニ わたしのおとうさん~歌劇「ジャンニ・スキッキ」(ミカショフ編)  コルンゴルド 私に残された幸せは~歌劇「死の都」(ティボーデ、ケーバー編)   J.シュトラウス ウィーンの夜会-コンサート・パラフレーズ(ケルンフェルド編)   プッチーニ 歌に生き、恋に生き~歌劇「トスカ」 (ミカショフ編)  ベッリーニ 清らかな女神よ~歌劇「ノルマ」 (ミカショフ編)   グルック メロディ~歌劇「オルフェオとエウリディーチェ」 (スガンバディ編)   プッチーニ ポートレイト・オブ・マダム・バタフライ-4つの部分からなる「蝶々夫人」の主題による幻想ソナタ(ミカショフ編)   ワーグナー ワルキューレの騎行 (ブラッサン編)
p: ティボーデ

レビュー日:2007.4.22
★★★★★ 思わず聴き入ってしまう魅力的なアルバムになっています!
 「オペラ・ウィザウト・ワーズ」と題して、ティボーデがとても魅力的なアルバムを作った。オペラの名シーンやアリアを編曲したピアノ・ソロ集である。軽い気持ちで聴き始めたが、思わず聴き入ってしまった。
 ティボーデというピアニストは多彩なペダリングの技法を用いて、ピアノの音色を様々に変化させる名人芸をもっており、時としてそこに熱中し過ぎることもあるけれど、でも全般にとてもうまくいくし、自分のスタイルに合った特有のレパートリーを開拓していっている。存在感のあるピアニストになったものだ。
 ここでは自ら編曲を手がけているものもあるし、あるいはグレインジャーやブラッサンの編曲したものもあり、その編曲の手腕も聴き所だ。そのグレインジャーが編曲したR.シュトラウスの薔薇の騎士から「ランブル・オン・ザ・ラスト・ラヴ・デュエット」は絶品の味わい。なんといってもオーケストラなみに色彩を変化させるピアノのタッチが見事で、編曲の妙を鮮やかに伝えている。ミカショフが編曲した「ポートレイト・オブ・マダム・バタフライ」-4つの部分からなるプッチーニ「蝶々夫人」の主題による幻想ソナタは12分を超える壮大な一遍となっているが、そのクライマックスの盛り上がりはすばらしく、オペラのように歌詞が感情を言い尽くしてしまない「慎み深さ」が、音楽の透明感を上げている。原曲であるオペラを聴くより、こっちの方が好きだと言う人は、結構多いのではないだろうか。私もこの適度な質感と品を、とても高く買いたい。また冒頭に収録されているサンサーンスはまるでノクターンのように響き、これまたきわめて印象深い。

Carte Blanche
p: ティボーデ

レビュー日:2021.10.28
★★★★★ 収録時間79分があっという間。60才となったティボーデが送る宝石箱のようなピアノ・アルバム
 ジャン=イヴ・ティボーデ(Jean-Yves Thibaudet 1961-)が自らの60才を記念して、“Carte Blanche”と題したアルバムを製作した。“Carte Blanche” は白いカードという意味だが、それは、自由に選んだ、フリーチョイスした、といった意味合いだろう。収録されている楽曲はいずれも「愛奏」にふさわしい作品たちで、魅力いっぱいだ。まずは、収録曲の詳細を書こう。
マリアネッリ(Dario Marianelli 1963-) 「プライドと偏見」組曲
 1) 夜明け  2) ネザーフィールドを離れて  3) ジョージアーナ  4) ペンバリーの彫像  5) ミセス・ダーシー
6) クープラン(Francois Couperin 1668-1733) ティク・トク・ショク、またはオリーヴしぼり機(クラヴサン曲集 第3巻 第18組曲 第6番)
7) D.スカルラッティ(Domenico Scarlatti 1685-1757) ソナタ ヘ短調 K.466
8) シューベルト(Franz Schubert 1797-1828)/R.シュトラウス(Richard Strauss 1864-1949)編 クーペルヴィーザー・ワルツ 変ト長調 D.Anh.1-14
9) ショパン(Frederic Chopin 1810-1849) ワルツ 第19番 イ短調
10) リスト(Franz Liszt 1811-1882) コンソレーション(慰め) 第3番 変ニ長調
11) ブラームス(Johannes Brahms 1833-1897) 間奏曲 イ長調(6つの小品 op.118 第2番)
12) エルガー(Edward Elgar 1857-1934) チッコリーニ(Aldo Ciccolini 1925-2015)編 愛の挨拶
13) ピエルネ(Gabriel Pierne 1863-1937) 演奏会用練習曲 op.13
14) グラナドス(Enrique Granados 1867-1916) 嘆き、またはマハと夜鳴きうぐいす (組曲「ゴイェスカス」 第4曲)
15) ヴィラ=ロボス(Heitor Villa-Lobos 1887-1959) 道化人形 (「赤ちゃんの一族」 第1組曲「お人形たち」 第7番)
16) プーランク(Francis Poulenc 1899-1963)/ティボーデ編 ホテル (歌曲集「平凡な話」 第2曲)
17) サンカン(Pierre Sancan 1916-2008) オルゴール
18) M.グールド(Morton Gould 1913-1996) ブギウギ練習曲
19) チェルカスキー(Shura Cherkassky 1909-1995) 悲愴前奏曲
20) ガーシュウィン(George Gershwin 1898-1937)/ワイルド(Earl Wild 1915-2010)編 エンブレイサブル・ユー(7つの超絶技巧練習曲 第4曲)
21) ハーライン(Leigh Harline 1907-1969)/ティボーデ編 星に願いを
22) トレネ(Charles Trenet 1913-2001)/ワイセンベルク(Alexis Weissenberg 1929-2012)編 パリの四月
23) ワイルダー(Alec Wilder 1907-1980)/チャーラップ(Bill Charlap 1966-)編 I'll Be Around
24) バーバー(Samuel Barber 1910-1981)/ティボーデ編 アダージョ op.11
 2021年の録音。
 ティボーデというピアニストは本当に素晴らしいピアニストだと思う。特にペダルを駆使してマジカルな音色を使い分けるところなど当代随一と言っていいのではないだろうか。私は彼のドビュッシー(Claude Debussy 1862-1918)のピアノ独奏曲全集を愛聴しているし、デュトワ(Charles Dutoit 1936-)と録音したラヴェル(Maurice Ravel 1875-1937)のピアノ協奏曲集など、当分、これを上回る録音は登場しないのではないかとさえ思っている。
 今回のアルバムも、本当に素晴らしい。79分間、美しい夢の中にいるような聴き心地を味わうことが出来る。一つ一つがティボーデによって思い入れのある楽曲なのだろう。例えば、ショパンのワルツ第19番について、ティボーデは、「記憶にあるいちばん最初に聴いた曲」であるとのこと。確かに、そのような楽曲は人それぞれに存在するだろう。そして、そんな特別な思いを、ティボーデは最高に美しいタッチで、透明な情感を宿して、表現してくれている。
 冒頭に収録されているのは、ジョー・ライト(Joe Wright 1972-)が監督した映画「プライドと偏見」のためにマリアネッリが書いた音楽をピアノ組曲化したもの。このピアノ組曲化は、ティボーデの依頼によるものだったとのこと。当アルバムでは、ディズニー映画「ピノキオ」の主題歌「星に願いを」や、映画プラトーンで使用され有名になったバーバーの「アダージョ」が奏でられていて、そのメロディの美しさに改めて接することが出来る。また、この並びで聴くと、ブラームスの間奏曲や、グラナドスのゴイェスカスからの1曲なども、その浪漫的な雰囲気がが、映画音楽を思わせるような芳醇さを伴って伝わり、実に麗しい。また、ピエルネやM.グールドの作品のように、リズムに乗って華麗な技巧が繰り広げられる作品も、抜群のソノリティとスリリングなスピード感で仕上がっており、どこをとってもとにかく楽しい。
 あまりこれまでなじみのなかった曲も、このアルバムの中では、輝かしく響くし、ショパン、リスト、エルガーの聴き馴染んだ旋律も、ティボーデのマジックで、鮮烈な彩色を再度身にまとったかのようにフレッシュに響く。
 これまで、同様の趣向(ピアニストが自由に選んだ楽曲を弾く)のアルバムをいろいろと聴いてきたけれど、このティボーデのものは、エンターテーメント性、芸術的完成度の双方で、特にレベルの高いものの1枚と言って良い。

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トリスターノ


bachCage
p: トリスターノ

レビュー日:2019.9.28
★★★★★  ルクセンブルクの奇才、トリスターノのメジャー・デビュー・アルバムです。
 ルクセンブルクのピアニスト、フランチェスコ・トリスターノ(Francesco Tristano 1981-)のメジャー・デビュー・アルバムである。バロックと現代をそれぞれ代表する作曲家、J.S.バッハ(Johann Sebastian Bach 1685-1750)とケージ(John Cage 1912-1992)のピアノ作品をならべ、そこに自作の小品を加えた構成で、アルバムのタイトルはずばり「バッハケージ」である。2人の作曲家の名前を並べただけのタイトルなのに、なんかカッコイイ。収録曲の詳細は以下の通り。
1) トリスターノ イントロイト
2) バッハ パルティータ 第1番 変ロ長調 BWV825
3) ケージ ある風景の中で
4) ケージ プリペアド・ピアノのための「四季」
5) バッハ デュエット 第1番 ホ短調 BWV802
6) バッハ デュエット 第2番 ヘ長調 BWV803
7) バッハ デュエット 第3番 ト長調 BWV804
8) バッハ デュエット 第4番 イ短調 BWV805
9) ケージ 南のエチュード 第8番
10) トリスターノ インタルーズ
11) バッハ フランス組曲 第1番 BWV812から メヌエットII
 2010年の録音。
 今でこそ、クラシック、テクノ、アンビエントとクロスオーバーなトリスターノの活躍は広く知られるようになったが、当盤が出た頃は、その芸術性はやはり新規にしてどう扱うべきかと周囲を悩ませるものであったに違いない。当盤を聴くと、驚かされるのは、その技巧の確かさである。自作のイントロイトで印象的なエコーのかかったような音響で余韻を残し、それが冷めやらぬうちにバッハのパルティータ第1番が奏でられるが、そのノンレガートによるスタッカート奏法は、ペダルの使用を控えたスタイルで一貫し、その力とリズムの確かさと安定性によって、強く印象付けられる。早目のテンポの中でフレキシブルな動きがあり、その動きに即した装飾性が、実に積極的な表現性を持っている点が見事であり、クーラントやメヌエットIIにおける鮮やかな発色性は、新鮮ですがすがしい。終曲のジーグではその末尾で、突然ペダルを踏みこんだ残響を与え、すぐにケージの抜群にロマンティックな名品「ある風景の中で」がエコー気味に響き渡る。その変わり身も凄いが、ギャップは意外なほど感ぜられず、トリスターノの芸術の術中にはまった心地よさを感じさせる。
 ケージの「四季」や「南のエチュード」は、より偶然性の支配する「響き」の芸術であると感じられるが、トリスターノはピアノと言う楽器からマジカルな響きを引き出し、聴き手を魅了する。そして、そんな音世界を経て最後に奏でられるバッハのメヌエットは、すでに前に聴いたパルティータやデュエットからは遠く隔たった世界観を与えられていて、その音響は加工的であり、コンピューターの合成音を思わせる。
 確かな技巧、解釈を持ちながら、その演出において、独特のウィットのあるアルバムで、これをどのような価値軸でとらえるかは聴き手の感性による部分がとても大きくなるのだが、私自身は、とても面白く、また繰り返し聴きたいと思えるアルバムだった。ドイツ・グラモフォンという古典的なレーベルとは似合わない印象であるが、録音品質も高く、アルバムがもつ芸術性は高いと考える。

ロング・ウォーク
p: トリスターノ

レビュー日:2013.3.19
★★★★★  ルクセンブルクの若き才能が放つ意欲作
 テクノもこなすルクセンブルクのピアニスト、フランチェスコ・トリスターノ(Francesco Tristano 1981- )による2012年に京都で録音された面白いアルバム。収録曲は以下の通り。
(1) ブクステフーデ(Dieterich Buxtehude 1637-1707) トッカータ BuxWV165
(2) ブクステフーデ カンツォーナ BuxWV168
(3) ブクステフーデ カンツォーナ BuxWV173
(4) ブクステフーデ シャコンヌ BuxWV160
(5) ブクステフーデ アリア「カプリッチョーサ」と32の変奏曲 BuxWV250
(6) バッハ(Johann Sebastian Bach 1685-1750) ゴルトベルク変奏曲から第30変奏「クオドリベット」(Quodlibet)」
(7) トリスターノ ロング・ウォーク
(8) バッハ ゴルトベルク変奏曲からアリア
(9) トリスターノ グラウンド・ベース
 さらに国内盤では“Higashi”と題された彼の即興演奏からなる1曲が追加収録されている。
 ブクステフーデはバッハ以前の北ドイツで最も重要な作曲家と考えられ、特にトッカータ、プレリュードとフーガ、シャコンヌ、コラールなどのオルガン音楽は、劇的幻想的な作風で、内面的な情緒の気高さとともにバッハに多大な影響を与えたとされる。バッハの名曲「ゴルドベルク変奏曲」のインスピレーションはブクステフーデのアリア「カプリッチョーサ」と32の変奏曲 BuxWV250から得られたものと言われており、実際、「クオドリベット」の名が付くゴルドベルク変奏曲の第30変奏は、ブクステフーデの当該作の影響が明瞭である。そこで、トリスターノは、この2作品の関連性を軸に、ブクステフーデの作品を中心に集め、さらに自作の2つを加えてアルバムとした。
 今日では、ブクステフーデの作品の多くは失われたと考えられているが、それでも、現代まで残ったものに、このような優れた演奏と録音で接することができるのは幸いだ。トリスターノのピアノは大胆なスタッカート奏法が特徴的で、いかにも若々しい恐れを知らない感じの肉付き豊かで量感のある弾力が見事。音楽が活力に溢れている。また、シャコンヌ BuxWV160などでは内省的な雰囲気もよく引き出していて、情感豊かに響く。アルバムのメインと考えられるアリア「カプリッチョーサ」と32の変奏曲 BuxWV250においても明朗な音楽性が好ましく、この佳曲を存分に楽しませてくれるエンターテーメント性に溢れている。
 自作自演の2曲はピアノと電子楽器の多重録音によるもの。こちらは“テクノふう”であり、“ミニマル・ミュージックふう”でもある音楽、と表現しておこうか。楽曲として優れているかという観点はおいておくとして、奏者の多芸ぶりを知るのに、適したものだろう。当アルバムに挿入される蓋然性は、私には判別つかないが、いかにも現代のアーティスト的発想に溢れたこのアルバムは、トリスターノの今後を期待させるのに十分なものだと思う。

Piano Circle Songs
p: トリスターノ

レビュー日:2018.2.1
★★★★★  トリスターノが示す感覚的美観に整えられた「アシッド・クラシカル」
 ルクセンブルクのピアニスト、フランチェスコ・トリスターノ(Francesco Tristano 1981-)による自作自演アルバム。2016年から17年にかけての録音。
 すでに、バッハ、ラヴェル、ベリオなどの作品に優れた解釈を施しているピアニストの自作自演ということになるが、その内容は、アンビエント、テクノといった要素が入り混じったものと言えそうだ。全15曲のうち、4曲がチリー・ゴンザレス(Chilly Gonzales 1972-)の作品、そのうち3曲がチリー・ゴンザレスとのデュオになっている。トリスターノ自身、自らのジャンルを「アシッド・クラシカル」あるいは「アコースティック・ディスコ」のように形容している。
 タイトルは「ピアノ・サークル・ソングス」となっているが、「サークル(円)」という言葉に込められた意図として、円と言う形状の完全性と、それと必然的な関係をもつ円周率という無理数を、完全な音楽を目指すときに混合する不完全性を現すというようなことが書かれている。トリスターノは、そのあたりの思索について、坂本龍一(1952-)のメロディに関する言葉も引用している。また、そのような自らの芸術思考シンボルとして、パウル・クレー(Paul Klee 1879-1940)の絵画を挙げているところも面白い。
 録音はピアノ、多重録音だけでなく、シンセサイザー、パーカッションなども用いて行われている。
 様々な影響を感じられる作品でもある。サティ(Erik Satie 1866-1925)、そしてブライアン・イーノ(Brian Eno 1948-)といった人たちを彷彿とさせるところもある。作品自体の音楽的親近性で言えば、加古隆(1947-)、ティグラン・ハマシアン(Tigran Hamsyan 1987-)といった人たちの名前も挙げられるだろう。
 全体としては、聴き易く、いわゆるトランス効果のある楽曲と言えそう。第2曲「This too Shall Go」は、SimCityのようなシミュレーションゲームのサントラのようにも聞こえる環境補完性があるし、第5曲「All I Have」は、降りしきる雨を思わせる音色が美しい。第6曲「Triangle Song」はチリー・ゴンザレスの作品であるが、サティ的な味わいに響く。第12曲「La franciscana」は、トリスターノのグルーヴへの感性を感じさせるリズム主体の音楽。
 全般に静謐さとグルーヴ感のバランスのとれた感性、情緒的な主題の洗練された取扱いは、十分に注目されるもの。私はなかなか気に入っている。今後の展開も注目したい。

