モーツァルト
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交響曲全集(全47曲) マッケラス指揮 プラハ室内管弦楽団 レビュー日:2010.2.11 |
★★★★★ 安定した表現で、現代弦楽器の美観を押し出した名全集
モーツァルトの作品群の中で特に重要なジャンルの一つが「交響曲」であることは言うまでもない。一方、現在ではこれらの交響曲に41番までの番号が振られているが、その後の研究により、他者の作品とされ欠番となったもの、逆に改めて「交響曲」に再配分された作品などがあり(これらに42以降の番号を振ることがある)、明確にその数が決まっているわけではないが、おおよそ50曲とされている。このマッケラスの全集は、47曲を収録している。2番、3番、37番は収録から外されている。録音は1986年。 初期作品で大事なものとしては、第25番(K.183)ト短調と第29番(K.201)イ長調であり、前者は「シュトルム・ウント・ドランク」時代を代表する象徴的作品である。それら以外の作品もモーツァルトの生涯とリンクさせると、興味が深くなるだろう。第1番(K.16)や番号なしの(K.19)は最初期の9歳のころの作品で神童ぶりが伝わる。本全集で1枚目のディスクに収録されているのはすべて12歳までにモーツァルトが書いたものだ。(この時期モーツァルトはすでに戴冠ミサを作曲している)。イタリア旅行を経た刺激から、第10番(K.74)、第11番(K.84)といった作品が生まれる。その後イタリア旅行を重ね、新しい大司教の着任のための音楽などを書くのに前後して第14番~第21番の交響曲群が続々と生み出されたのが、1772年で16歳のころ。内容の充実が言われるのは、1773年(17歳)のときの作品群からで、前述した第25番や第29番もここに含まれる。その後の充実と神がかり的な後期の作品群については、あらためて言及する必要がないだろう。 マッケラスの演奏は現代楽器ならではの弦楽器の豊かな響きを存分に歌わせている。両翼配置のヴァイオリンは強く響く傾向があるが、それはそれで面白い。かつての全集ではベーム指揮ベルリンフィルに近いスタイルだろう。テンポはやや速めなものが多い。管楽器の開放的な音色は、例えば第35番「ハフナー」などを聴いていただけるとよくわかるだろう。第38番「プラハ」などは単独でとっても聴き応え存分の名演で、均質な全集という以上の付加価値を持つ。他の特徴として、チェンバロを加えていることと、リピートを(おそらく)全部やっている点がある。後者については私個人的には特に緩徐楽章などは無い方が好きだが、問題というほどではない。早めのテンポであまり気にならない。 録音は少し軟焦点的で解像度は低めであるが、こちらも気になるレベルというわけでなく、十分平均的なものだと思う。曲集の充実、現代弦楽器の豊穣な響きを肯定的に水準高く保たれた全集として、素晴らしいものだと思う。 |
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交響曲全集 テイト指揮 イギリス室内管弦楽団 レビュー日:2020.5.2 |
★★★★★ 現代楽器による堂々たる名演。テイトとイギリス室内管弦楽団によるモーツァルトの交響曲全集
ジェフリー・テイト(Jeffrey Tate 1943-2017)指揮、イギリス室内管弦楽団によるモーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)の交響曲全集。現代楽器ならではのソフトで洗練された語り口で、味わい豊か、かつ安定した響きで、音楽を聴くことの喜びが、まっすぐに伝えられる素晴らしい内容だ。収録内容の詳細は以下の通り。 【CD1】 1993、95年録音 1) 交響曲 第1番 変ホ長調 K.16 2) 交響曲 第4番 ニ長調 K.19 3) シンフォニア ヘ長調 K.19a / Anh.223 4) 交響曲 第5番 変ロ長調 K.22 5) 交響曲 第7番 ト長調 K.45a / K.Anh.221 「ランバッハ」 6) 交響曲 ヘ長調 K.76 / K.42a (第43番) 【CD2】 1993、95年録音 7) 交響曲 第7番 ニ長調 K.45 8) 交響曲 第6番 ヘ長調 K.43 9) 交響曲 変ロ長調 K.45b / K.Anh214 (第55番) 10) 交響曲 第8番 ニ長調 K.48 11) 交響曲 第9番 ハ長調 K.73 / K.75a 12) 交響曲 ニ長調 K.81 / K.731 (第44番) 【CD3】 1993、95年録音 13) 交響曲 ニ長調 K.97 / K.73m (第47番) 14) 交響曲 ニ長調 K.95 / K.73n (第45番) 15) 交響曲 第11番 ニ長調 K.84 / K.73q 16) 交響曲 第10番 ト長調 K.74 17) 交響曲 ヘ長調 K.75 (第42番) 18) 交響曲 第12番 ト長調 K.110 / K.75b 19) 交響曲 ハ長調 K.96 / 111b (第46番) 【CD4】 1992,93年録音 20) 交響曲 第13番 ヘ長調 K.112 21) 交響曲 「アルバのアスカニオ」 ニ長調 K.120 / 111a (第48番) 22) 交響曲 第14番 イ長調 K.114 23) 2つのメヌエット K.61g 24) 交響曲 第15番 ト長調 K.124 25) 交響曲 第16番 ハ長調 K.128 【CD5】 1992,93年録音 26) 交響曲 第17番 ト長調 K.129 27) 交響曲 第18番 ヘ長調 K.130 28) 交響曲 第19番 変ホ長調 K.132 29) アンダンティーノ・グラツィオーソ 変ロ長調 K.132 (交響曲 第19番 第2楽章 別稿) 30) 交響曲 第20番 ニ長調 K.133 【CD6】 1992,93年録音 31) 交響曲 第21番 イ長調 K.134 32) 交響曲 「シピオーネの夢」 K.141a / k,161(K.163) (第50番) 33) 交響曲 第22番 ハ長調 K.162 34) 交響曲 第23番 ニ長調 K.181 / K.162b 35) 交響曲 第24番 変ロ長調 K.182(173dA) 36) 交響曲 ニ長調 「にせの花作り女」 K.121 / K.207a (第51番) 37) 交響曲 ハ長調 「羊飼いの王様」 K.102 / K.213c (第52番) 【CD7】 1989年録音 38) 交響曲 第31番 ニ長調 K.297 / 300a 「パリ」 39) アンダンテ (交響曲 第31番 第2楽章 別稿) 40) 交響曲 第27番 ト長調 K.199 / K.161b 41) 交響曲 第25番 ト短調 K.183 / K.173dB 【CD8】 1990年録音 42) 交響曲 第26番 変ホ長調 K.184/K.161a 43) 交響曲 第29番 イ長調 K.201/K.186a 44) 交響曲 第30番 ニ長調 K.202/K.186b 45) 交響曲 第28番 ハ長調 K.200/K.189k 【CD9】 1984年録音 46) 交響曲 第32番 ト長調 K.318 47) 交響曲 第35番 ニ長調 K.385 「ハフナー」 48) 交響曲 第39番 変ホ長調 K.543 【CD10】 1987年録音 49) 交響曲 第34番 ハ長調 K.338 50) メヌエット(交響曲のためのメヌエット) ハ長調 K.409/383f 51) 交響曲 第33番 変ロ長調 K.319 【CD11】 1985年録音 52) 交響曲 第36番 ハ長調 K.425 「リンツ」 53) 交響曲 第38番 ニ長調 K.504 「プラハ」 【CD12】 1984年録音 1) 交響曲 第40番 ト短調 K.550 2) 交響曲 第41番 ハ長調 K.551 「ジュピター」 以下、細かい感想を記そう。 【CD1-3】には神童モーツァルトが8歳から15歳にかけて手掛けた初期の交響曲が集められている。K.16が1764年(モーツァルト8歳)、K.110が1771年頃(モーツアルト15歳)の作品。ただし、これらの楽曲の中には、疑作(本当にモーツァルトが書いたものか疑わしい)作品も含まれている。K.76、K.81、K.95、K.45bは他者の作品の可能性が高く、全集から除かれる場合もあるが、テイトはそれらも含めて、一通り録音している。モーツァルトが書き始めた交響曲は、急-緩-急の3楽章構成からなるイタリア風シンフォニアが起源である。当盤では【CD1】に収録された作品群がそれに該当するが、天然痘から奇跡的に回復したモーツァルトが、1768年のウィーン旅行を経て以降、メヌエットを含んだ4楽章構成の作品を手掛けるようになる。当盤では【CD2】以降の楽曲が逸れに該当する。メヌエットは第3楽章に置かれることになるが、収録曲中では、例外的にK.75において、メヌエットが第2楽章に置かれる構成をとっている。これらの楽曲は、社交的な場における環境音楽的な位置づけがなされるもので、交響曲として分類されてはいるが、その表題に相応しい精神的なものを感じさせるものとはなっていない。ただ、モーツァルトが、神童と呼ばれるにふさわしい音楽的な教養と音色に対するインスピレーションを持っていたことは、よく示唆できる。K.73やK.110の緩徐楽章の楽器の情感豊かな交錯は、後にモーツァルトが描くことになった深く透明な憂いの端緒を聞き取ることが出来るだろう。当盤に収録された楽曲たちは、天才モーツァルトの作品(疑作含む)とはいえ、その楽想自体はまだまだ聴き手の気持ちを強く動かすものになってはいない。そのような意味で機会音楽的な位置づけが相当するのだろうが、それでも、ハーモニーや自然な運びには、モーツァルト的な無垢を感じることになるだろう。テイトは、色鮮やかで柔らかな表現法を用いていて、オーケストラから洗練された響きを引き出している。現代楽器ならではの色合いが、楽器の表現力を高めていて、聴き味を増してくれている。 【CD4-6】にはモーツァルトが15歳から19歳にかけて手掛けた交響曲が集められている。急-緩-急のイタリア式シンフォニアから、メヌエットを加えた4楽章構成へと構成的な成長を辿ることは前述したが、それは時代に沿って直線的な変化ではなく、これらの作品においても、3楽章構成のものと4楽章構成のものが混在している。「アルバのアスカニオ」、「シピオーネの夢」、「にせの花作り女」、「羊飼いの王様」は、それぞれオペラや劇場用音楽の序曲などのために書いた管弦楽のスコアに、さらに2つの楽章を加えて、シンフォニーの体裁を整えたもので、機会に応じて演ずる音楽のスタイルをアレンジするという、当時の作法により生み出されたもの。「2つのメヌエット」のうちの第1曲は、K.114の楽章の一つとして書かれたと考えられてきたが、現在では否定的な見解の方が強い。また、第2曲はミハエル・ハイドン(Michael Haydn 1737-1806)のピアノ曲をアレンジしたものとされている。この時代のモーツァルトの交響曲は、ミハエル・ハイドンやJ.C.バッハ(Johann Christian Bach 1735-1782)の影響を強く感じさせるもので、第25番以降の飛躍を明確に感じる部分はそれほどないかもしれない。むしろ、機会音楽に徹した明朗な音楽性を、安定した管弦楽書法で描き開けている仕事の軽快さぶりに、その天才を認めるところだろう。中にあって、姉妹作と言える第14番と第15番、それに第19番といった楽曲に、モーツァルトが、これらから開花するであろう天与の音楽性を感じることが出来るだろう。また、第19番では、第2楽章の書き直しを行っていて、当盤にはその双方のものを含んでいるが、書き直した結果、同時代の他作品と比較して、とても長い第2楽章に姿を変えたことは、モーツァルトの芸術的志向の変化なのか、あるいは、何らかの演奏機会の必要に応じて調整したものであったのか。この録音を聴いて、思いを巡らせてみるのも楽しいだろう。テイトの演奏は、洗練された響きで、これらの楽曲に新鮮な生命力をもたらしていて、ふさわしい。K.133のフルート、K.181のトランペットなど典雅な響きで魅惑的。また、当然の事ながら、これ以前にモーツァルトが書いた同系列作品と比べて、音色が輝かしくほとばしる瞬間が増えており、当盤では、溌溂と現代楽器によるオーケストラが、その表現的な要求に応えていることも望ましい。 テイトとイギリス室内管弦楽団によるモーツァルトの交響曲シリーズは、別稿や偽作と考えられるものも含めて一通り録音の対象としており、所有者のライヴラリを充実させてくれる。【CD7】では交響曲第31番の第2楽章の別稿であるアンダンテを併録してくれている。テイトの演奏は、現代楽器らしい、ふくよかで、色彩感と情感に富んだものであり、モーツァルトの音楽が持つ旋律の美しさを、自然に、すっと引き出したような伸びやかさに満ちており、春を謳歌するようなおおらかさに満ちているが、第31番では、冒頭の合奏音から、完全一様の切り口ではなく、ほどよいタイムラグのある幅のある響きが確保されていて、その柔らかな辺縁が、音響の華やかさを導き出している。テンポは快活だが、急速楽章だからといって果敢に煽るようなそぶりは見せず、落ち着きと弾力の双方を味わいよくブレンドしてくれている。その結果、聴き味は、高級感に満ちる。第2楽章の情感も特筆したい。とくに減衰する音が示す情緒は、ピリオド楽器演奏だと一本調子で単調になってしまいがちなのだが、このテイトの美演は逆で、しっとりとした気持ちがこもっていてハートがある。第27番は、私が音楽を聴きはじめたころ、ベーム(Karl Bohm 1894-1981)の演奏で親しんだなつかしい楽曲だが、ベームの演奏が折り目正しいものだとすると、テイトの演奏には、いくぶん遊行に赴く成分が濃く、発色性に関しても積極的に感じる。両端楽章は躍動感に富み、弦楽器の輝かしい響きとともに鮮やかな帰結に向かう。シュトゥルム・ウント・ドランク(Sturm und Drang)の影響下に書かれた初期の傑作第25番でも、テイトの棒は過激にならず、オーケストラの音色はつねに潤いがあり、豊かな音の幅は芳醇な雰囲気を持ち続ける。激しい個所は相応に激しいが、表現は何かに強く傾かくことはなく、オーソドキシーを守っており、その味わいは柔らかめだ。終楽章の悲劇性も、程よい装飾で、品を保ってまとめられる。 【CD8】では、4曲が、現在、「作曲されたと考えられている順番」に従って並んでいる。いずれも1773年から74年、モーツァルトが17歳から18歳にかけて書いた作品。現代楽器ならではの色彩感と豊かさのあるトーンで、柔らかなアプローチをした演奏。【CD8】の中で第29番以外の楽曲は、演奏・録音機会が少ないが、テイトとイギリス室内管弦楽団は、それらの楽曲にも素敵な彩色を施していて、モーツァルトの無垢性と併せて、自然で伸びやかな情感に満ちた響きを提示してくれている。第26番は、後のモーツァルト作品でも人の心を打つ「明るい中に射す陰り」が備わっていて、名品に繋がる薫りを感じさせる。特に前半2楽章は優れている。テイトは、その陰りを、しっかりとした味として感じさせるような運びをみせており、この作品の価値を明らかにしてくれる。名作として知られる第29番は、健康的という表現がことさら相応しい響きで、辺縁が柔らかでありながら、しっかりしたリズムを背景に芯のある音色が提示されており、まずは問題となるところのない演奏。ピリオド楽器だと単調に響くようなところも、ニュアンスの交錯できちんと支えている。第30番は、簡潔な作品で、重要なものではないが、第1楽章における高音と低音の弦に交錯などにハイドン的な遊興を感じさせる。テイトの演奏では、瑞々しいオーケストラの響きが、そのことを端的に示している。決してサウンドが硬くならないところが、いかにもふさわしく感じられる演奏となっている。第28番は、音楽が含む情感に幅のある作品となっていて、知名度が低いわりに聴きでのある楽曲の一つであるが、ここでは、楽器の響きを味わわせてくれる演出が楽しい。特に第3楽章で弦楽合奏に応答するホルンの音色は、この楽器の由来である山岳地方の森の響きを思わせて、情感に訴えてくれる。 【CD9】の第32番では、第1楽章の4連符が繰り返される快活な主題の輝かしさが相応しい。弦楽器の輪郭を、やや和ら目に保つことで、内的な弾力を獲得し、音に輝かしい豊かさをもたらすことに成功している。これがピリオド楽器だと、そうは行かない。弦楽器で言えば、音の末尾の部分が、楽器の機能的制約から、棒音になっていまい、ソノリティは一様で、硬く、柔軟さを持ちにくい。特に交響曲のような規模のものだと、その傾向が強くなってしまうから、楽器の数も制約が出てくる。それと比べると、テイトの演奏は、楽器のトーン自体の素晴らしさで、圧倒している。第35番も柔らかい聴き味が特徴。この曲の場合、裾野が広がる当演奏のようなスタイルを、「だらしなさ」と感じる人もいるかもしれないが、私は、そこまで美観を損ねるようなものを感じないし、魅力的な響きと感じている。第2楽章は表現性を備えたたっぷりした歌があり美しい。含みのある余韻は、余情と呼ばれるものを引き出す。それはロマン性に通じるものであるが、古典の音楽であっても、必要不可欠なものである。テイトは、それを積極的に衒いなく、しかし品を崩さず演奏に織り込む。第39番も第35番と同様であるが、ここでは木管楽器の響きにより注目したいところ。テイトは協奏曲の伴奏なんかでも、木管に雄弁なものを求めて、存在感を高める方法を取ることが多いが、ここでも木管が織りなす色彩感は、前面にあって、聴き手の印象に強く刻まれるものとなるだろう。快活でありながら落ち着きがあり、柔らかくても芯がある。そんなテイト流のモーツァルトが鮮やかに展開されている。 【CD10】に収録されている交響曲第34番は、6大交響曲の傑作群の次に連なるべき名品であるが、この曲の楽章については、歴史上議論があった。3楽章構成のこの楽曲は、本来4楽章構成を想定されていて、そのため、本来第3楽章となるものが、「メヌエット(交響曲のためのメヌエット) ハ長調 K.409/383f」であるという説である。この説を主張したのはアインシュタイン(Albert Einstein 1879-1955)である。このメヌエットの規模の大きさ、調性と構造、作曲時期等、検討した結果の推論であったのかもしれない。モーツァルトは「交響曲」において、3楽章構成と4楽章構成を併用しているが、第25番以降で3楽章構成となっているのは、第26番、第27番、第31番、第34番、第38番の5曲であり、4楽章構成を用いた楽曲が10曲であることと比較すると、4楽章制を一つの基準に導いた感があり、のちの交響曲作家たちが、交響曲は4つの性格的楽章から構成されるべきと考える基礎を築いたと言える。そのような観点で言うと、たしかにこのメヌエット、第34番の第3楽章に置くと、なかなかしっくりいくのだが、現在ではこれは定説として採用されていない。それは、モーツァルト新全集を編算した音楽学者フーリドリヒ・シュナップ(Friedrich Schnapp 1900-1983)が、このメヌエットを「独立した楽曲」と見做したためである。その主たる理由は、楽器編成の違い(メヌエットにはフルートが入っている)にあるらしい。だが、それも私には決定的な理由には思えない。いずれにしても、このアルバムではその両曲が収録されているので、各人で聴いて、想像をめぐらして楽しむのが良いだろう。この第34番でも、現代楽器ならではの柔らか味を感じさせるトーンと重厚さのバランスが絶妙で、最高の聴き味をもたらしてくれるものとなっている。ことに終楽章は、豊穣でありながらスマートであり、かつベートーヴェン以後への布石を感じさせるような質感を感じさせてくれる。ピリオド楽器の演奏では、楽器的制約ゆえに感じられない「幅のある表現」が見事であるし、この曲にはそれが相応しい。メヌエットは金管とティンパニの応答が、後期のピアノ協奏曲を思わせるような典雅さで、かつ色彩豊かに表現されているのがとてもうれしい。ここでも、テイトの解釈は、古典的でありながら、ロマンティックなものを品よくなじませていて、響きにほどよい奥行きが生まれている。第33番も健康的な明朗さをたたえながら、適度な甘味を交えた表現になっていて、楽器が表現性に訴えることを無理に抑えたりしない伸びやかさがある。そのことが、楽曲をとても魅力的に響かせている。 テイトが、このオーケストラから引き出す音色には、ほどよい柔らか味のある輪郭線があり、それがしなやかに躍動する様は、モーツァルトが「交響曲」というジャンルに込めた表現性に直結した感があり、自然な親和性に満ちている。サウンドは、高級感を感じさせ、かつ各楽器の音色は、彩(いろどり)豊かで、自発的な情感が宿っている。特に、各音が減衰していくときにもたらす余韻は、ピリオド楽器では感じ取りにくい情感を増幅し、聴き味を増してくれる。それゆえに、各曲が、その個性を、いよいよ発揮し、一つ一つの作品としての芸術的主張を高めるのである。【CD11】に収録された2曲では、テイトの演出により、彩色を施されることで、それぞれの動機が、ライト・モティーフのような主張を感じさせるように響く。一つの楽曲の中にストーリーがあるかのような愉悦性が高まり、味わいの幅が深くなる。第36番と第38番という2つの名曲では、特にそのイメージが強い。第36番の緩徐楽章や第38番の序奏部におけるゆったりした表現の中に、様々な情感に通じる要素があって、豊穣だ。しかも、それらの表現が、決してモーツァルトの無垢と呼ばれる神性を壊すことなく、音楽的方法の中で消化されている。その手腕を聴いていると、テイトを、モーツァルトを振るべくして生まれたアーティストと呼んで過言ではないかもしれない、と思えてくる。楽器の中では、存在感のあるティンパニ、そして華やかで音が前面に溢れるような木管の音色にテイトのモーツァルトの真骨頂を感じる。ティンパニを補強するトランペットの響きも、柔らか味がありながら芯があって、適度にふくよかだ。弦の合奏音は、輝かしい生命力に溢れている。テンポは落ち着いており、緩やかな個所では、よりゆったりする傾向があるが、音楽的な演出幅での緩急として、よく考えられたものであり、それゆえの「影」や「幅」を感じさせるところが素晴らしい。 テイトとイギリス室内管弦楽団によるモーツァルトは、あるいは保守的とみなされるスタイルのものかもしれない。発色性をてらわず、後期の楽曲においては、雄弁で勇壮な響きをいとわない。しかし、その演奏がもつ魅力は、私には恒久的なものに感じられる。決して過ぎ去ったものではなく、今なお聴き手に新たな感動を呼び覚まし、音楽に触れる喜びを提供してくれる。最後の【CD12】に収録された第40番は象徴的な名演だ。数多ある当曲の録音において、当録音をベストと押す人がそれなりに居たとしても不思議ではない。柔らかなトーンと白熱した集中で描かれる第1楽章も美しいが、絶品は第2楽章。その第1音から、聴き手の心を捕まえる力を持つ。私は、テイトの演奏でこのアンダンテを聴いていると、以下の様なシーンを連想する。北国の夏、陽が沈むとともに、昼を覆っていた暑さは過ぎ去り、どこからか渇いた涼やかな風が吹いてくる。その風に誘われるように、夜の林の中を歩く。空にはまだ少し明かりがのこっていて、柔らかい間接的な光があたりを照らす。その気持ちよさを感じているうちに、ふと過ぎ去った時に思いを馳せ、ほのかな郷愁に誘われる。じっさい、テイトの演奏はロマンティックだと思う。あるいは、モーツァルトの演奏としては、現代の感覚で言えば、表現力が強すぎるのかもしれない。だが、この第2楽章の美しさと薫りの高さに、私は抵抗することができない。面倒くさいことは考えず、そこに身を任せておけば、最高の至福を感じることができる。これが音楽の力だ。第41番も堂々たる演奏。落ち着いたテンポで、悠然と気風豊かな音楽が繰り広げられる。中間2楽章はゆったりめのテンポが特徴であるが、各楽器の音色の減衰をよく配慮した組み立てで、柔らかなホールトーンの効果も踏まえた効果的な演出となっている。終楽章は伸びやかな管弦楽の呼吸に即したようなリズム感が見事で、高揚感と解放感に満ちた帰結に至っている。 古典的名曲における正統的名演として、より存在感があってしかるべき全集である。 |
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初期交響曲集1 テイト指揮 イギリス室内管弦楽団 レビュー日:2020.4.27 |
★★★★☆ モーツァルトが8歳から15歳にかけて書いたシンフォニーたち
ジェフリー・テイト(Jeffrey Tate 1943-2017)指揮、イギリス室内管弦楽団の演奏で、モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)の以下の楽曲を収録したアルバム。 【CD1】 1) 交響曲 第1番 変ホ長調 K.16 2) 交響曲 第4番 ニ長調 K.19 3) シンフォニア ヘ長調 K.19a / Anh.223 4) 交響曲 第5番 変ロ長調 K.22 5) 交響曲 第7番 ト長調 K.45a / K.Anh.221 「ランバッハ」 6) 交響曲 ヘ長調 K.76 / K.42a (第43番) 【CD2】 7) 交響曲 第7番 ニ長調 K.45 8) 交響曲 第6番 ヘ長調 K.43 9) 交響曲 変ロ長調 K.45b / K.Anh214 (第55番) 10) 交響曲 第8番 ニ長調 K.48 11) 交響曲 第9番 ハ長調 K.73 / K.75a 12) 交響曲 ニ長調 K.81 / K.731 (第44番) 【CD3】 13) 交響曲 ニ長調 K.97 / K.73m (第47番) 14) 交響曲 ニ長調 K.95 / K.73n (第45番) 15) 交響曲 第11番 ニ長調 K.84 / K.73q 16) 交響曲 第10番 ト長調 K.74 17) 交響曲 ヘ長調 K.75 (第42番) 18) 交響曲 第12番 ト長調 K.110 / K.75b 19) 交響曲 ハ長調 K.96 / 111b (第46番) 1993年と95年の録音。 神童モーツァルトが手掛けた初期の交響曲を集めたもの。K.16が1764年(モーツァルト8歳)、K.110が1771年頃(モーツアルト15歳)の作品。ただし、これらの楽曲の中には、疑作(本当にモーツァルトが書いたものか疑わしい)作品も含まれている。K.76、K.81、K.95、K.45bは他者の作品の可能性が高く、全集から除かれる場合もあるが、テイトはそれらも含めて、一通り録音している。 モーツァルトが書き始めた交響曲は、急-緩-急の3楽章構成からなるイタリア風シンフォニアが起源である。当盤では【CD1】に収録された作品群がそれに該当するが、天然痘から奇跡的に回復したモーツァルトが、1768年のウィーン旅行を経て以降、メヌエットを含んだ4楽章構成の作品を手掛けるようになる。当盤では【CD2】以降の楽曲が逸れに該当する。メヌエットは第3楽章に置かれることになるが、収録曲中では、例外的にK.75において、メヌエットが第2楽章に置かれる構成をとっている。 これらの楽曲は、社交的な場における環境音楽的な位置づけがなされるもので、交響曲として分類されてはいるが、その表題に相応しい精神的なものを感じさせるものとはなっていない。ただ、モーツァルトが、神童と呼ばれるにふさわしい音楽的な教養と音色に対するインスピレーションを持っていたことは、よく示唆できる。K.73やK.110の緩徐楽章の楽器の情感豊かな交錯は、後にモーツァルトが描くことになった深く透明な憂いの端緒を聞き取ることが出来るだろう。 当盤に収録された楽曲たちは、天才モーツァルトの作品(疑作含む)とはいえ、その楽想自体はまだまだ聴き手の気持ちを強く動かすものになってはいない。そのような意味で機会音楽的な位置づけが相当するのだろうが、それでも、ハーモニーや自然な運びには、モーツァルト的な無垢を感じることになるだろう。 テイトは、色鮮やかで柔らかな表現法を用いていて、オーケストラから洗練された響きを引き出している。現代楽器ならではの色合いが、楽器の表現力を高めていて、聴き味を増してくれている。 |
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初期交響曲集2 テイト指揮 イギリス室内管弦楽団 レビュー日:2020.4.28 |
★★★★☆ モーツァルトが15歳から19歳にかけて書いたシンフォニーたち
ジェフリー・テイト(Jeffrey Tate 1943-2017)指揮、イギリス室内管弦楽団の演奏で、モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)の以下の楽曲を収録したアルバム。 【CD1】 1) 交響曲 第13番 ヘ長調 K.112 2) 交響曲 「アルバのアスカニオ」 ニ長調 K.120 / 111a (第48番) 3) 交響曲 第14番 イ長調 K.114 4) 2つのメヌエット K.61g 5) 交響曲 第15番 ト長調 K.124 6) 交響曲 第16番 ハ長調 K.128 【CD2】 7) 交響曲 第17番 ト長調 K.129 8) 交響曲 第18番 ヘ長調 K.130 9) 交響曲 第19番 変ホ長調 K.132 20) アンダンティーノ・グラツィオーソ 変ロ長調 K.132 (交響曲 第19番 第2楽章 別稿) 21) 交響曲 第20番 ニ長調 K.133 【CD3】 22) 交響曲 第21番 イ長調 K.134 23) 交響曲 「シピオーネの夢」 K.141a / k,161(K.163) (第50番) 24) 交響曲 第22番 ハ長調 K.162 25) 交響曲 第23番 ニ長調 K.181 / K.162b 26) 交響曲 第24番 変ロ長調 K.182(173dA) 27) 交響曲 ニ長調 「にせの花作り女」 K.121 / K.207a (第51番) 28) 交響曲 ハ長調 「羊飼いの王様」 K.102 / K.213c (第52番) 録音は1992-93年。 神童モーツァルトの初期の交響曲集。急-緩-急のイタリア式シンフォニアから、メヌエットを加えた4楽章構成へと構成的な成長を辿るが、それは時代に沿って直線的な変化ではなく、これらの作品においても、3楽章構成のものと4楽章構成のものが混在している。 「アルバのアスカニオ」、「シピオーネの夢」、「にせの花作り女」、「羊飼いの王様」は、それぞれオペラや劇場用音楽の序曲などのために書いた管弦楽のスコアに、さらに2つの楽章を加えて、シンフォニーの体裁を整えたもので、機会に応じて演ずる音楽のスタイルをアレンジするという、当時の作法により生み出されたもの。 「2つのメヌエット」のうちの第1曲は、K.114の楽章の一つとして書かれたと考えられてきたが、現在では否定的な見解の方が強い。また、第2曲はミハエル・ハイドン(Michael Haydn 1737-1806)のピアノ曲をアレンジしたものとされている。 この時代のモーツァルトの交響曲は、ミハエル・ハイドンやJ.C.バッハ(Johann Christian Bach 1735-1782)の影響を強く感じさせるもので、第25番以降の飛躍を明確に感じる部分はそれほどないかもしれない。むしろ、機会音楽に徹した明朗な音楽性を、安定した管弦楽書法で描き開けている仕事の軽快さぶりに、その天才を認めるところだろう。中にあって、姉妹作と言える第14番と第15番、それに第19番といった楽曲に、モーツァルトが、これらから開花するであろう天与の音楽性を感じることが出来るだろう。また、第19番では、第2楽章の書き直しを行っていて、当盤にはその双方のものを含んでいるが、書き直した結果、同時代の他作品と比較して、とても長い第2楽章に姿を変えたことは、モーツァルトの芸術的志向の変化なのか、あるいは、何らかの演奏機会の必要に応じて調整したものであったのか。この録音を聴いて、思いを巡らせてみるのも楽しいだろう。 テイトの演奏は、洗練された響きで、これらの楽曲に新鮮な生命力をもたらしていて、ふさわしい。K.133のフルート、K.181のトランペットなど典雅な響きで魅惑的。また、当然の事ながら、これ以前にモーツァルトが書いた同系列作品と比べて、音色が輝かしくほとばしる瞬間が増えており、当盤では、溌溂と現代楽器によるオーケストラが、その表現的な要求に応えていることも望ましい。 モーツァルトの神性が開花する前の、機会に応じて軽やかに描いたシンフォニーたちが、適度な色彩感を与えられて、魅力的に響いている。 |
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交響曲 第21番 第25番 第28番 第29番 第31番「パリ」 第33番 第35番「ハフナー」 第36番「リンツ」 第38番「プラハ」 第39番 第40番 第41番「ジュピター」 ブール指揮 南西ドイツ放送交響楽団 レビュー日:2019.9.3 |
★★★★★ モーツァルトの交響曲録音で、最良のものの一つ
フランスの指揮者、エルネスト・ブール(Ernest Bour 1913-2001)が、ドイツのバーデンバーデンに拠点を置く南西ドイツ放送交響楽団と録音した一連のモーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)の交響曲をまとめたCD5枚のbox-set。収録内容は以下の通り。 【CD1】 1) 交響曲 第21番 イ長調 K.134 2) 交響曲 第25番 ト短調 K.183 3) 交響曲 第28番 ハ長調 K.200 【CD2】 4) 交響曲 第31番 ニ長調 「パリ」 K.297 5) 交響曲 第33番 変ロ長調 K.319 6) 交響曲 第35番 ニ長調 「ハフナー」 K.385 【CD3】 7) 交響曲 第36番 ハ長調 「リンツ」 K.425 8) 交響曲 第38番 ニ長調 「プラハ」 K.504 【CD4】 8) 交響曲 第39番 変ホ長調 K.543 9) 交響曲 第40番 ト短調 K.550 【CD5】 10) 交響曲 第41番 ハ長調 「ジュピター」 K.551 11) 交響曲 第29番 イ長調 K.201 本アイテムにはデジタル録音と誤解するような表記があるが、録音が行われたのは1964年から1978年にかけてである。ただし、そのうちどの楽曲がいつ録音されたかは不詳。聴いた限りでは【CD5】がいちばん最初の録音に思われるが、いずれもステレオ録音であり、品質も安定した内容である。 さて、私は、類似アイテムとしてmembranから「Quadro mania」なるシリーズでリリースされた4枚組の廉価Box-setを、先行して所有していた。しかし、その内容をとても気に入ってしまったため、あらためて当盤を購入したのである。なぜなら、第21番と第31番の2曲は、当盤にしか収録されていないからだ。 結果的に、一部を重複して所有することになってしまったのだが、まったく後悔はない。やはりブールと南西ドイツ放送交響楽団のモーツァルトは素晴らしい。 以下、感想を上述のアイテムに書いたレビューと重複して記載するが、トーンの明るい柔らかさ、しなやかにこなされていく楽想の運動美、管弦楽の明朗な伸びやかさが最大の魅力だ。また、リピートの可否も楽曲の規模に応じて理想的なバランスで吟味されたもので、ことさらに長すぎる楽章が発生することもない。自然で、生命力に溢れている。ブールのモーツァルトは、現代楽器の美点を追及したものであるが、それでいながら、編成の大きさや重さを欠点として感じさせるところもない。それは音響の緻密な設計と、快活なテンポによってもたらされるものであり、そこには喜びや悲しみといった感情的なものが、暖かなソノリティで包み込むようにして表現されている。曲想に沿ったメリハリも自然発揚的で、人工的なものを感じさせないし、それらが収束する時も、不自然な凹凸がなく、鮮やかだ。録音について前述したが、録音年代を考えると十分に優秀なもので、おそらくリマスターされたのであろう、SN比も良好。むしろアナログ音源らしいシームレスな暖かみさえ感じさせる。 また、投稿日現在、当盤のみにおいて聴くことのできる第21番と第31番も、素晴らしい内容。小編成の第21番では第3楽章の弦のピチカートの鮮やかさが印象的。第31番では適度な重みをもったスピード感が爽快この上ない。 |
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交響曲 第23番 第36番「リンツ」 ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲 変ホ長調 K.364 アバド指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 vn: クスマウル va: クリスト レビュー日:2015.7.7 |
★★★★☆ 交響曲第23番が素晴らしい名演です
アバド(Claudio Abbado 1933-2014)指揮、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏で、モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)の以下の楽曲を収録したアルバム。 1) 交響曲 第23番 ニ長調 K.181(162b) 2) ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲 変ホ長調 K.364(320d) 3) 交響曲 第36番 ハ長調 K.425「リンツ」 2)の独奏者はヴァイオリンがライナー・クスマウル(Rainer Kussmaul 1946-)、ヴィオラがヴォルフラム・クリスト(Wolfram Christ 1955-)。1994年の録音。 なかなか面白い選曲だが、私には曲によって出来不出来の差のあるアルバムという印象である。 圧倒的に素晴らしいのが冒頭に収録された交響曲第23番。このほとんど演奏機会のない、全曲で10分にも満たない若きモーツァルトの作品が、なんと美しく響くことか。開放的な表情、スピーディーで心地よい展開、木管のふくよかで発色の好い音。すべてがチャーミングで、とても素晴らしい。実際、私はこの演奏を聴くまで、この曲がこれほどまで魅力にあふれた作品であるということを知らなかった。そのことに気づかせてくれただけでも大感謝である。 しかし、それに続いて聞いた協奏交響曲は今一つの感をぬぐえない。とても端正でしっかりした響きなのだが、全般に表情が強張っているような、萎縮を感じてしまう。慎重にまじめに音楽を運ぼうとして、この曲に不似合な寡黙さを招き入れてしまったところがないだろうか?第1楽章は独奏楽器と管弦楽の入れ替わり立ち代わりの受け渡しがことのほか楽しい楽曲のはずなのに、心の躍るところが少ないし、第2楽章の憂いも、ちょっと神妙に過ぎる気がする。この曲に関しては、ユリア・フィッシャー(Julia Fischer 1983-)とゴルダン・ニコリッチ(Gordan Nikolic 1968-)、ヤコフ・クライツベルク(Yakov Kreizberg 1959-2011)指揮オランダ室内管弦楽団による2007年の録音が抜群だと思うので、興味のある方にはそちらを推奨したい。 交響曲第36番は私にはなかなか良好な印象。適度なスピード感で、エレガントな味わいを引き出しながら、精妙なアクセントの効果で、憂いや影といった表情も過不足なく演出されている。もっと開放感のある響きがあってもいいかもしれないが、アバドの方法論は、一定の範囲の中での表現という領域を設けた均整感覚に根付いたものだと思うし、一つの説得力のある表現として、美しく整っていると感じた。 |
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交響曲 第25番 第27番 第31番「パリ」 アンダンテ (交響曲 第31番 第2楽章 別稿) テイト指揮 イギリス室内管弦楽団 レビュー日:2020.4.24 |
★★★★★ オーケストラの豊かな音色と自然な音の輪郭が美しいです。
ジェフリー・テイト(Jeffrey Tate 1943-2017)指揮、イギリス室内管弦楽団の演奏で、モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)の以下の楽曲を収録したアルバム。 1) 交響曲 第31番 ニ長調 K.297 / 300a 「パリ」 2) アンダンテ (交響曲 第31番 第2楽章 別稿) 3) 交響曲 第27番 ト長調 K.199 / K.161b 4) 交響曲 第25番 ト短調 K.183 / K.173dB 1989年の録音。 テイトとイギリス室内管弦楽団によるモーツァルトの交響曲シリーズは、別稿や偽作と考えられるものも含めて一通り録音の対象としており、所有者のライヴラリを充実させてくれる。当盤では交響曲第31番の第2楽章の別稿であるアンダンテを併録してくれている。 テイトの演奏は、現代楽器らしい、ふくよかで、色彩感と情感に富んだものであり、モーツァルトの音楽が持つ旋律の美しさを、自然に、すっと引き出したような伸びやかさに満ちており、春を謳歌するようなおおらかさに満ちており、魅力的だ。 第31番では、冒頭の合奏音から、完全一様の切り口ではなく、ほどよいタイムラグのある幅のある響きが確保されていて、その柔らかな辺縁が、音響の華やかさを導き出している。テンポは快活だが、急速楽章だからといって果敢に煽るようなそぶりは見せず、落ち着きと弾力の双方を味わいよくブレンドしてくれている。その結果、聴き味は、高級感に満ちる。第2楽章の情感も特筆したい。とくに減衰する音が示す情緒は、ピリオド楽器演奏だと一本調子で単調になってしまいがちなのだが、このテイトの美演は逆で、しっとりとした気持ちがこもっていてハートがある。 第27番は、私が音楽を聴きはじめたころ、ベーム(Karl Bohm 1894-1981)の演奏で親しんだなつかしい楽曲だが、ベームの演奏が折り目正しいものだとすると、テイトの演奏には、いくぶん遊行に赴く成分が濃く、発色性に関しても積極的に感じる。両端楽章は躍動感に富み、弦楽器の輝かしい響きとともに鮮やかな帰結に向かう。 シュトゥルム・ウント・ドランク(Sturm und Drang)の影響下に書かれた初期の傑作第25番でも、テイトの棒は過激にならず、オーケストラの音色はつねに潤いがあり、豊かな音の幅は芳醇な雰囲気を持ち続ける。激しい個所は相応に激しいが、表現は何かに強く傾かくことはなく、オーソドキシーを守っており、その味わいは柔らかめだ。終楽章の悲劇性も、程よい装飾で、品を保ってまとめられる。 |
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交響曲 交響曲 第25番 第31番「パリ」 フリーメイスンのための葬送音楽 交響曲ニ長調「ポストホルン」(セレナード第9番 K.320より) アバド指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 レビュー日:2015.7.29 |
★★★★☆ アバドの感性で一新されたベルリン・フィルのモーツァルト
アバド(Claudio Abbado 1933-2014)指揮、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団による1992年録音のモーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)の作品集。収録内容は以下の通り。 1) 交響曲 第31番 ニ長調 K.297(300a) 「パリ」 2) 同 第2楽章(改訂稿) 3) フリーメイスンのための葬送音楽 ハ短調 K.477(479a) 4) 交響曲 第25番 ト短調 K.183(173d) 5) 交響曲 ニ長調「ポストホルン」(セレナード第9番 K.320より) 5)はモーツァルトが、7楽章から構成される原曲から、何楽章か抜き出してシンフォニーの構成を考えていたという記録を参考に、第1楽章、第5楽章、第7楽章を交響曲に「見立てて」演奏したもの。この演奏方式は、ノリントン(Roger Norrington 1934-)やホグウッド(Christopher Hogwood 1941-2014)により考案、実践されてきた。しかし、現代楽器のオーケストラがこの形で取り上げることは少ない。ちなみに、中間楽章には、第2楽章のメヌエットを採用する方式、第5楽章と第6楽章を選んで全4楽章構成に見立てる方式もある。第5楽章のニ短調のアンダンティーノは、とても印象的で全曲のハートに相当する音楽。外したくない。それにしても、アバドは同じ年にベルリン・フィルとポストホルン・セレナーデの全曲も録音しているから、かなりこの曲がお気に入りだったのだろう。 また、交響曲第31番については、この曲の依頼主であるル・グロ(Joseph Le Gros 1730-1793)の希望により差し替えられた「改訂稿」を追加の形で収録し、通しの演奏の方はオリジナルのアンダンテを第2楽章に配置している。この両版を併せて収録したものは意外に少なく、他ではマッケラス(Charles Mackerras 1925-2010)盤くらい。ちなみにマッケラスは、第1楽章と第3楽章の間に、2つの「第2楽章」を挿入する形で録音していた。 アバドの演奏は基本的にやや早めのテンポ。ベルリン・フィルからこのような軽快でスリムなモーツァルトが響いたのは、アバドが芸術監督に就任して以降のことだろう。全般に颯爽たる明るさが特徴。その一方で、チェロ・バスのニュアンスはあまり出てこないが、聴き味の鮮やかさは流石といったところ。交響曲第25番は、ハイドン(Franz Joseph Haydn 1732-1809)の交響曲第83番、クレメンティ(Muzio Clementi 1752-1832)のソナタop.34-2とともに、疾風怒濤運動の象徴を成す楽曲の一つだが、アバドの演奏は高雅な明るさがあり、さほど悲劇的に響かないところがユニーク。他方、フリーメイスンのための葬送音楽では、中間部のテンポ・ダウンに深い思い入れを感じさせる。アバドにとって特別な音楽なのかもしれない。 交響曲第31番は、流麗なスタイルながら、木管の醸し出す繊細な情緒が瑞々しい。ポストホルン交響曲も、きれいに階層だった音色、上方が解放されたように響いて、気持ちの良い仕上がりとなっている。 |
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交響曲 第25番 第28番 第29番 第35番「ハフナー」 第36番「リンツ」 第38番「プラハ」 第39番 第40番 第41番「ジュピター」 セレナード第13番「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」 「劇場支配人」序曲 「コジ・ファン・トゥッテ」 「フィガロの結婚」序曲 「魔笛」序曲 フリーメーソンのための葬送音楽 6つのメヌエットK.599より第5番 12のメヌエットK.568より第12番 3つのドイツ舞曲K.605 ヴァイオリン協奏曲 第3番 第4番 レクイエム ワルター指揮 コロンビア交響楽団 vn: フランチェスカッティ ニューヨーク・フィルハーモニック ウェストミンスター合唱団 S: ゼーフリート A: トゥーレル T: シモノー B: ウォーフィールド レビュー日:2011.12.22 |
★★★★★ 私には「LP時代」を想起せずにはいられない懐かしい録音です
往年の大指揮者、ブルーノ・ワルター(Bruno Walter 1876-1962)の代表的録音に挙げられるモーツァルトが6枚組のBOXセットにまとまったもの。 私が学生だったころ、父のLPレコードのコレクションを通じて、様々な素晴らしい音楽に接してきた。考えてみると、当時(80年代終わり頃)、新譜のLPレコードは2,800円だったし、そうでないものも、概ね2,000円くらいしただろう。物価や収入を考えると、デジタル化、規格化の進んだ現代より、音楽メディアはずっと高価なものだったと思う。一つ一つ、なかなかこじゃれたデザインのジャケットだったように思うし、1枚1枚のレコードに対しても、今のCDより一層の思い入れがあって、レコードケースの紙質だとか、匂いとか、全部まとめて一つの「思い出の品」だったように思う。 その頃、モーツァルトの交響曲集として家にあったのが、ベーム(Karl Bohm 1894-1981)指揮ベルリンフィルのものと、このワルター指揮コロンビア交響楽団のものだった。父が毎月のお小遣いから少しずつ集めてきたものに違いない。どのLPも両面に1曲ずつ交響曲が収録されるようなスタイルで、そのデザインと質感はよく覚えている。それで、(やっと言おうとしていることに繋がるのだけれど)、ワルターの演奏というのは、その当時の「レコード」の質感や価値観に繋がるような印象に満ちているのである。1曲1曲、いかにも職人が作り上げたと言うような、玄人肌の感触だ。 ベームの指揮ぶりが真面目で生一本に思えたのに対し、ワルターの演奏にはほのかな甘みがあり、どこか聴き手に微笑みかけてくるようなチャームな要素を持っていた。そう。例えば、交響曲第38番「プラハ」の序奏が終わって展開が始まるところの、ちょっとした速度を上げるギアチャンジの瞬間、音色を通して、「さあ、行きましょうか」というワルターと楽団員の語りかけがこちらまで聴こえてくるような暖かい錯覚を覚えてしまう。これは私の思い入れがあるためかもしれないけれど、たぶん最近の録音ではこういうヒューマン・タッチな瞬間というのは、なかなか遭遇できませんよね? レクイエムを聴いてみると、いかにも合唱指揮者に一任したようなおおらかな合唱で、細かいアヤではなく、覆うようにして悲しみが表現されているように思うし、それが時代の理(ことわり)であり刻印であるとも感じた。 最後にリマスターについてだが、私はなつかしいアナログ・レコードと一部聴き比べてみたのだけれど、CDの方がやや明るい音色になっていると思う。LPの音が頭に残っていると少し違和感があるかもしれない。しかし、相対的にはノイズの影響は少なくなり、当然のことながらS/N比はきわだって良化している。それにしても、かつてのLPたちが、6枚のCDに集められて、この価格で売られていることに一抹の儚さを感じてしまった。でも、50年を過ぎて生き続ける芸術は本当に素晴らしいですね。あらためて堪能させていただいたワルターのモーツァルトでした。 |
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交響曲 第25番 第28番 第29番 第33番 第35番「ハフナー」 第36番「リンツ」 第38番「プラハ」 第39番 第40番 第41番「ジュピター」 ブール指揮 南西ドイツ放送交響楽団 レビュー日:2019.5.20 |
★★★★★ モーツァルトの交響曲録音で、最良のものの一つ
フランスの指揮者、エルネスト・ブール(Ernest Bour 1913-2001)が、ドイツのバーデンバーデンに拠点を置く南西ドイツ放送交響楽団と録音した一連のモーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)の交響曲をまとめたCD4枚の廉価セット。収録内容は以下の通り。 【CD1】 1) 交響曲 第25番 ト短調 K.183 2) 交響曲 第28番 ハ長調 K.200 3) 交響曲 第29番 イ長調 K.201 【CD2】 4) 交響曲 第33番 変ロ長調 K.319 5) 交響曲 第35番 ニ長調 「ハフナー」 K.385 6) 交響曲 第36番 ハ長調 「リンツ」 K.425 【CD3】 7) 交響曲 第38番 ニ長調 「プラハ」 K.504 8) 交響曲 第39番 変ホ長調 K.543 【CD4】 9) 交響曲 第40番 ト短調 K.550 10) 交響曲 第41番 ハ長調 「ジュピター」 K.551 録音は「1964-1978年」の全体表記のみであり、そのうちどの曲がいつ録音されたかの詳細は不明。聴いた印象では、どの曲も、録音状況は良好と言って良いが、第41番など、少し高音が硬く、時代を感じさせるところではある。これがいちばん古い音源か。 録音のことは置いておいても、とても素晴らしいモーツァルトである。ブールがこれらの楽曲を録音した年代に思いを馳せると、すでに、ブルーノ・ワルター(Bruno Walter 1876-1962)やカール・ベーム(Karl Bohm 1894-1981)といった巨匠たちの録音があり、さらにカラヤン(Herbert von Karajan 1908-1989)という同時代の輝かしい存在があった。他にもロマン派の潮流を引き継いだ巨匠たちの録音が並んでいたこともあり、ブールのこれらの録音が、(私の記憶では)積極的に取り上げられる機会はあまりなかったと思う。 しかし、今、あらためて聴いてみると、ブールと南西ドイツ放送交響楽団のモーツァルトは、とても素晴らしい。「ワルター、ベーム、カラヤンよりいいじゃないか」と思う人がいたって、何の不思議もない。また、最近の学究的なピリオド演奏に慣れた人がこの録音を聴いたら、その瑞々しさに感動するのではないか。 トーンの明るい柔らかさ、しなやかにこなされていく楽想の運動美、管弦楽の明朗な伸びやかさ。リピートの可否も楽曲の規模に応じて理想的なバランスで吟味されたもので、ことさらに長すぎる楽章が発生することもない。自然で、生命力に溢れている。ブールのモーツァルトは、現代楽器の美点を追及したものであるが、それでいながら、編成の大きさや重さを欠点として感じさせるところもない。それは音響の緻密な設計と、快活なテンポによってもたらされるものであり、そこには喜びや悲しみといった感情的なものが、暖かなソノリティで包み込むようにして表現されている。曲想に沿ったメリハリも自然発揚的で、人工的なものを感じさせないし、それらが収束する時も、不自然な凹凸がなく、鮮やかだ。録音について前述したが、録音年代を考えると十分に優秀なもので、おそらくリマスターされたのであろう、SN比も良好。むしろアナログ音源らしいシームレスな暖かみさえ感じさせる。 本当に入手してよかったと思う。 なお、当アイテムは独membraneによるQuadromaniaなる4枚組廉価シリーズの一環としてリリースされたもの。ジャケットに日本語のカタカナで「クアドロマニア」の文字がデザインされているが、単なるデザインであり、邦文表記などないので、参考までに記載しておく。 |
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モーツァルト 交響曲 第25番 第39番 ハイドン 交響曲 第99番 クーベリック指揮 バイエルン放送交響楽団 レビュー日:2019.8.13 |
★★★★★ 巨匠クーベリックの名に相応しい貫禄の名演
ラファエル・クーベリック(Rafael Kubelik 1914-1996)指揮、バイエルン放送交響楽団によるライヴ音源を集めたアルバムで、以下の楽曲が収録されている。 1) ハイドン(Joseph Haydn 1732-1809) 交響曲 第99番 変ホ長調 1982年録音 2) モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791) 交響曲 第25番 ト短調 K.183 1981年録音 3) モーツァルト 交響曲 第38番 ニ長調 K.504 「プラハ」 1985年録音 クーベリックは、1961年にバイエルン放送交響楽団の首席指揮者に就任し、1979年までその地位にあったのだが、その間に、このオーケストラを世界でもトップレベルの実力を備えるものに育て上げていった。首席指揮者の任を退いたあとも、同オーケストラとの良好な関係は継続し、数々の名演奏、名録音を記録した。 クーベリックと同オーケストラによるモーツァルトの交響曲といえば、1980年に録音し、SONYから発売された6大交響曲がきわめて名高く、私も、当該楽曲において、古今を代表する名演の一つだと思っている。当盤には、その5年後にライヴで振った「プラハ」が収録されているが、スタジオ録音が行われなかった第25番も収録されているのが貴重だ。またハイドンの交響曲についても、私の知る限り、クーベリックの音源としてはこれが唯一入手可能なものなのではないだろうか。もちろん、今後ライヴ音源が発掘されてリリースされる、ということはありえるが。 演奏は、編成の大きなオーケストラの輝かしい響きを尽くしたもので、美しいが、それとともに音楽に備わった躍動感を存分に引き出し、熱血的なものが存分に溢れた味わい。この熱血的なものの熱量が増えている点がスタジオ録音との違いだろう。もちろん、それゆえの細部の粗さもあることはあるのだけれど、オーケストラの全般に豊かで厚い音響が、そのような欠点を包み込むようにして音場を満たしており、そこまで気にならないレベルだと思う。 交響曲第38番は、スタジオ録音同様に堂々たる普遍的な美を感じさせる貫禄に満ちているが、モーツァルト若き日の傑作、第25番においても、ドライヴの深さは共通だ。それでいて心地よいテンポが維持されていて、安定と情熱の両立を感じる棒さばきである。いかにも巨匠の繰り出す音楽という実感がこもる。 ハイドンの交響曲第99番は、ベートーヴェンを思わせるような勇壮な冒頭から、健やかな音楽が溌溂と流れていく。ことに終楽章の木管楽器が繰り広げる幸福感に満ちたパッセージのやりとりは忘れがたい。 |
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交響曲 第25番 第39番 ムーティ指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 レビュー日:2012.5.23 |
★★★★★ 交響曲第25番の劇的表現が特徴的
リッカルド・ムーティ(Riccardo Muti 1941-)指揮ウィーンフィルによるモーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)の交響曲第25番と第39番。1996年の録音。 きわめて良好な関係が長期間に渡って続いているムーティとウィーンフィルが90年代に録音した一連のモーツァルトの交響曲集の一枚。10代のころの傑作、第25番と晩年の大傑作、第39番が併録されている。モーツァルトの交響曲は、たいていCDでは2ないし3曲収録されることになるのだが、この2曲の組み合わせというのは珍しいのではないだろうか。「第25番と晩年の傑作の組み合わせ」ということであれば、同じ短調どうしの第40番が相手として思い当たるところであるが、第39番だと、作曲時期も楽曲の雰囲気をだいぶ違う。しかし、逆に言うと、だからこそその対比が面白い、ということにもなる。交響曲に限らずモーツァルトのような多作家となると、1枚のアルバムにどの曲とどの曲を組み合わせるのか、といったことにも製作者側の意趣性が汲み取れて、面白いものである。 このアルバムでは第39番が冒頭に収録されている。このふくよかで豊饒な音楽は、冒頭に収録されるに相応しいものだろう。ムーティの紡ぎだす音楽は、歌に満ち、太く明瞭な旋律線を、余裕をもって響かせたもので、人々の幸福感に作用するものだと思う。非常に満ち足りた音楽といったところだろうか。特徴的なのはやわらかな金管陣のニュアンスある余韻があちこちで聞かれることで、フォルテの終結するところなどで、特有の浮遊感を味わわせてくれる。この効果がもたらす柔らかい感触は、そのままこの演奏のイメージと通じるものだと思う。 交響曲第25番は、劇的な疾風怒濤の音楽で、映画「アマデウス」の冒頭で鮮やかに使用されたものとしても有名だ。思えば、この「アマデウス」という作品、器楽曲では後期の名作群からの引用はそれほどなく(後期の作品は晩年に書かれたものだから、まだそれらの作品が生まれていないシーンで無暗に使うのは、興ざめになってしまいますね)、逆にこの第25番の使用は、きわめてインパクトが高かった。見事な演出と言える。 ムーティの演奏は、シリーズにあってこの曲の性格を考慮してか、俊敏で鋭利な切り口を持った特徴的なものになっている。暖かいサウンド自体は他の曲と同様のアプローチなのだけれど、テンポが速く、性急に畳み掛ける勢いに満ちている。シンフォニックな幅がキープされている分だけ、スピード感が増していることになる。中間楽章の柔和な雰囲気は第39番の表現と共通だ。終楽章では再び悲劇的なアップテンポの音楽が繰り広げられ、聴き手の気持ちを高ぶらせる。ムーティは、この曲から、若きモーツァルトの情熱を集中的に引き出し、提示している。 |
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交響曲 第26番 第28番 第29番 第30番 テイト指揮 イギリス室内管弦楽団 レビュー日:2020.4.22 |
★★★★★ 馴染みの薄い作品においても、しっかりと魅力を伝えてくれるテイトのモーツァルト
ジェフリー・テイト(Jeffrey Tate 1943-2017)指揮、イギリス室内管弦楽団の演奏で、モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)の以下の楽曲を収録したアルバム。 1) 交響曲 第26番 変ホ長調 K.184 / K.161a 2) 交響曲 第29番 イ長調 K.201 / K.186a 3) 交響曲 第30番 ニ長調 K.202 / K.186b 4) 交響曲 第28番 ハ長調 K.200 / K.189k 1990年の録音。 4曲の収録順であるが、現在、「作曲されたと考えられている順番」に従っており、いずれも1773年から74年、モーツァルトが17歳から18歳にかけて書いた作品である。 現代楽器ならではの色彩感と豊かさのあるトーンで、柔らかなアプローチをした演奏。収録曲の中で第29番以外の楽曲は、演奏・録音機会が少ないが、テイトとイギリス室内管弦楽団は、それらの楽曲にも素敵な彩色を施していて、モーツァルトの無垢性と併せて、自然で伸びやかな情感に満ちた響きを提示してくれている。 第26番は、後のモーツァルト作品でも人の心を打つ「明るい中に射す陰り」が備わっていて、名品に繋がる薫りを感じさせる。特に前半2楽章は優れている。テイトは、その陰りを、しっかりとした味として感じさせるような運びをみせており、この作品の価値を明らかにしてくれる。 名作として知られる第29番は、健康的という表現がことさら相応しい響きで、辺縁が柔らかでありながら、しっかりしたリズムを背景に芯のある音色が提示されており、まずは問題となるところのない演奏。ピリオド楽器だと単調に響くようなところも、ニュアンスの交錯できちんと支えている。 第30番は、簡潔な作品で、重要なものではないが、第1楽章における高音と低音の弦に交錯などにハイドン的な遊興を感じさせる。テイトの演奏では、瑞々しいオーケストラの響きが、そのことを端的に示している。決してサウンドが硬くならないところが、いかにもふさわしく感じられる演奏となっている。 第28番は、音楽が含む情感に幅のある作品となっていて、知名度が低いわりに聴きでのある楽曲の一つであるが、ここでは、楽器の響きを味わわせてくれる演出が楽しい。特に第3楽章で弦楽合奏に応答するホルンの音色は、この楽器の由来である山岳地方の森の響きを思わせて、情感に訴えてくれる。 |
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交響曲 第28番 第29番 第35番「ハフナー」 アバド指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 レビュー日:2015.8.12 |
★★★★★ アバドのモーツァルトの理想像を示した録音
アバド(Claudio Abbado 1933-2014)指揮、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団によるモーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)の交響曲集。個人的には、アバドがベルリン・フィルの芸術監督に就任してから録音された一連のモーツァルトのうち、当盤がいちばん良いと思う。収録曲は以下の3曲。 1) 交響曲 第28番 ハ長調 K.200(189k) 2) 交響曲 第29番 イ長調 K.201(186a) 3) 交響曲 第35番 ニ長調 K.385「ハフナー」 1990年から91年にかけての録音。 アバドのモーツァルトは精力的で明るい音色に満ちている。急速楽章はきわめて快活なテンポが生き生きと弾み、他方緩やかなアンダンテでは、暖かい表現に満ち、悲しさや陰りは中和される。オーケストラの表現は、適度な幅と肉付けがある。前任のカラヤン(Herbert von Karajan 1929-1989)のような豪壮な重厚さはないが、アットホームな雰囲気と、現代的なオーケストラの輝きの双方を、バランスよく配分した雰囲気。 そんなアバドのモーツァルトのうち、私は特に20番台の各曲が好きである。アバドの表現と楽曲の性格が遺漏なく一致した相応しさを感じる。 当アルバムでもまず第28番が素晴らしい。このいかにも古典的な楽曲の明朗快活さが、アバドの棒により爛漫とでも称したい屈託のなさで、ストレートに引き出されている。近年はやりのピリオド楽器演奏のような、中間部の薄さが感じられず、中央ヨーロッパ・テイストのマイルドな響きで、抜群の聴き味がある。特に終楽章は生気に溢れた表現で、弦の豊かな厚みを保った合奏音の疾走が、この上なく心地よい。 第29番も自然でエレガントな表現に徹していて、アバドらしい洗練と流麗を極めた表現。こちらも終楽章の目も覚めるような鮮やかな切り口がことに印象的だ。後期の充実した傑作である第35番も、響きの豊饒さを保ちながら、速いテンポを維持したダイナミックかつロマンティックな響きであり、現代楽器によるオーケストラの機能美を究極まで練り上げた表現といってよい。もちろん、奏者の技術水準も高く、足さばきの良い進行は、つねに聴き手の気持ちを高めてくれる。とても気持ちの良いモーツァルト・アルバムとなっている。 |
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交響曲 第28番 第33番 第35番「ハフナー」 第38番「プラハ」 第41番「ジュピター」 アバド指揮 モーツァルト管弦楽団 レビュー日:2013.11.22 |
★★★★☆ 70歳を超えたアバドが、新たな感覚でモーツァルトにアプローチ
