トップへ戻る

ブルックナー



交響曲 管弦楽曲 室内楽曲 声楽曲 器楽曲


交響曲


交響曲全集
ショルティ指揮 シカゴ交響楽団

レビュー日:2004.2.14
★★★★★ 引き締まった構造力学的ブルックナー交響曲全集
 ショルティによるブルックナーの全集。第7と第8の2曲のみは2度目の録音だが、他はショルティ唯一の録音である。
 初期の第0番、第2番がたいへん潤いのある美演で驚かされる。第4の演奏は「ロマンティック」のロマンティックな要素を極力削ぎ、音楽の構造だけで聴かせてしまう、特殊な魅力を持っている。ブルックナーらしくない、という人もいるが、よく考えてみるとブルックナーの音楽の演奏がブルックナーらしい必要はないのだと気づく。
 第7はかねてから体調を崩していたワーグナーの死を予感しながら作曲された第2楽章が美しい。1983年2月14日朝に、「ワーグナー死去」の報に接し、この楽章にワーグナー・テューバを用いた葬送行進曲によるコーダを加え、敬愛するワーグナーへの深い哀しみを表しているが、この楽章が感動的美しさで聴き手を魅了。ショルティの厳格な構成美が荘厳さを添える。
 第8は1892年12月18日ウィーンにおいて第2稿により初演され、大成功をおさめた名曲中の名曲。ベートーヴェン以後の最高傑作の呼び声も高い。ショルティ盤は賛否の分かれた演奏だが私は是である。この輝かしい金管の響きはシカゴならではである。
 さて、個人的にこの全集の白眉は第9である。辛口で人によってはとっつきにくいかもしれないが、大変な名演である。強靭な精神力によって引き締められた合奏の持続は息苦しくなるほどの緊迫感。この曲の神秘性をさらに突き抜けた領域にある。

交響曲全集
ヴァント指揮 ケルン放送交響楽団

レビュー日:2010.11.9
★★★★★ ギュンター・ヴァントの最高傑作!
 ギュンター・ヴァントは生涯にかけてブルックナーの交響曲に取り組んだ人だが、その録音業績はだいたい以下の3つに分かれる。
(1) 1974年から81年にかけてケルン放送交響楽団と録音した全集
(2) 80年代後半に北ドイツ放送交響楽団とした一連の録音
(3) 90年代にベルリンフィルとした一連の録音
 それで、これはその(1)にあたる。第1、第2交響曲はこれが唯一の録音となる。それにしてもヴァントのブルックナー録音は、巷で出回っている様々な音源を集めると相当なもので、よくもまあこんなに同じ曲を何度もやったものだと感心してしまうが、買う側からすると困りもので、いったいどれをチョイスしたらいいものやら見当もつかない。
 この指揮者の評価が日本で上昇したのは90年代くらいからのような記憶がある。それまではあまりメジャーな人ではなく、私はまだ大学生のころ、中古レコード屋で、1枚500円くらいで売られていた全集から、当時あまり枚数を所持していなかった第6番だけ購入して聴いていた記憶がある。当時の印象はそれほど強くないが。
 それで、その全集を改めて聴くこととなった。ここからは個人的な感想だけれど、ヴァントのブルックナーでは私は断然(1)の時期のものが好きである。おそらく、国内的に最も評判が高いのは(3)なのだろう。しかし(3)はどうも大人し過ぎるというか、内省部を一生懸命やろうとするあまり、下から突き上げるような推進力に不足するところがあり、音楽の「厚み」が一様過ぎると思う。聴いていて面白いのは断然(1)なのである!
 ケルン放送交響楽団との録音の面白さは、朴訥とした語り口ながら、力強く咆哮するようなエネルギーがあちこちに満ちていることである。そう、例えば第8交響曲の第4楽章冒頭。ザッザッザッザッという弦の刻みからなるファンファーレの衒いのない気風の良い鳴りっぷり、第9交響曲第1楽章コーダの渾身のフォルテ・・いずれもその後のヴァントの表現においてプライオリティーを下げられてしまったものたちがこれほど生命力に溢れて輝いていたとは。
 いま現在「ヴァントのブルックナー」と言うと、80年代後半以降のものを指す傾向があると思うけれど、確かにあったこのケルン放送交響楽団との輝かしい記録を忘れてはいけないだろう。
 なお第1番はウィーン版を使用している。第7番の第2楽章はシンバルなし。

交響曲全集 序曲 ト短調
シャイー指揮 コンセルトヘボウ管弦楽団 ベルリン・ドイツ交響楽団

レビュー日:2013.12.9
★★★★★ 非常に優れたブルックナーの交響曲全集です。
 リッカルド・シャイー(Riccardo Chailly 1953-)が、1984年から1999年にかけて録音したブルックナー(Josef Anton Bruckner 1824-1896)の交響曲全集。第0番も含めた全10曲の交響曲と、初期の作品である「序曲ト短調」が収録されている。
 この録音が進められている間、シャイーは1982年から1989年までベルリン放送交響楽団(現在のベルリン・ドイツ交響楽団)の首席指揮者を務めた後、1988年9月から2004年までロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の常任指揮者となった。そのため、この全集においても、これら2つのオーケストラと録音が行われた。収録内容をまとめると以下の様になる。
【CD1】
1) 序曲 ト短調
2) 交響曲 第0番 ニ短調(1869年ノヴァーク版)
 ベルリン放送交響楽団 1988年録音
【CD2】
3) 交響曲 第1番 ハ短調(1891年ウィーン版)
 ベルリン放送交響楽団 1987年録音
【CD3】
4) 交響曲 第2番 ハ短調(1877年ハース版)
 コンセルトヘボウ管弦楽団 1991年録音
【CD4】
5) 交響曲 第3番 ニ短調「ワーグナー」(1889年ノヴァーク版)
 ベルリン放送交響楽団 1985年録音
【CD5】
6) 交響曲 第4番 変ホ長調「ロマンティック」(1886年ノヴァーク版)
 コンセルトヘボウ管弦楽団 1988年録音
【CD6】
7) 交響曲 第5番 変ロ長調(1878年原典版)
 コンセルトヘボウ管弦楽団 1991年録音
【CD7】
8) 交響曲 第6番 イ長調(1881年原典版)
 コンセルトヘボウ管弦楽団 1997年録音
【CD8】
9) 交響曲 第7番 ホ長調(1885年ノヴァーク版)
 ベルリン放送交響楽団 1984年録音
【CD9】
10) 交響曲 第8番 ハ短調(1890年ノヴァーク版)
 コンセルトヘボウ管弦楽団 1999年録音
【CD10】
11) 交響曲 第9番 ニ短調(1894年ノヴァーク版)
 コンセルトヘボウ管弦楽団 1996年録音
 つまり、1984年から88年の2月までに録音された4曲(第7番、第3番、第1番、第0番)はベルリン放送交響楽団、1988年の12月から99年に録音された6曲(第4番、第5番、第2番、第9番、第6番、第8番)はコンセルトヘボウ管弦楽団による演奏となる。
 ブルックナーの交響曲については、CD時代になってから一気に録音点数が増え、全集を作成する指揮者も多くなった。その中で、このシャイーの全集は、きわめて質の高いものの一つだと思う。全集完成からしばらくたつが、輸入盤はあいかわらず市場に供給されており、健在だ。
 わざわざこんなことを書いたのは、ブルックナーの交響曲の録音について言及する場合、前提として、日本の市場のバイアスのかかった特殊性を踏まえる必要があると思うからだ。日本では、以前から、特にブルックナーの交響曲について、権威的に振るまった批評家の存在があった。彼がブルックナーの作品の普及にどの程度貢献したのかはわからないが、その批評の内容は、「これはいい」「これはダメ」と数ある録音にいろいろなレッテルを張って「1番いいのはこれ」「次にいいのはこれ」・・・「あとはダメ」みたいな振り分けをする作業で、概して、日本国内には、その「いい」と言われたものが主導的に紹介される風潮が根付いた。現在、日本で「ブルックナー的演奏」として受け入れられているものは、概して、その「いい」レッテルが張られただけのものが多い。
 逆に評価されなかったものは、カラヤン(Herbert von Karajan 1908-1989)、ショルティ(Sir Georg Solti 1912-1997)の二人の例外を除いて、なんとなく傍流においやられてしまった観がある。それで、私は意識的にその「傍流路線」を聴くようにしてきた。このシャイーの演奏も、日本では「傍流の一つ」くらいの認識が一般的だろうが、どうしてどうして、たいへん素晴らしい全集である。
 演奏内容について書く前に、シャイーが採用したスコアについて確認しよう。上述の通り、基本的にはノヴァーク版が採用されている。ただし、第5番と第6番については「原典版」と表記されている。これは、つまりこの2曲については、ノヴァーク版とハース版を適宜つなげたスコアを採用しているか、あるいはノヴァーク版かハース版に指揮者が軽微な追加等を行ったスコアを用いているか、そのどちらかであると考えられる。ハース、ノヴァークのどちらであろうと、要は「原典版」なので、とりあえず表記上は「原典版」と書いておいた、というくらいの意味だろう。「原典版」というのは、はっきりいって曖昧表記であるが、厳密にどうかということは、演奏毎に異なる話となる。とは言え、この2曲については、ハース、ノヴァークの違いはほとんど一般レベルではわからないので、「原典版」で十分だろう。それと、第2番でハース版、第1番でウィーン版を用いている点が特徴的かもしれない。第2番については、半分くらいの録音がハース版であり、私もこのスコアがいちばんいいと思うので問題ないが、第1番の「ウィーン版」の採用はいっぷう変わっている。これは後年のブルックナーが20年以上も前の自作に、1年もの歳月をかけてアレンジを加えたもので、部分的に曲の印象が大きく異なるほどの加筆である。作曲時代が離れているため、管弦楽技法も違いがあり、全体的な印象も、ちょっとまとまりの悪い感じになり易い。そのため、現代では「ウィーン版」を採用するケースは、ほとんどないといっていい。シャイーの他ではヴァント(Gunter Wand 1912-2002)くらいだろう。
 さて、シャイーの演奏であるが、全ての曲を通じて言えるのは、聴いていて、音楽の流れが自然で、響きがつねに瑞々しいということだ。ティンパニの音など、常に末尾の音の余韻が程よく残る洗練さがある。金管は力強いが、決して全体を覆い尽くすほどではなく、存在感を示しながら、しかしテリトリーは厳密に守られる。そのような中でクラリネット、フルートは非常に艶やかに浮かび上がるところが多い。
 このように奏でられたブルックナーの音楽は、実に心地よく聴き手に届くのである。テンポは早くも遅くもない中庸のもので、過度なアコーギグは用いず、音響の濁りは徹底して廃されている。しかし、それぞれのモチーフのアクセント等による意味づけや、フレージング、強弱の対比が厳密に行われているため、統一感があり、音楽の見通しが良い。これはブルックナーのシンフォニーのように巨大な作品である場合、重要な利点となる。シャイーは、この観点で抜群の成功を収めている。
 世評では長調の4作品(第4番~第7番)の評価が高いようだけれど、その他の楽曲も含めて名演ぞろいだ。ウィーン版を用いた第1番も、この版特有の音の厚みが活かされいて、全体が一つの呼吸に収まったような趣。これはシャイーならではといったところ。
 さらにこの全集の価値を高めているのが、きわめて精度の高い録音である。楽器の分離、距離感が優れていて、必要な箇所で的確な奥行きが感じられる響きになっている。そういった観点も含めて、現在入手可能なブルックナーの交響曲全集の中でも、特に優れたものの一つと思う。

交響曲 全集 テ・デウム 詩編第150番 男声合唱と管弦楽の為の交響的合唱曲「ヘルゴラント」
バレンボイム指揮 シカゴ交響楽団 合唱団 S: ノーマン MS: ミントン T: レンドール B: レイミー S: ウェルティング

レビュー日:2014.8.4
★★★★☆ バレンボイムとシカゴ交響楽団による濃醇甘美なるブルックナー
 ダニエル・バレンボイム(Daniel Barenboim 1942-)指揮、シカゴ交響楽団によるブルックナー(Anton Bruckner 1824-1896)の交響曲全集。バレンボイムは、1990~1996年にベルリンフィルハーモニー管弦楽団ともブルックナーの交響曲全集を作製している。本全集の収録曲面での特徴は、習作的位置づけから省かれることの多い第0番と3つの管弦楽付の声楽曲を含めていることだ。収録内容の詳細を示すと以下の通り。
【CD1】
1) 交響曲 第0番 ニ短調(ノヴァーク版) 1979年録音
【CD2】
2) 交響曲 第1番 ハ短調(リンツ版) 1980年録音 デジタル
3) テ・デウム 1981年録音 デジタル
【CD3】
4) 交響曲 第2番 ハ短調(ハース版) 1981年録音 デジタル
【CD4】
5) 交響曲 第3番 ニ短調「ワーグナー」(エーザー版) 1980年録音 デジタル
6) 詩編第150番 1979年録音
【CD5】
7) 交響曲 第4番 変ホ長調(ノヴァーク版)「ロマンティック」 1972年録音
【CD6】
8) 交響曲 第5番 変ロ長調(ノヴァーク版) 1977年録音
【CD7】
9) 交響曲 第6番 イ長調(ノヴァーク版) 1977年録音
10) 男声合唱と管弦楽の為の交響的合唱曲「ヘルゴラント」 1979年録音
【CD8】
11) 交響曲 第7番 ホ長調(ノヴァーク版) 1979年録音
【CD9】
12) 交響曲 第8番 ハ短調(ハース版) 1980年録音 デジタル
【CD10】
13) 交響曲 第9番 ニ短調(ノヴァーク版) 1975年録音
 3),6),10)で、合唱はシカゴ合唱団。独唱者は、「テ・デウム」が、ジェシー・ノーマン(Jessye Norman 1945- ソプラノ)、イヴォンヌ・ミントン(Yvonne Minton 1938- メゾ・ソプラノ)、デイヴィッド・レンドール(David Rendall 1948- テノール)、サミュエル・レイミー(Samuel Ramey 1942- バス)の4人、「詩篇第150番が、ルース・ウェルティング(Ruth Welting 1948-1999 ソプラノ)。
 録音時期が、アナログ末期からデジタル初期にかけて跨っていたため、第1番、第2番、第3番、第8番のみデジタル録音で収録されている。スコアについては、第3番でエーザー版を使用しているところが変わっているが、他は主流といって良いものを採用。また、オーケストラ伴奏付の声楽曲3曲を収録しているのも特徴で、名曲として知られる「テ・デウム」はともかく、「ヘルゴラント」と「詩編第150番」の録音は、たいへん珍しい。
 さて、当全集はシカゴ交響楽団という、きわめて機能性の高い芸術家集団による演奏であることが、その音響上の特徴を形作っている。ショルティ(Georg Solti 1912-1997)が1969年に音楽監督に就任し、このオーケストラを現代最高水準の技術水準に引き上げ、圧倒的音量を導くハイパーな出力を与えたのだ。そのショルティも1975年から95年にかけて、シカゴ交響楽団とブルックナーの交響曲全集(第0番を含む)を完成しているため、俄然、これとの比較に興味が沸く。
 バレンボイム盤、ショルティ盤に共通するのは、なんといっても圧倒的なブラスの響きである。立体的で、豊かな音量を持ち、力強い芯のある音色は、ここぞというときに、全天を覆いつくすような、壮大な音の伽藍を作り出す。
 一方で、異なる点は、ショルティが基本的にインテンポで、安易に情緒を与えない辛口とも言える諸相で音楽と対峙したのに対し、バレンボイムは、情緒を通わせ、カンタービレの作用を大きく演出する点にある。例えば、第5交響曲第1楽章の後半で、幽玄な弦をバックに、木管が、一音ずつ階段を上り下りするように奏でていく夢想的な美しいシーンがあるが、ショルティが一種の凛々しい峻嶮さを示したのに対し、バレンボイムは、弦楽器の表情付が実に濃厚で、音の発端や末尾、飛躍のたびに、様々なアヤを織り交ぜている。これが全体の聴き味に大きな相違を与える。第9交響曲の第1楽章、第2主題もそうだ。そっと開始されながら、次第に音圧を増していくが、バレンボイムはあわせて心的な高揚をたっぷりと込めて進み、もういっぱいいっぱいというところでフォルテに達するのである。
 おそらく、このようなバレンボイムの要素は、最近で主流と考えられ、批評家の評価も概して高いヴァント(Gunter Wand 1912-2002)などの演奏とは、大いに異なるものだと思う。むしろ、かつての例で言うと、部分的にはフルトヴェングラー(Wilhelm Furtwangler 1886-1954)やカラヤン(Herbert von Karajan 1908-1989)を彷彿とさせるところがある。そのような性質と、前述の金管の壮大な音量が加わるのである。
 その結果、奏でられる音楽の印象は、かなり積極的なもので、饒舌といって良いほどの濃厚さを持ったものとなる。端麗辛口のショルティに比べ、バレンボイムは濃醇甘美といったところだろうか。
 だから、人によっては、一種の押しつけがましさや、煩さという印象を持ってしまうかもしれない。しかし、私はこの演奏を聴いていて、この演奏のみにある独特の満ち足りた感じ、この先はもうないというところまでやってやったぞ、という達成感のようなものも感じる。
 これは、この頃のバレンボイムと、シカゴ交響楽団と組み合わせであればこそ実現できたものだろう。そうして聴くと、第4番第1楽章の圧巻とも言えるブラスの咆哮、存分に音の広がる第5番のフィナーレ、雄弁さを尽くした第8番のアダージョ、情熱を引き締めることなく溢れさせた第0番など、捨てがたい魅力があちこちにあるのである。
 そういった点で、なかなか捨てがたいブルックナーに違いない。長い事廃盤であったにも関わらず、当輸入盤で全集が復刻されたのは、これを望んでいるファンが多いことの証左に違いない。
 なお3編収録された声楽曲も、力強い野太い演奏で、重量感ある聴き応えだ。

交響曲 全集
マズア指揮 ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団

レビュー日:2014.9.9
★★★★★  70年代東独で製作された古典的均整美のとれたブルックナーの全集
 ドイツ東部で生まれ、旧東ドイツ時代の1970年から1996年までの長きにわたって、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団のカペルマイスターを務めたクルト・マズア(Kurt Masur 1927-)が、同管弦楽団を振って録音したブルックナー(Anton Bruckner 1824-1896)の交響曲全集。このたび廉価なBox-set(CD9枚組)となって復刻された。先に一度同様の規格でbox化したものもあったのだが、プレス数が少なく、入手機会が限られていたので、このたびの復刻は大いに歓迎されるだろう。まず、収録内容を書いておく。
1) 交響曲 第1番 ハ短調(リンツ版) 1977年録音
2) 交響曲 第2番 ハ短調(ハース版) 1978年録音
3) 交響曲 第3番 ニ短調「ワーグナー」(ノヴァーク版 第3稿) 1977年録音
4) 交響曲 第4番 変ホ長調「ロマンティック」(ハース版) 1975年録音
5) 交響曲 第5番 変ロ長調(ハース版) 1976年録音
6) 交響曲 第6番 イ長調(ハース版) 1978年録音
7) 交響曲 第7番 ホ長調(ハース版) 1974年録音
8) 交響曲 第8番 ハ短調(ハース版) 1978年録音
9) 交響曲 第9番 ニ短調(原典版) 1975年録音
 CD9枚組で、基本的に「1枚1曲」であるが、第8交響曲の終楽章が、第9交響曲と一緒に最後のCDに収められている。
 さて、いきなりで恐縮だが、私の思い出について書きたい。私が、ブルックナーの音楽にのめりこんでいたころ、知人が「とてもよい第1交響曲を入手したぞ」と持ってきたのが、サヴァリッシュ(Wolfgang Sawallisch 1923-2013)指揮、バイエルン国立管弦楽団による1984年録音のものだった。その後、私がマズアとゲヴァントハウス管弦楽団の演奏会に行く機会があると、その知人は、今度はマズアという指揮者がどんなものなのかを知るために、彼が振ったブルックナーのLPを借りて聴いたのだそうだ。その結果、「すごくいいぞ!サヴァリッシュよりずっと面白い!」とたちまち意見を変えたのである。(第何番を聴いたのかは思い出さないが・・)
 私が出かけたマズアの演奏会は素晴らしかった。しかし、その後、私はマズアのブルックナーを気にしながらも、入手機会を逸していた。特に、ドレスデン・ルカ教会で録音された3曲(4,7,9)は名演と言われ(ちなみに、他の6曲の録音は、ライプツィヒ・パウル・ゲルハルト教会)、第4番、第7番は何度か再版されたのだけれど、全集で聴いてみたい、と思っているうちに、随分と時が過ぎてしまったものだ。
 そんなわけで、この全集を手にして、最初に感じたのは、前述の様なやりとりをしてから経過した20年を超える年月の流れである(録音自体は40年前後前のものだが)。いまやマズアも80歳を過ぎた。
 さて、いま改めてこの録音を聴いてみると、やはり感覚的な古さを感じるところは多い。しかし、捨てがたい魅力が横溢していることも感じる。全般にやや速めのテンポを主体とし、金管を朗々と響かせることはせず、古典的な均整美に徹し、弦を中心とした豊かな音響のグラデーションをベースに描かれたブルックナーだ。
 中でも、(録音面も手伝って)やはりルカ教会で録音された3曲、特に第7番は名演で、この音楽の持つ旋律的な美しさ、内省的な深みといったものが、自然な音響の中で、作為なく表現されているところが実に好ましい。前半2楽章の美しさは言わずもがなだが、後半2楽章のまとまりの良さも特筆したい。
 第4番は、冒頭のホルンのタンギングが浅く、付点がスラー気味に聴こえるのがやや気になるが、全合奏がもたらす暖かな印象、また第2楽章の弦の鮮烈な表情など素晴らしい。
 第8番や第9番は、人によっては、あっさりしすぎていると感じる方もいるかもしれない。個人的にはシューリヒト(Carl Schuricht 1880-1967)の演奏を想起するところが多い。古典的な美観、全体の起伏の合理性を主眼とした大局的なアプローチで、あるいはブルックナーに苦手意識を持つ人にも聴き易い演奏と言えるのではないだろうか。
 第2番、第6番も良い。当時、これらの作品には、あまり録音は多くなかっただろうが、作品そのものに語らせるような指揮で、多少のことがあってもまったく動じないような風格ある落ち着きが、これらの楽曲の魅力を素直に引き出してくれている。ただ、音質的には、当時としては問題ないレベルとは言え、やはりルカ教会での録音の方が好ましかったと思う。
 ブルックナーの交響曲の中では異質な感じのある第1番に関しては、もう少し飛び跳ねるような躍動感がほしいところであったが、全般的に、この時代の古典音楽の延長線上にブルックナーを置いた一つの模範的解釈として、すぐれた全集であることは間違いないだろう。そういった意味でも、このたび廉価で全集BOXが再発売されたことは、非常にうれしい。

交響曲 全集 ミサ曲 第3番
ヤノフスキ指揮 スイス・ロマンド管弦楽団

レビュー日:2015.5.7
★★★★★  現代を代表する素晴らしいブルックナーの交響曲全集
 Pentatoneレーベルが、ポーランドの指揮者マレク・ヤノフスキ(Marek Janowski 1939-)とスイス・ロマンド管弦楽団により2007年から12年にかけて完成した素晴らしいブルックナー(Anton Bruckner 1824-1896)の交響曲全集。1曲1枚でCD全10枚。その内訳は以下の通り。
【CD1】 交響曲 第1番 ハ短調(1866年リンツ稿 ノヴァーク版) 2011年録音
【CD2】 交響曲 第2番 ハ短調(1877年稿 キャラガン版) 2012年録音
【CD3】 交響曲 第3番 ニ短調(1889年稿 ノヴァーク版) 2011年録音
【CD4】 交響曲 第4番 変ホ長調「ロマンティック」(1878/80年 第2稿 ノヴァーク版) 2012年録音
【CD5】 交響曲 第5番 変ロ長調(原典版) 2009年録音
【CD6】 交響曲 第6番 イ長調(原典版) 2009年録音
【CD7】 交響曲 第7番 ホ長調(原典版) 2010年録音
【CD8】 交響曲 第8番 ハ短調(1890年稿 ノヴァーク版) 2010年録音
【CD9】 交響曲 第9番 ニ短調(ノヴァーク版) 2007年録音
【CD10】 ミサ曲 第3番 ヘ短調(1893年稿 ホークショー版) 2012年録音
 ミサ曲第3番ではベルリン放送合唱団がコーラスを務める他、独唱者は以下の通り。
 レネケ・ルイテン(Lenneke Ruiten 1977- ソプラノ)
 イリス・フェルミリオン(Iris Vermillion 1960- メゾ・ソプラノ)
 ショーン・マシー(Shawn Matheyテノール)
 フランツ=ヨゼフ・ゼーリヒ(Franz Josef Selig 1962- バス)
 なお、交響曲第2番における「1877年稿 キャラガン版」は通常のノヴァーク版と、交響曲第4番における(1878/80年 第2稿 ノヴァーク版)は通常のハース版と、それぞれほぼ同内容のもの。初期の傑作であるミサ曲第3番も収録されているのがとても嬉しい。
 録音美麗で極上の透明感を持った現代を代表するブルックナーの交響曲全集である。バックの静寂、ホールトーンを反映した残響の減衰、楽器の位置を反映した立体的複層的な響き、いずれも現代最高水準と言ってよい内容で記録されている。ヤノフスキの演奏は、高い録音精度に相応しい綿密な設計に従ったもので、いずれのシーンでも精密な美しさが再現されている。また従来になく木管の響きを明瞭に作用させ、いずれも見事な効果を生み出している。録音の技術力、指揮者の統率力、オーケストラの演奏能力のいずれもが卓越した圧巻の完成度だ。以下、収録曲ごとに簡単に印象をまとめよう。
第1番; 木管の艶やかな活躍できわめて新鮮な感覚。スッキリしながら白熱のある後半2楽章が見事。
第2番; ミステリアスな冒頭が無類。スケルツォはややのっぺりしているが、終楽章の安寧な美が新しい。
第3番; 素晴らしい名演!細部まで克明な描写で、くっきりした陰影を描きながら、金管、ティンパニの音色は深く柔らかい。
第4番; 深い祈りを感じさせる演奏。瑞々しい感覚に満ちた神秘。楽器配分の妙が見事。
第5番; 動と静の鋭い対比。静に変わる一瞬の闇の深さ、その後の最初に聞こえる音の精神的な気高さ。
第6番; 音型の受け渡しにおける楽器間の役割の鮮やかな分離によって、奥底まで光が届くような彫像性を獲得。
第7番; 第1楽章のコーダ、静寂から無類に美しい主題の回帰、そして背景で繰り返される弦の音像に無限の美を感じる。
第8番; 克明で覚醒的なアダージョが絶品。静謐と強奏の壮麗なコントラスト、ハープの凛々しい響き。
第9番; 冒頭の驚くほど精妙なトレモロが、ビタリとピントの合った録音、描き出される「無との対比」に、宇宙の「創造」を想う。
ミサ曲 第3番; 静穏さの中に緊密な音の設計を配慮した響き、意味深な木管はさすが。
 どの曲の印象も、その曲固有のものというわけではなく、全集の印象と重複するものと考えてほしいが、いずれにしても、私は、「現代のブルックナー」という形容に、もっともふさわしく、かつ歴史的に高い価値を持つに違いないと考える録音として、当全集を推したい。
 例えばシャイー(Riccardo Chailly 1953-)の全集も、私には新しさを感じさせ、かつ素晴らしいものだった。しかし、このヤノフスキの録音も、シャイーと同等に新鮮で、しかもブルックナーらしさを損なわないだけでなく、さらに宗教的な神秘性を深める録音ではないだろうか。
 静かな部屋で、じっくりと聴き込むほどに、豊かな味わいと感動を与えてくれる全集だ。

交響曲 全集
ギーレン指揮 南西ドイツ放送交響楽団 ザールブリュッケン放送交響楽団

レビュー日:2016.8.3
★★★★☆  突如登場したギーレンのブルックナー全集
 ミヒャエル・ギーレン(Michael Gielen 1927-)指揮によるブルックナー(Josef Anton Bruckner 1824-1896) の交響曲全集がリリースされた。私は、ブルックナーの交響曲も、ギーレンの録音したディスクも、それなりに聴いてきたのだけれど、ギーレンがこれほどブルックナーに積極的に取り組み、かつ全9曲の録音を果たしていたとは知らなかった。聴いてみると、いろいろ特徴のある内容であり、面白いところと、疑問の残るところとそれぞれにあったので、書いてみようと思う。まずは収録内容。
【CD1】
交響曲 第1番 ハ短調(ウィーン版) 2009年 ライヴ録音
【CD2】
交響曲 第2番 ハ短調(1877年第2稿) 1968年録音
【CD3】
交響曲 第3番 ニ短調「ワーグナー」(1876/1877年第2稿) 1999年録音
【CD4】
交響曲 第4番 変ホ長調「ロマンティック」(1874年第1稿) 1994年録音
【CD5】
交響曲 第5番 変ロ長調(1878年原典版) 1988,89年録音
【CD6】
交響曲 第6番 イ長調 (1881年原典版) 2001年録音
【CD7】
交響曲 第7番 ホ長調 (1883年原典版) 1986年録音
【CD8,9】
交響曲 第8番 ハ短調 (1887年版第1稿) 2007年 ライヴ録音
【CD10】
交響曲 第9番 ニ短調 (原典版) 2013年 ライヴ録音
 オーケストラは、第2番のみがザールブリュッケン放送交響楽団で、他は南西ドイツ放送交響楽団。第2番を除いてデジタル録音となっていて、第1番、第8番、第9番がライヴ録音となっている。
 録音時期を俯瞰すると、第2番が1968年に録音され、他の8曲は1986年から2013年まで、かなりタイムスパンの広い録音が集められたという印象である。それと、本全集で用いられているスコアもかなり特徴があって、第1番は作曲者が最晩年に手入れを行ったウィーン版とよばれるもの、さらに第4番と第8番はこちらも取り上げられることの少ない初稿が用いられている。それなのに、第3番は初稿ではなく、ノヴァーク新全集の第2稿をおそらく用いている。
 というわけで、第1番、第3番、第4番、第8番の4曲に関しては、通常用いられることの少ない珍しいスコアを採用していて、それが、通常演奏されるものとの違いがかなり大きいわけだから、本アルバムの特徴として、まず、「ファースト・チョイスに向かない」と言える。つまり、ある程度、ブルックナーの交響曲を知った上で、ギャップを楽しむ感覚で接する必要があるということだ。
 そして演奏であるが、これが曲によって私の印象はずいぶん異なる。
 良く感じたのは、第2番、第4番、第5番、第6番、第9番。逆にいまひとつの印象だったのが、第1番と第8番。第3番と第7番は中間くらいだろうか。
 まず古い録音の第2番であるが、これがたいへんな熱い演奏で驚かされた、第2番にも、そしてギーレンという指揮者にも、こんな側面があったのかと、あらためて思い直させるほど、熱く太い音楽性に満ちている。見事な推進力で、全楽章に強烈なドラマ性を与えることに成功している。管弦楽の力強い応答も見事。
 第4番は、初稿であるため、かの有名な狩のスケルツォがまったく別の楽章に置き換わっている。だが、この初稿特有の歌謡的な音程志向が、ギーレンの巧みな指揮で、埋没することなく浮き立っていて、とても新しい印象を受けた。特に第1楽章の弦パートの豊かな表情は、ある意味ブルックナーらしくないとも言えるけど、私は楽しかった。第5番、第6番はギーレンらしい解析的なアプローチが楽曲の良さを引き出したもの。第9番では、熱いギーレンが聴ける。特有の緩急、金管の咆哮、饒舌なティンパニは、一昔前の巨匠のアプローチを連想させ、なかなか楽しかった。
 このように「良い」と思ったものでも、曲によってその「良さ」の方向性が違うところがユニークだ。
 逆に感心しなかった曲からは、第8番を挙げざるをえない。初稿特有の冗長さを、なんらかの音楽的演出で解消してほしいのだが、あまりにもまっすぐで、しかも第2楽章、第4楽章などテンポもスローだから、聴いていて、どうしても気が逸れてしまった。何度か聴いてみたけれど、印象はあまり好転しなかった。そのほかでは、第1番はウィーン版のつぎはぎ的な欠点が目立つところがあり、やはり没入感に乏しい印象。
 以上がおおよその感想となる。そのほか、全般に金管に鋭い強い音を求める傾向があることも、好き嫌いを分ける要因になりそうだ。

交響曲 全集 ミサ曲 第3番 詩編146 オルガン作品集
シャラー指揮 フィルハーモニー・フェスティヴァ ミュンヘン・フィルハーモニー合唱団 S: フェグリー A: ゴットヴァルト T: ビーバー Bs: リーホネン org: シャラー

レビュー日:2018.2.2
★★★★★  現代を代表するブルックナー奏者、ゲルト・シャラーの熱意が詰まった18枚組廉価Box-set!
 現代を代表するブルックナー指揮者でオルガン奏者であるゲルト・シャラー (Gerd Schaller 1965-)がミュンヘン・フィル、バイエルン放送交響楽団、バイエルン州立歌劇場管弦楽団の首席奏者らで構成されるオーケストラ“フィルハーモニー・フェスティヴァ”を指揮して2007年から15年にかけて録音したブルックナーの全録音が18枚組のBox-setとなって登場した。
 すべてのアイテムを発売時にフルプライスで購入した私からすると、思わず「何てことしてくれたんだ」と言ってしまいたいぐらいにサービスの良い内容だ。
 当setの特徴として、交響曲の全てがライヴ録音、かつそのほとんどが残響豊かなエーブラハ大修道院附属教会で収録されている点にある。また、使用されているスコアにも特徴があって、その点で、むしろブルックナーの交響曲にあるていど詳しいファン向けという面もあるが、いずれにしても、買って損はない内容だ。特に、第4番、第9番には複数の版による録音が収録してある。
 1872年版第2番は、スケルツォを第2楽章、アダージョを第3楽章に配置。1874年版第3交響曲の姿は、初稿に近く、第2楽章後半には「タンホイザー」が登場する。この交響曲が一般的によく聴かれる「第3稿」は、作曲者により1888年から1889年にかけて改訂が行われたもので、完成度が高く形式的にも整っている。1878年版「村の祭り」フィナーレは過渡期的な稿であり、録音自体が希少なもの。1888年異版と銘打たれた第8番は、初稿と第2稿の間のスコアと考えてよく、第1楽章はフォルテッシモで終わり、第2楽章の中間部には初稿の主題が残っている。未完の第9番については、終楽章をキャラガン版とシャラー自ら編算した版の双方で録音。スコア・チョイスという点では、かなり個性的。
 本盤の趣味性の高さに即してか、boxのCDも、単純に交響曲の番号順とはせず、ヘ短調→第1番→第0番と作曲年代順になっているのは、いかにもな仕様。収録内容の詳細を書こう。
【CD1】
交響曲 ヘ短調 2015年録音(ライヴ)
【CD2】
交響曲 第1番 ハ短調(1866年/キャラガン校訂) 2011年録音(ライヴ)
【CD3】
交響曲 第0番 ニ短調 2015年録音(ライヴ)
【CD4】
交響曲 第2番 ハ短調(1872年/キャラガン校訂) 2011年録音(ライヴ)
【CD5】
交響曲 第3番 ニ短調 「ワーグナー」(1874年/キャラガン校訂) 2011年録音(ライヴ)
【CD6】
交響曲 第4番 変ホ長調 「ロマンティック」(1878/80年版) 2007年録音(ライヴ)
【CD7】
交響曲 第4番 変ホ長調 「ロマンティック」(1878年版「村の祭り」フィナーレ/キャラガン校訂) 2013年録音(ライヴ)
【CD8】
交響曲 第5番 変ロ長調 2013年録音(ライヴ)
【CD9】
交響曲 第6番 イ長調 2013年録音(ライヴ)
【CD10】
交響曲 第7番 ホ長調(1885年ノヴァーク版) 2008年録音(ライヴ)
【CD11&12】
交響曲 第8番 ハ短調(1888年異版) 2012年録音(ライヴ)
キツラー(Otto Kitzler 1834-1915) 葬送音楽~アントン・ブルックナーの思い出(シャラーによるオーケストレーション復元) 2012年録音(ライヴ)
【CD13&14】
交響曲 第9番 ニ短調(ウィリアム・キャラガンによるフィナーレ補筆完成版) 2010年録音(ライヴ)
【CD15&16】
交響曲 第9番 ニ短調(ゲルト・シャラー改訂による完全版) 2016年録音(ライヴ)
【CD17】
ミサ曲第3番ヘ短調 WAB.28(1893年版) 2015年録音
詩篇146 2015年録音
ソプラノ: アニア・フェグリー(Ania Vegry 1981-)
アルト: フランツィスカ・ゴットヴァルト(Franziska Gottwald 1971-)
テノール: クレメンス・ビーバー(Clemens Bieber 1956-)
バス: ティモ・リーホネン(Timo Riihonen 1983-)
ミュンヘン・フィルハーモニー合唱団
【CD18】
オルガン曲集 2015年録音
・即興演奏用の主題集(エルヴィン・ホーン編纂)
・アンダンテ ニ短調
・後奏曲 ニ短調
・前奏曲とフーガ ハ短調
・フーガ ニ短調
・前奏曲 ハ長調
 以下、個人的に特に良いと思ったものを挙げておこう。
 まず、最初に録音された第4番と第7番。少し早めのテンポで、古典的な均質性を保ちながら、朗々たる響きが満ちており、いかにもアコースティックで、柔らかさと荘厳さが適度に引き出されている。上品なラレンタンド(次第に速度を落として)の表現も一級品といった貫禄があり、ニュアンスが深い。第4番の終楽章、第7番の高名な第2楽章など、神秘的な厳かさと確実な推進力を兼ね備えており、力と美の双方をしっかりと感じ取れる秀演だ。実に巧みな音響構築を行っている。十分にコントロールされた金管の響き、伸びやかな木管の音色は、美しく、高い次元で融合されている。第7番の第3楽章のスケルツォでは、躍動的な展開からクライマックスへ至り、突然のフォルテの一撃の終結から全休符(ゲネラルパウゼ Generalpause)に至るのだが、この全休符の間に4秒ほどたなびく残響が実に気持ちよい橋渡しをしていることに気付く。巧妙な仕掛けだ。
 ヘ短調の交響曲は第2楽章が絶品。元来、この楽章は、この交響曲の中でも良くできた音楽になっているのだけれど、その牧歌的な情緒、ほの暗い色彩感、そして中間部からの印象的な運びが、周到に収められた感がある。シャラーとこのオーケストラがブルックナーの語法に精通していることからくる、ある種の余裕が、様々な余情を発生させる効果を上げていて、楽しく聴かせてくれる。オーボエ・ソロの美しい扱いは、のちの傑作第5交響曲の前駆体のように私には感じられる。
 第5番は終楽章が印象に残る。この楽章を聴くと、私は、「本当にブルックナーという人は、不思議な作曲家だな」と思う。軽妙と言うか、ひょうきんと言うか、形容しがたい主題で、豪壮なフーガを築き上げて、あまつさえ交響曲の終楽章にしてしまうなんて、ちょっと他の音楽家からすると「ありえない」くらいのレベルに思える。この終楽章に関しては、歴代の巨匠たちにも、どうやってまとめようかと苦心の跡がうかがえるような録音が多い。しかし、このシャラー盤、最初のクラリネットによる提示から、非常にヴィヴィッドで色めいた方法論を採用する。さらに、その活力が、二重フーガ全般に供給され、最終的に偉大な勝利の凱歌に結びついていくのである。この終楽章のドラマチックな展開が、とてもカラフルで鮮やか。これまでシャラーのブルックナーを一通り聴いてきたけど、このような感慨に浸ったのは、この楽章が初めて。
 第9番では2度目の録音の方が好き。2010年の録音より流れが自然で古典的な色合いが深まったと感じられる。第3楽章のテンポをやや速めたのは、終楽章とのバランスを再考した結果かもしれない。しかし、印象が良化したのは、旧録音より若干演奏時間の延びた第1楽章で、金管の響きがオーケストラ全体の響きの中でより融合度が高くなったように感じられる一方で、荘厳な雰囲気が高まっており、ある意味古典的なブルックナー像として、理想に近いところにあると思う。逆に言うと旧録音にあった透明な清潔感は、その存在感を弱めたかもしれないが、豊かな内声部から得られる厚い充足感は当録音の方が高い。フルートをはじめとする木管の響きの清浄さは健在。第2楽章は金管の力強い咆哮が見事だし、残響を意識し過ぎない前進性も高まった。第3楽章は演奏時間が短縮されているが、決して落ち着きがないことはなく、正確で美しい音像を構築している。SPCM版を改訂した感のあるシャラー版終楽章も一興。
 第0番では曲の良い所がうまく表出していて、演奏を聴いた後に充足感が満ちる。この交響曲に、これほど円熟した聴き味があったのかと感心させられる。静寂から開始する主題、対位法による展開に挿入される木管の天国的フレーズ、そして急峻なブルックナー休止。もちろん、それらはほかの演奏でも感じる美点であり、ブルックナーの刻印でもあるわけでが、シャラーは音楽の緩急を自然な力感で巧みに操って、とても相応しい効果を導くのである。私は、この演奏を聴いて、この曲の第1楽章には、のちのデ・デウムにも繋がる壮大な構成感があることように感じる。中間2楽章も充実した音楽だ。第2楽章の木管と低弦が情感を交わす牧歌調の長閑さ、一転して激しく荒削りな表情をみせる第3楽章。ここではティンパニの強打の炸裂が圧巻。第4楽章は他の楽章にくらべてやや散漫さのある音楽だが、実はこれはブルックナーの多くの交響曲に共通するところで、これもファンには納得といったところ。そうは言っても第1交響曲ほどではないとはいえ、シンフォニックで劇的な高揚感があちこちから沸き起こる雰囲気があって、ブルックナーが好きな私にはとても楽しい。
 そして、ミサ曲第3番。この曲には古今いくつかの名録音があるが、当録音は、録音技術の優秀さも手伝って、神々しいほどの音空間を再現したものだ。エーブラハの残響豊かな音響条件の利点を活かしながら、細部も克明に照らされた記録に感服する。優秀録音を背景に、暖かい音響の輪郭、くっきりした線形に彩られた展開の美観、スケール豊かなダイナミクスが見事なバランスで収められた。グローリア、クレドにおける熱血的な活気に満ちた表現も見事だし、ベネディクトゥスにおける穏健な暖かさも素晴らしい。テンポは、アニュス・デイがやや早めな以外は概して穏当で、またそれらのテンポが理想的なものであるという説得力を持った表現に満ちている。4人の独唱者も欠点の見当たらない歌唱だが、合唱の気高さも忘れがたいもので、当面、この曲の決定的録音と呼んでいい内容ではないか、と思う。
 ブルックナー若き日の作品「詩編146」は、ほとんど聴く機会のない作品だが、当盤で聴くと、「こんな美しい曲が、なぜ今まで放っておかれたんだろう?」と思ってしまう。静謐な祈りを感じさせる中間部、ブルックナー的な神秘を備えた旋律、そして、ブルックナーの時代まで続いてきた宗教音楽の影響を滲ませる回顧的な美観。この楽曲の魅力を十全に表現した当録音は、ブルックナー・ファンだけでなく、多くのクラシック音楽ファンに聴いてほしいもの。
 さらに、当盤には、素晴らしいオルガン演奏が付随する。その冒頭を飾るのは、かつてブルックナーのオルガン曲集を録音していたエルヴィン・ホーン(Erwin Horn 1929-2006)による「即興演奏用の主題集」。タイトルは「即興演奏用の主題集」となっているが、実質的には第1交響曲の第4楽章をオルガン曲に編曲したものと言って良いだろう。ブルックナーのオーケストラ曲のオルガン編曲はたびたび試みられるが、非常に完成度が高く、作品としてまとまっており、聴き味の自然さは見事なもの。
 さらには、ブルックナーの師であり、リンツ州立劇場の首席指揮者であったオットー・キツラーによる十数分間の管弦楽曲「葬送音楽-アントン・ブルックナーの思い出に」が併録されている。キツラーの作品はもともとオーケストラ作品であったにもかかわらず、オーケストラ・スコアが残っていないため、当盤ではシャラーがピアノ・スコアから新たにオーケストレーションを施して、演奏・録音している。和声的には保守的で、全体は緩やかな3部構成になっている。響きはそこそこ美しく仕上がっているが、旋律はやや平板であり、面白みという点では物足りないところも残るが、シャラーのブルックナーを意識したオーケストレーションは、それなりの興味の対象となるだろう。
 以上の様に、シャラーという芸術家がブルックナーという作曲家に傾けた情熱が、これでもか、とギュッと詰まっている18枚組だ。廉価で供給されいるうちに買わない手はないお得アイテムです。

交響曲 全集
ネゼ=セガン指揮 モントリオール・メトロポリタン管弦楽団

レビュー日:2020.3.16
★★★★★ 特に第3番、第7番、第8番は真摯に傾聴すべき名演
 カナダの指揮者、ヤニク・ネゼ=セガン(Yannick Nezet-Seguin 1975-)指揮、モントリオール・メトロポリタン管弦楽団によるブルックナー(Anton Bruckner 1824-1896)の交響曲全集。現在では、活動の中心をヨーロッパに移しているネゼ=セガンであるが、当全集は、その後の充実した活動実績に引けを取らない、いや、それどころか、現時点でネゼ=セガンの代表的録音と称賛したい内容と思う。特に、第3番、第7番、第8番の演奏は、現代最高のブルックナーと言って過言ではないだろう。まずは、収録内容を記載する。
【CD1】 交響曲 第1番 ハ短調 (1891年改訂稿 ウィーン版) 2017年録音
【CD2】 交響曲 第2番 ハ短調 (ハース版) 2015年録音
【CD3】 交響曲 第3番 ニ短調 「ワーグナー」 (1873年初稿 ノヴァーク版) 2014年録音
【CD4】 交響曲 第4番 変ホ長調 「ロマンティック」 (ハース版) 2011年録音
【CD5】 交響曲 第5番 変ロ長調 (ハース版) 2017年録音
【CD6】 交響曲 第6番 イ長調 (ハース版) 2012年録音
【CD7】 交響曲 第7番 ホ長調 (ノヴァーク版) 2006年録音
【CD8,9】 交響曲 第8番 ハ短調  (ハース版) 2009年録音
【CD10】 交響曲 第9番 ニ短調 (ノヴァーク版) 2007年録音
 採用しているスコアで特徴的なのは、第1番でウィーン版、第3番で初稿を採用している2点であろう。あとはおおむね一般的なものとなっている。第7番第2楽章のシンバル追加はアリ。投稿日現在、最後に録音された第1番と第5番以外については、単発売盤の取り扱いがあるため、それについても併せて表記させていただいた。
 ネゼ=セガンはこれらのブルックナーに、おおむね古典的で、整然とりた佇まいをもたらしながら、統御の効いたコントロールで、全般に明るめのトーンを導き、情感表出力にも事欠かない美しい音像を与えることに成功している。各曲の感想を書いていこう。
 前もって私の評価をまとめて書くと、
 きわめて素晴らしい; 第3番、第7番、第8番
    素晴らしい; 第2番、第4番、第9番
 そこまでではないが、おおむね良い; 第1番、第5番、第6番
 といったところ。以下詳細。
 第1番では、ウィーン版特有の凹凸を、音の強弱で研いで、聴き易いスリムさを与えているところが特徴だ。この交響曲特有の熱血さは、減じられているが、フレーズの軽重のバランスが巧妙に整えられており、全曲を通して聴いた後の清涼感が魅力と言えるだろう。特に終楽章ので弦楽器が繰り出す明瞭なソノリティはかつて味わったことのない気持ちよさだ。ただ、この曲特有の荒々しさや、若々しい猛りのようなものは、抑制的に扱われていると言える。
 第2番では、少し早めのテンポ設定を用い、楽曲の古典性に根差した解釈を聴かせる。直截な表現方法を選択し、その選択の合理性を示すような、とてもフォルムの整った響きを繰り広げている。第1楽章では、いかにも弦楽器のために書かれたような優美な旋律を、柔らかな弾力を交えて表現し、クライマックスで刻まれる金管の付点の音型は、派手になり過ぎず、しかし存在感をもって、しっかりと鳴る。音響的にも、構造的にも無理なところのない合理性で、秩序だった美しさを端正に示している。第2楽章では、楽器の音色、特に木管楽器の音色に深い配慮を感じさせるが、もちろん、全体の気配りも併せ持っており、ネゼ=セガンとこのオーケストラが作り出す暖色系の音色が曲想を魅力的にハイライトする。第3楽章は楽章の性格もあって、メリハリのある演奏となるが、このとき若干弦楽器陣が粗めで、結果的に硬いサウンドが挿入されてしまう。意図してのものではないように思うので、その点は現時点におけるオケの力量的なマイナス点と感じる。第4楽章は、第1楽章同様、一貫性を大切にした演奏が繰り広げられる。熱血性よりもバランスを重視した表現だが、決して平板に陥ることのない構造美と歌があり、充実した時間を提供してくれる。
 第3番に関しては、ネゼ=セガンには、当録音の6年前に、シュターツカペレ・ドレスデンを指揮したライヴ録音が存在する。そちらも初稿を採用しているが、これが実に素晴らしい録音で、私はとても気に入っていた。そして、当盤もまた、素晴らしい演奏である。私はブルックナーの第3交響曲が大好きで、これまで実に多くの録音を聴いていたのだけれど、こと初稿の解釈者として、ネゼ=セガンは歴代最高と言って良いだろう。先に録音されたシュターツカペレ・ドレスデンとの録音と比べて、大きく異なるのは1点。シュターツカペレ・ドレスデンとの録音では、全曲の演奏時間が72分に達したのに対し、当録音は65分程度に収まっている。その原因となっているテンポの違いは特に第2楽章で顕著で、この楽章だけで、当録音は前録音に比し3分短縮している。しかし、演奏の特徴や、全体から受ける感動の大きさは変わっていない。悠然とした歩み、管弦楽の巧妙なブレンドかもたらす合奏音の含みの豊かさ。強音であっても咆哮しない高貴さ、そのような要素が合わさって力強く、暖かく、弛緩のない音楽が、伸びやかに展開している。感心するのは、金管群と弦楽器群の呼応の見事さにある。バランスが良いのは当然として、フレーズの活かし方が巧妙で、基本的にインテンポなスタイルでありながら、感情的な働きかけに不足を感じさせない。浪漫的で全休符の多い第4楽章は初稿の難所に違いないが、この稿特有の散漫さをまったく感じさせず、むしろ締まった古典的造形性を感じさせる響きに満ちている。このオーケストラの力量を知る瞬間だ。第2楽章は、ドレスデンとの録音と比較すると、早いテンポを採用しているが、スケールの大きさは維持されており、初稿の聴かせどころであるタンホイザーの引用も、音楽的な必然性をともなって奏でられ、とてもおさまりが良い。
 第4番も、素敵な演奏だ。演奏の性質としては「明るめ」「軽め」の音色であるが、オリジナリティのあるテンポ設定に基づいて、周到な解釈を準備し、齟齬の少ないシンフォニックな音響を持ちびき出している。リズム感の良さ、全体的に滑らかな曲線をおもわせるしなやかでスマートな心地よい響きを導いているが、オーケストラ、特に金管パートの好演も、それをよく助けている。第1楽章は、やや早めのテンポを採用し、透明な響きを維持する。テンポの変動幅は大きく設けず、タメも小さいが、その機敏性に支えられた安定感が、古典的な造形性を示しており、総じて魅力的に聴こえる。有名な2連符+3連符のテーマは、常に引き締まった感触で、安易な浪漫性の増長を避けながら、壮麗な美観を保っており、優れた表現と感じる。第2楽章はテンポを落し、スコア指示以上に緩やかな音楽として再現しているが、そこで扱われるカンタービレは、くっきりした輪郭をもって伸びやかに扱われていて、清浄な気配が好ましい。第3楽章は再び早目のテンポをとり、指揮者の若々しさを反映するような運動的な魅力が横溢している。しかし、音色は軽く澄んでおり、ここでも、ロマン派的な熱さより、古典的な端正さを感じさせる。第4楽章は中庸より少し早いくらい。ここでは、オーケストラ、特に金管のコントロールの利いた細やかな響きが素晴らしい。常に一定の間合いを持ちながら、音型を明晰に鳴らし、精度の高い再現性を保持している。そんな金管のリーダーシップに沿うように、他の楽器も滑らかな響きで、濁りのない伸びやかな音を保ち、その緊密性を維持したまま、フィナーレまでを描き切る。
 第5番も第4番と同様。重々しさ、荘厳さは、やや減じているが、それに代わって速やかで明朗な響きがあり、すべての音が、的確な位置に収まっている居心地の良さがある。第1楽章はスリムにまとまっているが、決してスケールが小さいわけでなく、豊かな音圧がある。木管は明瞭に響くが、濃厚な表情付けを避け、瑞々しい息遣いを維持している。第2楽章の弦楽器陣が奏でる主要主題の明るく柔らかい響きは美しく忘れがたいものであるに違いない。ただ、このスタイルの場合、第4楽章では、浪漫的な性向が抑えられることによって、緩急の乏しさが楽想を表現しきれていないと感じられるところも残る。そのため、全集中では、目立った出来にあるとは言えないだろう。
 第6番でも、ブルックナーの音楽の古典性に立脚したアプローチに徹している。一貫性を感じさせるテンポ、客観性の高い俯瞰性で、全体を見通し、テンポルバートは控えめであり、澄んだ響きを徹底している。そんなアプローチが奏功していると思うのが偶数楽章で、第2楽章では不用意なルバートを極力避けなら、澄んだ情感を隅々まで巡らせることに成功している。前半部分は、いくぶん硬さも感じられるが、後半では、いよいよ透明度が高くなり、孤愁と表現したい情緒が巡っている。第4楽章はインテンポの進行が全楽章を引き締めていて、鮮やかな一筆書きのような聴き味。金管の重すぎない響きが呼応し、実に爽快な響きで全曲を締めくくっている。対するに、奇数楽章は、私には少し気になるところがある。第1楽章は速めのテンポで、粘りのない展開を見せるが、それゆえにこの楽章特有のスケール感が乏しくなるところがある。見通しは良いのだが、逆に重力を感じるような踏み込みと無縁になっており、そのことが、聴き味をかなり「軽い」ものにシフトしており、それがいまひとつしっくりこない。早いテンポ設定も、ところどころで、音が滑っているように聴こえてしまう。第3楽章のスケルツォもきれいにまとまってはいるが、他の演奏と比較するとその印象はとても軽い。もちろん、そのことによって達成される演奏効果もあるのだが、この楽章の力強さが薄まっている点は、やはりどうしても寂しい。一つの明確な視点をもって描き出された演奏ではあるが、その結果、失われているものも大きく感じられるので、全面的に推奨するとは言い難い。
 第7番は名演。悠然とした風格と、優美な流れの良さを持ち合わせた、味わい深い演奏を繰り広げている。第1楽章冒頭から、少し遅めのテンポを設定し、柔らかな光を感じさせる力配分で、オーケストラから自然な音を引き出している。録音も、環境も含めて良好で、演奏の力の方向、それにかかわる楽器の演奏志向が明瞭に聞き取れるもので、この楽曲ならではの録音映えが感じられる。息の長いフレーズは、暖かみをもって表現される。この響きから私が連想する単語は、「慈愛」であろう。ぬくもり、光、曲線、そういったイメージが交錯しながら、美しく音楽を描いていく。第2楽章は金管と弦の適度な抑制からもたらされる安らぎが感動的。かつ弛緩を感じさせない明瞭なフレージングが効いていて、実に心地よい。暖色系の音色で豊かに盛り上がるクライマックスは気品を崩さず、気高さを備えている。第3,4楽章はリズミカルでシンプルな仕上げ。スケルツォは運動美が心地よく、音色も暖かな深さを維持しているので、併せて味わいがある。終楽章はテンポも速めとなり、サラリとした軽ろやかな雰囲気。この終楽章に、最近ではロマン派特有の濃厚さをもたらす解釈もあるが、ネゼ=セガンはさりげない。コーダでは、気の利いたアッチェランドがあり楽しい。
 第8番では、一貫してゆったりとしたテンポを採用。ジュリーニほどには遅くないが、平均より遅いことは間違いない。そのテンポの中で、常にブルックナーに相応しい響きが醸成される。その適度なほの暗さ、ホールトーンを活かした全体の暖かい柔らか味がまず素晴らしい。実は、ゆったりしたテンポ設定は、ブルックナーの音楽の構成単位を明確にすることには向かない。実際、この演奏において、聴き手に構造が伝わりやすいとは思わない。しかし、逆にこれ見よがしな頂点を意識せず、クライマックスはここですよと声高く叫ぶこともない悠然とした歩みは、それ自体ブルックナー的であり、魅力に満ちている。決して細やかな感情を描き出そうとしているわけではないが、大きな構えで堂々と歩んでいくその姿自体が見事であり、聴いていて私を夢中にさせる要素を多分に含んでいる。おそらく、この録音は、多くのブルックナー・ファンにとって好意的に受け入れられるものなのではないか。そんな当録音の頂点は、やはり長大なアダージョ楽章にあるだろう。ここでもその音楽は構えが大きく、つねみ脈々と豊かな水量を湛える大河のように音楽は流れていく。瞬間に機敏に対処するのではなく、自然な地形に沿って、肥沃な大地をゆったりと進んでいく。そんな印象がもたらされるのは、特に金管の柔らかな響きの影響が大きいだろう。決して突き刺すようなフォルテではなく、包み込み、他の楽器と融合していくような大らかな響き。それにしてもグラン・モントリオール・メトロポリタン管弦楽団というオーケストラ、あまり聴く機会がないし、モントリオールを本拠とするのであれば、フランス系文化に根差したオーケストラに思うのだけれど、中央ヨーロッパの王道を行くような立派なサウンドを作り出していて、ブルックナーの音楽によく適合しており、感心させられる。平板で全体が混沌になることもない。第2楽章の執拗な主題の繰り返しも、不自然さのない範囲でアーティキュレーションがあって、音楽としての機能を十分に保ちながら、再現の面白味を担っているし、終楽章では、やはりややゆったり目のテンポの中で、十分に脈を感じさせる音楽の起伏感が描かれ、充実した時間が流れている。見事な演奏であり、特に成功した録音の一つと言っても良い。
 第9番でも、全体としては柔和な雰囲気で、トーンも明るい。しかし、表面的ではなく、煮詰められた表現を聴ける。インテンポでありながら、楽想が聴き手に働き替える効力をしっかりと発揮させた古典的美徳がしっかり踏まえられた演奏であり、豊かな味わいを感じさせるものだ。力押しする演奏では決してないが、それはパワーに不足するということではなく、的確に統御された音響設計の中で、必要に応じたパワーは的確に配分されており、決して不完全燃焼を催すようなものではない。第1楽章冒頭から、柔らかなホールトーンを感じさせる音響が導かれ、心地よいクッションの利いたブラスが全体の印象を形作る。劇的な第1主題の提示は、圧倒的という感じではないが、内的な深みが十分に保持された高級感のある響きであり、オーケストラの音色そのものの美しさを秩序だって開放した気持ちよさがある。その後も、調和のとれた音響の中で、各セクションが相互的な役割を果たし続ける。ブルックナーの音楽はしばしば神秘的と形容されるが、ネゼ=セガンが導き出す音色は、それより人間的な暖かみを感じさせるところが多く、私には、それは当演奏の魅力と感ぜられる。第2楽章も音色の豊穣さが特筆されるだろう。安定したリズムの中で、アコースティックな響きが連なっていく。ややテンポを落した第3楽章は、ネゼ=セガンの作り出す暖かな音色が、一層自然な感動をもたらす。とくに弦楽合奏の情感豊かな音色は、美しく、あざとさがない。高まった感情が沈静化していき、静かに幕を閉ざす末尾は心に残るものだろう。
 なお、当全集中、2011年以降に録音されたものは、その年に竣工したメゾン・サンフォニックで収録されており、最新の音楽ホールの音色を楽しむことも出来る。

