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クレメンティ



器楽曲

ピアノ作品集
p: ティーポ スペッキ タンバリン: ラビオ トライアングル: フェラーリ

レビュー日:2020.10.30
★★★★★ イタリアの名ピアニスト、ティーポが記録したクレメンティの名録音
 イタリアのピアニスト、マリア・ティーポ(Maria Tipo 1931-)によるムツィオ・クレメンティ(Muzio Clementi 1752-1832)のピアノ作品集。CD10枚に以下の楽曲が収録されている。
【CD1】 1978年録音
1) ソナタ ト長調 op.40-1
2) ソナタ ロ短調 op.40-2
3) ソナタ ニ長調 op.40-3
【CD2】 1978年録音
4) ソナタ イ長調 op.50-1
5) ソナタ ニ短調 op.50-2
6) ソナタ ト短調 op.50-3 「見捨てられたディドーネ」
【CD3】 1979年頃録音
7) ソナタ ト短調 op.8-1
8) ソナタ 変ホ長調 op.8-2
9) ソナタ 変ロ長調 op.8-3
10) ソナタ 変ロ長調 op.9-1
11) ソナタ ハ長調 op.9-2
【CD4】 1979年頃録音
12) ソナタ 変ホ長調 op.9-3
13) ソナタ風カプリッチョ ホ短調 op.47-1
14) ソナタ風カプリッチョ ハ長調 op.47-2
【CD5】 1980年頃徳音
15) ソナタ イ長調 op.10-1
16) ソナタ ニ長調 op.10-2
17) ソナタ 変ロ長調 op.10-3
18) ソナタ 変ホ長調 op.11
19) トッカータ 変ロ長調 op.11,S.(op.19)
【CD6】 1980年頃録音
20) ソナタ 変ロ長調 op.46
21) ピアノ、タンバリンとトライアングルのための12のワルツ op.38
22) ピアノ、タンバリンとトライアングルのための12のワルツ op.39
【CD7】 1981年頃録音
23) ソナタ 変ロ長調 op.13-4
24) ソナタ ヘ長調 op.13-5
25) ソナタ ヘ短調 op.13-6
26) モーツァルトの歌劇「ドン・ジョヴァンニ」から 「ぶってよ、マゼット」Wo.10
27) 幻想曲と変奏曲(エール「月の光の下で」による) op.48
28) コリックの主題によるメヌエットと5つの変奏曲 Wo.5
【CD8】 1981年頃録音
29) ソナタ ハ長調 op.37-1
30) ソナタ ト長調 op.37-2
31) ソナタ ニ長調 op.37-3
32) ブラック・ジョーク(主題と21の変奏曲) Wo.2
【CD9】 1982年頃録音
33) ソナタ ハ長調 op.34-1
34) ソナタ ト短調 op.34-2
35) ソナタ 変ロ長調 op.12-1
36) ソナタ 変ホ長調 op.12-2
【CD10】 1982年頃録音
37) ソナタ ヘ長調 op.12-3
38) ソナタ 変ホ長調 op.12-4
39) デュエット 変ロ長調 op.12-5
40) ソナタ 変ロ長調 op.1 bis
41) 4手ピアノのための二重奏 ハ長調 op.6-1
42) デュエッティーノ ハ長調 Wo.24-1
43) デュエッティーノ・アレグロ ハ長調 Wo.26
44) デュエッティーノ・アレグロ ハ長調 Wo.28
45) デュエッティーノ・アレグロ ハ長調 Wo.27「狩り」
 21,22) タンバリン: ルチアーノ・ディ・ラビオ(Luciano di Labio) トライアングル: ジャニーノ・フェラーリ(Giannino Ferrari)
 39,41-45) ピアノ: アレッサンドロ・スペッキ(Alessanndro Speechi)
 私はピアノで奏されたクレメンティの作品が好きで、いろいろな録音を所有しているが、その録音史において外せないものの一つがティーポの一連の録音だ。クレメンティの作品には、評論家の間にさえ、いまなお、ある意味教義的で面白くないないもの、という先入観を持っている人がいて、たまにそのような記述を見ることもあるが、私個人的は、それはまったく的外れなことであり、少なくとも評論を活動にするのであれば、いささか感性の不足を感じさせるものではないか、と思っている。
 そもそも、この先入観の源をつくったのは、モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1761-1791)で、1782年にクレメンティの演奏を聴いたモーツァルトは、「クレメンティは、素晴らしいチェンバロ弾きだが、単なるいかさま師で、趣味や感情のひとかけらも持っていません。要するに彼は単なる機械的演奏家なのです。」と酷評している。天才モーツァルトの当評価は、その後、ずいぶん世の中の考え方に影響をもたらしたのである。(一方。クレメンティは、モーツァルトの情感豊かな演奏を絶賛している)。
 ただ、確かに、クレメンティの作品を、面白く聴かせるというのは、ピアニストに相応の表現性を要求するものだと思う。これも、私の考えであるが、クレメンティのソナタは、後期作品になるほど、作曲者の表現意志が強く外に立ち現れてくる。だから、その性質を十全に表すためには、楽器には現代ピアノのスペックが必要だし、ピアニストはロマン派の演奏にも通じていることが必要だと思う。そういった点で、この録音は理想的なものの一つに違いないと思う。
 ティーポは、呼吸に似た抑揚を楽曲に与え、強弱の対比、楽想に応じたアッチェランドの効果を多彩に取り入れ、色彩感豊かで感情表現に長けたクレメンティを奏でている。以下、収録順に主だったものについて感想を書こう。
 【CD1】のop.40は1802年、【CD2】のop.50は1821年に出版されたもの。ちなみにベートーヴェン(Ludwig van Beethoven 1770-1827)の熱情ソナタが出版されたのは1807年。ベートーヴェンとクレメンティは互いの影響を認めているし、互いにピアノという楽器の進化を切望するもの同士でもあった。当盤では、op.50-2、そしてop.50-3といった作品に、力強くかつ悲劇的な精神性が顕著に顕れており、傑作と呼ぶにふさわしい。この2作品は、疾風怒濤運動期に芸術社会で培われた表現性が示されているが、ティーポのピアノは、間断ないエネルギーの波により、如何なく作品の価値を歌い上げたもので、これらの楽曲に相応しい。op.50-2は第1楽章冒頭から、まさに疾風のごとき勢いだが、その炸裂的な燃焼を、ティーポは闊達かつ力強く描いており、その燃焼性は高い。op.50-3は荘重な序奏から、突如激しく逆巻く音楽となり、激しい演奏効果をもたらす。中間に起きる沈鬱な情感も幅があって美しい。ピアノという楽器の演奏効果を最大限駆使した終結部まで聴きどころに満ちている。op.50-1は、それらにくらべると穏当で平和な音楽であるが、ティーポの暖かなピアノは心地よく、聴き手は十分に満たされると思う。
 op.40の3作品では、op.40-2がやはり悲劇的な力強さを主張した作品で、ティーポのエネルギッシュな表現とともに、印象に刻まれることとなる。2つの急速楽章による構成は、op.50-3にも似通うが、作曲年代を考えると、op.40-2はより革新的である。op.40-1は瀟洒な雰囲気とともに4楽章構成というクレメンティのソナタ群では珍しい特徴を持ち、特に第3楽章にカノンが用いられるところも面白い。op.40-3は情緒を重んじた作品であるが、ティーポによる演奏は、陰陽の交錯が華やかに強調されていて、美しい。
 【CD3,4】のop.9の作品群は1783年に出版されたもので、作曲時期は1781~2年ごろと考えれている。またop.8も同時期であろう。クレメンティは、op.1やop.2においてソナタを2楽章構成で書いたが、op.8や9は緩徐楽章を挟んだ3楽章構成が中心となり、より劇性を高めたものとなっている。高い演奏効果を目指した楽曲構成は、ピアノという楽器の発展を念頭に置いたものと言えるだろう。op.8やop.9 は初期の作品である。しかし、そこにはすでに情緒的な発露を様々に感じさせる楽想がある。op.8-1は、主題の扱いが変則的であるところも面白いが、何より、感情的に多様な訴えを含んでいるところが魅力であり、ティーポの演奏がその陰影を鮮やかに浮かび上がらせているのが素晴らしい。op.8-3の典雅さも相応しい。op.9の3つのソナタも、op.8と大きく異なるわけではないが、相応に豊かなものが流れている。特にop.9-1は冒頭から快活なリズムと跳ねるような旋律が楽しく、ティーポのピアノによって強調される幸福感が、衒いがない。それは率直に楽しい音楽だ。