アバド(Claudio Abbado 1933-)が2004年にボローニャの若手音楽家を中心に結成した「モーツァルト管弦楽団」と2005年、06年にライヴ収録したモーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)の以下の5曲の交響曲を収録。 1) 交響曲第28番 ハ長調 2) 交響曲第33番 変ロ長調 3) 交響曲第35番 ニ長調「ハフナー」 4) 交響曲第38番 ニ長調「プラハ」 5) 交響曲第41番 ハ長調「ジュピター」 キャリアの長いアバドであるが、交響曲第28番と第33番については、これが初録音となる。 モーツァルト管弦楽団は、ピリオド楽器の小編成オーケストラ。若手が主体とはいえ、コンサートマスターをジュリアーノ・カルミニョーラ(Giuliano Carmignola 1951-)が務めるほか、チェロ首席奏者にマリオ・ブルネロ(Mario Brunello 1960-)など要所には実力者を配している。 さて、私の場合、アバドが指揮したモーツァルトの交響曲というと、1979年(アバド45歳のとき)にロンドン交響楽団と録音した第40番と第41番が印象に残る。非常にソフトなトーンでおおらかに歌い上げられたモーツァルトだった。 それから26年の歳月を経て行われた今回の録音からは、まったく異なった印象が導かれる。これを聴くと、アバドが自らピリオド楽器によるオーケストラを創設したのには、それなりにやりたい表現がいろいろあったのだと納得させられる。 ハフナー交響曲冒頭から緩急の起伏を際立たせて、曲の輪郭をくっきり出し、かつ細かい表現技法を駆使してあらゆる手立てを打ってくる。小編成ならではの機動力を存分に活用した攻性のアプローチを連打し、しかもそれが楽団員の自発性に沿っていて、いかにも根っから楽しく演奏しているという感じ。第29番の終楽章などもこのうえなく明朗な楽しさに満ちている。他方で、やや硬質なサウンドとなっている印象もあり、ピリオド楽器的な柔らかさはあまり感じない。この辺はむしろ「締まった響き」というものを志したように思う。 第41番では、その硬めの響きが、やや楽曲の規模が小さく感じる印象に繋がるところもあるけれど、その響きだからこそ得られる精度を活かして、ありとあらゆる手法を使って、音楽に細やかな味付けを行っているこの演奏は、楽しくて面白い。細かいタメやアッチェランド、あるいは微小なクレシェンド・デクレシェンドを挿入したアゴーギグ。これでもか、これでもか、と実にきめ細やか。それらのアプローチから受ける相対的な印象は、同じピリオド楽器を使用したピノック(Trevor Pinnock 1946-)、ホグウッド(Christopher Hogwood 1941-)、ブリュッヘン(Frans Bruggen 1934-)、ガーディナー(John Eliot Gardiner 1943-)とも随分違う。人をびっくりさせる性質、という点では私にはアーノンクール(Nikolaus Harnoncourt 1929-)やミンコフスキ(Marc Minkowski 1962-)に近いように思うけれど。 これらの演出に、人工的な「あざとさ」を感じてしまうところもあるけれど、それを承知の上で楽しむのなら、十分な悦楽をもたらしてくれる演奏に違いない。これが現代イタリア風のモーツァルト、といったところなのだろうか。いずれにしても、多くあるモーツァルトの交響曲録音にあって、また一つ存在感を放つ新星が登場したと思う。それにしても、70歳を過ぎてから、まだまだ新しいことに挑戦するというアバドの気概は素晴らしく、芸術という範囲を越えて、感服する次第。 |
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交響曲 第28番 第29番 第30番 第31番「パリ」 第32番 第33番 第34番 第35番「ハフナー」 第38番「プラハ」 第39番 第40番 第41番「ジュピター」 C.デイヴィス指揮 ドレスデン・シュターツカペレ レビュー日:2013.11.18 |
★★★★★ 神性を感じさせるモーツァルトの交響曲の世界に誘う
イギリスの名指揮者、サー・コリン・デイヴィス(Sir Colin Rex Davis 1927-2013)が、ドレスデン・シュターツカペレ管弦楽団を振ってPhilipsレーベルに録音してきた一連のモーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)の交響曲を、DECCAレーベルが復刻した5枚組のアルバム。収録内容は以下の通り。 【CD1】(1981年録音) 1) 交響曲第28番 ハ長調 2) 交響曲第29番 イ長調 3) 交響曲第34番 ハ長調 【CD2】(1991年録音) 1) 交響曲第32番 ト長調「序曲」 2) 交響曲第30番 ニ長調 3) 交響曲第33番 変ロ長調 4) 交響曲第31番 ニ長調「パリ」 【CD3】(1988年録音) 1) 交響曲第35番 ニ長調「ハフナー」 2) 交響曲第38番 ニ長調「プラハ」 【CD4】(1988年録音) 1) 交響曲第36番 ハ長調「リンツ」 2) 交響曲第40番 ト短調 【CD5】(1981年録音) 1) 交響曲第39番 変ホ長調 2) 交響曲第41番 ハ長調「ジュピター」 私がモーツァルトの素晴らしい交響曲を聴くとき、今まででもっともよく聴いてきたのが、おそらくこのコリン・デイヴィスによるシリーズだと思う。「モーツァルトとの散歩」の著者として知られるアンリ・ゲオン(Henri Gheon 1875-1944)は、モーツァルトの最後の3つの交響曲(第39番、第40番、第41番)をもって、「交響曲は隠れた崇高な神の統治する御社となった」と称えた。その「神々しさ」とともに、これらの交響曲が持つ人に語りかける「暖かさ」と、すべてが透明に輝く「無垢さ」を、余すことなく満たした録音として、私が最初にイメージするのは、やはりこのデイヴィスの録音なのである。 収録曲を見たとき、交響曲第25番~第27番の3曲が欠けていることが惜しまれるが、それでも、モーツァルトの第28番以降の全ての交響曲(第37番は通常欠番である)を、この品質(演奏、音質の双方)で記録したことは、音楽ファンにとって福音と言って良いと思う。 演奏は、悠然たる落ち着いたテンポで、風格豊かに、そして高らかに管弦楽を鳴り渡らせたもの。例えば交響曲第39番の冒頭。現代では珍しくなった雄大で伸びやかなテンポ設定により、柔らかくも輝かしい管弦楽の響きを引き出す。これは、私には前述のアンリ・ゲオンの比喩を彷彿とさせるもの。更にここで添えられる木管の、無垢でありながら透明な歌に満ちた高雅な響きは、一縷の光線のように、部屋に差し込んでくるように思える。すべてを感じる至福の瞬間に他ならない。歴代の音楽を愛する人たちが、この瞬間に神の語りかけを聴いたとしても、何の不思議もない。 交響曲第41番の終楽章、偉大なフーガは、すべての音が力強く伸び、明朗かつ快活に勇壮な音楽を築き上げる。この音楽を聴いていると、モーツァルトの至高の芸術が、私たちを高い頂に誘ってくれることがわかる。オーケストラの絶対的な美観に貫かれたソノリティも最高。 その他、あまり有名ではないかもしれないが、私の好きな作品である交響曲第34番についても述べたい。ほのかな憂いの漂う陰影豊かな名品の気風が漂っていて、これまた絶品と言える演奏。パリ交響曲の豊饒壮麗な響きも素晴らしい。 モーツァルトが人類に遺してくれた名品に、心行くまで浸れる素晴らしい内容だと思う。 |
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交響曲 第29番 第31番「パリ」 第32番 第35番「ハフナー」 第36番「リンツ」 マッケラス指揮 スコットランド室内管弦楽団 レビュー日:2011.3.22 |
★★★★★ マッケラスならではの生命力に溢れる名演
2010年に亡くなった名指揮者サー・チャールズ・マッケラス(Sir Charles Mackerras 1925-2010)が、晩年に、桂冠指揮者を努めるスコットランド室内管弦楽団と録音したモーツァルトの交響曲集。2007年録音の第38番~第41番に引き続く形で、第29番、第31番「パリ」、第32番、第35番「ハフナー」、第36番「リンツ」の5曲が収録された。録音はマッケラスが亡くなる前年の2009年。なお、第31番については第2楽章の別稿も収録されていて、第1楽章>第2楽章>第2楽章(別稿)>第3楽章、という変則的な収録順になっている。 マッケラスの演奏スタイルは「ピリオド楽器的な演奏効果」や「両翼配置による古典的な音響」を取り入れつつ、現代楽器の小編成オーケストラによって、機動的で輝かしいサウンドを作り上げたもの。古今の様々なモーツァルトの演奏の「いいとこどり」をしてしまったような印象だ。不思議なのは、それでいて全体のバランスがとれていて、淀みのない自然な起伏により音楽が表情豊かに再現されている点にある。それこそが、マッケラスという音楽家の力量を端緒に示すものだろう。 ハフナー交響曲を聴いてみよう。冒頭から豊かな音色でありながらたちまちのうちにトップギアに入るスピード感が圧倒的。一縷の輝かしい展開から、突如オーケストラ全体が弱奏に転じる瞬間に放たれるエネルギー、それを背景に奏でられる表情豊かな弦の肌理が美しい。機転が利いていて、それが悦楽に作用している。この録音の特徴がよく出ている曲と言えるだろう。 交響曲第32番は一応3楽章構成であるが、全楽章がアタッカで演奏され、第3楽章が「第1楽章の再現」部的性格を有していることから、オペレッタの序曲として作曲されたものとも考えられている。マッケラスの棒の下、クレッシェンドの効果が鮮烈に決まるのが印象的だ。 交響曲第31番は第35番とともにクラリネットを含む2管編成のオーケストラのために書かれた作品。この作品の依頼人ジョセフ・ル・グロ(Joseph Le Gros 1730-1793・・モーツァルトの貴重な作品をいくつか紛失した悪名高き人物)の要請によりモーツァルトは交響曲第31番の第2楽章を書き直している。グロが、転調の多さと楽章自体の長さを気に入らなかったためであるが、この盤ではその両楽章を聴き比べるという楽しみもある。 いずれにしても輝かしい力感の漲るサウンドが素晴らしく、モーツァルトの音楽のみならず、今日までの楽器の進化などすべてを肯定的に吟味しつくした力強いメッセージに満ちた力演だと思う。このような録音を遺してくれたことにあらためて感謝したい。 |
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交響曲 第29番 第33番 第34番 ムーティ指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 レビュー日:2012.5.23 |
★★★★★ ウィーンフィルとムーティの蜜月のモーツァルト
リッカルド・ムーティ(Riccardo Muti 1941-)指揮ウィーンフィルによるモーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)の交響曲第29番、第33番、第34番の3曲を収録。1998年の録音。 ここ30年ほどの間で、世界最高と称されるウィーンフィルハーモニー管弦楽団から最も「愛されている」指揮者というと、ムーティの名が挙げられるだろう。度重なる海外公演や4度にわたるニューイヤー・コンサートへの出演だけでなく、数々の称号を同楽団から贈られている。 ムーティの指揮スタイルは、主旋律を存分な歌謡性で満たし、かつリズミックで暖かいサウンドで包むようなもので、そのスタイル自体、私たちが「ウィンナ・ワルツ」に代表される「ウィーン風」イメージに通じるものだ。また、数々のオペラをレパートリーに収めていることも重要だろう。もちろん、音楽性やレパートリーの共通というだけでなく、「愛される」ためには、ムーティの人間性そのものが大きく貢献しているに違いない。 それで、このディスクは、そのような蜜月関係のムーティとウィーンフィルが、90年代に録音した一連のモーツァルトの主要な交響曲集の一枚。 これを聴くと、なんとも自然で、気の赴くまま、モーツァルトのスコアに多くを委ねて、天高く音楽を歌った明朗な古典性に貫かれていると思う。もちろん、そこにある程度の「計算」が働いているのではあろうが、それにしても、そういった音楽を奏でる側の主観を感じる部分が少ないといった意味で、清々しいほどの純朴さを感じさせる。そして、これもよく言われることだが、そのことが、モーツァルトの「無垢」と形容される特性に一致し、本来あるべき姿の音楽が自然に提示されているような安心感がある。 モーツァルトの交響曲第33番と第34番の2曲は、第35番以降の「6大交響曲」グループから漏れてしまったため、妙に不利益を被った作品のように思う。もちろん、「6大交響曲」と同列とまでは行かないかもしれないが、作曲された時代を代表する優れた器楽作品であることは明らかで、その闊達で快活な主部と、転調などの瞬間にふと刺す陰りが、モーツァルトならではの名品の薫りとなっている。 当盤では、第33番と第34番の間に第29番が収録されている。こちらは言わずと知れたモーツァルトの初期の大傑作だ。ムーティとウィーンフィルのスタイルは、このような作品において「王道」といったイメージを彷彿とさせるもので、あらゆる価値を肯定的に包み込むかのような説得力がある。暖色系といえるホールトーンも美しい。低音部の過剰な主張を控えた自制ぶりも全体に好ましい雰囲気を醸成している。古典的名演の一つに数えられるだろう。 |
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交響曲 第29番 第35番「ハフナー」 ピアノ協奏曲 第19番 ベーム指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 p: ポリーニ レビュー日:2014.12.11 |
★★★★☆ 互いに好相性であったポリーニとベームのライヴの記録。ただし、録音状態はいまいち。
1980年、ザルツブルク音楽祭におけるライヴ音源がORFEOからリリースされた。ベーム(Karl Bohm 1894-1981)指揮、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏で、以下のモーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)の楽曲が収録されている。 1) 交響曲 第29番 イ長調 K.201 2) ピアノ協奏曲 第19番 ヘ長調 K.459 3) 交響曲 第35番 ニ長調 K.385「ハフナー」 2)におけるピアノ独奏はマウリツィオ・ポリーニ(Maurizio Pollini 1942-)。ポリーニとベームは、この演奏の4年前に、当該曲をスタジオ収録しており、そちらは名盤として知られている。 1980年のアナログ・ステレオ録音であるが、録音状態はそれほど良くはなく、細部の明瞭性が今一つで、合奏音の末尾のニュアンスがダマになって、聴き取り難いところがある。特にピアノ協奏曲第19番では、マイクが遠い印象で、バランスという点でも物足りない。そのような音源であっため、2014年まで、CDとしてリリースされなかったのではないだろうか。 しかし、貴重なライヴを、簡単に入手できるものにして頂けた事は、素直に嬉しい。 特に注目されるのは、協奏曲だろう。当時は、ポリーニ、ベームともに、あまり「協奏曲の録音」自体の少ないアーティストであったのだが、この二人は妙に相性が良かったようで、互の協奏曲録音は、この顔合わせに集中している。ベームの指揮は、基本的にドイツ・オーストリア音楽の本流を感じさせる典雅さと生真面目さを余せ持ったスタイル。一方のポリーニは、音楽における構築美を徹底させるスタイル。ベームにとって、ポリーニの音楽性は、ベームの音楽表現上の方針を損なう可能性がほとんどないものであったに違いないと思う。ポリーニもベームの指揮の下では、自分のスタイルをストレートに発揮することに、ほとんど抵抗を感じることはなかったのだろう。 本アルバムでは、ポリーニのピアニスティックな冴え、特に快活な終楽章のタッチの瑞々しさが印象的だ。ベームの指揮は、部分的に重さを感じさせるところがあるが、全体として品のある風格を醸し出しているのは流石で、古き佳き味わいを感じさせてくれる。とはいえ、録音面を考慮すると、どうしても既出のスタジオ録音の方が、フアンの要望にはフィットした内容だろう。 2曲の交響曲では、末尾に収録されたハフナーが素晴らしい。闊達な表現で、適度にふくよかなハーモニーから、充実した音響を引き出している。録音状態が十全ではないため、細部の明瞭性がよくわからないというところもあるが、全体的なテンポと、全編から溢れる華やかな歌は、晩年のベームに相応しい貫禄に満ちている。 他方、交響曲第29番の表現は、スローなテンポで、柔らか味がある一方で、現代の演奏に聴きなれると、いささか腰の重さを随所に感じてしまうものとも感じられた。ベームが59年から68年にかけてグラモフォンにベルリン・フィルと録音したものは、要所を締め、要所を歌った高度なバランスを感じさてくれたので、それと比較すると、当録音には、どうしても「緩み」を感じてしまう。 せめてもう少し録音が良ければ、という点が大いに残るのであるが、特にアルバム後半で、この時代の香りを感じさせる佳演が聴けるものとなっている。また、当時のポリーニとベームのライヴの様子が分かるという意味において、彼らのフアンにとっては、押さえたい録音だと思う。 |
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交響曲 第31番「パリ」 第41番「ジュピター」 ムーティ指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 レビュー日:2011.11.22 |
★★★★★ 幸福感に満ち、高々と歌い上げられたモーツァルト
リッカルド・ムーティ(Riccardo Muti 1941-)指揮ウィーンフィルによるモーツァルトの交響曲第41番「ジュピター」と第31番「パリ」を収録。録音は1993年。 この時期、ムーティとウィーンフィルはモーツァルトの交響曲を一通り録音していて、私はその一部を聴いたけれど、典雅でチャーミングな魅力的な演奏だった。しかし、これらのPhilipsの音源は、長らく廃盤となってしまっている。なんらかの廉価シリーズで定盤化されてもいいように思うのだけれど。今回、この2曲を収めたディスクを入手できたので、あらためて聴いてみた。 ムーティとウィーンフィルのモーツァルト、それは暖かい幸福感に満ちたものといっていいだろう。もちろん、モーツァルトの長調の音楽は、それ自体、幸福を感じさせてくれるものだけれど、ムーティの演奏は、臆面なく、その要素を存分に解き放ったものだと思う。弦による旋律線は太く、豊穣な響きを持って描かれ、木管の丸みを帯びた音色はこぼれて転がるように楽しげに響く。 他方、人によって気になるかもしれないと思える点として、弦楽器陣のややあざとい「表情付け」があるかもしれない。モーツァルト最後の交響曲であり、ヴァイオリニスト、ザロモン(Johann Peter Salomon 1745-1815)によってギリシア建築のような完璧な美しさを「ジュピター」と称された第41番は、第1楽章において、全管弦楽の休符による「タメ」が重要な役割を果たすが、ムーティの演奏は、この「タメ」の前の弦楽合奏音が裾野を広げるように甘く伸びており、そのふるまいが、「ジュピター交響曲」の威容にどこかそぐわない気がしないだろうか?その影響をさらに高める軟焦点気味の録音も少し気になるところだろう。 しかし、その他の点においては、この録音には飽和するような華やかさがあり、見事なものだと思う。誰もが圧倒される「ジュピター交響曲」の終楽章、フーガとソナタ形式を融合し、一つの旋律を天の高みに届けと歌い上げるその高揚感の心地よさはなかなかのもの。また「パリ交響曲」の闊達なリズムや色彩感も好ましく、ウィーンフィルならではの貫禄を感じさせるトーンは十分に堪能できる。 とりあえず、廃盤にしておくのはもったいないだろう。PhilipsはDECCAとレーベル統合したので、ぜひとも、C.デイヴィスのモーツァルトの交響曲集も復刻してくれたDECCAには、ムーティ盤もお忘れなく、とお願いしたい。 |
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交響曲 第32番 第35番「ハフナー」 第39番 テイト指揮 イギリス室内管弦楽団 レビュー日:2020.4.20 |
★★★★★ ふくよかな表現性を感じさせるテイトのモーツァルト
ジェフリー・テイト(Jeffrey Tate 1943-2017)指揮、イギリス室内管弦楽団の演奏で、モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)の以下の楽曲を収録したアルバム。 1) 交響曲 第32番 ト長調 K.318 2) 交響曲 第35番 ニ長調 K.385 「ハフナー」 3) 交響曲 第39番 変ホ長調 K.543 1984年の録音。 現代楽器を用いた情感豊かな演奏。全体の雰囲気はソフトで、暖かい。 第32番は、第1楽章の4連符が繰り返される快活な主題の輝かしさが相応しい。弦楽器の輪郭を、やや和ら目に保つことで、内的な弾力を獲得し、音に輝かしい豊かさをもたらすことに成功している。これがピリオド楽器だと、そうは行かない。弦楽器で言えば、音の末尾の部分が、楽器の機能的制約から、棒音になっていまい、ソノリティは一様で、硬く、柔軟さを持ちにくい。特に交響曲のような規模のものだと、その傾向が強くなってしまうから、楽器の数も制約が出てくる。それと比べると、テイトの演奏は、楽器のトーン自体の素晴らしさで、圧倒している。 第35番も柔らかい聴き味が特徴。この曲の場合、裾野が広がる当演奏のようなスタイルを、「だらしなさ」と感じる人もいるかもしれないが、私は、そこまで美観を損ねるようなものを感じないし、魅力的な響きと感じている。第2楽章は表現性を備えたたっぷりした歌があり美しい。含みのある余韻は、余情と呼ばれるものを引き出す。それはロマン性に通じるものであるが、古典の音楽であっても、必要不可欠なものである。テイトは、それを積極的に衒いなく、しかし品を崩さず演奏に織り込む。 第39番も同様であるが、ここでは木管楽器の響きにより注目したいところ。テイトは協奏曲の伴奏なんかでも、木管に雄弁なものを求めて、存在感を高める方法を取ることが多いが、ここでも木管が織りなす色彩感は、前面にあって、聴き手の印象に強く刻まれるものとなるだろう。快活でありながら落ち着きがあり、柔らかくても芯がある。そんなテイト流のモーツァルトが鮮やかに展開されている。 |
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交響曲 第33番 第34番 メヌエット(交響曲のためのメヌエット)ハ長調 K.409/383f テイト指揮 イギリス室内管弦楽団 レビュー日:2020.4.15 |
★★★★★ 4楽章構想は存在したのか?交響曲第34番をめぐる想像を交えながら
ジェフリー・テイト(Jeffrey Tate 1943-2017)指揮、イギリス室内管弦楽団の演奏で、モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)の以下の楽曲を収録したアルバム。 1) 交響曲 第34番 ハ長調 K.338 2) メヌエット(交響曲のためのメヌエット) ハ長調 K.409/383f 3) 交響曲 第33番 変ロ長調 K.319 1987年の録音。 モーツァルトの交響曲第34番は、6大交響曲の傑作群の次に連なるべき名品であるが、この曲の楽章については、歴史上議論があった。3楽章構成のこの楽曲は、本来4楽章構成を想定されていて、そのため、本来第3楽章となるものが、「メヌエット(交響曲のためのメヌエット) ハ長調 K.409/383f」であるという説である。この説を主張したのはアインシュタイン(Albert Einstein 1879-1955)である。このメヌエットの規模の大きさ、調性と構造、作曲時期等、検討した結果の推論であったのかもしれない。モーツァルトは「交響曲」において、3楽章構成と4楽章構成を併用しているが、第25番以降で3楽章構成となっているのは、第26番、第27番、第31番、第34番、第38番の5曲であり、4楽章構成を用いた楽曲が10曲であることと比較すると、4楽章制を一つの基準に導いた感があり、のちの交響曲作家たちが、交響曲は4つの性格的楽章から構成されるべきと考える基礎を築いたと言える。 そのような観点で言うと、たしかにこのメヌエット、第34番の第3楽章に置くと、なかなかしっくりいくのだが、現在ではこれは定説として採用されていない。それは、モーツァルト新全集を編算した音楽学者フーリドリヒ・シュナップ(Friedrich Schnapp 1900-1983)が、このメヌエットを「独立した楽曲」と見做したためである。その主たる理由は、楽器編成の違い(メヌエットにはフルートが入っている)にあるらしい。だが、それも私には決定的な理由には思えない。いずれにしても、このアルバムではその両曲が収録されているので、各人で聴いて、想像をめぐらして楽しむのが良いだろう。 さて、演奏であるが、現代楽器ならではの柔らか味を感じさせるトーンと重厚さのバランスが絶妙で、最高の聴き味をもたらしてくれるものとなっている。ことに第34番の終楽章は、豊穣でありながらスマートであり、かつベートーヴェン以後への布石を感じさせるような質感を感じさせてくれる。ピリオド楽器の演奏では、楽器的制約ゆえに感じられない「幅のある表現」が見事であるし、この曲にはそれが相応しい。 メヌエットは金管とティンパニの応答が、後期のピアノ協奏曲を思わせるような典雅さで、かつ色彩豊かに表現されているのがとてもうれしい。ここでも、テイトの解釈は、古典的でありながら、ロマンティックなものを品よくなじませていて、響きにほどよい奥行きが生まれている。 交響曲第33番も健康的な明朗さをたたえながら、適度な甘味を交えた表現になっていて、楽器が表現性に訴えることを無理に抑えたりしない伸びやかさがある。そのことが、楽曲をとても魅力的に響かせている。 |
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交響曲 第35番「ハフナー」 セレナーデ 第9番「ポストホルン」 行進曲ニ長調K.335-1(K.320a-1) アーノンクール指揮 ウィーン・コンツェントゥス・ムジクス レビュー日:2024.11.6 |
★★★★★ アーノンクールが到達したモーツァルト
ニコラウス・アーノンクール(Nikolaus Harnoncourt 1929-2016)がピリオド楽器のオーケストラ、ウィーン・コンツェントゥス・ムジクスを指揮して2012年にライヴ録音したもので、モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)の以下の3つの楽曲が収録されている。 1) 行進曲 ニ長調 K.335-1(K.320a-1) 2) セレナード 第9番 ニ長調 K.320 「ポストホルン」 3) 交響曲 第35番 ニ長調 K.385 「ハフナー」 このプログラムは、2010年にアーノンクール自らが「最後の日本ツアー」としてウィーン・コンツェントゥス・ムジクスと来日した際のものと同内容のものだそうである。 冒頭に収録された行進曲は、多くの音楽学者によって「ポストホルン」の前奏のために書かれたと考えられている2つの行進曲のうち第1番と呼ばれるもの。 アーノンクールのモーツァルトは、どの演奏を聴いても、指揮者、アーノンクールの存在を強烈に刻印する。緩急の自在性、ダイナミックレンジの大きさも特徴だが、なんといってもスラーの強調は、印象を左右する痛烈な要素で、それは全曲を通じてひたすらに行われるので、どこをとってもアーノンクールの音である、という感じがする。 当盤に収録されているポストホルン・セレナーデとハフナー交響曲は、モーツァルトが遺した特に壮麗な響きに満ちた音楽だが、アーノンクールはそこに特有のアゴーギグを組み込み、トランペット、ホルン、ティンパニの強い音を加える。正直に言うと、私はアーノンクールの作り出す音響を聴いて、美しいと思ったことはほとんどない。感想としては、面白いとか、猛々しいとか、そんな感じである。ただ、聴いているうちに、そのアヤがクセになる要素を含んでいて、強く記憶に刻まれることは確かだ。様々に変化するアーティキュレーションは、一つ一つのフレーズの役割を明確にするとともに、それらの主張を強めるから、決して中間部の厚い優美な響きには向かわず、対比や組み合わせの妙を強調したむしろゴツゴツした感触の味わいになる。 実際、ハフナー以降の後期の交響曲は、ピリオド楽器で演奏したとき、現代楽器による名演に親しんできた人には、凡庸に聴こえることが多くある。アーノンクール自身、ピリオド楽器によるモーツァルトの後期交響曲の録音には、きわめて慎重だった。だから、晩年のアーノンクールが奏でるハフナー交響曲には、彼が芸術家として考え抜いたアイデアの限りが含まれているのである。私の感性では、それらがすべて成功しているとは感じないが、とても面白いことは間違いないし、機知により凡庸を避け、統一感により俗っぽさを避け、そして芸術に到達する過程を感じることは出来る。 アーノンクールが唯一無二の芸術家たりえた証が示された録音である。 |
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交響曲 第35番「ハフナー」 第38番「プラハ」 第39番 第40番 第41番「ジュピター」 C.デイヴィス指揮 ドレスデン国立管弦楽団 レビュー日:2006.6.5 |
★★★★★ 最上のトーンで天上の交響曲を・・・
サー・コリン・デイヴィスがデジタル録音初期に、ドレスデン国立管弦楽団と録音したモーツァルトの後期交響曲集。しばらくの間、なぜか39番と41番を除いては、国内盤、輸入盤とも入手が難しい状況にあったが、やっとこのように入手しやすい再編集版がリリースされた。収録時間の都合で36番が除かれたのが残念だが、それにしてもたいへん喜ばしい再発売となった。 まず、その流線型にシェイプアップされた流麗なフォルムがすばらしい。それでいて音の輪郭はきりっと引き締まっていて、全体像はクリアに焦点があっている。つまりソフトなトーンでありながら、滋味豊かで、音楽としての表現が常に豊かな含蓄にみちている。録音もいま聴いても決して聴き劣りするレベルではないし、たとえば第39番の冒頭の木管の美しい透明な風情などは抜群に心地よい。 第40番の1楽章、「疾走する悲しみ」の透明無比な歌は、小林秀雄の「詩のない音楽を聴いたときに流す涙が、人間のもっとも純粋な涙」の名言を彷彿とされる。第41番の凛々しい響きは天上から差し込む光のようだ。・・・そして終楽章・・・神々の祭典へ。 それにしてもモーツァルトは天才だ。モーツァルトの短い生涯においてその最高の極みに到達した最後の3つの交響曲(第39番~第41番)は、1788年の夏のわずか3か月の間に生み出されている。まさに神の仕事といっても過言ではないだろう。それをこの極上の演奏と録音で、この値段で聴けてしまうのだから・・・まったく幸せな話である。 |
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モーツァルト 交響曲 第35番「ハフナー」 第36番「リンツ」 第38番「プラハ」 第39番 第40番 第41番「ジュピター」 ウェーベルン 交響曲 変奏曲 パッサカリア 5つの小品 6つの小品 ドホナーニ指揮 クリーヴランド管弦楽団 レビュー日:2016.2.29 |
★★★★★ モーツァルトとウェーベルンの代表的管弦楽作品を集めた3枚組です
クリストフ・フォン・ドホナーニ(Christoph von Dohnanyi 1929-)指揮、クリーヴランド管弦楽団による、モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)の6大交響曲とウェーベルン(Anton Webern 1883-1945)の主要な管弦楽曲を、CD3枚に収録したアルバム。その収録内容は以下の通り。 【CD1】 1) モーツァルト 交響曲 第35番 ニ長調 K.385 「ハフナー」 1990年録音 2) モーツァルト 交響曲 第36番 ハ長調 K.425「リンツ」 1990年録音 3) ウェーベルン パッサカリアop.1 1992年録音 4) ウェーベルン 6つの小品 op.6a 1992年録音 【CD2】 1) モーツァルト 交響曲 第38番 ニ長調 K.504 「プラハ」 1990年録音 2) モーツァルト 交響曲 第39番 変ホ長調 K.543 1990年録音 3) ウェーベルン 5つの小品 op.10 1991年録音 4) ウェーベルン 交響曲 op.21 1991年録音 【CD3】 1) モーツァルト 交響曲 第40番 ト短調 K.550 1990年録音 2) モーツァルト 交響曲 第41番 ハ長調 K.551 「ジュピター」 1990年録音 3) ウェーベルン 変奏曲 op.30 1991年録音 モーツァルトとウェーベルンという組み合わせがとても変わっている。モーツァルトの6大交響曲と併せて、ウェーベルンの主要な管弦楽曲を聴くことができるので、ライブラリは充実するが、1枚のCDを連続して聴いていると、その世界観の隔絶の度合いはとても大きい。 とはいえ、ドホナーニとクリーヴランド管弦楽団が絶好調といって良い時代の記録であり、彼らの録音全般がとても好きな私のような人間には、とても愛着のあるアルバムだ。 ドホナーニのモーツァルトは、とても技術的に速やかな音楽で、高速で駆け巡る音階などの一音一音のアクセントの効いたキレの良さなど、絶品であり、なかなか爽快な聴き味をもたらす。ハフナー交響曲など、いかにも編成の大きい重厚さを感じさせるところがあって、重い響きも、避けずに用いるところが特徴だ。その結果として、光沢あるオーケストラのサウンドではあるが、響きそのものの印象はところどころ暗さや硬さを残したところがあって、そこに彼らならではの刻印のようなものを感じる。 この「暗さ」や「硬さ」は、理知的で機能的に突きすすんでいる演奏の中で、ところどころに影を残しているような聴き味に作用する。その影は、うまく説明し難いのだけれど、情緒的なものとはまた違ったニュアンスで、聴き手に与えられるように思う。 人によっては、それがモーツァルトの音楽を聴く味わいとは、異質なものに感じられるかもしれない。しかし、私には現代楽器を駆使したオーケストラがフル回転するときの駆動性に起因するものに思えて興味深い。この録音が出るまで、私はモーツァルトの交響曲から、そのようなニュアンスを感じ取ることは出来なかったので、ドホナーニの演奏は、特定の価値観を究極的にブラッシュアップしたものとして、提示されているのだと思う。 快活なテンポ、圧倒的なオーケストラの機能美に酔いながら、モーツァルトの楽曲が持つ憂いと、オーケストラ・サウンドから時折発生する影が交錯する、ユニークなモーツァルト、といったところだろうか。 ウェーベルン作品はいずれもドホナーニのタクトのもと、精緻に奏でられたものだ。初期の古典的情感を湛えたパッサカリアも、代表作として知られる変奏曲も、きわめて均質化された音響で奏でられており、ウェーベルンが目指した音響が、相応しいアプローチで表現されている。 |
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モーツァルト 交響曲 第35番「ハフナー」 第36番「リンツ」 第38番「プラハ」 第39番 第40番 第41番「ジュピター」 セレナード 第13番「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」 フルートとハープのための協奏曲 ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲 クラリネット協奏曲 オーボエ協奏曲 ファゴット協奏曲 ウェーベルン 交響曲 変奏曲 パッサカリア 5つの小品 6つの小品 ドホナーニ指揮 クリーヴランド管弦楽団 vn: マジェスケ va: ヴァーノン cl: コーエン ob: マック fg: マックギル レビュー日:2016.2.29 |
★★★★★ ドホナーニとクリーヴランド管弦楽団が録音したモーツァルトを集めた5枚組Box-set
1990年から1993年にかけて、クリストフ・フォン・ドホナーニ(Christoph von Dohnanyi 1929-)指揮がクリーヴランド管弦楽団を指揮して録音した一連のモーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)作品を5枚組のBox-setとしたもの。収録内容は以下の通り。 【CD1】 1) モーツァルト 交響曲 第35番 ニ長調 K.385 「ハフナー」 1990年録音 2) モーツァルト 交響曲 第36番 ハ長調 K.425「リンツ」 1990年録音 3) ウェーベルン パッサカリアop.1 1992年録音 4) ウェーベルン 6つの小品 op.6a 1992年録音 【CD2】 1) モーツァルト 交響曲 第38番 ニ長調 K.504 「プラハ」 1990年録音 2) モーツァルト 交響曲 第39番 変ホ長調 K.543 1990年録音 3) ウェーベルン 5つの小品 op.10 1991年録音 4) ウェーベルン 交響曲 op.21 1991年録音 【CD3】 1) モーツァルト 交響曲 第40番 ト短調 K.550 1990年録音 2) モーツァルト 交響曲 第41番 ハ長調 K.551 「ジュピター」 1990年録音 3) ウェーベルン 変奏曲 op.30 1991年録音 【CD4】 モーツァルト 1) セレナード 第13番 ト長調 K.525 「アイネ・クライネ・ナハトムッジーク」 1991年録音 2) フルートとハープのための協奏曲 ハ長調 K.299 (297c) 1993年録音 フルート:ジョシュア・スミス(Joshua Smith) ハープ:リサ・ウェルバウム(Lisa Wellbaum 1948-) 3) ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲 変ホ長調 K.364 1991年録音 ヴァイオリン:ダニエル・マジェスケ(Daniel Majeske 1932-1993) ヴィオラ:ロバート・ヴァーノン(Robert Vernon 1949-) 【CD5】 モーツァルト 1) クラリネット協奏曲 イ長調 K.622 1991年録音 クラリネット:フランクリン・コーエン(Franklin Cohen 1943-) 2) オーボエ協奏曲 ハ長調 K.314(285d) 1992年録音 オーボエ:ジョン・マック(John Mack 1927-2006) 3) ファゴット協奏曲 変ロ長調 K.191(186e) 1993年録音 ファゴット:デイヴィッド・マックギル(David McGill) 交響曲集にはウェーベルン(Anton Webern 1883-1945)の代表的な作品が併録されている。 ジョシュア・スミス、ダニエル・マジェスケ、ロバート・ヴァーノン、フランクリン・コーエン、ジョン・マック、デイヴィッド・マックギルといった独奏者たちは、当時のクリーヴランド管弦楽団の首席奏者たちで、外部からソリストを招かずとも、見事な協奏曲を奏でるあたり、この楽団のレベルの高さをよく表しているものである。 モーツァルトの6つの交響曲は、いずれもとても技術的に速やかな音楽で奏でられている。高速で駆け巡る音階などの一音一音のアクセントの効いたキレの良さなど、絶品であり、なかなか爽快な聴き味をもたらす。ハフナー交響曲は、いかにも編成の大きい重厚さを感じさせるところがあって、重い響きも、避けずに用いるところが特徴だ。その結果として、光沢あるオーケストラのサウンドではあるが、響きそのものの印象はところどころ暗さや硬さを残したところがあって、そこに彼らならではの刻印のようなものを感じる。 この「暗さ」や「硬さ」は、理知的で機能的に突きすすんでいる演奏の中で、ところどころに影を残しているような聴き味に作用する。その影は、うまく説明し難いのだけれど、情緒的なものとはまた違ったニュアンスで、聴き手に与えられるように思う。 人によっては、それがモーツァルトの音楽を聴く味わいとは、異質なものに感じられるかもしれない。しかし、私には現代楽器を駆使したオーケストラがフル回転するときの駆動性に起因するものに思えて興味深い。この録音が出るまで、私はモーツァルトの交響曲から、そのようなニュアンスを感じ取ることは出来なかったので、ドホナーニの演奏は、特定の価値観を究極的にブラッシュアップしたものとして、提示されているのだと思う。 快活なテンポ、圧倒的なオーケストラの機能美に酔いながら、モーツァルトの楽曲が持つ憂いと、オーケストラ・サウンドから時折発生する影が交錯する、ユニークなモーツァルト、といったところだろうか。 フルートとハープのための協奏曲はよく知られた作品だけれど、その録音として当盤を推す人はあまりいないかもしれない。独奏者のネーム・ヴァリューも、他の名盤と比べて高いとは言えない。しかし、聴いてみると捨てがたい素晴らしい演奏である。なんといってもハープのきめ細かなニュアンスをクリアに記録している録音が見事なのだ。この楽曲は、とても良くできた曲で、どんな演奏だって楽しめるのだけれど、ハープの「はじく」ことで音を出す楽器の微妙な味わいは、やはり優れた録音で効果を増す。その点で、当録音は世界最高とも言える当時のデッカの技術で録られただけあって、ことごとくに焦点のあった明晰な響きだ。もちろんフルートも好ましく、ほぼ完ぺきな仕上がりで、当曲の代表録音に推したとしても、なんら不足はない。 同様の事は、末尾の協奏交響曲でも言える。この演奏では、2つの独奏楽器を含めて、オーケストラ全体が一つのシンフォニーのように骨格豊かな響きを示しているが、これも優れた録音技術で、2つの独奏楽器の音色が、理想的なバランスで収録されているためである。演奏自体が正統性のある美しいもので、楽曲、録音がともに優れているのだから、聴き味が悪くなるわけがない。第2楽章の憂いある歌は、いつものドホナーニよりしっとりとした情感を持って歌い上げられているように思う。それもこの曲の「らしさ」を引き出す自然な発想だろう。 クラリネット協奏曲では、コーエンの麗しく、品の良い甘さを湛えた音色が抜群に効いている。音程のなめらかな移り変わり自体の美しさにも魅了されるし、オーケストラとのやりとりも、愉悦性と幸福感に満ちていて、この楽曲の名曲性を高らかに歌い上げた美演と言って良いだろう。 ファゴット協奏曲も魅惑的な響き。マックギルもコーエン同様に、モーツァルトから、甘味を引き出した演奏であり、モーツァルトの楽曲に、相応しい色づきを与えている。 ウェーベルン作品はいずれもドホナーニのタクトのもと、精緻に奏でられたものだ。初期の古典的情感を湛えたパッサカリアも、代表作として知られる変奏曲も、きわめて均質化された音響で奏でられており、ウェーベルンが目指した音響が、相応しいアプローチで表現されている。 現在、当Box-setは入手が難しいようだが、投稿日現在、それぞれ別売盤は流通しているものがあるようなので、ドホナーニの演奏が好きな人には、ぜひオススメしたい。 |
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交響曲 第36番「リンツ」 第38番「プラハ」 テイト指揮 イギリス室内管弦楽団 レビュー日:2020.4.30 |
★★★★★ 自然な心地よさと発色性に満ちた典雅なモーツァルト
ジェフリー・テイト(Jeffrey Tate 1943-2017)指揮、イギリス室内管弦楽団の演奏で、モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)の以下の楽曲を収録。 1) 交響曲 第36番 ハ長調 K.425 「リンツ」 2) 交響曲 第38番 ニ長調 K.504 「プラハ」 1985年の録音。 テイトとイギリス室内管弦楽団によるモーツァルトの交響曲全集は、王道的名演といって良いものであり、これらの名曲のスタンダードな解釈として、広く受け入れられるものだろう。 テイトが、このオーケストラから引き出す音色には、ほどよい柔らか味のある輪郭線があり、それがしなやかに躍動する様は、モーツァルトが「交響曲」というジャンルに込めた表現性に直結した感があり、自然な親和性に満ちている。 サウンドは、高級感を感じさせ、かつ各楽器の音色は、彩(いろどり)豊かで、自発的な情感が宿っている。特に、各音が減衰していくときにもたらす余韻は、ピリオド楽器では感じ取りにくい情感を増幅し、聴き味を増してくれる。それゆえに、各曲が、その個性を、いよいよ発揮し、一つ一つの作品としての芸術的主張を高めるのである。 テイトによる演出により、彩色を施された楽曲では、それぞれの動機が、ライト・モティーフのような主張を感じさせるようになる。一つの楽曲の中にストーリーがあるかのような愉悦性が高まり、味わいの幅が深くなる。第36番と第38番という2つの名曲では、特にそのイメージが強い。第36番の緩徐楽章や第38番の序奏部におけるゆったりした表現の中に、様々な情感に通じる要素があって、豊穣だ。しかも、それらの表現が、決してモーツァルトの無垢と呼ばれる神性を壊すことなく、音楽的方法の中で消化されている。その手腕を聴いていると、テイトを、モーツァルトを振るべくして生まれたアーティストと呼んで過言ではないかもしれない、と思えてくる。 楽器の中では、存在感のあるティンパニ、そして華やかで音が前面に溢れるような木管の音色にテイトのモーツァルトの真骨頂を感じる。ティンパニを補強するトランペットの響きも、柔らか味がありながら芯があって、適度にふくよかだ。弦の合奏音は、輝かしい生命力に溢れている。テンポは落ち着いており、緩やかな個所では、よりゆったりする傾向があるが、音楽的な演出幅での緩急として、よく考えられたものであり、それゆえの「影」や「幅」を感じさせるところが素晴らしい。 現代楽器が奏でるモーツァルトの素晴らしさを堪能させてくれる。 |
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交響曲 第36番「リンツ」 第40番 ムーティ指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 レビュー日:2012.2.1 |
★★★★★ ムーティらしい「歌」の要素を前面に表出したモーツァルト
リッカルド・ムーティ(Riccardo Muti 1941-)指揮ウィーンフィルによるモーツァルトの交響曲第36番「リンツ」と第40番を収録。録音は1991年。 ちょっと別の話で恐縮だが、今回、私はこのディスクを中古で入手したのだけれど、このアルバムが発売されていた頃と、現在(2012年)とでは、いろいろ時代状況が違うことを実感する。当時Philipsレーベルからは、C.デイヴィスとドレスデン・シュターツカペレ、さらにガーディナーとイギリスバロック管弦楽団のモーツァルトが同時進行的に続々と発売されていて、CDショップにいっても次から次に新譜の嵐であった。それが、まず様々な新興レーベルが活動を開始したこと、その後世界的に経済活動が停滞し、CDの総流通量が低下したことがあり、Philipsのような老舗レーベルの活躍の場は減ってしまう。結局Deccaと経営統合した上、新譜の発売数自体激減することとなった。1つのレーベルが同時に3つのモーツァルトの交響曲シリーズをリリースするなんて、今ではちょっとお目にかからない。Deccaには、このような廃盤となって久しい旧盤の復刻をお願いしたい。とりあえずC.デイヴィスのものはBox-setで復刻していただき、私も購入し直したのだけれど、ムーティやガーディナーの録音も、忘れてしまうのはもったいないものだと思う。 長くなったけど、当ディスクのコメントに戻ろう。ムーティとウィーンフィルの関係はきわめて良好だったときく。例えばシューベルトの交響曲の全集など、オーケストラ側からの強いラヴコールがあって実現したものらしい。ムーティのスタイルは、明朗な歌謡性に溢れ、重い響きより、リズミックな音楽を目指していて、そのラテンの感性とでも言える要素と、ウィーンのワルツに代表されるメロディーラインを抜群に活かす音色とが、良好な相性だったのだろう。 ここに収録された2曲も、その特性がよく出ている。交響曲第36番「リンツ」は私も大好きな曲だけれど、ムーティの指揮はいかにも闊達で、意気軒昂なフレージングが小気味よく、メロディに鮮やかな躍動感を供給している。難しいことは考えず、全員で楽しんで音楽をやりつくした、という演奏。リピートを省略していないため、緩徐楽章が長くなっているが、聴いていて自然と流れていくようで、ちょっと本なんか片手に聴いていると、たちまち終わってしまうくらい。 交響曲第40番は「大ト短調」とも呼ばれる悲しい情感の表出した傑作だが、ムーティの演奏から紡がれてくるのは「悲哀」よりむしろ「歌」である。モーツァルトの短調作品を形容する「疾走する悲しみ」という有名なフレーズがあるが、ムーティのは「どこか物悲しくもリズム感のある歌」といった感じ。このように音楽のいわゆる横線を最重点に置いたモーツァルトというのは、それなりに古典的な安定感があり、私にとって、時折聴きたくなる音楽と言えそうだ。 |
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交響曲 第38番「プラハ」 第39番 ショルティ指揮 シカゴ交響楽団 レビュー日:2007.8.11 |
★★★★☆ 20世紀のモーツァルト演奏の一つのスタンダード
モーツァルトの歌劇を得意としたショルティだけど、交響曲の録音はとても少ない。黄金時代を築き上げたシカゴ交響曲との録音はこの第38番と第39番を収録したものが唯一だ。あるいはレコード会社のイメージ戦略とあまり合わなかったためかもしれないけれど(なんと言っても、ショルティとシカゴ交響楽団にはパワフルな楽曲が似合う・・・というイメージがありますよね)、しかしこのモーツァルトも捨てがたい魅力を持っている。 古今の名演と比較してどうか?という位置付けは難しいが、ショルティのアプローチはきわめて正統的でかつベーム、ワルターに代表される20世紀のモーツァルト演奏の一つのスタンダードを体現しているものと言えそうだ。前2者に比較すると、ショルティはベームに近いと思うけれど、ベームが旋律線を中心に楽曲に豊かな肉付けを与えたのに比し、ショルティの演奏は、各パートの音符を純粋に響かせることで、最終的にメロディのラインを浮かび上がらせているように感じる。その方法は、どことなく機械的なイメージを伴うけれど、決して血の通わないイメージというわけではない。非常にさわやかな流動感をもっているとともに、リズミックな躍動感もあり、きわめて生命感に溢れる演奏となっている。最近はオリジナル楽器によるアクセントのある演奏に慣れたせいか、ショルティの演奏はどことなくまっすぐ過ぎるように思えるときがあるけど、きちんきちんと芯まで響かせる音色の連続は安定感があるし、安定した上での心地よい加速感も堪能できる。なかなか捨てがたいモーツァルトの一枚だと思う。 |
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交響曲 第38番「プラハ」 第39番 第40番 第41番「ジュピター」 マッケラス指揮 スコットランド室内管弦楽団 レビュー日:2011.3.22 |
★★★★★ 幅広いレパートリーを持つマッケラスが到達したモーツァルト
2010年に亡くなった指揮者サー・チャールズ・マッケラス(Sir Charles Mackerras 1925-2010)は、多彩なレパートリーを持っていた。ヤナーチェク、ドヴォルザークなどスラヴ系作品の数々の名録音のみならず、ディーリアスなどのイギリス音楽にも優れた録音を残した。両親はオーストリア人でありながら、アメリカで生まれ、オーストラリアで育ち、シドニー交響楽団の団員として活躍してから、イギリス、チェコに留学した。まさにインターナショナルな感性を宿した現代的な名指揮者であったと思う。 モーツァルトの作品も、そんなマッケラスの重要なライフワークの一つである。1986年にはプラハ室内管弦楽団と全47曲からなる交響曲全集の録音を行っているので、このディスクは約20年後の2007年に自身桂冠指揮者を努めるスコットランド室内管弦楽団と後期の4曲(第38番「プラハ」、第39番、第40番、第41番「ジュピター」)を再録音したものということになる。溌剌とした生命力に溢れた快演だ。 この演奏の特徴として、モダン楽器による小編成オーケストラでありながら、ピリオド楽器風のアプローチを随所に折り交えていることがある。交響曲第39番の冒頭のリズムの刻みはいかにもピリオド楽器風だし、両翼配置となっているヴァイオリンもその演出に一躍買っていよう。さらに加えて指摘すると、「ピリオド楽器風」でありながら、現代楽器の輝かしいサウンドを全面に繰り広げた燦然たる演奏でもある。すなわち、マッケラスの意図は、音色、解釈などすべての制約を一旦解き放ち、音楽の持っている魅力を万全に引き出す方向で再構築することにあったのではないだろうか。 交響曲第38番は旧録音でも素晴らしかったが、この録音も本当に見事。古典的な楽曲でありながら、スケールの大きさを如実に感じさせる演奏で、音楽作品としての逞しい恰幅が鮮やかに表現されている。飛び跳ねるリズム、躍動するようなアッチェランド、萎縮と無縁な金管の朗々たる響き。力強い推進力を持って、心地よく疾走する。 交響曲第40番は終楽章のドラマティックな迫力が凄く、一瞬たりともゆるぎのないエネルギーに溢れた演奏で、現代楽器の基本性能の高さをまざまざと見せ付けるような力感が凄い。これに慣れてしまうと、ピリオド楽器は、「興味深い」というレベルで面白いが、人の感情に働きかける力という点で現代楽器に大きく引けを取らざるをえないと思ってしまう。 第39番、第41番も悠然たる幅とともに、軽快なスピード感、卓越した処理の連続で聴き手をほどよく興奮させてくれる名演ぞろいで、さすがマッケラスの至った境地であると感嘆を新たにしてしまう。 |
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交響曲 第39番 第40番 第41番「ジュピター」 アーノンクール指揮 ウィーン・コンツェントゥス・ムジクス レビュー日:2014.12.19 |
★★★★★ 80歳を過ぎたアーノンクールによる刺激たっぷりのモーツァルト
巨匠アーノンクール(Nikolaus Harnoncourt 1929-)が、ウィーン・コンツェントゥス・ムジクスを指揮して、モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)の最後の3つの名交響曲を収録したアルバム。その内容は以下の通り。 【CD1】 1) 交響曲 第39番 変ホ長調 K.543 2013年録音 2) 交響曲 第40番 ト短調 K.550 2012年録音 【CD2】 3) 交響曲 第41番 ハ長調 K.551「ジュピター」 2013年録音 すべてライヴ録音。アーノンクールは、これらの楽曲を、1980-83年にコンセルトヘボウ管弦楽団と、1991年にヨーロッパ室内管弦楽団と録音しているから、このたびが3回目の録音ということになる。 アーノンクールのモーツァルト。それは今更ながら啓示的なものだ。アーノンクールが古楽奏法を研究し、かつそこに自分なりの方法論を加えて再現した演奏は、いつも刺激的なものだった。その演奏に、讃辞を送るものも、批判するものも、革新性を認めないわけにはいかなかっただろう。 アーノンクールは、自ら、インタビューに応えて、「私は、常に自分の考えを改め続けてきた」と語っていた。古楽を研究し、音楽様式とそれに伴う表現形態を考察しながら、一つの解を求めないスタイルは、科学的手法を導入しながら、結論を固定しないというちょっとしたパラドックスを引き起こした。安定を求めず、つねに変わることを模索する彼の音楽は、私には、それ自体がとても興味深いものだ。 このモーツァルトを聴くと、私たちがふだん思っているモーツァルトのイメージから乖離があると言っていいだろう。ところで、私がふだん思っているモーツァルトとは、いったいどもようなものだろうか? ジャン・ジューヴ(Pierre-Jean Jouve 1887-1976)は以下の様に言っている。「ベートーヴェンは運命と凄絶な格闘を演じる深い責任感の中で我々を熱し、罪を信頼により克服せしめる。モーツァルトは我々をそこから引き離す。彼は我々をどこかよそに連れていくことを望む。モーツァルトにはその力がある。神のように」。 モーツァルトの音楽に潜む抗いがたい自然さは、無垢な神性を宿しているが、アーノンクールの手法は、そこに土にまみれた人間の感覚を織り込むものだ。金管、ティンパニの強調、強烈なアゴーギグ、その結果、音楽には様々な不均衡や不自然さが生まれ、人工的な感覚が強くなる。モーツァルトは自身の手紙でこう書いている。「右手のテンポ・ルバートは左手に絶対に気付かせないように行わなければいけない」。これは鍵盤楽器に限ったことではないだろう。ワーグナー(Richard Wagner 1813-1883)はモーツァルトのアレグロを「素朴で絶対的なアレグロ」と称した。絶対的というのは、テンポの持つ絶対性、ひいてはアゴーギグの制約を意味するだろう。 しかし、アーノンクールはこれに真っ向から挑戦する。ジュピター交響曲の冒頭、全管弦楽による冒頭主題の提示、それに引き続く呼応音型までの、わずかな間合いの延長が、古来続いてきたモーツァルトらしさから既に乖離している。他にも緩徐楽章の速いテンポ、舞踏のようなメヌエット、そしてその間も間断なく繰り返される主題の前後に挿入される速度変化。 このような手法は、保守的なフアンには、乱暴で、騒々しく聴こえるかもしれない。しかし、私はこの演奏をとても興味深く聴いた。私がアーノンクールの意図をどのくらい理解しているかわからないが、おそらく彼は、聴き手に、3曲を通して聴くことを望んでいるように思う。そして、緩徐楽章やメヌエットにおけるインパクトの繰り返しから、この3部作に組曲的な構成感を新たに打ち立てているのではないだろうか。そのため、それぞれのインパクトは、十分に人が簡単に想起できる領域に確保できる性格のものであり得る必要があったし、それを想起するための、似たような仕掛けを連続させる手法が取られたのだろう。 モーツァルトの音楽に熱の成分を取り組み、インパクトにより聴き手の記憶に作用を与えたアーノンクールのスタイルは、私には刺激的だったし、また聴きたいと思わせてくれるものだった。それにしても、80歳を過ぎてなお新しい表現を積極的に模索するアーノンクールには、強い芸術家の魂を感じてやまない。 |
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交響曲 第39番 第40番 第41番「ジュピター」 ブリュッヘン指揮 18世紀オーケストラ レビュー日:2015.10.20 |
★★★★★ 巨匠ブリュッヘンがたどり着いた「模範像」の様に感じられるモーツァルト
最近亡くなった古楽の巨匠、フランス・ブリュッヘン(Frans Bruggen 1934-2014)は、自ら発足させたピリオド楽器による“18世紀オーケストラ”と、晩年スペインのGlossaレーベルに一連の録音を遺した。最近になって、そのモーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)がBox-setになったので、私はこれを購入して聴いている。中で、2010年に、ロッテルダムでライヴ収録された当三大交響曲の録音も含まれていた。当アイテムの収録内容は以下の通り。 【CD1】 1) 交響曲 第39番 変ホ長調 K.543 2) 交響曲 第40番 ト短調 K.550 【CD2】 3) 交響曲 第41番 ハ長調 K.551 「ジュピター」 言わずと知れた名曲たちである。私の場合、学生だったころ、ブリュッヘンがモーツァルトとベートーヴェンの交響曲を併せて収録したディスクを聴き、楽しませてもらった記憶があるので、今あらためてブリュッヘンの最晩年の同じ楽曲の録音を聴くのは感慨深い。 今思うと、ブリュッヘンが初めてこれらの楽曲を録音した80年代末というのは、ピリオド楽器によるモーツァルトの録音が一際活発になった頃で、ホグウッド(Christopher Hogwood 1941-2014)、アーノンクール(Nikolaus Harnoncourt 1929-)といった創始者に加えて、ガーディナー(John Eliot Gardiner 1943-)、ピノック(Trevor David Pinnock 1946-)、コープマン(Ton Koopman 1944-)といった人たちが続々と参戦してきたころだ。 彼らの基本的なテーゼとして、「作曲当時の演奏の再現」があり、そのために「作曲当時の楽器」を用いるという文脈があった。しかし、当然のことながらその解釈は様々で、強烈なアクセントやアゴーギグで刺激的な演奏を繰り広げたアーノンクールから、(モーツァルトに関しては)楽器こそ違えど解釈は現代オーケストラと比較的大差のないピノックに至るまで、かなり幅があった。そんな中でブリュッヘンは、とても活発で、木管の音色を重視したスタイルが特徴だった。私は、ピリオド楽器で演奏されたモーツァルトの交響曲において、ときどき緩徐楽章の表現が一面的になるのがあまり好きではなかったのだけれど、ブリュッヘンの演奏は、そういったところで、ロマンティックな甘味を打ち消すことなく、大らかな音楽を底辺に感じさせてくれた。だから私は、緩徐楽章はブリュッヘンのものを気に入っていた。 そして、今回、当録音を聴いてみて、ああ、やはりブリュッヘンは、学究的なアプローチを行ったとしても、その根底にあるのはあくなき歌の探究だったのだな、と思った。それは私がそう感じただけかもしれないけれど、少なくとも、あの80年代の「延長線上」で発展し、より豊饒な響きに満ちた音楽と確信できる響きが楽しかった。 ただし、この印象は、若干の録音環境も影響しているのかもしれない。録音が行われたデ・ドゥーレン・ホールは、たっぷりした残響がある。このホールトーンの効果によって、ところどころ音の分離が甘くなっているところもあるのだが、全般にはとてもマイルドな味わいになっている。そういえば、80年代末は、現代楽器による演奏では、マイルドなモーツァルトがとても歓迎されていて、バーンスタイン(Leonard Bernstein 1918-1990)も、ウィーン・フィルととてもマイルドなモーツァルトをやっていて、受けが良かった。 それで、このブリュッヘンの演奏には、そのような要素も流れ込んでいるように感じる。特に素晴らしいのは交響曲第41番で、冒頭の細切れの簡単なフレーズの繰り返し一つ一つに、柔らかな輪郭があり、しかしその一方で芯のある安定感が音楽を補完している。ティンパニはしっかりと鳴るけれど、決して刺激的でなく、むしろ暖かみをともなって聴き手に伝わる。とても落ち着いた、しかし生き生きとした力感が十分に備わった表現だ。全管弦楽による勇壮な主題提示における流麗にしてしなやかな表現は、この楽団がいかにこの演奏法を練り込んできたかがよくわかる。美しく深みのある響きだ。 各曲の緩徐楽章も、十分に歌いあげた表現で、決してピリオド奏法を意識するあまり、萎縮した「縦線強化」の表現に陥らないのは、彼らの場合、当然と言えば当然のことだろうか。 また、ブリュッヘンならではの木管の不自然さのないクローズアップは当録音でも健在で、第39番など、木管のニュアンスだけで十二分に聴き手を酔わせてくれる。 今にして思うと、ブリュッヘンという人は、ピリオド奏法の世界で、一つの中庸の美を突き詰めた存在だったのだと思う。この演奏からは、普遍的な模範性のようなものを感じる。巨匠が最晩年にたどり着いたに相応しい芸術的成果が示されている。 |
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交響曲 第40番 第41番「ジュピター」 ヴァイル指揮 ターフェル・ムジーク・オーケストラ レビュー日:2007.8.14 再レビュー日:2015.1.20 |
★★★★★ またまた魅力的な指揮者とオケの組み合わせが登場!
オリジナル楽器によるオーケストラと、そのオーケストラと蜜月の関係にある指揮者という組み合わせは多い。ピノックとイングリッシュコンサート、ホグウッドとエンシェント室内管弦楽団、ガーディナーとイギリスバロック管弦楽団(orオルケストル・レヴォリュショネール・ロマンティーク)、ヘレヴェッヘとシャンゼリゼ管弦楽団、ノリントンとロンドン・クラシカルプレイヤーズ、 インマゼールとアニマ・エルテナ、ブリュッヘンと18世紀オーケストラなどなど。。。しかし、ここに加えてまたまた実に魅力的なコンビが登場した!ブルーノ・ヴァイルとターフェル・ムジーク・オーケストラである。 このオーケストラはカナダのオーケストラだ。もちろん音楽の歴史という観点でみれば、カナダのそれはヨーロッパ諸国に比して浅いだろう。しかし、楽団や演奏の質はまったくそんなものとは無関係であるということがよくわかる。このモーツァルトは本当にいいと思う。 まずオーケストラの鳴りがよい。オリジナル楽器であるけれど、その風雅な美点を保ちながらも、壮大に歌い上げる。といっても決して感情の起伏が大きいというわけではない。演奏は基本的にインテンポで、それも適度な爽快感をもった悠然として闊達といった見事なテンポ設定ですすめられる。楽器は細やかで自在に動くが、中心軸が実にしっかりしており、堂々たる響き。かといって決して大味ではなく、細やかな楽器のきらめきが次々に現れてくる。聴いていて楽しくてしょうがない。ジュピター交響曲の終楽章で弦合奏の歯切れの良いリズム感、高音域まで立ち上り、末尾をキリッと鳴らす凛々しさは鮮やか。また金管の力強い響きも見事で、出るべきところでぐっと出て一気に聴き手の気持ちを奪う!そのタイミングを含めた演出も見事見事。これだけ決まれば演奏している方もさぞ気持ちがいいに違いない。すばらしい名演・名録音となった。今後の活躍にもいやがうえにも期待してしまう。 |
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★★★★★ 是非続編を希望したい、ブルーノ・ヴァイルとターフェルムジーク・バロック管弦楽団のモーツァルト
ドイツの指揮者、ブルーノ・ヴァイル(Bruno Weil 1949-)が、カナダのトロントを本拠とするターフェルムジーク・バロック管弦楽団(The Tafelmusik Baroque Orchestra)を指揮して、2006年に録音したモーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)の以下の2つの最後の名交響曲を収録。 1) 交響曲 第40番 ト短調 K.550 2) 交響曲 第41番 ハ長調 「ジュピター」 K.551 ターフェルムジーク・バロック管弦楽団はピリオド楽器によるオーケストラである。それで、この演奏も、当然基本的にピリオド奏法に従ったものなのであるが、しかし、当演奏はピリオド奏法云々というレベルではなく、完璧と表現したいほどの演奏であり、モーツァルトの芸術の真価を高らかに示したものに違いないと思う。それは、楽器論とか、奏法論とか、そういった話と別のところで、すでに圧倒的な成功を示していると感じられる。 私は、この演奏を聴いていると、バーナード・ショー(George Bernard Shaw 1856-1950)がモーツァルト死去百年祭に寄せた以下の言葉を思い出す。 「モーツァルトが一代で絶え、連綿たる王統を作らなかったと言われたら、彼を愛する人たちには我慢がならないかもしれない。けれども芸術における最高の成功は、ひとつの種族の最後のものになることであって、最初のものになったことにあるのではない。ことをはじめるのは、誰にでもできる。しかし終止符をうつのは難しい-終止符をうつとは、つまり凌駕されえないということだ。」 当演奏の素晴らしさは、モーツァルトの凌駕しえない領域を、輝かしく、力強く引き出した点にある。 オーケストラの鳴りがよい。ピリオド楽器の風雅な音色を保ちながらも、壮大に歌い上げる。といっても決して感情の起伏が大きいというわけではない。演奏は基本的にインテンポで、それも適度な爽快感をもった悠然として闊達といった見事なテンポ設定ですすめられる。楽器は細やかで自在に動くが、中心軸が実にしっかりしており、堂々たる響き。かといって決して大味ではなく、細やかな楽器のきらめきが次々に現れてくる。聴いていて楽しくてしょうがない。ジュピター交響曲の終楽章で弦合奏の歯切れの良いリズム感、高音域まで立ち上り、末尾をキリッと鳴らす凛々しさは鮮やか。また金管の力強い響きも見事で、出るべきところでぐっと出て一気に聴き手の気持ちを奪う!そのタイミングを含めた演出も見事。これだけ決まれば演奏している方もさぞ気持ちがいいに違いない。すばらしい名演・名録音である。その後、現在まで続編が発売されないのが残念。是非、他の交響曲も録音してほしい。 |
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交響曲 第40番 第41番「ジュピター」 クーベリック指揮 バイエルン放送交響楽団 レビュー日:2019.8.31 |
★★★★★ 巨匠クーベリックが誘う、熱い熱いモーツァルト!