交響曲 ヘ短調 弦楽五重奏曲(エーザーによる弦楽合奏版)よりアダージョ
アシュケナージ指揮 ベルリン・ドイツ管弦楽団

レビュー日:2004.2.14
★★★★☆ めずらしいアシュケナージのブルックナー
 アシュケナージはかつてブルックナーの作品が「過大評価されている」と批判していたので、この録音は多くのファンを驚かせた。
 しかも、この録音が好意的にファンに受け入れられたため、いっとき、オンディーヌでは全集化の話もあったという。
 それにしても、録音に選んだ曲がこのヘ短調の習作交響曲というのはアシュケナージらしい。どうせ録音するなら、マイナーな曲を、ということだろうか。
 演奏は情緒豊かで潤いに満ちた共感あふれる内容で、内的な音楽的充実を感じる。
 そして併録されている弦楽五重奏曲のアダージョ(弦楽合奏版)は忘れられがちだが、たいへんに美しい曲だ。原曲の作曲が第5交響曲と同じ時期だったことを思えば、この音楽的充実は不思議でもなんでもない。後期交響曲の壮麗なアダージョにも決して聴き劣りのしない、素晴らしい美しいアダージョなのだ。これを聴けるだけでも、このディスクの価値は高い。

交響曲 ヘ短調
シャラー指揮 フィルハーモニー・フェスティヴァ

レビュー日:2017.5.17
★★★★☆ ブルックナーの10曲の交響曲を録音したシャラーによる「ヘ短調 交響曲」
 ゲルト・シャラー(Gerd Schaller 1965-)指揮、フィルハーモニー・フェスティヴァによるブルックナー(Anton Bruckner 1824-1896)の「交響曲 ヘ短調」。2015年9月にエーブラハ大修道院付属教会にてライヴ録音されたもの。「交響曲 ヘ短調」はブルックナーが習作と位置づけ、番号を与えなかった作品で、近年では「第00番」と表記されることもある。
 シャラーとフィルハーモニー・フェスティヴァは、すでに第0番を含むブルックナーの全交響曲を録音済であるが、シャラーのブルックナーへの傾倒の深さから、ヘ短調の交響曲についても録音が行われることは必然であったと言える。
 ブルックナーのこの作品については、近年になってから録音に取り上げる指揮者が増えてきている。私が、この曲をはじめてじっくりと聴いたのは、アシュケナージ(Vladimir Ashkenazy 1937-)がベルリン・ドイツ管弦楽団を振って1998年に録音したもの(ODE 920-2)になる。アシュケナージの場合、ブルックナーで唯一録音したのがこの曲のみで、そういった点でたいへん個性的なレパートリーであったが、その情緒豊かな演奏は今もって色褪せないもの。
 さて、シャラーの演奏もまた、この習作的作品から瑞々しい美観を引き出したもので、シンフォニックな響きの豊かさとあいまってなかなかの聴き心地だ。
 特に美しいと感じられるのが第2楽章で、元来、この楽章は、この交響曲の中でも良くできた音楽になっているのだけれど、その牧歌的な情緒、ほの暗い色彩感、そして中間部からの印象的な運びが、周到に収められた感がある。シャラーとこのオーケストラがブルックナーの語法に精通していることからくる、ある種の余裕が、様々な余情を発生させる効果を上げていて、楽しく聴かせてくれる。オーボエ・ソロの美しい扱いは、のちの傑作第5交響曲の前駆体のように私には感じられる。
 第3楽章は明快なつくりでわかりやすい。野趣性の表出は、すでにこの作品でブルックナーが垣間見せるものとなっている。
 両端楽章は、ブルックナー的な重さをどこかに予感させる一方で、メンデルスゾーン(Felix Mendelssohn 1809-1847)やシューマン(Robert Schumann 1810-1856)の流れを汲む部分が多く、この交響曲が書かれた1863年という時代をそこはかとなく喚起させる音楽だろう。いくぶん荒々しさを残した主題や、展開の力強さなどにおいて、どうしても他のブルックナーの作品と比べると聴き劣りするところはあるが、シャラーはそのような弱点をうまく中和し、程よい快適なテンポでまとめてくれる。終楽章の熱気も、シンフォニックな輪郭をキープしながら、十全な燃焼を感じさせる。
 とはいえ、楽曲自体は、やはりブルックナー・マニアのためのものといった性向のもので、1曲のみで43分ちょっとという収録時間の短さからも、このCDから喜びを享受できる聴き手は限られるでしょう。

交響曲 第0番
ショルティ指揮 シカゴ交響楽団

レビュー日:2003.9.7
再レビュー日:2007.8.11
★★★★☆ ヌルテの決定的優秀録音
 「第0番」通称“ヌルテ” 前代未聞のジョーク。野球界が背番号にこの番号を取り入れる150年も前から、こういうことをやった人間がいるのだ。もちろん「未熟で・・・」という意味がある。終楽章に大器の片鱗が見え隠れする。
 ところで、曲自体はいかにも未熟なのだが、録音は意外に多い。中でもショルティ盤が輝かしいデキ映え。弦のアンサンブルの美しさ、管の透明感も比類なく、サウンド自体の美しさで堪能できてしまうからスゴイ。この曲をどれか1枚持つなら、断然当盤がオススメである。
★★★★★ 指揮者とオーケストラの技量で聴かせてくれます
 ショルティ・エディションから、ヨーゼフ・アントン・ブルックナーの第0交響曲。それにしても「第0番」である。これによって自然数以外の数字を作品の順番に用いた最初の作曲家がブルックナーということになる。(でも最近は0を自然数に含むべきという考えが大きくなっているので、ブルックナーは時代を先取りしていたのかもしれない・・・)。この後では、シュニトケが交響曲に「第0番」というオーダーを用いている。
 いきなり話がずれてしまったが、「第0番」というネーミングの裏には作曲者の「未熟な」「習作の」といった気持ち(いいわけ)が見え隠れする。ブルックナーにはさらに「習作のヘ短調交響曲」があるから、交響曲は全部で11曲あることになる。ショルティは第1番から第9番の9曲を録音したのち、この第0番を録音して全集に加えた。
 さて、この録音はライヴである。ブルックナーも百数十年後にこの曲が演奏会で取り上げられるとは思ってなかったのではないだろうか。だがブルックナーが好きな人には十分楽しめるものだと思う。弦のさざなみから始まるどことなく無骨な動機はまぎれもなくブルックナーだし、終楽章のフィナーレへの高揚感は好感の持てる若々しさに満ちている。ショルティの演奏がまたよい。こまやかなニュアンスを透徹した背景を用いてくっきりと浮き立たせて、かつ瑞々しく輪郭を際立たせる。さすがの至芸である。第0番に聴き応えを感じるのは、この指揮者とオーケストラの技量による面が大きいのかもしれない。それにしても、この曲だけで総収録時間が36分というのはさびしい!ただ、ここまで値段が下がれば、かろうじて許容範囲だろうか。

交響曲 第0番 序曲 ト短調
シャイー指揮 ベルリン放送交響楽団

レビュー日:2013.12.6
★★★★★ シャイーならではのスコアの読みの深さを実感できる初期ブルックナー
 リッカルド・シャイー(Riccardo Chailly 1953-)指揮、ベルリン放送交響楽団による、ブルックナー(Josef Anton Bruckner 1824-1896)の「序曲 ト短調」と「交響曲 第0番 ニ短調(1869年ノヴァーク版)」を収録。1988年の録音。
 シャイーは、1984年から1999年まで15年を費やし、コンセルトヘボウ管弦楽団とベルリン放送交響楽団(ドイツ・ベルリン管弦楽団)の2つのオーケストラを指揮して、ブルックナーの第0番も含む10曲の交響曲からなる全集を完成したのだが、この第0番のアルバムは、そのうちの第4弾としてリリースされたもの。
 交響曲第0番は1869年(ブルックナー45歳のとき)に完成したとされている。ブルックナーは、完成したスコアの表紙に、ゼロを意味する「NULLTE(ヌルテ)」という単語を記載したため、現在では、この曲には「第0番(もしくはそのまま“ヌルテ”)」という呼称が一般的となった。ところで、前述の様にこの作品が1869年に完成したものだとすると、第1交響曲が1866年に完成したとされていることから、「1」が「0」より先に存在したことになる。これについて、現在では主に2通りの考え方がある。
1) 第0番は第1番より先に完成していた
2) 第0番は第1番より後に完成したが、ブルックナー自身がその内容を評価せず、「無価値」という意味を込めて「NULLTE」と呼んだ
 2)の考え方の方が有力とされているのだが、その場合、第0番より第1番の方が作品として多くの点で優れているため、作曲の勉強に時間をかけ、40代になってからやっと本格的な作曲に乗り出したブルックナーの足跡に、どうも一致しないという印象が残ることになる。とはいえ、ブルックナー自身が“無価値”と呼んだこの作品にも、現在では意外に多くの録音が存在する。シャイーも、ブルックナーの全集に、このシンフォニーを加える選択肢を選んだわけだ。ちなみに、ブルックナーにはもう一つ、年下の師であるオットー・キツラー(Otto Kitzler 1834-1915)の指導を受けながら書いたヘ短調の交響曲(1863年完成)があり、そちらの表紙には「Schularbeit(宿題)」と書いてあるそうだ。ブルックナーは、そのスコアについてはあとで捨てるつもりだったそうだ(でも結局とっておいたのは、いかにも彼らしい)。こちらは現在では「第00番」の呼称もある。シャイーは第00番については録音対象とはしなかった。ちなみに第00番については、他の指揮者のもので入手可能なディスクがいくつかある。
 “第00番の代わり”と言うわけではないが、このディスクには、「序曲ト短調」という作品が収録されている。この作品も第00番と同じ年の1863年に完成したことになっている。この序曲も、キツラーの指導のもと、ブルックナーは完成目指してペンを執っていたそうだから、こちらも作曲家となるための「課題」のようなものだったのだろう。この作品も、最近ではそれなりに録音があって、私が他に持っているのはスクロヴァチェフスキ(Stanislaw Skrowaczewski 1923-)とロジェストヴェンスキー(Gennady Rozhdestvensky 1931-)のもの。しかし、録音状態など総合的にみて、このシャイーのディスクがいちばん良いものに思う。
 とはいっても、それほど指揮者が強い個性を発揮できる楽曲ではないところもある。全般に悲劇的なトーンで、ブルックナーらしいのびやかな開放を感じるところもあるが、まだそれほどはっきりした「ブルックナーの形」を見せてはいない。私には、むしろメンデルスゾーン(Felix Mendelssohn Bartholdy 1809-1947)を思わせるところが多い。当時のブルックナーの真摯な勉強ぶりに思いを馳せる作品だろう。
 交響曲第0番は、それよりずっと聴きごたえがある。少なくとも無価値ではない。もちろん、作品としてまだまだこなれていないところはあるが、シャイーの優れた感覚により、見事に扱われることで輝きをましている。例えば、第1楽章の第2主題と第3主題の処理の手際の良さやコーダに溢れる迫力を指摘できるだろう。また、第2楽章は数ある同曲の録音でも聴かれなかったくらい美しいニュアンスを引き出している。旋律自体の魅力もそれなりにあるところだし、冷静にスコアを読みこなした手腕が感じられる。さらにはっきりと指揮者の技量を感じさせるのは、第3楽章のスケルツォで、このスケルツォはブルックナーの中でも特に構成的に独特なのであるが、その特異性もあって、単純に野趣たっぷりに響かせようとするとどうしてもアラが出てくるところである(それでもやってしまえ、という考えもあるだろうが)。シャイーはゆるやかだが淀みのないテンポ設定で、無理のない運びを貫き、全体的な景観を巧みに整えている。
 第4楽章はこの作品の白眉と感じられる音楽。歌うような独特な軽やかさのある主題から、フーガの変容を経て、これを解決しながら偉大なコーダに至るもので、ここには後のブルックナーの大成を想起させるところが随所にある。だから、ブルックナーが好きな人には楽しめるものがたくさんある。シャイーはこの楽章の構成を明瞭に区分けして、それぞれの動機の転結をはっきり示して前に進んでいる。そのため、音楽の基礎がしっかりした感触となり、そのことで終結部の迫力を増すための原動力がしっかり蓄積できているのである。全曲聴き終えたときのスッキリした感じというのは、そういったものすべての総体的な印象である。
 そのような意味で、第0交響曲の模範的演奏であり、この交響曲の意味を再考させてくれる録音となっている。

交響曲 第0番
シャラー指揮 フィルハーモニー・フェスティヴァ

レビュー日:2016.3.10
★★★★☆ すでにブルックナー9曲を録音済のシャラーが、第0番であらためて名演を披露
 ドイツの指揮者ゲルト・シャラー (Gerd Schaller 1965-)は、ミュンヘン・フィル、バイエルン放送交響楽団、バイエルン州立歌劇場管弦楽団の首席奏者らで構成される祭事の臨時オーケストラ、フィルハーモニー・フェスティヴァを指揮して、2007年から2013年にかけてブルックナー(Josef Anton Bruckner 1824-1896)の第1番から第9番までの9曲(第4番については2種類の稿)の録音を終了していた。
 このたび、同じ顔合わせによる2015年録音の「交響曲第0番ニ短調」がリリースされた。これまでは、バイエルン州のエーブラハ(Ebrach)にある大修道院附属教会でライヴ録音が行われてきて、その豊かな残響が一連の録音の特徴になっていたのだけれど、当録音はバイエルン州バート・キッシンゲンのレゲンテンバウ大ホールでのライヴ録音となっている。
 交響曲第0番は、ブルックナー自身が習作的位置づけであるということでそのナンバーが与えられたとされているが、最近までの研究では、第1番より後の作品であることとなっている。そうなると、時系列的には、ブルックナーの全集に含まれる資格をいよいよ持つこととなる。従来、あまり録音やコンサートの対象とはならなかった曲だけれど、最近ではこの曲を取り上げる指揮者も増えてきているように思う。
 このシャラーの録音はとても優れたものだと思う。第0番と言う曲の良い所がうまく表出していて、演奏を聴いた後に充足感が満ちる。私は今回の録音を聴いて、この交響曲に、これほど円熟した聴き味があったのかと感心させられた。静寂から開始する主題、対位法による展開に挿入される木管の天国的フレーズ、そして急峻なブルックナー休止。もちろん、それらはほかの演奏でも感じる美点であり、ブルックナーの刻印でもあるわけでが、シャラーは音楽の緩急を自然な力感で巧みに操って、とても相応しい効果を導くのである。私は、この演奏を聴いて、この曲の第1楽章には、のちのデ・デウムにも繋がる壮大な構成感があることように感じた。
 中間2楽章も充実した音楽だ。第2楽章の木管と低弦が情感を交わす牧歌調の長閑さ、一転して激しく荒削りな表情をみせる第3楽章。ここではティンパニの強打の炸裂が圧巻。
 第4楽章は他の楽章にくらべてやや散漫さのある音楽だが、実はこれはブルックナーの多くの交響曲に共通するところで、これもファンには納得といったところ。そうは言っても第1交響曲ほどではないとはいえ、シンフォニックで劇的な高揚感があちこちから沸き起こる雰囲気があって、ブルックナーが好きな私にはとても楽しい。
 これらの特徴を、シャラーはとてもしなやかで親しみやすい音響で再現してくれる。強奏もしっかりと鳴っているが、決してバランスを踏み外すことはない。交響曲第0番の理想的な演奏だろう。
 ただ、そうは言っても、やはりこの曲だけ、収録時間43分ちょっとで1枚のディスクというのは、いまの感覚ではちょっと高価なアイテムといったところ。そういった点を踏まえて星は1つ減じる。

ブルックナー 交響曲 第1番 (リンツ版)  ベートーヴェン 交響曲 第8番
アバド指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

レビュー日:2009.1.2
★★★★★ 60年代アバドのベートーヴェンとブルックナー
 アバドが60年代にウィーンフィルを振ってデッカに録音した2種の音源をまとめたもの。収録曲はベートーヴェンの交響曲第8番とブルックナーの交響曲第1番で、前者が1969年、後者が1968年の録音。  いずれも若きアバドの才気が溢れる躍動感に満ちた名演と言える。ベートーヴェンではしなやかな響きが透徹して、音が伸びきっており、かつ軽快なテンポで輪郭を締めている。開放的で屈託のない音色は、この曲の明るい雰囲気によくあっており、かつ優雅な歌に満ちている。非常に若々しい感性を感じるがいかがだろうか。
 ブルックナーは、デッカの「ウィーンフィルによるブルックナーの交響曲全集」という変則企画の一環として録音されたもの。アバドは第1番を担当した。(ちなみに他の曲は、シュタインが第2番と第6番、ベームが第3番と第4番、マゼールが第5番、ショルティが第7番と第8番、メータが第9番という豪華な顔ぶれである)
 アバドにとって初のブルックナー録音であり、当時第1交響曲の録音も少なかったと考えられるが、堂々たる演奏である。フレージングが的確で、テンポもきわめて穏当だ。また第1楽章の終楽章のような嵐のような部分では気迫を前面に押し出し、一気呵成に終幕へ突き進む迫力がある。また、内声部もよく歌っている。アバドはこの曲を1996年にやはりウィーンフィルを指揮して録音しているが(アバドがブルックナーの第1交響曲を2度録音しているというのは、なかなか意外だ)、そちらは大家風の演奏で、やや曲のサイズと合致していない印象を残した。少々荒削りでも、若い前進力のようなものの方がこの曲にはフィットするのかもしれない。

ブルックナー 交響曲 第1番 (リンツ版)
スウィトナー指揮 ベルリン・シュターツカペレ

レビュー日:2010.11.26
★★★★★ 高い品位を保つスウィトナーのブルックナー
 ドイツ・シャルプラッテンが1986年から録音を開始したオトマール・スウィトナー(Otmar Suitner 1922 - 2010)とベルリン・シュターツカペレによるブルックナーの交響曲シリーズ。残念ながらスウィトナーの体調のため未完に終わったが、90年までに5曲が収録されることとなった。本盤は1987年に録音された第1交響曲で、前年の第8交響曲に次いで2曲目の録音。リンツ版を用いている。
 スウィトナーのブルックナーはいずれも素晴らしい録音だと思うけれど、いろいろとタイミングの問題などがあって、やや傍流に置かれるような扱いとなってしまった。タイミングが悪い、と言うのは当時ちょうどエリアフ・インバルがフランクフルト放送交響楽団と初稿譜によるブルックナーの交響曲シリーズをやっていて、そちらが圧倒的に話題をさらってしまっていたのである。また他にもスウィトナーが第7交響曲を録音した1989年には、カラヤン最後のスタジオ録音であるウィーンフィルを指揮した同曲の録音が重なるなど、これも今にして思えばタイミングが悪かった。しかし、ファンの中にはスウィトナーの一連の録音を忘れ難く思う人たちがいて、結果2010年になってすべて再発売されたのは何よりであったと思う。
 前置きが長くなってしまったが、この第1交響曲もたいへん素晴らしい内容。第1楽章はスウィトナーのブルックナーにしては遅めのテンポ設定だが、音楽が緩んでしまうようなところはなく、弦楽器陣のソフトな音色が抜群の肌触り。特に高音域の爽やかさを強調したい。クライマックスではさらにぐっとテンポを落として広大な裾野をとり、スケール感の対比が見事。なかなか難しい曲だけにここに一つのポイントを持ってきたのだと思う。第2楽章も弦のグラデーションが鮮やかで奥行きの深いサウンドが終始保たれている。第3楽章は荒々しいスケルツォであるが、スウィトナーの演奏からは非常に力強い躍動が感じられるし、しかもその効果を得るために躍起になるような不自然な力みがなく、音楽の流れが非常に自然。終楽章は跳ねるようなリズムが特徴だが、ここでも力と洗練のバランスがよく統御されていて、スケールを感じさせるのにコンパクトにまとめられており、見事だと思う。
 私もいままでスタジオ録音によるスウィトナーのブルックナーは、入手機会がなくて聴いてこなかったのだけれど、なるほど、評価の高さを実感できる内容で、聴けて良かったと思う。

交響曲 第1番 (リンツ版)
ヤング指揮 ハンブルク・フィルハーモニー管弦楽団

レビュー日:2011.9.2
★★★★★ 後期の傑作を思わせるような、深い響きに満ちた第1交響曲
 好調のシモーネ・ヤング(Simone Young 1961-)指揮ハンブルクフィルによるブルックナーの交響曲シリーズ。2010年録音の第1番。
 このシリーズは「初稿」を用いた録音が一つの「売り」になっているけれど、この第1番の場合、初版の「リンツ版」がそのまま流通版になっているので、別にそれが特徴になるわけではない。それでも、このディスクに収録されている「演奏」の価値だけで、十分に、一目置かれる以上の内容とみる。
 ブルックナーの交響曲第1番は魅力的な作品だと思う。この作曲家にしては珍しい(ように思える)野心のようなものが、荒々しくそのまま外側に出てきたような音楽で、抗い難いパワーを宿している。特に第3楽章の嵐の様なエンディングに続いて力強い合奏で開始される第4楽章は、気勢を蓄えては盛り上がり、さらに蓄えてはまた盛り上がりといった内容で、この時期のブルックナーの気迫が如実に投影されているように思えてならない。それは、ブルックナーの他の交響曲では強く感じ取れないものだ。それで、ブルックナーの交響曲の系列を見た時、習作も含めた11曲の中で、私はこの第1交響曲が、際立って特異なポジションにあるように考えていた。
 ところが、このヤングの解釈を聴いて唸らされた。「この交響曲は、別に際立って特異なポジションにあるわけではなく、ブルックナーの交響曲として、系列にピタッとハマる音楽たりえるのだ」と強く思わされたからだ。つまり、ヤングのアプローチは、この初期の交響曲から、ブルックナーらしい息の長さを引き出し、かつ壮大で宗教的な色彩を与え、ひいては、それを聴き手の心に留め置く音楽を成し遂げることに成功していると感じる。
 例えば第1楽章。第1主題が対位法により展開し、大きなクライマックスを築く中間部で、ホルンの深い咆哮をバックのグラデーションから巧みに浮き立たせ、あるいは溶け込ませることによって、雄大とも思える距離感が獲得できている。それはまるで後期の傑作交響曲の自然の鳴動を思わせる響きだ。ヤングのアプローチが優れていると思うのは、前述のような感興が、ピンポイントの演出で終わってしまっていないこと。全曲を通じて強い説得力を持った語り口で、ブルックナーの交響曲第1番という叙事詩を描ききった趣がある。
 この録音が出現したことで、今後、より多くの指揮者が、このシンフォニーに様々なアプローチを試みることに、一層期待が高まったところである。

交響曲 第1番 (1891年ウィーン版)
シャイー指揮 ベルリン放送交響楽団

レビュー日:2013.12.5
★★★★★ 「ウィーン版」のアイデンティティを示したシャイーのタクト
 リッカルド・シャイー(Riccardo Chailly 1953-)指揮、ベルリン放送交響楽団によるブルックナー(Josef Anton Bruckner 1824-1896)の「交響曲 第1番 ハ短調(1891年ウィーン版)」。1987年の録音。
 シャイーは、1984年から1999年まで15年を費やし、コンセルトヘボウ管弦楽団とベルリン放送交響楽団(ドイツ・ベルリン管弦楽団)の2つのオーケストラを指揮して、ブルックナーの第0番も含む10曲の交響曲からなる全集を完成したのだが、この第1番は、そのうちの第3弾としてリリースされたもの。
 ブルックナーの交響曲群の中にあって、第1番の存在はいっぷう変わっている。ブルックナーは40代を過ぎてから本格的な作曲活動を開始し、生涯に11曲の交響曲を編み出した。この第1交響曲は、1866年、作曲者42歳の時に完成されたもの。そんなわけで、ブルックナーの重要な作品群を俯瞰した場合、30代までの作品が一切ないという点で、彼は「創作期年齢」という点において、他の歴史上の偉大な作曲家たちとくらべて特異な存在である。
 しかも彼は、この年齢からスタートし、成長、円熟し、ついには後世に永遠に残る偉大なシンフォニーを書くに至った。まさに大器晩成の典型。しかし、そのため、他の作曲家にある「青春期」や「青年期」の作品が遺されていないのである。そして、そのことを反映するかのように、彼の交響曲は、どれも巨大で、宗教的で、素朴なのだ。
 しかし、ここに一つ例外があって、この第1交響曲には、突如沸いたかのような青春のエネルギーが満ち溢れているのである。この作品はブルックナーの系列の中では軽く見られることが多いけれど、ブルックナーの作品にそれほど馴染んでいない人には、むしろ分かり易いものかもしれない。飛び跳ねるリズム、熱血的な推進力、スピードを伴って表現する能動的作風。それらが一体となって満ちているのは、この作品の大きな特徴だ。
 さて、ところが当盤でシャイーが演奏しているスコアは、ちょっと事情が違う。ここで用いられているのは「ウィーン版」というスコアだ。これが不思議な存在。ブルックナーは大傑作である第8交響曲を成功させたのちの1890年、何を思ったか24年前のこの作品を引き出しの奥から引っ張り出し、約1年を費やして「改訂」を行うのだ。現在では最初のスコアを「リンツ版」、24年後の改訂を経たスコアを「ウィーン版」と呼ぶ。
 改訂により、演奏時間が若干伸びるだけでなく、あちこちのアーティキュレーションが変更された。その結果、リンツ版にあった「勢い」は減じ、かわりにところどころに濃厚なテイストが盛り込まれることとなった。一本気ではない、変化が様々に挿入された様相は、さながら「老成した青春」である。
 ブルックナーの改訂の意図は不明ながら、現代では圧倒的に「リンツ版」が用いられている。しかし、「ウィーン版」をとる指揮者もして、ギュンター・ヴァント (Gunter Wand 1912-2002)も少数の「ウィーン版」派だった。この人は、現代では一般的なノヴァーク(Leopold Nowak 1904-1991)の編ざんしたスコアにさえも懐疑的だったから、それなりの学究肌だったのかもしれない。また、ロジェストヴェンスキー(Gennady Rozhdestvensky 1931-)のように「すべての版で録音」を行った凄い人もいる。
 そして、シャイーも「ウィーン版」を採った。その意図は不明ながら、この演奏を聴いていると「これはこれで面白いな」と思うところも多々あることに気付く。第2楽章のクライマックスの弦の音型は、ウィーン版の方がニュアンスがあって含みが大きいと思うし、第4楽章で金管の呼応に表れる独特の音型は、スケールアップを目指して全力をふるったかのように響く。
 たしかにリンツ版の一本気な青春の力は損なわれているのであるが、シャイーは、「原型のままのもの」と「改訂により新たに加わったもの」の両面を、慎重に繋ぎ合わせ、緊密なサウンドを構築することに成功した。そのため、ウィーン版特有の「唐突な感じ」が弱められ、逆に「ブルックナーらしさ」を強くしているといえるだろう。
 とにかく、晩年に「偉大なシンフォニスト」に大成したブルックナーが、1年を費やして完成させたスコアである。無視する手はない。このシャイー盤のような素晴らしい演奏で聴くのは、貴重な体験に相違ない。

交響曲 第1番
ヤノフスキ指揮 スイス・ロマンド管弦楽団

レビュー日:2015.4.30
★★★★★ ブルックナーの第1交響曲の魅力を新鮮な感性で引き出した録音
 マレク・ヤノフスキ(Marek Janowski 1939-)指揮、スイス・ロマンド管弦楽団の演奏によるブルックナー(Anton Bruckner 1824-1896)の交響曲全曲録音チクルスの第6弾で、2011年録音の「交響曲 第1番 ハ短調」。リンツ稿による演奏。
 ブルックナーの第1番~第9番の9つの交響曲の中で第1番は異色の作品だと思う。後期作品に比べて、芸術性という観点で劣るところはあるかもしれないが、私はこの作品が好きで、ブルックナーの交響曲の中でも早くから全曲通して聴く作品の一つになっていた。
 全曲の長さは50分に届かないほどで手頃だし、木管楽器の役割も相応に分配されている。(のちの作品では、ファゴットなど、ほとんど添えるような音しか割り当てられていない)。技巧的にアグレッシヴな側面が顕著で、特に後半2楽章は力に溢れた躍動が満ちている。以前は「なぜこんないい曲が、あまり評価されないのだろう」とまで思っていた。しかし、時代は変わり、今ではこの交響曲にも様々な録音がある。
 このヤノフスキの演奏も見事。第1交響曲ではオーケストラの技量もポイントになるが、スイス・ロマンド管弦楽団の力量は軽々とハードルを越えている。それにしても、木管の活躍が見事。様々な個所で、「これほど木管が鮮やかに行き交っただろうか」と思い直してしまうほど、前面に出てくる。それらの演出は決して突飛ではなく、すべて計算されつくした音量の配分が感じられる。いかにも周到に準備された感じの録音だ。
 従来の演奏で馴染んできた響きと印象が違うから、最初聴いたときはむしろ驚きをもって接することになるのだけれど、聴きすすむにつれて、新しい視点というだけでなく、それが音楽的に高度に成熟した表現の一つなのだと、納得させてくれる。なぜなら、全曲を聴いたときの全体の起伏のバランスがとても良く、すべてが心地よく響くからだ。繰り返し聴くとなお楽しい。
 特に凛々しくも柔和で、スッキリしながらも味わいの豊かな後半2楽章が素晴らしい。白熱も内省的な深みを湛えた響きであるし、クライマックスで快適俊敏に決まる各パートのキメの音が気持ち良い。
 素晴らしい爽快感を味わった1枚です。やっぱり、ブルックナーの第1交響曲って、いい曲だな。

交響曲 第1番(1891年ウィーン版) 行進曲 3つの小品
ヒメノ指揮 フィルハーモニー・ルクセンブルク

レビュー日:2019.2.13
★★★★☆ スペインの指揮者、グスターボ・ヒメノがブルックナーの初期作品を紹介してくれます
 アバド(Claudio Abbado 1933-2014)がその才能を高く評価していたというスペインの指揮者、グスターボ・ヒメノ(Gustavo Gimeno 1976-)が、2015年から音楽監督を務めているフィルハーモニー・ルクセンブルクを指揮してのブルックナー (Anton Bruckner 1824-1896)の作品集で、以下の楽曲が収録されている。
1) 交響曲 第1番 ハ短調(1890/1891年ウィーン稿)
2) 行進曲 ニ短調
3) 3つの小品
 2016年の録音。
 まず収録内容についてであるが、ブルックナーの交響曲第1番は、今では録音も数多くある楽曲であるが、その多くはリンツ版と呼ばれる1866年に完成された第1稿により演奏される。
 ブルックナーは、晩年、自らが書いてきた作品の「手直し」を行い、例えば、第3交響曲も、最もよく演奏されるのは1889年の手直しを経た「第3稿」とよばれるスコアによるものなのである。ブルックナー先生、この手直しを、第1交響曲にも1年を費やして行っていて、「ウィーン稿」なるものができるのだが、こちらが実は評判がよろしくない。第1交響曲がもっていた若々しくも荒々しい個性と、晩年のブルックナーが到達した円熟した作法の相性が良くなかったのか、違う楽曲が部分的に混ざり込んできたかのような印象があり、本場、ヨーロッパのブルックナー研究家たちからも、酷評を受けている。「この修正に1年を費やすくらいなら、第9交響曲の終楽章に取り組んでくれれば良かったのに」とは凡庸な感想ではあるが、私もおおむねそう思う。
 ブルックナーの交響曲全集を完成した指揮者の中で、第1交響曲の録音にウィーン稿を選択したのは、(すべての稿で録音達成という偉業を成し遂げたロジェストヴェンスキーを除いて)、ヴァント(Gunter Wand 1912-2002)とシャイー(Riccardo Chailly 1953-)くらいである。
 私が、このヒメノの選曲を見て、思うことは二つ。一つは彼を評価したアバドもブルックナーの第1交響曲を愛していたな、ということ。もう一つは、珍しい初期作品と組み合わせるのに、なぜわざわざ後年の作風が混ざったウィーン稿を選択したのかな、ということである。
 聴いても上記の疑問が解けるわけではないので、今度は感想に飛ぶ。演奏は各楽器のパーツを丁寧に響かせたもので、ウィーン稿の特徴であるフィナーレのコーダの木管の効果など鮮明で、確かに聴きどころがある。第3楽章の後半の浪漫的なふくらみもわかりやすい。オーケストラも一生懸命さが伝わってくる。ただ、その一方で、オーケストラの合奏音自体に、やや物足りなさを残す。線的なものを大事にし過ぎた感があって、ややアコースティックな重なりが弱く、重い音が欲しいところで、やや抜けたような感じになる。この曲の場合、それでもいいのかもしれないが、第2楽章のクライマックスなど、個人的にはやや寂しい。逆に第4楽章のスピード感など、なかなか見事ではあるが。全体的には、もう一つ上の完成度を目指す余地を感じさせるところがある。
 むしろ、ファンに嬉しいのは、めったに聴くことができない初期作品が収録されていることだ。「行進曲」「3つの小品」ともに、ブルックナーがキツラー(Otto Kitzler 1834-1915)の下で管弦楽法を学んでいたころの作品。いかにもまだまだ若いという感じだが、行進曲の親しみやすさはヒッチコックの映画音楽にでも出てきそうだし、3つの行進曲は、全編にメンデルスゾーンを思わせるサウンドが織り込まれていて、偉大な先人のスコアを参考に勉強した痕跡が伝わってくるのはとても興味深い。
 というわけで、個人的には、いろいろ楽しまさせていただいたのだが、評価としては、一つ下げたくらいになるだろう。

交響曲 第1番(1891年ウィーン版)
アバド指揮 ルツェルン祝祭管弦楽団

レビュー日:2019.7.29
★★★★★ 評判の良くない「ウィーン稿」に光を当て、高い芸術的価値を見出した名録音
 アバド(Claudio Abbado 1933-2014)指揮、ルツェルン祝祭管弦楽団によるブルックナー(Anton Bruckner 1824-1896)の「交響曲 第1番 ハ短調 (ウィーン稿1891)」。2012年のライヴ録音。  いろいろ思うところの多い録音である。まず、アバドがこの交響曲自体に、特別な思い入れを持っていることが強く感じられる。習作的なものを除けば、ブルックナーの交響曲は9曲ある。そのうち「第1番」という楽曲は、個人的に魅力的な作品だとは思うが、中後期の充実した作品と比較すると、その芸術的価値を低めに見積もらざるを得ないことは、避けられない。だから、この交響曲を録音する場合、全集中の一貫として録音される場合がほとんどだ。しかし、アバドは、ブルックナーの交響曲のうち、生涯に録音を手掛けたのは5曲のみ。しかも、この第1交響曲については、なんと3回も録音している。
 私は、この3種をいずれも所有している。最初の録音は、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮しての1969年のもので、それはDECCAが6人の指揮者を起用した「ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団によるブルックナーの交響曲全集」を製作する、という企画の一環で、第1番に当時36歳のアバドを起用したのだ。それは、なかなかに意欲的な演奏だった。次に、アバドは同じくウィーンフィルハーモニー管弦楽団を指揮して1996年に2回目の録音を果たす。それはアバドらしい歌に満ちた演奏であったが、私には、その歌謡性あふれた解釈が、どこかブルックナーの第1交響曲の武骨さと相性の悪さを感じさせるところをもった。
 そして、当盤がその3度目の録音である。
 もう一つ。このたびアバドは、1891年ウィーン稿というスコアを用いている。ブルックナーは、この交響曲をいったん完成させるのだが、何を思ったのか、第8交響曲をはじめ数々の名作を書いた晩年になって、とつぜんこの交響曲のスコアを引っ張り出し、あちこち「改訂」をはじめるのである。この改訂が、批評家や音楽家には、なかなか「受け」が悪い。改訂前のスコアをリンツ稿、改訂後のスコアをウィーン稿と呼ぶが、ほとんどの場合、リンツ稿が用いられる。
 ちなみに、この「評判の良くない」ウィーン稿の録音が、当盤以外にどれくらいあるかと言うと、私が所有するものは以下である。
1) ヴァント(Gunter Wand 1912-2002)指揮 ケルン放送交響楽団 1981年録音
2) ロジェストヴェンスキー(Gennady Rozhdestvensky 1931-2018)指揮 ソビエト国立文化省交響楽団 1984年録音
3) シャイー(Riccardo Chailly 1953-)指揮 ベルリン放送交響楽団 1987年録音
4) ヒメノ(Gustavo Gimeno 1976-)指揮 フィルハーモニー・ルクセンブルク 2016年録音
 ヴァントは「ブルックナー自身の最終スコアを尊重する」というスタンスでの録音、ロジェストヴェンスキーはすべての稿でブルックナーの交響曲を録音するという企画の一環。またヒメノは、その才をアバドに高く買われて頭角を現したこともあって、ウィーン稿の採用にあたって当盤の存在がそれなりに影響を与えたのではないか、と邪推するが。
 さて、それでは前2回の録音でリンツ稿を採用したアバドが、79歳になって「ウィーン稿」に宗旨替えしたのは、なぜなのか。
 それは当盤を聴いて、各々の感性で感じ取るしかないのであるが、私の感想で言えば、1996年のリンツ稿による録音より、当盤の方が、とても「しっくりいっている」と感じられるのである。
 晩年のブルックナーは、この交響曲のより壮大な構想を与えようとしていたのではないだろうか。細やかなパッセージの追加や変更、そして、音程の変化は、私にはより多様性を持ち、起伏を与えようと試みているように感ぜられる。もちろん、そうはいっても、原曲は若きブルックナーが書いた、古典性を踏襲した一本気な音楽であるので、印象が散ってしまう弱点が目立ってしまったのだけれど、その飛躍を丁寧に補ってやれば、楽曲としての魅力は十二分に輝きを見せてくるのである。アバドが試みた方向性は、おそらくそのようなもので、ウィーン稿のスコアのつぎはぎ部分に流麗で音が通りやすい処理を施した上で、時に落ち着いたテンポで、輝かしい歌を描き出すことによって、このスコアもっている潜在的な魅力を引き出そうとした。そして、それがとても上手くいっていると私は思うのである。
 これまでのウィーン稿の録音では、個人的にはロジェストヴェンスキーのものが抜群に面白かったのだが、面白いという価値と別に、芸術的普遍性を持った美しい音楽として完成させたのが、当盤であると感じられる。

交響曲 第1番
ノイマン指揮 ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団

レビュー日:2021.7.30
★★★★★ 隠れた名盤。ノイマン指揮によるブルックナーの第1交響曲
 チェコスロバキアの指揮者、ヴァーツラフ・ノイマン (Vaclav Neumann 1920-1995)が、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団を指揮して1965年に録音したブルックナー(Anton Bruckner 1824-1896)の「交響曲 第1番 ハ短調」。リンツ版による演奏。
 ブルックナーの初期作品が、それほど取り上げられなかった時代に、これだけの名演が記録されていたのか、と驚かされる。私は、ブルックナーの交響曲第1番という作品がなかなか好きで、そこには第2番以降のブルックナーの交響曲が目指した浪漫性とともに、一種の古典性が同居していて、この作品だけがもつ特有の魅力があると思っているが、この演奏は、そんな思いを満たせてくれるものの一つ。
 ノイマンのタクトは、熱さとともに歌心があって、そのことが、この交響曲に個性を音楽的に表現することに結び付いている。解釈は、とてもストレートでありながら、音響は良く練り上げられていて、かつ内的な熱気が十二分に伝わる。1965年という録音年を考慮すると、録音状態も上々といって良く、この楽曲の代表的録音と言っても良い。
 テンポは、緩徐部分が少し遅めのところもあるが、全般にはほぼ平均的。ただ、全般に締りがあって、タメが小さいため、音楽の運びは、古典的で端正な味わい。しかし、表現の味わいは深く、決め所の踏み込みはしっかりしている。例えば第1楽章の最初のクライマックスで響く立派なティンパニや、第3楽章の再現部における最初のフォルテなど、とても見事で、豪壮でありながら、厚ぼったくなっておらず、内的緊迫を維持している。そのフォルムは美しく、燃焼性が高い。また、第2楽章や第1楽章の第2主題のように、この楽曲特有の牧歌的な部分が、それこそノイマンが得意としているドヴォルザークの交響曲を思わせるように郷愁を誘うのも良い。なるほど、このように描くことで、この楽曲の味わいが程よく濃縮され、全体像がスマートになるのか、と感心させられる。終楽章は力強く、オーケストラの躍動感は目覚ましい。ヴァーツラフ・ノイマンという指揮者が、ここまでブルックナーの第1交響曲を咀嚼しつくした演奏をしていたのか、と驚かされる。もちろん、オーケストラも素晴らしい。木管に乗る情緒は瑞々しく、品がある。
 もし、ブルックナーの第1交響曲にこれぞという録音が見いだせない、とお考えの方がいたら、このノイマン盤は、決定版になりうるポテンシャルを持っている。是非、聴いてみてほしい。

交響曲 第1番(1866年 キャラガン版) 第2番(1872年 キャラガン版) 第3番「ワーグナー」(1874年 キャラガン版)
シャラー指揮 フィルハーモニー・フェスティヴァ

レビュー日:2012.7.17
★★★★★ 「キャラガン版」と「録音場所」の特徴を活かした注目のブルックナー
 ゲルト・シャラー (Gerd Schaller 1965-)指揮、フィルハーモニー・フェスティヴァによるブルックナーの交響曲第1番、第2番、第3番「ワーグナー」の3曲を収録。2011年の録音。「フィルハーモニー・フェスティヴァ」は、ミュンヘン・フィル、バイエルン放送交響楽団、バイエルン州立歌劇場管弦楽団の首席奏者らで構成されるオーケストラ。このアルバムは、第4番、第7番、第9番を収録した第1弾に引き続くシリーズ第2弾となる。第1弾と同様、エーブラハの大修道院附属教会でのライヴ収録となっている。
 物理学者であり、音楽学者でもあるウィリアム・キャラガン(William Carragan)によって、校訂されたスコアが使用されていることが大きな特徴。キャラガン版は、第1番は1866年版、第2番は1872年初稿版、第3番は1874年版に基づく校訂となっている。
 1874年版第3交響曲の姿は、インバル(Eliahu Inbal 1936-)が取り上げて以来その存在を知られるようになった初稿に近い。この交響曲が一般的によく聴かれる「第3稿」は、作曲者により1888年から1889年にかけて改訂が行われたもので、完成度が高く形式的にも整っている。一方、年数の若いスコアほど荒々しい傾向が増し、加えて敬愛するワーグナーからの引用が色濃く残ったままとなっている。第2楽章終結部の「タンホイザー」の登場がなんといってもこの版の聴きどころだが、全編にわたって「初稿」と「改訂版」の差が顕著な楽曲なので、当キャラガン版においても、第1楽章の長大さや、終楽章の度重なる全休符の挿入など、この交響曲の当初の姿が色濃く残っているといえるだろう。キャラガン版は初稿に基づきながら、当時のパート譜の書き込みなどから細かい修正を加えていき、洗練の度合いを上げているのがポイントだろう。
 交響曲第2番について、キャラガンは1872年版と1873年版の両方を校訂している。1991年に録音されたアイヒホルン(Kurt Eichhorn 1908-1994)によるこの2種の両方を収録したディスクが想起される。シャラーが選んだ1872年版は、スケルツォを第2楽章、アダージョを第3楽章に配置しているのが最大の特徴だろう。その他、キャラガンは、当時のパート譜をもとに小節の削除、連譜の修正、パッセージの入れ替えなと細部まで手を加えたようだ。
 交響曲第1番は、おおむね「リンツ版」として知られるものに近いが、両端楽章のコーダにわかりやすい変更があり、第1楽章はいちばん最後にカットがあり、聴いていて従来よりスリムな印象をもたらす。第4楽章のコーダの最後も、リンツ版では、ティンパニに導かれて金管が符点のリズムを放つのだが、この金管が省略されており、結果、管弦楽合奏音和音の二連で、びっくりするほど古典的に末尾が結ばれる。
 これらのキャラガンの校訂の意図自体をきちんと理解するには、おそらくもっともっと曲自体への知識が必要なのだが、そうでなくても、ブルックナー・ファンには、「聴きなれた音楽と違う」という新鮮さがあり、加えて中には「なるほど」と頷けるもの多い。
 さて、演奏自体の特徴であるが、第1弾同様、強奏でおよそ4秒あると感じられる教会のたっぷりした残響を活かし、まさにオルガン的なサウンドを構築していると思う。ブラスの響きに焦点があっており、弦楽器にところどころ薄い響きがないわけではないが、ややゆったりしたテンポで、金管、木管の響き、そしてその残響が融していく様を存分に味わうことができる。特にクライマックスで高らかにならされる金管のファンファーレは、空間を厳かに包み込むようで、この録音の特徴を端的に物語るものだ。キャラガン版云々を抜きにしても、ブルックナーの音楽のそれらしさを、存分に味わわせてくれる内容だ。