Tokyo Stories
p: トリスターノ

レビュー日:2020.1.6
★★★★★  トリスターノが音で描き出す「東京」の風景
 ルクセンブルクのクラシック・ピアニストでありながら、自ら「アシッド・クラシック」あるいは「アコースティック・ディスコ」と称する音楽創作活動を行っているフランチェスコ・トリスターノ(Francesco Tristano 1981-)が、大好きな町と語る「東京」をテーマに作成したオリジナル・アルバム。収録されている楽曲は以下の通り。
1) Hotel Meguro (ホテル目黒)
2) Neon City (ネオン・シティ)
3) Electric Mirror (エレクトリック・ミラー)
4) Chi No Oto (血の音)
5) The Third Bridge at Nakameguro (中目黒サードブリッジ)
6) Lazaro (ラザロ)
7) Yoyogi Reset (代々木リセット)
8) Insomnia (インソムニア)
9) Cafe Shinjuku (カフェ新宿)
10) Pakuchi (パクチー)
11) Akasaka Interlude (赤坂インタールード)
12) Nogizaka (乃木坂)
13) Gate of Entry (ゲート・オブ・エントリー)
14) Ginza Reprise (銀座リプライズ)
15) Bokeh Tomorrow (ボケ・トゥモロー)
16) Kusakabe-san
 参加ミュージシャンは、
 ナレーション: チェリー・ジェレラ(Chelly Jerrera) 4)
 シンセサイザー: Guti 8)、渋谷慶一郎(1973-) 13)、ヒロシ・ワタナベ(1971-) 15)
 バス・クラリネット: ミシェル・ポルタル(Michel Portal 1935-) 9)
 タブラ: ユザーン(U-zhaan 1977-) 10)
 2018年の録音。
 この音楽のジャンルをなんと言えばいいだろうか。以前トリスターノ自身が「アシッド・クラシック」や「アコースティック・ディスコ」と呼んでいた自作群より、やや環境性が強まったようにも感じる。私が分類するなら、無難に「フュージョン」ぐらいだろうか。
 トリスターノ自身は、ピアノだけでなく、シンセサイザーや打楽器を操り、その多彩性を見せるが、その音楽はとくだん新しいというわけではない。ときに環境音や人工音のサンプルを加えて想像力の方向付けを施しながら、メロディー・ラインは基本的にシンプルで、美しい佇まいを示す。
 私が興味深いのは、トリスターノが「40度以上訪れた」と語る「東京」の印象が、音楽において、ひときわ叙情的で、時に自然の中をイメージするような音楽的風合いを感じさせるところだ。私は札幌在住であるが、以前は仕事で毎年数回、東京を訪れていた。もちろん、私用で訪問したこともある。私は鉄道が好きなので、出張でも、時間の合間を見ては、電車に乗って、町の風景を見ていた。そんな私が感じた東京は、建物が密集して、多くの人が行き交うのだが、再開発が及んでいない地域では、いろいろなものが混在していて、しかし混在しながら、無秩序ではなく、制限の範囲内で土地の十全な活用が求められ、かつ様々な時代の交通や商業の形態を遺した地割や建築物がひしめいていた。その様は、人工的なようでいて、どこか自然意志による最密充填的な不思議な秩序があった。大都市のことを「コンクリート・ジャングル」と形容することがある。ジャングルという形容は、正直私には、いまいちピンとこないところがあるけれど、無秩序のようでいて秩序があり、その秩序が自然法則を感じさせるところは、たしかにと思わせるのだ。この大都市を歩いていて、ふと自然の中にいるような錯覚を覚えることがあったのは、そういうわけだと思う。トリスターノも、ひょっとしたら、そのような感覚を味わったのかもしれない。都市を描いていながら、森の中にいるかのように感じさせる中性的と形容したいその音楽は、私には共感できるものだ。第6曲がそんな雰囲気をひときわ私に感じさせる。
 その他では、第2曲は、メロディアスでありながら、即物的で、様々なシーンでBGMなんかに使えそうなキャッチーさがあって親しみやすいだろう。また、第4曲における書道家チェリー・ジェレラによる詩の朗読は、短いが、実に存在感のある声で、音楽観にマッチし、印象に残る。
 パソコン操作のバックで、さりげなく流すと、作業が進捗しそうな、心地よいアルバムになっています。

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ユジャ・ワン


ショパン ピアノ・ソナタ 第2番「葬送行進曲付」  スクリャービン ピアノ・ソナタ 第2番「幻想ソナタ」  リスト ピアノ・ソナタ  リゲティ 練習曲 第4番 第10番
p: ユジャ・ワン

レビュー日:2009.11.2
★★★★★ 「音楽新興国」中国からまた異能の士出現
 中国からまたしても才気に満ちた新星が登場した。ユジャ・ワンは当アルバムを録音した2008年の時点でまだ22歳とのことである。このようなピアニストに着目し、アルバムをリリースした関係者の慧眼もなかなかのものだ。
 まず、アルバムの構成が面白い。ショパンの葬送ソナタ、スクリャービンの幻想ソナタ(第2番)、そしてリストのソナタと3曲のロマン派の傑作ソナタ3点と、その合間にリゲティの練習曲1を1曲ずつ挟んで計5曲。収録時間74分を存分に使った上、企画性や意趣性を感じさせる配列だ。
 演奏もなかなか見事。ショパンのソナタ第2番では、冒頭から各音の独立性が高度に保たれながらも、音楽表現として有機的に結び付けられている。アルゲリッチのようにただ内燃性の情動を曝す様なものでなく、つねに理知的な視点が働いていて、聴き味がいかにもノーブルだ。第1楽章の的確な左手のリズムはポゴレリチを思わせるが、ポゴレリチがあえてテクノばりの等感覚性、無機性を湛えたのに対し、ユジャ・ワンはこの低音に微妙な色づけを与えていて、ショパンのピアノ音楽にしては意外なほどの多層性を与えている。この効果は、例えば第3楽章の葬送行進曲でもはっきり出てくる。後半の行進曲の反復部の左手によってもたらされる和音の響きは、決して特別なことをやっているわけではないが、深いドラマを秘めているように響き、それが私には美点に思える。
 スクリャービンのソナタも音色の美しさとクールな観点が印象的。終楽章の無窮動も安定した技術で輪郭がたくましい。
 リストのピアノ・ソナタでは、ユジャ・ワンの特性が作品の浪漫性をことごとく明快に解き明かし、非常にわかりやすい演奏になっている。感情の振幅が適度にセーヴされているのが素晴らしい。また合間に添えられたリゲティの練習曲の構成を壊さない存在感も見事な企画力と言える。面白い。
 このような演奏というのは、相当高いレベルの音楽的教養を必要とするに違いない。ユジャ・ワンに限らず経済のみならず音楽においても急速に進化を遂げる新興国といえる中国が放つ異能の才たちには、今後も十分に注意を払いたい。

トランスフォーメーション
p: ユジャ・ワン

レビュー日:2010.6.10
★★★★★  気鋭のピアニストらしい巧みな配列と演奏
 中国期待の若手ピアニスト、ユジャ・ワンがグラモフォンから2枚目のアルバムをリリースした。当然のことながら大注目盤と言える。録音は2010年。
 今回もまた、収録曲とその順番がふるっている。まず、ストラヴィンスキーの「ペトルーシュカからの3楽章」があり、5分ほどのスカルラッティのソナタホ長調K.380を挟んで、ブラームスの「パガニーニの主題による練習曲」そしてまた5分ほどのスカルラッティのソナタハ長調K.466を挟んで、最後にラヴェルの「ラ・ヴァルス」だ。前作ではリゲティをたくみに「ツナギ(?)」にしたが、今度はスカルラッティである。それに加えて、「パガニーニの主題による練習曲」も全2巻分の変奏曲の順番をいくつか入れ替えて弾いている。これも面白い!
 ストラヴィンスキーのピアノ曲は、かつてはポリーニの演奏がずば抜けて有名だったが、今では多くのピアニストが良質な録音をしている。私も最近の有森博盤などに感銘を受けた。ユジャ・ワンの演奏も見事。力強く、しかも余分の力を感じないしなやかさ、そして鍵盤の上をきわめて自然に動く手の動きが伝わる。一音もないがしろにしないのはもちろんだが、細やかなアクセントがたいへん効果的で、理路整然たる趣。もちろん音楽性の不足もない。
 スカルラッティは比較的有名な曲だが、このような他の作曲家の作品と併せて収録する仕方が、曲の個性を際立たせるように感じる。ユジャ・ワンの感性も素晴らしいが、スカルラッティだけ聴くと、やはりちょっと飽きるのだ。ここでは清涼感のある響きが堪能できる。
 ブラームスもスピーディーで鮮烈だが、重い音を巧みに避けていると思う。変奏曲一曲一曲のサイズに合わせた回転の良いシャープな佇まい。最後のラヴェルも瀟洒で透明感のある聴き味多彩なアルバム。今後も要注目だ。

ファンタジア
p: ユジャ・ワン

レビュー日:2012.4.25
★★★★★  ユジャ・ワンの個性が如何なく発揮されたオムニバス・アルバム
 近年のグラモフォン・レーベルへの録音活動を通じてすっかりメジャーになった北京生まれのピアニスト、ユジャ・ワン(Yuja Wang 1987-)による「Fantasia」と題された2011年録音のピアノ・ソロによるオムニバス・アルバム。収録曲は以下の通り。
1) ラフマニノフ 練習曲集「音の絵」 op.39-6
2) ラフマニノフ 練習曲集「音の絵」 op.39-4
3) ラフマニノフ 幻想的小品集op.3から第1番「悲歌」
4) ラフマニノフ 練習曲集「音の絵」 op.39-5
5) スカルラッティ ソナタ ト長調KK455
6) グルック オルフェオとエウリディーチェ~から「メロディ」
7) アルベニス イベリアから「トリアーナ」
8) ビゼー(ホロヴィッツ編) カルメンの主題による変奏曲
9) シューベルト(リスト編) 糸を紡ぐグレートヒェン
10) J.シュトラウス トリッチ・トラッチ・ポルカ
11) ショパン ワルツ 第7番
12) デュカス(ユジャ・ワン編) 魔法使いの弟子
13) スクリャービン 前奏曲 op.11-11
14) スクリャービン 前奏曲 op.13-6
15) スクリャービン 前奏曲 op.11-12
16) スクリャービン 12の練習曲から第9番
17) スクリャービン 2つの詩曲op.32から第1番
18) サンサーンス(リスト&ホロヴィッツ編) 死の舞踏
19) ユーマンス 二人でお茶を
 「名曲集」というわけでもない、ちょっと変わった選曲だ。しかし、抽出されたこれらの作品を、ワンの演奏で聴いていると、どの作品も際立つような魅力を放っており、聴き手を心底楽しませてくれる内容になっている。おそらく、現在のユジャ・ワンが、特に自信を持って弾きこなしている愛着ある作品を選んだのだろう。前半にラフマニノフ、後半にスクリャービンの作品が連続しており、ロシア音楽にそれなりの比重のかかった内容だとも思うが、収録された作曲家及び楽曲に共通のテーマがあるわけではないようだ。
 聴いてみて、ことに「相性の良さ」を感じたのがラフマニノフで、ピアニストの手や指の高いスペックを如何なく発揮したスリルと切れ味を堪能できる。スカルラッティのソナタが大層美しく奏でられているのも好印象だ。このピアニスト特有の呼吸が音楽に鮮やかな生気を与えていて、古典の作品に現代の衣装を着せたような新鮮さがある。グルックの柔和な情感、アルベニスの異国情緒も健やかかつ勢いよく奏でられていて気持ちよい。ショパンのワルツの中でも特に高名な第7番が収録されている。ピアニスト特有の気性を感じさせる主情的な演奏で、饒舌な表現力がある。
 ワン自身の編曲によるデュカスは冒頭部分のミステリアスな雰囲気が出色だろう。このアルバムから1曲だけ選ぶとしたら、私ならスクリャービンの前奏曲 op.11-11になる。短いながらも淡い甘美性に溢れた愛すべき小品で、ワンの瑞々しいタッチが夢見るような彩を与えている。最後のサンサーンスは腕達者なピアニストには「もってこい」のピースで、ガヴリリュクの豪演なども思い出されるが、ワンも攻撃的なアプローチで、畳み込むようにアルバムを締めくくっている。
 単なる名曲集とは一味違う、このピアニストならではの世界を堪能できるアルバムだ。

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その他


ラフマニノフ ピアノ・ソナタ 第1番  シューマン アレグロ  シューベルト ピアノ・ソナタ 第14番  ショパン 夜想曲 第13番 練習曲 作品25-10 
p: カスマン ライヒェルト

レビュー日:2004.3.13
★★★★☆ 第10回ヴァン・クライバーン国際ピアノ・コンクール・ライヴ
 第10回ヴァン・クライバーン国際ピアノ・コンクールにおける録音で、銀賞のヤコフ・カスマン(ロシア Yakov Kasman )と銅賞のアヴィラム・ライヒェルト(イスラエル Aviram Reichert)の演奏が聴ける。カスマンはラフマニノフのソナタ1番とシューマンのアレグロを、ライヒェルトがシューベルトのソナタ14番とショパンの夜想曲13番&練習曲25-10を弾いています。
 ライヒェルトのシューベルトはなかなか重量感とスピード感で卓越してる。コンクールでこのシューベルトの14番のような技巧以上に内面性が重視される作品を主に持ってくる人は珍しいのでは?逆に言えば「自信アリ」なのだろう。そして内容は「確かに」と唸らされるもの。特に1楽章の声部の鮮やかな浮き立たせ方や、終楽章の重層的な構築感に感心する。
 カスマンのラフマニノフも力強くて好感触です。

Recital Vardan Mamikonian
p: マミコニアン

レビュー日:2011.12.28
★★★★★  アルメニアの実力派ピアニスト、マミコニアンに注目!
 1992年のモンテカルロ・ピアノ・マスターズでグランプリを授賞し、注目を集めたアルメニアのピアニスト、ヴァルダン・マミコニアン(Vardan Mamikonian 1970-)が、その直後に録音したアルバム。収録曲は以下のとおり。
(1) ラヴェル(Maurice Ravel 1875-1937) 夜のガスパール
(2) チャイコフスキー(Peter Ilyich Tchaikovsky 1840-1893) 主題と変奏
(3) ババジャニアン(Arno Babadzhanian 1921-1983) ヴァガルシャパティ舞曲、エレジー、詩曲
(4) ストラヴィンスキー(Igor Stravinsky 1882-1971) タンゴ
(5) ハチャトゥリアン(Aram Khatchaturian 1903-1978) トッカータ
 面白い選曲だ。マミコニアンならではのラインナップとも言える。アルノ・ババジャニアンは、出世の地であるエレバンで音楽を勉強した後、1947年からモスクワ音楽院で才を深めた。様々なジャンルに作品を書いたが、エスニックともオリエンタルともいえるムードのある作風が特徴だ。「剣の舞」が有名なアラム・イリイチ・ハチャトゥリアンもまたアルメニアの最重要と言える作曲家であり、このアルバムの選曲は、エスニシティを感じさせるだろう。
 マミコニアンのピアノの特徴は、まろやかな丸みを感じる繊細なタッチであり、また安定した技術も見事である。ババジャニアンの「詩曲」を聴くと、ドビュッシーやあるいはリゲティを思わせる無窮動ぶりでありながら、正確に打ち続けられる分散された音片のそそり立つようなソノリティが見事で、その練達ぶりをよく示している。この楽曲自体も注目したい作品だと思う。ババジャニアンがいかにピアノ技法に優れた作曲家だったかを示すものだ。また、「エレジー」に漂う様々な情感も、ヨーロッパとは一味違った感性が表出しているようで面白い。
 ストラヴィンスキーの「タンゴ」も良い。いかにも近代的な、当時の新しさを感じる作風だ。タンゴならではの音色、リズムを巧みに引き出しているマミコニアンのコントロールも主張が確かで、インパクトがある。
 名曲「夜のガスパール」は静謐な演奏。瑞々しいタッチで繊細に描かれていて、健康的かつ上品といったところ。終楽章の「スカルボ」もおどろおどろしさが無く、透明な情緒が描かれている。
 アルメニアのピアニストを通じて、様々な音楽とその感触を味わうことのできるアルバムに仕上がっている。

タールベルク 「セヴィリャの理髪師」大幻想曲  ベートーヴェン ピアノソナタ 第23番「熱情」  シューマン 子供の情景  リスト 死の舞踏
p: リシッツァ

レビュー日:2015.1.9
★★★★★  きわめて積極的な個性が溢れかえる様なアルバム
 ウクライナのピアニスト、ヴァレンティナ・リシッツァ(Valentina Lisitsa 1973-)による2008年録音のアルバム。収録曲は以下の通り。
1) ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven 1770-1827) ピアノ・ソナタ 第23番 ヘ短調「熱情」 op.57
2) シューマン(Robert Alexander Schumann 1810-1856) 子供の情景 op.15
3) タールベルク(Sigismond Thalberg 1812-1871) 「セヴィリャの理髪師」大幻想曲 op.63
4) リスト(Franz Liszt 1811-1886) 死の舞踏 S525
 ラインナップから想像される通り、以下にも現代のヴィルトゥオジティといった演奏ぶりだ。全てにおいて積極的で意欲的な表現で、自在な緩急と派手な強弱を操り、実に闊達な音楽を導いている。
 そんなリシッツァの個性が満面の成果となっているのが最後の2曲である。タールベルク、リストは、ともに同時代を代表するピアニスト=コンポーザーであり、自身の華麗なテクニックと演奏効果を結びつける数々の作品を遺した。そういった作品が、リシッツァのようなピアニストにはビタリとはまる。
 タールベルクの作品は、ピアニストの名人芸を披露するため、ロッシーニ(Gioachino Antonio Rossini 1792-1868)のオペラからの旋律用い、刺激を利かせた作品であるが、リシッツァの演奏には、この作品への強烈な愛情のようなものが感じられる。豊かな感情表現、劇的なモチーフの扱いに卓越し、素早い運指で、細部まで俊敏なコントロールが行き届く。
 リストも同様。「死の舞踏」はグレゴリア聖歌の有名な旋律から編まれた仰々しい変奏曲であるが、リシッツァは一切の衒いもなく、最大の音量と最高のスピードでこの楽曲を突き進めていく。あまりの衒いの無さに、聴き手がいろいろ考える間も与えないほどで、華麗な演奏効果を引き出し、一気果敢に終結になだれ込んで行く。その迫力は止めようがない。
 前半の2曲については、同じような手法では表現の難しい楽曲だと思う。特に「子供の情景」は難しい。リシッツァは、さすがに構えたところを見せ、情感をもって演奏している。それでも、第6曲「重大な出来事」や第9曲「木馬の騎士」を聴いていると、リシッツァの描く子供は、メランコリーなところが一切なく、いつだって元気いっぱいで、まあそういう子供もいるけど、私の子供時代とはだいぶ違うような(笑)。これだけ、ストレートに暗がりなく描かれた「子供の情景」はちょっと聴いたことがないといった感じですね。なので、ちょっと好みが分かれるかもしれません。
 熱情ソナタも俊敏で劇的な表現。瑞々しい美しさも持っている。ただ、私の感性では、やはり少し演出が入り過ぎているような気がする。一言で言えば、「ベートーヴェンにしては発色があり過ぎる」という感じだろうか。とはいえ、リシッツァのようなピアニストでなくては聴けない初々しさのある力強い表現で、なかなか楽しめる演奏になっているでしょう。
 いずれにしても、現代でも最高レベルのパフォーマンスを示したアルバムで、聴き応えは十分。