チェコが生んだ名匠、ラファエル・クーベリック(Rafael Kubelik 1914-1996)が、蜜月の関係にあったバイエルン放送交響楽団を振ってのライヴ録音で、モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)の名曲2編が収録されている。 1) 交響曲 第40番 ト短調 K550 2) 交響曲 第41番 ハ長調 K551 「ジュピター」 クーベリックとバイエルン放送交響楽団によるモーツァルトの交響曲というと、1980年にスタジオ録音され、SONYからリリースされた後期6大交響曲集が名盤としてよく知られる。私もそれらの録音が大好きで、本当に何度も聴いたものだ。 それに比べて、当盤は明瞭な相違点が2つあって、一つはスタジオ録音のときは割愛されたリピートを含めて、すべて省略せず行っていること、もう一つはライヴ特有の強い熱気が感ぜられることである。 リピートについて私見を述べさせていただこう。最近では、ピリオド楽器による演奏が広まるにつれて、忠実に履行すべしとの考え方が主流になっていると思う。ただ、私の場合、このリピート主義に懐疑的なところああって、リピートの規模が大きくなるにつれて、楽曲の構成感がかわってしまったり、演奏そのものに飽きを感じさせることがあったりすると考えている。画一的になりやすいピリオド楽器の演奏では特にそうで、聴いていて、せめて省略してくれ、とまで思う事さえある。 しかし、このクーベリックの演奏に、まったくそのような懸念はない。この当時らしい規模の大きなオーケストラを輝かしく響かせた演奏は、進展につれて熱気を帯び、聴く者の気持ちを音楽に惹きつけて離さないまま、終結に至る。クーベリックという音楽家の芸術と情熱に圧倒される、至福の時間を過ごさせてくれる。やはり、名曲を聴く醍醐味はこうでなくちゃいけないな、とあらためて実感させてくれる名演奏なのである。 特に第41番は素晴らしい。中間楽章の色合い豊かな情感も見事であるが、終楽章のフーガの祭典的な迫力は無比の魅力に満ちていて、時にあえて輪郭を崩すような踏み込みも交えながら、果敢に攻め立て続けて、フィナーレになだれ込むような演奏だ。まるでベートーヴェンみたい?いえいえ、モーツァルトの音楽には、このように情熱的、熱血的な要素が最初から備わっているのですよ!ツンとすまし顔をしたピリオド楽器の演奏ばかりではなく、たまにはこんな熱いモーツァルトはいかがですか? |
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交響曲 第40番 第41番「ジュピター」 テイト指揮 イギリス室内管弦楽団 レビュー日:2020.5.1 |
★★★★★ モーツァルトの名曲、交響曲第40番の決定的名演と言っても良い存在
ジェフリー・テイト(Jeffrey Tate 1943-2017)指揮、イギリス室内管弦楽団の演奏で、モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)の以下の楽曲を収録。 1) 交響曲 第40番 ト短調 K.550 2) 交響曲 第41番 ハ長調 K.551 「ジュピター」 1984年の録音。 テイトとイギリス室内管弦楽団によるモーツァルトは、あるいは保守的とみなされるスタイルのものかもしれない。発色性をてらわず、後期の楽曲においては、雄弁で勇壮な響きをいとわない。しかし、その演奏がもつ魅力は、私には恒久的なものに感じられる。決して過ぎ去ったものではなく、今なお聴き手に新たな感動を呼び覚まし、音楽に触れる喜びを提供してくれる。 特に第40番は名演だ。数多ある当曲の録音において、当録音をベストと押す人がそれなりに居たとしても不思議ではない。柔らかなトーンと白熱した集中で描かれる第1楽章も美しいが、絶品は第2楽章。その第1音から、聴き手の心を捕まえる力を持つ。私は、テイトの演奏でこのアンダンテを聴いていると、以下の様なシーンを連想する。北国の夏、陽が沈むとともに、昼を覆っていた暑さは過ぎ去り、どこからか渇いた涼やかな風が吹いてくる。その風に誘われるように、夜の林の中を歩く。空にはまだ少し明かりがのこっていて、柔らかい間接的な光があたりを照らす。その気持ちよさを感じているうちに、ふと過ぎ去った時に思いを馳せ、ほのかな郷愁に誘われる。 じっさい、テイトの演奏はロマンティックだと思う。あるいは、モーツァルトの演奏としては、現代の感覚で言えば、表現力が強すぎるのかもしれない。だが、この第2楽章の美しさと薫りの高さに、私は抵抗することができない。面倒くさいことは考えず、そこに身を任せておけば、最高の至福を感じることができる。これが音楽の力だ。 第41番も堂々たる演奏。落ち着いたテンポで、悠然と気風豊かな音楽が繰り広げられる。中間2楽章はゆったりめのテンポが特徴であるが、各楽器の音色の減衰をよく配慮した組み立てで、柔らかなホールトーンの効果も踏まえた効果的な演出となっている。終楽章は伸びやかな管弦楽の呼吸に即したようなリズム感が見事で、高揚感と解放感に満ちた帰結に至っている。 2つの古典的名曲における正統的名演として、より存在感があってしかるべき1枚である。 |
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序曲集(にせの女庭師 イドメネオ 後宮からの逃走 劇場支配人 フィガロの結婚 ドン・ジョヴァンニ コジ・ファン・トゥッテ 魔笛 皇帝ティトゥスの慈悲) スウィトナー指揮 シュターツカペレ・ベルリン レビュー日:2018.6.12 |
★★★★★ ど真ん中のゴージャスな輝きに満ちたモーツァルト
スウィトナー(Otmar Suitner 1922-2010)指揮、シュターツカペレ・ベルリンによるモーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)の序曲集。収録曲は以下の通り。 1) 「にせの女庭師」 K.196 序曲 2) 「イドメネオ」 K.366 序曲 3) 「後宮からの逃走」 K.384 序曲 4) 「劇場支配人」 K.486 序曲 5) 「フィガロの結婚」 K.492 序曲 6) 「ドン・ジョヴァンニ」 K.527 序曲 7) 「コジ・ファン・トゥッテ」 K.588 序曲 8) 「魔笛」 K.620 序曲 9) 「皇帝ティトゥスの慈悲」 K.621 序曲 1976年の録音。 いきなりまったく関係ない話で恐縮であるが、先日、私は森見登美彦原作のアニメ「有頂天家族2」を楽しく拝見した。それは、たぬきや天狗が、人間社会と共存する形で並行社会を作って、暮らしを営んでいるという、現実と空想の交わる舞台を設定するマジックリアリズムの手法による物語で、ユニークで小粋な登場人物たちが、その設定を活かした様々な騒動を起こすのである。その話の中で、たぬきたちに権威をふるう天狗界において、かつて先代に敗れ海外に放逐された二代目が、威風と力を増して帰ってくるエピソードかある。その2代目のテーマ曲が、重々しい衝撃的な長い合奏音ではじまるのだけれど、その雰囲気がドン・ジョヴァンニのテーマにそっくりだと思った。いや、これ音楽担当した人、イメージあったでしょう、きっと。ドン・ジョヴァンニであれば、殺害された騎士長が、幽霊となって晩餐に登場し、有頂天家族であれば、一度敗れた二代目が、捲土重来を期して帰参する、いずれも苦悶と苦渋を経て再度あいまみえるシーンを、重厚な和音に象徴させたわけで、そこに共通項があるな、と勝手に思ったわけです。 まあ、似ているのは冒頭の雰囲気だけなのですが、前述の通り、ストーリーの中で「2代目」の位置づけを、音響で伝える巧妙な演出だった、と感じ入ったわけです。で、なんとなくドン・ジョヴァンニの序曲を久しぶりに聴こうかなと、取り出したのがこのスウィトナーのアルバム。 聴いてみると、やっぱりいいですね。ドン・ジョヴァンニももちろんいいのですが、あまり有名でない曲であっても、モーツァルトの天性の音楽性は、これらの序曲にふさわしいあり様で、いずれもとても魅力的に響くのです。 そして、スウィトナーに率いられたシュターツカペレ・ベルリンのサウンドの素晴らしいこと。中音域に豊かな膨らみがありながら、輪郭をくずのことのない芯と透明感があり、幸福感に作用する豊穣な響きをベースとしながら、迫力に事欠かない力強いリズムが活きている。洗練と貫禄を同時に感じさせる名演といって良いでしょう。1976年とは思えないほど品質の高い録音も素晴らしい(当盤に限らず、概してスウィトナーとシュターツカペレ・ベルリンの録音は、高いレベルで安定している)。いま現在も、私がモーツァルトの序曲集を楽しみたいときは、当録音がファースト・チョイスになっています。 |
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モーツァルト 「フィガロの結婚」序曲 「後宮からの誘拐」序曲 交響曲 第32番 サリエリ 歌劇「タラール」第2幕への序曲 ベートーヴェン エグモント序曲 ロッシーニ 「アルジェのイタリア女」序曲 「セミラーミデ」序曲 ブラームス 大学祝典序曲 ファイ指揮 ハイデルベルク交響楽団 レビュー日:2022.1.19 |
★★★★☆ ファイとハイデルベルク交響楽団によるニューイヤー・コンサートの音源から「序曲」を集めたもの
ドイツの指揮者、トーマス・ファイ(Thomas Fey 1960-)が、前身団体から自ら組織化したハイデルベルク交響楽団と、毎年1月1日に行っていたニューイヤー・コンサートの、複数年の音源から、序曲を集めて一つにまとめたアルバム。もちろん、すべてライヴ音源で、収録曲と収録年は下記の通り。 1) サリエリ(Antonio Salieri 1750-1825) 歌劇「タラール」 第2幕への序曲 2006年録音 2) モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791) 歌劇「フィガロの結婚」 序曲 2006年録音 3) モーツァルト 交響曲 第32番 ト長調 KV.318 2004年録音 4) モーツァルト 歌劇「後宮からの誘拐」 序曲 2005年録音 5) ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven 1770-1827) エグモント序曲 2004年録音 6) ロッシーニ(Gioachino Rossini 1792-1868) 歌劇「アルジェのイタリア女」 序曲 2004年録音 7) ロッシーニ 歌劇「セミラーミデ」 序曲 2005年録音 8) ブラームス(Johannes Brahms 1833-1897) 大学祝典序曲 op.80 2004年録音 ハイデルベルク交響楽団は、トランペット、ホルン、ティンパニがピリオド楽器で、他が現代楽器という「混合編成」だが、ファイの演奏スタイルは、弦楽器陣のヴィブラートを抑制し、ピリオド奏法を念頭に置いたもの。モーツァルトの「交響曲第32番」は、単一楽章構成の作品で、「(フランス風)序曲」と呼称されることもあり、当盤のラインナップにあっても、不自然ではない一曲。 ファイのスタイルにより、緩急豊かな味付けが施されているものが多いが、特にモーツァルトの3曲は秀逸と言って良い。思わぬ間合いや引っ張りもあるが、それらの演出が、いい「見得切り」として効いていて、ニューイヤー・コンサートという祭典的な舞台に相応しい。躍動感に満ちた音楽が、脈々と供給される。特に交響曲第32番の伸縮性は面白い。聴いていて惹きこまれる演出だ。フィガロの結婚の闊達な節回しも鮮やか。 他方で、ピリオド奏法特有の音の硬さや薄みが感じられるところもある。ややスローなテンポをとるベートーヴェンやロッシーニでは、その薄みが聴いていて気になるところがある。エグモント序曲など、この音色で響かせるなら、もっとアップテンポでやった方が、いいのではないか、と素人の私などは感じてしまうのだが、いかがだろうか。とりあえず、ヴィブラートを抑制することで、トレードオフとなってしまっている弦楽器陣の輝かしさの不足について、何かで補ってほしいのだけれど、それに代わるだけの十分なものが得られていないように感じる。とはいえ、特にロッシーニでは、アクセントの利いたフレージングとルバートで、これらの楽曲らしさは、引き出されているだろう。 サリエリとブラームスは、ともに活き活きした感触が十分にあって見事だ。とくにブラームスの楽曲は、ブラームス作品ならではの弾けた感じが、存分に引き出されている。その派手で、華やかな響きが、これまた祭典的な雰囲気を十分に伝えていて、臨場感に溢れている。 |
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セレナーデ 第8番「ノットゥルノ」 第9番「ポストホルン」 トゥルノフスキー指揮 カペラ・イストロポリターナ ポストホルン:ガンシュ レビュー日:2019.6.18 |
★★★★☆ トゥルノフスキーによる風格と味わいを感じさせるモーツァルト
チェコの指揮者、マルティン・トゥルノフスキー(Martin Turnovsky 1928-)とカペラ・イストロポリターナによるモーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)の以下の2作品を収録したアルバム。 1) セレナード 第9番 ニ長調 K.320 「ポストホルン」 2) セレナード 第8番 ニ長調 K.286 「ノットゥルノ」 1989年の録音。2)のポストホルンは、オーストリアのトランペット奏者、ハンス・ガンシュ(Hans Gansch 1953-)が担う。 トゥルノフスキーは、投稿日現在で90歳を超える巨匠。録音点数は多くはないが、1998年から群馬交響楽団首席客演指揮者に就任したことで、日本国内のオーケストラを振る機会も増えたことから、比較的知名度はあるだろう。当盤はトゥルノフスキーが61歳のときの録音したもの。 ポストホルンの冒頭からこの指揮者のスタンスは明瞭だ。堂々たる落ち着いた歩み。現代楽器ならではの減衰の美しさを用いて、音響の末尾を丁寧につくり、柔らかめの響きを主体に音楽を作ってゆく。その一方で、過度な輝かしさを避けるような風格を重んじ、自然な呼吸を感じさせる味わいで、懐の広いドライブを心掛ける。全体的な音響は、中音域が豊かで、その結果地味な印象になると思うが、音楽として必要なものがしっかりと伝わってくる手堅い心地よさがある。 緩徐楽章は、ゆったりとした情緒的な風情を形作るが、音楽の輪郭は崩さず、品の良さが滲む。ポストホルンが登場する第6楽章は木管楽器の響きに例外的な発色性が感じられて面白い。終楽章は当然快活だが、急ぎ過ぎないスタイルは、トゥルノフスキーがいかにも音楽を大切にしているような温かさを感じさせてくれるものだ。 ノットゥルノも同様のスタイルで、滋味を感じさせる響きであり、いかにも大人っぽいモーツァルトだな、と感じさせてくれる。モーツァルトなので、もっと無垢を感じさせるような、はしゃぐような躍動感があっても良いのだけれど、トゥルノフスキーのスタイルは、この作品からもポストホルン同様に風格を引き出している。 難点を一つ挙げるとすれば、録音の精度がいま一つに感じられること。オーケストラの楽器の響きの分離感が今一つであり、やや軟焦点気味になっているのが惜しまれる。 |
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セレナーデ 第9番「ポストホルン」 第13番「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」 序曲集(魔笛 ドン・ジョバンニ フィガロの結婚) C.デイヴィス指揮 バイエルン放送交響楽団 ドレスデン国立管弦楽団 レビュー日:2009.6.28 |
★★★★★ ど真ん中のゴージャスな輝きに満ちたモーツァルト
1991年から98年にかけて録音されたC.デイヴィスによるモーツァルト。いずれも素晴らしい録音である。「隠れた名盤」の一つ。私はモーツァルトのセレナーゼ第9番「ポストホルン」が大好きである。モーツァルトのもっともらしい側面である「無垢」な音楽が素晴らしい幸福感を持って鳴るし、短調の箇所はモーツァルトらしい透明な哀しみが現れる。全7楽章がすべてにモーツァルトの魅力が横溢しているし、交響曲のような規模の大きいサウンドも十二分に堪能できる。 そんな「ポストホルン・セレナーデ」の録音の中でも、一番愛聴しているのがこのC.デイヴィス盤だ。弦楽器陣の輝かしい立派なサウンドの充実は、近年主流となっているピリオド楽器の演奏では得られないふくよかさを持ち、時に思い切りよく前面に出る金管楽器の恰幅の良い質感はまさに現代オーケストラならではの豊穣と美麗を尽くしている。第1楽章から心地よいスピード感と起伏がたちまち聴き手を魅了し、そのまま最後までモーツァルトの音楽を堪能し尽くさせてくれる。終演後の熱狂的な拍手(ここでやっとライヴだったことに気づくのだが)もむべなるかな。C.デイヴィスの演奏はときどき「いぶし銀」と称されるけれども、この演奏はまさにど真ん中のゴージャスな輝きだと思う。もちろん表層的でないという意味で「いぶし銀」という形容のサポートを否定するわけではないけれど。モーツァルトの魅力を堪能できる魅力たっぷりのアルバムだ。 |
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セレナーデ 第9番「ポストホルン」 第13番「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」 交響曲 第32番 レヴァイン指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 レビュー日:2010.9.1 |
★★★★☆ 80年代の「王道中の王道」モーツァルトを懐かしんで聴く
モーツァルトのセレナーデ第9番「ポストホルン」、第13番「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」、交響曲第32番を収録。レヴァイン指揮ウィーンフィルの演奏。録音はセレナーデが1982年、交響曲が1985年。 ジェームス・レヴァインとウィーンフィルによるモーツァルトのシリーズは、モーツァルト没後200年記念にあたる1991年に向けて企画されたグラモフォン・レーベルの当時の花形シリーズだった。しかし、現在ではこれらの録音の多くが顧みられる機会が少なくなっている。今もってよく聴かれるのはイツァーク・パールマンとのヴァイオリン協奏曲集くらいだろうか。そもそも、この時代には、アーノンクールやホグウッドが新しいアプローチを大々的に試みていたころで、レヴァインはそれに対して「王道中の王道」を張った感があったのだけれど、今となっては古今の名盤の合間に埋もれてしまった感がある。 あらためてレヴァインのモーツァルトを聴いてみると、もちろんオーケストラの音色は美しいし、問題のない演奏である。・・そう、「問題のない」演奏!これがまた難しいところである。このテーゼで行けば、アーノンクールなどはまさに「問題を提起すること」がモットーだったと言ってもいいくらい。レヴァインの王道を行く問題のないモーツァルトはなぜか強く記憶に残ることはなかったようだ。 演奏を聴いてみると、サウンドは思いのほか硬質な感じがする。特に全合奏のとき、旋律をたもつ第1ヴァイオリンなど、非常に屹立とした音を出し、他方、その他の楽器がやや一様な響きになるところがある。テンポは全体に速めを主体とするが、ポストホルンの第1楽章の冒頭など、思いのほかフェルマータを強調するところがあり、その辺のクセはどことなく「古き佳き」的な響きに思える。もちろん「今聴くと」という条件ではあるが。それが、音楽の豪放な広がりに結びつくが、モーツァルトの演奏としては少し重いとも感じる。 とは言え、現代最高のオーケストラの響きを、ほぼ全開で解き放った明るい音楽は、それはそれで魅力になっている。交響曲第32番の溌剌たる躍動感は見事だ。けれども個人的には、特にポストホルンセレナーデにおいて、モーツァルトの陰影の部分が薄まったように感じられるのが心残りになる。 |
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セレナーデ 第9番「ポストホルン」 行進曲 第1番 第2番 ディヴェルティメント 第11番 アバド指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 レビュー日:2015.7.15 |
★★★★☆ アバドを芸術監督に迎えることで、大きく趣向を変えたベルリンフィルのモーツァルト
アバド(Claudio Abbado 1933-2014)指揮、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団によるモーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)の以下の楽曲を収録した1992年録音のアルバム。 1) 行進曲 第1番 ニ長調 K.335(320a) 2) セレナード 第9番 ニ長調 K.320 「ポストホルン」 3) 行進曲 第2番 ニ長調 K.335(320a) 4) ディヴェルティメント 第11番 ニ長調 K.251 「ナンネルル七重奏曲」 K.335の二つの行進曲は、ポストホルン・セレナーデの追加曲として書かれたと考えられている。なぜ行進曲が2曲あるのかはよくわからないが、当アルバムでは、その二つの行進曲を「ポストホルン」の前後に置いており、入場曲、退場曲という演出かと思われる。また、ナンネルル七重奏曲の終楽章もマーチであるため、全アルバムを通じてマーチを循環させるというコンセプトもあったのだろう。 アバドは、カラヤン(Herbert von Karajan 1908-1989)の後任としてベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の芸術監督を1990年から2002年まで務めた。その間、数多くのモーツァルトの録音もあった。なので、私はこれらの録音を、カラヤン、そして50年代から60年代にこのオーケストラと数々の名録音を残したベーム(Karl Bohm 1894-1981)の演奏を思い出しながら聴いた。 当然のことながらその違いは大きく、アバドのスタイルは彼等よりずっと機動的な印象を受ける。まずテンポが全体的に早いし、音量もコンパクト。上下のリミットを明確に設けながら、音色を明瞭に繰り出す。そして、録音の違いもあるのだと思うが、アバドの一連のモーツァルトは高音がとても明るい。これは、ベームやカラヤンが引き出していた重厚な響きとは明らかに違う性質を示すものだ。 もちろん、それは時代が背景として持つ価値観全体が、そのようなスタイルに移行したための現象とも言えるのだけれど、往年のベルリンフィルの録音と比較すると、とても小ざっぱりとして、細かいところに焦点のあった演奏になったと思う。例えば、最後に収録されているディヴェルティメントにおけるホルンとオーボエの細かいアクセントを伴った受け渡しなどにその性向は明らかになっている。 アバドの演奏はとても水準の高いものだ。その一方で、このような細やかな演奏が、同時代の他の録音と比べて、とりたてるべきかと考えるとまた難しい。というのは、この時期ではピリオド楽器のオーケストラを中心に、更に徹底した手法が盛んに研究されるようになっていたからである。また、現代楽器を用いた細かい表現という点でも、アーノンクール(Nikolaus Harnoncourt 1929-)という鬼才の存在が、つねに意識される時代でもあった。 そのために、アバドの健やかで快活な演奏を聴きながら、ベームやカラヤンのようなモーツァルトを演奏してきた牙城ともいえるベルリン・フィルハーモニー管弦楽団であれば、もっと違う方向があっても良かったのでは、と感じてしまうところが私にはどうしても残る。 しかし、もちろん悪い演奏ではない。特に2曲の表情豊かなマーチは、聴く機会の少ないこともあって、このアバドの演奏でおおいに楽しませてもらった。 |
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セレナーデ 第13番「アイネ・クライネ・ナハトムッジーク」 フルートとハープのための協奏曲 ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲 ドホナーニ指揮 クリーヴランド管弦楽団 fl: スミス vn: マジェスケ va: ヴァーノン レビュー日:2016.2.25 |
★★★★★ 優秀な録音で、一層聴き映えするドホナーニのモーツァルト
クリストフ・フォン・ドホナーニ(Christoph von Dohnanyi 1929-)指揮、クリーヴランド管弦楽団によるモーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)の名曲3曲を集めたアルバム。収録曲は以下の通り。 1) セレナーデ 第13番 ト長調 K.525 「アイネ・クライネ・ナハトムッジーク」 2) フルートとハープのための協奏曲 ハ長調 K.299 (297c) 3) ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲 変ホ長調 K.364 2)のフルートはジョシュア・スミス(Joshua Smith)、ハープはリサ・ウェルバウム(Lisa Wellbaum 1948-)、3)のヴァイオリンはダニエル・マジェスケ(Daniel Majeske 1932-1993)、ヴィオラは(Robert Vernon 1949-)。スミス、マジェスケ、ヴァーノンはいずれも当時のクリーヴランド管弦楽団で首席奏者を務めた人たち。録音は1)と3)が1991年、2)が1993年。 ドホナーニがクリーヴランド管弦楽団とモーツァルト作品に精力的に取り組んでいた頃に製作されたアルバム。楽しい聴き味の楽曲が揃っている。 これらの演奏からは、ドホナーニのオーケストラの機能美を精緻に磨き上げたスタイルとはまたちょっと違った印象をもたらす。すなわち、セル(George Szell 1897-1970)以来のこのオーケストラの特性にいかにも合致したメカニカルなアンサンブルより、やや暖かめな印象をもたらす方向性が示されている。アイネ・クライネ・ナハトムジークを聴いたとき、私が期待していた完璧に構築されたサウンドとは、また違った、どこかに手作りの味わいを感じさせるものがあった。別の言い方をすれば、完璧性からは離れた雰囲気。だから、私はこのアルバムを未聴の段階で、事前情報なしに聴いていたら、とてもドホナーニの指揮とは思わなかっただろう。しかし、快活な流れを軸とした表現、オーケストラの自発的な歌の発揚など、この楽曲らしさが随所に溢れた良演であることは間違いないだろう。 フルートとハープのための協奏曲はよく知られた作品だけれど、その録音として当盤を推す人はあまりいないかもしれない。独奏者のネーム・ヴァリューも、他の名盤と比べて高いとは言えない。しかし、聴いてみると捨てがたい素晴らしい演奏である。なんといってもハープのきめ細かなニュアンスをクリアに記録している録音が見事なのだ。この楽曲は、とても良くできた曲で、どんな演奏だって楽しめるのだけれど、ハープの「はじく」ことで音を出す楽器の微妙な味わいは、やはり優れた録音で効果を増す。その点で、当録音は世界最高とも言える当時のデッカの技術で録られただけあって、ことごとくに焦点のあった明晰な響きだ。もちろんフルートも好ましく、ほぼ完ぺきな仕上がりで、当曲の代表録音に推したとしても、なんら不足はない。 同様の事は、末尾の協奏交響曲でも言える。この演奏では、2つの独奏楽器を含めて、オーケストラ全体が一つのシンフォニーのように骨格豊かな響きを示しているが、これも優れた録音技術で、2つの独奏楽器の音色が、理想的なバランスで収録されているためである。演奏自体が正統性のある美しいもので、楽曲、録音がともに優れているのだから、聴き味が悪くなるわけがない。第2楽章の憂いある歌は、いつものドホナーニよりしっとりとした情感を持って歌い上げられているように思う。それもこの曲の「らしさ」を引き出す自然な発想だろう。 |
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ディヴェルティメント 第1番 第2番 第3番 クルンプ指揮 エッセン・フォルクヴァング室内管弦楽団 レビュー日:2025.2.1 |
★★★★☆ ヨハネス・クルンプの演奏スタイルをよく示す1枚
ヨハネス・クルンプ(Johannes Klumpp 1980-)指揮、エッセン・フォルクヴァング室内管弦楽団の演奏によるモーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)の下記の3作品を収録したアルバム。 1) ディヴェルティメント ニ長調 K.136(第1番) 2) ディヴェルティメント 変ロ長調 K.137(第2番) 3) ディヴェルティメント ヘ長調 K.138(第3番) 2020年の録音。 指揮者であるクルンプの名前は、日本ではまだそれほど知られていない。それでも、ハイデルベルク交響楽団が、トーマス・ファイ(Thomas Fey 1960-)の指揮により作製していたハイドン(Joseph Haydn 1732-1809)の交響曲全曲録音のプロジェクトにおいて、ファイが不慮の事故により指揮活動を休止したのちに、その後任として彼が収まったことなどから、ヨーロッパにおいては、以前から相応のステイタスを確立した指揮者なのであろう、と感じる人は多かっただろう。 当盤は、そのクルンプが、2013/2014年シーズンから首席指揮者兼音楽監督を務めるエッセン・フォルクヴァング室内管弦楽団との録音ということになる。 まず、基本事項として、エッセン・フォルクヴァング室内管弦楽団はピリオド楽器による団体ではなく、一方でメインとして扱うジャンルはモーツァルト以前のもののようである。それは別に珍しいことではなく、古楽と言えばピリオド楽器で演奏するのが普通という考え方は、一部の教条主義的な考えが敷衍し過ぎた背景ゆえのものである。 そうは言っても、ここでクルンプが扱う方法は、ピリオド楽器の奏法に由来を持つものが多い。すなわち、連音の最初の音を前打音的に扱ったり、ヴィブラートを抑えて弦楽器を鳴らしたりする点である。音の末尾の消音のさまも、ピリオド奏法を彷彿とさせる。小さめの編成と併せて、それらの音響効果は、ピリオド奏法を強く「連想させる」ものである。 ヴィブラートを控えた弦の響きは、やや中音域に重さがあり、うまく扱わないと音がダマになりかねないところだが、そのあたりは丁寧に強弱を施す。このあたりはどうしても演奏技法上の必要ゆえに出てくるところで、私には、ピリオド奏法ゆえの「クセの強さ」を感じさせざるをえないところであるが、このスタイルであれば仕方ないところだろう。そのため、全般に快活であっても、時折音色の「くすみ」のようなものが感じられる。これを演奏の味わいととるか、もしくは、輝かしさを減じさせる要因ととるかは、聴き手の感受性にも依るところであろう。 ただ、この演奏を聴いていると、現代楽器とピリオド奏法の融合を目指し、それなりの回答を引き出しているという点で、なるほど、トーマス・ファイの後継という路線であるという説得力は感じる。個人的には、K.137の第2楽章の躍動感に、そのことを特に強く感じる。 とはいえ、これら3曲のみの収録(収録時間41分強)というのは、ちょっとアルバムの量的に物足りないし、個人的にはその量的な物足りなさを、覆してくれるまでの感動を味わうとまでは行かなかった。ただ、クルンプとエッセン・フォルクヴァング室内管弦楽団の試みは、よく伝わっており、魅力的な部分も相応にあると感じた。 |
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ディヴェルティメント 第1番 第2番 第3番 第10番「ロドロン伯爵家の夜の音楽 第1番」 第11番 第15番 セレナーデ 第13番「アイネ・クライネ・ナハトムッジーク」 アダージョとフーガ カラヤン指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 レビュー日:2024.12.13 |
★★★★★ 60年代後半を象徴する録音の一つ
カラヤン(Herbert von Karajan 1908-1989)が、1960年代にベルリンフィル・ハーモニー管弦楽団を指揮して録音したモーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)のディヴェルティメントを中心に再編集された2枚組のアルバム。収録内容は下記の通り。 【CD1】 1) セレナード 第13番 ト長調 K.525 「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」 1965年録音 2) ディヴェルティメント 第15番 変ロ長調 K.287 1965年録音 3) ディヴェルティメント 第11番 ニ長調 K.251 1966年録音 【CD2】 4) ディヴェルティメント 第10番 ヘ長調 K.247 「ロドロン伯爵家の夜の音楽 第1番」 K.247 1966年録音 5) ディヴェルティメント 第1番 ニ長調 K.136 1967年録音 6) ディヴェルティメント 第2番 変ロ長調 K.137 1967年録音 7) ディヴェルティメント 第3番 ヘ長調 K.138 1967年録音 8) アダージョとフーガ ハ短調 K.546 1969年録音 60年代後半~80年代の時代は、クラシック音楽における録音文化の絶頂期と言える時代であり、それまでは、世界を代表する音楽家の演奏に接するためには、たまに来日する際に高額なチケットを購入して、現地に参じる以外には、モノラル音源のレコードやラジオを通さなければならなかった。しかし、録音・再生技術の向上に伴って、その環境は劇的に変化する。また、その時代は、巨匠と呼ばれる指揮者たちが、世界に広く名を知られた名オーケストラを振っていた時代であり、すなわち、ファンは最新の技術を経て、彼らの音楽に接する至福を比較的容易に味わえるようになったのである。 とても面白い時代だったと思う。冷戦という社会背景があったにしろ、芸術には東西を越えた流通があったし、ファンは音楽を通して、様々なものを感じた。現在では、情報が世界中にゆきわたることで、様々なものが均質化に向かったと思う。功罪両面あろうが、こと芸術に関しては、かつてのようなカリスマティックなオーラをもった巨匠と呼ばれるような存在は、その数を大きく減らしたと思う。 ここで聴くカラヤンのモーツァルトも、現在では失われた響きと言って良いと思う。世界最高のオーケストラをつかって、これらの楽曲を、大時代的なスケールとも言える編成と音色で響かせるような試み自体が、否定的に捉えられるだろうし、あえてそれをやってみたところで、「かつてあったもの」という風にみなされてしまう。それは芸術の世界では、トライしにくいことだろう。 しかし、ここで聴くモーツァルトに、私はとても魅力を感じる。懐かしいというだけではなく、豊かな音のひろがり、テヌートとポルタメントの美麗な効果をまとったサウンド、それらを統率する指揮者の精神の強靭さ、どれも本当に立派で見事なものだ。また。これだけの重量感を持ち得ながら、全体としては快速と言っても良い心地よい進行を維持し、微笑んだり、情に偲んだりするようにして聴き手に様々に語りかえる音楽は、私たちがかつて大切にしていて、いま失われつつある価値観に繋がっているようにも感じられる。 代表的な箇所として、ディヴェルティメント第15番の第2楽章と第4楽章の2つの緩徐楽章の潤いに満ちた美麗な響き、K.136の第1楽章のシームレスな響きの満ち足りた幸福感、アイネ・クライネ・ナハトムジークの両端楽章の活力にあふれた色彩感など特に挙げたいところであるが、全編に渡って音楽を演奏する事と聞くことの喜びにあふれたものであり、いまの時代に聴いたとて、聴き手が受けとる喜びは、一切減じてはいないのである。 |
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ピアノ協奏曲全集 p: アシュケナージ アシュケナージ指揮 フィルハーモニア管弦楽団 p: バレンボイム レビュー日:2006.12.31 |
★★★★★ モーツァルト・イヤーにふさわしい再販です
さて2006年はモーツァルト生誕250年ということで、各レコード会社も様々な企画ものをリリースした。概して良心的な企画が多かったし、個人的にもいろいろ楽しんだ。その一環で、いわゆるハコモノといえる全集ものが一気に値を下げて発売するものも目に付いたが、中でもこの88年レコード・アカデミー賞を受賞したアシュケナージによるピアノ協奏曲の全集など、素晴らしいものである。実際これだけ値段が下がると、再販価格維持制度などどうなんだろう?と思ってしまうが、まあいいのでしょう。大丈夫、大丈夫。 1977年から86年にかけての録音は距離感、スケールとも適切で好ましい。その第2楽章が映画「短くも美しく燃え」に用いられて有名な第21番は理想的名演で、典雅な両端楽章の雰囲気も満点。第18番と第20番は録音が優秀。ピアノの低音が豊かに響き、木管楽器の鳴りもたいへん良好。このソフトな語り口は決して浅い表現ではない。25番ではややアグレッシヴに行き過ぎた感もあるが、24番のニュアンスを含んだ弦のさざなみは美しさの限り。第26番は音の輪郭が明瞭でスキッと仕上がっている。第23番と第27番は入念なピアノの音色が美しい限り。また2台および3台のピアノのための協奏曲では、同じ指揮者&ピアニストとして活躍する友人バレンボイムとの競演が楽しい。第12番、第15番、第17番なども曲の魅力を豊かに表現している。他も王道の演奏ですべてに過不足無い安心感がある。ピアノの冴えと歌。管弦楽の気品。いずれもレベルが高い。 |
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ピアノ協奏曲全集 p: ペライア ペライア指揮 イギリス室内管弦楽団 レビュー日:2012.2.21 |
★★★★★ やわらかなグリーンの自然光に包まれているようなモーツァルト
1975年から84年にかけて、イギリス室内管弦楽団と録音されたマレイ・ペライア(Murray Perahia 1947-)の弾き振りによるモーツァルトのピアノ協奏曲全集、CD12枚組。ピアニストとしてのペライアの名声を決定付けた録音だと思う。このCD-Boxにはロンドニ長調K.382とロンドイ長調K.386に加えて、後にラドゥ・ルプーを迎えて1988年に録音した3台のピアノのための協奏曲 K.242(2台ピアノ用編版);通称「第7番」と2台のピアノのための協奏曲 K.365;通称「第10番」が収録されており、余すところのない内容だ。 カデンツァは基本的にモーツァルトが作曲したものを使用しているが、第1番、第2番、第4番、第5番、第20番の第3楽章、第21番の第1楽章、第24番、第25番、第26番、及び2つのロンドではペライア自身によるものが演奏されている。また、他にも第6番はアルトゥール・バルサム(Artur Balsam)、第20番の第1楽章はベートーヴェン、第21番の第3楽章はルドルフ・ゼルキン(Rudolf Serkin)、第22番はフンメル(Johan Nepomuk Hummel)のものを弾いており、聴き比べも楽しいに違いない。 私はモーツァルトのピアノ協奏曲では、アシュケナージのものと、このペライアのものが大好きである。両者ともに素晴らしいオーケストラのサウンドを引き出しながら、輝かしいピアノのタッチを惜しみなく披露してくれている。両者の違いは、アシュケナージが外向的な色彩を持っていたのに対し、ペライアは禁欲的とも言える内省的で慎ましやかな美観に貫かれていることだ。しかし、決して大人しいだけの演奏などではなく、明快なテクニックで深い感情表現を体得している。その感情表現も、押し付けがましいものは一切無く、ただ自然に湧出する泉の清水のように、滾々と流れていくのである。 モーツァルトの音楽が胎教にいい、とか植物の発育に効果がある、という論文を読んだことがある。それなりの権威のある雑誌に載っていたと記憶している。その効果がいかほどのものかはわからないが、このペライアのモーツァルトを聴いていると、深緑を透過してくるやわらかなグリーンの自然光に包まれているような、優しい安らぎを感じることができる。これは多くの人が「幸福感」として感じることが出来る性質のものではないだろうか。 また、短調の2曲、第20番と第24番はいずれも名曲として名高いが、これもペライアの礼儀正しい音色とシンフォニックなオーケストラ・サウンドがあいまって、稀有なほどの気高さを感じさせる演奏となっている。 初期の瑞々しい作品も魅力に溢れて響いており、再発売で廉価となったことを考え合わせると、実に推薦し甲斐のあるBox-setになったと思う。 |
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ピアノ協奏曲 第5番~第27番 ピアノ・ソナタ全集 ピアノ四重奏曲 第1番 第2番 2台のピアノのためのソナタ ピアノと管楽器のための五重奏曲 p: ツァハリアス マリナー指揮 シュトゥットガルト放送交響楽団 ヴァント指揮 北ドイツ放送交響楽団 ジンマン指揮 イギリス室内管弦楽団 ジンマン指揮 バイエルン放送交響楽団(第20,21,25番) ジンマン指揮 シュターツカペレ・ドレスデン ジンマン指揮、北ドイツ放送交響楽団 マクシミウク指揮 ポーランド室内管弦楽団 バンベルク交響楽団 ザビーネ・マイヤー管楽アンサンブル p: ヒンリクス vn: ツィンマーマン va: T.ツィンマーマン vc: ヴィック レビュー日:2022.2.24 |
★★★★★ これはオススメ。モーツァルトの主要なピアノ作品が、いずれも素晴らしい演奏で聴けます。
モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)演奏に定評のあるドイツのピアニスト、クリスティアン・ツァハリアス(Christian Zacharias 1950- “ツァハリス”とも表記される)が80年代から90年代にかけて録音した一連のものを廉価Box-set化したもの。演奏も録音も質の高いもので、たいへんお得な内容となっている。まずは収録内容の詳細を書こう。 【CD1】 1) ピアノ協奏曲 第6番 変ロ長調 K.238 1990年録音 2) ピアノ協奏曲 第11番 ヘ長調 K.413 1990年録音 3) ピアノ協奏曲 第5番 ニ長調 K.175 1990年録音 【CD2】 4) ピアノ協奏曲 第8番 ハ長調 K.246 「リュッツォウ」 1981年録音 5) ピアノ協奏曲 第9番 変ホ長調 K.271 「ジュノーム」 1981年録音 6) ピアノ協奏曲 第12番 イ長調 K.414 1984年録音 【CD3】 7) ピアノ協奏曲 第13番 ハ長調 K.415 1989年録音 8) ピアノ協奏曲 第15番 変ロ長調 K.450 1989年録音 9) ピアノ協奏曲 第17番 ト長調 K.453 1988年録音 【CD4】 10) ピアノ協奏曲 第16番 ニ長調 K.451 1989年録音 11) ピアノ協奏曲 第19番 ヘ長調 K.459 1989年録音 12) ピアノ協奏曲 第18番 変ロ長調 K.456 1988年録音 【CD5】 13) ピアノ協奏曲 第20番 二短調 K.466 1989年録音 14) ピアノ協奏曲 第21番 ハ長調 K.467 1989年録音 15) ピアノ協奏曲 第14番 変ホ長調 K.449 1981年録音 【CD6】 16) ピアノ協奏曲 第22番 変ホ長調 K.482 1985年録音 17) ピアノ協奏曲 第23番 イ長調 K.488 1985年録音 【CD7】 18) ピアノ協奏曲 第25番 ハ長調 K.503 1986年録音 19) ピアノ協奏曲 第26番 ニ長調 K.537 「戴冠式」 1986年録音 【CD8】 20) ピアノ協奏曲 第24番 ハ短調 K.491 1986年録音 21) ピアノ協奏曲 第27番 変ロ長調 K.595 1986年録音 【CD9】 22) ピアノ協奏曲 第10番 変ホ長調 K.365 「3台のピアノのための協奏曲」(2台版) 1995年録音 23) ピアノ協奏曲 第7番 ヘ長調 K.242 「2台のピアノのための協奏曲」 1995年録音 24) 2台のピアノのためのソナタ ニ長調 K.448 1995年録音 【CD10】 25) ピアノ・ソナタ 第13番 変ロ長調 K.333 1984年録音 26) ピアノ・ソナタ 第16番 ハ長調 K.545 1985年録音(旧全集 第15番) 27) ピアノ・ソナタ 第5番 ト長調 K.283 1984年録音 28) ピアノと管楽器のための五重奏曲 変ホ長調 K.452 1993年録音 【CD11】 29) ピアノ・ソナタ 第14番 ハ短調 K.457 1985年録音 30) ピアノ・ソナタ 第4番 変ホ長調 K.282 1985年録音 31) ピアノ・ソナタ 第6番 ニ長調 K.284 1985年録音 32) ピアノ・ソナタ 第12番 ヘ長調 K.332 1984年録音 【CD12】 33) ピアノ・ソナタ 第8番 イ短調 K.310 1985年録音 34) ピアノ・ソナタ 第2番 ヘ長調 K.280 1985年録音 35) ピアノ・ソナタ 第9番 ニ長調 K.311 1985年録音 36) ピアノ・ソナタ 第1番 ハ長調 K.279 1984年録音 【CD13】 37) ピアノ・ソナタ 第10番 ハ長調 K.330 1985年録音 38) ピアノ・ソナタ 第15番 ヘ長調 K.533/494 1985年録音(旧全集 第18番) 39) ピアノ・ソナタ 第18番 ニ長調 K.576 1985年録音(旧全集 第17番) 40) ピアノ・ソナタ 第17番 変ロ長調 K.570 1984年録音(旧全集 第16番) 【CD14】 41) ピアノ・ソナタ 第7番 ハ長調 K.309 1985年録音 42) ピアノ・ソナタ 第3番 変ロ長調 K.281 1985年録音 43) ピアノ・ソナタ 第11番 イ長調 K.331 「トルコ行進曲付き」 1985年録音 【CD15】 44) ピアノ四重奏曲 第1番 ト短調 K.478 1988年録音 45) ピアノ四重奏曲 第2番 変ホ長調 K.493 1988年録音 マリナー(Neville Marriner 1924-2016)指揮 シュトゥットガルト放送交響楽団(協奏曲第5,6,11,16,17,18,19番) ツァハリアス指揮 バンベルク交響楽団(協奏曲7,10番) マクシミウク(Jerzy Maksymiuk 1936-)指揮 ポーランド室内管弦楽団(協奏曲第8,9,12,14番) ジンマン(David Zinman 1936-)指揮 シュターツカペレ・ドレスデン(協奏曲12,22,23番) ジンマン指揮 イギリス室内管弦楽団(協奏曲第13,15番) ジンマン指揮 バイエルン放送交響楽団(協奏曲20,21,25番) ヴァント(Gunter Wand 1912-2002)指揮 北ドイツ放送交響楽団(協奏曲第24,27番) ジンマン指揮 北ドイツ放送交響楽団(協奏曲第26番) 22,23,24) ピアノ: マリー=ルイーズ・ヒンリクス(Marie-Luise Hinrichs 1964-) 28) ザビーネ・マイヤー管楽アンサンブル 44,45) ヴァイオリン: フランク・ペーター・ツィンマーマン(Frank Peter Zimmermann 1965-) 44,45) ヴィオラ: タベア・ツィンマーマン(Tabea Zimmermann 1966-) 44,45) チェロ: ティルマン・ヴィック(Tilmann Wick) ツァハリアスのピアノは、節度と表現性の絶妙なバランス、透明でありながら色彩感豊かなもので、モーツァルトの名品を情感豊かに彩っている。以下、特に印象に残ったところを挙げていく。 協奏曲では、まず第11番の中間楽章を挙げよう。この演奏を聴いていると、明るい野山を歩いて、楽しい気分であるのに、ときおり、ふとふりそそぐ不安が深い感情を動かすような気持にさせられる。この楽曲の深みを味わわせてくれる。第13番は、ジンマンの導く程よいコクを感じさせる高級感に満ちたトーンとピアノの呼応が相応しく、終楽章も期の傑作群に通じる華やかさが魅力。第15番はことのほかツァハリアスのピアノの豊かな発色性と透明感が活き、特に第2楽章のロマンティックな雰囲気は、以後のモーツァルトの傑作群への布石という以上の存在感がある。第17番も第2楽章が素晴らしい。幻想的な柔らか味を感じさせる。第18番もまた白眉は第2楽章。その深みのある憂い、そこに添えられる透明でありながら情感をたっぷりたたえたピアノ、それでいてべとつかない洗練があって、当演奏の質の高さを確固たるものにしている。 第20番はツァハリアスのシームレスなピアニズムが流麗。現代ピアノ特有の音価と強弱の自在性を巧妙に扱いながら、締めるところは締め、歌うところは歌うというメリハリが明瞭で、時に左手からも強い主張のある音がある。また、それらの効果は、全体に対して決して突飛な印象を招くものではなく、適度な劇性をもたらし、この楽曲が、歴史に刻まれた名曲であることを、着々と証明していくような力強さを感じさせる。第3楽章のカデンツァで、冒頭、まるで蓄音機から流れてきたオーケストラのビット音のような合いの手が挿入され、そこからツァハリアスのカデンツァが開始される。最初聴くと、かなりびっくりするが、これはツァハリアスが発案した「仕掛け」とのことで、なかなか面白い。第21番も同様に流れの良い演奏で、美しい仕上がりを示すが、この曲では、通常より早めのテンポで演奏された第2楽章が抜群の聴きどころと言えるだろう。運動的な美しさの中で、ファゴットとピアノが掛け合う様は、雪の降り積もった銀世界の中で、月の光と星の光が交錯するような美しさで、思わずため息がもれてしまうほどだ。 第23番は、現代オーケストラと現代ピアノならではの、肉厚さ、発色の豊かさがあり、十全な響きで満たされている。暗い情感が深く描かれた有名な第2楽章においては、管弦楽、ピアノがそろって、たっぷりとした憂いを含んだ演奏が繰り広げられる。現在の主流の演奏より、情感の発露に重みを置いた演奏であるが、それゆえの聴き応えは、決して不適切なものではない。むしろ、オーケストラ、ピアノがあいまった美麗な音響は、音楽芸術の一つの粋を極めたものと言っても良い。第24番は、ヴァントの指揮も注目だ。冒頭からやや速めのテンポを設定し、余計な情感を排するような淡々とした響きで進められるが、その音響は、中央ヨーロッパの響きを呼ぶにふさわしい含蓄を感じさせる。それは、淡さの中にも、しっかりと内側から滲み出るような味わいがあるからだ。木管と弦の透明な響きは、私には北国の音と形容したい雰囲気を感じさせる。ツァハリアスのピアノも、透明で、節度を保ったピアノであるが、きらめくようなタッチが、オーケストラの音色と合わさった時、氷の輝きのような美しさを見せ、感動的だ。一陣の風のように描かれた終楽章も、私には彼らのモーツァルトとして、一つの到達点に達したものを感じさせてくれる。 ピアノ・ソナタに移る。第7番は、冒頭のフォルテのファンファーレから、適度に抑制の利いた美観に整えられている。続いて弱音で奏でられる旋律世の間に、的確な強弱のコントラストを設けつつも、その様は、適度な礼節を感じさせ、優雅で品がある。第2楽章の変奏曲は、付点が軽やかで聴き心地柔らかで、一切の無理の無い響き。終楽章のはしゃぐようなリズムも、絶好の軽みがあって、しかし、しっかりとしたニュアンスも感じさせる。第8番は劇性の中に落ち着きがあり、パッセージの煌めきが忘れがたい。第9番は、冒頭の輝かしさから、よく抑えの利いた展開への移行が自然そのもので、安心して身を任せられる心地よさがある。第2楽章の情感も美しいが、終楽章で、第2主題をテンポを落してじっくりと歌い上げるところなど、心憎い巧さに満ちており、充実した聴き味をもたらす。第10番は、第1楽章の華やかさに魅了される。テンポは穏当であるが、音色の絶対的な美観と、快く刻まれるリズムによって、楽曲はふさわしい闊達さに満ち、喜びに溢れた音楽となる。第2楽章の憂い、第3楽章のワクワク感も、モーツァルトにふさわしい典雅さをもって表現されている。音色自体の清潔感も魅力。 第11番は、第1楽章の変奏曲を、一つ一つ、しっかりと歌をもって響かせている。そのため、テンポは落ち着いたものとなるが、それゆえの風情があって良い。個人的にはアップテンポで弾き飛ばすしてしまうより、当演奏の方がはるかに好ましいと思う。なお、有名な「トルコ行進曲」では、終楽章のコーダで、シンバルが加えられる。この別楽器の挿入というのは、ソナタという概念と照らすと、驚かされるが、確かに古今様々な演奏・録音があり、すっかり聴き手に馴染まれた楽章であれば、いっそのことこれくらいのインパクトで差別化があっても、面白いかもしれない。ツァハリアスというアーティストの発想力の豊かさを感じさせる。第12番は、前半2楽章はオーソドックスで、美しく仕上がっており、第2楽章の情感は胸に沁みるが、当演奏で最も特徴的なのは第3楽章である。そこで、ツァハリアスは、即興的な装飾を加え、テンポも自由さを加味しながら、実に華々しい演奏を繰り広げている。他の演奏に比べて、やや重厚さを増した感があるところも、ツァハリアスの一連のモーツァルト録音の中で、特徴的なものとなっているだろう。第14番は、劇的な様相を十分に表出しながらも、端正な語り口で、真摯な美観に貫かれている。特に終楽章、淡々と進みながらも、哀しみが切々と深まっていくようなピアノは、感動的。 第16番のような技巧的に簡単な作品であっても、ツァハリアスはスピードを上げて弾き飛ばすようなことはせず、スタッカートの妙味を活かしながら、単純な音階に美しいニュアンスを通わせていて、さすが、モーツァルトに精通したピアニストの演奏であると唸らされる。単純な楽曲でこそ、奏者の芸術性が明らかになるという端的な例であるとともに、奏者の作品への愛情が健やかに伝わる名演だと思う。第2楽章のアンダンテが特に魅力的。個性的な抑揚のある音楽だが、ツァハリスの緩急は自然で、健やかな情緒を与えながら、曲想を演出している。暖炉の周りで火影が揺らぐような情感を感じ、私はその様に胸打たれたがいかがだろうか。モーツァルトの音楽の、さりげないようでいて深い一面を垣間見せてくれる瞬間でもある。第17番は、ゆったりしたユニゾンから、素朴な音楽が流れていくが、ツァハリアスのピアノは、その素朴さをそのまま愛おしむ様に奏でられる。純朴に描かれる陰影が、この作品に相応しい。また、終楽章のシンコペーションによるリズムは、明朗で、現代ピアノならではの明るい響きを十全に響かせている。第18番は、狩を思わせるフレーズから開始されるが、ツァハリアスのピアノは、いかにも肩ひじの張らないすみやかなスタイルで、洗練を感じさせる。現代ピアノならではの透明感を存分に用いて、パッセージの交錯に適度な発色性を与え、その豊かさがモーツァルトの音楽の喜びに直接つながる感触を伴う。第3楽章はモーツァルトのピアノ・ソナタ群の中では、特に技巧的なものとなっているが、冴えたツァハリアスのピアノは、いつも余裕があり、それゆえの粒だった音による歌があり、伸びやかな音世界が描かれている。 室内楽や2台のピアノのための作品も、いずれも秀演揃いだが、とくに抑制的にピアノを鳴らしたピアノ四重奏曲は気配が深い。ダイナミックレンジは大きくとらず、フォルテはメゾ・フォルテにとどめる。その一方で、現代ピアノならではの芯の通った響きで、音楽的主張を維持し、全体のバランスを保つ。玄人はだしという表現がいかにも相応しい内容。20世紀末に形作られた古典演奏におけるオーソリティを実行した堅実な演奏とも言えるだろう。弦楽器陣も、慎ましくも美しい響きで、全体像を維持しながら、必要な歌を奏でていく。 いずれにしても、質の高いモーツァルトらしいモーツァルトを存分に味わえるものばかりで、個人的には超オススメなアイテムです。 |
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モーツァルト 3つのピアノ協奏曲 K.107 シュローカー ピアノ協奏曲 ハ長調(op.3-3) p: ペライア ペライア指揮 イギリス室内管弦楽団 レビュー日:2012.12.1 |
★★★★☆ 「ピアノ協奏曲全集」Boxからは漏れてしまいましたが・・
マレイ・ペライア(Murray Perahia 1947-)の指揮とピアノ、イギリス室内管弦楽団による演奏で、モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)の「3つのピアノ協奏曲 K.107(ニ長調、ホ長調、変ホ長調)」とヨハン・ザムエル・シュレーター(Johann Samuel Schroter 1753-1788)のピアノ協奏曲ハ長調(作品3-3)を収録。録音は1984年。 とりあえず、K.107がどのような曲なのか解説したい。モーツァルトのピアノ協奏曲には第1番から第27番までが知られている。よく「全集」と謳われるものには、これらの27曲が収録されることになるのだが、このうちモーツァルトのオリジナル作品は、1773年(17歳のとき)の第5番以降である。第1番~第4番の4曲については、モーツァルトが11歳の時(1767年)に、演奏会に合わせて、ラウバッハ(Hermann Friedrich Raupach 1728-1778)、ショーベルト(Johann Schobert 1735-1767)、ホーナウアー(Leontzi Honauer 1730-90)、エッカルト(Johann Gottfried Eckard 1735-1809)、C.P.E.バッハ(Carl Philipp Emanuel Bach 1714-1788)らの作品を編曲したものとされる。 ところが、これと同種の作品がまた別に存在し、これが番号の与えられていない「K.107」の3曲である。これらは、ヨハン・クリスティアン・バッハ(Johann Christian Bach 1735-1782;かの有名なJ.S.バッハの第11子)のクラヴィーア・ソナタを編曲したもので、古くは、モーツァルト9歳の時(1765年)の作品と考えられてきたが、最近の研究では、15歳の時(1771年)のものという説が有力だ。107というケッヒェル番号もこの説に従っている。その場合、11歳の時の4曲の方が書法的に優れている面があり、年代と逆転するとも言われるが、いずれ神童ならではのエピソードである。 ペライアは、全集の製作にあたって、真摯に「番号のない」これらの曲も録音してくれたわけだ。(しかし、SONYの全集BOXからは当該ディスクが削られてしまっている)。聴いてみると、なかなか捨てがたい魅力のある作品。非常に素朴なメロディを、健やかに、温和な和声を当てはめて編曲したもので、純粋さの漂う音楽だ。ペライアの柔らかくも清々しいタッチにより、新緑の中を穏やかに過ぎる風のような、無害な優雅さに満ちている。 また併録曲のシュレーターは、ドイツのピアニスト兼作曲家だった人物で、当時は人気のある音楽教師であったとのこと。ヨハン・クリスティアン・バッハの支援を受けて活動し、多くのクラヴィーアのためのソナタや協奏曲を書いたということから、当ディスクの組み合わせは、「J.C.バッハ」の名により繋がるものということになるだろう。 こちらも良くも悪くもクセのない自然な音色を連ねたような音世界で、ペライアのタッチの美しさが、ひたすらそのまま直線的に伝わってくる印象。楽曲自体の存在感が薄いのは仕方ないが、このような作品があることを、どこかで知っておきたいという気持ちにさせてくれる一枚だ。 |
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ピアノ協奏曲 第8番「リュッツォウ」 第9番「ジュノーム」 p: ティーポ シャイー指揮 ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団 レビュー日:2015.3.5 |
★★★★★ 忘れないでおきたい名盤
イタリアのピアニスト、マリア・ティーポ(Maria Tipo 1931-)と、シャイー(Riccardo Chailly 1953-)指揮、ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団演奏の演奏で、モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)の以下の2曲を収録。 1) ピアノ協奏曲 第9番 変ホ長調 K.271「ジュノーム」 2) ピアノ協奏曲 第8番 ハ長調 K.246「リュッツォウ」 1983年の録音。 同じ顔合わせで同年に第20番と第21番の録音も行われていたが、メディアの発売は当盤の方が後。 ティーポは優れたピアニストであるが、活動の主軸を演奏よりも教育に置いている人物で、そのため録音が少なく、あまり話題にもならない。それにしても、当盤と、それに第20番、第21番の録音を聴くと、そのモーツァルトの協奏曲シリーズが4曲きりだったのは、残念である。しかし、考え方を変えれば、シャイーとロンドン・フィルというこの上ないバックと、4曲の記録が行われたのは、私たちにとって福音であった、とも言えるだろう。 ここに収録されているモーツァルトの2曲の協奏曲は、いずれもモーツァルトと所縁のあった女性の名を持っているが、その内容には大きな飛躍がある。すなわち第9番の充実は、後年の彼の傑作群と比較して、なんら劣るところのない名曲性を示しているのに対し、第8番は穏当なたたずまいを持つ。 しかし、いずれの楽曲もモーツァルトならではの魅力をたたえたものでもある。どちらも弦5部にホルンとオーボエのみという編成でありながら、オーケストラから繰り出される音の多彩さは見事の一語に尽きるし、モーツァルトの天才を示すのに不足はない。しかも、第9番においては、急速楽章において連続するひらめきに満ちた展開や、ハ短調で書かれた第2楽章に恐怖にも通じる深い哀愁が通っている点で、やはり一流の芸術作品に違いない。 ティーポのピアノは、色彩感豊かである。第9番の第1楽章の展開部では、おそらく当時まったく聴きなれていなかったような意表を突く進行が連続するが、その一つ一つのニュアンスを巧妙に放っていて、聴くものの気持ちをいつもフレキシブルにしてくれる。力強い生命的なものにあふれた表現だ。 シャイーの指揮も素晴らしい。現代楽器ならではのソフトで幅のある表現を用いながら、ときに流線型に、ときにリズム主体に、音楽の変化に即応するように音の体系を整えなおす。その手際の良さが、見事だし、飽きにつながるような過剰なこととも無縁だ。そのようにして、この作品の高級な聴き心地をしっかり担保している。 いつのまにか忘れられてしまいそうな録音にも思えるが、別に復刻も行われているのが嬉しい。私にとって忘れがたい1枚だ。 |
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ピアノ協奏曲 第9番「ジュノーム」 第10番「2台のピアノのための協奏曲」 第11番 第12番 第14番 第15番 第16番 第17番 第19番 第20番 第21番 第22番 第23番 第27番 ピアノと管弦楽のためのロンド ニ長調 K.382 ピアノのためのロンド イ短調 K.511 p: R.ゼルキン P.ゼルキン シュナイダー セル オーマンディ カザルス指揮 マールボロ祝祭管弦楽団 コロンビア交響楽団 フィラデルフィア管弦楽団 ペルピニャン祝祭管弦楽団 レビュー日:2018.2.13 |
★★★★☆ ゼルキン往年の佳演を集めた6枚組Box-set
ルドルフ・ゼルキン(Rudolf Serkin 1903-1991)がモノラル期からステレオ初期にかけて録音したモーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)を6枚のCDにまとめたBox-set。収録内容は以下の通り。 なお、指揮者、オーケストラ表記は以下の略を用いる。、 AS; アレクサンダー・シュナイダー(Alexander Schneider 1908-1993) GS; ジョージ・セル(George Szell 1897-1970) EO; ユージン・オーマンディ(Eugene Ormandy 1899-1985) PC; パブロ・カザルス(Pablo Casals 1876-1973) マールボロ祝祭管弦楽団 Marlboro Festival Orchestra MFO コロンビア交響楽団Columbia Symphony Orchestra ColSO フィラデルフィア管弦楽団he Philadelphia Orchestra PO ペルピニャン祝祭管弦楽団Perpignan Festival Orchestra PFO 【CD1】 1) 2台のピアノのための協奏曲(第10番)変ホ長調 K.365 AS / MFO 1962年 2) ピアノ協奏曲 第12番 イ長調 K.414 AS / MFO 1962年 3) ピアノ協奏曲 第14番 変ホ長調 K.449 AS / ColSO 1962年 【CD2】 4) ピアノ協奏曲 第17番 ト長調 K.453 AS / ColSO 1962年 5) ピアノ協奏曲 第19番 ヘ長調 K.459 GS / ColSO 1961年 6) ピアノのためのロンド イ短調 K.511 1977年(ライヴ) 【CD3】 7) ピアノ協奏曲 第20番 ニ短調 K.466 GS / ColSO 1961年 8) ピアノ協奏曲 第27番 変ロ長調 K.595 EO / PO 1962年 9) ピアノと管弦楽のためのロンド ニ長調 K.382 AS / ColSO 1955年(モノラル) 【CD4】 10) ピアノ協奏曲 第9番 変ホ長調 K.271「ジュノーム」 AS / MFO 1956年(モノラル) 11) ピアノ協奏曲 第11番 ヘ長調 K.413 AS / MFO 1957年(モノラル) 12) ピアノ協奏曲 第16番 ニ長調 K.451 AS / ColSO 1955年(モノラル) 【CD5】 13) ピアノ協奏曲 第21番 ハ長調 K.467 AS / ColSO 1955年(モノラル) 14) ピアノ協奏曲 第22番 変ホ長調 K.482 PC / PFO 1951年(モノラル・ライヴ) 【CD6】 15) ピアノ協奏曲 第23番 イ長調 K.488 AS / ColSO 1955年(モノラル) 16) ピアノ協奏曲第15番ハ長調 K.503 GS / ColSO 1955,53年(モノラル) 1)の第2ピアノはピーター・ゼルキン(Peter Serkin 1947-)。 ルドルフ・ゼルキンは、その後もモーツァルトのピアノ協奏曲をたびたび録音しているので、その代表的録音として必ずしも当盤を推すわけではない。しかし、ゼルキンならではのしっかりとした旋律線をしっかりと弾きこんだこれらの録音は、いかにも「本物」といいたいような味わいをもっている。 全体的に、この時代ならではの、おおらかなオーケストラの響きが全体の印象を大きく左右しているだろう。音量の階層はそれほど細分化されておらず(このあたりは録音精度との関係もあるのだけれど)、全般に朗々としていて、こじんまりとするようなところはなく、常に豊かな音量が維持されている。その結果全般に得られる太い響きが、いかにも当時らしい地に足の着いた堂々たる歩みに感じ取られる。オーケストラ、あるいはピアノ・ソロの技術も、現在のものと比較すると、細部に曖昧さを残してはいるが、しかし聴き手に伝達される音楽としての内容の濃さは、十分なものがある。大事なものがしっかりと伝わる、こういうのを貫禄ある名演と言うのだろう。 個人的に特に気に入ったのは、第17番、第27番の2曲で、さりげない気品が自然に、しかし密かな熱をいくぶんもって提示される歌が美しい。第11番、第22番も典雅な響きが心地よい。他方、第21番、第23番ではシュナイダーの指揮ともども、ちょっと浮くように急く感じのところも残る。 録音はモノラルのものは流石に古く、細部がよくわからないところもある。また、音の揺れが残っているところもあり、気になるレベルの不安定さを感じてしまう。ないものねだりとは言え、再録音が存在する楽曲では、特にそれを置いてもこちらをとるというわけではない。ただ、これだけの佳き演奏を、廉価でまとめて聴くことができるので、リスナーにとっては良心的なアイテムと言っていい内容と思う。 |
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ピアノ協奏曲 第5番 第6番 第11番 p: ツァハリアス マリナー指揮 シュトゥットガルト放送交響楽団 レビュー日:2022.1.26 |
★★★★★ 若き日のモーツァルトが書いた3つのピアノ協奏曲を収録
ドイツのピアニスト、クリスティアン・ツァハリアス(Christian Zacharias 1950- “ツァハリス”とも表記される)と、イギリスの指揮者、ネヴィル・マリナー (Neville Marriner 1924-2016)指揮、シュトゥットガルト放送交響楽団の演奏による、モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)の下記の2曲を収録したアルバム。 1) ピアノ協奏曲 第6番 変ロ長調 K.238 2) ピアノ協奏曲 第11番 ヘ長調 K.413 (387a) 3) ピアノ協奏曲 第5番 ニ長調 K.175 1990年の録音。 第5番と第6番はザルツブルク時代、それぞれ1773年と1776年に書かれた作品。第11番はウィーン時代に手掛けられた最初のピアノ協奏曲で、1783年に書かれたとされる。第5番より若い番号が与えられている4つの協奏曲は、他者の作品をモーツァルトが編作したものと考えられているため、第5番は、モーツァルトが書いた最初のピアノ協奏曲となる。 これらのピアノ協奏曲は、モーツアルトの天才性が発揮される以前の作品であるが、当盤のような優れた演奏で聴くと、そこには若々しい天性の音楽性が感じられ、なかなか魅力的だ。ツァハリアスのピアノは、節度を保ちながらも、柔らかなタッチと、輝かしい透明感を扱って、叙情性を瑞々しく引き出しているし、マリナーの演奏も、さすがにモーツァルトに一家言持つ大家らしく、堂々として、安定している。 第6番は溌溂とした楽曲であるが、特に終楽章で聴かれる幸福感に溢れた躍動的な音楽が魅力的。ピアノの華やかな活躍は、のちの充実期の作風を思わせる。また、フルートが情感豊かに響くのも、印象的。 第11番は、収録された3曲の中では、やはり一番充実した味わいをもたらしてくれる。両端楽章が4分の3拍子というのが、一つの特徴であり、当盤でもそれゆえの華やかさが薫るが、個人的には、中間楽章が出色の出来で、この演奏を聴いていると、明るい野山を歩いて、楽しい気分であるのに、ときおり、ふとふりそそぐ不安が深い感情を動かすような気持にさせられる。すでに、モーツァルトのモーツァルトたる所以が示されている感があるが、当演奏は、そのことを実感させてくれる。 最後に、モーツァルトが最初に書いたピアノ協奏曲である第5番が収録されている。第5番の編成はトランペットとティンパニを含む比較的大きなものとなっている。初期作品とはいえ、その整いの中で繰り広げられる明朗な歌とリズムは、すでに音楽芸術と呼ぶにふさわしいものがあり、ツァハリアスとマリナーの演奏は、それを、真摯に伝えてくれる。 |
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ピアノ協奏曲 第7番「3台のピアノのための協奏曲」 第10番「2台のピアノのための協奏曲」 2台のピアノのためのソナタ第11番 p: ツァハリアス ヒンリクス ツァハリアス指揮 バンベルク交響楽団 レビュー日:2022.2.17 |
★★★★★ モーツァルトの2台のピアノのための主要作品を1枚に収めたあるバム
ドイツのピアニスト、クリスティアン・ツァハリアス(Christian Zacharias 1950- “ツァハリス”とも表記される)と、同じくドイツのマリー=ルイーズ・ヒンリクス(Marie-Luise Hinrihs 1964-)による、モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)の下記の3曲を収録したアルバム。 1) ピアノ協奏曲 第10番 ホ長調 K.365 「2台のピアノのための協奏曲」 2) ピアノ協奏曲 第7番 ヘ長調 K.242 「3台のピアノのための協奏曲」(2台のピアノ版) 3) 2台のピアノのためのソナタ ニ長調 K.448 1995年の録音。 1,2)については、ツァハリアスの弾き振りで、オーケストラはバンベルク交響楽団が務める。 ツァハリアスは80年代の半ばに、モーツァルトとピアノ協奏曲を一通り録音しており、その後に、録り残し状態にあった2つの「複数のピアノ」を要する協奏曲を録音した形になる。 演奏は、すでにモーツァルト演奏について確固たる安定感を確立したツァハリアスのスタイルが活かされたもので、強弱のコントロール、メリハリの的確さともソツがなく、いかにもこれらの楽曲に相応しい響きとなっている。 ピアノ協奏曲第10番は、第1楽章から、音価の短い音符たちがこまやかに行き交いながら、いかにも幸福感に満ちた音楽が繰り広げられるが、ツァハリアスとヒリンクスの演奏は、それに相応しい暖かさと輝かしさがあって、華やかである。第2楽章の2台のピアノの交錯は、他の演奏でも失敗するような部分ではないのだが、当演奏もさすがに安定しており、自然である。終楽章は2台のピアノのやりとりがことのほか楽しい部分であるが、適度な即興性を備えながらも、自然な響きにまとまる伸びやかさが好ましい。 ピアノ協奏曲第7番は、アインシュタイン(Albert Einstein 1879-1955)が、楽曲そのものに芳しい評価を与えなかったことで知られるが、私には、それほど劣った作品には聴こえない。むしろ、この演奏で聴く第2楽章の情感や、第3楽章の躍動感には、十分に魅力的なものがあり、演奏が優れていれば、十分に楽しめる楽曲だと、再認識させられる。ツァハリアスとヒリンクスの響きは、高貴さを宿していて、聴き手の期待に応える。 最後に収録されている「2台のピアノのためのソナタ」は、その闊達な楽想が魅力で、当該ジャンルの名作と数えられる。私は、かつてアシュケナージ(Vladimir Ashkenazy 1937-)とマルコム・フレイジャー(Malcolm Frager 1935-1991)の、万華鏡を思わせるような華やかな演奏でこの楽曲に親しんだ。それに比べると、当演奏は、いくぶん感情の抑揚をセーヴし、ある程度落ち着いた味わいをベースに、響きをつむぎあげている。決して運動的な魅力に不足するわけではなく、それゆえの味わいのある良演であり、前2曲との組み合わせの妙と併せて、1枚のアルバムとして、楽しく聴き通せるものとなっている。 |
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ピアノ協奏曲 第9番「ジュノーム」 第17番 hf: シュタイアー シュタイアー指揮 コンチェルト・ケルン レビュー日:2010.7.17 |
★★★★★ 古い楽器「フォルテピアノ」の弱点を感じさせない楽しい演奏