交響曲 第2番
ショルティ指揮 シカゴ交響楽団

レビュー日:2003.9.7
★★★★☆ ブルックナーの変貌ぶりを聴きとどける「第2」
 この曲でブルックナーは始めて「ブルックナー開始」を採用する。弦のトレモロ~通称「原始霧」。まだ深さはいまいち。特に各楽章の各部分がはっきり区別され、全休止さえも用いられるようになったことなどから、「休止交響曲」という綽名もつけられています。終楽章で突如、作曲者の情熱が素直に吐露され、後期の交響曲にも劣らない充実した響きを発揮し始めます。ブルックナーがブルックナーとなった瞬間がここです。
 ショルティはなかなか初期の交響曲に適正を発揮。端麗辛口な取り組みが奏功しています。

交響曲 第2番 (1872年版と1873年版の2種 キャラガン版)
アイヒホルン指揮 リンツ・ブルックナー管弦楽団

レビュー日:2004.2.14
★★★★☆ ブルックナー・マニアは押さえておきたいアルバム
 1872年版と1873年版の2種のキャラガン版による「ブルックナーの第2交響曲」。
 2通りのスコアを用いてそれぞれ「第2」を演奏した2枚組のCD。最近までこの曲には、第2稿を元にしたノヴァーク版と、それに第1稿からの素材を合わせたとされるハース版による演奏が主体で、曲自身の性格もあってあまり目だたず日の当たらない存在でしたが、このアイヒホルン盤が、新しく校訂されたばかりのキャラガン版1972・73年稿を収録して、一躍注目されるようになりました。
 個人的には、終楽章の充実した音楽はこの後の中期の傑作群にもヒケをとらない内容をたたえた曲だと思う。まあ、マニア向けですが。いい演奏です。

ブルックナー 交響曲 第2番 (ハース版)  ウェーバー 歌劇「オイランテ」序曲 舞踏への勧誘(ベルリオーズ編)
シュタイン指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

レビュー日:2010.1.2
★★★★★ 渋いシュタインの堅実な名演
 ホルスト・シュタイン(Horst Stein)指揮ウィーンフィルハーモニー管弦楽団による演奏で、ブルックナーの交響曲第2番と、ウェーバーの歌劇「オイランテ」序曲、舞踏への勧誘(ベルリオーズ編)の3曲を収録。ブルックナーは1973年、ウェーバーは1977年の録音。
 シュタインも存在としては地味な指揮者である。その録音活動の中で、広く記憶されているものとしては、グルダを独奏者に迎えてのベートーヴェンのピアノ協奏曲全集くらいではないだろうか?しかし、もちろん一流の指揮者であったことは間違いない。シュタインはしばらくNHK交響楽団を振っていたから、ある程度以上の年齢の方には、私が思う以上に知名度が高いのかもしれないが。
 さて、このブルックナーの交響曲第2番というレパートリーが当時としては珍しい。今でこそブルックナーのマイナーな楽曲にも数多くの録音があるが、当時はカタログをくまなく探したって数枚程度しかレコードはなかったはずである。これはデッカ・レーベルによる「ウィーンフィルによるブルックナーの交響曲全集」を作ろうという企画の一環で録音されたものである。ちなみにシュタインが担当したのが第2番と第6番。指揮者が地味なら曲も地味?!
 しかし、これはいい演奏である。もちろんいまにして聴くと古典的なスタイルかもしれない。自然な流れの中で、白熱と抑制を繰り返し、クライマックスではテンポを上げ、求心力を増す。金管陣は思い切り良く鳴っており、ドラマチックに演出される。交響曲第2番はブルックナーの作品の中でも抜群に古典的な形を持っているものであり、それゆえにオーソドックスなシュタインのアプローチはすべてが自然に収まっている。特に後のブルックナーの大成を予感してやまない壮大な終楽章は地の底から沸くような迫力に満ちている。ティンパニの強打に応える金管の壮烈な音色が生々しい。
 ウェーバーの2曲が収録されている。ブルックナー同様に中央ヨーロッパの森の響きを持つ作曲家であり、こうした企画で併せて収録されて再発されるのは好ましい。やはり一昔前の録音の場合、このような「付加価値」が購買意欲をより高めるものだ。もちろんウィーンフィルのすばらしいサウンドは当時も一緒。

交響曲 第2番
ジュリーニ指揮 ウィーン交響楽団

レビュー日:2010.5.20
★★★★☆ ジュリーニが早くに録音に取り上げたブルックナーの「習作交響曲」
 ブルックナーの交響曲の系列のうち第2番までの4曲(番号なしのヘ短調、第0番、第1番、第2番)は習作的作品とされている。実際、第3交響曲が大傑作であり、同じく第3交響曲で、そのジャンルの雄渾な新たな創造を見出したベートーヴェンになぞらえることもあって、第2番と第3番の間隙に、天才の飛躍を見出すのだろう。
 しかし、最近ではその「習作」とされてきた作品にも数多くの録音がある。ブルックナーの交響曲を全曲録音したものも結構な数があり、しかも多くの版や稿が取り上げられている。そんな中で交響曲第2番もそのステイタスを上げた作品と言えるだろう。
 だが、それ以前はどうだったろうか?私の記憶では70年代から80年代初めにくらいまでは、このような「習作交響曲」とみなされている作品の録音は、それこそ数えるほどしかなかったと思う。それなので、カルロ・マリア・ジュリーニ(Carlo Maria Giulini 1914-2005)のような巨匠クラスの指揮者がこの曲を1974年に録音したというのは、それ自体が一つの驚きだと思う。あるいは、自らがこの曲をセッション録音することで、曲自体の認識も高めたいと考えたのかもしれない。しかしEMI原盤のLPは短命のうちに廃盤となり、以来長らく眠っていた音源がTESTAMENTによってCD化されたことになる。
 最近では交響曲第2番にも様々な録音があり、聴き比べもできるし、少なくともブルックナーファンには十分に楽しめる作品となっている。習作交響曲とされた4曲のうちで、最も後に書かれたこの作品が、一番保守的で古典的であるのも面白い。ブルックナーの試行錯誤の過程で必要な「古典性の踏まえ」であったと思う。特に終楽章の充実はブルックナーの他の交響曲と比較しても遜色ない。
 さて、このジュリーニ指揮ウィーン交響楽団の演奏である。ゆったりとしたテンポで恰幅のある演奏だ。しなやかな弦が優美に歌い、裾野を広く山並みを描くように響くのが美しい。いかにも古典的なスタイルだが、その演奏がこの曲には合っている。特に美しいのが第2楽章で、旋律自体の魅力をここまで存分に味わわせてくれる演奏はなかなかないだろう。第4楽章もなだらかな演奏で、ここではもっと峻険で屹立した山脈のような音楽を望む向きもあるかもしれないが、もちろんジュリーニのスタイルも悪いわけではない。この時代の同曲の録音としては73年のシュタイン指揮ウィーンフィルのデッカ盤とともに忘れ難い一枚。

交響曲 第2番
シャイー指揮 コンセルトヘボウ管弦楽団

レビュー日:2013.12.5
★★★★★ ブルックナーの第2交響曲の特性がよくわかる美演
 リッカルド・シャイー(Riccardo Chailly 1953-)指揮、コンセルトヘボウ管弦楽団によるブルックナー(Josef Anton Bruckner 1824-1896)の「交響曲 第2番 ハ短調(1877年ハース版)」。1991年録音の録音。
 シャイーは、1984年から1999年まで15年を費やし、コンセルトヘボウ管弦楽団とベルリン放送交響楽団(ドイツ・ベルリン管弦楽団)の2つのオーケストラを指揮して、ブルックナーの第0番も含む10曲の交響曲からなる全集を完成したのだが、この第2番は、そのうち第7弾としてリリースされたもの。
 ブルックナーが第2交響曲を一旦完成したのは1872年、作曲者48歳のときである。これに前もって完成した第00番(1863年完成)、第1番(1866年完成)、第0番(1869年完成)と併せて、ブルックナーの交響曲作曲家としての準備は整った、とみられる。というのは、この後に押し寄せる傑作群は、第2交響曲のスタイルに近いものだからである。
 よく言われることだが、私にもこれらの初期の4つの交響曲の中で、第2交響曲がいちばん古典的な音楽に思える。それは、ブルックナーが、いろいろ試行したものの中で、一旦、付け加えたものを剥ぎ取り、あらためて率直な表現を心掛けた結果だったのかもしれない。
 交響曲第2番では、まず冒頭に「原始霧」と呼ばれるブルックナー特有の弦のトレモロ奏法による開始があり、続いて息の長い旋律が登場する。この旋律は、対位法による雄大な展開を示し、偉大で輝かしいコーダを導く。これは、後のブルックナーの大傑作群とほぼ同じ構成だ。第2楽章が長大なアダージョ、第3楽章でスケルツォと続き、一層規模が大きく浪漫的な第4楽章を迎えることになる。(ただし、1872年稿では、第2楽章と第3楽章は入れ替わっていた。その後、ブルックナーは現在の楽章配置に変更した)
 このように、第2交響曲は、ブルックナーの交響曲の、言ってみれば「プロトタイプ」のような存在である。しかし、プロトタイプだからといって内容が薄いわけではない。もちろん、その後の充実と比べると、若干内容が劣るところはあるのだけれど、私はこの曲が好きでいろいろなディスクを持っている。特に第2楽章の広がりと、終楽章の巨大な音の伽藍は素晴らしく、ことに終楽章はブルックナーの書いた偉大な終楽章の一つに数えたいとさえ思う。
 シャイーの演奏は、コンセルトヘボウ管弦楽団の最高度に調和された響きを用いて、実に美しい伸びやかさを見せる。特に息の長いフレーズが、常に活き活きとよどみなく表現されているのが素晴らしい。第1楽章のシンフォニックな音感は、フレーズの緻密なやりとりの積み重ねで、確実に獲得されたもの。コーダの慎重なテンポ設定も早急過ぎず、理想的といって良い。ティンパニが力強く響き、勢いを失わずに終結する点で、私はこの第2交響曲では、当1877年ハース版のスコアがいちばん好きだ。
 第2楽章も気高い品質を湛えながら、牧歌的情緒を存分に宿していて、第6交響曲のアダージョを思わせる神秘性に満ちている。この曲でもっとも充実した音楽である第4楽章は、シャイーの演奏よりもっと熱いものが好きな人もいると思う。私は、もちろんそのような演奏も好きだが、シャイーの隅々まで配慮して、なだらかに整えつくした音響も素晴らしいと思う。コンセルトヘボウ管弦楽団の、厚く豊かになる金管セクションの強みがよく活かせているし、なにより全体として美しい。
 この交響曲の古典的調和性を存分に引き出した、シャイー一流のドライヴを感じる名演。デッカの録音クオリティーも抜群である。

交響曲 第2番
ヤノフスキ指揮 スイス・ロマンド管弦楽団

レビュー日:2015.5.7
★★★★★ 平穏、安寧を表出したヤノフスキによるブルックナーの第2交響曲
 ポーランドの指揮者、マレク・ヤノフスキ(Marek Janowski 1939-)とスイス・ロマンド管弦楽団によるブルックナー(Anton Bruckner 1824-1896)の交響曲全曲録音シリーズの第8弾で、「交響曲 第2番 ハ短調」。2012年録音。1877年稿キャラガン版による録音。
 1877年稿キャラガン版というのは珍しい。とはいっても、これはほとんどノヴァーク版に近い。キャラガン(William Carragan)は、先に1872年稿と1873年稿について校訂譜を編算している(1872年稿では第2楽章と第3楽章の入れ替えがある)。この双方についてアイヒホルン(Kurt Peter Eichhorn 1908-1994)、後者をシャラー(Gerd Schaller 1965-)といった人たちが取り上げて録音しているが、その後キャラガンはノヴァーク版1877年稿の元となったスコアについても校訂を行い、ここで用いられている1877年稿キャラガン版とした。そのようなわけで、当盤の演奏は、この新しいスコアを用いたものとなる。しかし、ノヴァーク版との明瞭な違いはなく、特段スコアの点で目新しいものではないだろう。
 純粋に演奏と、そして録音の素晴らしさから注目したいアルバムだ。
 ヤノフスキとスイス・ロマンド管弦楽団のブルックナーは、これまでも素晴らしい透明感と充実した音響、見通しの良いバランスによって際立った成功を収めたと考えているが、この録音でも良好な成果は得られている。冒頭のブルックナー開始の幻想的な美しさは比類なく、そこだけでも聴き手を恍惚とさせる響きだ。感覚的な美観に満ちながら、音楽的機能性をも感じさせ、さらに階層的な深みを感じさせる。主題はしなやかに、そしてゆるやかに、かつ弛緩なく奏でられる。テンポは一般的だが、詳細なコントロールが効いている。
 第2楽章の幽邃の美も見事だ。弦の細やかな表情が生き生きとし、たおやかで健康的なアンダンテだ。第3楽章は、ヤノフスキのブルックナーの中ではやや平板な印象もある。ゆったりした安定感のあるテンポをとるが、その結果、主部とトリオの対比に明瞭感がそれほど見いだせない。他の録音と比べると、やや印象が薄い。とはいえ、細やかな音響美は良く整えられている。
 第4楽章は、最近ではより猛々しいスタイルのものが多い。そういった解釈ももちろん悪くないが、ヤノフスキの演奏はむしろ逆の印象で、平穏や安寧といったキーワードが思い浮かぶもの。作曲当時のブルックナーの荒々しさがもっと表出してもいい、という意見もあるだろう。私もそう感じるところもあるが、何度も聴いていると、この演奏特有の高貴な美観に触れ、心が洗われるような気分を味わった。
 ヤノフスキのブルックナー・シリーズの中で、ベストを争うものではないが、現代のブルックナーの第2交響曲における一つの優れた録音と言うことができると思う。

ブルックナー 交響曲 第2番  R.シュトラウス 組曲「町人貴族」
ムーティ指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 p: オピッツ

レビュー日:2017.10.30
★★★★☆ ムーティとウィーン・フィルならではの音楽の楽しみを感じさせてくれるライヴ録音です
 ムーティ(Riccardo Muti 1941-)が、2016年ザルツブルク音楽祭でウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を振ったライヴの模様を収録したアルバム。CD2枚に以下の楽曲を収録。
【CD1】
ブルックナー(Anton Bruckner 1824-1896) 交響曲 第2番 ハ短調(ノヴァーク版)
【CD2】
R.シュトラウス(Richard Strauss 1864-1949) 組曲「町人貴族」 op.60
(序曲、メヌエット、剣術の先生、仕立て屋の入場と踊り、リュリのメヌエット、クレオントの登場、間奏曲、宴会、クーラント)
 「町人貴族」はピアノを含む編成の管弦楽曲で、本盤では、ゲルハルト・オピッツ(Gerhard Oppitz 1953-)がピアノを務める。
 このライヴは、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のコンサート・マスターを45年にもわたって務めたライナー・キュッヒル(Rainer Kuchl、1950-)の最後のコンサートであり、またムーティの75歳、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の創設175周年など様々な意味で記念的色彩の濃いものだったらしい。
 ムーティは、かつてこのオーケストラと様々な録音があり、ニューイヤー・コンサートの指揮台に4度も登場したほどだから、両者の関係は良好に違いない。それにしても、今回の選曲は意表を突かれたもの。これまでムーティが録音しておらず、楽曲自体の存在も地味と言える2曲である。しかし、いずれの楽曲もウィーンとの所縁の深いものであり、演奏されてみると、なるほど、ウィーンらしい音が聴き手を楽しませてくれるものとなっている。
 ブルックナーでは、冒頭から旋律をしっかりと太い線で描いていく。この音を聴いていると、私は、一時代前くらいの巨匠的な演奏を想起する。例えばベーム(Karl Bohm 1894-1981)のような、地に足のついたしっかりとした歩みを感じさせる。ムーティの場合、歌謡性への比重が大きくなるのだが、それを加味しても、大家風の、いかにもウィーン的な太い歌いまわしだな、と感じる。金管の響きは豪壮で力強い。現在では、もっと精度の高い、緻密な演奏を志向することがほとんどかと思うのだけれど、ほどよい大味さで、ブルックナーの野趣味が引き出されており、私はそれを魅力的だと感じる。第2楽章の音色の厚み、第4楽章の全管弦楽の踏み込みある迫力など、実に立派なものである。個人的には、この曲はハース版の方が好きなのだが、当演奏ではスコア云々を抜きにして、雰囲気を楽しませていただいた。
 R.シュトラウスでは、ウィーン的な典雅さが楽しい。元来が喜劇のための音楽であるため、瀟洒で室内楽的な部分が多いのだが、独奏楽器の表情豊かな響きは、さすがウィーン・フィルといったところ。適度な自由度がこの曲に相応しい風合いを引き出しているし、独奏を伸び伸びと楽しげに響かせるムーティの棒も、このオーケストラのことをよく知っている、という感じがして、好ましい。舞曲のシーンなど、シュトラウスが書いたウィーン的遊戯性を、自然発揚的にオーケストラが繰り広げていてことに楽しいと感じる。
 残念な点は録音で、やや大味で、精度はいまひとつ。ところどころ音色のガサつきを感じてしまう。ライヴならではの制約が大きかったか。
 なお、両曲とも前後に聴衆の拍手が収録されており、演奏前の拍手には1トラック振ってある。(楽曲のみを再生したい場合、トラックナンバー「2」から開始)

交響曲 第2番
ヤング指揮 ハンブルク・フィルハーモニー管弦楽団

レビュー日:2019.12.20
★★★★★ シモーネ・ヤングによる初稿主体のブルックナー全集の端緒となった第2交響曲
 オーストラリアの指揮者、シモーネ・ヤング(Simone Young 1961-)とハンブルク州立フィルハーモニー管弦楽団の演奏によるブルックナー(Anton Bruckner 1824-1896)の「交響曲 第2番 ハ短調」。2006年の録音。
 シモーネ・ヤング指揮によるブルックナーは、おおむね好評を博し、現在では全集化されている。そのうち、最初に録音されたのが第2番だ。サラッと書いたけど、当時まだそこまでの知名度のなかったヤングが、当該シリーズの録音を、第2番から開始したというのは、なかなか意味深だ。言うまでのもなく、ブルックナーの交響曲の中で、知名度と言う点で、第2番はもっとも低い部類のものに入る。第2番を聴く人というのは、ある程度限られてくるだろうし、いずれにしても、シェアという点で有利ではない。
 ただし、この録音はキャラガン(William Carragan 1937-)校訂による1872年稿を用いている。ブルックナーの改訂癖は有名だし、それによって「より良いもの」が捻出されたことも知られるが、第2番についても同様で、1872年に一度書き上げたスコアに、ブルックナーは1873年、1876年、1877年とたびたび手入れを行っている。もっとも頻繁に録音されるのは、1877年の最終稿によるものだ。
 しかし、ヤングが取り上げたのは初稿。すでに執筆時には結果が分かっていることだが、以後ヤングは「初稿による全集」を完成することになる。中でも「前例の少ない」第2番の初稿を頭に持ってきたというのは、あらかじめコアな層をターゲットにし、しかもそこを説得できるという強烈な自信の裏返しだったように思われてならない。
 実際、この演奏は見事なものだ。第2番の初稿録音として、私は長年アイヒホルン(Kurt Eichhorn 1908-1994)の録音を聴いてきたのだが、表現のこなれた聴き易さという点で、ヤングはそれを上回っている。
 聴きなれた1877年稿と比較して、初稿の大きな特徴は以下の3つだろう。一つは、第1楽章に多くの全休符があること。オーケストラ全体が息をひそめるブルックナー特有の「間」であるが、改訂稿では、その多くが削られた。次に中間2楽章の順番で、初稿では第2楽章がスケルツォ、第3楽章がアダージョとなっているのだが、1873年以降の稿ではそれが入れ替わっている。最後に、長大な第4楽章である。ブルックナーが後に行った改訂の結果、第4楽章は初稿に比べて、100小節以上も短くなっている。そのため、最終稿による演奏時間が通常60分弱であるのに対し、当盤の演奏時間は71分を越えている。
 だが、ヤングの演奏は、これらの初稿の特徴を、欠点と感じさせない巧みさがある。音楽の運び、音色の設計、テンポの設定が巧妙で、不自然さが減じていて、流れが良い。また、音楽の盛り上げに即して採用されるアッチェランドの効果も高く、聴き手の気持ちを心地よく鼓舞してくれる。第1楽章のコーダはエネルギッシュで燃焼度の高さを感じさせる。第2楽章におかれたスケルツォは、対比感をうまく演出していて、劇的。第3楽章のアダージョは深々とした叙情に満ちている。オーケストラの繰り出す円熟味を感じさせる暖かい響きも特筆したい。
 第4楽章は、初稿では、しばしば迂遠な蛇行の印象をもたらす。ヤングの演奏に一切それを感じないとまで言う気はないけれど、それでも、うまくクリアしているというのは感じられるところ。全曲を見事にまとめ、大曲を聴き通したという満足感とともに、演奏を締めくくる。

交響曲 第2番
ネゼ=セガン指揮 モントリオール・メトロポリタン管弦楽団

レビュー日:2020.3.13
★★★★★ ネゼ=セガンのしっかりと計算されたアプローチが美しいブルックナーの第2交響曲
 ネゼ=セガン(Yannick Nezet-Seguin 1975-)指揮、モントリオール・メトロポリタン管弦楽団による、ブルックナー(Anton Bruckner 1824-1896)の「交響曲 第2番 ハ短調」。2015年の録音。
 ネゼ=セガンとモントリオール・メトロポリタン管弦楽団によるブルックナーの交響曲全曲録音の中の1枚。
 個人的に、ネゼ=セガンは、現代もっとも信頼のおけるブルックナー指揮者の一人であると考える。彼の録音はこれまでもいろいろと聴いてきたが、ブルックナーの音楽との相性がことさら良いように思う。
 この第2番では、一般的な1877年稿によっている。この楽曲で、ネゼ=セガンは、少し早めのテンポ設定を用い、楽曲の古典性に根差した解釈を聴かせる。交響曲第2番は、ブルックナーが遺した交響曲群の中で、もっとも古典的な構造を持っている。とはいえ、ブルックナーらしいスケールの大きさも併せ持っていて、その浪漫性を強調するようなアプローチも、もちろん有効だ。
 だが、ネゼ=セガンは、直截な表現方法を選択し、その選択の合理性を示すような、とてもフォルムの整った響きを繰り広げている。第1楽章では、いかにも弦楽器のために書かれたような優美な旋律を、柔らかな弾力を交えて表現し、クライマックスで刻まれる金管の付点の音型は、派手になり過ぎず、しかし存在感をもって、しっかりと鳴る。音響的にも、構造的にも無理なところのない合理性で、秩序だった美しさを端正に示している。
 第2楽章では、楽器の音色、特に木管楽器の音色に深い配慮を感じさせるが、もちろん、全体の気配りも併せ持っており、ネゼ=セガンとこのオーケストラが作り出す暖色系の音色が曲想を魅力的にハイライトする。第3楽章は楽章の性格もあって、メリハリのある演奏となるが、このとき若干弦楽器陣が粗めで、結果的に硬いサウンドが挿入されてしまう。意図してのものではないように思うので、その点は現時点におけるオケの力量的なマイナス点と感じる。
 第4楽章は、第1楽章同様、一貫性を大切にした演奏が繰り広げられる。熱血性よりもバランスを重視した表現だが、決して平板に陥ることのない構造美と歌があり、充実した時間を提供してくれる。
 指揮者、オーケストラともに、ブルックナーへの適性を実感させてくれる1枚となっている。

交響曲 第3番「ワーグナー」(1877年/ノヴァーク版)
ショルティ指揮 シカゴ交響楽団

レビュー日:2007.8.1
★★★★★ ブルックナーの新たな魅力に気付く演奏
 ショルティのブルックナーの交響曲全集の中でも、終盤に録音されたもの。1877年ノヴァーク版を用いているが、ショルティはあまり版や稿にこだわりはない感じだ。演奏は精緻そのもので、金管の朗々としたメタリックともいえる響きは、一般的な曲のイメージと異なるかもしれない。だが、その比類ないほどの均質で切り立った音は、音像の立体的な印象を獲得することに成功していて、優秀な録音とあいまってきわめて効果的なサウンドとなっている。とくに連続音の均質さ(それも無機的ではない響き)には一種の麻薬的な効果があり、聴いているうちにショルティの世界にぐいぐいと引き込まれていくような強い力を感じる。また例えば第2楽章の弦の細やかなコントロールは綿密に計算された様式美を示していて、これもまた大きな魅力である。
 全般に音色が明るく、力強いのもこの交響曲に合っていて、実はブルックナーの曲はけっこう明るく艶やかなところがあるのだ、ということに気付かせてくれる。
 ブルックナーの交響曲もまた、アプローチの方法によってさまざまな魅力を発する深さを持った真の芸術作品なのだということを、再認識させてくれる。名演。

交響曲 第3番「ワーグナー」(1873年第1稿と1889年第3稿 および1876年稿による第2楽章) 
ロジェストヴェンスキー指揮 ソヴィエト国立文化省交響楽団

レビュー日:2004.2.14
★★★★☆ 「ワーグナー交響曲」の全貌が明らかとなるアルバム
 タイトルは<ブルックナー 交響曲 第3番「ワーグナー」>であるが、内容は2枚のCDに1873年第1稿全曲と1889年第3稿全曲、および1876年稿による第2楽章が収録されているというマニア向け。
 ブルックナーの場合「稿」という重要な問題があることを再認識させられる。
 やはり聴き所は初稿以来カットされてしまった第2楽章後半の「タンホイザーのテーマ」の出現するシーン。そもそもこの曲が「ワーグナー交響曲」と呼ばれるのは、ブルックナーが作曲中の1873年夏、バイロイトにワーグナーを訪ね、この曲を献呈したことによる。この献呈稿である第1稿は、そうしたブルックナーの熱烈なワーグナー崇拝をよく示しており、数多くのワーグナーからの引用が見られる。このタンホイザーの出現は「第1稿でしか聴けない」身震いものの聴きどころなのだ。
 録音はメロディア系特有の残響でやや平板な印象を受けるが、オケもなかなかいい音を出す。金管の荘厳な鳴りっぷりも一聴の価値以上のものがある。

交響曲 第3番「ワーグナー」 (第1稿) 
ヤング指揮 ハンブルク・フィルハーモニー管弦楽団

レビュー日:2008.3.15
★★★★☆ ニュアンスの深い「初稿」による録音です
 1961年オーストラリアのシドニー出身のシモーネ・ヤング(Simone Young)はウィーンフィルを始めて振った女性指揮者として話題になったが、多くのジャンルでそうであるように、今の時代「性別」でどうこうという話題性自体にあまり意味がないだろう。むしろ数としてあまり多くないブルックナーの第3交響曲の初稿による録音として興味深い。
 ブルックナーの改訂癖は有名であり、一つの交響曲にも多くの版が存在する。第3番の場合、特に一般的知られる最終版と初稿の違いは大きく、インバルが始めて初稿によるレコーディングを行ったときはきわめてセンセーショナルであった。初稿の場合、曲自体が長大であり、しかもワーグナーからの引用がより明瞭に残っている面白みがあるが、例えば終楽章のあまりに多い全休符など処理の難しい面も多い。
 ヤングは楽器の音色の溶け合いに配慮を置き、かつクライマックスで大きな頂点を築くことで、楽曲の構成感を高めることに成功しており、オーケストラも好演である。テンポはややゆったりめで、特に2楽章の主題の扱いなど丁寧な上に美しく、瑞々しい感触に溢れている。ただ、私としては、全合奏のシーンなどで、もっと弦楽器のアクセントをはっきり出してほしい部分がある。これは好みの問題だと思う。ヤングの手法で行くなら、おそらくここで提示されている方がしっくりいくのかもしれない。いずれにせよ初稿による録音では、いままでこのようなニュアンスの深いものはなかったので歓迎される。
 ところで、この演奏の価値とは関係ないが、最近の流行からかブルックナーの演奏となると、なぜか「天国的」志向の演奏ばかり増える傾向にある。ヴァントあたりからだろうか?私としては、ショルティ、コンヴィチュニー、マタチッチといった人たちが築いた勇壮で、感性がキリッと出てくるような演奏を継ぐ「次世代」の登場を期待している。

交響曲 第3番「ワーグナー」
シャイー指揮 ベルリン放送交響楽団

レビュー日:2013.12.6
★★★★★ 終楽章の整ったフォルムが特に見事
 リッカルド・シャイー(Riccardo Chailly 1953-)指揮、ベルリン放送交響楽団による、ブルックナー(Josef Anton Bruckner 1824-1896)の “交響曲 第3番 ニ短調「ワーグナー」(1889年ノヴァーク版)” を収録。1985年の録音。
 シャイーは、1984年から1999年まで15年を費やし、コンセルトヘボウ管弦楽団とベルリン放送交響楽団(ドイツ・ベルリン管弦楽団)の2つのオーケストラを指揮して、ブルックナーの第0番も含む10曲の交響曲からなる全集を完成したのだが、当盤は、第7番に続く第2弾としてリリースされたもの。
 私は、最近になって、シャイーが録音したブルックナーの交響曲を一通り聴き直しているのだけれど、どれもとても良い。一つ一つの作品が入念に仕上げられていることは言うまでもないけれど、中期以降と傾向の異なる初期の作品も含めて、均質性があり、バランスが取れている。2つのオーケストラを用い、15年もの歳月をかけたにもかかわらず、最初から最後まで、いい意味で安定している。また全般に音質もすこぶる良い。
 第3交響曲は、好評だった第7交響曲の録音から1年後の録音である。おそらくこの時点から全集化を視野に含めていたのだろう。この後もおよそ1年~2年に1枚程度のペースで録音が継続されることになる。
 この録音で、シャイーはもっとも一般的な1889年ノヴァーク版を用いている。ちょっとここで「版」の話をしたい。ブルックナーの場合、ひとたび完成した楽曲であっても、作曲者自身、もしくは弟子たちによって何度も手が加えられた。そのため、結果的に同じ曲に多くの異なるスコアが遺されることとなった。そのような状況にあって、「作曲者の本来の意志」を推定した原典的なスコアの統一的完成を目指したのが、オーストリアの音楽学者ロベルト・ハース(Robert Haas 1886-1960)である。ハースの仕事はきわめて優れたものであったが、戦後、その研究がナチスの援助を受けていたため失脚し、ブルックナーに関する仕事も、「もう一息」というところで中座してしまった。ハースの校訂したスコアは「ハース版」と呼ばれるが、前述の理由で、第3交響曲(それと第0交響曲)には“ハース版”が存在しない。後年、ハースの仕事を改めたレオポルト・ノヴァーク(Leopold Nowak 1904-1991)によってまとめられたのがノヴァーク版である。
 ちなみに、第3交響曲には、ハースの意志を受け継いだとされるフリッツ・エーザー(Fritz Oeser 1911-1982)によるエーザー版が存在し、このエーザー版による録音もいくつかあるが、この交響曲に関しては、シャイーが採用したノヴァーク版が優れているように思う。
 さて、そんなシャイーの演奏であるが、優れて解析的でありながら音楽的であることが特筆できる。つまり、精度の高いコントロールにより、埋没する音のないクリアさを獲得することで、細かい音像の把握が可能でありながら、必要な箇所ではアンサンブルが重量感を持って強靭に響くため、迫力や情緒も無理なく自然に得られている。この美点は、このころのシャイーの録音全般に共通するところである。
 ベルリン放送交響楽団の演奏も素晴らしい。シャイーの全集では、1988年の2月までに録音された第7番、第3番、第1番、第0番がこのオーケストラで、1988年の12月以降に録音された残りの6曲がコンセルトヘボウ管弦楽団によるものとなるのだが、ベルリン放送交響楽団の音色と技術は、コンセルトヘボウ管弦楽団になんら遜色ないもので、木管の艶やかさにも不足はない。
 この第3交響曲で、もっとも高い成果が得られていると感じられるのは第4楽章だ。この楽章は、浪漫的で、構成が複雑なこともあり、演奏によっては妙にうるさい感じがしたり、聴いていて起伏の激しさに気後れしたりすることがあるのだけれど、シャイーの心地よいリードは、そのような不安とは無縁だ。この音楽が、これほど滑らかなフォルムを持って鳴るのかと、感心した。特にホルンの常に落ち着いた響きが、音楽を調和させる方向に的確に導いてくれる。もちろん、だからといって、ダイナミックな演出を失っているわけではない。そのような音楽的損失をほとんど感じさせずに、耳あたりの柔らかさを導いているところが、本盤の特徴なのだ。現代の感性と精度、それに録音技術がともなって、はじめて完成された、「録音芸術」の名にふさわしいものだ。

交響曲 第3番「ワーグナー」
ヤノフスキ指揮 スイス・ロマンド管弦楽団

レビュー日:2015.5.1
★★★★★ ブルックナーの第3交響曲、1889年稿の代表的録音と思います
 マレク・ヤノフスキ(Marek Janowski 1939-)指揮、スイス・ロマンド管弦楽団によるブルックナー・チクルスの第7弾で、交響曲 第3番 ニ短調「ワーグナー」。2011年の録音。1889年稿のノヴァーク版を使用。
 最近のこの曲の録音には、初稿や初期の改訂稿を取り上げたものに面白いものが多いと感じていたが、王道ともいえる1889年稿においては、今世紀の素晴らしい録音として、まずこの録音を挙げたいと思う。
 ヤノフスキのブルックナーはどれも素晴らしいと感じるが、中でもこの第3番は秀でていると思う。場合によっては混濁しかねないテクシュチュアを見事に解きほぐし、旋律の線的関係と音響の縦線の把握の双方が見事に機能し、どのような角度から見ても美しい整った仕上がりとなっている。
 この効果にはPentaToneレーベルの優れた録音技術が大いにものを言っている。ほぼ完ぺきと言える静寂を背景とした音の減衰の精密な再現には、「ここまで来たのか」という感慨を覚えるほどだ。
 テンポはオーソドックス。場所によってやや早めな印象。細部まで克明な描写で、くっきりした陰影を描きながら、金管、ティンパニの音色は深く柔らかい。第1楽章は十分に神秘的な雰囲気から開始され、最初のクライマックスからその音響の豊かさに感動させられる。屹立とした彫像性を持ちながら、柔らか味があり、暖かいのだ。この効果はしばしば木管のクローズアップによってもたらされる。ブルックナーの交響曲で、ソロ以外で、これほど木管の色が全体に影響するケースは多くはないだろう。第1楽章の終結部はダイナミックだが、決して猛々しく咆哮するわけではない。音響の内的充実と、各楽器のタイミングの厳密な一致により、驚くほどの効果が得られていると感じる。
 第2楽章の美しさも出色と言ってよい。弦のグラデーションが鮮やかであるだけでなく、オーケストラ全体の緊密な統率が、深々とした響きに結び付いている。
 後半2楽章はさらに素晴らしい。この後半2楽章に関しては、既存ディスクの中で最高と言っても良いように私には感じられる。第3楽章は先鋭なリズムを表出しながらも、豊かな内声部の掘り下げによって、幅の広い聴き味が得られる。と同時に、弦の輝きが鮮やかで、色彩も見事。決して華美ではないブルックナーらしい素朴さを保ちながらも、新鮮快活だ。
 終楽章も推進力があり、音楽の起伏も見事に描かれているが、外面的な締りが音楽的に見事なプロポーションを作っている。やや早めのテンポでありながら、情緒を減じることもなく、明朗な響きで、輝かしいフィナーレへと力強く道を切り開いていく。
 ブルックナーの第3交響曲は、稿によってスコアが大きく異なることもあって、好きな演奏を数えだすと、キリがないくらいになってしまうのだけれど、現時点で、私は、1889年稿に関しては、このヤノフスキ盤がいちばん好きだ。

交響曲 第3番「ワーグナー」
ヴァンスカ指揮 BBCスコティッシュ交響楽団

レビュー日:2015.11.24
★★★★☆ 第2楽章に別の稿をもちいて録音されたブルックナーの第3交響曲
 オスモ・ヴァンスカ(Osmo Vanska 1953-)指揮、BBCスコティッシュ交響楽団の演奏によるブルックナー(Josef Anton Bruckner 1824-1896)の「交響曲 第3番 ニ短調」。2000年の録音。
 当盤の特徴はスコアにある。ブルックナーは、自作の交響曲に、何度も手入れを行ったため、同じ楽曲に複数の稿が存在する。交響曲第3番の場合、改訂の規模が大きいため、どの稿を用いて演奏・録音するのかというのが、とても重要になる。まず、基本的に、以下の3つの稿が存在する。
 1873年 第1稿
 1877年 第2稿
 1889年 第3稿
 これら3つの稿は、それぞれノヴァーク(Leopold Nowak 1904-1991)によって編算されたスコアが存在しており、もっとも一般的に取り上げられるのは1889年稿である。その場合、「1889年 第3稿 ノヴァーク版」のように表記される。第2稿については、ノヴァークの他にエーザー(Fritz Oeser 1911-1982)が編算したものもある。第2稿ノヴァーク版とエーザー版はほとんど変わらない。
 さて、ここでヴァンスカが用いているスコアであるが、基本的には1877年の第2稿ノヴァーク版を使用しているのであるが、第2楽章のみ、ブルックナーが上記の3つの稿とは別に1876年に一旦まとめた第2楽章の異稿を用いているのである。
 この第2楽章は1873年第1稿のものにきわめて近い。第3交響曲は「ワーグナー」と呼ばれている。ブルックナーが、自作の第2、第3の交響曲のスコアを携えて尊敬するワーグナーを訪問した際、ワーグナーは自分の作品からの数々の引用がある第3交響曲を気に入り、ブルックナーの献呈の申し出を喜んで受け入れたという。しかし、その後、この交響曲が長らく演奏されてきたのは、その「引用」の薄められた第3稿によってである。だから、第1稿がインバル(Eliahu Inbal 1936-)によって、1982年に初めて録音されたときは、ずいぶん衝撃的だったらしい。
 話を戻すと、当盤で採用された1876年稿の第2楽章は、この第1稿の姿をほぼとどめていて、その20分を越える第2楽章の後半では、壮麗なタンホイザーの主題が音の伽藍を築き上げるのである。
 私も、この演奏を聴いて、なるほど、稿という括りに拘泥せず、楽章によっては別の稿を繋ぎ合わせるという方法論はなかなか面白いな、と納得させられた。
 演奏はオーケストラをフルスペックで鳴らし切った悠然たるもの。フォルテは鋭い。終楽章の早いテンポで引き締まったシャープな輪郭が見事。第2楽章は、この稿を選んだという思い入れ豊かにタンホイザーを響かせる。また、弦を両翼配置にしていることで、2つのヴァイオリン陣の応答が、通常のものより左右やや広角に響く。
 ブルックナーの交響曲を聴く楽しみの裾野を広げてくれる一枚だ。

ブルックナー 交響曲 第3番「ワーグナー」  ワーグナー タンホイザー序曲
ネルソンス指揮 ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団

レビュー日:2017.6.20
★★★★☆ 合奏音の美しさは見事だが、全曲的な劇性の点で、物足りなさを感じる録音
 2017年からライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の楽長(カペルマイスター)に就任したラトビアの指揮者、アンドリス・ネルソンス(Andris Nelsons 1978-)による注目の録音。2016年のライヴ録音で、以下の2曲を収録している。
1) ブルックナー(Anton Bruckner 1824-1896) 交響曲 第3番 ニ短調「ワーグナー」 (1889年第3稿 ノヴァーク版)
2) ワーグナー(Richard Wagner 1813-1883) 歌劇「タンホイザー」序曲
 意欲的な名曲の組み合わせである。
 作曲家として無名だったブルックナーは交響曲第2番と第3番の書きかけのスコアを持って、敬愛してやまないワーグナーの元を訪問する機会を得る。ワーグナーはそのスコアを見るや、そこに偉大な才能を認め、とくに自身の作品から多くの引用があった第3交響曲の献呈を「喜んで受ける」こととした。この交響曲が「ワーグナー」と呼ばれる所以である。当時作曲家としてまったく知られていないブルックナーの才を、スコアをちょっと見ただけで見抜いたワーグナーの力量には感服するほかない。この交響曲の初演は散々な失敗に終わるのだが、その初演の席で最後まで残り、その音楽の偉大さを見抜き畏怖したのがまだ十代だったマーラー(Gustav Mahler 1860-1911)であったことと併せて、天才たちによる、見えるもの、聴こえるもの、認知するものの深さは、凡人のそれから大きく隔絶していることを思い知る。
 それで、このブルックナーの第3交響曲の第2楽章には、初稿の時点で、壮大な「タンホイザー」の引用があったのだ。その一番劇的な引用は、当盤に収録された第3稿では削られてしまったのだけれど、前述のような作曲時の経緯も含めて、当盤の2曲の組み合わせというのは、聴き手にはとても良いサービスなのである。実際に通して聴いてみると、両曲の間に、様々に印象に似通うところを発見することが出来るのである。
 さて、演奏について書くが、これが実はちょっと悩ましい。良いところと疑問点があり、相殺するとどちらに傾くか、自分でも判断しきれていない。良いところは、まず音の作りが丁寧なことに尽きる。どこの場面でも、入念に仕上げられたサウンドで、合奏音も美しい。音楽は全般になめらかに進むが、クライマックスの手前で適度なブレーキがかかり、スケールの大きな表現を導くのは、かつての巨匠的なものを彷彿とさせる。特にブルックナーの第2楽章の美しさ、その弦楽合奏の豊かなソノリティに満たされる部分は、隅々まで行き届いた完成された音響を実感させてくれる。
 にもかかわらず、前述のようにこの演奏に私は疑問点を併せ持つ。印象を簡単に行ってしまうと、これらの音楽から、ソウルフルなものがどうもよく伝わってこないのである。これは、もちろん私の主観の問題かもしれないのだけれど、その原因というものを考えてみると、以下に思い当たった。
 ブルックナーにしろ、ワーグナーにしろ、曲の中でいろいろとテンポが変化する。ネルソンスはそこでも一種の礼儀正しさを感じさせる周到な方法でソツなくこれをこなして進んでいくのだけれど、それにともなったアーティキュレーションの変化がなく、フレーズがいつも同じような感じで、のぺっとした印象になるのである。テンポが変わるということは、ある程度、曲想や趣きが、それにつれて変化するものなのだけれど、ネルソンスの演奏では、その様な「テンポに付属的な変化」が極端に少なく感じるのである。その結果、劇性の乏しさが生じる。例えば、ブルックナーの交響曲で印象的な全休符も、なんだか、いつの間にか通り過ぎてしまっている感じになってしまう。聴いていて、きれいだけれど、今どこに向かっているのか、不明な感じをも覚えてしまう。
 ネルソンスはブルックナーの音楽の宗教性や祈りの部分について言及していたという。確かに第2楽章の暖かい美しさには、やわらかな日差しの差し込む宗教的空間で過ぎる祈りの時間を感じさせる。しかし、それ以外の全体を突き動かすドラマに、もう一つ消化しきれないものを感じた。
 当盤をかわきりに、ブルックナーは全集化が企画されていると言う。個人的には、是非ともさらに踏み込んだ表現に歩みを進めてほしいと感じる。なお、当録音は、ライヴ収録時の何らかの条件のためか、ティンパニがかなりドロドロと低く響く感じです。参考までに。

交響曲 第3番「ワーグナー」(1890年第3稿シャルク版)
シャラー指揮 フィルハーモニー・フェスティヴァ

レビュー日:2018.5.7
★★★★★ 豊かな残響のある演奏会場で、ブルックナーのオルガン的オーケストラ・サウンドを存分に引き出した演奏
 ゲルト・シャラー(Gerd Schaller 1965-)指揮、フィルハーモニー・フェスティヴァによるブルックナー(Anton Bruckner 1824-1896)の「交響曲 第3番 ニ短調 (1890年シャルク版)」、2017年、エーブラハ大修道院付属教会でライヴ収録されたもの。
 現代を代表するブルックナー指揮者、シャラーによるフィルハーモニー・フェスティヴァとのブルックナー・シリーズは、すでにいくつかの交響曲については異版による複数の音源も含めて、ProfilからBox-setがリリースされていることから、すでに完結したものと考えていたが、その後、当録音が新しいものとしてリリースされた。
 シャラーは、さきのシリーズでは、ブルックナーの第3交響曲を「第1稿(1874年稿 キャラガン校訂版)」により録音している。そこで、簡単に、この交響曲における稿の問題を整理しておこう。基本的に以下の3つの稿が存在する。
1) 第1稿(1873年稿)
2) 第2稿(1877/78年稿)
3) 第3稿(1888/89年稿)
 現代ではいずれの稿においても、ノヴァーク(Leopold Nowak 1904-1991)が校訂したスコアが用いられることが多い。他のブルックナーの楽曲に校訂おいて、ノヴァークとともに重視される仕事をしたハース(Robert Haas 1886-1960)は、この曲に関しては校訂を完遂できなかった。その意志を継いだエーザー(Fritz Oeser 1911-1982)は、第2稿のみ校訂譜を完成しており、これもしばしば用いられる。
 ここで、シャラーが用いている「シャルク版」は、かつて「改訂版」と呼ばれたものである。シャルク(Franz Schalk 1863-1931)はブルックナーの弟子の音楽家の一人で、師であるブルックナーの作品を世間に敷衍させるために、その作品に手を加えたことで知られる。特に第5交響曲では、作曲者の意志に反する形で、楽曲のあちこちを削るという大ナタをふるっており、当時のシャルクの意志はおいておくとしても、現在では、シャルク版のスコアに固有の芸術的な価値が認められているとはお世辞にも言い難い。
 そのようなイメージのため、「シャルク版」と書いてあると、それだけでマイナスな印象を持たれるかもしれないが、こと第3交響曲については、ブルックナー自身が1889年にまとめたスコア(ノヴァーク版)とシャルク版の違いは、ごくわずかなものでしかない。全4楽章とも小節数が一緒だし、加えられた変更も軽微なものであるため、聴いていて「違い」に気づく人は、ほとんどいないといって良いだろう。というより、かつてあった高名な録音の多くが、「改訂版」により行われてきた当曲において、あえて「シャルク版」を表示する意味は、「シャラーが先に録音したものは第1稿で、今回は第3稿による録音です」というだけのこと、というご理解でほぼ問題ないでしょう。
 それで、今回の録音である。
 演奏は、いつもの彼らならではのもの。すなわち、エーブラハ大修道院付属教会のたっぷりした残響から逆算した演奏表現を徹底し、この作曲家の重要な特性である「オルガン的なサウンド」を存分に引き出したものと言える。特にシンフォニックで、大きな音を必要とした部分で、総体としてオルガン的なサウンドを獲得するとともに、併せて細やかなモチーフをそこに埋没させない細心の配慮はよく働いていて、指揮者、オーケストラともに、知り尽くした方法で再現を行っている。それは安定感として実感される要素だ。第2楽章は十分な広がりの感じられるサウンドで、ゆったりと流れる音楽として仕上げている。やや中間音の薄いところがあるが、その結果として、透過性の高さが獲得されている。その結果、誘因される不思議な神々しさが魅力的だ。第3楽章は粗さと柔らかみの中和がほどよくて聴きやすい。第4楽章はなかなかアプローチの難しい音楽だと思うが、シャラーの演奏は、厳粛さと陽気にはしゃぐ様の双方をバランスよくそれぞれの位置に落ち着けてゆく。先に書いた残響効果のため、速度の変化の範囲にある程度の抑制が感じられるが、そのことが凡庸さではなく、ブルックナーの音楽の在り方に接近する感覚を持つ。アプローチそのものが、楽曲のステイタスと精神的な親近性を持っている、というところだろうか。
 総じて、いつもの彼らの、堅実で、ホールトーンを存分に意識させてくれるブルックナーとなっている。なによりオルガン・サウンドを堪能させてくれるという点で、シャラーのブルックナーには、特徴的な価値があり、聴き逃したくない。

交響曲 第3番「ワーグナー」(第1稿)
ネゼ=セガン指揮 ドレスデン・シュターツカペレ

レビュー日:2019.11.25
★★★★☆ 演奏は最高。仕様が台無し。
 ヤニック・ネゼ=セガン(Yannick Nezet-Seguin 1975-)指揮、シュターツカペレ・ドレスデンによるブルックナー(Anton Bruckner 1824-1896)の「交響曲 第3番 ニ短調」。1873年の初稿を用いた演奏で、2008年のライヴ録音。
 ネゼ=セガンの録音をいろいろ聴いてきたが、私が特に感心するのはブルックナーの演奏。この録音も、33歳という若き指揮者でありながら、この伝統あるオーケストラから、実に素晴らしい深いコクのある響きを引き出している。古今の名演奏にまったくヒケをとらない、素晴らしい演奏だ。
 スコアは「初稿」を用いている。この楽曲の場合、一番一般的なのは、1889年の改訂に基づく第3稿で、過去の名演の多くは第3稿によっている。しかし、最近になって、「初稿」を用いた演奏、録音が増える傾向にある。
 楽曲としてまとまりが良く、古典的な造形性に優れているのは、疑いなく第3稿であろう。調整されたフォルムは、もともとの楽曲が持っていた凹凸や冗長性を抑制し、均衡性に基づく美観を獲得した。ただ、その一方で、初稿特有の霊感、特にワーグナーの引用や、浪漫性溢れる間合いが影を潜めた。
 最近では、その初稿特有のオリジナリティーに注目し、その音楽的価値を再言及するような試みが多くなったと感じる。もちろん、何度も演奏されてきた第3稿より、初稿に「新鮮味」がある、という単純な意味合いもあるだろう。
 しかし、そのような前提はさておいて、この演奏は素晴らしといってよいだろう。ネゼ=セガンの作り出すテンポ、それは現代の感覚で言えば、かなりゆったりしたものであるのだが、そのテンポであることの必然性を感じさせる周到な音作りが行われている。残響時間も計算に入れた伸びやかな弦、クライマックスの合奏音のブレンド感、そして、ブルックナーに特有な全休符。これらが、深い息遣いを感じさせる真剣さをもって、音楽は悠然かつ決然と進んでいく。
 ネゼ=セガンのブルックナーは、息遣いの深さと大きさを感じさせるが、そのスタイルで描かれるクレッシェンドは、スケールが大きく、クライマックスは神秘的な色合いが濃くなる。そして、私に、ブルックナーという作曲家が持つ浪漫性を脈々と伝えてくれる。ワーグナーからの引用は、第1楽章そして特に有名な第2楽章とも、壮大な気高さをもって表現される。ドレスデンがまた最高の音を出す。ふところの深い弦、透明な木管、暖かくやわらかな金管、それらの合奏音の複層的な色味。見事の一語。
 終楽章は初稿の浪漫性と冗長性が特に強く感じられる個所であるが、ネゼ=セガンとシュターツカペレ・ドレスデンが作り出す音響は、天国的と称したい美しさで、その音楽に欠陥があり、改訂されたという経緯を忘れさせてくれる。投稿日現在で、この曲の初稿による演奏として、当盤を最高のものと考えたい。
 だが、しかし、それなのに、何故星5つではなく星4つの評価なのか?それは、このアイテムを商品とみなしたとき、決定的な欠点がある。CD1枚にもかかわらず、なんとCD4枚が梱包できる大型ダブルサイズの収納なのだ。これは、コレクターにとって実に不利な条件で、私がこの仕様を見た時の落胆は、ちょっと言葉では言い表せない。なんという無駄なスペース潰し!確かにブックレットはちょっと厚めだけど・・・
 というわけで、商品としての総合評価は、どうしても星5つとはできません。残念!