ボジャノフ ワルシャワ・ライヴ
p: ボジャノフ

レビュー日:2012.7.26
★★★★☆  直情的ともいえる音楽表現が魅力のボジャノフのライヴ
 2010年のショパン・コンクールではロシアのユリアンナ・アヴデーエワ(Yulianna Avdeeva 1985-)が優勝し、マルタ・アルゲリッチ(Martha Argerich 1941-)が優勝した1965年以来45年ぶりの女性の覇者ということで話題となったが、その際審査員を務めたアルゲリッチが賛辞を送ったのが第4位となったブルガリアのピアニスト、エフゲニ・ボジャノフ(Evgeni Bozhanov 1984-)である。
 当ディスクはそのボジャノフによる2011年8月19日に行われた第7回「ショパンとヨーロッパ音楽祭」でのライヴの模様を収めたもの。収録曲は以下の通り。
1) ショパン(Frederic Chopin 1810-1849) 舟歌 マズルカ 第26番、第32番 ワルツ 第1番「華麗なる大円舞曲」、第8番、第5番
2) シューベルト(Franz Schubert 1797-1828) 12のドイツ舞曲
3) ドビュッシー(Claude Achille Debussy 1862-1918) レントよりも遅く 喜びの島
4) スクリャービン(Alexander Scriabin 1872-1915) ワルツop.38
5) リスト(Franz Liszt 1811-1886) ペトラルカのソネット104番 メフィスト・ワルツ第1番「村の居酒屋での踊り」
 私はこのディスクで初めてこのピアニストの演奏を聴いた。印象を簡潔にまとめると「ひじょうに主張の強いピアノ」だということである。では、この「主張の強いピアノ」という印象は、どういうものだろうか。もちろん、いま現在の多くのピアニストたちにも、それなりの主張があり、個性があるので、私たちは様々な演奏を楽しんでいるのである。しかし、ボジャノフの演奏はそことまた違うのだ。・・・つまり、本来の主張というのはアナリーゼ(Analyse)と呼ばれるスコアの読み込みをベースに置き、そこにピアニストの音色だとかタッチ、アゴーギグが加えられていくことによって表情や生命力が一層増して行くわけで、私たちは、この総体としての印象を、ピアニストの個性や特性として受け取り、ひいてはその解釈を含めて楽曲を楽しんでいるのである。
 しかし、このボジャノフというピアニストの場合、より直情的というか、アナリーゼ(分析)の部分をほとんど感じさせず、直接的な自己表現として音楽をやっている、という風に聴こえる。それ自体がいいとか悪いとか言うのではなくて、少なくとも私にはそう聴こえる。そして、(これは正しいのかどうかわからないけど)こういう印象をもたらすピアニストというのは、最近では主流とはいいがたいのではないだろうか?理由はいろいろあるけれど、代表的な理由を3つ挙げるとして、一つは、こういうスタイルの演奏の場合、レパートリーが限定的になる傾向があり、現代においては活躍の場が限られることと、もう一つは、この手の好悪が分かれる演奏が批評において歓迎されにくい性格を持つこと、最後に、繰り返し再生を前提とするCDを中心とする今のメディアにおいて、個性の強い演奏は飽きられやすい傾向があることがあると思う。
 だが一方で、だからこそ、このような演奏を望むという声も多いに違いないと思う。毎日の食事だけでなく、たまには濃厚なデザートが食べたくなる、という気分に似通う。冒頭の「舟歌」を聴くと、なんとも派手な演奏だと思う。ピアニシモからフォルテシモまで、存分にダイナミックレンジをとり、大きな波高を上下動する。前後のリズムも間断を挟み、自由に揺らす。なんとも面白い演奏だ。
 マズルカ、ワルツも特有の息遣いが伝わり、いかにも奏者の意匠が伝わってくる。このような演奏の場合、やはり聴き手がどこまで奏者の気持ちに沿うことができるかがポイントなので、どうしても好悪は分かれてしまうだろう。
 それでも、個人的に多くの人に受け入れられる魅力があると思うのは、シューベルトの「12のドイツ舞曲」で、この楽曲のシューベルトには珍しいと言えるきらびやかな印象を、巧みに掬い取って、音楽的効果に結びつけていると思う。ドビュッシーの「レントより遅く」も特徴的なリズム配分を聴かせるが、この曲の受容範囲に含まれており、瀟洒な聴き味は好感が持てる。リストの「ペトラルカのソネット104番」も美しい情感が引き出されており、聴きどころのある演奏になっているだろう。技巧的な面では、少々のミスタッチはあるが、おそらくこのピアニストの演奏は、そういった点を含めて臨場感を楽しんだ方がいいのではないかと思う。ライヴならではの踏み込みや踏み外しさえ魅力として伝える通力は持っている。今後、どのように自らの芸術を発展させていくのか興味深い。

Live at Carnegie Hall
p: アンデルジェフスキ

レビュー日:2012.5.8
★★★★★  アンデルジェフスキによる聴き応え十分の2008年ライヴ録音
 ポーランドのピアニスト、ピョートル・アンデルジェフスキ(Piotr Anderszewski 1969-)による2008年、ニューヨーク、カーネギー・ホールでのコンサートの模様を収録した2枚組ディスク。収録曲は以下の通り。
1) バッハ(Johann Sebastian Bach 1685-1750) パルティータ 第2番
2) シューマン(Robert Schumann 1810-1856) ウィーンの謝肉祭の道化
3) ヤナーチェク(Leos Janacek 1854-1928) 霧の中で
4) ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven 1770-1827) ピアノ・ソナタ 第31番
5) バルトーク(Bartok Bela 1881-1945) 3つのハンガリー民謡
 全編にわたってアンデルジェフスキの才気が漲った演奏だ。アンデルジェフスキは1996年にベートーヴェンのピアノ・ソナタ第31番を、バッハのイギリス組曲第6番、ヴェーベルン(Anton Webern 1883-1945)の変奏曲とカップリングして録音したい意趣性の高いアルバムがあり印象に残っている。そこで、アンデルジェフスキは、ベートーヴェンのソナタ第31番を、一種の「組曲」のように見立てて、さながらバッハのクラヴィーア組曲のように陰影に富むアプローチを心掛けていた(そのCDでは、トラックも、楽章別ではなく、まるで組曲のように割り振られていたと記憶している)。言ってみれば、この曲は、アンデルジェフスキにとって、確固たる自分のアプローチで、多くの聴衆にメッセージを届けるための、「弾く必然性」のある作品だという感じがする。このアルバムで、当該曲がメインになっているのもあながち偶然ではない。また、冒頭にバッハのクラヴィーア組曲が配されているのも、以前のアルバムと同じ試行によるものだろう。
 冒頭のパルティータ第2番は、冒頭に壮麗なシンフォニアが置かれた名品だが、アンデルジェフスキはただならない決然とした雰囲気で楽曲を開始する。清冽で切り立った音色は、周囲を荘厳な緊迫感で満たせて、崇高な音楽が脈々と供給されていく。まるで、大聖堂に鳴り響いているかのような宗教的雰囲気だ。
 シューマンの「ウィーンの謝肉祭の道化」が実に素晴らしい快演奏だ。生気にあふれたピアニズムで情景を生き生きと描き出している。鮮烈な瞬間が連続し、その躍動感と変容ぶりで一瞬たりと聴き逃せないという高揚感に満ちている。同曲の録音中でも屈指の演奏ではないか。
 ヤナーチェクの「霧の中で」は、私の大好きな作品で、最近聴く機会が増えてきたのが嬉しい。アンデルジェフスキは比較的くっきりとしたソノリティでアプローチしているのが特徴的だ。
 ベートーヴェンのソナタ第31番はさすがに得意曲といったところ。起伏に富んだアプローチで、鍵盤を縦横に駆け巡ったり、また静謐な歌を奏でたりと、浪漫的な組曲の風情を如何なく引き出している。濃厚なテイストで聴き応え十分。バルトークのアンコールまで実に楽しく聴けるコンサートの記録となっている。

PIANO
p: チョン・ミュンフン

レビュー日:2014.7.9
★★★★★  夜の香りに満ちた、静謐なるピアノ名曲集です
 自分は、クラシック音楽を聴き始めてから、何年になるのだろう?そもそも、いつを「聴き始め」と定義すればいいのだろうか?私の場合、幼いころから父の持つレコードと母の弾くピアノを聴いてきた。いつともなく、聴いていたのだろう。
 それにしても、こんなラインナップのアルバムを聴くのは何年ぶりだろうか?もう、随分前から、この手の「名曲集」的なものを、無意識のうちに遠ざけるようになっていたと思う。今更、という思いもあるし、「聴くこと」自体に、一種の気恥ずかしさもあるから。それでも、このアルバムに興味を持ったのは、現代音楽を得意とするECMレーベルが「piano」という、実に意味深ともとれる思わせぶりなタイトルをつけてリリースしたことと、現在では指揮者として活躍しているチョン・ミョンフン(Myung-Whun Chung 1953-)の、ピアニストとしての珍しいソロアルバムに興味を持ったからに違いない。
 2013年録音。収録曲は以下の通り。
1) ドビュッシー(Claude Achille Debussy 1862-1918) ベルガマスク組曲から 第3曲「月の光」
2) ショパン(Frederic Chopin 1810-1849) 夜想曲 第8番 変ニ長調 op.27-2
3) ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven 1770-1827) エリーゼのために
4) チャイコフスキー(Pyotr Ilyich Tchaikovsky 1840-1893) 四季op.37b から 10月「秋の歌」
5) シューベルト(Franz Schubert 1797-1828) 即興曲 変ホ長調 D.899-2(op.90-2)
6) シューマン(Robert Alexander Schumann 1810-1856) 子供の情景op.15から 第7曲「トロイメライ」
7) シューマン アラベスク
8) シューベルト 即興曲 変ト長調 D.899-3(op.90-3)
9) ショパン 夜想曲 第20番 嬰ハ短調 (遺作)
10) モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791) キラキラ星の主題による変奏曲 ハ長調K. 265
 チョン・ミョンフンは1974年チャイコフスキー・コンクールで第2位に入賞(ちなみに、この時の優勝者はガヴリーロフ(Andrei Gavrilov 1955-))しているくらいだから、ピアノの腕前も相当なものに違いない。しかし、ここに並んだ楽曲たちは、ヴィルトゥオジティを誇示するようなものではない。むしろ、初学者でも、ちょっと楽譜をなぞってみることができるような曲ばかり。ちょうど、家族に聴かせるように。
 実際、チョン・ミュンフンは、これを彼の親しい人たちへのトリビュート・アルバムと捉えているようだ。このアルバムを聴くとすぐにわかる。彼は、安らぎの要素を集中的に引き出している。
 一つ一つの曲がじっくりと味わい深く奏でられている。決して急くことがなく、そのメロディラインを大事にし、末尾の残り香まで丁寧に伝えるよう、細心の注意を持ってピアノが弾かれる。決して厚い装飾を施すことなく、勢いのある部分でも、劇性を抑え、たおやかに進んで行く。冒頭に置かれた「月の光」で、聴き手は夜の到来を感じる。美しいブルーに彩られた夜。その静謐の中、美しいメロディが紡がれていく。「エリーゼのために」や「秋の歌」が、深い感情的な襞を持って、弾かれることに驚く。そこに込められた感情を表現するのに、私は「慈愛」という言葉を思いついた。
 ただ、ちょっと天邪鬼なことを書かせて頂ければ、「夜想曲全集」や「四季」といった曲集全てを通して、このアプローチが奏でられたら、私はちょっと気が逸れてしまうかもしれない。あくまで、当企画、この選曲あってこその弾き方、というふうにも思う。
 しかし、夜に、いろいろな想いを巡らせながら聴くのに、なんとも絶好なアルバムであることは間違いない。末尾に「キラキラ星の主題による変奏曲」というのが洒落ている。
 月の光で始まったこの夜の世界、最後に明けの明星がキラキラと東の空に輝いて、新しい一日の到来を告げつつ、音楽たちは去っていく。

チッコリーニ : ワルツ選集 (Aldo Ciccolini / 13 Valses)
p: チッコリーニ

レビュー日:2014.6.4
★★★★★  ルガンスキーの数々の名録音がお得な9枚組になりました。
 巨匠、アルド・チッコリーニ(Aldo Ciccolini 1925-)による「ワルツ選集」。2013年録音なので、録音時、チッコリーニは88歳となる。しかし、闊達なピアニズムで、ラテンの香気を感じるような、実に魅力的なアルバムになっている。収録曲をまとめよう。
1) シャブリエ(Alexis-Emmanuel Chabrier 1841-1894) アルバムの綴り
2) ショパン(Frederic Chopin 1810-1849) ワルツ 第3番 イ短調op.34-2
3) ピエルネ(Henri Constant Gabriel Pierne 1863-1937) ウィーン風 op.49bis
4) グリーグ(Edvard Grieg 1843-1907) 抒情小曲集 第10巻 第7曲「思い出」 op.71-7
5) サティ(Erik Satie 1866-1925) ジュ・トゥ・ヴー(お前がほしい)
6) セヴラック(Deodat de Severac 1872-1921) ロマンティックなワルツ
7) シューベルト(Franz Peter Schubert 1797-1828)(R.シュトラウス編(Richard Strauss 1864-1949) クーペルヴィーザー・ワルツ
8) ドビュッシー(Claude Achille Debussy 1862-1918) レントよりも遅く
9) マスネ(Jules Emile Frederic Massenet 1842-1912) 非常にゆっくりとしたワルツ
10) シベリウス(Jean Sibelius 1865-1957) 悲しきワルツ op.44
11) フォーレ(Gabriel Faure 1845-1924) ヴァルス・カプリス 第3番 変ト長調 op.59
12) ブラームス(Johannes Brahms 1833-1897) 16のワルツから 第15曲 変イ長調 op.39-15
13) タイユフェール(Germaine Tailleferre 1892-1983) ヴァルス・レント
 魅力的な作品が並んでいる。人によっては、タイトルを聞いてもわからないけれど、音楽を聴いてみると「ああ、あの曲か」と思い出せるような曲も入っていることだろう。「ワルツ集」と銘打たれているけれど、単に3拍子である曲も多く含まれている。しかし、それらの曲も、チッコリーニは、瀟洒な彩を添えて、巧みに「ワルツ風」に響かせている。(特に左手の扱いが巧い)
 チッコリーニのタッチは、あいかわらずガラスのように透明で結晶化している。くっきりとした陰影を刻みながら、楽曲たちを奏でていく。彼の長いキャリアを反映するような「落ち着き」があり、しかし、聴いてすぐに「大家ふう」と思うような、間を感じるというわけではない。むしろ、あちこちに聴かれる明るい曇りのない表現が、いかにも清々しい若々しいイメージと繋がっている。その結果、ワルツたちは、表情豊かに、動き出す。
 冒頭のシャブリエはさり気ないながらも、時に濃厚な気配を漂わせる品格がある。ショパンの数あるワルツから、憂いに満ちた名曲、第3番が選ばれたのが嬉しい。装飾音をことさら強調せず、しかし確かな意義を持って明確に刻み込んでいくピアニズムが聴きものだ。ピエルネでは、音階に宿る鮮やかな生気に注目したい。グリーグの曲は抒情小曲集の最後の作品。ここでは少し枯淡を感じさせる客観性がある。
 サティ、セヴラック、ドビュッシーと言った作曲家の作品は、それこそチッコリーニが何度も弾いてきたもの。貫禄を感じさせる輝かしい響き。作品と演奏者の間に横たわるゆるぎない信頼関係を思わせる。特にセヴラックの曲からは、地に根付いたような力強い響きが伝わってきて感動的だ。マスネの作品はぜひ聴いていただきたい。なんとも美しい香気に満ちた名品だ。この演奏を聴いて、マスネにこのような素晴らしい作品があったのだ、ということを知る人も大いに違いない。
 シベリウスが自ら管弦楽曲を編曲した「悲しきワルツ」は、録音機会の少ない曲なので、当盤で聴けるのは嬉しい。重い楽想を、しっかりとした構築性を伴いながら奏でたチッコリーニの演奏は、まさに名演といっていいだろう。ブラームスの書いた雅やかなワルツを経て、タイユフェールで冒頭と同様にさり気なく全曲を閉じる演出も洒落ている。まさに大家チッコリーニの貫禄の至芸を聴く一枚。じっくりと拝聴させていただきました。