アンドレアス・シュタイアーのフォルテピアノ弾き振りによるモーツァルトのピアノ協奏曲集第1弾。バックはドイツの古楽器オーケストラであるコンチェルト・ケルン。曲目は、ピアノ協奏曲第9番「ジュノーム」と第17番。録音は1995年。 1777年(モーツァルトが21歳のとき)の作品であるピアノ協奏曲第9番は「ジュノーム」のタイトルで知られる。ジュノームはモーツァルト時代に活躍したフランスの女流ピアニストの名であるとされる。モーツァルトが作曲のイマジネーションを湧き立てられたということだが、それにしても充実した音楽で、それまでのモーツァルトの作品から一気に才能が数段飛びで開花した観がある。両端楽章が「幸せ」のイメージとさせる変ホ長調で、中間楽章がその平行調のハ短調というのも特徴だ。 さて、シュタイアーの演奏である。フォルテピアノなので、音が乾いていて持続しないため、アクセントによって音楽の起伏を与えることに配慮しており、相応の内容に仕上がっている。第2楽章の美しい悲劇性は、素朴な雰囲気で表現されていて、しかしニュアンスがほどよく漂っている。特にトリルの音色がいかにも瀟洒で、回顧的とも言える情景を帯びている。終楽章は規模も大きく、演奏効果も高い名品であるが、早いテンポの部分が多いこの楽章でシュタイアーの個性が一番良い方向に出ているように思う。何より音楽がヴィヴィッドで、推進力に満ちているのが心地よい。フォルテピアノとしての演奏効果がよく考えられ、大きな成果が得られた部分だと思う。 第17番は1784年に作曲された一連のピアノ協奏曲のひとつで、このころのモーツァルトはクラヴィーアに関する作品をよく手がけている。第17番は祝典的な明るさと、旋律の明朗性に特徴がある。第1楽章の細やかな転調に含まれるアヤの深さが印象的だが、シュタイアーの演奏でもその効果は良好で、音色の乾きを全体のトーンを統御することで、弱点とはしない見通しが保たれる。終楽章は楽しい楽章で、「魔笛」のパパゲーノのアリアとの共通点も指摘される旋律が楽しく移り変わっていく。ここではコンチェルト・ケルンの木管陣が美しい彩を聴かせてくれる。シュタイアーの粒だった音色が展開を豊かに感じさせてくれるし、短調の挿入も美しく紡がれる。暖かみを感じる好演だと思う。 |
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モーツァルト ピアノ協奏曲 第9番「ジュノーム」 ピアノと管弦楽のためのロンド イ長調 K.386 レチタティーヴォとアリア「どうしてあなたを忘れられよう」 K.505 ハイドン ピアノ協奏曲 第11番 p: タロー ラバディ指揮 レ・ヴィオロン・ドゥ・ロワ MS: ディドナート レビュー日:2014.11.26 |
★★★★★ ヴィヴィッドで輝かしい響きに満ちたハイドンとモーツァルト
アレクサンドル・タロー(Alexandre Tharaud 1968-)のピアノと、ベルナール・ラバディ(Bernard Labadie 1963-)指揮レ・ヴィオロン・ドゥ・ロワによる演奏で、以下の楽曲を収録。 1) モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791) ピアノ協奏曲 第9番 変ホ長調 K.271「ジュノーム」 2) モーツァルト ピアノと管弦楽のためのロンド イ長調 K.386 3) モーツァルト レチタティーヴォとアリア「どうしてあなたを忘れられよう」 K.505 4) ハイドン(Franz Joseph Haydn 1732-1809) ピアノ協奏曲 第11番 ニ長調 Hob.XVIII-11 3)のメゾ・ソプラノ独唱はジョイス・ディドナート(Joyce DiDonato 1969-)。2013年の録音。 なかなか洒落た選曲の1枚。モーツァルトのピアノ協奏曲第9番は、1777年(作曲者21歳)の時の傑作で、従来の協奏曲とは一線を画した新鮮な主題提示、常套的な進行を回避した様々な和声進行などの創意工夫に、モーツァルト天性のメロディがあいまった、魅力たっぷりの作品。また、ハイドンのピアノ協奏曲第11番は、1782年(作曲者50歳)の時の作品で、ハイドンの書いたピアノ協奏曲の中でも、もっとも優美な傑作だ。比較的同時期に書かれたこれらの2つの名協奏曲に、やはり作曲時期が近いモーツァルトの魅力的な小品が2曲挿入されるというアルバム構成となっている。3)はピアノと管弦楽を伴ったアリアで、その協奏的効果が楽しいが、声楽が加わることで、アルバム全体にもほどよいアクセントを添えている。 演奏は、タローの透明なタッチが活かされた鮮烈な雰囲気に満ちたもの。特に素晴らしいのがハイドンのピアノ協奏曲で、この楽曲が持つ典雅さ、祭典的な華やかさが、よく引き出されている。全般に明朗で健康的な抒情性に満ち溢れながら、溌溂とした躍動感を併せ持っている。その効果が特に顕著なのが終楽章だろう。実に楽しい音楽が繰り広げられる。タローは時に強靭な音も用いて、激しい緩急を添え、この音楽に疾風怒濤の要素があることを知らしめる。また、この楽章では、さらに、タローが仕掛けたマジックがある。カデンツァで、モーツァルトのトルコ行進曲のフレーズが挿入されるのだ。なんと知的で、爽快な遊び心だろう。 モーツァルトのレチタティーヴォとアリア「どうしてあなたを忘れられよう」も良い。この曲がもつ旋律的な美しさとドラマチックな劇性を、ピアノがリードする形で巧妙に引き出している。 モーツァルトのピアノ協奏曲第9番では、ややオーケストラに硬い響きがあって、個人的にはもう少し潤いのほしいところもあったけれど、それ以外は気になるところのない好演で、アルバム全体としての印象は、とても良かった。 タローの才気を、様々な観点で示してくれた、魅力たっぷりのアルバムになっている。 |
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ピアノ協奏曲 第9番「ジュノーム」 第21番 p: ハフ トムソン指揮 ハレ管弦楽団 レビュー日:2015.9.11 |
★★★★★ 意外な顔合わせによる意外な名盤
スティーヴン・ハフ(Stephen Hough 1961-)のピアノ、ブライデン・トムソン(Bryden Thomson 1928-1991)指揮、ハレ管弦楽団によるモーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)のピアノ協奏曲集。以下の2曲が収録されている。 1) ピアノ協奏曲 第21番 ハ長調 K.467 2) ピアノ協奏曲 第9番 変ホ長調 K.271 「ジュノーム」 1987年の録音。 これはなかなかの掘り出し物、という表現が妥当かどうかわからないが、私にとっては、手に入れたことを幸運と思える様なアイテムだった。この顔合わせのモーツァルト録音というのが意外だし、それがどんな風になるのか、聴くまで想像もつかなかったのだが、深い味わいのあるモーツァルトになっている。 ハフのピアノがまず素晴らしい。粒立ちの良い音色で、微細な軽重をコントロールし、感情的なひだを感じさせる音を導き出しているが、それらが非常に自然な造作の中で行われている。私はとくにモーツァルトのピアノ協奏曲では、人工的なものを感じさせない、無垢と呼ばれるモーツァルトの特徴を引き出した演奏が好きなのだが、このハフのピアノも、まさにそのようなスタイルで奏でられている。 カデンツァも注目される。第9番ではモーツァルト作のものがそのまま用いられているのだが、第21番ではハフ自作のものとなっている。これが、技術的な工夫を凝らしたもので、しかし、決して過度にヴィルトゥオーゾ的にもならない、絶妙のバランス感覚を示したものだ。カデンツァ全編からハフのセンスを感じられるものになっている。 トムソン指揮のハレ管弦楽団も好演。トムソンがモーツァルトを振るということは、それほど多くなかったのではないかと思うけれど、堂に入った指揮ぶりだ。すべての音に歌心が溢れていて、自然な輝きに満ちている。管楽器の表情付も、決して出すぎず、さりとて不足も抱かせない、堂々たるモーツァルトだ。第9協奏曲の第2楽章も、特に変わったことをやっているわけでもないが、深い憂いが感じられ、ジュノム協奏曲を堪能したという実感に満たさせてくれる。 モーツァルトのピアノ協奏曲の王道路線の演奏であり、決して無個性ではない味わいのある内容だ。 |
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ピアノ協奏曲 第9番「ジュノーム」 第27番 p: アシュケナージ アシュケナージ指揮 NHK交響楽団 レビュー日:2006.1.8 |
★★★★★ 林の木々をゆらす風のように
シャルル・デュトワを継いでNHK交響楽団の音楽監督に就任したウラディーミル・アシュケナージが、弾き振りスタイルでモーツァルトの協奏曲を録音。アシュケナージにとって、第9番は3度目、第27番は2度目の録音となる。 “大人のモーツァルト”といった雰囲気ただよう録音である。第9番の第2楽章は、淡々と辛口で進められる様でいて、しかし、のちの傑作第20番にも通じる深い悲しみをたたえる。この曲でここまで神秘的な悲しみを感じる演奏は珍しい。一方第3楽章では軽やかながら、はしゃぐ事のないピアノの自然な音色を十分に楽しませてくれる。 また第27番では弦楽器陣の表情がさらに深くなる一方で、美しく繊細なピアノの歌が、林の木々をゆらす風のように流れて行く。アシュケナージ自身「いまの年齢になってできるモーツァルトへのアプローチがある」という意味のことをかたっていたとのことだが、これらの録音を聴くと、それがよくわかる。すなわち、曲そのものに語らせるモーツァルト。管弦楽もそのための必要最小限の編成となっていると感じられる。残響も抑えめで控えめ。電力で言うなら風力発電のような演奏かな? 筆者としてはかなりお気に入りな録音であるが、両曲ともにより明朗で華やかで万人受けするフィルハーモニア管弦楽団との旧録音をとる人もいるだろう。 |
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ピアノ協奏曲 第11番 第13番 p: ガンバ アシュケナージ指揮 コレギウム・ムジクム・ヴィンタートゥール マリネスク指揮 ケルン放送交響楽団 レビュー日:2024.10.7 |
★★★★★ イタリアのピアニスト、フィリッポ・ガンバの魅力を伝える1枚
2000年のゲザ・アンダ・コンクールで優勝したイタリアのピアニスト、フィリッポ・ガンバ (Filippo Gamba 1968-)によるモーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)のピアノ協奏曲、2曲のライヴ音源をアルバム化したもの。収録されている楽曲は下記の通り。 1) ピアノ協奏曲 第11番 ヘ長調 K.413 (387a) 2) ピアノ協奏曲 第13番 ハ長調 K.415 第11番はアシュケナージ(Vladimir Ashkenazy 1937-)指揮、コレギウム・ムジクム・ヴィンタートゥールと2000年に、第13番はカミル・マリネスク(Camil Marinescu 1964-2020)指揮、ケルン放送交響楽団と2001年に協演したもの。つまり、ガンバがゲザ・アンダ・コンクールで優勝した直後の録音であり、特に第11番では、そのコンクールで審査委員長を務めたアシュケナージとの協演ということになる。 すでに20年以上前の録音であるが、とても素敵な演奏だと思う。もし、モーツァルトの初期のピアノ協奏曲にあまりなじみがないということであれば、このアルバムあたりから聴いてみると、良いのではないか。そう思わせるほどに良い演奏だ。ガンバは、現在まで、それほど積極的な録音活動を行っておらず、そのため、入手可能な音源が多くない状況となっていることは残念だ。是非、その実力を、録音面でも発揮してほしい。この録音を聴いた私の感想はそれに尽きる。 第11番、輝かしいオーケストラの合奏音によって導かれるピアノ・ソロは、程よいペダルの効果を踏まえて、輝かしい発色性豊かなもので、かつ快活な流れの良さが、いかにも自然なたたずまいで息づいている。このピアノ・ソロの導入部だけで、この演奏の成功は確約されていると感じられる。そして、その第一印象は、裏切られることはなく、健やかで情感に富んだ音楽が繰り広げられる。自ら弾き振りでモーツァルトのピアノ協奏曲を全曲録音しているアシュケナージのサポートは頼もしく、音色の妙、無垢な透明感ともに抜群。特に第2楽章が醸し出す情感は、モーツァルトがその活動晩年に書いた傑作オペラのシーンを想起させるほど、豊かな色彩感にあふれている。 ルーマニアの指揮者、マリネスクとの協演となった第13番も、同様に瑞々しく溌剌とした音楽性が全編にあふれており、どこをとっても「チャーミング」という形容が相応しい。特に終楽章、日がかげるように忍び寄る淡い悲しみを帯びた情感は美麗で、のちに書かかれたモーツァルトの数々の傑作とよばれるピアノ協奏曲群に比して、決して劣らないほどの深い情緒を宿している。軽やかなピアノで結ばれる全体の帰結は、この上なくピアニスティックで、無性に喜ばしい。これぞモーツァルトと言いたくなる、素晴らしい2編となっている。 なお、両曲とも、演奏後の拍手が含まれている。 |
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ピアノ協奏曲 第12番 第24番 p: ポリーニ ポリーニ指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 レビュー日:2008.3.8 |
★★★★★ ポリーニの“弾き振り”によるモーツァルトのピアノ協奏曲第2弾。
ポリーニの“弾き振り”によるモーツァルトのピアノ協奏曲第2弾。2007年のライヴ録音。前回の第17番&第21番に続くもので、これが今後シリーズ化されていくのだとしたら楽しみだ。前回に引き続いて「後期の傑作」と「初期の魅力的な佳作」のカップリングとなっているが、私にはポリーニがベームと録音した第19番と第23番の組み合わせを踏襲するスタイルを意識している様に思えてならない。若きポリーニが尊敬する巨匠と録音したモーツァルト、そしていま音楽家として熟成したポリーニは指揮もあわせてウィーンフィルとのモーツァルトの世界に帰ってきたのである。。。と考えるとロマンチック過ぎるだろうか。 第12番はモーツァルトがウィーンで作曲した最初の本格的なクラヴィーア協奏曲であり、かつ管楽器抜きの弦四部で演奏することも可能なように書かれている。第1楽章から親しみやすい典雅な伸びやかさがあり、落ち着いたポリーニのピアノが安らぎを与える。第2楽章はモーツァルトらしいところどころ哀しい色を帯びた美しいアンダンテで、ここでポリーニのピアノはたっぷりと憂いを含んだ憧憬的な音色で歌っており、昔のポリーニを知るものには隔世の感がある。終楽章のロンドも愛らしい。 第24番はモーツァルトの「短調の世界」を存分に味わえる大曲であり、演奏もこれに即した情感を満たす。シャープなピアノが音の膨らみを警戒し、鋭敏に輪郭線を描いている。たとえば終楽章の感情の爆発も、スピーディーで線的に描かれていて、一つの演奏形態の理想像を示していると思う。一方で、第2楽章の木管楽器との音色の交錯もなかなか巧みで聴き応えたっぷり。部分的に弦楽器が表情を硬くしすぎる感があったが、気にするほどではなく、もちろん名演と呼ぶに差し支えない出来栄え。 ライヴ録音であるが拍手は第24番終了後にのみ収録されている。個人的に拍手は不要と思うが(なお言うとポリーニの音楽はスタジオ録音の方が堪能できる・・)曲間の拍手をカットしてくれたのはありがたい。リスナーのことを考えてくれたのだろう。 |
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ピアノ協奏曲 第13番 第14番 第15番 p: アシュケナージ アシュケナージ指揮 フィルハーモニア管弦楽団 レビュー日:2015.6.2 |
★★★★★ 無垢を直截に表現したアシュケナージによる自然美溢れるモーツァルト
アシュケナージ(Vladimir Ashkenazy 1937-)は、1975年から1986年にかけて、フィルハーモニア管弦楽団との弾き振りで、モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)のピアノ協奏曲全集を録音したが、当盤には、そのうち20代半ばのモーツァルトによって書かれた以下の3曲が収録されている。 1) ピアノ協奏曲 第13番 ハ長調 K.415 1981年録音 2) ピアノ協奏曲 第14番 変ホ長調 K.449 1986年録音 3) ピアノ協奏曲 第15番 変ロ長調 K.450 1982年録音 アシュケナージのモーツァルトの魅力について、私は別のところにも書いたのだけれど、一言で言うと「無垢の表出」という点につきる。この「無垢」というキーワードは、モーツァルトの芸術の特徴でもある。 古来、様々な芸術は、その存在することの意義を突き詰め、芸術が何を表し、何を訴えているのか、あるいはどのような深い技法によって、どこまで深層を表現できているのか、そういった芸術が自らの存在証明をどこに根差すのかということ、つまり「存在」と「意義」という二つの価値をいかに同時に内包させるのか(あるいは、その価値観をいかに覆すのか)という重要なテーゼに沿って、発展し、考察が成されてきた。現在までのこる偉大な芸術は、芸術家の葛藤や深い情熱、あるいはイデオロギーといったものを何らかの媒体を用いて表現することによって、それ自身の価値を証明し続けている。私たちが小学校の国語の時間に、だれでも考えさせられたあの質問、「さあ、この物語の作者の言いたかったことは何でしょうか?」をひたすら突き詰め、複雑化と深化を突き詰めた、そこに芸術の生まれる精神がある。 ところが、この歴史上に、どうもそういったこととはまったく無縁に、しかも他の誰にも永遠に凌駕しえないであろう芸術作品を無数に生み出した天才が、たった一人だけ、存在した。それがモーツァルトである。いや、このような断言は適切ではないかもしれない。しかし、これまで多くの人たちがモーツァルトを愛し、研究し、深く調べつくした結果、その芸術を形容する最もふさわしい語句としてたどりついたのが「無垢」という言葉である、というのは多くに同意を得られることだろう。 モーツァルトの音楽は、どこにも力の入っていない、何のメッセージもイデオロギーも感じさせない、それでいて、あまりにも美しく、感情豊かで、生き生きとしていて、自然ときわめて親密な間柄で人々の心に届いてくる。そういう音楽が、どういう勉強をし、どんな思想を持った人から生まれたのだろう、と無数にある文献を紐解いたって、誰にもわからない。モーツァルトは、ただ湧き上がる己の楽想を、己の耳がこれが良いと直感的に感じる形で、ただ音楽の形に整えただけだ、としかいいようがない。このような天才というのは、人類史上モーツァルト以外に類を見出さないのである。 そんなモーツァルトに人々は様々な付加価値を与えた演奏を試みる。それも面白いだろう。しかし、モーツァルトの本質をもっともよく引き出すのは、きわめて自然で、純音楽的、かつ合理的な方法で演奏した上で、技術、音質、音量といったものに天賦の恵を得た人がもっともふさわしいと思う。ピアノ協奏曲なら、そう、私にとってアシュケナージの録音がベストだ。 特に、この時期のピアノ協奏曲は、後期の作品のように神性を備えたものではないので、さらに無垢な明朗さが、楽曲の陰影を率直に映し出し、私は、モーツァルトを聴く喜びに心底浸ることができる。鮮やかな転調と瀟洒な結びが印象的な第13番。第2楽章に憂いと優しさのこもった第14番、後期を思わせる規模で、典雅な響きが繰り広げられる第15番、どれも素晴らしく魅力的だ。 |
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ピアノ協奏曲 第13番 第15番 p: ツァハリアス ジンマン指揮 イギリス室内管弦楽団 レビュー日:2022.1.4 |
★★★★★ モーツァルトの意欲的な傑作に相応しいスケールで奏でられた名演
ドイツのピアニスト、クリスティアン・ツァハリアス(Christian Zacharias 1950- “ツァハリス”とも表記される)と、アメリカの指揮者、デイヴィッド・ジンマン(David Zinman 1936-)指揮、イギリス室内管弦楽団の演奏による、モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)の下記の2曲を収録したアルバム。 1) ピアノ協奏曲 第13番 ハ長調 K.415 (387b) 2) ピアノ協奏曲 第15番 変ロ長調 K.450 1989年の録音。 「モーツァルトらしさ」が全編に満ちた名演。2つの楽曲とも、後期の作品と比べると、知名度は高くないが、十分に充実を感じさせる作品で、この時期のモーツァルトが、相応の手ごたえを感じつつ書いた楽曲だと思う。 当演奏の素晴らしさは、ピアノ、オーケストラともに現代楽器ならではの、柔らかな吸収性のある響きで、快活かつ伸びやかに旋律を奏でているところであり、その聴き心地は、シルキートーンと表現するにふさわしい。 第13番は、第1楽章冒頭の弦楽合奏による主題提示から、ほどよい柔らか味があるが、ジンマンの導くトーンは、程よいコクを感じさせ、高級感に満ちている。ピアノもこれに呼応するようなまろやかな響きであり、オーケストラと滑らかに寄り添う様が好ましい。また、この楽曲は、モーツァルトがトランペット、ティンパニを含む大編成に挑んだ楽曲でもあり、それにふさわしい恰幅の豊かさは、後期の傑作群にも劣らない豪壮な響きをもたらしており、ジンマンはその豊かさを高らかに主張する。第2楽章は当初ハ短調で書かれる予定であったが、モーツァルトは、最終的にJ.C.バッハ(Johann Christian Bach 1735-1782)を引用したヘ長調のものにより完成させている。最終的に穏やかで古典的な姿となったが、ツァハリアスのピアノは、情感をたたえ、最大限とも言える瑞々しさを引き出している。終楽章の華やかさも後期の傑作群に通じるもので、ツァハリアス、ジンマン双方の雄弁な表現が、その劇性を積極的に表現していて、素晴らしい。 第15番も名作と言って良い。第13番とともに、この時期に書かれたピアノ協奏曲の中では、特に大きな編成を要する協奏曲で、特に管楽器陣に積極的な表現性が与えられている。もちろん、ジンマンの指揮もツボを心得たもので、そのスケールを如何なく発揮。ツァハリアスのピアノも豊かな発色性と透明感を併せ持ち、現代楽器ならではの表現性と感性に溢れた演奏が展開される。第2楽章のロマンティックな雰囲気は、以後のモーツァルトの傑作群への布石という以上の存在感があるが、ここでも当盤の雄弁さは魅力的だ。そして、華やかな終楽章。狩を思わせるホルンの連音とともに、忘れがたい美しさをともなって締めくくられる。 |
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ピアノ協奏曲 第14番 第26番「戴冠式」 p: ピリス アバド指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 レビュー日:2013.10.7 |
★★★★☆ スタジオ収録された第14番が素晴らしい演奏です
ポルトガルのピアニスト、マリア・ジョアン・ピリス(Maria Joao Pires 1944-)とアバド(Claudio Abbado 1933-)指揮、ウィーンフィルハーモニー管弦楽団によるモーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)のピアノ協奏曲第14番変ホ長調 K.499と第26番ニ長調K.537「戴冠式」を収録。第14番は1992年のスタジオ録音、第26番は1990年のライヴ録音。 モーツァルトのピアノ協奏曲の内でも特に有名な作品の一つである第26番と、それほど聴かれることのない第14番という組み合わせであるが、当盤の演奏に関しては、第14番の方がはるかに完成度が高いと感じられる。それはスタジオ録音のためかもしれないが、第26番については、快活ではあるのだけれど、特に第2楽章で細部の処理にぎこちなさが目立つため、全体としての質が十分なレベルとは感じにくい。 そもそも第26番という楽曲は難しい作品で、というのもモーツァルトがこの作品の左手部分のスコアを(一部の要所を除いて)遺さなかったため、解釈に大きな幅が持てるためである。現在の研究では、ほとんどの左手の伴奏は、楽譜出版時にヨハン・アンドレ(Johann Anton Andre 1775-1842)という人物が書いたものだとされている。その左手部分はかなり制約的で単純なもの(いわゆるアルベルティ・バスと呼ばれるドソミソの繰り返しの様なものなど)となっており、そのまま弾くとピアノ独奏がややさびしい。それだけでなく、速度記号についても、後年付されたと考えられており、その通りありきたりに弾くべきか、奏者の判断に委ねられる部分が多い。 それで、当盤でも、第2楽章は、通常の速度記号よりやや速いテンポになっていて、これはライヴの雰囲気などが手伝ったものかもしれない。それはいいのだけれど、そのテンポの中で挿入される特に装飾音たちが、形を維持するのがギリギリといった感じで、音が不安定になったり、妙に急(せ)くような印象になったりするところが散見される。こうなると、ここまでしてこのテンポでおし通さなくても良かったのではないか、と思う。とはいえ、これをスタジオ録り直しなどで補正しなかったことは、それなりに彼らのアーティストとしての良心の反映なのかもしれません。ただ、私個人の演奏としては、これは修正しても良かったのではないか、と思いますが。 この第26番については、オーケストラも、若干味わいの薄さというか単調さを感じさせ、私には気になるレベルである。 ところが、2年後に録音された第14番の方は実に素晴らしい。ピアノの輝かしい活き活きとした活力といい、小編成のオーケストラによる細部まで入念に準備された輝かしいサウンドといい、文句のつけようがない。これなら第26番も是非再録音してほしかった・・。というのは事情をしらないものの勝手なないものねだりでしょうか。 第26番についていろいろと書きましたが、両端楽章については、まずまず良演だと思います。ピレシュというピアニストは何と言っても旋律のカンタービレを大事にする人で、そのある意味一本気なところが良い方向に作用した部分では、モーツァルトの楽曲を舞台に、自由にわが芸術を謳歌しているといったところで、好ましやかに響きます。両端楽章ではそういった良所が多い分、良く聴こえます。 個人的にはいくぶん心残りなところはありますが、ピリスらしいモーツァルトを聴くことは出来ます。 |
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ピアノ協奏曲 第15番 第16番 ピアノと管楽のための五重奏曲 p: バヴゼ タカーチ=ナジ指揮 マンチェスター・カメラータ ob: クレッグ cl:クロス hrn: アザートン fg: ハドソン レビュー日:2019.9.28 |
★★★★★ 魅力的な選曲、演奏、録音で聴くモーツァルト
ジャン=エフラム・バヴゼ(Jean-Efflam Bavouzet 1962-)のピアノ、ガボール・タカーチ=ナジ(Gabor Takacs-Nagy 1956-)指揮、マンチェスター・カメラータの演奏によるモーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)のピアノ協奏曲シリーズの第3弾で、当盤には以下の楽曲が収録されている。 1) ピアノ協奏曲 第16番 ニ長調 K.451 2) ピアノ協奏曲 第15番 変ロ長調 K.450 3) ピアノと管楽のための五重奏曲 変ホ長調 K.452 3)はバヴゼとマンチェスター・カメラータの団員による演奏で、各管楽器の奏者は以下の通り。 オーボエ: レイチェル・クレッグ(Rachael Clegg) クラリネット: フィオナ・クロス(Fiona Cross) ホルン: ナオミ・アザートン(Naomi Atherton) ファゴット: ベン・ハドソン(Ben Hudson) 2018年の録音。 モーツァルトが1784年に書いた2曲のピアノ協奏曲と、同じタイミングで作曲された名品、「ピアノと管楽のための五重奏曲」を組み合わせた、とても魅力的なプログラムだ。ケッヘル番号で連続する3曲であるが、あえてピアノ協奏曲第16番を冒頭に置いたのは、トランペット、ティンパニを加えて華やかで軍楽調の第16番から始めた方が、聴き味がスムーズとの配慮だろうか。 その第16番は、冒頭からオーケストラが輝かしい音色を繰り出している。力強い表出力とメリハリで、楽曲の機微を鮮やかに描き出す。バヴゼのピアノは、巧妙なルバートと装飾を踏まえた遊び心を湛えながらも、芯のある柔らか味で曲想を描き出す。第2楽章はややゆったりしたテンポを設定し、ロマンティックな肌合いで、甘やかな節回しが魅力。ここでは木管楽器の抒情的なフレーズが特に印象的で、楽曲の魅力を伝える。終楽章はふたたび快活になり、陰影豊かで、洗練されたスタイルできれいにまとまっている。 第15番は、このころのモーツァルトの代表的な作品の一つといって良い内容のもの。演奏は第16番と同じスタイルで、中間楽章はややゆったりと抑えたテンポでありながら、夢見心地と称したい柔らか味で、旋律を扱っていて、美しい。終楽章は、当時のモーツァルトが技巧的なパーツを散りばめた個所であるが、バヴゼの俊敏な反応は、当然のことかもしれないが、清々しい勢いでそれらの個所を処理しており、現代楽器の艶やかさとあいまって、充実した響きに満ちている。この作品がもつ愉悦性を存分にアピールした良演。 「ピアノと管楽のための五重奏曲」は現代的な洗練美と、柔らかな聴き味が同居した心地よさが魅力。特にラルゲットのピアノと各楽器の対話が印象深いが、管楽器の中では、アザートンによるホルンが、カンタービレを雄弁に表現していて印象深い。録音も良好であり、曲目、演奏含めて、とても魅力的なアルバムに仕上がっている。 |
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ピアノ協奏曲 第15番 第17番 第21番 第22番 第23番 第24番 第26番 第27番 2台のピアノのための協奏曲 3台のピアノのための協奏曲 ピアノ・ソナタ 第12番 ピアノと管楽のための五重奏曲 p: カサドシュ セル指揮 クリーヴランド管弦楽団 コロンビア交響楽団 オーマンディ指揮 フィラデルフィア管弦楽団 ob: ランシー cl: ジリオッティ fg: ガーフィールド hrn: ジョーンズ p: ギャビー・カサドシュ ジャン=クロード・カサドシュ レビュー日:2019.10.12 |
★★★★★ 長く愛聴されているロベール・カサドシュによるモーツァルト
フランスのピアニスト、ロベール・カサドシュ(Robert Casadesus 1899-1972)によるモーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)の歴史的録音を集めた廉価5枚組Box-set。収録内容は以下の通り。 【CD1】 1) ピアノ協奏曲 第21番 ハ長調 K.467 1961年録音 2) ピアノ協奏曲 第22番 変ホ長調 K.482 1959年録音 【CD2】 3) ピアノ協奏曲 第23番 イ長調 K.488 1959年録音 4) ピアノ協奏曲 第24番 ハ短調 K.491 1961年録音 【CD3】 5) ピアノ協奏曲 第26番 ニ長調 K.537 「戴冠式」 1962年録音 6) ピアノ協奏曲 第27番 変ロ長調 K.595 1962年録音 【CD4】 7) ピアノ協奏曲 第15番 変ロ長調 K.450 1968年録音 8) ピアノ協奏曲 第17番 ト長調 K.453 1968年録音 9) ピアノ・ソナタ 第12番 ヘ長調 K.332 1964年録音 【CD5】 10) 2台のピアノのための協奏曲 変ホ長調 K.365 1960年録音 11) 3台のピアノのための協奏曲 ヘ長調 K.242 1962年録音 12) ピアノと管楽のための五重奏曲 変ホ長調 K.452 1963年録音 1-8)はジョージ・セル(George Szell 1897-1970)指揮、1,4,7,8)はクリーヴランド管弦楽団、2,3,4,6)はコロンビア交響楽団の演奏。 10,11)はユージン・オーマンディ(Eugene Ormandy1899-198)指揮、フィラデルフィア管弦楽団の演奏。 10)はカサドシュの妻、ギャビー・カサドシュ(Gaby Casadesus 1901-1999)との協演。11)ではさらに息子のジャン=クロード・カサドシュ(Jean Claude Casadesus 1927-1972)が加わる。 12)の木管奏者は、オーボエがジョン・デ・ランシー(John De Lancie 1921-2002)、クラリネットがアンソニー・ジリオッティ(Anthony Gigliotti 1922-2001)、ファゴットがバーナード・ガーフィールド(Bernard Garfield 1924-)、ホルンがメイソン・ジョーンズ(Mason Jones1919-2009)。 カサドシュとセルによるモーツァルトの協奏曲は名演として長く親しまれている。カサドシュの音色の豊かなピアノは、ピリオド全盛の現代の音楽に慣れた耳には、発色性・表現性がともに高いものと感じられるかもしれないが、決して楽曲の形を崩すような演奏ではなく、しっかりとしたテンポ設定、巧妙な造形性を踏まえて肉付きを与えたものであり、その音楽の能弁さに聴き手は心を動かされる。また、セルの指揮は、現代オーケストラを率いた堂々たるものであるが、セルらしい緻密さによって細部が引き締められており、この演奏に一種の気品をもたらす大きな要因となっている。 中でも名演として知られる第26番の起伏、それに第17番の緩徐楽章の情感の美しさにひときわ目立つものがある。また第21番と第22番では、カサドシュ自身によるカデンツァが用いられているが、特に第21番の華やかで祭典的なカデンツァは、浪漫的な熱さを湛えていて、注目されるところ。 また、私は当盤ではじめてカサドシュが、家族、そしてオーマンディと協演した複数台のピアノのための協奏曲を聴いたのだが、その祭典的な華やかさはとても印象に残るもので、これらの楽曲においても当録音は代表的なものとして差し支えないのではないか、と思う。1曲だけ収録されているソナタ、それにジョン・デ・ランシーらと協演した香しい「ピアノと管楽のための五重奏曲」と併せて、実に魅力的なセットである。 録音が古くなったとはいえ、いまなお音楽フアンに薫り高い芸術を届けてくれるものとなっている。 |
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ピアノ協奏曲 第15番 第23番 p: ヴェデルニコフ ロジェストヴェンスキー指揮 ソヴィエト国立放送交響楽団 レビュー日:2005.7.3 |
★★★★★ 清澄なる至高のモーツァルト
ヴェデルニコフによる唯一のモーツァルトのピアノ協奏曲の録音。第15番と第23番。なかなか魅力的なカップリングだ。 録音はさすがに現代のものと比べると、バランスが悪かったり、ノイズも気になるが、ヴェデルニコフとオケの至芸を楽しむことは十分にできるレベルであり、この時代にしては、まずまずだろう。 さて、演奏であるが、こちらはたいへん清澄な演奏だ。不必要なテンポの揺らしなどを排除し、きわめて高潔な精神性を、そのままモーツァルトの音楽で表現した、という感じ。決して軽やかな、花のようなモーツァルトではないが、時折転調して垣間見る短調の深い哀しみは心に響く。 ロジェストヴェンスキー指揮のソヴィエト国立放送交響楽団も、思いのほか洗練された音楽表現に徹しており、第23番の終楽章の弦の表情などは、はっとさせられる。 録音はたしかに「もっとよければ・・」と思う部分もあるが、しかし、間違いなく一級の演奏だと思う。 |
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ピアノ協奏曲 第17番 第18番 p: ツァハリアス マリナー指揮 シュトゥットガルト放送交響楽団 レビュー日:2022.1.28 |
★★★★★ ツァハリアスによる高クオリティーで安定のモーツァルト
ドイツのピアニスト、クリスティアン・ツァハリアス(Christian Zacharias 1950- “ツァハリス”とも表記される)と、イギリスの指揮者、ネヴィル・マリナー (Neville Marriner 1924-2016)指揮、シュトゥットガルト放送交響楽団の演奏による、モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)の下記の2曲を収録したアルバム。 1) ピアノ協奏曲 第17番 ト長調 K.453 2) ピアノ協奏曲 第18番 変ロ長調 K.456 1988年の録音。 ツァハリアスが録音した一連のモーツァルトは、どれも、称賛の意を込めて、「これぞモーツァルト」と形容したくなるものばかりである。その自然発露的な音楽性、音色の明朗さ、ほどよい発色性と情感の発露、強弱の絶妙なコントロールと、様々な要素が、少なくとも私にとっては、「モーツァルト演奏、かくあるべし」と思わされるものなのだ。 当盤に収録された2曲の協奏曲も素晴らしい。 第17番は、第1楽章の優美でしなやかな歌が、なめらかに奏でられる点でまず魅了されるが、木管との交錯の中で、ときどき陰りが潜む瞬間や、そこから気持ちが戻ってくる部分の間合いが絶妙だ。第2楽章冒頭の弦の美しいこと。幻想的な柔らか味をもったこの響きは、感情表現における現代楽器のゆるぎない優位性を端的に示す個所だ。最近はやりのピリオド楽器では、とてもここまで深い音は出ない。まあ、それでも悪いことはないのだけれど、当演奏の様な美しさに馴染んでしまうと、ピリオド楽器の演奏は、何度か聴いたのちには、もう聴かなくなってしまうのだ。第3楽章は華やかであるか、その躍動は、節度を守りつつも楽しむという高雅な気品に満ちている。 第18番は、冒頭の付点のリズムから、楽し気なワクワク感が広がり、ピアノの導入とともに、幕が上がるような高揚感がある。この曲でも第17番と同様に、白眉は第2楽章で、その深みのある憂い、そこに添えられる透明でありながら情感をたっぷりたたえたピアノ、それでいてべとつかない洗練があって、当演奏の質の高さを確固たるものにしている。第3楽章は比較的普通な感触だが、それでも、ピアノの音色自体の魅力は普遍的なものに感じるし、聴き終わった後味も、この曲に相応しいものだと思う。 モーツァルトのピアノ協奏曲群にあって、第17番と第18番も、是非名曲の中に加えてほしい、そう感じさせてくれる名演奏となっています。 |
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ピアノ協奏曲 第17番 第21番 p: ポリーニ ポリーニ指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 レビュー日:2006.8.30 |
★★★★★ 本格的で本来あるべき姿にあるモーツァルト
本当に久しぶりのポリーニのモーツァルトである。以前、ベーム指揮ウィーンフィルと録音した19番と23番があったが、それも数十年前の録音なので、ほとんど新鮮な感覚でこの新譜に接した。本盤は2005年、ライヴ録音である。17番と21番という選曲もポリーニの資質が活きそうで、いいと思う。 ポリーニのモーツァルトをあらためて聴いてみて、「教科書的」という言葉が頭に浮かんだ。「教科書的」という言葉は、なぜか悪いイメージを持たれることがある。類型的ということだろうか。だが「本来あるべき姿の」という意味でもあり、ここではそういう意味である。そもそも「教科書的」という言葉を批判に用いるのは、あまり感心しない。世の中のトリッキーなことや、人と変わった奇抜なことに特有の価値があることはわかるが、それはあくまで対価的なものである。本来の姿である「教科書的」なものごとが絶対的な価値軸としてあって、はじめて「それと違う」ことに価値が生じるのであり、その主従関係はある程度きちんとしておいた方がいい。そうであって初めて「奇」も評価することができるようになるだろう。 さてポリーニのピアノであるが、元来この人のピアノはモーツァルト向きである。適度に鋭角的で、響きを交わらせることなく、それらを平行に聴き手の耳にまっすぐ運ぶ技術は、真にモーツァルト演奏において重く置きたい価値である。これらのライヴ録音でもそれがしっかりでており、造形的な均一さと音色の完璧さでモーツァルトの無垢な美しさがまっすぐに私達に伝わってくる。そのラインの上で気品ある歌がそっとそえられていることが好ましい。さすがという演奏である。 また、ポリーニの指揮にも注目してみた。簡潔で大人しい指揮と感じるが、意外と中声部の扱いが柔らかく、時折ねばるところもある。これはウィーンフィルの音なのだろうか。ともあれ興味の尽きない1枚となった。 |
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ピアノ協奏曲 第17番 第22番 ロンド イ長調 K.386 fp: ベズイデンホウト ベズイデンホウト指揮 フライブルク・バロック・オーケストラ レビュー日:2014.9.29 |
★★★★★ 楽器配置と斬新な音色で新たな地平を切り開いたモーツァルト
南アフリカのフォルテ・ピアノ奏者、クリスティアン・ベズイデンホウト(Kristian Bezuidenhout 1979-)の弾き振りによるモーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)の協奏曲集。2012年録音。収録曲は以下の通り。 1) ピアノ協奏曲 第17番 ト長調 K.453 2) ロンド イ長調 K.386 3) ピアノ協奏曲 第22番 変ホ長調 K.482 オーケストラは、フライブルク・バロック・オーケストラ。もちろん小編成のピリオド楽器による楽団である。単一楽章のピアノ協奏曲である「ロンド」は、作曲の経緯など不明であるが、アインシュタイン(Albert Einstein 1879-1955)は、「一旦はピアノ協奏曲第12番の終楽章として1782年頃に書かれたもので、現行の楽章との差し替えにより、単独で残ったもの」との説を披露している。 さて、モーツァルトのピアノ協奏曲についても、御多分に漏れず、最近ではピリオド楽器によるアプローチが多い。中にあって、このベズイデンホウトのものが抜けた存在に思える。このジャンルでは、本来、現代ピアノによる響きの多彩さ多様さに利点があって、ピリオド楽器での表現にはなかなか難しい面があったのだけれど、ベズイデンホウトのフォルテ・ピアノは音色が豊かで、フォルテ・ピアノの特徴が欠点として作用する感じが少ない。これが楽器のせいなのか、奏法の問題なのかは私にはよくわからないけれど。 また、これらの録音に際して、ベズイデンホウトは「フォルテ・ピアノを真ん中に配し、ピアノ奏者と向かい合う位置に管楽器奏者、ピアノ奏者の背後に弦楽器奏者という配置」を取り入れているそうだ。これは管楽器奏者とのコンタクトを重視していることを意味する。 その意図に関しては、装飾音の挿入の効果において如実に伝わる。モーツァルトの音楽は、多くの場合、奏者の裁量にゆだねて装飾的な遊びが出来るよう間隙が設けられているが、当演奏では、ピアノに限らず、木管楽器においても装飾音の挿入が積極的に行われている。楽曲に用意されたスペースを非常にうまく使っているのだ。象徴的箇所として、第22番の緩徐楽章を挙げたい。とてもニュアンスの深い音楽が流れていることを実感する箇所だ。装飾音の効果とあいまって、短調と長調の交錯が無類の美しさを醸し出している。 木管楽器の装飾音には、「事前に考えられていたもの」と「改めて採用したもの」があるとのこと。さすがにその区別まではわからないが、一つ一つの装飾音の意図について、考えを巡らせながら聴くのも楽しい。モーツァルト当時の演奏をいろいろと想像させてくれる自由さがある。 また、装飾音だけではなく、フォルテ・ピアノに通奏低音的役割を同時に与えている点も面白い。第17番第1楽章の管弦楽提示部などで、聴きなれない、まるで爪弾きの弦のようなアルペッジョが聴こえるが、これがフォルテ・ピアノの音だ。その鮮烈な効果は、斬新な聴き味で、感興を高めてくれる。 そのような様々な趣向はあるが、一方でテンポはきわめて穏当なもので、現代楽器による多くの演奏とそう違いはない。当演奏の特徴は、ひとえに音色的なものに集約できるだろう。 |
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ピアノ協奏曲 第17番 第20番 第22番 第24番 p: オコーナー マッケラス指揮 スコティッシュ室内管弦楽団 レビュー日:2015.7.10 |
★★★★☆ オコーナーとマッケラス、対照的な二人が奏でるモーツァルト
アイルランドのピアニスト、ジョン・オコーナー(John O'Conor 1947-)の独奏、オーストリアの指揮者マッケラス(Charles Mackerras 1925-2010)とスコティッシュ室内管弦楽団によるモーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)のピアノ協奏曲集。1991年の録音。2枚のCDに以下の2曲が収められている。 1) ピアノ協奏曲 第17番 ト長調 K.453 2) ピアノ協奏曲 第20番 ニ短調 K.466 3) ピアノ協奏曲 第22番 変ホ長調 K.482 4) ピアノ協奏曲 第24番 ハ短調 K.491 モーツァルトは、マッケラスにとって特に重要な作曲家で、1986年にプラハ室内管弦楽団を指揮して交響曲の全曲を録音しており、これは現在廉価版が流通している。その流れの中で、同じTELARCレーベルから、これらの録音もリリースされた。 それにしても、オコーナーとマッケラスというのは、なかなか意表を突いた顔合わせに思える。これは、例えば第20番を聴くと端緒なのだけれど、マッケラスの指揮は、とても力強く、モーツァルトの協奏曲演奏においては異質と言えるほどの強い音を用いたアプローチを行っている。トゥッティの情熱的な激しさは、当演奏の大きな特徴の一つだろう。また彼の振った交響曲を聴いたときも印象に残ったことだけれど、弦楽器は小編成とはいっても、十分に豊かに響かせていて、現代楽器ならではの輝きを解き放った表現を用いていると言って良いだろう。 対するに、オコーナーのピアノはとても禁欲的といって良い表現で、制約の設けられた範囲内でピアノを弾いている感じ。それはまるで、ピリオド楽器を意識しているように。第20番の第2楽章に左手の伴奏音型が妙に届いてくるのも、楽器の制約を意識させるかのような演出があるように思う。(私個人の好みからすると、もっと輝きがあった方がいい) しかし、全体の演奏としては、不思議と整った印象が残る。他の演奏と比較すると、オーケストラからもたらされる情報量が多めにシフトしている、という印象なのだが、そのことが決して不自然というわけではない。 個人的にとてもよく感じたのは第22番で、特に第2楽章のオコーナーの淡々とした、やや地味なタッチが、とても曲想に相応しく、管弦楽の発色を中和し、特有の調和の美に至っている。第17番も美しく、オーケストラの詩情とピアノの抑制が一つの絵を描き切った感がある。他方、第20番と第24番に関しては、私にはややピアノに物足りなさを感じさせるところもある。 また、録音がこの時代のものにしてはやや不鮮明なところがあり、特にピアノの強奏において、ややこもった響きになるのが残念。 |
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ピアノ協奏曲 第17番 第24番 ピアノソナタ 第4番 第5番 第8番 行進曲 第1番K.408/1 クラヴィーアのための小品ヘ長調 K.33b アレグロヘ長調 K.1c 「トルコ行進曲」(ピアノソナタ第11番 K.331 より) p: ランラン アーノンクール指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 レビュー日:2014.10.31 |
★★★★★ ラン・ランの弾くモーツァルトとは?
中国遼寧省瀋陽出身で、ヨーロッパを中心に世界で活躍しているピアニスト、ラン・ラン(Lang Lang 1982-)による2枚組のモーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)アルバム。1枚目はアーノンクール(Nikolaus Harnoncourt 1929-)指揮、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団との協奏曲、2枚目はソロ作品という充実した内容だ。その詳細は以下の通り。 【CD1】 1) ピアノ協奏曲 第24番 ハ短調 K.491 2) ピアノ協奏曲 第17番 ト長調 K.453 【CD2】 3) ピアノ・ソナタ 第5番 ト長調 K.283 4) ピアノ・ソナタ 第4番 変ホ長調 K.282 5) ピアノ・ソナタ 第8番 イ短調 K.310 6) 行進曲 第1番 K.408/1 7) クラヴィーアのための小品ヘ長調 K.33b 8) アレグロヘ長調 K.1c 9) ピアノ・ソナタ第11番 イ長調 K.331 から 第3楽章「トルコ行進曲」 2-5)は2013年、他は2014年の録音。1,2)はライヴ録音。【CD2】の3-5)もライヴ。他の音源について明確な表記はないが、9)は、末尾に拍手が入るのでライヴ。6-8)も、収録日付が9)と共通しているので、ライヴかと思われるのだが、聴き味からは、スタジオ録音のような印象を受ける。詳細はわからない。あるいは、別に収録したものを組み合わせている可能性もある。 さて、私はまず、ラン・ランとアーノンクールという顔合わせの意外さにインパクトを受けた。つまり、ラン・ランの華やかで、それこそショパンやリストを燦然と響かせる華麗なスタイルと、アーノンクールの学究的で、古楽奏法を研究した辛口なスタイルに、ずいぶん「違い」を感じるからである。しかし、アーノンクールは、グルダ(Friedrich Gulda 1930-2000)ともモーツァルトに名録音(1983年録音のピアノ協奏曲第23番と第26番の録音)があるくらいだから、相当面白いことになるのでは?と当盤を聴く前に考えていた。 さて、聴いてみると、あのグルダとの共演とは違って、むしろ両者が、互いのスタイルに配慮したような演奏になっている、というのが私の印象だ。ラン・ランの演奏は、いままでいろいろと聴かせてもらったけれど、この協奏曲は、他のラン・ランの演奏と比べると、控えめに感じる。特に両曲の第2楽章で、慎重に音をコントロールするスタイルからは、もし目隠しで聴いたなら、ラン・ランが弾いていると言い当てる自信は、私にはない。 とはいえ、美しい演奏となっているとは思う。アーノンクールの指揮は、いつもの彼ほど個性的ではないが、ビブラートを控えて、ストレートな響きを多用するところ、固有のリズム感を表出するアクセントを強調するところなど、やはり、この指揮者の性格は、如実に浮かび上がってくる。ラン・ランの作法を崩さない範囲で、自分の指揮法に徹したあたりは、さすがに百戦錬磨といったところだろう。そうは言っても、独奏者とともに、いつもより、模範的な手法に歩み寄っているので、当演奏に「ラン・ランらしさ」、あるいは「アーノンクールらしさ」を期待する人には、あるいは少し不完全燃焼な印象を与えるかもしれない。しかし、これはこれで美しいので、私個人的には、現代的良演として、聴かせていただいた。 2枚目のソロ曲を聴くと、ここでもラン・ランは、やや畏まった、いつもより禁欲的な雰囲気があって、これがラン・ランのモーツァルトなのかもしれない。そういう観点では、協奏曲でも、彼は彼のモーツァルトに徹しただけなのかもしれない、とも思う。全般に落ち着いた透明な響きが美しく、いかにもモーツァルトといった不純物のない響きに満ちている。しかし、時折、ラン・ランらしいロマンティシズムを感じさせる踏込があって、そういうとき、私はなぜかほっとする。特にイ短調のソナタ第8番の第1楽章、楽想のふくらみに沿って、低音から盛り上がる様な起伏を見せる様は、清々しく情熱が放散され、気持ちが良い。また、最後に収録されているトルコ行進曲は、いかにもアンコールらしいヴィルトゥオジティに満ちた弾き振りで、「やっぱり、こういう方が、ラン・ランらしい」と、私も心底楽しませていただいた。 こうして聴いていると、ラン・ランは、ずいぶんTPOを考えて、弾き方の振幅を変化させるのだな、と思い、そこに彼のエンターテイナーとしての極上の才気があるのだろう、と考えた。そういったことも踏まえて、今後彼がどのような場面でどのようなモーツァルトを弾いていくのか、大いに興味をそそられる結果となった。 |
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ピアノ協奏曲 第18番 第19番 hf: シュタイアー シュタイアー指揮 コンチェルト・ケルン レビュー日:2010.7.17 |
★★★★☆ ロンド形式の終楽章で適性を発揮するピリオド楽器の演奏
アンドレアス・シュタイアーのフォルテピアノ弾き振りによるモーツァルトのピアノ協奏曲集第2弾。引き続いてバックはドイツの古楽器オーケストラであるコンチェルト・ケルン。曲目は、ピアノ協奏曲第18番と第19番。録音は2000年。 第18番、第19番とも1784年、モーツァルトが28歳の時に生み出された名曲。特に個人的には第18番というのは大好きな曲である。典雅さ、優美さ、また時折指す哀しみの深さなどモーツァルトならではの魅力が横溢している。 このシュタイアーの演奏はフォルテピアノとピリオド楽器によるものなので、ピアノの音色はやや押さえたシックな雰囲気となるが、この曲ではやはり楽器の限界を少し感じさせてしまうところがある。もちろん、モーツァルトの時代にはこのような楽器を用いていたということではあるけれど、現代の輝かしいピアノやオーケストラの耳に慣れた聴衆には、学術的な興味とは別に、音楽そのものへの感興という点で、やはり一歩以上の引けはやむをえないと思う。第1楽章の弦もちょっと朴訥とし過ぎている感じがあるし、木管もいささか鄙びた感じがこの曲ではもったいない、と思ってしまう。モーツァルトの協奏曲でも第18番以降は現代楽器による演奏に大きなアドヴァンテージがある。 とはいえ、シュタイアーの演奏は悪い演奏ではない。第2楽章の第23番にも匹敵する深い憂いは素朴に弾くだけで十分効果的であり、タッチの強弱も、適切と思える範囲から決して出ることはなく、内側から必要以上に乱すことがない。時としてよくできた曲はそれだけで十分の場合がある。終楽章は心地よい。たびたび思うのだけれど、このような古典的な作品をピリオド楽器で演奏した場合、たいてい開放的な終楽章とはよく波長が合う。これは終楽章がたいていテンポの早い音楽である場合が多く、ピリオド楽器の「音の伸び」の制約が解かれることで、サウンドが得意範囲にシフトしてくるためだと思うがいかがだろう? 第19番も同様で、第1楽章のソナタ形式では時々物足りなさを感じるけれど、終楽章のロンドは聴いていて活力が与えられるように楽しい。人によって聴き味は異なるとは思うけれど、終楽章あってこそのピリオド楽器、という印象を再確認した。 |
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ピアノ協奏曲 第18番 第20番 p: アシュケナージ アシュケナージ指揮 フィルハーモニア管弦楽団 レビュー日:2015.6.8 |
★★★★★ アシュケナージの全集中でも白眉といえる1枚
アシュケナージ(Vladimir Ashkenazy 1937-)は、1975年から1986年にかけて、フィルハーモニア管弦楽団との弾き振りで、モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)のピアノ協奏曲全集を録音した。当盤はその中の1枚で、2曲の傑作が収録されている。 1) ピアノ協奏曲 第18番 変ロ長調 K.456 1984年録音 2) ピアノ協奏曲 第20番 ニ短調 K.466 1983年録音 このアルバムには、個人的もとても思い入れのあるものだ。CDというメディアが普及し始めたころ、我が家でもついにCDプレーヤーが導入された。たしか1987年頃のこと。しかし、当時は1枚当たりの価格が国内盤で¥3,500。その上、今のようになんでも簡単に輸入盤が入手できる時代でもなかったので、いったい何を買うのかと1枚1枚に相当な吟味を重ねた。しかもそのころの私は、お小遣いぐらしの学生で、確かひと月5,000円だったから、CD1枚買ったらあとは何にもお金を使えないくらいの身の上だった。 普段は中古のLPを探し歩いていたのだけれど、思い切って新しい録音のCDを買おうといろいろ考えた末に購入したのが、この1枚だったのだ。 それで、このアルバムに思い入れがあるというのは、それが本当に良い買い物だったからだ。第18番という曲を聞いたのは初めてだったのだけれど、私はそれこそ毎日のようにこの録音を聴いたものだ。 当時、私にいろいろとクラシック音楽のことを教えてくれた父の知人が、このアルバムを聴いて感嘆し、「すごくいいね、弦よし、管よし、ピアノよしだ。全部が素晴らしいというのはめったにないんだよ。特に第20番がいい」と手放しの褒めようだったのも良く覚えている。 その後、私は最終的にアシュケナージのモーツァルトの全集を買うことになるのだけれど、その発端となったのがこの録音であった。 両曲とも弦の柔らかな深み、濃厚になりすぎず、しかし十二分に音楽の滋味を感じさせる響きが絶妙だ。テンポはこの上ないほどの自然さで、流麗な語り口。しかし、モーツァルトの音楽が持つ深遠なニュアンスもことごとく汲みつくされている。協奏曲第18番の第2楽章が、23番の緩徐楽章にも負けないほどの憂いを帯びた音楽であることを感じ入らせてくれる。第20番も、シンフォニックな豊かさとともに、洗練された響き、そして、過剰な演出を一切感じさせない素朴さで、それゆえの深い感動が得られる。アシュケナージのピアノは、適度な肉付きで、現代ピアノの美観の限りを尽くしながらも、その表現に人工的なものは一切ない。自然光で溢れるような響きの中で、いつのまにか聴き手は、モーツァルトの音楽だけが持つ超越的な無垢の美の世界にその身を置いている。 私にとって、そのことは、すなわちモーツァルトを聴く感動である。 |
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ピアノ協奏曲 第20番 第21番 p: ティーポ シャイー指揮 ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団 レビュー日:2014.11.10 |
★★★★★ 中古CDでたまたま入手したら、びっくりの素晴らしい名演
イタリアのピアニスト、マリア・ティーポ(Maria Tipo 1931-)のピアノ、リッカルド・シャイー(Riccardo Chailly 1953-)指揮、ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団によるモーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)の以下の2曲の名ピアノ協奏曲を収録。 1) ピアノ協奏曲 第20番 ニ短調 K.466 2) ピアノ協奏曲 第21番 ハ長調 K.467 1983年の録音。 ちなみに私が所有しているのは、DISCHI RICORDI というレーベルのCDRCL 27063(輸入盤)。しかし、当該品については当サイトで取扱いがないようだ。当アイテムは、1989年に学研のプラッツ・レーベルから発売されたもので、同内容であるため、こちらにレビューを書かせていただきたい。 さて、音楽ファンが1枚のディスクへ思い入れを持つ契機に、入手の機会が係る場合もあると思うが、私の場合、当盤がそれに当たる。仕事で仙台を訪問した際、仙台駅前のデパートに「中古CDセール」と書いてあるのを見て、さして期待もせず立ち寄ったところ、このCDを見つけ、何の気なしに買ったのである。 ところが、これが素晴らしかった。このCDをわずか数百円で入手した私は、その演奏を聴きながら「いい買い物をした」と至福のひと時を過ごしたものだ。 この演奏の特徴は、これらの名曲に連綿と受け継がれた典雅なスタイルのものに、現代的な洗練を加え、とても聴き味の良い鮮烈さを与えた点にある。似た傾向の演奏として、内田光子(1948-)とジェフリー・テイト(Jeffrey Tate 1943-)による録音があるのだけれど、内田のピアノが自省的だったのに対し、ティーポは外向的で、陰影を素直にストレートに表現する点が異なる。 ティーポのタッチは、基本的には柔らかく、自然な流動性が魅力的だ。その流れの中で、必要な歌をソツなく表現していく。時折、低音の柔らか味が、軟焦点的なボカシに聴こえるところもあるのだけれど、それが音楽的な欠点には決してならないような、絶妙のバランス感覚がある。強靭な音はそれほど用いていないが、ポイントで必要なアクセントをきちんと利かしてくれるので、全体の強弱は、意外にも明確で、フレーズの転結もあいまいさを残さない。 ピアノが素晴らしいという以上にオーケストラが素晴らしい。シャイーという指揮者の名前が知れ渡りはじめたころの録音だが、ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団から、現代的な音色に染められた、とても豊かな音響を引き出している。弦の厚みのある豊かさは印象的だが、かといって決して重くなり過ぎることはない。それどころか、美しく力強い音楽が脈々と供給されている。表情を適度に抑えながら情感を表出する木管の音色の見事なこと。このような演奏は、めったに聴けるものではない。 それにしても、この録音は、国内盤も発売された経緯があるにもかかわらず、現在廃盤で入手機会も限られているようである。良質な記録であるだけに、別の廉価版レーベルなどで、再度発売してもらえたら、大変嬉しい。 |
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モーツァルト ピアノ協奏曲 第20番 ラフマニノフ ピアノ協奏曲 第2番 p: チッコリーニ ネゼ=セガン指揮 ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団 レビュー日:2018.4.19 |
★★★★☆ 80代半ばのチッコリーニの高貴な響きが記録されたライヴ録音
90歳で亡くなったフランスのピアニスト、アルド・チッコリーニ(Aldo Ciccolini 1925-2015)の追悼の意を込めて、ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団のライヴ音源を扱うLPOレーベルから、興味深い録音がリリースされた。チッコリーニが独奏者を務める以下の2曲が収録されている。 1) モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791) ピアノ協奏曲 第20番 ニ短調 K.466 2011年録音 2) ラフマニノフ(Sergei Rachmaninov 1873-1943) ピアノ協奏曲 第2番 ハ短調 op.18 2009年録音 いずれもヤニク・ネゼ=セガン(Yannick Nezet-Seguin 1975-)指揮、ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団とのライヴ録音。モーツァルトは、イギリスの指揮者であったトーマス・ビーチャム(Thomas Beecham 1879-1961)の没後50年を記念したコンサートからの音源。 モーツァルトとラフマニノフのピアノ協奏曲・・。実に奇妙な組み合わせであるが、このアルバムの意図を踏まえれば、なるほどといったところである。また、80代半ばの巨匠による、まだ30代である指揮者、ネゼ=セガンと共演した記録としても興味深い。とはいえ、聴いてみるとやはりというか、圧倒的に演奏を支配しているのはチッコリーニである。やや遅めのインテンポで、一つ一つの音符を明瞭にならし、音楽がやや大柄になることをいとわず、ラテン的ともいえるくっきりした輪郭を刻んでいく。 モーツァルトとラフマニノフでは、私はモーツァルトの方が良いと思った。上記のチッコリーニのスタイルが、古典的な気風をまとって、高貴な音楽を導く。その音楽の導き方に、モーツァルトの音楽の持つ要素との相性の良さを感じるからである。第1楽章からどのようなドラマがあろうと、泰然として歩みの速度を変えることのないピアノが、独特の風格を帯びる。とても丁寧な、かみ砕くようなピアノは、その音楽がどのようなパーツから成り立っているかを明瞭に示しつつ、幾分の厳粛さをもってその旋律線を描いていく。カデンツァも素朴な明るさを保持し、なんら飾ることなく、しかし大事なことをしっかりと刻み込むように弾かれている。第2楽章も訥々と語るような味わいがある。第3楽章でもそのフレーズの明確な打ち出しは印象的だが、長調に転じるところであっても、なんらスタイルを変えることのない落ち着きが印象的。 ラフマニノフもまったく同様といってよいアプローチであるが、この曲の場合、そのことが時間軸にそった濃淡の描き分けから遠ざけることとなり、その結果、やや平板というか、だいたい思った通りの音楽が進むというところが私には気になる。もちろん、ピアノの音色そのものの清澄な気高さは、見事なもので、第2楽章の4連符など、ただ淡々と弾いているようで、その結晶のような輝きは十分に人を惹きつける力を持っている。 オーケストラは、高音の抜けの良い音色が特徴的で、低音側も明瞭であることと併せて、チッコリーニのピアノに併せた音になっているのかと感じられるが、やや部分的に中音域の薄みがスカスカした印象になるところが気になるが、まちがっても巨匠の芸術を妨げることのないよう、一生懸命配慮した好意が伝わるもの、と捉えたい。 総じて、モーツァルトの方が良いと思うが、両録音ともチッコリーニが遺した貴重な芸術の記録であることは間違いない。 |
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ピアノ協奏曲 第20番 ピアノ・ソナタ 第3番 第12番 p: チョ・ソンジン ネゼ=セガン指揮 ヨーロッパ室内管弦楽団 レビュー日:2018.11.22 |
★★★★★ 瑞々しい感覚美を示す、チョ・ソンジン初のモーツァルト
2015年のショパン国際ピアノコンクールで優勝を果たし、その後ドイツ・グラモフォンと契約した韓国のピアニスト、チョ・ソンジン(seong-Jin Cho 1994-)による初のモーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)で、収録曲は以下の通り。 1) ピアノ協奏曲 第20番 ニ短調 K.466 2) ピアノ・ソナタ 第3番 変ロ長調 K.281 3) ピアノ・ソナタ 第12番 ヘ長調 K.332 2018年の録音。協奏曲は、ヤニク・ネゼ=セガン(Yannick Nezet-Seguin 1975-)指揮、ヨーロッパ室内管弦楽団との協演。カデンツァは有名なベートーヴェン作のものを使用。 チョ・ソンジンのこれまでの録音は、特に2016年録音のショパンの協奏曲とバラードを収録したアルバムが素晴らしかったが、その後2017年にはドビュシーのピアノ・ソロ曲集、そしてこのたびは古典に手を広げ、モーツァルトがリリースされたことになる。またシューマンやメンデルスゾーンの交響曲集を録音してきたネゼ=セガンとヨーロッパ室内管弦楽団との顔合わせにも、俄然興味のわく顔合わせである。 まずこの協奏曲であるが、これが肌理の細かいよく整った演奏で、ある意味「期待通り」と言った美演となっている。ネゼ=セガンの指揮は、小編成の室内楽的な味わいを強く意識したもので、特にフレーズを操る木管の音色とピアノの相関の強さが印象的。この緊密なやりとりは、第2楽章の中間部における激しい曲想が続く部分でことさら印象的で、彼らのモーツァルトのピアノ協奏曲へのアプローチ方法は、この個所に集約されているように感じられる。チョ・ソンジンのピアノは、やはりタッチの美しさと、その連続した響きの均整のとれたなめらかさが見事。強奏であっても、力みのない、突き通るような鮮明さがあって、これが生き生きとした活力をもたらす。その効果は、全曲に渡って続く。第3楽章冒頭部分のソリスト、オーケストラともに鋭敏な感覚に裏打ちされた集中力で描かれる合奏は、一点の不確かさものこさず、とにかく鮮烈だ。 続いて独奏曲が2曲収録されている。こちらも秀演。いずれの楽曲でも現代楽器ならではの優美さを醸し出しながら、明朗無垢と言うにふさわしい自然な旋律線が流れている。強い音は強すぎず、しかし存在感は確かなもの。第3番の第2楽章では、歌がモーツァルトらしい音価の短い音楽性と沿うように丁重に扱われる周到さもある。第3楽章のユニゾンの巧妙なバランスもさすがである。第12番も明朗で、白色光を感じさせる響きが貫くが、第3楽章のテンポの早さは、全体の印象から考えると、たた過激なところも感じる。 さらにもう一つ深い影のようなものが加われば、という気持ちがないわけでもないが、いままでのチョ・ソンジンの名演ぶりから逸脱することのない健康的で美しいモーツァルトであり、抗いがたい魅力を持っている。 |
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ピアノ協奏曲 第20番 第21番 歌劇「ドン・ジョヴァンニ」序曲 p: バヴゼ タカーチ=ナジ指揮 マンチェスター・カメラータ レビュー日:2019.7.30 |
★★★★★ 第21番の即興性に満ちたアンダンテが至福の美しさです
ジャン=エフラム・バヴゼ(Jean-Efflam Bavouzet 1962-)のピアノ、ガボール・タカーチ=ナジ(Gabor Takacs-Nagy 1956-)指揮、マンチェスター・カメラータの演奏によるモーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)のピアノ協奏曲シリーズの第4弾で、当盤には以下の楽曲が収録されている。 1) ピアノ協奏曲 第21番 ハ長調 K.467 2) 歌劇「ドン・ジョヴァンニ」 K.527 序曲 3) ピアノ協奏曲 第20番 ニ短調 K.466 2018年の録音。K.467のカデンツァはグルダ(Friedrich Gulda 1930-2000)、K.466のカデンツァはベートーヴェン(Ludwig van Beethoven 1770-1827)作のものを使用。オーケストラは現代楽器。 すでにシリーズ第4弾であり、先行して(第11番 / 第16番、第10番 /第 17番、第12番 / 第18番)の録音がある。私もこれまで聴いてみたいと思っていたのだけれど、後回しになっていて、結局、この有名な2作品を含む当盤を最初に聴くことになった。 聴いてみての感想であるが、2曲の協奏曲では、第21番の方が特徴的で、かつ面白かった。この楽曲で重要な役割を担う木管とピアノの親密なやりとりが、明朗なテクスチャーの中で繰り広げられていて、それだけでも楽しいのだが、中でも有名な第2楽章のアンダンテが最大の聴きモノと言える。このロマンティックな楽想を、バヴゼとタカーチ=ナジは、やや速めのテンポを維持し、その中で、バヴゼは即興性に富んだピアノを披露する。ちょっとしたフレーズの扱い、真の取り方、装飾音の挿入と、実に多彩。早めのテンポではあるが、生き生きとしたフレージングの扱いは、活力が満ちていて、音楽の幅を狭めることがない。実に魅力的。また、終楽章はグルダの個性的なカデンツァを採用しているが、バヴゼのスタイルの中で、おどろくほど適性をもって吸収されることで、聴き味の鮮度を高めていると感じる。 それに比べると第20番は、ある程度常識的な内容ではある。第21番の第2楽章で見せた即興性を考えると、第20番の第2楽章は、別人が弾いているのではないかと思うくらいに真面目だ。あるいは「慎重な演奏」という形容が適切か。とは言っても、演奏自体は美しく整ったもの。小編成のオーケストラらしいキビキビした味わいも楽しい。ティンパニとトランペットの強調が、やや小編成的なあざとさを感じさせるが、それも良いだろう。終楽章の木管はチャーミングだ。 また、当アルバムには、2曲の間に劇的な「ドン・ジョヴァンニ」の序曲が収録されている。2つの協奏曲に管弦楽作品を併せるのは、面白い試みだし、タカーチ=ナジとマンチェスター・カメラータが存分に劇的な諸相を描き出した演奏を繰り広げている。2つの協奏曲の間に配置した編集上の意図については、正直良くわからないが、サービスとしては申し分ない。 |
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ピアノ協奏曲 第20番 第21番 p: ツァハリアス ジンマン指揮 バイエルン放送交響楽団 レビュー日:2022.2.1 |
★★★★★ 歴史に刻まれた名曲に相応しい録音の一つ
ドイツのピアニスト、クリスティアン・ツァハリアス(Christian Zacharias 1950- “ツァハリス”とも表記される)と、アメリカの指揮者、デイヴィッド・ジンマン(David Zinman 1936-)指揮、バイエルン放送交響楽団の演奏による、モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)の下記の2曲を収録したアルバム。 1) ピアノ協奏曲 第20番 二短調 K.466 2) ピアノ協奏曲 第21番 ハ長調 K.467 1989年の録音。 いくつか特徴があって、とくにオリジナルのカデンツァを用いている点は目立った特徴であるが、第20番、第21番ともに、とても真摯で、高級感に満ちた演奏と言える。 第20番はツァハリアスのシームレスなピアニズムが流麗。現代ピアノ特有の音価と強弱の自在性を巧妙に扱いながら、締めるところは締め、歌うところは歌うというメリハリが明瞭で、時に左手からも強い主張のある音がある。また、それらの効果は、全体に対して決して突飛な印象を招くものではなく、適度な劇性をもたらし、この楽曲が、歴史に刻まれた名曲であることを、着々と証明していくような力強さを感じさせる。第3楽章のカデンツァで、冒頭、まるで蓄音機から流れてきたオーケストラのビット音のような合いの手が挿入され、そこからツァハリアスのカデンツァが開始される。最初聴くと、かなりびっくりするが、これはツァハリアスが発案した「仕掛け」とのことで、なかなか面白い。モーツァルト時代の即興精神を、現代のスタイルで一つ演出してみたといったところあろうか。カデンツァは高貴で優れていると思う。もちろん、この曲でもっとも頻繁に採用されるベートーヴェン(Ludwig van Beethoven 1770-1827)のカデンツァを聴きたい気持ちが、起きないわけではないが、その比較で当演奏の価値を下げる必要はないだろう。ジンマンも、オーケストラから深い音色を練り上げていて、じっくりと味わわせてくれる。 第21番も同様に流れの良い演奏で、美しい仕上がりを示すが、この曲では、通常より早めのテンポで演奏された第2楽章が抜群の聴きどころと言えるだろう。運動的な美しさの中で、ファゴットとピアノが掛け合う様は、雪の降り積もった銀世界の中で、月の光と星の光が交錯するような美しさで、思わずため息がもれてしまうほどだ。 当盤に収録されている2つの楽曲には、古今、無数と言って良いほどの素晴らしい録音があるが、当録音も、是非、忘れずその中に加えておくべきだと思う。 |
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ピアノ協奏曲 第20番 第21番 第22番 ピアノ四重奏曲 第1番 幻想曲 ハ短調 K.475 フリーメイソンのための葬送音楽 p: アンスネス アンスネス指揮 マーラー・チェンバー・オーケストラ vn: トラスコット va: ハンター vc: グートマン レビュー日:2021.6.8 |
★★★★★ アンスネスの意欲的な表現が盛り込まれた充実のアルバム