交響曲 第3番「ワーグナー」(第1稿)
ネゼ=セガン指揮 モントリオール・メトロポリタン管弦楽団

レビュー日:2020.3.11
★★★★★ ブルックナー「第3交響曲」; 初稿演奏の第一人者と称したいネゼ=セガンの名演
 ネゼ=セガン(Yannick Nezet-Seguin 1975-)指揮、モントリオール・メトロポリタン管弦楽団による、ブルックナー(Anton Bruckner 1824-1896)の「交響曲 第3番 ニ短調」。1873年の初稿を用いた演奏で、2014年のライヴ録音。
 ネゼ=セガンは、当録音の前に、シュターツカペレ・ドレスデンを指揮して、当曲(そちらも初稿を採用)をライヴ収録している。これが実に素晴らしい録音で、私はとても気に入っていた。
 その後に、6年後のものとなる当録音を聴くこととなった。ドレスデンとの録音時33歳だったネゼ=セガンは、39歳となったことになる。
 これまた素晴らしい演奏だ。私はブルックナーの第3交響曲が大好きで、これまで実に多くの録音を聴いていたのだけれど、こと初稿の解釈者として、ネゼ=セガンは歴代最高と言っても良いぐらいの素晴らしい感性を持っていると思う。それと、当録音は2011年に完成したメゾン・サンフォニックで収録されているそうだが、ふくよかな奥行を感じさせるホールトーンはブルックナー演奏に理想的といって良いものだろう。
 さて、演奏内容であるが、先に録音されたシュターツカペレ・ドレスデンとの録音と比べて、大きく異なるのは1点で、それはテンポである。先の録音では、かなりゆったりした深い呼吸を感じさせるもので、大きな振幅から深い神秘性を感じさせた。それが、当録音ではわりと一般的なテンポになっている。具体的に言うと、シュターツカペレ・ドレスデンとの録音では、全曲の演奏時間が72分に達したのに対し、当録音は65分程度に収まっている。テンポの違いは特に第2楽章で顕著で、この楽章だけで、3分短縮している。
 しかし、演奏の特徴や、全体から受ける感動の大きさは、大きく変わっていない。悠然とした歩み、管弦楽の巧妙なブレンドかもたらす合奏音の含みの豊かさ。強音であっても咆哮しない高貴さ、そのような要素が合わさって力強く、暖かく、弛緩のない音楽が、伸びやかに展開している。
 感心するのは、金管群と弦楽器群の呼応の見事さにある。バランスが良いのは当然として、フレーズの活かし方が巧妙で、基本的にインテンポなスタイルでありながら、感情的な働きかけに不足を感じさせない。浪漫的で全休符の多い第4楽章は初稿の難所に違いないが、この稿特有の散漫さをまったく感じさせず、むしろ締まった古典的造形性を感じさせる響きに満ちている。このオーケストラの力量を知る瞬間だ。
 第2楽章は、ドレスデンとの録音と比較すると、早いテンポを採用しているが、スケールの大きさは維持されており、初稿の聴かせどころであるタンホイザーの引用も、音楽的な必然性をともなって奏でられ、とてもおさまりが良い。
 当録音、それとドレスデンとの録音の二つをもって、第3交響曲の初稿による演奏における「第一人者」として、ネゼ=セガンの名を刻みたい。

交響曲 第3番「ワーグナー」(マルテ版)
マルテ指揮 ヨーロピアン・フィルハーモニー管弦楽団

レビュー日:2021.5.21
★★★★☆ マニアの底力!私版オリジナル・スコアで演奏・録音されたブルックナーの第3交響曲
 世に名曲と知られる交響曲をいくつも遺したブルックナー(Anton Bruckner 1824-1896)であるが、彼の交響曲の録音には、しばしば珍盤と呼ぶにふさわしいものが登場する。というのは、ブルックナー・ファンには有名なことだが、これほどの名曲を書き残したにもかかわらず、ブルックナー氏は自分の作品に自信が持てず、一度書き上げた作品を書きなおしたり、何年も前に完成していた作品を引っ張り出してきては、また修正を加えたりということを生涯かけてやってきたので、同じ楽曲であっても、様々なスコアがあることがザラだからだ。それに加えて、彼の作品を世に送り出そうとした彼の弟子たちや、後世の指揮者たちが、それに自分なりの解釈やアレンジを加えたりしたものだから、一つの曲に何通りものスコアが存在し、そのうちレアなものについては、ファンが「希少価値」を見出すという仕組みができているからだ。
 そもそも、ブルックナーの交響曲、私も大好きなのであるが、そこには特有の冗長さと浪漫性があって、それゆえにどこか手を加えたくなるアマチュアリズム的要素とでも言うものがあるのである。そういう意味で、とても不思議な存在感のある音楽。
 そして、当盤こそは、超ブルックナー・マニアが、自ら大々的なアレンジを施して、楽曲演奏を行った実績を記録したものにほかならない。
 当事者はオーストリアの指揮者兼作曲家であるペーター・ヤン・マルテ(Peter Jan Marthe)。ブルックナーの「交響曲 第3番 ニ短調」を、様々なスコアを繋ぎ合わせ、自らアレンジを加えた「マルテ版」なるスコアにより、披露している。演奏は、ヨーロピアン・フィルハーモニック管弦楽団。2005年のライヴ録音だ。
 ブルックナーの交響曲第3番には、大きくわけて3つの稿が存在する。初稿(1873年or1874年稿)、第2稿(1877年or1878年稿)、第3稿(1889年稿or1890年稿)である。また、それぞれの稿には、校訂者によって、さらに複数の版が存在しているのだが、マルテは、大別された3つの稿のうち、第3稿をベースとしながらも、そこに初稿や第2稿の「お気に入りの個所」を加え、その橋渡し部分等に加筆することで、オリジナルの版を生み出している。加えて、どの稿でも、第2楽章がアダージョ、第3楽章がスケルツォであるにも関わらず、この中間の2つの楽章の順番を「入れ替えて」いる。これは、おそらくブルックナーの最後の2つの名曲への見立てにより行われたのではないだろうか。
 結果として生まれたスコアは、なかなか聴き味が派手である。3つの稿それぞれにあるクライマックスを、できるだけ余さず盛り込んだのだから、その響きは豪壮なのである。アダージョでは、もちろんタンホイザーが鳴り響く。だが、その作業は、思いのほか違和感のない成果となっており、面白い。これは前述の通り、ブルックナーの交響曲が、そもそも「そういったもの」を飲み込む包容力を持っているからに他ならないためだろう。ちなみに各楽章の演奏時間は、第1楽章が27:58、第2楽章(スケルツォ)が12:08、第3楽章(アダージョ)が27:00、第4楽章が20:33となり、総計1時間27分超、第8交響曲もびっくりのCD2枚を要する巨大交響曲が姿をあらわしている。
 テンポは全般にスロー。特に第1楽章は遅い。マルテがチェリビダッケ(Sergiu Celibidache 1912-1996)に師事していたことを彷彿とさせる。そして、巨大なクライマックス目掛けて悠然と盛り上がる。金管だけでなく、ところどころで、ティンパニが豪快に鳴るのも凄い。ヨーロッパじゅうの有望若手奏者が集まっているというオーケストラの能力も高く、マルテの巨大嗜好を高みへと誘っている。
 とにもかくにも、「どうせならこれくらいやってほしい」というファンのマックス値の要望をすべて実現したかのようなブルックナーの第3になっており、マニア道を究めた感がある。同好の趣味人を自覚する人なら、おそらく共鳴するものがあるはずだ。無限定に勧めるわけではないが、興味があるなら、一聴して、損はありませんよ。

交響曲 第3番「ワーグナー」 第4番「ロマンティック」
ヤンソンス指揮 コンセルトヘボウ管弦楽団

レビュー日:2010.11.9
★★★★☆ 現代ブルックナー演奏の主流でしょうね(2010年現在)
 ヤンソンス指揮コンセルトヘボウ管弦楽団によるライヴ音源を精力的にリリースしている自主制作レーベルRCOから、ブルックナーの交響曲第3番「ワーグナー」と第4番「ロマンティック」をまとめたアルバム。録音は2008年。
 マリス・ヤンソンス(Mariss Janssons)のブルックナー録音というのはそう多くはない。幅広いレパートリーを持つヤンソンスだけれど、ドイツ・オーストリアものの大本線的な楽曲には意外と録音が少ないので、いざ録音したとなると、それはそれで興味が沸いてくる。しかもブルックナーの名曲を2曲同時に収録だから、聴きたくなって購入してみた。
 印象としては、いわゆる最近のブルックナーだな、という感が強い。それでは最近のブルックナーとは?これは私の感じ方で、似たようなことを別のところにも書いた気がするけれど、美しいソフトなブルックナーである。これが最近の主流だと思う。この傾向が強くなったのは、私の認識ではギュンター・ヴァントがベルリンフィルとブルックナーの交響曲を録音していたころで、もちろんそれらがその代表格的演奏である。ブルックナーの交響曲はときおり「天国的」と形容される。息の長いフレーズ、オルガンを思わせるオーケストラ・サウンド、荘厳なアダージョ、鳴り渡るホルン、そういった要因が複合的に作用して、いつのまにかそんな形容が定着したのだろう。
 加えてそういったブルックナーが積極的に受け入れられたため、ブルックナーの「規範演奏」のような概念が醸成された。それで、ヤンソンスもその中にあると思う。
 例えば第4交響曲の冒頭、ホルンの音色は柔らかく、一生懸命に厳かに吹かれる。そのあとの全合奏によるブルックナー・リズムの拡張も、フォルテの凄みはややセーヴされ、格調を維持することに注意が払われている。これはこの部分だけでなく、このたびの2曲を通じて明瞭な特徴だと思う。そのため、(私には)美しいには美しいのだが、どこかもう少し「言い足りない」ものがある様な気持ちが残ってしまう。
 もちろん、ブルックナーの交響曲に求めるものは人によって、もしくは気分によって様々に変わるので、ヤンソンスのブルックナーも良い演奏であることは、そうなのだと思う。特に第3番の第3楽章、シンフォニックなフォルムで音像が迫るシーンなど実に見事だと感じられた。その一方で、両曲の両端楽章などは、もっと野趣性のような荒さを表現する部分があった方が個人的には好きである。ともあれ、現代のブルックナー演奏の立派な主流であることは間違いないと思う。

交響曲 第3番「ワーグナー」 第4番「ロマンティック」 第5番 第6番 第7番 第8番 第9番
ドホナーニ指揮 クリーヴランド管弦楽団

レビュー日:2015.12.6
★★★★★ 是非とも入手すべきBox-setです。
 世の中には不遇の存在というものがある。私は日本のクラシック情報誌であるレコード芸術という雑誌を毎回購入しているのだけれど、その2015年9月号で、30人の音楽評論家がそれぞれ10人現代を代表する指揮者を選ぶという企画があった。それを見ていろいろ私と意見が違うな、と感じた。それはそれでいいのだけれど、それにしてもクリストフ・フォン・ドホナーニ(Christoph von Dohnanyi 1929-)の名を挙げた評論家が一人もいないということに驚いた。彼は、もちろん今なお現役で、フィルハーモニア管弦楽団という超一流オーケストラの終身名誉指揮者であり、北ドイツ放送交響楽団の首席指揮者でもある人物で、言うまでもなく、英デッカという大手レーベルから数多くのすぐれた録音をリリースした人物でもある。
 私であれば、早くから、オーケストラの機能性に基づいて、合理的な音響を追及し磨き上げたドホナーニという偉人を外すというのは、ちょっと考えにくいのだけど。
 しかしながら、ドホナーニに対する世の評価はあまり芳しいとは言えず、彼の録音も多くが廃盤のまま再発売されることがなかった。
 ところが、このたびタワーレコードがユニバーサルレコードに働きかける形で、彼のブルックナー全7曲の録音が廉価Box-setとなって復刻したのである。私はこの報に接し、自分と同様にドホナーニのブルックナーを評価する人々がいたことを知り、とても嬉しく思った。と、同時に、自分がそこそこのお金をかけて集めたこれらの録音を、このような廉価でまとめて買える人たちのことをうらやましくも思った次第。収録内容は以下の通り。
【CD1,2】
1) 交響曲 第3番 ニ短調「ワーグナー」(1877年稿 エーザー版) 1993年録音
2) 交響曲 第8番 ハ短調(1890年稿 ハース版) 1994年録音
【CD3】
3) 交響曲 第4番 変ホ長調「ロマンティック」 (1878/80年稿 ハース版) 1989年録音
【CD4】
4) 交響曲 第5番 変ロ長調(ノーヴァク版) 1991年録音
【CD5】
5) 交響曲 第6番 イ長調(ノーヴァク版) 1993年録音
6) バッハ(Johann Sebastian Bach 1685-1750)/ヴェーベルン(Anton Webern 1883-1945)編 「音楽の捧げもの」から6声のリチェルカーレ 1993年録音
【CD6】
7) 交響曲 第7番 ホ長調(ノーヴァク版) 1990年録音
【CD7】
8) 交響曲 第9番 ニ短調 1988年録音
 オリジナルのままの形であり、交響曲第6番に併録されていたバッハ/ヴェーベルンの一篇も除かずに収録されていることがうれしい。思えば、同じ復刻シリーズで、ドホナーニのモーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)も同程度に良い内容のものだった。タワーレコードの復刻企画は、本当にリスナーの気持ちに通じたものだと感心する。
 ドホナーニの演奏には非常にクールで分析的な視点がある。これが基本であるが、各楽器の音色については非常に輝かしいほどの練り上げを求めていて、それが光彩陸離たる明朗なイメージとなって響く。彼が録音した一連のモーツァルトなど、燦然たるという形容詞がふさわしいし、一方でマーラー(Gustav Mahler 1860-1911)のような情念のある音楽の場合、適度なスリム化の効果があり、響きが明瞭になる点が好ましい。
 彼のスタイルは(少なくとも日本では)ブルックナーの音楽にそぐわないという印象で受け入れられることが多かった。しかし、私はドホナーニの演奏スタイルは、非常にオーソドックスな通力を備えたもので、そのためむしろブルックナーの純朴な一面が、素直に表現されるような好ましさを感じる。金管の響きは、金属的な光沢があるが、その合奏音の階層的な響きの印象は、音の立体的な彫像性を確保し、音楽を古典的に構成する要素となる。
 例えば第3番の後半2楽章であるが、ワーグナー(Richard Wagner 1813-1883)の引用がこれほどわかりやすい演奏というのも、なかなかないのではないか。前述の効果で、聴き手からの「音の見通し」が良くなっているためだ。それもあって、トリスタンの引用の残るエーザー版を取り上げたのではないか、と考えたくなるような気持にさえさせてくれる。これは私には魅力的な効果である。
 第8番も「死の予告」と表現された第1楽章のフィナーレ、それはまるでマーラーのような内因的表題性であるが、これをドホナーニは実に余計な感情を交えないような、オーケストラの機能性で押し通した演奏効果を実現している。第2楽章などそれが逆に単調さにつながる部分もあるが、アダージョの潤いに満ちた美観はまさに「拾い物」の幸運で、こんなところで(と言っては失礼だが)、まるで蒸留されたかのような美観をたたえたブル8のアダージョにお目にかかれるなんて!といった感動を覚えさせてくれた。
 第6番は精緻なインテンポによる設計とあっけらかんとした音色の明るさが特徴。そもそも、初期ロマン派であるブルックナーの音楽は、信仰心の反映はあるが、基本的には標題性があるというわけではなく、純朴な調和を目指して、対位法を展開させた音楽である。なので、ことさら情念を宿す音楽表現を求めるものではないとは思うが、中でもドホナーニのまっすぐな明朗性は微笑ましさを感じるほどに音楽の成り立ちに即したものだと思う。ドホナーニのタクトは明瞭な音響の分離性を確保していて、音の立ち上がりが鮮明で、その結果、立体的な音響効果を感じやすい音色が導かれる。以上の特徴を持って奏でられたブルックナーは、明るくもくっきりした色彩感を帯び、古典的な構築性を引き締めたシャープな印象になる。当演奏は、かつての大家による演奏と比べて、しばしばブルックナーらしくないと形容されるタイプのものなのかもしれないが、しかし、その「ブルックナーらしさ」とは何なのか、と考えたときに、前述の古典的な外因性の音楽の側面が強いことや、宗教的な背景を持った音楽であるというブルックナーの音楽の特徴を踏まえたとき、むしろこのドホナーニの演奏は、一定の的を得た解釈のように感じる。中でも第2楽章の淡々としながら、しかし管弦楽の鳴り切った牧歌的な情感は、溢れるほどの叙情の表出にまで繋がっており、この方法論による最大の成果が得られた瞬間のように感じられる。全般にブラスの響きの絶対的な美観も素晴らしい。
 第7番も録音の秀逸さと相まって、まったく曇りのない澄み切ったサウンドに満ちている。冒頭の低弦の響きは、ゆったり歌わせるというよりは、感性に即した前進性を感じるが、この旋律はそれでも透明な情感を宿し、情緒をたちまち昇華するように高まらせてくれる。頂点で鳴り響く金管は明朗で大地を照らすように反射する。敬愛するワーグナーの死を悼んで書かれた有名な第2楽章は、透明なソノリティゆえの陽射しを感じ、その印象は「暖かさ」として聴き手に伝えられる。人によっては、ブラスの響きにもう少し情感があった方がいいと感じるかもしれないが、決して無機的な響きというわけでなく、精度の高い安定した音だと思う。後半の2つの楽章はやや速めのテンポで颯爽としたスタイリッシュな響き。この曲の場合、浪漫的な終楽章をどうまとめるのかが唯一難しいところだと思うけれど、ドホナーニの引き締まった表現は良い方向に作用している。
 第9番の特徴は音質の軽さに現れる。これは決して悪い意味ではない。非常にリズミックで、弾力のある音色。例えば第1楽章冒頭。弦のトレモロから開始される荘厳な音楽・・・であるけれど、ドホナーニの演奏の場合、妙にクッションが効いていて、最初の金管の付点のリズムなんて跳ねるような動感がある。普通の演奏だと、ここはぐっと何かを溜めるような、エネルギーを充填する部分なのだけど、ドホナーニは最初からあっけらかんと開放していて、早いテンポであっさり最初のクライマックスに達する。このクライマックスだって面白い。速くて透明な音色。きっと、他の録音に馴染んできた人には、なんだか肌合いの違う音楽と接しているような、そんな違和感をもたらすと思う。その後も同様の手法は継続され、見通しの良いクリアなブルックナーが奏でられる。不思議なのは、最初感じた違和感が聴いているうちに「こういうのも全然アリだな」と思ってくること。そのうち聴き馴染んでくるのである。第2楽章は機能美で押し通した感があるが、オーケストラの技術が見事で、ダイナミックな聴き味も存分にある。
 いずれにしても、ドホナーニの鋭い感性が、いち早く切り開いた現代的な(と形容して間違っていないと思う)ブルックナーであり、その美しい記録がこのようなBox-setで復刻されることは、音楽ファンにとって福音であるに違いない。限定盤であることからも、是非、入手をオススメしたい。

交響曲 第3番「ワーグナー」 第8番
ドホナーニ指揮 クリーヴランド管弦楽団

レビュー日:2012.10.23
★★★★★ ドホナーニによるブルックナー、全録音を聴き終えて
 クリストフ・フォン・ドホナーニ(Christoph von Dohnanyi 1929-)指揮クリーヴランド管弦楽団によるブルックナー(Josef Anton Bruckner 1824-1896)の交響曲第3番「ワーグナー」と第8番を収録。第3番は1993年、第8番は1994年の録音。第3番はエーザー版、第8番はハース版を使用している。私は、エーザー版の第3番の録音というと、クーベリック(Rafael Kubelik 1914-1996)やハイティンク(Bernard Haitink 1929-)のものを聴いたことがあるとはいうものの、当版は、この曲の主流とはまったく言い難いだろう。ブルックナーの交響曲の中でも、第3番は同じ最終稿であっても版の間の差異が大きく、その上、同じエーザー版によるクーベリックとハイティンクでも、スケルツォなど明確なスコアの違いがあり、第3番という音楽の難解な要素になるかもしれない。おそらく○○版と謳った場合でも指揮者によっては、部分的に別の版を借用することなど、しばしばあるようである。ちなみに現代では第3番は「ノヴァーク版第3稿」が明らかな主流として定着しており、次いで荒々しい初稿も取り上げられたりするが、中間に位置するエーザー版はあまり取り上げられる機会はないだろう。以上をまずは注意点として指摘しておく。
 版の話はおいておいて、ドホナーニはクリーヴランド管弦楽団を指揮して、ブルックナーの交響曲の第3番から第9番までの7曲をDECCAレーベルに録音した。2012年現在ではすべてが廃盤になって久しいが、私は入手し損ねていたものを、中古で買っていく形で、全7曲を揃えることができた。実際、私にとってドホナーニという指揮者は魅力的な指揮者である。ちょっと他の指揮者からは得られないような、特有の響きを聞かせてくれることがある。
 ドホナーニの演奏には非常にクールで分析的な視点がある。これが基本であるが、各楽器の音色については非常に輝かしいほどの練り上げを求めていて、それが光彩陸離たる明朗なイメージとなって響く。彼が録音した一連のモーツァルトなど、燦然たるという形容詞がふさわしいし、一方でマーラーのような情念のある音楽の場合、適度なスリム化の効果があり、響きが明瞭になる点が好ましい。
 一方で、彼のスタイルは(少なくとも日本では)ブルックナーの音楽にそぐわないという印象で受け入れられることが多かった。しかし、私はドホナーニの演奏スタイルは、非常にオーソドックスな通力を備えたもので、そのためむしろブルックナーの純朴な一面が、素直に表現されるような好ましさを感じる。金管の響きは、金属的な光沢があるが、その合奏音の階層的な響きの印象は、音の立体的な彫像性を確保し、音楽を古典的に構成する要素となる。例えば第3番の後半2楽章であるが、ワーグナーの引用がこれほどわかりやすい演奏というのも、なかなかないのではないか。前述の効果で、聴き手からの「音の見通し」が良くなっているためだ。それもあって、トリスタンの引用の残るエーザー版を取り上げたのではないか、と考えたくなるような気持にさえさせてくれる。これは私には魅力的な効果である。
 第8番も「死の予告」と表現された第1楽章のフィナーレ、それはまるでマーラーのような内因的表題性であるが、これをドホナーニは実に余計な感情を交えないような、オーケストラの機能性で押し通した演奏効果を実現している。第2楽章などそれが逆に単調さにつながる部分もあるが、アダージョの潤いに満ちた美観はまさに「拾い物」の幸運で、こんなところで(と言っては失礼だが)、まるで蒸留されたかのような美観をたたえたブル8のアダージョにお目にかかれるなんて!といった感動を覚えさせてくれた。
 これだからクラシック音楽は面白い。同じ曲でも、いろんな演奏を聴くことで、新鮮この上ない発見に遭遇することがあるのだ。私にとって、そのことを改めて示してくれたアルバムとなりました。

交響曲 第4番「ロマンティック」(第1稿)
インバル指揮 フランクフルト放送交響楽団

レビュー日:2004.2.14
★★★★☆ めずらしい初稿による「ロマンティック」
 珍しい第1稿の録音。有名な第3楽章がまったく別の音楽に入れ替わっていて仰天。やはり、本来の第3楽章の方がずっと素晴らしいが、ロマンティックが大好きな人はぜひ押さえておくべきだろう。
 ついでにブルックナーの場合つきまとうややこしい版の問題をこの交響曲についても整理しておくと、正規のスコアだけでも6種類(!)出版されている。1874年の第1稿(ノヴァークIV/1版)、第2稿には3種あって、まずフィナーレだけ違う1878年のハース版(あるいはノヴァークzuIV/2版)、1878年のハース版(いわゆる普通のハース版)、1886年の追加修正を含めたノヴァークIV/2版(これが一番一般的、ただノヴァーク版といった場合これ)、1887年から88年にかけてのレーヴェによる通称“改定版”(これはカットが無数にあってめちゃくちゃCDもない)、さらに実はマーラー版というのがある。マーラーは2,4楽章をかなり大胆に短くしている。(聴いてみたいが録音はない)。
 まあ,普通はノヴァークIV/2版で問題ないが、指揮者によっては別の版からのつぎはぎを行うので、無数の順列組み合わせ雑多版が存在している。これもブルックナーの醍醐味?
 インバルの演奏はすべてに水準以上で、誕生当時のこの曲の姿を知るうえで、またとない貴重な録音であることは、確実。

交響曲 第4番「ロマンティック」
ズヴェーデン指揮 オランダ放送フィルハーモニー管弦楽団

レビュー日:2009.5.23
★★★★☆ 天国的なブルックナーではあります
 非常に現代的なブルックナーである。なんといっても肌触りが柔らかく、温もりがある。それは金管のマイルドな響きによってもたらされる印象である。私がかつて聴いたブルックナーの第4交響曲ではアバドがウィーンフィルを指揮して録音したものも、このように弦にリードを委ねたイメージだった。このような演奏では第2楽章の弦の表情が細やかで、そのグラデーションの美しさを堪能させてくれる。
 しかし、この曲の魅力の大部分はやはり第1楽章ではないのだろうか?やはり第1楽章がしっくり行くかどうかで、聴き手の判断も大きく異なる。私の印象は弱い。この曲を聴く場合、第1楽章に朗々と鳴る金管のクライマックスがあり、そこを中心にどのような同心円を描いていくか、そこに興味がわくのだ。けれどもこの演奏の場合、その中心となる金管の響きまでもが、弦のグラデーションの背景を押さえられてしまいっている。聴かせどころがこんなに柔らかくて、(言葉が悪いけど)肩透かし気味になってしまうのはどうだろう?もちろん「これが新しい解釈だ」「従来の演奏を同じことをやってもしょうがない」と言われると、まったくその通りとも思うのですが。ただここまで躍動感がないと、逆に歌謡性さえも対称軸を失い兼ねないのではないだろうか。
 ただ悪い演奏というわけではない。第3楽章の狩の風景は、遠景描写のようなパースペクティヴを持っていて、豊かな彩りを持っている。壮大な規模を持ち、浪漫的な終楽章は、柔らかいトーンが曲の野生的な荒々しさを押さえることで、むしろ聴き易いテイストになっている。第2楽章以降は美しい部分の連続と言っていい。

交響曲 第4番「ロマンティック」
スウィトナー指揮 ベルリン・シュターツカペレ

レビュー日:2010.11.26
★★★★★ これこそドイツ・オーストリラの森の響き・・と思います
 ドイツ・シャルプラッテンが1986年から録音を開始したオトマール・スウィトナー(Otmar Suitner 1922-2010)とベルリン・シュターツカペレによるブルックナーの交響曲シリーズ。残念ながらスウィトナーの体調のため未完に終わったが、90年までに5曲が収録されることとなった。本盤の第4交響曲はその第3弾で、1988年に録音されたもの。
 私はずっとスウィトナーの指揮するオーケストラのサウンドが好きで、特にベルリン・シュターツカペレのものはベートーヴェン、シューベルト、ドヴォルザーク、ブラームスといずれも全集を購入していた。しかし、ブルックナーは長らく廃盤であったため、一部で高い評価を受けているその録音を聴く機会をなかなか得ることができなかった。それで、2010年になってシャルプラッテンが廉価シリーズでそろって復刻してくれたことは、望外の喜びで、さっそくまとめて購入して聴けることになった。
 いずれの録音も期待に違わぬ内容で、決して「一風変わったブルックナー」ではなく(それでももちろんいいのですが・・・)、ドイツ・オーストリアらしい純朴で真摯なブルックナーだと思う。
 第4交響曲の印象は第1楽章の内容が大きく左右するが、スウィトナーは少し早めのテンポを維持しながら金管を明朗に響かせており、豊穣な音色に満ちている。有名な(2連符+3連符)のブルックナー・リズムも弦の伸びやかな跳ねが聴いていて、活力あるアクセントがあり、しかしソフトな外面を持っているため決して刺々しい音にならない。ソフトではあるが、輪郭が型崩れしてしまうようなところはなく、内声部のうち引き締める所は的確に引き締めていることがわかる。第2楽章は「暗い森」に例えられるが、スウィトナーはここでもやや明るいタッチで軽めのテイスティングをとっており、聴き手に長さを感じさせない素軽さが魅力だ。第3楽章は有名な狩の音楽であるが、ふくよかな金管の残響がよく捉えられており、立派な音響効果が出来上がっている。浪漫的で雄大な第4楽章では音楽により多彩な表情付けが与えられているが、上記のスウィトナーらしさは的確にキープされていて、全体的によくまとまっている印象を残す。
 数あるブルックナーの録音の中では比較的地味な存在であるとは思うが、この廉価版の登場で再度そのステイタスの向上を期待したい。

交響曲 第4番「ロマンティック」
ヨッフム指揮 コンセルトヘボウ管弦楽団

レビュー日:2011.2.7
★★★★★ ブルックナーの第4交響曲の「隠れ決定盤」とも言える名演
 私がブルックナーの交響曲第4番~その名も「ロマンティック」~を始めて聴いたのは、ベーム指揮ウィーンフィルの歴史的名盤である。ヨーロッパ・・霧の立ち込める森に射してくる朝の光。そんなストーリーをなぞらえて聴いた冒頭は、感動的に美しかった。その後、ムーティがベルリンフィルを指揮した美麗な演奏にもハマった。以来相当数多くの録音を聴いてきて、自分のベスト盤も少しずつ変わったりしたけど、今、「いちばん好き!」と思うのがこのヨッフムのライヴ盤である。コンセルトヘボウ管弦楽団を指揮した1975年のライヴ録音。冒頭と末尾には拍手が入る。
 オイゲン・ヨッフム(Eugen Jochum 1902-1987)は生涯にわたってブルックナーの作品を指揮してきた人で、交響曲に限らず、宗教音楽まで広く録音してきた。また最近になって、公式なスタジオ録音以外の音源によるCD化も数多くなされている。私も、もちろん全部ではないが、いろいろと聴く機会があったが、その中でこのTAHRA版のロマンティックは、ヨッフムのブルックナーの中でも最初に指折りたいほどの名演だと思う。
 演奏前の拍手が終わるや否や開始される音楽。指揮者とオーケストラの漲る気迫が伝わってくる。特有の空気が満ちる。低弦のトレモロ。いわゆるブルックナー開始だけれど、やや強めに弾かれて力感が漲る。ホルンが告げる第1音は幻想的な深みを持っている。ただちに弦と呼吸を合わせて大きくエネルギーを吸収していく。その生動的迫力も圧巻。そして頂点へ!ここまでで圧倒されるのは、そのエネルギーを吸収していく勢いがそのまま音楽を疾駆させる内燃の機関へ脈々と供給される強烈なベクトルを感じるためである。以後も速いテンポでありながら、音楽は常に豊富な熱量を持ち、確固たる足取りで推進する。第1楽章のフィナーレまで豊穣な音楽が響き続け、聴き通すのがあっという間。なお、第1楽章のほぼ中間部ではムーティ同様ティンパニが追加されている。
 第2楽章、第3楽章も、やや速めを基調としながら、弦楽器の幅のある音色が素晴らしい。ただ幅があるだけではない。そのグラデーションが音楽に与える「色彩」から導かれる印象が、聴き手に幸福感を強く伝えてくれるのが頼もしい。また第3楽章のホルンのダイナミックで深く、かつ伸びやかな響きも特筆したい。
 そして、この演奏の圧巻はなんと言っても終楽章である。エネルギーに満ち、野性的な逞しさを備え、しかも音楽として構成感にも事欠かない。グイグイと聴き手を音楽の濁流に引きずり込む。合わせて客観的な視点も持ち合わせていているのが凄い。「濁流」に見えるが、思いがけないほど心地よい「奔流」となっていて、気が付くと、もうそこには荘厳な全曲のフィナーレが待ち受ける。まさに圧巻の内容。名演中の名演でしょう!

交響曲 第4番「ロマンティック」
シノーポリ指揮 ニューヨーク・フィルハーモニック

レビュー日:2012.8.2
★★★★☆ 明朗さと軽快さが特徴と思えるシノーポリの「ロマンティック」
 2001年、ヴェルディの歌劇「アイーダ」の公演中に指揮台から崩れ落ち、そのまま亡くなったイタリアの名指揮者シノーポリ(Giuseppe Sinopoli 1946- 2001)。2012年になってグラモフォン・レーベルから、シノーポリの往時の録音を集めた16枚組Box-セットが発売されたので、この機会に購入し、改めて聴かせていただいている。このディスクの内容についても、該当盤が収録されていたので感想を記そう。
 ドレスデン・シュターツカペレによる演奏で、ブルックナー(Josef Anton Bruckner 1824-1896)の交響曲第4番「ロマンティック」(ノヴァーク版)。1987年の録音。
 シノーポリはブルックナーの主要な交響曲にも録音を遺していて、前述のBox-セットには第4番と第7番という長調の名曲2曲が収録されている。第7番では朗々たるストリングスの歌い上げが輝かしかったが、この第4番では、やや早めのテンポで全体を締め、クライマックスに向かうところでもそのままのスピード感を保ち、金管を燦然と鳴らしている。総体としての印象はスリムであるが、クライマックスまでのダイナミックレンジの幅が大きいため、部分的にゴツゴツした印象も残す。
 第1楽章では、金管を衒いなく前面に押し出して響かせている一方で、タメの効果をあまり設けていないため、音量の割にズシンとくるところはなく、あっけらかんとした感じでもある。明るく、迷いのない響きは、この交響曲の一面を伝えるが、この曲で、よく印象としてイメージされる、中央ヨーロッパの森の響きとはちょっと違う「ラテンの響き」とでもいったところか。
 第2楽章もこの傾向は保たれていて、良く言えばスマートで聴きやすいが、一方で強い印象を残さないところがあり、この曲の「質」そのものが、軽めに設定されたような趣だ。
 第3楽章は、元来が軽快で運動的な要素の強い音楽であるため、シノーポリのリードはむしろ規範的とも感じられる堅実さで、オーケストラの響きそのものを安心して堪能できる内容。
 第4楽章は規模が大きく浪漫的で大河的な音楽なだけに、個人的にはより一層の重さを伝える音楽の方が好きである。
 総じて、シノーポリならではの軽やかさと難の少なさでまとまったブルックナーという印象であるが、この曲には他にも名演名盤が多くあるので、当盤を上位で推したいというところまでにはならなかった。しかし、金管のくっきりした響きなど、魅力もあったので、この楽曲に明るい軽やかさを求めたい人は、一度聴かれてもいいのではないかと思う。

交響曲 第4番「ロマンティック」
シャイー指揮 コンセルトヘボウ管弦楽団

レビュー日:2013.12.6
★★★★★ 批評家の言う「ブルックナーらしさ」はアテにならない?!
 リッカルド・シャイー(Riccardo Chailly 1953-)指揮、コンセルトヘボウ管弦楽団による、ブルックナー(Josef Anton Bruckner 1824-1896)の “交響曲 第4番 変ホ長調「ロマンティック」(1886年ノヴァーク版)” を収録。1988年の録音。
 シャイーは、1984年から1999年まで15年を費やし、コンセルトヘボウ管弦楽団とベルリン放送交響楽団(ドイツ・ベルリン管弦楽団)の2つのオーケストラを指揮して、ブルックナーの第0番も含む10曲の交響曲からなる全集を完成したのだが、当盤は、全体のうち第5弾にあたるもの。かつシャイーにとって、1988年にコンセルトヘボウ管弦楽団の常任指揮者に就任してから、このオーケストラと録音した最初のブルックナーということになる。当アイテムは一度廉価で再発売された国内盤。
 シャイーらしい美しいロマンティック交響曲だ。私はシャイーのブルックナーの録音はいずれも素晴らしいと考えているが、日本の国内評は、必ずしも芳しくない。それは、おおよそ、ブルックナーにしては音色が明るく、スキッとし過ぎている、といったところなのだろう。しかし、私はそういった「ブルックナーにしては」的な観点について、あまり固まった発想を持たない方がいいと思う。そもそも、ブルックナーという人は、前期ロマン派時代のオーストリアで、深いカトリックの宗教心を持って作曲した人物なのだ。その演奏について、現在の日本人が「ブルックナーらしい」とか「らしくない」とか言っても、所詮、観念上の遊びでしかない。
 さて、その明るい感じの響きについても、この曲の場合、デメリットにはならないだろう。音楽の喜びを、音楽の起伏に沿って自然に開放してあげれば、この曲はよく聴こえるのである。そういった点で、シャイーの演奏には一点の曇りもない。おおらかで、厳かで、瑞々しい感覚が、自然に発露している。また、音楽が、表皮的なものにならないのは、明瞭に音の輪郭を表現することで、テクスチャーにくっきりしたコントラストを描いているからである。そのため、朗々と金管が鳴ったとしても、のっぺりした印象にならず、彫像的で立体的に響くのである。
 第1楽章の成功は当然だが、第2楽章も美しい。ブルックナー自身が「暗い森」と表現した楽章であるが、コラール風の旋律の流れるような自然な表現が素晴らしい。最後近くで壮大に盛り上がる部分では、弦の音型を巧みに強調して、見事な立体感を描いている。第3楽章の狩のホルンは躍動的だ。こういったスポーティな爽快さも、ブルックナーの音楽と決して相容れないものではないのだという事が良くわかる。
 壮大な音の伽藍を築き上げる第4楽章は、シャイーらしくいかにも計算されたスタイルで、内燃的な迫力を表出しながらも、最終的に届く音は、よく制御が効いている。野趣性は減じるが、都会的洗練を感じさせるブルックナーだ。これを「ブルックナーらしくない」と言って、聴き手が自ら気持ちを逸らしてしまう事は、なんと勿体ないことか。
 シャイーのブルックナーの明朗性と洗練が存分に表出したロマンティック交響曲の録音だ。

交響曲 第4番「ロマンティック」(キャラガン校訂「村の祭り」フィナーレ)
シャラー指揮 フィルハーモニー・フェスティヴァ

レビュー日:2014.9.26
★★★★☆ ブルックナーが改訂の過程で書いた「村の祭り」フィナーレが聴けます
 ゲルト・シャラー (Gerd Schaller 1965-)指揮、フィルハーモニー・フェスティヴァによる、ブルックナー(Josef Anton Bruckner 1824-1896)の交響曲 第4番 変ホ長調「ロマンティック」。2013年のライヴ録音。
 彼らは、ブルックナーの交響曲を順次取り上げていて、交響曲第4番については、すでに2007年の録音があるのだが、このたびは同一曲の2度目の登場となった。ただし、今回は、あまり演奏される機会のない1878年稿によっている。その特徴は、ブルックナー自身が「Volksfest(村の祭り)」と名付けた終楽章にある。
 そこで、この稿がどのような存在になるのかについて、まとめよう。
 ブルックナーは1874年11月からスケッチを書きはじめ、およそ1年弱で全体を一旦完成させている。これが現在では「初稿(第1稿)」と呼ばれるものだ。その後、ブルックナーはこの交響曲に改訂を加え続ける。第3楽章を有名な「狩のスケルツォ」に差し替え、フィナーレに大鉈を振るい、現在よく聴かれる姿で出版されたのは、書き始めから15年を経た1889年11月のことであった。これがしばしば第3稿と呼ばれる最終稿に当たる。1889年の11月というと、すでに第8交響曲の第2稿も完成しているから、私たちがふだん聴いている第4交響曲のフィナーレは、ほぼ完熟期の作曲家の手による作品と考えていいもの、ということになる。
 この改訂の途中に、様々なスコアが書かれたのだが、1878年から80年にかけて、いったん途中でまとめられたものが「第2稿」と呼ばれるもの。この時点では、スケルツォはすでに「狩のスケルツォ」に差し替えられていた一方で、フィナーレは当盤に収録されている「村の祭り」ということになる。
 そのようなわけで、本盤に収録された第2稿「村の祭り」版は、初稿と最終稿の間に存在する過渡的な終楽章のスコアであり、これまでも録音機会は少なかった。
 実際、この終楽章を聴くと、第3稿に繋がる音型や抒情が散見されるとは言え、形式がきわめてゆるく、散漫な印象はぬぐえないところだ。もちろん、美しい箇所はあるのだけれど、その発生がきわめて突発的で、前3楽章との調和性も感じにくい。ブルックナーのスコアを校訂した音楽学者ハース(Robert Haas 1886-1960)はこの楽章を "characteristically demonic traits"(特質上、悪魔的性格を持つ)と述べたという。
 ハースの他に、ノヴァーク(Leopold Nowak 1904-1991)も、この交響曲の第2稿を出版したが、当盤でシャラーが用いているのは、ウィリアム・キャラガン(William Carragan)の校訂によるもの。ライナー・ノーツによると、若干の短縮の他、部分的な管弦の主従関係や、4本のホルンによる第1楽章の回想などで、従来版との違いがあるとのことだ。
 シャラーの演奏自体は、これまでのシリーズ同様の特徴であるが、2007年の録音に比べて第1楽章がややゆったりしている。個人的には、以前の録音に比べて、やや音色が平板になった印象を受けたため、「シャラーによるブルックナーの第4交響曲」としては、楽曲自体の内容も含めて、2007年の録音(Profil PH11028)の方を推したい。一方で、録音点数の多くない「村の祭り」を聴いてみたい、という方には(当アイテムをチェックする時点で、興味のある方が多いだろうと思うが)、当盤は適切なリファレンスになるだろう。

交響曲 第4番「ロマンティック」
マズア指揮 ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団

レビュー日:2014.9.10
★★★★★ 「古き佳き」といった形容が相応しく感じられるマズアの「ロマンティック」
 クルト・マズア(Kurt Masur 1927-)指揮、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の演奏で、ブルックナー(Anton Bruckner 1824-1896)の 交響曲 第4番 変ホ長調「ロマンティック」(ハース版)。1975年録音。
 1974年から78年にかけて製作された全集の中の1枚。第4交響曲は、ブルックナーの諸交響曲の中でも、明瞭な美しいメロディ・ラインで知られ、名演・名録音も昔から数多くある。このマズアの録音も、現代の感性では、やや古めかしさを感じるところがあるとは言え、それゆえの味わいがあって、聴き応えのあるものだ。
 第1楽章冒頭は、ホルンのタンギングが浅めで、付点の音が、ややスラー気味に聴こえるところが特徴的だが、全体のなめらかな流動性は心地よく、抵抗なく音楽が進んで行く感触。クライマックスでも金管は咆哮するというより、全管弦楽の調和的な響きを重視している。音色がシックだから、古典派の音楽を想起させる。
 第2楽章が好ましい。この楽章はブルックナーの書いた数々の美しい緩徐楽章群の中では、やや平板な印象があり、時々退屈に感じてしまうのだけれど、マズアはフォルテにおける弦の軽やかな響きにより、ほのかなアクセントを誘導して、清冽な味わいを引き出している。最後の主要主題部でも、重くならず、全体的なバランスが良く保持されている。
 第3楽章は有名な狩のホルンが聴かれるが、マズアの演奏は描写的な強調は行わず、むしろ純音楽的、等方位的と形容したいアプローチに徹しながら、古典的造形美を作り上げていて、内面性を感じさせてくれる。
 終楽章でもシンフォニックな響きが重視される。透明感より、合奏音の総体としての響きの配合を優先し、重心のしっかりした落ち着いた味わいを出すように仕上がっている。
 全体として、浪漫的な濃淡や緩急による劇性とは一定の距離を置き、やや遠視点的な均整感覚で全体をまとめたもので、古典的な清澄さを感じる人も多いだろう。ブルックナーの第4交響曲の場合、その旋律的な美しさから、浪漫性の発露や、透明な瑞々しさの主張を主眼とする演奏が多いなか、マズアによる滋味豊かな渋みの効いた表現も、一目置かれてしかるべき存在感を持つに違いない。

交響曲 第4番「ロマンティック」
ヤノフスキ指揮 スイス・ロマンド管弦楽団

レビュー日:2015.5.7
★★★★★ ヤノフスキの成功を物語るブルックナー完結編
 ポーランドの指揮者、マレク・ヤノフスキ(Marek Janowski 1939-)とスイス・ロマンド管弦楽団によるブルックナー(Anton Bruckner 1824-1896)の交響曲全曲録音シリーズの最後を飾るのが、当盤で、交響曲 第4番 変ホ長調「ロマンティック」。2012年の録音となる。
 スコアは1878-1880年第2稿ノヴァーク版が用いられている。この曲の場合、単に「ノヴァーク版(第2稿)」と言った場合、1886年の追加修正を含めたものが相当する。ここで用いられているのは、その追加修正を含まないもので、アメリカでの出版の話に応じて、ブルックナーが1876年に書き直したスコアが元になっている。「1878-1880年」という見出しは、ノヴァーク(Leopold Nowak 1904-1991)の前に当該スコアの校訂を行ったハース(Robert Haas 1886-1960)の表記方法に倣ったもの。1878-80年第2稿ハース版を用いた録音としては、ヴァント(Gunter Wand 1912-2002)などが挙げられる。当盤を聴く限りでは、当該ハース版との間に大きな違いは感じられない。
 さて、ヤノフスキの演奏である。きわめて完成度の高い洗練された演奏だ。私はこの録音を聴いて、この曲に新しい印象を持った。すなわち、「祈りの音楽」。
 ヤノフスキは金管を朗々と響き渡らせることはしない。そういった意味で、ショルティ(Georg Solti 1912-1997)やバレンボイム(Daniel Barenboim 1942-)とは対極にある響きと言ってよい。そうは言っても、決して金管が抑制されているわけではない。とても美しく明朗に鳴っているのである。しかし、全体のコントロール、配色をきわめて高度に制御することで、楽想に応じた音響の構成を究極まで突き詰めた結果、他の演奏を比較すると、金管はやや柔らかく響き、最前面に配置される個所は少なくなっているのである。
 そして、肝心なことは、その結果聴かれる音楽が、完璧と表現したいほどに美しいプロポーションを持ち、かつてないほどの敬虔で、自然賛美的な至福を感じさせるものとなっていることである。第1楽章後半の高まりの中で奏でられる金管のファンファーレが、木管との絶妙なバランスの結果、荘厳に奏でられるオルガンのように聞こえるのは、まるでオーケストレーションの魔術師の仕事である。
 第2楽章の耽美性も素晴らしい。細やかな弦のニュアンスが精妙を極め、行進曲風の進展も豊かな滋味に溢れている。この楽章で、これほど木管が艶やかに聞こえるのは初めてだが、それが決して音楽の完成度を減じることはない。
 第3楽章の狩のスケルツォでは、金管の一本一本の響きが伝わるくらい精妙な設計が成されていて、そのことが音楽的な効果として生きているし、クレッシェンドには十分な迫力もある。
 第4楽章は思い切った早めのテンポで進められる。しかし、一つ一つの音はよく吟味されている。短調の中に明るい響きがあり、抒情の中に推進性を見出す。そのような多層的な音楽の面白味が、とても気持ちよく、互いに何の齟齬も与えることなく表現されている。そして高らかに歌い上げられるフィナーレはたいへん感動的だ。
 確かに、これまでにも弦を前面的に扱った同曲の演奏はあった。例えば、アバド(Claudio Abbado 1933-2014)やズヴェーデン(Jaap van Zweden 1960-)がその代表的なものだろう。しかし、私の意見では、ヤノフスキのバランスや音響構成力は、彼らのより一層精緻であるだけでなく、新しい感覚に満ちたブルックナーを導き出したという点で、はるかに驚異的だ。この素晴らしい全集が当盤によって完成するのは、ヤノフスキの偉業にふさわしい。

交響曲 第4番「ロマンティック」
ポンマー指揮 札幌交響楽団

レビュー日:2016.6.20
★★★★★ エリシュカに続いて、ポンマーという見事な職人を招へいした、札幌交響楽団による名演
 2015年に札幌交響楽団の主席客演指揮者に就任したマックス・ポンマー(Max Pommer 1936-)の2枚目のアルバム。前回はメンデルスゾーン(Felix Mendelssohn Bartholdy 1809-1947)の第2交響曲であったが、このたびもドイツロマン派の名曲で、ブルックナー(Josef Anton Bruckner 1824-1896)の交響曲第4番変ホ長調 「ロマンティック」が登場した。スコアはハース版を用いて、2015年12月に札幌コンサートホール Kitaraでライヴ収録されたもの。
 このたびのブルックナーも素晴らしい内容である。前任ラドミル・エリシュカ(Radomil Eliska 1931-)に続いて、札幌交響楽団は、見事な人選を行ったものだと感心する。エリシュカ、ポンマーともに、音楽の深い自然な息吹に即して、暖かい血の通った表情豊かな音楽を築き上げる達人である。
 ブルックナーの第4交響曲の場合、やはり金管の壮麗な響きが大きな聴きどころであり、これをゴージャスに響かせるか、あるいはオーケストラの機能美の中で精緻なバランスに徹するか、手法は様々であるが、このポンマーと札幌交響楽団の演奏は、何かを達成するために、何かを犠牲にしてしまっている、という感じ方を、受け手に一切与えるところがない。なにか突き詰めた表現手法として、完成された、至芸というにふさわしい音響が満ちているのである。それは、金管が、あるいは弦楽器がという主語で特徴を示すものでなく、オーケストラの総体としての響きが、有機性に富み、一つの生命体のように密接な関連性を持って音楽を築き上げているという表現で、形容するべき演奏である。
 全体にシンプルで、インテンポを主体としながら、自然の法則に従った細やかなニュアンスが織り込まれる。情感をたっぷりあたえたいような旋律であっても、直線的な素朴さを重視し、過度な発色を特定の楽器に与えることはせず、それでいて、聴き味は豊かなものになる。いかにも職人が作り上げた作品として、オーケストラが機能する。そして、そういう演奏が、ブルックナーの、もう何度も聴いたこの曲に、新鮮な魅力を与えている。
 第1楽章の暖かく、強奏に頼ることのない劇性も見事であるが、これに続く3つの楽章も素晴らしい。第2楽章の旋律の受け渡しの心地よさ、第3楽章の運動性と抒情性のバランスの良さ、ともに見事。そして、浪漫的で豪壮な第4楽章も、自然な響きに徹した上で、力強い表現を的確に織り込み、滋味に満ちた豊かさとなめらかさにより、とてもスムーズにフィナーレに向かっていく。その過程で聴き手が得る感興は、ブルックナーという前期ロマン派を代表する作曲家にふさわしいものとなっているに違いないと思う。
 マックス・ポンマーという逸材の発見と起用は、まさに札幌交響楽団の慧眼にほかならない。

交響曲 第4番「ロマンティック」
ネゼ=セガン指揮 モントリオール・メトロポリタン管弦楽団

レビュー日:2020.2.27
★★★★★ 細やかな表現で個性的に設計されたネゼ=セガンによるブルックナーの第4交響曲
 ヤニク・ネゼ=セガン(Yannick Nezet-Seguin 1975-)指揮、モントリオール・メトロポリタン管弦楽団の演奏で、ブルックナー(Anton Bruckner 1824-1896)の 交響曲 第4番 変ホ長調 「ロマンティック」 を収録。用いているスコアはハース版で、2011年の録音。
 現在ではヨーロッパを中心に活躍しているカナダの指揮者、ネゼ=セガンは、30代のころモントリオール・メトロポリタン管弦楽団と良好な関係を築き、演奏・録音活動を行った。その象徴的な記録といえるのが、ブルックナーの全9曲からなる交響曲の録音である。
 当第4交響曲も、素敵な演奏だ。演奏の性質としては「明るめ」「軽め」の音色であるが、オリジナリティのあるテンポ設定に基づいて、周到な解釈を準備し、齟齬の少ないシンフォニックな音響を持ちびき出している。リズム感の良さ、全体的に滑らかな曲線をおもわせるしなやかでスマートな心地よい響きを導いているが、オーケストラ、特に金管パートの好演も、それをよく助けている。
 第1楽章は、やや早めのテンポを採用し、透明な響きを維持する。テンポの変動幅は大きく設けず、タメも小さいが、その機敏性に支えられた安定感が、古典的な造形性を示しており、総じて魅力的に聴こえる。有名な2連符+3連符のテーマは、常に引き締まった感触で、安易な浪漫性の増長を避けながら、壮麗な美観を保っており、優れた表現と感じる。
 第2楽章はテンポを落し、スコア指示以上に緩やかな音楽として再現しているが、そこで扱われるカンタービレは、くっきりした輪郭をもって伸びやかに扱われていて、清浄な気配が好ましい。
 第3楽章は再び早目のテンポをとり、指揮者の若々しさを反映するような運動的な魅力が横溢している。しかし、音色は軽く澄んでおり、ここでも、ロマン派的な熱さより、古典的な端正さを感じさせる。
 第4楽章は中庸より少し早いくらい。ここでは、オーケストラ、特に金管のコントロールの利いた細やかな響きが素晴らしい。常に一定の間合いを持ちながら、音型を明晰に鳴らし、精度の高い再現性を保持している。そんな金管のリーダーシップに沿うように、他の楽器も滑らかな響きで、濁りのない伸びやかな音を保ち、その緊密性を維持したまま、フィナーレまでを描き切る。
 私が個人的に、この第4交響曲でいちばん好きなのは、ヨッフム(Eugen Jochum 1902-1987)がコンセルトヘボウ管弦楽団を振った1975年のライヴ録音である。それは、テンポの変動の激しい、熱血的な滾るようなロマンティックだ。ネゼ=セガンもまったオリジナリティを感じさせるテンポ設定を用いながら、その印象は、ヨッフム盤と真逆と言って良いもので、その端正さ、古典的なスタイルの自然さで聴き手を魅了する。これもまた魅力的なブルックナーである。ネゼ=セガンは、自分の個性を適度に表出させながら、すてきなブルックナー像を描き出した。現在もっとも注目すべきブルックナー指揮者の一人といって過言ではないだろう。