 また、【CD4】に収められたop47の「ソナタ風カプリッチョ」は、1821年に書かれた作品であり、これらは70代となった作曲者が、ソナタという枠組みをより自由なものとして扱うジャンルとして、「ソナタ風カプリッチョ」の名を与えたものである。その聴き味は、幻想曲ふう、と評したい。いずれにせよ、より自由で、ロマン派を思わせる表現性が溢れていることから、ピアノという楽器の進化とともに、クレメンティのスタンスも並行して変化していったことが如実に連想される。聴いていてより滋味を感じるのは、特にホ短調の一編で、一つ一つの楽章の規模が大きく、高まった楽器の性能によって触発されたと感じられるインスピレーションに彩られており、聴き味に幅がある。ティーポは、そのロマン的な起伏を、たっぷりした呼吸で描き出しており、そのスケールは、楽曲のポテンシャルを、ほぼ最大に近い出力で開放した感があり、心を動かされる。
 【CD5】に収録されたop.10の3つのソナタは1783年に出版されたもの。これらの3つのソナタは、それ以前のクレメンティの作品群と比べて、クレメンティの表現意欲がより増した傾向を感じることができる。イ長調のソナタはモーツァルトふうであり、またニ長調のものは、2楽章構成となっているが、その第1楽章はどこかベートーヴェンの田園ソナタを彷彿とさせるところがある。田園ソナタが書かれるのは1801年のことであるが。これら3つのソナタは、ソナタ形式に則っているものの、主題の回帰のさせ方は、そこまで類型的ではなく、クレメンティが模索した様々なソナタの表現方法が感じられる。ティーポの演奏は、深い息遣いで、その抑揚を強調し、ともすればのっぺりしてしまいそうな個所であっても、くっきりした目鼻立ちを与えている。これは、現代ピアノの利点を存分に活かしたアプローチであり、これらの楽曲が、現代ピアノで弾かれてはじめて醸し出す情緒を聴き手に伝えてくれるものであろう。op.11は、ソナタとトッカータで1つの作品群という構成をなす。当時の鍵盤楽器奏法の技術的探求を究めたもので、その効果が、多彩な発色性によって還元されるが、ティーポのピアノはまさにうってつけであり、特にトッカータにおける和音の生気に溢れた響きと、間断なく続くリズムは、見事なものである。
 【CD6】に収録されているop.46の変ロ長調のソナタは、1820年に出版されたものであるが、充実期に書かれたクレメンティの作品群の中では、それほど目立つものとは言い難いだろう。とはいえ、初期の作品とは肌合いの違う感情表現の幅があり、ティーポのニュアンスの深いタッチが、それを的確に拾ってくれることは心地よい。op.38と39は珍曲といって良いかもしれない。私も当盤以外では聴いたことがない。楽器の組み合わせゆえの遊戯性はあるが、タンバリンとトライアングルの表現幅の狭さはいかんともしがたく、曲によっては、それらの追加楽器をカットした方が良いのでは、と思うところもある。面白い部分もあるが、私の感覚では、現在では資料的な意味合いが強いだろう。
 【CD7】に収録されているop.13のソナタ群は1785年に出版されたもの。ピアノという楽器の進化とともに、クレメンティがソナタという様式の中に、より多面的な表現性を求めたものであり、古典的でありながら、様々に感情的な発色性がめぐらされている。ティーポのピアノは、楽曲がもつ抑揚にふさわしい変化と呼吸があり、これらの楽曲に艶やかで現代的な彩色が施されたように新鮮味が溢れていて、魅力いっぱいだ。クレメンティが、当時の鍵盤楽器作品にあっては異質なほどレガート奏法、もしくはレガートが相応しい旋律を探求していたこともよくわかる。中でもヘ短調のop.13-6はクレメンティが書いた傑作の一つとして指折るべき作品で、第2楽章の濃厚な抒情性、第3楽章の運動的劇性の開放など、ベートーヴェンが、ソナタ創作活動に際して、クレメンティのソナタに影響を受けたことを、ただちに想起させる作品となっている。今、聴いてみても、1785年という年に、これほどのソナタが出版されていたのだということは、一種の驚きであろう。ティーポの演奏は、その真価を伝えてくれる。
 【CD7】の末尾には、愛らしい変奏曲が3篇収録されているが、中でも、「幻想曲と変奏曲(エール「月の光の下で」による)」で扱われている主題は、日本人の多くが、記憶しているものであると思う。例えば、小学校時代にリコーダーの重奏で演奏した記憶がある・・など。クレメンティの典雅な変奏が楽しい。
 【CD8】のop.37は1798年に出版されたもので、この時代になると、ベートーヴェンもすでに「悲愴ソナタ」を手掛けた時代であり、クレメンティが逆にベートーヴェンの影響を受けるようになってくる。最初のハ長調のソナタから、いかにも現代ピアノに相応しいピアニスティックな味わいで、気品とのバランスのとれた高度な古典性を保つが、終楽章において、ベートーヴェン的なものが顔を表してきて面白い。ニ長調のソナタでは、クレメンティの、形式的ものからどれだけ乖離てきるかという試みがある。それが音楽的な面白味や浪漫性として、聴き手には感ぜられる。ティーポのピアノが、ときには幻想的、ときには情熱的に、必要ならタメも厭わず、濃厚に響くところが心強い。【CD8】には比較的大規模な変奏曲である「ブラック・ジョーク(主題と21の変奏曲)」も収録されている。素朴な単旋律から開始されながら、様々な雰囲気的変化をふまえ、時に狩を思わせるような響きもまじえて、典雅な愉悦をもたらしてくれるようになる。
 【CD9】に収録されたop.34の2作品は、1795年に出版されたものだが、これらの楽曲は、クレメンティが日に日に進歩しているピアノという楽器の表現の可能性を探求した野心的な作品であり、かつ多彩で劇的な要素を持ち合わせている。そのうちソナタ ト短調 op.34-2は、今日では、モーツァルトの交響曲第25番、ハイドン(Franz Joseph Haydn 1732-1809)の交響曲第83番とともに、疾風怒濤運動の象徴を成す楽曲の一つと位置付けられている。その充実ぶりは、1821年に出版されたクレメンティの傑作として知られるop.50のソナタ群に匹敵する。このソナタに影響を受けた人物として、やはりベートーヴェンの名を挙げることができる。ちなみに、1795年という年は、ベートーヴェンがヘ短調の美しい第1ソナタを完成した年でもある。ティーポは、op.34-1では、その多彩なフレーズの歌を活き活きと描き出し、op.34-2では、技巧的な情熱表現を深い呼吸で描き出す。どちらのソナタも表現性に卓越した演奏であり、現代ピアノのスペックをフルに活用した華やかな演出に彩られており、魅力いっぱいだ。
 【CD9,10】に収録されたop.12のソナタ群は1784年に出版されたもの。クレメンティの鍵盤楽器の作品群の中では古典的な特徴が目立つものであるが、ティーポはこれらの楽曲においても、能動的な彩色を施し、聴き手の耳を楽しませてくれる。それは、セピア色の歴史写真に、現代の技術で色が与えられたように鮮明な印象を伴っている。ことにop.12-3とop.12-4における意欲的な手法が、これらの楽曲の魅力を、余すことなく引き出している。【CD10】には録音自体が非常に珍しいクレメンティによる4手のための作品が収録されている。現代の感覚では、単純で、鑑賞用としてはやや足りないところもあるが、中にあってop.6-1の「4手ピアノのための二重奏」は、3つの楽章の抒情的性向が端的で、それを如実なくあらわしたティーポとスペッキのピアノが心地よい。
 以上のようにティーポの感性豊かな演奏で、クレメンティの魅力を十分に伝えてくれるアルバムだ。惜しいのは、収録から漏れた作品の中に、是非ティーポの演奏で聴いてみたかった楽曲が遺されていること。例えば、有名な「6つのソナチネop.36」や、「ソナタ 嬰ヘ短調 op.25-5」、「ソナタ ハ長調 op.33-3」である。ただ、現在では、それらも含めてシェリー(Howard Shelley 1950-)の素晴らしい録音があるので、併せてクレメンティを楽しめれば、言うことはない。