現代を代表するピアニストの一人、アンスネス(Leif Ove Andsnes 1970-)による“Mozart Momentum - 1785”と題したアルバムで、CD2枚に以下の楽曲が収録されている。 【CD1】 1) ピアノ協奏曲 第20番 ニ短調 K.466 ~カデンツァ 第1楽章 ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven 1770-1827) 第3楽章 フンメル(Johann Nepomuk Hummel 1778-1837) 2) ピアノ協奏曲 第21番 ハ長調 K.467 ~カデンツァ 第1楽章 アンダ(Geza Anda 1921-1976) 第3楽章 リパッティ(Dinu Lipatti 1917-1950) 【CD2】 3) 幻想曲 ハ短調 K.475 4) ピアノ四重奏曲 第1番 ト短調 K.478 5) フリーメイソンのための葬送音楽 ハ短調 K.477 (K.479a) 6) ピアノ協奏曲 第22番 変ホ長調 K.482 ~カデンツァ 第1楽章 ジョン・フレイザー(John Fraser) 第3楽章 アンダ 1,2,5,6)のオーケストラは、アンスネスの指揮によるマーラー室内管弦楽団の演奏。4)の各独奏者は下記の通り。 ヴァイオリン: マシュー・トラスコット(Matthew Truscott) ヴィオラ: ジョエル・ハンター(Joel Hunter) チェロ: フランク=ミヒャエル・グートマン(Frank-Michael Guthmann 1975-) 2020年の録音。 様々なカデンツァが使用されているので、そちらも記させていただいた。なお第22番の第1楽章のカデンツァを提供しているジョン・フレイザーは、当アルバムのレコーディング・プロデューサーを務めている人物で、なかなか多彩な才能の持ち主のようである。当該カデンツァは、音色的な面白味のあるもので、アンスネスもその特性に即した演奏をしており、興味深い。 アンスネスとマーラー室内管弦楽団の顔合わせは、2012年から14年にかけて、弾き振りでベートーヴェンのピアノ協奏曲全集を作成した間柄であり、当録音においても、その信頼関係が継続している。 さて、当盤には、モーツァルトが1785年に書いた作品が集められている。すでにウィーンで、その名を轟かせていたモーツァルトは、29才となり、いよいよその天才の作風を刻印した作品たちを、次々に世に送り出していくわけである。中でも「ピアノ協奏曲」というジャンルにおいて、その分水嶺は明確で、当盤の冒頭に収録されたニ短調の協奏曲を端緒として、以後普及の名作群が連ねられていくことになる。当盤に収録された作品は、いずれも「脂の乗り切った」モーツァルトのものであり、圧倒的な充実を示す無二の芸術作品である。 さて、アンスネスの演奏について書こう。モーツァルトの作品、というと、その性質を形容する言葉として、もっとも用いられるのは「無垢」ではないか。天然の良性、自然性の発露。私もモーツァルトの「無垢」と形容される性質こそ、彼固有の得難いものであると思っている。そんな私が愛聴するピアノ協奏曲の録音は、アシュケナージ(Vladimir Ashkenazy 1937-)とペライア(Murray Perahia 1947-)の二つの全集なのであるが、このアンスネスの演奏は、それらとはかなり印象が違う。とても表現的で、主情的。その音楽の奥深くに情熱の奔走があって、それらが常に表現形態に影響を与え続ける。そして、この演奏はこの演奏で、とても魅力的なのである。弦楽器は、小編成らしく、ヴィブラートも控えめの簡素な響きであるが、管楽器の表出力は力強く、従来にないほどの内面的な力強さを示す。また、ピアノは、充実した響きで、ピアノが比較的近くで鳴っているように聴こえる録音の影響もあって、時にはかなりソリッドであり、緊迫感のある響きとなっている。アンスネスのこれらの演奏を聴いていると、モーツァルトでありながら、その表現性は、限りなくベートーヴェンに近づいていると感じられる。そして、それは、モーツァルトがこの時期に刻み始めた、芸術史における確かな刻印であったに違いない。 ピアノ協奏曲第20番の劇的な諸相、第22番のクラリネットを含んだ新しい表現性の拡張、それらが当録音では、強調され、かつピアノと管弦楽の、力強いコンタクトが感じられるのである。ピアノ独奏曲である「幻想曲」も豊かな表現性を感じさせる演奏。私は、この演奏を聴いていると、人影の絶えた深夜の街角で、一人、ピアノが奏でられているような風景を想像した。そんな想像力を刺激する演奏だと思う。「フリーメイソンのための葬送音楽」も、改めて聴いてみると、実に深々と心を打つ音楽で、意欲的にその性質を強めた当盤の演奏は、その性格を明瞭にしており、面白い。 アンスネスというアーティストが、新たな刺激を聴き手に送り届けてくれるアルバムとなっている。 |
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ピアノ協奏曲 第20番 第21番 第23番 第24番 第25番 p: アシュケナージ アシュケナージ指揮 フィルハーモニア管弦楽団 レビュー日:2014.12.2 |
★★★★★ 無垢の美しさに貫かれた無二のモーツァルト
アシュケナージ(Vladimir Ashkenazy 1937-)は、1977年から87年にかけて、フィルハーモニア管弦楽団と、弾き振りでモーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)のピアノ協奏曲全集を録音した。 この全集は、私にも、とても懐かしいもの。かつて、私はこのシリーズのうち、分売されていた有名どころを何枚か買っていたのだけれど、そのどれもがあまりにも素晴らしかったものだから、当時としては奮発して、全集を買い直したのだ。この全集は、今なお、私の愛聴盤である。 当盤は「Great Piano Concertos」として、そのうち後期の傑作5曲を、2枚のCDに収録したもの。収録内容は以下の通りになる。 1) ピアノ協奏曲 第21番 ハ長調 K.467 1977年録音 2) ピアノ協奏曲 第24番 ハ短調 K.491 1979年録音 3) ピアノ協奏曲 第25番 ハ長調 K.503 1982年録音 4) ピアノ協奏曲 第23番 イ長調 K.488 1980年録音 5) ピアノ協奏曲 第20番 ニ短調 K.466 1983年録音 80年代に録音された3-5)がデジタル録音で、他の2曲はアナログ録音。 ところで、そもそもモーツァルトのピアノ協奏曲から5曲選ぶとしたら、どの曲を選ぶだろうか。多分20番と21番の2曲は、人気の面でトップを争うだろう。私にも異存はない。20番とともに短調の24番も劇的で、特に最近では人気が高い。次あたりが難しいが、23番というのは有力だろう。優美で華やかな旋律、2楽章の憂いの深さなど実に見事。 当盤は「第5の曲」として第25番を選んだ。これはなかなか難しい。かつてたいへん人気のあった第26番など私は大好きだし、他に第9番、第12番、第17番、第18番、第19番、第27番など、魅力的な曲はいくらでもある。ここら辺は横一線なのかもしれない。私が選ぶなら、迷いながらも第26番だろうか。しかし、当盤は第25番を選んだ。この選択は、ちょっと渋いかもしれないが、もちろん文句はない。それで、2枚組に編集する過程で、この第25番の1楽章までが1枚目、2楽章以降が2枚目となった。 さて、それではアシュケナージのこれらの録音の魅力とな何であろうか?私の考えでは、アシュケナージの音楽性とモーツァルトの協奏曲の間には、無類の相性の良さがあると思う。モーツァルトの音楽は、よく「無垢」という言葉で形容される。誇張のない純粋なそれでいて完璧な美を備えた音楽。そして、アシュケナージという音楽家も、純音楽的なアプローチを心掛け、適度な詩情を添えながら、作品そのものに語らせるタイプである。このモーツァルトとアシュケナージという組み合わせが、これ以上ないのではないか、と思われるほどの美を生み出した。それがこの録音だ。 私にとって、中でも思い出深いのが第20番だ。私は学生時代に、第18番と一緒になったCDを3,000円以上出して購入した。当時の私にとっては、それは相当大きな買い物だったのだけれど、このアルバムは、聴くたびに私の気持ちを幸福で満たしてくれたものだ。どこにも力んだところがないように思える演奏なのに、その音楽が、これほどの心に訴える力を持っている。そういうモーツァルトを、はじめて意識させてくれた録音だったと思う。だから、今もって、この演奏は愛聴盤だ。何度聴いたって飽きることはない。無垢の強みはそこにある。 他の曲も同様に高いレベルの演奏。第21番の流暢な抒情性、第24番の繊細で落ち着いた劇性、第25番の天衣無縫な歌謡性、第23番の明朗性溢れる情感。 オーケストラも好演で、中でも第21番の弦の自然な抒情性、第20番の木管の透明感など秀逸。いずれにしても、モーツァルトの代表的なピアノ協奏曲をまとめて、これだけ高い水準で聴けるセットというのは意外と少ない。モーツァルトのピアノ協奏曲入門としても最適のアルバムだと思う。 なお、第21番、第24番、第25番の3曲では、アシュケナージ自身によるカデンツァを聴ける。いずれも肩ひじの張らない美しい調和性を重んじたものになっている点も、アシュケナージらしさを反映している。 |
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ピアノ協奏曲 第20番 第24番 p: アシュケナージ S.イッセルシュテット指揮 ロンドン交響楽団 アシュケナージ指揮 フィルハーモニア管弦楽団 レビュー日:2009.8.11 |
★★★★★ アシュケナージの新旧のスタイルを同時に聞けるディスク
表記が紛らわしいCDであるが、収録内容は、モーツァルトのピアノ協奏曲第20番(p: アシュケナージ シュミット・イッセルシュテット指揮 ロンドン交響楽団 1968年録音)と第24番(p: アシュケナージ アシュケナージ指揮 フィルハーモニア管弦楽団 1979年録音)になる。後者はいわゆる全集中の録音。 CD内の英語のタイトルまで混乱している印象だが、往年の名指揮者シュミット・イッセルシュテット(Hans Schmidt=Isserstedt 1900-1973)は1973年に亡くなっている。アシュケナージは60年代後半に、イッセルシュテットやケルテスとモーツァルトの初期の協奏曲(第6番、第7番、第9番)も録音していて、どれも典雅でありながら渋く締まった面を持ちあわせる良い演奏だと思う。 この第20番の演奏を聴くと、イッセルシュテットの指揮ぶりは、後のアシュケナージの「弾き振り」による全集のスタイルにも大いに影響を与えたのではないか、と感じられる。というのはアシュケナージの指揮によるモーツァルトも、線的な中に典雅さを認めるもので、イッセルシュテットのオーソドックスさと多くの類似点を認めるからだ(ただアシュケナージ指揮の方がやや弦に発色があると思う)。アシュケナージのピアノは60年代の録音の方が、音色の膨らみを小さく抑えている印象で、自然に流れ落ちる水のような淡い流れを感じるが、一つ一つの音色は美しく、いかにも「現代的モーツァルトのハシリ」だな、と思わせてくれる。 第24番はそのアシュケナージの弾き振りによる全集中の録音だが、管弦とピアノのバランスに秀でていて、弦の重なりの美しさもこの曲の悲劇性を品を保ちながら高めている。さすがに入念な演奏となっている。 |
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ピアノ協奏曲 第20番 第24番 p: ブレンデル マッケラス指揮 スコティッシュ室内管弦楽団 レビュー日:2015.7.28 |
★★★★☆ 芸術的思索の軌跡を感じさせるブレンデル25年ぶりの録音。
ブレンデル(Alfred Brendel 1931-)のピアノ、マッケラス(Charles Mackerras 1925-2010)指揮スコットランド室内管弦楽団によるモーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)の以下の2曲を収録。 1) ピアノ協奏曲 第20番 ニ短調 K.466 2) ピアノ協奏曲 第24番 ハ短調 K.491 1998年の録音。ブレンデルはネヴィル・マリナー(Neville Marriner 1924-)指揮、アカデミー室内管弦楽団と70年代から80年代のはじめにかけて、モーツァルトのピアノ協奏曲の全集を作成し、当時当該ジャンルの一つの模範を築き上げたものと評価された。当盤に収録された2曲も1973年に録音されている。 当盤は、それから25年の間をおいての再録音となる。特徴の一つとして、カデンツァがすべてブレンデル自作のものということがある。第24番はともかく、第20番にはベートーヴェン(Ludwig van Beethoven 1770-1827)が書いたあまりにも有名なカデンツァがあるので、多くのピアニストはこれを取り上げるのだけれど、ブレンデルは25年前も、今回も自作のものを使用している。25年経てもその自信は揺るがなかったということだろう。ベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集を2度も録音したブレンデルが、ここまでベートーヴェンのカデンツァを避ける理由も知りたいところだが。 さて、この録音を聞くと、旧録音との違いがいろいろ出てくる。まず当たり前だけれど、オーケストラが違う。マリナーに比べて、マッケラスははるかに響きが大きく、シンフォニックな幅を感じさせる。金管やティンパニの鳴りも立派で、しばしばモーツァルト演奏においては異質と思えるくらいにしっかりと響く。加えて、ブレンデルのピアノは、非常に落ち着いた風情を感じさせるもの。じっくりと音楽と対峙し、一つ一つの音型をかみしめるように鳴らしていく。かつての粒だった運動性とはまた違ったシックな雰囲気が支配的だ。全体的に腰の据わったモーツァルトといった印象。 モーツァルトが短調で書いたこの2つの協奏曲は、様々に含みや深みを感じさせる音楽だ。そしてブレンデルはその思索的な探究を、自分なりのやり口で披露してくれる。無垢なモーツァルトから、知に働きかける方向性を導き、聴き手に働きかける。その雰囲気は、しばしば、学究的な印象をもたらす。それは、マリナーとの旧録音ではあまりもたらされなかったもの。 自作のカデンツァも、変化にブレンデルの考察の足跡を感じる。また緩徐楽章の装飾音も華やかというより、なにか沈静化させる方向で音が加えられている印象だ。 全体の印象としては、地味ながら落ち着いた味わいがあり、捨てがたい魅力を引き出した演奏と感じる。また、ブレンデルという大家が、長く芸術的思考を巡らせて、たどり着いたモーツァルトとして、厳かな雰囲気を湛えているとも思う。 |
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ピアノ協奏曲 第20番 第27番 p: キーシン キーシン指揮 クレメラータ・バルティカ レビュー日:2011.4.4 |
★★★★☆ ゆっくりしたテンポでピアノは抜群の美しさ・・しかし・・
キーシンの弾き振りによる2008年録音のモーツァルトであるが、キーシンは2006年にC.デイヴィスと第24番を録音していて(シューマンとの組み合わせ)、それがたいへん美しい名演だと思ったので、私の本心を言えば、またC.デイヴィスと録音してほしかった。 しかし、キーシンも進化を続けるアーティストであるに違いない。モーツァルトの協奏曲の場合、「弾き振り」というのは一つのスタンスとして当然ありえるし、と言うより、「そういう風に」書かれている作品でもあると思う。それで、オーケストラを振りながら弾くことで、キーシン自身が気づくこともあるに違いないし、その点を私たち聴く側も楽しんで聴きたいと思う。 一聴してすぐに思ったのが、とにかくびっくりするくらいのゆっくりしたテンポである。ピアノのソロなど、一つ一つの音を噛み締める様に、じっくりと弾きこんでいる。まるでその瞬間、指揮をしていることを忘れるほど、ピアニスティックで深い音を拾っている。それで第20番など聴くと、とても透明で悲しい情感がぐっと深まるようなところがあり、それがこの演奏で印象的だったところ。 しかし、このオーケストラはちょっと禁欲的に過ぎるのではないだろうか?第20番と第27番では曲自体の性格が大きく異なっているのに、オーケストラから聴こえてくるサウンドのカラーがいずれもモノクロームで寂しく思えてしまう。まるで、キーシンのピアノへの集中力によって、何か大切な要素がオーケストラから少し抜けてしまったかのような。 例えば第27番の第1楽章など、もっと華があって、歌の流れる音楽のはずで、その色彩を楽しみたいと思うのだけれど、キーシンのピアノの美しさにはっとすることはあっても、協奏曲としてオーケストラとの相乗効果のようなものがストレートに伝わらないもどかしさがある。ここらへん、同じ弾き振りでもアシュケナージの方が抜群に巧みだった。 しかし、それでもキーシンのピアノは聴き応えがあると思う。これほどまっすぐに弾かれたモーツァルトというのは、あまり聴かれないし、旋律そのものをピアノでなぞっただけでその魅力が強く伝わるというのはキーシンが一流の演奏家である証左に違いない。弾き振りのキャリアもまだまだこれからであるし、どんどん新しい録音をリリースしていって欲しい。 |
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ピアノ協奏曲 第20番 第23番 第24番 第26番「戴冠式」 第27番 p: カーゾン ケルテス指揮 ロンドン交響楽団 ブリテン指揮 イギリス室内管弦楽団 レビュー日:2013.5.13 |
★★★★★ 録音としては古さを強く感じるようになったが、今なお魅力ある演奏
イギリスの往年のピアニスト、クリフォード・カーゾン(Clifford Michael Curzon 1907-1982)の代表的録音として知られるモーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)のピアノ協奏曲5曲を収録したCD2枚組のアルバム。収録曲内容は以下の通り。 (1) ピアノ協奏曲 第20番 (2) ピアノ協奏曲 第27番 (3) ピアノ協奏曲 第26番「戴冠式」 (4) ピアノ協奏曲 第23番 (5) ピアノ協奏曲 第24番 (1)と(2)は、ブリテン(Edward Benjamin Britten 1913-1976)指揮、イギリス室内管弦楽団で1970年の録音。 他の3曲は、ケルテス(Istvan Kertesz 1929-1973)指揮、ロンドン交響楽団で1967年の録音。 歴史的名盤として知られる録音である。カーゾンというピアニストは、録音嫌いで有名だったそうだが、それでも比較的多くの録音が残っていて、中でもこの5曲のモーツァルトの協奏曲は、ジャンルとしてもまとまっていて貴重である。 なにぶん、今となっては録音が古くなった感があり、特にこの時代のピアノの録音については、どうしても音色がこもってしまうだけでなく、精度自体の限界をも強く感じさせてしまうところであるが、それでもニュアンスは良く伝わっていると思う。これらの録音はクラシック音楽ファンが共有する「古き佳き」ものの象徴の一つと言えるだろう。その印象の主たる要因は、オーケストラの立派な編成と、そのオーケストラが朗々としたメロディを存分に歌っていることにある。現代では、モーツァルトの協奏曲の演奏においては、室内楽に近い小編成のオーケストラによる指向があり、当盤のような録音は多くなくなってきた。それで、この録音を聴くと、いかにも当時ならでは、といった音に満ちている。ブリテン、ケルテスともにオーケストラから華やかで情感豊かなサウンドを引き出している。 さて、ピアノに目を向けて、「それではピアノもやはり大らかに歌っているのか」というと、これがそうとも言い切れないのである。ピアノには、確かに高雅で気品のある歌が流れているが、強い抑制の美学によって、音の等価性に細心の配慮を与えながら、実に構築性を感じさせるピアニズムになっているのである。そこでは、大らかな音楽の喜びというよりも、むしろ理知的な、スコアとの対峙を思わせる瞬間が多い。実は、これが当盤の雰囲気豊かな音楽としての全体的な印象へと繋がっているものなのである。 カーゾンのスタイルは古典的と称されるだろうか?しかしこの古典性というのが、しっかりとした普遍性と論理性に根付いているものであることが、この演奏を通じて示されていると思う。たしかに技術の点では、現代を代表するピアニストたちに比し、少しだけ甘いところがあるのだけれど、その内向的とも言える音楽を追求していく過程で生まれる歌には、特有の暗がりがあり、モーツァルトの音楽に潜む哀しみを、巧みに汲みつくして進んで行くように感じる。 個人的に特に美しいと感じられるのが第23番の中間楽章。 なお、当盤の「2枚に5曲」を収録という構成上、協奏曲第26番の第1楽章と第2楽章の間で、CDを交換しなくてはならないが、5曲収録してくれたという付加価値は、そのデメリットをはるかに大きく上回っている。 |
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ピアノ協奏曲 第21番 第22番 第23番 第27番 p: ティーポ ジョルダン指揮 パリ室内管弦楽団 レビュー日:2018.8.13 |
★★★★★ 思わず「これぞモーツァルトのピアノ協奏曲」と言いたくなる名演です
イタリアのピアニスト、マリア・ティーポ(Maria Tipo 1931-)と、アルミン・ジョルダン(Armin Jordan 1932-2006)指揮、パリ室内管弦楽団の演奏で、モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)の4つのピアノ協奏曲を収録したアルバム。収録内容は以下の通り。 【CD1】 1) ピアノ協奏曲 第21番 ハ長調 K.467 2) ピアノ協奏曲 第22番 変ホ長調 K.482 【CD2】 3) ピアノ協奏曲 第23番 イ長調 K.488 4) ピアノ協奏曲 第27番 変ロ長調 K.595 第21番と第22番は1991年、第23番と第27番は1990年の録音。 マリア・ティーポは、音楽の世界では、教育者としての活動が主のようで、ピアニストとして入手可能な音源は限られているが、聴き逃すのは惜しいピアニストで、特にモーツァルトは絶品といって良い。ティーポのモーツァルトの協奏曲としては、シャイー(Riccardo Chailly 1953-)指揮、ロンドン交響楽団と、1983年に、第8番、第9番、第20番、第21番の4曲の録音があって、どれも素晴らしいが、それから8~9年後に行われた当録音(第21番のみ再録音ということになる)でも、理想的と呼びたいほどのモーツァルトが繰り広げられている。 私には、モーツァルトのピアノ協奏曲というのは、弾き手を選ぶ楽曲だというイメージが強い。モーツァルトの天性の歌を歌いあげながら、それが喜びであってもふと影が潜み、しかし無垢と形容されることの多い、非作為性に貫かれている。そんなモーツァルトをモーツァルトらしく弾くというのは、技巧があるだけでは全然足りないのである。 私が愛聴するモーツァルトのピアノ協奏曲録音というと、アシュケナージ(Vladimir Ashkenazy 1937-)によるものと、ペライア(Murray Perahia 1947-)によるもので、いま自分が聴いてきたものを振り返ってみると、圧倒的に彼らの録音に浸っている時間が長かった。 そして、私にとってアシュケナージ、ペライアと並びうるモーツァルト弾きがティーポである。かつて、ティーポは、その技術が卓越していることから「女ホロヴィッツ」と言われたことがあったそうだが、その音楽はホロヴィッツ(Vladimir Horowitz 1903-1989)のように、わかりやすい意味で主張の強いものではない。むしろ、ティーポのピアニズムは、旋律に含まれる歌を、自然な作法で血の巡る暖かなものにして、行間に宿る情と言えるものを、あざとさなく表出させるものであり、それは私見ではホロヴィッツの芸術とはまったく異なるものなのである。 そんなティーポのモーツァルトが、私には最高の音楽として聴こえてくる。左手の伴奏にさえ細やかなニュアンスが常にあって、右手が織りなす旋律に自然と沿って、併せて過不足ない歌として響く。それ以外の、ある意味不必要なものがほとんど感じられない音楽である。緩徐楽章の表現は、自然な息遣いに沿ったルバートが美しいが、それはただ歌うというだけのものではなく、凛々しい気品があって、かつ古典ならではの均整のとれた調和があり、モーツァルトの音楽と高い親和性をもって呼応するものだ。ジョルダン指揮のオーケストラも、透明感のある気高い自然な音色で、ティーポの世界観に相応しい。 最近では、モーツァルトのピアノ協奏曲といっても、古い楽器を使用してみたり、独自のアプローチを模索してみたり、それはそれで面白いのだけれど、それでも、当盤のような、王道の名演に晒されると、私には色褪せてしまうように感じられるのである。これこそ、モーツァルトのピアノ協奏曲。思わず、そのように言葉が出てしまう本録音です。 |
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ピアノ協奏曲 第21番 第22番 p: ティーポ ジョルダン指揮 パリ室内管弦楽団 レビュー日:2019.3.28 |
★★★★★ 天性のモーツァルト弾きによるモーツァルト
イタリアのピアニスト、マリア・ティーポ(Maria Tipo 1931-)と、アルミン・ジョルダン(Armin Jordan 1932-2006)指揮、パリ室内管弦楽団の演奏で、モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)の2つのピアノ協奏曲を収録したアルバム。収録内容は以下の通り。 1) ピアノ協奏曲 第21番 ハ長調 K.467 2) ピアノ協奏曲 第22番 変ホ長調 K.482 1991年の録音。 ティーポは、第21番については、シャイー(Riccardo Chailly 1953-)指揮、ロンドン交響楽団との協演で、1983年に録音していたので、当盤は8年ぶりの再録音となる。 私は、モーツァルトのピアノ協奏曲集については、アシュケナージ(Vladimir Ashkenazy 1937-)、それにペライア(Murray Perahia 1947-)の2つの全集を長く愛聴している。これらの録音は、なにより自然で、虚飾に通じるものを一切感じさせず、それでいてモーツァルトの音楽を清らかに美しく奏でている。それは、しばしば指摘されるモーツァルトの音楽が持つ「無垢」と呼ばれる性質を、見事に体現した演奏である。彼らの録音に比べると、バレンボイム、内田光子、ブレンデルなど、それなりに面白いが、どこかで芝居気を抑えきれなかったり、重かったり、考え過ぎに感じるようなところがある。その結果、1つの曲を通して聴いていると、(私の場合)どこか気の逸れることがあったり、現実の思いが混ざったりしてしまう。それはそれでいいのかもしれないが、アシュケナージとペライアこそ至高のモーツァルトという「思い」はとても強い。 そんな私であるが、そのほかに、もし「全集を録音していれば」、と思わせる存在としてティーポがいる。 ティーポのピアノは、アシュケナージやペライアに比べると、より劇性を感じさせる。しかし、そこに至る過程が常に自然発揚的な歌に満ちたものであり、しかもつねにタッチが温もりにあふれたものであるため、まったく冷めることのない自然な連続性に満ちている。しばしば、ティーポは「女ホロヴィッツ」と伝えられたそうだ。確かに彼女の技巧と力強さは素晴らしいが、ホロヴィッツがむしろ自己顕示のため作品を用いたのに対し、ティーポは作品の魅力をこよなく引き出すための芸術を、実に自然な感性に即して創造しているように感じる。その感慨は、むしろホロヴィッツとは逆のものと言ってよい。 なんといっても、ティーポの繰り出すルバートの自然さが心地よい。モーツァルト作品におけるこれらのアヤは、不自然なものを感じさせてしまうのはままあることなのであるが、ティーポのそれは、実になめらかで、人工的な凹凸を感じさせない。それでいて、表現するという意志があり、音楽のもつ聴き手へ語り掛ける力は、存分に備わっている。これこそ天性のモーツァルト弾きの演奏だろう。 第22番の第2楽章でほのかに、しかし深い陰影を描いた後、終楽章で華やかな付点のリズムがはじまる。その瞬間にわきおこる音楽的で多層な情感に、この演奏の素晴らしさがもっともはっきりと出ていると思う。 |
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ピアノ協奏曲 第21番 第24番 p: アンデルジェフスキ アンデルジェフスキ指揮 シンフォニア・ヴァルソヴィア レビュー日:2010.1.23 |
★★★★☆ アンデルジェフスキの「才気」がよく伝わるのだが・・・
アンデルジェフスキの「弾き振り」によるモーツァルトのピアノ協奏曲第24番と第21番。オーケストラはシンフォニア・ヴァルソヴィアで、2001年の録音。 アンデルジェフスキもなかなか面白い、というか「やり手」のピアニストの一人だ。いかにも新しい才気を感じさせると言うか、作品に対してかなり演奏家として解釈を大きく加えていく。このモーツァルトも彼の弾き振りで、彼の個性が強く出た演奏である。 第24番が先に収録されているが、冒頭の主題提示から個性的で、管弦楽に相当細やかなアクセントを指示する。そのアクセントが、ピアノを弾くときのピアニスティックなアクセントさながらなのである。全般に音量は控えめながら、このアクセントによりかなりのカラーが与えられている。ここまで徹底すると、ややあざとさを感じてしまい、好悪が分かれるところだと思う。アンデルジェフスキの独奏も同様で、いかにも技量に余裕のある遊び心を鍵盤の上で解き放った趣である。面白いけれど、どこか楽しみすぎているような感じも受けてしまうのだが・・・。 両端楽章のアンデルジェフスキ自身によるカデンツァもこのディスクの特徴だろう。華やかながら曲想に沿ったもので、これまた才気の走りと言うか、インスピレーションを感じさせる。 第21番もまったく同様のアプローチであり、全般に音量は控えめながらアヤの存在感がいかにも強い。一方、このアルバム中で、最も美しいと感じたのが第1楽章後半の短調に転調してしばらく楽想が継続する部分である。この箇所は、さりげない物憂さが適度に表出した感があり、モーツァルトの音楽ならではの情感がよく出ている。こちらもカデンツァは自作のものを披露している。いずれも古典的な調性を守った意外なほど保守的なカデンツァであるが、それでもアンデルジェフスキならではのちょっと一ひねりの効いた音楽となっていて、興味深く聴くことができるだろう。 とはいえ、オーケストラの表情付けやアクセントは、時折「過度」と思えるレベルでもあり、聴き手がこれを積極的に受け入れるかどうかはなかなか微妙だろう。 |
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ピアノ協奏曲 第21番 第26番「戴冠式」 p: アシュケナージ アシュケナージ指揮 フィルハーモニア管弦楽団 レビュー日:2015.6.12 |
★★★★★ 芸術家アシュケナージの感性が如何なく発揮されたモーツァルト
アシュケナージ(Vladimir Ashkenazy 1937-)は、1975年から1986年にかけて、フィルハーモニア管弦楽団との弾き振りで、モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)のピアノ協奏曲全集を録音した。当盤はその中の1枚で、後期の充実した名作2曲が収録されている。 1) ピアノ協奏曲 第26番 ニ長調 K.537 「戴冠式」 1983年録音 2) ピアノ協奏曲 第21番 ハ長調 K.467 1978年録音 録音時期の離れた2曲で、しかも一方がアナログ録音、もう一方がデジタル録音という組み合わせとなっている。しかし、聴き味に不自然さはなく、統一感がある。いずれの曲も明朗な健やかさを感じさせるものだからかもしれない。 それと、アシュケナージのアプローチも、常に一定だ。アシュケナージという芸術家は、音楽表現においても、適度な客観性や解釈の正統性を重視し、いわゆる強い自己主張を感じさせるタイプではない。それゆえに、彼の録音は、録音年に開きがあっても、「差異」を聴き手に強く感じさせるものとはならない。 その一方で、アシュケナージの芸術に特有の魅力を与えているのは、絶対的な音色の美しさと、細やかなフレーズの扱いに起因する詩情の発露である。これらの解釈と音色の特性により、楽曲を響かせるのがアシュケナージの芸術である。 私はそんなアシュケナージのモーツァルトが大好きである。モーツァルトの音楽が持つ無垢で完璧な美しさに、アシュケナージの献身性と自発性は、この上ない相性の良さを感じさせる。音楽作品の魅力が絶対的で完璧である場合、そこに演奏者の恣意性は、さほど必要ではない。何かを付け加えようとすることは、別の何かを失うことになるからだ。双方の価値観のバランスは難しいが、アシュケナージの演奏は、実に自然なたたずまいで、演奏効果の極大値を占めていると思う。 第21番では前半2楽章は少し乾いた響きの弦のベースに、瑞々しいタッチのピアノでメロディが描かれていく様が絶妙に美しい。第3楽章はアシュケナージのモーツァルトの中でももっとも熱を帯びたスタイルだが、当然のことながら模範的というか、決して踏み込み過ぎるところがない、一線をよく意識した演奏となっている。 第26番は健やかな響きの限りで、全管弦楽の洗練の度合いも究極と言ってよいほど。モーツァルトは、この曲の独奏ピアノの左手にスコアを残さなかったとされる。出版社が補足した左手のフレーズは他の曲に比べると単純で、やや稚拙さを感じさせる。しかし、アシュケナージのピアノの絶対的な美しさは、そのような不足を補って余りある情感を引き出してくれる。 両曲において、代表的な録音の一つであると自信をもって言い切ることができる名演だ。 |
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ピアノ協奏曲 第22番 第23番 p: ツァハリアス ジンマン指揮 シュターツカペレ・ドレスデン レビュー日:2022.1.28 |
★★★★★ これぞ名演。ツァハリアスとジンマンによるモーツァルトの協奏曲集
ドイツのピアニスト、クリスティアン・ツァハリアス(Christian Zacharias 1950- “ツァハリス”とも表記される)と、アメリカの指揮者、デイヴィッド・ジンマン(David Zinman 1936-)指揮、シュターツカペレ・ドレスデンの演奏による、モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)の下記の2曲を収録したアルバム。 1) ピアノ協奏曲 第22番 変ホ長調 K.482 2) ピアノ協奏曲 第23番 イ長調 K.488 1985年の録音。 オーソドックスな良演。強い個性は感じないが、オーケストラ、ピアノともども申し分なく、充実かつ安定した演奏を披露している。 第22番は、オーケストラの古典的な美観を踏襲したしっかりした響きがすばらしい。シュターツカペレ・ドレスデンと言うオーケストラの自然な音色そのものの魅力が、存分に響き渡り、しっかりと歩みながらも、輝かしい歌が聴かれ、不足を感じるところは一切ないといって良い。第1楽章ではツァハリアス自身によるカデンツァが奏されるが、ここでは、木管の挿入が行われるところに特徴がある。いずれにしても、現代ピアノのマナーを感じさせる恰幅と発色性のある響きであり、幸福感に満たされる。変奏形式による第2楽章は、悲哀を感じさせる音楽だが、管弦楽の低音の豊かな響き、発色あるピアノの響きとあいまって、非常に美しく、心を動かされる音楽になっている。 第23番も、現代オーケストラと現代ピアノならではの、肉厚さ、発色の豊かさがあり、十全な響きで満たされている。暗い情感が深く描かれた有名な第2楽章においては、管弦楽、ピアノがそろって、たっぷりとした憂いを含んだ演奏が繰り広げられる。現在の主流の演奏より、情感の発露に重みを置いた演奏であるが、それゆえの聴き応えは、決して不適切なものではない。むしろ、オーケストラ、ピアノがあいまった美麗な音響は、音楽芸術の一つの粋を極めたものと言っても良い。全編が音楽的な潤いに満ちている。終楽章もしなやかで自然。屈託なく、ただひたすらに美しい。これほどの美演であれば、聴かずに済ませるのはもったいないと思うほど。様々な音楽評論などで、この曲の代表的録音として、当盤が挙げられることはまずないのだが、私は、この録音は、この曲のベストを争うものではないかと思う。是非、多くの人に聴いてほしい。 |
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ピアノ協奏曲 第23番 第24番 p: シャプラン ヴェルディエ指揮 ヴィクトル=ユーゴー管弦楽団 レビュー日:2017.12.26 |
★★★★☆ ピアニストの個性を強く感じさせるモーツァルト
1987年のセニガッリア国際ピアノ・コンクールで優勝したフランスのピアニスト、フランソワ・シャプラン(Francois Chaplin)とジャン=フランソワ・ヴェルディエ(Jean-Francois Verdier)指揮ヴィクトル=ユーゴー管弦楽団によるモーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)の以下の名曲2曲を収録したアルバム。 1) ピアノ協奏曲 第23番 イ長調 K.488 2) ピアノ協奏曲 第24番 ハ短調 K.491 2017年の録音。 私は、最近このピアニストが1997年に録音したスクリャービン(Alexander Scriabin 1872-1915)のマズルカ集を聴き、なかなか面白かったので、その20年後となる現在の録音に興味を持って当盤を購入してみた。 印象であるが、これが驚くほど20年前に録音したスクリャービンと似通うのである。これほどタイムスパンがあり、しかも作風の全く異なる楽曲であるにもかかわらず、本当にこのピアニストは主旨一貫しているというか、どのような作品であっても、自分なりのアプローチの基点が固まっているのだろう。 ピアノの音色が個性的で、シャプランは和声や対位法的な処理に苦心するようなことはなく、一つ一つの音をくっきりと描き出すことに細心している。また、それでいて、音域は全般に弱音側にシフトしており、その結果、音と音の関連性が、つねに空隙を意識したものとなっている。乾いている、ともスタッカート奏法とも表現できるだろうが、いずれにしてもとても個性的である。 そうして奏でられるモーツァルトは、素朴とも言えるし、フラットで抑揚が小さいようにも思う。それは当録音が小編成オーケストラとの協演によって成されていることと意図的には合致しているだろう。ある意味古典的な響きのようにも思うが、しかし、時に音の間隙に設けられるアヤには、妙に色艶を感じさせるところがあるのも不思議だ。聴いていて、これは何を表現したい演奏と、聴き手になにかストンと落ちるよりどころを感じさせないし、あるいみアーティスティックである。 第24番でシャプランはオリジナルのカデンツァを弾いている。これがまた不思議とロマンティックな香りを感じさせるところがあり、これが前述のシャプラン流アプローチとまた違うもののような印象をもたらす。なかなか一筋縄では行かない演奏だ。 まとめると、スクリャービンを聴いた時は、なるほどと納得させられるところが多かったシャプランであるが、このモーツァルトでは、私には、まだ消化しきれないところがある。それを言葉で表現しようとしても、なかなか難しい。楽曲の美しさを壊すような演奏では決してないのだが、名演の多くあるこれらの楽曲で、当盤をどこに位置づけるか、となると、あくまで、余裕があったら聴いてみても面白い一枚、といったところだろうか。 |
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ピアノ協奏曲 第23番 第24番 シェーナとロンド「どうしてあなたを忘れられようか~恐れないで、愛する人よ」 ピアノ四重奏曲 第2番 ピアノ三重奏曲 第6番 ロンド ニ長調 p: アンスネス アンスネス指揮 マーラー・チェンバー・オーケストラ vn: トラスコット va: ハンター vc: グートマン S: カルク レビュー日:2022.4.15 |
★★★★★ 濃厚な表現で聴き手の気持ちにしっかりと伝わるモーツァルト
2020年に“Mozart Momentum - 1785”と題したアルバムを録音したアンスネス(Leif Ove Andsnes 1970-)による、今度は“Mozart Momentum - 1786”と題されたアルバム。この2つ目のアルバムで、本企画としては完結するらしい。当盤では、CD2枚に以下のモーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)の楽曲が収録されている。 【CD1】 1) ピアノ協奏曲 第23番 イ長調 K.488 2) 劇唱「どうしてあなたを忘れられようか」とロンド「恐れないで、愛する人よ」 K.505 3) ピアノ四重奏曲 第2番 変ホ長調 K.493 【CD2】 4) ピアノのためのロンド ニ長調 K.485 5) ピアノ三重奏曲 第6番 ト長調 K.564 6) ピアノ協奏曲 第24番 ハ短調 K.491 2)におけるソプラノ独唱は、クリスティアーネ・カルク(Christiane Karg 1980-)、3,5)におけるヴァイオリンは、マシュー・トラスコット(Matthew Truscott)、チェロはフランク=ミヒャエル・グートマン(Frank-Michael Guthmann 1975-)、3)におけるヴィオラはジョエル・ハンター(Joel Hunter)。 2)は管弦楽の伴奏にソプラノ独唱とピアノが加わる編成の作品で、2つの協奏曲とともに、オーケストラはマーラー室内管弦楽団の演奏。指揮はアンスネス自身が務める。2021年の録音。 第23番のカデンツァはモーツァルト自身のものが使用されているが、第24番のカデンツァは、よく聴かれるフンメルのものではなく、CD表記では「作者不詳のカデンツァ」となっている。ちょっと珍しい。 前作に引き続いて、モーツァルトが数々の名曲を創作した時期のうちのある1年に焦点を当て、その年に書かれた作品群を集めた内容。印象も前作と同様に、色の濃い、しっかりとした聴き応えのあるモーツァルトといったところで、オーケストラは小編成ながら、雄弁な音色を紡ぎだし、ベートーヴェンを思わせるところもある。 個人的に特に素晴らしいと思ったのがピアノ協奏曲第23番。管弦楽は、ピリオド奏法を踏まえて、ヴィブラート控えめのスタイルながら、ピアノとともに表現性豊かで、特に管楽器は、必要に応じて、現代楽器ならではの発色性を発揮させ、加えて細やかなニュアンスを込める。結果として、導かれる音楽は、きわめて濃密で、聴き手に働きかけるものが多い。その積極性は、聴きようによっては、モーツァルトの音楽が持つ「無垢」と形容される質と異なる方向性をもつものなのだが、音楽としての説得力は高く、私はこの演奏に心底魅了された。古今の当曲の録音の中でも、名盤に名を連ねるものと感じられた。 次いで、ピアノ独奏曲である「ピアノのためのロンド」が美しい。この小品が、これほど色鮮やかに奏でられることは稀で、その浪漫性あふれる歌は、聴き手の心に大きく作用するものだろう。 他の楽曲も名演揃い。劇唱「どうしてあなたを忘れられようか」とロンド「恐れないで、愛する人よ」は、まさない劇的で、管弦楽を挟みながらピアノとソプラノの交錯が実に楽しい。ピアノ協奏曲第24番も、深刻な諸相を深く描いた、ひだのある演奏と言える。 あまり聴く機会のないピアノ三重奏曲K564、(ちなみに新全集では、モーツァルトのピアノ三重奏曲として、K254、496、498、502、 542、548、564の7曲があるので、第6番という番号が妥当かは微妙である)、この曲は、非常に単純なスタイルで書かれていて、名曲という風格があるわけではないが、それでも、モーツァルトが気楽に書いた、いかにも天才の喜遊とでも呼びたい雰囲気があり、当盤の演奏も、それに相応しい典雅さを感じさせてくれる。 これでシリーズが終りになるのがもったいない。できれば、こんな感じで、彼らのモーツァルトのピアノ協奏曲を全曲聴きたい、と思ってしまう、素敵なアルバムになっています。 |
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ピアノ協奏曲 第23番 第27番 p: アシュケナージ アシュケナージ指揮 フィルハーモニア管弦楽団 レビュー日:2015.6.18 |
★★★★★ 現代最高のモーツァルト
アシュケナージ(Vladimir Ashkenazy 1937-)が1975年から1986年にかけて、フィルハーモニア管弦楽団との弾き振りで録音したモーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)のピアノ協奏曲全集の中の1枚。以下の名作2曲が収録されている。 1) ピアノ協奏曲 第23番 イ長調 K.488 2) ピアノ協奏曲 第27番 変ロ長調 K.595 1980年の録音。 あちこちで書いているのだけれど、アシュケナージのモーツァルトは本当に素晴らしい。もちろん、これらの名作には、他にも素晴らしい録音がたくさんあるのだけれど、私の場合、最後に戻ってくるのは、このアシュケナージの録音だ。 特に私が感じるのは、これほどの名だたるアーティストであり、テクニック的にも音量的にも様々なことができる幅をもっているのに、非常に凛々しく、きちんとしたモーツァルトという形を、常に感じさせる音楽が響いているということである。もちろん、これだけ書くと、他にも優れた演奏がありそう。けれども、いろいろ聞いてみて、面白かったり、なんらかの特徴があったりというのは、実はモーツァルトの音楽の本質とは、別の価値観が融合されていることがほとんど。それを良くないというつもりは毛頭ないけれど、私の場合、特にモーツァルトの音楽を聴く時に、最終的に一番大切に感じているのは、いかに「モーツァルトそのもの」が響いてくるか、という一点に尽きる。 この点で、アシュケナージとフィルハーモニア管弦楽団による一連のピアノ協奏曲の録音の右に出るものはない。少なくとも、私がこれまで聴いてきた中にはないのである。 だから、私はほかのいろいろな演奏を楽しんだ後で、しばらくすると、アシュケナージのモーツァルトが無性に聴きたくなる。私にとって、それは現代におけるモーツァルト演奏の原典であり、正統性のよりどころであるからだ。そのような安定した軸こそが、最後の最後まで残るいちばん大切な価値であると思っている。 では、アシュケナージの演奏は無個性なのか?これもまた違う。なんと美しく輝きと鮮明な色を持ったピアノ。決して音楽の輪郭に影響を与えない範囲での高雅な詩情。これが、素晴らしい美点でなくて、なんだと言うのだろうか? この2曲の中で、特に私の好きなのは、第27番の第2楽章。瑞々しさと、時折さす憂いのバランスの巧妙なこと。それにピアノという楽器の絶対的な美しさを感じさせる時間が満ちている。残念ながら、最近はやりのピリオド楽器で演奏しても、この楽章の美しさがこの演奏のように伝わってくることはない。アシュケナージが、現代最高のピアノで奏でたこの音楽は、私にとって、間違いなく一生ものの宝である。 |
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ピアノ協奏曲 第23番 第27番 p: ティーポ ジョルダン指揮 パリ室内管弦楽団 レビュー日:2019.3.29 |
★★★★★ 理想的なモーツァルトのピアノ協奏曲録音
イタリアのピアニスト、マリア・ティーポ(Maria Tipo 1931-)と、アルミン・ジョルダン(Armin Jordan 1932-2006)指揮、パリ室内管弦楽団の演奏で、モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)の2つのピアノ協奏曲を収録したアルバム。収録内容は以下の通り。 1) ピアノ協奏曲 第23番 イ長調 K.488 2) ピアノ協奏曲 第27番 変ロ長調 K.595 1990年の録音。 ティーポというピアニストは、音楽では教育者としての活動を主にしていたこともあって、録音点数は多くない。だが、それらの録音には、是非とも広く聴かれるべきものがあり、中でもモーツァルトは最高といって良い素晴らしさである。 第23番と第27番という楽曲は、明朗な中に憂いがあり、簡素さの中に多面性のある作品で、かつそれがモーツァルトゆえの無垢を感じさせる自然な展開の中で紡がれる。私は、モーツァルトのピアノ協奏曲の演奏においては、作為性やあざとさを感じさせず、それでいて歌があって、飽きることのない演奏を好む。特に愛聴しているのは、アシュケナージ(Vladimir Ashkenazy 1937-)、それにペライア(Murray Perahia 1947-)の2つの全集であり、すっかり満足しているが、それでも、「このピアニストにも全集を録音してほしかった」と時々思わせるのが、このティーポである。 ティーポのピアノはより発色性が豊かで、強弱や緩急の自在性が高い。だが、それらは決して作為的に感じられるものではない。むしろ、非常に自然でしなやかな方法で、これらの音楽作品が持っている「惻隠」と呼べるようなものを、豊かに表現してくれていると感じられるのだ。 特に第27番は、簡潔、簡素といった言葉が連想される作品であるが、ティーポの語り掛けはそこに様々な情感を与えてくれる。その肉付きは、決して不自然なものではなく、むしろ、この時期に書かれたモーツァルト作品ならではの、透明な深みを感じさせてくれて感動的である。歌曲の旋律が転用された第3楽章など、華やぎがありながら物憂さがあり、そこ変化の様が、自然なルバートと抑揚で、歌に満ちた姿で描かれていく様は、圧巻と言って良い。 第23番は、流麗でありながら快活。運動的な魅力と豊かな情感を、色彩感に富んだタッチで描き出してゆく。描かれる喜びや悲しみといった感情に深い色合いが感じられるのが嬉しい。 ジョルダン指揮のオーケストラもなかなかの良演。特に木管の鮮やかな響きが情感に満ちていて瑞々しい。ピアノともども、モーツァルトのピアノ協奏曲、かくあるべし、といった説得力のある音が、直接的に表現の力となっている。 |
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モーツァルト ピアノ協奏曲 第24番 ベートーヴェン ピアノ協奏曲 第3番 p: スドビン オラモ指揮 ミネソタ管弦楽団 レビュー日:2015.7.17 |
★★★★★ 鮮烈な衝撃をもたらすスドビンの演奏
エフゲニー・スドビン(Yevgeny Sudbin 1980-)のピアノ、オスモ・ヴァンスカ(Osmo Vanska 1953-)指揮、ミネソタ管弦楽団の演奏による以下の2曲を収録。 1) モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791) ピアノ協奏曲 第24番 ハ短調 K.491 2) ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven 1770-1827) ピアノ協奏曲 第3番 ハ短調 op.37 1)は2012年、2)は2011年の録音。 スドビンは現在もっとも創造性を感じさせるピアニストの一人だ。彼の録音には、なにかしらの面白い仕掛けや演出が施されていて、私はいつも、その驚きと出会うことを楽しみに彼の録音を聴く。 当盤もそんな期待を裏切らない一枚。いや、期待を裏切らないというより、思いつきもしない素晴らしいマジックが披露されているといっても良いだろう。私が言及しているのは、モーツァルトの協奏曲における第1楽章終結部のカデンツァのことだ。 この楽曲にモーツァルト自身のカデンツァは遺されていない。そのため様々な演奏家たちがカデンツァを考案してきた。中にあって、スドビンがここで披露しているカデンツァは、圧倒的といっていいほどの存在感を持っている。壮大な旋律のふくらみ、蓄えられたエネルギーの放出。ヴィルトゥオジティに満ち溢れ、ロマン派の薫りを放ちながらも、その連結点において、みごとにモーツァルトの音楽に繋がる。 そもそも、この楽曲は、モーツァルトのピアノ協奏曲の中で、もっともダイナミックなものだろう。ベートーヴェンはこの曲を聴いて、深い感銘を受けたと伝えられる。だからこそ、スドビンの豪快なカデンツァであっても、見事に収まるのだ。そして、そのベートーヴェンが同じハ短調で書いたピアノ協奏曲がこの第3番。両曲の冒頭が似ているのは偶然ではない。 スドビンはベートーヴェンにおいても、とてもスリリングなピアノを示す。スコア通りに弾いているのだが、鮮烈なイントネーションの効果を操り、劇的な濃淡を描き出す。それにしてもスドビンのテクニックは凄い。普通は、ここまで情動の激しい表現を行うと、細かい歩調が乱れたり、前後の脈絡が乏しい突飛さが現れたりするのだけれど、スドビンの演奏にはそのような要素を感じない。テンポを速める瞬間であっても、スラーで奏でられる音階の整いは、見事に保持されている。細部がしっかしりしているから、全体の流れも一つの表現として完成度が高まり、協奏曲という大規模な音楽の形式的な美観も損なうことがない。 ヴァンスカ指揮のミネソタ管弦楽団も、スドビンのピアノに引っ張られるかのようにして、非常に熱のある演奏を繰り広げる。ベートーヴェンの協奏曲の終結部で奏でられるティンパニの鮮烈な連打音にその特徴はよく表れているだろう。 |
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モーツァルト ピアノ協奏曲 第24番 シューマン ピアノ協奏曲 p: キーシン C.デイヴィス指揮 ロンドン交響楽団 レビュー日:2007.10.30 |
★★★★★ キーシンによる気高きモーツァルトとシューマン
着実に録音活動をこなしているキーシンのモーツァルトとシューマンの協奏曲。リリースされてみると、なるほど、と思うほどにキーシンの個性が引き出された演奏であり、それに適した楽曲だったのだと思う。キーシンの演奏は、例えば、以前弾いていたシューベルトのソナタなどは幾分型にはまりすぎて、単調な物憂さが残ったけれど、このモーツァルトとシューマンは実に良い。 実際、キーシンのピアニズムはモーツァルトによく合うだろう。きわめて平衡感覚の強い音感と、しなやかなピアニスティック、そしておそらくつねにその音楽性を支えている古典的な教養があると思う。そうして引き出されるモーツァルトの世界は、なかなかいい意味で辛口で、「大人のモーツァルト」になっている。いわゆる「遊戯性」のようなものはほとんど感じられないが、純粋に突き詰められた音楽で、高貴な香りと崇高な気品がある。デイヴィスの指揮もそれにあわせたのだろうか、かつての彼に比べると、いくぶんシックな色合いで、落ち着いた、部分的に固めなサウンドである。 ロマン派の代表的なピアノ協奏曲といえるシューマンでも、キーシンとデイヴィスのアプローチはモーツァルトと共通しており、そこでは自由な華やかさより、拘束のもたらす規律正しい気品に満ちている。全般を通してライヴ録音とは思えないほどの客観視を感じるのもこの演奏の特徴だろう。オーケストラのサウンドもそれぞれの楽器がその役割に徹した感があり、禁欲的ともいえる響きであるが、それゆえの内省的な美しさが隅々まで満ちている。私にとってキーシンの演奏の新しい領域を感じる一枚となった。 |
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モーツァルト ピアノ協奏曲 第24番 シューベルト 4つの即興曲 op.142 D935 から 第1番 シューマン ダヴィッド同盟舞曲集 p: オズボーン ロペス=コボス指揮 ローザンヌ室内管弦楽団 レビュー日:2025.2.27 |
★★★★☆ オズボーン20歳当時の録音
スティーブン・オズボーン(Steven Osborne 1971-)による1991年(クララ・ハスキル・コンクールで優勝した年)のライヴ音源を集めたアルバムで、REM CLASSICALというレーベルからリリースされたもの。このレーベルの名称は(私が)聞いたことのないものであり、おそらく製作枚数も少ないと思う。収録内容は、下記の通り。 1-3) モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791) ピアノ協奏曲 第24番 ハ短調 K.491 4) シューベルト(Franz Schubert 1797-1828) 4つの即興曲 op.142 D935 から 第1番 ヘ短調 シューマン(Robert Schumann 1810-1856) ダヴィッド同盟舞曲集(Die Davidsbundlertanze) op.6 5) 第1曲 ト長調「元気よく」(Lebhaft) 6) 第2曲 ロ短調「心からの」(Innig) 7) 第3曲 ト長調「ユーモアをもって」(Mit Humor) 8) 第4曲 ロ短調「辛抱しきれず」(Ungeduldig) 9) 第5曲 ニ長調「単純に」(Einfach) 10) 第6曲 ニ短調「きわめて速く」(Sehr rasch) 11) 第7曲 ト短調「速くなく」(Nicht Schnell) 12) 第8曲 ハ短調「生き生きと」(Frisch) 13) 第9曲 ハ長調「元気よく」(Lebhaft) 14) 第10曲 ニ短調「バラード風に」(Balladenmassig) 15) 第11曲 ニ長調「単純に」(Einfach) 16) 第12曲 ロ短調「ユーモアをもって」(Mit Humor) 17) 第13曲 ロ短調「荒々しく」(Einfach) 18) 第14曲 変ホ長調「優しく歌いながら」(Zart und singend) 19) 第15曲 変ロ長調「元気よく」(Frisch) 20) 第16曲 ト長調「快いユーモアももって」(Mit guntem Humor) 21) 第17曲 ロ長調「遠くからの」(Wie aus der ferne) 22) 第18曲 ハ長調「速くなく」(Nicht schnell) モーツァルトは、ヘスス・ロペス=コボス(Jesus Lopez-Cobos 1940-2018)指揮、ローザンヌ室内管弦楽団との協演で、この協奏曲の末尾にのみ拍手が収録されている。録音はデジタル録音と表記されているが、やや粗い印象がある。収録環境に依るものかもしれない。 全体と通して聴いて、良いと思うのはモーツァルトの協奏曲である。モーツァルトの最高傑作の一つといって良い楽曲であるが、オズボーンのアプローチは、素朴さと劇的なものをほどよく兼ね備えており、インテンポで淡々と進みながらも、必要な箇所で、力強い推進力を果敢に打ち出し、高貴さとともに激しさを打ち出しており、その真摯な表現に心打たれる。特に第1楽章は、その作法が隅々まで行き渡った感があり、全体として完成度の高さを感じさせる。ロペス=コボスの指揮も、小手先で何かしようというようなところが一切なく、直截で真面目。この楽曲は、そういうことを心掛けるだけで、聴き手を素晴らしい高みに誘ってくれることを、核心しているという演奏に思う。1991年のデジタル録音にしては肌理が粗い感じは否めないが、それでも十分に見事な滋味が伝わる。とくに木管とピアノのニュアンスの交錯が美しい。 対するにピアノ独奏曲の方は、いま一つに思った。もちろん、これは現在までのオズボーンの輝かしい数々の録音業績を知ってしまっているため、聴き手の側でハードルが上ってしまっているというところもあると思うのだが、当時のオズボーンの演奏には、まだ何か備わっていないものがあるように思えてしまう。特にシューベルトは、録音のせいかもしれないが、ペダルの効果を抑制し過ぎていて、全般に鄙びた古いピアノのような響きになってしまっており、シューベルトならではの浪漫性が、そこまで感じられない。 シューベルトよりシューマンの方が良い。この難曲に、緩急の自在さをもって、うまく連続的に響かせており、自然である。ただ、シューベルト同様に、その響きにはやや硬さが感じられ、その結果、第7曲であればやや疎な印象になり、第8曲であればずいぶんゴツゴツした響きに感じられる。それでも、第15曲のスケール感など、この先のオズボーンの大成を予感させるところも十分にあるので、このあたりは、奏者の若さが隠し切れずに現れたもの、と言えるだろうか。 ただ、当盤は、当時のオズボーンの演奏を伝える音源として貴重であり、かつモーツァルトは名演と呼びうるものとなっている。 |
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ピアノ協奏曲 第24番 第27番 p: ツァハリアス ヴァント指揮 北ドイツ放送交響楽団 レビュー日:2022.2.8 |
★★★★★ ツァハリアスとヴァントが描き出す「冬」と「春」の協奏曲。
ドイツのピアニスト、クリスティアン・ツァハリアス(Christian Zacharias 1950- “ツァハリス”とも表記される)と、ギュンター・ヴァント(Gunter Wand 1912-2002)指揮、北ドイツ放送交響楽団の演奏による、モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)の下記の2曲を収録したアルバム。 1) ピアノ協奏曲 第24番 ハ短調 K.491 2) ピアノ協奏曲 第27番 変ロ長調 K.595 1986年の録音。 この時期、ツァハリアスは、第5番以降のモーツァルトのピアノ協奏曲(第1番~第4番は他者作品の編作)を録音しているが、そのうち第24番と第27番の2作品については、ヴァント指揮、北ドイツ放送交響楽団との協演となった。この時期のヴァントと北ドイツ放送交響楽団(現・NDRエルプフィルハーモニー管弦楽団)は、ブルックナー、ブラームスなど、ドイツ王道者のレパートリーに多くの録音を行い、その中庸の美を湛えた様は、正統性を感じさせる名演として、高い評価を得ていた。そんな彼らとの顔合わせという点が、まず興味深い。 はたして、演奏は、澄みきった空を思わせる端正で気高いものとなっている。 第24番は、冒頭からやや速めのテンポを設定し、余計な情感を排するような淡々とした響きで進められるが、その音響は、中央ヨーロッパの響きを呼ぶにふさわしい含蓄を感じさせる。それは、淡さの中にも、しっかりと内側から滲み出るような味わいがあるからだ。木管と弦の透明な響きは、私には北国の音と形容したい雰囲気を感じさせる。ツァハリアスのピアノも、透明で、節度を保ったピアノであるが、きらめくようなタッチが、オーケストラの音色と合わさった時、氷の輝きのような美しさを見せ、感動的だ。一陣の風のように描かれた終楽章も、私には彼らのモーツァルトとして、一つの到達点に達したものを感じさせてくれる。 第27番は、楽曲の性格が第24番と異なることもあって、ここでは、むしろ不思議な暖かさを湛えた感覚が呼び覚まされる。とくに冒頭の弦の響きが、私には春の気配、暖気の訪れを感じさせる。終楽章に、歌曲「春への憧れ」(K.596)の引用があることとあいまって、全曲が「春」のイメージに包まれているような趣だ。それにしても、この第27番の第1楽章の冒頭の、弦からあふれ出してくる雰囲気は、現代楽器ならではのもので、ピリオド楽器では、ここまで含みのある音は出せない。最近では、作曲当時のスタイルに拘った演奏、録音がもてはやされ、それも一興かもしれないが、当盤のように、薫り高い現代楽器による名演を忘れてしまうのは、大きな損失に感じられる。ツァハリアスのタッチは、ここでも突き通るような爽やかさに満ちており、転調の瞬間など、聴き手の気持ちを浮遊させてくれるかのようだ。私を幸せな気持ちにしてくれる名録音です。 |
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ピアノ協奏曲 第25番 第27番 p: アンデルジェフスキ アンデルジェフスキ指揮 ヨーロッパ室内管弦楽団 レビュー日:2018.3.14 |
★★★★★ アンデルジェフスキのスタイルにぴったりな第27番が特に名演でしょう
アンデルジェフスキ(Piotr Anderszewski 1969-)の弾き振りによるモーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)のピアノ協奏曲集。以下の2曲を収録。 1) ピアノ協奏曲 第25番 ハ長調 K.503 2) ピアノ協奏曲 第27番 変ロ長調 K.595 オーケストラはヨーロッパ室内管弦楽団で、2017年の録音。 アンデルジェフスキは、これまでも弾き振りで、モーツァルトの協奏曲を録音してきたが、その際は、第17番と第20番、第21番と第24番といった具合に、かなり対照的な性格の2作品を組み合わせてきた。果たして、今回も第25番と第27番という性格の異なる2曲となった。 第25番は、壮大な主題により、大きな気風を感じる重厚な作品、対するに第27番は、軽妙な味わいの中に、細やかな陰りのほどこされた細やかな作品である。アンデルジェフスキ自身も、その「対照性」をことに意識しているとコメントしている。 アンデルジェフスキのモーツァルトは、いつも細やかな機微に即した表情づけに工夫を凝らしたものであるが、私は最近彼が録音したピアノ・ソナタ第14番を聴いて、その表現力がさらに深みを増し、一層深い情感を獲得した感を持ったのだが、果たして、この協奏曲もそれに違わない内容となった。 特に見事なのが第27番。この演奏を聴いていると、この曲はアンデルジェフスキのようなピアニストにもっともふさわしい作品に違いない、とまで思われてくる。細やかなタッチで描かれる情感、それがほほ笑むようで、時に陰るようで、そのひそやかな交換の合間に、ふと驚くほど深く、時に恐ろしいような瞬間が待ち受ける。美しいようでいて儚い。第2楽章の弦、フルートとのやりとりのきれいなこと。おもわずため息が出る。 人は、モーツァルトが亡くなる年に、この協奏曲を書いたエピソードから、そこにどこか厭世的な美しさを感じることがある。それは、後でエピソードをなぞった私たちがかってに取り付けた思いかもしれないが、この演奏を聴いていると、どこか、去り行く美しさのような情緒が感じられるから不思議である。 一方の第25番。こちらももちろん悪くない。ほどよいレガートで、フレーズの規模にふさわしい歌が紡がれるだけでなく、管弦楽の音色も従前にコントロールされており、和音の響きもよく計算されている。第1楽章で印象的な4連音も、様々にニュアンスを変えながら提示されていく。また、この楽章のカデンツァは、アンデルジェフスキ自作のものが披露されているが、豊かな質感と色彩感を持った弾力的なもの。自然で、流れの良いものとなっている。 現代楽器ならではの自由度を存分に使った美しいモーツァルトを堪能できる1枚になっています。 |
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ヴァイオリン協奏曲全集 協奏交響曲 vn: カルミニューラ va: ヴァスキエヴィチ アバド指揮 モーツァルト管弦楽団 レビュー日:2009.1.1 |
★★★★☆ 快速テンポによる新感覚モーツァルトのヴァイオリン協奏曲
アバドが2004年にボローニャの若手音楽家を中心に結成したピリオド楽器によるオーケストラ「モーツァルト管弦楽団」と2007年にライヴ収録したモーツァルトのヴァイオリン協奏曲全曲と協奏交響曲を収録。ヴァイオリン独奏は同オーケストラでコンサートマスターを務めるジュリアーノ・カルミニョーラ。カルミニョーラにとっては2度目の全曲録音となる(一度目は1997年マルティーニの指揮で録音)。 同時期にモーツァルトの交響曲集が発売になっており、そちらは細やかな表現を駆使した斬新な演奏であったが、この協奏曲集も特徴的。特に緩徐楽章の快速テンポがなかなか強烈で、従来の古典的な演奏になじみが深い人ほど抵抗を感じるかもしれない。しかし、何度か聴いていると、カルミニョーラの安定した正確な技巧のため、決して過度に急いているというわけではなく、むしろこれが一つの自然体かもしれないと思えてくる。オーケストラ、独奏ヴァイオリンともに機敏な切れ味があり、爽快な味わいとなっている。有名な第5番の第1楽章でも、スピーディーで簡潔に音楽をまとめている。協奏交響曲ではヴィオラ独奏にダヌーシャ・ヴァスキエヴィチを迎えて、これまた細かくて速い演奏である。従来の演奏にはあった情感が薄くなってはいるが、かわって何か新しいものを聴いたという存在感のある演奏だ。 なお、協奏曲中のカデンツァは、第4番の第3楽章と協奏交響曲ではモーツァルト作のものを使用しているが、他は全てカルミニョーラ作のものとなっている。 |
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ヴァイオリン協奏曲全集 協奏交響曲 vn: ツェートマイヤー ツェートマイヤー指揮 ブリュッヘン指揮 18世紀オーケストラ va: キリウス レビュー日:2015.10.13 |
★★★★☆ 淡い語り口ながら、大家らしい自然な響きで奏でられたモーツァルト
トーマス・ツェートマイヤー(Thomas Zehetmair 1961-)によるモーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)のヴァイオリン協奏曲全集。6年間に渡ってライヴ録音されたものを2枚のCDにまとめたもの。その内容詳細は以下の通り。 【CD1】 1) ヴァイオリン協奏曲 第1番 変ロ長調 K.207 2002年録音 2) ヴァイオリン協奏曲 第4番 ニ長調 K.218 2000年録音 3) ヴァイオリン協奏曲 第5番 イ長調 K.219「トルコ風」 2000年録音 【CD2】 4) ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲 変ホ長調 K.364 2005年録音 5) ヴァイオリン協奏曲 第3番 ト長調 K.216 2005年録音 6) ヴァイオリン協奏曲 第2番 ニ長調 K.211 2005年録音 オーケストラはピリオド楽器による18世紀オーケストラ。【CD1】はツェートマイヤーが指揮を兼ねているが、【CD2】ではブリュッヘン(Frans Bruggen 1934-2014)が指揮を担う。協奏交響曲のヴィオラはツェートマイヤーの妻であり、ツェートマイヤー四重奏団におけるヴィオラ奏者でもあるルース・キリウス(Ruth Killius 1968-)。 とても清廉で清潔感ただよう演奏だ。モーツァルトがこれらの作品を書いたのは協奏交響曲を除けば1773年から75年にかけてで、若きモーツァルトの、ロココ的な軽快優美な曲調が溢れている。ツェートマイヤーの音色は暖かくも繊細で、フレージングも自然な細かさを伴う。全般に、情緒を大きく育むような雰囲気はなく、徹底してスタイリッシュであり、緩徐楽章においても、かなりさっぱりとした味わいになっている。 第3番や第4番の終楽章における急速ぶりも、とてもサラサラと流れている。ときおり甘味をもたらすニュアンスを差し挟むのだけれど、全般に淡い色調の中で、そのようなアクセントは、結構意図的な印象で聴き手に伝わるところがあるだろう。 傑作として知られる協奏交響曲は、転調によって織りなされる感情の表現がとても清潔に感じられるから、ある意味まったく嫌みのない演奏だし、人によっては味わいが薄いと感じるかもしれない。この曲の第2楽章は深い憂いを秘めた音楽だが、ツェートマイヤーの演奏はとてもすっきりしていて、容易に感情的にならない大物っぷりを思わせる。かといって決して無機的ではなく、甘味と暖かみを備えている。キリウスとの信頼関係は、いまさら言うまでもないだろう。 ツェートマイヤーの指揮とブリュッヘンの指揮に、大きな違いは感じないが、それはこれらの楽曲が、雄弁さと異なった自然な素朴さに立脚しているためだろう。 休みの日のお昼過ぎに流しておくと、心地よい時が得られるでしょう。 |
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ヴァイオリン協奏曲全集 vn: クレーメル クレーメル指揮 クレメラータ・バルティカ レビュー日:2020.8.8 |
★★★★☆ クレーメルの知的挑戦を感じさせるアルバムだが・・
クレーメル(Gidon Kremer 1947-)のヴァイオリン独奏と指揮、クレメラータ・バルティカの演奏による、モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)のヴァイオリン協奏曲全集。2006年のザルツブルク音楽祭におけるライヴ録音。収録内容は以下の通り。 【CD1】 1) ヴァイオリン協奏曲 第1番 変ロ長調 K.207 2) ヴァイオリン協奏曲 第2番 ニ長調 K.211 3) ヴァイオリン協奏曲 第3番 ト長調 K.216 【CD2】 4) ヴァイオリン協奏曲 第4番 ニ長調 K.218 5) ヴァイオリン協奏曲 第5番 イ長調 K.219 「トルコ風」 モーツァルトの5つのヴァイオリン協奏曲は、いずれもモーツァルトが19歳のときに作曲された。それは、まだ数々の名品を世に生み出す前のことである。それゆえに、その後の作品のような精神的な深みは感じがたいものであるが、しかし、第4番と第5番は、その明朗な旋律性ゆえに、広く親しまれる作品となっているだろう。 だから、これらの楽曲において、名演と称されるものは、おおむね、その古典的な明朗性を美しくしなやかに響かせたものたちである。 わざわざこういうことを書いたのは、このクレーメルの演奏が、当該曲集の名演たちと比べて、ずいぶん異なるスタンスをとっているためである。クレーメルの演奏は優美さを追求したものではなく、ときにキツイ、強い音も駆使しながら、自らの手法を積極的に織り込んだものである。音色も、美しさより、厳しくかつ斬新なものを感じさせる部分が多い。重音の激しさ、オーケストラのトゥッティの硬さなどに、その意趣性が強く感じられる。 クレーメルはフレーズに柔らか味を与えることより、鋭角的な刻みをもたらすことを優先している。オーケストラとの意思疎通は高く、両者の表現の方向性は、こまかく整合性が得られていて、結果としてエネルギッシュな力強さを獲得している。第1番や第3番の第1楽章にその特徴は強く表れているだろう。第4番では、積極的なアーティキュレーションの演出があり、それはある意味モーツァルトらしさとは異なる味わいとも言える。クレーメルという演奏家の主張の強さが、ここまで支配的な印象をもたらすことも驚きである。第5番の第2楽章でも、クレーメルはシームレスな手法はあえて取らずに、流れに区切りをつけるような音楽を導く。 モーツァルトの音楽において、その特徴としてよく用いられる「無垢」という表現があり、実際私はいかにもモーツァルトの音楽を形容するのにふさわしい単語だと思っているが、この演奏は、あえてそこに一石を投じるという以上の投げかけがあると感じる。ある意味、クレーメルから聴き手への知的な挑戦でもあると感じる。そこにどれくらいの愉悦を感じるかという点が好悪の分かれ目であろう。 私は、なかなか面白く聴き、飽くこともなかったが、どうしても違和感のようなものを持ってしまうところもあった。クレーメルという芸術家の先鋭的な感性に、私が追い付いていないだけなのかもしれない。というわけで、これらの曲集を聴くときは、つい他の盤に手が伸びがちである。 |
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モーツァルト ヴァイオリン協奏曲 第5番「トルコ風」 R. シュトラウス 家庭交響曲 vn: ズーカーマン アシュケナージ指揮 ベルリン・ドイツ管弦楽団 レビュー日:2008.4.27 |
★★★★★ 典雅さと真摯さに満ちたモーツァルトとR.シュトラウス
