名寄線(1974,75年頃)

 名寄線に関しては、1970年頃と1974,75年頃の2つに分けてまとめた。当ページは1974,75年頃で、いよいよ蒸気機関車が、北海道から去ろうという時期のものである。名寄線に関しては、天北峠の勾配に備え、一ノ橋駅と上興部駅の間を補機として往復していた機関車が、すでにディーゼル機関車に置き換わっている。重連を期待する蒸気機関車ファンにはさびしい光景だっただろう。
 しかし、この時期ならではの、ディーゼル機関車を補機とした蒸気機関車たちの姿を見ることができる。 この時期になると、運行している蒸気機関車の数がいよいよさびしくなり、該当する列車はわずかとなっていたが、その貴重な存在となった蒸気機関車たちが記録されている。 なお、1970年頃の写真はこちらのページにまとめた。


下川駅


1 下川駅

2 下川駅

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4 下川駅

5 下川駅

6 下川駅


一ノ橋駅・周辺

 一ノ橋駅周辺への訪問は1974年1月。一ノ橋駅は下川町の集落で、林業の町。かつてはこの駅から南北に森林軌道が山深く伸びていた。
 1970年の訪問時には、一ノ橋-上興部間の天北峠越えのため、補機として9600が待機していた。9600の重連が走った頃、峠をはさんだ両駅はマニアでごった返した。1974年の訪問時には、補機がDE10になって、この線も静かになった。

 写真12は「一の橋旅館」兼「日の出食堂」。一ノ橋唯一の旅館で、父を含めた蒸気機関車撮影者が多く利用した。

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8 49644

9 移動にはバスも利用。一ノ橋駅正面。

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12 一の橋旅館 1974年1月

13 一ノ橋駅

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15 9600に代って補機となったDE10

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20 49644

21 一ノ橋のバス停。バスは1日3便。

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26 転車台のDE10

27 一ノ橋駅

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29 一ノ橋駅

30 一ノ橋駅。正月の飾り付けがしてある。

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39 一ノ橋駅

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41 一ノ橋駅

42 一ノ橋駅

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46 一ノ橋駅。登山仲間と訪れた際の写真

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48 一ノ橋駅



上興部駅・周辺

 上興部駅周辺への訪問は、1974年1月と1975年2月、同年4月。上興部はめったに晴れず、名寄が晴れていても、興部が晴れていても、ここは大抵吹雪。

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50 69620 1975年2月

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52 1975年2月

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59 天北峠の勾配に備えて待機するDE10。以前は9600だった。

60 上興部駅

61 上興部駅駅名票

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69 1975年2月 1690レ 補機はDE10

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73 1975年2月 1691レ

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91 天北峠にて、雪の中、列車の到来を待つ

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100 拳骨山
写真75~81: 1690レのラッセル。1975年2月。上興部の峠にて撮影したもの。この時期蒸気機関車(このときは9600)によるラッセルはすでに珍しいものとなっていた。この日は天北線、宗谷線が荒れてDDラッセルを投入したため、名寄線はSLラッセルとなった。
写真100: 父によると、名寄線に乗車していたおり、札幌近郊にある神威岳にそっくりな山容をした山があり、写真に撮ったとのこと。場所の詳細を覚えていない、とのことだったが、管理人が現地を訪問した際に、上興部駅跡からその山容を確認し、「拳骨山」という名称と併せて確認することができた。


沙留・渚滑周辺

 1970年以降、たびたび訪問した名寄線。補機をともなってパワー全開で越えた天北峠の勾配、紋別山から流氷を湛えた果てしないオホーツク海を背後にした景色、そして、渚滑、富丘、沙留、豊野、旭丘とオホーツク海に沿った広大な世界は、いずれも名寄線ならではのものだった。そんな世界にあって、蒸気機関車や気動車だけでなく、周囲の美しい風景に思わずレンズを向けた写真も多くある。
 なお、写真105-110及び写真222-224の39679は、「蒸気機関車最後の日」である1976年3月2日まで追分機関区で入れ替え作業に従事していた「最後の3機」のうちの1機である。 (残りの2機は49648と79602)

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102 49600 49600は美瑛町の中町公園で静態保存されている

103 渚滑の分岐。手前が渚滑線、49600が進むのが名寄線興部方面。

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105 渚滑駅 39679 1975年2月 

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107 39679

108  1975年2月 渚滑駅を発車する1690レ

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110 39679

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112 19680

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114 オホーツク海の朝日

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119 39628 1690レ

120 39628 1690レ

121 39628 1690レ

122 富丘駅

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127 69644 69644は渚滑駅跡に静態保存の上展示してある

128 69644

129 69644

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131 19680

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136 沙留岬から夕陽の1692レ 1975年2月

137 沙留岬から夕陽の1692レ

138 沙留岬から夕陽の1692レ

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143 富丘のバス停

144 富丘のバス停

145 車窓(沙留駅)

146 車窓

147 車窓

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149 沙留付近

150 沙留付近

151 沙留付近

152 沙留付近

153 沙留付近

154 豊野駅

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159 鏡を思わせる波のないオホーツク海

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161 渚滑駅の39631

162 渚滑駅の39631

163 車窓(沙留駅)

164 車窓

165 車窓

166 車窓

167 車窓

168 車窓
 写真136~138は沙留岬から撮影されたもの。興部町沙留にあるオホーツク海に突き出た沙留岬は、現在でも絶好のビューポイントとして知られるが、名寄線があったころは、対岸をゆく列車の姿を望むことができた。夕陽と流氷の世界を煙をあげて走る蒸気機関車の姿は、強く印象に残るものだったに違いない。
 渚滑、富丘、沙留、豊野とオホーツクの海岸線に沿って走る区間は、冬の晴れた朝は特に素晴らしい光景が繰り広げられた。  
 
国土地理院発行1980年編集「紋別」 沙留岬周辺


紋別山


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172 紋別駅 1975年2月

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182 当時の電電公社の電波塔はNTTに引き継がれた現在もある。

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元紋別付近


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195 紋別-元紋別間 1691レ

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紋別市の風景


199 1975年の紋別市は人口3万3千人

200 港まで立ち並ぶ店舗

201 流氷に雪が積もり、一面白くなった紋別港

202 紋別港

203 紋別港

204 紋別港

205 紋別港

206 紋別港

207 紋別港

208 紋別港

209 紋別港

210 紋別港

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212 小野田セメント

213 紋別港

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220 紋別は坂の街でもある。海をめがけて下る傾斜地に町がある。

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その他


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228 79642 79642は愛媛県八幡浜市で静態保存されている。

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237 49600 49600は美瑛町中町公園で静態保存されている

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 1973年8月の名寄線の時刻表。
 1969年の時刻表と比べると、旭川に直通していた急行「オホーツク」が廃止され、代わって石北線の急行大雪に連結し、旭川まで乗り入れる普通列車が運行されるようになっている。また、下りで興部-中湧別、上りで紋別-遠軽間がそれぞれ1本減便されている。また一ノ橋を始発、終着とする列車も姿を消している。周辺各線との相互乗り入れの状況は変わっておらず、また渚滑線は別に渚滑‐紋別間にまで乗り入れていたので、実質この区間は、さらに4~5往復程度の普通列車が運行していた。
 その後、1985年4月1日に渚滑線廃止、1985年7月15日に興浜南線廃止、1987年3月20日に湧網線廃止と、付近の路線が相次いで消えゆき、母体であった名寄線も1989年5月1日に全線廃止となった。蒸気機関車のみならず、かの地を走る鉄道の姿は永遠に失われた。