ソナタ 変ホ長調 op.1-1  ト長調 op.1-2 変ホ長調 op.1-3 へ長調 op.1-4 イ長調 op.1-5 ホ長調 op.1-6 ハ長調 op.2-2 イ長調 op.2-4 変ロ長調 op.2-6  ト長調 wo.14(op.1-2の第1楽章の異版) 変ホ長調 op.7-1 ハ長調 op.7-2  ト短調 op.7-3  ト短調 op.8-1 変ホ長調 op.8-2 変ロ長調 op.8-3 変イ長調 wo.13
p: シェリー

レビュー日:2017.8.18
★★★★★ クレメンティ初期のソナタの完成度を示すシェリーの万全のピアニズム
 ムツィオ・クレメンティ(Muzio Clementi 1752-1832)は、クラヴィーアのためのソナタにおいて重要な役割を果たした作曲家であり、ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven 1770-1827)も、このジャンルでは、クレメンティの作品をモーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)のものより高く評価していた。私もクレメンティのソナタが好きで、聴くのだけれど、それにしても、録音の数が少なかった。そんな中で、干天の慈雨ともいうべき素晴らしい全集が、2007年から09年にかけて、ハワード・シェリー(Howard Shelley 1950-)によって完成されたことは、非常に意義深い。
 シェリーの全集は、2枚組のCD全6組からなっている。完成度の高い傑作と称されるものは、そのうち第4巻から第6巻に集められており、クレメンティのソナタを聴いてみたと言う方には、まずはそちらを推奨したいと思うが、併せて、これまで録音機会のほとんどなかった初期の作品も、シェリー盤の出現により、すぐれた演奏と録音で聴けるようになったわけだ。当アイテムは、その最初期の作品を収録したもの。収録内容は以下の通り。
【CD1】
1) ソナタ 変ホ長調 op.1-1
2) ソナタ ト長調 op.1-2
3) ソナタ 変ホ長調 op.1-3
4) ソナタ へ長調 op.1-4
5) ソナタ イ長調 op.1-5
6) ソナタ ホ長調 op.1-6
7) ソナタ ハ長調 op.2-2
8) ソナタ イ長調 op.2-4
9) ソナタ 変ロ長調 op.2-6
10) ソナタ ト長調 WO.14(op.1-2の第1楽章の異版)
【CD2】
1) ソナタ 変ホ長調 op.7-1
2) ソナタ ハ長調 op.7-2
3) ソナタ ト短調 op.7-3
4) ソナタ ト短調 op.8-1
5) ソナタ 変ホ長調 op.8-2
6) ソナタ 変ロ長調 op.8-3
7) ソナタ 変イ長調 WO.13
 2007年の録音。
 現在では、他にマストロプリミアーノ(Costantino Mastroprimiano 1964-)の全集も入手可能となっている。私は、マストロプリミアーノのクレメンティも聴いたのだけれど、シェリーの方が断然面白い。その最大の理由は、マストロプリミアーノがフォルテピアノを用いたのに対し、シェリーが現代のピアノを用いているためだ。クレメンティはベートーヴェンと同様に、ピアノのための作品に精力的に向かいながらも、当時の楽器的な制約に苦しみ、より強い、多彩な響きを思い描きつつ作曲をした人である。それをわざわざその制約を前提に表現しては、その面白味、クレメンティが描いた夢に、十分な色彩を与えることはできないのではないだろうか。
 シェリーの演奏は、そんな不満を払拭する。シェリーによって弾かれるクレメンティの美しさ、優雅さはこれらの楽曲の魅力を最大限引き出したものにほかならない。その結果、例えばop.7-3やop.8-1などは、後期の作品と比較しうるぐらいの内容的な深み、感情的な多面性を持って響く。また最初期の作品もすでに高い完成度を示しており、クレメンティもまた早くからその天才性を示した人だったことがわかる。op.2-2のプレストで奏でられる第1楽章の劇性に、すでに後期の充実を示すものがあらわれている。また、このころの作品にはスカルラッティ(Domenico Scarlatti 1685-1757)を思わせるものが多分に含まれていることも興味深い。
 op.1やop.2では2楽章構成だったソナタが、op.7やop.8では緩徐楽章を挟んだ3楽章構成が中心となり、より劇性を高めるのはベートーヴェン的であり、ピアノという楽器の発展性を強く示唆するものともなっている。
 シェリーの演奏は正統的なスタイルに徹しながら、格調高くも暖かく、クレメンティの楽曲の素晴らしさを示す理想的なものと思われる。その一方で、クレメンティのソナタ群には、まだまだ新しい表現の可能性が未開のまま眠っているだろう。個人的に多くのピアニストに弾いてほしい充実の作品群であると考える。

ソナタ ト短調 op.8-1 変ホ長調 op.8-2 変ロ長調 op.8-3 変ロ長調 op.9-1 ハ長調 op.9-2 変ホ長調 op.9-3 ソナタ風カプリッチョ ホ短調 op.47-1 ハ長調 op.47-2
p: ティーポ

レビュー日:2020.10.9
★★★★★ クレメンティのクラヴィーア曲の魅力を、存分に味わわせてくれるアルバム
 イタリアのピアニスト、マリア・ティーポ(Maria Tipo 1931-)が録音した一連のムツィオ・クレメンティ(Muzio Clementi 1752-1832)の鍵盤楽器のための作品集の第2集にあたる録音で、以下の楽曲が収録されている。
【CD1】
1) ソナタ ト短調 op.8-1
2) ソナタ 変ホ長調 op.8-2
3) ソナタ 変ロ長調 op.8-3
4) ソナタ 変ロ長調 op.9-1
5) ソナタ ハ長調 op.9-2
【CD2】
6) ソナタ 変ホ長調 op.9-3
7) ソナタ風カプリッチョ ホ短調 op.47-1
8) ソナタ風カプリッチョ ハ長調 op.47-2
 1979年頃の録音。
 op.9の作品群は1783年に出版されたもので、作曲時期は1781~2年ごろと考えれている。またop.8も同時期であろう。クレメンティは、op.1やop.2においてソナタを2楽章構成で書いたが、op.8や9は緩徐楽章を挟んだ3楽章構成が中心となり、より劇性を高めたものとなっている。高い演奏効果を目指した楽曲構成は、ピアノという楽器の発展を念頭に置いたものと言えるだろう。
 また、op47の「ソナタ風カプリッチョ」は、1821年に書かれた作品であり、70代となった作曲者が、ソナタという枠組みをより自由なものとして扱うジャンルとして、「ソナタ風カプリッチョ」の名を与えたものである。その聴き味は、幻想曲ふう、と評したい。いずれにせよ、より自由で、ロマン派を思わせる表現性が溢れていることから、ピアノという楽器の進化とともに、クレメンティのスタンスも並行して変化していったことが如実に連想される。
 ティーポのピアノは、華やかで感情豊か。クレメンティがこれらの作品を書いたのは、ピアノという楽器の演奏上の制約が大きかった時代。だが、ティーポのピアノは、その呪縛から作品たちを解き放ったように、豊かだ。そして、それが素晴らしいと思う。私はクレメンティのクラヴィーア曲を聴くたびに、彼が現代のピアノのような高いスペックの鍵盤楽器で、その音楽が奏でられることを夢見ていたに違いないと確信できる。
 op.8やop.9 は初期の作品である。しかし、そこにはすでに情緒的な発露を様々に感じさせる楽想がある。op.8-1は、主題の扱いが変則的であるところも面白いが、何より、感情的に多様な訴えを含んでいるところが魅力であり、ティーポの演奏がその陰影を鮮やかに浮かび上がらせているのが素晴らしい。op.8-3の典雅さも相応しい。op.9の3つのソナタも、op.8と大きく異なるわけではないが、相応に豊かなものが流れている。特にop.9-1は冒頭から快活なリズムと跳ねるような旋律が楽しく、ティーポのピアノによって強調される幸福感が、衒いがない。それは率直に楽しい音楽だ。
 とはいえ、聴いていてより滋味を感じるのは、ソナタ風カプリッチョであろう。特にホ短調の一編は、一つ一つの楽章の規模が大きく、高まった楽器の性能によって触発されたと感じられるインスピレーションに彩られており、聴き味に幅がある。ティーポは、そのロマン的な起伏を、たっぷりした呼吸で描き出しており、そのスケールは、楽曲のポテンシャルを、ほぼ最大に近い出力で開放した感があり、心を動かされる。
 このような演奏で聴いてこそ、クレメンティは楽しい。