ALEXIS WEISSENBERG / DEUTSCHE GRAMMOPHON RECORDINGS
p: ワイセンベルク

レビュー日:2016.7.30
★★★★★  ワイセンベルクがグラモフォンに遺した名録音4点
 近年亡くなったブルガリアの名ピアニスト、アレクシス・ワイセンベルク(Alexis Weissenberg 1929-2012)が、ドイツ・グラモフォン・レーベルに録音した4枚の独奏曲アルバムを、一つにまとめたBox-set。その内容は以下の通り。
【CD1】 1987年録音
バッハ(Johann Sebastian Bach 1685-1750)
1) パルティータ 第6番 ホ短調 BWV.830
2) イタリア協奏曲 ヘ長調 BWV.971
3) パルティータ第4番ニ長調 BWV.828
【CD2】 1985年録音
D.スカルラッティ(Domenico Scarlatti 1685-1757)
1) ソナタ ト短調 K.450(L338)
2) ソナタ ホ長調 K.531 (L430)
3) ソナタ 嬰ハ短調 K.247 (L256)
4) ソナタ イ短調 K.109 (L138)
5) ソナタ ヘ長調 K.107 (L474)
6) ソナタ ハ長調 K.132 (L457)
7) ソナタ 変ホ長調 K.193 (L142)
8) ソナタ ヘ短調 K.481 (L187)
9) ソナタ ヘ短調 K.184 (L189)
10) ソナタ ロ短調 K.87 (L33)
11) ソナタ ホ短調 K.233 (L467)
12) ソナタ 変ロ長調 K.544 (L497)
13) ソナタ ト長調 K.13 (L486)
14) ソナタ ホ長調 K.20 (L375)
15) ソナタ ト短調 K.8 (L488)
【CD3】 1985年録音
ドビュッシー (Claude Debussy 1862-1918)
1) 版画(第1曲「塔」 第2曲「グラナダの夕暮れ」 第3曲「雨の庭」)
2) 練習曲集 第2巻 から 第5曲「組み合わされたアルペッジョ」
3) ベルガマスク組曲
4) 子供の領分
5) 前奏曲集 第1巻 から 第8曲「亜麻色の髪の乙女」
6) 喜びの島
7) レントより遅く
【CD4】 1987年、88年録音
ラフマニノフ(Sergei Rachmaninov 1873-1943)
1) ピアノ・ソナタ 第1番 ニ短調 op.28
2) ピアノ・ソナタ 第2番 変ロ短調 op.36(改訂版)
 いずれも、このピアニストがもっとも充実した活動をこなしていた時期のものであり、内容豊かな演奏である。これらのアルバムを1枚ももっていない人には、是非ともオススメしたいアルバムだし、1枚くらい重複していても、その1枚の演奏を気に入っているなら、迷わず「買い」で良いアイテムだと思う。
 私には、ワイセンベルクというピアニストにはちょっとしたトラウマがある。自分が音楽を聴き始めた頃、永年ピアノを習っている母が、「ワイセンベルクの演奏はガチャガチャして、ちっとも美しくない」とたびたび言っていたためである。それで、私もワイセンベルクというピアニストの演奏は、面白くないものなのだな、と思っていた。しかし、ある日訪問した母の実家にあったワインセンベルクのレコード、それはショパンのノクターン集だったのだけれど、これを聴いたところ、そのガラスのような硬質で透明なタッチが、実に印象深く、それがこのピアニストの演奏をもっと聴いてみたいと思うきっかけだった。
 ワイセンベルクの主な録音は、EMIからリリースされていて、私はいくつか聴くことになった。その結果、いいものもあったのだけれど、その一方でスポーティーに過ぎるように感じられるものや、(EMIの録音のせいもあるのだけれど)和音がダマになったような雑さを感じるものあった。そのような経緯もあって、あれから長い年月を経たけれど、私の中でこのピアニストの評価は、まだ固まっていない部分が多い。
 しかし、このグラモフォンに録音された4点はいずれも素晴らしいものだと思う。高品質な録音が、このピアニストの個性を、良いものとしてきちんと伝えていることも大きい。
 まずバッハが良い。パルティータの第6番は、速いテンポが主体だが、音楽の流れが滑らかで、肌理の細かなタッチが、瑞々しく輝いていて爽快だ。クーラントなど、本当にスピーディーなのだが、情感がきちんと表出している上に、無理な感じがせず、落ち着きを感じさせている。終曲のジーグで、ワイセンベルクはややトーンを落として、むしろ慎重な音楽になる。テンポは一様ではないが、そのざわめきが思わぬ風情を出していて、音楽的。イタリア協奏曲では恰幅のあるシンフォニックなサウンドを引き出していて、見事に聴かせてくれる。パルティータ第4番も鮮やかな快演で、舞踏的な緩急を踏まえながらも、絶対的なサウンドの美しさが曲のイメージを貫いていて、十分な滋味がありながら、躍動的な心地よさもある。
 ドビュッシーはスピードと質感で、ドイツ音楽さながらの重量感を感じさせる特徴的な響きがユニーク。その鮮烈な効果は「喜びの島」の爽快無比な演奏に特に集約的に表れている。ドイツ音楽とフランス音楽の双方を俯瞰的にとらえることができるワイセンベルクの文化的背景が、豪壮なドビュッシーを描き出した。
 ラフマニノフは、近年その評価が一気に高まったソナタ第1番をこの当時から録音していたという価値も含めて重視したいもの。演奏は、質実剛健といったところで、膂力と抒情が雄大なスケールで交錯する様は、時にラフマニノフの自作自演を彷彿とさせるほどだ。
 スカルラッティは、このピアニストのまっすぐで光沢のある音質が、この作曲家の作品と見事な相性の良さを示したもの。いずれも、ワイセンベルクの記録した見事な芸術として過不足ない出来栄えです。

YULIANNA AVDEEVA
p: アヴデーエワ

レビュー日:2016.7.23
★★★★☆  アヴデーエワの折り目正しいエレガントな演奏
 2010年のショパン・コンクールで、優勝したロシアのピアニスト、ユリアンナ・アヴデーエワ(Yulianna Avdeeva 1985-)は、1965年のアルゲリッチ(Martha Argerich 1941-)以来45年ぶりの女性優勝者としても話題になった。ただ、そのコンクールで審査員を務めたアルゲリッチが特に賛辞を送ったのは、第4位であったブルガリアのピアニスト、エフゲニ・ボジャノフ(Evgeni Bozhanov 1984-)である。
 その後、アヴデーエワの録音は、比較的慎重な感じで、少しずつリリースされてきている。当盤はミラーレ・レーベルからの2つ目の独奏曲集ということになる。その収録曲は以下の通り。
1) ショパン 幻想曲 ヘ短調 op.49
2) モーツァルト ピアノ・ソナタ 第6番 ニ長調 K.284
3) リスト 巡礼の年 第2年「イタリア」から、ソナタ風幻想曲「ダンテを読んで」
4) ヴェルディ(Giuseppe Verdi 1813-1901)/リスト編 歌劇「アイーダ」より「神前の踊りと終幕の二重唱」 S.436
 私は、前述のボジャノフの録音、そして、このアヴデーエワの録音も含めて、両者の入手可能なディスクをそれぞれ複数聴いてみたのだけれど、真逆と言っていいほど個性の異なる二人である。ボジャノフは自由奔放というか、情熱的熱血的なものを音楽に求め、ゴージャスな響きで、極上のデザートのような演奏を繰り広げる。その一方で、アヴデーエワはエレガントで折り目正しい、毎日の朝食のような必須さを感じさせる演奏、と言おうか。
 それは、このアルバムでも如実に表れる印象だ。アヴデーエワの演奏は、まずなにより「正しく」あろうとするものと感じられる。正しいというのは、音楽が理論的な整合性を持っていて、その進みに淀みがないことを言う。
 持っている音色は美しい。強烈なフォルテはほとんどないが、たとえばこのメロディの音量がどれだけで、スピードがこれだけであれば、こちらのメロディはそれを踏まえてこの音量とスピードに調整する、というのを、とても一生懸命に心がけていると感じられる。真摯でまじめ。かつ、音楽としてのカンタービレを自然に紡ぎだす情感も持っているから、実にマイナス点を見出しにくい演奏となっている。
 当盤に収録された4曲では、モーツァルトが素晴らしい。これは、アヴデーエワの特性とモーツァルトの楽曲の相性がことのほか良かったためである。豊かな音色、古典的均質性、しっかしりした構築性の上に紡がれるカンタービレ、そして、そこに適度な彩を添える音色。すべてがこの楽曲にふさわしい、一つの理想のように鳴り響くのである。
 その一方で、私にはショパンはちょっと物足りないところを感じた。確かにきれいに美しくまとまっているのだけれど、あまりにも上品過ぎる、というのだろうか。この作曲家の作品には、いくぶん土臭さというか、通俗性に繋がる成分がほしいと思うのだけれど、蒸留水のようにサラサラとし過ぎていて、掴みどころがない感じもしてしまう。表現としての洗練は極まっていると言っても良いものだが、以前聴いた24の前奏曲の時以上にその点に引っかかりが残るのは、曲の規模が違うこともあるだろう。
 リストの「ダンテを読んで」も、印象としては似通うのだけれど、楽曲のそのものが持つ効果からか、踏み込んだり、食い込んだりという表現が必然的に備わってくるから、こちらはショパンほどに物足りなさを感じはしなかった。率直に上手な演奏で感心した。また、ヴェルディの編曲ものでは、当盤に収録された4曲の中では、アヴデーエワの表現が特に積極的になっているところがあり、この演奏を聴いているときが、私にとって、もっともアヴデーエワの芸術性を感じられたところである。
 いずれも現代最高レベルの演奏であることは疑いないが、楽曲によっては、もう一つ心残りなところを感じさせるアルバムでもあった。

ドイツ・ロマンティック
p: シュタットフェルト

レビュー日:2017.2.13
★★★★★  「ロマンティック」に働きかけるシュタットフェルトの巧妙なアルバム
 ドイツのピアニスト、マルティン・シュタットフェルト(Martin Stadtfeld 1980-)は、デビュー作であるゴルドベルク変奏曲の録音以来、バッハ(Johann Sebastian Bach 1685-1750)の作品をその活動に中心に据えてきたのであるが、当盤は2010年に「ドイツ・ロマンティック」と題して、ロマン派のピアノ独奏曲を集めたプログラムによっている。まずは、収録曲をまとめると、以下の通りである。
1) ワーグナー(Richard Wagner 1813-1883) アルバムの一葉 変ホ長調
2) シューマン(Robert Schumann 1810-1856) 森の情景 op.82
3) シューマン/シュタットフェルト編 歌曲集「リーダークライス」op.39から第5曲「月の夜」
4) ワーグナー/リスト(Franz Liszt 1811-1886)編 「タンホイザー」序曲
5) ブラームス(Johannes Brahms 1833-1897) 間奏曲 イ長調 op.118-2
6) ブラームス 間奏曲 嬰ハ短調 op.117-3
7) ブラームス 間奏曲 ハ長調 op.119-3
8) リスト バッハのカンタータ「泣き、嘆き、憂い、おののき」BWV.12のコンティヌオによる変奏曲 S.180
9) ワーグナー/リスト編 イゾルデの愛の死
 「ロマンティック」とは何か?とはなかなか興味深いテーマである。芸術におけるロマン派は、古典派に続く時代分類であり、その時代に、作曲家たちは、前の時代に築かれた音楽構成のメカニズムから、より情感を持ったメロディ、高揚感に溢れる展開、そしていくぶん構成から自由な作風により音楽を書いた。そこで書かれる音楽は、前時代のそれより、作曲者の主観的で主情的なものが、抽象化の程度を弱めて、より率直な形であらわれたものであると考えられる。
 そのような音楽、特に主題には、甘美性がまとうことが多く、人はここに愛情の発露のようなものを感じる。その感情の動きもまた、ロマンティックという形容に内包されるだろう。また、その一方で、作曲者たちの愛情は自然愛にも多く割かれる。そこでは、描写的なものが、やはりより直截で平明な情緒の動きとしてもたらされる。描写の対象は、夜であったり、森であったりする。そのようにロマンティックとは、愛情や情緒に働きかける物語性と、その物語を生み出しそうな、風景や自然条件の描写性を示す言葉と考えられる。
 だが、とここで考える。では、それ以前の音楽はそうでなかったのか。もちろん、そんなことはない。ただ、「表現の仕方」が違うだけで、そのような「要素」が皆無なわけはないのである。そのような人類が普遍的に感じる感情、あるいは美しいと思う情景が底辺にあるからこそ、優れた音楽は、時代と国境を越えて、多くの人に愛されるのである。
 シュタットフェルトが描くロマンは、その連続性を見据えたものに思える。選曲が面白いという以上に、音楽によって、何らかの世界観が満たす、例えばバッハの音楽を聴けば、言語圏においても、文化圏においても、まったく異なった環境で生まれ育った私にも、そこに宗教的なものと世俗的なものの高度な交錯を感じ取ることができる。これが音楽の凄味である。そして、シュタットフェルトがここで奏でる音楽たちも、そのような作用性の濃厚な性格を持っているものに他ならないだろう。
 シュタットフェルトはは、やや乾いた、しかし情緒をしっかりと紡いだタッチでこれらの曲を奏でる。それを聴いていると、「ロマンティック」という言葉がもつ、一種普遍的な人の心へ働きかける力の源を感じるような、不思議な感触を得ることが出来る。
 ワーグナーの「アルバムの一葉」は、聴くことの少ない作品だが、その作品はロマン主義のスピリットを存分に感じさせる。シューマンで森、そして夜の描写を得る。ワーグナーの編曲ものでは、まさに物語としてのドラマ性が示される。ブラームスで行間で語るような味わいを示し、リストによって、バッハとの橋掛けが行われる。

ROMANCE
p: ラン・ラン

レビュー日:2017.10.27
★★★★★  選曲・曲順・演奏コンセプトにラン・ランならではの才覚を感じる甘美な名曲集
 ラン・ラン(Lang Lang 1982-)による「ロマンス」と題されたピアノ名曲集。収録曲は以下の通り。
1) リスト(Franz Liszt 1881-1886) 愛の夢 第3番 S.541-3
2) J.S.バッハ(Johann Sebastian Bach 1685-1750) G線上のアリア(ピアノ編曲版)
3) ショパン(Frederic Chopin 1810-1849) 夜想曲 第20番 嬰ハ短調(遺作)
4) チャイコフスキー(Pyotr Tchaikovsky 1840-1893) 「くるみ割り人形」より「金平糖の精の踊り」
5) ショパン 練習曲 変イ長調 op.25-1 「エオリアン・ハープ」
6) ハンス・ジマー(Hans Zimmer 1957-) 映画「グラディエーター」より「グラディエーター・ラプソディー」
7) J.S.バッハ 主よ、人の望みの喜びよ
8) チャイコフスキー 「四季」より 6月「舟歌」
9) ショパン 練習曲 ホ短調 op.25-5
10) シューベルト(Franz Schubert 1797-1828)/リスト編 アヴェ・マリア
11) ショパン 練習曲 ホ長調 op.10-3「別れの曲」 (アレンジ版)
12) リスト ロマンス S.169
13) ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven 1770-1827) ピアノ・ソナタ 第3番 ハ長調 op.2 より 第2楽章
14) ショパン アンダンテ・スピアナートと華麗な大ポロネーズ op.22より「アンダンテ・スピアナート」
15) アン・ダドリー(Anne Dudley 1956-) ドラマ「風の勇士 ポルダーク」より「ポルダーク・プレリュード」
16) リスト コンソレーション 第3番 S.172
17) チャイコフスキー 「四季」より1月「炉端にて」
 2010年から16年にかけて録音された音源を集めたもの。
 そのコンセプトは「ロマンス」というタイトルからも分かる通り、甘美な楽曲、美しい旋律を存分に楽しんでもらおう、というもの。ラン・ランのエンターテーメント精神が発揮されており、その選曲・曲順もなかなか面白い。ショパンの「別れの曲」では激しい中間部を除き、再現部以降のみで再構成された形になっているし、「アンダンテ・スピアナートと華麗な大ポロネーズ」も前半のうっとりする部分を抽出している。ベートーヴェンのソナタ第3番の第2楽章という発想は、私には「意表を突く」ものだが、なるほど、このようなラインナップで聴くと、驚くほど「不自然さがない」印象だ。
 もちろん、ラン・ランのアプローチは、そのコンセプトに沿ったものになっていて、例えばベートーヴェンの同じ楽章を本来あるソナタの一部として弾く時は、また違ったものとなる可能性は多いにあるだろう。とにかく、全体的に安らかで、甘美で、夢想的な表現が繰り広げられる。そうであっても、むせ返るような濃厚な甘美さではなく、どこか凛とした響きを共存させ、聴き飽きないような配慮が感じられるところは、さすがにラン・ランといったところか。
 また、映画音楽界で高名なハンス・ジマー、そしてアン・ダドリーの作品を加えているところも、このピアニストならではの選曲だろうか。いや、こういう試みは、最近では結構多いのかもしれないが、しかし、ラン・ランの手で弾かれることによって、これらの楽曲の旋律的な魅力が、一層引き立っているように感じられるのは、さすがであるし、前後の曲順からの流れの良さも感心させられるところである。
 これら2曲の他では、バッハの「G線上のアリア」の厳かさと甘美さの入り混じったラン・ランならではの装飾性を感じさせる表現、そして標題曲とも言えるリストの「ロマンス」の聴き手を魅了してやまない響きなど、特に印象に残ったところである。
 クラシック音楽を永年聴いていると、どうもこういう「名曲集」的なものから距離を置きたくなるのだが、「ラン・ランが弾いた」となると思わず「ほう、どれどれ」となってしまう。そんな私を納得させてくれた甘美な一枚でした。