アシュケナージがベルリン・ドイツ管弦楽団を指揮したライヴ音源がauditeレーベルから発売された。収録曲はモーツァルトのヴァイオリン協奏曲第5番(ヴァイオリン独奏:ピンカス・ズーカーマン)とR.シュトラウスの家庭交響曲。前者が98年、後者が96年の録音となる。 アシュケナージが指揮したモーツァルト録音と言うと、フィルハーモニア管弦楽団と弾き振りで録音したピアノ協奏曲全集があり、その管弦の気品ある歌が私には強く残っているが、それ以外で聴くのは初めてである。しかもズーカーマン(デッカへのシューベルトのピアノ三重奏曲等の録音がある)との顔合わせだから興味は尽きない。 演奏は瑞々しく、ヴァイオリンの典雅な響きと、オーケストラの柔らかなコントロールがあいまって、非常に美麗で流れのよい音楽になっている。これだけの内容であれば、他のモーツァルトの協奏曲と合わせてセッション録音してもよかったのではないだろうか。真摯で格調の高いモーツァルトだ。 R.シュトラウスの「家庭交響曲」はシュトラウスの熟達した管弦楽書法が堪能できる名品であるが、意外に録音点数が少ない。アシュケナージはこのライヴの翌年にチェコフィルと正規録音している。交響詩「ドン・ファン」とカップリングされたそのアルバムは私の愛聴盤となっているが、こちらも今ではカタログから消えてしまっているようだ。これほどの録音が入手できない状況はもどかしいが、それだけに今回のライヴ録音でラインナップが再び充実するのは歓迎されるところだ。 演奏スタイルはほぼチェコフィルとのものに近いが、アダージョ部分では当盤の方がややテンポを落とし、しっとりと歌い上げている。ライヴならではの感情の入った表現で、これはこれで好ましい。細やかな管弦楽書法を克明に描き出し、多彩なパレットにより描かれたシュトラウスである。終結部の華やかさは、開放感に溢れていて、豪華でありながら滋味を帯びる。 なお楽曲の前後で拍手が収録されているが、それぞれチャートを分ける良心的な編集であるため、これをカットしての再生も容易になっている。 |
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ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲 ヴァイオリンと管弦楽のためのロンド K.373 2つのヴァイオリンのためのコンチェルトーネ K.190 vn: フィッシャー vn,va: ニコリッチ クライツベルク指揮 オランダ室内管弦楽団 レビュー日:2013.9.17 |
★★★★★ モーツァルトの音楽の素晴らしさを、自然に、活力豊かに引き出した名演
ユリア・フィッシャー(Julia Fischer 1983-)のヴァイオリン、ヤコフ・クライツベルク(Yakov Kreizberg 1959-2011)指揮、オランダ室内管弦楽団の演奏で、モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozar 1756-1791)の以下の楽曲を収録。 1) ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲 変ホ長調 K.364 2) ヴァイオリンと管弦楽のためのロンド ハ長調 K.373 3) 2つのヴァイオリンのためのコンチェルトーネ ハ長調 K.190 1)のヴィオラ及び3)の第2ヴァイオリンをゴルダン・ニコリッチ(Gordan Nikolic 1968-)が務める。また3)で、独奏楽器として登場箇所のあるオーボエはハンス・メイヤー(Hans Meyer)、チェロはヘレ-ヤン・ステヘンハ(Herre-Jan Stegenga)が担当。2007年の録音。 まず、結論から言ってしまおう。本当に素晴らしい、ステキなアルバムである。私はこのディスクを最近買って、それから何度も繰り返いし聴いているのだけれど、なぜ発売直後に買わなかったのだろう?と自問自答してしまうくらいに素晴らしい。こぼれるようなモーツァルトの魅力に溢れる、とってもチャーミングで、しかも高い気品を感じる演奏である。 ドイツのヴァイオリニスト、ユリア・フィッシャーは、1995年のユーディ・メニューイン国際コンクールでの優勝をはじめとする数々の輝かしいコンクール歴を経て、2006年に23歳という若さで、フランクフルト音楽・舞台芸術大学の教授となった。なんでもこの年齢での教授職への就任は、ドイツの最年少記録らしい。それはそれとして、演奏そのものが「天賦の才」と言いたくなるような、自然で明朗・純朴な音楽性に満ちている。そのイメージはモーツァルトの音楽が持つ無垢性に呼応するものだ。 最初に収録されたK.364は「協奏交響曲」の名が与えられている。複数の独奏楽器が登場する協奏曲でありながら、交響曲的な複層的な音響と様式性を併せて追及した音楽と考えられる。バロック期の合奏協奏曲を思わせる部分があるが、モーツァルトの音楽は、これを飛躍的に発展させ、旋律の自在性、管弦楽の主張の豊かさを盛り込み、天才の霊感に満ちた新たな傑作へと昇華させた。じっさい、私は、このK.364という作品は「モーツァルトらしさ」が最も端的に表れた作品の一つだろうと思う。 この演奏では、天を舞うように旋律を謳歌するヴァイオリンと、(半音高く調弦されている)落ち着いた音型を保つヴィオラが、見事な応答を繰り返して、聴き手をこよない幸福感へ誘ってくれる。第2楽章のさりげない短調の旋律に秘められた深い哀しみの情緒は、いつ聴いても感動的だが、フィッシャーのヴァイオリンの麗しいほどの美しい響きは、情緒を存分に湛えながら、高貴性を宿していて、聴き手に神々しい瞬間をもたらす。 クライツベルクの素晴らしい指揮にも触れておこう。この指揮者は、大指揮者セミヨン・ビシュコフ(Semyon Bychkov 1952-)の弟という肩書をされるくらいで、それほど注目を集めた存在ではなかったかもしれないが、オーケストラから豊饒な響きを引き出す優れた指揮者だった。2011年に若くして癌のために亡くなったのは痛恨だ。本盤では、オーケストラから活力に溢れる音楽を引き出している。管弦楽が強奏する箇所でも、決して大味にならず、それでいて力強い主張に満ちている。協奏交響曲でヴァイオリンの主題に応えるホルンのふくよかで天国的とも言える響きに聴きほれてしまう。 「ヴァイオリンと管弦楽のためのロンド」は、モーツァルトの5つの番号付のヴァイオリン協奏曲より後に書かれた作品で、充実した内容を持つ名品で、本盤ではフィッシャー自作のカデンツァを聴くことができる。 「2つのヴァイオリンのためのコンチェルトーネ」はモーツァルト18歳の意欲作。こちらも現在では「協奏交響曲」の一つと考えられることが多い。オーボエ、チェロも独奏楽器の様に活躍し、時にはチェロ協奏曲のように聴こえる箇所もある。こちらもモーツァルトの天才性が全編に顕れた楽曲で、旋律の自然な美しさ、健やかで前進性に溢れた展開力、豊かな歌謡性に満ち溢れている。当盤の演奏では、2つのヴァイオリンの見事さは言うまでもないが、オーボエ、チェロの音色も自然発揚的な情感に満ちていて、協奏曲的な響きのバランスに絶妙の配意がある。明朗快活なテンポで、高揚感に溢れた音楽に仕上がっている。 モーツァルトの素晴らしさを心行くまで堪能できるアルバムだ。 |
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クラリネット協奏曲 ピアノと管楽器のための五重奏曲 cl: ドミトリー・アシュケナージ アシュケナージ指揮 チェコ・フィルハーモニー管弦楽団 ob: オーイセン fg: クレバー hrn: ロース レビュー日:2009.11.9 |
★★★★★ 「ピアノと管楽器のための五重奏曲」はなんと42年振りの再録音
モーツァルトのクラリネット協奏曲とピアノと管楽器のための五重奏曲という魅力的な組み合わせ。前者はクラリネット独奏がドミトリー・アシュケナージ、アシュケナージ指揮 チェコフィルの演奏で2002年の録音。後者が今度はアシュケナージがピアノ、ドミトリー・アシュケナージのクラリネットに、フランツィスカ・ファン・オーイセンのオーボエ、オティス・クレバーのファゴット、マルティン・ロースのホルンで、2008年の録音。 アシュケナージは指揮者としてモーツァルトの交響曲などほとんど振らないが、協奏曲はよく振る。ピアノ協奏曲は弾き振りで全集を録音しているし、ズーカーマンとのヴァイオリン協奏曲第5番も素晴らしい録音だった。そして今度はチェコフィルを振ってのクラリネット協奏曲である。 クラリネット独奏はアシュケナージの子息であるドミトリー・アシュケナージである。すでに世界的に活躍している音楽家であるが、精緻で細やかな演奏をする。特に低音部の安定した粒立ちの良い音色が鮮やかで、曲想の幅を広げてくれる(人によってはクリア過ぎるかもしれないが)。アシュケナージが指揮したチェコフィルが高雅でありながら引き締まった音色を呈していて、独奏者の個性をよくフォローしている。有名な2楽章も安易に情緒的に逃げることなく、端麗辛口と言った趣。チェコフィルの音色も現代的なフォルムが美しい。 ピアノと管楽器のための五重奏曲はアシュケナージには2度目の録音になる。一度目はロンドン管楽合奏団との共演で、デッカへ1966年に録音したものだ。だから、今回の録音はなんと42年ぶりの再録音ということになる。アシュケナージの1回目の録音は室内楽的な緊密さと色彩感の表出の見事な名演で、私の愛聴盤となっているが、今回の録音は非常に精緻。さらに必要な要素だけを純化させ結晶化させたような音楽。ピアノも残響を抑え目にして、クリアカットな印象だ。他の管楽奏者もシャープな音色で、質の高い録音と併せ湧水の清流のようなモーツァルトになっている。あるいはこのシンプルさこそモーツァルトの本質の一つかもしれない。一回目の録音の楽しい華やかさとは別の側面にスポットライトを当てた録音だと思う。 |
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クラリネット協奏曲 歌劇「皇帝ティートの慈悲」 K.621より序曲 アリア「私は行くが、君は平和に」「夢に見し花嫁姿」 2つのクラリネットと3つのバセット・ホルンのためのアダージョ 変ロ長調 K.411 cl: ホープリッチ MS: ディドナート ブリュッヘン指揮 18世紀オーケストラ レビュー日:2015.10.29 |
★★★★★ バセット・クラリネットの「形状面も含めた復元」を踏まえた再録音
モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)の名曲、「クラリネット協奏曲 イ長調 K.622」は、モーツァルトと親交の深かったクラリネット奏者、アントン・シュタードラー(Anton Stadler 1753-1812)のために書かれた。ただ、シュタードラーの使用していた楽器は、シュタードラーが自身のため、特別にテオドール・ロッツ(Theodor Lotz 1748-1792)と作製した「バセット・クラリネット」と呼ばれる楽器である。この楽器は現在まで主流となったイ調のクラリネットより低音が4音多い。バセットはバスの意味である。 そのため、モーツァルトが書いたクラリネット協奏曲は、本来クラリネットが奏することができない低音を含んでいたのだが、モーツァルトはきちんと通常のクラリネット用のスコアも残していて、現在ではそれが通常版となる。シュタードラーが愛用した特注楽器であったバセット・クラリネットは、紛失し、その形状が伝えられなかったことから、その後、いくつかの方法で、当該音域を復元したクラリネットが作製され、バセット・クラリネット用の楽曲を奏する際に用いられてきた。 しかし、1992年に、アメリカの音楽学者パメラ・ポーリン(Pamela Poulin)が、1794年3月にラトビアのリガで行われたシュタードラーのコンサートのプログラムを発見し、そこにバセット・クラリネットのイラストが掲載されてあったことから、機能だけではなく形状も含めた楽器の復元が可能となった。 そして、このアルバムには、そのイラストに基づいてあらためて復元されたバセット・クラリネットを用いて、ブリュッヘン(Frans Bruggen 1934-2014)指揮、18世紀オーケストラによる演奏で、リガで行われたプログラムそのままの楽曲が収録されている。演目はすべてモーツァルトのもので、以下のような内容だ。 1) クラリネット協奏曲 イ長調 K.622 2) 歌劇「皇帝ティートの慈悲」 K.621 より 序曲 3) 歌劇「皇帝ティートの慈悲」 K.621 より アリア「私は行くが、君は平和に」 4) 歌劇「皇帝ティートの慈悲」 K.621 より アリア「夢に見し花嫁姿」 5) アダージョ 変ロ長調 K.411(2つのクラリネットと3つのバセット・ホルンのための) 6) フリーメイソンのための葬送音楽 ハ短調 K.477 録音は2)が1986年、6)が1998年、他は2001年となっている。バセット・クラリネットの独奏は18世紀オーケストラの首席クラリネット奏者であるエリック・ホープリッチ(Eric Hoeprich 1955-)で、彼は別の曲ではバセット・ホルンも担当している。また2つのアリアでは、メゾソプラノ独唱をジョイス・ディドナート(Joyce DiDonato 1969-)が務める。 ホープリッチとブリュッヘンによるクラリネット協奏曲の録音は、1985年にも行われていた。私はこの旧録音も持っているが、素晴らしい録音だったので、長らく愛聴してきたのだが、その当時使用されていた楽器はバセット・ホルンのような形状のものだったらしい。 一方で、当録音で用いられているバセット・クラリネットは、管の先に球状のベルが取り付けられたような形状。それでも完全に当時の楽器の音色が復元されたわけではないのだけれど、とても憂いのある美しい響きで、多くの人を幸福な気持ちにさせるものだと思う。当然のことながら、スコアも、モーツァルトが書いたオリジナルの低音を含んだものを用いていて、各楽章で行われたオクターブの変更や、それに付随した前後の部分の改変が成される前の「原型」を聴くことが出来る。演奏は、特有の甘味のある音色と、ブリュッヘンのソフトなバックがあいまって、とても優しい柔らかい印象のもの。オーケストラの適度な奥行きのある表現も見事。 歌劇「皇帝ティートの慈悲」は、この時期のモーツァルトのものとしては、物足りないところのある作品だが、しかし、セストのアリア「私は行くが、君は平和に」は圧倒的に有名で音楽的内容も濃い。ディドナートの過不足ない歌唱で、オーケストラとよく溶け合った響きを聴くことができる。適度に残響の豊かな録音も好ましい。「2つのクラリネットと3つのバセット・ホルンのためのアダージョ」は、これらの楽器の音色を堪能できる一品で、未聴の人にはぜひ楽しんでほしい逸品。 |
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クラリネット協奏曲 オーボエ協奏曲 ファゴット協奏曲 cl: コーエン ob: マック fg: マックギル ドホナーニ指揮 クリーヴランド管弦楽団 レビュー日:2016.2.24 |
★★★★★ 両端に収録された2曲が名演。ドホナーニによる、モーツァルトの管楽器のための協奏曲。
クリストフ・フォン・ドホナーニ(Christoph von Dohnanyi 1929-)指揮、クリーヴランド管弦楽団によるモーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)の以下の3つの管楽器のための協奏曲を集めたアルバム。 1) クラリネット協奏曲 イ長調 K.622 2) オーボエ協奏曲 ハ長調 K.314(285d) 3) ファゴット協奏曲 変ロ長調 K.191(186e) 1)は1991年、2)は1992年、3)は1993年の録音。 独奏は、当時のクリーヴランド管弦楽団の首席奏者たちが務めている。すなわち、クラリネットがフランクリン・コーエン(Franklin Cohen 1943-)、オーボエがジョン・マック(John Mack 1927-2006)、ファゴットがデイヴィッド・マックギル(David McGill)となる。 演奏は管弦楽団の輝かしく、揃ったサウンドに支えられたもので、ドホナーニらしい堅牢さを背景に、モーツァルトの楽曲を表現したもの。 素晴らしいのはコーエンが独奏を務めたクラリネット協奏曲。コーエンはアシュケナージ(Vladimir Ashkenazy 1937-)が、このオーケストラを振っていた時代に、室内楽でも共演していた人物で、ブラームスのクラリネット・ソナタなど美しい録音があったが、ここでも、とても麗しく、品の良い甘さを湛えた音色が抜群に効いている。音程のなめらかな移り変わり自体の美しさにも魅了されるし、オーケストラとのやりとりも、愉悦性と幸福感に満ちていて、この楽曲の名曲性を高らかに歌い上げた美演と言って良いだろう。 次に収められたオーボエ協奏曲については、現在入手可能な様々な音源に比較すると、ジョン・マックの技巧は十分に高いものとは言い難く、音色も刺々しさがあって、装飾音もぎこちないところがある。オーケストラと、楽曲としての体裁はある程度整えているけれど、この楽曲を聴く喜びという点では、物足りなさの残るところがあるだろう。 末尾のファゴット協奏曲は、再び魅惑的な響きで、私は楽しむことができた。マックギルもコーエン同様に、モーツァルトから、甘味を引き出した演奏であり、モーツァルトの楽曲に、相応しい色づきを与えている。ドホナーニの指揮ともども、楽器の音色と旋律の美観を聴き手に届けてくれる。 |
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フルート協奏曲 第1番 第2番 フル-トとハープのための協奏曲 fl: ガロワ アンドレアソン指揮 スウェーデン室内管弦楽団 hp: ピエール レビュー日:2017.7.21 |
★★★★★ 木製フルートを自在に操った演奏です
フランスのフルート奏者、パトリック・ガロワ(Patrick Gallois 1956-)と、スウェーデン室内管弦楽団によるモーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)のフルート協奏曲集。ガロワ自身が指揮も行っているが、同楽団のコンサート・マスターを務めるヴァイオリニスト、カタリナ・アンドレアソン(Katarina Andreasson 1963-)が副指揮者を兼任する形での演奏。収録曲は以下の通り。 1) フルート協奏曲 第2番 ニ長調 K.314 (285d) 2) フルートとハープのための協奏曲 ハ長調 K.299 3) フルート協奏曲 第1番 ト長調 K.313 (285c) 2)のハープ独奏は、フランスのハープ奏者ファブリス・ピエール(Fabrice Pierre1958-)。2002年の録音。 本演奏の特徴として、ガロワが木製のフルートを用いていること、オーケストラはチェンバロを含む編成であるが、いわゆるピリオド楽器ではないこと、また第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンの配置を通常と逆にしていることなどがある。 中でも注目されるのは、ガロワ自身がモーツァルトに最適と胸をはる木製フルートの音色である。聴いてみると、意外なほど光沢がって、それほど木目調という感じでもないのだけれど、柔軟ななめらかさを感じさせる音色で、言われてみるとたしかに天衣無縫というか、自在性を感じさせる音色である。 ガロワは、この楽器の特性を踏まえて、豊かな装飾音を交えた演奏を繰り広げる。独特の即興的豪華さは、決して音楽の論理的必然から導かれたものではないのだけれど、優雅で、かつ他の同曲の演奏に比べても、聴き手の感情への訴えかけが、積極的な印象をもたらす。そのことが、聴き手にとって違和感となるか、悦楽となるかは、それこそあなた次第といったところだろうか。 私個人的には、これらの楽曲に新しい何かを加えるという意味で、取組としてわかり易いし、結果として、全体的にうまくまとまっていると感じられる。オーケストラは溌剌としたリズムをこちらも積極的に展開しており、そういった意味で、演奏の特徴が明瞭な第2番を冒頭に収録したコンセプトとの合致を感じる。 フルートとハープのための協奏曲では、ハープが通常よりくっきりと聴こえており、こちらもしっかりと主張を感じさせてくれる演奏と言えるだろう。 なお、いずれの楽曲でも、奏者自作のカデンツァが使用されている。 |
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フルート協奏曲 第1番 第2番 フルートと管弦楽の為のアンダンテ フルートと管弦楽の為のロンド fl: グラーフ グラーフ指揮 ローザンヌ管弦楽団 レビュー日:2011.2.17 |
★★★★★ フルート楽曲の王道中の王道と言える録音でしょう。
モーツァルトのフルートと管弦楽のための作品を収録したアルバム。1984年の録音。ペーター=ルーカス・グラーフ(Peter-Lukas Graf 1929 - )はローザンヌ室内管弦楽団を自ら指揮してこれらの楽曲を1964年に一度録音している。 グラーフはスイス生まれ。20世紀最高のフルート奏者と言われている。私が音楽を聴き始めたころ、グラーフとランパルという2大フルート奏者がいて、古典的なグラーフ、現代的なランパルというような対比があった。今ではもちろん他にもオリジナル楽器を含む様々な録音があって、価値観も選択肢も多様になったと思うけど、それでもこのグラーフの演奏は人気が高いと思う。 当盤に収録されているモーツァルトの楽曲についてまとめておきたい。ここに収録された4曲のうち、オリジナルの作品はフルート協奏曲第1番とフルートと管弦楽のためのアンダンテのみである。「アンダンテ」は、これらの楽曲をモーツァルトに依頼したフェルディナン・ド・ジャンが、協奏曲第1番の第2楽章の別版を要求し、それに応じてモーツァルトが書いたもの。 一方で、フルート協奏曲第2番はオーボエ協奏曲を編曲したもので、「フルートと管弦楽の為のロンド」は「ヴァイオリンと管弦楽のためのロンドハ長調K373」を編曲したもの。それなので、フルートの音域をすべて使った、フルートらしさを満載した名作としては何と言っても協奏曲第1番を挙げることになる。モーツァルトがフルートという楽器を気に入っていなかったのは有名な話で、これは当時の楽器の音程の悪さが要因のようだけれど、ド・ジャンの好条件の依頼にも作曲はあまり気乗りしなかったと伝えられる。それでいてこの「名曲」を生んでしまうあたり、天才の「底のなさ」を推し量るものだと思う。 グラーフのフルートの音色はとても落ち着いている。旧録音では、グラーフの指揮スタイルがややソフト・フォーカス気味だったのだが、この84年の録音では、(録音技術の進展ももちろんあるのだけれど)レッパードの指揮がむしろシャープな面を持っているため、フルート・ソロの音色の特徴がよりはっきりと出ている。また、低音の安定感も特筆できる。協奏曲第2番は、原曲のオーボエ協奏曲が名曲なだけに、フルートならではの音の抜ける感じを強調したいところだと思うが、グラーフは特にこだわりを持たず、落ち着いた風格を感じる音楽に仕立てていて、まるではじめからフルートのために書かれた音楽のような自然な安らぎを感じさせてくれる。 |
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モーツァルト フル-トとハープのための協奏曲 シュポア ヴァイオリンとハープのためのコンチェルタンテ 第1番 fl: グラーフ hp: ホリガー vn: シュネーベルガー グラーフ指揮 ローザンヌ室内管弦楽団 イギリス室内管弦楽団 レビュー日:2011.2.17 |
★★★★★ 名作曲家が叶えた“デュエット願望”コンチェルト
(1) モーツァルト フル-トとハープのための協奏曲 (2) シュポア ヴァイオリンとハープのためのコンチェルタンテ 第1番 を収録しているが、それらの演奏・録音データは以下の通り。 (1) fl: グラーフ hp: ホリガー グラーフ指揮 1969年録音 ローザンヌ室内管弦楽団 (2) vn: シュネーベルガー hp: ホリガー グラーフ指揮 1974年録音 イギリス室内管弦楽団 両曲ともジャンルとしては珍しい「ダブル協奏曲」だ。モーツァルトの名曲はいざしらず、シュポア(Louis Spohr 1784-1859 日本語でシュポーアとも表記)については解説が必要だと思う。シュポアはドイツの作曲家で、ヴァイオリニスト。1784年生まれなので、生年はウェーバーやパガニーニに近い。多作家で9つの交響曲、15のヴァイオリン協奏曲、4つのクラリネット協奏曲をはじめとする作品群があるが、その中で特徴的なのは「ヴァイオリンとハープのため」の作品である。これはシュポアの妻がハープ奏者であったことから、二人で演奏するために多くの曲を書いたためで、いかにも愛妻家を印象付けるものだ。 それで、ここに収録されているヴァイオリンとハープのためのコンチェルタンテ第1番は、本当に幸福感に溢れた曲で、時代背景を感じさせるものだ。調性は古典的で、シンプルな旋律は親しみ易いが、仲のいい夫婦が30分近く演奏すると、観ていて「もうわかりました」と言いたくなるかもしれないが(笑)。まあ、それはそれとして気軽に楽しく聴ける音楽で、深みはないけれど、有線放送で流れていたりすると、無難でとてもしっくりきそうな音楽。シュネーベルガーとホリガーの射を得た掛け合いも楽しい仕上がりになっている。 そう考えると、モーツァルトの名曲も、“依頼主の魂胆”は一緒で、フルート演奏を趣味にしていたギーヌ公が「ハープを弾く女の子とデュエットしたい」ということでモーツァルトに楽曲を依頼したもの。「カラオケかよ!」と言いたくなるが、それでもこんな名曲が誕生してしまうのです。 生気に溢れた両端楽章とともに、作曲動機にうってつけな第2楽章の美しいアンダンティーノが挟まっていて、聴きどころは満載。管弦楽は弦五部にホルンとオーボエを加えただけの簡素なものだが、第2楽章ではホルン、オーボエの出番がなく、モーツァルトもフルート、ハープといった当時まだ発達未熟な楽器の競演方法にそれなりに悩まされたと思われる。結果として出来上がった楽曲は、交響曲のような恰幅のあるものではなく、あくまでソロ楽器に焦点を絞ったもので、モーツァルトの名曲群の中でも異色作となった。こちらもグラーフとホリガーの演奏は歴史的名録音に相応しい。特に音色が高貴でありながら、落ち着いていて、過剰な主張をせずともしっかりとした存在感があるのがさすがで、今もって私にとって、この曲の決定的録音となっている。 |
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ホルン協奏曲 第1番 第2番 第3番 第4番 hrn: ジョリー バーヴィス オルフェウス室内管弦楽団 レビュー日:2020.8.5 |
★★★★☆ オルフェウス室内管弦楽団のスタイルが活きたモーツァルトのホルン協奏曲
1972年にアメリカで結成されたオルフェウス室内管弦楽団は「指揮者をおかない合奏団」としても有名だ。指揮者をおかないという制約的なスタイルにもかかわらず、ジャンルは広く、概して清潔で健康的な演奏を繰り広げる。80年代から90年代にかけて、グラモフォン・レーベルから数多くの録音をリリースしていた。当盤もその1枚で、モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)のホルン協奏曲、全曲が収められている。収録曲の詳細は以下の通り。 1) ホルン協奏曲 第1番 ニ長調 K.412 2) ホルン協奏曲 第2番 変ホ長調 K.417 3) ホルン協奏曲 第3番 変ホ長調 K.447 4) ホルン協奏曲 第4番 変ホ長調 K.495 ホルン独奏は、第1番と第4番がデヴィッド・ジョリー(David Jolley 1948-)、第2番と第3番がウィリアム・パーヴィス(William Purvis 1948-)と、これらの楽曲の録音には珍しい「分業制」を敷いている。1987年の録音。 オルフェウス室内管弦楽団らしい、ストレートな音楽性が行き渡った演奏だろう。2人の奏者ではジョリーのホルンの方がより華やかで存在感を感じさせるが、それは第1番、そして第4番という楽曲がもたらす印象と重複してのことなのかもしれない。逆に言うとパーヴィスのホルンは奥ゆかしさがあって、室内楽的な響きをもたらしているという感じがする。 ただ、いずれにしても、指揮者を置かないというスタイルもあって、クセやアヤのない、インテンポ主体でトントンと進んでいくモーツァルトである。そして、これらの曲集では、そのスタイルに特に過不足を感じることもない。おおらかに楽しめる一枚だ。 中でもやはり第1番が魅力的。典雅で明朗な響きが好ましいというだけでなく、ジョリーのホルンが与える細やかな明暗の印象が、各所でほどよく聴いていて、とても心地よい。第4番ではホルンという楽器の表現力を最大限発揮させたと感じられるカデンツァが、たのもしい存在感を示しており、聴後の印象を良い方向に作用させている。 第2番と第3番では、バランスのとれた聴き味の良さが指摘できる。ただ、これが特徴であるというほど強い印象まではないかもしれない。弦楽合奏も、少し響きが硬いところを残すのも、気になるところはある。それでも、良演奏であることは変わりなく、健やかな味わいはこれらの作品にふさわしいだろう。 グラモフォンのこの時代の録音らしく、克明で陰影がはっきりしている。輪郭がややソリッドに感じられるところを残すが、これも問題として指摘するようなレベルではなく、くつろいで楽しめる録音。 |
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モーツァルト ピアノと管楽器のための五重奏曲 ベートーヴェン ピアノと管楽器のための五重奏曲 ホルン・ソナタ p: アシュケナージ ロンドン管楽合奏団(cl: ブライマー ob: マクドナー hrn: シヴィル fg: ウォーターハウス) hrn: タックウェル レビュー日:2007.6.29 |
★★★★★ 天性のメロディストたちの極上の音楽です
ピアノ、クラリネット、オーボエ、ホルン、ファゴット。この一風変わった編成の室内楽に、モーツァルトとベートーヴェンがそれぞれ名曲を遺した。もちろん、ベートーヴェンは13年前にウィーンで初演されたモーツァルトの魅力あふれる作品を知っていて、このジャンルに挑んだのである。二つの名曲を聞いていると、この5つの楽器の調和がことのほか美しいことに驚嘆させられる。ひょっとすると、よく一般的にあるピアノ三重奏曲(ピアノ、ヴァイオリン、チェロ)より、よほど相性がいいのではないだろうか。それともそれこそが天才たちのなせる技なのだろうか。 モーツァルトの曲は、作曲当時からモーツァルト自身がたいへん気に入っていたものだ。この作曲家の「管楽器」に対する扱いの卓越ぶりは、いまさら言うに及ばずの感があるが、それにしても素晴らしい。特に、比較的新しい楽器であるクラリネットを、この時代にここまで自由に表現できる作品を書いた人はいなかったのではないだろうか?ブライマーのクラリネットがまたこよなくいい音を出しており、モーツァルトの、それこそ天から降りてきたとでも形容しようのない旋律を響かせる。 ベートーヴェンの曲は、彼がメロディー・メーカーとしても、他の作曲家をはるかに凌駕する存在であったことを示すものだ。特に第2楽章の美しさは絶品だ。ホルンによって奏でられる哀愁豊かな旋律は万人の琴線に触れるものだと思う。 アシュケナージのピアノももちろんこのディスクの大きな魅力だ。本当にこの人は室内楽や協奏曲がうまい。まわりの奏者の出す音に、繊細に耳をそばだてて、それでいて、前に出るべきところはしっかりと出てくる。66年の録音だから、もう40年たつのにまったく古さを感じさせない。 併録せれているホルン・ソナタは、モーツァルトのヴァイオリン・ソナタのようにピアノが主導権を持った室内楽であるが、タックウェルのホルンも力強い響きで呼応しており、胸のすく快演となった。 |
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弦楽五重奏曲 第3番 第4番 東京四重奏団 va: ズーカーマン レビュー日:2009.11.28 |
★★★★★ 「弦楽五重奏曲」の編成を決定づけたモーツァルト名曲を名演で堪能。
東京四重奏団が、ピンカス・ズーカーマンをヴィオラ奏者に迎えて1991年に録音したもの。いきなりこのジャンルの歴史の話をすると、「弦楽五重奏曲」の創始者はボッケリーニである。ボッケリーニは実に125曲の弦楽五重奏曲を遺した。しかし、そのうち(ヴァイオリン×2、ヴィオラ×2、チェロ)という編成の曲は12曲のみで、他は(ヴァイオリン×2、ヴィオラ、チェロ×2)という編成である。モーツァルトは7曲の弦楽五重奏曲を書いたが、全て前者の編成である。以後、チェロ2つという編成で有名なものはシューベルトのものくらいで、他の高名な作品、ベートーヴェン(2曲)、メンデルスゾーン(2曲)、ブラームス(2曲)、ドヴォルザーク、ブルックナーは全てヴィオラが2つの編成である。(ドヴォルザークには、ヴァイオリン×2、ヴィオラ、チェロ、コントラバスの変則編成の作品77もある)。というわけで、この編成を決定的に有利に導いたのがモーツァルトであり、中でもこの第3番と第4番の2曲は名曲中の名曲で、後世の作曲家に大きな影響を与えたことは疑いようがないと思われる。 この時代の東京四重奏団の音色は、特有の乾いた柔らかさと、ほどよい質感がある。聴き込んでみると、きわめて室内楽的といえるサウンドだと思う。第3番の冒頭の軽やかなリズムの中登場する第1ヴァイオリンによる旋律。いかにもモーツァルトであるが、ここに過度に表情付けを施されると、「やり過ぎ」感が出てしまう難しいところだと思う。まさに冒頭の勝負どころだが、東京四重奏団の演奏はさり気なくこれをこなす。これがいいのである。ここまで「さり気なく」弾いているのに、音楽的な幅にいささかの不足も感じさせず、心地よくモーツァルトの無垢な音楽の世界に突入していく。 第4番は傑作中の傑作として知られる。高貴な哀しみを秘めたいわゆる「短調のモーツァルト」だ。東京四重奏団の演奏はこちらも自然で素朴な表情付けでありながら、深い色合いを持っていて、この作品の名曲性がひしひしと伝わってくる。ズーカーマンのヴィオラはすっかり溶け込んでいる。この頃の東京四重奏団とズーカーマンの音楽性の相性が抜群なことをあらためて認識させられる。 アルバンベルグ弦楽四重奏団とヴォルフによるスケールの大きな現代的快演や、ラルキブデッリによるオリジナル楽器による風雅な演奏とはまた別の、豊かさを感じる音楽が展開している。 |
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弦楽五重奏曲 第3番 第4番 アルティス四重奏団 va: シュニッツラー レビュー日:2011.11.1 |
★★★★★ 秋から冬に移ろい行く季節に聴きたくなる一枚
ウィーン・アルティス四重奏団(Artis-Quartet Vienna)によるモーツァルトの弦楽五重奏曲第3番K.515と第4番K.516。録音年は1990年頃と思われる。 ウィーン・アルティス四重奏団は、1980年にウィーン音楽大の学生が集まって結成した弦楽四重奏団で、第1ヴァイオリンがペーター・シューマイヤー(Peter Schuhmayer)、第2ヴァイオリンがヨハネス・マイスル(Johannes Meissl)、ヴィオラがヘルベルト・ケーファー(Herbert Kefer)、チェロがオットマール・ミュラー(Othmar Muller)というメンバー。全員が1960年前後の生まれで、本盤は、そこに1944年生まれのベテランのミヒャエル・シュニッツラー(Michael Schnizler)が第2ヴィオラとして加わり、録音されたもの。この弦楽四重奏団は、2001年にはフジ子・ヘミングとも共演していて、少し話題になった。 さて、モーツァルトのこの2曲はたいへん魅力的な作品である。以前もどこかで書いたと思うが、弦楽五重奏の編成について、(ヴァイオリン×2、ヴィオラ×2、チェロ)編成を優勢に導いた起点と言える作品であるとも思うし、それ以上に。モーツァルトの「室内楽」における大傑作に他ならない。 モーツァルトの音楽の魅力というのは、もう様々に語りつくされていることだけれど、私の場合、無垢ともよべる喜びの表現のなかに、時折潜む哀しい陰りのようなものに圧倒的に惹かれてしまう(これを「魔力」という)。そんな私にとって、このウィーン・アルティス四重奏団とシュニッツラーによる名盤も、モーツァルトの魅力をこよなく伝える逸品である。 彼らのアンサンブルは滋味に溢れる暖かい調子がベースであると思うが、旋律は思いのほか透明感を持って響き、浮き立つように鳴る。そのため、ちょっとした転調などで滲む様に表現される憂いが、ことのほか聴き手の琴線に響くのである。K.516は哀しい色合いが交錯する名曲なだけに、この効果があちこちで強く働きかけてきて、聴いていると、いよいよモーツァルトの世界に深く立ち入っていくような感慨に接する。 ウィーン・アルティス四重奏団と似た音色の弦楽四重奏団として、個人的には90年代のゲヴァントハウス弦楽四重奏団を思い浮かべるのだけれど、いかがだろうか? 特に秋から冬に移ろい行く季節に聴きたくなる一枚だと思う。 |
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弦楽五重奏曲 第3番 第4番 アルヴァン・ベルク弦楽四重奏団 va: ヴォルフ レビュー日:2019.3.14 |
★★★★★ 普遍的名演
アルバン・ベルク四重奏団に、ヴィオラ奏者のマルクス・ヴォルフ(Markus Wolf 1962-)が加わって、モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)の以下の2曲を収録したアルバム。 1) 弦楽五重奏曲 第3番 ハ長調 K.515 2) 弦楽五重奏曲 第4番 ト短調 K.516 1986年録音。 数々の名演を残したアルバン・ベルク四重奏団であるが、1981年から2005年までの間にメンバーの交代はなく、以下の顔ぶれであった。 第1ヴァイオリン ギュンター・ピヒラー(Gunter Pichler 1940-) 第2ヴァイオリン ゲルハルト・シュルツ(Gerhard Schulz 1951-) ヴィオラ トーマス・カクシュカ (Thomas Kakuska 1940-2005) チェロ ヴァレンティン・エルベン(Valentin Erben 1945-) アルバン・ベルク四重奏団は、この録音の後、1987年から90年にかけて、モーツァルトの第14番から第23番までの弦楽四重奏曲を録音していく。(メンバー交代前からの再録音含む) モーツァルトの弦楽四重奏曲群が、彼の他の作品群に比べて、外向的な性格を持っているとは言い難い一方で、この2曲の弦楽五重奏曲は、親しみやすい旋律の宝庫であり、音楽フアンにとっても、聴く機会が多いことは事実だろう。弦楽四重奏曲に先んじてこれらの楽曲を録音し、その演奏の見事さを広くアピールしてから弦楽四重奏曲群にとりかかるという手法は、妥当なものに思える。 もう、この名録音が登場してから30年以上が経過したわけだ。一点に絞って過去を振り返ると、月日がたつのは早いものだ、と感じるのは、誰しも一緒だろう。しかし、今聴いても、素晴らしいという感想は変わらない。 第3番の冒頭、快活なリズムにのって、音量豊かに音楽が始まる。音階のあとに続く第1ヴァイオリンのフレーズは、たっぷりした歌があるとともにスマートですみやかだ。この演奏を始めて聴いたとき、これが現代のモーツァルトか、と思ったものだが、今聴いても全然古めかしい感じはしない。「現代の」でもなんでもない、普遍的な素晴らしい名演だったのである。アルバン・ベルクの演奏の特徴は、まず音量の豊かさにある。非常にしっかりした強靭な音色。しかし、粗さはなく、輝きと温もりがある。それに加えて高い技術があり、それらのベースの上で、各奏者の緊密なやりとりがある。音楽はシャープで完璧性を感じさせるものとなるが、それは決して無機的機械的なものではなく、歌があり血が通っている。これほど完成度の高さを感じさせる演奏は、なかなかお目にかかれない。 第4番の悲劇的な性格は、アルバン・ベルクの表現を通じて、よりスケール感を感じさせる。スピードがありながらもシンフォニックで、全体的なパワーがあり、それが聴き手に積極的に働きかけてくる。重量感があるのだけれど、重いという感じがしない。重くても十分なパワーがあれば軽快なのである。この演奏にはそんな雰囲気を感じる。そして細やかに付せられる情緒は、典雅で、ウィーン的という形容を彷彿とさせてくれる。 特に感動的なのは、第4番の終楽章の序奏ではないだろうか。この時代の楽曲で、終楽章にこれほど深刻な諸相を感じさせる序奏をもった室内楽曲は、作曲当時異例のことだったに違いないが、その秘められた劇性と悲しみが、清澄かつ精緻に奏でられる。序奏が終わって長調の世界移行するとき、どこかこちらの世界に戻ってきたという安堵感につつまれる。アルバン・ベルクの演奏は、その対比が鮮烈だ。 |
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ホルン五重奏曲変ホ長調 K.407 ホルン協奏曲 第3番 ホルンのための12の二重奏曲 K.487より 第2番 第3番 第4番 第5番 第7番 第8番 第9番 第12番 歌劇「ポントの王ミトリダーテ」 K.87よりアリア「あなたから遠く離れて」 音楽の冗談 K.522 hrn: ズヴァールト ヴィーリンガ vn: デストリュベ スヴィールストラ va: モレーノ vc: アルベルト・ブリュッヘン cb: フラネンベルク S: マクファデン ブリュッヘン指揮 18世紀オーケストラ レビュー日:2015.11.6 |
★★★★☆ 現代最高のナチュラル・ホルン・テクニックが収録されています。
オーストリアのホルン奏者、トゥーニス・ファン・デァ・ズヴァールト(Teunis van der Zwart 1964-)のナチュラル・ホルンを中心とした、フランス・ブリュッヘン(Frans Bruggen 1934-2014)と18世紀オーケストラ、及びその団員によるモーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)のホルンのための作品を中心としたアルバム。2006年から08年にかけて録音された音源を集めて編集している。その収録内容は以下の通り。 1) ホルンのための12の二重奏曲 K.487より 第8番 アレグロ 2) ホルン五重奏曲変ホ長調 K.407 3) ホルンのための12の二重奏曲 K.487より 第7番 アダージョ 4) ホルンのための12の二重奏曲 K.487より 第2番 メヌエット(アレグレット) 5) 歌劇「ポントの王ミトリダーテ」 K.87 第2幕より シーファレのアリア「あなたから遠く離れて」 6) ホルンのための12の二重奏曲 K.487より 第3番 アンダンテ 7) ホルンのための12の二重奏曲 K.487より 第12番 アレグロ 8) ホルン協奏曲第3番変ホ長調 K.447 9) ホルンのための12の二重奏曲 K.487より 第9番 メヌエット 10) ホルンのための12の二重奏曲 K.487より 第5番 ラルゲット 11) 音楽の冗談 K.522 12) ホルンのための12の二重奏曲 K.487より 第4番 ポロネーズ また、アルバム中で独奏者として参加している楽団員は以下の通り。 ナチュラル・ホルン: エルヴィン・ヴィーリンガ(Erwin Wieringa 1974-) vn: マルク・デストリュベ(Marc Destrube) vn,va: スタース・スヴィールストラ(Staas Swierstra) va: エミリオ・モレーノ(Emilio Moreno) vc: アルベルト・ブリュッヘン(Albert Bruggen) cb: ロベルト・フラネンベルグ(Robert Franenberg) 5)のソプラノ独唱はラロン・マクファデン(Claron McFadden 1961-) 収録曲のうち、5)と11)は、モーツァルトと親交の深かったホルン奏者ヨーゼフ・ロイドゲープ(Joseph Ignaz Leutgeb 1732-1811)のために書かれたもの。ホルンのための12の二重奏曲は、スコアに楽器指定はないが、ホルンで奏されるものと考えられる。当盤では、そのうち8つの小片が、バラバラに収録されているが、もともと連続して演奏されるような形式は与えられていない。現在では、何かの機会に、モーツァルトが、「じゃあ、こんなの吹ける?」とサラサラとスコアを書いて、ロイドケーブと「遊んだ」痕跡のようなものと考えられている。 ホルン五重奏曲とホルン協奏曲は、いずれもロイドケーブのために「本気で」書いた作品だろう。その他、音楽の冗談は、弦楽合奏と2本のホルンのためのディヴェルティメントである。これは、他の作曲家の稚拙な作曲能力を揶揄したモーツァルト一流の風刺と考えられていて、形式の定まらない楽曲、バランスの崩れた楽章スケール、そしてあえて踏み外した音程をちりばめながら、一つの作品に仕上げたもので、そのユーモアに触れることが楽しい。 若きモーツァルトの意欲作歌劇「ポントの王ミトリダーテ」から、シーファレのアリア「あなたから遠く離れて」が収録されているのは、このアリアでオブリガートのホルン奏法が聴けるためだろう。アルバムの構成としても、ここに女声が加わるのは効果的で、メリハリが出ている。 全般に現代最高と言って良いズヴァールトのテクニカルなホルンが見事で、その音質の安定感、豊かな表現力に酔うことが出来る。楽曲としてはやや地味なナンバーかもしれないが、ホルン協奏曲の緩徐楽章の美しさや、清々しいシーファレのアリア、ホルン五重奏曲の中間楽章における楽器間の暖かいやりとりなどが、豊かな聴き味となっている。 |
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ピアノ四重奏曲 第1番 第2番 p: ルイス レオポルド弦楽三重奏団 レビュー日:2016.3.23 |
★★★★★ モーツァルトの傑作室内楽を、相応しい名演で聴く
ポール・ルイス(Paul Lewis 1972-)のピアノとレオポルド弦楽三重奏団の演奏で、モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozar 1756-1791)の以下の2つの名曲を収録したもの。 ピアノ四重奏曲 第1番 ト短調 K.478 ピアノ四重奏曲 第2番 変ホ長調 K.493 2002年の録音。 メンバーを変えつつも常に質の高い活動を続けているレオポルド弦楽三重奏団であるが、録音当時のメンバーは、ヴァイオリンがマリアンヌ・トルセン(Marianne Thorsen 1972-)、ヴィオラがスコット・ディッキンソン(Scott Dickinson)、チェロがケイト・グールド(Kate Gould)。ディッキンソンはBBCスコティッシュ交響楽団のヴィオラ首席奏者。 フィガロの結婚と前後して書かれたこれら2曲のピアノ四重奏曲は、モーツァルトにしか書きえない名作だ。特に第1番は、ト短調という厳粛な調性で、運命的な響きに満ち溢れたもの。同じ調性を持つ弦楽五重奏曲第4番、交響曲第40番とともに、この調性におけるモーツァルトの芸術性が結晶化した傑作である。また、第1番、第2番双方ともに中間楽章の情感の豊かさは圧巻で、ここで、モーツァルトのピアノ協奏曲第20番の第2楽章を想起する人も多いだろう。いずれにしても、モーツァルトが、この編成の室内楽に、協奏曲的観点と、そしてしばしばデュオ的な観点を踏まえ、多面性豊かなアプローチをこともなくやってのけたことは、天才の仕事とはいえ、驚異的なのである。 そして、それらの曲の名曲性を実に巧みに引き出した名盤がこのディスク。ルイスは、ブレンデル(Alfred Brendel 1931-)を師として、90年代末から頭角をあらわし、国際的な名声を得るに至ったピアニスト。そのキャリアはシューベルトをはじめ、師のそれと重複するイメージがある。これらの2曲もブレンデルが名録音を残しているが、ルイスはさらに雄弁な語りかけを感じさせる演奏と言って良い。ピアノ主導の劇的な表現、弦楽器奏者たちとの親密な対話、そして、ヴァイオリン、もしくはチェロとのデュオ・シーンにおける堅実な支え、それらが自然かつダイナミックに移行し、音楽表現に驚くほど広い幅を与えている。こういう演奏を名演と言うのだろう。 レオポルド三重奏団も見事なアンサンブルだ。リードの役割はあきらかにルイスが担っているとは言え、弦楽器陣のバランスの良さ、ルイスの踏込に呼応する表現力、いずれも秀逸で、時に交響曲を聴くかのような豊饒さをも見せる。これは現代楽器ならではの聴き味と言っても良いだろう。 最近は、モーツァルトの室内楽演奏に置いても、ピリオド楽器が幅を利かせるご時勢かもしれないが、現代楽器がそのパフォーマンスを全開にしたときの表現力の豊かさ、それが見事に表現された当アルバムは、これらの曲の決定的録音の一つといって過言ではないだろう。 なお、レオポルド弦楽三重奏団のヴィオラ奏者がローレンス・パワー (Lwrence Power 1977-)となったのは、当録音の後のことなので、参考までに付記しておく。 |
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ピアノ四重奏曲 第1番 第2番 p: ツァハリアス vn: ツィンマーマン va: タベア・ツィンマーマン vc: ヴィック レビュー日:2022.2.1 |
★★★★★ 堅実な名演
モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)の下記のピアノ四重奏曲2曲を収録したアルバム。 1) ピアノ四重奏曲 第1番 ト短調 K.478 2) ピアノ四重奏曲 第2番 変ホ長調 K.493 各奏者は以下のとおり。 ピアノ: クリスティアン・ツァハリアス(Christian Zacharias 1950- “ツァハリス”とも表記される) ヴァイオリン: フランク・ペーター・ツィンマーマン(Frank Peter Zimmermann 1965-) ヴィオラ: タベア・ツィンマーマン(Tabea Zimmermann 1966-) チェロ: ティルマン・ヴィック(Tilmann Wick) 1988年の録音。 とても節度のある整った演奏。モーツァルトの音楽がもつ無垢な良性を、純粋に音化して再現したような、自然な美しさに満ちている。 ツァハリアスのピアノは抑制的と言って良いだろう。ダイナミックレンジは大きくとらず、フォルテはメゾ・フォルテにとどめる。その一方で、現代ピアノならではの芯の通った響きで、音楽的主張を維持し、全体のバランスを保つ。玄人はだしという表現がいかにも相応しい内容。20世紀末に形作られた古典演奏におけるオーソリティを実行した堅実な演奏とも言えるだろう。弦楽器陣も、慎ましくも美しい響きで、全体像を維持しながら、必要な歌を奏でていく。 第1番では、第2楽章で、ピアノと弦の親密な対話が印象的だ。結果として聴かれる音楽は、自然で流れの良いものだが、そこに至るには入念な打ち合わせがあったに相違ない。そう思わせるに十分な、手の込んだ符合がある。もちろん、聴き流すだけで気持ちよく、それで十分な楽曲と演奏だとは思うが、この演奏は、じっくり聴きこませる味わいと計算も含まれているのだ。 第2番でも、やはりこの演奏の特徴は、中間楽章に強く感じられるところだろう。なんともなめらかで、遮るものなく流れるようでいて、それでいて節々に仄かな味わいが感じられる。とても優美で洗練された演奏だ。 もちろん、より濃厚な肉付けや劇性をもたさす演奏であっても、この曲はとても良く響くし、私も気分によっては、そちらを聴きたいということも、たくさんあるのだけれど、当盤は当盤で、古典的作法に則って、ひたすら美しく奏でられた名演であり、その価値は色褪せるものではない。 |
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ピアノ四重奏曲 第2番 ピアノ協奏曲 第12番(室内楽編曲版) p: ブレンデル アルバン・ベルク弦楽四重奏団 レビュー日:2019.3.12 |
★★★★★ 暖かい調和が魅力。ブレンデルとアルバン・ベルクのモーツァルト
アルバン・ベルク四重奏団とアルフレート・ブレンデル(Alfred Brendel 1931-)による1999年のライヴ録音で、モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)の以下の2曲を収録している。 1) ピアノ協奏曲 第12番 イ長調 K.414(室内楽編曲版) 2) ピアノ四重奏曲 第2番 変ホ長調 K.493 録音時のアルバン・ベルク四重奏団のメンバーは以下の通り。 第1ヴァイオリン ギュンター・ピヒラー(Gunter Pichler 1940-) 第2ヴァイオリン ゲルハルト・シュルツ(Gerhard Schulz 1951-) ヴィオラ トーマス・カクシュカ (Thomas Kakuska 1940-2005) チェロ ヴァレンティン・エルベン(Valentin Erben 1945-) モーツァルトが1782年に書いた3つのピアノ協奏曲(第11番、第12番、第13番)は、いずれも弦楽四重奏とピアノによる演奏も可能なことを念頭に書かれていて、協奏曲と室内楽の2通りのスコアが存在する。この3曲の中では、最初に書かれた第12番の演奏機会がいちばん多いだろう。第2楽章には、この年に亡くなったクリスティャン・バッハ(Johann Christian Bach 1735-1782)のオペラ「誠意の災い」の序曲の主題を転用しており、追悼の意も込められたものと解釈されている。 ブレンデルとアルバン・ベルク四重奏団は、一見してカラーの異なる芸風に思えるが、当録音では、とても調和のとれた暖かな響きが全体を覆っているのが印象的だ。どちらかというと、アルバン・ベルク四重奏団が、いつもの強い発色、強靭な音色をやや抑え、ブレンデルのスタイルに歩み寄ったようなイメージである。 K.414の冒頭から、明朗で優美な主題が、アコースティックな合奏音でいくぶん輪郭を柔らかめに響かせるのは、極上と言って良い聴き味であり、いわゆる「ウィーン的」なものが溢れているように思える。先んじて存在したブレンデルの協奏曲録音と比べて、テンポはほぼ同じであるが、当録音の方がいくぶん自由度が高く、室内楽ならではのソリストのステイタスの高さが感じられる。また、当録音について、協奏曲でホルンとオーボエが担っていた一部のフレーズについて、ブレンデルはピアノパートに追加しているとのこと。私は追加前の状態を聴いたことがないので、聴き比べは出来ないが、原曲に精通したブレンデルらしい計らいで、音楽も豊かなものとなっているだろう。 モーツァルトがその生涯に書いたピアノ四重奏曲は2曲あって、第1番のト短調の方が有名だが、第2番も魅力的な作品。第2番は、第1番とは対照的な作風で、ことに第3楽章の華やかさはこの曲もまた傑作であることを示している。 この曲では、ピヒラーの積極的な表現が聴きどころで、旋律を様々に歌わせてくれるし、ピアノとの闊達な対話も弾力に富んでいて、楽しい。第3楽章はスピード感を速め、前進する力を聴き手に脈々と伝えながら、その運動美の中で幕を閉じる。この素晴らしい演奏会を締めくくるにふさわしい。 |
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弦楽四重奏曲 第14番 第15番 第16番 第17番「狩」 第18番 第19番「不協和音」 第20番 第21番「プロシャ王第1番」 第22番「プロシャ王第2番」 第23番「プロシャ王第3番」 弦楽五重奏曲 第3番 第4番 ピアノ四重奏曲 第2番 ピアノ協奏曲 第12番(室内楽編曲) アルバン・ベルク弦楽四重奏団 va: ヴォルフ p: ブレンデル レビュー日:2019.3.16 |
★★★★★ 歴史的名演7枚が収録された廉価box-set
数々の名演を残したアルバン・ベルク四重奏団が1986年から1999年にかけて録音したモーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)の一連の作品群を集めたCD枚からなるBox-set。それぞれのCDが、初発売時のままの収録内容順で、Box化にあたって、枚数削減のための集約は行われてない。その内容は以下の通り。 【CD1】 1987年録音 1) 弦楽四重奏曲 第14番 ト長調 K.387「春」 2) 弦楽四重奏曲 第15番 ニ短調 K.421 【CD2】 1990年録音 3) 弦楽四重奏曲 第17番 変ロ長調 K.458 「狩」 4) 弦楽四重奏曲 第16番 変ホ長調 K.428 【CD3】 1989年録音 5) 弦楽四重奏曲 第18番 イ長調 K.464 6) 弦楽四重奏曲 第19番 ハ長調 K.465 「不協和音」 【CD4】 1988年録音 7) 弦楽四重奏曲 第20番 ニ長調 K.499 「ホフマイスター」 8) 弦楽四重奏曲 第21番 ニ長調 K.575 「プロシャ王 第1番」 【CD5】 1989年録音 9) 弦楽四重奏曲 第22番 変ロ長調 K.589 「プロシャ王 第2番」 10) 弦楽四重奏曲 第23番 ヘ長調 K.590 「プロシャ王 第3番」 【CD6】 1986年録音 11) 弦楽五重奏曲 第3番 ハ長調 K.515 12) 弦楽五重奏曲 第4番 ト短調 K.516 【CD7】 1999年録音 13) ピアノ協奏曲 第12番 イ長調 K.414(室内楽編曲版) 14) ピアノ四重奏曲 第2番 変ホ長調 K.493 これらの録音時のアルバン・ベルク四重奏団の団員は以下の通り 第1ヴァイオリン ギュンター・ピヒラー(Gunter Pichler 1940-) 第2ヴァイオリン ゲルハルト・シュルツ(Gerhard Schulz 1951-) ヴィオラ トーマス・カクシュカ (Thomas Kakuska 1940-2005) チェロ ヴァレンティン・エルベン(Valentin Erben 1945-) 【CD6】ではマルクス・ヴォルフ(Markus Wolf 1962-)のヴィオラが、【CD7】ではアルフレート・ブレンデル(Alfred Brendel 1931-)のピアノが加わる。【CD7】のみライヴ録音。 現代の弦楽四重奏演奏の規範とも言われるアルバン・ベルク四重奏団。その大きな演奏上の特徴は、音の大きさと、輝かしさにある。少なくとも、レコードの世界では、アルバン・ベルク四重奏団の登場によって、室内楽というジャンルにおける音の強弱による表現幅が広がったと言っても良いと思う。まだ、その技術的な洗練の高さ、スピードやパワーに卓越した性能を持った演奏は、楽曲にシンフォニックな聴き味をもたらした。 いずれも今なお最高の水準にある見事な録音ばかりである。音の末尾の切れや、輪郭の克明な表現が魅力である。また旋律を大事に扱う周到さもある。 第14番では第1楽章は、快活なだけでなく、明確なイントネーションによる重みの階層を明瞭に与えることで、この曲に従来それほど感じなかった重厚な側面を与え、全体として力と華やかさを獲得し、外向的な働きかけが強くなっている。それはとても魅力的に響くもので、聴き手を知らず知らずのうちに、音楽の世界に引き込む力を持っている。また、私がこの演奏で特に気に入っているのは第3楽章で、そこで聴かれる明朗さと陰りの交錯は、どこかポストホルンセレナーデの第5楽章を私に思い起こさせる。そういうところも、この演奏が聴き手に与える影響の大きさを示すものだと思う。 第15番は、おそらくモーツァルトの弦楽四重奏曲の中で最も人気のある作品ではないだろうか。この短調の作品の、特に終楽章はモーツァルト特有の「疾走する悲しみ」が表出している。私は幼少の頃、NHKの「アインシュタイン・ロマン」という番組で、この楽章が使用されているのを聴いて、この曲が好きになったのだが、アルバン・ベルクの演奏は力強さがある分だけ、悲劇的な性格も強い。第3楽章の荘厳な力強さも胸打たれる。また、この曲でも第2楽章における光と影の交錯において、アルバン・ベルクの精緻な画面の切り替えは、分かりやすいというだけでなく、音楽としての充実を聴き手に鋭敏に伝えてくれる。 第17番で、冒頭からアルバン・ベルクは質感のある豊かな音色を提示する。モーツァルトらしいさりげなさ、しかし弾力と生命力を秘めた付点のリズムが印象的な第1主題は、十分なタメと幅をもって提示され、そのシンフォニックと形容したい音楽の厚みは、耳に心地よく、幸福感を誘う。この弦楽四重奏団が、現代の規範となるだけの必然性が、この第1楽章に存分に示されているといっても良い。また、この楽曲では緩徐楽章の深遠な深み、終楽章の闊達な運動性と、ハイドンの名曲群からベートーヴェンの傑作群へとつなぐ歴史的位置づけを感じさせる充実した音楽が流れる。アルバン・ベルクは、それらをいずれも立派なフォルムの音響で歌い上げ、聴き手に存分な満足感を与える演奏を行っている。私も、この録音を聴いて、この楽曲の素晴らしさに気づかされたものだ。 第16番は、難渋さのある曲だが、第1楽章の主題はどこか陰りのある長調で、モーツァルトらしい内面性を感じさせるものでもある。アルバン・ベルクの表現はスマートで緻密。説得力ある音楽の転結を繰り返し、シャープな造形美と豊穣な聴き味の双方を同時に達成している。第3楽章のトリオの雰囲気は、モーツァルトの書いた交響曲たちを彷彿とさせる。 私見では、モーツァルトは、弦楽四重奏曲というジャンルにおいて、普段の無垢と称されるスタイルに加えて、学究的な肌合いが強まる印象を受ける。モーツァルトは、バッハの4声のための作品を弦楽四重奏曲に編曲するなどの方法でその音楽を学んだことは知られているが、私にはその印象がモーツァルトの弦楽四重奏曲作品群に重なる。例えば、第18番は、楽想のアイデア自体が、「無垢」と呼ぶにはふさわしくないほど、考えられたものだと思うし、ベートーヴェンがその作曲手法の研究の題材に選択したという事実は、楽曲構成自体が論考を重ねたものだったに違いない。第19番は冒頭の序奏部分の有名な不協和な不安は、作曲当時にはほとんど理解されない楽想だったらしいし、そこからハ長調へ移行するという独特の対比も、モーツァルトの他の作品から類似例を探すのは難しい。もちろん、それは、カンタンに言えることではないし、モーツァルトの他の傑作がいくら無垢を感じさせるからといって、学究的な要素がなく、すべて天才の中から湧き出すままに書かれたものと言い切れるわけがないのは当たり前ではある。ただ、今の時代になって聴くと、そういう印象を感じさせる楽曲だ、と私は感じる。モーツァルトの弦楽四重奏曲群が、他の彼の作品と比べると、いまひとつ大衆的な人気が少ないのも、そのために思える。 アルバン・ベルクの演奏はそんな楽曲に強い説得力を与えるもの。すべての表現が闊達で自信が漲っている。演奏によっては、不安な要素が強調される第18番の第1楽章も、多くのことにすでに解決がついているという安定感に満ちている。そのことが味わいを減じているのでは?という考えもあると思うが、アルバン・ベルクの演奏の輝かしさは、それ自体見事に自己完結していて、そこに不足を見出す気持ちは、少なくとも私にはほとんど起きない。第3楽章のチェロの存在感が実に心地よいし、第4楽章の構成感も機敏かつ音量豊かに表現されている。 第19番の冒頭は各楽器の強く美しい響きが圧倒的であり、この演奏ゆえの価値というものが感じられる。序奏と主部の対立構造は、一貫した基礎の上でしっかりと形作られている。安定した基礎があって、はじめて対立が描かれるという見本のような演奏だろう。 第20番は、ハイドンセット(第14番~第19番)と、プロシャ王(第21番~第23番)の間にポツンと存在する作品であるが、その在り方にふさわしい喜びの中にもどこか陰りの射すような作品である。旋律自体は外向的なものではなく、親しまれているとも言い難いが、聴いてみると、複層的な感情が描かれているようで、さりげない深みがある。アルバン・ベルクはいつものように輝かしく、厚さと強さに不足のない音色でこの楽曲を奏でている。第1楽章で、伴奏をつかさどる2艇の楽器が、2つの音をただ交互に鳴らすところであっても、その響きは特有の重みがあって、音楽的な意図が深く、聴き手に訴える力が強い。 第21番は、モーツァルトがその円熟期に書いた3曲1組の弦楽四重奏曲の1つ。しかし、その構成はむしろシンプルなものであり、同時代に書かれた他の名曲と比べると、不思議な簡素さがある。当演奏の特徴は、一つ一つの楽器の表出性の高さにあり、それでいて古典的なまとまりもよく整然とした姿を持っている点であろう。第2楽章で、それぞれの楽器がごく簡単なフレーズを受け渡す際でも、それぞれの歌があり、それでいて調和もある。よく考えられているし、自発性もあって、聴く側に働き替える音楽的な魅力を増やしている。終楽章のチェロの雄弁な存在感は見事で、この楽曲の特徴がここに端的に示されているだろう。 モーツァルトが遺した弦楽四重奏曲のうちもっとも最後の2曲を書いたとき、モーツァルトの境遇は厳しく、生活費もままならない状態だった。しかし、これらの楽曲は、澄み切った情感が行き渡っていて、不思議な清澄さを感じさせる。楽想はシンプルで、規模も大きくはなく、モーツァルトの晩年の傑作群の中に並べると、どこか少し昔のままでいるような風情もある。ハイドン的なようでいて、よりシンフォニックな響きもある。アルバン・ベルクの演奏は、ここでも各楽器の鳴り自体の豊かさを下支えに、安定感にあふれた明朗な音楽を築き上げる。 第22番の第1楽章はどこか交響曲を聴くような響きの幅が聴き味を増してくれていて、この楽曲の簡素さを、分かりやすく増幅してくれている。第3楽章の各楽器の表出性の豊かさは当録音の中で私が特に気に入っている部分でもある。 第23番では深みのあるアンダンテ、そして付点のリズムが憧憬を深めていくように鳴るメヌエットという2つの中間楽章にたっぷりとした情感が込められている点が感動的。アインシュタインはこの第2楽章を「生への告別」と評したそうだ。私にはそこまで直接的なイメージは湧きにくいが、その憂いを含んだ情感が、モーツァルトならではのものであることは疑いないだろう。そして、簡潔で運動的な短い終楽章でサッと占められるのは、モーツァルトならではの礼節のようにも感じられるし、アルバン・ベルクならではの機能美にも思われる。 モーツァルトの弦楽四重奏曲群が、彼の他の作品群に比べて、外向的な性格を持っているとは言い難い一方で、当アイテムに収録されている2曲の弦楽五重奏曲は、親しみやすい旋律の宝庫であり、音楽フアンにとっても、聴く機会が多いことは事実だろう。アルバン・ベルクは弦楽四重奏曲に先んじてこれらの楽曲を録音したわけだが、その演奏の見事さを広くアピールしてから弦楽四重奏曲群にとりかかるという手法は、妥当なものに思える。 弦楽五重奏曲第3番の冒頭、快活なリズムにのって、音量豊かに音楽が始まる。音階のあとに続く第1ヴァイオリンのフレーズは、たっぷりした歌があるとともにスマートですみやかだ。この演奏を始めて聴いたとき、これが現代のモーツァルトか、と思ったものだが、今聴いても全然古めかしい感じはしない。「現代の」でもなんでもない、普遍的な素晴らしい名演だったのである。アルバン・ベルクの演奏の特徴は、まず音量の豊かさにある。非常にしっかりした強靭な音色。しかし、粗さはなく、輝きと温もりがある。それに加えて高い技術があり、それらのベースの上で、各奏者の緊密なやりとりがある。音楽はシャープで完璧性を感じさせるものとなるが、それは決して無機的機械的なものではなく、歌があり血が通っている。これほど完成度の高さを感じさせる演奏は、なかなかお目にかかれない。 弦楽五重奏曲第4番の悲劇的な性格は、アルバン・ベルクの表現を通じて、よりスケール感を感じさせる。スピードがありながらもシンフォニックで、全体的なパワーがあり、それが聴き手に積極的に働きかけてくる。重量感があるのだけれど、重いという感じがしない。重くても十分なパワーがあれば軽快なのである。この演奏にはそんな雰囲気を感じる。そして細やかに付せられる情緒は、典雅で、ウィーン的という形容を彷彿とさせてくれる。特に感動的なのは、第4番の終楽章の序奏ではないだろうか。この時代の楽曲で、終楽章にこれほど深刻な諸相を感じさせる序奏をもった室内楽曲は、作曲当時異例のことだったに違いないが、その秘められた劇性と悲しみが、清澄かつ精緻に奏でられる。序奏が終わって長調の世界移行するとき、どこかこちらの世界に戻ってきたという安堵感につつまれる。アルバン・ベルクの演奏は、その対比が鮮烈だ。 モーツァルトが1782年に書いた3つのピアノ協奏曲(第11番、第12番、第13番)は、いずれも弦楽四重奏とピアノによる演奏も可能なことを念頭に書かれていて、協奏曲と室内楽の2通りのスコアが存在する。この3曲の中では、最初に書かれた第12番の演奏機会がいちばん多いだろう。第2楽章には、この年に亡くなったクリスティャン・バッハ(Johann Christian Bach 1735-1782)のオペラ「誠意の災い」の序曲の主題を転用しており、追悼の意も込められたものと解釈されている。ブレンデルとアルバン・ベルク四重奏団は、一見してカラーの異なる芸風に思えるが、当録音では、とても調和のとれた暖かな響きが全体を覆っているのが印象的だ。どちらかというと、アルバン・ベルク四重奏団が、いつもの強い発色、強靭な音色をやや抑え、ブレンデルのスタイルに歩み寄ったようなイメージである。K.414の冒頭から、明朗で優美な主題が、アコースティックな合奏音でいくぶん輪郭を柔らかめに響かせるのは、極上と言って良い聴き味であり、いわゆる「ウィーン的」なものが溢れているように思える。先んじて存在したブレンデルの協奏曲録音と比べて、テンポはほぼ同じであるが、当録音の方がいくぶん自由度が高く、室内楽ならではのソリストのステイタスの高さが感じられる。また、当録音について、協奏曲でホルンとオーボエが担っていた一部のフレーズについて、ブレンデルはピアノパートに追加しているとのこと。私は追加前の状態を聴いたことがないので、聴き比べは出来ないが、原曲に精通したブレンデルらしい計らいで、音楽も豊かなものとなっているだろう。 モーツァルトがその生涯に書いたピアノ四重奏曲は2曲あって、第1番のト短調の方が有名だが、当アイテムに収録された第2番も魅力的な作品。第2番は、第1番とは対照的な作風で、ことに第3楽章の華やかさはこの曲もまた傑作であることを示している。この曲では、ピヒラーの積極的な表現が聴きどころで、旋律を様々に歌わせてくれるし、ピアノとの闊達な対話も弾力に富んでいて、楽しい。第3楽章はスピード感を速め、前進する力を聴き手に脈々と伝えながら、その運動美の中で幕を閉じる。 |
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弦楽四重奏曲 第14番「春」 第15番 アルバン・ベルク弦楽四重奏団 レビュー日:2019.2.12 |
★★★★★ アルバン・ベルク四重奏団の力強い響きが胸を打つモーツァルト
アルバン・ベルク四重奏団によるモーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)の以下の2曲を収録したアルバム。 1) 弦楽四重奏曲 第14番 ト長調 K.387「春」 2) 弦楽四重奏曲 第15番 ニ短調 K.421 1987年の録音。 数々の名演を残したアルバン・ベルク四重奏団であるが、1981年から2005年までの間にメンバーの交代はなく、以下の顔ぶれであった。 第1ヴァイオリン ギュンター・ピヒラー(Gunter Pichler 1940-) 第2ヴァイオリン ゲルハルト・シュルツ(Gerhard Schulz 1951-) ヴィオラ トーマス・カクシュカ (Thomas Kakuska 1940-2005) チェロ ヴァレンティン・エルベン(Valentin Erben 1945-) 現代の弦楽四重奏演奏の規範とも言われるアルバン・ベルク四重奏団。その大きな演奏上の特徴は、音の大きさと、輝かしさにある。少なくとも、レコードの世界では、アルバン・ベルク四重奏団の登場によって、室内楽というジャンルにおける音の強弱による表現幅が広がったと言っても良いと思う。まだ、その技術的な洗練の高さ、スピードやパワーに卓越した性能を持った演奏は、楽曲にシンフォニックな聴き味をもたらした。 このモーツァルトも彼らのスタイルが存分に発揮されていて、音の末尾の切れや、輪郭の克明な表現が魅力である。また旋律を大事に扱う周到さもある。 第14番では第1楽章は、快活なだけでなく、明確なイントネーションによる重みの階層を明瞭に与えることで、この曲に従来それほど感じなかった重厚な側面を与え、全体として力と華やかさを獲得し、外向的な働きかけが強くなっている。それはとても魅力的に響くもので、聴き手を知らず知らずのうちに、音楽の世界に引き込む力を持っている。また、私がこの演奏で特に気に入っているのは第3楽章で、そこで聴かれる明朗さと陰りの交錯は、どこかポストホルンセレナーデの第5楽章を私に思い起こさせる。そういうところも、この演奏が聴き手に与える影響の大きさを示すものだと思う。 第15番は、おそらくモーツァルトの弦楽四重奏曲の中で最も人気のある作品ではないだろうか。この短調の作品の、特に終楽章はモーツァルト特有の「疾走する悲しみ」が表出している。私は幼少の頃、NHKの「アインシュタイン・ロマン」という番組で、この楽章が使用されているのを聴いて、この曲が好きになったのだが、アルバン・ベルクの演奏は力強さがある分だけ、悲劇的な性格も強い。第3楽章の荘厳な力強さも胸打たれる。また、この曲でも第2楽章における光と影の交錯において、アルバン・ベルクの精緻な画面の切り替えは、分かりやすいというだけでなく、音楽としての充実を聴き手に鋭敏に伝えてくれる。 録音から30年以上が経過した今であっても、これらの楽曲における代表的録音であることは間違いない。 |
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弦楽四重奏曲 第16番 第17番「狩」 アルバン・ベルク弦楽四重奏団 レビュー日:2019.2.14 |
★★★★★ 名曲性を豊かに感じさせるアルバン・ベルク四重奏団のモーツァルト
アルバン・ベルク四重奏団によるモーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)の以下の2曲を収録したアルバム。 1) 弦楽四重奏曲 第17番 変ロ長調 K.458 「狩」 2) 弦楽四重奏曲 第16番 変ホ長調 K.428 1990年の録音。 数々の名演を残したアルバン・ベルク四重奏団であるが、1981年から2005年までの間にメンバーの交代はなく、以下の顔ぶれであった。 第1ヴァイオリン ギュンター・ピヒラー(Gunter Pichler 1940-) 第2ヴァイオリン ゲルハルト・シュルツ(Gerhard Schulz 1951-) ヴィオラ トーマス・カクシュカ (Thomas Kakuska 1940-2005) チェロ ヴァレンティン・エルベン(Valentin Erben 1945-) 収録されている2つの楽曲のうち、番号の大きい第17番が先に収録されているが、確かに第17番はモーツァルトが書いた弦楽四重奏曲の中で傑作と呼ぶにふさわしい作品で、第16番と第17番という組み合わせであれば、どこか難渋さのある第16番と比べて、第17番から聴いたほうが入りやすいだろう。 この第17番で、冒頭からアルバン・ベルクは質感のある豊かな音色を提示する。モーツァルトらしいさりげなさ、しかし弾力と生命力を秘めた付点のリズムが印象的な第1主題は、十分なタメと幅をもって提示され、そのシンフォニックと形容したい音楽の厚みは、耳に心地よく、幸福感を誘う。この弦楽四重奏団が、現代の規範となるだけの必然性が、この第1楽章に存分に示されているといっても良い。 またこの楽曲では緩徐楽章の深遠な深み、終楽章の闊達な運動性と、ハイドンの名曲群からベートーヴェンの傑作群へとつなぐ歴史的位置づけを感じさせる充実した音楽が流れる。アルバン・ベルクは、それらをいずれも立派なフォルムの音響で歌い上げ、聴き手に存分な満足感を与える演奏を行っている。私も、この録音を聴いて、この楽曲の素晴らしさに気づかされたものだ。 第16番は、難渋さがあると前述したが、第1楽章の主題はどこか陰りのある長調で、モーツァルトらしい内面性を感じさせるもの。アルバン・ベルクの表現はスマートで緻密。説得力ある音楽の転結を繰り返し、シャープな造形美と豊穣な聴き味の双方を同時に達成している。第3楽章のトリオの雰囲気は、モーツァルトの書いた交響曲たちを彷彿とさせる。 いずれも、私にとって、アルバン・ベルクの演奏で親しんだ楽曲たちであり、今でも当録音は是非聴くべきであろうと思う。 |
