トップへ戻る

ケルビーニ



交響曲

交響曲 ニ長調 序曲 ト長調 行進曲集
シャイー指揮 ミラノ・スカラ座・フィルハーモニー管弦楽団

レビュー日:2020.12.23
★★★★☆ 珍しいケルビーニの作品を知る機会を提供してくれる1枚
 ケルビーニ(Luigi Cherubini 1760-1842)という作曲家の名前を聞いて、何をおもい浮かべるだろうか。イタリア生まれのフランスの作曲家。ある程度音楽のことに興味のある人なら、ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven 1770-1827)が、同時代のもっともすぐれたオペラ作曲家として、彼の名を手紙に書き記したというエピソードを思い起こすのではないだろうか。
 ケルビーニという作曲家の作品自体、めったにきく機会はない。いくつか録音もあるけれど、例えばすぐに思いつく楽曲や旋律というものも特にないし、思い出深い演奏や録音があるという人も、まずいないのではないだろうか。それは、ベートーヴェンの位置づけからは隔絶の差を感じさせるもので、「200年の時の流れが、ベートーヴェンとケルビーニに下した評価における絶大な差」・・・私がケルビーニの名を聞いて思うことは、まずはその事実である。
 この録音は「ケルビーニ・ディスカヴァリーズ」と題されている。リッカルド・シャイー(Riccardo Chailly 1953-)が2017年から音楽総監督を務めるミラノ・スカラ座フィルハーモニー管弦楽団を指揮して、ケルビーニの以下の作品を収録したものだ。
1) 序曲 ト長調 (Overture in G Major)
2-5) シンフォニア(交響曲) ニ長調 (Symphony in D Major)
3) シャルル10世の聖なる日のための宗教行進曲 (March religieuse pour le jour du sacre de Charles X)
4) オッシュ将軍の葬儀のための宗教行進曲 (March religieuse pour le pompe funebre du General Hoche)
5) ブラウン公爵のための作曲された行進曲 (Marcia composta per il signore Baron di Braun)
6) ウール=エ=ロワール県知事の行進曲 (Marche du Prefet du departement de l’eure et loir)
7) ウール=エ=ロワール県知事の帰還のための行進曲 (Marche pour le retour du prefet du departement de l’eure et loir)
8) 管楽器のための行進曲 (Marche pour instruments a vent)
9) 行進曲 「1810年9月22日」 (Marche 22 Septembre 1810)
10) 行進曲 「1814年2月8日」 (Marche 8 Fevrier 1814)
11) オッシュ将軍の葬儀のための行進曲 (Marche pour le pompe funebre du General Hoche)
12) 葬送行進曲 (Marche funebre)
 2016年の録音。
 確かに聴いたことのない曲ばかり。カタログを見ると、シンフォニアにはいくつか録音があるようだが、他の曲は、これが唯一の録音である可能性もある。
 収録曲の中では、冒頭の序曲が充実した出来栄えを感じさせる。中間部から、シャイーのタクトで引き出された熱血的な迫力が引き出され、この楽曲のある種ベートーヴェン的な性格を良く表現していると言えるだろう。この楽曲に、もっとも「ベートーヴェンへ与えた影響」に関するイマジネーションが膨らまされる。
 シンフォニアは4楽章からなり、当盤の収録時間で30分を越える楽曲である。シャイーは両端楽章のアグレッシヴな性格を、スピード感に溢れた解釈で描いており、見事である。ただ、楽曲自体の価値については、古典的要素を良く備えてはいるが、一方で、メロディの絶対的な魅力が不足しているとも思うし、その主題について、一通り考えられることを全部やるようなところがあり、しばしば、もう少しコンパクトにならないのだろうか、との思いを喚起させてしまう。古典的な音響でありながら、古典ゆえの構造的力感が、楽曲全体に思うように行き渡っていない感がある。ベートーヴェン作品とは比ぶべくもない、とは私の感想ではあるが、いかがだろうか。
 そのあと、様々な機会音楽として書かれたと思われる行進曲が並んでいる。宗教行進曲と題された2編が、表現性や叙情性への意欲を感じさせる作品になっており、なかなか興味深い。また、行進曲では、概して木管楽器の表出性に、ケルビーニという作曲家の個性が感じられる部分である。オッシュ将軍の葬儀のための行進曲も、情感の深さがあり、ディスカバリーズの名にふさわしく、楽しむことができる。
 とはいえ(これらの機会音楽が、このような評点で言及されるべきかはわからないけれど)、いわゆるクラシック音楽として、西洋音楽文化への一定の教養に基づいて十分にリスナーの嗜好に耐える作品であるか、と考えると、やはり現代の感覚では十分とは言えず、そこに現在、この作曲家の作品がほとんど顧みられなくなっている主因を見出す。
 確かにディスカバリーズのタイトルに相応しく、興味深い録音で、演奏もその魅力を的確に伝えてくれているが、逆説的な意味で、現代の感覚における、この作曲家の作品の芸術性の限界をも感じさせるアルバムとなっている。


このページの先頭へ