カロル・A・ペンソン編曲作品集
p: カツァリス

レビュー日:2018.3.9
★★★★★  趣味、究めるべし。物理学者ペンソンによる見事な編曲集。
 世の中、いろいろな形で、何かを究める人がいる。時には、趣味の領域で、本職を凌ぐことも。クラシック音楽の世界で言えば、例えば、作曲家として名を成したボロディン(Alexander Borodin 1833-1887)。彼の本業は医者である。しかも、化学、医学の研究でも大きな成果を残し、有機合成法の一つ「ボロディン反応」を開発した。そんな彼が趣味で行った作曲は、いくつか名作と呼ばれるものを後世に残すに至った。
 ここで、フランスのピアニスト、シプリアン・カツァリス(Cyprien Katsaris 1951-)が取り上げているのは、物理学者カロル・A・ペンソン(Karol Andrzej Penson 1946-)が、既存の楽曲を「ピアノ編曲」した作品集である。ペンソンの手により編曲された以下の楽曲が収録されている。
1) バッハ(Johann Sebastian Bach 1685-1750) ヨハネ受難曲BWV245より 第39曲 聖なる亡きがらよ、安らかに憩いたまえ
2) シューベルト(Franz Schubert 1797-1828) シルヴィアに D.891
3) シューマン(Robert Schumann 1810-1856) 「リーダークライス」op.39より 第5曲 月夜
4) シューマン 「(ハイネの詩による)リーダークライス」op.24より 第7曲 山や城が見下ろしている
5) ブラームス(Johannes Brahms 1833-1897) 「5つの歌曲」op.105より 第1曲 メロディのように
6) ワーグナー(Richard Wagner 1813-1883) ヴェーゼンドンク歌曲集より 第1曲 天使
7) R.シュトラウス(Richard Strauss 1864-1949) 「8つの歌」op.10より 第1曲 献身
8) R.シュトラウス 「8つの歌」op.10より 第8曲 万霊節
9) R.シュトラウス 「5つの歌」op.15より 第5曲 帰郷
10) グリーグ(Edvard Grieg 1843-1907) ヴァイオリン・ソナタ 第2番 op.13より第2楽章 Allegretto tranquillo
11) カルウォヴィチ(Mieczyslaw Karlowicz 1876-1909) 「6つの歌」op.1より 第1曲 悲しむ少女に
12) カルウォヴィチ 「6つの歌」op.1より 第3曲 雪の中で
13) フリーマン(Alex Freeman 1972-) 素敵な瞳
14) ノスコフスキ(Zygmunt Noskowski 1846-1909) 悲哀 op.62-1
15) キュイ(Cesarius Cui 1835-1918) 「7つの歌曲」op.33より 第1曲 夜鳴きうぐいす
16) グラズノフ(Aleksandr Glazunov 1865-1936) 瞑想曲 op.32
17) シャポーリン(Yuri Shaporin 1887-1966) 孤独な心の中で
18) シャポーリン あなたの気怠い南方の声
19) ビゼー(Georges Bizet 1838-1875) 「20の歌」op.21より 第4曲 アラビアの女主人の別れ
20) フォーレ(Gabriel Faure 1845-1924) 「3つの歌」op.18より 第1曲 ネル
21) モンポウ(Frederic Mompou 1893-1987) 君の上にはただ花ばかり
22) タレガ(Francisco Tarrega 1852-1909) アルハンブラの思い出
23) バリオス(Agustin Barrios 1885-1944) 郷愁のショーロ
 2008年から17年にかけて録音された音源を集めた一枚。
 ペンソンの編曲活動を知ったカツァリスが、その作品を手掛けるようになってすでに相応の年月が流れているわけである。聞くところでは、ペンソンは、自分の作品を大ピアニストが取り上げられることを面映ゆく思っていたようなのであるが、誰よりもカツァリスがこれらの作品に芸術的価値を認め、何度も本人に働きかけ、かつ事あるごとに紹介を欠かさなかったわけで、それがこのような集約されたアルバムとなるに至ったのである。
 そもそもカツァリスというピアニストが「編曲もの」の解釈者として第一級の名を成した人である。また自身の編曲活動も盛んで、つい最近のテオドラキス(Mikis Theodorakis 1925-)作品を編曲したアルバムには、私も度肝を抜かれたばかり。そのようなわけで、このアルバムも興味深く拝聴させていただいた。
 とても面白かった。一言でいうと、実にこなれた完成度の高い編曲である。いずれもピアノ独奏作品として高い完成度を示している。それだけでなく、高度な技巧を要求する内容であり、カツァリスのような大家が手掛けるのにふさわしい作品群だということが、よくわかった。
 シューマンの2曲の美しく麗しいこと。またR.シュトラウスの「献身」は、ごく短い曲だけど、私はこの曲が好きで昔何度も聴いていたので、ここでそのメロディに違う形で触れることが出来たのは喜びであった。変わっているのはグリーグのヴァイオリン・ソナタ第2番の第2楽章で、このような楽曲を「ピアノ独奏曲に編曲しよう」と思い立つこと自体が、実にユニーク。そして、編曲された楽曲は、それこそグリーグの抒情小品集の1曲であるかのように可憐な姿を見せるのである。カルウォヴィチからシャポーリンまでは、一般にあまりなじみの少ない楽曲と思われる。編曲に妙としては、原曲を知らないので、正直よくわからないところもあるが、いずれもきれいにまとまっている。ビゼー、フォーレ、モンポウと魅力的な旋律が続くが、モンポウの楽曲に関しては、最近ヴォロドス(Arcadi Volodos 1972-)によるピアノ独奏編曲版もリリースされているので、聴き比べも楽しいだろう。ここでは、ヴォロドスの方が透明な詩情をすっきり伝えているかもしれないが、ペンソンの編曲にある厚みも魅力的だ。
 技巧という面で、だれもがあっと驚くのがタレガの「アルハンブラの思い出」だろう。ギターで弾いてこその楽曲であるが、カツァリスの細やかな同音連打のニュアンスの美しいこと。しかも、その乾いた音色がまるでギターを弾いているかのような響きと情感を醸し出す。編曲好きにはたまらない一品に違いない。
 趣味という領域は、あるいは趣味だからこそ、その人の持つ感性や感覚の深みが反映されるのかもしれない。そのようにも感じ入った見事な一枚でした。

PRIMAKOV IN CONCERT VOL.2
p: プリマコフ

レビュー日:2019.11.15
★★★★☆  ユニークな選曲。プリマコフのライヴ音源を集めて作ったアルバム
 ロシアのピアニスト、ワシリー・プリマコフ(Vassily Primakov 1979-)のライヴ音源を集めて一つのアルバムとしたディスク。収録曲は、以下の通り。
メンデルスゾーン(Felix Mendelssohn 1809-1847) 無言歌 第2集 op.30
 1) 瞑想
 2) 安らぎもなく
 3) 慰め
 4) さすらい人
 5) 小川
 6) ヴェネツィアの舟歌 第2
7-12)  J.S.バッハ(Johann Sebastian Bach 1685-1750) フランス組曲 第2番 ハ短調 BWV.813
フィリップ・グラス(Philip Glass 1937-)/プリマコフ選 「めぐりあう時間たち」組曲
 13) ポエット・アクツ(The Poet Acts)
 14) モーニング・パッセージ(Morning Passages)
 15) ティアリング・ハーセルフ・アウェイ(Tearing Herself Away)
 16) めぐりあう時間たち(The Hours)
17-20)  ドビュッシー(Claude Debussy 1862-1918) ベルガマスク組曲
 録音は、メンデルスゾーンが2005年、バッハが2006年、グラスとドビュッシーが2008年。
 グラスの楽曲は、スティーブン・ダルドリー(Stephen Daldry 1961-)監督の映画「めぐりあう時間たち」(2002年)のために書かれた映画音楽を、マイケル・リースマン(Michael Riesman 1943-)とニコ・ミューリー(Nico Muhly 1981-)がピアノ編曲したもの。プリマコフはそのうち4曲を抜粋した上で、軽微な改変を加えて、連続的に奏でている。ちなみに、ピアノ編曲は他にもあって、リシッツァ(Valentina Lisitsa 1973-)はリーズマン(Michael Riesman)が編曲した当該楽曲を録音している。
 全般に暖かなロマンティズムが息づいていて、聴き易い仕上がり。バッハ、グラスと続く当たり、他では見ない構成なのだが、聴いていてさほど不自然な感じは受けない。
 収録曲中で、私が良いと思ったのはメンデルスゾーンである。ただ、私の場合、この第2集の曲たちは、かつて自分で弾いたことのある曲たちなので、その思い入れもあるかもしれない。プリマコフは、楽曲ごとに、メロディーを活かしたロマン性を施し、甘美でありながらスタイリッシュな表現でアプローチ。特に「さすらい人」の連音から湧き上がる情緒や、「ヴェネツィアの舟歌 第2」のメランコリックな味わいが美しい。バレンボイム(Daniel Barenboim 1942-)やプロッセダ(Roberto Prosseda 1975-)の演奏が、いま一つ簡潔に過ぎるように思える人には、こちらをオススメしたい。
 バッハでは、プリマコフはロマン性と造形性のバランスを考慮したアプローチを試みていると思う。低音を強めに打つのが一つの特徴だと思うが、個人的には、それであれば、もっとロマン性に傾いて、自分のやりたいもの、言いたいことを前面に押し出すようなスタイルでもいいように思う。悪くはないのだけれど、低音の主張の割には、全体像に関しては、ちょっとお行儀よくしよう、という思いが強過ぎたような、アンバランスな感じがする。ただ、終曲のジーグは、解放感があって、清々しいほどの聴き味だ。
 グラスの作品をクラシック・ピアニストがコンサートで弾くというのは、それなりの思い入れが溢れてのことであろう。プリマコフはそれに相応しい重厚な音色でこの作品を描きあげている。個人的には、「ポエット・アクツ」など、編曲も含めてリシッツァの方が健やかな情感がストレートに出ていて好ましいと考えるが、プリマコフの重量感を感じさせるピアニズムも、グラスの作品の解釈の幅を広げるものであり、一つの作品の魅力の提示方法になっていると感じた。
 最後のドビュッシーも、メンデルスゾーンとともに、なかなか良いと思う。歌心に満ちた明るい響きの演奏で、特に粘り気のあるプレリュードが特徴的だ。ルバートの効果が瑞々しく、音楽の流れを損なわない範囲で彩り、きれいになっている。メヌエット、月の光も「歌」のある解釈で、品も良い。パスピエのしまった運動美もふさわしい。

INGOLF WUNDER 300
p: ヴンダー

レビュー日:2019.12.2
★★★★★  ヴンダーの安定した技巧、ウェルバランスな響きで聴くオムニバス・アルバム
 2010年、ショパン国際ピアノ・コンクールで第2位となったオーストリアのピアニスト、インゴルフ・ヴンダー(Ingolf Wunder 1985-)によるピアノ・ソロアルバム。ちなみにその年の優勝はロシアのアヴデーエワ(Yulianna Avdeeva 1985-)。
 本アルバムは「300」と題して、作曲年に最大約300年の開きのあるオムニバス・アルバムの体裁。収録曲は以下の通り。
1) スカルラッティ(Domenico Scarlatti 1685-1757) ソナタ ロ短調 L33 (K.87)
2) モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791) ピアノ・ソナタ 第13番 変ロ長調 K.333
3) ショパン(Frederic Chopin 1810-1849) 子守歌 変ニ長調 op.57
4) コチャルスキ(Raoul Koczalski 1884-1948) 幻想的ワルツ op.49
5) リスト(Franz Liszt 1811-1886) 死のチャールダーシュ
6) ドビュッシー(Claude Debussy 1862-1918) 月の光
7) リムスキー=コルサコフ(Nikolai Rimsky-Korsakov 1844-1908) 熊蜂の飛行
8) ラフマニノフ(Sergei Rachmaninov 1873-1943) 前奏曲 ト短調 op.23-5
9) スクリャービン(Alexandre Scriabine 1872-1915) 練習曲 嬰ニ短調 op.8-12 「悲愴」
10) モシュコフスキ(Moritz Moszkowski 1854-1925) 火花 op.36-6
11) ホロヴィッツ(Vladimir Horowitz 1903-1989) 変わり者の踊り
12) モーツァルト/ヴォロドス(Arkadij Volodos 1972-)編 トルコ行進曲
13) モリコーネ(Ennio Morricone 1928-) 愛を奏でて(映画「海の上のピアニスト」から)
14) ジョン・ウィリアムズ(John Williams 1932-)/ヴンダー、ロンベルク(Martin Romberg 1978-)編 スター・ウォーズ
15) リャードフ(Anatoly Lyadov 1855-1914) 音楽玉手箱 op.32
 2012年の録音。
 いかにも守備範囲の広いピアニストという印象のラインナップであるが、当盤にはホロヴィッツへのオマージュという意図もあるとのことで、確かにホロヴィッツがレパートリーとしていた楽曲たちがあちこちに顔を出している。
 全体の印象をまず書いてしまうと、とにかくソツがない。良くないものも、しっくりこないものもなく、この種のアルバムとして、かなり高い完成度を示すものと言って間違いないだろう。ヴンダーの演奏における技術的な安定感は当然なのかもしれないが、加えて瑞々しい濁りのないタッチ、かつ暖かな配慮を感じさせる音楽性が全編に満ちていて、過不足ないバランスのとれた好演が続く。
 印象に強く残ったものを書くと、まずはモーツァルトの名曲をヴォロドスが編曲した「トルコ行進曲」。編曲に込められたヴィルトゥオジティの美学を鮮やかに消化したような胸のすく快演となっている。リストの「死のチャールダーシュ」では、重量感とスピード感の双方に不満のない鮮やかなピアニズムが展開する。
 スクリャービンの練習曲「悲愴」は、健やかな流れの中で、劇性が高まっていく。後半につれてギアを上げていく過程がエネルギッシュで、気持ち良い。ドビュッシーの「月の光」は、このピアニストらしい滑らかな進行が魅力だろう。スカルラッティ、モーツァルトといった古典では、現代ピアノの瑞々しさを前面に出した色彩感が好ましい。
 珍しいものとしては、映画音楽「スター・ウォーズ」のピアノ版。ピアノで弾くと、こんな感じになるんだ、といった塩梅で、ヴンダーのサービス精神を堪能させてくれる。
 このような曲集なので、アーティストの解釈云々というところまで、なかなか言及できないところはあるものの、いずれも過不足ない良演揃いであり、なにか欠点として指摘すべきところは特にない。楽しく聴けるアルバムです。

ヴェルサイユ
p: タロー テイラー S: ドゥヴィエル

レビュー日:2019.12.10
★★★★★  タローならではの企画。ピアノで楽しむ17,8世紀のクラウザン作品集
 アレクサンドル・タロー(Alexandre Tharaud 1968-)による「ヴェルサイユ」と題して17~18世紀のフランスにおけるクラウザンのための楽曲を集め、ピアノで奏したアルバム。収録曲は以下の通り。
1) ラモー(Jean-Philippe Rameau 1683-1764) クラヴサン曲集 第1巻 から 「プレリュード」
2) ラモー クラヴサン曲集 組曲ホ短調 から 「鳥のさえずり」
3) ド・ヴィゼー(Robert De Vise 1650-1725) ギターのための組曲 第9番 ニ短調 から 「サラバンド」
4) ラモー クラヴサン曲集 組曲ホ短調 から 「タンブーラン」
5) ロワイエ(Pancrace Royer 1703-1755) クラヴサン曲集 第1巻 から 「愛らしい」
6) ラモー 新しいクラヴサン曲集 から 「ガヴォットとドゥーブル」
7) ダングルベール(Jean-Henry d'Anglebert 1629-1691) リュリの「ヴィーナスの誕生」によるサラバンド 「神の世界」
8) ロワイエ クラヴサン曲集 第1巻 から 「スキタイ人の行進」
9) ラモー 「優雅なインドの国々」 から 「来て 結婚の神よ」
10) ロワイエ クラヴサン曲集 第1巻 から 「タンブーラン I&II」
11) クープラン(Francois Couperin 1668-1733) クラヴサン曲集 第25オルドル から 「さまよう亡霊」
12) デュフリ(Jacques Duphly 1715-1789) クラヴサン曲集 第4巻 から 「ポトゥアン」
13) ラモー 新しいクラヴサン曲集 から 「未開人」 ; レオン・ロクエス編(Leon Roques 1839-1923)4手版
14) ダングルベール クラヴサン小品集 から 「シャコンヌ」 ハ長調
15) ダングルベール リュリの「カドミュスとエルミオーヌ」からの序曲
16) クープラン クラヴサン曲集 第25オルドル から 「パッサカーユ」
17) ダングルベール クラヴサン小品集 から 「オルガンのためのフーガ・グラーヴェ」
18) デュフリ クラヴサン曲集 第3巻 から 「ラ・ド・ブロンブル」
19) リュリ(Jean-Baptiste Lully 1632-1687) 「町人貴族」 から 「トルコ人の儀式のための行進曲」 ; タロー編ピアノ版
20) バルバトル(Claude Balbastre 1724-1799) クラヴサン曲集 第1巻 から 「スザンヌ」
21) ダングルベール クラヴサン小品集 「スペインのフォリアによる変奏曲」
 2019年の録音。9)ではサビーヌ・ドゥヴィエル(Sabine Devieilhe 1985-)のソプラノが、13)ではジュスタン・テイラー(Justin Taylor)のピアノが加わる。タローは2006年録音のクープランの作品集で11)を録音していた。また、13)の独奏版は、2001年録音のラモーの作品集で収録済。
 上述の通り、すでにクープラン、ラモーの作品集で高い成果を挙げたタローならではの企画であり、当盤もピアノという楽器の特性を活かした華やかな仕上がりとなっている。クラウザンとピアノの違いは、音質、音価、音量など様々にあるので、ピアノで弾くということは、楽曲の在り方を「ピアノ的」なものに変質させながら弾く、ということになるのだけれど、タローはこれを鮮やかな手腕で成し遂げている。また、「本来はクラウザン曲である」ということを消極的に捉えることなく、自身の表現者としてのステイタスを十二分に織り込んだ芸術として、聴き手に訴えかける大きな力を宿している。
 ピアノで弾くにあたって、タローは明瞭性、装飾性について、研究し、披露している。クラウザンならではの「弦を弾はじく」音による細かさを前提とした装飾は、その発色性と音量の幅を広げて表現されるが、それに合わせて楽曲全体のスケール感が十分に存在する間合いやダイナミクスが用意されていて、結果としてとても自然で美しく響くものとなっている。
 ロワイエの「スキタイ人の行進」、デュフリの「ポトゥアン」といった楽曲で、その一回りスケールを広げたような伸びやかさのある解釈がことに魅力的だ。クープランの「さまよう亡霊」の素晴らしさは、以前の録音の通り。ラモーの「ガヴォットとドゥーブル」では、この作曲家の論理的音楽志向を芸術的に咀嚼した表現として提示される。
 タローのアルバムのプログラムにはしばしば楽しまされるが、当盤でも中央部に典雅なソプラノ独唱を添え、末尾に壮大にして壮麗なダングルベールのフォリアの主題による変奏曲を配するなど、選曲の妙で飽きさせない内容となっている。