交響曲 第4番「ロマンティック」 第6番
ムーティ指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

レビュー日:2011.11.8
★★★★★ 感動的に美しいロマンティック交響曲
 ブルックナーの交響曲第4番「ロマンティック」(ノヴァーク版)と第6番を収録した2枚組みのアルバム。演奏はリッカルド・ムーティ(Riccardo Muti 1941-)指揮ベルリンフィル。録音は第4番が1985年、第6番が1988年。
 個人的にこの第4交響曲は思い出に残る録音だ。私の家にはじめてCDプレーヤーが設置されたとき、なにかブルックナーの響きを堪能できるディスクが1枚欲しいと考えていた。当時、自由になるお金がほとんどなかったので、厳選に厳選を重ねて選んだのが、このムーティのロマンティック交響曲だった。確か当時の価格で3,300円。価格を覚えているくらいだから、当時の私には相当の決断だったに違いない。
 これを再生したときの感動は覚えている。部屋を暗くし、薄明かりの中、弦のトレモロに導かれて、あのあまりにも有名なホルンの主題が聴こえてきたとき。なんとなめらかで明るい音色だろう、と。その後の雄大なクレッシェンドから畳み掛けるクライマックスまで、滑るようにスマートで、美しく快活な音楽は、私を虜にしたものだ。第1楽章中間部・・・荘厳なファンファーレから深い谷を落ちるようなティンパニ!この瞬間に感じる重力の素晴らしさ!なんと素晴らしい音楽でしょう!
 それが長い時を経て、第6交響曲と廉価なカップリング版となった。私は、交響曲第6番の録音が廃盤だったため、聴き漏らしていたのだけれど、この機に買ってみた。
 ムーティが録音したブルックナーはこの2曲だけだと思う。歌謡性豊かで明朗で、リズミックなムーティのスタイルには、この長調の2曲がアプローチしやすい作品だったのに違いない。(ほかの交響曲も録音してほしいけれど)。
 それで、ムーティの交響曲第6番は今回初めて聴いたのだけれど、やはり開放的で明朗な音楽となっているのが魅力だ。ただ交響曲第4番と比べて、その開放感が、ゆるみの印象に繋がる部分もあるかもしれない。例えば第1楽章のコーダなど、もう少し「締まり」がある方が、音楽のラインがはっきりして、聴きやすいだろう。
 とは言え、第2楽章の、ときおり「田園」と描写される音楽も、陰影豊かに奏でられていて、十分に魅力的だと思う。
 今回、交響曲第4番もあらためて聴いてみた。やはり美しい。というより、私の場合、すでに第一印象で、この演奏にすっかり取り込まれてしまっている。第4楽章の後半のマジカルなオーケストラのサウンドも圧巻だ。私にとってTAHRAのヨッフム盤<1975>、DECCAのベーム盤<1973>とともに、ロマンティック交響曲の名盤として譲れない録音に違いない。

交響曲 第4番「ロマンティック」 第7番
バレンボイム指揮 シカゴ交響楽団

レビュー日:2014.8.1
★★★★★ 若きバレンボイムが世界最強オーケストラを指揮した記録
 ダニエル・バレンボイム(Daniel Barenboim 1942-)は、1972年から1981年にかけて、シカゴ交響楽団を指揮してブルックナー(Anton Bruckner 1824-1896)の交響曲全集を録音した。当盤はそこから2曲が収録されている。
1) 交響曲 第4番 変ホ長調(ノヴァーク版)「ロマンティック」 1972年録音
2) 交響曲 第7番 ホ長調(ノヴァーク版) 1979年録音
 バレンボイムとシカゴ交響楽団による全集は、全般に良い内容のものだと思うが、この2曲だけこのような別売りが再版されていたことを考えると、これら2曲の「親しみやすさ」が評価されたのかもしれない。ただし、親しみやすさとは万人に共通ではない。私の場合ブルックナーの交響曲では、第4番はすぐに親しんだが、第7番を楽しめるようになったのは、ずっと後のことだった。
 とは言え、明朗性に富むこの2つの交響曲は、良くできた作品で、演奏会などで取り上げても、ほとんど失敗するということはないといって良い。普通に演奏すれば、良く響くし、旋律線はとても美しいのだから、スコアのままオーケストラが音を出してくれれば、多くの人は心を動かすのである。
 とはいえ、このディスクの場合、そこに輪をかけて凄いのは、やはりこの時代のシカゴ交響楽団のヴィルトゥオジティが段違いな点にある。特に金管の壮麗な響き、これはまさに圧巻の一語である。
 考えてみると、1969年にこのオーケストラの音楽監督に就任したショルティ(Georg Solti 1912-1997)が、瞬く間にこのオーケストラを鍛え上げ、名刺代わりとも言える強烈なマーラーの第5交響曲の爆演を録音したのが1970年である。バレンボイムは、このショルティによって鍛え上げられたハイパフォーマンスな芸術集団の至芸を、余すことなく引き出したのであろう。
 交響曲第4番の冒頭は素晴らしく透明なホルンの音で幕が開くが、次第にやや速めのテンポで高揚し、そして最初のクライマックスに到達するのだけれど、ここで鳴る金管陣の壮麗な音の大伽藍には、まさに圧倒されてしまう。いくら見上げても頂上を見ることの出来ない岩壁が、目の前に立ちはだかる様なスケール感だ。この後も、この金管の壮烈な迫力は繰り返され、力の漲るブルックナーとなる。しかし、響きは美しく、均整を崩さない。
 また、クライマックスの後に訪れる静寂も、深い闇を感じさせるもの。バレンボイムの指揮は、やや速めのテンポを基調とはするが、こまやかなアゴーギグが微妙な色合いを与え、金管の迫力とあいまってじつに艶やかな印象を受ける。「暗い森」と称される第4交響曲の第2楽章も、そのような特有の甘味があって、薫りが強い。
 交響曲第7番も同様のスタイルで、ほのかな甘さを宿しながら、ここぞと言う時に金管の豪壮とも言える押し出しが繰り広げられる。音に迷いがなく、じつに気風が良い。
 人によっては、これら2曲に求めるものと、異なる性質の音楽が繰り広げられているのかもしれない。しかし、この録音を聴いていると、若きバレンボイムの衒いのない表現と、シカゴ交響楽団のスーパーなサウンドが合致して、見事な音響美が形成されていることに圧倒される。これはこれで、貴重なブルックナー録音には間違いないと思う。
 なお、ノヴァーク版によっているが、第4交響曲の第1楽章ではティンパニの追加がある。一方で、第4楽章のシンバル追加は行っていない。

交響曲 第4番「ロマンティック」 第7番 第9番(第4楽章完成版:キャラガン2010年改訂)
シャラー指揮 フィルハーモニー・フェスティヴァ

レビュー日:2012.1.5
★★★★★ これぞ「教会音楽的」ブルックナーの交響曲録音でしょう
 ゲルト・シャラー (Gerd Schaller 1965-)指揮、フィルハーモニー・フェスティヴァによるブルックナーの交響曲第4番「ロマンティック」、第7番、第9番。「フィルハーモニー・フェスティヴァ」は、ミュンヘン・フィル、バイエルン放送交響楽団、バイエルン州立歌劇場管弦楽団の首席奏者らで構成されるオーケストラ。このアルバムは年1度行われるバイエルン州のエーブラハ(Ebrach)にある大修道院附属教会でのライヴの模様を収めたもので、第4番が2007年、第7番が2008年、第9番が2010年の録音。第9番については、物理学者であり、音楽学者でもあるウィリアム・キャラガン(William Carragan)によって、未完の第4楽章(終楽章)が補筆完成されたスコアが用いられている。この形での録音は世界初となる。CDはProfilのPH11028で4枚組。
 キャラガン版による第9交響曲にももちろん注目されるが、演奏・録音だけでも十分価値のある内容だ。ブルックナーという作曲家は、優れたオルガン奏者でもあり、オルガン的なサウンドをオーケストラ譜に書き込み、さらに対位法を発展させ、いくつも巨大な交響曲を書いた人だ。そのサウンドの性格や、カトリック信仰を反映した性質から、教会音楽的な交響曲とも評される。だが、実際には、たいていの教会の場合、残響が多いという音響的設計によっていて、オーケストラ録音に際しては、そのことが不利となることが多い。
 しかし、ここでシャラーは実に巧みな音響構築を行っている。十分にコントロールされた金管の響き、伸びやかな木管の音色は、美しく、高い次元で融合されている。第7番の第3楽章のスケルツォでは、躍動的な展開からクライマックスへ至り、突然のフォルテの一撃の終結から全休符(ゲネラルパウゼ Generalpause)に至るのだが、この全休符の間に4秒ほどたなびく残響が実に気持ちよい橋渡しをしていることに気付く。巧妙な仕掛けだ。
 演奏は第4番、第7番の2曲が特に素晴らしい。少し早めのテンポで、古典的な均質性を保ちながら、朗々たる響きが満ちており、いかにもアコースティックで、柔らかさと荘厳さが適度に引き出されている。上品なラレンタンド(次第に速度を落として)の表現も一級品といった貫禄があり、ニュアンスが深い。第4番の終楽章、第7番の高名な第2楽章など、神秘的な厳かさと確実な推進力を兼ね備えており、力と美の双方をしっかりと感じ取れる秀演だ。
 それに比べると第9番は少し落ちる。特に第1楽章の前半は、低音域の弱さが気になるのと、音楽全体にややぎこちない朴訥とした感じが残っている。それでも中間部からかなり持ち直してきて、いつのまにか良くなっているのは不思議だ。キャラガンによる終楽章は力作だ。演奏時間は20分を越えていて、おそらくまったく新たに書き起こす必要があったスコアは400小節を越えるのではないか。ブルックナーの残した断片だけでなく、ワーグナーの和音等の応用(ブルックナー自身がワーグナーへの敬愛の念を込めてよくやったことだ)や、前半3楽章の回顧・変容の盛り込みなど、スコア補筆者の苦労の道のりを辿る実感がある。コーダもそれなりに形がととのっている。当然のことながら、音楽そのものとしての価値は、ブルックナーが完成した部分とは、くらぶべくもないが、聴いているうちにおぼろげながらブルックナーの着想が伝わってきたように思わせてくれた。そういうわけでキャラガンの大仕事にも敬意を表したい。

交響曲 第4番「ロマンティック」 第7番 第9番
マズア指揮 ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団

レビュー日:2014.9.10
★★★★★ ドレスデン・ルカ教会で録音された3曲の抜粋版です。
 クルト・マズア(Kurt Masur 1927-)指揮、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の演奏で、以下のブルックナー(Anton Bruckner 1824-1896)の2曲の交響曲を収録。
1) 交響曲 第4番 変ホ長調「ロマンティック」(ハース版) 1975年録音
2) 交響曲 第7番 ホ長調(ハース版) 1974年録音
3) 交響曲 第9番 ニ短調(原典版) 1975年録音
 1974年から78年にかけて製作された全集から2曲を抜粋した形であるが、この3曲については、当全集のなかでもある共通点がある。それは、ドレスデン・ルカ教会で録音されていることだ。このルカ教会は豊かな残響を持つことで知られ、一部では「名盤の聖地」とも呼ばれる。東ドイツ時代から、多くの録音がこの教会で行われた。日本で人気のあったスウィトナー(Otmar Suitner 1922-2010)も、ここで多くの名演を記録した。
 ブルックナーは教会音楽的、オルガン的な響きをオーケストラに託したこともあって、このセッティングは様々に効果的だし、結果、この3曲の録音は、マズアの全集の中でも、特に名演として知られ、再版も行われることとなった。
 ところで、この3曲の組み合わせは、ワルター(Bruno Walter 1876-1962)が録音に選んだ3曲でもある。妙に共通項を感じてしまうが。
 さて、演奏であるが、特に素晴らしいのは第7番で、オーケストラのふくよかな響き、弦を中心とした暖かなアンジュレーションで、聴き手におごそかな印象をもたらす、静かな感動を呼び起こさせてくれる。芸術作品としての完成度、深みといった点で、不足なく充足感をもたらしてくれるものだ。
 第4番は、冒頭のホルンがスラー気味に聴こえるのが、やや気になるところではあるが、全合奏の融合度の高い響き、第2楽章の弦の豊かな表情付が印象的。全般に古典的な均整がとれた聴き易さが特徴だろう。
 第9番は、この曲にしてはあっさりとした味わいで、第1楽章冒頭の荘厳な主題提示も、早めのテンポで、サクサクと進んで行く。劇的な効果を欲する人には物足りなさを感じさせるかもしれないが、私は淡く乾いた情感を好ましく感じるところが多かった。ちょっとシューリヒト(Carl Schuricht 1880-1967)を思わせるところもあるが、それほど極端に速くはない。いずれにしても、古典的な美観をまとったブルックナーだと思う。
 マズアのブルックナーをルカ教会の音響効果とともに味わえるこの3曲の録音は、当時のスタイルを伝える一面をも持ち合わせていて、価値のあるものに違いないだろう。

交響曲 第4番「ロマンティック」 第5番 第7番 第8番 第9番
ヴァント指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

レビュー日:2012.3.5
★★★★★ 生涯の多くをブルックナーのために費やした巨匠の辿りついた音楽
 ドイツの指揮者、ギュンター・ヴァント (Gunter Wand 1912-2002)が晩年にベルリンフィルとライヴ録音したブルックナー(Josef Anton Bruckner 1824-1896)の名曲5曲を6枚のCD-BOXとした廉価版。いずれも名演の誉れ高いもの。収録内容は以下の通り。
1) 交響曲第4番「ロマンティック(1878/80年稿)」 1998年録音
2) 交響曲第5番(原典版) 1996年録音
3) 交響曲第7番(ハース版) 1999年録音
4) 交響曲第8番(ハース版) 2001年録音
5) 交響曲第9番(原典版) 1998年録音
 ギュンター・ヴァントは、芸術活動のほとんどをドイツ・オーストリアものに費やし、中でもブルックナーの演奏に尽力した人物だ。現在でも入手可能な彼のブルックナーの録音は相当な数があるのだけれど、その録音業績は以下のように大きく3つに分別できるだろう。
(1) 1974年から81年にかけてケルン放送交響楽団と録音した全集
(2) 80年代後半に北ドイツ放送交響楽団とした一連の録音
(3) 90年代後半以降にベルリンフィルとした一連の録音
 私は、別のところに書いたのだけれど、(1)の全集をとても気に入っていて、ヴァントのベスト録音とも思っている。しかし、もちろん、他の録音が悪いと言っているのではない。当盤は(3)に当たるものがまとまっているわけだが、まさに最晩年を迎えた芸術家ヴァントの「完成期の音楽」というにふさわしい貫禄がある演奏で、しばしば表現される「白鳥の歌」に相当する得難い名品だと思う。
 それではこれらのヴァントの録音の特徴は何か。一つは合奏音の融合度の高さにある。緻密に計算されたバランスで、管弦楽の重厚さが常に適切に保たれていて、たいへん調性的で節度を重んじる表現を貫いている。このことは、よく「天国的」と形容されるブルックナーの音楽の一面を、余すことなく表現しているだろう。次の特徴は、悠々泰然たるテンポ設定である。これは「遅い」と言っているのではない。むしろ、遅さを感じる部分はほとんどないと言っていいくらい、推進力が保たれている。一般的なイメージとして、年齢とともに荘重な音楽効果を重視し、テンポをゆるめる傾向があると思うのだけれど、ヴァントは例外と言えよう。むしろ引き締まった印象を与えるほどの、確信に満ちたテンポ設定で、それは、生涯を通じてブルックナーをやってきたヴァントならではの、決定的な解答と思えるような説得力に富んでいるものだ。
 こうして奏でられるブルックナーは「天国的」であり、かつ「力強い内的均衡感」に満ちたものとなる。ただ美しいだけではないところが、ヴァントの芸術の高い価値を示しているだろう。
 私、個人的には、やや不均衡なところがあっても、朴訥としたダイナミズムを堪能させてくれたケルン放送交響楽団との旧録音が大好きなのだが、一方でこれらのベルリンフィルとの録音も、捨てがたい価値を持っていると思う。

交響曲 第4番「ロマンティック」 第5番 第6番 第7番 第8番 第9番
クレンペラー指揮 ニュー・フィルハーモニア管弦楽団 フィルハーモニア管弦楽団

レビュー日:2019.1.11
★★★★☆ 収録された6つの交響曲、それぞれで印象の差が大きい
 クレンペラー(Otto Klemperer 1885-1973)が1960年代から70年にかけてフィルハーモニア管弦楽団(ニュー・フィルハーモニア管弦楽団)と録音したブルックナー(Joseph Bruckner 1824-1896)の第4番から第9番までの6曲の交響曲を収録したBox-set。良心的な価格設定。
 私は、クレンペラーの録音を多く聴いてきたわけではないが、マーラーの「大地の歌」とブルックナーの「交響曲 第6番」については、現在でも第一線に数え上げられるべき名演奏だと思っている。特に、ブルックナーの第6交響曲については、録音当時はめったに演奏される楽曲ではなかったこともあり、プロデュース側もクレンペラーの録音の意向には商業的な意図で難色を示したと言う。それを説き伏せてまで成し遂げたこの録音には、クレンペラーの「第6交響曲への思い」が詰まっているはずであり、実際にそれは素晴らしい演奏だ。
 大河的スケールという言葉はこの演奏に相応しい。旋律線は立派に太く扱われ、金管の堂々たる奥行のある響きが全体を力強く推進させる。木管の強い芯の通った音も見事だ。
 ただ、私は逆に言うと、この第6交響曲の録音が無ければ、このアイテムを入手していなかったとも思う。クレンペラーの録音が全般にあっけらかんとした明るさがあって、そのためブルックナーの交響曲が持つ深みに立ち寄るようなシーンはほとんど感じられない。それ自体が悪いことではなく、そういうブルックナーがあることもまた一興ではあるのだけれど、1970年に録音された第8番と第9番については、ところどころ音に緩みのようなものが目立って、前述の内容と併せて全般にのぺっとしたサウンドになりがちだ。加えて第8交響曲の第4楽章のカットが、聴き手の印象に不利に働くこともある。
 サウンド自体の完成度としては、最初に録音されたものの方が精度は高く、オーケストラの統制感も良い。第4番を聴いてみると、そのあっけらかんとしたスタイルゆえの動感が活きているところもあって、捨てがたい。第7番も同様だ。徹頭徹尾真面目なオーケストラに、平板さを感じるところもあるが、適度なテンポ感があり、聴きやすい。
 また、クレンペラーのスタイルに、「スローなテンポ」を想像する人は多いと思うが、これらのブルックナーでは一概にそうとは言えない。特に早い時期に録音された交響曲における緩徐楽章でクレンペラーのとるテンポは速めだ。交響曲第6番と第7番の第2楽章では、その作用がよく働いていて、楽曲が浄化されたような美しい瞬間を感じるところがある。無表情なようでいて情緒があり、淡泊なようでいて雄弁さがあるという音楽芸術ならではの味を感じさせてくれる。
 交響曲第5番は前半が良く、スケール感は第6番の印象に通じる。旋律線のもつ起伏が、クレンペラーのスタイルによくマッチしたのだろう。特に第1楽章は、場面ごとに明瞭にテンポを切り替える演出が奏功し、聴いていて、受け取るものに幅が出来ている印象がある。ただ、終楽章の場合、悪くはないのだけれど、前述の演出だけだと、かなり朴訥とした印象で、聴いていると「いくらなんでも、もう少し何かあってもいいのでは」という気持ちが頭をもたげてしまう。
 第4番はこのクレンペラーの演奏は、「ユニーク」あるいは「一般的ではない演奏」に分類されるだろう。確かに現代の数々の名演、名録音に比べると、いかにも味が薄い印象があるが、私個人的にはこの演奏で聴く第4番は不思議と心地よい。
 いろいろ書いてきたが、このBox-set、私としては楽曲によって印象にだいぶ差があって、うまくまとめることが出来ないが、名演と思うのは第6番、次いで第7番、なかなか魅力的なところもあると思うのが第4番と第5番、ちょっと他の名録音たちと並べると位置的に厳しいかと思うのが第8番と第9番となる。
 ただ、これくらい廉価なbox-setであれば、私のように第6番目当てで買うことも可能であり、そういった点で良心的なアイテムなことは確かである。

交響曲 第5番
アーノンクール指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

レビュー日:2007.12.1
★★★★★ この天才にしてこの表現ありき
 2004年のライヴ録音である。CD1枚に収録しているが、もう1枚70分以上もリハーサル風景が収録してあり、興味のある方にはいいサービスでしょう。さて、アーノンクールのブルックナーです。
 ニコラウス・アーノンクールという指揮者は現代の音楽演奏に一つの大きな潮流を作った人物で、特にその古典やバロックの演奏において現代オーケストラを用いてピリオド楽器的な奏法の再現を試みたり、あるいはピリオド楽器ならではの効果的奏法を案出したり、という発想は大きな成果となってきた。この成果はアーノンクールが全てではないけど、それにしたって、この人の存在感はめちゃくちゃにでかい。しかし、RCAと契約するやブルックナーに精力的に取り組んだのにはちょっと驚いた。なぜならそのような新しい表現法とブルックナーの音楽は、遠距離にある関係に思えたからである。しかも未完成の第9の終楽章の断片を演奏するなど、アーノンクール氏は相当なブルックナー・マニアであるようだ。そしてこのハース版を用いたウィーンフィルとの第5番も実にユニーク。
 ブルックナーの音楽は元来、長いフレージングを持ったものだと思うが、アーノンクールの手法はブルックナーでも同じで、そのフレージングの拍を自分流に付け直す。あざとくても確信的にやってしまう。そしてオーケストラの音色もかなりアヤがあり、ねっぱるような部分があったり、ちょっとタイミングを広げたり様々なことをやってくる。そのような策はブルックナーとは相容れない、というのが一般的な意見だと思うけれども、その「前提」といったものを軽やかに踏み越えてこそアーノンクールである。第2楽章の木管のフレージングはほとんどイネガル奏法に近づいている。これは面白い。またフィナーレのコーダまで延々と加えられるアーノンクールならではの音造りも楽しい。しかもウィーンフィルの音色であり、聴いてみるとそれはそれで立派にブルックナー足りえていると思えてくる。「この天才にしてこの表現ありき」~最後にはそう頷かされた。

交響曲 第5番
スウィトナー指揮 ベルリン・シュターツカペレ

レビュー日:2010.11.26
★★★★★ スウィトナーのブルックナーの「到達点」を聴く思いがします。
 ドイツ・シャルプラッテンが1986年から録音を開始したオトマール・スウィトナー(Otmar Suitner 1922-2010)とベルリン・シュターツカペレによるブルックナーの交響曲シリーズ。残念ながらスウィトナーの体調のため未完に終わったが、90年までに5曲が収録されることとなった。本盤の第5交響曲は結果的に最後となってしまったもので、1990年に録音されたもの。
 これは2010年に久しぶりに復刻されたスィトナーのブルックナー・シリーズの一つで、廉価版になってくれたことも嬉しい。前述のようにスウィトナーのブルックナーの全集企画は志半ばにして途絶えてしまったのだけれども、考え方を変えると、この第5交響曲までがラインナップに加わることができたのは幸いだったのかもしれない。それは、この第5交響曲がまた見事な演奏だからだ。
 ピチカートの先導から始まる序奏は、スウィトナーらしい速いテンポだが、実はこの速いテンポのアプローチは、全曲で一貫するスウィトナーのスタイルとして示されることになる。金管のファンファーレは完成度が高く、特有のまろみがある。速いテンポでこのフィーリングを獲得できるあたりがスウィトナーとベルリン・シュターツカペレの真骨頂だと思う。その後の第2主題の美しさ、木管と弦の呼応する距離感なども相応しく、融合と屹立の配合が非常に巧み。弦楽器の柔らかく、総体として音を作り上げる雰囲気はスウィトナーならではで、その基盤が全曲を支える。クライマックスのスピード感も見事で、かつ適度な踏み込みやタメがあり、白熱する。コーダも畳み掛けの迫力が圧巻。第2楽章もテンポが速い。あっというまに木管の旋律があらわれ、その旋律も少し流しながら自由度をもって位置どるようなところが面白い。個人的に、このシンフォニーは速いテンポの方が好ましいものが多い印象があり、この録音もその一つ。第3楽章では荒々しい側面をもつ楽曲をたくみに自分のテリトリーに引き込んでいて、楽章間の凹凸を感じさせない演出になっている。終楽章も爽快にして雄大で、速さと大きさを兼ね備えている。フーガはドラマティックに描かれているが、過剰に劇画調にされることはなく、着地点はつねに洗練された気配りがなされている。コーダは末端が広く伸びてことさら雄大な音楽となるが、劇情型ではなく、ルールを守った肌理細やかさがあり、大人びた印象を与える。
 中座してしまったスウィトナーのブルックナーではあるけれど、この第5交響曲の録音を聴くと、スウィトナーとベルリン・シュターツカペレのブルックナーは、至るべき到達点までたどり着いていたようにも思う。

交響曲 第5番
コンヴィチュニー指揮 ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団

レビュー日:2011.10.24
★★★★★ ブルックナーの音楽をもって「ブルックナーそのもの」を語らせた名盤
 フランツ・コンヴィチュニー(Franz Konwitschny 1901-1962)指揮、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団によるブルックナーの交響曲第5番。ノヴァーク版による1960年の録音。
 さて、今でこそブルックナーの交響曲となると、いくつもディスクの選択肢がある。試しに通販サイトで検索してみても、相当な数のディスクがカウントされてくる。私も、ブルックナーの音楽を随分昔から聴いてきたので、中には思い出深いディスクもあるし、最近になって、新しい語法で描かれた新鮮な録音もある。
 しかし、それでも今もって私にとってブルックナーの交響曲第5番の「ナンバー1録音」と言えるのが、実はこのコンヴィチュニー盤なのである。
 実は、このディスク、私の父の愛聴盤である。父もブルックナーが好きで、私がまだ高校生~大学生の頃、自宅のLP棚には、他にケンペ、クナッパーツブッシュ、フルトヴェングラー、マタチッチなどが並んでいた。このころ我が家も「CD化」を迎えたわけだが、父が唯一CDで買いなおしたのがこのコンヴィチュニー盤である。(CDの発売は1993年のことだったらしい)。
 その後、クラシック音楽をよく聴くようになった私は、このディスクが忘れられず、コンヴィチュニーのブルックナーも入手可能なものはすべて購入したのだが、やはり、この第5交響曲が抜群に素晴らしいと思う。
 それでは、この演奏の何が良いのか?・・まずは「素朴さ」である。いっけん、“ぶっきらぼう”とも思える、淡々たる辛口の指揮ぶりであるが、オーケストラが抜群にうまくて、一つ一つの音にたいへんコクがあり、語られる音楽に神妙な味わいをもたらしている。次いで、「快適なテンポ」が良い。この交響曲は、ブルックナーの中でも特に巨大な音の伽藍を築き上げる荘厳さがあるのだけれど、コンヴィチュニーは前述の指揮振りで、ほとんどタメを設けず、朴訥にまっすぐと突き進む。それなのに、それなのに音楽は素晴らしく良く鳴るのである。まさにブルックナーの音楽をもってブルックナーの音楽そのものを語らせたかのような、おおらかな自然さに満ちている。もう一点挙げさせていただくと、「金管の合奏音の見事さ!」、これに尽きる。第1楽章冒頭の序奏が終わったあとの、気風の良い屹立とした鳴りっぷり、まさにヨーロッパの音楽史の本流がそこにあるというリアリティーに満ちた、必然的な美観だ。音響そのものに、強く人の心を揺さぶる効果がある。
 一時、販売されたこのディスクであるが、その後はずっと「廃盤」となってしまっている。是非、いつの日にか、必ず復刻していただけるように、と思う。それにしても、実家にある父のCDは、今となっては本当に貴重である。

交響曲 第5番
ヨッフム指揮 コンセルトヘボウ管弦楽団

レビュー日:2013.1.21
★★★★★ 晩年のヨッフムが遺したことさらにスケールの大きなブルックナー
 2012年は、ドイツの名指揮者オイゲン・ヨッフム(Eugen Jochum 1902-1987)の生誕110年兼没後25年であったとのことで、いくつかライヴ音源などがCD化されているが、中でも、この指揮者の場合、やはりブルックナー(Josef Anton Bruckner 1824-1896)が重要で、発売点数も多い。当盤はコンセルトヘボウ管弦楽団を指揮して1986年に行なわれたコンサートでの、ブルックナーの交響曲第5番(ノヴァーク版)の模様を収録したもの。
 ヨッフムとコンセルトヘボウ管弦楽団によるブルックナーの第5というと、これと別に有名な録音がある。以前からPhilipsレーベルから発売されてきたもので、1964年のライヴ録音である。今回の1986年の録音を聴くにあたって、1964年の名盤を思い浮かべる人も多いのではないだろうか。私もその一人である。結論を書くと、両者の印象は結構異なる。まずその指標として「演奏時間」が良いだろう。両者の楽章ごとの演奏時間を以下に示す。
【1964年録音】1楽章 20'54 2楽章 18'55 3楽章 12'41 4楽章 23'04 (Philips盤)
【1986年録音】1楽章 22'08 2楽章 20'48 3楽章 13'50 4楽章 25'18 (本盤)
 一目見て分かる通り、本86年盤の演奏時間が長い。Philips盤がCD1枚で収録できたのに、当盤は2枚を要している。言うまでもなく、テンポがスローであることを示している。これがヨッフム晩年のブルックナーの特徴である。
 冒頭のピチカートから、壮年期の前進性よりも、一音一音噛みしめるような音楽となっていることに気づく。一つのクライマックスを築くまでに要される時間も長くなり、ブルックナーの音楽の巨大性がさらなるスケールを帯びて示されている。金管の音色も、かつての勇壮さはやや抑えられ、調和性を重んじながら、配色の妙に細やかな配慮を使っている。私は、この晩年のヨッフムのスタイルは、カラヤン(Herbert von Karajan 1908-1989)に近いものを感じる。カラヤンも裾野の広い音楽で、細部を練り上げたブルックナーを燦然と成らせてみせたものだけれど、このヨッフムの演奏を聴いて、すぐに私が想起したのはカラヤンとの類似点であった。
 ただ、このヨッフム盤は、録音の精度としては今一つのところがあり、細部の練り上げの繊細さを注目したいのだけれど、そこが少しぼやける印象も与えている。そこが残念。もっといい音で録音してほしかった。
 しかし、素晴らしいのは内声部の豊かな表情で、特に第2楽章の讃歌的とも言える自然発揚的な情感の発露は、弦楽器陣の豊かな響きに導かれ、なかなか体験できないほどの麗しい響きになっている。また、途中から巨大なフーガとなっている第4楽章は、フィナーレに向けての音の振幅を徐々に大きしていく効果は、実に壮麗で、神々しい感じを与えてくれる。全般に、これまで親しんできたヨッフムの演奏との違いをいろいろと感じさせる演奏になっているが、晩年にこのようなスタイルを求めた巨匠の思いにも気持ちを馳せ、十分な時間をかけて楽しみたい演奏だと思う。

交響曲 第5番
P.ヤルヴィ指揮 フランクフルト放送交響楽団

レビュー日:2013.5.1
★★★★★ 暖かいサウンドで、自然に敬虔な雰囲気を表出
 パーヴォ・ヤルヴィ(Paavo Jarvi 1962-)とフランクフルト放送交響楽団によるブルックナー(Josef Anton Bruckner 1824-1896)の交響曲第5番(ノヴァーク版)。2009年のライヴ録音。
 すでにこの顔合わせで、第7番と第9番がリリースされているため、今回の第5番でブルックナー3タイトル目ということになる。いずれは全集になるのだろうか。
 私はブルックナーの交響曲が好きで、中でも第5番というのが特に好きな作品ということもあり、所有しているCDの枚数も多い。データベースを確認してみると25種を所有していた。同じ曲ばかり25種というのは、人から呆れられる話かもしれないが、こっちにしてみると仕方がない。特に、この曲なんて、指揮者やオーケストラによって、得られる感興がどんどん変わるのだから。ちなみに、たまに「どの録音があなたのベストか?」と聴かれることがある。そういう時は、私はフランツ・コンヴィチュニー(Franz Konwitschny 1901-1962)がゲヴァントハウス管弦楽団と1960年(もうかなり昔)に録音した名盤を挙げている。しかし、早くからそんなベストを持っていながら、それでも私にこれだけ多くの音源を集めさせてしまうのだから、この曲は困ったくらいにいい曲なのである。
 この作品の多様性は、複雑に折り重なった対位法による構造の巨大性によるところが大きい。しかも、ブルックナーの交響曲でも唯一の序奏を持ち、さらに終楽章には壮大なフーガが置かれていて、それぞれにどのような対比を持って楽曲を築き上げていくのか、これは指揮者とオーケストラに課せられた大きく魅力的な命題なのである。さあ、パーヴォ・ヤルヴィとフランクフルト放送交響楽団はどうしますか?
 聴いてみると、これが実にあっさりとしている。この曲にはいろいろと、上記のような「チェックポイント」があるのだけれど、そういったところを節目を感じさせないくらい、小さな負荷で、すらっと通り過ぎていく。実に自然で、聴いているうち、いつのまにか心地よくフィナーレに到達しているのだ。
 パーヴォ・ヤルヴィがオーケストラから引き出すサウンドはやわらかい。ゴツゴツしたところがなく、金管のフォルテも響きが強くても特に立ち上がりのコントロールに繊細な配慮があり、いかにも自然発生的な色合いを持っている。そして、弦楽器や木管のグラデーションは、暖かい雰囲気で、常に周囲との調和を持って、音楽の一部となる。テンポはやや速めであるが、聴いていてそのことを意識することはほとんどなく、自然な強弱の心地よさに身を委ねる状態が持続する。
 私はこの演奏を聴いていて、よく言われる「オルガン・サウンド」に近い響きが得られているように思った。例えば、第1楽章の後半、弦楽器陣の合奏を背景に、木管が序奏の音階を転調させていく夢見るように美しいところなど、この演奏で聴くと、木管の音色がまるでオルガンか何かのように聴こえてくる。
 こうして聴いてみると、ヤルヴィがこの演奏から作り上げたものは、古典的な調和性と、自然讃歌的な敬虔さ、そしてオルガンという単一楽器を連想させる閉鎖性(悪い意味ではなく)のような気がする。それらが、時折純朴と形容されるブルックナーの交響曲を、美しく響かせている。
 演奏によってはゴツゴツした感触が残る後半2楽章のなめらかさにこの演奏の特徴は如実に表れているだろう。ある意味一つの現代的な解釈であり、ソフトな肌触りで、多くの人が悪くないと思える中庸の美を獲得できていると思う。このディスクをライブラリーに1枚加えることが出来て良かった。

交響曲 第5番
シャイー指揮 コンセルトヘボウ管弦楽団

レビュー日:2013.12.3
★★★★★ 心を無に近づけて浸りたいブルックナーです。
 リッカルド・シャイー(Riccardo Chailly 1953-)指揮、コンセルトヘボウ管弦楽団によるブルックナー(Josef Anton Bruckner 1824-1896)の交響曲第5番変ロ長調(1878年原典版)。1991年録音の録音。
 シャイーは、1984年から1999年まで15年を費やして、コンセルトヘボウ管弦楽団とベルリン放送交響楽団(ドイツ・ベルリン管弦楽団)の2つのオーケストラを指揮して、ブルックナーの第0番も含む10曲の交響曲すべてを録音したのだけれど、私の記憶では、日本国内ではそれほど話題にはならなかったように思う。それでも、14年間中止されることなく企画が進行した上に、2013年現在でも輸入盤の「全集」がカタログに残っているくらいだから、少なくともヨーロッパでは、それなりの評価は得ているのだろうと思う。
 日本とヨーロッパ(あるいはアメリカ・カナダ)の全体的な評価の差異というのは、これに限らずよくあることだとは思うのだが、特にブルックナーの場合、日本における権威的な批評家の意見の影響があまりにも大きく、そのため、録音メディアの評価にも全体的に不条理なバイアスがかかってしまったことが大きい。そのため、そのような批評の主流において、好評価を得られなかったものが、カラヤン(Herbert von Karajan 1908-1989)、ショルティ(Sir Georg Solti 1912-1997)の二人の例外を除いて、なんとなく傍流においやられてしまったのだろう。私は意識的にその「傍流路線」を聴くようにしてきて、このシャイーの演奏もとても良いものであったという印象を残している。
 今回、第5交響曲を聴き直して、その感を新たにした。これほどすべてにバランスが取れて欠陥の少ないブルックナーというのは、そう聴けるものではない。
 一つ、前提として言えることとして、この時代のシャイーと、それからデッカのスタッフによる「音づくり」の主張が、非常に明確なことを挙げておきたい。一つ一つの響きの明瞭さ、楽器の分離のよさ、パワーバランスの的確さ、そういった感性を徹底的に磨き上げた象徴的録音として、この時代のシャイーの一連の録音は存在している。
 その前提を踏まえ、シャイーのアプローチは実に堂々としたもの。オーケストラ全体のふくよかな呼吸を把握し、フレーズとフレーズのつなぎとなる間合いや全休符の織り込みがきわめて自然で、高度な一体性を保っている。第1楽章の序奏の後のファンファーレの響きのソフトでありながら、しかしきちんと芯の通った響きは、残響が消える瞬間まで瑞々しさを失わず、実に新鮮な味わいを残して、次への橋渡しをしてくれる。主題は内発的な活力を生かし、付点のリズムはアクセントとの調和を重視し、出過ぎず、しかし確固たる存在感を示す。中でも木管の美しさは出色で、特にクラリネットの鮮明さは素晴らしい。
 第2楽章のアダージョでは弦のグラデーションが見事で、どれほど音を重ねても、決してダマになることのない線の成分がきちんと保持されているのが気持ちよい。第3楽章のスケルツォも気品を満たしながら、適切な迫力を獲得している。終楽章も遅すぎも速すぎもしないテンポで、暖かく、まろやかな音彩を用いて、巨大なフーガの伽藍を精緻に描き出している。
 コンセルトヘボウ管弦楽団の音色も素晴らしい。適度に混ざり、適度に分かれ、アコースティックな味を常に響かせている。
 今でも、この録音が顧みられることはあまりないと思うのだけれど、ブルックナーの交響曲が好きな人には、ぜひ機会があれば聴いてほしいと思う。ひょっとして「これはこの曲の決定盤じゃないのか」と思う人がいたとしても不思議ではない。権威ある批評家の意見を訊くのも悪くないですが、まっすぐ自分の自然体だけでブルックナーに接するのはもっといいと思います。そう思わせてくれる録音です。

交響曲 第5番
シャラー指揮 フィルハーモニー・フェスティヴァ

レビュー日:2014.9.25
★★★★★ 正統的名演と言っていいでしょう。
 ドイツの指揮者、ゲルト・シャラー (Gerd Schaller 1965-)が、ミュンヘン・フィル、バイエルン放送交響楽団、バイエルン州立歌劇場管弦楽団の首席奏者らで構成されるオーケストラ“フィルハーモニー・フェスティヴァ”を指揮してライヴ録音を継続しているブルックナー (Josef Anton Bruckner 1824-1896)の交響曲シリーズ。
 本盤は2013年の7月に収録された「交響曲 第5番 変ロ長調」。
 いつものように、バイエルン州のエーブラハ(Ebrach)にある残響の豊かな大修道院附属教会でのライヴ。なお、本シリーズはこれまではウィリアム・キャラガン(William Carragan)が監修したスコアに基づいて演奏・録音が進められてきたが、この第5番については、正式な記載はなく、ほぼノヴァーク版によっていると思われる。(ただし、第1楽章でのクラリネットとフルートの置換など、いくつかの相違点があるようだ)。
 演奏は、いつものように会場の残響を活かしたもの。およそ4秒程度の残響から逆算した演出を巧みに取り入れ、ブルックナーの交響曲でしばしば指摘される「オルガン的」な響きをよく体現したものだと思う。
 また、今回の録音を聴いて感じたことであるが、彼らのこれまでのブルックナー演奏の実績からか、この作曲家の作品を演奏することに対するゆるぎない自信のようなものが満ちている。これは、聴き手である私の印象に起因するところが大きいのかもしれないけれど、この第5番では、シャラーは中庸の美を得た表現を心得ながらも、壮麗で幻想的とも言える金管の伽藍を、悠々と築き上げていて、その壮大なスケール感は、この作品が表現する「大きさ」を、ストレートに聴き手に伝えるものとなっていると思う。
 第1楽章は金管の壮麗なコラール風の響き、第2楽章は、フルート、クラリネットと弦楽器陣のエレガントな交錯が特に聴きものだと思う。第3楽章は、正統的な解釈の聴き易さに満ちている。
 当録音で、私がいちばん印象に残ったのは第4楽章。この楽章を聴くと、私は、「本当にブルックナーという人は、不思議な作曲家だな」と思う。軽妙と言うか、ひょうきんと言うか、形容しがたい主題で、豪壮なフーガを築き上げて、あまつさえ交響曲の終楽章にしてしまうなんて、ちょっと他の音楽家からすると「ありえない」くらいのレベルに思える。この終楽章に関しては、歴代の巨匠たちにも、どうやってまとめようかと苦心の跡がうかがえるような録音が多い。しかし、このシャラー盤、最初のクラリネットによる提示から、非常にヴィヴィッドで色めいた方法論を採用する。さらに、その活力が、二重フーガ全般に供給され、最終的に偉大な勝利の凱歌に結びついていくのである。この終楽章のドラマチックな展開が、とてもカラフルで鮮やか。これまでシャラーのブルックナーを一通り聴いてきたけど、このような感慨に浸ったのは、この楽章が初めて。
 あるいは、ブルックナーにしては、当演奏の終楽章は発色があり過ぎる、と言う人もいるかもしれない。しかし、私はこの演奏において、当該解釈は、演奏を「全体をまとめる方向」に導いていると思うし、演奏会場の音響効果なども十分に計算に入れての効果的なものだと考える。決して、やり過ぎた感じを与えるものではないだろう。
 むしろ、これまでのシリーズの売りであった「キャラガン版」というスコア的価値観とはまったく別の次元で、ストレートに彼らの実力を解き放った正統的名演として、堪能したい内容です。

交響曲 第5番
ヤノフスキ指揮 スイス・ロマンド管弦楽団

レビュー日:2015.4.28
★★★★★ 現代的な感性で緻密に設計されたブルックナーの第5交響曲
 マレク・ヤノフスキ(Marek Janowski 1939-)指揮、スイス・ロマンド管弦楽団によるブルックナー(Anton Bruckner 1824-1896)の交響曲チクルス第3弾で、2009年に録音された「交響曲 第5番 変ロ長調」。
 先に録音された第9番、第6番と同様に美麗な録音技術に支えられた透明感に満ちたブルックナーである。
 ブルックナーの交響曲第5番は時代とともに解釈が変わってきた作品の一つだと思う。かつてはフルトヴェングラー(Wilhelm Furtwangler 1886-1954)、マタチッチ(Lovro von Matacic 1899-1985)、コンヴィチュニー(Franz Konwitschny 1901-1962)に代表されるような、ヒロイックと言える勇壮な力強さが主張されることが多かったが、最近では洗練を極めた敬虔な祈りを感じさせる演奏が主流だ。この楽曲はとても面白い構造と美しい旋律を持っているし、4つの楽章もかなり性格的だから、様々な解釈を受け入れるのだろう。
 このヤノフスキの録音も、そのようなカテゴリでは、明らかに現代のブルックナーと言うことができる。特にバス・トロンボーンなどの低音を担う金管を厳密に制御して、木管のフレーズを浮き立たせているところが多いのは、例えばシャイー(Riccardo Chailly 1953-)らの解釈に近いものを感じる。
 テンポはとても一般的で、どの楽章をとっても、「早い」とも「遅い」とも感じない。ヤノフスキは、音色の混濁を排し、必要な音型の輪郭がすべてくっきりと鳴ることを心がけるが、そのためのテンポ設定は従来的なもので、十分であったのだろう。
 この交響曲は、全編を通して、激しい動と静の対比が繰り返される。ヤノフスキの演奏を象徴する場所は、静に変わる一瞬の闇の深さ、その後の最初に聞こえる音の精神的な気高さを感じさせる清澄さにある。そのため、例えば第3楽章など野趣的と言うには優しい滑らかさを感じさせる響きだ。全管弦楽による舞曲調から、弦楽合奏へ転換する瞬間に特有の気配が満ちていて、私はブルックナーを強く感じるのだ。
 フィナーレも同様で、移り変わりの激しいフーガにおいても、一瞬の凝縮や弛緩に、素晴らしい美観を放つのである。
 それに比べると前半2楽章は、普通の良演というイメージが強いかもしれない。特に第1楽章は、コラール的な金管のフレーズがなだらかに整えられていることなどにより、やや平板さを感じるところもある。というより、この楽章については、古今様々な名演・名録音があったため、私が無意識にそれを持ち出して、低音の出力に弱さを感じてしまうからかもしれない。しかし、何度か聴くと、これもヤノフスキの緻密な設計の一つであると納得できる。全体のバランスの美しさという大局的な観点をもってのアプローチであり、それは後半2楽章まで聴くことによって、獲得される価値であろう。
 録音の美麗さも手伝って、現代の代表的名演の一つとして数えることのできるものだと思う。

交響曲 第5番
ティントナー指揮 ロイヤル・スコティッシュ・ナショナル管弦楽団

レビュー日:2017.6.27
★★★★★ 朴訥に、素朴に、まじめにブルックナーを表現した好演奏
 ゲオルク・ティントナー(Georg Tintner 1917-1999)指揮、ロイヤル・スコティッシュ・ナショナル管弦楽団によるブルックナー(Anton Bruckner 1824-1896)の「交響曲 第5番 変ロ長調」。1996年の録音。
 ティントナーの指揮者としての名を確立したのは、ナクソス・レーベルによるブルックナーの交響曲シリーズだろう。ティントナーはウィーンで生まれ、ウィーン少年合唱団の団員として過ごした。そのころに指導を受けたのがブルックナーの弟子であったフランツ・シャルク(Franz Schalk 1863-1931)である。
 シャルクは、現在ではあまり評判がよくないブルックナーの交響曲の改訂でその名を知られる。ブルックナーの交響曲第5番においても、後半2楽章に大ナタをふるった「シャルク版」のスコアは、この曲の初演を振ったシャルクによるものである。現在では、その改訂ぶりの激しさは、受け入れがたいものと考えられているが、シャルクの意図はブルックナー作品の普及にあった。また、後年、このシャルク版を重用したクナッパーツブッシュ(Hans Knappertsbusch, 1888-1965)のような人も居るには居た。
 ちょっと話がずれたが、ティントナーは若くしてブルックナーの影響の強い音楽環境でその感性をはぐくんだことは容易に想像されるのである。そんなティントナーが、イギリスの地方オケを指揮して録音したこのブルックナーは、実に素朴で、純朴で、愛すべき雰囲気に満ちたものとなっているのが興味深い。
 ティントナーは、やや早めのテンポを主体とする。それぞれの楽器の音色も素朴といって良いもので、それは、一流オーケストラのように「どこをとっても見事な音響」と言うわけではないのだけれど、実に聴き易いマイルドな響きにうまく集約されている。両端楽章は壮大な表現と言って良いだろう。たびたび心地よい加速感をともなって音楽が盛り上がるが、全体のスケール感を維持しながら、緩急を巧みにコントロールしており、この長大な楽曲をわかり易く聴かせてくれるのは魅力だ。アダージョは、聴きはじめてすぐ、テンポに「早さ」を感じる人が多いと思うが、その後の処理が合理的で、聴き進んでいくにつれて、風味が失われるようなことがないことに気づく。それどころか、当演奏の第2楽章は、暖かい感情的な充実感を聴き手にもたらしてくれるだろう。指揮者の確信をもった表現手法に違いない。さらにスケルツォは力強い迫力に満ちていて、いかにもブルックナーらしい。
 このティントナーというブルックナー指揮者を発掘したナクソスの着眼点は、流石という他ない。素朴さを感じさせるオーケストラの音色も、聴いているうちに、いよいよブルックナーに相応しく感じられてくる。
 なお、録音の点では、やや減衰が急な印象があり、聴き手によっては、気になるかもしれません。

交響曲 第5番
ヴェンツァーゴ指揮 タピオラ・シンフォニエッタ

レビュー日:2021.2.4
★★★★☆ 60分で終わるブルックナーの第5
 スイスの指揮者、マリオ・ヴェンツァーゴ(Mario Venzago 1948-)指揮、タピオラ・シンフォニエッタによるブルックナー(Anton Bruckner 1824-1896)の「交響曲 第5番 変ロ長調」。ヴェンツァーゴによる、5つのオーケストラを指揮しての、一連のブルックナー録音の最後となるもので、2014年に録音されている。ヴェンツァーゴのブルックナーは、少し話題になっていたが、私は今になって、当盤で、初めてその演奏を聴いた。
 特徴のある演奏である。音色は軽く、テンポも速い。そしてピリオド奏法を思わせる弦楽器の響き。イネガル奏法のようなニュアンス。全曲の演奏時間は60分ほどで、これはおそらく原典版のブルックナーの第5交響曲の演奏時間として、最速ではないかと思われる。
 特徴的な奏法と速さ・軽さの組み合わせ。これがヴェンツァーゴとタピオラ・シンフォニエッタのブルックナーを特徴的なものにしている。彼らのピリオド的奏法は、アーノンクール(Nikolaus Harnoncourt 1929-2016)がウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮して2004年に録音したものを思い起こす。それは、存在感のある演奏で、特有の間合いを用いながら、踏み込みもあり、別のステップをとりながらも、ブルックナー的な要素を維持しながら、新しい地形にたどり着いたような、説得力のある演奏だった。当ヴェンツァーゴ盤を聴いて、私が最初に感じたのは、アーノンクール盤との類似である。いずれもヴィブラートを抑制することで、壮大さを減じている。それはブルックナー的なものからの乖離を意味する。しかし、アーノンクールの録音が、その清浄な音で、独特のうねりを作り出したのに対し、このヴェンツァーゴの録音は、この交響曲を「ブルックナーらしく」響かせることになど、いよいよ興味がないように感じられる。
 もちろん、これは私がそう感じるというだけで、ヴェンツァーゴは、これこそブルックナーに然るべき響きである、と確信をもってドライヴしているのかもしれないが。。。とはいえ、長い事ブルックナーを聴き、自分の体に、自分なりの「ブルックナーらしさとは」みたいなものがそれなりに醸成された私の感覚で言えば、もう、すごく違うのである。方法論はアーノンクールを踏襲しているが、意図はまったく別といった感じがする。
 それで、このブルックナーの交響曲第5番を聴いていると、音自体は率直に言って軽やかで聴き易い。終楽章など、テキパキと、透明感のあるフレージングで、展開部の構成が分かりやすい。・・ではあるが、私がブルックナーの演奏に求めるもののプライオリティーとしては、その点はそれほど重要ではなくて、やはり壮大な遠近感の中で、精神美や神秘性がいかに扱われるか、どのように表現されるか、といったことにより大きな注意が向く。なので、この演奏に接していると、どうもエネルギーの流れ方が、方向違いと感じられてしまうのである。
 とはいえ、ブルックナーの交響曲を長い事聴いてきた身には、ある種の気分転換になる演奏ではあった。オーケストラも指揮者の意図をよく汲んで、響きは精緻と言って良い。そういった点で、アーノンクールにはあまり感じられない洗練の要素は、魅力の一つであろう。
 というわけで、全局的に歓迎というわけではないが、一定の面白さと興味を満たす、純度の高い演奏ではあると感じた次第です。

交響曲 第6番
サヴァリッシュ指揮 バイエルン国立交響楽団

レビュー日:2004.2.14
★★★★★ 第6の、ひとつの理想的名演
 ブルックナーの第6交響曲は、初期の作品を想起させるような小振りのかわいらしい仕上がりで、巨大な第5と名作第7の間にあって特異な位置をしめる。ちょうどベートーヴェンの第4番の位置に似ている。また、曲中の第2楽章の澄み切った音楽は、彼の到達した最高の高みの一つである。加えて、第3楽章のスケルツォも後期スケルツォ的な美しさと野趣性にあふれた魅力的音楽だ。
 サヴァリッシュ盤は計算されつくした理想的美観に統一されている。第1楽章、付点のリズムにのって提示される金管合奏の彫像性と立体感は実にみごと。この曲の決定盤に推す人も多いのではないか。