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弦楽四重奏曲 第18番 第19番「不協和音」 アルバン・ベルク弦楽四重奏団 レビュー日:2019.2.21 |
★★★★★ アルバン・ベルクゆえの輝かしさと説得力に満ちた名盤
アルバン・ベルク四重奏団によるモーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)の以下の2曲を収録したアルバム。 1) 弦楽四重奏曲 第18番 イ長調 K.464 2) 弦楽四重奏曲 第19番 ハ長調 K.465 「不協和音」 1989年の録音。 数々の名演を残したアルバン・ベルク四重奏団であるが、1981年から2005年までの間にメンバーの交代はなく、以下の顔ぶれであった。 第1ヴァイオリン ギュンター・ピヒラー(Gunter Pichler 1940-) 第2ヴァイオリン ゲルハルト・シュルツ(Gerhard Schulz 1951-) ヴィオラ トーマス・カクシュカ (Thomas Kakuska 1940-2005) チェロ ヴァレンティン・エルベン(Valentin Erben 1945-) 恰幅のある、響きの豊かなモーツァルトである。私見では、モーツァルトは、弦楽四重奏曲というジャンルにおいて、普段の無垢と称されるスタイルに加えて、学究的な肌合いが強まる印象を受ける。モーツァルトは、バッハの4声のための作品を弦楽四重奏曲に編曲するなどの方法でその音楽を学んだことは知られているが、私にはその印象がモーツァルトの弦楽四重奏曲作品群に重なる。 例えば、第18番は、楽想のアイデア自体が、「無垢」と呼ぶにはふさわしくないほど、考えられたものだと思うし、ベートーヴェンがその作曲手法の研究の題材に選択したという事実は、楽曲構成自体が論考を重ねたものだったに違いない。第19番は冒頭の序奏部分の有名な不協和な不安は、作曲当時にはほとんど理解されない楽想だったらしいし、そこからハ長調へ移行するという独特の対比も、モーツァルトの他の作品から類似例を探すのは難しい。 もちろん、それは、カンタンに言えることではないし、モーツァルトの他の傑作がいくら無垢を感じさせるからといって、学究的な要素がなく、すべて天才の中から湧き出すままに書かれたものと言い切れるわけがないのは当たり前ではある。ただ、今の時代になって聴くと、そういう印象を感じさせる楽曲だ、と私は感じる。モーツァルトの弦楽四重奏曲群が、他の彼の作品と比べると、いまひとつ大衆的な人気が少ないのも、そのために思える。 アルバン・ベルクの演奏はそんな楽曲に強い説得力を与えるもの。すべての表現が闊達で自信が漲っている。演奏によっては、不安な要素が強調される第18番の第1楽章も、多くのことにすでに解決がついているという安定感に満ちている。そのことが味わいを減じているのでは?という考えもあると思うが、アルバン・ベルクの演奏の輝かしさは、それ自体見事に自己完結していて、そこに不足を見出す気持ちは、少なくとも私にはほとんど起きない。第3楽章のチェロの存在感が実に心地よいし、第4楽章の構成感も機敏かつ音量豊かに表現されている。 第19番の冒頭は各楽器の強く美しい響きが圧倒的であり、この演奏ゆえの価値というものが感じられる。序奏と主部の対立構造は、一貫した基礎の上でしっかりと形作られている。安定した基礎があって、はじめて対立が描かれるという見本のような演奏だろう。 録音からすでに30年が経過しているが、現在でも第一級の内容と説得力を持つ録音で、名盤と呼ぶにふさわしい。 |
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弦楽四重奏曲 第20番「ホフマイスター」 第21番「プロシャ王第1番」 アルバン・ベルク弦楽四重奏団 レビュー日:2019.3.1 |
★★★★★ 演奏によって輝きを増す渋い存在感の楽曲たち
アルバン・ベルク四重奏団によるモーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)の以下の2曲を収録したアルバム。 1) 弦楽四重奏曲 第20番 ニ長調 K.499 「ホフマイスター」 2) 弦楽四重奏曲 第21番 ニ長調 K.575 「プロシャ王 第1番」 1988年の録音。 数々の名演を残したアルバン・ベルク四重奏団であるが、1981年から2005年までの間にメンバーの交代はなく、以下の顔ぶれであった。 第1ヴァイオリン ギュンター・ピヒラー(Gunter Pichler 1940-) 第2ヴァイオリン ゲルハルト・シュルツ(Gerhard Schulz 1951-) ヴィオラ トーマス・カクシュカ (Thomas Kakuska 1940-2005) チェロ ヴァレンティン・エルベン(Valentin Erben 1945-) ともにニ長調という現楽器が明朗に響く古典的な調性で書かれた作品。 第20番は、ハイドンセット(第14番~第19番)と、プロシャ王(第21番~第23番)の間にポツンと存在する作品であるが、その在り方にふさわしい喜びの中にもどこか陰りの射すような作品である。旋律自体は外向的なものではなく、親しまれているとも言い難いが、聴いてみると、複層的な感情が描かれているようで、さりげない深みがある。 アルバン・ベルクはいつものように輝かしく、厚さと強さに不足のない音色でこの楽曲を奏でている。第1楽章で、伴奏をつかさどる2艇の楽器が、2つの音をただ交互に鳴らすところであっても、その響きは特有の重みがあって、音楽的な意図が深く、聴き手に訴える力が強い。 第21番は、モーツァルトがその円熟期に書いた3曲1組の弦楽四重奏曲の1つ。しかし、その構成はむしろシンプルなものであり、同時代に書かれた他の名曲と比べると、不思議な簡素さがある。 当演奏の特徴は、一つ一つの楽器の表出性の高さにあり、それでいて古典的なまとまりもよく整然とした姿を持っている点であろう。第2楽章で、それぞれの楽器がごく簡単なフレーズを受け渡す際でも、それぞれの歌があり、それでいて調和もある。よく考えられているし、自発性もあって、聴く側に働き替える音楽的な魅力を増やしている。終楽章のチェロの雄弁な存在感は見事で、この楽曲の特徴がここに端的に示されているだろう。 私は、モーツァルトの第14番以降の弦楽四重奏曲群の中でも、この2曲は渋い存在だと思うのであるが、アルバン・ベルクの演奏が持つ訴える力は、その印象を払拭するかのように力強い。 |
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弦楽四重奏曲 第22番「プロシャ王第2番」 第23番「プロシャ王第3番」 アルバン・ベルク弦楽四重奏団 レビュー日:2019.3.8 |
★★★★★ 簡素な中に深い感情が見え隠れするモーツァルト晩年の弦楽四重奏曲
アルバン・ベルク四重奏団によるモーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)の以下の2曲を収録したアルバム。 1) 弦楽四重奏曲 第22番 変ロ長調 K.589 「プロシャ王 第2番」 2) 弦楽四重奏曲 第23番 ヘ長調 K.590 「プロシャ王 第3番」 1989年の録音。 数々の名演を残したアルバン・ベルク四重奏団であるが、1981年から2005年までの間にメンバーの交代はなく、以下の顔ぶれであった。 第1ヴァイオリン ギュンター・ピヒラー(Gunter Pichler 1940-) 第2ヴァイオリン ゲルハルト・シュルツ(Gerhard Schulz 1951-) ヴィオラ トーマス・カクシュカ (Thomas Kakuska 1940-2005) チェロ ヴァレンティン・エルベン(Valentin Erben 1945-) モーツァルトが遺した弦楽四重奏曲のうちもっとも最後の2曲となる。これらの楽曲を書いたとき、モーツァルトの境遇は厳しく、生活費もままならない状態だった。しかし、これらの楽曲は、澄み切った情感が行き渡っていて、不思議な清澄さを感じさせる。楽想はシンプルで、規模も大きくはなく、モーツァルトの晩年の傑作群の中に並べると、どこか少し昔のままでいるような風情もある。ハイドン的なようでいて、よりシンフォニックな響きもある。 アルバン・ベルクの演奏は、ここでも各楽器の鳴り自体の豊かさを下支えに、安定感にあふれた明朗な音楽を築き上げる。第22番の第1楽章はどこか交響曲を聴くような響きの幅が聴き味を増してくれていて、この楽曲の簡素さを、分かりやすく増幅してくれている。第3楽章の各楽器の表出性の豊かさは当録音の中で私が特に気に入っている部分でもある。 第23番では深みのあるアンダンテ、そして付点のリズムが憧憬を深めていくように鳴るメヌエットという2つの中間楽章にたっぷりとした情感が込められている点が感動的。アインシュタインはこの第2楽章を「生への告別」と評したそうだ。私にはそこまで直接的なイメージは湧きにくいが、その憂いを含んだ情感が、モーツァルトならではのものであることは疑いないだろう。そして、簡潔で運動的な短い終楽章でサッと占められるのは、モーツァルトならではの礼節のようにも感じられるし、アルバン・ベルクならではの機能美にも思われる。 モーツァルトが書いた最後の2つの弦楽四重奏曲がもつ諸相を、感情豊かに豊穣な音色で再現した名演となっている。 |
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フルート四重奏曲 全曲 クラリネット、ヴィオラとピアノのための三重奏曲「ケーゲルシュタット」 フルート、オーボエ、ヴィオラ、チェロとピアノのためのアダージョとロンド オーボエ、ヴァイオリン、ヴィオラとチェロのための四重奏曲 ホルン、ヴァイオリン、2台のヴィオラとチェロのための五重奏曲 ナッシュ・アンサンブル レビュー日:2004.2.28 |
★★★★☆ 管楽器を含むモーツァルト室内楽の魅力
ナッシュ・アンサンブルによるモーツァルトの「管を含んだ室内楽曲集」。収録曲はフルート四重奏曲全曲(第1番 第2番 第3番 第4番) クラリネット、ヴィオラとピアノのための三重奏曲「ケーゲルシュタット フルート、オーボエ、ヴィオラ、チェロとピアノのためのアダージョとロンド オーボエ、ヴァイオリン、ヴィオラとチェロのための四重奏曲 ホルン、ヴァイオリン、2台のヴィオラとチェロのための五重奏曲。 モーツァルトの管のチャーミングな扱いについては言うまでもなく、ナッシュ・アンサンブルの地味ながら手堅い表現で、これらの曲の魅力がよくわかる。 フルート四重奏曲以外は、その編成の珍しさも手伝って、あまり演奏機会に接しない曲であり、実際モーツァルト作品の中では地味な存在だが、決して劣った作品ではない。特にケーゲルシュタット・トリオの名を持つクラリネット三重奏曲K.498は美しい。また、フルート、オーボエ、ヴィオラ、チェロとピアノのためのアダージョとロンドは本来は「グラスハーモニカのためのアダージョとロンドハ短調K.617」であり、最後の年1791年の5月に作曲されたもの。グラスハーモニカによる原曲に感銘したゲーテが「世界の深奥の生命」を聞くようだと評した。 オーボエ四重奏曲ヘ長調k.370は1781年、ミュンヘンの名手フリードリヒ・ラムのために書かれたもの。ラム自身、たいへんこの曲を気に入ったという。印象的なのは緩徐楽章の切なさ。ホルン五重奏曲変ホ長調K.407は親友ロイトゲープのために書かれた遊び心ある作品。アインシュタインによると「半ばおどけた」作品。 |
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フルート四重奏曲 全曲 fl: グラーフ カルミナ三重奏団 レビュー日:2011.2.17 |
★★★★★ グラーフのフルートで滋味豊かな品格を放つフルート四重奏曲
モーツァルトのフルート四重奏曲を全曲収録したもの。録音は1988年。フルート四重奏曲を全曲収録、としたが、フルート四重奏曲についてはモーツァルトの作品の中でも、作品が今の形に至る機序の扱いが難しいものだ。まずその点を少し整理しておきたい。 これらの楽曲は「フルート協奏曲」と同様に、オランダの商人、フェルディナン・ド・ジャンの依頼により作曲されたとなっている。第1番は3つの楽章からなり、名作の誉れ高い作品であり、今ではこの作品が一つの完結した作品として知られる。しかし第2番は2楽章構成であり、しかもその第1楽章がアンダンテとなっている。奇妙な作品に思われるが、この2つの楽章はかつて第1番の第1楽章に繋がる形で出版されていた。現在では、第1番がK.285であるのに対し、この2つの楽章のみの作品が「第2番」とされ、K.285aとされている。一部では、第2番はモーツァルトの真作であるかどうかも疑わしいとされている。第3番も2楽章構成であり、前述のド・ジャンの依頼により作曲されたものとされている。しかし、第2楽章の変奏曲が、後の作品であるセレナーデ第10番「グラン・パルティータ」の第6楽章と同内容のものとなっている。そのため、第1楽章と第2楽章の間で、作曲時期にして最大で7年間の時間差があることになってしまう。この作品がなぜ現在このような形で伝わっているのか、これまた明確ではない。この2つの楽章がまとめられて「第3番」となり、K.285bになる。第4番は3つの楽章を持つ。第1楽章はアンダンテとなっているが変奏曲であり、テンポも変動する。第2楽章には民謡の引用がある。この第4番はド・ジャンの依頼とは別に、後の作品であるという考えが有力。 以上の様に、モーツァルトのフルート四重奏曲にはいくつか未解決なナゾが含まれている。実際に聴く上でも、そういったことを踏まえて聴いた方が興味深い点も多くなると思う。楽曲そのものの性格は、こうしたナゾとまったく正反対で、屈託のない明るい作品となっている。それは、これらの楽曲が、社交場の娯楽のために書かれているためと考えられる。真作か疑わしい第2番も1楽章のフルートと弦の掛け合いが楽しい。 グラーフのフルートはさすがに素晴らしい。芯がありながらも柔らさがあり、弦とのマッチングも巧妙だ。カルミナ四重奏団は、ふだん、基本的に軽やかで速めのテンポで線的に音楽をまとめる印象が強いが、この録音ではもっとしなやかで、潤いのある音色を出している。グラーフの影響がいい方に作用した結果だと思うが、全体として曲の典雅な雰囲気が、いい意味で抑制されていて、娯楽性だけではない品のよい印象に繋がっていると思う。 |
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フルート四重奏曲 全曲 オーボエ四重奏曲 ヘ長調 K.370(368b) Fl-tr: ハーツェルツェット ob: ヴェスターマン vn: ウティガー va: ベス vc: セロ レビュー日:2015.1.23 |
★★★★★ ピリオド楽器の風合いを活かしたモーツァルトの四重奏曲集
ムジカ・アンティクワ・ケルンに所属していた古楽器奏者たちにるモーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)の木管楽器を含んだ四重奏曲集。1990年の録音。収録曲は以下の通り。 1) フルート四重奏曲 第1番 ニ長調 K.285 2) フルート四重奏曲 第4番 イ長調 K.298 3) オーボエ四重奏曲 ヘ長調 K.370(368b) 4) フルート四重奏曲 第2番 ト長調 K.285a 5) フルート四重奏曲 第3番 ハ長調 K.285b(Anh.171) 奏者は以下の通り。 フルート(フラウト・トラヴェルソ) ハーツェルツェット(Wilbert Hazelzet 1948-) オーボエ ヴェスターマン(Hans-Peter Westermann) ヴァイオリン ウティガー(Mary Utiger) ヴィオラ ベス(Hajo Bass) チェロ ニコラス・セロ(Nicholas Selo) フルート四重奏曲については全曲を収録しているわけだが、これらのフルート四重奏曲についてはモーツァルトの作品の中でも、作品が今の形に至る機序の扱いが難しいものだ。その点を少し整理しておきたい。 これらの楽曲は「フルート協奏曲」と同様に、オランダの商人、フェルディナン・ド・ジャン(Ferdinand De Jean)の依頼により作曲されたとなっている。 第1番は3つの楽章からなり、名作の誉れ高い作品であり、今ではこの作品が一つの完結した作品として知られる。しかし第2番は2楽章構成であり、しかもその第1楽章がアンダンテとなっている。奇妙な作品に思われるが、この2つの楽章はかつて第1番の第1楽章に繋がる形で出版されていた。現在では、第1番がK.285であるのに対し、この2つの楽章のみの作品が「第2番」とされ、K.285aとされている。この第2番について、モーツァルトの真作であるかどうかも疑わしい、との意見もある。 第3番も2楽章構成であり、前述のド・ジャンの依頼により作曲されたものとされている。しかし、第2楽章の変奏曲が、後の作品であるセレナーデ第10番「グラン・パルティータ」の第6楽章と同内容のものとなっている。これがセレナーデ第10番の引用であったとすると、第1楽章と第2楽章の間で、作曲時期にして最大で7年間の時間差があることになってしまう。この作品がなぜ現在このような形で伝わっているのか、これまた明確ではない。しかし、現在ではこの2つの楽章がまとめられて「第3番」となり、K.285bとして整理されている。 第4番は3つの楽章を持つ。第1楽章はアンダンテとなっているが変奏曲であり、テンポも変動する。第2楽章には民謡の引用がある。この第4番はド・ジャンの依頼とは別に、後の作品であるという考えが有力。 以上の様に、モーツァルトのフルート四重奏曲にはいくつか未解決なナゾが含まれている。実際に聴く上でも、そういったことを踏まえて聴いた方が興味深い点も多くなると思う。楽曲そのものの性格は、こうしたナゾとまったく正反対で、屈託のない明るい作品となっている。それは、これらの楽曲が、社交場の娯楽のために書かれているためと考えられる。真作か疑わしい第2番も1楽章のフルートと弦の掛け合いが楽しい。 なお、オーボエ四重奏曲は、オーボエ奏者フリードリヒ・ラム(Friedrich Ramm 1744-1811)の依頼によって書かれた名作で、名曲オーボエ協奏曲も、同じ依頼者のために書かれたもの。 演奏は、この時代の管楽器特有の素朴な音色が魅力である。強い音ではないが、それゆえにどのような空間にも調和するような、透明な響きで、自然光のような柔らか味を伴って、聴き手の部屋に差し込んでくるような印象だ。弦楽器陣の支えも美しい。こちらも音色としては、控えた柔らか味が魅力で、演奏もその特徴に即した落ち着いた味わいを示している。お茶の時間に流れるのにぴったりな雰囲気といったところだろうか。いずれも、これらの楽曲に相応しい典雅さを示している。 |
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モーツァルト フルート四重奏曲 全曲 クルーセル フルート四重奏曲 ニ長調 ドヴィエンヌ 協奏的四重奏曲 クロンマー フルート四重奏曲 他 fl: バイエル コペンハーゲン三重奏団 p: エランド レビュー日:2021.10.8 |
★★★★★ 有名曲も、そうではない曲も、それぞれの魅力をしっかりと伝えてくれる好録音
デンマークのフルート奏者ミカエル・バイエル(Mikael Beier)による音源を集めた2枚組のアルバム。収録内容は下記の通り。 【CD1】 1) クルーセル(Bernhard Crusell 1775-1838) フルート四重奏曲 ニ長調 op.8 2) ドヴィエンヌ(Francois Devienne 1759-1803) 協奏的四重奏曲 ト長調 3) クロンマー(Franz Krommer 1759-1831) フルート四重奏曲 ニ長調 op.13 4) モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791) フルート四重奏曲 第4番 イ長調 K.298 5) モーツァルト フルート四重奏曲 第2番 ト長調 K. 285a 【CD2】 1) モーツァルト フルート四重奏曲 第1番 ニ長調 K.285 2) モーツァルト フルート四重奏曲 第3番 ハ長調 K. Anh.171/285b 3) ボルヌ(Fernande Le Borne 1862-1929) ビゼーの「カルメン」による華麗な幻想曲 4) フォーレ(Gabriel Faure 1845-1924) 子守歌 op.16 5) ショパン(Frederic Chopin 1810-1849) ロッシーニの「シンデレラ」の主題による変奏曲 6) ファルカシュ(Ferenc Farkas 1905-2000) ビハールのルーマニア舞曲集 7) ジュナン(Paul-Agricole Genin 1832-1903) ヴェニスの謝肉祭 op.14 8) ゴーベール(Philippe Gaubert 1879-1941) マドリガーレ 9) テュルー(Jean Louis Toulou 1786-1865) グランンド・ソロ op.96 10) アンデルセン(Joachim Andersen 1847-1909) 8つの講義の小品 op.55 から 第6曲 スケルツィーノ 各四重奏曲はコペンハーゲン三重奏団との協演で、1984年の録音。【CD2】の3)以降は、アンネ・エランド(Anne Oland 1949-2015)のピアノとの協演で、1983年に録音されたもの。 コペンハーゲン三重奏団は、ヴァイオリンがキム・シェーグレン(Kim Sjogren 1955-)、ヴィオラがボイ・ラスムセン(Bjarne Boie Rasmussen)、チェロがラース・ホルム・ヨハンセン(Lars Holm Johansen)というメンバーであるが、当盤は、2000年に他界したラスムセンを追悼するため、デンマークのレーベルDACOCDからリリースされたものとのこと。 とても素敵なアルバムである。ピアノのエランドが国際的に名を知られているとはいえ、他の奏者は、おそらくデンマーク国外ではあまり知られていない人ではないかと想像するが、演奏は非常に品質の高いものであり、かつ収録されている楽曲が、なかなか貴重。 フルート四重奏曲というジャンルでは、モーツァルトの作品がとびぬけて有名で、他の作曲家の作品を聴く機会というのは、めったにないのだが、当盤では、クルーセル、ドヴィエンヌ、クロンマーの典雅で古典的な3作品を楽しむことが出来る。クルーセルの明朗さ、ドヴィエンヌの華やかさは、いずれも十分に楽しめる作品で、加えてクロンマーの5つの楽章からなるフルート四重奏曲は、叙情的なメロディの魅力にユーモアも組み合わさった佳作と言える。バイエルのフルートの明晰で透明な響きは、これらの作品を瑞々しく描き出しており、魅力いっぱいだ。 競合録音の多いモーツァルトも、名演と言って良い。録音が良いこととあいまって、天に突き通るようなフルートと、明快で素直な弦楽器陣の交錯が、素晴らしい聴き心地をもたらしてくれる。 そして、ピアノ伴奏とのパートも、選曲の面白さも手伝って、とにかく楽しい。フォーレやショパンの有名曲だけでなく、テュルーやアンデルセンの技巧的な作品や、ファルカシュやジュナンのムード豊かな楽曲、それぞれに応じたフルートの妙技が堪能できる。こまやかで精密な響きは、バイエルの技術の高さを裏付けるもので、その安定性を背景にしっかりした音楽的味わいが施されているのも心強い。なかなかの「見つけもの」と言って良い、魅力いっぱいのアルバムです。 |
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ヴァイオリン・ソナタ 第24番 第25番 第26番 第27番 第28番 第29番 第30番 第32番 第33番 第34番 第35番 第36番 第40番 第42番 第41番 ロンド ニ長調 K.485 イ短調 K.511 アダージョ ロ短調 K.540 ニ短調 K.356 メヌエット ニ長調 K.355 小さなジーグ 幻想曲 ニ短調 K.397 ハ短調 K.475 ハ短調 K.396 キラキラ星の主題による変奏曲 vn: ツィンマーマン p: ロンクィッヒ レビュー日:2011.4.28 |
★★★★★ ヴァイオリン、ピアノのバランスが絶妙。合理的に響く良演
フランク・ペーター・ツィンマーマン(Frank Peter Zimmermann)のヴァイオリン、アレクサンダー・ロンクィッヒ(Alexander Lonquich)のピアノによるモーツァルトのヴァイオリン・ソナタ集。録音は1987年から1990年にかけて行われている。 CD5枚組であるが、そのうち4枚にヴァイオリンソナタが、残りの1枚にピアノ独奏曲が収録されている。収録内容を示す。 (CD1)ヴァイオリン・ソナタ 第35番 ト長調 K.379 第40番 変ロ長調 K.454 第42番 イ長調 K.526 (CD2)ヴァイオリン・ソナタ 第30番 ニ長調 K.306 第26番 変ホ長調 K.302 第24番 ハ長調 K.296 第33番 ヘ長調 K.377 (CD3)ヴァイオリン・ソナタ 第29番 イ長調 K.305 第32番 ヘ長調 K.376 第34番 変ロ長調 K.378 第36番 変ホ長調 K.380 (CD4)ヴァイオリン・ソナタ 第25番 ト長調 K.301 第27番 ハ長調 K.303 第28番 ホ短調 K.304 第41番 変ホ長調 K.481 (CD5)ロンド ニ長調 K.485、アダージョ ロ短調 K.540、メヌエット ニ長調 K.355、小さなジーグ ト長調 K.574、幻想曲 ニ短調 K.397、キラキラ星の主題による変奏曲 K.265、幻想曲 ハ短調 K.475、アダージョ ニ短調 K.356、ロンド イ短調 K.511、幻想曲 ハ短調 K.396 私にとって、この二人の奏者にはともに思い出深い録音がある。ツィンマーマンは、シャイーとコンセルトヘボウ管弦楽団のライヴを収めたBOXセットで美麗なベルクのヴァイオリン協奏曲を響かせてくれたし、ロンクィッヒは、イスラエル出身のポスト・モダンの作曲家ギデオン・リューエンソーン(Gideon Lewensohn)の作品集「オドラデク (Odradek)」で退廃的とも言える美しいピアノがあった。それで、私にとって、両奏者とも古典から現代まで幅広い適応力を持ったアーティストと思う。 それというのも、このモーツァルトの演奏が見事だからである。モーツァルトの「ヴァイオリン・ソナタ」は「ヴァイオリン付のピアノソナタ」である、とよく言われる。確かに初期の作品はヴァイオリンがなくても演奏できる目的で書かれている。しかし、後期になるに従い、両楽器の位置関係は対等となる。特に高名なマンハイム旅行中のK.304、ウィーン時代のK.454、K.481、K.526などはそうである。 ここで聴く二人の演奏は、ピアノとヴァイオリンから伝えられる情報量が非常に作品のスタイルに適合した印象。ピアノがリードする部分と、対等な部分の織り成しが巧妙で、音響的なバランス感覚がきわめて優れていると感じられる。また、単にヴァイオリンがピアノを和声的に支える部分でも、音楽に彩りや情感を与える背景を過不足なく表現できる「ニュアンス」が含まれている。それらは、少し奥ゆかしいヴァイオリンにも聴こえるが、全体を健康的で、流麗な響きで満たしており、音楽としての整合性が高く、聴き手に感興を呼び覚ましてくれる。 主要な作品がすべて収録されていることと合わせて、高い価値のあるアルバムだ。 |
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ヴァイオリン・ソナタ 第24番 第25番 第26番 第27番 第28番 第29番 第30番 第32番 第33番 第34番 第35番 第36番 第38番 第40番 第41番 第42番 第43番 vn: シトコヴェツキー p: リフシッツ パッパーノ レビュー日:2018.1.21 |
★★★★★ モーツァルトのヴァイオリン・ソナタ名作群が揃った幸福感溢れる4枚組アルバム
Hansslerレーベルからリリースされたドミトリ・シトコヴェツキー(Dmitry Sitkovetsky 1954-)によるモーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)のヴァイオリン・ソナタの録音をまとめた4枚組。 収録内容は以下の通り。 【CD1】 2006年録音 1) ヴァイオリン・ソナタ 第29番 イ長調 K.305(293d) 2) ヴァイオリン・ソナタ 第36番 変ホ長調 K.380(374f) 3) ヴァイオリン・ソナタ 第28番 ホ短調 K.304(300c) 4) ヴァイオリン・ソナタ 第40番 変ロ長調 K.454 【CD2】 2007年録音 5) ヴァイオリン・ソナタ 第25番 ト長調 K.301(293a) 6) ヴァイオリン・ソナタ 第30番 ニ長調 K.306(300l) 7) ヴァイオリン・ソナタ 第32番 ヘ長調 K.376(374d) 8) ヴァイオリン・ソナタ 第42番 イ長調 K.526 【CD3】 2008年録音 9) ヴァイオリン・ソナタ 第27番 ハ長調 K.303 (293c) 10) ヴァイオリン・ソナタ 第33番 ヘ長調 K.377 (374e) 11) ヴァイオリン・ソナタ 第34番 変ロ長調 K.378 (317d) 12) ヴァイオリン・ソナタ 第41番 変ホ長調 K.481 【CD4】 2009年録音 13) ヴァイオリン・ソナタ 第26番 変ホ長調 K.302 (293b) 14) ヴァイオリン・ソナタ 第35番 ト長調 K.379 (373a) 15) ヴァイオリン・ソナタ 第38番 ハ長調 K.403 (385c) 16) ヴァイオリン・ソナタ 第24番 ハ長調 K.296 17) ヴァイオリン・ソナタ 第43番 ヘ長調 K.547 最初に録音された【CD1】はアントニオ・パッパーノ(Antonio Pappano 1959-)、他の3枚はコンスタンティン・リフシッツ(Konstantin Lifschitz 1976-)のピアノ。 現代楽器の特性を活かして、温もりがあり、豊かで、感情表現に秀でた演奏だ。全般に快活なテンポで、音量幅を存分に使っており、歴史的考証ぶった堅物の演奏とはまったく異なる仕上がり。 【CD1】ではパッパーノのピアノもたいへん個性的。オペラ指揮者として名を馳せたパッパーノのピアノもまたケレン味たっぷりのスリリングな味わいに満ちている。私は、この1枚目が一番好き。 第29番では第2楽章の変奏の演出が色彩感豊かでことのほか楽しい。第36番は白熱さえ感じさせる二重奏で、明瞭なコントラストで音楽の起伏をくっきりと浮き立たせる。一方で、第28番は、悲劇性を強調するより、むしろ内省的な深みや慈愛を感じさせる演奏になっており、特に第2楽章が美しい。第40番については、より機微に即した落ち着いたテンポを好む人も多いかもしれないが、急速部と緩徐部の対比をくっきりと描いた演奏で、これも一興と思う。 リフシッツがピアノを担当する【CD2~4】も、もちろん悪くない。むしろ、シトコヴェツキーのヴァイオリンには、伴奏の佇まいを感じさせるリフシッツの方が、全体的な優雅さを引き出しているところもある。ことさら面白いというわけではないが、幸福感への作用が大きいという点で、シトコヴェツキーのスタイルと齟齬なく一致する。 第25番では、冒頭の主題提示から十分なダイナミックレンジのある表現が主張される。この傾向は、シトコヴェツキーのモーツァルト全般につらなる印象でもある。第30番では丁寧に刻まれるイントネーションが楽曲の輪郭をよく映えるものにしていて気持ちが良い。第32番では優雅で快活なヴァイオリンとピアノの対話が美しい。もちろん、この曲の場合、どのような演奏であっても、曲の魅力で聴かせてしまうのだけれど、当盤の特徴はそこに加わる豊饒な楽器の響きということになるだろう。テンポへの感覚にはことに厳しいものではないが、それも音楽表現に程よいものと感じられる。終楽章のロンドも好ましい典雅さに溢れている。最後に収録されている第42番は、「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」(K.525)と「ドン・ジョヴァンニ」(K.527)の間のケッヘル番号を持つ最晩年の名作で、アインシュタイン(Albert Einstein 1879-1955)がこのジャンルでもっとも重要な作品と言及したもの。この曲では、シトコヴェツキーとリフシッツはより緊張感のある一定の間合いを感じさせる演奏を行っており、印象深い。 全般に現代楽器の輝かしいサウンドが印象的だが、哀しみの表出も素晴らしい。私は、第33番の第2楽章の変奏曲章が大好きで、かつてシモン・ゴールドベルク(Szymon Goldberg 1909-1993)とラドゥ・ルプー(Radu Lupu 1945-)の美演を繰り返し聴いたものだが、当録音を聴いて、たちまちあの名演奏を思い出した。どちらも麗しいほどの情感を宿して旋律が奏でられる。リフシッツのピアノがルプーに比べるとややフラットな印象だが、それもまた良し。シトコヴェツキーのヴァイオリンとの相性はとても良い。一つ一つの変奏が、琴線に響く憂いに満ちて、悲色がすっとたなびくように次の楽想に移って行く。久しぶりに私はこの楽曲に、思うままにひたった。 また、描かれる感情の奥深さと言う点では、第41番のアダージョももちろん歴史的な名作である。こう考えると、シトコヴェツキーとリフシッツの顔合わせに本当に相応しい4曲が当盤では収録されていると感じられる。序奏を備えた第27番の運動美も立派。 4枚目のアルバムは、カタログで探す限り単発売品を探し出せない。近ごろはやりのユーザーに二重購入を強いる規格だとしたら残念だ。そのような傾向は、ユーザーをダウンロード商品の消費者へ誘導し、結果的にCDの売上低迷を招くことになると思うのだが。とはいえ、この演奏も良い。晩年の複層的な情緒の交錯が描かれる第43番とともに、私が子供のころ、よく家でLPが鳴っていた第24番、この愛すべき佳品をふさわしい幸福感に満ちたデュオが奏でてくれる。 モーツァルトのヴァイオリン・ソナタの名曲を一通り収録し、演奏・録音ともに良好。廉価でもあり、全体として推薦することをためらう理由のないアイテムとなっている。 |
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ヴァイオリン・ソナタ 第24番 第28番 第32番 第33番 第34番 第35番 第37番 第40番 第41番 第42番 第43番 「ああ、私は恋人を失くした(泉のほとりで)」による6つの変奏曲 vn: パウク p: フランクル レビュー日:2021.1.18 |
★★★★★ 「楽しい」「聴きやすい」「疲れない」というアルバム
独membranレーベルのシリーズ、「Quadromania」は、幅広い年代に録音された音源から、あるテーマに基づくCDメディア4枚分をボックス化し、廉価でリリースしているもの。様々なジャンルの音楽が扱われているが、当盤には、ハンガリーのヴァイオリニスト、ジェルジ・パウク(Gyorgy Pauk 1936-)が、同じくハンガリーのピアニスト、ペーター・フランクル(Peter Frankl 1935-)と録音したモーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)の主要なヴァイオリン・ソナタが収録されている。収録曲は下記の通り。 【CD1】 1) ヴァイオリン・ソナタ 第24番 ハ長調 K.296 2) ヴァイオリン・ソナタ 第34番 変ロ長調 K.378 3) ヴァイオリン・ソナタ 第32番 ヘ長調 K.376 4) ヴァイオリン・ソナタ 第28番 ホ短調 K.304 【CD2】 5) 「ああ、私は恋人を失くした(泉のほとりで)」による6つの変奏曲 ト短調 K.360 6) ヴァイオリン・ソナタ 第35番 ト長調 K.379 より 第1、第2楽章 7) ヴァイオリン・ソナタ 第43番 ヘ長調 K.547 【CD3】 8) ヴァイオリン・ソナタ 第41番 変ホ長調 K.481 9) ヴァイオリン・ソナタ 第42番 イ長調 K.526 【CD4】 10) ヴァイオリン・ソナタ 第37番 イ長調 K.402 11) ヴァイオリン・ソナタ 第40番 変ロ長調 K.454 12) ヴァイオリン・ソナタ 第33番 ヘ長調 K.377 アイテムに録音年の記載はないが、ウェブサイト等で確認してみると、1991年頃の録音と思われる。 モーツァルトのヴァイオリン・ソナタ集には、当然のことながら名盤・名演が数多くあるのだが、この録音は、メジャー・レーベルのアーティストたちの影に埋もれながらも、捨てがたい滋味ある喜びに満ちたものであり、古今の名録音群と比較しうる内容を持っているといって良い。 この演奏の美点は、楽器の自然な響きによって引き出された古典的ないかにも座りの良い美観である。過度に輝き過ぎず、過度に主張し過ぎず、しかし必要な感情表現や余韻は備わっている。モーツァルトの音楽の形容として、しばしば使用される「無垢」性が、的確な作法によって正しく引き出された安心感がある。 演奏の肌合いは、軽やかなものだろう。概して、ダイナミックレンジを制約して、均質性を整えているため、抑制的であり、素直に弾けば、そのまま曲が歌ってくれるというスタンスだろう。ピアノは、柔らかめのトーンも用いていて、うまく曲想をコントロールしている。例えば、3枚目に収録された第41番と第42番のソナタに、その傾向が端緒に出ているだろう。第41番の第2楽章は、ピアノのこまやかなタッチがたいへん美しく、この曲の録音として、特に印象深いものとなっている。 「ああ、私は恋人を失くした(泉のほとりで)」による6つの変奏曲は、収録機会が多くはないが、モーツァルトらしい哀しみがにじみ出た佳品である。ソナタ第33番の第2楽章の変奏曲と好一対といった印象を受ける。当アルバムで両曲を聴けるのはうれしい。 演奏内容は優れているが、当アイテムを商品としてみたとき、疑問点はCD1枚あたりの収録時間の短さにある。4枚のCDの収録時間は、それぞれ60分36秒、38分32秒、45分38秒、48分33秒であり、LPの規格の名残なのかもしれないが、今となっては「Quadromania」の名前のため、無理やり「4枚組」の体裁に合わせたように思えてしまう。CD3枚で十分に収録できてしまう情報量だから、CD入れ替えの手間を考えると、マイナス点となる。また、ヴァイオリン・ソナタ第35番では、終楽章の変奏曲がなぜかカットされてしまっている点も残念。 とはいえ、いかにもモーツァルトのヴァイオリン・ソナタにふさわしい響きを堪能できる演奏であり、廉価であることを踏まえ、購入して良かった。 |
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ヴァイオリン・ソナタ 第24番 第32番 第35番 第36番 vn: 若松夏美 fp: 小島芳子 レビュー日:2007.10.6 |
★★★★★ 「楽しい」「聴きやすい」「疲れない」というアルバム
若松夏美と小島芳子によるモーツァルトのヴァイオリン・ソナタ集。日本人アーティストのオリジナル楽器奏者によるモーツァルトをBISが企画するというのも面白いが、その試みは大いに成功したと言える。それにしてもジャケットデザインがかなり和風な作りであるが、このアルバムの収録曲と「和」はまったく関係ないと思うのだが・・・それほど、焦点を「演奏者」に当てた企画だったのだろうか?そこら辺も興味はつきないですね。とはいえジャケットデザインそのものはとてもいいと思います。 収録曲ですが、いわゆるわかり易い番号で表記すると、収録順に第25番(kv296)、第35番(kv379(373a))、第32番(kv376(374d))、第36番(kv380(374f))となります。CDのジャケットにはこの通常の「番号表記」がなく、代わりに別の記番が印字されていて、内容がいまいち伝わり難いと思う。私も実際にCDを手にとって「このCDに収録されている曲はいったいなんだろう?」と考えてしまった。こうなると、むしろケッヘル番号だけの方がいいような気もするがでも私も含めてモーツァルトのヴァイオリン・ソナタをケッヘル番号(kv)だけでわかる人はほとんどいないとも思うので・・・。実際、このアルバムにはどれも充実した聴き応えのあるモーツァルトの傑作が並んでいる。 演奏はバロックヴァイオリンとフォルテピアノの音色を活かした闊達で実に豊かなもので、第25番冒頭の特有の柔らかさのある音の融合からして魅惑的である。小島のピアノはここでも雄弁で、フォルテピアノの楽器としての特徴を思い切って全面に押し出し、きわめてスピーディーで爽快極まりない快演と言える。また若松のヴァイオリンも、非常に「まろみ」のある柔らかな、深い音色であり、小島のピアノの音色とよくあっている。とにかく聴いていて楽しい、聴きやすい、疲れない、というアルバム。モーツァルトの室内楽を存分に楽しんだという充足の得られる豊かな内容です。 |
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ヴァイオリン・ソナタ 第25番 第30番 第32番 第40番 vn: シトコヴェツキー p: リフシッツ レビュー日:2018.1.21 |
★★★★★ ピアニストがリフシッツに交代しての“シトコヴェツキーのモーツァルト ソナタ集” 第2弾
Hansslerレーベルからリリースされた、ドミトリ・シトコヴェツキー(Dmitry Sitkovetsky 1954-)による、モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)のヴァイオリン・ソナタ集の第2弾。ピアノはコンスタンティン・リフシッツ(Konstantin Lifschitz 1976-)で、第1弾のパッパーノ(Antonio Pappano 1959-)から交代した。 収録曲は以下の通り。 1) ヴァイオリン・ソナタ 第25番 ト長調 K.301(293a) 2) ヴァイオリン・ソナタ 第30番 ニ長調 K.306(300l) 3) ヴァイオリン・ソナタ 第32番 ヘ長調 K.376(374d) 4) ヴァイオリン・ソナタ 第42番 イ長調 K.526 2007年の録音。 第1弾に引き続いてシトコヴェツキーのヴァイオリンは豊饒でロマンティックで、よく歌っている。暖色系で柔らか味のあるサウンドは、人によっては、もっと禁欲的というか無垢さが欲しいと感じられるかもしれないが、積極的な朗らかさは、聴き手の気持ちをポジティヴにする性質のもので、これもまたモーツァルトの芸術の成せる一面、と感じさせてくれる。 私は、第1弾でパッパーノの彩り豊かなピアノがとても面白かったので、それがリフシッツに交代したのは、やや残念なのではあるが、それはリフシッツが良くない、と言っているわけではなく、むしろ、シトコヴェツキーのヴァイオリンには、伴奏の佇まいを感じさせるリフシッツの方が、全体的な優雅さを引き出しているところもある。面白いというわけではないが、幸福感への作用が大きいという点で、シトコヴェツキーのスタイルと齟齬なく一致する。 第25番では、冒頭の主題提示から十分なダイナミックレンジのある表現が主張される。この傾向は、シトコヴェツキーのモーツァルト全般につらなる印象でもある。第30番では丁寧に刻まれるイントネーションが楽曲の輪郭をよく映えるものにしていて気持ちが良い。第32番では優雅で快活なヴァイオリンとピアノの対話が美しい。もちろん、この曲の場合、どのような演奏であっても、曲の魅力で聴かせてしまうのだけれど、当盤の特徴はそこに加わる豊饒な楽器の響きということになるだろう。テンポへの感覚にはことに厳しいものではないが、それも音楽表現に程よいものと感じられる。終楽章のロンドも好ましい典雅さに溢れている。最後に収録されている第42番は、「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」(K.525)と「ドン・ジョヴァンニ」(K.527)の間のケッヘル番号を持つ最晩年の名作で、アインシュタイン(Albert Einstein 1879-1955)がこのジャンルでもっとも重要な作品と言及したもの。この曲では、シトコヴェツキーとリフシッツはより緊張感のある一定の間合いを感じさせる演奏を行っており、印象深い。 以上の様に、パッパーノからリフシッツへの交代があったものの、ヴァイオリニストのカラーをよく引き出す伴奏ピアニストを経て継続された続編は、モーツァルトの音楽の美しさを十分に伝えるもので、私は満足の行く内容。第1弾から刺激成分を減じたとはいえ、そのロマンティックな弾きぶりは、多くの人に受け入れられるものに違いない。 |
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ヴァイオリン・ソナタ 第27番 第33番 第34番 第41番 vn: シトコヴェツキー p: リフシッツ レビュー日:2018.1.21 |
★★★★★ シトコヴェツキーとリフシッツの演奏の「良さ」を堪能できる4曲
Hansslerレーベルで作製されたドミトリ・シトコヴェツキー(Dmitry Sitkovetsky 1954-)によるモーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)のヴァイオリン・ソナタ集第3弾。 第2弾に続いて、ピアノはコンスタンティン・リフシッツ(Konstantin Lifschitz 1976-)で、以下の4曲が収録されている。 1) ヴァイオリン・ソナタ 第27番 ハ長調 K.303 (293c) 2) ヴァイオリン・ソナタ 第33番 ヘ長調 K.377 (374e) 3) ヴァイオリン・ソナタ 第34番 変ロ長調 K.378 (317d) 4) ヴァイオリン・ソナタ 第41番 変ホ長調 K.481 2008年の録音。 歴史的な考察等とは別の切り口による両楽器のスペックを存分に生かして歌い、そして情熱を感じさせるロマンティックな演奏。ピリオド楽器主流の現在であるが、私個人的には、当盤のスタイルを歓迎したい。ふくよかで、適度な残響のあるサウンド、そして闊達で表情豊かな2つの楽器の交錯は、モーツァルトのメロディをほどよい発色で描いている。 特に、今回はモーツァルト晩年の名品が収録されたこともあって、彼らの演奏により引き出される情緒は、とても魅力に満ちたものとなっている。ソナタ第34番は、ひところ日本ではモーツァルトのヴァイオリン・ソナタの代表作とされたもので、人気作だ。確かに他にも名品に事欠かないソナタ群の中でも、ひときわ充実したものの一つに違いない。冒頭からシトコヴェツキーのリフシッツの演奏の輝かしいこと。現代楽器でモーツァルトを弾くことに疾しいことなど一つもない(当然だが)、と言い切った清々しい感興に溢れる。そして、連続される躍動感、メリハリの効いたリズム、存分に歌う旋律。どれもが、このソナタらしい生命力を漲らせた表現になっていて、闊達この上ない。 輝かしいだけでなく、哀しみの表出も素晴らしい。第33番の第2楽章の変奏曲。私は、この楽章が大好きで、かつてシモン・ゴールドベルク(Szymon Goldberg 1909-1993)とラドゥ・ルプー(Radu Lupu 1945-)の美演を繰り返し聴いたものだが、当録音を聴いて、たちまちあの名演奏を思い出した。どちらも麗しいほどの情感を宿して旋律が奏でられる。リフシッツのピアノがルプーに比べるとややフラットな印象だが、それもまた良し。シトコヴェツキーのヴァイオリンとの相性はとても良い。一つ一つの変奏が、琴線に響く憂いに満ちて、悲色がすっとたなびくように次の楽想に移って行く。久しぶりに私はこの楽曲に、思うままにひたった。 また描かれる感情の奥深さと言う点では、第41番のアダージョももちろん歴史的な名作である。こう考えると、シトコヴェツキーとリフシッツの顔合わせに本当に相応しい4曲が当盤では収録されていると感じられる。序奏を備えた第27番の運動美も立派。 総じて、肉付き豊かで、情緒に満ちたモーツァルト録音となっている。 |
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ヴァイオリン・ソナタ 第28番 第29番 第36番 第40番 vn: シトコヴェツキー p: パッパーノ レビュー日:2018.1.12 |
★★★★★ 装飾性に富んだ明朗なモーツァルト
ドミトリ・シトコヴェツキー(Dmitry Sitkovetsky 1954-)のヴァイオリン、アントニオ・パッパーノ(Antonio Pappano 1959-)のピアノによるHansslerレーベルからリリースされたモーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)のヴァイオリン・ソナタ集第1弾で2006年に録音されたもの。その後、続編も録音されたが、第2弾以降なぜかピアニストがコンスタンティン・リフシッツ(Konstantin Lifschitz 1976-)に変更されてしまった。しかし、私はこの第1弾のパッパーノのピアノがとても素晴らしいと思ったので、シリーズ中では、この1枚目のディスクを特に気に入っている。収録されているのは、以下の4曲。 1) ヴァイオリン・ソナタ 第29番 イ長調 K.305(293d) 2) ヴァイオリン・ソナタ 第36番 変ホ長調 K.380(374f) 3) ヴァイオリン・ソナタ 第28番 ホ短調 K.304(300c) 4) ヴァイオリン・ソナタ 第40番 変ロ長調 K.454 この演奏の印象は、まずロマンティックなものとである、と感じられる。モーツァルトのこれらの楽曲は、構成的に「ヴァイオリンが付随したピアノ・ソナタ」として考えられており、そこで主導権を握るのはピアノであると考えられる。しかし、当演奏では、ヴァイオリンが主導する形で、ルバートやアーティキュレーションの装飾が行われている様相で、ヴァイオリンが生き生きと表情豊かに活躍している。従来の録音で言えば、ムター(Anne-Sophie Mutter 1963-)やパールマン(Itzhak Perlman 1945-)を連想する。シトコヴェツキーのヴァイオリンは、ロマンティックといっても、過度に甘美に凝らず、健やかに情緒を巡らせるが、パッパーノのピアノにもまた華やぎがあり、生気に溢れた楽器間の応答が鮮やかだ。 第28番以外では、第1楽章の主部か一般的な演奏より早めのテンポをもちいている。第29番では第2楽章の変奏の演出が色彩感豊かでことのほか楽しい。第36番は白熱さえ感じさせる二重奏で、明瞭なコントラストで音楽の起伏をくっきりと浮き立たせる。一方で、第28番は、悲劇性を強調するより、むしろ内省的な深みや慈愛を感じさせる演奏になっており、特に第2楽章が美しい。第40番については、より機微に即した落ち着いたテンポを好む人も多いかもしれないが、急速部と緩徐部の対比をくっきりと描いた演奏で、これも一興と思う。 シトコヴェツキーのヴァイオリンは、技術的に最高というレベルではなく、私にはややピッチが低めに感じられるところもあるが、これらの楽曲では存分な歌いまわしを披露しているし、音色自体のふくよかさは魅力だ。パッパーノのスリリングな攻めのスタイルを主体としたピアノとの相性も良い。これらの楽曲を楽しませてくれる演奏として、まずは十分な内容と言える。 |
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ヴァイオリン・ソナタ 第35番 第40番 第42番 vn: テツラフ p: フォークト レビュー日:2013.9.18 |
★★★★★ モーツァルトのヴァイオリン・ソナタの完成形
ドイツのヴァイオリニスト、クリスティアン・テツラフ(Christian Tetzlaff 1966-)と、同じくドイツのピアニスト、ラルス・フォークト(Lars Vogt 1970-)によるモーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)のヴァイオリン・ソナタ集。収録曲を以下に示す。2011年の録音。 1) ヴァイオリン・ソナタ 第40番 変ロ長調 K.454 2) ヴァイオリン・ソナタ 第35番 ト長調 K.379 3) ヴァイオリン・ソナタ 第42番 イ長調 K.526 モーツァルトのヴァイオリン・ソナタは、作曲者が10歳になる前に書かれた第1番に始まり、作曲者32歳の1788年に書かれた第42番がラスト・ナンバーとなる。 第40番のソナタは、当時20歳(モーツァルトより8歳年下)のマントヴァの女流ヴァイオリニスト、レジーナ・ストリナザッキ(Regina Strinasacchi 1764-1823)のために書かれた作品として有名で、壮麗な序奏に始まる、当時珍しいほどヴァイオリンに大きな役割を与えたソナタとなっている。第35番は2楽章構成であるが、その第1楽章に長いアダージョによる序奏が与えられているのが特徴。最後のソナタである第42番については、アインシュタイン(Albert Einstein 1879-1955)が、数多くの転調と全編に満ちた気高さ、古典的完璧性などを踏まえ、ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven 1770-1827)のクロイツェル・ソナタへの布石となるもの、と表現し、その歴史的価値に言及している。 以上の様にこれらの3曲は、モーツァルトのこのジャンルにおける完成を示す作品である。これらの3曲の他にも、旋律的な魅力の大きさから、代表曲として挙げられる曲もあるけれども、当盤に収められた曲たちは、じっくりと聴きこむことで、特に深い味わいを覚える性格のもので、疑いなく傑作といっていい作品たちだと思う。 テツラフとフォークトの演奏は、いかにもドイツを想像するような、常に中音域に安定を感じさせるような演奏。急ぐこともなく、歩みを遅めることもなく、適度な快活さを維持しながら、滋味豊かな色合いで、じっくりと練り込まれたような響きを堪能できる。特に第40番で活躍するヴァイオリンが、時折差す不安な気配、陰りの色合いを美しており、聴き手を深い抽象的なところで感動させてくれるものになっていると思う。また、フォークトのピアノに、鋭い切れ味があり、予定調和だけには終わらない強い主張が感じられる点も、これらのソナタの規模に相応しい頼もしさを感じさせてくれる。 これらの3曲を聴くのに、ほぼ理想的といって良い内容だと思う。 |
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ピアノ・ソナタ全集 幻想曲ニ短調 幻想曲ハ短調 p: グールド レビュー日:2006.10.26 |
★★★★★ 高貴なる背徳の悦楽
伝説のピアニスト、グレン・グールドのモーツァルトのピアノソナタ全集が、やや価格を下げて再発売となった。これを機会に購入して、久しぶりに「全集」の形で聴きなおしてみた。 まず端的に言えるのが「いい演奏だ・・・」ということである。というのは、まず、「聴く」ということ自体の面白みを多層に含んでいる事があるのと、加えて“グレン・グールド”の解釈について、あれこれ想像をしてみる楽しさがある。グールドのモーツァルトについては、特にその過激ともいえるテンポ設定が議論に上る。でもこれは別にモーツァルトだけではなくて、グールドはバッハでも結構独創的なテンポを設定していたし、ベートーヴェンの「月光」や「悲愴」もとても速かった。なぜモーツァルトにおいて、そこが大きく問題視されるのだろうか、と考えてみると、おそらくモーツァルトの「神性」のようなものに抵触すると本能的にとらえてしまうからではないだろうか?そして、そういうとらえ方も実は間違いではない。 このテンポ設定について、たしかかつてベートーヴェンのソナタのレコード解説で面白い検討があった。「グールドは作曲当時の楽器のイメージを頭に描いていたのではないか?」というものである。これは「なるほど」と思えるもので、例えば当時のピアノであれば、音のダイナミクスの幅は狭いし、音をある程度以上に保持するのは難しい。であれば、例えば演奏スタイルというのはもっと「即興的」だったに違いない。装飾音を挿入したり、あるいは和音を分散化させてみたり、というものだ。あるいは、ノンレガート気味に早く弾くという方法だってあっていいはずである。グールドの面白いところは、それをあえて「現代のピアノ」でやちゃったところにある。つまり「確信犯」なのだ。これを「モーツァルトの無垢」という「神性」に対立する概念、と思えるときは、確かにあるのだ。だが「背徳の喜び」はいつの時代にもあるし、そのような「喜び」からものすごい芸術が生まれることもある。これはそういう全集ではないのだろうか。 速いテンポで颯爽と弾き飛ばしてきたグールドが、最も有名なK.331になったとたん、通常以上にテンポを落としてゆっくりと弾く。いかにも「どうだい」といった感じである。このグールドの姿に思わず快哉を叫んでしまうのも、また一方で人の本能かもしれない。 |
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ピアノ・ソナタ全集 p: ツァハリアス レビュー日:2022.2.28 |
★★★★★ 80年代の録音ですが、現代を代表する全集と言って良いでしょう
ドイツのピアニスト、クリスティアン・ツァハリアス(Christian Zacharias 1950- “ツァハリス”とも表記される)によるモーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)のピアノ・ソナタ全集。収録曲は下記の通り。番号表記は新全集によっているが、旧全集の番号で馴染んでいる人も多いと思うので、併記した。 【CD1】 1) ピアノ・ソナタ 第1番 ハ長調 K.279 1984年録音 2) ピアノ・ソナタ 第7番 ハ長調 K.309 1985年録音 3) ピアノ・ソナタ 第10番 ハ長調 K.330 1985年録音 4) ピアノ・ソナタ 第14番 ハ短調 K.457 1985年録音 【CD2】 5) ピアノ・ソナタ 第16番 ハ長調 K.545 1985年録音(旧全集 第15番) 6) ピアノ・ソナタ 第6番 ニ長調 K.284 1985年録音 7) ピアノ・ソナタ 第9番 ニ長調 K.311 1985年録音 8) ピアノ・ソナタ 第18番 ニ長調 K.576 1985年録音(旧全集 第17番) 【CD3】 9) ピアノ・ソナタ 第4番 変ホ長調 K.282 1985年録音 10) ピアノ・ソナタ 第2番 ヘ長調 K.280 1985年録音 11) ピアノ・ソナタ 第12番 ヘ長調 K.332 1984年録音 12) ピアノ・ソナタ 第15番 ヘ長調 K.533/494 1985年録音(旧全集 第18番) 【CD4】 13) ピアノ・ソナタ 第5番 ト長調 K.283 1984年録音 14) ピアノ・ソナタ 第8番 イ短調 K.310 1985年録音 15) ピアノ・ソナタ 第11番 イ長調 K.331 「トルコ行進曲付き」 1985年録音 【CD5】 16) ピアノ・ソナタ 第3番 変ロ長調 K.281 1985年録音 17) ピアノ・ソナタ 第13番 変ロ長調 K.333 1984年録音 18) ピアノ・ソナタ 第17番 変ロ長調 K.570 1984年録音(旧全集 第16番) 節度を保ちながらも、品格と瑞々しい情感を感じさせる見事な全集。収録内容を見ると、当全集は、全18曲のピアノ・ソナタを、おおむね「調性別」に分類し、5つのCDに収録した体裁があって、編集上の特徴となっているが、演奏の素晴らしさそのもののみで、十分に満たされる内容だ。 第7番は、冒頭のフォルテのファンファーレから、適度に抑制の利いた美観に整えられている。続いて弱音で奏でられる旋律世の間に、的確な強弱のコントラストを設けつつも、その様は、適度な礼節を感じさせ、優雅で品がある。第2楽章の変奏曲は、付点が軽やかで聴き心地柔らかで、一切の無理の無い響き。終楽章のはしゃぐようなリズムも、絶好の軽みがあって、しかし、しっかりとしたニュアンスも感じさせる。第8番は劇性の中に落ち着きがあり、パッセージの煌めきが忘れがたい。第10番は、第1楽章の華やかさに魅了される。テンポは穏当であるが、音色の絶対的な美観と、快く刻まれるリズムによって、楽曲はふさわしい闊達さに満ち、喜びに溢れた音楽となる。第2楽章の憂い、第3楽章のワクワク感も、モーツァルトにふさわしい典雅さをもって表現されている。音色自体の清潔感も魅力。第14番は、劇的な様相を十分に表出しながらも、端正な語り口で、真摯な美観に貫かれている。特に終楽章、淡々と進みながらも、哀しみが切々と深まっていくようなピアノは、感動的。 第16番のような技巧的に簡単な作品であっても、ツァハリアスはスピードを上げて弾き飛ばすようなことはせず、スタッカートの妙味を活かしながら、単純な音階に美しいニュアンスを通わせていて、さすが、モーツァルトに精通したピアニストの演奏であると唸らされる。単純な楽曲でこそ、奏者の芸術性が明らかになるという端的な例であるとともに、奏者の作品への愛情が健やかに伝わる名演だと思う。第2楽章のアンダンテが特に魅力的。個性的な抑揚のある音楽だが、ツァハリスの緩急は自然で、健やかな情緒を与えながら、曲想を演出している。暖炉の周りで火影が揺らぐような情感を感じ、私はその様に胸打たれたがいかがだろうか。モーツァルトの音楽の、さりげないようでいて深い一面を垣間見せてくれる瞬間でもある。第9番は、冒頭の輝かしさから、よく抑えの利いた展開への移行が自然そのもので、安心して身を任せられる心地よさがある。第2楽章の情感も美しいが、終楽章で、第2主題をテンポを落してじっくりと歌い上げるところなど、心憎い巧さに満ちており、充実した聴き味をもたらす。第18番は、狩を思わせるフレーズから開始されるが、ツァハリアスのピアノは、いかにも肩ひじの張らないすみやかなスタイルで、洗練を感じさせる。現代ピアノならではの透明感を存分に用いて、パッセージの交錯に適度な発色性を与え、その豊かさがモーツァルトの音楽の喜びに直接つながる感触を伴う。第3楽章はモーツァルトのピアノ・ソナタ群の中では、特に技巧的なものとなっているが、冴えたツァハリアスのピアノは、いつも余裕があり、それゆえの粒だった音による歌があり、伸びやかな音世界が描かれている。 第12番は、前半2楽章はオーソドックスで、美しく仕上がっており、第2楽章の情感は胸に沁みるが、当演奏で最も特徴的なのは第3楽章である。そこで、ツァハリアスは、即興的な装飾を加え、テンポも自由さを加味しながら、実に華々しい演奏を繰り広げている。他の演奏に比べて、やや重厚さを増した感があるところも、ツァハリアスの一連のモーツァルト録音の中で、特徴的なものとなっているだろう。第15番は、第2楽章のアンダンテが特に魅力的。個性的な抑揚のある音楽だが、ツァハリスの緩急は自然で、健やかな情緒を与えながら、曲想を演出している。暖炉の周りで火影が揺らぐような情感を感じ、私はその様に胸打たれたがいかがだろうか。モーツァルトの音楽の、さりげないようでいて深い一面を垣間見せてくれる瞬間でもある。 第8番は劇性の中に落ち着きがあり、パッセージの煌めきが忘れがたい。第11番は、第1楽章の変奏曲を、一つ一つ、しっかりと歌をもって響かせている。そのため、テンポは落ち着いたものとなるが、それゆえの風情があって良い。個人的にはアップテンポで弾き飛ばすしてしまうより、当演奏の方がはるかに好ましいと思う。なお、有名な「トルコ行進曲」では、終楽章のコーダで、シンバルが加えられる。この別楽器の挿入というのは、ソナタという概念と照らすと、驚かされるが、確かに古今様々な演奏・録音があり、すっかり聴き手に馴染まれた楽章であれば、いっそのことこれくらいのインパクトで差別化があっても、面白いかもしれない。ツァハリアスというアーティストの発想力の豊かさを感じさせる。 第17番は、ゆったりしたユニゾンから、素朴な音楽が流れていくが、ツァハリアスのピアノは、その素朴さをそのまま愛おしむ様に奏でられる。純朴に描かれる陰影が、この作品に相応しい。また、終楽章のシンコペーションによるリズムは、明朗で、現代ピアノならではの明るい響きを十全に響かせている。 |
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ピアノ・ソナタ 第3番 第8番 第15番 第18番 p: コロリオフ レビュー日:2014.7.24 |
★★★★★ 自然光のような無為さで、モーツァルトの陰影を描き出した演奏
ロシアのピアニスト、エフゲニー・コロリオフ(Evgeni Koroliov 1949-)によるモーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)のピアノ・ソナタ集。2003年録音。収録曲は以下の通り。 1) ピアノ・ソナタ 第3番 変ロ長調 K.281 2) ピアノ・ソナタ 第8番 イ短調 K.310 3) ピアノ・ソナタ 第18番(新 第15番) ヘ長調 K.533 4) ピアノ・ソナタ 第15番(新 第16番) ハ長調 K.545 なお、モーツァルトのピアノ・ソナタは、旧全集と新全集で15番以降の番号の振り方が変更されている。私は旧番号でなじんでいるため、その数字を記載したが、新番号を併記させていただいた。4)が有名ないわゆる「初心者のための」作品で、俗にいうモーツァルトの3大ピアノ・ソナタの1曲となる(他の2曲は第8番と第11番)。 また第18番(新 第15番)をK.533と書いたけれども、この楽曲は、厳密には3つの楽章のうち第1楽章と第2楽章(K.533)が1788年、第3楽章(K.494)が1786年に作曲されているため、別々のケッヘル番号を併せて表記することもある。 以上で、まずは収録曲を間違えないように、注意していただきたい。 さて、コロリオフは、最近では一連のバッハ(Johann Sebastian Bach 1685-1750)作品の録音で、注目されるようになってきたが、他の録音に関しては、あまり聴かれているとは言えない状況にある。 しかし、優れたピアニストであることは間違いなく、彼の弾くものはバッハに限らず、広く聴かれる価値を有しているものだと思う。このモーツァルトも、一聴すると地味な演奏に聴こえるかもしれない。彼の演奏は、あざとさを排し、リピートでもそう大きく違う表現を採用することはない。非常に真摯に奏でられた演奏と思う。つまり、その地味さの中に潜む真摯な高貴さこそが、コロリオフのモーツァルトの魅力であると思う。 第3番というソナタは、あまり聴かれる機会がないと思うが、モーツァルトらしい無垢な美しさを湛えた旋律が、滾々と紡がれる音楽で、コロリオフの輪郭のはっきりした響きは、この曲のフレームを浮かびがらせ、清涼な聴き味を引き出している。 悲劇的な諸相を持った第8番のような楽曲でも、コロリオフのアプローチには一貫した客観性があり、演出性を減じた一種禁欲的な音楽が進行する。しかし、コロリオフの卓越した技術で、しっかりと築き上げられた完璧な響きは、時にベートーヴェン的な彫像性を感じさせるほどの陰影があり、はっとさせられる。 第18番では、特に終楽章の素朴な、しかし慎み深い美を感じさせる旋律の表現に、コロリオフの芸風の深さが感じられるし、第15番では、心憎いほどの落ち着き、はじめからそこにあったような作為のない自然さに満たされた表現で、一つのモーツァルト演奏の完成形を見るような思いにさせられる。 録音が明瞭なことも含めて、現代のモーツァルトのピアノ作品における一つの模範的な解釈として挙げたい一枚。 |
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ピアノ・ソナタ 第4番 第5番 第10番 第12番 第13番 第15番 第16番 第17番 ロンド ニ長調 K.485 イ短調 K.511 ジーグ ト長調 K.574 幻想曲ニ短調 K.397 p: アムラン レビュー日:2015.4.14 |
★★★★★ 絶対的なモーツァルトへの適性を証明したアムランの録音
現代、最も技巧に優れていると思われるアムラン(Marc-Andre Hamelin 1961-)によるモーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)のピアノ作品集。2013年録音。収録内容は以下の通り。 【CD1】 1) ピアノ・ソナタ 第17番 ニ長調 K.576 2) ピアノ・ソナタ 第5番 ト長調 K.283 3) ピアノ・ソナタ 第12番 ヘ長調 K.332 4) ピアノ・ソナタ 第16番 変ロ長調 K.570 5) ロンド ニ長調 K.485 6) ジーグ ト長調 K.574 【CD2】 7) ピアノ・ソナ タ第10番 ハ長調 K.330 8) ピアノ・ソナタ 第13番 変ロ長調 K.333 9) ピアノ・ソナタ 第15番 ハ長調 K.545 10) ピアノ・ソナタ 第4番 変ホ長調 K.282 11) ロンド イ短調 K.511 12) 幻想曲 ニ短調 K.397 アムランというピアニストは、つい最近まで、超絶技巧曲のスペシャリストというイメージが強く、実際、そのレパートリーも、アルカン(Charles Valentin Alkan 1813-1888)やゴドフスキー(Leopold Godowski 1870-1938)など、その技巧的な至難さから一般的なものとはなりにくい作品を手掛けることが多かった。私のこれらの録音を聴いてきて、その難しさをほとんど感じさせないアムランの弾きぶりに、いたく感心する一方で、音色という点では多彩という感じを受けなかったので、逆に一般的な作品を弾いた場合、他の大家たちのものと並び称されるほど印象の残るものになるかどうか、疑問に感じていた。 ところが、最近になって、アムランは古典やロマン派、それに印象派の作曲家を多く手掛けるようになり、しかも色彩感も相応に盛られた内容で、その名演ぶりに新たに感心させられた。あるいは、アムランの中で、いよいよこれらの作品にアプローチできる、という何らかの準備が整った結果であるのかもしれない。 そして、このモーツァルトである。これがまた一際素晴らしい。 モーツァルトのピアノ曲というのは、わりと初学のうちに教わることが多いし、確かに超絶的な技巧を必要とするものではない。しかし、モーツァルトのピアノ曲は、ロマン派の作品のようなレガート奏法を受け入れる余地がきわめて少なく、弾き手には一層の制約が求められる。 そういった意味で、アムランのようなピアニストは、本質的にモーツァルトに相性はいいのである。ここに収録された曲たちは、いずれも粒立ちのそろった明晰な音で、とても理論的に弾かれている。私にはそれがしばしば物理法則に近い美しさを感じさせる。どこにあっても成立する絶対的な定理のように響く。 ソナタ第12番の終楽章の解放感と圧倒的な運動性能、ソナタ第10番の1楽章の完璧なフォルム。いずれもアムランというピアニストが手掛けることによって、その結晶のような輝きは完璧さを宿す。初学者のための定番と言われる第15番でさえ、アムランの手にかかると当方位的な力の均衡の美学を感ぜずにはいられない。 その一方で、絶対的なソノリティも美しい。ソナタ第16番の主題に潜む陰りが、これほどさり気なく、かつ深く響いたことがあっただろうか。末尾に収録された短調の2つの小品も、透徹した悲しみが表出している。 楽曲と演奏の抜群の相性の良さを感じさせる2枚組だ。それと【CD1】の末尾のジーグは、あまり弾かれることのない1分ちょっとの楽曲だが、後の無窮動音楽を予感させる面白さに満ちているので、アムランが手掛けてくれたことは、とてもうれしい。 |
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ピアノ・ソナタ 第4番 第11番「トルコ行進曲付」 第14番 幻想曲ハ短調K.475 p: コロリオフ レビュー日:2014.5.22 |
★★★★★ 厳粛で気高いコロリオフのモーツァルト
エフゲニー・コロリオフ(Evgeni Koroliov 1949-)による2005~06年録音のモーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)のソナタ集。収録曲は以下の通り。 1) ピアノ・ソナタ第4番 変ホ長調 K.282 2) 幻想曲 ハ短調 K.475 3) ピアノ・ソナタ 第14番 ハ短調 K.457 4) ピアノ・ソナタ第11番 イ長調 K.331 「トルコ行進曲つき」 ロシアのピアニスト、コロリオフは、その実力に比し、日本での評価はいまひとつで、国内盤の発売実績も「ゴルドベルク変奏曲」があるくらい。そのため、彼の芸術に接するきっかけも、あまり多くないことは、残念なことだと思う。少なくとも、彼の弾くバッハ(Johann Sebastian Bach 1685-1750)は、通販サイトでの入手が容易になっているので、多くの音楽ファンに聴いてほしいと思う。 さて、そんな私も、彼の弾くモーツァルトを聴いたのは、当盤がはじめてである。某通販サイトのキャッチ・コピーには「ギレリス(Emil Gilels 1916 -1985)を思わせる」と書いてあったが、私は、正直言って、ギレリスのピアノを聴いて、あまり感心したことがないので、その形容はあまりピンとこない。とはいえ、現在の日本でのネームヴァリューは、圧倒的にギレリスが優勢なのだろう。。 さて、コロリオフのモーツァルトは、明暗をくっきりと保ちながらも、きわめてデリケートで、強打音を排した均質的な美観の支配する世界だと思う。 ピアノ・ソナタ第4番の冒頭、主観を取り除いたような無垢な音色が、ゆっくりと、しかし遠くまで確実に伝わる様な芯を持って響いていく様は、どこか神秘的とも言える雰囲気を醸し出している。この愛すべきソナタから、これほど厳粛な佇まいを引き出し、かつ、繊細を尽くして獲得した柔らかなフォルムを感じさせる演奏は、私には未経験のものだ。 名曲として知られる幻想曲とソナタ第14番も同様で、透徹したタッチでありながら、硬さや重さを感じさせない柔らかな印象を併せ持っていて、これがコロリオフのモーツァルトの特徴なのだろうと再認識した。幻想曲終盤では、左手の基音をしっかりとコントロールした統率感が、凛々しく全体を引き締めている。ソナタ第14番でも、強音のパワーではなく、アクセントにより劇性を演出していて、颯爽とした聴き味。 有名なソナタ第11番も落ち着いたテンポで、「大人のモーツァルト」といった感じ。装飾音も派手になり過ぎない気品に満ちたもので、模範的と言ってもいい。総じてコロリオフ特有の芸風や威風に満ちていて、「本当の音楽」に触れた、という充足感を味わわせてくれる。こういった点を含めて、私には、ギレリスの硬質なタッチで突き通したモーツァルトより、コロリオフの演奏の方が、ずっと好ましく思われた次第です。 |
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ピアノ・ソナタ 第4番 第14番 組曲ハ長調K.399 ジーグ(小さなジーグ)ト長調K.574 グルックの歌劇「メッカの巡礼」の「われら愚かな民の思うは」による10の変奏曲ト長調K.455 幻想曲ハ短調K.475 hf: シュタイアー レビュー日:2013.6.10 |
★★★★☆ 2004年録音のトルコ・マーチは凄かったが・・、こちらは?