DANIEL CIOBANU
p: チョバヌ

レビュー日:2020.12.25
★★★★★  ルーマニアのピアニスト、ダニエル・チョバヌのデビュー盤です
 2017年に開催されたアルトゥール・ルービンシュタイン国際コンクールで第2位となって注目されたルーマニアのピアニスト、ダニエル・チョバヌ(Daniel Ciobanu 1992-)のデビューアルバム。2020年にライプツィヒのゲヴァントハウスでセッション録音されたもので、下記の楽曲が収録されている。
1-3) プロコフィエフ(Sergei Prokofiev 1891-1953) ピアノ・ソナタ 第7番 変ロ長調 op.83 「戦争ソナタ」
4) エネスコ(Georges Enesco 1881-1955) 組曲 第3番 op.18 より 第7曲 「夜の鐘」
 ドビュッシー(Claude Debussy 1862-1918) 前奏曲集 第1巻 より
5) 第2番 「ヴェール(帆)」
6) 第5番 「アナカプリの丘」
8) 第6番 「雪の上の足跡」
9) 第8番 「亜麻色の髪の乙女」
10) 第9番 「とだえたセレナード」
11) 第12番 「ミンストレル」
12) リスト(Franz Liszt 1811-1886) 巡礼の年 第2年「イタリア」 より ソナタ風幻想曲「ダンテを読んで」
 プログラムは、コンクール出身ピアニストらしいとも言えるが、かなり性格的に異なるものが集まっている印象もある。これらを1枚のアルバムでうまくまとめ上げることが出来るのだろうか、という私の聴く前の疑問は杞憂であった。チョバヌというピアニストの力を刻印したアルバムである。
 チョバヌは、もちろん相当に高い技巧をすでに持っているが、ペダルの使用方法も加わって、音色的にも多彩さを持ち合わせている。また、特有の音の重さ、それでいて美しく響きの割れない強さを併せ持っていて、それらを背景に堂々たるアプローチで、これらの楽曲に自分流の解釈を施している。とても「聴きで」のあるアルバムになっている。
 プロコフィエフのピアノ・ソナタは、全体にややゆったりめのペースをとる。ピアノの音には独特の重さがあり、重力による打鍵の鋭さを感じさせる一方で、リズムへも鋭い適応があるほか、スナップの力を駆使した打楽器的な音色を織り交ぜ、とても面白い。また、演奏における音色的な効果だけでなく、この楽曲の第2楽章では、憂いに溢れた情感を導く感応性も示してくれる。個人的に、この曲の場合、両端楽章より、この第2楽章に演奏家の個性が現れると思っており、この第2楽章をあっさりと弾き飛ばす演奏には概して面白くないものが多いのだが、チョバヌの演奏には、そのような心配はなく、濃厚さに満ちている。第3楽章は弾き飛ばさず、しかし鋭く重く、深いものを描いた感がある。
 エネスコの作品は「お国モノ」という事になるが、とても面白い楽曲だ。明確にカリヨンの音色を模倣した音色面での表現に特化した楽曲であるが、これはチョバヌにとって、自身の特徴を存分に発揮できるところであろう。背景にただよう静謐さも見事なもので、ミステリアスであり、それでいて叙情もある秀逸な表現として、完成されている。
 ドビュッシーの前奏曲第1巻からは6曲が選ばれている。ここでもチョバヌは巧妙なペダリングによる音色と、美しさと重さを兼ね備えたソノリティで、ドビュッシーの世界を、自己の芸術の中で、再現しており、聴かせる。全般にややゆったりめのテンポではあるが、「とだえたセレナード」や「ミンストレル」では、運動的なノリの良さも存分に発揮していて、どの曲も同じとはならない。音色も鋭さだけでなく、時にあいまいな語り口をまじえて、幻想的な雰囲気が良く表現されている。
 最後に収録されているリストの「ダンテを読んで」は、いかにもこの楽曲にふさわしい気風の大きな演奏であり、連打音の劇性、静と動の対比が鮮やかに描き出される。チョバヌの演奏には、すでに完成度の高い芸術性が備わっていて、頼もしい。

TRILOGY
p: オラフソン

レビュー日:2021.4.23
★★★★★  現代を代表するアーティスト、オラフソンによる3つのアルバムをBOX化したもの
 私が、アイスランドのピアニスト、ヴィキングル・オラフソン(Vikingur Olafsson 1984-)の録音を聴いたのは、アシュケナージ(Vladimir Ashkenazy 1937-)指揮デンマーク放送交響楽団と協演したチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番の2015年のライヴ録音((DIRIGENT DIR-1764)である。アイスランド籍をもつ巨匠アシュケナージが、国内の若き才能を世に伝えた貴重な録音で、その瑞々しい感覚美に溢れた演奏は、たちまち私を魅了した。そして、その翌年には、メジャー・レーベルであるドイツ・グラモフォンがオラフソンと契約。当盤は「三部作」と題し、投稿日現在まで、同レーベルから発売されたオラフソンの下記の3つのアルバムを3枚組のbox-setとしてまとめたもの。
【CD1】 フィリップ・グラス(Philip Glass 1937-)ピアノ作品集  2016年録音
1) Glassworksよりオープニング
2) エチュード 第9番
3) エチュード 第2番
4) エチュード 第6番
5) エチュード 第5番
6) エチュード 第14番
7) エチュード 第2番 ;クリスチャン・バズーラ(Christian Badzura)による弦楽四重奏を含む再構成版
8) エチュード 第13番
9) エチュード 第15番
10) エチュード 第3番
11) エチュード 第18番
12) エチュード 第20番
13) Glassworksよりオープニング ;クリスチャン・バズーラによる弦楽四重奏を含む再構成版
【CD2】 バッハ(Johann Sebastian Bach 1685-1750)
1) 前奏曲とフゲッタ ト長調 BWV902 より 前奏曲)
2) コラール BWV734「今ぞ喜べ、汝らキリストの徒よ」 ケンプ(Wilhelm Kempff 1895-1991)編
3) 平均律クラヴィーア曲集 第1巻 から 第10番 ホ短調 BWV855
4) オルガン・ソナタ 第4番 BWV528 から 第2楽章 ストラダル(August Stradal 1860-1930)編
5) 平均律クラヴィーア曲集 第1巻 から 第5番 ニ長調 BWV850
6) いざ来たれ、異教徒の救い主よ BWV659 ブゾーニ(Ferruccio Busoni 1866-1924)編
7) 平均律クラヴィーア曲集 第1巻 から 第2番 ハ短調 BWV.847
8) 罪に手向かうべし BWV54 オラフソン編
9) イタリア風のアリアと変奏 イ短調 BWV989
10) 2声のインヴェンション 第12番 イ長調 BWV783
11) 3声のシンフォニア 第12番 イ長調 BWV.798
12) 無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ 第3番 ホ長調 BWV1006 から ガヴォット ラフマニノフ(Sergei Rachmaninov 1873-1943)編
13) 平均律クラヴィーア曲集 第1巻 から 第10番 BWV855 の前奏曲 シロティ(Alexander Ziloti 1863-1945)編
14) 3声のシンフォニア 第15番 ロ短調 BWV801
15) 2声のインヴェンション 第15番 ロ短調 BWV786
16) 協奏曲 ニ短調 BWV974 原曲:マルチェッロ(Benedetto Marcello 1686-1739)
17) 主イエス・キリスト、われ汝を呼ぶ BWV639 ブゾーニ編
18) 幻想曲とフーガ イ短調 BWV904
【CD3】 ドビュッシー(Claude Debussy 1862-1918)&ラモー(Jean-Philippe Rameau 1683-1764) ピアノ作品2019年録音
ドビュッシー
1) カンタータ「選ばれし乙女」から前奏曲(ピアノ独奏版)
ラモー
2) クラウザン曲集 第1巻 第5曲 「鳥のさえずり」
3) クラウザン曲集 第1巻 第6,7曲 「リゴードン1,2」
4) クラウザン曲集 第1巻 第8曲 「ロンドー形式のミュゼット」
5) クラウザン曲集 第1巻 第9曲 「タンブーラン」
6) クラウザン曲集 第1巻 第10曲 「村娘」
7) クラウザン曲集 第1巻 第3,4曲 「ロンドー形式のジグ1,2」
ドビュッシー
8) 版画 から 第3曲 「雨の庭」
9) 子供の領分 から 第3曲 「人形へのセレナード」
10) 子供の領分 から 第4曲 「雪は踊っている」
ラモー
11) クラヴサン曲集 組曲 ニ短調-長調 第1曲 「優しい嘆き」
12) クラヴサン曲集 組曲 ニ短調-長調 第7曲 「つむじ風」
13) クラヴサン曲集 組曲 ニ短調-長調 第6曲 「ミューズたちの語らい」
ドビュッシー
14) 前奏曲集 第1巻 第6曲 「雪の上の足跡」
ラモー
15) クラウザン曲集 第2巻 第4曲 「喜び」
16) クラウザン曲集 第2巻 第8曲 「一つ目の巨人」
オラフソン
17) 芸術と時間 (ラモーの歌劇「レ・ボレアド」の間奏曲のピアノ版)
ドビュッシー
18) 前奏曲集 第1巻 第8曲 「亜麻色の髪の乙女」
19) 前奏曲集 第2巻 第8曲 「水の精」
ラモー
20) コンセール 第5番 第2曲 「キュピ」
21) コンセール 第4番 第2曲 「軽はずみなおしゃべり」
22) コンセール 第4番 第3曲 「ラモー」
23) 新クラウザン曲集 第2巻 第5曲 「めんどり」
24) 新クラウザン曲集 第2巻 第8曲 「エンハーモニック」
25) 新クラウザン曲集 第2巻 第3,4曲 「メヌエット1,2」
26) 新クラウザン曲集 第2巻 第7曲 「未開人たち」
27) 新クラウザン曲集 第2巻 第9曲 「エジプトの女」
ドビュッシー
28) 映像 第1集 第2曲 「ラモー礼讃」
 正直言って、現時点でこれら3つのアルバムを1つのBox-setにする意義はそれほど高くないと思うのだけれど、3つのアルバム、いずれもオラフソンという芸術家の天才性を示したものであり、セットで廉価になっていることを考えれば、まだ1枚も所有していない人にとって、ありがたいアイテムであることは間違いないだろう。ピアノ好きなら、存分に勧められる。
 【CD1】のグラスのエチュードは1990年代に作曲された第1番~第16番と、2012年に作曲された第17番~第20番の計20曲からなる。そのうちオラフソンは半分の10曲を取り上げて、自分なりの曲順で演奏している。注目したいのはドイツの音楽家、バズーラによって、弦楽四重奏を組み合わせて再構成された2編が収録されていることで、これら2曲ではシッギ弦楽四重奏団が共演している。グラスの作品は、ミニマル・ミュージックの体裁を持っているが、本録音を聴くと、その根底にあるのは、グラス特有の淡くも暖かな情緒であると思わされる。オラフソンはこれらの曲に、暖かく、健やかな情感を張り巡らし、実に美しく、瑞々しく響かせている。エチュードは、互いに似通った楽想を持っており、そのため、変奏曲的な雰囲気も持っているが、いわゆる変奏曲の様に技術的な方法で強い対照を引き出したり、感情的に強い陰影を各曲に与えたりしているわけではない。もちろん、第6番のように「強さ」を感じさせる楽曲もそこには混在するのだけれど、それでも全体的に、不思議な安寧の中に吸い込まれるような曲たちであると感じる。オラフソンの曲順も、それなりに考えられたものに違いないが、一際冴えた構成感をもたらすのが、弦楽四重奏の挿入である。それは、決して対比の妙をねらったものではなく、まるで必然のように現れる弦楽器たちの音色は、背景と調和し、郷愁的な情緒を高める。アルバム構成としては、最後に冒頭曲でもある「Glassworksよりオープニング」に戻ってくるわけだが、ピアノのモノローグに導かれて、弦のピチカートから始まる印象的な序奏部が設けられていて、弦楽器が深める懐古的な雰囲気の中から再びピアノが語り始めるところなど、心憎いほどの演出で感動的だ。
 【CD2】はバッハのオリジナル楽曲だけでなく、自らアレンジしたものも含めて様々な編曲版を含め、選曲・構成に工夫をこらしたもの。バッハ自身がマルチェッロのオーボエ協奏曲(「ベニスの愛」のタイトルで有名)を編曲したものも採用して一つのプログラムに仕立てるあたり、実に面白い。収録された楽曲たちは、時に編曲者の嗜好を踏まえロマンティックに響くのだが、まったく違和感なく流れる。これは楽曲の曲順がしっくり言っているという以上に、オラフソンのアプローチの冴えによるもので、バッハのオリジナル曲であっても、編曲ものであっても透明度の高い、音楽の線的な構造を明晰に解きほぐし、そこに適度な肉付けを施したその響きは、どのような音楽であっても、一つの規範のもとに整列したかのような居住まいを感じさせる。バッハの音楽は幾分ロマンティックに、他の編曲はいくぶん古典的に響き、両者が歩み寄ったような地点に見事にオラフソンの芸術が完成している。それは、かつて味わえなかった新鮮さをともなって、私に聴くことの喜びを伝えてくれる。アルバムの核と考えられるのが「イタリア風のアリアと変奏」であるが、この美しいメロディが、いくぶん冷たい悲しさを秘めて鳴るのは忘れがたい。それをコントロールするオラフソンのスタイルには、常に鋭利な知性が息づいている。どこか一つ代表的なところを挙げるとしたら、「3声のシンフォニア 第15番 ロ短調」を取りたい。俊敏な運動性、鮮やかにほぐれていく声部、添えられるほのかな情緒、そして、それらを束ねて一つの形式性の高い楽曲として提示する感性。すべてき現代的な冴えを感じさせる。
 【CD3】は、ドビュッシーとラモーという組み合わせがまず魅力的。ラモーが遺した鍵盤楽器のための作品は、とても完成度が高く、かつピアニスティックである。もちろん、当時使用された鍵盤楽器は、クラウザンなのであるが、オラフソンの「現代のピアノがあったら、ラモーは夢中になったに違いない」との言葉に、私は完全に同意する。タロー(Alexandre Tharaud 1968-)も、この感覚に則って、現代ピアノ演奏による素晴らしいラモーの鍵盤作品を記録しているが、そこに、このオラフソン盤が加わったのは、意義深い。当盤の目玉はドビュッシーとの交錯になる。ラモーの鍵盤楽器作品のタイトルは、ご覧の通り、どこか印象派的である。ラモーの音楽は論理的だが、その論理をベースとした表現性にも卓越したセンスを見せる。それはドビュッシーの音楽と相通じる要素であり、と言うよりドビュッシーがラモー作品からいかに影響を受けたかの証左でもある。オラフソンのピアノの素晴らしいこと。機転の利いた展開、俊敏な節回し、装飾性の効いたアクセント、いずれもが躍動感に満ち、豊かな色彩感を持っている。ラモーの音楽の魅力を引き出すのに、これほどうってつけの存在はいない、と思えるくらい。ラモーの「鳥のさえずり」「キュピ」「未開人たち」など、ピアニスティックな効果満載で、楽しい事この上ない!もちろん、ドビュッシーも素晴らしい。そして、考え抜かれた曲順、ラモーとドビュッシーの作品の間であっても、ときに間隙を置かず演奏・収録されている構成の妙、こういった点も含めて、ぜひ多くの人に当盤を味わってほしいと思う。オラフソン自身の編曲による「芸術と時間」のしっとりした味わいは、多くのピアノフアンにとって、新しい名品との出会いになるだろう。
 今後もますます注目されるであろうオラフソン。まだ聴いていない人は、このアイテムで、一気に差を詰めるチャンスです。