交響曲 第6番
アルブレヒト指揮 チェコ・フィルハーモニー管弦楽団

レビュー日:2009.5.24
★★★★★ 精緻に研ぎ澄まされたブルックナーの第6交響曲
 ブルックナーの交響曲の中で「第6番」は地味な存在だ。この後に聳える偉大な第7、第8、第9の3曲があり、またその前には第3、第4、第5の馴染みやすい名品がある。それらに比べて第6交響曲は旋律線がやや平板で、ブルックナーにしては対位法による展開も規模が小さい。しかし、よい演奏で聴くと、非常に聴き栄えのする「いい曲」であることは間違いないのである。ことに第2楽章のアダージョ、第3楽章のスケルツォの充実は、間違いなく後期の3大交響曲への布石ともいえる素晴らしい部分だ。
 このアルブレヒトの録音はチェコフィルの輝かしいブラスのサウンドを活かして、明瞭にして克明な演奏だ。第1楽章の弦のリズムから精緻であり、細やかな音の綾や交錯が端的で的確に表現されている。一言で言うと「洗練されている」。
 その高度な「洗練」は、どことなく野暮ったさのあるこの曲の第1楽章を、美しくスリム・アップしている。ヨッフムやクレンペラーのように「大河風」というのではなく、むしろ都市近郊型ともいうべき計画性を感じる瀟洒さが満ちている。どちらがいいと言うのではなく、この曲はこのようなアプローチでも、また別の魅力が一層輝くと思うのだ。これまたブルックナーにしては簡素な終楽章も、フィナーレに向けてきれいに一つの音楽としてまとまった感があり、通して聴いてみて、転結のとれた、きちんとした一つの交響曲を聴いたという充足感を感じさせてくれる。

交響曲 第6番
ショルティ指揮 シカゴ交響楽団

レビュー日:2009.12.30
★★★★★ 地味と思われがちな第6交響曲のイメージを払拭する大快演
 ショルティは1979年から90年代初めにかけてブルックナーの交響曲を全曲録音した。この全集は習作と位置づけられる「第0番」も含むものである。それまでショルティはウィーンフィルと第7番、第8番の2曲しか録音していなかったので、第0番も含めた全集の完成は意外な感じもあった。
 私はショルティのブルックナーのシリーズでは第9番を聴き、その圧倒的なパワーと精緻なメカニズムに非常に強い感銘を受け、いよいよブルックナーの音楽の世界に没頭していった経歴を持つ。なので、ショルティのブルックナーは今もって特別な存在である。
 しかし、海外ではわからないけれど、日本ではショルティのブルックナーというのはあまり評価されなかったと思う。これはおそらく一部の批評家が、何人かの指揮者の演奏を「ブルックナーの演奏はこうでなくてはならない」と規定し、他の演奏を受け入れない風潮を誘導した影響が大きいと思う。もちろん、それらの推奨された演奏も悪いものではなかったが、楽曲というのは様々な解釈とアプローチによって、違った輝きを放つものだし、「正しい」とか「こうでなくてはならない」というものではないと思うのだが。録音芸術においてコメントする側は、いくつかの教養や感性を背景として言及することはできても、あらゆる感受性を踏まえることなど到底できないのだという大前提を忘れてはならないだろう。
 つまり、このショルティのブルックナーの第6交響曲の録音など、本当に素晴らしい演奏なのだけれど、かような紆余曲折で、あまりきちんと聴かれていないのではないか、と心配を述べたのです。
 第1楽章からとにかくスケール壮大。金管の素晴らしい恰幅の鳴りはまさに巨大な大河交響曲である。巨大な山脈から深い谷を見下ろすように鳴り渡るホルンはブルックナーの音楽がまぎれもなく持っている外面性を証明してやまない。明朗な音響は第2楽章のアダージョにも深い陰影を刻んでいる。また細部まで確信に満ちたゆるがない音が、この交響曲をより逞しく際立たせる。第3楽章のスケルツォも鮮やかの一語に尽きる。そして運動的で浪漫的なフィナーレは勝利の行進を思わせる。
 「ショルティのブルックナー」というだけでなく、ブルックナーの交響曲の中では比較的地味と思われがちな「第6交響曲のイメージ」さえ払拭する大快演だ。

交響曲 第6番
ヨッフム指揮 コンセルトヘボウ管弦楽団

レビュー日:2013.1.21
★★★★★ 田園的で、神への祈りを感じさせるブルックナーの第6交響曲
 2012年にTAHRA原版のヨッフム(Eugen Jochum 1902-1987)によるブルックナー(Josef Anton Bruckner 1824-1896) 4点が再発売されたうちの一つで、1980年にコンセルトヘボウ管弦楽団を指揮してのライヴ音源である交響曲第6番を収録したもの。4点いずれも聴かせていただいたが、私個人的には1975年の第4番と、この第6番の2点がことに素晴らしかった。
 ブルックナーには初期の習作とされる作品を除くと、第1番から第9番まで9曲の交響曲がある。世間では、このうち後期の第7番、第8番、第9番の3曲か第一級の傑作として知られ、それに次ぐのが第3番、第4番、第5番とされることが多い。しかし、私個人的には9曲の交響曲は、どれも聴いてみると面白いし、よく書けていると思う。後期の3曲が凄い作品だというのは、私もその通りだと思うけれど、第1番、第2番、第6番も含めて、ほかの曲も全部いい曲だと思う。実際、ヨーロッパでは早くから、この第6番なども演奏会のレパートリーに加わっていたわけである。
 交響曲で「第6番」と言うと、ベートーヴェンの田園交響曲がこのナンバーになるのであるが、ブルックナーのこの交響曲も「田園的」と言われることがある。牧歌的とでも言おうか、なんとも大らかで明朗な歌に満ちており、ブルックナーの数ある作品の中でも、最も明るい曲ではないだろうか。かつてブロムシュテット(Herbert Blomstedt 1927-)が、この曲とワーグナーのシークフリート牧歌を一緒に収録したのも、そのような印象からだと思う。
 このヨッフムの演奏は、その牧歌的な風情を丹念に歌いこみ、どこか宗教的ともいえる祈りの要素を感じさせる。じっさい、ヨーロッパでは、宗教観と生活観には、接する所が多いのであるが、それを音楽で鮮やかに体現したような雰囲気がある。例えば第1楽章のコーダに入ってくるところから、第1主題を呼応させ音楽が盛り上がってくるところ、その応答の様子は、私には、日々の祈りの音色の様に聴こえる。もちろん、私には、彼らの生活観や宗教観というのは、イメージでしかわからないのだけれど、敬虔なカトリック教徒であり、教会オルガン奏者を務めたブルックナーが、そのような背景を持ちながら音楽を書いたというのは事実だし、それに彼は最後の未完の交響曲(第9番)を「愛する神」に捧げた人物でもある。この演奏からそのようなものを感じたとしても、大きく的外れではないと思う。
 壮年期のヨッフムの演奏に比べると、金管の響きなど柔らかくなり、周囲との溶け込みが重視されているが、そのことによって穏やかな肌合いの音楽が導かれ、このような印象をもたらしていると思う。
 第2楽章にも、その感は深い。なんと憂いと慈愛に満ちた音楽として聴こえてくることか。これは弦楽器陣のふくよかな深みのあるサウンドが、音楽に多層なニュアンスを与えていることによる効果であり、ベートーヴェンの田園交響曲の第2楽章を彷彿とさせるものでもある。ブルックナーの田園交響曲と呼ぶに相応しい相貌が、ヨッフムのタクトにより表出した興味の尽きない演奏の記録である。

ブルックナー 交響曲 第6番  バッハ(ヴェーベルン編) 6声のリチェルカーレ
ドホナーニ指揮 クリーヴランド管弦楽団

レビュー日:2012.10.10
★★★★★ 一つの「的を得た解釈」と言えるドホナーニのブルックナー
 クリストフ・フォン・ドホナーニ(Christoph von Dohnanyi 1929-)指揮クリーヴランド管弦楽団によるブルックナー(Josef Anton Bruckner 1824-1896)の交響曲第6番と、バッハ(Johann Sebastian Bach 1685-1750)作曲、ヴェーベルン(Anton von Webern 1883-1945)編曲の「6声のリチェルカーレ」を収録したアルバム。ブルックナーは1991年、バッハ/ヴェーベルンは1993年の録音。
 ドホナーニはクリーヴランド管弦楽団を指揮して、ブルックナーの交響曲の第3番から第9番までの7曲をDECCAレーベルに録音したが、率直に言って、2012年現在ではほぼ忘れられた存在といっていいだろう。長いこと再販されることもなく、入手が可能なのは中古市場のみである。私も当ディスクについては中古盤を入手したわけだが、私個人的に、ドホナーニの一連の録音は、もっと高い評価を得てしかるべきだと考えている。特にこのブルックナーなど、当時のDECCAの高い録音技術と相まって、すばらしく効果的なサウンドが獲得されている。
 ドホナーニの演奏の特徴として、まずは精緻なインテンポによる設計を挙げたい。人によってはややメカニカルと言えるほどの棒さばきで、実にクールに音楽を進める。次に、音色のあっけらかんとした明るさを挙げる。初期ロマン派であるブルックナーの音楽は、信仰心の反映はあるが、基本的には標題性があるというわけではなく、純朴な調和を目指して、対位法を展開させた音楽である。なので、ことさら情念を宿す音楽表現を求めるものではないとは思うが、中でもドホナーニのまっすぐな明朗性は微笑ましさを感じるほどに音楽の成り立ちに即したものだと思う。さらにもう一つ付け加えるなら、音響の克明な輪郭がある。ドホナーニのタクトは明瞭な音響の分離性を確保していて、音の立ち上がりが鮮明で、その結果、立体的な音響効果を感じやすい音色が導かれる。
 以上の特徴を持って奏でられたブルックナーは、明るくもくっきりした色彩感を帯び、古典的な構築性を引き締めたシャープな印象になる。当演奏は、かつての大家による演奏と比べて、しばしばブルックナーらしくないと形容されるタイプのものなのかもしれないが、しかし、その「ブルックナーらしさ」とは何なのか、と考えたときに、前述の古典的な外因性の音楽の側面が強いことや、宗教的な背景を持った音楽であるというブルックナーの音楽の特徴を踏まえたとき、むしろこのドホナーニの演奏は、一定の的を得た解釈のように感じる。
 中でも第2楽章の淡々としながら、しかし管弦楽の鳴り切った牧歌的な情感は、溢れるほどの叙情の表出にまで繋がっており、この方法論による最大の成果が得られた瞬間のように感じられる。全般にブラスの響きの絶対的な美観も素晴らしい。
 末尾に加えられた「6声のリチェルカーレ」は、「音楽の捧げもの」の第5曲をヴェーベルンがオーケストラ曲に編曲したものだが、こちらも明晰に描きながらロマンティックな風情を醸し出す効果がよく出ており、秀逸な演奏だと感じられた。ぜひ、新たな機会を設けて、ドホナーニのブルックナーの録音全般の再評価を願いたいところだ。

交響曲 第6番
シャラー指揮 フィルハーモニー・フェスティヴァ

レビュー日:2015.1.20
★★★★☆ シャラーとフィルハーモニー・フェスティヴァによるブルックナー、9曲目の録音
 ゲルト・シャラー(Gerd Schaller 1965-)指揮、フィルハーモニー・フェスティヴァによるブルックナー(Josef Anton Bruckner 1824-1896)の交響曲第6番イ長調。2013年の録音。当盤の登場で彼らによるブルックナーの交響曲は、第1番から第9番まで揃ったことになる。このたびも残響豊かなエーブラハ大修道院附属教会におけるライヴ録音となっている。
 シャラーのブルックナーのシリーズでは、たびたびキャラガン校訂譜を中心とした新訂スコアの使用があったが、元来稿の問題の少ない第6番に関しては、そのような記載はなく、聴く限り通常のノヴァーク版と考えて良さそう。
 演奏であるが、これまでの彼らのシリーズの中でも特に穏当というか、良識的という形容が当てはまりそうな演奏。響きの柔らか味が特徴的。いつものように残響時間を考慮しての全休符の間合いから逆算した、それゆえに決して早足とはならないテンポ設定である。この交響曲はブルックナーにしては、展開がコンパクトで、古典的様式美が貫かれているから、そこに前述の設計によるテンポを導入した場合、端正で丁寧に音楽を運ぶ印象が誘導される。
 冒頭から一貫して余裕があって、遅くならないような配慮の保たれたテンポで、一つ一つの楽器が余裕をもって響くところが美しい。第1楽章の全合奏によるフォルテでも、金管の音圧は柔らかく、暖かく包み込むように響き渡る。牧歌的第2楽章もきわめて穏当。すべての表現が妥当で、ブルックナー的な美しさが過不足なく引き出されている。
 第3楽章のスケルツォも、意識して引き締めたり、果敢に攻めたりする表現とは無縁で、演奏会場のホールトーンを存分に味わわせてくれる音響を構築している。第4楽章も洗練された律儀なスタイルである。金管のまろやかな響きは、高級な美観を引き出しているだろう。
 こうして聴いてみると、この演奏は、彼らのシリーズ中にあっては、個性を感じにくいものになっているとも思う。彼らの個性を強く感じるのは、やはり2007年録音の第4番、2008年録音の第7番の2曲であり、その後のシリーズでは、むしろオーソドックスな良演という印象が強まってくる。この第6番もそのような印象で、スタンダードで正統的な解釈と、豊かな残響のある録音会場によって、ブルックナーの交響曲のオルガン的な響きが、素直に引き出された演奏の一つと考えて良いと思う。

交響曲 第6番
ヤノフスキ指揮 スイス・ロマンド管弦楽団

レビュー日:2015.4.27
★★★★★ 高品質な録音で、細部まで細やかに設計されたブルックナーを堪能
 マレク・ヤノフスキ(Marek Janowski 1939-)指揮、スイス・ロマンド管弦楽団による、ブルックナー(Anton Bruckner 1824-1896)の交響曲全曲録音の第2弾で、「交響曲 第6番 イ長調」を収録。2009年の録音。
 第1弾となった第9交響曲では、これまで聴いたことがないほどの透明な響きから、虚無を思わせる闇や、無と対比する音彩が引き出され、私はたいへん興奮した。この第6番では、第9番ほどに強いインパクトを持たないが、基本的には第9番と同様に、コントラストを感じさせる演奏となっている。
 第9番との違いを指摘すると、第9番の特に第1楽章で、やや早めのテンポをベースとしながら、速度の変遷により、時に強烈とも思える印象の落差を見事に織り込んだのに対し、この第6番では、そこまで強烈な印象を受けず、第1楽章はむしろ穏当で一般的と言っても良いテンポから大きく離れることはない。
 ただ、これは楽曲の違いによる部分が大きいだろう。第6交響曲という作品は、古典的ともいえるコンパクトな設計によっていて、第1楽章における二つの主要な主題の扱われ方は、第9番のように浪漫的ではない。そのため、この印象の違いは、ヤノフスキのスタイルによるものではなく、楽曲の構造的差異による部分が大きいだろう。
 しかし、この第6交響曲も立派な演奏である。冒頭の弦が刻むリズムの明瞭さは、ヤノフスキのブルックナーの特徴を早くも示している。さらに、その後の展開においては、音型の受け渡しにおける楽器間の役割の鮮やかな分離によって、奥底まで光が届くような彫像性を獲得し、この演奏の性格が明らかになる。第1楽章のコーダで、金管陣の音後圧が一気に上がる瞬間に、それまでの設計が作用して、聴き手は、一層劇的な効果を受け取ることになると思う。
 アダージョはやや遅めのテンポで、一つ一つのフレーズをいかに照らしつくすか、という観点から設計した音楽で、楽器の響きの分離が良く、距離感が明瞭だ。やや味の薄い印象も受けるが、ブルックナーの音楽は美しく響いており、十全な印象。第3楽章は力強い推進力に満ちている。
 第4楽章はやや早めのテンポで、全般にかなりスッキリした響きになっている。この楽曲が持つ素朴な明朗性が高らかに謳歌されている。
 録音の素晴らしさも特筆したい。ホールトーンを緻密に計算した響きが詳細に捉えられていて、音の情報量が、そのまま音場の再現性に直結している。眼前で繰り広げられるような美麗なオーケストラ・サウンドを堪能できる。

交響曲 第6番
ハイティンク指揮 ドレスデン・シュターツカペレ

レビュー日:2018.6.29
★★★★☆ 正統的良心的演奏。第2楽章は極上の出来。だが、「この曲らしさ」を出すために、もう一つ何か欲しいところも。
 シノーポリ(Giuseppe Sinopoli 1946-2001)の急逝を経て、シュターツカペレ・ドレスデンの首席指揮者となったハイティンク(Bernard Haitink 1929-)が、同オーケストラを指揮して2003年にドレスデンのゼンパーオーパーでライヴ収録されたブルックナー(Anton Bruckner 1824-1896)の「交響曲 第6番 イ長調」。
 当盤の演奏について書く前に、ちょっとこの曲に関することを綴ってみたい。私がまだ高校生くらいだったころ、自宅に諸井誠(1930-2013)の「交響曲 名曲名盤 100」という本があり、私がクラシック音楽の世界に分け入るのに、とても参考にさせてもらった。この中でブルックナーは第0番から第9番までの10曲が掲載されていて、諸井氏は「三大交響曲に何を選ぶか」という話題を振りながら、ご自身の案として「3大(7,8,9)、3中(3,4,5)、3小(0,1,2)」と示し「第6交響曲はこうした系列に当てはまらない」と主張されていた。その理由について、第6交響曲に関する記述で、明確に定義したわけではないが、私も、この交響曲の存在には様々に不思議さを感じる。
 ブルックナーの交響曲が、巨大化複雑化していくプロセスの中で、突如現れた簡明な書法による第6交響曲は、妙に明朗で、室内楽的と言っても良い構造を持つ。第1楽章を中心に、しっかりとした縦線のリズムとこれに基づく動議が全体を支配するのも、ブルックナーの作品の系譜にあって異質さを禁じ得ない。自身の作に、完成後もたびたび手を入れて複数の稿を編み出した作曲者は、この曲はサラリと書きあげてそのまま手付かず。弟子たちもほとんどこの作品には触れていない。どこかしら、ブルックナーという人とその作品のことを知れば知っただけ、この第6交響曲の存在は「浮く」のである。
 しかし、その一方で、この作品は名品であるとも思う。麗しい情感があり、明朗な彫像性をもった主題と、甘美なものの対比に名曲らしい毅然たる趣きがある。そんな作品にどのようなアプローチで臨むのか。
 さて、このハイティンクの演奏であるが、実にオーソドックスなアプローチである。同じシリーズから、ハイティンクが2002年に同オーケストラを指揮した第8交響曲のライヴがリリースされているが、それと同様に、管弦楽の自発性、そして全体的なマイルドな響きを十全に引き出す。以前の彼の録音に比べて、テンポの揺れはやや大きくなっているとは言え、全般に均衡感覚が強く働き、逸脱するような手法はとっていない。その結果、安心感をもった豊穣な音楽が展開されている。特に第2楽章の憂いとほの暗さを含んだ情感は、現代的な美観を維持しながら、最善といって良いレベルでテンポと音色が整えられており、その美しさには心を奪われる。
 他方で、この交響曲に特有な性質はさほど強調されていない、とも感じる。例えば、第1楽章の冒頭から最初のクライマックスまでの間も、リズムは効いてはいるが、支配力はそこまでではなく、その結果、もたらされる対比感は緩和されていて、聴き様によっては「ぬるく」聴こえても不思議はない。
 「この交響曲らしさ」をある意味で緩和した演奏であり、その方向性で高い完成度が示されているが、私には、少し心残りなところもある。

交響曲 第6番
ネゼ=セガン指揮 モントリオール・メトロポリタン管弦楽団

レビュー日:2020.3.5
★★★★☆ ネゼ=セガンの意欲的な解釈ですが、好悪が分かれるかな
 ネゼ=セガン(Yannick Nezet-Seguin 1975-)指揮、モントリオール・メトロポリタン管弦楽団による、ブルックナー(Anton Bruckner 1824-1896)の「交響曲 第6番 イ長調」。2012年のライヴ録音。
 ネゼ=セガンは、同世代の指揮者の中で、特に注目すべきブルックナー指揮者であり、いち早く、モントリオール・メトロポリタン管弦楽団と全曲録音を完成している。
 当盤はその中の1枚。ここで、ネセ=セガンは、ブルックナーの音楽の古典性に立脚したアプローチに徹している。一貫性を感じさせるテンポ、客観性の高い俯瞰性で、全体を見通し、テンポルバートは控えめであり、澄んだ響きを徹底している。
 個人的にそんなアプローチが奏功していると思うのが偶数楽章である。第2楽章はブルックナーが書いた最も美しい音楽と言っても良いものだが、ネゼ=セガンは不用意なルバートを極力避けなら、澄んだ情感を隅々まで巡らせることに成功している。前半部分は、いくぶん硬さも感じられるが、後半では、いよいよ透明度が高くなり、孤愁と表現したい情緒が巡っている。
 第4楽章はインテンポの進行が全楽章を引き締めていて、鮮やかな一筆書きのような聴き味。金管の重すぎない響きが呼応し、実に爽快な響きで全曲を締めくくっている。
 対するに、奇数楽章は、私には少し気になるところがある。第1楽章は速めのテンポで、粘りのない展開を見せるが、それゆえにこの楽章特有のスケール感が乏しくなるところがある。見通しは良いのだが、逆に重力を感じるような踏み込みと無縁になっており、そのことが、聴き味をかなり「軽い」ものにシフトしており、それがいまひとつしっくりこない。早いテンポ設定も、ところどころで、音が滑っているように聴こえてしまう。
 第3楽章のスケルツォもきれいにまとまってはいるが、他の演奏と比較するとその印象はとても軽い。もちろん、そのことによって達成される演奏効果もあるのだが、この楽章の力強さが薄まっている点は、やはりどうしても寂しい。
 以上のように、一つの明確な視点をもって描き出された演奏ではあるが、その結果、失われているものも大きく感じられるので、全面的に推奨するとは言い難い。

交響曲 第6番
ダウスゴー指揮 ベルゲン・フィルハーモニー管弦楽団

レビュー日:2020.12.3
★★★★☆ 新しい感覚。さながら水彩画のような軽やかなブルックナー
 デンマークの指揮者、トーマス・ダウスゴー(Thomas Dausgaard 1963-)が、ノルウェーのオーケストラ、ベルゲン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮してブルックナー(Anton Bruckner 1824-1896)の交響曲を何点か録音していて、なかなか評判だと言うので聴いてみた。当盤は「交響曲 第6番 イ長調」を収録。2018年にセッション録音されたもの。
 最初に書いておくと、非常に個性的な演奏である。私のように、もう30年くらいブルックナーを聴いてきた人間にはなかなか抵抗感も覚えるところだし、おそらく日本ではそういう聴き手は多いのではないか。もちろん、新しいものと接したとき、しばしば自分の中で積み重なり、凝り固まった価値観が、それをシンプルに受け止めることを邪魔するという要因は排除できないのであるが、それを自認しつつ、感想を書こう。
 まず冒頭からかなりインパクトがある。この交響曲は、ブルックナーには珍しい開始をする。高弦がきざむ付点のリズムの中、低弦が率直に第1主題を歌い上げる。この部分、スコアではマエストーソ(maestoso)の指示があり、「荘厳に、威厳に満ちて」という意であり、従来名演と言われてきた録音は、その雰囲気の醸成に相応の注意を払ってきたわけだ。しかし、このダウスゴーの録音は、全然雰囲気が違う。一言で言うと「軽い」。もう一言付け加えるなら「速い」。それはもう、軽やかといわんばかりのテイスト。第1主題も非常にあっさりする。
 この速いテンポは首尾一貫しているわけではない。そういった点でダウスゴーは器用に可変的なスタイルをとっている。第1楽章に関して言えば、第1主題を扱う場面ではテンポは速いが、他の部分では比較的中庸なものに落ち着く。第2楽章のアダージョは普通だが、第3楽章のスケルツォもかなりの快速だ。オーケストラの音色も、この可変性に対応すべく、必要なもの以外を削ぎ落したようにスッキリしていて、小編成のような響き。それゆえに、木管などがキラキラと輝くから、北欧音楽を思わせるソノリティが随所に顔を出す。
 これはたしかに「新しい」。速いテンポの中で、新たなフレーズが浮かび上がるとまでは言わないが、明瞭に刻まれるアクセントは、これまでの「ブルックナーかくあるべき」的なものと一線を画しており、楽曲の雰囲気も手伝って、透明な水彩画を思わせる響きを導き出している。オーケストラの響きは軽い味わいであるとは言え、ダイナミクスは表現幅として十分なものが取られているし、パワーがないという印象ではない。つまり、新しい解釈なりに、うまくやっている手腕が伝わってくるのである。偶数楽章の方がそれゆえの美しさを感じる場面が多いだろう。
 というふうに、新しい面白いブルックナーである。あとは最初に書いたように、聴く人それぞれが思うブルックナー像との乖離感がいかほどのものか、というところになるだろう。私は、面白いと思いつつ、ブルックナーの第6の名演として、最初の方に数え上げるものというイメージはないし、今のところ、広くオススメしたいとも考えないが、あるいは、もっと時間がたてば、その気持ちも変わってくるのかもしれない。

交響曲 第7番
ベーム指揮 バイエルン放送交響楽団

レビュー日:2008.5.4
★★★★★ ベームのブルックナーの絶対的な価値を証明する録音
 カール・ベーム(Kahl Bohm) がバイエルン放送交響楽団を指揮してのブルックナーの第7交響曲のライヴ録音。収録年は1977年。録音状況が良好で、細部までよく伝わってくる。
 これは、auditeレーベルから発売されている一連のベームの歴史的録音の一枚だが、同じシリーズで同じ顔合わせによりリリースされているブルックナーの第8番が、ウィーンフィルとの正規録音の「前の演奏」だったのに比し、この第7番はウィーンフィルとの録音(1976年)の済んだ「翌年の演奏」である。そのためなのか、わからないが、第8番では両者間で大きく異なるテンポ設定に驚いたが、第7番についてはウィーンフィルとの録音に極めて近い内容だと思う。
 ベームがたびたび取り上げてきた得意曲だけに、冒頭から悠然とした音楽で、弛緩なく、ほどよい緊張感とぬくもりを湛えている。決して「遅すぎる」こともなく、「抑制しすぎる」こともない。金管陣の彫像的とも言える音色は風格があり、ブルックナーの核心にあると聴き手を納得させる力に満ちている。第2楽章の第2主題のニュアンスの深さは特筆される。ブルックナーの「境地」といえる音楽が堪能できる。
 私はこの第2楽章の演奏を聴いて、なぜか眼前に冬の風景が広がるような気がした。それも人知れず森の奥で、しんしんと降りつむ雪が大地を覆いつくす風景である。これが演奏・録音されたのはミュンヘンである。その先入観かもしれないが、静謐な自然、それも荘厳な冬の雰囲気を宿しているように感じられた。
 後半2楽章も力の通った味わい深い演奏である。ベームのブルックナーの絶対的な価値を証明する録音だと思う。

交響曲 第7番
スウィトナー指揮 ベルリン・シュターツカペレ

レビュー日:2010.11.26
★★★★★ かのカラヤンの「白鳥の歌」と競合してしまった不遇な録音
 ドイツ・シャルプラッテンが1986年から録音を開始したオトマール・スウィトナー(Otmar Suitner 1922-2010)とベルリン・シュターツカペレによるブルックナーの交響曲シリーズ。残念ながらスウィトナーの体調のため未完に終わったが、90年までに5曲が収録されることとなった。本盤の第7交響曲はその第4弾で、1989年に録音されたもの。
 2010年に久しぶりに復刻されたこのスウィトナーのブルックナー・シリーズを聴くと、どれも本当に素晴らしい内容だと思うけれど、これまでその価値に相応しい評価を得られなかった理由の一つが、全集を目指しながら完結しなかったことがあるかもしれない。しかし、比較的名作と思われるものの録音が完了していたことは、中にあっては幸いであっただろう。それにこの第7交響曲が録音された1989年と言えば、かの有名なカラヤンの「白鳥の歌」として名高いウィーンフィルの同曲が録音された年とちょうど重なっていて、そういった意味でも分の悪い録音なのだろう。
 聴いてみると、たしかにカラヤン盤のような神々しい威風というのがあるわけではない。しかしスウィトナーならではの純朴とも言える清澄な歌があって、捨て難い魅力を放つ第7交響曲である。第1楽章冒頭から細やかで柔らかいが、しかし勢いを決して失わない弦楽セクションによる主題提示が美しく、自然な稜線を描いて地平に吸い込まれるような滑らかさを持っている。添えられる木管は幸福感のある音色で、明るい日差しのようなぬくもりがある。第1楽章終結部前にいまひとたび大きく盛り上がる第1主題は、乾いたティンパニの壮大なクレッシェンドとデクレッシェンドにより忘れ難いものとなるだろう。第2楽章ものびやかな歌に満ちている。しかし、決して歌だけに専心するあまり、足取りを緩めてしまうようなことはなく、着実に音楽としての振幅を制御している。クライマックスの各楽器の融合度も高く、高音側がやや幅があって広がった感じに思えるのはスウィトナーとベルリン・シュターツカペレの得意とするところだろう。第3楽章は適度なスピード感が良好で、金管陣の洗練された合奏音が鮮やか。浪漫的な終楽章は恣意的なことをせず、さりげなくあっさりと仕上げており、これもこの演奏のスタイルならではだ。
 総じて現代的な洗練性をたもちながらブルックナーらしい響きに満ちた歌と奥行きを感じさせていれる捨て難い佳演と思う。

交響曲 第7番
ヨッフム指揮 ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団

レビュー日:2011.7.1
★★★★☆ ヨッフムらしい、力のこもったブルックナー。でも録音状態はちょっと残念
 オイゲン・ヨッフム(Eugen Jochum 1902-1987)指揮ミュンヘン・フィルによるブルックナーの交響曲第7番。1979年のライヴ音源をWeitblickがCD化したもの。
 ヨッフムは言わずと知れた「ブルックナー指揮者」で、スタジオ録音だけでも十分な量の音源があるのだけれど、多くのレーベルが、それらとは別にライヴ音源、あるいは放送用の音源からのCD化を行っている。これは、“ヨッフムのブルックナー”の人気を裏付けるもので、きっと、多くのファンがそれらの音源を重複して持っているに違いない。私も随分持っている。中でも私が気に入っているのは、TAHLAから出ている1975年のコンセルトヘボウ管弦楽団との第4交響曲で、この1年ではいちばん多く聴いたブルックナーのディスクに間違いないだろう。一方、ミュンヘンフィルとのブルックナーは、WEITBLICKから1983年の第9番もリリースされており、この録音はそれと対をなす形。
 それにしても、同じ指揮者で同じ作品にこれだけ多くの録音がリリースされると、なかなかブルックナーを聴き始める人にも難解な選択になりそうだ。私が聴き始めた頃など、まだLPが主の時期で(CDが出始めたころです)、ブルックナーの交響曲といってもそれほど録音は多くなく、だいたいどれを聴くかというのも何枚かに絞られていたように思う。
 それで、当ディスクのヨッフムの演奏であるが、このCDを選択する際の注意点は二つ。一つは「この曲にしてはテンポ変動の多い熱っぽさを強く感じる演奏である」ということ。もう一つは「録音状況が良好とは言えない」ということ。
 最初の点についてはヨッフムのブルックナー全般に言い当たることかもしれない。この人のブルックナーの解釈は巨大で浪漫的で、大地から揺り動かすような迫力がある。それで、とても特徴的なブルックナーになっていて、最近の主流とはちょっと異質な雰囲気を持っていると思う。2点目については、特に第2楽章で、元音源の状態によるものなのか、若干音色が機械的にゆらぐのが気になるところである。それも、よりによって非常に美しい箇所で起きるので、残念というか、気になってしまうのだ。それで、私であれば、この交響曲のファーストチョイスとしてはこの盤は推薦しない。
 一方でヨッフムの情熱的なブルックナーに陶酔している方には、やはり聴いていただきたいディスクだろう。素朴な音色と、パッションの放出が相まった、ヨッフムならではの脈々たる力感を感じるブルックナーである。第2楽章はシンバル、トライアングルの追加もあり、クライマックスの盛り上がりも立派の一語に尽きる。終楽章の突飛な起伏も、音楽の脈の中でたくみに埋め込んでおり、ヨッフムの「力技」のようなものを実感できる録音だと思う。

交響曲 第7番
ドホナーニ指揮 クリーヴランド管弦楽団

レビュー日:2011.1.20
★★★★★ 透明な輝かしい情感に満ちた美演
 時々思うのだけれど、世の中には「誰が演奏しても美しくなる楽曲」というのがある。そんな作品では、むしろなかなか不出来な演奏にお目にかからない。誰がどのようなアプローチをしても、曲がそれを包み込むように美しく響いて、いい演奏となってしまう。
 私の個人的な意見では、そのような作品は「長調」の曲に多く、ブルックナーで言うとこの第7交響曲がまさにそんな作品。私はこの曲をベーム指揮ウィーンフィルの名演で知り、以来、ものすごく多くの録音を聴いてきた。札幌交響楽団の演奏会で実演を聴いたこともある。もちろんそれらの演奏は、指揮者やオーケストラの個性を様々に感じるのだけど、いつどのような時に聴いても「ああ、美しいな」と思ってしまうのである。そう書いてしまうと、「そんな感性のやつがこの曲の録音にレビューを書いてどうする!」と突っ込まれてしまいそうだけど、たぶん、ブルックナーの原曲があまりにも良く出来ていて、奏者たちが何か共鳴するものを見出し易い作品であるに違いない、と思う。
 それで、このドホナーニの録音について書く。ドホナーニはクリーヴランド管弦楽団と第3番から第9番まで、ブルックナーの7つのシンフォニーを録音したけれど、2011年現在すべて廃盤という悲しい状況になっている。もちろん、ドホナーニ盤がなくても上記のようにこの曲の美しさを存分に味わう機会は担保されているのだけれど、このドホナーニの演奏、わけても捨てがたい魅力をもっているのです。
 なにより高精度の表現が魅力。録音の秀逸さと相まって、まったく曇りのない澄み切ったサウンドに満ちている。冒頭の低弦の響きは、ゆったり歌わせるというよりは、感性に即した前進性を感じるが、この旋律はそれでも透明な情感を宿し、情緒をたちまち昇華するように高まらせてくれる。頂点で鳴り響く金管は明朗で大地を照らすように反射する。敬愛するワーグナーの死を悼んで書かれた有名な第2楽章は、透明なソノリティゆえの陽射しを感じ、その印象は「暖かさ」として聴き手に伝えられる。人によっては、ブラスの響きにもう少し情感があった方がいいと感じるかもしれないが、決して無機的な響きというわけでなく、精度の高い安定した音だと思う。後半の2つの楽章はやや速めのテンポで颯爽としたスタイリッシュな響き。この曲の場合、浪漫的な終楽章をどうまとめるのかが唯一難しいところだと思うけれど、ドホナーニの引き締まった表現は良い方向に作用していると思う。
 総じて、ブルックナーの第7交響曲を存分に堪能できるディスクの一枚であり、魅力の大きいもの一つであると思う。復刻・再発売を願う。

交響曲 第7番
シノーポリ指揮 ドレスデン・シュターツカペレ

レビュー日:2012.8.1
★★★★★ シノーポリならではの暖かく感動的なアプローチ
 シノーポリ(Giuseppe Sinopoli 1946-2001)指揮、ドレスデン・シュターツカペレによるブルックナー(Josef Anton Bruckner 1824-1896)の交響曲第7番(ノヴァーク版)。1991年の録音。
 シノーポリは、広い守備範囲を誇るオールラウンド・プレイヤーの要素を持っていたが、初期ロマン派のブルックナーもレパートリーに含んでいた。録音したのは、第3番、第4番、第5番、第7番、第8番、第9番の6曲で、世間で名高い6つの交響曲について一通り録音したという形になる。
 ブルックナーの交響曲第7番は感動的な作品である。第2楽章を作曲中のブルックナーが、敬愛するワーグナー(Richard Wagner 1813-1883)の死の報を受け、ワーグナー・チューバ4本による天国的と称される美しい部分を書いた。この第2楽章こそ、ブルックナーのあらゆる音楽のハートである、と言っても過言ではないだろう。
 美しいのは第2楽章だけではない。ドイツ往年の大指揮者フルトヴェングラー(Wilhelm Furtw'ngler 1886-1954)は、スキー旅行先で足を怪我し、ふもとのロッジで休養を余儀なくされた。しかし、自身が指揮したブルックナーの第7交響曲がラジオ放送される日、レストランに赴き、そこにあったラジオのチャンネルを勝手にひねった。居並ぶ面々が「何勝手にチャンネルを変えてるんだ」という表情をしたとき、ラジオから、あの第1楽章冒頭の朗々たる響きが聞こえてきた。たちまち、居合わせた人たちは聴き入ったという。この逸話の真偽の程はわからないが、フルトヴェングラーの性格、ブルックナーの音楽の神々しさを表した、なかなかツボを得たエピソードになっている。
 さて、逸話は逸話としておいて、シノーポリの当盤である。これはもう「歌う」ブルックナーという印象につきる。ブルックナーの音楽は、宗教的と表現される雰囲気があり、厳かに、時に朴訥とした語り口が歓迎されることがあるが、シノーポリはストリングスのサウンドを磨き上げ、実に美麗で流麗な音楽を作り上げた。これほど情緒豊かに歌うブルックナーは、あるいはオールド・ファンからは敬遠される質のものであるのかもしれない。しかし、この豊かな情感、豊饒な温かみは、まぎれもなくブルックナーの第7交響曲の本質であると感じさせてくれる。第2楽章を聴くと、これほど暖かい、幸福な祈りに満ちた葬送の音楽は、他に類を見ないはずだと、あらためて感動させてくれた。
 以上の様に、冒頭2楽章の美しさに、すっかり耽溺してしまうかのような演奏であった。後半2楽章は比較すると印象が薄いが、前半2楽章で十分にお釣りがくる内容だと思う。明るいコントラストをキープして、優しげな感情を満たしたアプローチは、この楽曲にたいへん相応しいものだ。

交響曲 第7番
シャイー指揮 ベルリン放送交響楽団

レビュー日:2013.12.4
★★★★★ 神の語りかけを聞くような、シャイーのブルックナー第7交響曲
 リッカルド・シャイー(Riccardo Chailly 1953-)指揮、ベルリン放送交響楽団によるブルックナー(Josef Anton Bruckner 1824-1896)の交響曲 第7番 ホ長調(1885年ノヴァーク版)。1984年録音の録音。
 シャイーは、1984年から1999年まで15年を費やして、コンセルトヘボウ管弦楽団とベルリン放送交響楽団(ドイツ・ベルリン管弦楽団)の2つのオーケストラを指揮して、ブルックナーの第0番も含む10曲の交響曲からなる全集を完成したのだが、この第7番がその最初の録音となったもの。
 おそらくシャイーの録音したブルックナーの中で、この第7番の評価がいちばん高かったのではないか。その証拠に、初出以降、ヨーロッパ盤で2度、国内盤でも1度再発売がなされている。そのうち、当アイテムは、国内盤の初出ディスクにあたるもの。ちなみに、欧米で1度目の再版が行われた際、初版とほとんど同じ価格設定であったため、一部のファンの間で不興を買った録音でもある。
 ブルックナーの交響曲第7番は、ニキシュ(Arthur Nikisch 1855-1922)の指揮で1884年に行なわれた初演の大成功以来の名曲中の名曲だ。なんといっても、作曲中に尊敬するワーグナー(Richard Wagner 1813-1883)の危篤と、そして逝去の報に接したブルックナーが、哀悼の意を込めたとされる第2楽章のアダージョは、神々しいほどの美しさである。この楽章は、荘重な嬰ハ短調で開始されるが、その後、もっとも大事な主題が嬰ヘ長調で提示され、その後、変イ長調で壮大なクライマックスを築き上げる。歴史上、多くの名追悼曲やレクイエムが書かれたが、これほど暖かみに溢れた「長調による」追悼曲はないと思う。この楽章の末尾に加えられたワーグナー・チューバによる神がかり的な雰囲気も、光が降り注ぐようだ。シャイーはノヴァーク版を用いており、この楽章のクライマックスでは、シンバル、トライアングル、ティンパニが加わっている。そうでない版もあるが、私はこの全曲中一度だけ打ち鳴らされるシンバルの効果が大好きだ。
 このシャイーの演奏は、そんな第7交響曲の暖かみを存分に味わわせてくれる。シャイーがオーケストラから引き出す音色が素晴らしい。ベルリン放送交響楽団は、コンセルトヘボウ管弦楽団と比べても遜色のない豊かなパレットを持っていて、シャイーはこれを存分に使っている。第1楽章冒頭から、少しスローなくらいのテンポで、しかし緩みのないしっかりとしたサウンドで音響が構築されている。頂点で鳴り響く金管のスケールの雄大さも見事だが、一つ一つの大きな起伏が、落ち着いた呼吸に沿って提示されることと、これを装飾する細やかな楽器たちが、明瞭にその存在感を示す(特に経過句のフルートは絶品)ところがまた素晴らしい。この第1楽章では、コーダの手前で、ティンパニを伴って、長大なクレッシェンドとディクレッシェンドによる主要動機の繰り返しが行われるが、この箇所でシャイーの演奏から導かれる荘厳な気配はただならないもので、聴いていて思わず襟を正してしまうような厳粛さを持っている。
 第2楽章は本当に美しい。「神がブルックナーの手をかりて語りかけている」というような評論を読んだ記憶があるけれど、当演奏の第2楽章はまさにその形容に相応しい。弦楽器の深い滋味に満ちた音色と、やや明るいトーンの金管によって、見事なコントラストが導かれる。ここまで美しい音楽は、そう多くないはずだ。
 後半2楽章は前半2楽章に比べて、元来軽やかな音楽であるが、これらの楽章でも、鮮明な録音の効果も手伝って、実に気持ちの良いハーモニーが満ちている。運動的な箇所では、自然にスリリングな迫力を獲得しているし、対位法による展開も、適度に単純化された簡明さが清々しく響く。
 古今のこの名曲の名録音の一つとして、数えたいものの一つだ。

交響曲 第7番
マズア指揮 ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団

レビュー日:2014.9.9
★★★★★ マズアの最良の録音の一つ
 クルト・マズア(Kurt Masur 1927-)指揮、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団によるブルックナー(Anton Bruckner 1824-1896)の「交響曲 第7番 ホ長調(ハース版)」。1974年録音。
 マズアは、1974年から78年にかけてブルックナーの交響曲全集を完成している。この頃は、ブルックナーの交響曲を「全曲録音」する指揮者は、まだ多くはなく、先行して完成したものとしては、1958-1967年録音のヨッフム(Eugen Jochum 1902-1987)盤と、1963-1972年録音のハイティンク(Bernard Haitink 1929-)盤くらい。マズア以後、一気に「全集録音指揮者」の数は増えるわけだけれど、それにしても、この時期にマズアが全集を完成していたというのは、注目しても良い。あまり、そういう形容はされないが、マズアは重要なブルックナー指揮者の一人であると思う。
 マズアはハース版のスコアを尊重し、非常に素朴で、自然発揚的なブルックナーを奏でている。中でもこの第7番は、白眉と言っても良い名演で、たびたび再版を重ねられた録音でもある。
 ブルックナーの第7交響曲という作品は、とてもよくできた音楽だ。私は、この曲のディスクを随分多く持っているが、聴いてみて「あまり良くない」と思ったことがない。楽譜に沿って奏でれば、自然に溢れだすような楽想に溢れていて、ただちに聴き手の気持ちを引き寄せるけれど、それはオーケストラの奏者であっても、近いものを感じるのではないだろうか。
 このマズアの演奏は、まったくそのような自然な美しさに満ちたものだ。冒頭から、弦楽器の合奏が、柔らかな奥行きを備えて響き、見事に調和的なバランスを満たして進んで行く。このような完全性を保った音楽で、細かいアラを探しても仕方ないし、そんなことを思いつかせない響きである。ホルンや木管の音も、過度に浮き立たず、他の音と高い融合度を示しながら、しかし神々しい輝かしさを持って響く。テンポも自然体そのままで、等速で心地よく前進していく。録音場所であるドレスデン、ルカ教会のふくよかな音響効果も、ほどよく収められている。
 第2楽章はいかにも暖かい音楽が横溢していて、内発的な感興が、音楽の聴き味を豊かにする。慈愛を感じるような響きで、この音楽を作曲しているときに、敬愛するワーグナー(Richard Wagner 1813-1883)の訃報に接したとされるブルックナーの心象が、ほどよい強弱で描かれていると思う。
 第3楽章は中庸の美を重んじたスタイル。第4楽章も浪漫性が抑制されて、聴き易く仕上がっているため、全体として、非常にまとまりのよい印象となる。
 当時の第7交響曲の録音としても、たいへんクオリティが高いものであったことも想像できるし、今なお、色あせない魅力を感じさせてくれる録音だ。

交響曲 第7番
ヤノフスキ指揮 スイス・ロマンド管弦楽団

レビュー日:2015.4.30
★★★★★ 第1楽章のコーダに真骨頂を聴く、ヤノフスキのブル7
 マレク・ヤノフスキ(Marek Janowski 1939-)指揮、スイス・ロマンド管弦楽団の演奏によるブルックナー(Anton Bruckner 1824-1896)の交響曲全曲録音チクルスの第5弾で、2010年録音の「交響曲 第7番 ホ長調」。
 素晴らしい名演だ。しかも録音が良い。透明感が際立っていて、音の立ち上がり、消えゆく残響が、くっきりとした縁取りで記録されている。そのため、オーケストラの響きに立体感があり、指揮者の意図に忠実にそれぞれの楽器の音に焦点が合わされる効果が際立ち、演奏の意図が直接的に伝わってくる印象だ。
 初演の大成功以来、多くの指揮者が手掛けてきた名曲だから、もちろんこれまでにたくさんの録音が出ていたし、特に技術的に至難な作品でないこともあって、素晴らしいものがたくさんあるのだけれど、その中にあって、このヤノフスキ盤は、十分な存在感を示せるものに違いない。
 私がその思いを強くしたのは第1楽章のコーダの部分である。その直前に一際感動的に盛り上がった音楽はゆっくりと沈静化し静寂へと帰っていく。そして、そこから懐かしい無類に美しい第1主題の前半のフレーズを繰り返し、ラインの黄金の冒頭を思わせるように高らかに盛り上がっていくのだけれど、このフレーズの背景で繰り返される弦が繰り出す細やかな音像の美しいこと。旋律線としては、メインではないから、通常はそこまでの強調はしないのであるが、ヤノフスキは、これこそが第7交響曲の魂であるかのように、くっきりと浮き立つように響かせる。精緻に、無類の透明感をもって。やわらかな金管が加わっていき、大きく、感動的なフィナーレが結ばれる。何度聴いても素晴らしい曲だけど、私はこの録音を聴いて、久しぶりと言いたいほどの新鮮味を感じた。これがヤノフスキのブルックナーだ。
 第2楽章ももちろん美しい。クリアな弦、柔らかい管によって、究極と言っても良いほどの暖かく厳かな音世界が構築されている。悠然たる正統的なテンポでありながら、従来にないほどの細やかさを感じさせる表現だ。
 第3楽章も気持ちの良いテンポで、タメの少ない滑らかさ、豊かな響きでありながら、激しすぎないクライマックスが見事。そして、比較的処理が難しいと言われる第4楽章も、シャープな感性で引き締められ、スタイリッシュに結ばれる。
 現代を代表するブルックナーの第7交響曲の録音にちがいない。

交響曲 第7番
ジュリーニ指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

レビュー日:2018.10.16
★★★★☆ ロマン派の濃厚な芳香を感じさせるジュリーニのブルックナー第7番
 カルロ・マリア・ジュリーニ(Carlo Maria Giulini 1914-2005)指揮、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団によるブルックナー(Anton Bruckner 1824-1896)の交響曲第7番ホ長調、1986年の録音。ノヴァーク版。
 ジュリーニとウィーン・フィルハーモニー管弦楽団は、ブルックナーの交響曲のうち、後期の3曲を録音した。最初に録音したのが1984年の第8番、そしてこの第7番、さらに2年後の1988年にライヴで第9番というふうに並ぶ。
 これらの3つの録音は、いずれもジュリーニの巨匠性が示された象徴的な録音で、特に第8番の録音が名高い。私の感じ方も同様で、3つの録音のうち、もっとも完成度か高く、音楽的齟齬を感じないのが第8番であったと思う。
 しかし、他の2曲も悪くはない。ジュリーニは概してゆったりしたテンポを用いたが、第7番の奇数楽章は平均的なものといって良いだろう。第1楽章の第1主題は存分に歌われて、明るい発色を示すが、少し早めに感じられるテンポが功を奏してタメに不自然さがなく、心地よく流れる。常に存分に歌われる弦が紡ぎだすカンタービレは、豊かで、歌謡性にあふれることこの上ないが、ブルックナーらしい朴訥さとは、やや異質なものも感じるところはある。とは言え、絶対的な美観は見事なもの。
 第2楽章はゆったりとしたテンポとなる。息の長い起伏を通じて盛り上がるクライマックスは、華やかで音量も豊かだ。やや人工的な気配はあるものの、艶の出せる部分は出し尽くしたというやりきった表現が潔い。この楽章の演奏でも、もっとも輝かしく明るいものの一つといって良いだろう。つねに馥郁たる香りがたちこめるような、濃厚な気配がうごめいている。そしてウィーン・フィルハーモニー管弦楽団も、その音色を存分に発揮して、歌に尽くしている。ただ、私個人的には、ややあざとさが勝ち過ぎた印象を持つのだが、どうだろうか。
 後半2楽章は、第2楽章ほど濃厚ではないが、当然のことながら、やろうとしている傾向は共通だ。ただ、第3楽章は楽想の影響が強く、そこまでジュリーニの意図が支配的には響かない。
 全体的な感想として、ロマン派の芳香を煮詰めた一つの極致と言えるブルックナーがここで完成していると言っていいだろう。見事な成果と思える。ただ、個人的に、どうしても異質性(と思えるもの)を繰り返し楽しむまではいたらず、かと言ってぬぐえず、といったところもあり、同曲の録音として、是非とも推したいというまでには至らなかった。

交響曲 第7番
ネゼ=セガン指揮 モントリオール・メトロポリタン管弦楽団

レビュー日:2020.2.20
★★★★★ 録音時31歳、ネゼ=セガンによる名演奏
 ネゼ=セガン(Yannick Nezet-Seguin 1975-)指揮、モントリオール・メトロポリタン管弦楽団による、ブルックナー(Anton Bruckner 1824-1896)の「交響曲 第7番 ホ長調」。2006年のライヴ録音。ノヴァーク版で、第2楽章のシンバルは採用している。
 録音時、ネゼ=セガンは31歳という若さであるが、悠然とした風格と、優美な流れの良さを持ち合わせた、味わい深い演奏を繰り広げている。
 第1楽章冒頭から、少し遅めのテンポを設定し、柔らかな光を感じさせる力配分で、オーケストラから自然な音を引き出している。録音も、環境も含めて良好で、演奏の力の方向、それにかかわる楽器の演奏志向が明瞭に聞き取れるもので、この楽曲ならではの録音映えが感じられる。息の長いフレーズは、暖かみをもって表現される。この響きから私が連想する単語は、「慈愛」であろう。ぬくもり、光、曲線、そういったイメージが交錯しながら、美しく音楽を描いていく。
 元来、この楽曲の第1楽章と第2楽章は、とても良く出来た音楽であり、どのような演奏であっても、概してうまく行くのだけれど、ネゼ=セガンとモントリオール・メトロポリタン管弦楽団の間には、親密な関係があり、それゆえの配慮の深さとなめらかさがあって、さらに魅力を増していると感じられる。
 第2楽章も感動的だ。金管と弦の適度な抑制からもたらされる安らぎの感覚。その一方で弛緩を感じさせない明瞭なフレージングが効いていて、実に心地よい。暖色系の音色で豊かに盛り上がるクライマックスは気品を崩さず、気高さを備えている。
 後半2楽章はリズミカルでシンプルな仕上げ。スケルツォは運動美が心地よく、音色も暖かな深さを維持しているので、併せて味わいがある。終楽章はテンポも速めとなり、サラリとした軽やかな雰囲気。この終楽章に、最近ではロマン派特有の濃厚さをもたらす解釈もあるが、ネゼ=セガンはさりげない。コーダでは、気の利いたアッチェランドがあり楽しい。
 総じて、録音時のネゼ=セガンの若さを感じさせる感性と、それだけではない風格があいまった名演であり、名録音の多い当該曲の中で、他の名盤と比較しても遜色ない見事な出来栄えを示している。