アンドレアス・シュタイアー(Andreas Staier 1955-)のフォルテピアノによるモーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)のクラヴィーア・ソロ作品集。2003年録音。収録曲は以下の通り。 1) 組曲 ハ長調 K.399 (385i) 2) 小さなジーグ ト長調 K.574 3) ピアノ・ソナタ 第4番 変ホ長調 K.282 4) グルックの歌劇「メッカの巡礼」の「われら愚かな民の思うは」による10の変奏曲 ト長調 K.455 5) 幻想曲 ハ短調 K.475 6) ピアノ・ソナタ 第14番 ハ短調 K.457 シュタイアーのモーツァルトと言うと、ピアノ・ソナタ第10番、第11番「トルコ行進曲付」、第12番の3曲を収録した2004年録音のアルバムが大変有名で、トルコ行進曲の自在な編曲変奏振りの鮮やかが今も強烈に印象に残っているほか、3曲ともたいへん素敵な演奏だったのだが、その前の年に録音された当盤に関しては、ほとんど話題になった記憶がない。収録曲は、それなりに面白いのだが、聴いてみると、全般に地味な印象がぬぐえないところがある。 曲目については、最後の2曲が名曲なのだけれど、その他の曲は、モーツァルトの中では重要な作品とは言い難いものだ。そして、これらの楽曲に関するシュタイアーのアプローチだが、録音のせいなのか、妙におとなしく、音もこもったような印象になっている。 たしかに技術的な切れ味は鋭く、時として、オッと思うような瞬間があるのだけれど、それが持続するかというとそうでもなく、全般にどことなく平板さを感じてしまう。こうなると、やはり楽器の持っているスペックという点にも疑問を差し挟みたく感じてしまう。 対するに後半2曲はさすがに聴かせてくれる。幻想曲は劇的な緩急のある音楽だが、この急な部分の異様なほどのスピード感は、純粋なメカニカルな演奏技術によってもたらされており、興奮の要素を強く備えている。音の持続力が小さいフォルテピアノならではの、機動力を追求した音楽効果が、十分に得られているようだ。ピアノ・ソナタ第14番も劇的な跳躍のある第1楽章が凄味のあるところ。時としてスピードに傾きすぎているところも感じられるが、未練のない飛ばしっぷりはなかなか魅力的だ。 以上の様に、楽器とシュタイアーの個性はきちんと出ていると感じられるが、これらのアプローチでは、曲によって、成果に若干以上のムラが出来てくるのは、否めないところというのが、正直な感想となった。 |
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ピアノ・ソナタ 第7番 第16番 第17番 第18番 p: ツァハリアス レビュー日:2022.1.24 |
★★★★★ 優れたモーツァルトのピアノ・ソナタ録音の一つ。歌と品格が魅力。ツァハリアスの演奏
ドイツのピアニスト、クリスティアン・ツァハリアス(Christian Zacharias 1950- “ツァハリス”とも表記される)による、モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)のピアノ・ソナタ集。下記の4作品を収録。 1) ピアノ・ソナタ 第7番 ハ長調 K.309 (284b) 2) ピアノ・ソナタ 第15番 ヘ長調 K.533/494 (旧全集 第18番) 3) ピアノ・ソナタ 第17番 変ロ長調 K.570 (旧全集 第16番) 4) ピアノ・ソナタ 第18番 ニ長調 K.576 (旧全集 第17番) 第17番は1984年、他の3曲は1985年の録音。番号表記は新全集による。 モーツァルトのピアノ・ソナタを全曲録音したピアニストは多くいて、名盤と言われるものもそれなりにあるが、このツァハリアスの録音も外せないものの一つだ。現代ピアノの輝かしい響きをベースとしながら、音の均質性と均衡性があり、かつモーツァルトに相応しい歌がある。 ピアノ・ソナタ第7番は、冒頭のフォルテのファンファーレから、適度に抑制の利いた美観に整えられている。続いて弱音で奏でられる旋律世の間に、的確な強弱のコントラストを設けつつも、その様は、適度な礼節を感じさせ、優雅で品がある。第2楽章の変奏曲は、付点が軽やかで聴き心地柔らかで、一切の無理の無い響き。終楽章のはしゃぐようなリズムも、絶好の軽みがあって、しかし、しっかりとしたニュアンスも感じさせる。 ピアノ・ソナタ第16番は、第2楽章のアンダンテが特に魅力的。個性的な抑揚のある音楽だが、ツァハリスの緩急は自然で、健やかな情緒を与えながら、曲想を演出している。暖炉の周りで火影が揺らぐような情感を感じ、私はその様に胸打たれたがいかがだろうか。モーツァルトの音楽の、さりげないようでいて深い一面を垣間見せてくれる瞬間でもある。 ピアノ・ソナタ第17番は、ゆったりしたユニゾンから、素朴な音楽が流れていくが、ツァハリアスのピアノは、その素朴さをそのまま愛おしむ様に奏でられる。純朴に描かれる陰影が、この作品に相応しい。また、終楽章のシンコペーションによるリズムは、明朗で、現代ピアノならではの明るい響きを十全に響かせている。 ピアノ・ソナタ第18番は、狩を思わせるフレーズから開始されるが、ツァハリアスのピアノは、いかにも肩ひじの張らないすみやかなスタイルで、洗練を感じさせる。現代ピアノならではの透明感を存分に用いて、パッセージの交錯に適度な発色性を与え、その豊かさがモーツァルトの音楽の喜びに直接つながる感触を伴う。第3楽章はモーツァルトのピアノ・ソナタ群の中では、特に技巧的なものとなっているが、冴えたツァハリアスのピアノは、いつも余裕があり、それゆえの粒だった音による歌があり、伸びやかな音世界が描かれている。 本当に、ほかの曲も録音してくれないかな。。。 |
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ピアノ・ソナタ 第8番 第17番 ロンドイ短調 2台のピアノのためのソナタ p: アシュケナージ フレージャー レビュー日:2007.6.25 |
★★★★★ 現代楽器としてのピアノのアビリティーを存分に発揮
アシュケナージの70歳を記念して、デッカからリリースされた、彼の若き日の録音シリーズの一つ。 アシュケナージの場合、モーツァルトのソナタ録音は意外と少なく、ここに収められた2曲以外では、95年に録音された9番、14番、16番の3曲があるのみです。ファンとしては、今からでも他の曲を録音してほしい、と思いますがいかがでしょうか。 さて、この第8番と第17番ですが、私のとても好きな演奏です。第8番は冒頭から装飾音を思い切って幅を持たせて鳴らせた、現代のピアノの演奏効果に十分に備えた表現で、モーツァルトにしてはロマンティック。だがこの表現こそ、新しいモーツァルト演奏の一つの「あり方」を提示したものでしょう。つまり、現代楽器としてのピアノのアビリティーを存分に発揮させたモーツァルト・・・。スタッカートの歯切れも見事で、楽想への細やかな気遣いもあります。短調ならではの哀しみに満ちた疾走する終楽章も鮮やか。第17番は技巧の冴えが見事で、ほぼ完全といえるアプローチにより、かつ肉付き豊かな音色を惜しみなく出し尽くします。 マルコム・フレージャーとの「2台のピアノのためのソナタ」も勢いの満ちた快演で、聴いた後の爽快感も比類ないです。 本当に、ほかの曲も録音してくれないかな。。。 |
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ピアノ・ソナタ 第9番 第11番「トルコ行進曲付」 第14番 第15番 p: ツァハリアス レビュー日:2022.2.22 |
★★★★★ モーツァルト演奏に練達した奏者ならではの深い味わい
ドイツのピアニスト、クリスティアン・ツァハリアス(Christian Zacharias 1950- “ツァハリス”とも表記される)による、モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)のピアノ・ソナタ集。下記の4作品を収録。 1) ピアノ・ソナタ 第9番 ニ長調 K.311 2) ピアノ・ソナタ 第11番 イ長調 K.331「トルコ行進曲付き」 3) ピアノ・ソナタ 第14番 ハ短調 K.457 4) ピアノ・ソナタ 第16番 ハ長調 K.545(旧全集 第15番) 1985年の録音。 番号は新全集表記で、第16番は、有名な初学者のために書かれたというソナタで、私の世代では、第15番の番号の方がなじみがある。 録音からすでに37年が経過しているが、ツァハリアスのピアノは、普遍性を感じさせる解釈に基づいた良心的なもので、これぞモーツァルトと呼びたくなる安心感に満ちたもの。録音の品質が良いこともあって、現代でもスタンダードと称して、なんら問題ない内容だ。 ソナタ第9番は、冒頭の輝かしさから、よく抑えの利いた展開への移行が自然そのもので、安心して身を任せられる心地よさがある。第2楽章の情感も美しいが、終楽章で、第2主題をテンポを落してじっくりと歌い上げるところなど、心憎い巧さに満ちており、充実した聴き味をもたらす。 ソナタ第11番は、第1楽章の変奏曲を、一つ一つ、しっかりと歌をもって響かせている。そのため、テンポは落ち着いたものとなるが、それゆえの風情があって良い。個人的にはアップテンポで弾き飛ばすしてしまうより、当演奏の方がはるかに好ましいと思う。なお、有名な「トルコ行進曲」では、終楽章のコーダで、シンバルが加えられる。この別楽器の挿入というのは、ソナタという概念と照らすと、驚かされるが、確かに古今様々な演奏・録音があり、すっかり聴き手に馴染まれた楽章であれば、いっそのことこれくらいのインパクトで差別化があっても、面白いかもしれない。ツァハリアスというアーティストの発想力の豊かさを感じさせる。 ソナタ第14番は、劇的な様相を十分に表出しながらも、端正な語り口で、真摯な美観に貫かれている。特に終楽章、淡々と進みながらも、哀しみが切々と深まっていくようなピアノは、感動的だ。 ソナタ第16(15)番のような技巧的に簡単な作品であっても、ツァハリアスはスピードを上げて弾き飛ばすようなことはせず、スタッカートの妙味を活かしながら、単純な音階に美しいニュアンスを通わせていて、さすが、モーツァルトに精通したピアニストの演奏であると唸らされる。単純な楽曲でこそ、奏者の芸術性が明らかになるという端的な例であるとともに、奏者の作品への愛情が健やかに伝わる名演だと思う。 |
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ピアノ・ソナタ 第9番 第14番 第16番 幻想曲 K.475 アダージョ K.540 p: アシュケナージ レビュー日:2005.4.10 |
★★★★★ ありのままのモーツァルト
なぜかしら少ないアシュケナージのモーツァルト録音。27年前にソナタ8番と17番を録音して以来の録音。 さて、これを聴くと、「どうしてもっと録音してくれないのだろう?」と思ってしまう。これらのソナタはモーツァルトの作品の中にあっては、人気の高い曲目というわけではないだろう。 しかし、アシュケナージの粒だった美しいピアノで奏でられると、隅々まで生気あふれる輝きに満ち溢れ、喜びでいっぱいになる。アシュケナージの演奏は、曲の趣きを「そのまま自然に」余計なことをせず、一切の人工的なものを排除したもので、この年齢にして到達しえた、ひとつの究極のモーツァルト像を実現したものといえる。すなわち・・・~ありのままのモーツァルト~ そして、それがいかにもモーツァルト的であり、確かにモーツァルトであるという、聴き手に自然な説得力を持ってまっすぐ訴える名演だ。モーツァルト・・・余分なものはいらないのだ。 |
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ピアノ・ソナタ 第10番 第11番「トルコ行進曲付」 第12番 hf: シュタイアー レビュー日:2005.10.29 |
★★★★★ 百花繚乱トルコマーチを堪能してください!
フォルテ・ピアノによるアンデレアル・シュタイアーのモーツァルトのソナタ集の第2弾。「トルコ行進曲付き」を含む充実した作品が並んでいる。 それはそれとして、まあ、一聴して椅子から落ちそうなくらいびっくりした。そもそもフォルテ・ピアノで演奏するという意味は何なのか?現代のピアノと違い、こよなく軽いタッチで、乾いた響き。。。そこに古の響きを求めてか? ここで求められる答えは「否」である。まさに、そのフォルテ・ピアノの特性を最大限に活かして、作品に対してきわめて「攻性」なアプローチを試みるため。それが今回の答。すなわち、ここで聴かれる多彩な装飾音の数々は、もはや装飾にはとどまらず、音楽の骨格として新たな礎となっている。 いままで聴かれなかったパッセージによって、次々と浮かび上がる華やかな楽想は、まさしく抜群の悦楽をもたらすのだ。実際、「原典主義者」と呼ばれる人にしてみれば、卒倒ものの異端演奏かもしれない。しかしここで息づく豊な音楽の生命力たるや、滾々たる湧水のように尽きる事が無い。まさに今生まれた音楽!ためしに聴くならなんといってもかの有名な「トルコ行進曲」であろう。ちょっとピアノを習った人であれば、頭に入っているはずのあの楽譜が、原型を留めないほどに崩壊して再構築されていくさまは、まさにスリリング。百花繚乱トルコマーチを堪能してください! |
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ピアノ・ソナタ 第10番 第11番「トルコ行進曲付」 第12番 p: ツァハリアス レビュー日:2022.2.10 |
★★★★★ 「トルコ行進曲付き」の第3楽章コーダでは、シンバルが追加されています
ドイツのピアニスト、クリスティアン・ツァハリアス(Christian Zacharias 1950- “ツァハリス”とも表記される)による、モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)のピアノ・ソナタ集。下記の3作品を収録。 1) ピアノ・ソナタ 第10番 ハ長調 K.330 2) ピアノ・ソナタ 第11番 イ長調 K.331 「トルコ行進曲付き」 3) ピアノ・ソナタ 第12番 ヘ長調 K.332 第12番は1984年、他の2曲は1985年の録音。 ツァハリアスによるモーツァルトのピアノ・ソナタ全集録音は、とくにすぐれた録音の一つだろう。現代ピアノのソノリティを活かし、時に即興的なフレーズをまじえたり、サスティンペダルを巧妙に用いた抑揚の演出を加えたりしながらも、それらの彩は節度と適正さを感じさせ、全体として豊かな聴き味をもたらしてくれる。 ソナタ第10番は、第1楽章の華やかさに魅了される。テンポは穏当であるが、音色の絶対的な美観と、快く刻まれるリズムによって、楽曲はふさわしい闊達さに満ち、喜びに溢れた音楽となる。第2楽章の憂い、第3楽章のワクワク感も、モーツァルトにふさわしい典雅さをもって表現されている。音色自体の清潔感も魅力。 ソナタ第11番は、第1楽章の変奏曲を、一つ一つ、しっかりと歌をもって響かせている。そのため、テンポは落ち着いたものとなるが、それゆえの風情があって良い。個人的にはアップテンポで弾き飛ばすしてしまうより、当演奏の方がはるかに好ましいと思う。なお、有名な「トルコ行進曲」では、終楽章のコーダで、シンバルが加えられる。この別楽器の挿入というのは、ソナタという概念と照らすと、驚かされるが、確かに古今様々な演奏・録音があり、すっかり聴き手に馴染まれた楽章であれば、いっそのことこれくらいのインパクトで差別化があっても、面白いかもしれない。ツァハリアスというアーティストの発想力の豊かさを感じさせる。 ソナタ第12番は、前半2楽章はオーソドックスで、美しく仕上がっており、第2楽章の情感は胸に沁みるが、当演奏で最も特徴的なのは第3楽章である。そこで、ツァハリアスは、即興的な装飾を加え、テンポも自由さを加味しながら、実に華々しい演奏を繰り広げている。他の演奏に比べて、やや重厚さを増した感があるところも、ツァハリアスの一連のモーツァルト録音の中で、特徴的なものとなっているだろう。 モーツァルトの有名な3つのピアノ・ソナタを収録したアルバムとして、安定した品質と、独特の面白さの双方を提供してくれるアルバムであり、その魅力は十分に大きなものがある。 |
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ピアノ・ソナタ 第12番 第13番 「女ほどすばらしいものはない」による8つの変奏曲 ヘ長調 K.613 幻想曲 K.396 fp: ベズイデンホウト レビュー日:2013.10.8 |
★★★★★ フォルテ・ピアノの特性を積極的に用いて面白く聴かせるモーツァルト
最近のフォルテ・ピアノ演奏はいろいろと面白いものが出てきた。私は基本的に現代ピアノの音が大好きで、フォルテ・ピアノには制約的でネガティヴな印象を持ってしまうのだけれど、不思議なことに、最近はフォルテ・ピアノでも音色豊かな演奏を奏でる人たちが出てきた。あるいは、そう思っている私の認識の方が勘違いしているのかもしれないけれど、試しに80年代や90年代に録音されたフォルテ・ピアノ演奏をいろいろ聴き直したのだけれど、やっぱり、上記の感想は変わらない。ピリオド楽器を使用しているのだから、楽器が進化した、なんてことは本末転倒だから、やはり奏法が変わってきたのかもしれない。 特に私にそういった思いを起こさせるピアニストは、シュタイアー(Andreas Staier 1955-)と、このベズイデンホウトである。彼らの演奏は、音色が豊かで面白い。フォルテ・ピアノの「音域によって、機械的に音の恰幅、重さが変わる」というところを、積極的に使って、立体感を出している感が強い。 南アフリカで生まれ、オーストラリア、アメリカなどで音楽を学んだクリスティアン・ベズイデンホウト(Kristian Bezuidenhout 1979-)は、2001年のブルージュ国際古楽コンクール(かつてのモーツァルト・コンクール)において、フォルテ・ピアノ部門で優勝を果たし、現在では、特にフォルテ・ピアノによるモーツァルト演奏では第一人者と目される存在になっている。 現在、ハルモニア・ムンディ・レーベルから、そのモーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)の録音を集中的にリリースしていて、当盤はその中の1枚で、2011年に録音されたもの。収録曲は以下の4曲。 1) ピアノ・ソナタ 第13番 変ロ長調 K.333 2) 「女ほどすばらしいものはない」による8つの変奏曲 ヘ長調 K.613 3) 幻想曲 ハ短調 K.396 4) ピアノ・ソナタ 第12番 へ長調 K.332 この録音も聴いていてとても面白いし、楽しく聴くことが出来る。ベズイデンホウトの美質として、私なりに大きく2点を挙げると、一つは、すべての音がきちんと聞こえるようなテンポを遵守していること、もう一つは、装飾音の鳴らし方を個別に吟味した上で、積極的に音楽的感興を高めるようこれを用いている点である。技巧も豊かだが、最近はどのピアニストも上手いので、これはわざわざ挙げなくてもいいだろう。 それで、上記の2つの美質のうち、前者のテンポについては、聴き様によっては教科書的で面白くない、という人もいるかもしれないが、決して緩急が弱いというわけではない。急速に任せて音を乱すことがない、という限定的な意味である。そして、音の伸びに制約のあるフォルテ・ピアノでは、特にこの点を私は重視したい。つまり、フォルテ・ピアノでは、崩しによる演出というのは、音響的に向かないし、少なくとも私の場合それを望まないから、これは美質として聴こえるのである。 そして第2点の装飾音であるが、これはぜひ録音を聴いていただきたいのだけれど、実に多彩なやり口をもっているピアニストで、このテクニックだけで、十分にフォルテ・ピアノの「時として平板さが気になる」という弱点を克服してくれていると感じる。これが当盤の演奏でも、うまく行っている。聴いていて、楽しくて「どんどんやってくれ」と思ってしまう。 この演奏を聴いていると、モーツァルトのクラヴィーア・ソナタは、本来こうやって楽しむのかもしれないな、と感じる。それくらいの説得力はありますね。もちろん、他にもいい演奏はいっぱいありますが、私としては、フォルテ・ピアノによるモーツァルト奏者として、ベズイデンホウトは理想的な奏者かと思います。 なお、「ベズイデンホウト」という姓はたいへん珍しいのではないか、と思って(覚えにくいですね)、ちょっと調べてみたのですが、オランダ系の名のようです。参考までに。 |
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モーツァルト ピアノ・ソナタ 第12番 第14番 幻想曲ハ短調 K.475 クレメンティ ピアノ・ソナタ ト短調 op.34-2 hf: チッコリーニ レビュー日:2013.7.22 |
★★★★★ クレメンティの価値を知らしめる選曲と曲順に感激
イタリア出身のピアニスト、アルド・チッコリーニ(Aldo Ciccolini 1925-)による2011年録音のアルバム。録音当時86歳という年齢であるが、信じられないほど強靭で活力に溢れたピアニズムを堪能できるアルバムである。収録曲は以下の通り。 1) モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791) 幻想曲ハ短調 K.475 2) モーツァルト ピアノ・ソナタ第14番ハ短調 K.457 3) クレメンティ(Muzio Clementi 1752-1832) ピアノ・ソナタ ト短調 op.34-2 4) モーツァルト ピアノ・ソナタ第12番ヘ長調 K.332 さて、私はこの収録曲を見ただけで喜び「このアルバムは買いだ!」と即決してしまった。その理由は、私が以前から「ハイドンやモーツァルトより面白い!」と思っていたクレメンティのピアノ・ソナタの扱いにある。概してクレメンティのソナタは、内容が素晴らしい割に録音点数が少なく、そのため人に知られる機会の少ないことを残念に思っていた。そこに登場したのがこのアルバム。モーツァルトの名曲に挟まれて、クレメンティの魅力的なソナタが1曲収録されている。これは、チッコリーニの「みなさん、クレメンティもいいですよ!」というメッセージが明確に感じられる選曲と配列ではないですか?これはもう私は嬉しいですよ。 応援ついでに書くと、このクレメンティのソナタはモーツァルトの交響曲第25番、ハイドン(Franz Joseph Haydn 1732-1809)の交響曲第83番と並んで疾風怒涛(Sturm und Drang)」運動の象徴作品とされる。強弱記号や、瞬間の静寂による劇性豊かな対比が見事で、冒頭の単音連打の導入からたちまち疾風の渦に巻き込んでいく過程が鮮やか。第2楽章の秘められたパッションも相応しい。半音階的なフガート(主題はアレグロ主題に由来)によるラルゴが再現してくるところなど、いかにもベートーヴェン的(というよりベートーヴェンがクレメンティ的なことをやったのである)だし、更には、終楽章の躍動、跳梁も鮮やかで、胸のすくような音楽になっている。ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven 1770-1827)の熱情ソナタの源流を見るかのような作品、と言えばいいだろうか。また、ベートーヴェンの1807年の熱情ソナタの影響を受けて、今度はクレメンティが1821年にニ短調op.50-2のような名品を書くことになるわけだ。 クレメンティはモーツァルトより先に生まれ、ベートーヴェンより長く生きた人である。そのピアノ作品がいかに当時、他の作曲家に影響を与え、そして与えられる存在であったことか。他ならぬベートーヴェンがクレメンティを絶賛しているのだ。op.34-2が出版されたのが1795年。まだ作品2の3曲のソナタしか書いていないベートーヴェンが、この劇的なソナタを聴き、様々な影響を受けたのは想像に難くない。 チッコリーニの演奏も素晴らしい。くっきりとした音型を明瞭に響かせ、現代ピアノの美観を極限まできわめ尽くした音響となっている。使用ピアノはベヒシュタイン(Bechstein)とのことだが、当盤で聴く音は、私にはファツィオリ(Fazioli)に近いものに思えた。 モーツァルトでは、いかにもカリッとした輪郭線が印象的で、K.457のフォルテなど人によっては「パンチが強すぎる」と感じる向きもあるかもしれないが、私は好きである。そしてクレメンティにおける縦横に鍵盤を駆け巡る指からも、素晴らしい力感が漲っていて、86歳の演奏とは信じがたい若々しさまで感じてしまう。いい意味で年齢を感じさせないパフォーマンスである。 このアルバム自体十分に素晴らしいものだが、これを機にクレメンティのソナタに興味を持たれた方がいたなら、ぜひハワード・シェリー(Howard Shelley 1950-)による素晴らしいクレメンティの全集シリーズ(hyperionレーベル)も聴かれることをオススメしたい。 |
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モーツァルト ピアノソナタ 第14番 第15番 幻想曲 ニ短調 K.397(未完) ロンド ヘ長調 K.494 ロンド ニ長調 K.485 小さなジグ ト長調 K.574 アダージョ 変ホ長調(弦楽五重奏曲第3番ト短調 K.516からオラフソン編曲) アダージョ ロ短調 K.540 アヴェ・ヴェルム・コルプス K.618(リスト編曲) ガルッピ アンダンテ・スピリトーソ ラルゲット C.P.E.バッハ ロンド ニ短調 チマローザ ソナタ 第42番(オラフソン編) 第55番 イ短調(オラフソン編曲) ハイドン ピアノ・ソナタ 第47番 hf: オラフソン レビュー日:2021.11.10 |
★★★★★ 現代ピアノの豊かな表現性と音色の美しさにあらためて感じ入る一枚
いまや、新譜がリリースされるたびに高い注目を集めるようになったアイスランドのピアニスト、ヴィキングル・オラフソン(Vikingur Olafsson 1984-)による、“モーツァルト&コンテンポラリーズ”と題された2021年録音のアルバム。収録曲は以下の通り。 1) ガルッピ(Baldassare Galuppi 1706-1785) ピアノ・ソナタ 第9番 ヘ短調から アンダンテ・スピリトーソ 2) モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791) ロンド ヘ長調 K.494 3) C.P.E.バッハ(Carl Philipp Emanuel Bach 1714-1788) ロンド ニ短調 H 290 4) チマローザ(Domenico Cimarosa 1749-1801)/オラフソン編 ソナタ 第42番 ニ短調 5) モーツァルト 幻想曲 ニ短調 K.397 6) モーツァルト ロンド ニ長調 K.485 7) チマローザ/オラフソン編 ソナタ 第55番 イ短調 8) ハイドン(Joseph Haydn 1732-1809) ピアノ・ソナタ 第47番 ロ短調 Hob.XVI:32 9) モーツァルト 小さなジグ ト長調 K.574 10) モーツァルト ピアノ・ソナタ 第16番(旧15番) ハ長調 K.545 11) モーツァルト/オラフソン編 弦楽五重奏曲 第3番 ト短調 K.516から アダージョ 変ホ長調 12) ガルッピ ピアノ・ソナタ 第34番 ハ短調から ラルゲット 13) モーツァルト ピアノ・ソナタ 第14番 ハ短調 K.457 14) モーツァルト アダージョ ロ短調 K.540 15) モーツァルト/リスト(Franz Liszt 1811-1886)編 モテット「アヴェ・ヴェルム・コルプス」 K.618 10)の有名なソナタは、私の世代だと「第15番」という番号で親しまれたもの。 ご覧の通り、モーツァルトのクラヴィーアのための楽曲と、モーツァルトと活躍した時代の近い作曲家のクラヴィーアのための楽曲を組み合わせた構成で、オラフソンらしいセンスの感じられる並びになっている。 冒頭に収録されたガルッピの作品について、オラフソンはモーツァルトのト短調の交響曲を連想させると語っている。確かにそこには、疾走する哀しみと称したい感情描写があって、それを現代ピアノ特有の柔らかなトーンで描きあげるオラフソン。冒頭にこんなすてきな作品を持ってくるあたり、やはりオラフソンのアルバムは面白い。C.P.E.バッハの楽曲も、ピアノならではのトッカータ風の施しが、作品の魅力を引き出している。 チマローザの2作品については、やはり原曲のままピアノ演奏していまうと、現在の感覚では音が少なすぎる印象となるため、オラフソンが肉付けるような編曲を加えたとのこと。時にペダルの効果も用いながら、幅のある音楽が供給されて相応しい。 5)の幻想曲は、未完の作品であるが、当盤では、その完結部分の役割を6)が果たすという役割分担となっている。オラフソンの解釈は、ピアニスティックな効果を細かく突き詰めたもので。アルペッジョの響きの精緻さに打たれる。 ハイドンの名品の一つ、ピアノ・ソナタ第47番が収録されているのも嬉しい。この曲の抒情的な豊かさが、オラフソンの繊細かつ迅速なタッチで描き出されていく。 聴きごたえという点では、やはりモーツァルトの2つの名ソナタかもしれない。オラフソンは、リピートを総て実行するスタイルは採用していないが、リピートする場合に、前回と異なったアプローチをすることを重視しており、そのことによる変化が、ニュアンスの深まりとして聴き手に伝わる効果を持っていると思う。ことに劇的な第14番の両端楽章で、オラフソンは、燃焼度の高い演奏を繰り広げているが、その燃焼の中で聞こえてくるメロディの清澄さに、私は強い魅力を感じる。とても素敵な演奏だ。 他にもオラフソンがモーツァルトの弦楽五重奏曲を編曲したアダージョや、ガルッピのラルゲットなど、新鮮な美しさに浸れる楽曲であり、やはりこのピアニスト、どのアルバムも聴き逃すことは出来ない、とあらためて実感した。 |
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モーツァルト デュポールのメヌエットによる9つの変奏曲 メンデルスゾーン 厳格な変奏曲 リスト バッハの主題による変奏曲 ブラームス 主題と変奏 hf: ブレンデル レビュー日:2013.12.2 |
★★★★★ 24年前に録音されたディスクですが、あらためて「いいです!」
いろいろとレビューを書いているけれど、たいていは「最近でたもの」について、内容の情報を補ったり、自分なりの感想をとどめるようなものが多い。しかし、ときどき、以前出たものについて、懐かしく思って、改めて聴きかえしてみて、「やっぱり、これっていいよなー」と思って、あらためて自分の気持ちのメモがてら、レビューを書かせていただくこともあります。(あまり参考になる人はいないとは思うけれど) これもそんなアイテムの一つ。オーストリアの名ピアニスト、アルフレート・ブレンデル(Alfred Brendel 1931-)が1989年に録音したアルバム。以前気に入って何度も聴いていたディスクだけど、再版も特にされていないように思う。素晴らしい内容なので録音から24年経過したけど、あらためて記しておきたい。収録内容は以下の4曲。 1) モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791) デュポールのメヌエットによる9つの変奏曲 ニ長調 2) メンデルスゾーン(Felix Mendelssohn Bartholdy 1809-1947) 厳格な変奏曲 ニ短調 3) リスト(Franz Liszt 1811-1886) バッハの主題による変奏曲 S.180 4) ブラームス(Johannes Brahms 1833-1897) 主題と変奏 ご覧になって分かるように「変奏曲集」なのであるけれど、ちょっとネームヴァリューとしては渋い選曲。しかしながら、これがじっくり味わえる美品揃いで、ブレンデルの教養的な美観に溢れた暖かい演奏と、品質の高い録音によって、音楽を聴く喜びが堪能できる内容になっています。 「デュポールのメヌエットによる9つの変奏曲」は、モーツァルトがチェロ奏者ジャン・ピエール・デュポール(Jean-Pierre Duport 1741-1818)の主題をもとに1789年頃に作曲したもの。当然のことながら「数々の名曲」を書いていた時期の作品で、愛すべき佳作である。冒頭の主題提示の無垢な朗らかさ、その後の展開、変奏における楽想の豊かさともに逸品で、隅から隅まで「モーツァルトを聴いている」という充足感を感じさせるもの。ブレンデルの心得た演奏はチャーミングの一語。余計なことはせず、ただ音楽に誠実に接することで、これほど素晴らしいものが生まれてくるのだ、ということを感じさせてくれる。 「厳格な変奏曲」はメンデルスゾーンのピアノ作品の中では、重厚なもので、特徴的。いかにもドイツ系の中声部の豊かさがあり、豊饒な音楽。ここでもブレンデルの卓越した音楽性が素晴らしい。自然体のテンポと音色でありながら、重要な音型を的確に拾って、前後を明瞭に関連付けた理知的な感性が光る。 リストの「バッハの主題による変奏曲」は、似たようなタイトルの曲が他にもあるから、タイトルだけではどの曲だか分かりにくいと思う。厳密には、バッハ(Johann Sebastian Bach 1685-1750)のカンタータ「泣き、嘆き、悲しみ、おののきBWV12」と「ミサ曲ロ短調BWV232」の「十字架にかけられ(クルシフクス;Crucifixus)」の通奏低音の動機を用いた変奏曲で、ほぼリストのオリジナル曲といってもいい内容。録音はあまり多くない印象なのだが、私見ではたいへん内容の濃い作品で、リストの代表作の一つといっていいと思うほどのもの。このブレンデルの演奏が凄い。この瞬間、このアーティストの心技体が、きわめて充実していたに違いない。素晴らしい技巧と音響により、重層的な世界を導いている。 最後のブラームスの作品はブラームス自ら弦楽六重奏曲第1番の第2楽章(原曲が変奏曲)をピアノ独奏用にアレンジしたもの。この甘い旋律は、ルイ・マル(Louis Malle 1932-1995)監督の映画「恋人たち」で用いられたので、ちょっと有名だ。下手な演奏だとメロメロの映画音楽になってしまうのだけれど、さすがブレンデル、高貴といってよいほどの品位を漂わせ、気高い美しさを引き出している。 今や昔の録音となってしまったが、ぜひ再版の形で、あらためてその価値を世に知ってほしいアルバムです。 |
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モーツァルト 2台のピアノのためのソナタ 幻想曲 4手のためのアンダンテと5つの変奏 シューベルト 幻想曲 p: ペライア ルプー レビュー日:2011.5.25 |
★★★★★ この演奏は誰が聴いても、好きになっちゃうのでは?
クラシック音楽には様々な楽曲があり、多くの演奏家がいて、それで数多くの録音があり、ファンは様々にこれを楽しむ。その過程で、好みや解釈、あるいは思想などの違いが生じ、人によって、あるいは聴くときの気持ちによってさえ、支持する演奏、好きな演奏が異なる。まさにそれがクラシック音楽ファンの、汲めども尽きない「興味の泉」ともなる。 しかし、中には「この演奏は誰が聴いても、好きになっちゃうのでは?」と思うものもあり、さしずめこのペライアとルプーによる1984年と90年に録音された魅力的なディスクも、私にとって「そう思わせる一枚」なのだ。 ペライアとルプーという二人のピアニスト。この二人は、本当にこれらの曲に相応しい二人だ。彼らの演奏は、ヴィルトゥオジティ(演奏上の名人芸的技巧)を振りまくものではない。圧倒的な力を感じるものでもない。しかし、彼らの演奏に代え難い価値をもたらしているのは、深いところから綿々と紡がれる「音楽性」であると思う。つまりモーツァルトであればモーツァルトの、シューベルトであればシューベルトの歌を、まさに最上の形で自身のパフォーマンスの中に解き放つ能力に卓越しているのだ。だから、このディスクを聴いていると、本当に溢れるような音楽の魅力が横溢していて、音楽学とか、解釈論とかで文句をつけるようなことは到底頭に思い浮かばない。そういう天性の心地よさに満ちている。 モーツァルトの「2台のピアノのためのソナタ」は輝かしいニ長調の音楽だが、二人の演奏はヴィヴィッドで快活そのもの。屈託のない音楽が明るい陽射しのようにパーッと広がる華やかさがある。「幻想曲ヘ短調」は曲自体がモーツァルトの短調の名曲として数え上げたいくらいの名品だし、ペライアとルプーに弾かれると、濁りのない淡く優しい哀しさが適度に舞い、健康的な美観につつまれる。 シューベルトの「4手のための幻想曲ヘ短調」も知られざる逸品で、ペライアとルプーの明朗な音楽性に裏打ちされることで、いよいよその魅力が現出した観を深める。 以上のように素晴らしいディスクなのだが、収録時間が42分程度と短いのが残念。できれば彼らに弾いて欲しい曲がほかにもたくさんあるのだが。今後に期待したい。 |
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モーツァルト ミサ曲 ハ短調 ハイドン ベレニーチェのシェーナHob.XXIVa:10 ベートーヴェン シェーナとアリア「ああ、不実な者よ」 マクリーシュ指揮 ガブリエリ・コンソート&プレイヤーズ S: ティリング A: コノリー T: ロビンソン Bs: デイヴィス レビュー日:2013.12.20 |
★★★★★ モーツァルトの偉大な未完成ミサ曲を聴く
ポール・マクリーシュ(Paul McCreesh 1960-)指揮、ガブリエリ・コンソート&プレイヤーズによる2004年録音の声楽曲集。収録曲は以下の通り。 モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791) ミサ曲ハ短調 K.427(大ミサ曲)(1-13) 1) キリエ(Kyrie) 2) グローリア(Gloria)「天のいと高きところには、神に栄光あれ」 3) 同 「われら主をほめ」 4) 同 「主の大いなる栄光のゆえに」 5) 同 「神なる主」 6) 同 「世の罪を除きたもう主よ、われらをあわれみたまえ」 7) 同 「主のみ聖なり、主のみ王なり」 8) 同 「イエズス・キリストよ」 9) 同 「聖霊とともに」 10) クレド(Credo) 「われらは信ず、唯一の神」 11) 同 「聖霊によりて、処女マリアよりおんからだを受け」 12) サンクトゥス(Sanctus) 13) ベネディクトゥス (Benedictus) 14) ハイドン(Franz Joseph Haydn 1732-1809) ソプラノと管弦楽のためのシェーナとアリア「ベレニーチェのシェーナ」Hob.XXIVa:10 15) ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven1770-1827) ソプラノと管弦楽のためのシェーナとアリア「ああ、不実な者よ」 独唱陣は以下の通り ソプラノ: カミーラ・ティリング(Camilla Tilling1971-) アルト: サラ・コノリー(Sarah Connolly 1963-) テノール:ティモシー・ロビンソン(Timothy Robinson) バス:ニール・デイヴィス(Neal Davies) モーツァルトの「大ミサ曲」は、「レクイエム」に次ぐモーツァルトのこのジャンルの名作であるが、レクイエムと同様にこちらも未完成であり、クレドは前半しか作曲されていないし、本来最後を飾ることになるアニュス・ディ(Agnus Dei)に至っては、ごく断片的なスケッチ状のものしか遺されていない。作曲者の時代に上演された際は、欠落部を他の作品から補うような方法で行われたと考えられているが、ついにモーツァルトはこの作品を完成させることはなかった。現在では、当盤のように完成された部分だけ演奏するのが一般的だが、ロバート・レヴィン(Robert Levin 1947-)などによる「補筆完成版」も存在する。モーツァルトが完成した部分は、バロックを思わせる様式的な美観とともに、大編成のオーケストラを伴った音響的な充実が図られていることが特徴だ。また、グローリアの「主の大いなる栄光のゆえに」や「世の罪を除きたもう主よ」には、レクイエムを彷彿とさせるフレーズも見ることができる。 マクリーシュの演奏はアクセントを明確に打ち出したもので、そのためティンパニや管楽器の鋭い響きが、音楽の節を設ける重要な役割を果たしている。とくに、後半にそのスタイルは顕著に示されている。楽曲は大きな起伏を持って描かれている感じで、この作品が「グランド・ミサ」と呼ばれる性格を持っていることが、良く伝わる演奏だと思う。特に「世の罪を除きたもう主よ、われらをあわれみたまえ」において、8つの声部からなる二重合唱が導入されるところなど、壮大な迫力に満ちている。 独唱に関しては、私には女声の2人が良く思える。特にグローリアの「われら主をほめ」と、クレドの「聖霊によりて、処女マリアよりおんからだを受け」における、情熱を持った明快な歌唱、それに木管楽器との掛け合いは美しく、白眉といってもいい内容。 さらに、ハイドンとベートーヴェンの劇的な「シェーナとアリア」が収録されているのもうれしい。ハイドンの楽曲は、彼の名曲交響曲第104番「ロンドン」と一緒に上演する機会のために書かれたということなので、そちらを想像しながら聴くのも楽しいだろう。 |
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ミサ曲 ハ短調(エーダー版) アバド指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 ベルリン放送合唱団 S: ボニー オジェー T: ブロホヴィッツ Bs: ホル レビュー日:2015.7.24 |
★★★★☆ 当時の音楽表現の価値観の変遷を象徴したカラヤンからアバドへの “バトンタッチ”
クラウディオ・アバド(Claudio Abbado 1933-2014)指揮、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 ベルリン放送合唱団演奏によるモーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)のミサ曲ハ短調 K.427(大ミサ曲)。エーダー版による1990年の録音。TRACKは以下のように振られている。 1) キリエ(Kyrie) 2) グローリア(Gloria)「天のいと高きところには、神に栄光あれ」 3) 同 「われら主をほめ」 4) 同 「主の大いなる栄光のゆえに」 5) 同 「神なる主」 6) 同 「世の罪を除きたもう主よ、われらをあわれみたまえ」 7) 同 「主のみ聖なり、主のみ王なり」 8) 同 「イエズス・キリストよ」 9) 同 「聖霊とともに」 10) クレド(Credo) 「われらは信ず、唯一の神」 11) 同 「聖霊によりて、処女マリアよりおんからだを受け」 12) サンクトゥス(Sanctus) 13) ベネディクトゥス (Benedictus) 独唱陣は以下の通り ソプラノ: バーバラ・ボニー(Barbara Bonney 1956-)、 アーリーン・オジェー(Arleen Auger 1939-1993) テノール: ハンス=ペーター・ブロホヴィッツ(Hans Peter Blochwitz 1952-) バス: ロベルト・ホル(Robert Holl 1947-) モーツァルトの「大ミサ曲」は、「レクイエム」に次ぐモーツァルトのこのジャンルの名作であるが、レクイエムと同様にこちらも未完成であり、クレドは前半しか作曲されていないし、本来最後を飾ることになるアニュス・ディ(Agnus Dei)に至っては、ごく断片的なスケッチ状のものしか遺されていない。作曲者の時代に上演された際は、欠落部を他の作品から補うような方法で行われたと考えられているが、ついにモーツァルトはこの作品を完成させることはなかった。現在では、当盤はオーストリアの作曲家、ヘルムート・エーダー(Helmut Eder 1916-2005)によって部分補筆されたもの。現在の、一般的なこの曲の演奏スタイルの一つ。ちなみに、最近ではロバート・レヴィン(Robert Levin 1947-)などによる「補筆全曲完成版」も存在する。モーツァルトが完成した部分は、バロックを思わせる様式的な美観とともに、大編成のオーケストラを伴った音響的な充実が図られていることが特徴だ。また、グローリアの「主の大いなる栄光のゆえに」や「世の罪を除きたもう主よ」には、レクイエムを彷彿とさせるフレーズも見ることができる。 アバドによる当曲の録音が行われた1990年は、帝王カラヤン(Herbert von Karajan 1908-1989)の死去により、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の芸術監督に就任したころである。この曲にはカラヤンの名演も存在するのであるが、アバドの演奏はカラヤン盤に比べて演奏者の顔をそれほど感じさせないまっすぐな解釈であると感じられる。すべての表現がスマートで、一貫した流れの中で、異物感のない音が鮮明に流れていく。カラヤン盤の豊饒な壮大さと比較すると、いかにもシェイプアップされた音色だ。 全体に、軽やかなテイストに仕上げているが、個人的に印象に残ったのはクレドの「聖霊によりて、処女マリアよりおんからだを受け」である。繊細な女声ソロと、木管楽器の掛け合いが、清らかな水の流れを彷彿とさせた。カラヤンの情熱を懐かしいと思う人も多いだろうが、アバドの演奏は、一つの時流に即した価値観を体現したもののように思う。 |
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レクイエム(レヴィン版) アダージョとフーガ マッケラス指揮 スコットランド室内管弦楽団 合唱団 S: グリットン MS: ウィン=ロジャーズ T: ロビンソン B: ローズ レビュー日:2011.3.13 |
★★★★★ ラクリモサが終わるや、アーメン・フーガが始まる・・
モーツァルトの“レクイエム”は、クラシック音楽の世界でもひときわ神の領域にある作品の一つ。「涙の日(ラクリモサ)」のアーメンコーラスで自らの生命を燃やし尽くしたモーツァルトの死は、映画「アマデウス」でモーツァルトが口頭記述する譜面をサリエリがスコアに移していく圧巻のシーンのネタになった。 サリエリが・・というのはもちろん「映画の中で」の話。実際にこの役目を果たした人物はフランツ・クサヴァー・ジュスマイヤー (Franz Xaver Sussmayr 1766-1803)なる人物。中途で絶命したモーツァルトに代わり、後半はジュスマイヤーが補筆完成したのが、「モーツァルトのレクイエム」。 しかし、この後半部分がどうしても前半部分に劣るため、近年、ジュスマイヤーの補筆完成版に手を加える動きが多い。その代表格がアメリカ生まれのフォルテ・ピアノ奏者、レヴィン(Robert D. Levin 1947-)によるもの。当盤はそのレヴィン版による録音だ。演奏はマッケラス指揮スコットランド室内管弦楽団、同合唱団、S: グリットン、MS: ウィン=ロジャーズ、T: ロビンソン、B: ローズ。録音は2002年。余録に「(弦楽のための)アダージョとフーガ K.546」も収められている。 レヴィン版の特徴はなんといっても、アーメンコーラスの追加にある。ジュスマイヤー版ではラクリモサの末尾、盛大なアーメン!の合唱で終わるのであるが、レヴィンは発見されたとされるアーメンコーラス譜の一部から1分半近くの「アーメン」によるフーガを挿入している(つまり、ラクリモサ→アーメン・フーガ→アーメン!、となる)。レヴィンが推敲を重ねたこのフーガは確かに一聴以上の価値がある。 そのほか、後半のAgnus Deiのコード進行を従来の順番から入れ替えて保守的な構成に直したり、Cum sanctisの音へのテキスト当てをずらしたり、レヴィンの補筆は繊細である。しかし、やはりインパクトはアーメン・フーガが随一だろう。ただ、まるでダンスのようなフーガを聴いていると、これだと映画「アマデウス」の共同墓地への埋葬シーンを大きく変える必要が出てきそうな気がしてしまうが。。。それこそ本末転倒か。 演奏についても触れよう。モーツァルトを得意としたマッケラス唯一のレクイエム録音がこのレヴィン版というのが面白い。相当「納得」が行ったのだろう。それにしても野太い堂々たる音楽だ。真摯な切り口で、はっきりと輪郭を出し、力強く前進する。これがレヴィン版かどうかという価値観と別に、マッケラスのモツレクはこれだ、という迫力を感じさせてくれる。ややホールトーンを豊かに含む録音で、マッケラスの鋭さを緩和する感もあるが、これはこれでいいのだろう。いずれにしても「面白い聴きモノ」が聴けるコレクターにも、レクイエムファンにも歓迎されるディスクだと思う。 |
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レクイエム クルレンツィス指揮 アンサンブル・ムジカエテルナ ニュー・シベリアン・シンガーズ(ノヴォシビルスク歌劇場合唱団) S: ケルメス A: ウゼール T: ブルッチャー B: リシャール レビュー日:2011.9.19 |
★★★★★ 冥界へ旅立つ前に、ちょっとだけ現世の思い出を振り返るような
テオドール・クルレンツィス(Teodor Currentzis 1972-)指揮、ムジカエテルナ(Musicaeterna)とニュー・シベリアン・シンガーズによるモーツァルトのレクイエム。独唱陣は、S:ケルメス(Simone Kermes)、A:ウゼール(Stephane Houtzeel)、T:ブルッチャー(Markus Brutscher)、B:リシャール(Arnaud Richard)。2009年の録音。 ムジカエテルナは、ギリシア生まれの指揮者クルレンツィスによって、ロシア、ノヴォシビルスク市に設立されたピリオド楽器によるオーケストラ。2010年録音のショスターコヴィチの交響曲第14番が話題になったが、このモーツァルトはその前年に録音されたもの。 これまたユニークな録音。特徴の一つは、モーツァルトの絶筆であるラクリモサと、ジュスマイヤー(Franz Xaver Sussmayr 1766-1803)によって補筆完成されたオッフェルトリウムの間に、短い「アーメン・フーガ」が挿入されていること。この「アーメン・フーガ」は、断片のみの遺稿が発見されたもので、モーツァルト研究家のロバード・レヴィン(Robert D. Levin 1947-)などは、これを元にラクリモサを書き代え、アーメン・コーラスの前に1分半に及ぶアーメン・フーガを挿入した(マッケラス盤が参考に良い)。しかし、クルレンツィスは、この「断片部分」のみを、ラクリモサの終了後に挿入している。といっても、これは断片でしかない。どうするのか?と聴いていると、壮大なアーメン・コーラスのバックで鈴がしゃんしゃんと鳴り始め、そのリズムに誘われてアーメン・フーガが始まる。だが、これは数十秒ほどで、消え入るように終わってしまい、今度は何もなかったかのようにオッフェルトリウムが開始されるのである。 これは不思議な演出だ。まるで冥界に旅立ったモーツァルトが、旅路に出る前に、ちょっとだけ現世の思い出を振り返るような儚さが漂う。演奏も、マッケラス盤では完成されたフーガが、飛び跳ねるように闊達だったのに対し、このクルレンツィス盤は、そっとはじまって、すぐに闇に吸い込まれるような怖さがある。 この部分がとても印象的なディスクなのだけれど、演奏全般に質が高い。最近の流行に即したピリオド楽器らしい小編成の演奏で、早いテンポに終始しているが、インパクトがとにかく鮮烈。迫力の大方は急峻なインパクト・ポイントの設定によって達成されていると言ってよい。独唱、合唱、オーケストラを、徹底して同じ表現スタイルで纏め上げた演出もまた現代的なスタイルだろう。また後半のオッフェルトリウム以降も真摯な音楽表現が貫かれていて、第10曲の「オスティアス」など、かつての名盤とは一線を画す繊細な情感が得られていると思う。クルレンツィスというアーティスト、なかなか面白い存在で、今後も注目したい。 |
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レクイエム フリーメイソンのための葬送音楽 ハ短調 K.477 2つのクラリネットと3つのバセット・ホルンのためのアダージョ 変ロ長調 K.411 ブリュッヘン指揮 18世紀オーケストラ オランダ室内合唱団 聖バーフォ大聖堂少年聖歌隊 S: ユルスナー A: ブルンメルストルテ T: ヴァンデルステイネ Bs: ドレイエル レビュー日:2015.10.19 |
★★★★★ ブリュッヘンの才気によって、グレゴリオ聖歌の挿入が行われたライヴ
1998年、ブリュッヘン(Frans Bruggen 1934-2014)が18世紀オーケストラを率いて来日公演した際の、3月20日東京芸術劇場における演奏をライヴ収録したもの。モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)のレクイエムを中心とした曲目だが、その項目が趣向を凝らしたもの。まず、前もって2曲のモーツァルトの器楽曲が奏でられ、連続してジュスマイヤー版のレクエイムとなるのだが、イントロイトゥスの前、ラクリモーサの後、オッフェルトリウムの後にそれぞれグレゴリオ聖歌の「Introitus~入祭唱」「Tractus~詠唱」「Offertorium~奉献唱」が挿入される。つまり、全体の構成を書き記すと、以下のようになる。 1) フリーメイソンのための葬送音楽 ハ短調 K.477 2) 2つのクラリネットと3つのバセット・ホルンのためのアダージョ 変ロ長調 K.411 レクイエム ニ短調K.626 イントロイトゥス(入祭唱) 3) グレゴリオ聖歌(Introitus~入祭唱) 4) レクイエム・エテルナム(永遠の安息を) 5) キリエ(憐れみの賛歌) セクエンツィア(続唱) 6) ディエス・イレー(怒りの日) 7) トゥーバ・ミルム(奇しきラッパの響き) 8) レックス・トレメンデ(恐るべき御稜威の王) 9) レコルダーレ(思い出したまえ) 10) コンフターティス(呪われ退けられし者達が) 11) ラクリモーサ(涙の日) 12) グレゴリオ聖歌(Tractus~詠唱) オッフェルトリウム(奉献文) 13) ドミネ・イエス(主イエス) 14) オスティアス(賛美の生け贄) 15) グレゴリオ聖歌(Offertorium~奉献唱) サンクトゥス(聖なるかな) 16) サンクトゥス(聖なるかな) 17) ベネディクトゥス(祝福された者) アニュス・デイ(神の小羊) 18) アニュス・デイ(神の小羊) コムニオ(聖体拝領唱) 19) ルックス・エテルナ(永遠の光) 合唱はオランダ室内合唱団、4人の独唱者は以下の通り。 ソプラノ: モーナ・ユルスナー(Mona Julsrud) アルト: ヴィルケ・テ・ブルンメルストルテ(Wilke te Brummelstroete) テノール: ゼーハー・ヴァンデルステイネ(Zeger Vandersteene) バス: イェレ・ドレイエル(Jelle Draijer 1951-) 実際の演奏会では、グレゴリオ聖歌の部分になると、男声奏者が数名ステージ上を前に進み、これを行ったという。 モーツァルトのレクイエムは作曲者の存命中には完成せず、ジュスマイヤー(Franz Xaver Sussmayr 1766-1803)によって補筆完成されたのは有名な話である。現代まで、ジュスマイヤーの書いたスコアがどこまでモーツァルトの意向を反映したものだったか不明で、そのため様々な版が提案されている状況であるが、別にレクイエムとして明らかに書けている部分があるわけではなく、そこにグレゴリオ聖歌を挿入するというブリュッヘンの意図は明確にはわからない。モーツァルトの絶筆となったラクリモーサの後に詠唱が挿入されるのは、ここを境に黄泉の国に旅立ったモーツァルトを想うと感慨深いが、それは後世の私たちが付随的な知識によってそう感じるだけで、音楽としてこれを挿入する効果について、私は正直ピントこないところがある。 聞くところによると、ブリュッヘンは日本公演の間、いくつかパターンを変えた演奏を試みていて、当盤に収録された演奏会はその最後のものだから、その過程を経てたどり着いた、ひとつのブリュッヘンの回答ということができるだろう。しかし、それがブリュッヘンの最終的な考えだったかは、誰にもわからないだろう。 演奏は素晴らしいものである。やや残響の豊かなホールトーンが、とても音響をなめらかなものにしているのも好ましい。全体的なテンポは意外に落ち着いたもので、おなじオリジナル奏法を探究したアーノンクール(Nikolaus Harnoncourt 1929-)と比べると、かつての名盤に近い配分である。とはいえ、キリエの終結部に象徴的な急峻な運びには、やはりオリジナル奏法の刻印が強く刻み込まれている印象だ。 全体に流線型のなめらかさでありながら、音の表面が細やかなに磨き上げられていて、かつ適度に刺激成分を湛えているから、聴いていてなにか物足りないところはなく、力強さも十分にある。一つ一つの音色に生気がある。入祭唱におけるユルスナーの独唱など、まるで木管楽器を思わせるような均一な光沢を感じさせるし、その後も微に入り細に入り、すべての音は精密にコントロールされている。余韻を湛えたデクレッシェンドの美しさは絶品だろう。音楽的に劣る後半も、巧みな手腕で高貴な響きに満ちている。 冒頭に置かれた2曲の管弦楽曲も美しい演奏で、特にクラリネットとバセット・ホルンのための音楽は、レクイエムにおけるバセット・ホルンの音色の重要性を聴き手に示唆してくれる興味深いものとなっているだろう。 柔らかなホールトーンが絶妙の暖かい雰囲気を導いており、録音もライヴにしては優秀だ。 |
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レクイエム ヴァイル指揮 ターフェルムジーク・バロック管弦楽団 テルツ少年合唱団 S: ウレヴィッツ MS: ヘルツル T: ヘリング Bs: カンプ レビュー日:2021.5.1 |
★★★★☆ ランドン版によるモーツァルトのレクイエムです
ブルーノ・ヴァイル(Bruno Weil 1949-)指揮、ターフェルムジーク・バロック・オーケストラと、テルツ少年合唱団によるモーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)の「レクイエム K.626」。4人の独唱者は、ソプラノがマリーナ・ウレヴィッツ(Marina Ulewicz 1960-)、メゾソプラノがバルバラ・ヘルツル(Barbara Holzl)、テノールがイェルク・ヘリング(Jorg Hering 1963-) バスがハリー・ヴァン・デル・カンプ(Harry van der Kamp 1947-)。1999年の録音。 当盤の特徴として、代表的なものを3つ挙げると、以下となる。 1) 「ランドン版」を用いた録音であること。 2) 合唱に少年合唱団を起用していること。 3) 全体に速いテンポを採用していること。 2,3)は、実際に聴いてみると、様々に聴き味として伝わることであるが、1)については、前段階で説明があった方がいいだろう。 「ランドン版」とは、アメリカの音楽学者ロビンス・ランドン(Howard Chandler Robbins Landon 1926-2009)が校訂したスコアのことである。ランドン版は、モーツァルトの弟子の一人であるアイブラー(Joseph Leopold Eybler 1765-1846)のスコアをベースとしている。モーツァルトは、レクイエムを完成することなく世を辞することとなるのだが、妻コンスタンツェがレクイエムの完成を最初に依頼したのがアイブラーである。しかし、アイブラーの作業は、レクイエム中の5曲のみにとどまり、全曲が完成することはなかった。最終的には、ジュスマイヤー(Franz Xaver Susmayr 1766-1803)が補筆完成したものが、いわゆるジュスマイヤー版の「モーツァルトのレクイエム」として、広く一般に知られるものとなる。この際、ジュスマイヤーは、アイブラーがすでに補筆完成していた第3曲ディエス・イレ(Dies irae)から第7曲コンフターティス(Confutatis)までの5曲については、アイブラーがいったん完成させたスコアをベースにして、さらに手を加える作業を行っている。 ランドン版は、前述の第3曲から第7曲までの5曲を、アイブラーのスコアに戻すことを念頭に編集したものである。結果として、ランドン版の場合、当該曲において、「他者の手の加わった部分」が少なくなっている、ということになる。マーラーの第10交響曲におけるクック版のイメージに近いだろう。聴いていて、トランペットやティンパニのパターンが差し替えられているところなどがあちこちに出てくるが、演奏上、もっとも明瞭なのは、第5曲 レックス・トレメンデ(Rex tremendae)で、ジュスマイヤー版では、壮麗なコーラスの付点のトゥッティに、管弦楽を重ねることで、劇的な効果を上げているのに対し、ランドン版では、オーケストラは無音で、コーラスのみで奏されるのである。 聴いてみて、なるほど、このスコアにはこのスコアなりの、面白さ、どちらかというと、透明で、清楚な感覚に寄った魅力が感じられる。ただ、私の聴き馴染みの問題かもしれないが、やはりジュスマイヤー版の方が、より完成されたイメージを持つ。そのあたりは聴き手の感性で左右されるだろう。ただ、モーツァルトの不朽の名作「レクイエム」が、弟子たちのどのような作業により、現在の姿になるに至ったかを想像させてくれると言う点で、面白く、興味深い。 ヴァイルの演奏は前述のように、全般に速いテンポで、シャープにまとめた感がある。ピリオド奏法の印象がそこまで支配的な感じはせず、むしろ演奏の代表的な性格は、このキビキビしたテンポと、曲間の短いインターバルにあると思う。このスタイルは、あるいみランドン版の清楚さ、肉付きの薄さと、音楽的な相互作用をもたらすものかもしれない。全体に、心地よいトーンで仕上がっている。コーラスの少年合唱は、特に高音域が少年合唱特有の音色であり、このあたりも聴き手の好み次第といったところ。4人の独唱者はいずれもクセのない歌唱であり、全体的に、透明な感覚美で仕上がっている。 |
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アロイジア・ウェーバーのためのアリア集 S: ジーデン ブリュッヘン指揮 18世紀オーケストラ レビュー日:2015.10.15 |
★★★★★ モーツァルトの声楽曲の魅力を余すことなく伝えた秀逸なアルバム
モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)は、1778年1月17日に父にあてた手紙の中でこう書いている。「ウェーバー家には、まだ15才だけど、本当に歌の上手な娘がいます。彼女はとても純粋で愛らしい声を持っています。」そして、その1か月後の手紙で、「私はアリア"私は知らぬ、どこからこの愛情が来るのか"に取り組んでいます。最初、これはテノール歌手のラーフ(Anton Raaff 1714-1797)のために書いていたのですが、音域が高くなったので、ウェーバー家のお嬢さんのためにすっかり書き換えるんです。」 この人物が、ウェーバー家の次女、アロイジア・ヴェーバー(Aloysia Weber 1760-1839)であり、モーツァルトは彼女に深い愛情を抱いていた。また、その歌手としての才能も高く評価し、1780年に彼女が結婚してからも、彼女のためにアリアを書いたり、かずかずの自身のオペラの上演にあたっては、重要な役を依頼したりした。 モーツァルトは、ウェーバー家4姉妹の三女、コンスタンツェ(Constanze Mozart 1762-1842)と結婚するので、アロイジアはモーツァルトの義姉となる。 当盤はソプラノのシンディア・ジーデン(Cyndia Sieden 1961-)と、ブリュッヘン(Frans Bruggen 1934-2014)指揮18世紀オーケストラによる、モーツァルトがアロイジアのために書いたアリアを集めた1998年のオランダへのライヴの模様を収めたもの。収録曲は以下の通り。参考までに出版年と併せて記す。 1) アリア「いいえ、いいえ、あなたにはできません」 K.419 (1783年) 2) アリア「私は知らぬ、どこからこの愛情が来るのか」 K.294 (1778年) 3) アリア「私はあなたに明かしたい、おお、神よ!」 K.418 (1783年) 4) アリア「ああ、情け深い星たちよ、もし天にいて」 K.538 (1788年) 5) レチタティーヴォ「わが憧れの希望よ」と ロンド「ああ、あなたはいかなる苦しみか知らない」 K.416 (1783年) 6) レチタティーヴォ「テッサリアの民よ」とアリア「不滅の神々よ、私は求めず」 K.316(300b) (1778年) 7) アリア「わが感謝を受けたまえ、やさしい保護者よ」 K.383 (1782年) 一つ言えるのは、これらのアリアが見事な傑作揃いだということである。いや、もちろん世紀の天才モーツァルトの仕事なのだから、その作品が傑作なのは当然なのだけれど、それにしてもこれらの楽曲に宿された様々な音楽的技法、効果、細やかな感情表現の機微が見事で、なにか高名なオペラを聴くよりも、当盤を聴いた方が、モーツァルトの声楽作品の凄みの中心部を的確に掬い取れるようにさえ感じられる。 管弦楽書法と独唱の技巧の高次な融合という点でまず6)を挙げたい。極高音を含めた技巧が必要だが、それらは音楽的な必然性から導かれているし、レチタティーヴォ部分の憂いは、私には協奏交響曲K.364 の第2楽章を思わせる深みがある。 「後宮からの誘拐」の主題を使用した7)の楽曲としての価値を、アインシュタイン(Albert Einstein 1879-1955)はあまり評価していなかったと伝えられるが、私には十分な美しさをもって響く。そもそもアインシュタインはアロイジアのために書かれた一連の作品について、評価を低く見積もる傾向があるのだ。しかし、そのアインシュタインをしても、5)の声楽と管弦楽の掛け合いの見事さは認めざるを得ない記述を遺している。 1)は劇的な力強さと高揚のバランスにモーツァルトならではの閃きがあって、輝かしい楽曲だ。2)は前述の作曲過程で、本来的には男声による内容のテキストであるが、女声曲としての鮮やかな転身を果たしており、その経緯を知って聴くとさらに面白いだろう。 その他、全般にモーツァルトならではの転調によって表現される感情の細やかな起伏がいずれも絶品といって良い内容。これらのモーツァルト作品でその名を確立したジーデンの歌唱は、高音域の弱音の扱いが絶妙で、時として器楽的な効果も存分に楽しませてくれる。ブリュッヘンに指揮された18世紀オーケストラも抜群のサポートで、文句のつけようがない。 |
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アリア集 S: コジェナー ラトル指揮 エイジ・オブ・インライトゥンメント管弦楽団 レビュー日:2015.10.9 |
★★★★★ 肉厚で装飾性に溢れたコジェナーのモーツァルト
チェコのメゾソプラノ歌手、マグダレーナ・コジェナー(Magdalena Kozena 1973-)によるモーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)のアリア集。2005年の録音。この録音の3年後に彼女と結婚することになるサイモン・ラトル(Simon Rattle 1955-)が、オリジナル楽器による楽団、エイジ・オブ・インライトゥンメント管弦楽団を指揮してバックを務める。収録曲は以下の通り。 1) 歌劇「フィガロの結婚」K.492 第4幕から 「ついにその時が来たわ」~「さあ、おいで、遅くならず、素敵な喜びよ」 2) 歌劇「フィガロの結婚」K.492 第2幕から 「恋とはどんなものかしら」 3) アリア「どうしてあなたを忘れられようか」とロンド「恐れないで、愛する人よ」K.505 4) 歌劇「コジ・ファン・トゥッテ」K.588 第1幕から 「男たちに、兵士たちに、貞節を望むですって?」 5) 歌劇「コジ・ファン・トゥッテ」K.588 第2幕から 「あの方、行ってしまう」~「お願いです、いとしいあなた、許して下さい」 6) 歌劇「コジ・ファン・トゥッテ」K.588 第2幕から 「恋はいたずら坊や」 7) 歌劇「皇帝ティートの慈悲」K.621 第2幕から 「今はもう、花で美しい愛の鎖を作りに」 8) 歌劇「クレタの王イドメネオ」K.366 第1幕から 「いつ果てるのでしょう」~「父上、兄弟たち、さようなら!」 9) アリア「私は行きます、でもどこへ」K.583 10) 歌劇「フィガロの結婚」K.492 第1幕から 「僕はもう自分が何か、どうすればよいか分からない」 11) アリア「大いなる魂と高貴な心」K.578 12) 歌劇「フィガロの結婚」K.492 第3幕から 「ついにその時が来たわ」~「あなたを熱く愛する者の願い満たしに」 コジェナーは現代を代表する女声歌手といって差し支えない存在で、広い声域、高い技術ともに当代きっての名手だろう。この翌年に録音されているヘンデル(Georg Friedrich Handel 1685-1759)のアリア集で示された技巧も見事だった。このモーツァルトのアルバムでも、装飾性のある華やかな歌唱で聴き手を楽しませる。 アルバムの構成も、いかにも練った雰囲気があり、両端にフィガロの結婚の「ついにその時が来たわ」からはじまるアリアを配置したり、スザンナのアリアとケルビーノの高名なアリアをあえて一続きにするようなインターバルであったり、いろいろ楽しい。私は、これらの楽曲の一部しか、どのような場面のものなのか知らないのだけれど、スザンナのアリアなどは、性格描写的な表現がよく踏まえられた印象。 3曲目に収録されているコンサート・アリアは、ピアノ伴奏を伴うもので、ピアノと声の精巧なやりとりに特徴があるが、ここでインマゼール(Jos van Immerseel 1945-)によるフォルテピアノとの交錯はとても楽しめるものになっている。 8曲目に収録されている歌劇「クレタの王イドメネオ」からあの一節は、私は当盤で初めて聴いた楽曲なのだけれど、劇的で美しく、コジェナーの迫力満点の声が圧巻だ。 最終曲のアリアでは、クラリネットの妙技が冴えるなど、管弦楽の表現力も存分に堪能できる。 コジェナーの歌唱は、モーツァルトの楽曲のシンプルさに、演劇的な肉厚さを付与していて、とてもゴージャスな聴き味に向かうものだと思う。モーツァルト作品の声楽は、本盤のようなプロフェッショナルな遊戯心によって、一層その魅力が引き立つものだとあらためて実感した。 |