ソナタ イ長調 op.10-1 ニ長調 op.10-2 変ロ長調 op.10-3 変ホ長調 op.11 変ロ長調 op.46 トッカータ 変ロ長調 op.11,S.(op.19) ピアノ、タンバリンとトライアングルのための12のワルツ op.38 op.39
p: ティーポ タンバリン: ラビオ トライアングル: フェラーリ

レビュー日:2020.10.13
★★★★☆ 第3巻は渋い選曲。タンバリン、トライアングルとの協奏は、遊戯的な印象。
 イタリアのピアニスト、マリア・ティーポ(Maria Tipo 1931-)が録音した一連のムツィオ・クレメンティ(Muzio Clementi 1752-1832)の鍵盤楽器のための作品集の第3集にあたる録音で、以下の楽曲が収録されている。
【CD1】
1) ソナタ イ長調 op.10-1
2) ソナタ ニ長調 op.10-2
3) ソナタ 変ロ長調 op.10-3
4) ソナタ 変ホ長調 op.11
5) トッカータ 変ロ長調 op.11,S.(op.19)
【CD2】
6) ソナタ 変ロ長調 op.46
7) ピアノ、タンバリンとトライアングルのための12のワルツ op.38
8) ピアノ、タンバリンとトライアングルのための12のワルツ op.39
 1980年頃の録音。
 op.38と39では、ルチアーノ・ディ・ラビオ(Luciano di Labio)のタンバリンと、ジャニーノ・フェラーリ(Giannino Ferrari)のトライアングルが加わる。
 op.10の3つのソナタは1783年に出版されたもの。これらの3つのソナタは、それ以前のクレメンティの作品群と比べて、クレメンティの表現意欲がより増した傾向を感じることができる。イ長調のソナタはモーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)ふうであり、またニ長調のものは、2楽章構成となっているが、その第1楽章はどこかベートーヴェン(Ludwig van Beethoven 1770-1827)の田園ソナタを彷彿とさせるところがある。田園ソナタが書かれるのは1801年のことであるが。
 これら3つのソナタは、ソナタ形式に則っているものの、主題の回帰のさせ方は、そこまで類型的ではなく、クレメンティが模索した様々なソナタの表現方法が感じられる。ティーポの演奏は、深い息遣いで、その抑揚を強調し、ともすればのっぺりしてしまいそうな個所であっても、くっきりした目鼻立ちを与えている。これは、現代ピアノの利点を存分に活かしたアプローチであり、これらの楽曲が、現代ピアノで弾かれてはじめて醸し出す情緒を聴き手に伝えてくれるものであろう。
 op.11はソナタとトッカータで1つの作品群という構成をなす。当時の鍵盤楽器奏法の技術的探求を究めたもので、その効果が、多彩な発色性によって還元されるが、ティーポのピアノはまさにうってつけであり、特にトッカータにおける和音の生気に溢れた響きと、間断なく続くリズムは、見事なものである。
 op.46の変ロ長調のソナタは、1820年に出版されたものであるが、充実期に書かれたクレメンティの作品群の中では、それほど目立つものとは言い難いだろう。とはいえ、初期の作品とは肌合いの違う感情表現の幅があり、ティーポのニュアンスの深いタッチが、それを的確に拾ってくれることは心地よい。
 op.38と39は珍曲といって良いかもしれない。私も当盤以外では聴いたことがない。楽器の組み合わせゆえの遊戯性はあるが、タンバリンとトライアングルの表現幅の狭さはいかんともしがたく、曲によっては、それらの追加楽器をカットした方が良いのでは、と思うところもある。面白い部分もあるが、私の感覚では、現在では資料的な意味合いが強いだろう。
 この第3巻は、収録曲が渋いこともあって、このシリーズを聴くなら、やはり。まずは第1巻がオススメということになるだろう。クレメンティの作品史に興味を持つ人であれば、様々に面白味を感じるところとなるだろう。

ソナタ 変ホ長調op.11(トッカータ) 変ロ長調op.12-1 変ホ長調op.12-2 ヘ長調op.12-3 変ホ長調op.12-4 変ロ長調op13-4 ヘ長調op.13-5 ヘ短調op.13-6 ハ長調op.20 狩(ラ・シャッス) カプリッチョ変ロ長調op.17
hf: マストロプリミアーノ

レビュー日:2010.10.5
★★★★☆ クラヴィーア曲史を踏襲するクレメンティの初期作品群
 コンスタンティーノ・マストロプリミアーノ(Costantino Mastroprimiano)のフォルテ・ピアノによるイタリアの作曲家、ムツィオ・クレメンティ(Muzio Clementi 1752-1832)のソナタ集第3集。録音は2007年。
 クレメンティのソナタ群はベートーヴェンに影響を与えた点で有名だが、100曲近くあるとされるソナタのうちある程度演奏・録音機会があるのは作品36の6つのソナタをはじめその一割程度。ここでマストロプリミアーノは録音機会の少ない作品にまで真摯なピアニズムで取り組んでいる。
 クレメンティの時代はピアノが楽器としていよいよ発達した時代にあたり、彼のソナタはその標題名を、「チェンバロあるいはピアノのためのソナタ」から「ピアノあるいはチェンバロのためのソナタ」を経て、1800年ごろから単に「ピアノ・ソナタ」へと変えている。つまり「これからのクラヴィーアはピアノである」を如実に示した人物であり、ベートーヴェンの先人に相応しい足跡だと思う。
 そこで、ここに収録されている作品群であるが、いずれも1784年から87年ごろに出版された作品であり、まだ「チェンバロあるいはピアノのため」にクラヴィーア曲を書いていた時代の産物である。なので、聴いていても、作品34や36のようなベートーヴェンを予感させる飛躍やエネルギーのようなものを感じさせるものではないと感じられる。各楽曲の調性も古典的で、収録曲中唯一短調であるヘ短調 op.13-6も冒頭にちょっと印象的な短調のフレーズがあるものの、劇性を感じさせる展開はなく、穏当で健やか、安心な音楽である。それでも、ソナタの構成にちょっとヴァラエティーがあるところなど面白く、終楽章が変奏曲になっていたりする。マストロプリミアーノの真面目な取り組みは確かな練達を感じさせる。フォルテピアノ特有の乾いたダイナミックレンジの小さい音であるが、その均一性を乱さない技術の高さが聴きどころと思う。いずれにしても、このクラヴィーア史上興味深い作品が良質の録音・演奏で聴けるのはありがたい。

ソナタ 変ロ長調 op.12-1 変ホ長調 op.12-2 ヘ長調 op.12-3 変ホ長調 op.12-4 ハ長調 op.34-1 ト短調 op.34-2 変ロ長調 op.1 bis 2台のピアノのためのデュエット 変ロ長調 4手ピアノのための二重奏 デュエッティーノ デュエッティーノ・アレグロ デュエッティーノ・アレグロ ハ長調 Wo.26 ハ長調 Wo.27「狩り」 ハ長調 Wo.28
p: ティーポ スペッキ