交響曲 第8番 (第1稿)
インバル指揮 フランクフルト放送交響楽団

レビュー日:2004.2.14
★★★★☆ 1楽章がフォルテッシモで終わるのです!
 第1稿で演奏されている。テンポは速め。フォルテッシモで終わる第1楽章はこの初稿のみ(これが聴ける録音は数少ない)。曲の歴史を知りたい方にはおすすめ。
 ところでブル8の版についてまとめておくと、4種類ある。1887年の第1稿(インバルが選んだもの)、1890年の第2稿にはノヴァーク版とハース版がある。3,4楽章はノヴァーク版の方が短くなっている。もうひとつ改定版というのがあるが、これはほとんどノヴァーク版と同じである。
 インバルの演奏は「第1稿」を知る上で最適で、端正なアプローチで正統的に音楽を運ぶ。そのために「ドイツの野人」第2楽章など、ややぬめっとなだらかになってしまった感じもあるが、これはこれでいいのかもしれない。この値段なら、ブルックナー・ファンが持っていていいディスクである。

交響曲 第8番 (第1稿)
ヤング指揮 ハンブルク・フィルハーモニー管弦楽団

レビュー日:2009.9.7
★★★★★ 「初稿」のスコアを「演奏」により結実させた成果
 1961年オーストラリアのシドニー出身のシモーネ・ヤング(Simone Young)指揮、ハンブルク・フィルハーモニー管弦楽団による「初稿によるブルックナーの交響曲」シリーズ。今回が第4弾でいよいよ傑作「第8番」の登場となる。
 もちろん、ヤングのシリーズで重要なのは「初稿」を用いている点にある。ブルックナーの交響曲には様々なスコアが存在しており、通常聴かれるものは「最終的に作曲者が自身の意図により修正を行ったと考えられるもの」で、ノヴァークやハースといった学者がこの見地から編集したスコアによる。ただ、ブルックナーの場合、その「本人の意図」の推し量りがことのほか難しい。ブルックナーの交響曲は基本的に改訂により「古典的」な作品へと変貌している。特徴的な声部の扱い、楽器書法の不均一性、長大な展開、差し挟まれる全休符・・・これらは改訂のたびに姿を減じる。では、新しい交響曲を作るたびに、何度も改訂を繰り返す行為をなぜブルックナーは行ったのか?彼の作りたかった音楽は、もっと別に存在していたのではないか・・・?
 「初稿」を聴くと、その浪漫的で大胆な着想に驚かされる。改訂によって整えられ、同じ展開を持っていた作品が実は様々な変容を含んでいたことがわかる。ヤングの秀逸な点はそれを学術的に探求したのではなく、純粋な音楽作品として完成させるためのアプローチに徹していることである。
 全体的に音色の融合度が高い。音色は疎な部分と密な部分のバランスが巧みで、多少の構造上の欠点を表現力で見事に覆い隠してしまう。クライマックスに向かう推進性はまさしく「迫真」と言えるもので、背後の闇をも巻き込むようなリアリティに満ちている。初稿ならではの第1楽章のフォルティッシモの終結が凄い。全曲に渡ってそのテンションが持続しているが、個人的に最も感銘を受けたのが第2楽章のスケルツォ。同じ音型の繰り返しながら、金管陣の旋律の引渡しが絶妙で、その豊かな呼応力と間合いに聴き手の心拍をどんどん高めていく。圧巻の一幕と言える。ブルックナーの様々な録音の中でもことさら存在意義の大きい一枚であることは間違いないと思う。

交響曲 第8番
ベーム指揮 バイエルン放送交響楽団

レビュー日:2008.5.3
★★★★★ バイエルン放送交響楽団との凛々しい録音です
 カール・ベームがバイエルン放送交響楽団を指揮してのブルックナーの第8交響曲のライヴ録音。収録年は1971年。
 ベームの同曲の正規録音となると、ウィーンフィルを指揮したグラモフォン盤があり、これは1976年の録音だ。私の大好きな録音の一つであり、巨匠ベームの「凄まじさ」が象徴的に刻印された記録だと思っている。ところで、この録音を聴くと、あまりのテンポの違いに驚かされる。このCDのジャケットに表記されている演奏時間はミスであり、実際には(第1楽章 13’40 第2楽章 13’06 第3楽章 24’28 第4楽章 22’28)であり、全楽章ともウィーンフィルとの録音より1分以上短縮されている。これは版の違いによるものではない。ちなみに私は他にもベームの同曲の録音を持っているのだが、ケルン放送交響楽団との74年の録音がやはり早めのテンポ設定だったのに対し、なぜか同年のウィーンフィルとのライヴではテンポを落としている。つまり、ベームはオケがウィーンフィルのときだけあの荘重なテンポを設定したことになる。サンプルは少ないが、有意差検定してみたくなるデータである。
 さて、当録音であるが、非常に引き締まった演奏である。かなり緊密なコントロールが働いていて、なおかつブルックナーのスケールが確実に表現されている。緊迫感を増す金管の響きは鋭く、明確な輪郭を持っている。スケルツォの野蛮さも見事。第3楽章は早いテンポであっさりしているが、深い情感を得ており、深閑たる風情を持っている。録音はややキメの粗いところがあるが、バイエルン放送交響楽団の機敏な反応と有機的な音色はたいへん魅力的で、これまたウィーンフィル盤とはまた違った魅力に満ちた演奏だ。ベーム・ファン、ブルックナー・ファン双方にとって貴重な音源だと思う。

交響曲 第8番
ベーム指揮 チューリッヒ・トーンハレ管弦楽団

レビュー日:2010.11.30
★★★★☆ 振るオーケストラによってテンポを変えるベームのブル8
 カール・ベーム指揮チューリッヒ・トーンハレ管弦楽団の演奏でブルックナーの交響曲第8番。1979年のライヴ録音。ベームがこのオーケストラとブルックナーをやっているとは知らなかった。それにしても、このようなライヴ音源が続々とCD化されるのはうれしい反面、どんどん出費が嵩むのである。わたしはベームのブル8だけですでに5種のCDを持っている。それだけウィーンフィルとの76年の録音が私には素晴らしかったということがある。
 以前、どこかで書いたけど、ベームのブルックナーの第8番は、振るオーケストラによって全然テンポが違う。簡単に書いてしまうと、ウィーンフィルを振ると遅く、他のオーケストラ(ケルン放送交響楽団、バイエルン放送交響楽団、そしてこのチューリッヒ・トーンハレ管弦楽団)を振ると速い。これは不思議なのだけれど、私は、この曲ではベームにとって「時代」ではなく「オーケストラ」がテンポ設定のポイントだったのだと思っている。
 それで、この演奏はかなり速めのテンポで、特に第1、第2楽章が凄い。まさにベームの気迫溢れる牽引力にオーケストラが否応もなく連れ去られるような迫力がある。第1楽章は冒頭のブルックナー開始から異様に緊迫感が高く、独特の空気が伝わってくる。大きなフォルテの訪れと、交錯する静寂がさらに緊張感を煽り、クライマックスはただならない「咆哮」にも聴こえる。第2楽章も凄い。速いのだが、それ以上にトランペットの持続音の炸裂感が凄まじい。スタジオ録音のベームとは一味違った凄みを如実に感じさるに違いない。この楽章の激しい応酬は、全曲を通して最も印象に残る部分でもあった。それに比べると後半2楽章はいくぶん通常モードと言える。第3楽章は少しだけ速めで、ベームらしい堅実な足取りの音楽で、弦楽合奏の音色も豊かに響かせてくれる。それでも終楽章になると、やはり力強いブラスの響きが圧巻で、ときとして「炸裂」するベームの、炸裂時の真骨頂を聴く思いがする。このようなベームを体感できるディスクとしては、ORFEOレーベルから出ているチェコフィルとのチャイコフスキーの第4交響曲と双璧と言っていいかもしれない。
 当盤の欠点としては録音ということになる。やや平板で、LPなどでの発売を前提としていなかったライヴ収録のためか、ややノイジーなところがある。慣れてくればそれほど気にならないし、演奏自体が熱のあるものなので、録音の問題度は小さいかもしれないが、やはりこの時代(1979年)の録音であればもう少しいい音で聴きたかったというのが本音。

交響曲 第8番
スウィトナー指揮 ベルリン・シュターツカペレ

レビュー日:2010.11.26
★★★★★ スウィトナー特有の語り口で「堂々たるブルックナー」を展開
 オトマール・スウィトナー(Otmar Suitner 1922-2010)がベルリン・シュターツカペレとブルックナーの交響曲の録音をスタートしたのが1986年で、その第1弾がこの第8交響曲であった。以後、年1曲のペースで録音は進行していったのだが、1990年になって健康上の理由からスウィトナーは音楽活動から引退してしまった。それで、ブルックナーのシリーズも道半ばで閉ざされてしまうこととなった。
 2010年になって、幸いにも録音された5曲が廉価版でリリースされたので、私もこの機会に評判の高かったこれらのシリーズを聴くことができた。
 第8交響曲がシリーズ最初の録音となる。ブルックナーの交響曲を全曲録音した指揮者たちが、最初に何番から始めたのか調べてみないと分らないけれど、第8番というのはやはりブルックナーのいちばんブルックナーらしいシンフォニーで、たいへんな傑作だから、相当の自信を持ってブルックナーに取り組んだように思う。
 聴いてみると、これがたいへん素晴らしい。一部では「一風変わったブルックナー」と評されているが、私の感想では、どうしてどうして実に見事な堂々たるブルックナーである。テンポはやや速めで、インテンポというほど律儀ではないけれど、音楽の起伏にあわせた振幅が巧み。聴き手の気持ちを豊かに高揚させてくれる。ベルリン・シュターツカペレの音色は特筆すべき素晴らしさで、金管の迫力はあるがしかし決して硬くならないサウンドがこの演奏の特徴を端的に示しており、特に第2楽章の彫像性を感じさせる響きが鮮やか。ティンパニも良い。乾いた音色であるが、音の強弱の幅が大きく、劇的なクレッシェンドを演出してくれる。第1楽章終結分手前のクライマックスや第2楽章の繰り返されるフレーズに添えられる拍が効果的に決まっているのが心地よい。緩徐楽章もサウンドは柔らかいが、テンポを速めにとることで、楽曲の造形が手際よくまとめられており、それは「聴き易い」という効果をもたらしている。終楽章も広がりとともに適度な機動性を感じさせるもので、あらゆる点で過不足なく音楽が解決されていく。
 スウィトナーとベルリン・シュターツカペレの深い実力を堪能させてくれる録音で、音質も悪くない。あるいは普段ブルックナーの音楽をあまり聴かない人にも受け入れ易い語り口をもった演奏だと思う。

交響曲 第8番
ヨッフム指揮 コンセルトヘボウ管弦楽団

レビュー日:2013.1.21
★★★★☆ この録音ではちょっと判断に難しいところがあります。雰囲気は悪くないですが。
 2012年が、生涯に渡ってブルックナー(Josef Anton Bruckner 1824-1896)作品の演奏・普及・啓蒙に努めてきたドイツの名指揮者、オイゲン・ヨッフム(Eugen Jochum 1902-1987)の没後25年兼生誕110年というアニヴァーサリー・イヤーであったため、いくつかライヴ音源がCD化された。その一つが当盤で、TAHRAの原盤が国内盤で再発売された形。コンセルトヘボウ管弦楽団を指揮しての、ブルックナーの交響曲第8番(ノヴァーク版)で、1984年の録音である。
 同時にTAHRA原盤のブルックナー4点がリリースされたわけで、私も全部購入して楽しませていただいているのだが、この第8番については、ちょっと残念度が勝ってしまった。というのは、録音状態が非常に良くないためである。1984年であれば、ライヴとは言え、もう少し高いクオリティーの録音が残せたのではないかと思うと残念でならない。
 とくに中声部の厚みが伝わらないのが痛く、音楽の胴体の部分であるところに、十分な厚みがもたらされていない。そのため、音楽の迫力を得るところでも、肝心の「腰」の部分に力が入っていないように聴こえてしまう。金管も痩せて聴こえるし、ホールトーンもきちんと入っていない感じだ。
 これは実演がそういう演奏だったから、というわけではないと思う。他の同様の音源と比較しても、やはり聴き劣りがしてしまうのは、この録音に特異的な物理条件か何かで、そうなってしまったとしか言いようがないだろう。
 私は、やはり現在これだけ音楽再生技術が上がってしまうと、それなりの技術で得られる音環境を基礎として、いろいろ感想を述べるなどしたいと思っているのだけれど、そうでない場合は非常に難しい。これは古い録音全般でも言えることだけれど、結局は細部を自分なりに補正したり省略したりして聴くことになる。
 私の実感では、今現在の演奏レベルというのは、半世紀前くらいに比べて格段に上がっていると思う。個々の奏者でもオーケストラでもそうである。しかし、古い録音において、特にオーケストラで技術の面まで聴くというのは至極困難で、最終的には歌の感じ(フレージング、アゴーギグ)とか、強弱の様子に、演奏の印象は集約されてしまう。
 それで、この演奏も、そういうものだと割り切って聴けば、それなりにいい演奏のように思う。ややゆったりめではあるが弛緩のないリズムがあり、音楽は生命感を持って鳴っているし、強弱の脈もよく意思統一されていて、ブルックナーらしい。
 しかし、その一方で、この時代の録音として、評価するときに、判断保留にせざるをえない部分が多すぎるというのも、避けられない事実で、なかなかこれを評価しようとしても難しい。演奏は(たぶん)いいのだけれど・・・と煮え切らないことになる。それで、仕方ないので、その気持ちをそのまま感想として、記載させていただいた。

ブルックナー 交響曲 第8番 (キャラガン校訂1888年異版)  キツラー 葬送音楽-アントン・ブルックナーの思い出に(ゲルト・シャラーによるオーケストレーション復元)

レビュー日:2013.7.22
★★★★☆ ブルックナーの第8交響曲 1888年版とは?
 ゲルト・シャラー (Gerd Schaller 1965-)指揮、フィルハーモニー・フェスティヴァの演奏によるユニークなブルックナー(Josef Anton Bruckner 1824-1896)のシリーズ第3弾。これまでは、それぞれ3曲ずつまとめる形でリリースしていたが、今回は交響曲第8番1曲のみを収録した形で、その後に、ブルックナーの師であり、リンツ州立劇場の首席指揮者であったオットー・キツラー(Otto Kitzler 1834-1915)による十数分間の管弦楽曲「葬送音楽-アントン・ブルックナーの思い出に」が併録されている。ちなみにキツラーの作品はもともとオーケストラ作品であったにもかかわらず、オーケストラ・スコアが残っていないため、今回シャラーがピアノ・スコアから新たにオーケストレーションを施して、演奏・録音したとのこと。
 さて、このシャラーによるブルックナー・シリーズの大きな特徴は、次の二つである。
・基本的にウィリアム・キャラガン(William Carragan)が校訂したスコアを用いている事
・残響の豊かなバイエルン州のエーブラハ大修道院附属教会でライヴ収録している事
 このたびの第8交響曲でも「キャラガン校訂1888年異版」というスコアが用いられている。いままで聞いたことのない版であり、おそらく録音も初めてであろう。一般的にブルックナーの交響曲第8番には4つのスコアが知られている。1887年の第1稿(ノヴァーク版第1稿)と3種の1890年の第2稿(改訂版、ハース版、ノヴァーク版第2稿)である。指揮者ヘルマン・レヴィ(Hermann Levi 1839-1900)によって、初稿を「演奏不能」と言われたことから、様々な追加・変更・削除が行われ、第2稿が生まれることとなった。ちなみに「改訂版」と「ノヴァーク版第2稿」の違いはほとんどなく、「ハース版」にくらべて後年に編集された「ノヴァーク版」では3、4楽章が若干短くなっている。普通に「ノヴァーク版」という場合1890年の第2稿を指す。1892年12月18日ウィーンでの初演において大成功をおさめたのは、第2稿による演奏。
 これらの「4つの版」とは別にキャラガンが校訂したのが、「キャラガン校訂1888年異版」なるものである。1888年という年数がまた不可解、というか面白いところで、1887年の初稿を演奏不能と拒絶されたブルックナーが3年の歳月を費やして第2稿を完成するその間の版ということになる。つまり「途中経過」のような感じで、これを改めてスコア化する必要があるのか、なかなか考えどころだが、私の様なファンには面白い。聴いてみると、そのスコアは「初稿」に近いが、そこにあちこちの手入れがなされた状況といったところ。第2稿への「抜本的な改変」ではなく、いくつかの改変を重ねてどうにか体裁を繕えないか、と考えていた「一つのアイデア」が示されている感じ。第1楽章はフォルテッシモで終わるし、第2楽章の中間部には初稿の主題が残っているので、聴いた感じは「全然初稿に近い」といったもの。とはいえ初稿からはいくつものマイナーチェンジをしているのである。
 演奏であるが、これまでの当シリーズ同様に、長い残響に配慮したゲネラルパウゼ(Generalpause;全楽器の休止)の演出に特有のタメがあり、これがオルガン的サウンドの醸成に効果を発揮している。オーケストラのサウンド自体は、やや軟焦点気味で、ところどころそれが響きの薄い印象に通じるところもあるが、全般に良く整えられた音響が獲得できていると思う。テンポは中庸~ややゆったり目といったところで、これも残響の過度の重なりを避けるため、速さを感じる部分はあまりない。
 キツラーによる音楽は、和声的には保守的で、全体は緩やかな3部構成になっている。響きはそこそこ美しく仕上がっているが、旋律はやや平板であり、面白みという点では物足りないところも残るが、シャラーのブルックナーを意識したオーケストレーションは、それなりの興味の対象となるだろう。
 ブルックナーの第8交響曲を聴いたことがない人の「ファースト・チョイス」にはオススメできないが、ある程度その語法を知った人にとって、いろいろな面白さのある録音となっている。

交響曲 第8番
シャイー指揮 コンセルトヘボウ管弦楽団

レビュー日:2013.12.9
★★★★★ 長大な曲を音楽的に奏で、時間を味方にする「うまい」演奏
 リッカルド・シャイー(Riccardo Chailly 1953-)指揮、コンセルトヘボウ管弦楽団による、ブルックナー(Josef Anton Bruckner 1824-1896)の “交響曲 第8番 ハ短調(1890年ノヴァーク版)” を収録。1999年の録音。
 シャイーは、1984年から15年を費やし、コンセルトヘボウ管弦楽団とベルリン放送交響楽団(ドイツ・ベルリン管弦楽団)の2つのオーケストラを指揮して、ブルックナーの第0番も含む10曲の交響曲からなる全集を完成したのだが、そのラストを、この巨大にして偉大なシンフォニーで飾ったということになる。
 巨大。そうこの交響曲は本当に壮大な作品だ。全曲の演奏時間はおよそ80分くらいになるし、第3楽章のアダージョだけでも30分に及ぶ。対位法による展開も長大で、人によっては「長い」と感じるところも多いだろう。しかし、この音楽の神がかり的なところは、その長さと密接に関係している。アダージョの主題が繰り返される毎に、その内面性を深めていくように感じられるのは、その対位法に基づいた転調が、人の心を平静から高揚へと緻密に高めていくからだ。これは宗教的な祭典を想起する心理的効果である。効果は転調だけでなく、音色を用いてもたびたび達成される。例えば、コラール風の主題をトロンボーンで急激に強調したり、あるいは、ホルン、トランペット、チューバといった金管楽器間でのフレーズに引き渡しによって。さらにこの作品ではハープという陶酔感に繋がる楽器が編成に含まれている他、アダージョでは頂点を明確に聴衆に行き渡らせるため、2度のシンバルが打ち鳴らされる。
 私がこの交響曲を聴いて感動するのは、そういった多くの仕掛けが、人の心情に即して、適宜作用するよう、きちんと意図されたと感じられる演奏を聴いたときだ。それは、ただ楽譜に忠実であるとか、音程がきちんとしているとか言う事とまったく別のもの。それを表現するときに、「音楽的」という言葉を用いる場合もある。「うまい」という場合、「技術が優れている」ということを示すことが多いが、それとともに前述の音楽として効果がよく把握され、その機能を発揮させるため、細かな表現が的確である、つまり「音楽的だ」ということを示す場合もよくある。前者は「上手(うま)い」、後者は「巧(うま)い」だ。
 そういった意味で、私はこのシャイーの演奏を全体的な意味で「うまい」と思う。過度に演出するわけではなく、しかし、それぞれの楽器やフレーズがその役割を果たし、音楽が前進する力とあいまって、聴く人の心に働きかける。
 前述した様々な仕掛けの「把握」というのは、このような規模の大きな曲では、特に重要なものだ。短い曲であれば、そこまでの配慮がなくとも、旋律がきれいに聴こえていれば、いつのまにか終わってくれる。しかし、長大な曲では、そうはいかない。長い時間というのは、場合によっては、手ごわい敵となる。対位法をはじめとする展開の技法は、長大な楽曲を作るにあたって、どうしても必要不可欠なものであること、それによって作られた楽曲が、これまでに経験したことのない高揚や神秘といった心理に働きかえるようになったことは、相補的な事象である。
 だから、このように長大で、しかし良くできた作品というのは、聴き手の心構えも必要だが、ふだん以上に「うまい」演奏で聴くことが大事だ。そういった点で、このシャイーの演奏を、私は推薦する。聴く側に十分に「音楽を聴く」気持ちがあり、かつこの音楽が適切な環境で流れたとき、時間は味方となり、得難い陶酔感に満たされることになるだろう。

交響曲 第8番
ヤノフスキ指揮 スイス・ロマンド管弦楽団

レビュー日:2015.4.28
★★★★★ 鮮烈で覚醒的なブルックナー。この演奏・録音あってこその神秘に触れる。
 マレク・ヤノフスキ(Marek Janowski 1939-)指揮、スイス・ロマンド管弦楽団によるブルックナー(Anton Bruckner 1824-1896)の交響曲チクルス第4弾で、2010年に録音された「交響曲 第8番 ハ短調」。ノヴァーク版(1890年稿)による演奏。
 ヤノフスキのブルックナーはいつも透明で、濁りがない。その響きは清澄で、聴く人にブルックナーが敬虔なカトリック教徒だったことを想起させる。
 スイス・ロマンド管弦楽団の優秀さは当盤だけで十二分に証明される。このオーケストラは、アンセルメ(Ernest Ansermet 1883-1969)の棒の下で、フランス的な瀟洒さと力強さを持った数々の素晴らしい録音を記録したが、その伝統を引き継ぎながらも、一層の演奏集団としての技術力を磨きあげた。当録音で聴かれる詳細な音のバランス、緻密さを失わないブラスやティンパニの響きは、間違いなく世界トップクラスのものである。
 低音域がややセーヴされた印象だが、全体の見通しを考慮した上での設計の一貫に他ならない。このヤノフスキの第8交響曲の美しさは第3楽章のアダージョで頂点を築き上げる。ヤノフスキによるアダージョの演奏時間は26分程度で、ほぼ平均的なものと言ってよい。しかし、その間に起こる出来事はとても克明で覚醒的なものだ。中間部では静謐と強奏の壮麗なコントラストが印象的だ。とはいっても、当演奏における強奏は、迫力を追及したものではない。音量としては、これより大きく、音質としては、これより重い演奏はたくさんある。ヤノフスキの特徴は緩急、強弱のレンジ設計の巧みさにある。恐ろしいほどの静けさ、また再強奏からの段階的沈静化は、この演奏に緊密な統制感をもたらし居住まいを正させるような厳粛さを引き出す。その一方で、強奏の内省的な深みが、楽章全体の豊かな情緒と連結し、ブルックナー特有の牧歌的な風情も引き出す。ハープの艶やかな響きの美しいこと。
 ヤノフスキのコントロールは、一人の芸術家の精神から生まれたものとして、つねに合理的だ。その合理的なものが、巨大なブルックナーの第8交響曲に、神秘的なニュアンスを与えている。
 第4楽章では、ファンファーレの豊かさも見事だが、特筆したいのは中間部のクライマックスで、こちらも直前に、あえて連続的ではなく、全体の音量のギアをグッと一段引き入れる瞬間があり、その瞬間に漲る緊張感がただならない。開始の合図から、壮麗なティンパニの効果とともに、全管弦楽が押し進む様は圧巻だ。
 前半2楽章も、きわめて正統的なテンポで、すべてのフレーズがくっきりと見渡せるような手腕が繰り広げられる。特に木管にピタリと焦点の合う瞬間の音の明度の変化が新鮮だ。
 古くからある名盤名演が好きな人には、ちょっと異質さを感じさせる録音かもしれないが、私はこの録音から、まぎれもない現代のブルックナー像を感じたと思う。ブルックナー・ファンの人にこそ、このフレッシュな感覚を味わってほしいと思う。

交響曲 第8番
ベーム指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

レビュー日:2017.5.11
★★★★★ ベームのブルックナーとして、聴き逃したくない記録です。
 カール・ベーム(Karl Bohm 1894-1981)指揮、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団によるブルックナー(Joseph Anton Bruckner 1824-1896)の「交響曲 第8番 ハ短調」。1969年のライヴ録音。
 私はベームのブルックナーが大好きで、この作曲家の交響曲を聴き始めたころから、ベームの演奏にはずいぶんと心酔してきた。ベームがブルックナーの交響曲のうち録音を遺したのは5曲のみ。そのうち第5番は古いモノラル録音のものしかなく、その状況を歯がゆく思った事もたびたび。
 そんなベームであるが、ライヴでよく取り上げたのは、第7番と第8番の2つの交響曲で、CD時代になり、それらの音源も入手できるようになった。当盤もその一つ。期待にたがわぬ素晴らしい内容だ。
 ところで、私が所有するベームのブルックナーの第8交響曲の音源は6種あり、これを演奏時間比較のため、列挙してみた。
1) 1969年11月録音 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 (I. Allegro [14:54] II. Scherzo [13:15] III. Adagio [24:25] IV. Finale: [21:01])
2) 1971年11月録音 バイエルン放送交響楽団 (I. Allegro [13:40] II. Scherzo [13:06] III. Adagio [24:28] IV. Finale: [20:37])
3) 1974年5月録音 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 (I. Allegro [14:45] II. Scherzo [13:17] III. Adagio [27:57] IV. Finale: [21:45])
4) 1974年9月録音 ケルン放送交響楽団 (I. Allegro [13:43] II. Scherzo [13:24] III. Adagio [25:34] IV. Finale: [20:44])
5) 1976年2月録音 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 (I. Allegro [14:51] II. Scherzo [14:23] III. Adagio [27:47] IV. Finale: [23:00])
6) 1978年7月録音 チューリッヒ・トーンハレ管弦楽団 (I. Allegro [13:54] II. Scherzo [13:20] III. Adagio [24:41] IV. Finale: [20:09])
 グラモフォンからリリースされたスタジオ録音盤は5)であり、他はすべてライヴ音源である。一見して思うことは、かなり演奏時間にばらつきがあるということである。ちなみに、演奏はすべて1890年稿のノヴァーク版を用いており、詳細を確認したわけではないが、スコア自体にほとんど違いはないだろう。
 そして、通常盤としてリリースされた5)の録音が、ベームのブルックナーの第8交響曲として、「代表されるべきもの」とは言い難いことも良くわかる。この録音で取られたテンポは、かなりゆったりしたものであり、特に第2楽章以降、後半になるにつれてその傾向が顕著である。第3楽章については、1974年に、5)と同じオーケストラと振った3)で、27:57というタイムになっているが、第2楽章と第4楽章については、他の録音と比較しても、5)のテンポは抜きんでてスローである。
 これは、聴いた時の印象としてもだいぶ異なる。5)の録音については、「ゆったりし過ぎ」という意見もよく聴く。私は、「これはこれで一興」と思うのだが、その一方で、5)のスタジオ録音のみをもって「これがベームのブル8か」と思ってしまってほしくはないとも思う。
 当1)1969年の録音は、第1楽章は5)に近いが、第3楽章は上述6種中で最速であり、聴いていてもその印象が強い。第2楽章以降、全曲のフィナーレに向かう指揮者の強い意志のようなものを常に感じるようになり、そのことが音楽を引き締め、切迫感をもって聴き手に迫ってくるのである。
 1969年のライヴにしては、ステレオで良質の録音が記録されており、全般にとても聴き易い。ベームならではの自然で力強く、また前述の様に推進力に満ちた演奏だ。旋律を明瞭に響かせ、必要な個所で歌い、時にしっかりと踏み込む。その力加減が、いかにもブルックナーに相応しい。ベルリン・フィルの音響もさすがで、特に金管の迫力に満ちた咆哮が見事。フォルテに込められた力感と質感の充実は、大オーケストラを聴く醍醐味を感じさせてくれる。弱音であっても、きちんとした力が芯に伝わっているという手ごたえがさすがで、緩みなく巨大な音楽を構築している。
 ベームのブルックナーの第8交響曲には様々な録音があるが、当盤はオーケストラの魅力もあいまって、是非ともファンには聴き逃してほしくないものとなっている。

ブルックナー 交響曲 第8番  モーツァルト 交響曲 第38番「プラハ」
ハイティンク指揮 シュターツカペレ・ドレスデン

レビュー日:2018.2.20
★★★★★ これが、本当にオーケストラらしいオーケストラの音だ!
 ドイツの伝統あるオーケストラ、シュターツカペレ・ドレスデンは、1992年にシノーポリ(Giuseppe Sinopoli 1946-2001)を首席指揮者に招聘し、良好な関係を築き上げたが、2001年4月20日、シノーポリは指揮台で倒れ急逝してしまう。急遽その後任として、2002年から同オーケストラの首席指揮者となったのが、ハイティンク(Bernard Haitink 1929-)であった。
 この就任の時期、ヨーロッパは水害に見舞われ、多くの歴史ある建築物も被害を受けた。当盤に収められた2002年就任すぐのハイティンクのライヴは、これらの復興のための費用を集めることもその目的の一つであったという。収録されているのは以下の2曲。
1) ブルックナー(Anton Bruckner 1824-1896) 交響曲 第8番 ハ短調 (ハース版)
2) モーツァルト(Wolfgang Mozart 1756-1791) 交響曲 第38番 ニ長調 K504 「プラハ」
 2002年の別の日に行われたコンサートの音源2種を集めたもの。
 なかなか興味深い2曲と言える。ハイティンクは長いキャリアの中で、録音活動も積極的に行ってきた人物で、特にブルックナーに関してはひとかたならぬ愛を感じさせるものがあって、例えばLP期のひところ、ブルックナーの第0番のディスクなんて、ハイティンクのものが唯一だった記憶がある。ブルックナーの初期の交響曲なんか、ほとんど相手にされない時代から熱心に取り上げてきた人なのだ。しかも、第8番は得意中の得意といってよく、1969年のコンセルトヘボウ管弦楽団との録音以来、4種の既存盤がある。逆にモーツァルトは意外なほど録音がなく、交響曲の録音なんて、詳細を確認したわけではないが、おそらく、当録音がはじめてではないか。そういった意味で、とても興味深い2曲なのである。
 演奏を聴いてみた。これが「素晴らしい」の一言。特にブルックナーは流石の名演である。なんと表現すればいいが、どこをとっても、ものすごく純朴にまっすぐなブルックナーなのである。悠々たるテンポ、適度な脈を持った大きな呼吸。フォルテの崇高な盛り上がりは、実に自然で、うるささと無縁。しかも壮絶な迫力に満ちている。すべての場所において自然発揚的なエネルギーが満ちており、ブラスセクションと弦楽器陣の調和された響きは、アコースティックという形容詞が示す本来の姿のように思われる。
 私は、この演奏を聴いていて、突然思い出したことがある。吉田秀和(1913-2012)が著書の中で、以下のようなエピソードを披露していたのである。・・『ある時、カール・ベームの隣に坐って食事をした。一言、二言、話しているうちに、このつぎはいつ日本に来るのかという話になった。そうしたら、彼は「一度ドレスデンのシュターツカペレを呼んだらどうか。あれこそ本当にオーケストラらしいオーケストラなのだから。その時は、私は即座に飛んでくるよ」という。「でも、あなたは日本に来るのはいつだってウィーン・フィル、ベルリン・フィルといった選りぬきの交響楽団と一緒じゃないですか。ドレスデンはどういうわけで挙げるのですか」というと、あの言葉数の少ない巨匠はニヤッとして「まあ、きいてごらん」といっただけだったが、一呼吸おいて「でも、ドレスデンの方で私にふらせるかな」とつけ加え、軽くため息をついてみせた。』
 この話は、ベルリンの壁が出現して何年もしないころの話だというのだから、今となっては、それから何世代か入れ替わったぐらい昔のエピソード。しかし、私がこの演奏を聴いて、思い至った感慨は、まさに「本当にオーケストラらしいオーケストラ」の演奏というのは、こういうものではないだろうか、ということである。それくらいこの演奏は、各奏者が自分のことだけに専心するのではなく、他の奏者の出す音も全部完全に踏まえきったうえで、すべての奏者が自らの役割を果たしていて、それが何十年も前から当たり前のこととして繰り広げられてきたというような、どっしりと深く座った安定感と自然さに満ちている、と感じるのである。
 モーツァルトも実に素晴らしい。自然で、溌溂としていて、いや、それだけだったら、この交響曲を演奏したら、大概の演奏がそうなるのだけれど、当盤の演奏には、各楽器の調和から導かれた豊かで深い香りが感じられるのである。どこがどう、と具体的に挙げる能力が私には足りないのだけれど、とにかく素晴らしい。
 というわけで、巨匠の指揮、伝統あるオーケストラの響きをこころゆくまで堪能できるアルバムとなっています。

交響曲 第8番
ジュリーニ指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

レビュー日:2018.10.10
★★★★★ あらてめて、ブル8録音史における一つの里程標といえる当盤を聴く
 カルロ・マリア・ジュリーニ(Carlo Maria Giulini 1914-2005)指揮、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団によるブルックナー(Anton Bruckner 1824-1896)の交響曲第8番ハ短調、1984年の録音。
 いまさら何か付け足す必要のないほど有名な録音で、ブルックナーの第8の録音史においても、ひとつの里程標と言える芸術作品だろう。私は、このたび、DGからリリースされたジュリーニとウィーン・フィルハーモニー管弦楽団による80年代の録音をまとめた8枚組Box-setを購入したため、久しぶりにこの録音を聴いた。せっかくなので、感想のようなものをまとめてみよう。
 この録音がリリースされたころ、私はまだ10代の半ばだったのだが、ブルックナーの音楽に目覚め始めたころだった。当時、父がいくつかこの曲のLPを所有していた。ベーム(Karl Bohm 1894-1981)、シューリヒト(Carl Schuricht 1880-1967)、セル(George Szell 1897-1970)といったものが棚に並んでいたのを思い出す。私が当時聴いていたのはシューリヒトの演奏で、特にクライマックスで鳴る低い金管の響きが好きだった。そのような状況で、このジュリーニ盤が急に話題になってきたのである。
 私も、情報誌を読みながら、「いったいどんな演奏なんだろう」と思っていたのだが、そのうち知人が当演奏が入ったカセットテープを貸してくれる機会があり、これを聴くことになったのだ。
 当時の印象は今も覚えているが、とにかく聴いた感触は、「シューリヒトと全然違う」というものに帰結する。シューリヒトはどちらかと言えば早めのテンポで、颯爽とまとめ、淡めの音響で、とても線的かつ古典的にまとめていた。対するにジュリーニの録音は、熱的で、壮大。テンポはスローで、浪漫的。私は特にその第2楽章のレガート主体の表現や、第3楽章の長く時間をかけて熱するような表現に、当時「とてもついていけない。これがそんなに名演とは思えない」と思ったものである。
 だが、様々な音楽や演奏を聴いてきた今の自分は、それと異なる印象を持つ。むしろシューリヒトの演奏は、淡泊に過ぎる傾向を感じ、最近ではしばらく聴いていない(それはそれでいい演奏だとは思うけれど)。ジュリーニのブルックナーの第8交響曲は、楽曲の巨大さを真正面から向かい合い、明るい音色でまとめ上げたものだ。その輝かしさに、ブルックナーの交響曲としての異質性を指摘することも可能であるとはいえ、圧倒的といって良い強靭さで成り立つ完成度があって、まるで荘厳な歴史的建築物のように、接する人に威風を感じさせるものである。また、その表現の中で、感情表現も豊かであり、その発色性が「美しさ」に繋がっている。
 クライマックスにおけるエネルギーの開放量は大きい。これは音量が豊かであるとともに、そこに向かう過程で「溜め」が存分に効いているためで、全般にはゆったりしたテンポでありながら、濃密な練り上げがあるがゆえにもたらされる効果である。
 オーケストラの音色も当然のことながら立派なものであるが、中でも金管の絢爛たる響きは聴き手に支配的な力をもたらす。弦楽器は、高音部でときおりソリッドな感じはあるが、過不足を感じさせるところのない中庸さが維持されているだろう。あらためて聴いてみると、この演奏が登場する以前の録音とは、まったくちがった、しかし見事な完成度を誇る価値観で示されたブルックナーであり、聴き手や以後の演奏家にもたらした影響の大きかったことは、十分に推察されるのである。

交響曲 第8番 第7番から第2楽章
ネゼ=セガン指揮 グラン・モントリオール・メトロポリタン管弦楽団

レビュー日:2019.2.26
★★★★★ 私の知る限り、現時点でのネゼ=セガンのベスト録音
 当盤は、いまや世界的な指揮者となったヤニック・ネゼ=セガン(Yannick Nezet-Seguin 1975-)が、国際的に注目されはじめたころの録音である。この録音に今さらレビューでもないが、最近、私はこのディスクを中古で入手して初めて聴いたので、感想など書こうと思う。
 ブルックナー(Anton Bruckner 1824-1896)の以下の作品が収録されている。
1) 交響曲 第8番 ハ短調(ハース版) 2009年録音
2) 交響曲 第7番 ホ長調(ノヴァーク版) から 第2楽章 2006年録音
 CD2枚組で、1枚目に第8番の第3楽章までが収録、2枚目に第8番の第4楽章、そして余白部分に交響曲第7番の第2楽章のみが収録されている。オーケストラは、グラン・モントリオール・メトロポリタン管弦楽団。
 さて、私はこれまでいろいろこの指揮者の録音を聴いてきたのであるが、現時点の印象で語ってしまうと、このブルックナーがいちばん素晴らしいと思った。
 ネゼ=セガンは、一貫してゆったりとしたテンポを維持する。ジュリーニほどには遅くないが、平均より遅いことは間違いない。そのテンポの中で、常にブルックナーに相応しい響きが醸成される。その適度なほの暗さ、ホールトーンを活かした全体の暖かい柔らか味がまず素晴らしい。
 ゆったりしたテンポ設定は、ブルックナーの音楽の構成単位を明確にすることには向かない。実際、この演奏において、聴き手に構造が伝わりやすいとは思わない。しかし、逆にこれ見よがしな頂点を意識せず、クライマックスはここですよと声高く叫ぶこともない悠然とした歩みは、それ自体ブルックナー的であり、魅力に満ちている。決して細やかな感情を描き出そうとしているわけではないが、大きな構えで堂々と歩んでいくその姿自体が見事であり、聴いていて私を夢中にさせる要素を多分に含んでいる。おそらく、この録音は、多くのブルックナー・ファンにとって好意的に受け入れられるものなのではないか。
 そんな当録音の頂点は、やはり長大なアダージョ楽章にあるだろう。ここでもその音楽は構えが大きく、つねみ脈々と豊かな水量を湛える大河のように音楽は流れていく。瞬間に機敏に対処するのではなく、自然な地形に沿って、肥沃な大地をゆったりと進んでいく。そんな印象がもたらされるのは、特に金管の柔らかな響きの影響が大きいだろう。決して突き刺すようなフォルテではなく、包み込み、他の楽器と融合していくような大らかな響き。それにしてもグラン・モントリオール・メトロポリタン管弦楽団というオーケストラ、あまり聴く機会がないし、モントリオールを本拠とするのであれば、フランス系文化に根差したオーケストラに思うのだけれど、中央ヨーロッパの王道を行くような立派なサウンドを作り出していて、ブルックナーの音楽によく適合しており、感心させられる。
 平板で全体が混沌になることもない。第2楽章の執拗な主題の繰り返しも、不自然さのない範囲でアーティキュレーションがあって、音楽としての機能を十分に保ちながら、再現の面白味を担っているし、終楽章では、やはりややゆったり目のテンポの中で、十分に脈を感じさせる音楽の起伏感が描かれ、充実した時間が流れている。見事な第8交響曲であり、特に成功した録音の一つと言っても良い。
 塀録してある第7交響曲のアダージョも、同様に暖かい音楽であり、全曲でないことが惜しまれてくる。
 素晴らしい演奏である。ただ、この録音を聴いてしまうと、最近のネゼ=セガンの録音に、「本来の実力はもっとあるのではないか・・・」と思ってしまうところもあるのだが。。。

交響曲 第8番
クーベリック指揮 バイエルン放送交響楽団

レビュー日:2019.8.31
★★★★☆ 1963年ライヴ。クーベリックのブルックナーの第8
 チェコが生んだ名指揮者、ラファエル・クーベリック(Rafael Kubelik 1914-1996)は、1961年にバイエルン放送交響楽団の首席指揮者に就任し、1979年までその地位にあった。その間、彼らの活動は充実し、このオーケストラは、世界屈指の芸術家集団へと成長を遂げていった。
 当録音は、クーベリックが首席指揮者に就任した2年後である1963年のライヴの模様を収めたもので、ブルックナー(Anton Bruckner 1824-1896)の「交響曲 第8番 ハ短調」が収録されている。モノラル録音。
 クーベリックは、この大曲をスタジオ録音という形では遺さなかったが、現在、やはりバイエルン放送交響楽団を振った1977年のライヴ録音が入手可能である。それは、すでに指揮者とオーケストラが互いを知り尽くした演奏で、録音状態も当盤と比べて格段に良いこともあり、彼らの当該曲の代表録音としては、そちらを挙げるべきだろう。
 とはいえ、14年先んじた当録音も、貴重な記録といって良い。概して1977年の演奏より、テンポは速めである。そのため、クライマックスに至る過程により急性なものがあって、劇的だ。ところどころフルトヴェングラー(Wilhelm Furtwangler 1886-1954)を彷彿とさせるような、雄弁さがあり、浪漫的な施しが豊富なブルックナーである。その一方で、全体として締めるところは締めており、正統的な解釈から大きく逸脱するような部分はない。
 特に私にとって印象的だったのは、たっぷりした情感を聴かせる第3楽章である。クーベリックが、すでにこのオーケストラを、十分にドライヴした実感があり、それゆえの濃淡豊かな響きは、薫りの高さを持っている。
 良い演奏だと思うが、さすがに1963年のライヴ録音ということもあって、S/N比は低く、弦の高音も硬く感じられる。だから、ブルックナーの第8交響曲として、特に当盤を薦めるわけではないが、クーベリックという指揮者が、ロマン派の流れを汲みながら、造形的なブルックナー像を作り上げる姿が垣間見られ、興味深い。

交響曲 第9番
ショルティ指揮 シカゴ交響楽団

レビュー日:2007.3.29
★★★★★ 当時私がブルックナーの印象を一新させられた録音です
 1985年の録音。今聴いてみても思うが、当時はかなり斬新なブルックナーだったのではないだろうか。確か、この頃はブルックナーの録音も今の様に大量にあったわけではなく、日本ではシューリヒトの録音の評価が高かったと思う。私もシューリヒトの録音を聴いていた。そこには確かに枯淡ともいえる味わいある音楽があり、鄙びた山陰の温泉のような雰囲気があった。これを聴く一方で、何かもっと別の方法のものを聴いてみたいという思いも強くあった。
 そんな背景で登場したのがこのショルティ盤である。これには驚いた。これまで漠然と「ブルックナーはこういうもんだ」と思っていたものが、いきなり思いもかけない方法で語られる、その鮮度の強烈だったこと。純粋にスコアと対峙して、ひたすら深くスコアを読み尽くしたショルティあってこその演奏と言えると思う。今聴いてみても、その鮮度がまったく失われていないことに驚嘆してしまう。とにかく辛口で、人によってはとっつきにくいかもしれないが、大変な名演である。強靭な精神力によって引き締められた合奏の持続は息苦しくなるほどの緊迫感!。静寂の果てしなさ、音色の緻密さ、そして神がかり的な迫力。ブラスの壮大な響きには抗いがたい強烈な引力を感じてしまう。実際、この録音に出会って、私はブルックナーという作曲家の作品がいよいよ本当に好きになったのだ。(そして今も。。。すごい持続力だ)。この演奏は、この曲の神秘性をさらに突き抜けた領域にある。

ブルックナー 交響曲 第9番  ワーグナー 「トリスタンとイゾルデ」前奏曲
ヨッフム指揮 ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団

レビュー日:2008.2.10
★★★★☆ ヨッフム晩年のミュンヘンフィルとの貴重な録音
 オイゲン・ヨッフム( Eugen Jochum 1902 - 1987 )の晩年のミュンヘンフィルとのライヴ録音。ブルックナーの交響曲第9番が1983年、ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」前奏曲が1979年の録音。
 ヨッフムは、早くからブルックナーの作品演奏に精力的に取り組み、録音活動においても交響曲全集(第1番~第9番)を2度完成させるなど、その音楽の普及に尽力した指揮者。ここでの演奏も正統的な膂力のこもったもの。
 ブルックナーは特に第1楽章が名演。冒頭から荘厳な空気が満ちており、原始霧とよばれる弦のトレモロによる開始から推進する力を感じる。金管陣の織り成す逞しい主題の提示も、心に伝わるものを感じる。元来、ヨッフムのブルックナーは比較的テンポをよく動かし、浪漫的であるが、この演奏は比較的その傾向は小さめだろうか。それでも、第2主題の提示や経過句は少し早めのテンポであるが、音楽の弛緩をうまく排するのに効果があり、狙いは成功しているだろう。クライマックスの迫力も見事。フィナーレもややテンポに拍車をかける人工的なところを感じるので、聴く人によって好みが分かれそうだけど、まとまりは悪くない。第2楽章はトリオの躍動感が印象に残る。ただ、録音はややきめが粗く、強奏音がやや平板でベタッとしたところがあり、終楽章ではやや奥行きに物足りない面も感じる。ワーグナーはまじめな演奏で、正統的。
 録音年代を考えると、もう少しいい音で聴きたかったと思うが、それでも貴重な録音には間違いないし、ミュンヘンフィルも集中力の高い演奏で、ヨッフムの指揮に応えている。

交響曲 第9番
P.ヤルヴィ指揮 フランクフルト放送交響楽団

レビュー日:2010.11.1
★★★★★ 暖色系でやや明るいトーンのブルックナー。なかなか魅力があります。
 パーヴォ・ヤルヴィ指揮フランクフルト放送交響楽団によるブルックナーの第9交響曲。2008年の録音。フランクフルト放送交響楽団のブルックナーというと、どうしてもエリアフ・インバルの初稿による交響曲全曲録音を思い出す。当盤は、このオーケストラにとって、それ以来の注目すべきブルックナー・シリーズだと思う。
 パーヴォ・ヤルヴィの録音というと、とりあえずすぐに思いつくのがドイツ・カンマーフィルとのベートーヴェンである。軽快で躍動感に溢れる演奏で、いかにもオーケストラが自らの音楽にノッていくような音楽だった。それで、ブルックナーをやるとどうなるのか?
 答から書くと、もちろん曲が違うのでベートーヴェンと同じようなアプローチではありません。しかし、共通点もあります。それはトーンの明るさ。この交響曲の冒頭は、弦のトレモロを背景に、ベートーヴェンの第9を思わせるような荘厳な地平の広がりのようなものを感じさせるが、ヤルヴィの出す音は少し柔らかめで、肌合いがシック。いかにも自分サイズの音楽になっていて、それが適切な距離感を感じさせる。この距離感が、長い第1楽章の間、安定して保たれているのが良い。全合奏による強奏は、金管の押し出しもあり心地よいが、音色が鋭くなることはなく、その手前で、全合奏のグラデーションにほどよく溶け込む。この良心的とも思えるバランス感覚がこの演奏から受ける印象の多くを占めた。テンポは平均的なものだと思えたが、第1楽章のコーダでぐっとテンポを落として力をためる様子があり、ここらへんは聴く人の好みによるだろう。
 第2楽章は力強い推進力が漲っていて素晴らしい。トリオからの受け渡しの処理も無理がなく、自然な起伏が描かれていく。
 第3楽章(この曲は未完なので、終楽章になるが)も、明るい音色が満ちていて、特に中間部の豊穣な音色のうねりが印象に残る。仄かなニュアンスを残して静かに消え行くエンディングも相応しい。
 総じて、フランクフルト放送交響楽団の特性を活かした好演奏だと思う。最後まで特徴を出し切っているのは、金管陣の、技術力を背景にした同じ論法によるショットが最後まで決まり続けていることが大きい。そのようなわけで、オーケストラの力量も良く伝わった。

交響曲 第9番
ドホナーニ指揮 クリーヴランド管弦楽団

レビュー日:2011.1.17
★★★★☆ ドホナーニにしか演奏しえない個性的なブルックナー
 クリストフ・フォン・ドホナーニが手兵クリーヴランド管弦楽団と初めて録音したブルックナー。録音は1988年。
 ドホナーニの多くの録音は現在では廃盤となっていて、ブルックナーで言えばクリーヴランド管弦楽団との第3番から第9番まで(いずれもDECCA)、すべて廃盤となっている。最近では同じような状況にあったスウィトナーのブルックナーがまとめて廉価版で再発売となったけれど、ドホナーニのブルックナーにも再興の機はあるだろうか?と考えながら聴いた。
 非常に個性的なブルックナーであり、ドホナーニとクリーヴランド管弦楽団だからこそできた演奏だと強く思わせる内容だ。存在感のある録音だと思う。これと近いスタイルのブルックナーがあるだろうか?と考えてみたけれど、ちょっと思い当たるディスクが無い。
 特徴は、まず音質の軽さに現れる。これは決して悪い意味ではない。非常にリズミックで、弾力のある音色。例えば第1楽章冒頭。弦のトレモロから開始される荘厳な音楽・・・であるけれど、ドホナーニの演奏の場合、妙にクッションが効いていて、最初の金管の付点のリズムなんて跳ねるような動感がある。普通の演奏だと、ここはぐっと何かを溜めるような、エネルギーを充填する部分なのだけど、ドホナーニは最初からあっけらかんと開放していて、早いテンポであっさり最初のクライマックスに達する。このクライマックスだって面白い。速くて透明な音色。きっと、他の録音に馴染んできた人には、なんだか肌合いの違う音楽と接しているような、そんな違和感をもたらすと思う。
 その後も同様の手法は継続され、見通しの良いクリアなブルックナーが奏でられる。不思議なのは、最初感じた違和感が聴いているうちに「こういうのも全然アリだな」と思ってくること。そのうち聴き馴染んでくるのである。第2楽章は機能美で押し通した感があるが、オーケストラの技術が見事で、ダイナミックな聴き味も存分にある。一瞬とて濁りの無い音色は、まるでデュトワを思わせるけれど、デュトワはブルックナーを録音していない。もしデュトワが振ったらこんな感じになるのではないかと思った。終楽章も抜群の透明感で、あまりにもクールかもしれない。しかし浄化されていくような末尾はことほか美しく神がかり的だ。
 いずれにしても、かなり個性的な演奏なので、人によっては齟齬が大きくて馴染むに至らないかもしれない。いわゆる「推薦盤」と言うわけではないけれど、この個性的な演奏をCDラックに置いておくと、たまに妙に聴きたくなるのも確かで、なんとも不思議な魅力を持った録音だと思う。