The Art of Tatiana Nikolayeva
p: ニコラーエワ 他

レビュー日:2021.9.3
★★★★★  ニコラーエワの芸術に浸る37枚組
 ソ連で、バッハ演奏の権威として知られ、またショスタコーヴィチとの深い信頼関係から、その代表作の一つ「24の前奏曲とフーガ」の初演を行ったピアニスト、タチアーナ・ニコラーエワ(Tatiana Nikolayeva 1924-1993)の没後25年を記念して、37枚組のBox-setとしてリリースされたもの。収録内容の大要は下記の通り。
【CD1,2】
バッハ イギリス組曲 第1番 第4番 1965年録音
バッハ フランス組曲 全曲 1984年録音
【CD3】
バッハ(ブゾーニ編) トッカータとフーガ ニ短調 BWV 565/フーガ ト短調 BWV 578 コラール「目覚めよと呼ぶ声あり」 BWV 645/コラール「今ぞ来たれ、異教徒の救い主よ」 BWV 659/コラール「われ汝に呼ばわる、主イエス・キリストよ」 BWV 639/(ヘス編)コラール「主よ、人の望みよ喜びよ」 BWV 147/(ブゾーニ編) シャコンヌ ニ短調/(ケンプ編) フルート・ソナタ 変ホ長調 BWV 1031~第2楽章 シチリア―ノ/バッハ イタリア協奏曲  BWV 971 1980年録音
【CD4-7】
バッハ 平均律クラヴィーア曲集 第1巻 第2巻 1971-1973年録音
録音:1973年
【CD8】
バッハ 2声のインヴェンションと3声のシンフォニア 全曲 1977年録音
バッハ イタリア協奏曲 BWV 971 1982年録音(ライヴ)
【CD9】
バッハ 2台のチェンバロのための協奏曲 ハ短調 BWV 1060/同 ハ短調 BWV 1062/3台のチェンバロのための協奏曲ハ長調 BWV 1064/4台のチェンバロのための協奏曲 イ短調 BWV 1065/チェンバロ協奏曲第4番イ長調 BWV1055 1975年録音
サウリウス・ソンデツキス(Saulius Sondeckis 1928-2016)指揮  リトアニア室内管弦楽団 p: ミハイル・ペトゥホフ(Mikhail Petukhov 1954-)、セルゲイ・センホフ(Sergej Senkov)、マリア・エヴセーエワ(Marina Yevseeva)
【CD10-11】
バッハ ゴルトベルク変奏曲 BWV 988 1979年録音
【CD12】
バッハ フーガの技法 BWV 1080 1967年録音
【CD13】
バッハ 平均律クラヴィーア曲集第1巻から第2番 ハ短調 BVW847/同 第3番 嬰ハ長調 BWV.848/第2巻から 第19番 イ長調 BWV.888/同 第20番 イ短調 BWV.889 1968年録音
モーツァルト ピアノ協奏曲 第22番 変ホ長調 K.482 1956年録音
カール・シューリヒト(Carl Schuricht 1880-1967)指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
ショパン 華麗なる変奏曲 変ロ長調 1953年録音
メンデルスゾーン カプリッチョ・ブリランテ op.22 1958年録音
【CD14】
バッハ チェンバロ協奏曲 第4番 イ長調 BWV1055 1983年録音
サウリウス・ソンデツキス指揮 リトアニア室内管弦楽団
モーツァルト 2台のピアノのための協奏曲 変ホ長調(協奏曲第10番)  K.365 (K.316a)/3台のピアノのための協奏曲 ヘ長調 K.242 1986年録音(ライヴ)
サウリウス・ソンデツキス指揮 リトアニア室内管弦楽団 p: エリソ・ヴィルサラーゼ(Eliso Virsaladze 1942-)、ニコライ・ルガンスキー(Nikolai Lugansky 1972-)
【CD15】
ニコラーエワ 3つの演奏会用練習曲 op.13 1954年録音
プロコフィエフ ピアノ・ソナタ 第8番 変ロ長調 op.84 1963年録音/10の小品op.12より 第7番「前奏曲」ハ長調 「ハープ」 1991年録音/プロコフィエフ(ニコラーエワ編) 「ピーターと狼」組曲 1964年録音/3つのオレンジへの恋 op.33 から「行進曲」 1991年録音
【CD16】
チャイコフスキー ピアノ協奏曲 第2番 ト長調 op.44 1951年録音
ニコライ・アノーソフ(Nikolai Anosov 1900-1962)指揮 ソ連国立交響楽団
チャイコフスキー 協奏的幻想曲 ト長調 op.56 1950年録音
キリル・コンドラシン(Kirill Kondrashin 1914-1981)指揮 ソ連国立交響楽団
【CD17】
チャイコフスキー ピアノ・ソナタ 第1番 ト長調 「グランド・ソナタ」 op.37/ワルツ 変イ長調 op.40-8/5拍子のワルツ op.72-16 1991年録音
シューマン 主題と変奏 変ホ長調/3つのロマンス op.28 1991年録音
【CD18】
チャイコフスキー ピアノ協奏曲 第1番 変ロ短調 op.23 1959年録音
クルト・マズア(Kurt Masur 1927-2015)指揮 ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団
ラフマニノフ ピアノ協奏曲 第2番 ハ短調 op.18 1951年録音
コンスタンティン・イワノフ(Konstantin Ivanov 1907-1984)指揮 チェコ・フィルハーモニー管弦楽団
【CD19】
シューマン 6つの間奏曲 op.4/子供の情景 op.15/アラベスク ハ長調 op.18/ウィーンの謝肉祭の道化 op.26 から 「間奏曲」/(リスト編)「春の夜」 1991年録音
【CD20-22】
ショスタコーヴィチ 24の前奏曲とフーガop.87 1987年録音
【CD23,24】
ショスタコーヴィチ 24の前奏曲とフーガop.87 1962年録音
【CD25】
バルトーク ピアノ協奏曲 第3番 ホ長調 1956年録音
ニコライ・アノーソフ指揮 モスクワ放送交響楽団
ボロディン 小組曲/スケルツォ 変イ長調 1991年録音
【CD26】
リャードフ 舟歌 op.44/ポーランドの主題による変奏曲 op.51 1991年録音
メトネル ピアノ協奏曲 第1番 ハ短調 op.33 1980年録音
エフゲニー・スヴェトラーノフ(Yevgeny Svetlanov 1928-2002)指揮 ソ連国立交響楽団
【CD27】
ゴルベフ ピアノ協奏曲 第3番 op.40 1974年録音
ニコライ・アノーソフ指揮 ソ連国立交響楽団
ゴルベフ ピアノ・ソナタ 第4番 へ短調 op.22 1976年録音
【CD28-36】
ベートーヴェン ピアノ・ソナタ全集 1983-84年録音(ライヴ)
【CD37】
ベートーヴェン ディアベッリの主題による変奏曲 op.120 1979年録音
 ショスタコーヴィチの「24の前奏曲とフーガ」については、1952年の初演の10年後の第1回録音のほか、1987年の第2回録音も収録されている。1990年の第3回録音は収録外。バッハの平均律クラヴィーア曲集については、2度の録音があるが、当盤には、最初の1971~73年に録音されたものが収録されている。ゴルドベルク変奏曲については、1979年録音のものが収録されているが、この音源は、単発売時に、1970年録音との誤記載があったものであり、当盤に収録されているものと同音源である。
 私がこれらの録音の中で一番気に入っているのは、「平均律クラヴィーア曲集」。ニコラーエワのバッハ演奏上の特徴である、強靭な音色やペダルの使用、響きの重厚さが、この曲集にマッチしていて、ふくよかで、野太い歌に満ちた名演になっている。この楽曲は、クラヴィーアという楽器の特性に即して、調性と声部に関して、天才バッハが楽曲の体裁でまとめた作品で、教典的性格と、芸術的性格の2点において、稀有の高みに達した芸術であるが、演奏するにあたって、その2つの性格の融合性が奏者に委ねられる。ニコラーエワの演奏は、楽曲が作曲された当時には想定されていなかった現代ピアノの「音量の豊かさ」と、「ペダルによる音価と残響の効果」を積極的に用いている点が特徴である。この特徴においては、演奏はロマンティックな傾向のものとなり、実際、ニコラーエワの演奏からは、豊かな歌謡性が伝わってくるのだが、それとともに、声部の明晰な響きがあって、対位法に基づく、清澄な調べが維持されている。つまり、この作品における2つの大きな要素を、互いに強調しつつ、全体としてうまく音楽的に響かせるという演奏を、ニコラーエワは実践している。背後に深い音楽理論に対する教養があるとともに、ニコラーエワの感覚的、直感的なセンスのようなものがある。そして、その感覚が、この曲集では、とてもうまく消化されていて、結果として、歌と清澄さに満ちた、太く逞しい味わいの平均律が奏でられることになったのだと思う。その結果、これらの楽曲が、とても馴染みやすい、しっくりくる温度で、聴き手に伝わってくるものになったと思う。特に短調の楽曲で、その重々しさは、適度な暖かみと弾力を持っており、聴き味の良さに繋がっている。
 次いで2曲のイギリス組曲とフランス組曲集。前者は1965年の、後者は1984年の録音であるが、1965年の音源も録音状態がとても良いのがうれしい。とても優美で、現代ピアノならではの滑らかさ、カンタービレの自在さを活かしたものである。テンポは、ゆっくり目。それは、ピアノという現代楽器特有の音の長さや残響を加味したスタイルであるため、作曲当時のクラヴィーア楽器による奏法とは異なるものである。だが、それゆえに素晴らしいところが多い。フランス組曲第4番のアルマンドや、イギリス組曲第1番のサラバンドなどは、その典型であったり、ゆったりとした流れの中で、決して緩むわけではない音がなめらかにつながり、濃い情感をまといながら、薫り高い雰囲気を導いている。それは、現代ピアノゆえの美しさであり、そうやって弾かれるバッハが、無類に美しく響くのである。また、ニコラーエワはペダルも適宜使用し、明瞭なアクセントによる色彩的な施しも取り入れる。音色自体は豊かではないかもしれないが、現代ピアノの機能を背景とした強弱や音価の様々な味付けは、楽曲から味わいの深さを引き出しており、聴き味に幅を与えてくれる。
 コラール等ピアノ編曲集も素晴らしい「泰然自若」たる演奏。悠然たる歩みで、堂々とわが道を歩むといった雰囲気。これらの楽曲は、編曲者によって、ヴィルトゥオーゾ的な要素が加味されていて、演奏によっては、スピードやスリルで、その華やかさに演出を加える感があるのだが、当演奏はそのような背景とはまったく無縁に、バッハの音楽そのものを語るような雰囲気がある。くっきりした明るさを伴いながら、ゆったりしたテンポを主体とし、ペダルや重々しい低音も存分に使用する。このような演奏スタイルは、バッハが作曲した時代のクラヴィーア奏法では前提とされていなかったものであるが、しかし、その響きは説得力があり、総ての音に、音楽的な蓋然性があって、とても心地よく響いてくるのである。現代ピアノの能力を如何なく発揮し、それでいて聴き味においては決して装飾過多にならず、バッハらしい厳かな空気が連綿と続く。なるほど、これがソ連国内で、長くバッハ作品のピアノ演奏における権威とされてきた人の演奏なのだ、と思わされる。ニコラーエワという芸術家の揺るがない矜持のようなものに触れた気がする演奏だ。特にケンプ(Wilhelm Kempff 1895-1991)が編曲したフルート・ソナタの有名なシチリアーノの染み入るような情感は、深く聴き手の心に刻まれていく。
 1967年録音の「フーガの技法」も名演。この演奏において、ニコラ―エワの演奏における豊かな低音部、ペダルを存分に用いた肉厚さ、強靭な音量等の特徴は抑えられている。というより、むしろ、感じない。平均律などで聴かれた肉付きの良い音が、この録音では、非常に端正で繊細なタッチに変化しており、第1曲目の背景に感じられる独特の静謐さに、まったく異なった雰囲気を感じるのだから不思議である。おそらく、ニコラーエワにとって、この「フーガの技法」という楽曲は、特別な存在で、厳かで、畏れのある存在として扱われているのではないか。そんな想像をかき立ててしまうくらい、当演奏は、他のニコラーエワのバッハと比べても、ちょっと違う感じがする。時に旋律の軽重を、より明瞭にするように、くっきりした輪郭線を描き出し、時には声部において、明確な主従を示しているが、それらの解釈は、聴いていて齟齬なく収まり、かつ楽曲全体として、引き締まったスタイルを導いており、結果的に荘厳な空気が、全体を包み込むように感じられる。この楽曲にしばしば感じられる神性のようなものが、明瞭に姿を示している感があり、おもわず傾聴してしまう演奏である。一つ一つの響きは、禁欲的と言っても良く、その制約的な響きゆえの緊迫感が、常に維持されている。いつものニコラーエワであれば、より劇的な踏み込みを行うであろう場所であっても、その緊迫感は維持されており、崇高だ。この楽曲に宿る一種の神々しさに即した、襟を正した名演奏であると思う。
 ショスタコーヴィチの「24の前奏曲とフーガ」については、前述のように2種の録音が収録されている。
 1962年の録音は、他の彼女の様々な録音に比べて、インテンポな均衡感が強く、線で描かれているという当楽曲の性格に即した感が強い。緊迫感が強く、強音に秘められた意志や、弱音に潜む情感にも、濃い気配があり、その演奏は雰囲気に富む。表現の明晰さと強さは、全体として明るい響きをもたらしていて、聴き手は見通しの良い音楽を感じることとなるだろう。テンポの厳密性は、様々な表現上のアヤを排しているが、決して無機質な音楽にはなっておらず、ショスタコーヴィチの意図がストレートに伝わる面白味がある。第5番のニ長調などに、その特徴は明瞭に感じられるだろう。また、ショスタコーヴィチが使用したロシア的な旋律についても、十分な造形をもって奏でていることは、十分に想像される(私には、その点の理解については、どうしても限界があるが)。一つのシンボル的な録音ではあるが、録音技術的には時代を考慮してもいま一つで、高音の抜けが良くなく、全体に響きがこもったり割れたりするところが残念で、特にこの曲集は、録音映えする楽曲でもあるため、その点を踏まえると、現在となっては、純粋なCDメディアとしての価値はやや下がった感もある。
 1987年の録音にはより情緒的な味わいが感じられる。テンポも、ややゆっくり目をとることが多い。響きは、以前同様に明晰で明るめであるが、緩急の織り込みが深まったことで、曲想の描き分けに多彩さが加わり、いわゆる詩情と称されるものを感じさせる部分が多い。第6番の感情的な深みや、第7番の情感の発露に、このピアニストの語り口ならではのショスタコーヴィチを感じさせてくれる。演奏技術的には、1962年の録音の方が、高かったと思う。当録音では、ところどころで、緩みのようなものを感じる。ただ、それは弱点とはなっておらず、音楽的な情感の中で、うまく吸収され、全体の呼吸の中で、芸術的表現として中和されている。その作法は、いかにもこれらの楽曲を知り尽くしたような手練を感じさせるもので、それゆえの安定が感じられる。1962年版の鋭い感覚的な演奏も良いものであったが、当盤とどちらが良いかは聴き手によって、意見の相違を生むところだろう。個人的には、時代さに伴う録音技術的な側面において、当盤の方に圧倒的なメリットがあることもあって、当盤の方をより優れたものとして、取りたいと思う。
 ベートーヴェンの「ディアベッリの主題による変奏曲」は、とても真面目な演奏である。生真面目と言っても良い。音色はいつものこのピアニストらしい、強靭さのある響きで、明晰で、明るめの響きであるが、色彩感はさほどなく、むしろそれを制御するように、ある種の均質化を感じさせる。一つ一つをくっきりと鳴らそうという意図があるため、変奏曲によっては、テンポはややゆっくり目であり、ニコラーエワが弾くバッハと比較しても、インテンポの傾向が強い。一つ一つがじっくりとした弾きぶりであり、かつまぎれの無い着実さを感じさせる演奏である。この演奏、確かにベートーヴェンらしさを感じるのだが、その一方で、私の感覚で言えば、この楽曲にはもっと遊行心や、チャームな要素が欲しいところがある。私がこの曲で愛聴している録音は、ムストネン(Olli Mustonen 1967-)、アシュケナージ(Vladimir Ashkenazy 1937-)、シュタイアー(Andreas Staier 1955-)、ロマノフスキー(Alexander Romanovsky 1984-)といった人たちの録音で、彼らの演奏はそれぞれに個性的だが、共通して言えるのは、ウィットに富み、時に微笑みかけてくるような楽しさ、愉悦性があることである。それに比べると、このニコラーエワのディアべッリ変奏曲は、無表情とまでは言わないが、それに近い感触があり、そのため、聴いていて、楽曲に長さを感じてしまうところがある。力強い響き、階層的な明瞭さに一定の魅力を感じるが、この曲の名演奏・名録音と言えるまでには、感じなかった。
 ベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集は、1984年にモスクワ音楽院大ホールでライヴ収録されたものであり、各曲の終了後には拍手も入る。非常に平明かつ明朗で、凛々しく旋律線を濃く描き出したものである。強靭な音色を使用し、メロディを担う音が強く奏でられ、それに即して、他の音は階層的な役割を明瞭に与えられており、非常に棲み分けがはっきりしている。いかにもロシア・ピアニズムと呼ぶべき音の強さや低音の重々しさがある一方で、明快に響くその音色は、むしろラテン的と形容したいほどの明るさを持っており、彼女のベートーヴェンを、特徴的なものにしている。旋律線の明瞭さとともに、回音や装飾性の高い前打音も、非常にはっきりとしており、アウフタクトで始まる楽章であっても、まるでそこから拍が開始されているかのように、立派な恰幅をもって始まるので、なかなか圧倒される。実に堂々としており、たくましい。また、音色の重みづけにともなった野太い緩急があって、そのあたりはいよいよロシア・ピアニズムと形容したいスケールを感じさせるのである。響きは清張であり、なかなか聴き味豊かな演奏である。個人的に気に入ったのは、第5番、第7番、第15番といった初期の楽曲で、初期の楽曲ならではの素朴さが、素晴らしい恰幅をもって奏でられる魅力を、あらためて味わい、魅了されたところ。ただ、この演奏には欠点があって、かなりミスタッチが多い。もちろん、世にある様々なライヴに、特にピアノ演奏ではミスタッチは付き物なのであるが、当録音では、その頻度がきわめて高く、大事な音も結構外している。また、指回りにも怪しいところが多いので、そこらへんが気になる人には、かなり聴きづらい録音かもしれない。実は、私も、このレベルになると結構気になってしまう。ただ、そこは大御所で、ミスタッチが乱発されようとも、その精神性や表現性に一切の乱れを感じさせず、終結まで、弾き切ってしまうのは、さすが大家の精神力と感服するところでもある。大いに欠点を指摘できる演奏ではあるのだけれど、このピアニストならではのベートーヴェンを確かに感ずることは出来るので、個人的には、十分に、芸術を味わえる内容だと思っている。
 他にも様々な録音で、その「堂々たる」弾きぶりが披露されている。若きルガンスキー(録音時14才)と協演したモーツァルト、さらには同時代の作曲家、エフゲニー・ゴルベフ(Evgeny Golubev 1910-1988)の作品や、ニコラーエワによる自作自演録音も収録されており、価格を考えると、大変お買い得なアイテムとなっている。大御所と呼ぶにふさわしい芸術家の音楽に、たっぷり浸れる37枚組となっています。