レビュー日:2020.10.29
★★★★★ ティーポによって鮮明な色彩感を与えられたクレメンティの作品たち
 イタリアのピアニスト、マリア・ティーポ(Maria Tipo 1931-)が録音した一連のムツィオ・クレメンティ(Muzio Clementi 1752-1832)の鍵盤楽器のための作品集の第5集にあたる録音で、以下の楽曲が収録されている。
【CD1】
1) ソナタ ハ長調 op.34-1
2) ソナタ ト短調 op.34-2
3) ソナタ 変ロ長調 op.12-1
4) ソナタ 変ホ長調 op.12-2
【CD2】
5) ソナタ ヘ長調 op.12-3
6) ソナタ 変ホ長調 op.12-4
7) 2台のピアノのためのデュエット 変ロ長調 op.12-5
8) ソナタ 変ロ長調 op.1 bis
9) 4手ピアノのための二重奏 ハ長調 op.6-1
10) デュエッティーノ ハ長調 Wo.24-1
11) デュエッティーノ・アレグロ ハ長調 Wo.26
12) デュエッティーノ・アレグロ ハ長調 Wo.28
13) デュエッティーノ・アレグロ ハ長調 Wo.27 「狩り」
    1982年頃の録音。7,9-13)は、アレッサンドロ・スペッキ(Alessanndro Speechi)との協演。
 op.34の2作品は、1795年に出版されたものだが、これらの楽曲は、クレメンティが日に日に進歩しているピアノという楽器の表現の可能性を探求した野心的な作品であり、かつ多彩で劇的な要素を持ち合わせている。そのうちソナタ ト短調 op.34-2は、今日では、モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)の交響曲第25番、ハイドン(Franz Joseph Haydn 1732-1809)の交響曲第83番とともに、疾風怒濤運動の象徴を成す楽曲の一つと位置付けられている。その充実ぶりは、1821年に出版されたクレメンティの傑作として知られるop.50のソナタ群に匹敵する。
 このソナタに影響を受けた人物として、ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven 1770-1827)の名を挙げることができる。ちなみに、1795年という年は、ベートーヴェンがヘ短調の美しい第1ソナタを完成した年でもある。ティーポは、op.34-1では、その多彩なフレーズの歌を活き活きと描き出し、op.34-2では、技巧的な情熱表現を深い呼吸で描き出す。どちらのソナタも表現性に卓越した演奏であり、現代ピアノのスペックをフルに活用した華やかな演出に彩られており、魅力いっぱいだ。
 1784年に出版されたop.12のソナタ群は、クレメンティの鍵盤楽器の作品群の中では古典的な特徴が目立つものであるが、ティーポはこれらの楽曲においても、能動的な彩色を施し、聴き手の耳を楽しませてくれる。それは、セピア色の歴史写真に、現代の技術で色が与えられたように鮮明な印象を伴っている。ことにop.12-3とop.12-4における意欲的な手法が、これらの楽曲の魅力を、余すことなく引き出している。
 op.12-5のほか、録音自体が非常に珍しいクレメンティによる4手のための作品たちが当盤には収録されている。いずれも、構成面では単純さのあるもので、現代の感覚ではもう一つ何かほしいところがあるが、中にあってop.6-1の「4手ピアノのための二重奏」は、3つの楽章の抒情的性向が端的で、華やかであり、それを如実なくあらわしたティーポとスペッキのピアノが心地よい。

ソナタ 変ロ長調 op.13-4 ヘ長調 op.13-5 ヘ短調 ハ長調 op.37-1 ト長調 op.37-2 ニ長調 op.37-3 op.13-6 モーツァルトの歌劇「ドン・ジョヴァンニ」から 「ぶってよ、マゼット」 幻想曲と変奏曲(エール「月の光の下で」による) コリックの主題によるメヌエットと5つの変奏曲 ブラック・ジョーク(主題と21の変奏曲)
p: ティーポ

レビュー日:2020.10.26
★★★★★ クレメンティの表現意欲を積極的に解釈して、作品の魅力を存分に引き出したティーポの名演
 イタリアのピアニスト、マリア・ティーポ(Maria Tipo 1931-)が録音した一連のムツィオ・クレメンティ(Muzio Clementi 1752-1832)の鍵盤楽器のための作品集の第4集にあたる録音で、以下の楽曲が収録されている。
【CD1】
1) ソナタ 変ロ長調 op.13-4
2) ソナタ ヘ長調 op.13-5
3) ソナタ ヘ短調 op.13-6
4) モーツァルトの歌劇「ドン・ジョヴァンニ」から 「ぶってよ、マゼット」 Wo.10
5) 幻想曲と変奏曲(エール「月の光の下で」による) op.48
6) コリックの主題によるメヌエットと5つの変奏曲 Wo.5
【CD2】
7) ソナタ ハ長調 op.37-1
8) ソナタ ト長調 op.37-2
9) ソナタ ニ長調 op.37-3
10) ブラック・ジョーク(主題と21の変奏曲) Wo.2
 1981年頃の録音。
 ピアノという楽器の製作と進化にかかわり、その可能性を探求し続けたコンポーザー・ピアニスト、クレメンティ。1785年に出版されたop.13のソナタ群は、ピアノという楽器の進化とともに、クレメンティがソナタという様式の中に、より多面的な表現性を求めたものであり、古典的でありながら、様々に感情的な発色性がめぐらされている。ティーポのピアノは、楽曲がもつ抑揚にふさわしい変化と呼吸があり、これらの楽曲に艶やかで現代的な彩色が施されたように新鮮味が溢れていて、魅力いっぱいだ。クレメンティが、当時の鍵盤楽器作品にあっては異質なほどレガート奏法、もしくはレガートが相応しい旋律を探求していたこともよくわかる。中でもヘ短調のop.13-6はクレメンティが書いた傑作の一つとして指折るべき作品で、第2楽章の濃厚な抒情性、第3楽章の運動的劇性の開放など、ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven 1770-1827)が、ソナタ創作活動に際して、クレメンティのソナタに影響を受けたことを、ただちに想起させる作品となっている。今、聴いてみても、1785年という年に、これほどのソナタが出版されていたのだということは、一種の驚きであろう。ティーポの演奏は、その真価を伝えてくれる。
 【CD1】の末尾には、愛らしい変奏曲が3篇収録されているが、中でも、「幻想曲と変奏曲(エール「月の光の下で」による)」で扱われている主題は、日本人の多くが、記憶しているものであると思う。例えば、小学校時代にリコーダーの重奏で演奏した記憶がある・・など。クレメンティの典雅な変奏が楽しい。
 op.37は1798年に出版されたもので、この時代になると、ベートーヴェンもすでに「悲愴ソナタ」を手掛けた時代であり、クレメンティが逆にベートーヴェンの影響を受けるようになってくる。最初のハ長調のソナタから、いかにも現代ピアノに相応しいピアニスティックな味わいで、気品とのバランスのとれた高度な古典性を保つが、終楽章において、ベートーヴェン的なものが顔を表してきて面白い。ニ長調のソナタでは、クレメンティの、形式的ものからどれだけ乖離できるかという試みがある。それが音楽的な面白味や浪漫性として、聴き手には感ぜられる。ティーポのピアノが、ときには幻想的、ときには情熱的に、必要ならタメも厭わず、濃厚に響くところが心強い。
 最後に、比較的大規模な変奏曲である「ブラック・ジョーク(主題と21の変奏曲)」が収録されている。素朴な単旋律から開始されながら、様々な雰囲気的変化をふまえ、時に狩を思わせるような響きもまじえて、典雅な愉悦をもたらしてくれるようになる。

ソナタ ヘ短調op.13-6 ト短調op.34-2 ヘ長調op.33-2 音楽的性格描写op.19~ハイドン風の前奏曲 カプリッチョ変ロ長調op.17 音楽的性格描写op.19~モーツァルト風の前奏曲 「月明かりに」による幻想曲
hf: シュタイアー