交響曲 第9番
ハイティンク指揮 コンセルトヘボウ交響楽団

レビュー日:2013.8.29
★★★★★ 1981年のハイティンクが記録した豊饒な名演
 いまやアバド(Claudio Abbado 1933-)とともにクラシック音楽界の2大巨匠の一人となった感のあるオランダの指揮者、ベルナルド・ハイティンク(Bernard Haitink 1929-)による1981年録音のブルックナー(Josef Anton Bruckner 1824-1896)の交響曲第9番。演奏はハイティンクと長年にに渡り蜜月の関係にあるロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団。
 先に、現在のハイティンクの世界的評価について書いたが、この録音が行われた当時は、ハイティンクという指揮者の評価はそれほど芳しいものではなかった。むしろ、60年代から80年代はじめにかけて、様々な作曲家の「全集」をマメに録音していったという点で、オールラウンダーとしての万能振りという点から、便利屋的な見方をされることが多かったように思う。特に、当時の日本の関連書物に改めて目を通してみると、「作りが小さい」とか、「響きが浅い」といったことを書き散らしたものが多く、逆に、そういったものが何を基準に考察されたものだったのか、再考したいと考えてしまう。
 ハイティンクの実力は、当然のことのように広く認められるようになり、この後、Philipsレーベルでは、ベルリンフィルハーモニー管弦楽団とのマーラー・シリーズとウィーンフィルハーモニー管弦楽団とのブルックナー・シリーズが同時に開始されるなど(残念ながら、いずれも全集には至らなかったが)、その世界的重鎮ぶりは、広く示されていくことになる。
 この音源が録音された1981年というのは、ハイティンクが52歳の時であり、俗にいう「脂の乗り切った」時期の演奏だと思う。私の個人的な意見では、ハイティンクのブルックナー録音については、この後のウィーンフィルとのシリーズより、コンセルトヘボウ管弦楽団との全集の方が、暖かい中庸性という特性が際立っていて、優れたもののように思う。ウィーンフィルとの録音は、全般により峻嶮な趣だが、同時に響きに硬さが垣間見られるので、私はその点でコンセルトヘボウとの旧録音の方が好きなのだ。
 この演奏も素晴らしい。冒頭の静謐なトレモロから、動機の提示、展開、そして全管弦楽による第1主題の提示までの3分近くの時間にダイナミックレンジの両端が収められる形になるが、そのレンジの大きさを、巧みな管弦楽のバランスで、豊かで豊饒なトーンを得ることで、違和感なく埋めており、それらは高い融合度を感じさせる「シンフォニック」という語句で形容できる印象に結びついている。その後も、弛緩のない音楽の進行の中で、常に暖かな音色で、適度な柔らかさを保ちながら、自然な音色を演出する。そのため強大なフォルテであっても、周囲に馴染むように聴き手に迫ってきて、内面的な充実を感じさせる。
 ハイティンクの演奏に「際立った特徴がない」という人もいる。それは、オーソドキシー(orthodoxy;正統性)を求める彼のスタイルからくる副産物的な印象なのかもしれないが、彼の芸術は、決してそれだけではない。この演奏の第1楽章のフィナーレにその証左がある。エキストラ・ティンパニによって豪快に打ち鳴らされる付点のリズムは圧巻の迫力だ。
 第2楽章では木管に導かれて神秘的な弦のさざなみから始まり、拡張して勇壮な進展に至るが、この拡幅の過程も自然で無理がない。中間のトリオ部分とのつながりも能動的で、よく出来ている。こういうところが、ハイティンクの天性の感覚なのだと思う。
 第3楽章は、この交響曲が未完に終わっため、結果的にアダージョ・フィナーレとなった楽章だが、ハイティンクの演奏を聴いていると「未完」を感じさせない。冒頭とは打って変わって、天国的な余韻を残して長調で結ばれる最後に、自発的とも思える美しい完結を感じさせてくれる。
 今もって、私にとって、ハイティンクのこの演奏は、ブルックナーのこの名曲の中でも、指おりたい名盤の一つ。

交響曲 第9番
P.ヤルヴィ指揮 フランクフルト放送交響楽団

レビュー日:2013.11.19
★★★★★ 明るいトーンで描いた新しい感覚を感じるヤルヴィのブルックナー
 パーヴォ・ヤルヴィ(Paavo Jarvi 1962-)とフランクフルト放送交響楽団によるブルックナー(Josef Anton Bruckner 1824-1896)の交響曲第9番。2008年のライヴ録音。
 フランクフルト放送交響楽団のブルックナーというと、どうしてもエリアフ・インバル(Eliahu Inbal 1936-)の初稿による交響曲全曲録音を思い出す。当盤は、このオーケストラにとって、それ以来の注目すべきブルックナー・シリーズ。
 一方で、パーヴォ・ヤルヴィの最近の録音というと、とりあえずすぐに思いつくのがドイツ・カンマーフィルとのベートーヴェンである。軽快で躍動感に溢れる演奏で、いかにもオーケストラが自らの音楽にノッていくような音楽だった。それで、ブルックナーをやるとどうなるのか?
 答から書くと、もちろん曲が違うのでベートーヴェンと同じようなアプローチではありません。しかし、共通点もあります。それはトーンの明るさ。この交響曲の冒頭は、弦のトレモロを背景に、ベートーヴェンの第9を思わせるような荘厳な地平の広がりのようなものを感じさせるが、ヤルヴィの出す音は少し柔らかめで、肌合いがシック。いかにも自分サイズの音楽になっていて、それが適切な距離感を感じさせる。この距離感が、長い第1楽章の間、安定して保たれているのが良い。全合奏による強奏は、金管の押し出しもあり心地よいが、音色が鋭くなることはなく、その手前で、全合奏のグラデーションにほどよく溶け込む。この良心的とも思えるバランス感覚がこの演奏から受ける印象の多くを占めた。
 テンポは平均的なものだと思えたが、第1楽章のコーダでぐっとテンポを落として力をためる様子があり、ここらへんは聴く人の好みによるだろう。第2楽章は力強い推進力が漲っていて素晴らしい。トリオからの受け渡しの処理も無理がなく、自然な起伏が描かれていく。第3楽章(この曲は未完なので、終楽章になるが)も、明るい音色が満ちていて、特に中間部の豊穣な音色のうねりが印象に残る。仄かなニュアンスを残して静かに消え行くエンディングも相応しい。
 総じて、フランクフルト放送交響楽団の特性を活かした好演奏だと思う。最後まで特徴を出し切っているのは、金管陣の、技術力を背景にした同じ論法によるショットが最後まで決まり続けていることが大きい。そのようなわけで、オーケストラの力量も良く伝わった。

交響曲 第9番
ラトル指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

レビュー日:2014.7.14
★★★★★ 2012年SPCM版の終楽章を、ベルリンフィルの美麗な音色で
 サイモン・ラトル(Simon Rattle 1955-)指揮、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団によるブルックナー (Anton Bruckner 1824-1896)の交響曲第9番ニ短調。2012年のライヴ録音。注目度の高いアルバムで、すでに多くの方がレビューをされている。自分が新たに付け加える部分もあまりないかもしれないが、感想を含めて書きたい。
 実はラトルのブルックナーを買って聴いたのは今回が初めてである。ラトルの、劇的で部分部分を濃密に音化するスタイルが、なんとなくブルックナーの音楽と相性が良くないイメージがあったからだ。しかし、当盤を聴くと、やはりそのような素人の先入観は、プロの芸術家集団にはまったく通用しないものだと分かった。素晴らしい演奏である。
 さて、演奏自体とは別に、この盤で注目されるのは、未完に終わったこの音楽に、補筆完成版第4楽章が付随していることにある。この第4楽章稿は、それに係った4人の音楽学者の頭文字をとって「SPCM版」と呼ばれる。他にどのようなものがあるか、簡単にまとめると、以下のようになる。
1) 1896年「断片集」 フィリップス(John Alan Phillips 1960-)監修。
2) 1971年「アイネム版」 アイネム(Gottfried von Einem 1918-1996)による「ブルックナー・ディアローグ」という作品。
3) 1981-83年「キャラガン版」 キャラガン(William Carragan)による補筆完成版。
4) 1984年「サマーレ・マッツーカ版」 サマーレ(Nicola Samale 1941-)とマッツーカ(Giuseppe Mazzuca 1939-)による補筆完成版。
5) 1992年「SPCM版」 サマーレ、フィリップス、コールス(Benjamin-Gunnar Cohrs 1965-)、マッツーカによる共同版。
6) 2006年「マルテ版」 マルテ(Peter Jan Marthe 1949-)による断片から再作曲されたスコア。
7) 2008年「レトカール版」 レトカール(Sebastien Letocart)による補筆完成版。
 1)は、音楽としての完成させたものではなく、ブルックナーが遺した「断片」のみを集めたもので、アーノンクールがこれらの「断片」を一つ一つ録音して「音」にしたものがある。2)はアイネムによる「ブルックナーの断片による音楽」で、むしろアイネムの作品といったところ。私は未聴ながら、マタチッチによる録音が知られている。3)のキャラガン版は、オリジナル版の他、2003年、2006年、2010年にそれぞれ改訂譜が出ていて、最新の2010年版は、ゲルト・シャラーによる録音がある。4)はインバル、ロジェストヴェンスキーが録音に取り上げたことでも有名。5)もキャラガン版と同様に、初版の他、2007年、2012年にそれぞれ改訂譜が出ている。2007年版にはハーディングの録音があるが、当ラトル盤はこのうち最新の2012年版を用いたもの。さらに、6),7)など別の学者による版も出ている。
 いずれにしても、ブルックナーが「愛する神」に捧げた彼の最後の交響曲が、もし完成されていたとしたら、どのような姿になっていたかは、多くの音楽ファンにとって興味のあることだろう。現在のところ、この「SPCM版」2012年エディションが、最新のスコアということになる。
 2010年キャラガン版もよく工夫されたものだと思ったけれど、この2012年SPCM版もよく吟味されていて、聴いていて「流れ」という点で極端に不自然には感じられなかった。かつての版で、「断片」から「断片」への橋渡しで、随分苦労したところもあったのだけれど、以外にもカットという引き算の発想を応用することで、フォルムは良い方へ整形されている。第一主題自体の霊感的な物足りなさは如何ともしがたいが、音響的なもの、あるいはブルックナー的な形式へのこだわりと、時として驚かされる跳躍は、なるほどと思わせられるほど再現できている。過去の交響曲を彷彿するところ、前楽章の主題を回想するところ、全体の浪漫的な展開は、第4、第5交響曲の終楽章を思い起こさせる感じだ。コーダの高らかな歌い上げは、感動を覚えるほどの内容。
 それにしても、ベルリンフィルの音色が素晴らしい。この「SPCM版」は、そこそこ洗練されたとはいえ、並みの演奏では「聴かせる」ように響かせるのは難しいだろう。このオーケストラの美麗なサウンドがあればこそだ。
 交響曲全曲を通じたラトルの指揮振りも見事。もちろん、時としてこの人らしい発色や、ティンパニに焦点を当てた演出が加わるのでけれど、そこに新鮮味を感じこそすれ、何かが失われているとは思わなかった。個性的だが、ブルックナーの音楽は、脈々と息づいている。ライヴであるが、第1楽章の冒頭部にちょっと気になるところがあったが、ほとんど修正の必要な箇所はない様に思う。
 全般に少しだけ早めのテンポでありながら、内声部から練り上げた音響が、交響曲の下地を良く支えているし、和声的な機能としての役割も、明瞭に果たしている。全般にきれいで聴き易いサウンドだが、迫力も十分にあって飽きることはない。アダージョの荘厳な弦の響きも相応しい。
 貴重な4楽章版であるというだけでなく、ラトルのブルックナーとして、成功の刻印を残した立派な録音だ。

交響曲 第9番
ヤノフスキ指揮 スイス・ロマンド管弦楽団

レビュー日:2015.4.27
★★★★★ これぞ現代のブルックナー!洗練を極めた「無との対比」
 ポーランドの指揮者、マレク・ヤノフスキ(Marek Janowski 1939-)とスイス・ロマンド管弦楽団による、ブルックナー(Anton Bruckner 1824-1896)の「交響曲 第9番 ニ短調」。2007年の録音で、ノヴァーク版による演奏。
 ヤノフスキは2007年から12年にかけて、スイス・ロマンド管弦楽団とブルックナーの交響曲の全集を製作したが、当盤がその第1弾に当たるもの。
 ブルックナーの第9交響曲は、すでに名曲としての評価が定着して久しいし、最近では本当に数多くの録音がある。私はまだ学生だったころにブルックナーに覚醒し、長いことこの曲を聴いてきたけど、すでに相当数の録音を聴いてきたこともあって、「この作品において、なにか新しいものを表現し、かつ成功させるというのは、とても難しいと言える状況になっている」と思っていた。しかし、予想もしないところから、凄い録音というのは、突如出現することがある。このヤノフスキの録音は、私にとって、衝撃的な一枚だ。
 ブルックナーの交響曲に宇宙や神をイメージする人は多いだろう。じっさい、ブルックナーは、未完に終わったこの交響曲が完成していれば、「愛する神」に捧げるとしていた。冒頭の静寂から聴こえてくる弦のトレモロ、その緊迫感から立ち現れるニ短調の主題は、壮大で、超越的な存在を想起させる。そして緊張は2分強もの間、ひたすら高まり続け、なだれ落ちるような強靭な全管弦楽の彷徨を導き、静寂の闇へ連れ戻す。この冒頭の部分は、作品が持つ神性を具現化させるための、きわめて劇的な進行が秘められており、第9交響曲の神秘を象徴する部分である。
 ヤノフスキの演奏を聴くと、驚かされるのはその静寂の深みだ。冒頭の弦のトレモノの背景にある闇を痛烈に意識させるのはなぜか。それはこのトレモロが、驚くほど精巧に、こまやかに、その波形をコントロールして奏でられているからである。ビタリとピントの合った瞬間に、写真のリアリティが一気に高まる様に、このトレモロは、強烈に「無」との対比を形成している。その効果の背景には、当然のことながら、録音の素晴らしさもあるのであるが。金管による主題が奏でられるが、付点の主題に呼応する木管の強靭な呼応もすごい。この効果は全曲を通じているが、これも私には強烈に「無との対比」を印象づけるものだ。
 全体的に演奏は速めである。しかしテンポは場面により適宜変化を伴うことがある。この「変化」は、ヨッフム(Eugen Jochum 1902-1987)を連想させることもあるが、ヤノフスキの方法はより鮮明で、「変化」というより「転換」に近い。その「転換」の部分で、時に全体的な音量をぐっと同時に切り替えることがあり、その際に、聴き手はまるで空気圧が変わったかのような緊張を感じる。と同時に、この「転換」は空冷化、すなわち闇に向かう瞬間にも働く。また、低音(特に弦)の響きはきわめて意識的にセーヴされ、音量の克明化を徹底している。
 これらの細部まで徹底された鮮明さは、全曲の驚くほどの透明感に繋がる。第2楽章のピチカートがきわめて暗示的に響き、トロンボーンの三連符が激しく衝撃的に鳴るのも、前述のような効果が背景にあることで得られたものだ。第3楽章のいよいよ透明感に満ちた響きは、漆黒のパレットに荘厳な美をもたらす。
 それにしても、スイス・ロマンド管弦楽団の能力には驚かされた。これほど新しさを全編に感じさせながらも、その響きは常にブルックナーである。決して奇異に感じさせるところがないのは、技術に秀でると同時に、この楽曲の再現される姿が、緊密に共有できているために他ならない。ヤノフスキの統率能力が尋常ではないレベルだということもあるが、オーケストラのスペック自体にも心底感嘆させられる録音だ。

交響曲 第9番(シャラー校訂完全版)
シャラー指揮 フィルハーモニー・フェスティヴァ

レビュー日:2016.12.26
★★★★★ シャラー自ら終楽章を補筆完成した上で、再録音となったブルックナーの第9交響曲
 すでに、ブルックナー(Josef Anton Bruckner 1824-1896)の交響曲を全曲録音したのみならず、オルガン奏者としてそのオルガン作品まで録音したゲルト・シャラー(Gerd Schaller 1965-)が、今度は「交響曲 第9番 ニ短調」を、自ら補筆完成した終楽章を含む形で再録音した。2016年、エーブラハ大修道院付属教会でのライヴ録音。オーケストラはフィルハーモニー・フェスティヴァ。1,2楽章と3,4楽章を分割する形でCD2枚に収録。
 シャラーは、2010年の録音に際しても、「終楽章付」の形によっており、その際はウィリアム・キャラガン(William Carragan)によるスコアを用いていた。
 ブルックナーが、「愛する神」に捧げために書いた第9交響曲。3楽章までしか完成されず、終楽章に関しては草稿のようなものしか残されなかった。これを完成された音楽にしようという試みは、これまで数多くあり、私の知る範囲でまとめると、以下のようなものがある。
1) 1934年「断片集」 アルフレッド・オーレル(Alfred Orel 1889-1967)監修。
2) 1971年「アイネム版」 アイネム(Gottfried von Einem 1918-1996)による「ブルックナー・ディアローグ」という作品。
3) 1981-83年「キャラガン版」 キャラガン(William Carragan)による補筆完成版。
4) 1984年「サマーレ・マッツーカ版」 サマーレ(Nicola Samale 1941-)とマッツーカ(Giuseppe Mazzuca 1939-)による補筆完成版。
5) 1992年「SPCM版」 サマーレ、フィリップス(John Alan Phillips 1960-)、コールス(Benjamin-Gunnar Cohrs 1965-)、マッツーカによる共同版。
6) 1992年「ジョーセフソン版」 ジョーセフソン(Nors S. Josephson)による補筆完成版。
7) 2006年「マルテ版」 マルテ(Peter Jan Marthe 1949-)による断片から再作曲されたスコア。
8) 2008年「レトカール版」 レトカール(Sebastien Letocart)による補筆完成版。
9) 2015年「シャラー版」 シャラーによる補筆完成版。
 1)は、音楽としての完成させたものではなく、ブルックナーが遺した「断片」のみを集めたもので、アーノンクールがこれらの「断片」を一つ一つ録音して「音」にしたものがある。2)はアイネムによる「ブルックナーの断片による音楽」で、むしろアイネムの作品といったところ。私は未聴ながら、マタチッチによる録音が知られている。3)のキャラガン版は、オリジナル版の他、2003年、2006年、2010年にそれぞれ改訂譜が出ていて、最新の2010年版は、シャラーが最初の録音で取り上げたもの。4)はインバル、ロジェストヴェンスキーが録音に取り上げたことでも有名。5)もキャラガン版と同様に、初版の他、2007年、2012年にそれぞれ改訂譜が出ている。2007年版にはハーディング、2012年版にはラトルの録音がある。6)はジョン・ギボンズの録音がある。さらに、7,8)など別の学者による版も出ている。
 そのような中で、このシャラー版の登場となった。終楽章の演奏時間は24’40で、2010年録音のキャラガン版が22'12、ラトルによるSPCM2012年版が22'41であるのと比べると、やや長く、SPCM版の旧版から分派したような印象を受ける。
 というわけで、当録音については、おおむね「前3楽章の演奏そのもの」、それと「新しく書き直された終楽章の印象」という2点の着眼点が存在する。
 前者についてであるが、私の印象は2010年の録音より、流れが自然で古典的な色合いが深まったと感じられる。第3楽章のテンポをやや速めたのは、終楽章とのバランスを再考した結果かもしれない。しかし、印象が良化したのは、旧録音より若干演奏時間の延びた第1楽章で、金管の響きがオーケストラ全体の響きの中でより融合度が高くなったように感じられる一方で、荘厳な雰囲気が高まっており、ある意味古典的なブルックナー像として、理想に近いところにあると思う。逆に言うと旧録音にあった透明な清潔感は、その存在感を弱めたかもしれないが、豊かな内声部から得られる厚い充足感は当録音の方が高い。フルートをはじめとする木管の響きの清浄さは健在だ。
 第2楽章は金管の力強い咆哮が見事だし、残響を意識し過ぎない前進性も高まった。第3楽章は演奏時間が短縮されているが、決して落ち着きがないことはなく、正確で美しい音像を構築している。総じて、先の録音を上回る内容だと感じられる。
 後者については、最近の傾向から言うと、感覚が以前のものに戻ったようなイメージ。元来、この終楽章の断片から復元された音楽は、「神への愛」を意識させる荘厳で宗教的なものとは言い難く、むしろブルックナーが熱烈に支持したワーグナー(Richard Wagner 1813-1883)的熱狂さを備えている。SPCM2012年版では、適度なカットにより、そのフォルムを整えたが、シャラー版はその情熱を冷まさない体裁に向かっているのではないだろうか。クライマックスの金管のリズムもどこか世俗的だ。その一方で、終結前に導かれる静寂に、音楽的に高い効果が認められる。
 いずれにしても、素材の限界を感じるところは避けられない面はあるにせよ、この終楽章のもつ一種の違和感も含めて、ブルックナー、そしてシャラーの意図を詮索し、楽しむこととなるだろう。個人的に、この終楽章は、残された主題の魅力に限界があり、「どうあがいても・・」というところはあるのだけれど、最近のものは、ファンがある程度楽しめるものになってきていて、このシャラー版もその一つと感じられました。

交響曲 第9番
ムーティ指揮 シカゴ交響楽団

レビュー日:2017.11.10
★★★★★ 30年のインターバルを経て再び登場したムーティのブルックナー
 リッカルド・ムーティ(Riccardo Muti 1941-)指揮、シカゴ交響楽団によるブルックナー(Anton Bruckner 1824-1896)の「交響曲 第9番 ニ短調」。2016年にライヴ収録されたもの。  ムーティのブルックナー、と言うと私には彼がベルリンフィルを指揮して1985年に録音した美しい第4交響曲が忘れがたい。それは、ムーティ初のブルックナー録音でもあった。その後、ムーティは第6番を1988年に録音したのだけれど、その後、プッツリとブルックナーはリリースしなくなってしまった。だから、それから30年もたって、再びムーティのブルックナーが登場したというのは、ちょっと意外というか、意表を突かれた思いであった。
 しかも、それは当第9番だけでなく、もう一つザルツブルク音楽祭でウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を振った第2番も登場しているのだから、巨匠もブルックナーの音楽にあらためていろいろインスピレーションを受ける機会があったのかもしれない。
 私の印象では、交響曲第9番という作品が「ムーティ向き」だとは思わない。当盤を聴くまで、ムーティのブル9を聴くなんてことを想像したことはなかった。それなので、いったいどんな演奏なのだろうと、たいへん興味深く聴かせていただいた。
 聴いてみての感想であるが、それはたいへん美しく、明朗で自然なハーモニーに満ちたもので、これはこれで一興と思える見事なものとなっていると感じられた。それは、従来あまり聴かなかったようなレガート奏法を意識させるブルックナーであり、それは特に木管楽器の響きに象徴的である。そしてフレーズの終わりに添えられる彩りがある。ブルックナーの、特に第9交響曲ともなれば、ある種静謐な持続音が、特有の緊張感を高め、それは聴き手に「神秘性」として伝えられるのであるが、ここでもムーティはフレーズの自然な移り変わりから逆算した表現を優先する。そのため、普段とことなる聴き味やバランスに接するところが、特に第1楽章で何カ所かある。
 そういった意味で、個性的で、人によっては「ブルックナーらしくない」と感じられるのは、もっともだと思う。しかし、ムーティはそこに新たな価値ある表現をうまく紡ぎ出し、自分なりのやり方でこの交響曲を鮮やかに描いたと、私は感じる。
 第2楽章は運動的でシンフォニック。元来そういう曲と言ってしまえばそれまでだが、ムーティの演奏からは畏怖や恐怖に通じる部分がほとんど感じられないのは、先入観のみのせいではないだろう。前述の連続性重視のスタイルが、全休符の効果をある意味緩和し、攻撃性を中和しているのである。しかし、シカゴ交響楽団の音響自体の素晴らしさは圧巻で、厚く豊かな響きが満ちている。
 第3楽章はこの演奏の白眉と言えるかもしれない。前述の特徴が、柔らかで、どこか回想を思わせるような優しい肌触りとして働き、健やかな暖かさが息づき、感動的である。それは、いわゆる宇宙的、神秘的と称されるより、ずっと自分たちに近い出来事のように表現されていて、当然のことながら前2楽章の演奏のイメージと齟齬が無く、自然である。フレーズの内部に情緒を巡らせて、入念に描いて穏やかな末尾に至る。
 このブルックナー、「評価できない」と言う人もいるかもしれないが、私は、とても興味深く、また深く納得させられながら聴き入ることができた。再びムーティのブルックナーと巡り合えたのは、一つの喜びに違いない。

交響曲 第9番
ジュリーニ指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

レビュー日:2018.10.24
★★★★★ 他の演奏とは異質な魅力を感じるジュリーニのブル9
 カルロ・マリア・ジュリーニ(Carlo Maria Giulini 1914-2005)指揮、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団によるブルックナー(Anton Bruckner 1824-1896)の「交響曲 第9番 ニ短調」。1988年のライヴ録音。ジュリーニとウィーン・フィルは、同時期にブルックナーの第7番から第9番の3つの交響曲を録音したが、その最後に録音されたものが当盤ということになる。
 私個人の話をすると、学生時代にブルックナーの音楽に深く傾倒していたこともあって、昔からずいぶんいろいろな録音を聴いていたのだけれど、ジュリーニのブルックナーに関しては、当時、第8番を聴いたときに、自分が聴き馴染んだ他の盤との大きな違いから、異質性を感じ取り、その後敬遠してきた。しかし、あれから様々な音楽を聴き、年を経た現在では、ジュリーニのブルックナーにある大きな魅力にも気づく様になった。
 今回、ジュリーニとウィーン・フィルが録音したブルックナーの3曲とブラームスの4曲の交響曲が、廉価なBox-setとして発売されたので、あらためて聴いてみた。
 ジュリーニのブルックナーに、ある種の異質さを感じてしまうのは、今も同じ。それは、ブルックナーの作品が持つ美学的価値に関して、私なりの固定観念があるためかもしれないが、ジュリーニの濃厚なカンタービレを感じるブルックナーは、明るく、麗しく、壮大で、それは、ブルックナーの音楽が、素朴な信仰心や自然愛から発生したもののような観念に照らすと、やはりちょっと違うのでは、との思いにとらわれる。しかし、ジュリーニのブルックナーの第9番、じっくりと聴くと、なかなか味わい深い。
 第1楽章冒頭から深遠さを感じる厳かなテンポで音楽が始まる。このテンポは変動するが、常にゆっくりしたものというベース上での変動である。豊かなホールトーンを踏まえて、音量豊かに達するクライマックスは高らかで、壮大だ。第2主題の弦の歌にジュリーニは思いのたけをすべて込めて歌い上げる。繰り返されるたびに高揚があり、やがて、その頂点で壮麗に輝かしく歌い上げられる。そのさん然たる輝きは、例え異質なものであったとしても、抗いがたい魅力に満ちている。これこそ、ジュリーニのブルックナーの醍醐味にほかならない。
 第2楽章は思いのほか快速進行といって良い。この不思議なスケルツォを、ジュリーニは、やはり暖かく、明るく、全管弦楽の包容力をもって歌うのである。
 結果的に終楽章となった第3楽章のアダージョは、一層極端に遅いテンポをとり、この楽章だけで30分近い演奏時間を費やす。だが、聴いていて不思議とその長さを感じない。瞬間瞬間の音の美しさ、その減衰の末尾まで磨き上げた光沢が、聴き手に常に届けられる。その心地よさが、長さを緩和してくれるのだ。一つ一つの楽器の音色に込められた慈愛の情感を聴いていると、あるいはブルックナーは、この楽章で、いままでと違ったものを訴えていたのかもしれない、とさえ感じさせてくれる。末尾のホルンはことさら長い。ひたすら呼吸が続くように、と思えるその余韻は、感動的に彼らの演奏を締めくくる。

交響曲 第9番
ネゼ=セガン指揮 モントリオール・メトロポリタン管弦楽団

レビュー日:2020.3.12
★★★★★ ネゼ=セガンの語り口の巧さに終始感心させられるブルックナー
 ネゼ=セガン(Yannick Nezet-Seguin 1975-)指揮、モントリオール・メトロポリタン管弦楽団の演奏による、ブルックナー(Anton Bruckner 1824-1896)の「交響曲 第9番 ニ短調」を収録。2007年の録音。
 ネゼ=セガンとモントリオール・メトロポリタン管弦楽団によるブルックナーは、すでに全集化を完了しているが、当盤はそのうち第1弾であった第7番に続く第2弾として録音されたもの。
 私は、ネゼ=セガンを現代、特に優れたブルックナー解釈者の一人であると考えているが、当録音もそれを証明する内容といって良い。
 演奏は、絶叫系でも爆演系でもない。ネゼ=セガンのブルックナーは、全体としては柔和な雰囲気で、トーンも明るい。しかし、それは決して演奏が表面的なことを意味しているのではない。むしろ、煮詰められた表現、インテンポでありながら、楽想が聴き手に働き替える効力をしっかりと発揮させた古典的美徳がしっかり踏まえられたものであり、豊かな味わいを感じさせるものだと言える。力押しする演奏では決してないが、それはパワーに不足するということではなく、的確に統御された音響設計の中で、必要に応じたパワーは的確に配分されており、決して不完全燃焼を催すようなものではない。
 第1楽章冒頭から、柔らかなホールトーンを感じさせる音響が導かれ、心地よいクッションの利いたブラスが全体の印象を形作る。劇的な第1主題の提示は、圧倒的という感じではないが、内的な深みが十分に保持された高級感のある響きであり、オーケストラの音色そのものの美しさを秩序だって開放した気持ちよさがある。その後も、調和のとれた音響の中で、各セクションが相互的な役割を果たし続ける。ブルックナーの音楽はしばしば神秘的と形容されるが、ネゼ=セガンが導き出す音色は、それより人間的な暖かみを感じさせるところが多く、私には、それは当演奏の魅力と感ぜられる。第2楽章も音色の豊穣さが特筆されるだろう。安定したリズムの中で、アコースティックな響きが連なっていく。ややテンポを落した第3楽章は、ネゼ=セガンの作り出す暖かな音色が、一層自然な感動をもたらす。とくに弦楽合奏の情感豊かな音色は、美しく、あざとさがない。高まった感情が沈静化していき、静かに幕を閉ざす末尾は心に残るものだろう。
 ネゼ=セガンのブルックナーは、爆演豪演を期待する人には、質的に異なるものであるが、滋味があり、深々とした語り掛けのあるもので、私は好きである。


このページの先頭へ


管弦楽曲


弦楽五重奏曲(シャラー編 管弦楽版) 序曲 ト短調
シャラー指揮 プラハ放送交響楽団

レビュー日:2018.11.14
★★★★☆ ブルックナー「マニア」向け。。。シャラーによる弦楽五重奏曲の管弦楽編曲版
 すでに一部の異稿や習作も含めたブルックナー(Anton Bruckner 1824-1896)の全交響曲を録音したゲルト・シャラー(Gerd Schaller 1965-)は、加えて優れたオルガン奏者としてブルックナーの全オルガン作品を録音したり、自ら未完の第9交響曲の終楽章を補筆完成させて録音したりと、専門性の高い活動を継続している。このたびリリースされた録音も興味深いもので、以下の2曲が収録されている。
1) 弦楽五重奏曲 ヘ長調 (シャラー編によるフル・オーケストラ版)
2) 序曲 ト短調 (1863年版)
 プラハ放送交響楽団を指揮して2018年にスタジオ録音されたもの。
 特に注目したいのは、シャラー自身によってフル・オーケストラ版に編曲された弦楽五重奏曲である。ブルックナーの弦楽五重奏曲は、ヘルメスベルガー(Josef Hellmesberger 1828-1893)の依頼により、1879年に書かれた。ブルックナーの円熟期に書かれた唯一の室内楽であり、現代では名作として定着している。
 この楽曲をアレンジするという試み自体はすでにいくつかあって、中でもエーザー(Fritz Oeser 1911-1982)が弦楽合奏版に編曲したアダージョは美しく、私はアシュケナージ(Vladimir Ashkenazy 1937-)の録音を愛聴している。また、より最近では、ルーベン・ガザリアン(Ruben Gazarian 1971-)による全曲を弦楽合奏版に編曲したものなどもある。
 そして、今回登場したのがシャラーによるフル・オーケストラ版である。シャラーは、ヘルメスベルガーの意見を組んで、第2楽章のスケルツォを差し替えているが、シャラーは「間奏曲」の名で遺された差し替え前の楽章を、第3楽章の後に挿入し、終楽章の前奏曲的な意味合いを持たせた構成に仕立てている。そのため、全曲は5楽章構成となっていて、そのうち偶数楽章がスケルツォ的性格をもつものとなった。そのため、全曲のハートに当たるアダージョは、その中心である第3楽章に位置することになる。
 シャラーは、ブルックナーのアイデアが、弦楽五重奏曲という室内楽ならではのものであったことに十分な言及をしながら、あえてその音楽語法のオーケストラ的なところを見出しながら、管弦楽版のスコアを完成するに至ったとのこと。結果として、フルート、オーボエ、クラリネット、バスーン、ホルン、トランペット、トロンボーン、ティンパニと弦からなる編曲となった。
 その編曲の成果を聴くと、基本的にメロディの主部を弦が担う構成は維持されながら、急峻な場面転換において、フル・オーケストラらしい色彩感がその劇性を高めるのに効果を発揮している。ただ、そのことによって、ブルックナーの音楽のもつ野趣性がやや強まり、アクが出てきたように感じられるところもある。特にスケルツォ的な部分の調子にそれを感じるので、人によっては気になるだろう。その一方で、第1楽章の第1主題では十分な裾野の広がりがあって、暖かみを増したほか、第2楽章との対比にもキビキビとした働きが添えられていて面白い。第3楽章は、どのように編曲しても美しくなる音楽なので、おおむねこうなるだろうという範囲に収まった感がある。
 全体としては、この楽曲特有の明朗さを損なうことなく幅を増した感があり、金管などもそれなりに意味のある役割を与えられている。またオーケストラの金管陣のふくよかな響きは、編曲演奏の成功を十分に助けていて、全体として、ブルックナー・ファンには面白い聴きモノになったと言えるだろう。
 併せて収録してあるのは、ブルックナーの作曲活動の初期に習作的に書かれた「序曲 ト短調」である。録音・演奏機会のめったにない作品で、こちらはブルックナー・ファン以外にはほとんど聴かれることのないものだと思うが、朴訥とした楽想をのびやかに表現した良演と言えるだろう。
 いずれも私には私なりに楽しめる録音であったが、その一方で、やはり内容的にかなり「マニア向け」であるものは十分考慮に入れるべきで、一般的なレベルで推薦するという対象になるアイテムではないだろう。そういった点も踏まえての紹介にとどめたい。


このページの先頭へ


室内楽


アヴェマリア ヴィンクトハークのミサ モテット集(ボク編) アダージョ(交響曲第7番~第2楽章;ボク編)
ボク指揮 チェロ・ホルン・コーラス hrn: バボラーク org: バールタ

レビュー日:2009.4.19
★★★★★ ホルンのルーツを巧みに織りいれたブルックナー「らしさ」を感じるアルバム
 ホルンという楽器のルーツは、その名の通り動物の角を用いたもので、時代とともにその形状が整うに従い、奏法や奏でられる倍音も増加してきた。狩猟や宗教の儀式の他、通信などにも使用され、特に山岳地帯における斜面の反射を応用した伝達は、ヨーデル奏法と並んでヨーロッパの山岳における一つの原風景とも言える。
 クラシック音楽では、ホルンの音色が幅広く柔らかい特徴を活かし、様々な情感を表現できる金管楽器として重宝されてきた。
 そんな中、オーストリアで前期ロマン派に宗教的な楽曲表現を志してきた交響曲作家ブルックナーの作品を、ホルンで奏してみようという当盤の試みは面白い。なんといってもオーストリアはアルプスの麓の国(つまり本場)であるし、ブルックナーはカトリック教会のオルガン奏者(信者)であった。なので、この企画はすでに様々なイマジネーションを私たちに与えてくれるに十分である。
 内容はバボラークのホルンの音色の美しさが圧巻であり、その柔らかで輝かしい音色がブルックナーの宗教曲の特徴をより浮き立たせてくれている。ホルン・コーラスとオルガンのみのバックというのも慧眼で、肌触りの暖かい音色になっている。モテットの編曲では人の声よりむしろソフトなイメージが曲を引き立たせているし、高名な交響曲第7番のアダージョを編曲したものもバボラークの音色の多彩さが見事で、聴き応え万全。このような編曲ではしばしば「原曲の方がいい」みたいな的外れのコメントをする批評家がいるが、編曲というのはそれ自体が一つの芸術的創造的活動であることもあらためて確認の上、高く評価したいアルバムである。録音も素晴らしい。

弦楽五重奏曲 弦楽四重奏曲 間奏曲 ニ短調
フィッツウィリアム弦楽四重奏団 va: ボイド

レビュー日:2016.2.19
★★★★★ フィッツウィリアム弦楽四重奏団が響かせる充実のブルックナー
 フィッツウィリアム弦楽四重奏団によるブルックナー(Josef Anton Bruckner 1824-1896)の室内楽を集めたアルバム。収録内容は以下の通り。
1) 弦楽五重奏曲 ヘ長調
2) 弦楽五重奏のための間奏曲 ニ短調
3) 弦楽四重奏曲 ハ短調
 1)と2)で、ロンドン・ハイドン四重奏団のヴィオラ奏者ジェームズ・ボイド(James Boyd)が加わる。2010年から11年にかけてのセッション録音。
 ブルックナーが交響曲第5番と同じ時期に手がけた弦楽五重奏曲は、ヘルメスベルガー(Josef Hellmesberger 1828-1893)の依頼により書かれたもの。全4楽章からなるが、そのうちスケルツォである第2楽章について、ヘルメスベルガーの意向により別なものに一度差し替えられており、それが当盤に「間奏曲」として収録されているもの。ブルックナーは最終的には、当初通りの楽章を採用し楽曲を完成している。
 円熟期の弦楽五重奏曲に比べ、弦楽四重奏曲はキツラー(Otto Kitzler 1834-1915)のもとで作曲技法を学んでいたころの作品。習作的位置づけになるかもしれないが、私個人的には古典的な香りにみちた佳品だと思う。弦楽五重奏曲のようにブルックナー特有の語法はないかもしれないが、均整感のある麗しさに満ちていて、とても魅力的だ。この曲については、最近ツェートマイヤー四重奏団も注目すべき録音を行っていて、楽曲への注目が高まっているのだとしたらうれしいことだ。
 さて、解説によると、フィッツウィリアム弦楽四重奏団は、当録音に際してガット弦によるピリオド楽器を使用したとのこと。これらの楽曲のピリオド楽器による録音は、すでにラルキブデッリによるものがあるが、フィッツウィリアム四重奏団の演奏は、ラルキブデッリより現代的な聴き味に近い。これはノン・ビブラート奏法をそこまで強調してはおらず、かつ楽曲のテンポも決して早いものを主体とはせずに、緩徐楽章などは、応分の時間を費やしてじっくりと仕上げているからである。そのため、当録音の特徴としてピリオド奏法を挙げるべきとは思わない。
 むしろ現代楽器的なスケールの大きい響き、暖かい楽器たちの音色が溶け合った融合的なカラーに本演奏の特徴は尽きると言っても良い。弦楽五重奏曲の第1楽章のあの素晴らしい第1主題の醸し出す余韻、第2楽章の野趣性に満ちたリズム、フィナーレの壮大な音の広がりなど、彼らの演奏のスタイルが自然に伸びやかに提示するものたちは、とても心地が良い。それらは、いわゆるピリオド楽器的なこじんまりしたものとは異質なものだと思う。
 楽しい間奏曲を経て、弦楽四重奏曲に至る。フィッツウィリアムの音色は木目調で暖かみがある。ツェートマイヤーのビロードを思わせる音色より、聴き手に近い所で、語りかけるような口調を感じさせる響きで、あるいはこの曲に関してはフィッツウィリアムの方が好ましいのでは?と思わせる。
 ブルックナー特有の孤高の雰囲気や、ブルックナーにこのような感情表現があったのかと思うような一種の憂鬱さも含めて、フィッツウィリアム弦楽四重奏団は、実にこなれた解釈を披露する。強い説得力、優れた録音で、これらのブルックナーの名品3曲を聴けるアルバムは、意外に多くはなく、そういった点でも当盤は、待たれたものだった思う。これらの曲を収録した決定盤の一つと言って良いものだ。

ブルックナー 弦楽四重奏曲  ベートーヴェン 弦楽四重奏曲 第16番  ハルトマン 弦楽四重奏曲 第2番  ホリガー 弦楽四重奏曲 第2番
ツェートマイヤー弦楽四重奏団

レビュー日:2015.1.6
★★★★★ ツェートマイヤー四重奏団の実力を知らしめるプログラム
 オーストリアのヴァイオリニスト、トーマス・ツェートマイアー(Thomas Zehetmair 1961-)を中心としたツェートマイヤー四重奏団は、ツェートマイヤーの妻でヴィオラ奏者のルース・キリウス(Ruth Killius 1968-)、それに第2ヴァイオリンのクーバ・ヤコヴィッツ(Kuba Jakowicz 1981-)とチェロのフランソワーズ・グローベン(Francois Groben 1965-2011)が参加する形で1997年に結成された。その後、チェロがウルスラ・スミス(Ursula Smith 1963-)に代わり、現在まで意欲的な活動が継続している。
 当盤は、彼らによる独特なプログラムによる2枚組のアルバムで、収録内容は以下の通り。
【CD1】
1) ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven 1770-1827) 弦楽四重奏曲 第16番 ヘ長調 op.135
2) ブルックナー(Josef Anton Bruckner 1824-1896) 弦楽四重奏曲 ハ短調
【CD2】
3) ハルトマン(Karl Amadeus Hartmann 1905-1963) 弦楽四重奏曲 第2番
4) ホリガー(Heinz Holliger 1939-) 弦楽四重奏曲 第2番
 3)は2002年、他は2010年の録音。
 4曲が収録されているが、名曲として知られているのはベートーヴェンの作品のみで、他の3作品は、ほとんど聴かれる機会がないだろう。ホリガーの作品はツェートマイヤー四重奏団のために新たに書かれたものである。
 いずれも緊張感と美しいタッチに貫かれた演奏だが、中でも私が注目したいのがブルックナーの作品だ。ブルックナーの室内楽と言えば、第5交響曲作曲後に書かれた弦楽五重奏曲が名作として名高いが、この弦楽四重奏曲が書かれた1962年と言う時期は、ブルックナーがまだ初期の交響曲も手掛けていない頃であり、大規模な楽曲を書くための作曲理論等を学んでいるときの作品ということになる。この弦楽四重奏曲も、習作的なものと考えられていて、これまでほとんど録音もなかった。
 しかし、そこに突如、間違いなく世界でも最高レベルと言える四重奏団による録音が登場したことになる。この演奏を聴くと、この作品を習作として追いやってしまうのは、あまりにもったいないと実感する。確かに、そこには後年のブルックナーらしさはない。主題の簡潔さは古典的だし、その後の展開の手法もきわめてコンパクトだ。おそらく、作曲者名を伏せて聴かされたら、メンデルスゾーン(Felix Mendelssohn Bartholdy 1809-1847)か、あるいは彼と同時代の作風の印象を受けるだろう。その一方でブルックナー的な素朴さ、朴訥さが内在していて、とても魅力に溢れているのだ。この楽曲を聴くと、ブルックナーの作曲の動機付けである純音楽主義は、初期ロマン派の中でも最も古典に近いものであったということが良くわかる。とくに充実した終楽章は見事で、現在の演奏会のレパートリーに加わっても、なんら聴き劣りするところのない立派な作品であることを実感する。そして、そういったこの曲の魅力を余すことなく伝えた当演奏は、間違いなく名演と言って良い。
 ハルトマンについては、彼らは2001年に弦楽四重奏曲第1番の録音をしているため、その翌年に録音された続編といったところだろう。第2番は、この作曲家の現代とロマン派の中間を漂うような折衷主義的な面と、作曲当時の、戦争などを引きずったヨーロッパの暗い影を反映した作品と感じられる。時々生々しい情感を宿した楽器の素の音が切り込んでくるような音楽だ。ロンドン・タイムズ紙で、批評家ジェフ・ブラウン氏(Geoff Brown)が “ビロード・タッチ” と形容した、柔らかい深みを併せ持った特有のコクを感じさせるツェートマイヤー四重奏団の響きによって、得難い奥深さが獲得されていると思う。
 ベートーヴェンの最後の弦楽四重奏曲では、第3楽章の美しさが無類で、適度な行間を設けることで、思索的な高貴さが引き出されているところが最大の美点に思う。
 ホリガーの作品は24分で間断なく演奏されるが、聴く側に忍耐を要求するものとなるかもしれない。リゲティ(Ligeti Gyorgy 1923-2006)を彷彿とさせる絶え間のない緊迫と、耳に厳しい不協和な音響が連続する。奏者らの集中力には舌を巻く思いだが、聴いていて楽しい音楽ではないだろう。私も、この音楽を聴くのには覚悟を要する。
 とりあえず、私の推薦はホリガーを除く3作品について、ということにさせていただきたい。


このページの先頭へ


声楽曲


ミサ曲 第3番
ヤノフスキ指揮 スイス・ロマンド管弦楽団 ベルリン放送合唱団 S: ルイテン MS: フェルミリオン T: マシー Bs: ゼーリヒ

レビュー日:2015.5.1
★★★★★ ブルックナー初期の傑作ミサ曲を、優れた録音で聴く
 マレク・ヤノフスキ(Marek Janowski 1939-)指揮、ベルリン放送合唱団とスイス・ロマンド管弦楽団によるブルックナー(Anton Bruckner 1824-1896)のミサ曲 第3番 ヘ短調。2012年の録音。独唱者は以下の通り。
 レネケ・ルイテン(Lenneke Ruiten 1977- ソプラノ)
 イリス・フェルミリオン(Iris Vermillion 1960- メゾ・ソプラノ)
 ショーン・マシー(Shawn Matheyテノール)
 フランツ=ヨゼフ・ゼーリヒ(Franz Josef Selig 1962- バス)
 ブルックナーのミサ曲第3番は、ブルックナー初期の傑作で、以下の6編からなる古典的な構成。
1) キリエ(Kyrie)
2) グロリア(Gloria)
3) クレド(Credo)
4) サンクトゥス(Sanctus)
5) ベネディクトゥス(Benedictus)
6) アニュス・デイ(Agnus Dei)
 ブルックナーはこの曲にも、後年手を加えて改訂を行っている。ここでヤノフスキが用いているのは、ポール・ホークショー(Paul Hawkshaw)が校訂した1893年稿となる。
 この録音は、ヤノフスキとスイス・ロマンド管弦楽団によるブルックナーの交響曲全曲録音の作製中に行われた。すなわち、前年の第3交響曲の録音後、第2交響曲の録音前というタイミングにである。
 ブルックナーのミサ曲第3番は傑作と呼ぶに相応しい作品であるが、録音点数はそれほど多くなく、交響曲の全曲を録音した指揮者たちにもスルーされることが多い。なので、ヤノフスキが全集作製中にこの曲を手掛けたこと自体が、私には嬉しい。
 ブルックナーのミサ曲の場合、作曲時期の違いもあって、彼の交響曲ほどには様々な要素が含まれているわけでない。むしろ、作曲法の勉強の過程で仕上げられた素朴さがある。「グロリア」や「クレド」を結ぶ二重フーガに、その結実を聴く思いがする。
 構成的に複雑ではない一方で、録音点数が少ないため、演奏の標準化は交響曲ほど進んではいない。例えばテンポである。早いものは全曲を50数分で締めくくるが、チェリビダッケ(Sergiu Celibidache 1912-1996)は76分を費やした。もちろん、彼の場合、何をやっても普通よりは時間がかかったのであるが。
 ヤノフスキは全曲を62分程度で演奏しており、私には過不足なく聴こえた。場合によっては、もっと早いテンポが好まれるところもあるかもしれないが、音楽は美しく、清澄に響いている。
 グロリアの後半での祭典的な金管の柔和な響き、クレド中盤のスケール感ともこの楽曲に相応しい。全般に静穏さの中に緊密な音の設計を配慮した響きで、合唱や独唱も一種の静謐さを感じさせるところがある。ベネディクトゥスは美しいだけでなく、主題が第2交響曲に転用されたことでも有名だが、ヤノフスキは木管のフレーズを意味深に扱うことで、音楽の効果をうまく掘り下げている。
 全体的に、平和的な響きの中に、充実した表現を詰め込んだ演奏で、私にはこの曲の相応しい表現形態の一つと感じられた。また、録音が明瞭な点でも、同曲の他の録音と比べて、抜きんでた存在であると思う。


このページの先頭へ


器楽曲


オルガン曲全集 ミサ曲 第3番 (1893年版) 詩篇146
org: シャラー シャラー指揮 フィルハーモニー・フェスティヴァ ミュンヘン・フィルハーモニー合唱団 S: フェグリー A: ゴットヴァルト T: ビーバー Bs: リーホネン

レビュー日:2016.9.15
★★★★★ 素晴らしい!の一語。ブルックナーへの敬愛がもたらした高貴な芸術品です。
 当アイテムは最近リリースされたアルバムの中で、私がひときわ感動したもの。  2007年から2015年まで、第0番を含むブルックナー(Josef Anton Bruckner 1824-1896)の全交響曲を録音したゲルト・シャラー(Gerd Schaller 1965-)によるCD2枚組のアルバムで、シャラー指揮による声楽曲2曲と、シャラーがオルガンを奏しての、ブルックナーのオルガン曲集を併せて収録したもの。その詳細は以下の通り。
【CD1】
1) ミサ曲 第3番 ヘ短調 (1893年ホークショー版)
【CD2】
2) 詩篇146
オルガン曲全集
3) エルヴィン・ホーン(Erwin Horn 1929-2006)編曲 即興演奏用の主題集
4) アンダンテ ニ短調 WAB130
5) 後奏曲 ニ短調 WAB126
6) 前奏曲とフーガ ハ短調 WAB131
7) フーガ ニ短調 WAB125
8) 前奏曲ハ長調 WAB129
 オーケストラは、交響曲録音に引き続いてフィルハーモニー・フェスティヴァ、合唱はミュンヘン・フィルハーモニー合唱団。4人の独唱者は以下の通り。
 ソプラノ: アニア・フェグリー(Ania Vegry 1981-)
 アルト: フランツィスカ・ゴットヴァルト(Franziska Gottwald 1971-)
 テノール: クレメンス・ビーバー(Clemens Bieber 1956-)
 バス: ティモ・リーホネン(Timo Riihonen 1983-)
 2015年の録音で、声楽曲は、交響曲と同様にエーブラハ大修道院付属教会でライヴ収録されている。
 ミサ曲第3番以外は、ほとんど聴く機会のない楽曲。このようなプログラムでのリリースは、指揮者であり、オルガン奏者であり、かつブルックナー作品へ献身的な愛情をもって尽くしているシャラーのような芸術家以外では、成し得ないだろう。
 ミサ曲第3番については、古今いくつかの名録音があるが、当録音は、録音技術の優秀さも手伝って、神々しいほどの音空間を再現したものだ。エーブラハの残響豊かな音響条件の利点を活かしながら、細部も克明に照らされた記録に感服する。優秀録音を背景に、暖かい音響の輪郭、くっきりした線形に彩られた展開の美観、スケール豊かなダイナミクスが見事なバランスで収められた。
 グローリア、クレドにおける熱血的な活気に満ちた表現も見事だし、ベネディクトゥスにおける穏健な暖かさも素晴らしい。テンポは、アニュス・デイがやや早めな以外は概して穏当で、またそれらのテンポが理想的なものであるという説得力を持った表現に満ちている。4人の独唱者も欠点の見当たらない歌唱だが、合唱の気高さも忘れがたいもので、当面、この曲の決定的録音と呼んでいい内容ではないか、と思う。
 ブルックナー若き日の作品「詩編146」は、ほとんど聴く機会のない作品だが、当盤で聴くと、「こんな美しい曲が、なぜ今まで放っておかれたんだろう?」と思ってしまう。静謐な祈りを感じさせる中間部、ブルックナー的な神秘を備えた旋律、そして、ブルックナーの時代まで続いてきた宗教音楽の影響を滲ませる回顧的な美観。この楽曲の魅力を十全に表現した当録音は、ブルックナー・ファンだけでなく、多くのクラシック音楽ファンに聴いてほしいもの。
 さらに、当盤には、素晴らしいオルガン演奏が付随する。その冒頭を飾るのは、かつてブルックナーのオルガン曲集を録音していたエルヴィン・ホーンによる「即興演奏用の主題集」。タイトルは「即興演奏用の主題集」となっているが、実質的には第1交響曲の第4楽章をオルガン曲に編曲したものと言って良いだろう。ブルックナーのオーケストラ曲のオルガン編曲はたびたび試みられるが、非常に完成度が高く、作品としてまとまっており、聴き味の自然さは見事なものだ。
 他のブルックナーの楽曲も、ブルックナーの根底にあった信仰心から生まれた美しい響きに満ちており、ブルックナーを深く敬愛するシャラーの手によって、輝きを増して再現されている。その感動に、音響機器を通してとは言え、触れることができたのは、私には幸せなことだった。
 間違いなく、今年発売されたクラシック・アイテムの中で、抜群に印象に残った一枚です。


このページの先頭へ