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フェルドマン



現代音楽

バニタ・マーカスのために
p: アムラン

レビュー日:2017.7.27
★★★★☆ これを音楽として享受するには、私の「修行」がまだ足りないのかも・・
 アムラン(Marc-Andre Hamelin 1961-)によるアメリカの作曲家、モートン・フェルドマン(Morton Feldman 1926-1987)の晩年のピアノのための作品、「バニタ・マーカスのために」。2016年の録音。
 フェルドマンは、図形楽譜の発案者として、その名を知られるが、私はその「図形楽譜」がどのようなものなのか知らない。また、フェルドマンはその活躍時期の間、いくつかの作風の間をさまよったとされるが、それについても詳しいことはわからない。
 私が当盤を聴いたのは、奇才アムランの録音であり、かつてインタビューで、アムランが、これから録音・演奏を通して紹介する作曲家の一人としてフェルドマンの名を挙げていて、さらに、「“バニタ・マーカスのために”というスコアと対峙したとき、その自己完結的な世界に衝撃を受けた」とのコメントをしていたから、興味を持ったためである。
 この楽曲は、「ページ1」から「ページ36」のパーツによって構成され、当盤における全曲の演奏時間は72分。そして、その音楽は、静寂の中で、単純化された音型、しかし非対称で、アトナール(無調)の作法によって構成された音が、延々と響いていくというものだ。その様は、曲が進むにつれて、少しずつ何かを変えていく。(私の理解では)そういう音楽である。
 私は、この録音を何度か聴いてみた。正直言って、このアルバム1枚を、相応の集中力を持って聴きとおすのは、私には相当に忍耐を強いられる作業であった。音楽を聴く喜びとは別種の、なにか義務的なノルマをこなすための一連の時間である。それにくらいに、訴えかけるものの性質が一様であり、音楽の方から聴き手に近づいてきてくれるようなところは、一瞬だってないのである。
 アムランはこの作品に「自己完結的な世界」がある、と言及した。なるほど、それは正しいのかもしれない。しかし、私の感想では、あくまでこの芸術は、「環境補完的」なものであり、音楽として一つで成立するか、と問われと、私にはそうは思えない。なにか、部屋であるとか、物理的に仕切られた空間にあって、そのうち「音」の部分を司るものとしての機能をもったもので、芸術として完成するためには、そこに何か別の要素が加わる必要があるのではないだろうか。私には、この作品と終始一対一で向き合うということは、「音楽」ではなく「瞑想」や「修行」といったものに近い感じがするのである。
 アムランは、インタビューで、演奏会でこの作品を演奏しても、席を立つ人はいなかったと言っている。それはマナーの問題でなければ、あるいは「瞑想」や「修行」として、十分な心構えのある人たちが聴衆を占めていたからではないだろうか、と思う。
 あるいは、会場を構成する聴衆や空間等の環境を含めた、高次の抽象性の高い芸術なのだ、と考えることは出来るだろうが、そうなると、私にはいよいよ自分なりの判別さえ、しようがなくなってくる。
 アムランの集中力に満ちた研ぎ澄まされたタッチは流石の一語に尽きるのですが、正直に言って、これをちゃんと聴きとおすのは、やっぱりしんどいです。何かの環境音として、用いるのならいいのですが。音楽としては、私の理解の及ばないものかな。


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