レビュー日:2010.7.14
★★★★☆ 疾風怒涛運動の象徴的ソナタを聴くことができます
 ムツィオ・クレメンティ(Muzio Clementi 1752-1832)はイタリアのピアニスト兼作曲家。いわゆる神童で、9歳ですでにオルガニストの職にあった。オラトリオ、ミサのジャンルで大きな成功を収め、ロシアを含む全ヨーロッパで活躍した。また教育者としても高名で、近代的なピアノ奏法の基礎を確立した練習曲「グラドゥス・アド・パルナッスム Gradus ad Parnassum」を書いた人物でもある。声楽とともに重要なのが64曲以上存在するピアノ・ソナタで、形式性の高さ、見事な均衡感を保ち、その後のジャンルの発展の礎となった。ベートーヴェンがこれらのソナタを高く評価し、影響を受けていたこともよく知られる。
 ここでは、アンドレアス・シュタイアーのフォルテ・ピアノにより、3つのソナタ(ヘ短調 op.13-6 ト短調 op.34-2 ヘ長調 op.33-2)と音楽的性格描写op.19~ハイドン風の前奏曲、 カプリッチョ変ロ長調 op.17、音楽的性格描写 op.19~モーツァルト風の前奏曲、「月明かりに」による幻想曲が収録されている。録音は1999年。
 作品として注目したいのはやはりソナタで、ことにト短調のソナタは、モーツァルトの交響曲第25番、ハイドンの交響曲第83番と並んで疾風怒涛(Sturm und Drang)運動にの象徴作品とされる。強弱記号や瞬間の静寂による劇性豊かな対比が見事。冒頭の単音連打からの導入も印象的だが、たちまち疾風の渦に巻き込んでいく過程が圧巻。ベートーヴェンの熱情ソナタの源流を見るかのようだ。第2楽章の秘められたパッションも相応しい。終楽章の躍動、跳梁も鮮やかで、胸のすくような音楽になっている。他方ヘ長調のソナタは、ベートーヴェンで言えば25番のような愛らしさがある。
 他の作品では「月明かりに」による幻想曲がよく知られた作品で馴染みやすい。序奏を持った変奏曲であるが、主題が有名なものなので、多くの人が、聴けば「ああ、この旋律か」と思うのではないだろうか。
 シュタイアーの演奏はフォルテ・ピアノを駆使してめいっぱいのダイナミズムを取って華やかだ。しかし、一方でどうしても現代のピアノに比べて音が寂しいという感想が伴うのも否めないところ。また、楽器の特性で、ハンマーの音が小さくだが入り続けるのも聴き手の集中力を削ぐ一因となると思うのだが。

ソナタ 変ロ長調op.24-2 ト長調op.25-2 ロ短調op.40-2 ニ長調op.40-3
p: デミジェンコ

レビュー日:2011.6.24
★★★★★ クレメンティのソナタも、現代ピアノで弾いてこその魅力大
 ムツィオ・クレメンティ(Muzio Clementi 1752-1832)のソナタ4曲(ニ長調 op.40-3、嬰へ短調 op.25-2、変ロ長調 op.24-2、ロ短調 op.40-2)を収録。ピアノはニコライ・デミジェンコ(Nikolai Demidenko)。
 デミジェンコは1978年のチャイコフスキー国際コンクールで入賞を果たした1955年生まれのウクライナ系ロシア人のピアニストだが、現在ではイギリスを中心に活躍している。ハイペリオン・レーベルが契約するアーティストの一人で、このアルバムも、元はhyperionからリリースされたものがHELIOSから廉価再発売されたもの。
 クレメンティというイタリアの作曲家は、その活躍時期がモーツァルト(1756-1791)、ベートーヴェン(1770-1827)と重なるというのは生没年でも明らかだが、中でも他の作曲家たちに多大な影響を及ぼしたのが(作品番号外も含めて)100曲以上あるとされるクラヴィーア・ソナタである。この時代はクラヴィーア楽器が飛躍的に進化していた時期でもあり、クレメンティのソナタも、そのスタイルをチェンバロ前提からピアノ前提へと変え、強弱の幅のある表情豊かなソナタを編み出した。とは言え、現代でもよく演奏される作品というのは少なく、比較的高名なものとしてop.34やop.36(ソナチネの名で有名)が挙げられるくらいだろう。このアルバムには、それに準ずる作品が集められたといった按配だ。それは置いておいて、とりあえず、クレメンティのソナタはモーツァルト、ベートーヴェンと比較して試聴することで面白さが増すはずである。
 デミジェンコは嬰へ短調 op.25-2のソナタの緩徐楽章を、ベートーヴェンの最後のソナタ(第32番)への布石と考えているとのこと。その意識を持って聴くと興味深いだろう。また、変ロ長調 op.24-2の第1楽章の主題は、しばしばモーツァルトの「魔笛」の旋律との高い類似性が指摘される。クレメンティは1780年の夏、ウィーンでこのソナタを弾いているので、1791年の作品である「魔笛」に、モーツァルトがアイデアを転用したとしても不思議ではない。
 一方でロ短調 op.40-2は作品自体に注目したい。長い緩徐楽章は急速な中間部を挟み、休むことなくアダージョに戻った後、力強いプレストの終楽章へ結ばれる。なんともロマンティックで大胆な展開だ。
 デミジェンコのピアノは魅力的。そもそもクレメンティのソナタの録音はフォルテピアノによる場合が多い。現代ピアノの力強さを駆使した当録音はそれだけでも貴重で高く評価したいが、加えて颯爽としたスピーディーにピアニズムが鮮やか。例えば、op.25-2、短調の序奏部が終わり、長調に転じて一気に加速するところの、鮮やかに畳み掛けるような音の奔流は、燃焼度が高く、圧倒的。しかも重過ぎず、聴き疲れのないしなやかな流動感に満ちている。

ソナタ ハ長調op.25-1 ト長調op.25-2 変ロ長調op.25-3 イ長調op.25-4 嬰へ短調op.25-5 ニ長調op.25-6 ヘ長調op.26 イ長調op.33-1 ヘ長調op.33-2 ハ長調op.33-3 変ホ長調op.41
p: シェリー

レビュー日:2012.4.24
★★★★★ 現代ピアノで豊かに奏でられた、魅力いっぱいのクレメンティのソナタ
 イギリスのピアニスト、ハワード・シェリー(Howard Shelley 1950-)によるムツィオ・クレメンティ(Muzio Clementi 1752-1832)のソナタ全集プロジェクトの第4集。2009年録音。当盤の収録曲はソナタ ハ長調op.25-1、ト長調op.25-2、変ロ長調op.25-3、イ長調op.25-4、嬰へ短調op.25-5、ニ長調op.25-6、へ長調op.26、イ長調op.33-1、へ長調op.33-2、ハ長調op.33-3、変ホ長調op.41の11曲。
 このシェリーによるクレメンティ・プロジェクトはすでに完遂していて、全6集からなるきわめて価値の高い全集となったと思う。私はすでに第5集、第6集にレビューを書かせていただいているので、私の本全集の価値への言及は、そちらの記述と重複することになるが、あらためて要約すると、「ピアノ初学者のための音楽というクレメンティ作品への限定的なレッテルを拭い去り、クラヴィーアのための音楽において革命的な進歩に貢献したクレメンティの作品群に、現代ピアノのスペックを駆使し、ダイナミックにアプローチすることで、その真価を知らしめたシリーズ」ということになる。
 クレメンティのソナタが、現代あまり普及していないのは、その作品の多さ、作品番号と調性だけで表記される字面が与える画一的イメージなども負の要素になっているように思う。しかし、充実期から後期にかけての作品群は、1曲1曲に個性があり、クレメンティが吹き込んだパッションなり愛情なりが感じられ、馴染むほどに楽しめるものとなっていく。
 当アルバムに収録された有名な作品としては、嬰ヘ短調 op.25-5とハ長調 op.33-3が挙げられる。イタリアのピアニストでクレメンティ研究家でもあったピエトロ・スパダ(Pietro Spada 1935-)は華麗で大きな展開を持つop.33-3が本来は協奏曲であったとの仮説に基づき、ピアノ協奏曲譜の復元(アレンジ)を行っているので、そういった観点からこの作品を楽しむのも一興だろう。
 しかし、なんといっても美しいのは、収録曲中唯一の短調の作品であるop.25-5で、モーツァルトのような無垢の悲しみを湛えた心に沁みる名品となっている。
 ベートーヴェンは「クラヴィーア・ソナタ」のジャンルに限っては、クレメンティ作品をモーツァルト作品より高く評価していたとされる。私も、シェリーのこのシリーズを通して、あらためてこれらの作品の質の高さに感銘した。中でも第4集~第6集に収められた中~後期の作品の充実ぶりは素晴らしい。このシェリーのシリーズは、作品自体のステイタスを、本来の相応しい地位に向かって引き上げてくれるような、価値の高いものだと思う。比較的短期間の間に質・量ともに優れた本シリーズを完遂したシェリーと関係者の尽力には、頭が下がる。
 それにしても、シェリーのピアノは立派だ。ピアニスティックなニュアンスが巧みなだけでなく、十分な技巧を背景としたダイナミクスの追及も圧巻で、聴いていて実に自然で耳触りがよく、しかも美しい。滋味と迫力にことかかない見事な全集の完成を歓迎したい。