A la Russe
p: A.カントロフ

レビュー日:2021.9.27
★★★★★ フランスのピアニスト、アレクサンドル・カントロフ、19才の録音。透明かつ清冽な情感が魅力
 高名なヴァイオリニスト、ジャン=ジャック・カントロフ(Jean-Jacques Kantorow 1945-)を父に持つフランスのピアニスト、アレクサンドル・カントロフ(Alexandre Kantorow 1997-)による、ロシアのピアノ独奏曲を集めたアルバム。収録曲は以下の通り。
1) ラフマニノフ(Sergei Rachmaninov 1873-1943) ピアノ・ソナタ 第1番 ニ短調 op.28
チャイコフスキー(Pyotr Tchaikovsky 1840-1893) 18の小品 op.72より
 2) 第5曲「瞑想曲」
 3) 第17曲「遠い昔」
ストラヴィンスキー(Igor Stravinsky 1882-1971)/アゴスティ(Guido Agosti 1901-1989)編 バレエ音楽「火の鳥」から
 4) 魔王カスチェイの凶悪な踊り
 5) 子守歌
 6) フィナーレ
チャイコフスキー 2つの小品 op.1 より
 7) 第1曲 「ロシア風スケルツォ」 変ロ長調
8) バラキレフ(Mily Balakirev 1837-1910) イスラメイ op.18
 2016年の録音。
 当盤録音時、カントロフはまだ19才であったことになるが、高い完成度で、聴き手に訴える力も十分な演奏だ。
 最初に収録されているラフマニノフから、カントロフは柔らかさと重さを兼ね備えたトーンを駆使し、弾力的で推進力に満ちたピアニズムを披露する。音色は艶やかで、華があり、いかに強靭な音色を繰り出しても、光沢を失わない。天性のものを感じさせるピアノであり、楽曲をシンフォニックで雄弁に響かせてくれる。終楽章の重厚さを担保したままの疾走感は、鮮やかの一語であり、ラフマニノフの第1ソナタに相応しい輝かしさをもった、胸のすくような名演となっている。
 次いで、チャイコフスキーの18の小品から2つの抒情的な作品が奏でられるが、ここでカントロフは、糸を引くような音色を操り、色彩感を情感に富んだ演奏を繰り広げる。ピアニストと楽曲の相性が良いことに疑う余地はないが、それにしても、美しく、聴き手を陶然と酔わせてくれる。ピアニストが、これらの楽曲に深い思いを抱いていることが、よく伝わる演奏だ。
 ギド・アゴスティが編曲したストラヴィンスキーの「火の鳥」からの3曲で、カントロフはそのヴィルトゥオジティを如何なく発揮している。魔王カスチェイの凶悪な踊りにフォルテの鮮烈な色彩感は圧巻であり、その響きに、このピアニストのスタイルが端的に表されているだろう。
 再びチャイコフスキーに戻るが、カントロフのチャイコフスキーは、ロマン派の薫りを存分に湛えた感のあるもので、時にシューマンに通じる味わいを私に感じさせてくれる。そして、アンコール的に、演奏至難で知られるバラキレフのイスラメイが置かれるが、ここでも叙情性を置き去りにすることなく、健やかな音楽性を息づかせた演奏が見事だ。
 再掲するが、録音時19才とのこと。しかし、若きカントロフの奏でる音楽は、十分に成熟した味わいを感じさせてくれる。ロシア音楽ならではの情感を、清涼さも踏まえて、透明な情緒で描いており、とても魅力的だ。

FOLLOWING THE RIVER - Music along the Danube
p: ミトレア

レビュー日:2022.6.17
★★★★★  ドナウ流域へ誘ってくれる素敵なピアノ・アルバム
 2015年の浜松国際ピアノコンクールで第4位に入賞したルーマニアのピアニスト、フロリアン・ミトレア(Florian Mitrea 1989-)による“FOLLOWING THE RIVER - Music along the Danube(川の流れに沿って;ドナウ沿岸の音楽)”と題された、たいへん興味深いアルバム。まず収録内容を記載しておく。
1-6) バルトーク(Bartok Bela 1881-1945) ミクロコスモスから「ブルガリアのリズムによる6つの舞曲」
7) トドゥツァ(Sigismund Toduta 1908-1991) ルーマニアのクリスマス・キャロルによる12の変奏曲、パッサカリア
8) シューベルト(Franz Schubert 1797-1828) ハンガリー風のメロディ D.817
9) コンスタンティネスク(Paul Constantinescu 1909-1963) ルーマニア民謡による変奏曲
10) コンスタンティネスク ドブロジャン・ダンス
11) リスト(Franz Liszt 1811-1886) ハンガリー狂詩曲 第5番 「悲劇的な英雄の詩」
12-19) トドゥツァ ルーマニア歌と踊りによる組曲
20) パラディ(Radu Paladi 1927-2013) ロンド・ア・カプリッチョ
21-22)  トドゥツァ 「神よ、慈悲を与えたまえ」によるコラールとトッカータ
 2017年の録音。
 さて、ドナウ川を描いた音楽としては、ヨハン・シュトラウス2世(Johann Strauss II 1825-1899)の「美しく青きドナウ」が抜群に有名なわけだが、ここに収録されている楽曲は、より下流域のブルガリア、ルーマニア、ハンガリーの民俗音楽や伝統音楽の素材をモチーフとした作品たちである。トドゥツァ、コンスタンティネスク、パラディは、いずれもルーマニアの作曲家とのことだが、私も今まで彼らの作品は未聴だった。しかし、これらが実に面白いし、なかなか「いい曲」ばかりなのである。
 アルバムはバルトークの全6巻からなるミクロコスモスの末尾を飾る「ブルガリアのリズムによる6つの舞曲」から開始されるが、その野趣性とエスニシティが、ミトレアによって、とても情熱的かつ輝かしく描かれている。これから誘う音楽世界の入口に相応しく、時々、粗野な面がむき出しになるところのあるバルトークの楽曲を、ミトレアは、鮮やかな躍動感で描いており、光沢溢れるタッチの色彩とともに、絶好の表現を聴かせてくれる。
 次いで収録されているトドゥツァの「ルーマニアのクリスマス・キャロルによる12の変奏曲、パッサカリア」は、バッハ(Johann Sebastian Bach 1685-1750)の影響を感じさせる対位法と、ヤナーチェク(Leos Janacek 1854-1928)を思わせる和声があり、決して長い曲ではないのだが、壮麗で様々なものが詰まっている。変奏の豊かさ、そしてスケール感も見事だが、旋律も美しく、このアルバムの白眉と言っても良い一篇となっている。楽曲の魅力を立派な技術と音響で引き出したミトレアの演奏も素晴らしい。
 シューベルトの「ハンガリー風のメロディ」は、アルバム中で、もっとも聴き馴染まれた作品だと思うが、当アルバムに組み込まれたことで、楽曲に新たな役割が与えられたかのような新鮮さが感じられる。
 コンスタンティネスクの「ルーマニア民謡による変奏曲」は、恋を歌った民俗歌謡の旋律を用いているが、それは夜の雰囲気をもったり、あるいは大きなうねりを描いたりと、これまた面白い。続いて、同じ作曲家による「ドブロジャン・ダンス」があり、こちらはタイトル通り、ルーマニアの舞曲、ジャムパラーレ(Geamparale)を扱ったもので、その熱気は、コダーイ(Kodaly Zoltan 1882-1967)を彷彿とさせるところもある。
 リストのハンガリー狂詩曲第5番は、素材を用いながら、リストらしい大仰さを備えており、そういう意味で、あらためてこの作曲家の存在感を感じさせる。この楽曲も、どこか夜の気配、聴きようによっては、葬送曲的な雰囲気も持っている。
 トドゥツァの「ルーマニア歌と踊りによる組曲」は、一つ一つが小さな作品で、その聴き味はおおいにバルトークに通じるところがある。パラディ(Radu Paladi 1927-2013)の「ロンド・ア・カプリッチョ」は、同名のベートーヴェン(Ludwig van Beethoven 1770-1827)による有名な小品を意識して書かれた作品と思われるが、時代を背景としたさまざまな要素が含まれているのが面白い。様々な切り口で楽しめる作品。末尾を飾るトドゥツァの「神よ、慈悲を与えたまえ」によるコラールとトッカータは、やはりこの作曲家のバッハへの思いを感じさせるが、ビザンチンの連鋳から引用された旋律が、壮大に色づけられる様は美しい。
 アルバムを通して、知られざる作曲家、作品、そしてドナウ川流域の音楽文化について、様々な刺激をもたらしてくれる素晴らしいアルバムだが、それを可能にしたのは、ミトレアの鳴りと気風の良いピアノである。壮麗でありながら、静寂も特有の気配があって、私はとても魅了された。これからの活躍にも期待したい。

Good Night!
p: シャマユ

レビュー日:2023.6.5
★★★★★  眠りに落ちようと言う時に、心に訪れるもの
 フランスのピアニスト、ベルトラン・シャマユ(Bertrand Chamayou 1981-)によるGood Night! と題されたアルバム。邦題は「子守歌集」となっている。シャマユは、自分自身が「不眠症」であることを告げた上で、眠りにつく瞬間を「安寧や恐怖をはじめとする様々な感情がないまぜになるとき」であると語っている。眠れない夜というのは、誰にでもあるだろう。部屋を暗くし、布団の中に身を横たえると、身体的な安寧とともに、様々な考えが巡り始める。特に現代は不安の時代と言っても良い。生きている限り、誰にでも不安があり、それらがもっとも近づいてくるのが、夜の眠りに落ちる直前だと言うのは、私もわかる。そして、そんな不安をやわらげたり、あるいは不安そのものを含めて描写する音楽として「子守歌」がある。時々、子守歌が「暖かさ」や「やさしさ」とともに、「不安さ」「気味の悪さ」を併せ持つことがあるのは、そのような背景があるからだろう。
 ただ、当盤に収録された楽曲たちは、概ね安寧さが支配的であり、不安さはときおり陽の光が陰るようにして添えられる。それぐらいがGood Night!というアルバム・タイトルに相応しいし、そういった楽曲を集めたアルバムなのだろう。良く出来た選曲だと思うが、その詳細を書こう。
1) ヤナーチェク(Leos Yanacek 1854-1928) 草かげの小径 第1集 より 第7曲 「おやすみ!」
2) リスト(Franz Liszt 1811-1886) 子守歌 S.198
3) リャプノフ(Sergei Lyapunov 1859-1924) 6つのやさしい小品 op.59より 第2曲 「人形の子守歌」
4) ショパン(Frederic Chopin 1810-1849) 子守歌 op.57
5) リャプノフ 12の超絶技巧練習曲 op.11 より 第1曲「子守歌」
6) ヴィラ=ロボス(Heitor Villa-Lobos 1887-1959) 赤ちゃんの一族 より 「ぼろ切れの人形」
7) ボニス(Melanie Bonis 1858-1937) 小さな子が眠りにつく(la toute petite s’endort)
8) グリーグ(Edvard Grieg 1843-1907) 抒情小品集 第2集 op.38 より 第1曲「子守歌」
9) デスナー(Bryce Dessner 1976-) Song for Octave
10) ブゾーニ(Ferrucio Busoni 1866-1924) 悲歌集 より 第7曲「子守歌」
11) リスト 子守歌 S.174(1862年版)
12) ラッヘンマン(Helmut Lachenmann 1935-) ゆりかごの音楽
13) ブラームス(Johannes Brahms 1833-1897)/レーガー(Max Reger 1873-1916)編 子守歌 op.49-4
14) マルチヌー(Bohuslav Martinu 1890-1959) ミニアチュアのフィルム H.148 より 「子守歌」
15) バラキレフ(Mily Balakirev 1837-1910) 子守歌
16) アルカン(Charles-Valentin Alkan 1813-1888) 25の前奏曲 op.31より 第13番 変ト長調 「私は眠っていたが私の心は目覚めていた」
 2020年の録音。
 何といっても面白いのが選曲。こんな美しい曲があったのか、という驚き、あるいは、聴いたことがあったけれど、こういうテーマの中で聴くと、一層魅力が引き立つ、といった楽曲が並んでいて、とても面白い。
 冒頭から、ヤナーチェク、リスト、リャプノフの作品が続くが、これらの楽曲の安寧さ、そしてそこに潜む闇の気配は、実に周到で、シャマユの感覚美に溢れた透明なタッチが、それらを星のきらめきを思わせるように描いていく。旋律は、聴いてみると単純な気もするが、それゆえの一つの音の重さのようなものが、じっくりとした語り掛けの様でもある。
 ショパンのきわめて有名な「子守歌」は、私がショパンの作品の中でも特に愛聴するものの一つだが、シャマユの演奏は、透明な明るいタッチでありながら、細やかな情緒を描き出す暖かさがあり、この名品に相応しい感触。ヴィラ=ロボスの曲は、私にとって、「このアルバムに組み込まれて、その素晴らしさに気づかされた」作品の代表格で、その憂いはこの作曲家にこのような一面があったのだと驚かされるもの。グリーグ、デスナー、ブゾーニの連続も面白い。ともに静謐でスロウでありながら、暗い情感が忍び寄る。デスナーの楽曲は、ベートーヴェンの月光ソナタへのオマージュのようにも響く。そして、ブゾーニからリストへと、やや暗黒面のある楽曲で橋渡しが行われた後、ラッヘンマンの近代的な分散和音が印象的な楽曲へつながる。このあたりのプログラムの演出も心憎い。
 ブラームスの有名な旋律をレーガーが甘美を込めて編曲した名品のあと、マルチヌー、バラキレフといずれも性格的な小品が続き、最後にアルカンの不思議さと安寧を共存させた楽曲で結ばれる。
 このアルバムは、確かに静かでスロウな楽曲が並んでいるが、決して眠りに誘うという感じがしない不思議さがある。シャマユが明らかにしたのは、芸術家たちが描いた眠りにつく瞬間の心の静かなざわめきであり、その内面性の深みではないだろうか。もちろん、それを感じさせてくれるのは、シャマユの安定した技巧と、美しく透明なタッチがあってこそ。そして、情感あふれる解釈は、聴き手を深い余韻の中に、暖かく包んでくれる。

Homage To Horowitz
p: クレショフ

レビュー日:2024.7.29
★★★★★  クレショフがスコアを書き起こして奏でる、ホロヴィッツの伝説的編曲作品たち
 1987年のブゾーニ国際ピアノコンクールで第2位となったロシアのピアニスト、ヴァレリー・クレショフ(Valery Kuleshov 1962-)による「Homage To Horowitz(ホロヴィッツへのオマージュ)」と題したアルバムで、ウラディーミル・ホロヴィッツ(Vladimir Horowitz 1903-1989)の編曲作品、及びホロヴィッツ自身のオリジナル作品を集めて1枚にまとめたもの。まずは、収録曲の詳細をまとめる。
1) メンデルスゾーン(Felix Mendelssohn 1809-1847)/ホロヴィッツ編 結婚行進曲と妖精の踊り
2) ホロヴィッツ ワルツ ヘ短調
3) ホロヴィッツ 変わり者の踊り
4) ホロヴィッツ カルメンの主題による変奏曲
5) リスト(Franz Liszt 1811-1886)/ホロヴィッツ編 ハンガリー狂詩曲 第19番 ニ短調
6) リスト/ホロヴィッツ編 巡礼の年 第1年 スイス から 第6曲「オーベルマンの谷」
7) ムソルグスキー(Modest Mussorgsky 1839-1881)/ホロヴィッツ編 水辺で
8) サン=サーンス(Camille Saint-Saens 1835-1921)/リスト・ホロヴィッツ編 死の舞踏
9) ホロヴィッツ エチュード・ファンタジー 変ホ長調「波」 op.4
10) スーザ(John Philip Sousa 1854-1932)/ホロヴィッツ編 星条旗よ永遠なれ
 2000年録音。
 ホロヴィッツは、その技巧の限りをつくして、華麗な演奏効果を施した編曲作品を披露した人だが、それらのスコアを一切残さなかった。そのため、ホロヴィッツを敬愛するクレショフは、ホロヴィッツの録音に基いて、これらのスコアを書き起こした。他ならぬホロヴィッツ本人が、クレショフのスコアの正確な再現を認めていたという。
 ただ、当録音で、クレショフは、必ずしも、それらのスコアをそのまま弾いているわけではない。ライナー・ノーツによると、クレショフ自身が、これらの作品の盲目的なコピーではなく、さらに自らの創造性を添えることを目指したという。スコアを残さなかったホロヴィッツの意志の中に、編曲という活動が、演奏者の創造性とあいまってこそ真価を発揮するもの、というような思いがあったからかどうかは私にはわからないが、クレショフは、ホロヴィッツのスコアだけでなく、編曲への姿勢も含めて、ここで表現することを試みたのかもしれない。なので、ホロヴィッツと「同じもの」を期待する向きには、「ちょっと違う」という印象になるかもしれない。例えば、「ハンガリー狂詩曲」や「オーベルマンの谷」に、ホロヴィッツ自身の演奏と同等の「尖った」ものを求めた場合、クレショフの演奏は、やや肩透かしに聴こえてしまうかもしれない。
 その一方で、クレショフの演奏には、全体として、安定したしたたかさがあると思う。ホロヴィッツの爆発性に代わって、音楽的な正当性を得ている、という表現が正しいかどうか自分でもよくわからないが、安定した和声による音幅が、つねに担保された感がある。
 また、誤解のないように書いておくと、ホロヴィッツ編の面白さも、十分にそこには残っていて、クレショフの安定した技巧と、現代の平均的なレベルの録音状況でこれらの楽曲を味わうことが出来るという点で貴重なアルバムで、「結婚行進曲と妖精の踊り」や「カルメンの主題による変奏曲」では、現代の洗練を経た作法で、鮮やかに再現された感に満ちている。「死の舞踏」の劇的な燃焼性も見事に表現されている。
 ホロヴィッツのオリジナル作品も、このような形で聴くことが出来るのは貴重で、憂鬱な「ワルツ」や、愉快な「変わり者の踊り」が、いずれもそれに相応しいソノリティとリズムで仕上げられている。アルバムの末尾を飾るスーザ作品の編曲も、ホロヴィッツのような賑々しい派手さとはまた違った味わいを感じさせる。とても楽しく、クレショフのホロヴィッツへの敬愛の気持ちが全編から伝わってくるアルバムとなっている。


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