クレメンティ ソナタ ヘ長調op.33-2 ニ長調op.40-3 ト短調op.50-3「見捨てられたディドーネ」 モンフェリーナ op.49 から 第3番 第4番 第12番  スカルラッティ ソナタ ホ長調 K.28 ト短調 K.43 ヘ短調 K.69 ト長調 K.105 ハ長調 K.133 ホ長調 K.215 ト長調 K.259 ト短調 K.426 ハ長調 K.460 ニ長調 K.490 ニ短調 K.517 ヘ長調 K.518
p: マッケイブ

レビュー日:2019.12.13
★★★★☆ マッケイブによる情熱的な古典。録音品質がいまひとつなのが残念
 作曲面でも活躍したイギリスのピアニスト、ジョン・マッケイブ(John McCabe 1939-2015)によるスカルラッティ(Domenico Scarlatti 1685-1757)とクレメンティ(Muzio Clementi 1752-1832)のピアノ独奏曲集。元は2種の原盤だったものを、2枚1組のアルバムとして発売したもの。収録曲は以下の通り。
【CD1】 スカルラッティ
1) ソナタ ト長調 K.105
2) ソナタ ト短調 K.426
3) ソナタ ニ短調 K.517
4) ソナタ ニ長調 K.490
5) ソナタ ヘ短調 K.69
6) ソナタ ヘ長調 K.518
7) ソナタ ホ長調 K.28
8) ソナタ ホ長調 K.215
9) ソナタ ハ長調 K.133
10) ソナタ ト長調 K.259
11) ソナタ ト短調 K.43
12) ソナタ ハ長調 K.460
【CD2】 クレメンティ
1-3) ピアノ・ソナタ ト短調 op.50-3 「見捨てられたディドーネ」
4-5) ピアノ・ソナタ ヘ長調 op.33-2
モンフェリーナ op.49から
6) 第4番 ハ長調
7) 第3番 ホ長調
8) 第12番 ハ長調
9-11) ピアノ・ソナタ ニ長調 op.40-3
 1981年録音。
 音源であるが、LPのアナログソースをリマスターしたものとなっている。そのため、デジタル録音ではない。実際に聴いてみて、その点はどうしても残念な点であり、1981年の録音にもかかわらず、音はこもり気味というか、明瞭性がいま一つである。
 ただし、その点を除けば、十分に楽しめるアルバムだ。マッケイブは、ピアニストとしては特にハイドンの演奏に定評がったそうだが、これらの古典の鍵盤音楽に、いくぶんのテンポ的な自由度をもたらしながら、ピアニスティックな感興を引き出している。
 私はクレメンティのソナタが好きで、いろいろ聴いている。中でもト短調 op.50-3 「見捨てられたディドーネ」は、ト短調op.34-2、ニ短調op.50-2とともに、この作曲家の疾風怒涛的な要素が織り込まれていて、重厚な作品であり、ピアノ・ソナタのジャンルでベートーヴェン(Ludwig van Beethoven 1770-1827)と影響しあって作品を書き続けた存在であったことが、よくわかる傑作だ。ちなみに、クレメンティがop.50を作曲したのは1821年で、ベートーヴェンで言えばハンマークラヴィーア・ソナタを書いた1818年と第30番を書いた1822年の間に当たる時期だ。「見捨てられたディドーネ」というタイトルの通り、悲劇にインスパイアして書かれた音楽で、その経緯は「テンペスト・ソナタ」を彷彿とさせる。告別の悲しみ、怒りの感情に伴う情熱が、鍵盤楽器の機能を活かして表現されるが、マッケイブの演奏はまさに悲劇的で、感情の大きなうねりがあり、感動的である。併せて収録されたop.33-2とop.40-3も劇的な部分を持つ作品であり、マッケイブの情熱をまっすぐに表現したスタイルは歓迎されるだろう。
 また、本盤には聴く機会の少ない「モンフェリーナ」から3曲が収録されている。イタリアのピエモンテ地域の舞曲様式をフューチャーした作品だが、楽しめるもので、当アルバムに発見的付加価値をもたらしている。
 スカルラッティは、現代ピアノであるベーゼンドルファーの豊かさを如何なく発揮した自由度のある演奏で、こちらも情感豊かで、私には好ましいものでした。

ソナタ ハ長調op.34-1  ト短調op.34-2 ハ長調op.37-1 ト長調op.37-2 ニ長調op.37-3 変ロ長調op.46 段階的な6つのソナチネop.36(ハ長調op.36-1 ト長調op.36-2 ハ長調op.36-3 ヘ長調op.36-4 ト長調0p.36-5 ニ長調op.36-6)
p: シェリー

レビュー日:2012.1.5
★★★★★ 現代ピアノで弾くことで得られる素晴らしいクレメンティ作品の演奏効果
 ラフマニノフ弾きとしても知られるイギリスのピアニスト、ハワード・シェリー(Howard Shelley 1950-)によるムツィオ・クレメンティ(Muzio Clementi 1752-1832)のソナタ全集プロジェクトの第5集。本アルバムには1790年代後半に出版されたソナタハ長調op.34-1、 ト短調op.34-2、ハ長調op.37-1、ト長調op.37-2、ニ長調op.37-3、変ロ長調op.46、段階的な6つのソナチネop.36(ハ長調op.36-1 ト長調op.36-2 ハ長調op.36-3 ヘ長調op.36-4 ト長調op.36-5 ニ長調op.36)が収録された。2009年録音。6つのソナチネはピアノを習ったことのある人には馴染み深い名作だし、クレメンティの充実期の作品が並んでいることもあって、クレメンティのクラヴィーア曲をどれか1枚聴いてみよう、という人にもオススメの内容だと思う。
 上述の収録内容のこともあるが、個人的にこのシェリーのアルバムはクレメンティの作曲家としての能力を証明する最高のアルバムだと考える。現在、ブリリアント・レーベルから、マストロプリミアーノ(Costantino Mastroprimiano)の優れた全集も進行中であるが、私は様々な面からシェリー盤を推したい。
 シェリー盤とマストロプリミアーノ盤の最大の差異は楽器である。マストロプリミアーノがフォルテピアノを使用したのに対し、シェリーは現代楽器を使用している。
 さて、ここで「でもクレメンティが生きていた時代は当然フォルテピアノだし、これらの曲もその楽器のために作られたのではないですか?」という疑問が喚起されるかもしれない。しかし、クレメンティという作曲家は、古典的ピアノ・ソナタ史にあって、その奏法の限界を超え、刷新することを常に志した人物だ。クレメンティの曲を聴くとすぐ分ることが二つある。一つは、彼が当時にあっては異質なほどレガート奏法、もしくはレガートが相応しい旋律を探求していたこと、もう一つは、しばしばエネルギッシュなヴィルトゥオジティに満ちた演奏効果を引き出そうとしていたこと。これらはあきらかに現代楽器において、圧倒的に有利な特性となる。
 そもそも、ハイドンもモーツァルトもピアノの進化を心底歓迎していた。制約から解かれ、様々な演奏上の可能性を見出すことに喜びを感じていたに相違ない。クレメンティの作曲傾向はそのことに更に拍車がかかっている。そうであるならば、これほど「現代のピアノ」で弾かれることが望まれる作品はないのではないか?確かにマストロプリミアーノも技術を駆使してよく弾いていた。しかし、楽曲が帯びる生気、躍動感、色彩感ともシェリー盤からは大きく水を開けられた感は否めないのではないだろうか。このあたりの私の考察の背景に興味のある方は、レオン・プランティンガ(Leon Plantinga)による「クレメンティ-生涯と音楽」をご一読いただきたい。
 いろいろ書いたが、シェリーの演奏は、これらのクレメンティの作品の、「ベートーヴェンへの布石」としての性格だけでなく、それ自体の絶対的な完成度を、輝かしい現代のピアノにより、卓越した感性で描いた見事なものだ。象徴的なところとして、有名な作品だけれどもト短調op.34-2の、まるで「熱情ソナタ」と呼びたくなる様な音楽の奔流を聴いていただきたい。クレメンティのソナタは現代ピアノで弾いてこそのもの、と思っていただけるのではないだろうか。

ソナタ ト長調op.40-1 ロ短調op.40-2 ニ長調op.40-3 イ長調 op.50-1 ニ短調op.50-2  ト短調op.50-3「捨てられたディドーネ」
p: シェリー

レビュー日:2012.2.1
★★★★★ シェリーが証明する偉大なるピアノ・ソナタのルーツ
 イギリスのピアニスト、ハワード・シェリー(Howard Shelley 1950-)によるムツィオ・クレメンティ(Muzio Clementi 1752-1832)のソナタ全集プロジェクトの第6集にして完結編。今回の収録曲はソナタト長調op.40-1、ロ短調op.40-2、ニ長調op.40-3、イ長調 op.50-1、ニ短調op.50-2、ト短調op.50-3「捨てられたディドーネ」の6曲。
 私は、第5集にも賛辞に近いレビューを書いたのだけれど、この第6集もたいへん素晴らしい内容だ。私は、これらのクレメンティのソナタ群が、ハイドンやモーツァルトのピアノ・ソナタを凌駕し、ベートーヴェンに匹敵するクオリティーを誇るものだと考えているけれど、なぜか世間的な評価はいまひとつで、それどころか「現代ピアノによるまとまった曲数の録音」ですらなかなか見つけられないという状況に、大いに不満を感じていた。そのような背景にあって、このシェリーによる全集の登場は、まさに溜飲を下げる思いに満ちた、快哉を送りたくなるものだ。
 今回収録されたのはクレメンティの完成期とも言えるop.40とop.50の作品群である。ただ、ひとまとめに完成期とはいっても、op.40が出版されたのが1802年、(第5集に収録されていた)ソナタ変ロ長調op.46が1820年、そしてop.50が1821年ということで、op.40と46の間には18年のタイムスパンがある。その間ソナタの作曲から離れたクレメンティの思索を想像すると、ひと括りに「完成期」とは呼べないのかもしれない。参考までに書くと、ベートーヴェンの熱情ソナタの出版が1807年になる。クレメンティもどこかでこの傑作ソナタを聴いたに違いない。それはおいておくとして、収録されたソナタはいずれも充実した出来栄えであることから、「完成期」の作品と言わせていただきたい。ピアノという鍵盤楽器の性能限界を追求し続けたクレメンティの集大成として、聴き応え満点だ。
 私は先に「ハイドンやモーツァルトのピアノ・ソナタを凌駕し」と書いたけど、その根拠を説明しよう。私が高く評価したいのはクレメンティのソナタのドラマティックな要素である。効果的な倍音の使用、序奏と展開部の劇的な対比、果敢で急激な展開力。それらは、聴き手に「ピアニスティックな激しさ」として伝わる。かつ、その激しさが、ソナタとしての論理的な構築に鮮やかに収まっていて、パチンとすべてのパズルピースが嵌るかのように終結する完成度の高さを感じさせる。まさにピアノ・ソナタの王道といえる作品群だと思う。イタリアは、クレメンティほどの作曲家を擁しながら、なぜこの分野の後継といえる人物が登場しなかったのだろうか。残念な話に思う。
 ト長調op.40-1のソナタは第1楽章のお洒落な主題と適度な幅のある展開の妙が見事。クレメンティにしか書けえない存分な魅力のある音楽。ニ短調op.50-2はまさに疾風怒濤の音楽で、ト短調op.34-2を髣髴とさせる。1楽章終結部の情熱的なエンディングは、「ベートーヴェンと双璧」と言えるパッションを提示している。また、ロ短調op.40-2も同じ傾向の作品と言えるだろう。先に書いたが、このソナタの出版は熱情ソナタに5年先んじている。クレメンティのソナタを評価していた楽聖ベートーヴェンが、このソナタを聴くことでなんらかの作曲意欲として感化されたことはおおいにありうるだろう。また、ベートーヴェンを聴いてクレメンティもまた新たな作曲意欲を刺激されたに違いない。シェリーの果敢なタッチによるアプローチは、そんな想像をかきたててやまない。

ソナタ ト長調op.40-1 ロ短調op.40-2 ニ長調op.40-3 イ長調 op.50-1 ニ短調op.50-2  ト短調op.50-3「捨てられたディドーネ」
p: ティーポ

レビュー日:2020.10.2
★★★★★ 熱く切々とクレメンティ作品の魅力を伝えるティーポの名録音
 イタリアのピアニスト、マリア・ティーポ(Maria Tipo 1931-)が録音した一連のムツィオ・クレメンティ(Muzio Clementi 1752-1832)の鍵盤楽器のための作品集の第1集にあたる録音で、以下の楽曲が収録されている。
【CD1】
1) ソナタ ト長調 op.40-1
2) ソナタ ロ短調 op.40-2
3) ソナタ ニ長調 op.40-3
【CD2】
4) ソナタ イ長調 op.50-1
5) ソナタ ニ短調 op.50-2
6) ソナタ ト短調 op.50-3 「見捨てられたディドーネ」
 1978年の録音。
 私はピアノで奏されたクレメンティの作品が好きで、いろいろな録音を所有しているが、その録音史において外せないものの一つがティーポの一連の録音だ。クレメンティの作品には、評論家の間にさえ、いまなお、ある意味教義的で面白くないないもの、という先入観を持っている人がいて、たまにそのような記述を見ることもあるが、私個人的は、それはまったく的外れなことであり、少なくとも評論を活動にするのであれば、いささか感性の不足を感じさせるものではないか、と思っている。
 ただ、ご多分にもれず、クレメンティの作品を、面白く聴かせるというのも、ピアニストに相応の表現性を要求するものだと思う。これも、私の考えであるが、クレメンティのソナタは、後期作品になるほど、作曲者の表現意志が強く外に立ち現れてくる。だから、その性質を十全に表すためには、楽器には現代ピアノのスペックが必要だし、ピアニストはロマン派の演奏にも通じていることが必要だと思う。そういった点で、この録音は理想的なものの一つに違いないと思う。
 ティーポは、呼吸に似た抑揚を楽曲に与え、強弱の対比、楽想に応じたアッチェランドの効果を多彩に取り入れ、色彩感豊かで感情表現に長けたクレメンティを奏でている。
 収録曲のうち、op.40は1802年、op.50は1821年に出版されたもの。参考までにベートーヴェン(Ludwig van Beethoven 1770-1827)の熱情ソナタが出版されたのは1807年。ベートーヴェンとクレメンティは互いの影響を認めているし、互いにピアノという楽器の進化を切望するもの同士でもあった。当盤では、op.50-2、そしてop.50-3といった作品に、力強くかつ悲劇的な精神性が顕著に顕れており、傑作と呼ぶにふさわしい。この2作品は、疾風怒濤運動期に芸術社会で培われた表現性が示されているが、ティーポのピアノは、間断ないエネルギーの波により、如何なく作品の価値を歌い上げたもので、これらの楽曲に相応しい。op.50-2は第1楽章冒頭から、まさに疾風のごとき勢いだが、その炸裂的な燃焼を、ティーポは闊達かつ力強く描いており、その燃焼性は高い。op.50-3は荘重な序奏から、突如激しく逆巻く音楽となり、激しい演奏効果をもたらす。中間に起きる沈鬱な情感も幅があって美しい。ピアノという楽器の演奏効果を最大限駆使した終結部まで聴きどころに満ちている。
 op.50-1は、それらにくらべると穏当で平和な音楽であるが、ティーポの暖かなピアノは心地よく、聴き手は十分に満たされると思う。
 op.40の3作品では、op.40-2がやはり悲劇的な力強さを主張した作品で、ティーポのエネルギッシュな表現とともに、印象に刻まれることとなる。2つの急速楽章による構成は、op.50-3にも似通うが、作曲年代を考えると、op.40-2はより革新的である。op.40-1は瀟洒な雰囲気とともに4楽章構成というクレメンティのソナタ群では珍しい特徴を持ち、特に第3楽章にカノンが用いられるところも面白い。op.40-3は情緒を重んじた作品であるが、ティーポによる演奏は、陰陽の交錯が華やかに強調されていて、美しい。
 いずれにせよ、ティーポの高い芸術性を感じさせる演奏によって、クレメンティの作品の魅力を切々と伝える名盤と言える。ただ、録音がやや平板で、奥行きに乏しさを感じさせるところはあるが、聴きづらいというほどではなく、大きな減点とまで言えないだろう。


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